2008年10月25日

Rongo&Soroban

全然、更新できていなくて
大変申し訳ございません。

金融業界の「100年の一度」
の大逆風の中、新しい事業
船出の準備などでバタバタしています。

とりあえず、ブログ更新の代わりに、
日経ビジネスオンラインで新コラム
始めましたので、そちらを時々覗いて
ください。

どうもありがとうございます!

2008年06月13日

しばらくお休みしています

すみません・・・

いずれ、「青淵百話」で再スタート
したいのですが、現在、新事業の
立ち上げ等でバタバタしているので、
もうちょっと休ませてください。

私が別のブログにご関心がある方は、
こちらへどうぞ ↓

http://alt-talk.cocolog-nifty.com/alternative/

2008年05月08日

明治政府仕官時代 四、廃藩置県の断行と大西郷

大西郷の偉大な人物である事は今更言うまでも
  ない事であって、私など平素大いに尊敬して
  居ったのであるが、至って寡言なお方で、
  議論などに際しても結論ばかりを語られ、
  結論に到達すつ迄の経路などに就いては
  余り多く口を利かれなかったために、思慮の
  到らぬ人々からは往々にして誤解せられたり、
  その真意が果たして何れの辺にあるか諒解
  せられなかったしたものである。

  井上大輔に、「今日西郷さんが戦争が足らぬなど
  妙な事を言われたが、一体あれはどういう意味
  でしょうか?」と御聞きしたところが、井上候は
  「サア、俺にもどうも分からん。西郷はよく
  とぼけた様なことをいう男だ。だがアレには
  何か深い意味があるに違いない」と首をかしげて
  居られた。

  何でも三四日経ってからの事であるが、井上大輔が
  突然「オイオイ渋沢君、やっと分かったぞ」と
  言われた。

  「西郷は万難を排して廃藩置県を断行する決心を
  固めて居る。処で、これを断行するに就いては、
  当然諸藩の中でこれに反対を唱える者がある
  だろうし、或いは乱を起して再び戦争になる様な
  ことがあるやも測れぬと憂慮し、それでまだ戦争
  が足らぬと言ったらしい。」

  私は流石に大西郷は先見の明ある偉大な人物で
  あると、今更ながら敬服したのであった。廃藩置県の
  大事業が促進されたのも、実に大西郷のこの決心が
  与って力あったのである。


この時代と比べて、現在の「道州制」導入の議論に
「戦争が足りぬ」という声は聞こえてこなく、
偉大な人物も見えてきません。

2008年05月06日

巻之五 改正掛り

省中は只雑沓を極むるのみで、長官も属吏も
  その日の用に逐われて何の考えをする
  間もなく一日を送って、夕方になれば
  サア退庁という姿である。

  この際大規模を立てて真正に事務の改進を
  謀るには第一その組織を設くるのが必要で、
  これらの調査にも有為の人材を進めてその
  研究をせねばならぬから、今省中に一部の
  新局を設けて、およそ旧制を改革せんと
  する事、又は新たなに施設せんとする方法・
  例規等はすべてこの局の調査を経てその上
  時の宜しきに従ってこれを実施する、という
  順序にせられたいことでありますと述べた
  処が、大隈も大いにこの説に同意の様子で、
  実は拙者も雑務に騒動するのみでは充分の
  改良が出来ないから、改正掛りを置きたい
  という考えを以って居たが、幸に足下の心付
  もあるから速やかにこれを置くことに取計ろう
  と明言しられました。

  さてその改正掛の役員は多くは兼任の人々で、
  租税司からは自分が命ざれ、監督司からも
  両人、駅通司からも何人という姿で夫々任命
  になり、自分がその掛長を命ぜられて改正局
  の事務に取掛ることになりました。

  先ず第一に全国測量の事を企て、随って度量衡
  の改正案を作り、又租税の改正と駅伝法の改良  
  とは尤も緊急の問題であるから、勉めてその
  法案の調査に注意し、その他紙幣の制度、縁制の
  改革又は鉄道布設案、諸官庁の建築等まで、その
  緩急に応じて討論審議を尽し、次第に方案を
  作ったことである。

  
栄一が大隈重信からの大蔵省の就任には条件を
付けました。それは、いまでいう「構造改革局」
の設置。まさに新しい時代の、新しい政府ですから、
ご覧のとおり、かなり幅広い国のインフラ造りを
実行することになります。

