先日「ヒロシマの嘘」福島菊次郎 著 現代人文社 刊 という本をもとに記事を書きましたがその本を昨日読み終えました。それでまた書きたくなったことがいくつか出てきたのですが、それをしっかり伝えるには相当な文量と時間を必要とし、下手に書くと広島や原爆、さらには原発や事実上の日本軍である自衛隊のことを間違ったニュアンスで伝えてしまう可能性があるので何を書くか迷いました。

で、迷った末、「平和都市」とされる広島が実は全く「平和」な都市ではない、ということについて書きたいと思います。

この孤高で命を懸けて原爆の真実を訴え続けてきた福島氏の「あとがき」からまずは引用したいと思います。

(引用開始)

あとがき

今年もまた8月が訪れ、年に一度だけ被爆者に陽の当たる原爆犠牲者慰霊祭が開催される。2002年8月、広島と長崎両市で7541名が新たに慰霊碑に合祀され、2発の原爆の犠牲者は35万6063名になった。だがこの数字のなかには原爆症が完全に治癒して天命を全うした被爆者ヒロシマの嘘3はほとんどいない。放射能障害は被爆後半世紀以上過ぎたいまも、依然として不治の病魔で、被爆者は自らの死によって原爆症から逃れるほかに術がないからである。

「平和都市ヒロシマ」は日本の現在と嘘を隠蔽する伏魔殿として建設された。自民党にとって原爆を投下されたのはその意味で僥倖(ぎょうこう)でさえあった。人類最初の原子爆弾の悲劇を隠れ蓑にして憲法9条と被爆者を十字架にかけ、巨大なきのこ雲と廃墟のなかに、侵略戦争の原罪も、戦争責任も、自衛隊という名の軍隊さえ、平和の名において隠蔽することができたからである。ヒロシマはその出生から聖地でも平和都市でもなく、戦後の政治犯罪を隠ぺいする巨大な伏魔殿だったのだ。(後略)

(引用終わり)

この福島氏の「あとがき」の一文は原爆を落とされた広島と長崎及びその放射線により即死した被爆者の方々やまた、生き残っても一生病魔に犯されながら死ぬまで苦しんで生きていかなければならない人たちの救いようのない苦しみのことが書かれているだけではなく、私たちが抱いている広島に対しての認識とは全く違う事実も示唆された文章です。

その一つ、「広島が聖地でも平和都市でもない」とはどういうことなのか?そのことについてこの著書の「虚構の平和都市誕生」という章に書かれているので以下に引用します。

(引用開始)

タイトル:無法地帯

戦後の荒廃と天井知らずのインフレのなかで、被爆者の病苦と貧困の悪連鎖はいつ果てるともなく続いて社会復帰を阻んだ。それでも半年後には廃墟のあちこちに、点々と約5000戸余りのバラックが立った。

敗戦の9月に復員して、10月に下松駅前に時計屋を開業した僕は月に2、3度広島駅前にできた闇市に時計などの商品を仕入れに通っていた。そのうち、行きつけの闇屋から安い土地があるので広島で開店しないかと勧められ、土地探しをしてその実態に驚いた。

荒涼たる焦土にはすでに土地をめぐる利権が渦巻いていた。爆心地から1キロ余りのところにあった市役所付近や市の中心部の土地所有者がほとんど死亡したのをいいことに、所有者不在の空き地を不法占拠して家を建てたり、位牌を為造して市役所に土地の所有権を主張して乗っ取る地元の有力者まで現れていた。悪質な土地ブローカーやヤクザが横行する凄まじい状況だった。僕も格安な物件を紹介され、手付け金100円(当時1ヶ月近く生活できた)を脅し取られた。広島はまさに無法地帯で、恐れをなして進出をあきらめた。

ヤクザと数百件の闇屋、ブローカーがわが物顏に横行する無警察状態の街にインフレの嵐が吹き荒んでいた。病苦と貧苦に喘ぐ多くの被爆者のなかには、地上げ屋やヤクザの甘言に乗せられて土地を奪われ自殺した者もあり、次第に「暴力都市広島」の片隅に追いやられ、息を潜めて生きていた。

