September 16, 2005

Nereide(1)

この記事は以下のページにて全面的に書き直しましたので、そちらを是非お読みください。
(2009年8月)
ネレイーデ物語〜Nereide - Geschichte einer Wunderstute〜
(on "ShibaShuji.com")


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ドイツ名馬1936……賢者と魔術師の邂逅

まはるさんのドイツ競馬史エントリも事実上これで終了。まとめのコメントが控えているとのことだが、まずはご苦労様でした。ドイツの競馬ファンの間で長年バイブルとされてきたSternfeldの"Von Patience bis Nereide"を読み解し、自らの視点でこの時代のドイツ競馬を紹介してくれたことに感謝。この書と著者に関しては私からも一つ記事をあげたいと思っているが、今日はこの1936年にドイツ競馬史における金字塔を打ち立てた牝馬Nereideに絞って話をしよう。

もっともNereideについて語る前に、少し時代を遡る。時は1924年秋のBaden開催。まはるさんの記事にも一旦目を通してもらえるとありがたい。

第一次大戦勃発以後国外との門戸を閉ざされてきたドイツの馬たちは、10年振りに外国馬と対戦、ある一人のイタリア人が送り込んだ馬たちの前に大敗を喫した。そのイタリア人とは、あの天才馬産家Federico Tesioである。彼は当時のドイツではまだ無名であり、またドイツの馬産家たちにはイタリアに対する関心自体殆どなかった。云わばどこの馬の骨とも分からない男に彼らは苦杯を舐めさせられたのである。

この大敗のショックは、ドイツ競馬界を新たな血の輸入ラッシュへと駆り立てた。まはるさんの記事だと「候補としては Caligula とかが挙がってたとか。いや、そっちの方向に歴史が行ってたら(((( ;゚Д゚)))……」とあるが、いやいやしっかり輸入していたのだ。Poisoned Arrowと合わせて120万マルクという大枚をはたいて連れ込んだのである(因みに当時のドイツ・ダービー総賞金額が7万マルク)。しかしそれら鳴り物入りの種牡馬は見事に期待を裏切った。この時ドイツの馬産界は冷静さを失ったパニック状態であったといっても過言ではない。

だがそのような中で冷静に、いやある意味素直にそのショックをもたらした張本人Tesioに目を向けた者がいた。1922年に立ち上がったばかりの新興牧場ErlenhofのオーナーMoritz J. Oppenheimerである。Frankfurtの実業家であったこのユダヤ人の男は、早速Tesioとのコンタクトを図り、1924年に早くも4頭の繁殖牝馬を、1926年更に4頭の3歳牝馬と1頭の2歳牝馬をDormello牧場から購入した。その最も若い未出走の牝馬の名はNella da Gubbio。1926年イタリア・オークス馬Nerocciaの半妹であり、当時は知るはずもない1935年生まれの従兄弟があの大種牡馬Nearcoである。そして彼女が産んだ5番目の子どもが、今回の主役Nereideだ。1924年ショックは混乱ばかりでなく、云わばドイツ競馬史に燦然と花開く大輪と、今日まで脈々と息づく大牝系を生み出す種を蒔いたのである。

しかしながら、Nella da Gubbioはすぐに活躍馬を産んだわけではない。Oppenheimerは牧場立ち上げ当時、Waldfried牧場が放出した種牡馬の中からLalandを購入し、Nella da Gubbioにも専ら同馬を付けたのだが、Nereide以前の4頭の産駒たちはどれも活躍しなかった。1931年にもLalandを付けたが受胎せず、1932年Lalandと同時にOppenheimerにとって最初の(そして最後の)ダービー馬となったGraf Isolaniとも交配させたのである。それゆえ翌年生まれたNereideの血統表には、父として長年2頭が併記されていた。見た目にはどちらにもあまり似ておらず、全体的な印象がGraf Isolaniの母父Majesticに多少近かったらしく、牧場としてはGraf Isolaniの仔であろうという見解だったようだ。しかし後の検査の結果Lalandが父として認定される。余計なことだが、巨星Oleanderと夭逝の天才Albaの間に挟まれ、どこか損な役回りであった孤独の伯爵Graf Isolaniの悲哀をここにも垣間見てしまうのは妄想しすぎか(苦笑)