そして、結局、自分がその新しい局の執行を仕切る
ということになりました。

2008年05月01日

巻之四 日本初の主税局長

さて日本に着してみると、誓時でも幕府の人
  となって海外旅行の留守中に主家が顚覆した
  次第であるから、江戸が東京となったばかり
  でなく、百事の変革は誠に意外で、幕臣は
  恰も喪家の狗の如く、横浜に着した時にも
  その取締の官吏から種々身分を尋問せられ、
  見るもの聞くもの不愉快の媒ならざるはなし
  という有様でありました。

  静岡を出立してその年の十二月初旬に東京へ
  着き、太政官へ出ると、思いも奇らぬ、大蔵省
  租税司の正という職を仰せ付けられた。

  早く御免を願って静岡へ帰ろうと決心はしたが、
  その四五日は風邪気で、石町の島屋という旅館
  に平臥していて、十二月七日に始めて出勤した
  けれども、固より不経験の職掌だから妙案も
  奇想も出よう筈はない。

  先ず大蔵省で権勢のある人は誰々であるかと
  尋ねてみると、卿というは伊達の老公で、
  これは門閥によってこの位地に居られるもの
  と推察した。その次は、大輔少輔で各一人ずつ、
  大隈重信と伊東博文という人であった。

  大隈がいうには、辞職なぞいわずに、駿河の事務を
  片付けてその上で十分大蔵省に勉励せらるるがよい、
  足下が事を知らぬというけれども、知らぬといえば
  誰でも実験のあるというものは一人もない。
  <中略>是非とも力をあわせて従事しろと懇切に
  説論せられて、今更強いて辞退も出来ぬ事になった
  から、然らば自分にも愚説がある、それを御採用
  あるようにしたいといって、ここで始めて大蔵省に
  奉職するという意念になった。


誰も実践の仕事を知らないからと、今でいうと
財務省主税局長に栄一は任命されましたが、
それなら、自分がやりたいことがあると
交渉してからポストに就きました。

2008年04月29日

巻之三 攘夷論者の変身

一橋公が将軍家相続ということに決して、
  その事を藩中へ仰渡されたから、自分等も
  その事を承知したが、誠に歎息といおうか、
  残念といおうか、その時の心中は今考えても
  実に失望の極でありました。

  回想すれば、一橋家へ仕官して既に二箇年半の
  歳月を経、言も行われ説も用いられ、辛苦計営
  していささか整理に立至った兵制、会計等も、
  皆水泡に帰したのは実に遺憾の事であった。

  もうどうも仕方がない、いよいよ元の通り
  浪人になると覚悟を決めたのはその年の
  十一月頃でありました。

  然る処その月の二十九日に、原市之進から、
  急に談ずることがあるから来てまいれという
  使者が来た。直にいって見ると、別の事では
  ないが今度千八百六十七年の仏国の博覧会に
  付いて、各国の帝王も皆仏国へ会同される
  趣だによって、日本からも大君の親戚を派遣
  するが好いと仏国公使が建言したから、種々
  評議の末、水戸の民部公子を御遣しになる
  ことに決した。

  就て上の御内意には、篤太夫こそこの任は
  適当で、未来の望みも多いであろうとの
  御沙汰であるから、<中略>速に御受けせられ
  よと、降って来た様な話し、自分がその時の
  嬉しさは実に何とも譬うるに物がなかった。

  さて外国へ往くと決した以上は、これまで
  攘夷論を主張して外国はすべて夷狹禽獣で
  あると軽蔑して居たが、この時には早く
  外国の言葉を覚え、外国の書物が読める
  ようにならなくちゃいけないと思った。


数年前まで倒幕を企んでいた若き攘夷論者の
変身の瞬間です。

2008年04月27日

巻之二 倒幕の断念

志はもっともだが、その志を天下に表白する
  ことも出来ず、又万分の一を尽くすことも
  出来ずに単に流賊一揆と見做されて幕史に 
  とらわれて刑を受けるということも
  好ましくない。


