靖国神社

靖国神社とは・・・・

                         <靖国神社とは・・・・韻梁海>
こういった日本の江戸時代における思想から読み取れるのは、その後の明治維新以降太平洋戦争に至るまでの日本人の思想がこの‘尊皇攘夷’というものであるという事ではないでしょうか。明治時代の日清・日露戦争も形式的にとはいえ、明治天皇の詔(許可)を得て行ったようですし、太平洋戦争もしかりです。つまり、明治2年に建立された靖国神社は戦前までの日本人の価値観で考えて、江戸幕末期以降太平洋戦争終結までの日本のために尽力を尽したとされる人たちを奉るものだといえそうです。そしてその中でも特に特筆すべき人物が日本の将来を本気で憂い、命懸けでいて夷敵船(アメリカ、ロシア船)乗り込んだ吉田松陰であり、日本を日清・日露戦争を勝利に導いた徴兵制や戦法の基礎部分を築いた大村益次郎なのでしょう。だからこそ吉田松陰の本は靖国神社の遊就館のブックコーナーで多数置いてあり、あまり知られていない大村益次郎の銅像が10メートルにも及ぶ高さでつくられたのでしょう。

と、いうことでシダーズが<靖国神社とは・・・・─で疑問に思った‘なぜ、吉田松陰の本が多数置いてあるのか’の疑問が解明できました。吉田松陰という人物はあまり知られていませんが実は日本の江戸時代幕末期から太平洋戦争終結までの日本人の思想に強い影響を与えて、そして現代においても尊敬する人がたくさんいる。そんな日本という国の存在に寄与した人たちを奉るものがこの靖国神社、といえそうです。

あとがき
9月30日に靖国神社とは・・・・,砲呂犬泙蝓∨榮11月28日まで靖国神社について記させて頂きました。長々と断続的に書き続けてしまい、微力な知識量による拙いシダ−ズの文章表現に最後まで付き合ってくださり、ここに感謝致します。

参考文献

吉田松陰2


「なぜ人は勉強するのか 千秋の人 吉田松蔭」 岩崎文吉 著 
財団法人モラロジー研究所 発行






知られざる吉田松陰伝



「知られざる 吉田松陰伝」
よしだみどり 著 祥伝社新書





時代を見通す力


「時代を見通す力 歴史に学ぶ知恵」
副島隆彦  著 PHP研究所 刊




中国原論


「小室直樹の中国原論」
小室直樹 著 徳間書店 刊





詳説 日本史


「詳説日本史 改訂版」
山川出版社 2011年発行





詳説 世界史


「詳説世界史 改訂版」
山川出版社 2011年発行





ウィキブックス 「文天祥 正気の歌」
ウィキペディア 吉田松陰 など

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靖国神社とは・・・・

               <靖国神社とは・・・・阿梁海>
この靖献遺言を吉田松陰が読んでいて、そしてその靖献遺言に記されている文天祥の‘正気の歌’にかなりの感銘を受けている。これがどういう事なのか。吉田松陰は生没が1830(文政13年)−1859(安政6年)です。浅見絅斎が靖献遺言を著したのが1684年から87年にかけてです。つまり、靖献遺言が発売されてから150年以上も経っています。1600年代という江戸時代初期の頃から吉田松陰が生きていた1800年代にわたりこの文天祥の正気の歌について書かれている靖献遺言が読まれていた事になります。江戸時代を通してのベストセラー本といえそうです。

そして前回ブログに記した山崎闇斎に話は戻りますが、この闇斎は崎門学の他に神学についても思想を深め、‘垂加神道’を広めました。この垂加神道というのは簡単にいうと、‘日本の天皇というのは神である’、という事についてその理由をくわしく述べたものになるようです。そしてこの‘垂加神道’が後の幕末の、天皇を尊び,外国勢力を追いはらう、という尊皇攘夷の思想の原点になったといわれています。そしてその山崎闇斎の弟子である浅見絅斎は靖献遺言で文天祥の‘正気の歌’を記し、王朝(国)のために戦い、何があっても敵に屈しない、という事を記し、それ以降の多くの日本人の心に深く根ざした、といわれています。つまり、1600年代という江戸時代の初期の段階ですでに幕府ではなく、天皇が一番偉く、その天皇のために日本人は命をかけて戦わなければならない、という思想が多くの日本人の心に根ざしていた、ということらしいのです。