止まれ。今ここに語られたErlenhof牧場の数年間には、深い断絶が切り込まれている。Nereideの命が母の身に宿り、この世に生まれてくるまでの間に、ドイツは新たな時代を迎えた。1933年1月30日ナチ政権の誕生である。Erlenhofの牧では、主人が現れると馬たちが急いで駆け寄り唇を寄せる。彼のポケットにいっぱいの角砂糖が隠されていることを知っているのだ。「ゲーテはコーヒーに6個の角砂糖を入れていたそうだ。ツェッペリンはそれ以上だってさ。」そう言いながら馬たちに角砂糖を振る舞う平和な日々は、Nereideが生まれて間もなく終わりを告げた。経営する会社の破産申告。Erlenhof牧場の創始者Oppenheimerは背任罪に問われ逮捕された。彼は反ユダヤ主義の空気色濃い法廷で間もなく病に陥り、裁判は審議続行不能のまま中止される。そして、ユダヤ人である彼のその後は誰も知らない。彼が牧場で最後に取り上げた命がやがてドイツ競馬界に偉大な歴史を刻んだことを、恐らく彼は知ることなく闇の彼方へ葬り去られたのだろう。

Erlenhof牧場は翌1934年1月、鉄鋼財閥創業者August Thyssenの息子Heinrich Thyssen-Bornemiszaによって厩舎ごと買収された。彼は既に自前の小厩舎で馬を走らせていたが、Erlenhofの調教師Borckeから、馬産としては最頂点レベルに達していた牧場を是非救ってくれと懇願されたのである。Borckeはそのまま専属調教師の座に留まり、同年Oppenheimerが残したAthanasiusでダービーを制した。

牧場にとって幸いだったのは、新オーナーThyssenも馬産と競馬運営に真摯に取り組んでくれたことである。軍需産業を支える鉄鋼企業は戦後ナチ時代の責任を深く問われる立場にあったが、反面その巨大な影響力ゆえにナチ党も容易に干渉することができず、彼らの暗黙の後ろ盾で反ナチ抵抗の地下活動を行っていた者もいたくらいだ。ドイツの競馬界を支えた人物たちは伝統的で保守的ながら、実はこの時代ナチイデオロギーにあまり染まらなかった数少ない存在なのである。

かなり横道に逸れてしまった。Nereideに戻ろう。

Nereideは兄姉たちの成績から当初あまり期待されていなかった。デビュー前の調教では既に非凡なスピードが注目されていたものの、2歳牝馬の春先のデキでどれだけ将来性を予想することができたであろうか。彼女は見た目にも凡そ美しいとは云えず、ごつごつした体型で、毛艶もあまりよくなかった。調教師のBorckeはそれゆえ彼女を、まるで骨組みのようだと言っていたらしい。だがしかし、デビュー前に見せたそのスピードから、Borckeは一応Nereideを2歳時の大きなレースの殆どに登録しておいたのである。而して1935年6月2日、NereideはHoppegartenの2歳牝馬限定戦で競走馬としての第一歩を標した。

続く

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コメント一覧

1. Posted by shiba   September 16, 2005 06:19
前置きの方が長くなってしまったか?(苦笑)
本編はしばし待たれよ。
2. Posted by 有芝まはる(ry   September 16, 2005 23:52
Caligula、輸入されてたのですか。
Pedigreequeryで産駒検索すると、がばっと7年くらいブランクがあるのですよね。余程ドイツで産駒が走らなかったってことで。しかしそんな高値で持ってきて誰も(せめて初年度くらい)ロクに使わなかったのかと疑問に思ってしまいます。
3. Posted by shiba   September 20, 2005 06:14
>まはるさん
亀レスすみません。

確かにPedigreequeryではドイツ産駒が全く見つかりませんね。
私の方は基本的に孫引きですから確かに確証はできないのですが、一応Sternfeldの書では、輸入したものの「期待はずれ」(Versager)の馬としてCaligula、Poisened Arrow、Diadumenosが挙げられているわけです。また120万マルクの購入費に関しては、2002年刊のHamburg競馬場150年誌に書かれてありました(著者はドイツの主任ハンディキャッパーH.Siemen)。

また1941年に出版されたGraditz牧場の馬産研究書をザザッと調べたら、Poisened ArrowとDiadumenosは度々つけてましたね。Poisened Arrowは1926年にAntwortとも合わせてます。ただPoisened Arrowに関しては、その他の馬につけたものを見ても、見事なほど全て不受胎というものでした。

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