高崎城の乗っ取り、横浜外国人居領地の焼き払い
という無謀な計画を断念したときの話です。

目的達成のためには、手段に捕らわれてはならない
ということでしょう。

2008年04月25日

巻之一 読書が好きな少年

自分が書物を読み初めたのは、たしか
  六歳の時と覚えています。最初は父に
  句読を授けられて、大学から中庸を読み、
  丁度論語の二まで習ったが、それから七八歳
  の時、今は盛岡に居る尾高惇忠に習う事になった。

  堅い書物が面白く会得が出来たという訳ではなく、
  只自分に面白いと思った、通俗三国史とか、
  里見八犬伝とか、又は俊寛島物語という様な、
  稗官野乗の類が至って好きであったのであります。

  尾高のいうには、それは最もよい、読書に働きを
  付けるには読み易いものから入るが一番よい、
  どうせ四書、五経を丁寧に読んで腹にいれても、
  真に我物になって、働きの生ずるのは、段々年を
  取って世の中の事物に応ずる上にあるのだから、
  今の処では却って三国史でも八犬伝でも、何でも
  面白いと思ったものを、心をとめて読みさえすれば、
  何時か働きが付いて、外史も読める様になり。

  丁度十二歳の正月、年始の廻礼に、本を読みながら
  歩いて、不図、溝の中へ落ちて、春着の衣裳を
  大層汚して、大きに母親に叱られたことを覚えて
  います。


私も、子どもの頃に読むことが好きだったようです。
ただ、小学二年生に渡米して、英語の世界で教育を
受けたため、大学を卒業するまで、日本語の勉強を
したことありませんでした。

ただ、今となって論語をかじったたり、明治大正時代
の書物にも目を通せるようになったのは、アメリカ時代
でもっとも読み易い日本語を常時に楽しんでいたからだと
思います。それは、漫画でした。

2008年04月23日

はしがき

みじかしと悟れば一瞬にもたらず、
  ながしと観ずれば千秋にもあまるは、
  げに人の一生にぞありける。

  おのれ別に人にすぐれ才芸あるにあらねど、
  ただこの年月、一つの真ごころをもて、
  万ずの事にあたりつれば、かの一信敵方軍の
  古諺の如く、何事につけても、さのみ難きを
  覚えず、何わざをとりても、さばかり疲れは
  とらざりき。



栄一の長い人生には、疲れがなかったように
感じますが、その秘訣は真心だったようです。


2008年04月21日

尭曰第二十  3 天命・礼・言

人生のこと、貧富・貴賤・窮達・得失
  みな天命あり、人力の如何ともなし難き所。

  もし礼を知らざれば、一事に遭うごとに、
  左支右吾。進退度なく、世に立つこと
  能わざるべし。

  言ある者未だ必ずしも徳あらずといえども、
  これを舎て、以て人を知るなし。国を治むる
  の本、人才を得るより先なるはなし。ゆえに
  君子また言を知るを貴ぶ。


人生において自分の天命がわかる
ようにならなければならない。

礼が分からないようであれば、
世に立ってはならない。

言葉が分からないようであれば、
人を知ることができない。



 『論 語 講 義』 お し ま い

2008年04月19日

尭曰第二十  2 五美四悪

子張さらに五美を問う。子曰く
  「恩恵を民に施すも、己の私財を費ず。
   民を使役すれども、民喜んで事に趣き、
   毫も上に怨みず。
   君子は欲するる所あるも、あえて貪らず。
   舒泰自得するも、あえて驕り高ぶらず。
   態度威重あるも、猛烈近づくべからざるが
   ごとくならず」と。

  子張また問う「四悪というや」と。子曰く
  「教えずして殺す、これを虐と謂う。
   戒めずして成るを視る、これを暴と謂う。
   令を慢くして期を致す、これを賊と謂う。
   猶しく人に与うるに出内の吝かなる、
   これを有司と謂う」と。

  政治家となりて、五美を遵奉し、
  四悪をへい去して、遺算なければ、
  その能事終る。必ず国治まり民安ならん。


五美
〔韻魴辰爐韻鼻⊆分は質素に。
⊆分が骨を折っても怨みとせず。
5瓩瓩襪箸海蹐△辰討發爐気椶蕕此
い罎辰燭蠅靴討い討盥發屬蕕此
グ匕靴あっても烈しくない。

四悪
ゞ気┐發靴覆い任い道Δ垢海函
注意しないのに成績を調べること。
L仁瓩魎砲笋にしているのに期限までに
 追い込むこと。
い匹Δ賛佑僕燭┐襪箸いΔ里法⊇个憩れを
 渋ること。