そしてさらに興味深い事は、浅見絅斎が書いた靖献遺言は吉田松蔭だけでなく、江戸時代の幕末期に多くの人に読まれ、大ベストセラーになったという事です。どうやら江戸時代初期から、この浅見絅斎の靖献遺言と山崎闇斎の垂加神道が150年以上の時を経て、幕末の尊皇攘夷に至った、といえそうです。
              <靖国神社とは・・・・欧紡海>

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靖国神社とは・・・・

               <靖国神社とは・・・・の続き>
靖献遺言とは・・・・

そしてこの寛永期を過ぎた頃からこの朱子学、学派が分かれていくつかの学派がでてきました。その中で山崎闇斎(1618〜82)という朱子学者がうちたてた崎門学(きもんのがく)というのもその一派です。この崎門学は簡単に言ってしまえば、古代の中国の歴史、哲人に学ぶ学問です。この崎門学に前回までのシダーズブログに記した文天祥の正気の歌にでてくる晋、秦、漢、唐などの中国の各時代各国の歴史の話が記されています。つまり、古代中国の戦争を通じてを重んじる人間関係の話が多々でてくるわけです。ただ、ここではまだ具体的に文天祥の事は明記されていないようです。

その崎門学を広めた山崎闇斎の弟子に浅見絅斎という人がいて、この人が「靖献遺言」という書物を書いています。この書物に文天祥と「正気の歌」について記されています。そして浅見絅斎がこの「正気の歌」を大絶賛しています。そしてここで吉田松陰に話が戻りますが、松蔭はこの「靖献遺言」を萩の獄中で因人たちに朗読して読み聞かせています。そしてこの事を松蔭は獄中で記した「講孟箚記」(シダーズブログの靖国神社とは・・・・)に記しています。つまり吉田松陰はこの「靖献遺言」を通じて文天祥の「正気の歌」を読んでるのです。これが前出の副島氏が指摘している、吉田松陰がこの文天祥の「正気の歌」を詠み、詠い、そして松蔭自身も正気の歌をつくり、詠っていた、ということなのでしょう。

ちなみにこの「靖献遺言」という書物、どういう内容のものかというと、古代中国の戦士である屈原、諸葛孔明、陶潜、顔真卿、文天祥、謝枋得、劉因及び方考儒の8人の評伝で、その8人の共通することとして、正統の王朝に忠義を尽くし、その王朝の敵対者には徹底的に抵抗したことを記してあるそうです。特に後半の4人は、自分の栄達、生命、家族を全て捨ててまで反抗し、その忠義の対象は、正統性の有無だけで決まり、自分の利害はもちろん、その反抗が世の中のためになるかどうかも全く考慮しないもので、王朝に敵対する者に対しては、講和などは絶対にせず、自分の生命のことも全く考えず、王、国の為に命をかけて戦う生き方が正しい、というのがこの「靖献遺言」の主旨だそうです(ウィキペディア「靖献遺言」を参照)。
              <靖国神社とは・・・・韻紡海>

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靖国神社とは・・・・

               <靖国神社とは・・・・の続き>
正気の歌とは・・・・

第3段目
是氣所磅礴   これらの歴史の事象は正気が噴出して人を動かしているのであ
          り、
凛烈萬古存   これらの勇気、義のある行動とそれを行った人は歴史に永遠に残
          る。
當其貫日月   正気は年月を超え、
生死安足論   人の生死を気にするような次元のものではない。
地維魄蔑   世の中は正気によって存在し、
天柱魄並此  ‥靴論亀い砲茲辰涜困い箸気譴襦
三綱實系命   三綱(君臣・親子・夫婦の人倫の三つの大綱のこと)も正気によっ
          てその命を与えられたのであり、   
道義為之根   道義は正気を根幹とする。

