政治

六ケ所村再処理工場の代替案

私は「原発事故を考える町田市民の会」という市民団体に入っている、と以前にも書きましたがその会から、

「プルトニウムの分離を終わらせる日本の使用済み燃料管理のもう一つのアプローチ」(2013年8月)
作者:田窪 雅文、フランク・フォンヒッペル
核分裂性物質に関する国際パネル(IPFM)
米国プリンストン大学と国際安全保障に関するプログラム

という論文が送られてきました。これは使用済み核燃料廃棄物についての論文になるのですが私が読んでみると、結構難しくまた、そこそこ長い文章だったのですが、その中の一つに「再処理に代わる道としての乾式キャスク貯蔵」というタイトルの文がありました。

これは、一言で言えば、六ケ所村の再処理工場を運転させることの代替として、「乾式キャスク」というものに使用済み核燃料を入れて処理すれば低コストで済む、といったものでした。今日はそのことについて書きます。ではまずはその部分の引用から。
※太字・大字は私による。

(引用開始)

タイトル:再処理に代わる道としての乾式キャスク貯蔵

 

米国のような再処理を放棄した国々では、使用済み燃料プールが満杯になると、使用済み燃料は、プールで最も長く冷却されているものから順次巨大な冷却式キャスクに移されていて、通常は、原子力発電所の敷地内に置かれている。

 

世界中の原子力産業が、乾式貯蔵を低コストの成熟したテクノロジーと見なしている。ドイツでは、2000年にドイツ政府と電力会社が英仏の再処理工場への使用済み燃料の輸送を2005年半ばに中止することで合意した後、運転中の原子力発電所の全てで、敷地内空冷乾式貯蔵施設が迅速に建設された。使用済み燃料の取り出しが続けられるようにプールに空きを作るためである。図2は、2つの例を示している。

 

(図2は略)

 

日本は、県及び市町村との間に特殊な「紳士協定」を結んでいる点で、米国と、そして、おそらくは他の国々とも異なっている。この「紳士協定」により、県及び市町村は、標準的な16ヶ月の運転サイクル(13ヶ月の運転と3ヶ月の検査)の後の運転再開に関して同意が必要となっている。20113月の福島第一原子力発電所の事故の結果、2013年半ば現在、日本の発電用原子炉のうち2基を除いてすべてが運転を停止している。再稼働のためには、20137月に施行となった原子力規制委員会の新基準の下で同委員会の許可を得なければならない。しかし、再稼働の申請を委員会が許可したとしても、再稼働には県及び市町村の同意が必要となる。

 

日本における現在の発電用原子炉運転モラトリアムは、福島第一の事故後の安全性に関する懸念から来たものである。古い使用済み燃料をプールから乾式貯蔵に移すことは、原子炉サイトの安全面でのリスクを増やしはしない。実際、原子力規制委員会の田中俊一委員長は、委員長就任後最初の記者会見で、取り出し後5年以上たった使用済み燃料を乾式貯蔵に移すよう促している。

 

「強制冷却が必要でないような燃料については乾式容器に保管する・・・多分、5年くらいは水冷却をする必要があります・・・ほかのサイトについて、そういうことをするように求めていきたいと思います。」

 

国が再処理中止の断固とした決定を行い、そして、各県が、県内の原発は運転しても安全と確信している場合、乾式貯蔵問題との関連で原子力発電所が閉鎖に追いやられるというのはありそうにない。

 

県が敷地内貯蔵量の拡大について持つ実際的懸念は、地層処分場あるいは使用済み燃料の敷地外中間貯蔵を引き受ける県がない状態では、敷地内貯蔵が永久的なものになってしまわないかというものだろう。

 

日本は、他の国々と同様、使用済み燃料及び高レベル廃棄物の処分計画の進展に向けた信憑性のある戦略を必要としている。地層処分場のサイト探しは、2000年の「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」(最終処分法)制定によって始まった。同法によって、「原子力発電環境整備機構(NUMO)」(原環機構)が設立された。2002年、NUMOは、地下300メートル以上の深さの高レベルガラス固化体地層処分場の受け入れについて、地方自治体の公募を始めた。だが、一つの町が応募しただけで、この応募も、地方の政治反対により、撤回となった。

 

しかし、地層処分場選定の進展がないからといって、技術的にも、政治的にも、再処理が必要となるわけではない。ドイツや米国その他の多くの国々で、地層処分場あるいは集中貯蔵施設サイトの選定に向けた短期的進展がないにも拘わらず、再処理ではなく原子力発電所敷地内乾式貯蔵が選択されている。

 

今日、六ケ所施設は、日本の中間貯蔵施設となっている。現時点で、約3,000トンの使用済み燃料を貯蔵している。また、ヨーロッパでの再処理で生じた日本の高レベル廃棄物を保管している。そして、2006----2008年の六ケ所再処理工場試運転の際に425トンの使用済み燃料を再処理した結果生じたプルトニウム、ウラン、放射性廃棄物を貯蔵している。六ケ所再処理工場が運転されれば、これらの分離済み物質の量は急に増大するだろう。

 