[この四つを言うのだ。]」
[この五つを言うのだ。]」子張が「恵んでも費用をかけないとはどういうことですか」と言うと、先生は言われた、「人民が利益としていることをそのままにして利益を得させる、これこそ恵んでも費用をかけないことではなかろうか。自分で骨折るべきことを選んでそれに骨を折るのだから、一体誰を怨むことがあろう。仁を求めて仁を得るのだから、一体何を貪ぼることがあろう。上に立つ者が[相手の]大勢小勢や貴賎にかかわりなく決して侮らない、これこそゆったりとしていても高ぶらないことではなかろうか。上に立つ者がその服や冠を整え、その目の付け方重々しくして、いかにも厳かにしていると、人々はうち眺めて恐れ入る、これこそ威厳があっても烈しくないことではなかろうか。」子張が言った、「四つの悪いこととは何々ですか。」先生は言われた、「


2008年04月17日

尭曰第二十 1 民食喪蔡を重んずる

武王の重んずる所は、民と食と喪と蔡との
  四つにあり。民は、邦の本、民なければ国なし。
  最も重んぜざるべからず。

  食を重んずるは、食は衣住をかねていう。
  食と衣と住とは、民命の繋がる所、これ
  なければ民、存すること能わざればなり。

  喪を重んずるは、およご人、生あれば死あり。
  死は人の終焉なり。これを重んずるは、生を
  重んじ、哀を尽くす所以なり。

  祭を重んずるは、人の遺徳功労を追憶する
  所以なり。終りを慎しむと同時に、遠きを
  追って以て人情を厚くす。

  みな聖賢施す所の善政なり。


残念ながら、この四つは現在の日本の政治の
特徴とは言えないですね。数で政権を取る
(正確にいえば、相手の足を引っ張る)こと
しか重んじていないように見えます。

2008年04月15日

子張第十九 25 それ及ぶべけんや

子貢曰く「道を学ぶ君子は言を出だすを慎む。
  一言以て世人より見識ある智者とせられ、
  一言以て世人より見識なき不智者とせらるるがし。
  ゆえに言語は慎しまざるべからざるなり。」

  「しかして夫子生きて世にあれば、人民みな
  以て自己の光栄となし、一旦死するや、
  人民みな哀しむこと考妣を喪うがごとくす。
  夫子徳化の人に及ぶことそれかくのごとし。
  これ如何ぞそれ及ぶべけんや」と。

  子貢自ら知る明あり。かつ夫子に親炙して、
  聖徳を仰ぐこと年あり。


弟子が子貢に対して、なぜ「先生が大先生より優れて
いないといえるのか」という問いかけに、子貢は謙虚に
大先生に敬意を示していることに、栄一は評価しています。

儒教は、「秩序」や「上下関係」を重視するといわれますが、
その特徴がここに表れているようですね。

2008年04月13日

子張第十九 24 飛び踰ゆべからず

「たとえば他人の賢者は、尋常の人より
  ちょっと高き丘陵のごときものであるから、
  これを飛び越えんとすれば、随分飛び越え
  られぬこともない。されど仲尼の聖徳は
  日月の高き懸れるがごときもので、とても
  飛び踰ゆべからず。」


丘は越えることはできるかもしれないが、
日月のように高いものは、とても越える
ことができるものではない。

それほど素晴らしい徳の持ち主であるので、
軽視してはならんよ、と。

2008年04月11日

子張第十九 23 牆(かき)の高さ

「これを宮殿の牆壁に譬うれば、
  賜(し)の牆(かき)は肩だけしかない
  低い牆(かき)である。ゆえに外より牆内
  にある宝家お飾りつけでもなんでも、一目
  で洞見せられてしまう。

  これに反して夫子の牆は高さ数仭(すうじん)、
  ゆえに外より家庭を窺うこと能わず。その門を
  見出して入るにあらざれば、牆内にある宗廟の
  美観も、百官の殷富も見るべからず。」



いくら美しくても、すぐに中身を見られてしまう
ような身分と、中身の全てがなかなかまで見ること
ができない美しさには差があるということでしょう。

全ての「情報開示」できることが、必ずしも「善」
とは限らない?