第4段目
嗟予遭陽九   ああ、私は国を追われ、
隷也實不力   私は自分の国を守るための力が足りなかった。
楚囚纓其冠   私は捕虜となっても、南宋の家臣であり、
傳車送窮北   護送車によって極北(この場合は大都)へ送られる。
鼎鑊甘如飴   釜茹でにされることも飴のように甘いのに、
求之不可得   之を求めても得られない。
陰房闃鬼火   暗い牢屋は静かで鬼火が出て、
春院閟天遏  ―佞留 箆寛亜砲賄靴吠弔犬討い董陛薫罎あって)真っ黒である。
牛麒同一機  ゝ蹇並召亮人)と麒麟(文天祥)が餌箱(食べ物の容器)を同じに
                       し、 
鷄棲鳳凰食   鶏(他の囚人)小屋で鳳凰(文天祥)が飼われている。
一朝蒙霧露   もし、(この牢屋の)悪い空気や冷たい露に晒されてしまえば、 
分作溝中瘠   死体になる事を覚悟しなくてはならない。
如此再寒暑   (このような悪条件の中で)夏冬が二回過ぎたが、
百沴自辟易   病魔・悪鬼は近寄ってこない。
嗟哉沮洳場   ああ、ぬかるんだこの場も
為我安樂國   私には楽園になる。
豈有他繆巧   (このようになるのは)どうして私が何か策を施したからなのであろ
          うか。
          (いや、私が何か策を持っていた訳ではない)
陰陽不能賊   太陽も暗闇も(私の体を)損なうことが出来ないのは、
顧此耿耿在   顧みて、この明るく輝くもの、すなわち正気が私に在るからである。
仰視浮雲白   仰ぎ見て浮いている雲のように(私の精神が)白いからである。
悠悠我心悲   限りなく私の心は悲しみにくれる。
蒼天曷有窮   蒼い空は極みが在るのだろうか。
哲人日已遠   哲人がいた頃は既に遠い昔だが、
典刑在夙昔   人間の模範はその昔にある。
風檐展書読   風が吹く軒で(哲人たちの)書物を広げて読めば、 
古道照顏色   古の道(哲人たちの正気が表現された様)が私の顔を照らしてくれ
           る。
※上記の略文はシダーズの想像力とウィキブックスの注釈文をもとに作成したものであり、実際の意味、ニュアンスと同じかどうかは保障致しかねます。

以上が文天祥の「正気の歌」の略文になります。そして副島氏はこの文天祥の思想が江戸時代の西暦1660年くらいから最も偉大な東洋思想という事で日本で大ブレークした、と本の別段で記しています。

我々が中・高校などで学ぶ日本史の授業では江戸時代初期の寛永期(1624〜1643)に、学問として儒教(儒学)のひとつである朱子学が盛んになった、と教科書には記してあります。この朱子学というのは「朱子学は君臣・父子の別をわきまえ、上下の秩序を重んじる学問であったため幕府や藩に受け入れられた」(「詳説日本史 改訂版」 山川出版社 2011年刊)と記してあります。つまり君臣、すなわち幕府とその家臣もしくは藩主とその家臣との地位の違いをはっきりさせている学問であったために、幕府が家臣等を統率する、という目的のために朱子学を幕府は推奨した、という事のようです。また、父子(親子)の別をわきまえ、と記してあるように一般の家庭では父親は偉く息子はそれに従う、という事も朱子学の教えにあることから、一般の家庭の上下関係をはっきりさせ、家庭を平和に秩序だて、その結果日本社会を平和に保つ、という主旨がみてとれます。この朱子学の流れの中で1660年頃から上記の儒学のひとつである文天祥の「正気の歌」に代表される学問が大ブレークしたと書いています。

靖国神社とは・・・・

             <靖国神社とは・・・・の続き>
正気の歌とは・・・・

第3段目
是氣所磅礴   これらの歴史の事象は正気が噴出する所であり、
凛烈萬古存   永遠に残る。
當其貫日月   正気は日月さえ貫き、
生死安足論   生死などは論ずるに足りない。
地維魄蔑   大地は正気によって存在し、
天柱魄並此  ‥靴論亀い砲茲辰涜困い箸気譴襦
三綱實系命   三綱(君臣・親子・夫婦の人倫の三つの大綱のこと)も正気によっ
          てその命を与えられたのであり、   
道義為之根   道義は正気を根幹とする。
三国時代

第4段目
   
嗟予遭陽九   ああ、私は亡国に遭い、
隷也實不力   私は(国を救うために)実に努力が足りない。
楚囚纓其冠   私は捕虜となっても、南宋の家臣であり、
傳車送窮北   護送車によって極北(この場合は大都)へ送られる。
鼎鑊甘如飴   釜茹でにされることも飴のように甘いのに、
求之不可得   之を求めても得られない。
陰房闃鬼火   暗い牢屋は静かで鬼火が出て、
春院閟天遏  ―佞留 箆寛亜砲賄靴吠弔犬討い董陛薫罎あって)真っ黒である。
牛麒同一機  ゝ蹇並召亮人)と麒麟(文天祥)が餌箱を同じにし、 
鷄棲鳳凰食   鶏(他の囚人)小屋で鳳凰(文天祥)が飼われている。
一朝蒙霧露   もし、(この牢屋の)悪い空気や冷たい露に晒されてしまえば、 
分作溝中瘠   死体になる事を覚悟しなくてはならない。
如此再寒暑   (このような悪条件の中で)夏冬が二回過ぎたが、
百沴自辟易   病魔・悪鬼は近寄ってこない。
嗟哉沮洳場   ああ、ぬかるんだこの場も
為我安樂國   私には楽園になる。
豈有他繆巧   (このようになるのは)どうして私が何か策を施したのであろうか。
          (いや、私が何か策を持っていた訳ではない)
陰陽不能賊   陰陽も(私の体を)損なうことが出来ないのは、
顧此耿耿在   顧みて、この耿耿としたもの、すなわち正気が在るからである。
仰視浮雲白   仰ぎ見て浮いている雲のように(私の精神が)白いからである。
悠悠我心悲   悠々として私の心は悲しみにくれる。
蒼天曷有窮   蒼い空は窮みが在るのだろうか。
哲人日已遠   哲人 がいた頃は既に遠い昔だが、
典刑在夙昔   人間の模範は昔にある。
風檐展書読   風が吹く軒で(哲人たちの)書物を広げて読めば、 
古道照顏色   古の道(哲人たちの正気が表現された様)が私の顔を照らしてくれ
           る。

