2014年09月

アメリカの傀儡 李承晩

本日、「反日の秘密」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊 という本を読み終えました。この本は朝鮮戦争が起こった背景(陰謀)を中心に韓国の国民の世論、思考が「反米」から「半日」にアメリカによってすり替えられたことについて記された本になります。

細かい幾つかの部分を除けば、私も納得でき、'なるほど!' と思う連続の本でした。なので多数ここで書きたいことがあるのですがあまりにも多量になってしまうため、今回はその朝鮮戦争が起きる頃から世界に知られるようになった、「李承晩」について記したいと思います。

そうです。「竹島」問題でよくでてくる、いわゆる、'李承晩ライン' の李承晩です。

サンフランシスコ1ではまず、その李承晩が1952年にその'李承晩ライン'を強引に竹島の(韓国側から見て)向こう側に引いた背景について記されている箇所をこの「反日」の秘密から、ではなく、「サンフランシスコ平和条約の盲点」--- アジア太平洋地域の冷戦と「戦後未解決の諸問題」--- 原貴美恵 著 渓水社 刊 から引用したいと思います。この本は著者である原氏が2005年にアメリカ政府が公開した、戦後の連合国側により決められた日本の領土・境界線の政策における公的な記録を中心的な根拠として書いた本になります。では引用します。

(引用開始)

タイトル:「李ライン」宣言

竹島を巡る日韓の係争は、対日平和条約の発効を待たずに始まっている。1952年4月28日の条約発効と同時に行政上日本から竹島を分離したマッカーサー・ラインは廃止されたが、それに先立つ1月18日、韓国の李承晩政権は海サンフランシスコ2洋主権宣言を発して、竹島をその内側に含む所以「李ライン」を宣言した。これに対し日本政府は抗議し、問題は日韓の係争として浮上した。

「李ライン」発表の理由と背景は何だったのだろう。竹島の帰属は、講和会議前に既に問題になっており、韓国からその(「朝鮮」への)帰属明記が要請されていた。そして、講和会議1ヶ月前の8月には、竹島は日本に帰属するという米国の見解が韓国に伝えられている。にもかかわらず、韓国は「李ライン」発表により、一方的に竹島の韓国への編入を発表した。(後略)

(引用終わり)

これが世に「李承晩ライン」が知られた背景になりますがこれをまとめると、
・当時の日本占領司令官のマッカーサーは竹島を韓国領とする案を上程していた

・しかし、アメリカは竹島を日本領とすることを韓国に伝えている

・だが、李承晩は「李承晩ライン」を一方的に発表した

となります。

この流れは非常に不自然な流れです。当時のこの極東アジア地域における権限をもったマッカーサーが竹島は韓国領とすべき、としたのにアメリカ政府は無視して韓国側に、'日本領とする' と伝えているのに李承晩は李ラインを発表しているのです。言ってみれば、このマッカーサー --- アメリカ政府 --- 李承晩 の間の取り決めは何一つうまくいかなかった、ということになります。しかもこのことを考える時の重要なファクターとして、「サンフランシスコ平和条約」の条文にこの「竹島」の領有権についての記述が全くない、という事実があります。
ではこの李承晩という人物がどういう人物であったのか、を「反日の秘密」に記されている記述をもって記したいと思います。

(引用開始)

(前略)ジョン・サンガー(当時第一線の国際ジャーナリスト)の「マッカーサーの謎」(1951年)から引用する。文中、李承晩を75歳としているが、1945年当時は70歳である。

李承晩はきわめてすぐれた老年の紳士である。彼は75歳になる。かれは今日まで、その全生涯を朝鮮の独立のために捧げてきた。そして、日本の官憲によって投獄されたのち(引用者注:実際は李氏朝鮮により逮捕された)、実に33年ものあいだ亡命して祖国を離れていたのである。李承晩夫人は、もともとフランセス・ドンナーというなまえのウィーン生まれの人で、この夫人を毛嫌いしているものは少なくない。李承晩のもっている狂信的なところは、その多くが、この夫人の刺激によって生まれてきたものと考えられている。李承晩はアメリカで教育を受け、ハーヴァード、プリンストンの両大学に学び、プリンストン在学時代には、ウッドロー・ウィルソンの影響を強く受けている。そして、面白いことには、かれの博士論文は、小国の中立にかんするものであった。かれには数冊の著書があり、そのひとつに「日本の内幕暴露」というのがある。かれの前半生を強くつらぬいているものは日本人にたいする憎しみであり、その後の半生は、同様、共産主義者にたいする憎悪の念によってつらぬかれている。かれは1912年に朝鮮を離れ、1945年にいたるまで、1度も帰国していない。その間、かれは、あるいはニューヨーク、あるいはパリ、ジュネーブ、ホノルルにあって、絶えず、祖国の再生と独立のために活動を続けていた。かれは、いちど、モスクワにも行ったことがあるが、ソ連当局からははねつけられてしまった。(後略)

(引用終わり)

これは李承晩の生涯について記したものになりますが注目すべきは李承晩の亡命先がアメリカということと、その亡命先のアメリカでハーヴァードとプリンストンの2校もの大学に在学していた、ということです。なぜ李承晩の亡命先がアメリカなのか? なぜ亡命している身分でハーヴァードとプリンストンというアメリカで超名門とされる大学でアメリカは勉学させたのか? 不自然です。これを単に、‘アメリカは寛大で素晴らしい国、ということなんじゃないの?’と考えるのはあまりにも単純な思考であり、現実的ではありません。ではその理由を解き明かしている個所が「反日の秘密」に記してありましたので以下に引用したいと思います。

(引用開始)

(前略)一方、李承晩らは早くも1946年夏ごろから「独立戦取国民大会」を開き、南朝鮮単独政府樹立を公然と主張しはじめた。アメリカはその時期に「左右合作」を経て反日1全朝鮮を掌握する最後の可能性を追求していたが、「10月人民抗争」を前にしてそれが挫折すると、もはや北朝鮮を奪回するどころか、南朝鮮に橋頭堡を保つこと自体のために力を集中しなければならないと判断して、反民衆的な分断=単独選挙路線を推進しはじめる。ただ、「民戦」が依然強い影響力をもつ状況のままで、李承晩らに直ちに政権を移譲しても、とてももたないことは目に見えていたから、一方では左翼・民戦を孤立させて暴力的にたたきながら、中道から右の政治家をできるだけ幅広く軍政府の側にひきつけて、李承晩の門出を安泰なものにしてやろうと企て、9月、軍政府内の行政権限を暫次そのような朝鮮人に移譲する方針を打ち出した。(後略)

(引用終わり)

これは李承晩が亡命先のアメリカから韓国に帰り、李承晩が韓国の初代大統領になるまでの行動と経緯を記したものになりますが、完全にアメリカが李承晩を傀儡政権にしようとしていたのが分かります。
当時、朝鮮半島は戦争が終わり、日韓併合後から支配していた日本が半島から去り、朝鮮独立の気運が高まっていました。その運動を積極的にしたのがこの引用文にある「民戦」という組織です。

しかし李承晩は亡命中、ジョン・サンガーの「マッカーサーの謎」の引用文にもあるように、絶えず祖国の再生と独立のために活動を続けていた、にも関わらず「独立戦取国民大会」を開き、南朝鮮単独政府樹立を公然と主張しはじめるのです。つまり全朝鮮の独立ではなく、南朝鮮、つまり韓国の樹立を主張しているのです。

そしてそんな李承晩を韓国大統領にするにあたりアメリカは、上の引用文に記してあるように、「一方では左翼・民戦を孤立させて暴力的にたたきながら、中道から右の政治家をできるだけ幅広く軍政府の側にひきつけて、反日2李承晩の門出を安泰なものにしてやろうと企てた」のです。

こうしてみていくと、李承晩のアメリカ亡命→ハーヴァード、プリンストン在学、というのはアメリカが李承晩を裏で操る傀儡政権としてふさわしい(言いなりになる)人間にするために在学させ、教育・洗脳することを仕組んだものといえると思います。

でなければアメリカが、左翼・民戦を孤立させて、暴力的に叩いてまでして李承晩を大統領にする理由などある
でしょうか?