「70年間は草木も生えぬ」と噂されていた原爆ドームの瓦礫の間から、草が芽を吹いたという新聞記事が出たのは翌年の春で、被爆以来始めての明るいニュースだった。好奇心から見に行ったが、当時の原爆ドームは辺り一面に崩れ残った瓦礫が散乱して足の踏み場もなく、敗戦後の飢餓と荒廃の時代にドームを見物に来るような物好きはいなかった。

周辺は廃品業者の鉄屑や資材置き場になり、地下室には浮浪者が住みつき壁一杯に等身大のヌードの落書きがしてあった。戸板を敷いただけの床には進駐軍の缶詰めの空き缶や汚れたカストリ雑誌が散乱していた。原爆報道に厳しいプレスコードが敷かれ、写真を写したらMPに捕まって銃殺になると噂が流れていたので、辺りに人影がないのを確かめて崩れた建物の中に入り、青白く伸びた草を3枚ほど写してあわてて逃げた。僕が写した最初の原爆写真だった。その日を契機にして広島に行くたびに市内に足を伸ばして撮影を始めたが、おっかなびっくりの隠し撮りだったのでろくな写真にはならなかった。

生業を失ったほとんどの被爆者は社会復帰する体力も経済力も失って、その日暮らしの生活に喘いでいた。一つの都市が一瞬に壊滅して親類縁者を一挙に失い、再起の援助も期待できなくなって孤立した大多数の被爆者は、生きるために失業対策事業(失対)で働いた。一般国民は戦争が終わったその日から食糧難の生き難い時代でも、もう頭上から爆弾が落ちてくることも、焼夷弾攻撃の炎の中を逃げ惑うこともなく生きる道を選択できたが、被爆者は戦争が終わったその瞬間から、原爆症と貧苦の悪連鎖の終わることのない戦争に投げ込まれたのである。

敗戦後、「ニコヨン殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の3日も降ればよい」と歌われた時代があった。失対労働者の低賃金を揶揄した歌で「ニコヨン」と呼ばれたのは日給が240円だったからだ。少し働くとすぐに疲れて休むので「ぶらぶら病」と蔑まれ、「原爆症は伝染する」と噂され、被爆者の家を訪ねてお茶を出されても飲まない人が多かったと言われていた。

(引用終わり)

これは原爆投下直後の広島の街中の状況を記したものになります。原子爆弾という放射線を撒き散らす病原弾を投下され、多くの死者を含む約20万人の被爆者を生み出した広島の街中が原爆投下後、すぐさまヤクザや闇屋や土地ブローカーが利権漁りをやり尽くし、病魔と貧苦に喘ぐ被爆者を街の片隅に追いやった。

この事実は911同時多発テロ後にイラクに侵攻しその後、イラクに欧米の大企業が押し寄せ、イラクの人たちを低賃金で働かせたことや、国際金融資本の連中などがゴルバチョフを使いソ連を崩壊させ、その後、ロシアの市場に入っていって経済利権を手中にし、ロシアの国民はソ連時代より生活が苦しくなって混乱した、という事実と基本的には同じ法則が働いていると思います。スクラップ&ビルド、つまり壊して再生し、その再生過程で金儲けのための利権の食い散らかしが行われた。違うのはその利権を食い荒らす奴らが欧米の大企業や国際金融資本ではなく、同じ日本人であるヤクザや闇屋や土地ブローカーだったということです。加えて内部被爆による「ぶらぶら病」を含む一生つきまとう原爆症まで被爆者にはついていた、ということです。さらに引用します。

(引用開始)

タイトル:原爆孤児と原爆孤老

戦後の荒廃と経済不況の中で1948年5月、「広島平和記念都市建設法」が施行された。1950年に勃発した朝鮮戦争の特需景気に乗って、平和公園を中心にした都市建設が急ピッチで進み、戦後史のなかに「聖地 広島」が登場することになる。市内を縦貫する延長3.5キロ、幅100メートルの道路が着工されたとき、土地を強制収容された人々は、全国に例のない広い道幅を見て、「人を追い出して道路でや野球でもやる気か」と避難した。