シダーズの(勝手に)略文
第1段目
この世には正気があり、この世に混然として存在する。 
地上には河や山岳があり、宇宙には星や太陽がある。  
人が正気に生きることを浩然の気という。 
それは天地に壮大に存在する。 
この世が平和で清らかな時は、朝廷が不正などなく、健全に機能しているという事だ。動乱が起きれば正気が現れ、それは全て歴史に残る。 

第2段目
斉の国では官吏が使う竹でできた書物。

晋の国では董狐が権勢を恐れず史実を忠実に書いた筆。

秦の国では張良が母国の仇で秦国に投げさせた鉄鎚(槍)。

漢の国では蘇武が捕らえられても王との契約を19年も守ったその契約書。

厳しい顔をした(自分の)将軍の前に立って戦った嵆紹(西晋国の政治家)が、自分の将軍を命をかけて守った際に飛び散り、将軍の服にかかった血となる。  

唐の時代、安史の乱で雎陽を守備していた張巡(おそらく唐の政治家)が激しく歯を噛みしめながら懸命に戦った際に砕けた歯と為り、

唐の時代、安史の乱で常山を守っていた顔杲卿(唐の政治家)が敵の安禄山に捕まり、家来になるように言われたが、その安禄山を罵ったので舌を抜き取られて死んだその顔杲卿の舌となる。

また、遼東の、一生涯を清貧に生きた素晴らしい人格者であった管寧(中国三国時代の学者)がかぶっていた汚い帽子となる。そしてその一見、清らかな管寧の節操は氷雪よりも厳しい生き方だ。 

また、三国時代の国の一つである蜀(国)の諸葛亮(政治家、軍人)が魏の国と戦うために出陣する際に、母国を憂う文、以前、母国の王だった劉備に感謝の文を読み上げたその文章録になり、

それを聞いていた周りにいた者たちはもちろん、鬼神さえも壮烈に泣く。

また、祖逖(そてき、五胡十六国時代の東晋の将軍)が後趙の国と戦う際の長江を渡るための船になって、
その船に乗っている祖逖は、「後趙を倒さないうちは再び長江を渡らない」と宣言した。  

唐の朱漾覆靴紊擦ぁ砲王を裏切り、反乱を起こした際に、段秀実は謀反をやめるように説得に行ったが、朱澆竜せちが変わらないと見ると持っていた笏(長板)で、朱澆瞭を叩き割った。
元

※上記の略文はシダーズの想像力とウィキブックスの注釈文をもとに作成したものであり、実際の意味、ニュアンスと同じかどうかは保障致しかねます。
             <靖国神社とは・・・・に続く>

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靖国神社とは・・・・

               <靖国神社とは・・・・の続き>
文天祥とは・・・・

以上が「歴史に学ぶ知恵 時代を見通す力 副島隆彦 著 PHP研究所 刊 第2章「現在につながる仏教と神道の対立」からの抜粋文になりますが、どうですか。この副島隆彦氏の吉田松陰にたいする論評と‘靖国神社とは・・・・に記したような一般的に知られる吉田松陰像と比較するとだいぶ印象が変わってくるのではないでしょうか。

もちろん、どちらがより真実に近いか分かりません。が、ひとついえる事はこの副島隆彦氏の吉田松陰評は、前回のブログの1段目に記してある、文天祥の「正気の歌」と吉田松陰をむすびつけて論評している点が一般の吉田松蔭評と決定的に違います。副島氏は、‘吉田松陰も文天祥の「正気の歌」と全く同じ内容の歌(詩)を作り歌い、中国漢籍をほとんど読んでいる’と記述しています。では、この文天祥の「正気の歌」とは一体何なのか、記していきたいと思います。