そしてここから韓国が、日本と同様 否、それ以上に追米隷属の道を歩んでいくことになります。

その韓国の追米隷属の道のひとつが「李承晩ライン」です。この李承晩ラインは前述したようにアメリカがその直前に韓国に「竹島」は日本の領土とする、と伝えています。それ無視して李承晩が竹島は韓国の領土だ、と主張する。アメリカが竹島の権益は日本にある、とした以上は日本は逆に主権を主張して、日韓で争うことになる。

これがアメリカの狙いということです。つまり日本と韓国の間に係争 否、戦争が起こるように楔を打ち込んだ、ということです。日韓がいがみ合っていれば協力して力を増すことを防げるし、さらに戦争が起こればアメリカの軍需産業は大儲けできます。だから李承晩をハーヴァード、プリンストンに在学までさせて、大統領就任にあたってはその政権が安泰であるように地盤固めまでしたのです。

そして冒頭で前述しましたが、「サンフランシスコ平和条約」の条文にはこの竹島の領有権についての記述が全くないのです。よって条約が改定されない限りいくら「竹島」を日韓で争っても、どちらがいいとか悪いといった判断はできず、永久に日韓の争いは続くように仕組まれた、ということです。

リトビネンコ暗殺の謎

先日、「リトビネンコ 暗殺」アレックス・ゴールドファーブ&マリーナ・リトビネンコ 著 早川書房 刊 という本を紹介させて頂き、‘チェチェン戦争’はエリツィンが選挙に勝つために操作されていた、という視点で書かせて頂きました。ですが肝心の殺されたリトビネンコは誰に殺されたのか、といったことについては記してませんでした。よって今回そのことについて記したいと思います。

まず、この‘リトビネンコ暗殺’についてのロシア側の---数人の国会議員---の見解が記されてある部分を以下に引用したいと思います。

(引用開始)

(前略)11月21日、モスクワ----数人の国会議員が、リトビネンコの毒物中毒の裏にはボリス・ベレゾフスキーとアフメド・ザカーエフがいると主張する。「ベレゾフスキーとチェチェンの密接な関係があれば、アンナ・ポリトコススカヤの殺害やリトビネンコの中毒の両方を計画できた」と元FSB長官ニコライ・コバレフが語る。翌日<ガーディアン>のモスクワ特派員であるトム・バーフェットが次のように書く。‘クレムリンがリトビネンコの暗殺を命じたという説は、どう考えても信じがたい。そもそも彼はそこまでのことをするほどの重要人物ではなかった....(しかし)ベレゾフスキーの立場は、ロシアが引き渡しを要求している多くの人々と同様、ますます危うくなっているようだ....彼らには、もしロシアに送り返されたら報復されるという主張を裏づける根拠が必要だ。リベラルなジャーナリストの死と<FSBの敵>の毒殺計画は、ティモシー・ワークマン判事を納得させる要因となるはずだ。(後略)

(引用終わり)

この記述は元FSB長官のニコライ・コバレフなどのロシアの国会議員が‘リトビネンコに毒を盛ったのはベレゾフスキー(ロシアの政商でありオルガルヒ(新興財閥)、ユダヤ人、ロンドンに亡命している)とアフメド・ザカーエフ(元チェチェンの文化相、2002年にロンドンに亡命。チェチェンにいた時からベレゾフスキーと親交をもつ。亡命後、ベレゾフスキーやリトビネンコと組んでプーチン批判を繰り広げる)がリトビネンコに毒を盛った、と発言したことと、

イギリスの新聞であるガーディアン紙のモスクワ特派員が、プーチンによるリトビネンコ暗殺はあり得ないと報道しているとし逆に、リトビネンコの暗殺は‘ベレゾフスキーがもし、ロシアに返されることになったらこのリトビネンコの暗殺をみれば明らかなように、クレムリンから報復を受けることになる、ことを証明するために起こされた’と記事にしている記述になります。つまりベレゾフスキーがロシアに返されないで亡命し続けることを目的に引き起こされた、と言っているのです。

このリトビネンコの暗殺はベレゾフスキーとザカーエフが引き起こした、とする見解に私は同意します。理由は後述します。

そしてそれをイギリスのガーディアン紙ははっきり書いているのです。リトビネンコがロシアにとって暗殺するに足らない、とするのは至って自然です。リトビネンコはFSBの職員としてかなり有能であったらしいのですが特にFSBの主要なポストに就いたこともなく、FSB在籍中に、言ってみれば、FSBを裏切ってベレゾフスキーの手下になり、ベレゾフスキーと同じ亡命先であるロンドンに、ベレゾフスキーの協力を得て、亡命した人物に過ぎません。プーチンが世界中から批判の的になる危険性を犯してまでリトビネンコを暗殺するなんてことは到底考えられません。

それではここでこの当時のこのリトビネンコの中毒事件についてのプーチンの出した声明について記されている部分を引用します。

(引用開始)

2007年2月1日、モスクワ----プーチン大統領は、クレムリンの記者会見で、ロシア情報機関はリトビネンコを取るに足らない人物と見なしており、Scan0010よってわざわざ殺害するはずがないと言う。「リトビネンコはどんな情報機密も知らなかった。FSBに解雇されるまえにも物資や人員の輸送部隊に属していて、国家機密を入手できる立場になかった」と述べる。同日、ロンドン警視庁は事件の捜査を終え、リトビネンコの捜査ファイルを検察局に送る。容疑者が起訴されるかどうかは、検察局の判断にゆだねられる。捜査ファイルの中身は公開されない。(後略)

(引用終わり)

リトビネンコが、物資や人員の輸送部隊に属していて、国家機密を入手できる立場になかった、のであれば抹殺する理由はプーチンにもクレムリンにもないでしょう。しかしこの本では、リトビネンコは毒を盛られて中毒症状になってから繰り返し、「毒を盛るように指示を出したのはプーチンだ!」といった旨の発言をしていることが書かれています。しかもその根拠とされるものについては何も記していません。不自然さを感じます。

ではここで先ほど私が後述すると書いた、‘リトビネンコ殺害の犯人はベレゾフスキーとザカーエフ、とすることについて記させて頂きます。まずは引用から。

(引用開始)

(前略)明らかになったポロニウム(私の注:リトビネンコが盛られた毒)痕跡のひとつは、サーシャ(私の注:リトビネンコ)が残したものだった。2006年11月1日の午前中彼は放射能に汚染されてないかった。捜査官はサーシャのポケットから切符を発見し、その日サーシャをセントラル・ロンドンまで運んだバスを突き止めた。そのバスにポロニウムの痕跡はなかった。

午後6時ごろ、アフメド・ザカーエフがサーシャを車に乗せて、メフィアにあるボリス(私の注:ベレゾフスキー)のオフィスからマスウェル・ヒルの自宅へ送って行った。それ以降、ザカーエフのメルセデスは、サーシャがフロントシートに残した大量の放射能によって使用に適さなくなった。

有害物質は午後5時ごろ、ミレニアム・ホテルのバーで与えられたと見られている。捜査官は有毒物質が入れられたティーポットを発見し、同時に皿洗い機も含めて厨房が汚染されているのも確認した。ポロニウムの汚染濃度はホテルのバーがいちばん高く、また、その物質が空気中に飛散したせいで----すなわち、ティーポットに粉末が入れられたことを示している----バーの従業員7名と数人の客からポロニウムの陽性反応が出た。

