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 本ブログ上で、これまでカテゴリー【八〇年代反原発運動から今何を学ぶのか】として、「クリティーク12:反原発 その射程」(青弓社 1988年7月30日刊)掲載の、

   《その1》「原発より命がだいじ」:小原良子《抜粋》
の「抜粋」をブログアップしました。

 つづいて同誌上の、
   《その2》「文化大革命としての伊方の闘い 」:中島眞一郎
を、中島氏の快諾を頂いて全文アップをさせて頂きました。
 さらに、中島氏から提供された「原発やめてええじゃないか」(ホープ印刷出版部 1988年6月25日発刊)から、「文化大革命としての伊方の闘い」の詳細版である、
   《その3》「ターニングポイントとしての伊方」:中島眞一郎
も、氏のご了解を頂きブログアップし、88年伊方原発反対運動から開始した八〇年代反原発運動における反原発運動の新しい担い手の論考を掲載してきました。

 更に、今回本記事で同「クリティーク12」誌上の、土井淑平氏による
 「「ニューウェーブ」と「オールドウェーブ」を超えて
    伊方闘争の意義と反原発運動の地平

を、氏の快諾を頂き、ここに全文転載させていただきます。
 土井淑平氏には、私たちの願いを叶えて頂き心から感謝申し上げます。
 又、土井淑平氏との仲介の労を執って頂いた諸氏にも合わせて御礼申し上げる次第です。

 上記、小原良子氏、中島眞一郎氏の論考だけでは、二〇有余年を経て触れる私どもにとって、88年伊方原発反対運動から開始した八〇年代反原発運動への理解が深まりません。
 同誌掲載の土井淑平氏の上記論考を合わせ読むことで、それに少しは接近できると考えます。
  今、首都圏反原発連合有志の会主催の首相官邸前や国会正門前で展開される抗議行動が、この伊方原発反対運動から燎原の火のように全国に拡大発展した、いわゆる反原発「ニューウェーブ」の闘いにオーバーラップするとき、その反原発「ニューウェーブ」の闘いの盛衰を探ることの意味は極めて大事な作業であると確信し、ここにお届け致します。

 なお、以下の転載記事に関し、OCRからのテキスト化で誤字がある場合はブログ管理者に責任があります。
 OCRの誤認識による誤字等校正をしてまいりましたが、もし誤字等ございましたならコメントでご一報頂けると幸いです。
 また、オリジナルのクリティーク12:反原発 その射程」が、
 ・縦組みであるのを、ブログ上読みやすいよう横組みにし、
 ・日付や人数などの漢数字は算用数字に、
 ・あまりに段落変えが少なかったので、適宜段落変え
をさせていただきました。
 ・文の切れ目として適切な「、」を追加、
 ・明らかな校正ミスのみを訂正し、あとは原文のまま
とさせていただきました。
 このOCR読み取り作業と校正作業を快く引き受けて頂いた、芝工大全学闘M氏にも合わせて感謝申し上げます。

 また、土井淑平氏は、
 『放射性廃棄物のアポリア ― フクシマ・人形峠・チェルノブイリ』(農文協、2012年3月)を上梓しております。

放射性廃棄物のアポリア表紙_02


 その、
 第三章「右であれ左であれわがふるさと ― 日本の原子力開発と反原発運動の歴史」

 6「ニューウェーブとオールドウェーブ」
で、今日の時点でもう一度ニューウェーブ論争について再考しておられます。
 これも一読に値いたします。是非ご購読下さい。
 反原発運動にかかわる土井氏の近年の活動と見解は、以下の公式ホームページを参照されてください。
 土井淑平 活動と仕事
  http://actdoi.com


 まずは、 
 「ニューウェーブ」と「オールドウェーブ」を超えて 伊方闘争の意義と反原発運動の地平:土井淑平氏
をお読みください。
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「クリティーク12:反原発 その射程」特集●反原発、その射程
 「ニューウェーブ」と「オールドウェーブ」を超えて
  伊方闘争の意義と反原発運動の地平
 土井淑平


 はじめに

 およそ、歴史における新しきものは、言葉の真の意味での新しい人間の登場を伴う新しい出来事として、しばしば人の意表をつき、不意打ちにやってくる。
  このような不意打ちの訪れによる意外な展開というものがなければ、そして、もし、お定まりのシナリオと登場人物によって歴史の進路や到達点があらかじめ決 まっているとしたならば、歴史というものはまことに退屈で生きるに値しないであろう。
 その進路や到達点は、それぞれ与えられた自然と社会の環境諸条件のもとで、行為する諸個人や諸勢力の意志に基づいてーーむしろ、しばしば、その意志や目的に反して、主体と環境との複雑な葛藤とせめぎ合いを通じ、意外な展開をみせるものだ。
 のみならず、偉大な行為者や新参者を介した歴史の意外な展開によって、あたかもコロンブスの卵のように、眼の鱗を落とされてこれまで見え なかったものが見え始めると同時に、それから先にどう進むのかという新たな問いに直面するや、人は当の偉大な行為者や新参者自身も含めて、十分な備えと見通しを欠くのが常だ。
 内外の革命や抵抗の歴史は、そのような難問を抱えては、混乱と葛藤のうちに振り出しに戻ったり、あらぬ方向に脱線していった例証に満ちている。
  それゆえ、新たな歴史に立ち向かう者は、先行者であれ新参者であれ、自らの一時的な達成に自足したり過信することなく、ともすれば独善に陥りがちな自らの考えや行為を改める思慮と勇気を持つと同時に、お互いに他から学び合う謙虚さと協働の精神を忘れないことが大切ではないかと思う。
 このことは、チェルノブイリの衝撃を背景とした去る1月25、26日と2月11、12日の伊方原発出力調整実験抗議大行動以後、「どこよりもダメな」この日本で、劇的な展開を見せ始めた反原発運動の進め方についても言える。
  別府の小原良子さんら「グループ・原発なしで暮らしたい」の呼びかけにより、伊方原発出力調整実験の中止を求め、わずか2カ月余りのうちに100万人もの共鳴者を集めた署名運動と延べ数1000人が参加した二次にわたる高松行動は、これまで主として個別地域住民運動として闘われてきた反原発運動の限界を一 挙に超えて、九州・四国を中心に全国各地の草の根の市民を結集した、〝反原発・西南の役〟とも称すべき画期的な闘いとなった。
 それは、疑いもなく、日本の反原発運動史上に新しい1ページを開くものであった。
 わたしも署名運動と二次の高松行動の一参加者として、このことを感動と興奮をもって実感すると共に、この闘いを呼びかけ推進した小原良子さんらのイニシアティブとリーダーシップを大いに認める者の一人である。
 
  だがーーというより当然にも、と言うべきか、二次の高松行動と通産省に抗議する2月29日の東京行動の終了後、小原さんを補佐してこれら一連の行動を中心 的に支えてきた「原発なしで暮らしたい! 九州共同行動」の事務局長・中島眞一郎氏から、九州共同行動の解散提案が出されるなど、この行動の総括と今後の 反原発運動の在り方をめぐって、早くも葛藤と論争が生まれている。
 だが、よく考えてみると、これもまた、伊方原発出力調整実験抗議大行動が歴史的な大闘争であり、新しい主体と潮流が登場したことの左証であって、これを契機に日本の反原発運動が大きく飛躍・拡大していくためにくぐり抜けねばならない試練ないしは一過程なのかも知れない。
 古来から、世代間の対立と抗争は、新しく生まれては死すべき人間の政治の発祥地でもある。
 とりわけ、中島氏の「文化大革命としての伊方原発出力調整実験反対闘争」(『伊方原発出力調整実験反対闘争・報告号」所収)や「ターニングポイントとしての伊方」(『原発やめてええじゃないか』所収)などの総括論文や九州共同行動の解散提案は、いわゆる「ニューウェーブ」を自称するこの行動の中心的担い手 の一人によるもっとも精力的かつ雄弁な自己総括であり、そこには大いに学ぶべき点と同時に納得しかねる論点もいくつか含まれ、しかもそれは今後の反原発運 動の方向性にも関係してくる。
 そこで、あえて一文を寄せることにした次第だが、中島氏が力説しているように、この闘いの参加者が各人の意志と責 任において行動する対等な当事者であり主人公であったとするなら、この闘いの評価や今後への教訓については、参加者の数だけ異なる自己理解があっていいはずである。もし、ただひとつの評価の仕方しか認められないというのであれば、この大闘争には何ら新しい内実と可能性もなかったということになる。
  だが、わたしのいわゆる〝反原発・西南の役〟には、疑いもなくこれまでの反原発運動になかった新しい内実と多義的な可能性が含まれている。ゆえに、その自己理解と今後の運動の在り方をめぐっては、もっともっとさまざまな立場からの議論があって然るべきであり、しかる過程を経ておのずからなるコモン・センスが、暗黙の了解事項であれ明示的な行動指針としてであれ、政治的経験として形成され蓄積されて、今後の反原発運動に生かされることが望ましい。
 
 いまや、日本の反原発運動は、1960年代初頭の安保闘争、1960年代後半のベトナム反戦と学生反乱に続いて、1980年代から90年代にかけてわが国最大の社会運動として登場している。
 わたしは、今回の伊方原発出力調整実験抗議大行動と共に、いわゆる「ニューウェーブ」と呼ばれる新しい主体と潮流の登場を認め、そこに日本の反原発運動の今後にとっての大いなる希望と可能性を認めるものである。
  しかしながら、その「ニューウェーブ」の旗手の間から出されるような、「ニューウェーブ」と「オールドウェーブ」を水と油のごとく切り離して相容れないものとし、前者にとって後者を「障害物」「敵対者」とみなして、あらぬ心理的な障壁や葛藤を醸し出していくような立場には賛成しかねるばかりか、少なからぬ 危倶の念をも同時に抱かざるを得ない。
 思うに、わたし自身をも含む他称「オールドウェーブ」がこれまでの達成や限界にこだわらず、本当に謙虚な 気持になって新しい人の登場に道を開き、新しい運動に学んで自ら脱皮し変革していく心構えを持つと同時に、自称「ニューウェーブ」もマス・メディアのおだてによる自己催眠や自己過信に陥ることなく、せっかくの新しいイニシアティブと行動原則が恣意と独善により驕りと迷妄・不和を呼び寄せることのないよう自戒し、自分と異なる者や先行する人たちにも学び協力していくことに習熟する必要があるのではなかろうか。
 要するに、わたしは、いわゆる「ニューウェーブ」も「オールドウェーブ」も、相互に学び合い、相互に補完していく関係にあり、せせこましい区別立てや縄張り意識にとらわれることなく、それぞれ の長所を伸ばし足らざるを補うという精神から、前者の成長と成熟そして後者の脱皮と自己変革を通して、両者が共通の課題に提携して立ち向かうというところにこそ、日本の原発を確実に廃棄へと追い込んでいく途があると考える。
 このつたない試論も、早くも一部で不協和音の聞こえる両者を架橋する試みのひとつであり、伊方原発出力調整実験抗議大行動と共に開けた反原発運動の新たな地平をさらに押し拡げたい、との意図のもとに書かれたものである。
 1~2 月の高松行動、さらに4月の東京2万人行動へと打ち続く最近の反原発運動の高まりに対して、政府・業界が深刻な危機感を表明して官民一体の一大PR攻勢を 展開し、例によって例のごとく「科学技術の進歩と発展」「原子力の平和利用」なる共同幻想を頑固に共有する共産党と吉本隆明が、「危険分子」「エセ左翼集 団」だとか「マスヒステリア」だなどと、それこそ官憲も顔負けのヒステリックな非難を繰り返しているが、それらは、いずれも、歴史から完全に取り残された好一対の政党と思想家のシーラカンス的な生ける化石の残骸を示すにすぎず、かれらへの批判はわたしの試論にとってはもはや派生的で挿話的な意味しか持たない。

危険な話

1. 伊方闘争の背景とその画期的意義

1. 背景としてのチェルノブイリ

 日本の反原発運動史上の一画期とも言うべき伊方原発出力調整実験抗議大行動とそれに続く「原発とめよう! 東京二万人行動」の背景に、1986年4月26日に起きたソ連のチェルノブイリ原発事故の衝撃と深刻な後遺症があることは言うまでもない。
 たった一基の原発の事故の影響が全地球に及ぶとは、原発の重大事故の危険性について警告してきたわたしたち自身にも予測できなかったが、その影響は決して一過性のものではなく、熱しやすく冷めやすい日本人にとっても、過去の出来事として忘れ去ることのできない性格のものだった。
 ヨーロッパを中心に次々と明るみに出てくる女性の中絶の事実や赤ん坊の異常や原因不明症候群の大流行、今後予測され早くも徴候の現われ始めたガン死など人びとの生命と健康への脅威、世界中に拡散しわたしたちの日常の食卓にものぼってきた放射能汚染食品など、チェルノブイリの衝撃と余波はじわじわとわたしたちの日常生活感覚にも届いた。
 そして、チェルノブイリ以後、学習会や講演会のような旧来の形式に加えてキャラバンとかフェスティバルとか意見広告など、市民グループを中心とした反原発の多様で創意にみちた取り組みを通して、チェルノブイリの現実が広く横に伝達されていったばかりか、これまで反原発の運動を続けてきた人たちと新しい人たちとの出会いが生まれ、その人たちが主体となってまた新しい運動がつぎつぎ拡がっていく、といった状況が全国各地でみられた。
 とりわけ印象深いのは、子供を持つ母親をはじめ女性たちの立ちあがりで、拙著『原子力神話の崩壊──ポスト・チェルノブイリの生活と思想』(批評社)の『女性・子供・脱原発──チェルノブイリ・ショックから伊方原発出力調整実験抗議大行動まで』でその一端をスケッチしたような、全国各地の女性の反原発グループの誕生と新しいネットワークづくりである。
 これまで、日本の反原発運動は、原発立地をめぐる地域住民運動や市民運動を基礎に、「反原発運動全国連絡会」のようなネットワークによって支えられてきた。そして、各地の運動の展開とネットワークの形成に果たした久米三四郎氏や高木仁三郎氏をはじめとする反原発の学者と活動家の寄与は決定的に重要であった。その重要性は現在なおいささかも減じていないのだが、チェルノブイリ以後は新しい役者たちが登場した。たとえば、世界の核と原発の隠された情報とデータを鋭意掘り起こし、名探偵もどきの観察眼と推理力に加えて、レートール(語る人)のテクネー(技術)としての見事なレトリケーあるいはレトリック(弁論術)を駆使する広瀬隆氏の講演活動や著作活動が、主婦や若者をはじめ広汎な市民層の心をとらえ、「広瀬隆シンドローム」とか「ヒロセタカシ現象」などと呼ばれる現象を生み出したのも、その一例である。いわゆる原発現地だけでなく、都市部の市民層にも原発への関心が拡がったのも、チェルノブイリ以後の特徴のひとつだ。
 ところで、チェルノブイリ以後の原発をめぐる市民意識の劇的変化は、一年前までは「原発」が「原子力発電」の略称であることすら知らなかったという福岡の甘蔗珠恵子さんの手紙『まだ、まにあうのなら』が、主婦や若者の間で口づてに伝わり、異例のベスト・セラーになったことにも、端的に現われている。チェルノブイリ事故の発生当時、なぜかその事実すら知らなかったという小原良子さんも、甘蔗さんとほぼ同じような位置にいたと思われる。甘蔗さんの手紙が多くの女性に熱心に読まれ、伊方の実験をやめさせようという小原さんの呼びかけが、あっという問に100万人もの署名者と廷べ数1000人にのぼる二次の高松行動の参加者の心をとらえたのも、いわば甘蔗さんや小原さんの分身のような多数の生活者の存在を抜きには考えられない。逆に言えば、そのような生活者の不安な思いと何とかしなければという気持を、高みからではなく、同等の位置から、普段着の言葉と行動に移したのが小原さんたちだったと言えよう。
 こうしたチェルノブイリ以後の市民意識の劇的変化と新しい人たちの立ち上がりをよそに、政府当局と電力会杜と原子力産業界は、2年前の事故当時、全世界を放射能と共に駆け巡ったチェルノブイリ・ショックを、衆参同日選のお祭り騒ぎとマスコミ・フィーパーで吹き飛ばし(わたしは同日選を断行した中曽根のひそかな動機のひとつに、この〝チェルノブイリ隠し〟があったと見る)、その後も、「日本の原発は炉型が違うから安全」「ソ連のような大事故は日本では起こり得ない」とひとかけらの反省も見せなかっただけではない。当局・業界の居直りは「毒食わぱ皿まで」で、原発のコスト切り下げのため、安全性を無視した定検の短縮や無理な運転を重ね、敦賀など各地の原発であわやチェルノブイリの危険をも潜在させるような事故が続発していくなかで、つくりすぎた原発による電力過剰への彌縫策として、原発の出力調整実験を強行するという有様だ。チェルノブイリ事故の衝撃と深刻な後遺症に加えて、このような当局・業界の安全性軽視の政策と風潮が、言葉にこそ出さぬ多くの市民に強い不安と不信感を与えたことは確かである。国民の86%が原発に不安を抱いているとの総理府の世論調査結果は、それなりの恨拠と背景を持っていたのである。

