2006年05月08日

『永遠のぶらんこ乗りー「細川不集」を読んでー』2

「雪の褥」より
台風一過 あとにさみしき男の歯
たましいはほつほつ点り木の痛み
川は枕の下を流れ きのうへながれ
炎昼のまっくらがりとなる傘か
喪服から蝶が生まれる蛇が生まれる
手花火のあとのしじまを妹と
冬たんぽぽひらく病母の睡りの中


 台風一過、必死で食いしばった男の歯の痕跡に誰も気づいてくれない、あるいは男の歯の存在さえ、すぐに忘れ去られてしまう。それでも男は、これからも歯を食いしばって行かなければならない。木は一筋の家系であろうか。その木に父、その父の父、また、母やその母の母。兄弟、その子供らのたましいは点り、やがて消えてゆく。「木の痛み」が、たましいが存在したことの証になる。
 歳月という川は留まることを知らず流れ続ける。もちろん、その流れを誰も止めることは出来ないが、記憶だけは逆へ流れることも出来る。昨日へ、子供の頃へ。炎昼の傘という、ある意味でナンセンスな取り合わせが、逆に人間の心理を衝いているように思えた。たとえまっくらがりになろうと、人の思いは説明のしようがない矛盾を孕むことが多いように思う。雨には役立つ傘は、炎昼では重苦しかったり、不安をもたらしたり、案外涼しかったりするのかも知れない。
 喪服から「蝶」や「蛇」が生まれるとは、人間が生まれ、生きて死ぬことの過程で、至極当然であると思う。この句は、人間の持つ様々な業の世界を鋭く指摘している。手花火の句はとても鮮明な情景が浮かんでくる。切なさもあるが、自分を支えてくれる「妹」という存在への様々な思いも溢れている。この句には解説の言葉はいらないと思う。たんぽぽの明るい黄色は心の内側からエネルギーを溢れさせてくれるような気がする。冬という季節であれば尚更である。病んでいる時でさえ、母の存在はそれほど大きいのである。

 私が「雪の褥」に出会った時、こんな力強く、やさしさや切なさを持った川柳もあるのかという衝撃を受けた。川柳を始めて間もない駆け出しの私に、川柳の奥深さを知るには十分過ぎる作品群であった。今回改めて読み返して、その当時の感動が蘇ってきた。その後、不凍氏とはご縁があって、「とまり木」、そして「新思潮」と、作品発表の場でご一緒させていただいている。柳誌が出る度に新しい不凍作品を拝見できること、これ以上のうれしいことはない。

第三句集「凍裂」より
点滴の海の向こうのいくさの火
老いすすむ人も夕日もでで虫も
どくだみの夕べつくづく人嫌い
男の骨は軽きものかな夜咄小咄
尋ね来るあなたも縷々と五七五
蝶は野へ男は沖へ身を捨てに
一病を得てより夏はだしぬけに
きみと逝きたし夏の終わりの喉仏
秋を漕ぐぶらんこ乗りは永遠に
桃すするわが口中のあべまりあ
光りたきひとと花野を見にゆかん
空拳となるかやすすきの隊列は


 この世にいくさの火が絶えることはなく、数え切れないほどの戦火に塗れている。また、それとは違った、自分自身や病と闘うといういくさもある。点滴の海と対峙した時、自分はどんないくさができるのだろうか。老いすすむ。初めて自分の体力の衰えに気づいたのは何時だったろうか。自分の小さな老いを意識するだけでもショックである。人だけではなく、夕日もでで虫も老いてゆく。しかし、真価を問われるのはそれからである。人嫌いになることは気にすることではないのかも知れない。しかし、そんな自分と葛藤している自分がいる。そんな自分に、どくだみが微笑んでくれたのではないか。男の骨の軽さは男自身が知っている。その虚しさは時に滑稽な語りになって、笑い合うこともある。
 尋ね来る友(同志)への気遣い、感謝、やさしさ、労わりの心境が満ち満ちている。五七五を通じての、またそれを超えた絆がある。蝶は野へ、男は沖へ身を捨てにゆく。そういう風に出来たなら本望であろう。自分らしさを貫き通すという意識がひしひしと伝わって来る。病んでみると季節感や時間的感覚が鈍ることがよくある。病室で過ごしたり、自宅での長期療養、人間関係の一時的な停止、外出などの物理的な制限や内面的なアンテナが、時に鋭敏に、時に狂ってしまうのかも知れない。そんなトラウマが夏をだしぬけに運んで来るのではないか。その夏への思いの中で、心にいつまでも消えない人の存在もあるのか。「きみ」という一生消えない存在が、夏とオーバーラップする。
 「秋を漕ぐぶらんこ乗り」、不凍作品の中でも私が特に好きな一句である。この颯爽とぶらんこを漕ぐ姿は、人間の持つすべての感情、強さ弱さ、喜怒哀楽を受けれつつも永遠に漕ぎ続ける心の強さを持っているような気がする。桃をすする行為に、強烈な生命力とエロティシズムを感じた。その力強さと「口中のあべまりあ」が対照的ではあるが、どちらも生きる者の根源を言い得ているようでドキリとさせられた。
 「光りたきひと」にしばらく思いを巡らせてみる。それは生きる上での、身の内にほんの僅かでも、光の兆しではあっても、それを持っている人ではないかと思った。そういう意識を持っているだけでも、「光りたきひと」ではないか。そして作者、読者それぞれが心に秘めている人ではないだろうか。
 「空拳」とは、「くうけん」と読み、「手に何も持たず拳だけが頼りとなること。からて。すで」のことだという。芒に覆われた道を通ると、芒の穂が空拳よろしく、隊列となって通る者を打ち付けるのだろうか。その設定がとても面白く、やがて恐ろしくさえ思えて来る。世の中にはそれとオーバーラップすることがけっこう多い。
 不凍氏は私にとって川柳作家としての大きな目標である。境涯が似ているからというわけではなく、それ以外の面での影響の方が大きく、川柳に対する誠実さなど、多くの刺激やアドバイスをいただいている。
(「双眸」21号掲載)

つづく。

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shibakio at 10:59│コメント(2)トラックバック(0)clip!句集・柳誌 

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この記事へのコメント

1. Posted by 風詩   2006年05月08日 16:01
こんにちは。
 作品だけをゆっくりと読み、自分なりの解釈をした後、ご書評を読ませて頂いてからまた、作品を読み直すという方法で楽しんでおります。有難うございました。
2. Posted by 昭雄   2006年05月08日 17:31
風詩さん
私の解釈は参考にならいかもしれません(苦笑)。違った捉え方があった方がいいし、別な角度からの鑑賞も想像性が広がって、感動も増して楽しいですよね。
ありがとうございます。

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