ミレニアム・ホテルのバーを出て、ザカーエフの車に乗るまでのあいだに、サーシャはファクスを使うためにボリスのオフィスに立ち寄った。したがって、そのファクス機からも放射能が検出された。(後略)

(引用終わり)

これはリトビネンコが毒を盛られた2006年11月1日の本人の行動を記したものになりますが、私が気になるのは毒が盛られた現場となるホテルのバーを出てリトビネンコがベレゾフスキーの事務所に向かい、そこにザカーエフがわざわざ迎えに来てリトビネンコを自宅まで送っている、という記述です。つまりリトビネンコが毒を盛られた直後に、本人のまわりにベレゾフスキーとザカーエフがいたことになります。

そもそもなぜホテルのバーで毒を盛られた後、リトビネンコはベレゾフスキーの事務所にファクスを使用する目的で向かったのか? その理由や送信したファクスの内容についてはこの本には一切書かれてません。リトビネンコが自宅に帰ってから送信した方がよかったのではないでしょうか? ベレゾフスキーの事務所でファクスを送った後、自宅に帰っているのですから。

また、ザカーエフがそのベレゾフスキーの事務所までわざわざ迎えにきているのも気になります。なぜザカーエフはリトビネンコを自宅にわざわざ送るために車を走らせたのか? ザカーエフはそういう役回りの人間なのか? そうとは考えられません。事実この引用文にも書いてあるようにその日の午前中、リトビネンコはバスで移動しているのですから。ではなぜ、この時ばかりザカーエフはベレゾフスキーの事務所に行き、リトビネンコを自宅まで送り届けたのか? それについてもこの本には書かれていません。不自然さを感じるのです。‘ひょっとしてこのベレゾフスキーとザカーエフがグルになってリトビネンコに毒を盛ったのではないのか?’と。

そしてこの‘リトビネンコ暗殺’と連動するかのように奇妙な事件が実はリトビネンコが亡くなった次の日の11月24日に起こっているのです。その記述がされている部分を、度々の引用で恐縮ですが引用させて頂きます。

(引用開始)

(前略)権力に関するロシア人の自己欺瞞の大きさを示す、驚くべき例がある。(ロシアの)元第一副首相のエゴール・ガイダルは、エリツィン大統領時代、チェバイスとともにロシアの初期の経済改革をおこなった。国際的にも高く評価されている彼は、現在、モスクワの経済シンクタンクを経営している。サーシャがこの世を去ったとき、ガルダイはたまたまアイルランドにいて、メイヌースにあるアイルランド国立大学で会議に出席していた。あまり注目されていないがリトビネンコ事件のとりわけ奇妙で意外な展開は、11月24日の午前中にガルダイにも毒がもられたことだろう。

ガイダルは自分の身に起きたことについて、2006年12月7日付の<フィナンシャル・タイムズ>に寄稿している。タイトルは「私がいかにして毒を与えられ、なぜその背後にロシアの政敵がいると考えるのか」。
(中略)
その寄稿で、ガイダルは‘ロシアの政敵’を名指しするまでには至っていない。ところがその後、誰であろうジョージ・ソロスに宛てて、ガイダルが送った1枚のファクス----見舞いの返礼らしき文章----が複数のロシアのウェブサイトで公表された。Scan0011‘親愛なるジョージ’宛てのファクスの日付は2006年11月29日で、ガイダルの毒殺未遂の陰にいる人物として、ボリス・ベレゾフスキーの名前が記されていた。ガイダルはソロスに、‘われわれの付き合っているボリスがどういう人間であるのかということを、西側の人々に知らせてやってほしい’と頼んだ。

‘目下のボリスの第一目標は、プーチンにとって厄介な事態を引き起こし、政権を揺るがすことだ’とガイダルは書いた。‘そのためにボリスがとった手法によって、ロシアと西側諸国との関係が悪化している’

‘クレムリンとあまり親密ではない人間として’ソロスはボリスを非難するのに‘最適の人物’だとガイダルは論じた。ボリスが‘国際的なテロ活動に協力している’ことをソロスに糾弾してほしいとほのめかしていた。

ガイダルからソロスへの私信が公開されると、自由主義陣営に嵐が吹き荒れた。大半を占める意見は、その文章は偽造だとガイダルは明言すべきだというものだった。しかし、ガイダルは沈黙を守った。ついには、ニューヨークのソロス事務所が、ある記者に対して、なんのコメントも添えず、ガイダルの私信を受け取ったことだけを認めた。(後略)

つまりリトビネンコが亡くなった翌日に、エリツィン大統領時代、チェバイスとともにロシアの初期の経済改革をおこなったロシアの元第一副首相のエゴール・ガルダイが毒殺されかかったことについて、本人が‘犯人はベレゾフスキーだ!!’と言っているのです。

このエゴール・ガイダルという人物は文中にもあるようにエリツィン大統領時代にチェバイスとともにロシアの初期の経済改革をおこなった人物です。つまり西側諸国がロシアの‘民主化革命’という名目でロシア経済を崩壊させた経済改革を推進した人物です。よって反プーチンの人物ということになります。

この人物が‘ベレゾフスキーに抹殺されかけた!’と、仲間ともいえる、極悪金融ユダヤ人であるジョージ・ソロスにファクスを送り、そのベレゾフスキーの極悪さを西側諸国に知らしめてほしい!、と言っているのです。

つまり、ベレゾフスキー、ジョージ・ソロス、エゴール・ガイダルは同じ仲間ではあるが、そんな関係とは別に、ベレゾフスキーが、ロシアに送り返されたら報復されるという主張を裏づける根拠が必要であるゆえにエゴール・ガイダルを殺そうとした、ということです。

こうやってみていくとまずリトビネンコを暗殺したのはプーチンやクレムリンなどではない、ということが確実に言えます。

そしてこのエゴール・ガイダルが自分を毒殺しようとした人物として名指ししたベレゾフスキーがリトビネンコ暗殺の犯人と思えるのです。

ではそのベレゾフスキーの死を伝える昨年の3月25日付の東京新聞の記事をここに記して終わりたいと思います。ベレゾフスキーが死ぬ少し前にプーチンに、‘今までの罪を許してほしい’という嘆願の手紙を送った、ことが記されている記事です。

(引用開始)

ロシアの富豪 死亡 ----亡命先の英で 警察「死因に不審」

「ロンドン=有賀信彦」プーチン大統領と敵対していたロシアの富豪で元有力政商のボリス・ベレゾフスキー氏(67)が23日午後、ロンドン郊外のアスコットの自宅浴槽で死亡してるのが同氏の私設警備スタッフにより見つかった。顧問弁護士はロシアの国営テレビに「自殺」と述べたが、死因に不審な点があり、地元警備が捜査を始めた。英メディアが伝えた。

ロンドンでは2006年、ベレゾフスキーが支援し、英に亡命したロシアの情報機関、連邦保安局(FSB)のアレクサンドル・リトビネンコ元中佐が放射性物質ポロニウムにより暗殺される事件が起きており、警察は放射性物質などの専門スタッフも帯同。現場周辺を封鎖し、家宅捜索した。警察は死因について「説明できない部分がある」とだけ発表している。

同氏は所有していたロシアの大手石油会社シブネフチの株売却をめぐる民事訴訟で、昨年8月に敗訴するなどして、財産の大半を失っていたという。最近は所蔵する有名画家の絵画を売却して、資金を捻出する生活で、顧問弁護士は「ひどく気落ちしている状態」だったとしている。

同氏はエリツィン大統領時代に台頭したオリガルヒ(新興財閥)の代表的人物。「政界の黒幕」とも称され、幾度となく暗殺の対象とされた。旧ソ連崩壊後に外国車の販売で財をなすと、シブネフチを設立し、航空会社アエロフロートを買収。有力テレビ局や新聞、週刊誌を買収し、メディア王にもなった。