まだまにあうなら

2. 女性の登場とイニシアティブ

 女性の行動が嵐の到来を告知する海燕のような役割を果たした事例は史上に少なくない。
 身近なところで、たとえば昭和初年の米騒動は、米価の高騰で子供たちに食べさせる米も買えず深刻な生活難に直面した富山県の漁師町である魚津町(一説に水橋町)の主婦たちの口火で始まった。
 第二次大戦後の原水禁運動もまた、もとをたどれば、ビキニの死の灰事件をきっかけにした東京都・杉並区の主婦による草の根の署名運動に由来する。
 伊方原発出力調整実験抗議大行動が、伊方の対岸の大分県・別府市の小原さんら「グループ・原発なしで暮らしたい」の女性たちの「なにがなんでもこれを止めようと思った者が、それぞれに直ちに動き始めるしかない」との切迫した危機感に端を発し、自らの思いを直ちに行動に移すというかたちで、やはり署名運動からスタートしたことは暗示的である。
 文字通り、歴史は繰り返すの感を深くする。
 およそ、わたしたちの社会の現実は、それが自壊するのをひたすら待つのではなく、本当にそれを変えようと意志し行動する人間がいなければ、当面少しも動くことはないであろう。
 日本の反原発運動史上に新しい1ページを開いた伊方原発出力調整実験抗議大行動は、子供を持つ母親を含む女性たちの本当の危機感、および、思いと行動の見事な一致が生み出したものであった。
 小原さんらの強い意志と行動力は、この大闘争を可能にしたコロンブスの卵だったのだとつくづく思う。その思いのほどともっぱら一人一人の意志と責任に基づくところの行動のありようは、1987年12月初めに佐賀市で聞かれた「原発なしで暮らしたい! 九州共同行動」の反原発合宿に突如11人の仲間で乗り込んだ小原さんらが、署名運動の取り組みの要請に対する九州各地の参加者の反応が鈍く冷ややかであるとして、その晩の宿泊の予定をキャンセルしてさっさと別府に引き揚げてしまった、という中島氏の伝えるエピソードによく象徴されている。
 かくして、別府の女性グループは、誰に頼ることもなく、自ら「火の玉のようになって」立ち上がり、これに連動して大分県下の各地で女性たちが自発的に動き出し、全国に飛び火していくというかたちで波及していく。当時病床にいた松下竜一氏をして「本当の運動」と呼ばしめたその運動の熱気は、「もはや、反原発の運動を主導するのは、まぎれもなくこれら女性達である。男達もこれに乗り遅れないように参加させてもらわねばなるまい。私もそろそろ起きなければならない」(『草の根通信』1988年1月号)とのメッセージと共に、わたしたちのところにも確実に伝わり、わたしなども年が明けてからその重要性に気づき遅ればせに動き始めるという次第であった。
 いかなる政治、いかなる運動にも、まず発議し提案し率先し創意をもって一定の行動へと導いていくイニシアティブをとる提唱者や指導者、というものが必ず存在する。
 伊方の実験に反対する今回の署名運動は、小原良子さんという一部でジャンヌ・ダルクに擬せられた庶民的な顔を持ち、開けっぴろげで魅力的かつ個性的な女性の突然の登場に始まり、その意を受けるかたちで、小原さんたち「グループ・原発なしで暮らしたい」と「原発なしで暮らしたい! 九州共同行動」と「伊方原発反対八西連絡協議会」の三団体を呼びかけ団体として、二次の高松行動が組まれたが、全体を通して庶民的な顔を持つ小原さんの直接的かつ個人的なリーダーシップに負うところが大きかった。
 しかしながら、伊方の実験の中止を求める署名運動と二次の高松行動の本当の主役は一人一人の参加者であって、このことを決して忘れてはならない。そこで、ひときわ印象的で感動的だったのは、新しい人たちなかんずく女性の登場であり、1月25日の第一次の高松行動では、子連れの母親を含む200人もの女性たちがアクロポリスの城山ならぬ四国電力本社に龍城するという、日本の反原発運動史上に先例のない前代未聞のドラーマを伴った。それは、わたしが拙著『原子力神話の崩壊─ポスト・チェルノブイリの生活と思想』で示唆しておいたように、まさしくアリストパネスの古喜劇『女の平和』の現代日本版とでも呼ぶべきものであった。

3. 情報のネットワークと応急の行動


 伊方の実験の中止を求める小原さんらの署名と行動への呼びかけは、きわめて短期間のうちに全国各地に急速に波及していったが、各地を行脚した小原さん自身の直接の訴えもさることながら、甘蔗さんの第二の手紙を含む人から人への口コミと手紙によるメッセージのリレーに加えて、各地に散在する反原発およびエコロジーのサークルやグループに署名用紙や行動への参加を要請するチラシをどんどん送り届けるという方法が効果を発揮した。これらの用紙やチラシは、たとえば、わたしたちのところにも、高松行動の呼びかけ三団体となった小原さんたち「グループ・原発なしで暮らしたい」「原発なしで暮らしたい! 九州共同行動」「伊方原発反対八西連絡協議会」はもとより、複数のルートから重複しながら次々に舞い込んだ。それは、すでに各地に散在する反原発やエコロジーのサークルやグループを応急の行動に向けてつないでいく情報のネットワーク活動とでも称すべきもので、それぞれ課題や領域を異にしたエコロジーその他のサークルやグループの人たちが、この情報のネットワーク活動によって横に結ばれ、共通の課題をめぐり応急の行動に結集したのは、日本の反原発運動というよりもエコロジー運動にとっても初めての経験ではなかったかと思う。
 署名運動から高松行動に至るネットワーク活動において特徴的だったのは、従来からの反原発運動団体とそのネットワークが媒介役として重要な寄与をしたことに加えて、これまで原発問題を直接課題としてこなかった有機農業・産直・消費者・女性など各種のエコロジーのサークルやグループの人たちが敏感に対応して立ち上がったことである。
 すなわち、チェルノブイリ以前から反原発運動に取り組んできた人たちだけでなく、ひとまず政治とは離れたところで身の回りの環境や暮らしや食べ物や女性解放の問題をそれぞれの場で考えてきた人たちも、チェルノブイリ以後の世界の現実を知るや、自らのいのちや生活が原発によって根底から脅やかされていることを知ったのである。
 それから、忘れてならないのは、それ自体がエコロジーと市民運動の中心のない全国的ネットワーク誌として機能している『草の根通信』で、いち早く小原さんの訴えを載せたばかりか、出力調整実験の技術的危険性をわかり易く説いた平井孝治氏の解説なども掲載し、署名運動の一窓口ともなって、マス・メディア以上に大きな役割を果たしたのであった。
 伊方の実験を中止させるという応急の行動は、こうした新旧さまざまなネットワークを通して、小原さんたちの「グループ・原発なしで暮らしたい」、「原発なしで暮らしたい! 九州共同行動」、「伊方原発反対八西連絡協議会」のいわゆる呼びかけ三団体を中心に伝達され組織された。そのさい、いわゆる「呼びかけ団体」は「主催団体」ではなく、行動の場を設定し情報を伝達するが、行動全体を指揮・統率する団体や個人は置かず、したがって行動についての方針も統制も下さず、どのような行動になるかはもっぱら個々の参加者の意思と責任にゆだねられた。
 このほか、現地連絡先も置かれたが、これは呼びかけ三団体の裏方として、主として現地と参加者および各地の個人・サークル・グループなどとの連絡窓口の役割を引き受けた。これは、いかにも、大政党や大労組の上意下達・命令一下の組織動員による方式とは対照的に、草の根の市民やグループが各人各様の思いとスタイルではせ参じ、アドリブの精神と自由な行動の発露しやすい舞台装置を慎重に準備するものであった。
 1月25日の第一次の高松行動に際して配布された案内チラシ「伊方原発の出力調整実験の中止を求める集い」には、高松行動を特徴づけた行動原則が集中的に表現されている。
 すなわち、
① この集いは個々の参加者の意思と責任において実施されるもので、集い全体を指揮
  ・統率する団体や個人はありません
。ですから宣伝カーやマイクで必要な情報を逐
  一伝達しますので、各グループ、各個人が自らの責任で判断して行動して下さい
② それでも状況が判らない時や、高松市内の交通の便などを知りたいときには下記に
  電話して下さい。
  貴方の知りたい事が判るように『伝達者』が電話口で待機しています。
③ この集いには医者など医療関係者も参加しています。病人やケガ人が出て手当を要
  するときは、近くの『伝達者』に連絡して下さい。
④ 警察に排除されるかも知れませんが、その時は強いて抵抗しないようにしてくださ
  い。
不幸にしてつかまったら、上記の連絡先の指定する弁護士と面会できるよう警
  察官に要求してください。
⑤ 住所・氏名を供述するか否かは貴方の自由意志にまかされますが、供述すればおそ
  らく2泊3日以内に釈放されるでしょう。(全面的に供述する場合でも、誰と一緒
  に来たかなど他の人のことは話さないで下さい。)もちろん完全黙秘も可能です。
⑥ この集いは2月に予定されている出力調整実験の中止を求めるもので、参加者は何
  人も同じ位置にいます。ですからここの集いの性格に納得できない個人ないしは団
  体は、どうぞ別の日に行動するようお願いします。
⑦ 今日一日では中止の確約が取れるか否かわかりませんが、お急ぎの方は刻限がくれ
  ば自由にお引き取り下さい。
⑧ (略)

」(太ゴチックは引用者)。
 のちに、その解釈というか力点の置きどころをめぐって若干の意見の相違が生じるようになるが、いわゆる
 高松行動の三原則
と呼ばれるようになったものはこの申し合わせに由来する。

dragon
1988年四電本社前講義抗議行動で登場し、
以降運動のシンボルとなる「えぇじゃないか踊り」
YouTube 原発サラバ記念日&命の祭り 1988年 から転載