青森県は、恐らく、放射性廃棄物は青森県に50年以上置かないとする約束を国は守れないかもしれないことを理解しているだろう。しかし、次のような過去のコミットメントと経済的利益のために状況を受け入れている。

 

・日本原燃が県民に直接提供している1400人分の雇用や、MOX燃料工場の建設、後の運転時の雇用

 

・日本原燃が、使用済み燃料の持ち込み・貯蔵に関して県に支払う税金。これらの活動は、県に納められる「核燃料税」のほとんどを占める。同税は、2012年度、160億円に達した。県税の14%に上る

 

・六ケ所村が国から得る多額の交付金(2011年度は26億円)、日本原燃の固定資産税及び寄付金、これらを合わせると、六ケ所村の収入の半分を占める

 

青森県は、六ケ所再処理工場の運転が無期限延期となるか、閉鎖が決まった場合、経済的利益が継続されるとの条件で、日本の中間貯蔵施設を受け入れ続ける用意があるだろうか。

 

青森県が中間貯蔵所だという現実は変わらない。実際、六ケ所再処理工場の運転があまりにも長期にわたって継続され続けているため、青森県は、すでに、核燃料税の対象を、再処理のために毎年運び込まれる使用済み燃料の量から、貯蔵されている使用済み燃料の量に移してきている。しかし、遅くとも分離済みプルトニウムを軽水炉に戻してリサイクルすることに力点が移された1997年以降、再処理は意味のある事業ではなかったという事実に向き合わなければならなくなる。

 

国は、日本の高レベル廃棄物及び乾式キャスクに入れた使用済み燃料の中間貯蔵サイトを提供し続けることからくる経済的利益と、それらの利益の喪失との間の選択について、青森県及び六ケ所村と公正に交渉すべきである。代替経済開発の援助など追加的利益も提供することができるだろう。

 

六ケ所村再処理工場を運転しないことの決定がなされた場合、原子力発電所立地自治体も、同様の選択に直面することになるだろう。プール貯蔵よりも安全な敷地内乾式貯蔵を受け入れるか、使用済みプールが満杯になった場合に税金や、運転中の原子力発電所を受け入れることからくる他の経済的利益を失うか、という選択である。原子力発電所立地県が、六ケ所再処理工場にある使用済み燃料が県内の原子力発電所に送り返されてくるのを受け入れるかどうかは、また別の問題である。

(引用終わり)


言うまでもないが原発を稼働させればその排液として放射性廃棄物がでる。それは最低でも
10万年以上空中に放射能を排出し続ける。今現在日本では、その廃棄物は青森県の六ケ所村再処理工場に中間貯蔵している。中間、というのはその六ケ所村に永久に保存しておくのではなく、一時的に置いていて、将来は他の所へ移す、という‘条件’があるから‘中間貯蔵’となっている。作業工程の中間という意味ではない。だが、すでに何十年も六ケ所村に置かれ続けている。

 

六ケ所村再処理工場敷地内に保管されている理由はもちろん、ここで再処理するためにだ。再処理とは何なのか?、再度燃料として使う場合とガラス固化体参考リンク:http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/2017-03-14.html)にして廃棄する、この両方のこと言っている。だが、この再処理の過程で実は、再処理する前の200倍の量の放射能が発生する、という試算もある。しかもこの再処理工場は設計ミスが隠蔽されていた、ということが2007年に発覚している。

この、とりあえず六ケ所村に置いてある放射性廃棄物は、2000年に制定された「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」(最終処分法)に則って最終処分地が決定され、そこの地下深くに永久に埋め込まれる、予定になっている。

 

予定というのは引用文にあるように、最終処分地になることをどこの自治体も拒否しているからだ。だから国は今現在、北海道の幌延(ほろのべ)町に強引に、最終処分地になることを迫っている(参考リンク:http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/2017-02-25.html)。

 

この最終処分地に永久に廃棄される廃棄物は排液を固化した‘ガラス固化体’だが、そうではなく、原発敷地内にある廃棄物のプール(保管所)から取り出したものを乾式キャスクに入れ、その原発敷地内で保管した方が低コストで、海外の原発保有各国はその方向で動いている、と上の引用文に書いてある。

 

だからその方向で動くべきなのだがそれをしたくない青森県の理由がある。再処理工場を建設し、稼働させることによって生じる1,400人分の雇用やそれによって青森県や六ケ所村に入ってくる税金、といった経済的利益の損失だ。

 

そしてこの再処理工場の運転を止めると六ケ所村だけでなく、原発を所有している各都道府県及び自治体にも経済的損失がでる、可能性がある。つまり、六ケ所村での再処理を止めるとなると可能性として、国内の全原発を停止することが考えられる。つまり原発の稼働によってでた放射性廃棄物を最終処分を含め、再処理しないわけだから原発を稼働し続けることは理論上できない、となる。処分しないで廃棄物を出し続けることはできないからだ。

 

だからあくまでも可能性としてだが、六ケ所村の再処理工場の運転を止めることが、原発の停止につながる、と言える。

使用済み核燃料廃棄物の映画「チャルカ」

先日、「チャルカ」という使用済み核燃料廃棄物の映画を宣伝しました。で、私も実際に鑑賞しました。なので今日はその映画「チャルカ」の内容を簡潔にまとめてみました。以下がその文です。