「大統領に帰国嘆願」---- ロ報道官明かす

「モスクワ=原誠司」ロシアのペスコフ大統領報道官は23日、死亡したベレゾフスキー氏が、プーチン大統領に帰国許可を求める手紙を出していたことを明らかにした。

インタファクス通信によると、手紙は約2ヶ月前に自筆で書かれ「多くの間違いを起こした。容赦してほしい」と嘆願する内容だという。

ベレゾフスキー氏は、ロシア3大テレビの一つ、旧ORT(現第一チャンネル)やコメルサント紙など有力メディアを支配し、ソ連崩壊後に台頭したオリガルヒ(新興財閥)の代表格だった。

「家族」と呼ばれたエリツィン大統領の取り巻きの中で金庫番とし頭角を現し、安全保障会議副書記などエリツィン政権で重要ポストに就いたこともある。旧ソ連国家保安委員会(KGB)出身でロシア連邦保安局(FSB)長官だったプーチン氏を、大統領候補としてエリツィン氏に推薦したともいわれる。

しかし、2000年8月の原潜沈没事故をめぐるプーチン氏批判などを機に、報道機関の統制や政商排除を進めるプーチン氏に敵視され、英国への亡命を余儀なくされた。

ロシア連邦捜査委員会は23日、ベレゾフスキー氏の死亡を正式に確認した後は、ゴルバチョフ元大統領の知人への暗殺容疑などすべての事件捜査を終結させると表明した。

(引用終わり)

不思議ですね、リトビネンコと一緒にさんざんプーチン批判を繰り返してきたベレゾフスキーが死ぬ前にプーチンに許しを請い、

「ロンドンでは2006年、ベレゾフスキーが支援し、英に亡命したロシアの情報機関、連邦保安局(FSB)のアレクサンドル・リトビネンコ元中佐が放射性物質ポロニウムにより暗殺される事件が起きており、警察は放射性物質などの専門スタッフも帯同。現場周辺を封鎖し、家宅捜索した。警察は死因について「説明できない部分がある」とだけ発表している。」

なんて。

023

チェチェン戦争一時休戦の真相

先日、「リトビネンコ 暗殺」アレックス・ゴールドファーブ&マリーナ・リトビネンコ 著 早川書房 刊 という本を読み終えました。この本は2006年にロシアからイギリスに亡命していたアレクサンドル・リトビネンコという元ロシアのFSB(以前のKGB)中佐がイギリスで暗殺されたこととそれに至る経緯について記されている本になります。

このリトビネンコの暗殺は日本ではいかにもロシアのクレムリン(ロシア政府)が行ったかのような報道が当時されていました。しかしこの本を読んでみるとそう考えるのにはかなりムリがある、というのが私の感想です。いや、多くの識者や政治問題に覚醒している人はとっくにそう思っているでしょう。

まずこの本のことを記させて頂く前に前提として記させて頂くことは、この本の著者の1人があの悪名高き極悪金融ユダヤ人のジョージ・ソロスの下で働いていたアレックス・ゴールドファーブという人物である、ということともう一人の著者がマリーナ・リトビネンコというリトビネンコと一緒にロシアからイギリスに亡命してきた彼の妻であるということです。

極悪金融ユダヤ人のジョージ・ソロスの手下の人物とロシアから一緒に亡命してきた妻の2人が書いた本....このことだけで公平な視点で書かれることはまずなく、ロシア及びプーチンについて悪く書く、と普通は考えるでしょう。何せこの数十年、世界中の国々でその国の経済を崩壊させてまでもボロ儲けし、金融ユダヤ人である世界の帝王、と言われるデイビッド・ロックフェラーと引けをとらないくらい極悪な金融ユダヤ人のジョージ・ソロスが著者なのですから。

実際、読んでみてかなりロシアやプーチンを悪く書いていました。しかしその根拠とされる記述は薄弱で、強引に悪者にでっち上げている、という感のする記述ばかりでした。

そしてこの本は時折、ロシアとチェチェン共和国の戦争であるチェチェン戦争についても記述がありました。つまりこの時期(1990年代)のロシア情勢とチェチェン戦争は密接に関係しているゆえの記述なのですが、この記述に関しても根拠はないがロシア軍が悪い、といわんばかりの記述になっていました。

ですがこのチェチェン戦争の記述を読んでいて感じることは当時のロシアの大統領だったエリツェンの政権延命と当時のオルガルヒ(ロシアの新興財閥)の一つであり、かつ西側諸国(おもにアメリカ)の手先となっていたベレゾフスキー財閥のボリス・ベレゾフスキーが、アメリカ(金融ユダヤ人)がロシアを乗っ取るために、チェチェン戦争勃発させ操作したのではないか、ということです。以下にその部分の記述を引用します。

(引用開始)

(前略)「選挙がすんだら、チェチェン問題にとりかかろう。約束するよ、戦争を終わらせてみせる」とボリス(注:ベレゾフスキーのこと)は言った。リトビネンコ「だが、いまはきみに知っておいてもらいたいことがある。つい最近まで、私はきみの上にいるコルジャコフやバルスコフ(注:FSBの職員)と仲よくやってきた。しかしいまは絶縁状態だ。そこで忠告しておこうと思った。いつまでも私とつき合っていたら、きみは問題をかかえることになるかもしれない」

ボリスはコルジャコフとの不仲の原因を説明した。コルジャコフは大統領選挙を中止したがっていたが、ボリスは万が一それが現実になったら、共産主義者が国民をあおってデモに引っぱりだすと考えていた。そうなれば政府の親衛隊、はっきりいえばFSBに、群衆を銃で撃てと命令が下るかもしれない。(後略)

(引用終わり)

これは1996年の2月中旬に当時FSBの職員として働いていたリトビネンコがベレゾフスキーに呼び出されて会話をした一部になります。当時リトビネンコはFSB職員として上司からベレゾフスキー(ユダヤ人)とウラジミール・グシンスキー(ユダヤ人、当時のNTV(独立テレビ)、モストバンクの経営者、オルガルヒの一人)とビクトル・チェルノブイルジン(当時のロシアの首相、ジョージ・ソロスとグルになってロシアを資本主義国家にしようとした人物)の3人の関係を調べて報告するように業務命令されていました。そのリトビネンコがアメリカ(金融ユダヤ人)が陰謀をもってソ連を崩壊させた経緯の中でそのアメリカとグルになって誕生してきたオルガルヒの一人であり、ユダヤ人のベレゾフスキーと会話したところの記述になります。つまり、この時点でリトビネンコは事実上、ロシアのFSBと西側諸国側のベレゾフスキーのスパイ、つまりダブルスパイをしていたことになります。

この会話でベレゾフスキーは、「選挙がすんだら、チェチェン問題にとりかかろう。約束するよ、戦争を終わらせてみせる」と言っています。

ベレゾフスキーはいろいろとチェチェン戦争に関わっていて、以前もチェチェン戦争について記させていただいた時に記しましたが、チェチェンの軍司令官に資金提供したり、チェチェン側と交渉したりとまさにチェチェン戦争を操作しているかのごとくの行動をしています。そのベレゾフスキーが、「戦争を終わらせてみせる」と言っているのです。では次にこの本のチェチェン戦争に関わる部分について記されている個所を抜粋したいと思います。

(抜粋開始)

1996年4月21日----チェチェン大統領ジョハール・ドゥダーエフが、使用中の衛星電話の電波をたどる2発の誘導ミサイルによって、暗殺される。そのときドゥダーエフは、モスクワのリベラル派国会議員と和平案について話していた。ゼリムリン・ヤンダルビエフが大統領代行に任命される。