4. 市民的スタイルと民衆文化的色彩

 高松市中央公園における二次の大集会とパレードと四国電力本社前での抗議行動は、日本の反原発運動に新しい市民的スタイルと民衆運動的色彩をもたらした。
 まず印象的だったのは、その新しい顔触れと衣裳の多彩さである。
 実際、高松では、わたしなども、従来から反原発の運動に携わっている九州をはじめ各地の実に懐かしい多くの顔に出会ったが、見慣れぬ未知の顔はそれよりもはるかに多く、しかも子連れを含む女性たちが半分近く占めていたことが特徴的であった。
 そして、各人、思い思い色とりどりの身軽な衣裳とスタイルで、「ノーモア・チェルノブイリ」「実験ヤメテ」などと自分の訴えたいことを多様な自己表現で前垂れやゼッケンやノボリや横断幕などに託しつつ、集会とデモそして四電本社前抗議行動に参加した。
 広瀬隆氏の『危険な話」をもじった「四電な話」といった風刺のきいたプラカードも目についた。
 これらの前垂れやゼッケンを身につけていないのがいささか場違な感じで、わたしなども、第一次行動ではとりあえず、カチカチ山のタヌキをもじった「ワァ原発が燃えだしたあ」との絵入り「祝四電大パレード」のゼッケンを集会場で着用したが、第二次の高松行動では、あらかじめ、自ら着古した下着で前垂れとゼッケンを準備してかけつけるという次第であった。
 おなじ衣裳でも、1960年代末のベトナム反戦や全共闘運動を彩ったヘルメットとゲパ棒とは違って、ソフトなエコロジーの流儀を反映しているように思う。
 集会と抗議行動の持ち方もきわめてユニークであった。
 これは、この行動を呼びかけた小原良子さんおよび呼びかけ三団体の世話人の人たちの意向と配慮によるものでもあるが、各団体の代表者とか有名人が壇上の高みから演説をぶつ大政党や大労組などによる組織動員型のしかも男性中心の大衆集会とはガラリと趣向を変えて、司会も進行も女性中心に進められ、各地から参加した草の根の市民がそれぞれ普段着の生活者の言葉で参加者と同じ位置から語りかけるのを基調とした。
 新しいスターである小原さんと甘蔗さんは別として、いわゆる有名人や学者では、呼びかけ団体の中枢にいた松下竜一氏と平井孝治氏、そして、小原さんをはじめ今回の行動の主役たちに大きな影響を与えた広瀬隆氏が集会場または四電本社前でマイクを握ったにすぎない。
 それは、「集会全体を指揮・統率する団体や個人」はなく「何人も同じ位置」にいる、との行動原則に基づくもので、新しい主体と市民的スタイルの登場に道を開く舞台づくりとして重要であったと思う。
 四電本社への抗議と交渉の前面に出たのも、学者や専門家ではなく、主として素人の女性たちだ。逆に、久米三四郎氏や槌田敦氏のような反原発の学者が、一市民ないしは一運動家として、黙々とこの行動に参加された姿もまた、感動的であった。
 さらに、これら一連の集会・パレード・杜前抗議・交渉といった一連の行動の基調としての「非暴力」、および、明けっぴろげのユーモアの精神も大切な点である。たとえば、たまたま、現地で手にした『電力ダヌキ新聞』(1988年2月4日)は特集「やさしく、美しいパレードの仕方について」で2月11、12日の「原発サラパ記念日」は
 「やさしいことばをつかいましょう」
 「ゴミを捨てないようにしましょう」
 「気持がにつまったりしんどくなったら空を見上げてみましょう」
 「非暴力でいきましょう(物もこわさないでね)
  ……力を入れすぎないでね。リラックスしてつづけましょう」
 「四国電力の社員の人を責めないでね」
 「警察の挑発にはのらないようにね」
と、ソフト・タッチで呼びかけているが、これなぞ、高松行動で初めて登場した新しい人たち、なかんずく、女性たちの繊細な感性と流儀を実によく表現していたのではないかと思う。
 そのクライマックスが、例の『女の平和』の現代日本版たる四電本社内での女性たちの龍城とそこにおける優雅な振舞いであった。
 明るく解放的なユーモアの精神は、二次の高松行動を特徴づけた身振りと歌と踊りと大衆芸能にも色濃く凄み出ていたが、これらの特徴こそ、今回の闘いに、一撲や世直しなど民衆運動の伝統に地下水脈でつながる古くて新しい民衆文化的色彩を付与するものでもあった。
 さきにわたしは、高松行動の参加者の多彩な衣裳とスタイルに注目したが、仮装と変身は、農村共同体のハレの日の祭りにも、あるいは、また、一撲や世直しや「おかげまいり」や「ええじゃないか」など、日本の過去のどの民衆文化や民衆運動にも付きものであって、それは人びとが固定化した日常性の秩序から一時離脱して、自由な時空で生きるための転換の文化装置でもある。
 ついでに言っておくと、明治の秩父事件のような出来事も、祭りを母体とする民衆文化と百姓一撲の伝統を背景に、日常から蜂起してゆく民衆の姿を暗示している。つぎに、歌と踊りは、「おかげでさ、ぬけたとさ」とか「エジャナイカ、エジャナイカ」「御影でヨイジャナイカ、何ンデモ、ヨイジャナイカ、ヨイジャナイカ、ヨイジャナイカ」といった、冗談とも真面目ともつかぬ一種摂雑な歌を口づさみつつ、異形に変身した民衆が踊り歩く、近世の「おかげまいり」や幕末の「ええじゃないか」のような民衆運動を彩ったキイ・ノートであるが、二次の高松行動を特徴づけたのも、鉦と太鼓の瑞子方や歌舞団によってリードされた歌と踊りである。
 とりわけ、一次と二次の高松行動を通して、京都の岩倉獅子舞の人たちが集会とパレードと四電本社前の抗議行動で果した役割は大きく、強く印象に残ったが、第二次の大集会では大分の吉四六劇団、上関・祝島の神楽団、水俣の砂田明氏、沖縄の喜納昌吉氏、その他、さながら新旧の大衆芸能の競演会の感があった。
 この大衆芸能の競演を経て、四電本社前の抗議行動では、例の「原発やめて! いのちが大事」「原発やめても、ええじゃないか!」の大合唱と竜などのハリボテを担いだええじゃないか踊りに発展するが、これまた豊年踊りのような各地の地踊りから世直し踊りの熱狂的乱舞に転化した元祖「ええじゃないか」にアナロジーしてみたくなる。
 いまや、日本の反原発運動は、原発のある世の中を変えたいとの切実な世直しの思想を根底に持ち、圧倒的に多くの民衆の心を一瞬にしてとらえる広汎な民衆運動としての内実を持つに至った、と言えるのではなかろうか。

海外反原発
 1970年代の欧米各国の反原発運動:反原発事典1(現代書館)から転載

5. 反原発運動の新たな地平

 最後に、伊方原発出力調整実験抗議大行動は、これまでの日本の反原発運動の基本形態である個別地域住民運動の限界を打開し、九州・四国を中心に全国から市民が横断的に結集する初めての経験となった。
 ここに高松行動の画期的な意義もあったのだが、見誤ってならないのは、このことをもって、個別地域住民運動の意義を否定してはならないということだ。
 わたしに言わせれば、これまでもこれからも、日本の反原発運動は、それぞれの原発立地点ないしは核廃棄物や再処理など核関連施設の建設地点においての地域住民運動や市民運動とそのネットワークを基本とする。だが、それでは、こちらの穴をたたけばあちらの穴から顔を出すという、モグラたたきの構造の根幹を絶ち切れないという限界を持つゆえに、その限界を突破する新たな闘いの地平が求められていたのであり、この反原発運動の地平の拡大の突破口となったのが伊方の実験の中止を求める高松行動だったのである。
 もっとも、こうした市民の横断的な結集は、国境を接したヨーロッパなどの諸国では、決して珍しくないどころか、1970年代以来はるかに大きな規模で幾多の経験を積み重ねて今日に至っている。
 たとえば、
 西ドイツでは1975年から77年にかけて原発予定地のヴィール
 ブロクドルフで行われた敷地占拠闘争や3万人にものぼる抗議行動、
 カルカーの高速増殖炉に反対して近隣諸国からも多数参加した5万人集会、
 1979年のスリーマイル事故直後ゴアレーベンの再処理工場に反対するハノーパーの10万人集会、
 同じ年の秋の反原発とゴアレーベンの核廃棄物貯蔵施設に反対するボンの15万人集会、
 フランスでは1976年のラアーグ再処理工場に反対する1万人デモ、
 1977年の高速増殖炉スーパーフェニックスに反対するマルヴィルの6万人集会、
 アメリカでは西ドイツのヴィールの敷地占拠闘争に学んだ1976年から78年にかけての波状的なシーブルックの非暴力直接行動
などが有名である。
 チェルノブイリ以後では、
 フランスのカトノム原発反対のデモに国境を接する西ドイツやルクセンブルグから9千人、
 西ドイツのブロクドルフ原発の廃棄を求めて3万人、
 イタリアではローマで15万人の反原発集会とデモ、
などが目につく。
 とりわけ、ヨーロッパの場合は国境を超えたインターナショナルな反原発運動の展開に特徴があるが、放射能が国境を超えたチェルノブイリ事故直後、ヨーロッパ核廃絶運動(END)の会議で、原発の建設や運転は決してその一国だけの問題ではなく、他国の市民にも発言権や決定権を認めるべきだとの意見が出されたのも当然である。
 同じことが、日本の国内の原発や核関連施設の設置や運転についても当てはまる。
 これまで、「原発現地」といえば、その原発の立地する市町村の行政区分を意味したが、その地球的規模の放射能汚染の状況、とりわけヨーロッパの現状からして、チェルノブイリ以後は「日本中すべてが原発現地」との認識が広汎な市民に次第に共有されるようになってきた。
 このような認識の変化を誰の眼にも見えるかたちで最初に突き出したところに、伊方原発出力調整実験抗議大行動の大きな意義があった。
 これからは、高松方式に学んだ闘いが、能登や島根や泊をはじめ全国各地の原発立地点や原発現地でも、多元的なイニシアティブのもと、いわば同時並行的かつ波状的に展開され、新規原発の立地阻止はもとよりのこと、既設原発の凍結・廃棄に向けて、広汎な市民と世論を結集していくであろう。

19880125_takamatsu
1988.1.25 高松行動:「原発やめてええじゃないか」から転載

2. 伊方闘争の総括をめぐって

1. 「ニューウェーブ」と「オールドウェーブ」

 ところで、すでに伊方原発の出力調整実験に反対する署名運動の発端において、あるいは、また、二次の高松行動の過程を通して、この署名運動と緊急行動を提唱し推進した小原良子さんや彼女を補佐した一連の行動の中心的担い手の間に、従来から反原発運動に携わってきた活動家や組織に対するある種のいら立ちや不信の感情が生じた。
 そして、それは、解消に向かうどころか、逆に尾を引いて感情的次元でくすぶり続けるにとどまらず、九州共同行動の事務局長として呼びかけ三団体の連絡世話役をも担当した中島真一郎氏の総括にみるように、「文化大革命としての伊方」あるいは「ニューウェーブの論理」として純化され論理化されると共に、今後の反原発運動の進め方にもかかわる実際的次元では「オールドウェーブ」たる九州共同行動の「解散」提案というかたちをとって表面化した。

 わたしは、中島氏とは、いまから十数年前、川内原発建設問題に取り組んでいた橋爪健郎氏らのサークルを足場に反原発の活動の一端にかかわるようになった鹿児島において、当時まだ学生だった彼が三里塚闘争に連帯するキャラバンに来て以来の面識で、その後つい最近まで直接顔を合わせる機会はなかったものの、彼が積極的にかかわっていた「苓北火電阻止連絡会議」や「九州住民闘争団結交流合宿」およびその流れを汲む「原発なしで暮らしたい! 九州共同行動」のニュースなどを通して、その活躍ぶりを遠くから知り敬意を表していた人間の一人である。 
 その中島氏の伊方闘争の総括は、さすがこの大行動の中枢にいた直接の担い手自身による臨場感あふれた内部報告として、大いに啓発され学ぶべき点も多いし、それがまったく新しい質を持った闘いであったという評価も共通しているが、それでは、その新しい質をどう考えるかという自己理解の仕方と、今後の反原発運動の在り方にもかかわる実践的な問題提起の部分では、正直言って納得しかね、意見を異にする論点もいくつかある。
 そこで、その意見を異にする論点にしぼって、わたし自身の疑問と異見を対置してみたい。
 
 まず、最初に、いわゆる反原発運動の「ニューウェーブ」と「オールドウェーブ」の問題である。
 この「ニューウェーブ」という言葉は、高松行動を「チェルノブイリ効果」による「新しい波」の登場と敏感にとらえた「朝日ジャーナル』(1988年2月5日)の「反原発運動ニューウェーブ」の記事からきていると思うが、中島氏は今回の伊方闘争を、反原発運動の「オールドウェーブ」にとって代わる「ニューウェーブ」の闘いであったとして、つぎのように総括している。
 「今回の闘いは1970~80年代の反原発運動(オールドウェーブ)の延長線上に花開いたものではなく、両者の間には大きな断絶があること、今回の闘いが発展していく過程のなかで、これまでの流儀・原則・運動のパターン等との闘争があり、その介入を阻むことによって、発展することができた」
 (「ターニングポイントとしての伊方」、以下同様)
と。そして、自らの位置についても、
 「私は、今回の闘いの当初は、オールドウェーブ側(これまでの運動の側)の人間としてかかわり、後に私と同じように発想するオールドウェーブ側の参加者から今回の闘いの新しい流儀・原則を守る楯の役割を担い続けた。この3カ月間、私自身の中にオールドウェーブとニューウェーブの流儀・原則相互の格闘があり続けた」
ことを率直に自認している。
 わたしは、この率直さが、疑う余地のないほど誠実なものであり、感動的ですらあるということをまず確認したうえで、この「ニューウェーブ」と「オールドウェーブ」の図式的な二分法を過去の反原発運動の評価と今後の在り方に安易に拡張するとき、そこに事実の単純化と自己催眠の危険が伴うことを指摘したい。
 伊方闘争がさまざまな面で新しい質を持つ画期的な大闘争であったことは、わたしもすでに(前章の1.「伊方闘争の背景とその画期的意義」)で強調したし、この評価に関しては中島氏と意見の相違のあろうはずもない。
 わたしは、その伊方闘争の画期的意義を、
  新しい人たち、
  なかんずく女性の登場と庶民的な顔を持つ小原良子さんのイニシアティブ、
  反原発のみならず各種のエコロジーのサークルやグループを横に結ぶネットワーク活動と各人の意志と自己責任による応急の行動原則の創出、
  新しい市民的スタイルおよび身振りと歌と踊りと大衆芸能による古くて新しい民衆文化的色彩、
  個別地域住民運動の限界打破と反原発運動の新しい地平の開拓、
などの点について見た。
 中島氏が強調する「新しい主体」の登場は疑う余地がないし、この主体の面から、あるいは、また、いま触れたような流儀やスタイルをひっくるめて「ニューウェーブ」と呼ぶことにも反対ではない。
 実際、そこには、これまで反原発の運動に携わってきた者、いわゆる「オールドウェーブ」にとっても、多くの学ぶべき点と自己変革を迫られる衝撃力がある。
 その限りにおいて、
「私自身を含めて、これまでの反原発の運動家や反原発の学者は、今回の新しい闘いに学び、自らの古い運動体質や発想法を変革していくことが、今後の反原発運動の発展にとっても必要だと思う」
との中島氏の意見をわたしもまた受け入れたい。
 そして、中島氏自身が、誰よりもその自己変革の必要性を自覚し、そのために率先して範を示そうと努力しているのは、さすがだと敬服する次第だ。
 だが、かりに、ここでは、「ニューウェーブ」を「新しい人たち」、「オールドウェーブ」を「これまで反原発の運動に携わってきた人たち」の意味で使用するとして、わたしが中島氏と基本的に意見を異にするのは、いわゆる「ニューウェーブ」の出現は処女懐妊や無から有を生ずる奇蹟ではない、やはり、そこには言うところの「オールドウェーブ」の前史と介添えがあった、と考える点であり、そこに非連続の連続とでも言うべきものを認める。
 たとえば、中島氏は、
 「『いかた』の闘いは、これまでの反原発運動の担い手と主体がことなり、これまでの反原発運動の延長線上に生まれたものではなかった」
ことを強調するが、わたしはこの担い手と主体の面でもある種の非連続の連続を主張する。
 このことは、九州共同行動の中島氏自身にも平井孝治氏にも松下竜一氏にも当てはまるのではないか。
 また、たとえば、署名運動にしても二次の高松行動への参加にしても、むろん「ニューウェーブ」と称する「新しい主体」の登場はきわめて重要かつ印象的な出来事であったし、それがある意味で高松行動の性格を決定づけたとも言えるが、わたしの経験と観測に間違いがなければ、やはり参加者の半分以上は、これまで何らかの形で反原発運動にかかわってきた「オールドウェーブ」の人たちであったと見る。
 いや、「数」は問題ではなく「質」だと反論されるかもしれないが、その「質」にしても「ニューウェーブ」の純粋種に還元するには無理がある。
 げんに、中島氏自身が自らを、下半身「オールドウェーブ」、上半身「ニューウェーブ」のケンタウロスに擬しているではないか。
 また、「ニューウェーブ」の登場にしても、むろん小原さんらの直接の呼びかけや甘蔗さんの第二の手紙によるアピールのリレー式の伝達が決定的に重要なコミュニケーション・ルートになったとはいえ、この種の「ニューウェーブ」の独自ルートと並んでいわゆる「オールドウェーブ」の活動家やサークルやネットワークが側面からの媒介役を果たしたように思う。