原爆慰霊碑を中心とした丹下健三設計の平和公園が広大な全貌を市民の前に現し、1951年、原爆資料館と附属施設を含む平和公園が完成した。慰霊碑はその形が西部劇の馬車に似ているので、通称「幌馬車」と呼ばれた。きのこ雲をかたどったと言われた平和大橋はイサム・ノグチが設計したもので、2人の建築家の施工争いも噂された。

こうして1052年8月6日、「安らかに眠ってください/過ちは/繰返しませぬから」と不戦の悲願を刻んだ原爆慰霊碑に5万7920柱が合祀され、「原爆犠牲者慰霊碑除幕式」が開催され、平和の象徴である数百羽の鳩が放たれた。

広島各地に息を潜めて被爆後の忍苦の歳月を生きてきた人々が初めて、あの日と同じ灼けるような太陽の下に集まった日だったが、被爆者たちは全国から集まったマスコミの質問責めに、「そっとしておいてください」と答えるだけだった。被爆後も多数の肉親縁者を失って孤立し、病気と貧しさに苦しみ続けてきた歳月へのあきらめと、被爆者を野晒しにした不毛な政治への不信からだった。

重い静寂が広場を包んでいた。もうもうと立ち込める線香の煙のなかにたたずんだ被爆者たちは、悲惨な死を遂げた肉親縁者を偲んでいつまでも慰霊碑の前から立ち去ろうとはしなかった。死んだとばかり思っていた縁者や知己が慰霊碑周辺で何組もめぐり合い、いつまでも手を取り合って泣いていた。

陽が暮れて夜空に「永遠の灯」が赤く燃え始めても、慰霊碑周辺には参拝者が絶えなかった。当時の慰霊碑周辺では、素裸の原爆孤児たちが「ハングリー、ハングリー」と参拝者に銭をねだっていた。みんな下腹を以上に膨らませ、栄養失調独特の身体をしていた。収容された施設を逃げ出し、ヤクザに養われて働かされている子供だちだと地方紙の記者から聞いた。

1954年、「広島の子供を守る会」の調査によれば、原爆で親を失った原爆孤児は6500人と記録されているが、その実数は2~3倍を超えると言われていた。戦時中、疎開していた市内の子供たちの多くが親を失ったためで、親類縁者に引き取られた幸運な子ども以外は各施設に収容されていた。戦後の荒廃期、多くの子どもが自由を求めて施設からの脱走を繰り返し、徒党を組んで非行を働くので、たびたび浮浪孤児狩りが行われた。ヤクザに養われ街頭で靴磨きをして稼ぎながら煙草を吸い、ヤクザの組員になった者も少なくなかった。中国新聞社が1970年代にヤクザのキャンペーンを連載し、新聞協会のドキュメント賞を受賞したほど、平和都市広島はヤクザと非行の温床だった。

原爆孤老も4000~5000人いると言われ、各地の収容施設で不運な老後をたどったり、人目をさけて原爆スラムで細々と暮らしている老婆もいた。戦後の混乱期に全国的に起きた不幸な社会現象だったが、戦争責任の追求を放棄したことが、社会的弱者を見殺しにする大きな原因になった。

年に1度だけ被爆者が脚光を浴びる8月6日が過ぎると、広島は次の日からまた札束と利権が渦巻く「平和都市」という名の砂上の楼閣を築いていった。多くの被爆者は年に1度、8月6日に「平和の聖者」にされるだけで、次第に平和都市の片隅に追い詰められていった。

ヒロシマの嘘4「ちちをかえせ/ははをかえせ/としよりをかえせ/こどもをかえせ/わたしをかえせ/わたしにつながる/にんげんをかえせ/にんげんの/にんげんのよのあるかぎり/くずれぬへいわを/へいわをかえせ」