2008年04月09日

子張第十九 22 賢者は見る所大

「賢者は見る所大、ゆえによくその
  大なるもの者を識り(しり)、
  不賢者は見る所小、ゆえによくその
  小なるものをな識る。」


優れた人の視野は広く、大きなものまで
目に入いって知ることができますが、
そうではない人の視野はせまく、知れる
範囲が限れているということでしょう。

2008年04月07日

子張第十九 21 君子の過ち

君子は位を以ていう。
  その過つや日蝕月蝕のごとし。
  人民みなその過ちを監視す。

  その改むるや、光明もとのごとし。
  人民みな喜んでその徳を仰ぐ。

  小人は過ちて改めざるのみならず、
  ついに文飾してその非を是となす。


偉い人(君子)の過ちは、日食や月食の
ようにはっきりと目立つ存在。過ちを
起さないから偉いのではなく、その過ちを
いかに改めるかが大切ということでしょう。

一方、それほど目立たないかもしれませんが、
その過ちを隠してしまうのが、凡人(小人)です。




2008年04月05日

子張第十九 20 不善をなし後世これを憎む

「紂【ちゅう】、不善をなし、以て天下を喪う。
  後世これを憎むことはははだし。みな天下の悪を
  以てこれを紂に帰するなり。」

  ことわざに「逃げた鰻魚は大きい」というが、
  いかにも人の感情は、そうあるようである。
  善行の人死すれば、その人の生前の善行の
  量よりも、十倍も二十倍も大きい善行があった
  がごとくに人に思われ、これが反対に悪業の
  人が死すれば、その人の実際の罪障よりも
  百倍二百倍の邪悪があったように世に思われる
  ものである。

  ことに死人は口なし。


英語のことわざでは「Hindsight is 20/20」と
言います。つまり、既に過ぎたことであれば、
はっきりと見える。そのとき、そのときの判断が
あれほど難しかったのに。

ただ、もしかしたら、われわれは既に過ぎたこと
でさえ、良く見えていないのかもしれません。

自分の生前の善行について、栄一は、どれくらい
後世が過剰に評価しているじゃないの、と
思っているのでしょうか・・・

2008年04月03日

子張第十九 19 官吏に相応しき教訓

「今や世乱れ、上、政を失い、
  苛斂誅求【かれんちゅうきゅう】をこととし、
  人民上を信ぜず、とたんに苦しめる余り、
  自然刑辟に触るる者多くなれり。

  ゆえに、刑獄を治してその実情を得れば、
  すなわち犯人を哀矜【あいきょう】せよ。

  あえて手柄顔をして喜ぶことなかれ」

蓋し獄を慎しみ仁恕を旨として軽きに
従え意なり。誠に刑獄の官吏に相応しき教訓
というべし。


苛斂誅求【租税などをむごくきびしくとりたてること」

2500年前の「いま」、100年前の「いま」も、
今の「いま」と変わらないところがあるのですね。
やっぱり、と言うのか。哀しい、と言うのか。

しかし、よくぞ、言っていただきました!
という感じがします。

官吏は、手柄を取ることだけを喜びとするな。
米国のスピッツァーさんも、最近、このような思想に
気づいたことでしょう。

2008年04月01日

子張第十九 17 天真の情

「およそ人の行為は、自らその情を窮め尽くす
  ことあらず。必ず多少の修飾粉粧を仮るを
  免れず。独り粧飾を仮らずして天真の情を
  尽くす者をもとむるば、それただ親の喪か」

  蓋し子の父母におけるは、天性の至親なればなり。


本当の真の情は、人は隠すもの。

しかし、自分を子供から養ってくれて、
自分の人生の土台を築いてくれた親の喪に
なれば、それは、そのときに真の情が
出てくるということです。

本当の、本当は、喪の前に真の情を
親に表すことなのでしょうが。。。

Profile
     渋 沢  栄 一 
日本資本主義の先駆者 
『道徳経済合一説』論者
Profile
     渋 澤  健
渋沢栄一の孫の孫。
 ただ、論語は読めません。
     算盤も使えません。
      ◇  ◆  ◇ 
シブサワ・アンド・カンパニー
         代表取締役
(財)渋沢栄一記念財団 理事
(社)経済同友会 幹事
文京学院大学院 客員教授
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