 のみならず、その小原さんが、たとえ『草の根通信』(1988年5月号)の松下竜一氏のインタビュー「あの大きなうねりはこうして始まった」で、実にユーモラスというか、あっけらかんと「運動歴はミニ・バレー」で「チェルノブイリの事故って私知らんかったんやわ」と笑って答えているように、およそ「古い(運動)業界の人たち(笑い)」すなわち「オールドウェーブ」に縁がない人だったとしても、あるいは、また、甘蔗さんが『まだ、まにあうのなら』を書く1年前は「原発」が「原子力発電」の略称であることすら知らなかったとしても、広瀬隆氏や高木仁三郎氏といった先行者との出会いと覚醒がそこに介在していたのではないだろうか。彼女たちが呼びかけ生み出したあの署名運動と二次の高松行動の盛り上がりも、そう意識するしないにかかわらず、やはりそれなりに過去の反原発運動の歴史的蓄積とその限界(の突破)の上に成り立っていると考えないとしたら、いささか公平さを欠くのではないか。
 わたしの考えでは、反原発に限らず、どんな運動も、それぞれ限界と欠陥と誤りに満ちた人間どうしがお互い足らざるを補い合い、少しずつ新しいものを積み上げて更新していくものではないかと思う。いかなる領域の達成であれ、歴史における新しきものは、意識的にか無意識的にか、つねに先行者の肩の上に乗りつつ、その限界を超えて初めて登場する。もし、自分は先行する者の世話には一切なっていないと公言する人聞がいるとしたら、それは身の程知らずの自惚れというものだ。
 繰り返すが、無から有は生ぜず、処女懐妊ということをわたしは信じない。
 小原さんらの始めた署名運動の緊急性とその背景にある切実な危機感が、男性たちやこれまでの反原発運動や市民運動の担い手たる活動家あるいは学者になかなか共有されず、当初きわめて鈍いというか冷たい反応に出会い、いろいろな障害にぶつかった事情は、わたしも高松に行った折に人づてに聞いたし、中島氏もまたいくつかの具体例を挙げて書いている。いかにも、そこには、ナイーブな感性の欠如とマンネリ化した既成の運動の限界があったであろう。このことは、わたし自身も含めて率直に認めたい。
 しかし、だからといって、小原さんが『反原発新聞』(1988年3月号)の中島氏のインタビューに答えるかたちで、これまでの反原発運動とその担い手の活動家について、
 「いくら口で反原発を唱えていようと、原発推進派としか思えませんでした」
 「自分の意志と責任で止めようと立ち上がったら、いろいろ障害となってあらわれ、個人として自立していなくて、なじめませんでした」
と語っているのを眼にすると、率直に言わせてもらって、いただけない気持になる。
 これを受けて、その延長線上で中島氏の言う
 「これまでの反原発運動(その担い手としての反原発派学者、運動家)は、自ら『原発反対』と主観的に思い込んでいながら、無意識のうちに36基も原発を建設してきた政府、電力会社、原発推進派と同じ土俵の上にたち、同じ発想や価値観を共有し、体制側の秩序に似せた、一種のヒエラルヒー構造をつくりあげていた」
との見方も引っ掛かる。
 二次の高松行動があのように明るく解放的で、多くの普段着の市民が自由に参加でき、その晴れやかな民衆的色彩を満喫して、誰もが参加したことの喜びと明日への希望をかみしめて帰ることができたのも、あの行動の主人公たる参加者各人の多様な思いと自己表現のゆえとはいえ、やはり新しい主体と市民的スタイルの登場に意を尽くした小原さんの個性や中島氏ら自称裏方の演出の労によるところ大、といまでも考えている。
 わたしは、いわゆる「ニューウェーブの流儀」の誕生に与って力のあった中島氏の功績には率直に敬意を表する者だが、その半面で、「オールドウェーブ」を闘いの拡大・発展を阻む「障害物」「敵対者」とみなすような見地には賛同できない。
 ましてや、このような見地が、自称「ニューウェーブ」と他称「オールドウェーブ」の双方の間に心理的ミゾや無意味な感情的反目をもたらすようなことがあってはならないと切に考える。
 わたしは、高松行動と共に出現したいわゆる「ニューウェーブ」の長所とよき可能性を伸ばしていくためにも、これまでの人が新しい人の行き方に率直かつ謙虚に学ぶことと並んで、この新しい運動の新しい旗手の人たちが自己過信や自己暗示からする他者への非難・中傷に陥ることなく、自らの長所そのもので人を引きつけてほしいと願う。
 いささか着古して重苦しくなった「オールドウェーブ」のマントを脱がせるのは、冷たい北風ではなく、明るく暖かい太陽の光のような「ニューウェーブ」ではなかろうか。
 あえてこんなことを言うのも、過去の反原発運動とその担い手の活動家たちを指して、小原さんや中島氏が口にする
 「個人として自立していない」
とか
 「原発推進派と同じ」
といった発言の延長線上で、現在および今後の反原発運動の在り方ともからんで、およそ運動の本筋から離れたような、非常に次元の低い皮相な観察と中傷の言葉を耳にすることがあるからだ。
 たとえば、最近たまたま目にした『伊方原発をとめよう大分ネットワーク』(1988年4月号)には「出力調整実験という最大の敵を前にしたときには殆ど動かず、泊原発、六ケ所核燃サイクルといった緊急を要する現地も沢山あるなかで、中央(東京)に人を集めて反原発集会をやるというのはまるで反原発『赤旗祭り』としか思えない。否、もっといえば、『プルトニウム研究会』に詣でる参勤交代ではないかとすら思える。4月23日に出仕すれば『反原発大名』のお墨つきが貰えるのだと思います」
(筆者は「徒夢」、同誌はいろいろな立場の意見を特集している)といった文章が載っていたが、これなぞ、それこそ、共産党の『アカハタ』以外には近年ついぞお目にかかったことのない、狭量で曖昧な観察と中傷であり、日本の反原発運動にもこんな陰気で悪意のあるシニシズムが生まれているのか、と実に嘆かわしい気分になったものである。
 これでは、せっかくの「ニューウェーブ」も、暗がりの盆栽のようにひねこびて、明るく大きく晴れやかに成長していくことはできない。ここで想起するのは、謙虚さと他者への畏敬の感情(アイドス)を欠くと、どんなに功績のある人であれ、またどんなに新しい可能性を秘めた人であれ、世界をあるがままに見ること(テオリア)すらもできなくなり、恣意と独善が幅をきかせて、倣慢(ヒュブリス)と迷妄・不和(アテー)に陥る、との古いギリシアの教えである。
 いわゆる「ニューウェーブ」と「オールドウェーブ」の関係について、これからの反原発運動は「ニューウェーブ」が「オールドウェーブ」と縁を切り、そこに衝立を築くことによって発展するとの狭量な見地にも反対で、わたしはすでに表明したごとく、「オールドウェーブ」が「ニューウェーブ」に大いに学んで自己脱皮する必要があると同時に、中島氏の見解に反して、「ニューウェーブ」もまたその達成と限界も含めて「オールドウェーブ」の経験にも学びつつ成長し成熟していく必要があると考える。
 要するに、両者は、相互に学び合う関係あるいは相互補完の関係にあるのであって、相互に排除し合う関係にはないはずだ。お互いがいい意味でライバル意識を持ち、本当に原発を止めるのに効果のあるアイデアや行動を競い合うのも、決して悪いことではなく、むしろ必要なことでさえある。
 わたしは、強い者が他を押しのけて弱者をだし抜く資本主義のジャングルの法則というか社会ダーウィニズム的な生存競争の意味においてではなく、各人が対等の立場と権利に基づいて、お互いに力量や卓越(アレテー)を競ってお互いを高め合う、競技(アゴーン)の文化というものを評価する人間なので、そう主張したい。その際に必要な倫理は、例の古いギリシアの教えたる自制心と他者への畏敬の感情(アイドス)を保ち、倣慢(ヒュブリス)を警戒することだ。関曠野氏の言葉を借りると、「競技の倫理においては悪しき者は存在せず、ただ未熟な者だけが存在する。学び続けない者、成熟せぬ者だけが悪しき者である」(『プラトンと資本主義』より、太ゴチは引用者)。
 わたしは、この言葉をもって、反原発運動の「ニューウェーブ」たると「オールドウェーブ」たるとを問わず、わたし自身も含めて等しく万人に適用される自戒としたい。

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1988.2.11 原発サラバ記念日 in 高松:”原発やめてえぇじゃないか”から転載

2. 3つの行動原則とヘゲモニー


 伊方の実験の中止を求める100万人の署名と二次の高松行動を通して、「新しい主体」と「新しい流儀」が登場したことは、中島氏の力説する通りである。その新しい流儀を中島氏は「ニューウェーブの原則」あるいは「小原さん達の闘いの流儀」と呼び、3つの行動原則にまとめている。
 すなわち、「

 ① この行動は、参加者の一人一人の意志と責任において実施されるもので、
  行動全体を指揮・統率する団体や個人はありません。各個人、グループ
  が自らの正義と責任で判断し、行動して下さい。
 ② この行動については、参加者は、一人一人当事者として何人も同じ位置
  にいます。(グループ・団体の構成員の多さ、歴史の古さ、能力、知識、
  有名さ、その他一切を含めて関係ありません。)
  すべて一人一人、一参加者として対等な存在です。
  行動の場と情報は呼びかけ団体が責任をもって設定し、お伝えしますが、
  それに参加するか否かは各人の自由です。
  また、各人の刻限がくれば、自由にお引き取りいただいてけつこうです。
 ③ ①②の原則を理解していただける人であれば、この行動はすべての
  人に聞かれています。またこの行動の原則に納得できない個人ないしは
  グループ、団体は、それぞれ別の形で行動するようにお願いします

  
」(前掲「ターニングポイントとしての伊方」、は引用者)と。
 これは、例の呼びかけ3団体の発行した「原発なしで暮らしたいニュース」(1988年2月29日)に出てくるもので、二次の高松行動の終了後、2月28、29日の東京行動に向けて、中島氏が執筆したらしく、「この表現は、平井孝治さんが文章化し、後に私が加筆修正をしたものです。但し、私達2人の創造ではなく、小原さん達の流儀をあらわしたにすぎません」と自ら注記している。
 ここで注記されている平井氏の文章化というのは、すでに(前章の1.「伊方闘争の背景とその画期的意義」の3.「情報のネットワークと応急の行動」)で引用しておいた1月25日の第一次高松行動に向けた案内チラシ「伊方原発の出力調整実験の中止を求める集い」の8項目のメモを指す。
 執筆者の平井氏によると、「運動の当初の確認点」は
 「① 代表者はおかず指揮・統制はしない。
  ②各人の意志と責任において行動する。
  ③参加者はなんびとも対等である。
の3点であり、「これらの原則は、提唱者の存在や運動のなかでの役割分担を全否定したわけではなく、各地からそれぞれの条件に応じて実験に反対する意思が表現でき、運動が個人を抑圧することなく展開されるための基盤であった。それゆえ『指令の伝達』ではなく『情報の提供』が申し合わされたのである」(『反原発新聞』1988年4月号)という。
 ここで注意深く比較すれば明らかになってくるように、平井氏と中島氏とでは、3つの行動原則の中味が違っている。すなわち、平井氏の①~③ は中島氏の①~②と重なるが、中島氏の③は平井氏の執筆した最初の案内チラシの③項目の⑥番目に出てくるとはいえ、平井氏の要約した3つの行動原則には含まれていない。
 『朝日新聞』(1988年5月4日)の特集記事「高まる反原発運動」が紹介している三つの行動原則は、
 「①参加者一人ひとりの意思と責任で実施する。
  ②参加者は対等な存在である。
  ③この考えを理解する人ならすべてに聞かれた行動とする」
と、さらに中味にズレを生じている。
 というのは、ここでは、平井氏と中島氏の①に含まれる指揮・統制する団体・個人の否定がすっぽり抜け落ちているからだ。
 この『朝日』の記事は、小原良子さんの「3つの行動原則を展開するのは、私たちが自己変革を迫られていること。それをせずに『古くから運動をやってきたからえらい』というのはおかしい。参加者はみんな平等だ」との発言を引用しているが、もし、かりに、小原さんの言う3つの行動原則が『朝日』の記事の通りだとすると、いわゆる3つの行動原則をめぐって、高松行動の中心的担い手のあいだに三者三様の解釈が存在するということになる。

 こんなことを言うと、何か重箱の隅をつつくように感じられるかも知れないが、決してそうではない。
 それは、誰がその行動の主導権を握るかというヘゲモニーの問題ともからんで、政治的には実にデリケートかつ重要な問題を含んでいるのだ。
 なぜなら、代表者もしくは行動全体を指揮・統率する団体・個人を認めるか認めないかによって、ヘゲモニーの所在と他の2つの原則も意味が変わってくるからである。
 かりに、これを認めないとしても、たとえば「呼びかけ団体」による行動の場の設定と情報伝達の仕方のなかにも、一定のヘゲモニーは介在する。 具体的には、誰がどのような場で集会の日時を決め、誰がその集会の司会・進行と演者の選定をし、誰が宣伝カーのマイクを握るか、といった問題などもその一例である。
 逆に、この指揮・統率する団体・個人を公然と認めれば、各人の意思と責任における行動、および、参加者は何人も対等の2つの原則(平井氏の②③、中島氏の①②)にはっきりと例外規定が設けられるということになる。
 のみならず、この2つの原則を理解すれば行動はすべての人に開かれているが、納得できない個人・グループ・団体は別の形で(別の日に)行動するように、との中島氏および『朝日』の記事に出てくる(それは小原さんのものであろう)③番目の原則の適用たる参加資格を判断する権限も、その代表者もしくは行動全体を指揮・統率する団体・個人すなわちヘゲモニーを持った者が握るという結果になる。
 正直なところ、わたしは、代表者ないしは行動全体を指揮・統率する団体・個人を認めるか否かにかかわりなく、この③番目の項目をあえて原則として挿入することに抵抗を感じる。
 実際、それは、「この行動はすべての人に聞かれています」と「どうぞお引き取り下さい」の二重の意味を含んでいる。ついでに付け加えるならば、中島氏の3
 つの行動原則の②番目に出てくる「グループ・団体の構成員の多さ、歴史の古さ、能力、知識、有名さ、その他一切を含めて関係ありません」も、すでに「一人一人当事者として何人も同じ位置」あるいは「一参加者として対等な存在」と明示しているのだから、言わずもがなの感がある。
 実際、とくに最初の③番目については、わたしたち中国地方の住民運動・市民運動のネットワーク組織たる「中国地方反原発反火電等住民運動市民運動連絡会議」のメンバーで、高松行動に参加した者の間からも、「なぜ、こんなことをあえて書くのか」との声を聞いた。
 かりに、代表者ないしは行動全体を指揮・統率する団体・個人を認めなくとも、むろん認めればなおさらのこと、行動の主導権すなわちヘゲモニーを握る者によって恣意や独善の入り込む余地が出てきて、本来は開放の原則をうたった③番目の項目が容易に排除の論理に転化して自閉しかねない。
 わたしが危倶するのは、まさにこの点、だ。
 それゆえ、この場合は、そのヘゲモニーの承認の形式と権限の範囲を明示し、恣意や独善をチェックすることが必要となる。
 このような次第で、三つの行動原則の解釈のしようによって、中島氏のいわゆる「ニューウェーブの原則」も変わってくるし、参加者によっても受け取り方は異なるはずだ。
 たとえば、向井孝氏は、高松行動では
 「① この行動は、参加者の一人一人の意志と責任において実施されるものです。
  ② 行動全体を指揮、統率する団体や個人はありません。各個人、グループが自らの正義と責任で判断し、行動して下さい。
  ③ 『非暴力』で」
ということが言われたとして、それを「非暴力直接行動」「個人責任」「反政治」なるアナキストの伝統的な行動原理に引き寄せて再解釈している(『非暴力直接行動』No.154、1988年3月15日)。
 それは、エコロジストのソフトな流儀にも適った巧みな要約で、とりわけ「非暴力」の強調には賛成だが、わたしはよくも悪くも政治は人間につきものと考えるので、向井氏のいわゆる「反政治」を政治的概念の「平等」(アイソノミー)に由来する「無支配」として再定義したい。
 つまるところ、高松行動で提起された行動原則(その原型は1月25日の第一次高松行動に向けて平井氏が執筆した八項目のメモにある)のうち、とくに何を重要とみなすかという問題に帰着するようだ。
 わたしとしては、平井氏が「運動の当初の確認点」とした3つの原則に「非暴力」を加えたもの(したがって、向井氏の示した3つの要約に近い)を基本に、
  ① 何人も対等で、行動全体を指揮・統率する団体や個人はない。
  ② 各個人・クループが自らの意思と責任において行動する。
  ③ 非暴力
ーといった風に仮にまとめてみて、今後の指針とすべき行動原則と考えたいが、その実際の場面ではあくまで時と状況に応じた柔軟な運用が求められようし、いろいろなバリエーションもあり得る。
 たとえば、今回の高松行動の「呼びかけ団体」に相当するものを「実行委員会」という形式で一時的に構成し、行動の場の設定や情報の伝達に当たるのも、その一例である。4月の「原発とめよう!東京二万人行動」は、この方式によるものである。