リトビネンコ21996年5月27日----クレムリンで、エリツェン大統領とチェルノブイルジン首相はヤンダルビエフと会見をおこない、約4万人が犠牲になった1年5カ月に及ぶ紛争の休戦協定に署名する。

(抜粋終わり)

1996年4月当時チェチェンの大統領だったジョハール・ドゥダーエフが、使用中の衛星電話の電波をたどる2発の誘導ミサイルによって、暗殺されます。これはチェチェン戦争中に車で移動していた時に起こったことです。この時本当は当時のチェチェンの文化相だったアフメド・ザカーエフも同乗する予定でした。ですがそのザカーエフは当日父親の葬儀のため急きょ予定を変更し、同乗しませんでした。そのザカーエフは後にイギリスに亡命しています。そのザカーエフのこの誘導ミサイルについての見解がこの本に記されています。以下その部分を抜粋します。

(抜粋開始)

(前略)モスクワの報道機関は、この暗殺は秘密組織であるFSB兵器研究所が開発した新技術の勝利であると吹聴したが、ザカーエフはそれをひと言も信じなかった。あれほど正確に攻撃することは、ロシアでは絶対に無理だ。(注:ドゥダーエフ)大統領自身が、アメリカの技術だと言っていた。ザカーエフは、あの運命の電話にはトルコで特別な自動誘導チップが埋め込まれており、アメリカが自国の衛星を利用して、ロシアのミサイルを標的まで導いたのだと確信した。(後略)

(抜粋終わり)

つまりその時、ドゥダーエフはロシアのリベラル派の国会議員と和平交渉について電話で話していた。その最中にアメリカの技術でつくられた誘導チップによってロシアのミサイルが誘導され、ドゥダーエフがやられた。その後に大統領代行になったヤンダルビエフがエリツィンとチェルノブイルジン首相との間で休戦協定に署名した、ということになります。

ここで示唆されるのは、

・アメリカがドゥダーエフがチェチェンの大統領では都合悪いから抹殺された可能性がある
・その後に大統領代行になったヤンダルビエフがエリツェンとチェルノブイルジン首相との間で結んだ休戦協定の裏に陰謀がある可能性がある

ということです。でなければ同じ‘和平’をエリツィンやチェルノブイルジンではなく、ロシアのリベラル派の国会議員と模索していたドゥダーエフが殺される理由はないからです。

ですがとにかく、チェチェン戦争は休戦しました、がです。この本にこんな記述がありました。

(引用開始)

1996年7月8日----決選投票でのエリツィンの大勝利から5日後、チェチェンでの戦いがふたたび始まる。相手が休戦協定を破ったと、双方が主張し合う。

(引用終わり)

つまり大統領選挙でエリツィンが勝ったあとすぐにチェチェン戦争が再発しているのです。ではここでいままでの話を簡単にまとめると、

・西側諸国側のベレゾフスキーは事実上のダブルスパイであるリトビネンコを呼び出し、和平を望んでいたリトビネンコに「戦争を終わらせてみせる」と言い、FSBにつくのか、ベレゾフスキー自身につくのか、を迫られる。

・その選挙が終わる前にエリツィンがチェチェンと和平交渉を結ぶ。

・その選挙が終わったとたんにチェチェン戦争がまた起こった。

になりますがこれ、考えようによってはエリツィンが選挙で勝つためにチェチェン戦争が操作されていた、と考えられませんか? つまりベレゾフスキーには戦争を終わらせる力があり、実際に戦争は選挙期間中に終わった。その和平協定を結んだエリツィンの支持率は当然上がる。だが、ロシア包囲網を形成したいアメリカはとにかく戦争を起こしてチェチェンをアメリカが支配する国にしたい。だからまたアメリカは裏で糸を引いてチェチェン戦争を勃発させた、ということです。

ロシア包囲網で言えば、実際にアメリカはドゥダーエフに、‘アメリカの支援のもとにチェチェン、グルジア、トルコ、イスラエルの同盟を結ぶ考えがある’と話した、とこの本には記述があります。

そしてベレゾフスキーはこのロシア大統領選挙において選挙事務所を立ち上げ、自分のテレビ局であるORTなどでさかんにエリツィンの応援をしました。そんなベレゾフスキーは前述したようにチェチェンの軍司令官に資金提供したり、チェチェン側との交渉に関わったりしています。こういったことを部分部分ではなくベレゾフスキー、ジョージ・ソロス、リトビネンコなどの人物の動きを大きな枠で捉え、その枠内の流れを総観するとそう考えたほうが自然だと思えるのです。

そしてこの数年後、プーチンがロシア大統領になり、上手く西側諸国側と駆け引きをし、現在アメリカにロシア包囲網をしかせることなく対立している、ということになっています。そして日本の安倍晋三はそのプーチンの訪日を拒否するように現在、アーミテージ元米国務副長官に圧力をかけられている、という状況になっています。

田布施の謎

<前回の続き>

こうやって見てくと‘松岡はあえてドイツが対ソ連戦に負けるための外交をした’と仮定した方がしっくりこないでしょうか? そして前述した‘三スケ’の1人である鮎川義介と共にユダヤ優遇策といえる‘河豚計画’に参加しているのです。

この鮎川義介は日本の元首相だった佐藤栄作、岸信介が親戚にあたるそうです。つまり松岡洋祐とは一族として親しいということになります。

そして前述した‘三スケ’のもう一人である久原房之介の日立製作所と1937年(昭和12年)に対等合併しています。この久原房之介は2度結婚していて1度目の結婚で鮎川義介の妹のキヨと結婚しています。この久原房之介も田布施にほど近い山口県萩市の出身です。この久原房之介とは一体どんな人物だったのか? 以下に以前紹介した「神々軍隊」濱田政彦 著 三五館 刊 にその記述があったので引用します。

(引用開始)

タイトル:振り出された約束手形

満州事変という国際的ダイナマイトへの導火線は、田布施8田中義一内閣の時代に作られた。事変をさかのぼること4年前の昭和2年4月20日、若槻内閣(第1次)に代わって陸軍大将にして政友会総裁の田中義一内閣が誕生した。長州出身の田中は、神風連の乱と同時期に起きた士族の反乱・萩の乱(前原一誠主導)に参加した経験の持ち主で、ロシア通として知られていた。

田中は、尽きることの知らない豊富な資金をどこからともなく用意してくることで知られ、それは日々金策に奔走する‘やりくり代議士’たちをうらやましがらせた。北一輝の親友である政治家・中野正剛は、北と同じく三井の池田成彬から資金提供を受けていたが、湯水のごとく金を使えるだけの巨額の資金をもらっていた北とは違い、「1カ月のうちの20日は金策に追われている」と、その苦労を語るほどに金に困っていた。その恨みなのかはわからないが、中野は議会で田中の金脈を徹底的に追及し、‘同志’たちの喝采を浴びている(おそらく中野は反田中の大財閥の意向を受けたのだろう)。

田中に資金を提供していたのは、同じ長州出身で、新興財閥の首領・久原房之介であった。久原房之介は、鉱山事業で財をなし、それを手元に事業を拡大、第一次世界大戦に伴う軍需景気によって、一時は大財閥に迫るほどの勢いを見せたが、多角化がたたり、その後の恐慌のあおりを受けて、大幅な後退を余儀なくされていた。

没落の危機に瀕した久原は、事業の立て直しを義兄の鮎川義介に託すと、起死回生を狙って政治家に転身した。兄弟でスクラムを組み、政・財の頂点を狙ったのである。

鮎川義介は、明治の元老にして大番頭といわれた井上馨の下で丁稚から始めて身を起こした野心みなぎる財界人であったが、この久原・鮎川のコンビは、昭和史の動乱の背後に、つねにその顔をかいま見せることになる。

