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きだみのる「道徳を否む者」は2001年新潮社から出されている。初版は昭和30年の一時間文庫。
きだみのるはほとんど読んだとおもっていたが、初めて。故人になってから2001年にもう一度出版。
2001年は、私は犯罪被害者の権利確立と支援の確立に地方議員としてかかわっていた。知らないわけだ。
「今日の観点からみると差別的ととられかねない表現が散見しますが、作品自体の持つ文学性ならびに芸術性、また著者がすでに故人であるという事情に鑑み、原文通りとしました。」(編集部)とある。

「道徳を否む者」にはきだみのるが戦前の少年・青年時代の事柄が綴ってある。
私はきだみのるがスタートになっているとの思いがある。が、50年後読み返すと、男尊女卑・性の対象としての女性観がある。50年前それに目をそむけなかったのは、20歳前は女の子としてふるまうための自己が当たり前だったのだろう。
彼は、鹿児島で生まれ育っている。お風呂は男のあとに女がはいるという土壌のもとで育ち、叔父の家の生活と従妹の女性との関係で、北海道に家出した。そこで、アテネ・フランセの創始者と出会う。精神性・知性を身に着け、学習の方法を学んだ人とわかってきた。
紙の書籍ではなく、WEBだ。きだみのるの自由性と知性の深さと女性をSEXの対象とみながら、共同体での男性と女性の位置づけを記すところは、ここからきているのかと納得。6851

女性をSEXの対象、男以下と軽侮しながら、共同体での男性と女性の関係性を女性を劣と位置づけていく土壌はどこの市町村議会にもある。それが、政党に所属しない市民派の女性議員を苦しめていく。市民政治と政党政治とは異なる立ち位置になる。

センシティビティトレーニングをしている過程のような文章だ。
センシティビティトレーニングは、自己を数名の他者の間で話し、自己を表現し、相手を受け入れる技術を学ぶ・・・・
大きい世界から自分を見て、社会を分析する、自分から見た世界の在り方で社会を分析する。この2つを融合するのは難しい。50年前の学生時代、大きい世界から見て、自分の立ち位置を分析し、社会を分析するタイプの思考は男性に多く、私は、自分から見た世界のありかたで社会を分析するタイプだとわかった。きだみのるもそういうタイプの人だ。女性の市民派議員は、多くは自分の立ち位置から社会をみる・・・人が多い。苦悩が大きい。政治関係は男性が多く、大きい世界の成り行きから見ていく。ここは決定的な違いだ。
道徳を否む者は、道徳に監視され、生きた心地がない。ここが原点だから、市民派女性議員と同じ立ち位置になると理解できてきた。