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1988/2/12 第二次高松行動でのダイ・イン:「原発やめてえぇじゃないか」から転載

3. 非暴力と反弾圧救援対策

 わたしの考えでは、「非暴力」ということは、どんなに強調してもしすぎることはない
 とりわけ、日本のような警察国家にあっては。
 しかしながら、中島氏の総括を読むと、この肝心のキイ・ポイントの理解の仕方がわたしとはやや違っている。
 すなわち、
 「非暴力、不服従という形態も、呼びかけ団体側として、『できる限り非暴力で闘ってほしい』とお願いしたが、それに従えない人は排除されるという意味での統一方針でも、原則でもなかった。参加者一人一人の主体的意志が非暴力がよいとして結果的にそうなったにすぎない。
 現実に、警察権力の暴力に直面し参加者のなかには実力で抵抗する人も現われてきた。それは、各自の責任において行われる限り原則に逸脱したものではなく、どのような闘争形態となるかは参加者一人一人に委ねられている」。
 また、中島氏は、反弾圧救援運動については
 「呼びかけ団体は、主催者でなく弁護士の紹介は行うが、もし逮捕者がでた場合には反弾圧救援活動の責任は負わない、逮捕された個人及びそのグループで責任を負ってほしいということを公言していた。そして、弾圧があった場合、その事実を全国に伝え、警察署への抗議要請とカンパ要請を伝えることのみ行った」
と書いている。
 このような考え方は「逮捕されたらその一人一人が責任を負うしかないじゃない」との小原さんの意を受けたものとも思われる。
 たしかに、高松行動のもっとも重要な行動原則のひとつは、参加者一人一人の意志と責任による行動ということであり、もっぱらこの行動原則のみに準拠すれば、つまり中島氏の言うように「各自の責任において行われる限り」、非暴力・不服従に「従えない人」も「どのような闘争形態」も(極端に言えば、暴力的形態も?)認められ、弾圧を受けて逮捕者が出た場合も「逮捕された個人及びそのグループで責任を負う」、というのもひとつの考え方であろう。
 そして、事実、中島氏はそう主張しているのである。
 だが、行動の場に暴力的形態が入り込んでくることを是とするか否とするかは大切なポイントであって、高松行動の評価に関しても、ひいては、また、今後の教訓としても、この暴力の是否をあいまいにしてはならないと思う。
 かりに行動の場の設定と情報の伝達にのみ責任を負うにすぎない「呼びかけ団体」の場合であっても、あらかじめその行動の原則として「非暴力」を謳うか謳わないかで、その行動の性格は左右され、時と状況によっては決定的な分岐点となろう。
 この点で、わたしは、第一次高松行動のさいの案内チラシ「伊方原発の出力調整実験の中止を求める集い」の④項目目つまり「警察に排除されるかも知れませんが、その時は強いて抵抗しないようにしてください」、および、高松市中央公園の集会場で呼びかけ団体から口頭でも強調された「非暴力で」の要請を再確認し、向井孝氏が明確に示したように、この「非暴力」を高松行動の3つの行動原則の1項目に含めるのみならず、今後の指針として継承さるべき行動原則の要石のひとつにしたい。

 げんに、2月12日の第二次高松行動の四電本社前でも、ダイ・インとこれに引き続く警察および機動隊の出動と排除をめぐるもみあいにおいて、この「非暴力」という行動原則が問われ試されたのではなかったかと思う。
 松下竜一氏が宣伝カー上から行なったダイ・インの提案については、小原良子さんの「フィットしない」(『草の根通信』1988年3月号の松下氏自身の報告「踊れぬ者は脱落だァー?!」より)から、たとえば向井孝氏らの
 「実験開始を目前にして、どうしょうもなく時間が拡散してぢりぢり経っていく……というときやったから、実にエエ提案やった」
 「戦術的にも局面をアクティブに転換し、緊張と集中状況をつくりだすというきっかけをつくり出すもんやった」(前掲『非暴力直接行動』No.154)
まで、さまざまな受け止め方があり評価が二様に分かれている。
 わたし自身はと言えば、それ以外のいい行動も思いつかないまま、多くの人と同様ダイ・インの提案に従ったが、あの実験開始の一瞬は、むしろ各人思い思いめいめいばらばらの、焦点なき多様な表現行為にゆだねてもよかったのではなかったか、とその時もあとでも思ったことを告白しておく。
 平井孝治氏によれば、2月22日の(おそらく呼びかけ団体の主だった人たち)の打ち合わせ会議で「ダイ・インが唯一の失敗であった」との確認がなされたというが、このダイ・インに内部から批判が出たのは、その提案という行為や中味の是否よりも、行動全体を指揮・統率する団体・個人はないとする高松行動の申し合わせに照らしてダイ・インを宣伝カー上から提案するというその提案の仕方に問題があったからであろう。
 この点は、たしかに、中島氏の言う通り「確認違反」であり、松下氏の提案の直後、マイクを再び手にした小原さんが即座に、
 「いまのはあくまで個人提案です。ですからダイ・インするのもしないのも各人の自由です」(前掲『非暴力直接行動」No.154より引用)
と断り、その時刻がくるや、
 「皆さん、もうすぐ9時です。ダイ・インをする人はして下さい。それぞれがそれぞれの抗議をして下さい」(前掲『草の根通信』3月号の松下氏の報告より引用)
と念を押したのは、正しく機敏な対応であったと評価したい。
 しかしながら、この見地からすれば、機動隊とのもみ合いが一段落したあと、誰からか出された市中パレードの提案に対して、小原さんが宣伝カーのマイクを使って
 「私はパレードに出るという指示は出していません」との〝逆指示〟を宣伝力ーのマイクで流したのは、かりに中島氏の主張するように「四電本社前から動かず確保し抗議し続ける」という小原さんの状況判断が正しかったとしても、各人対等の位置からの行動や提案の自由という原則に照らして、やはり一種の「確認違反」ないしは「原則の逸脱」と言えるのではないか。
 松下氏のダイ・インの提案にせよ、小原さんの「私はここで四電本社に抗議し続けたい」との意思表示にせよ、宣伝カー上のマイクによってではなく、街路上の参加者と同じ高さの位置からの提案であったならば、問題はなかったわけである。
 この点、警官隊に割って入られてから以降、四電本社前での抗議行動を終日彩ることになる、例の「実験やめて! いのちが大事」「原発やめてもええじゃないか!」の音頭に合わせた、竜のハリボテや身振り手振りの歌と踊りのねり歩きは、対照的であったと言えよう。
 なぜなら、それこそ、各人対等の位置からの自発的な行為そのものによる一種の提案であり、しかも圧倒的多数の参加者に受け入れられた、中島氏のいわゆる「言葉ではなく行動の場で本当に心を一つに」できた見事な一例だったからである。
 ところで、問題は、ダイ・インに続いて起きた機動隊の出動と路上の参加者との激しいもみ合いである。これについては、関西の「なにがなんでも原発に反対する女たちのグループ」が高松行動の直後に出した『なにがなんでもニュース』(1988年2月23日)の「やさしいことは強いのよ」が、参加した女性たちの批判の声を載せているので、そのいくつかをピック・アップして引用しておきたい。
 「なんで男っていつも、もめてるところの先頭に多いんやろか」
 「男って、すぐコーフンして闘争心をむきだしにするのが多いやろ」
 ……「私らがどんなに〝すわって〟とか〝押さないで〟いうても、すぐ『カエレ、カエレ!!』のカエレコールで、よけい、気分をあおってしまうやろ」
 「『みんな座ろうよ』とかいうのも『子どもたちの目の高さでみてみよう』とか言うたら、また違ったかも知れんね。子どもがいることがわかる目の高さと、空間がやっぱしいるワ」
 ……「排除するだけや、いうのを全体が見える人とか、連絡係いうのがおるんやから『大丈夫。おちついて!!』って言わなあかんわ。それをまた、あの大きい車の上では、『押せ!』とか『カエレ!』ばっかりいうてたやろ」
 「それそれ、あの車の位置というかマイクの位置が高かったやろ。指揮はおかんいうても何かあったらマイクもって指図するいう形で、実質的には指揮車になってるもんね。……」
 ……「男もマルK(警察─引用者)やマル機(機動隊─引用者)に向かう時には、互いに手をつないで、挑発にのらんようにせんと、コーフンしてタイホの口実つくらせるだけだで」
 「そうや、そうや。手をつなぐとか後ろ手を組んで、手は絶対に肩から上に上げへんとか。特に男は!!」……(太ゴチは引用者、以下同様)。  
 これが「非暴力」ということでは、おそらく日本でもっとも長い経験と思想を積んでいると思われる向井孝氏をして、
 「スゴイ……ぼくなんかの云うてきたことを超えている」
と感嘆させた女性たちの語録だ。
 いずれの発言も、女性たちの等身大の位置とやさしい視線から、痛いところを実に鋭く見抜いていて、まったく文句のつけようがない。わたしも、これらの女性たちの指摘に全面的に賛成で、当日の現場でのわたし自身の実感とも合致している。
 わたしも、また、機動隊とのもみ合いのなかでの、宣伝カー上からの単調な「暴力反対」「カエレ、カエレ」コールには少なからぬいら立ちを感じた。機動隊が前面に出できたら引くべきだと考えていたし、万一逮捕でもされたら何をしに来たのかわからない。そこで、あの混乱のなかで、一緒に高松にきた地域の仲間と「もみ合いには入るまい。遠ざかろう」と声を掛け合った。
 さきの「やさしいことは強いのよ」には、
 「うちらがマル機(機動隊─引用者)の前で女だけで列つくってたやろ、サッと道あけてマル機通したろうって言ったら、工ライおこられたで
 「男だけゃなくて、男と同じ発想をもつ女からもいろいろ言われたなぁ」
とある。
 「むこうが来たら、こっちから道をあけて、あっさり通したら工工」と話していた向井氏らが、押し合いをやめさせ、道を聞けようとしたら、活動家風の女の人に
 「何いうてるの……この日和見主義者」
 「道を開けるて、どういうつもりや、おしかえすんや」
とすごい見幕で怒られた、と報告しているのは、「なにがなんでも……」の女たちのグループのそれと重なる。これでいけば、わたしなども、間違いなく「この日和見主義者」としかられる口だが、向井氏の「『非暴力』いうんは、自分が暴力をふるわんいうことだけゃなしに、もっと根本は、『相手に暴力をつかわせないようにする方法』『相手の暴力を無効にする対応』なんやけどなあ」(前掲『非暴力直接行動」No.154)との意見には、わたしもまた同感だ。
 そして、
 「マルK(警察─引用者)がでてきた時、ワンパターンの力工レコールじゃなくて、気持を静めて落ち着くような歌がほしいね。グリナムコモンでもあったような」、
との「なにがなんでも……」の女たちの提案は素晴しい。
 ブログ管理者注:
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 もし、高松行動に「文化大革命」を見るなら、新しい人たちの新しい流儀のもっとも意義深い特徴のひとつとして、このような本当に根についた「非暴力」の考えと行動にこそ見たいものである。
 したがって、わたしは、この「非暴力」ということに関して、高松行動においては「結果的にそうなったにすぎない」とし、「各自の責任において行われる限り」実力による抵抗も含めて「どのような闘争形態となるかは参加者一人一人に委ねられている」ばかりか、
 「私は、従来の活動家のもっている反弾圧の知識や経験は、参加者に権力への恐怖を与え、闘う気持ちをなえさせる後向きの役割しか果さなかったように思われる。……これまでの活動家は、ともすれば権力側の動きを予想することで、権力と同じ土俵の上でものを考え、自らの行動を自主規制したり、大衆に対して行動を規制させる(結果的に権力の意向を代弁する)役割をはたしていたのではなかったか」
、との中島氏の総括の仕方に賛成できない。
 さきに見たように、「非暴力」ということについては、「従来の活動家」ではなく、むしろ、まさに、「ニューウェーブ」なかんずく女性たちの間から、真に学ぶべき新しい思想と行動倫理が芽生えていること、高松行動における警察や機動隊とのもみ合いについても的確な批判をしていることを、再度強調したい。
 中島氏が「反弾圧救援運動の原則」として挙げている「その闘いや行動の大衆的な支持をつくりだすこと」は、わたしも同感であり、きわめて重要な観点だと考えるが、その次にくる「当時者に自らの闘いの正当性と弾圧の不当性についての確信をもってもらうこと」だけでは足りないと思う。
 そこに、さきの女たちの発言に見たような、弾圧させない知恵と方策が必要ではないか。
 それゆえにこそ「非暴力」の思想と行動の原則の確信が求められている、というのがわたしの立場である。
 向井氏も指摘するごとく、「非暴力」の行動というとき、一人でも破ると、それがきっかけで敵側の暴力を引き出すことになるがゆえに、普段からいろいろな「非暴力トレーニング」を積んでおくことも必要かも知れない。
 日本には、この「非暴力トレーニング」の経験や蓄積はほとんどないが、外国の反原発運動にはある。
 たとえば、アメリカのシーブルックの反原発運動は、西ドイツのヴィールの闘いに学び、ニューイングランド諸州にまたがる「はまぐり同盟」の人たちの非暴力直接行動ないしは市民的不服従の行動として、1977年4~5月には1,414人もの逮捕者を出す大占拠闘争を展開したが、ワッサーマンが「反原発運動と非暴力直接行動」(『反原発事典』Ⅱ所収)のインタビューで語っているように、この敷地占拠闘争を展開するに際しては、8~20人を一組にして「アフィニティ・グループ」(親和グループ)を結成、事前に敷地占拠行動の法律的問題について説明を受け、各グループごとに行動計画を検討し、「模擬演習」をやり、占拠行動への参加条件として最低3~5時間の非暴力直接行動の訓練を経たうえ、各グループに一人のスポークスマン(軸になる人)と医療班・連絡員を置いて実際の行動に参加するという風で、かなりの時間をかけ周到に準備されたものであった。
 マレイ・ブックチンによれば、
 「アフィニティ・グループ」(親和グループ)というのは、もともと前ブランコ時代のイベリア・アナキスト連合(FAI)の基礎として案出された組織形態の名であって、
 「各親和グループは、それを構成する人達の間で最高度の親密な関係を保持するために、慎重に小規模に保たれる。……親和グループは大衆運動内部で『前衛』としてではなく、触媒として機能すべく意図している。親和グループは大衆運動に『将軍達』や『司令部』をではなく、イニシアティブと意識性を提供する。
……諸親和グループが連合するか、分離しているかは遠くの中央からの官僚的厳命によってではなく、生きた情況によって決定される」
(『現代アメリカ・アナキズム革命』所収の「親和グループについてのノート」より、
  太ゴチは引用者)。
 むろん、わたしは、いまの日本でシーブルックのような行動を組むのは現実的とは思わないし、日本の反原発運動にアフィニティ・グループの結成が必要だと主張する者ではない。
 ただ、高松規模の行動が今後あちこちで組まれていくとしたならば、その行動原則として「各自の意思と責任における行動」と「非暴力」がワン・セットで明示され、しかも、この行動原則が、参加する各地のグループごとに顔と顔の関係のなかで確認され、実際の行動局面ごとに「暴力を呼び出さない」「暴力に巻き込まれない」ことをお互いに絶えず再確認しつつ状況に対処していく必要があると考える。
 「非暴力」ということをどんなに強調してもしすぎることがないように、弾圧に対してはどんなに慎重であってもありすぎることはない
 それで思い出すのは、高速増殖炉の建設に反対する1977年7月のフランスのマルヴィルの闘争である。
 西尾昇氏の報告「フランスのエコロジー運動」(「反原発事典」Ⅱ所収)によれば、この闘争は、フランス全国のみならず全西欧の集中目標として闘われたが、非暴力を行動の土台に据えてきた住民運動のなかに極左勢力が参加して、暴力・非暴力の問題が闘いを前にして激しい論争になり、「攻撃的行動を排除しない平和的結集」の名のもと、とくに暴力の行使については、中央集権的な組織を嫌う気持も相まって共通の了解に達することのできない部分が残ったまま、また達することのできた部分についても動員された多数の隅々にまで伝達する手段が確保されないまま、当日を迎えた。
 その結果、雨中に結集した6万人が敷地をめざして突入をはかつて警官隊と衝突、マルヴィルの畑は戦場と化し、デモ参加者は死者1名、手足の切断3名、負傷者数100人の犠牲者を出し、ちりぢり撤退せざるを得なかった。
 この闘争の戦略と目標、暴力・非暴力の問題などをめぐっての意見の不一致、情報連絡組織の不充分さに加えて、地元の慎重な意見が尊重されず、外部の強力な主張が議論を支配し、現地の地理や事情に暗い者が指導に当たったことなどが、このような惨状を招いた要因とみなされており、この大弾圧以後、フランスの反原発運動は急速に退潮に向かった。
 少くとも、マルヴィルの教訓を知る者にとって、「非暴力」および「反弾圧救援対策」についての中島氏流の総括は、高松行動に限ってはそれで間に合ったかも知れないが、日本の反原発運動が今後さらに規模を拡大していく局面では、十分とは言えない。
 子連れを含む女性をはじめ多くの市民が、普段着のままで、しかも気安く参加しやすいソフトな行動の形態が、もっともっと考えられねばならず、そのためにも「非暴力」と「弾圧させない」配慮が従来以上に求められているように思う。いわゆる呼びかけ団体と現地との関係についても一考を要する。