まず、この文天祥という人、中世(と言っていいのか)中国の南宋の文官(官僚)です。出没が西暦1236〜1282年です。この時代中国では、我々も小・中・高校の日本史の授業でおなじみの元(国)のフビライ・ハンが猛威を振るって中国全土を統一していきます。その中でこの文天祥が文官を努めた南宋もこのフビライハンに攻め込まれます。そして南宋の王は殺され、文天祥も捕らえられ、牢獄に入れられます。3〜4年間です。ですがこの文天祥、捕らえられた時に、張 弘範(フビライ・ハンの直属の家来か)に「すでに中国(宋)はきれいに滅んでしまった。あなたの忠節はつきた。宋に仕えたように元に仕えれば丞相(首相)にしてもらえる」といわれています(「日本人のための中国原論」小室直樹 著 徳間書店 刊による)。つまり、元の首相にしてやってもいい、と言われているわけです。

これ、すごい事だと思いませんか。戦争で滅ぼした相手国の人を首相にしてやる、と言っているわけです。この文天祥がよほど能力があったのでしょう。ではその文天祥の‘正気の歌’とはどんなものなのか、下に記します。

正気の歌(第一段目)
原文       略文
天地有正気     天地には正気(正しい気)があり、  
雑然賦流形   混然として形を持たず(この世に)ある。
下則為河獄     下に行けば河や山岳と為り、
上則為日星   上に行けば日星に為る。
於人日浩然     人に於いて(正気が発揮される場合は)浩然の気と言う。
沛乎塞蒼冥     大いに天地に満ちている。
皇路當清夷   大いなる道が清らかで太平な時は、
含和吐明庭   和やかに明るい朝廷(つまり不正などが行われていない健全な朝
                      廷)に吐出される。
時窮節乃見      動乱の時代になれば、(正気を元とした)節義が顕れ、
一一垂丹青     一つ一つ、歴史に残る。

第2段目
在齊太史簡  斉では太史の竹筒。
在晉董狐筆  晋では董狐の歴史を書く筆。
在秦張良椎  秦では張良が投げさせた鉄鎚。
在漢蘇武節  漢では蘇武の符節。
為嚴將軍頭  厳顔将軍の頭と為り、
為嵆侍中血  嵆侍中の血と為る。
為張睢陽齒  雎陽を守備していた張巡の歯と為り、
為顏常山舌  常山を守備していた顔杲卿の舌と為る。
或為遼東帽  或いは出師表と為り、
鬼神泣壯烈  鬼神も壮烈に泣く。
或為渡江楫  或いは長江を渡る際の楫(かじ)と為り、
慷慨呑胡羯  その意気は異民族の羯を呑んでかかる。
或為撃賊笏  或いは賊を撃つ段秀実の笏と為り、 
逆豎頭破裂  反逆者の頭は破裂する。
※ウィキブックス 「文天祥 正気の歌」から抜粋。
文天祥
<靖国神社とは・・・・に続く>  

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靖国神社とは・・・・

              <靖国神社とは・・・・の続き>
吉田松陰とは・・・・

(前回の引用の続き)これが「講孟箚記」であり、激しい政治パンフレットだ。このことを学長の山県大華は危ない思想だとはっきり見抜いた。この俊才の若者の思想は危険な思想であると。今の体制をひっくり返そうという思想である。まさしく吉田松陰も文天祥の「正気の歌」と全く同じ内容の歌(詩)を作り歌い、中国漢籍をほとんど読んでいる。気風が横井小楠や橋本左内、西郷隆盛と全く同じだ。勤王同盟の思想だ。

吉田松陰が偉いところは、真っ正直で歪みがないところだ。今の民族派や愛国者(保守派)を自称しているような人たちのような裏表がない。彼らの一部は吉田松陰を崇拝していると自称するだろうが、どうも気風が違う。実際はアメリカに屈服している卑屈な人々だ。

1853年7月にペリーの艦隊が浦賀に来て、翌年2月にまた来て、日本政府(江戸幕府。はじめの日本側代表は林大学頭副済 :はやしだいがくのかみふくさい)と横浜に上陸して交渉する。このあと、日本側のしぶとい「(た)ぶらかし戦術」に妥協して、「5港開港」を条件に、ズルズルと下田にまで後退した。できる限り江戸城から遠くに離れさせられた。そして開国(和親条約、修好条約)の交渉をしていた。