 

青森県六ケ所村。ここでは今、放射性廃棄物の再処理工場が建設されている。

 

この他に「低レベル放射性廃棄物埋設センター」という施設があり、この施設で原発で発電されたあとに残る放射性廃棄物の低レベルのものが最終処分される。

 

一方、放射性廃棄物の高レベルのものはまずイギリスとフランスに送られ、そこで再処理される。その後に出た高レベル放射性廃棄物は3050年の間、そこで冷却保存される。そして六ケ所村に返される。

 

その返された高レベル放射性廃棄物は、今度は六ケ所村の「高レベル放射性廃棄物センター」で一時保管される。「一時」と国は言っているが期間が決まっているわけではない。保管もしくは廃棄もしくは処分する場所がなく、六ケ所村にとりあえず置いているのを「一時保管」と言っているにすぎない。

 

この高レベル放射性廃棄物は液体で、それをガラス燃料とともに高温で溶かして、ステンレス製の容器に入れて冷やして、固めて保管される。これを「ガラス固化体」と言っている。

 

この高レベル放射性廃棄物を捨てる場所を、国は今決めようとしているのだが、この有力候補となっているのが北海道の幌延町だ。

 

北海道の幌延町にはその最終処分地として適切かどうかを見極めるとされる「深地層研究センター」というものがすでにある。こういった施設を国はすでにつくって稼働させている一方、国は幌延町と「20年契約」といったものを結んで、20年間研究してその後、施設は地中に埋め戻す、としていたが契約は守られていない。

 

この「深地層研究センター」は19851123日に建設された。つまりこの施設の稼働はすでに31年を超えている。なので幌延町の人たちは怒り、埋め戻しをするよう役所に迫っている状態だ。

 

また、幌延町の人たちは何としてもその「深地層研究センターを」埋め戻すよう、ダンプカーなど車両を連ねて低速で走らせる抗議デモなども過去に行っている。

 

このデモの一つで「幌延デー北海道集会」というものがあり、これは19851123日の稼働1日目から毎年この日に行われている。つまりそもそも幌延の人たちはこの施設の建設に初めから反対で、国が強引につくって稼働させたのだ。しかも「20年稼働したら埋め戻す」としていた約束が破られて11年も経過しているのだ。

 

一方、岐阜県瑞浪市にもこれと同じような施設「瑞浪超深地層研究所」というものがある。こちらも同じように核廃棄物を地中に埋め込むための研究がされている。

 

事の発端は1962年にこの瑞浪市の隣の土岐市でウラン鉱床が発見されたことだった。このときに原子力研究開発機構(当時の『動燃機構』)がウランを掘り起こすためにこの土岐市に入ってきた。そしてこのウラン鉱山地帯を「東濃鉱山」とよぶようになった。

 

だが、1980年代にウランの輸入が認められるようになり、この東濃鉱山でのウラン探査は終わる。だが、1986年から瑞浪市で高レベル放射性廃棄物の研究が始められた。しかもこのことは住民には知らされなかった。さらにはこの頃すでに東濃地域に地下研究施設をつくる計画もあった。そしてこれからこの東濃地域では放射性廃棄物の処分における研究データが最も多く集められることとなった。

 

さらに1995年、岐阜県、瑞浪市、土岐市の自治体は住民の反対を押し切って研究所受け入れの契約を原子力研究開発機構と結んだ。そしてその研究所からはフッ素やヒ素が含まれる排水が流されるようになった。

 

一方世界で初の放射性廃棄物の最終処分場が建設されているフィンランドのオンカロという地域がある。ここでもこの最終処分場に反対する住民の声がある。その一つが「抵抗の家」という主にドイツから来た人たちでつくられた組織だ。

 

この「抵抗の家」の敷地には有機栽培で野菜をつくる畑があり、数十人が泊まれるようになっているのだが、トイレは水洗式ではなく、用を足したあと何かを振りかけて消臭するようなかたちで環境を破壊しないような生活している。

 

しかし逆にこの最終処分場に反対しない住民も多数いるのも事実だ。その理由の一つにこの最終処分場を受け入れることによってかなりの税収が入ってくることがある。この最終処分場を受け入れることによって固定資産税だけで59億円また、そこで働く人の所得税で17億円が1年間にオンカロがあるエウラヨキという町に入ってくる。

 

また、フィンランドという国の地盤は岩盤であるということも放射性廃棄物の最終処分場を受け入れることに抵抗が少ない理由だ。日本と違い岩盤なので地震がほとんどない。この岩盤の地層は18億年以上全く動いていないと言われる。

 

それはフィンランドという国はユーラシア大陸の真ん中に位置する地形によるものだ。日本のようにユーラシア大陸の東端にあり、日本列島のちょうど中央に、南北にわたる中央構造線があるような地下環境とは大違いだ。

 

オンカロ

また、フランスのビュールという地域も最終処分場が建設されようとしている。これはANDRA(アンドラ)という会社によって計画されている。

 