という痛烈な詩を峠三吉に詠ませたのも、原爆詩人・原民喜を自殺させたのも、日本の戦後と広島の虚構が、感性の鋭い詩人を絶望に追い込んだからだと言われている。彼の詩を刻んだ詩碑が何者かに倒されて壊された事件が起きたこともあった。

<過ちは/繰り返しませぬから>と刻んだ慰霊碑には主語がない、と批判する活動家や文化人も現れたが、ヒロシマ自体が主語を持たない虚構の平和都市だったのである。「あんなものは壊して瀬戸内海に沈めてしまえ」と放言した市長や1980年代には、平和公園前の100メートル道路を行進する自衛隊を閲兵した市長まで現れた。平和公園のなかにあった「千羽鶴の塔」に捧げられた、全国から送られる千羽鶴の束に放火する事件もたびたび起きている。緑に包まれた平和公園に鳩が飛んでも、その実態は虚構の平和国家そのものである。汚辱に満ちた国が捏造した「聖地 ヒロシマ」が、日本の前途を過らせた。

(引用終わり)

「平和都市 ヒロシマ」は全く平和な都市ではなかった。戦後、原爆孤児や原爆孤老を原爆スラム街などに追いやり、平和公園や道幅100メートルもある道路をつくるためにさらに住人をそこから追い出した。だから追い出された住人は、「こんな大きな道路をつくって野球でもやる気か!」と怒りの声を上げた。

その後もある市長が「慰霊碑を瀬戸内海に沈めてしまえ」と言い、ある市長は100メートル道路を行進する自衛隊に閲兵した、ということなどもあった。

つまり「平和都市 ヒロシマ」は原爆を投下され、死ぬまでつきまとう原爆症で苦しむ広島市民の人たちの気持ちを汲んでつくられたのではなく、国の都合でつくられた。それも‘朝鮮戦争特需’という戦争で潤った経済力をもって。

そしてその理由は、あとがきのところに戻りますが後半の段落に、

「平和都市ヒロシマ」は日本の現在と嘘を隠蔽する伏魔殿として建設された。自民党にとって原爆を投下されたのはその意味で僥倖でさえあった。人類最初の原子爆弾の悲劇を隠れ蓑にして憲法9条と被爆者を十字架にかけ、巨大なきのこ雲と廃墟のなかに、侵略戦争の原罪も、戦争責任も、自衛隊という名の軍隊さえ、平和の名において隠蔽することができたからである。ヒロシマはその出生から聖地でも平和都市でもなく、戦後の政治犯罪を隠ぺいする巨大な伏魔殿だったのだ。

と著者の福島氏は記しています。この文章を私的に解させて頂くならば、

侵略戦争の原罪は戦前の日本軍と日本政府にある。戦争責任は昭和天皇・裕仁に重大な責任があった。これらを戦後の日本政府は隠蔽したかった。しかも戦後も戦争をするつもりでいた。だから自衛隊という軍隊をつくりたかった。しかしただつくるわけにはいかなかった。口実が必要だった。

だから「平和都市 広島」を虚構した。つまり「原爆を投下された広島」に国民の目を向かせ、侵略戦争の原罪や昭和天皇・裕仁などの戦争責任の追及という戦後の日本国民が、もっともやらなければならなかったことから意識をそらさせた。そして日本は「平和」を重んじる国家ゆえに逆に‘専守防衛’ということで軍隊である自衛隊は必要、だから虚構の「平和都市 広島」をつくった。

と解しました。

今日は終戦記念日(本当は敗戦記念日とするべき)です。原爆症により死んでいった方々や天皇の国家であった戦前の日本という国の犠牲になって戦争に送り込まれて死んでいった兵隊の方々に心から追悼の意を表せて頂きたいと思います。同時に「平和都市 広島」というものを戦後、原爆スラム街に追いやられた原爆症の人たちやその後に生き残った広島の方々の視点で見つめ直す、ということもできる限りさせて頂きたいと思っています。