三島由紀夫が「豊饒の月」第2巻で登場させる主人公の青年・飯沼勲が‘国賊’として命を狙う財界の大物は、蔵原武介(くらはらぶすけ)という名であった。この蔵原が一体誰にあたるかで色々と言われているが、筆者はあえて具体的人物に絞るならば、久原・鮎川コンビの合成名であると信じる(私の注:久原=蔵原、義介=武介)。もっともこれはあえて言うならであって、三島は具体的な人物に限定していなかったと思えるのである。「蔵原」とは特定個人ではなく、無機質・無表情・無感情な、顔のない、腐食した‘ひと’なる生き物たちに共通した精神がゆきつく果ての、最終腐敗形態を象徴したものなのだ。

(注:引用開始)

蔵原は何かこの国の土や血と関わりのない理智によって悪なのであった。・・・・勲は蔵原についてほとんど知らないのに、その悪さだけははっきりと感じることができた。

田布施9ひたすらアメリカとイギリスに気を兼ねて、一挙手一投足に色気をにじませて、柳腰で歩くほかに能のない外務官僚。私利私欲の悪臭を立て、地べたを嗅ぎ廻って餌物をあさる巨大な蟻喰いのような財界人。それ自ら腐肉のかたまりになった政治家たち。出世主義の鎧で兜虫のように身動きならなくなった軍閥。眼鏡をかけたふやけた白い蛆虫(うじむし)のような学者たち。満州国を妾の子同然に眺めながら、早くも利権あさりに手をのばしかけている人々・・・・。

蔵原はこういう惨憺たる風景画の只中に、冷然と置かれた一個の黒い絹帽(シルクハット)だった。彼は無言で人々の死を望み、これを嘉していた。

・・・・誰が再び、太陽の喜色を仰ごうと望まぬ筈があろうか?

(第2巻「奔馬」より)

(注:引用終わり)

妖雲漂う田中義一内閣は、発足するやその2カ月後の6月27日に、日本の大陸政策を論議する「東方会議」を開いた。田中は外相を兼務していたが、同会議は久原同様、背後で田中を支えていた外務次官の森恪(もりかく)の主導により進められた。(後略)

(引用終わり)

ここで著者の濱田氏は久原房之介が大量の資金提供して総理大臣に押し上げた田中義一内閣が‘満州事変’への導火線に火をつけた、といっているのです。確かにこの田中義一首相の時から日中戦争に向かっていきました。

田中は第2・3山東出兵を行い、満州国を張作霖に任せ、当時の中国の国民党の蒋介石の中国統合には力を貸さなかった。そして関東軍の河本大作等が張作霖爆殺事件を起こします。そんな中でだんだんと日中関係が険悪になっていき、1931(昭和6)年に柳条湖爆発事件、いわゆる満州事変がおき、翌年の1932(昭和7)年に第一次上海事変がおき、日中戦争が泥沼化していきます。

田布施10そして‘三スケ’の一人の松岡洋祐は、同じ年の2月20日、国際連盟の場での「日本の満州国支配は認められない」といった決定に、認められない、として国際連盟を脱退し、日本はその翌月の3月1日に満州国を建国して、既成事実をつくったのでした。

そしてこの満州国ですが、「仕組まれた昭和史」 副島隆彦 著 日本文芸社 刊によれば、イギリスのユダヤ財閥である ロスチャイルド財閥の指導のもとにつくられ、亡命ユダヤ人たちの為に、今のイスラエルのような国を満州に作る計画を立てていた、ということです。

繰り返します、「ユダヤ財閥のロスチャイルド財閥が今のイスラエルのような国として満州国建国を日本に指導した」

つまり松岡がユダヤ難民の受け入れのために列車を手配した、とか鮎川義介が「河豚計画」でユダヤ満州国をつくり、アメリカ系ユダヤ資本受け入れ論文を発表した、うんぬん言う以前に満州国建国は、「ユダヤ財閥のロスチャイルド財閥が今のイスラエルのような国としての満州国建国を日本に指導した」、ということなのです。

田布施11もうここまではっきり真実が暴露されてくると、学校で使われる歴史教科書など‘クソの役にも立たない!’と言いたくなるのは私が下品なだけだからでしょうか? 開いた口がふさがらない、というような事実はこのようなことを言うのだと思います。

そして話は戻りますが久原房之介は鮎川義介に企業経営は任せ、自分は政治家になり、あえて中国に対して好戦的な田中義一を総理大臣にして、結果的に日中関係を悪化させ、遠因的にユダヤ満州国建国に力を貸した、といえそうです。


江戸時代末期から昭和初期にかけて田布施町及びその周辺から溢れるように日本の歴史上偉人とされる人々がでてきた、と前述させて頂きましたがつまり本当に立派な人物が多数輩出された、というよりもこの田布施13‘三スケ’の間柄にもみられるように血の繋がり(一族としての繋がり)をもたせてその一族で日本を動かすような偉人とされる人たちを輩出してきた、といった要素もあるようです。

そしてこの田布施町というところは朝鮮半島人の守護大名大内家の残党が集中して部落をつくり、少し前に記させて頂きましたが、大室寅之祐という本来の天皇家とは血の繋がりのない人物が、伊藤博文に担ぎ出されて明治天皇になった。さらには前述した‘三スケ’といわれる松岡洋祐、鮎川義介、久原房之介の3人がその周辺から輩出された。その‘三スケ’のうち松岡洋祐と鮎川義介は直接に‘ユダヤ満州国’をつくりだそうとした、ということです。

田布施12そして日米安保条約を締結し、米軍基地の存在を日本国内に半永久的にさせた岸信介や日本国内に核兵器を入れることを‘密約’でアメリカと約束していながらノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作元首相もこの山口県田布施町の出身ということです。

いやはや、田布施町及びその周辺というのは今回改めて勉強して、不可解な地域であることが確認できました。

最後に、‘ユダヤ満州国’建設に関する参考になる文献をネット上で発見したので以下にリンクを貼らせて頂いたところで終わりにしたいと思います。

http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/22898967f0e8f76c8ad4023bb6f8a3bb

<終わり>


田布施の謎

<前回の続き>

このようにヒットラーはジブラルタル海峡を封鎖されることが可能だったにも関わらずそれをしなかったわけです。私は戦争における軍事作戦には無知なので何とも言えませんが日本の敗戦の大きな原因は石油の不足だったことを考えれば、ヒットラーがジブラルタル海峡を封鎖しなかったのはこの戦争に勝つ気がなかった、と考えてしまいます。というか日本の太平洋戦争における敗戦は実はアメリカからパナマ国籍の船経由で、三菱系列の日本通商に行き、日本水産が引き受けて石油は輸入されていたわけです。つまり石油があっても日本は負けたわけです。といったことを考えればヒットラーがジブラルタル海峡を攻めなかったのはなおさら不可思議です。では次にドイツの対ソ連戦の部分について引用させて頂きます。

(引用開始)

(前略)緒戦はヒットラーに勝たせるシナリオである。ソ連は押されてナチスに席巻される危機が迫る。いままで中立を保っていた米国の参戦を呼び込む。これで戦争を世界大戦に拡大できるという算段なのだ。よって、スターリンは敢えて対ソ連戦の準備を怠っていた。ヒットラーの軍は各地でソ連軍を撃破する。独軍首脳は、この勢いに乗じてモスクワ進軍を希望する。ヒットラーはモスクワを落としてしまえば、独ソ戦が終結してしまうので、レニングラードやウクライナの工業地帯の攻撃を優先すると決定する。戦争の速度を鈍化させたかったのだ。そして8月末になって一転してモスクワ進撃を命じる。

ヒットラーの背後の黒幕は、これからモスクワに向けて進撃すれば、冬将軍に捕まって独軍は前進できなくなると読んだのだった。だから、ヒットラーに一旦は却下したモスクワ進撃を夏の終わりになって命令させたのだった。ロシアの冬は早い。10月には早くも雪が降り始める。独軍の進撃速度は遅滞し補給は途切れた。そしてスターリンのソ連が冬将軍を味方につけて反撃を開始する。(後略)

(引用終わり)

これもおかしいですよね。10月に雪が降り始めるソ連に8月末の段階で攻め始めればソ連国内に到着するのは10月に入りますよね。当時の軍事設備を考えれば。厳冬の中での戦いでは段違いにソ連軍の方がドイツ軍より有利に戦えます。

そしてドイツ軍がソ連に攻めたらアメリカ軍が参戦する。そして世界大戦へと拡大する。前述したようにアメリカはこのナチス軍のモスクワ進撃と同年の3月に武器貸与法という法律をもってソ連に武器や軍需品を輸出しています。その5カ月後の8月末にモスクワ進撃を始め、そのアメリカはソ連に援軍を出す。なんか話が上手く進行しているように感じませんか?