こちらも最終処分場の建設に反対する住民がいる一方、賛成の人もいる。賛成する住人の理由の一つはこちらも上述のオンカロ同様に、雇用の創出があげられる。何せこのビュールという町は人口が少なく、産業が何もない。失業率は20%にもなる。地域住民からしてみれば、むしろ最終処分場が建設されれば働き口ができるので歓迎する向きさえある。

 

そしてフィンランド同様に地震が少ない、ということも歓迎される理由になっていると思われる。このビュールの地層も8000万年以上動いていない、と言われている。

 

この雇用面のメリットということでいえば、前述の、低レベル放射性廃棄物を最終処分する施設があり、高レベル放射性廃棄物を一時保管する施設がある六ケ所村にもあてはまる。六ケ所村も人口が少なく、産業がない村だからだ。

 

しかし仮にこの六ケ所村とフィンランドのオンカロやフランスのビュールを比較するとすれば、気を付けないといけないことがある。前述のとおり、フィンランドやフランスは日本と比べれば圧倒的に地震が少ないということだ。

 

そんな日本では今、六ケ所村以外でさらに最終処分場がつくられようとしている。その一つが上述した北海道の幌延町でありまた、岐阜県の瑞浪町及びその周辺も、法的には、つくられることを完全には否定していない、ということだ。

 

以上が私の映画「チャルカ」のまとめ文になります。尚、この映画は近々首都圏のいくつかの映画館で公開予定です。

チャルカ3


使用済み核燃料廃棄物の映画「チャルカ」

今日は使用済み核燃料廃棄物の危険性について訴えている映画「チャルカ」について宣伝させて頂きたいと思います。というのは私は東京都町田市の市民団体「原発事故を考える町田市民の会」の会員なのですが各スタッフがかなり真剣にその映画チケットを売り込んでいるにもかかわらずがあまり売れ行きが芳しくないのと、こういったことに我々が関心を持っていないと国が際限なく原子力政策を進めてしまうからです。

 

また、この映画の価値としては、「原発」を我々が考えるときには「原発再稼働阻止」をおおむね意識しますがこの映画「チャルカ」は原発を稼働させた後に発生する「使用済み核燃料」に焦点を当てていることです。

 

もちろん我々がすべきことは、まずは「原発再稼働阻止」ですが、仮に原発の再稼働を阻止できたとしてもすでにある使用済み核燃料の問題は残るわけです。今時点でのその量は、194586日、広島に落とされた、モルガン財閥=デュポン財閥=ロスチャイルド財閥が開発したウラン型原子爆弾「リトルボーイ」120万発になります。

 

そして今現在、青森県の核燃料再処理工場のある六ケ所村に保管されていますが、さらに他の地にその場所を確保するために国は動いています。その候補地に挙がっているのが北海道の幌延という地域なのですが、その選定過程もかなり杜撰(ずさん)なものになっています。この北海道の幌延に決定しようと経産省やJAEA(日本原子力研究開発機構)などは動いているわけですがその地域に行って調査すらまだしていないのです。調査しないで10100万年の間人間から隔離が必要とされる核燃料廃棄物を北海道の幌延の地中に埋めようとしているのです。

 

また、使用済み核燃料廃棄物を地中に埋め込む候補地を選定し、地図上に示す際には地震や津波や地下水の要素について考慮しない、とよくわからないことを経産省・エネルギー庁の役人は言っています。こういった杜撰な過程を得て、政府は使用済み核燃料廃棄物を地中に埋め込もうとしているわけです。

 

関連リンク:http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8815718.html

      http://becquerelfree.hatenadiary.jp/entry/2017/02/20/142151

 

こういったことを踏まえると、映画「チャルカ」の視聴価値は高い、と私は思います。

この映画「チャルカ」は本日10日のみ、

東京都町田市町原町田4-9-8 町田市民フォーラム3F

で上映される特別上映になります。上映時間は午後2:30~7:00〜の2回になります。チケット代は¥1,200 です。

直前の宣伝で恐縮ですがもし可能であれば足を運んでいただけたら嬉しいです。

チャルカ3
東京2
神奈川2


はじめから広島・長崎への原爆投下は決まっていた

今、私は「原爆の秘密(国内篇)---- 昭和天皇は知っていた」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊という本を読んでいて、この本をもとに何度も書いてきましたが、やっとこの本を読み終え、この「国外篇」を一昨日、読み始めました。なので今日はこの本をもとに書いていきたいと思います。

それは広島、長崎の原爆が落とされた理由についてです。それは先日も書きましたが、現在日本国内に54基もある原子力発電を安倍が稼働させたがったいる理由が「世界の多くのウラン鉱山を支配しているロスチャイルド財閥を儲けさせるため」であるのと同じとうことです。ロスチャイルドが‘カネ儲け’するために広島と長崎に原爆が落とされ、数十万人の死亡者を出したということです。ではまずはその真相に迫る部分の記述が同著にありましたので以下に引用したいと思います。

(引用開始)

(前略)ベルギー領コンゴについて書くことにしよう。ユースタス・マリンズの「世界権力構造の秘密」の新版が原爆82007年に出た。その上巻に「ロスチャイルドのベルギー・コネクション---ランベール家」がある。