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 1988.2.28~29 通産省抗議行動:「原発やめてえぇじゃないか」から転載

4. ネットワークと共存の倫理

 高松行動の直後、中島氏によって出された「原発なしで暮らしたい! 九州共同行動」の解散提案は、この大行動の総括と今後の反原発運動の在り方をめぐる論争のなかでも、もっとも重要な問題である。
 3月19日の九州共同行動の会議における中島氏の解散提案の趣意書によれば、この九州共同行動は、もともと「時限的団体」としてつくられ、前年春の共同行動終了とともに解散するはずであったが、九州各地の反原発運動の盛り上がりによって、秋の共同行動の取り組みに向けて「いわばなし崩し的に復活」したものである。
 しかし、今回の伊方の闘いで「一人一人が対等な主人公であるという直接民主主義を体現する運動が現実化」し、「私達のこれまでの運動が、無意識のうちに体制の秩序に似せた一種のヒエラルヒー構造を運動内部につくりあげており、それが新しい人々の起き上りを、成長をいかに阻んできたかを教えられた」。かくして、「これまでの古い運動の歴史をひきずり体質としておびている『原発なしで暮らしたい 九州共同行動』はもはや存在意義を失っている」として「解散」の提案に至る。 3月19日の会議では、
 存続を主張する平井孝治氏と解散を主張する中島氏、 そして、「中島さんの事務能力によってやれてきたのですから、彼が解散を主張する以上、そうするしかないでしょう。したがって、私も代表を辞任する。ただし、いろんな情報・連絡を流すセンター的機能は必要で、代表をおく必要はなくあくまで事務局体制でいった方がいいでしょう」とのメッセージを寄せた松下氏、と3つの提案がなされ、4月9日の会議では「なんらかの九州のネットワークは必要である」とする人びとが大半を占め、九州共同行動の存続が決まり、当面は代表を置かず事務局は福岡の関係で担当することになった。
 九州共同行動のことは、むろんその担い手の人たち自身が判断し決めるべきことなので、わたしが直接に口をはさむのはさし控えたいが、ネットワークとしての存続という結論に九州共同行動の人たちの自ずからなるコモン・センスを見る。
 率直に言って、九州共同行動は、松下氏も認めるように中島真一郎という有能な事務局長によって大いに支えられ、その事務局長にわずらわしい雑務の負担をかけながら高松行動に至ったのであろう。そして、わたしもまた、中島氏の労には遠くから敬意を表する者の一人で、特定の個人に負担の集中する事務局体制の見直しと各人の主体的参加を「解散」という「逆ショック療法」で提案したのか、と一瞬思った。
 しかしながら、それはわたしの勝手な憶測で、中島氏による解散提案とその補足説明(3月22日)を読むと、もっと深く高松行動の総括に関係しており、九州共同行動の存続が「新しい人々の起ち上がりの『障害物』となること」、そして、「新しい時代を迎え、新しい担い手による新しい形態が生み出されるべきだ」ということを最大の理由としている。
 すでに、「ニューウェーブ」と「オールドウェーブ」のところでも書いたように、少なくともわたしの眼には、高松行動において九州共同行動が「障害物」であったとは見えない。それどころか、事務局長としての中島氏の大役も含めて、むしろ事実は逆であったし、今後もそれが「人々の起ち上がり」や「成長」を阻むというのは理解に苦しむところだ。
 むしろ、チェルノブイリ以後の状況を背景に、高松行動で一挙に開けた地平をさらに拡大していくためにも、「原発なしで暮らしたい! 九州共同行動」やわたしたち中国地方の「中国地方反原発反火電等住民運動市民運動連絡会議」のような、すでにあるネットワークの重要性は減るどころか逆に増すばかりであり、新しく登場してくる新しい人たちの新しい運動やネットワークとの出会いと相互の変革や成長にこそ、今後の反原発運動の展望と可能性がある。
 ところで、中島氏はさきの理由に付け加えて、解散提案は消極的なものではなく、九州共同行動という「九州全域をカバーしたり全国を結びつける『媒介物=卸売業者とよんでもよい』をなくし、直接結びあう産直方式にしようという積極的な趣旨だ」とも補足説明している。
 わたしは、中島氏のいわゆる「直接結びあう産直方式」に反対ではなく、それはわたしの言葉で言えばそれ自体がひとつのネットワーク活動であって、反原発運動に限らずいろいろな領域で今後ますます必要になっていくものと思う。
 ただ、わたしの理解では、食品の産直ひとつとっても明らかなように、どんな産直運動といえども、その規模に応じてそれなりの媒介者やネットワークを必要とする。「直接結びあう産直方式」にしてもそうであるが、同時にわたしが繰り返し強調するように、その新しいイニシアティブによる「直接結びあう産直方式」と九州共同行動のような既存のネットワークを背反したものととらえる見方には納得できない
 なぜ、両者は、競争的共存も含めて共存共栄の関係にあってはならないのか。
 これも、「ニューウェーブ」と「オールドウェーブ」のところでも書いたことだが、少なくとも両者は事実の問題として相互補完の関係にあった。繰り返すが、伊方原発の出力調整実験に反対する今回の署名運動と二次の高松行動は、むろん小原さんらの直接の訴えと直接開拓したコミュニケーション・ルートによると同時に、反原発やエコロジーの既存ないしは新生の各種のサークルやネットワークとそのコミュニケーション・ルートに直接・間接支えられて実現したものである。
 たしかに、小原さんのイニシアティブは、日本の反原発運動の活性化に大いに寄与した。
 そのイニシアティブの自発性と波及効果は実に感動的であって、おそらく中島氏も小原さん自身も、たとえば、いま、小原さんらが進めている泊原発の運転凍結を求める署名運動と札幌行動の計画にみるように、高松に引き続き小原さんが呼びかけて「この指とまれ」の「直接結びあう産直方式」をとっていけばいい、と考えているのではないかと推察する。
 むろん、わたしは、これに反対ではない。むしろ、大賛成だ。
 だが、そのさい、「この指とまれ」が排他的なものでなく、「この指」以外の「あの指」があってもいいし、「あの指」以外のネットワークが同時に存在し活動してもいいはずだ、と考える。
 ということは、逆に言えば、一貫した持続的な情報または活動のさまざまなネットワークと並行して、無数の自発的で一時的なイニシアティブによる行動が共存することが望ましいということだ。
 多様なるものの共存と平和はエコロジーの教えの核心にある命題だが、それは、同時に、政治の根本にもかかわる命題である。
 そのさい、お互いに異なってある者の共存と平和は、必ずしも葛藤も矛盾もない静的なものであるのではなく、むしろ、逆に、それぞれの自発性と多様性を前提にしつつ、いい意味でお互いがお互いを刺激し活性化し合うような、いわば動的な均衡の上に成り立つ競争的共存であっていい。
 中島氏のイメージするような新しいイニシアティブによる「直接結びあう産直方式」と既存のネットワーク、あるいは、いわゆる「ニューウェーブ」と「オールドウェーブ」の間といわず、より一般的には、いかなる領域であれ、歴史における新しいイニシアティブと既成のイニシアティブないしはネットワークとの関係を考えるうえでも、もっとも重要なことは、お互いの尊敬の感情のうえに共存の倫理を打ち立て、これをそれぞれの行動の基本に据えることではないか、と考える。
 そこにこそ、お互いがお互いの力量と卓越を競い合う言葉の真の意味での競技の文化も成立するのである。
 しかし、誤解してもらっては困るのは、競技と戦争は異なるということだ。
 あるニューウェーブの人の口から「ニューウェーブのオールドウェーブへの全面戦争」といった言葉が出ていると人づてに聞いたが、むろん、これは、何かのパロディないしはジョークであろう。せめて、戦争のホコ先は原発推進派に向けたいものだ。
 この点、いわゆる「ニューウェーブ」の旗手の人たちが、自らを押し出さんとするのは大いにけっこうだし、新しいイニシアティブを発揮するのも大いに望ましいことだが、そのさい既成の反原発運動や市民運動のサークルやネットワークに競争心でなく敵慌心を燃やしたり、それを「障害物」「敵対者」視して、その否定や解体が新しい運動の発展にとっての課題だとは、間違っても錯覚しないように願いたい。
 むろん、そんなことですぐ消え去るようなネットワークでもしょうがないわけだが、これはきわめて重要な問題である。とりわけ、わたしたちのような1960年安保の安中ないしは安後派の世代の人間は、「既成のネットワークの否定」という考え方から直ちに「他党派解体」というその昔のある新左翼党派が掲げたスローガンを思い出してしまう。
 わたしの記憶に間違いがなければ、共産党とスターリニズムの否定から出発した日本の新左翼の諸党派が、暴力が暴力を呼ぶおぞましい内ゲバとテロルに引きずり込まれていった発端には、60年安保闘争後のある時期にある党派が叫んだ「他党派解体」のスローガンと実践があった。この新左翼の党派政治の負の教訓と後遺症は、それに直接かかわったか、遠望してきたにかかわりなく、わたしたちの世代の人間の記憶の底に焼きついており、動脈硬化した旧左翼はもちろんのこと、新左翼の党派政治をいかに回避するかは、少なくとも1960年代後半のベトナム反戦や全共闘ノンセクトラジカルに引き続いて、1970年代以降の反開発・反公害そして反原発などの運動に携ってきたわたしたちの世代の人間にとっては、暗黙の了解事項であった。
 それゆえに、反原発やエコロジーのサークルやネットワークはつくっても、党派はつくらなかったし、そのことが、また逆に、西欧の「緑の党」のようなエコロジー政党の結成に踏み切れない一因でもあったのである。
 このような歴史の暗部の想起は、いかにも「オールドウェーブ」の「オールド」たるゆえんを示すことになるのかも知れないが、逆にわたしなどの眼には、かりに暴力的形態をとらず、あっけらかんとした言い方であっても、新しい自分のイニシアティブ以外の既成のネットワークの否定という考え方の背後に、ある独善的で排他的な市民運動の某セクト版という危険な性格が重なって見えてしまうのだ。
 わたしの危惧が杞憂や錯覚であることをむしろ願う。