ここでこの第2次世界大戦の流れのストーリーが(あえて世界大戦に拡大しようととすることの目的を前提として)出来過ぎている点を確認するために連合国側と日独伊3国側のこの1940年前後の数年の流れを記したいと思います。

1938年 イギリス首相チェンバレンはドイツに対する宥和政策を決定する。だが秘密らにドイツに密使を送り、ドイツの目をソ連に向けさせようとしていた。

1939年8月末 ソ連が西側諸国が対抗していたドイツと‘独ソ不可侵条約’を締結して世界を驚かせた。

1940年5月 イギリス首相がチェンバレンからチャーチルに代わる。この後ドイツのイギリス進撃が終わる。

1940年9月 日本とドイツ、イタリアの3国軍事同盟が成立する。

1941年3月 日本の松岡洋祐が3国軍事同盟慶祝を名目としてドイツ、イタリアを訪歴し、ヒットラー、ムッソリーニとの会談を、ドイツの対英戦に日本が参戦する確約を結ぶことなく成功させる。

同年同月 アメリカが武器貸与法をもってイギリス、ソ連に武器、軍需品を輸出する。

同年4月 松岡がソ連のスターリンと日ソ中立条約を結び、帰りにスターリンと駅で抱擁する。

1941年6月 ドイツがソ連進撃を開始する。

同年8月 ドイツがモスクワ進撃を決定する(モスクワに到着したのは年末)。

となります。

<次回に続く>

田布施7



田布施の謎

<前回の続き>

しかし何と言ってもこの松岡の最盛期とされる晩年の外交は目を見張るものがあります。というか私はもうこの松岡の外交は完全にはじめからストーリーがつくられていて、松岡はそのとおり実行した、と思っています。この松岡の外交官としての手腕を認める向きがあるようですがどうも私は認めることができません。再度この松岡の晩年の外交実績についてウィキペディアから引用したいと思います。

(引用開始)

1941年(昭和16年)3月、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪、アドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニの両首脳と首脳会談を行い大歓迎を受け、両国との親睦を深めた。この際、ドイツから、対イギリスへの軍事的圧田布施4力の確約を迫られるが、「私は日本の指導者ではないので確約はできない。帰国後貴国の希望を討議する」と巧みにかわしている。往路と帰路の二度モスクワに立ち寄り、帰路の4月13日には日ソ中立条約を電撃的に調印、日本が単独でソビエトとの相互不可侵を確約する外交的成果をあげた。シベリア鉄道で帰京する際には、きわめて異例なことにヨシフ・スターリン首相自らが駅頭で見送り、抱擁しあうという場面があった。この時が松岡外交の全盛期であり、首相の座も狙っていたと言われている。日ソ中立条約締結前、イギリスのチャーチルは松岡宛に「ヒトラー(ドイツ)は近いうちに必ずソ連と戦争状態へ突入する」とMI6情報部から仕入れた情報を手紙として送ったが松岡はこれを無視し日ソ中立条約を締結したとされる。これは後年、極東国際軍事裁判の公判でイギリス側の証拠としてこの手紙が提示され明らかにされた。

(引用終わり)

もうこれって当時としてはスーパーマン級の外交ですよね。1941年(昭和16年)にヒットラーとムッソリーニとの会談を、ドイツの‘対英軍事圧力’要請に応えることなく、大成功させ、その後モスクワへ行きスターリンと日本が単独でソビエトとの相互不可侵を確約する、日ソ中立条約を成立させ、そのスターリンと駅で抱擁して日本へ帰ってくるのですから。その間1カ月くらいですかね。よく分からないのですけど。

そしてこの同じ1941年3月にアメリカは武器貸与法とかいう法律をもってイギリスとソ連に武器や軍需品を送っています。グッドタイミングですね! つまり日本が日独伊3国同盟を結んでいるドイツが戦うイギリスに対戦することに同意せず、その後の帰路でスターリンとお互いが第3国と戦った場合に中立を保つ、日ソ中立条約を結んでいるのですから。つまり連合国側を戦争に勝たせる目的で、ドイツの対英、対ソ連戦で日本のイギリス、ソ連への参戦できなくした、と考えればです。そして実際にドイツは当時圧倒的に強力な戦力を用いている、とされていたにもかかわらずイギリス、ソ連に負けています。結果として日本がドイツを負かした遠因をつくった、とも考えられませんか? つまり松岡はドイツを負かす目的でこのような外交を行ったと思えるのです。チャーチルからMI6経由のドイツの対ソ連戦情報を知りながら。

実際に第2次世界大戦の緒戦のいくつかに不審な点がみられます。‘普通に考えたら作戦として、それはおかしいだろ!!’とツッコミを入れたくなるようなものです。その不審な点を2つほどここに「新しい歴史教科書」リチャード・コシミズ著 自費出版 から引用したいと思います。上述したドイツ軍の対英、対ソ連戦についての引用です。まずは対英戦の引用から。

(引用開始)

(前略)(私の注:1940年のドイツ軍と英仏連合軍のフランスのダンケルクの戦いの後に)だが、この作戦で仏田布施5軍は総崩れとなり、フランスは1940年6月、ナチス・ドイツに降伏したのだ。残りの敵は英国だけだ。フランスがドイツの手に落ちれば、真っ先に「使える艦船をかき集めて「地中海封鎖」に転用することを誰でも考える。スペインのジブラルタル海峡は、英領植民地であるが、中東からエジプトのスエズ運河を通って石油を輸送してくるルートなのである。ここを海上封鎖してしまえば、英国は石油が手に入らなくなり戦争を継続できなくなる。

ヒットラーはスペインのフランコ将軍にジブラルタルの攻撃に便宜を図ることを依頼して断られた。内戦の終結直後で国内が混乱していることを理由にあげた拒絶だった。だが、それもユダヤ黒幕の指令の下にフランコ将軍が下した結論だったのだ。ジブラルタルが落ちれば、英国の反攻作戦は頓挫する。頓挫してもらっては困る裏社会が背後で動いたのだ。かくして「フェリックス作戦」は中止されたのである。

実際のところ、フェリックス作戦はドイツ軍単独でもできたはずだ。スペイン田布施6国内を経由せずとも海路、ジブラルタルに到達することは不可能ではなかったのだ。フランスが降伏した後、地中海に残存していたフランス海軍の艦船をかき集めて徴用すれば、ジブラルタル海峡を閉鎖することは可能だったはずだ。だが、ヒットラーは「対ソ戦」準備を優先させるとして、作戦を放棄した。要するに、黒幕から「ジブラルタル閉鎖は、英軍の生命線だから手をだすな」指示された。それだけのことである。

フランコとは、スペインのユダヤ人に多くみられる性である。・・・・(後略)