「ロスチャイルド家のベルギー分家を探ってみると、ロスチャイルド家が19世紀にアフリカにおよぼした影響の一端をたどることができる。レオン・ランベール男爵(フランス家ジェームズの孫娘リュシー・ベッティと結婚)はレオポルド王のベルギー帝国の資金提供者だった。コンゴ・シンジゲートといわれた企業連合のなかには、アンパン男爵(初代エドアール・〜)のカンパニー・ドリアン(東方会社)、F・フィリプソン社、バンク・ウートルメール(海外銀行)が入っていた。この企業連合はパリ銀行、英国--イタリア・グループ、北京シンジゲートと密接な関連をもっていた。

ベルギー領コンゴ(コンゴ自由国、現ザイール)は、レオポルド王がスタンリー(サー・ヘンリー・モートン・〜。行方不明になったリヴィングストンを発見)の探検隊に資金を提供したのちに、1885年に成立した。コンゴの面積はほぼポーランドの面積に匹敵し、コンゴ産のゴムや象牙、黒人奴隷からは莫大な見返りがあった。のちにユニオン・ミニエールが広大な銅の鉱区を獲得した。それがカンパニー・ド・カタンガ(カタンガ会社)である。彼らの冷酷な代理人の一人がエミール・フランク(フランキとも)で、のちに中国およびベルギー救済委員会でハーバード・フーヴァーの相棒となった人物である。彼の名前はポート・フランキという地名としてコンゴに残っている。現在コンゴの利権は、1822年創立のブリュッセル最古のソシエテ・ジェネラル・ド・ベルジックと1827年創立のアントワープ銀行を合併したソシエテ・ジェネラル・銀行をとおしてランベール家によって支配されている。ソシエテ・ジェネラル銀行の総裁はフォコンヴァール男爵で、ロックフェラー財団の理事でもある。」

ベルギーのロスチャイルド分家を通して、ベルギー、そして植民地のベルギー領コンゴが書かれている。次に、ジェームス・S・アレンの「原爆帝国主義」(1953年)から引用する。コンゴのカタンガ地方のウラン鉱山のことが書かれている。

「カタンガ地方にあるシンコロブウェは、西欧列強がもつ最大の瀝青ウラン鉱山である。同鉱山の鉱石は、カナダ産瀝青ウランより放射性物質の含有量が高く、その量においてもコンゴーの埋蔵量はカナダのそれを上回ると信ぜられている。

戦前のラジウム・カルテル加盟国間における世界市場分割をみてみると、コンゴーとカナダの鉱山の比重は、他に比べて大きい。同鉱山を所有する金属鉱山トラスト、ユニオン・ミニエール・オー・カタンガ(高地カタンガ鉱業連盟---U・M)は、戦前における世界最大のラジウム生産者であった。1920年代はじめに同鉱山がラジウム生産に入ったとき、アメリカのコロラド高原にあるヴァナジウム生産諸会社は、ラジウム生産から手を引くことを余儀なくされた。昔からあるチェッコスロヴァキアのボヘミア鉱山も当時なお一構成員ではあったが、30年代なかば、カナダの瀝青ウランが強力な競争者となりはじめるまでU・Mが世界のラジウム供給を支配した。」

「世界権力構造の秘密」と「原爆帝国主義」の2冊の本を引用した。読者はたぶん、2つの点に気づいたはずである。その1つは、「ベルギー領コンゴにロスチャイルドの分家が大きな影響力を有していた」ことである。もう1つは、30年代なかば、カナダの瀝青ウランが強力な競争者として登場したのに、どうして、アインシュタイン書簡はそのことに触れないで、アフリカのベルギー領コンゴのウラン鉱に注目しろ、と書かれたのか?

アインシュタイン書簡の第一の目的は、アフリカのコンゴのウランを使用させるために、ルーズヴェルト宛に書かれたことが分かるのである。シラードもアインシュタインも軍に利用されただけである。(後略)

(引用終わり)

コンゴ(現在のザイール)のウラン鉱はそこを植民地支配しているベルギーを通して流通していた。そのベルギーを支配していたのはベルギー帝国のレオポルド王。このレオポルド王のパトロンがレオン・ランベール男爵。このランベール男爵がロスチャイルド・フランス家初代当主ジェームズ・ロスチャイルド(参考リンク:http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/2015-02-08.html)の孫娘リュシー・ベッティと結婚した。つまりロスチャイルドが今日まで繰り返して勢力図を拡大してきた身内の結婚による閨閥が当時ベルギー帝国の王であったレオポルドにまで力を及ぼしているということです。

しかしこの引用文で鬼塚氏が指摘している通り、当時遂行されていた広島・長崎への原爆投下計画すなわち「マンハッタン計画」が行われていたアメリカに近いカナダで、「30年代なかば、カナダの瀝青ウランが強力な競争者として登場したのに、どうして、アインシュタイン書簡はそのことに触れないで、アフリカのベルギー領コンゴのウラン鉱に注目しろ、と書かれたのか?」という疑問があります。アインシュタイン書簡というのは科学者のアインシュタインが当時ドイツが行っていた「原爆製造計画」を念頭にルーズヴェルト大統領に「原爆をつくれ!」と書いた書簡です。当然、地球の裏側のアフリカ大陸のコンゴより隣国のカナダのウラン鉱をマンハッタン計画で使った方がいろんな面でいいわけです。ではここで参考までにその「アインシュタイン書簡」が同著に記されていたのでその部分を引用したいと思います。