その下田港に停泊していたペリーの旗艦であるポーハタン号(インディアンの王女「ポカホンタス」の友好的な部族の名前からつけられた)に吉田松陰は乗り込もうとして、3月27日夜、中間の金子重輔と深夜に小船で弁天島から漕ぎ出していって、漢文の横書きで、「我をしてアメリカに連れていかしめよ」と大書した文書を示した。艦上にあげられて、夜勤当直の将校から、不審者として幕府側に引き渡された。

今でもなお吉田松陰研究家を自称する者たちの間にさえ次のような俗論がある。松蔭先生はポーハタン号に上がったとあと油断させておいて毛唐たち(舶来者の蔑称:シダーズ注)をを刺し殺すために胸に小刀をひそませていたとか。松蔭は決してそんな俗論でいわれるような愚かな人ではない。真心が天に通じるような立派な人だ。だから今もなお多くの人々に尊敬されている。

このあと幕府で厳しい取り調べを受けたあと、因人として駕籠(かご)に入れられて萩に護送される。そして野山獄という長州藩の政治犯たちが入れられる牢獄に入れられる。そこで上級の因人(武士たち)に説いて聞かせたものが「講孟箚記」だ。だから書き方が演説調にできている。そのあと釈放されて、家に帰る。

松下村塾というものが本当にあったか少し疑わしい。今、萩にある記念館は、後世の作り物だと私は思います。本当はもっと汚らしい町中の一軒家で、そこに夜になると勤王同盟の若者たちが寄り集まってきて、ワイワイ議論していたのだと思う。松蔭は蟄居謹慎の身だ。三年間くらいだ。コソコソみんなで隠れて集まって藩論をひっくり返すというような議論をしていた。その激昴する議論そのものが松下村塾だ。

しかし、ここに集まっていた下級の藩士たちのうち、後に明治政府の高官になった者たちは吉田松陰先生の精神を大きく裏切っている。自分たちが幕府に殺されたらたまらん、負けそうだということで、裏からイギリスの支援をもらって、資金をもらって、表面では尊皇攘夷と言いながら、裏でイギリスの手先となっていった。ここの大きな裏切りのところを今の私たちは見抜かなければならない。高杉晋作、木戸孝允、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)、山県狂介(有朋)らだ。

それに対して蛤御門(禁門)の変(1864年7月)でさっさと死んでいる久坂玄瑞たちは松蔭の精神を裏切らなかったと私は判定している。松蔭の叔父の玉木文之進(乃木希典の親族)は、のちに「萩の正気はここに朽ちたり」と憤慨して自刃している。前原一誠ら「萩の乱」を起こした奇兵隊の残党たちには松蔭の正義が伝わっていた。それにひきかえ、‘明治の元勲’と呼ばれて長生きした者たちは、どうも怪しい。本当は相当に悪い政治家に成長したのではないか。自分たちの主観としての志は高かったろうけど、本心は攘夷でも何でもなかった。だから彼ら元勲たちは日本国の裏切り者といえば裏切り者だ。しかし政治的には勝者だ。政治の本質は悪である。(「歴史に学ぶ知恵 時代を見通す力 副島隆彦 著 PHP研究所 刊 第2章「現在につながる仏教と神道の対立」から抜粋)

靖国神社とは・・・・

               <靖国神社とは・・・・の続き>
吉田松陰とは・・・・

ここまで吉田松蔭の凄さについて記させて頂きましたがでは、この吉田松陰という人物は松蔭が生きたこの江戸時代末期という時代背景を加味して考えた場合、どういう人間像になるのか、という観点から記したいと思いま松蔭記念館す。ここまで記させて頂いたシダーズの吉田松陰像は一般的に知られる吉田松陰についての歴史的評価に少し詳しく詳らかにしたに過ぎません。ただその観点からだけの見解だけだと、どうも真実はつかめないようです。例えばよく言われる‘明治維新の立役者と言われる坂本竜馬は実は裏で何者かに操られたスパイだった’説などもそうで実際の歴史の真実、というのは我々が小・中・高校などで教わる歴史の授業なども所々美化されていて(もしくは裏で何か大きな力が働いていて)、事実が歪曲されているところがあり、伝えられていない、と言われています。なのでこの江戸時代末期の日本の社会情勢という背景を考慮して、吉田松陰の真実に迫ってみたいと思うのですが、その真実を追求する上で参考になる文献が見つかりました。まずはその文献を転載します。(注:本当に真実かどうかは保障できません
('A`|||))。