 わたしの考えでは、今日反原発運動や市民運動のサークルやグループは、労組や政党とは違った一定の組織と活動の原理に基づいている。それらは、いずれも、自主的参加・個人責任・対等の関係を特徴とし、サークルやグループが横に結びつく場合も、自立と連帯を建て前とするゆるやかなネットワークという形をとる。
 たとえば、わたしたちが中国地方で1983年に結成し6年の活動経験を持つ「中国地方反原発反火電等住民運動市民運動連絡会議」は、中国地方の住民・市民運動21団体でつくっているゆるやかなネットワーク組織で、広島に事務局を置き、情報と経験の交流を基本に、毎年各県を巡回しながら交流総会(合宿)を持ち、必要に応じて共通の課題に対する共同行動も随時組んでいる(拙著『原子力神話の崩壊』所収の「中国地方の住民運動ネットワーク」参照)。これなどは九州共同行動とはまたひと味違ったネットワークで、既成の労組や政党とひとしなみに扱ってもらっては困る。
 しかるに、中島氏は、「中島さんは、既成組織(労組と政党)と市民運動を区別しているようだけど、私にはその違いがわからないわ」との小原発言を受けるかたちで、いまある反原発運動や市民運動の組織と活動の在り方を「ヒエラルヒー構造」および「統一と団結」と呼び、それこそ「既成組織(労組や政党)」と同列に置いているが、これは明らかに間違っているのではないか。
 なぜなら、いまある反原発運動や市民運動は、それと明確に意識してかどうかは別として、垂直的で集権的な「ヒエラルヒー構造」ではなく水平的で分権的な「ネットワーク」を、そして、古く懐かしい「統一と団結」ではなく「自立と連帯」とでも呼ぶべきものを選択し追求してきたからだ。
 そして、わたしたちは、このような性格を持った今日の反原発運動や市民運動の組織と活動を、現在はもとより今後も引き続き必要であり、さらに拡充・発展させていかねばならないと考えている。むろん、いかなる組織や運動もつねに硬直化や形式化や惰性的な自己満足に陥りがちで、それゆえにこそ、たえざる自己脱皮や自己更新が求められている。
 のみならず、所期の課題や目的に照らして不要となった組織や運動は、思い切ってそれの解散・解消もおそれではならないことも認める。
 だが、中島氏がその解散提案で示したように、たとえば九州共同行動をはじめ既存の反原発運動のサークルやネットワークがそうだとは考えない。小原さんの「これまで運動やっている人は、運動しているか、していないかで線引きし区別しているが、そんなのナンセンスよ」とか「これまで運動してきた人は、原発を止めることより、運動自体を目的にしているとしか思えないわ、それじゃ原発は止まらないわ」も、この人なりのナイーブな眼からするひとつの観察ではあろうが、「それはちょっと違うんじゃないですか」と言いたい。
 なるほど、ご指摘の一面や傾向が運動によってはあるかもしれないが、小原さんにだって見えないものはあるはずで、一をもって百を推し測って全体をパッサリ切ってもらっては困る。
 そして、もし、小原さんや中島氏が現状において、あるいは、また、社会の組織や運動の在り方一般の問題としても、およそ一切のネットワークを否定し、すべてを「この指とまれ」式の自発的で一時的なイニシアティブにのみ還元するとしたら、わたしはそのような考え方にははっきりと反対であることを表明しておきたい。
 宇井純氏は「日本の公害と住民運動──反公害住民運動の過去・現在・未来」(社会運動研究センター「社会運動』No.53、1984年5月所収)なる論文で、日本の反開発・反公害・反原発などの住民運動のタイプとして、ひとつはピラミッド型の階層構造を持つ既成組織による組織体と、もうひとつは住民の有志集団による中心のない地域的なネットワーク構造の組織体とがあるとしたうえで、前者に比べての後者の長所と利点をつぎのように書いている。
 すなわち、開発事業側の切り崩しに対して、
 「しかしその時に中心のないネットワーク構造では、どこを切りくずし、どこを圧迫するかが決めにくい。また中心と思われる部分を弾圧し、あるいは抱きこんでも全体のネットワークは生きていて活動をつづける。
 経験的に、ネットワークの方が安定性、持続性が大きいことが広く知られるようになった
と。さらに、宇井氏は、この二つのタイプの組織体の由来について、
 「実はピラミッド型組織も、成員の平等な小集団のネットワークも、日本の伝統的文化、特に農村共同体の中に古くからあった形態である。農村共同体は平時のかんがい水の分配などにはピラミッド型の組織として機能したが、農民一揆などの非常の際にはしばしば村は相互に平等のネットワークを組み、領主などの権力に対抗した」
として、前者だけが強調され、後者の伝統が忘れ去られる近代の傾向を批判し、
 「住民運動におけるネットワークの重視は、失われた伝統の再発見ということもできる
と指摘している。
 わたしの考えでは、これはきわめて重要な指摘である。
 だが、ネットワークによる権力への抵抗の伝統は、日本の農民一揆や住民運動に限らない。
 コリン・ウォードが『現代のアナキズム』のなかで示唆しているように、「ピラミッドではなくてネットワーク」すなわち「自ら意志決定を行ない、自らの運命を制御する個人と集団のネットワーク」の形成と連合は、民衆が自らを組織し権力に対抗する行動の形態として過去のすべての民衆蜂起を特徴づけたばかりか、「埋もれ打ち棄てられてはいるが、常に現存しており、国家と並んで存在するものの現実化であり再編成」(ギュスタフ・ランダウアー)としての「人間の組織にいたる準備姿勢」という現代の新しい組織論の観点からも再評価されよう。

 わたしたちは、あらゆる領域で、現代の官僚制化した産業社会の諸制度にとって代わる「オルターナティブズ」(もうひとつの途)を探し求めているが、その来たるべきオルターナティブな諸制度にとってキイ・ワードとなる概念を「ネットワーク」に求めたのは、『脱学校の社会』におけるイパン・イリイチである。
 そこで、イリイチは、
 「私は望ましい未来がやってくるかどうかはわれわれが消費生活よりも活動の生活を意識的に選択するかどうか、またわれわれが単に製作と破壊、生産と消費しかできないような生活様式を維持するよりも、むしろ自発的で独立的でありながらそれでいてお互いに関連しあっていくことのできる生活様式を生み出すことができるかどうかにかかっていると信じている」
として、現存の制度のなかにも存在すると共に、わたしたちの選択の課題でもある、根本的に対立する二つの制度的なタイプを識別し提示している。
 すなわち、その一つは、多かれ少なかれ官僚制化した国家・軍隊・産業・学校をはじめ現代のほとんどの有力な制度に見られる「操作的制度」で、それらに共通な特徴は「強制的参加にせよ、サービスの選択にせよ、強圧的な性格をもっていること」であり、世界のどこの国でも「官僚制度」がこの「操作的制度」を発展させ助長してきた。
 他の一つは、現存するものでは電話交換所・地下鉄・郵便事業・公営市場や取引所・下水道や上水道施設・公園および歩道などに具体例を見るような、「利用者が自発的に使用することが特徴となる制度」すなわち「共生的」(コンヴィヴィアルな)制度で、それはより望ましい将来のためのモデルを提供する。
 これらの「制度スペクトル」の両極の中間にもさまざまな制度があるが、「二つの制度的タイプのうち右を選ぶか左を選ぶかという問題は、人間生活の本質にかかわる問題である」。
 とりわけ、イリイチが重視しているのは、「操作的制度」の右端に群がる一群の「近代的制度全体」を創り出す現代の学校制度とその神話的機能で、「個々人にとって人生の各瞬間を、学習し、知識・技能・経験をわかち合い、世話し合う瞬間に変える可能性を高める」ような網状組織の教育の「ネットワーク」を、学校制度の代替物として提案している。
 わたしの理解では、この「ネットワーク」あるいは「ネットワーキング」という考え方と行き方こそ、1970年代以降の反開発・反公害・反原発など現代の産業社会のさまざまな攻勢に異議を唱える諸運動のエコロジカルなコミュニケーションの在り方を──したがって、また、活動と組織の在り方を示すものであり、それは来たるべき社会の組織の原基形態をも同時に暗示するであろう。

5. 文化大革命という意味づけ


 『草の根通信』に載った高松行動をめぐる松下竜一氏の一連の印象的な報告記には、第一次行動の1月25日以降をどうするかの提案が小原良子さんから忽ち一蹴されて、「いやもう、ことごとく旧来の運動パターンがくつがえされて……これはもう一種の文化大革命ですよ」と悲鳴とも感嘆ともつかぬ声を挙げている九州共同行動の「有能なる事務局長」・中島真一郎氏の姿が紹介されていて、苦笑を誘う。
 そのあたりの雰囲気をより生き生きと伝えるのは、中島氏自身の「ターニングポイントとしての伊方」であって、なかんずく、そこにちりばめられている小原語録は新しい人の新しい感性をナマの言葉で伝えていて実に興味深い。
 中島氏によれば、小原さんと「原発なしで暮らしたい! 九州共同行動」の関係も「対等ですらなく上下関係(前者の下に後者が組み敷かれた主従関係)に近いもの」で、「この3カ月間、小原良子さんの流儀に従うか、パスされて別個にやるかの選択を常に迫られ続けて、なんとか最後まで従い続けることができたというのが正直な感想」だといい、闘いの重要な方向を決める局面になると、小原さんの顔色をうかがい、「姫、御決断を」と「御言葉」を待ったらしい。
 なんだか、今回の大闘争の大奥の舞台裏の一端をのぞくような思いだが、それはともかくとして、中島氏はこう書いている。
 「これまでの運動に一切妥協しなかった姿勢に接した私は、彼女が意図していたか否かは別にして、これまでの日本の民衆運動の在り方を根底からくつがえす『文化大革命』を実践していこうとしていると感じざるをえませんでした」
と。かくして、「文化大革命としての『いかた』の闘い」という中島氏の総括が出てくるという次第だ。
 すでに見たように、伊方原発出力調整実験抗議大行動には、女性の登場とイニシアティブ、情報のネットワーク活動と応急の行動への横断的結集、一人一人の意思と責任と対等の関係の重視、非暴力の思想と行動倫理、身振りと歌と踊りと大衆芸能に集中的に表現された民衆文化的色彩、など新しい文化の息吹きが感じられ、それも女性のリードによるところがきわめて大きかった。
 だが、この新しい文化の息吹きは、伊方の実験を機に大衆的規模で噴出したとはいえ、拙著『原子力神話の崩壊』の「女性・子供・脱原発──チェルノブイリ・ショックから伊方原発出力調整実験抗議大行動まで」で指摘したごとく、チェルノブイリ以後の脱原発をめざす各地の女性の抬頭と行動のうちに観察されたものでもある。
 その基調低音をひと言で表現すれば、グリーナムコモンの女性たちの行動についてレベッカ・ジョンソンが挙げた「非暴力、女たちの文化、そして一人一人の責任」(1983年8月京都の反原発全国集会での報告より)の3つに要約することもできよう。
 そこに、わたしは、今日の核兵器や原子力発電に象徴される男主導のハードな技術と政治に立脚したハードな文化をエコロジズムとフェミニズムを基調としたソフトな文化へと転換せしめる「文化の変革」を見る。
 このわたしのいわゆる「文化の変革」と中島氏の「文化大革命」とは、伊方闘争の評価をめぐって一脈相通じると同時にニュアンスを異にする部分がある。
 一脈相通じるというのは、いまわたしが触れたような主として女性のリードによる新しい文化の息吹きを伊方の闘いに見る見方である。ニュアンスを異にするのは、中島氏がこの新しい文化の息吹きと抬頭に、「実権派」に対する「奪権闘争」という中国の「文化大革命」を特徴づけた権力闘争のイメージを重ね合わせる点である。
 たとえば、中島氏が「今回の闘いは『先が後になり、後が先になる』ことを実践した文化大革命であった」とか、これまでの反原発運動が「学者主導、知識主導型」であり「専門家─大衆」、「活動家─大衆」、「中央─地方」、「男─女」、「現地住民─支援者」等の「固定化した一種のヒエラルヒー構造」を持っていたのに対して、今回の伊方の闘いがこの「ヒエラルヒー構造」をひっくり返す「文化大革命」であった、といった総括の仕方をするとき、わたしは色濃く中国の「プロレタリア文化大革命」における「奪権闘争」とのアナロジーを感じる。
 すなわち、そこには、中国の「文化大革命」における「プロレタリア革命派」の「実権派」に対する「奪権闘争」という図式をいわゆる「ニューウェーブ」と「オールドウェーブ」の関係に外挿し、固定化した「ヒエラルヒー構造」を持つ「これまでの反原発運動」が「新しい人々の反原発の行動への立ち上がりと主体的成長を阻む」制御棒あるいは「障害物」「敵対者」になっている、との認識があるが、このような認識は繰り返しになるが事実に反し危険でさえある。

 周知のように、中国の「プロレタリア文化大革命」は、毛沢東の発動と指令により始められたものであり、「文芸」領域での論争を口火に、「造反有理」を合言葉に「紅衛兵運動」を利用した「実権派」に対する「奪権闘争」として展開された。中国全土において「先が後になり、後が先になる」どころか、糾弾・迫害・破壊・武闘といった無法な暴力を伴う、それこそ「天と地がひっくり返る」ような「10年の動乱」を結果したことはよく知られる通りだ。
 それは、全世界を席巻したベトナム反戦運動と学生反乱と並んで、文字通り「革命的」な理念を掲げた「革命的」な運動として、1960年代末の政治的ラディカリズムを世界大で代表したが、その当初の「革命的」と見えた「理念」が「暴力が暴力を呼ぶ」おぞましい「現実」に反転したことを忘れるわけにはいかない。
 とどのつまり、その大混乱は、軍隊の力によってのみ収拾できたのであり、この「革命」が中国の民衆を本当に政治の主人公に据え直す「民衆革命」であったかというと、疑問とせざるを得ず、ポル・ポト派のカンボジア革命の悲劇的結末などと共に、批判的な検証を要する現代史の未決の課題だと思う。
 このような次第で、「文化大革命」の「革命的」理念の失墜と反転を目撃したわたしたちは、権力闘争としての「文化大革命」のアナロジーには二の足を踏みたくなるが、このようなアナロジーは、逆に反原発運動に権力闘争の図式を安易に持ち込んでしまう。しかしながら、反原発運動は、権力との闘いではあっても権力闘争ではなく、その反原発運動に「実権派」などどこにも存在しないということは、小原さんが「文化大革命」を発令した毛沢東や江青女史でないのと同じ道理で理解できよう。

結び 100万署名の重みを胸に新たなスタートを

 日本の反原発運動は、それぞれの原発立地に抵抗する個別の地域住民運動ないしは市民運動として20年以上の歴史を持ち、1970年代後半から『反原発新聞』の発行主体である「反原発運動全国連絡会」のような全国的ネットワーク、および、各地域の地域的ネットワークを形成し、スリーマイルとチェルノブイリの事故を経て、とりわけ、いまくわしく見てきた伊方原発の出力調整実験の中止を求める100万人署名と二次の高松行動で、個別地域住民運動と既成の運動パターンの限界を突破して反原発運動の地平を一挙に拡げた。
 高松行動に続く4月23、24日の反原発全国集会実行委員会主催の「原発をとめよう!一万人行動」は、高松行動とは別個に企画されたものであったが、わたしたち実行委参画者の予想をはるかに上回る2万人以上もの人びとが全国津々浦々からはせ参じて日比谷公園と銀座の街頭を埋め尽くし、チェルノブイリ以後の市民意識の劇的変化を背景に、急速に高まっている反原発・脱原発の巨大なうねりを目に見えるものとして示した。
 それは、文字通り、日本の反原発運動史上における最大規模の集会とデモンストレーションとなった。政府と業界は、この反原発運動の空前の高まりを、ひたひたと押し寄せる民の声と民の力として、まさに原子力産業存続の危機として受け止め、大手紙をはじめマスコミの紙面などを買収して必死のPR攻勢と巻き返しに転じたが、原子力産業の死期が近づきつつあることは確かだ。