(引用開始)

タイトル:「アインシュタイン書簡」という伝説

アルバート・アインシュタイン博士よりルーズヴェルト大統領への書簡をまず読んでみよう(1939年8月2日付。レスリー・R・グローブス「原爆はこうしてつくられた」1964年、より引用)。

「EフェルミとL・シラルト(シラード)の最近の若干の仕事が私の手許に原稿のまま送られてきました。私はこの仕事の内容から、ウラン元素を近い将来に新しい重要なエネルギー源に転換することが可能であろうと期待するようになりました。このため生じた状況のいくつかの面を考慮すると、警戒を払うことが必要な模様であり、またもし必要とあれば、政府が迅速な対応を講ずべきだとも思われます。したがって、私は次の事実と勧告に閣下の関心を引くことを自分の義務と信ずるものであります。

この4ヶ月のあいだに、フランスのジョリオ・キューリーならびにアメリカのフェルミとシラルトの仕事を通して、大量のウランの中に核分裂連鎖反応を起こし、これにより巨大な力と新しいウランに似た大量の元素を放出することが可能となるかもしれない----そうした見込みが生じてきました。これを近い将来に実現できることは、今やほぼ確実であると思われます。

この新しい現象はさらに爆弾の製造にも適用されるでありましょう。そして---確実性はずっと低くなるが---このやり方によって新型のきわめて強力な爆弾を作り出せることが考えられます。この型の爆弾を船で運んで港内で爆発させるならば、一発で港全体ならびに周囲の地域を破壊できる公算がひじょうに大きいのであります。しかし、このような爆弾は空輸するにはあまりに重すぎるおそれがきわめて大であります。

合衆国はウランについてはきわめて含有量の少ない鉱石をいくらか所有するにすぎません。カナダと旧チェコスロバキアに若干の良質の鉱石があるが、最も重要なウラン産地はベルギー領コンゴであります。

以上の状況にかんがみ、政府とアメリカにおいて連鎖反応に従事している物理学者との間にはなんらかの恒常的な接触を保つこと好ましいと考えられます。これを実現する一つの可能な方法は、閣下がこの仕事を、信頼できかつ非公式な資格で従事できる人物に委任することかもしれません。その場合、その人物の使命は次のようなことになるでしょう。

1.政府機関に接近し、関係省庁に今後の新しい動きをたえず報告し、政府のとるべき措置に関して勧告し、とくに合衆国のためのウラン鉱の供給を確保する問題に着目する。

2.現在のところ大学の諸研究室の予算の範囲内で進めているこの実験作業を促進し、そのために資金が必要であれば、この大事業のために貢献することを望む民間人との接触を通じて資金を調達し、また必要な設備を有する工業研究所の協力を得ること。

ドイツは同国が接収したチェコスロバキアの鉱山からウラン売却をじっさいに停止させたと聞き及んでいます。ドイツがこのようなすばやい措置をとった理由は、いまウランに関するアメリカの仕事の若干が反復されているベルリンのカイザーウィルヘルム研究所に、ドイツの外務次官フォン・ワイゼッカーの息子(C・F・ワイゼッカー博士)が配置していることから、おそらく理解できると思われます。」

以上が「アインシュタイン書簡」である。だが、この書簡はアインシュタインが直接書いたものではない。この書簡を実際に書いたのは、ハンガリーからアメリカに亡命したユダヤ人の物理学者レオ・シラードである。(後略)

(引用終わり)

この「アインシュタイン書簡」はまことに不思議な文章と思います。科学者であるアインシュタインがときのアメリカ大統領のルーズヴェルトに「原爆をつくれ!」と書いているだけでなく、それからのルーズヴェルトの動き方や資金の調達の仕方までアドバイスしています。普通ではまず考えられないでしょう。否、書いたのはアインシュタインではなく、「ハンガリーからアメリカに亡命したユダヤ人の物理学者レオ・シラードである」と鬼塚氏は書いています。そして同著にはこの書簡にアインシュタインは「署名」しただけ、とも書いてあります。

そして一つ目の引用文で鬼塚氏が指摘したとおりこの「アインシュタイン書簡」ではカナダにウラン鉱があるとしながらもそれは全く意味がなく、コンゴのウランを原爆製造に使うべき、と書かれています。

1つ目の引用文からロスチャイルドが当時のベルギー王に強い力を及ぼしていて、コンゴのウランはそのベルギーで取引されていた、ことが分かり、「アインシュタイン書簡」にはカナダのウランではなく、コンゴのウランを使うべき、とわざわざ当時有力な科学者として知られていたアインシュタインに署名させ、ハンガリー系ユダヤ人のシラードがこの書簡で説いていることが分かりました。では次に広島、長崎に原爆が落とされた理由が記されている部分を引用したいと思います。