(引用終わり)

<次回に続く>

田布施の謎

                   <前回の続き>

ですがその事よりも松岡洋祐は経歴そのものが興味深いものがあります。この松岡は外務省の官僚であったのですが満鉄(南満州鉄道株式会社)の総裁もやっており、キャリアとしては、外務省→満鉄→外務省→満鉄→外務省 という感じで外務省に入っては辞めて満鉄に入り、それも辞めてまた、外務省へと外務省所属3回、満鉄所属(総裁もしている)2回とちょっと普通では考えられない経歴をもっています。そしてこの満鉄時代に実は不穏な動きをしています。

1938年(昭和13年)に満州西部の満州里駅の対岸に位置するソ連領オトポールにドイツで迫害を受けたユダヤ難民が押し寄せ、ソ連はユダヤ難民の受け入れを拒否していたので、難民は満州国への入国を希望し、当時のハルビン特務機関長の樋口季一郎(ひぐち きいちろう)少将が陸軍を無視して独断でユダヤ難民を引き入れる、といういわゆるオトポール事件が起こっているのですが、松岡はこの樋口季一郎を手助けし、列車を手配しているのです。これは松岡が満鉄に入る2回目のことであり、このとき松岡は満鉄の総裁です。

これを単純に迫害されたユダヤ人を救っただけのこと、と捉えれば何も考えずに済むのですがそうではないような気がします。しかも松岡がこのようにユダヤ難民を救う手助けをしたのは他にもあります。「河豚計画」(ふぐけいかく)という難民ユダヤ人の大量移民計画にも参画しているのです。

この「河豚計画」というのはウィキペディアによれば、

(引用開始)

(私の注:‘三スケ’の1人である鮎川義介が)1934年(昭和9年)、自動車製造株式会社を日産自動車製造株式会社と改称(私の注:鮎川は日産コンツェルンの総帥)。同年『ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について』と題する論文を発表。田布施35万人のドイツ系ユダヤ人を満州に受け入れ、同時にユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満州の開発を促進させると共に、同地をソ連に対する防壁とする構想を、ユダヤ専門家として知られる陸軍大佐・安江仙弘[6]、海軍大佐・犬塚惟重、関東軍のいわゆる「大陸派」(満州進出を求めた多くの軍閥)に立案した(のち河豚計画へと展開する)。これにより、関東軍の後ろ盾を得る。南満州鉄道の理事だった松岡洋右[7]ものちに河豚計画に参加。

(引用終わり)

というものになります。この引用文は重大な事実が3つ書かれています。列記すると、

・『ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について』と題する論文を発表
・ユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満州の開発を促進させることを目標としている
・関東軍の大陸派がこの計画を後押しする

になります。これは1934年(昭和9年)のことです。前述のオトポール事件の4年前です。この「河豚計画」に松岡も参画しているのです。

満州国が建国されたのは1932年(昭和7年)です。この2年後に鮎川義介は、「ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について」と題する論文を発表し、5万人のドイツ系ユダヤ人を満州に受け入れ、同時にユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことを提唱しているのです。そして鮎川は1937年(昭和12年)に鮎川が社長である日本産業(今の日産)を満州国の新京(現在の長春)に移転し、満州国籍の満州重工業開発に改組しています。そして後に鮎川は満州国の顧問をしています。

こういった流れをみると何かもう、(ストーリーが)出来過ぎている気がするのは私だけでしょうか? つまりこの満州国建国はユダヤ資本家が裏で糸を引いて建国した、と思えるのです。だいたいこの、ユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことを提唱、って今の日本と同じです。安倍晋三や小泉純一郎や竹中平蔵などが行ってきた、そして行おうとしている経済政策はまさにこのユダヤ系企業などを儲けさせるために行われているわけです。それを「経済戦略特区」などというもっともらしい名称をつけてごまかしているだけです。

そしてこれは前述したように松岡同様に山口県出身で、吉敷郡大内村という所の出身です。ここには「大内氏遺跡凌雲寺跡」があります。毛利家に敗れ、山口各地に散り散りなった家臣等が仕えた室町、戦国時代に守護大名だった、朝鮮半島人の大内家の遺跡が。

田布施の謎 参考動画:http://www.bing.com/videos/search?q=%e9%ac%bc%e5%a1%9a%e8%8b%b1%e6%98%ad%e3%80%80%e7%94%b0%e5%b8%83%e6%96%bd%e3%80%80%e5%8b%95%e7%94%bb&docid=607995965829220700&mid=1807BE4E12B0B4F444A21807BE4E12B0B4F444A2&view=detail&FORM=VIRE1#view=detail&mid=1807BE4E12B0B4F444A21807BE4E12B0B4F444A2

                  <次回に続く>

田布施の謎

先日、山口県熊毛郡田布施町という所に行ってきました。この田布施町周辺は江戸時代末期から昭和初期にかけて政治家や財界人を数多く出してきたところであり、その数は他の地域と比べても圧倒的に多く輩出してきたところです。

そして以前江戸時代末期に、この田布施町からでた大室寅之助という天皇家とは全く関係のない人物が明治天皇になったことについて記させて頂きました。なので今回、実際に自分がその地へ行ってみて確かめようと思い、行ってきました。

と言っても、この田布施という町はさほど検証するべくものはなく、田布施1事前の下調べで、田布施町にある‘郷土資料館’くらいしか検証するものはないと大方予想できていました。ただこういった所で働いている人(館長など)は案外一般的には知られていない真実を知っていたりする、ということも分かっていました。

なので今回この郷土資料館に行って、話を聞いてみようと思い私の地元の神奈川から向かうことにしました。

それでいざ、田布施町の‘郷土資料館’へ行き、意外な(というか自分が無知なだけだったが)事実を知ることができました。それは明治時代から昭和初期にかけて活躍した‘三スケ’と言われるうちの一人である昭和初期の外務大臣だった松岡洋祐が岸信介と血のつながりがあるという事実でした。よって現在の日本の首相である安倍晋三とも血のつながりがあるということです。

この戦前の外相だった松岡洋祐は山口県出身であり、田布施町にほど近い熊毛郡室積村(現・山口県光市)の出身でした。そして三スケの他2人、鮎川義介は山口県吉敷郡大内村という所の出身で、久原房之介は山口県萩市の出身です。つまりこの‘三スケ’こと明治以降日本の政治、社会に大きな影響を及ぼした3人ともこの田布施町周辺の出身になります。

私はこの事実だけでもすごいことだと思うのですがこの明治から昭和初期にかけてこの田布施町及びその周辺からでてきた、日本の歴史上偉人とされる人は他にもたくさんいます。ではなぜこの田布施町を含むその周辺からそんなにも偉人とされる人がでているのか?

このことについても出来れば記したいところですが今回は上述した‘三スケ’について記したいと思うのと同時に私はまだそのことについてあまり知識がないため、省かせて頂きます。ただし一つだけ記すとすれば、室町、戦国時代に中国地方の守護大名だった大内家が毛利家に敗れ、その家臣などが各地に追いやられ、特にこの山口県熊毛郡田布施町に集中したということのようです。その元々大内家に仕えていた人たちが江戸末期から明治初期にかけて復活、ではないですが力をつけて出てきた、ということのようです。そしてこの大内家というのは元々は朝鮮半島人です。

それで私はこの‘郷土資料館’で松岡洋祐が岸家と血の繋がりがあることを知り、改めてこの松岡洋祐の歴史上してきたことを思いかえしました。

まずそれで思い浮かぶのは日本人なら誰でも学校の歴史の授業で習う、‘国際連盟の脱退’だと思います。いわゆる戦前、日本が連合軍側と決別し、太平洋戦争へ突き進んでいった遠因とされるものです。

田布施2

                                       <次回へ続く>

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