引用開始

タイトル:吉田松陰「講孟箚記」------日本の正当な支配者は天皇である

幕末の長州藩の藩校は明倫館という。この明倫館という萩にある有名な学問所の学長(学頭)をしていた山県大華という偉い学者がいた。彼は正統の朱子学者だった。それに対抗して吉田松陰(寅次郎)という若い男が出てきた。彼は9歳で明倫館に学び、11歳で藩主の毛利敬親にご進講(侍講)した。22歳で勝手に脱藩(休職願いのようなものだろう)して全国旅行や兵学研究をしている。1854年に吉田松陰旧宅自分の先生であり、松代藩士で洋学者の佐久間像山と企てて、下田港に停泊中のペリー艦隊を見物しに行った。そして松蔭は従卒と深夜に旗艦ポーハタン号に乗り込んだ。そして「私をアメリカに連れて行ってくれ。世界を見せてくれ」と頼んだ。聞き容れられず夜勤の将校に捕まり取調べられて因人として藩に帰される。そして野山獄という藩の牢屋に入れられた。この時、25歳だが講孟箚記」(「講孟余話」とも呼ぶ)という本を書いた。周りの因人(政治犯たちもいた)たちに話しながら、書物にした。孔子と孟子の思想を論じるという振りをしながら朱子学(徳川幕府の体制の学)を批判して尊王と倒幕の思想を表明した。箚記というのは簡略にした物語、分かりやすい論文ということだ。

この本の中で「回天」という思想が出てくる。徳川氏を中心とした体制をひっくり返すべきだと説いた。はっきりと倒幕とは書いていないのだけれども、そういう危険思想を集まってきた下級藩士たちに説いた。本当の日本の支配者、統治者は大君である、天子(天皇)である。天子とは何かというと、日輪の子だと書いている。「日嗣」と書いている。天皇は日輪の嗣子(長男坊)即ち、太陽の直接の子孫だと書いている。これは中国の皇帝とは違うのだと書いている。(「歴史に学ぶ知恵 時代を見通す力 副島隆彦 著 PHP研究所 刊 第2章「現在につながる仏教と神道の対立」から抜粋)次号に続く。
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下田
・安政元年(1854年):伊豆下田に再航していたペリーの艦隊に金子と共に赴き、密航を志願するが拒否され、その後幕府に自首するが、長州藩に檻送され野山獄(牢屋)に入れられる。
つまりこれはペリーがすでに日米和親条約を幕府と結んでいたため、日本をある程度この不平等条約によって手なずけていた状態になっていたので今さら吉田松陰をアメリカに連れてってやっても特にメリッはない、と判断したため、捕らえて拒否した後、長州藩の牢獄に入れられた、という事です。ですが実はこの長州の牢屋である野山獄に送られる前に約2週間ほど下田の牢獄に入れられています。この2週間の間、松蔭はどのように過ごしていたか。道行く人に当時の日本のおかれている危機的な現状を訴え続けています(知られざる「吉田松陰伝」  よしだみどり著 祥伝社新書 による)。道行く人、というのはこの下田の牢獄は道路に面していておそらく牢部屋の中から鉄格子越しに訴え続けていた、という事でしょう。捕まって牢屋に入れられている身になりながら日本のおかれている危機的な現状を訴え続ける、なんて事を行っている吉田松陰は精神的にかなり強靭である事は言うに及ばず、日本の危機を憂う愛国心をも強く持ち合わせていた、という事なのでしょう。

そしてこの下田の牢獄に入れられて約2週間後、長州の野山獄に入れられるわけですがここでも凡人ではあり得ない行動をしています。なんとこの野山獄の中で高齢者を中心とした因人たちと勉強会を開いているのです(「人はなぜ勉強するのか 千秋の人 吉田松蔭」岩橋文吉 著 財団法人 モラロジー研究所 刊による)。この野山獄という牢獄は武士階級の因人を入れる所で吉田松蔭を含めて12人いましたが、どの因人も刑期が決まっているわけでもなく、いつになったら牢獄を出られるか分からなかった為、みな自暴自棄になり、生活は堕落して、喧嘩も頻繁に起っていたそうです。そんな牢獄で吉田松陰は因人たちを相手に勉強会を行い、なんと半年もすると地獄のような状態だった牢獄が学校の教室のようになっていた、という事です。

では吉田松陰はどのようにしてこの因人たちを説得して勉強させたのか、その説得にあたって松蔭が因人たちを諭すために語った一文が前出の(「人はなぜ勉強するのか 千秋の人 吉田松蔭」岩橋文吉 著 財団法人 モラロジー研究所 刊に記してあったのでここに記します。