(引用開始)

(前略)もう一度、「原爆帝国主義」から引用する。

「ベルギーの敗北とドイツによる同国の占領とにもかかわらず、戦争はこの巨大な独占体の基本的地位に影響をあたえなかった。1946年の年次報告によると、同社(私の注:ソシエテ・ジェネラル銀行のこと。1つ目の引用文にでてきたロスチャイルドの分家であるランベール家がこの銀行を通してコンゴのウラン利権を得ていた)の支配はその傘下会社をいれる堂々たる大ビルディングを擁し、事実上無傷で残り、戦後第一年には5%の配当金を支払うことができた。これは、同社重役の一部と支配人が残留してドイツ人と協力する一方、他の重役たちがロンドン亡命政府政府に参加したという事実によってはっきりと説明できる。ロンドンに亡命した重役たちは、ベルギー領コンゴーを含む連合国支配下の諸国にあるかれらの持ち株を管理し、ドイツ敗北の際におけるかれらの財産の安全をはかることができたのである。どんなことになっても、たとえベルギーをナチスからは開放しても、同社から開放することはできなかった。」

この文章の中にこそ、「原爆がどうしてつくられ、ど原爆9うして広島と長崎に落とされたのか」の秘密が書かれている。

ヒトラーはベルギーに侵攻した。しかし、王室と金融業者の私的企業である銀行を支配せずに、逆に支援したのである。その明らかな証拠は、同銀行が戦後の第一年(1946年)に5%の配当金を支払ったことの中に見出し得る。王室と金融業者、そして政治家たちの大半は亡命政府をロンドンにつくり、ヒトラーの協力を得て、第2次世界大戦でぼろ儲けをするのである。どうしてぼろ儲けができたのか。その理由はすでに書いた。しかし、もう少しだけ書くことにしよう。

戦後第一年での5%の配当金は、王室と私的企業の一銀行がコンゴのウラン鉱山から巨大な利益をあげるために、ヒトラーを誘惑し、原爆の開発体制をつくらせ、そして途中で放棄させたのである。このソシエテ・ジェネラル銀行の背後に「原爆カルテル」の姿が見え隠れするのだ。

アインシュタインはベルギー王室のエリザベート皇太后と親しかった。ベルギー王室はアインシュタインを背後で動かしたとも考えられる。もう一度、「世界権力構造の秘密」を引用する。

「ソシエテ・ジェネラルは1981年12月にユニオン・ミニエールを取得したが、すでに1972年には以前ウートラメール銀行だったカンパニー・ウートラメールを取得しており、1964年にはヨーロッパ最大の持株会社であるSOFINA(運輸工業金融会社)の株の25%を握っていた。これらの会社は1840年にランベール男爵の創立したロスチャイルド系のブリュッセル・ランベール銀行によって支配されている。当代のランベール男爵はソシエテ・ジェネラル銀行の役員、50の発電所を有するカンパニー・ジェネラルダンテルプリーズ・エレクトリック(電気事業総合会社)の社長をつとめる。」

ベルギーの王室とロスチャイルド家が一体となってヨーロッパを支配する姿が詳細に描かれている。ブリュッセル・ランベール銀行こそが、今日でも世界経済を動かす中心である。この銀行の中にEU(ヨーロッパ共同体)の本部ができた。IMF(国際通貨基金)の専務理事のほとんどはこの銀行が決定する。この銀行はイスラエルの政治・経済までも実質的に支配している。ベルギー領コンゴのウラン鉱山からウランがアメリカに送られ、広島と長崎に原爆が落とされたのには、深い意味があったのである。

では、次項でヒトラーと原爆について書くことにする。世界の秘密のベールがもう一枚剥がされていくのを読者は見ることになろう。

(引用終わり)

ヒトラーはベルギーに侵攻し、占領してもなぜかロスチャイルドの分家であるランベール家のソシエテ・ジェネラル銀行を自分のものにしなかった。それどころかこの銀行の大半の役員が逃げたロンドンの亡命政府をつくるのを黙認している。さらにはこの銀行は戦後、株主に5%もの配当金を出している。その株主にロスチャイルド家とソシエテ・ジェネラル銀行のロンドン亡命政府に逃げ隠れた幹部役員たちが名を連ねているのは想像に難くないでしょう。

そしてその5%もの配当金を出せたのはコンゴのウランをソシエテ・ジェネラル銀行を通してアメリカに売りつけ、広島と長崎への原爆投下による。だからロスチャイルドと銀行の幹部の連中はボロ儲けできた。

このロスチャイルドの分家であるブリュッセル・ランベール銀行は現在において、EU(ヨーロッパ共同体)の本部を有している。イギリスのロンドンでもなければフランスのパリでもない。ベルギーの、それもブリュッセル・ランベール銀行の中にEUの本部がある。しかもアメリカのワシントンに本部がある、日本が消費税を上げるだいぶ前から日本に消費税を上げることを勧告していたIMF(国際通貨基金)の専務理事のほとんどをこのブリュッセル・ランベール銀行が決めている。