 わたしは、二次の高松行動を通して新しい反原発運動の主体と潮流の登場を実感し、この新しい人たちとこれまでの反原発運動の担い手たちとが合流し協力し合うならば、日本の原発を廃棄へと追い込んでいく道も確実に開ける、との大いなる希望を胸にして帰った。
 と同時に、その高松行動の場で、新しい運動の一部の旗手と古くから反原発運動を進めてきた人たちとの間に、署名運動の発端にさかのぼって感情的な行き違いというか齟齬のようなものが早くも出ていることを耳にし、少なからぬ危惧の念をも抱かざるを得なかった。
 そして、そのような齟齬は、反原発・脱原発の想いと願いを共通にする限り、お互いに乗り越えられるべき性格のもので、それも言葉によってではなく、現実の行動そのものが解決してくれるだろう、と期待していた。
 当面、新旧の反原発運動の大合流が実現する場としては、4月に予定されていた東京の「原発をとめよう!一万人行動」しかなく、今回の〝反原発・西南の役〟の主役たる九州・四国勢が大挙して首都に攻めのぼってほしいと願ったわたしは、高松から帰るや、さっそく、一方で、多少とも面識のある松下竜一氏や平井孝治氏や中島真一郎氏といった高松行動の中心的担い手の人たち何人かに私信をしたためると共に、他方で、わたしもその一員となっていた反原発全国集会実行委員会の事務局に対して、高松行動の余勢をかった九州・四国勢の登場の受け皿として、出力調整実験の大分散会を企画に組み込むよう提案した。
 これを受けて実行委事務局ではとりあえず大きな収容能力のある会場を押さえたが、肝心の〝西南の役〟の主役たちが「今回の(高松)行動は4月の一万人集会とまったく無関係である」(2月13日の打ち合わせ会議)ことを早々と確認し、2月29日の東京・対通産省行動で伊方原発の出力調整実験をめぐる一連の行動に終止符を打った。
 いかにも、伊方原発の出力調整実験をとにかく止めさせることを直接の動機とし目的とした応急の高松行動と、チェルノブイリ以後全国各地で高まっている反原発・脱原発の声をひとつの具体的な目に見える形にして突き出し、国と産業界の原発政策に決定的な方向転換を迫っていこうとの意図のもと、事前に実行委員会を結成し準備に時間をかけて設定された4月の東京行動とでは、行動の性格が違っていた。
 それゆえ、高松行動を呼びかけた小原良子さんや彼女を補佐した呼びかけ団体の世話人の人たちが、高松行動と4月の東京行動をつなげる考えを排したのも一理あるところで、伊方の闘いに賭けた彼女たちの思いと行動の深さをそこに見ることもできた。
 だが、それこそ歴史の妙というか、実際にはここにも、非連続の連続とでも称すべきある種の連続性が存在したことも見落してはならない。
 すなわち、高松行動の呼びかけ人や呼びかけ団体の中心的担い手の人たちの意識や意図とはべつに、より深く広い民衆的な場所と次元で、4月の東京2万人行動は、これまで反原発運動にかかわってきた人たちと新しく登場した人たち──いわゆる「オールドウェーブ」と「ニューウェーブ」の人たちが、お互いの信頼感と解放感を共有しつつ、新旧の大合流を現実に実現した場となったのであった。
 たとえば、わたしたちも山陰および中国地方からパスを連ねて大挙参加したが、そこにはいつもの顔触れに加えて新しい人たちの顔が数多く、第1日目の夜は本郷の宿で交流会を持ち、交歓と歓談は酒をまじえて深夜に及ぶ、という次第であった。
 高松行動から東京2万人行動にかけて止めようもなく拡大する反原発運動の火の手に、政府・当局と原子力業界が深刻な危機感を抱き、積極的な対抗策として一大PR攻勢に転じたことを指摘したが、この機に重要なことは、いわゆる「ニューウェーブ」と「オールドウェーブ」のせせこましい区別だてを超えて、原発に不安と不信を感じている広汎な民衆の声なき声や声ある声に、わたしたち自身が本当に謙虚に耳を傾け、生活者の地平からその声を声として汲み取っていく気持で行動することだと思う。
 この点で、わたしたちは、小原良子さんらが呼びかけた伊方原発の出力調整実験の中止を求める署名に応えて、全国各地から寄せられた100万を超える署名の重みをあらためてかみしめるべきではなかろうか。
 わたし自身にしたところで、「これを四国電力に出せば本当に実験をやめてもらえるんですね」と、あの山陰の1~2月の雪で道路も凍てつく季節、二次の高松行動日のそれぞれに間に合わせようと、家族・隣人・主婦仲間・友人知人が必死の思いで署名を集め、一枚でも、否、一人分でも多くと、高松に発つ直前まで手渡しで持ち込んでくれたその人たち一人一人の顔を、決して忘れることができない。
 初めの方で引用した「ああ、本当の運動が始まったな……もはや、反原発の運動を主導するのは、まぎれもなくこれら女性達である」との松下竜一氏の言葉を、わたし自身が本当に身をもって実感したのは、実にこの時であって、新しい人たちは突如として高松で登場したのではなかった。
 わたしたちが地域で企画する講演会や学習会やビデオ講座や映画会など大小の取り組みの参加者にも、チェルノブイリ以後、とりわけ昨年あたりから、半分から三分の二近くは新しい人という望外の喜びを伴う一大異変が生じ、わたしたちはこれら新しい人たちとの出会いを大切に、この新しい人たちの感性や行動力に学びつつ、この出会いを何とか原発の廃棄に向けた営為につなげたいと努力しているところだ。
 おそらく、これに類する状況やもっと進んだ状況は全国各地で見られると確信する。
 そして、わたしは、このことだけはどうしても言っておきたい。あの100万の署名に参画した人たちの何人かが二次の高松行動に集まったのだということ、東京2万人行動に参加した人たちの大部分は伊方の100万署名に協力した人たちだったということ、したがって、これらの行動の背後には100万署名の重みがかかっているのだということである。
 これに関連して言わせてもらうと、わたしは二次の高松に引き続く2月29日の東京・対通産省行動には参加できなかったし、その行動の意義を否定する者ではないが、ひとつだけ、きわめて重要な問題について、この行動を呼びかけ場を設定した人たちに危倶と苦言を呈しておきたいことがある。
 それは、『朝日ジャーナル』(1988年3月11日)で眼にした「『反原発ええじゃないか』が霞が関にやってきた!」の記事の一部
「一方、出力調整実験反対署名の用紙が、庁舎の窓や柵に洗濯物よろしく張られ、階段に並べられてゆく。その間を竜踊りが練り歩いて、2月の高松の四電本社前の光景が再現された」
に関係する。
 人づてに聞いた話では、署名用紙の一部は通産省の窓から庁内に投げ込まれ、守衛か誰かの手でゴミ箱に捨てられたという。
 いずれも、わたし自身が目撃したことではなく、記事あるいは人づての伝聞によるので、もし間違っていたら訂正したい。そこで、もし、それが事実であったとしたら─との仮定法のかたちで言わせてもらう。
 もし、本当に署名用紙の一部でも、さきの記事や伝聞の伝える通りだったとしたら、かりに結果として回収されたとしても、それらの署名用紙の扱いは、何と理屈をつけようと、その署名用紙に書き込んだ人に対して申し開きができず、倫理的に到底容認できない行為である。
 考えてもみよう。
 あの署名用紙の一枚一枚、否、一人一人は、伊方の実験中止を求めて四国電力に提出するために署名したはずである。そこには、文字通り100万人の署名者一人一人の重みがかかっている。その署名用紙の一枚一枚、否、一人一人分といえどもおろそかに扱ってはならない。しかも、その一枚一枚、否、一人一人の署名は、呼びかけ人の私物でも、呼びかけ団体の私物でも、わたしたち仲介役を果たした団体や個人の私物でもない。それゆえ、いかなる名目であれ、それを私物化して手元に留保したり、別の場所に持ち出したり、他の目的に転用するようなことは、誰にも許されないはずだ。
 さきに、わたし自身の身近な周辺での署名集めの一端を報告したが、それらは一枚一枚、否、一人一人の署名人のものとして大切に扱われ、まさに畏敬の念をもって、しかも署名集約者の責任において、四国電力に提出されねばならないはずである。
 わたしたち自身が署名一枚一枚、否、一人一人の重みを受けとめないで、どうして電力会社にその重みを突き付けることができようか。
 もしかすると、わたしたちは、このことをうっかり見落していたのではなかったか。
 しかり、わたしたちの行動には、どこかに重大な盲点があったのである。
 このことを考えるとき、わたしたちは、いわゆる「ニューウェーブ」と「オールドウェーブ」の別を超えて、100万署名の一人一人の重みを胸に、本当に謙虚な気持になって、この間の一連の行動を反省し、高松行動と東京2万人行動で切り開かれた反原発運動の地平の足元を踏みかため拡げていかねばならない、ということに思い至る。
 これは「ニューウェーブの流儀」や「古い運動体質」どころの話ではない。
 人を道具化する今日の国家や産業制度に抗議するわたしたち自身が、それと意識せず、どこかで人を道具化していたら、どうして、その国家や産業制度に異議を唱え、それを変革していけるだろうか。
 わたしたちは、「ニューウェーブ」と「オールドウェーブ」のせせこましい区別だてにこだわったり、一部にある感情的な中傷や反目に神経を消耗しているときではない。
 繰り返しになるが、他者と世界に対する畏敬の感情(アイドス)と世界をあるがままに見る眼(テオリア)を決して見失うことなく、誰しも陥りがちな倣慢(ヒュプリス)と迷妄・不和(アテー)を警戒し、お互いに学び合い、足らざるを補い合いつつ、本当に原発を止め、今日の国家と産業制度の大転換をはかっていくことが求められているのだと思う。

 伊方の闘いについて、中島真一郎氏は、「今回の闘いは、無数の人々によって担われ、闘われてきた。そのことを理解した上で、……」と前置きしつつも、「それでも私には、今回の闘いは『小原さんによって始まり、彼女によって闘われ、彼女によって終わった』と思われて仕方がない」と書いた。
 それが一面の真実であることをわたしもまた認めるにやぶさかではないが、同時に、わたしは、それを氷山の一角のように支えるはるかに膨大な水面下の真実にも注意を換起したい。
 一般に、歴史をもっぱら指導者の語録や行動や側近の政治においてのみ語り伝え、その歴史を本当に水面下で担ってきた無数の無名の民衆の一人一人の存在の重みを忘却するとき、それは歴史の皮相で一面的な理解になる危険をはらむ。
 指導者と民衆の関係は、孫悟空と彼が息を吹きかけると掌に無数に輩出する小悟空の関係ではない。英雄的な無数の民衆の偉大な行為が、それに応え得る器量を持った指導者を英雄的たらしめる。
 このような観点からは、中島氏の総括を裏返してこう言い直すことも可能であろう。
 今回の闘いは、「小原さんに始まり……」という一面を持つことを誰もが否定し得ないとしても、その呼びかけ人の個性や意図に還元できない「無数の人々(の思いと行為)によって担われ、闘われてきた」という事実を決して忘れてはならない、と。
 それは、実際、100万人の署名者の一人一人の思いを背景にした署名行為と共に始まり、数千人もの人たちが参加した二次の高松行動を経て、しかもいまだ終わっていないのである。

(追記)
 本稿の執筆に当たっては、伊方闘争についての中島真一郎氏の総括論文「ターニングポイントとしての伊方」(『原発やめてええじゃないか』所収)を全面的に参考にさせていただいた。
 本文でも書いたように、この中島氏の総括は、いわゆる「ニューウェーブ」に関する最も重要な論文で、もし中島氏がそこで「ニューウェーブ」なるものの自己定義と考え方を鮮明に論理化していなかったら、そして、その自己定義と論理化に異論と批判を抱くことがなかったら、『クリティーク」の編集者の依頼に応えて、本稿のようなかたちでわたし自身の見解を対置して展開することはなかったであろう。
 わたし自身の自負としても、本稿はいわゆる「ニューウェーブ」の自己理解と反原発運動の今後の在り方にとって、誰もが言いたくて言えない、そして本当ははっきりと言わなければならない、きわめて重要なことを、あえて書いたつもりである。
 ここで、わたしは、中島論文に同意できる点は同意し、見解を異にする部分については遠慮なく異を唱え、その理由の説明には委曲を尽くしたつもりだが、これが建設的論争の試みとして中島論文の一面性と問題点をわたしなりにただし、今後の反原発運動の進め方をめぐる論議と行動に少しでも役に立てば、と願っている。
 末筆ながら、さきの総括論文を校正ゲラの段階でわざわざ送付していただいた中島氏のご厚意に、この場を借りて謝意を表したい。

 なお、当初の構想では、反原発運動の高まりを警戒し中傷を加えている「当局・業界=共産党=吉本隆明」の三位一体を批判する予定であったが、紙数の関係で割愛した。 これについては、本稿を含めて青弓社より今秋刊行予定の著書で、くわしく展開する。
 それは、反原発運動内部の建設的論争とは、次元を異にする問題でもあるからだ。

(どい・よしひら)
*        *                          
ブログ管理者注1:
 土井淑平氏は、
 『放射性廃棄物のアポリア ― フクシマ・人形峠・チェルノブイリ』(農文協、2012年3月)を上梓しております。
 その、第三章「右であれ左であれわがふるさと ― 日本の原子力開発と反原発運動の歴史」ー6「ニューウェーブとオールドウェーブ」で、今日の時点でもう一度ニューウェーブ論争について再考しておられます。
 これも一読に値いたします。是非ご購読下さい。
 反原発運動にかかわる土井氏の近年の活動と見解は、以下の公式ホームページを参照されてください。
 「土井淑平 活動と仕事」 http://actdoi.com

ブログ管理者注2:
 本テキスト内の太ゴチック文字は、クリティーク12誌掲載時のままです。
 又、
ブログ管理者の判断で、重要な引用文や箇条書きの部分は改行・段落・「網掛け」をし、読みやすくさせて頂きました。

ブログ管理者注3:
 本ブログの「「ニューウェーブ」と「オールドウェーブ」を超えて」記事内で使用した画像は、クリティーク12誌での同氏論文とは無関係で、ブログ管理者の判断よる挿入であることをおことわりしておきます。