「今しばらく諸君と学問をする意味を考えてみよう。通俗の考えでは、もはや囚われの身になったからには再び世の中に出たり、太陽を見る希望がなくなった。懸命に勉強をして学問が出来上がったとしても何の利益があろうか、などと言う。これは損得本位の考えである。道義の考え方はそうではない。人の心が生まれながら与えられている天性や事柄の真理から見て、当然な事を一つとして為さない事はない。人として生まれ人の生きる道を知らない。臣として、子として、また武士として、そのあり方の正しい道を知らない。なんと最大の恥ではないか。これをもし恥じる心があるなら、書を読み、道を学ぶより他に方法がない。そしていくらかの道を知る事になれば心からの喜びではないか。‘その日の朝に人生の正しい道を知ったなら、その夕に死んでも悔いはない’と言う孔子の言葉はこれを言うのである」(吉田松陰が獄中で著作した「講孟余話(講孟箚記)」に記載)。
講孟余話
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吉田松蔭とは・・・
では、こういった吉田松陰の経歴の重要な要点と思われるところについて補足説明をさせて頂きます。
まず、
・天保11年(1840年):藩主の毛利慶親に戦法についての講義を行い、その才能をかわれ、藩校である明倫館の兵学教授に任命される。
とありますが吉田家はもともと山鹿流(山鹿素行が祖)兵法の伝統を伝える兵学の家筋でした。生まれてから叔父の玉木文乃進に兵学などの学問のスパルタ教育を受けて育ちます。このスパルタ具合は強烈で、本を読む姿勢が悪いだけで殴られ、読む時の声が小さいと蹴られていたりしたそうです。ですがそれだけのスパルタ教育の甲斐があってなんと10歳で当時の長州藩毛利家藩主 毛利敬親に兵法を講義するようになります。
佐久間象山
・嘉永4年(1851年):参勤交代で江戸に行き、佐久間象山(兵学、朱子学者)に学ぶ。
この洋学者でもある佐久間象山との運命的な出会いがあり、吉田を精神的にも実質的にも助けて行く事になります。

・この年 宮部 鼎蔵(みやべ ていぞう:尊王攘夷派の武士)らと通行手形の発行が遅れたため、脱藩行為をして東北に遊学する。
この時点で吉田は遊学(勉学)の為、江戸に来ています。
この頃、アメリカ、オランダ、イギリス、ロシアなどの外国船(主に捕鯨船)が日本の近海のいたるところに現れていました。東北地方でも現れており、略奪が行われている、という話が広まっています。吉田はそんな東北地方の国防が気になり、その東北地方の惨状を自分の目で確かめ、東北への遊学(調査)を決意します。だが、そんな吉田の狙いを幕府は見透かし、わざと江戸を出るために必要な通行手形の発行を遅らせます(というか発行するつもりなし)。なので吉田はこの同志の宮部と脱藩行為を決意します(当時は幕府の許可無く藩を出る事は違法行為にあたる)。
4ヵ月後、吉田は江戸に戻るが脱藩の罪により、故郷の長州に帰されます。

・嘉永6年(1853年):アメリカから来たペリー艦隊の来航を見て、感化され、外国留学の意志を固め、※金子重之輔(しげのすけ:長州藩士)と長崎に寄航していたロシアの軍艦に乗り込もうとするが失敗する。
この時点で吉田はすでに長州をでて遊学する事が許されていて江戸にいました。そんな時にアメリカから日本に開国をさせるように指令を受けたペリーが浦賀に来ます。その知らせを聞いて吉田は佐久間象山とこの年の6月、ペリー艦隊の調査に行きます。
そして翌7月、今度はこの頃すでに日本との国境問題が発生していたロシア船が長崎に来ます。浦賀でペリー艦隊をすでに見ていた吉田はその脅威を肌で感じていて日本の国防についての危機意識はかなり高まっていました。なので吉田はすぐに長崎へ行く決意をし、ロシア船に乗り込み、ロシアまで行き、視察するつもりでした。そして吉田は10月27に長崎に到着しましたがその2日前にロシア船はすでに長崎を出航していました。なので吉田のロシアへの密入国の計画は失敗に終わります。
※この金子重之輔と長崎に寄航していたロシア船に乗り込む計画というのはウィキペディアの記載によるものであり、どうも本当は先に吉田が長崎へ向かい、その事を後から知った金子が吉田を追いかけて長崎へ向かったが途中で諦め、江戸に戻り、吉田を待っていた、という事らしいです(知られざる「吉田松陰伝」 よしだみどり著 祥伝社新書 による)。
ペリー
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