さらにはアメリカと密接な関係があり、アメリカの代々の大統領が常に顔色をうかがってきたイスラエルの政治・経済をもブリュッセル・ランベール銀行が実質的に動かしている、と著者の鬼塚氏は書いているのです。

このような事実を知れば、「世界を裏で支配している頂点はロックフェラーだ!」とする説が妄説のような気がして私はなりません。

被爆者の治療をいっさいしなかったABCC

先日から「原爆の秘密(国内篇)---- 昭和天皇は知っていた」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊 という本をもとに書いていますがまた、書きたくなったことが出てきたので書きたいと思います。

前回は広島と長崎に落とされた原爆によって苦しめられ、被曝死させられた被爆者の事実を書いて、いかに日本という国が戦中、戦後ともにアメリカの隷属国であり、被爆者に対してさえも、アメリカの指示によって動く国である、ということについて記させて頂きました。今日も同じ趣旨で書きます。但し同じ被爆者に対しての、アメリカの指示による日本政府の動きではありますが、よりアメリカや日本という国が日本国民を、‘人’として扱っていないことを表したものになります。では、まずはそのことが書かれている部分を、長くなりますが引用することから始めたいと思います。

(引用開始)

(前略)2007年の秋、私は報道写真家福島菊次郎の「ヒロシマのウソ」(2003年)を読んだ。この本の「あとがき」の最後に、住所と電話番号が書かれていた。プロフィールも書かれていた。1921年山口県下松市生まれと書かれていた。「生きているのだろうか?」と思った。ある日、電話した。はっきりとした声の持ち主だった。彼はこう私に語った。「そうか、原爆の本を書いているのか。明日の昼ごろか、よし、黄色い傘を玄関の前においておく。ドアを開けて入ってくれ・・・・」

私が彼に会いたかったのは、彼の本を読んで、こんなに真剣に原爆と格闘している人はいない、と思ったからである。電話した翌日に私は彼に会った。

私は本の中で「衝撃を受けた一人の女性」がいた。それは、「原爆乙女の怒り「私には強姦してくれる男もいないの」」の中で書かれている女性であった。次のように書かれていた。ダイジェストする。

「1995年、長谷川幸子さん(仮名)をはじめ25名の原爆乙女が太平洋を渡ってケロイドの痕を残した若い女性たちだった。福島は書いている。

原爆1「長谷川幸子さんを知ったのは、ビキニ水域における米国の水爆実験に抗議し、実験水域にヨットを乗り入れて抗議した米国人物理学者、アーノルド・レイノルズ博士とバーバラ・レイノルズが広島に移住し、「ワールド・フレンドシップ・センター」を開設(1965年)したのを取材に行ったときだった。センターは海外から広島に立ち寄る外国人のガイドや、レイノルズ夫妻を中心にした日本における国際的な平和運動の拠点で、長谷川さんはバーバラの通訳兼アシスタントだった」

その彼女と福島の間に友情が芽生える。
「お父さんが、もし幸子と結婚する男がいたら、家も建ててやる、何でもしてやると言っているのに、こんな顔では縁談がないの」

と青春の悩みを率直に福島に語るようになる。彼は次のように書いている。

「8月が来ると彼女はいつも語った。「8月6日が大嫌い。毎年各社のカメラマンが「ちょっとお願いします」と言ってパチパチこの顔を撮って晒し者にし、6日が過ぎれば使い捨てです。もういいかげんにしてよと言いたくなりますが、この顔が役に立てばと我慢してきましたがもう嫌です」。そんな話を聞くと余計に写したいとは言えなくなったが、ある日、ついに取り返しのつかない過ちを犯してしまった。」

福島はある日、一人のカメラマンの撮影に応じた彼女が不愉快な目に遭わされたので「一杯飲んで夕食でも食べませんか」と誘った。幸子さんは、「まだ先ほどの出来事にこだわり、ときどき指先でケロイドの襞(ひだ)を伝って流れる涙を押さえながら話し始めた」と福島は書いている。福島は幸子さんとネオン街に出る。
福島は書いている。「幸子さんの顔を写させて」と言いながら前に回ってカメラを構えた。この場面をどうして忘れえようか。

「その瞬間、彼女の足がアスファルトに釘づけになり、瞬きもせず僕の顔を睨みつけた。怒りに震えた両手が僕の胸倉を掴んで揺さぶりながら叫んだ。「福島さん、あなたという人は」

後の言葉は途切れてすぐに声にはならなかった。胸倉を掴んだ手が激しく震え、間近に迫ったケロイドの顔に焦げた臭い臭いを感じて思わず後ずさりした。「写させて」と言っただけなのに彼女がなぜ激しく怒り出したかわからなかった。その当惑に、血を吐くような激しい言葉を叩きつけた。」

私はここに書くのもつらい。ただ、次の言葉を残し彼女は福島の前から姿を消したのである。そして、福島が電話して詫びようとしても電話口にも出なかったのである。

「・・・・こんな顔になって私には結婚してくれる人もいないのよ。子供が好きだから、お母さんに抱かれた赤ちゃんに思わず声をかけるの、そのたびに何が起きると思う。どの赤ちゃんも私の顔を見たとたん、火がついたように怯えて泣き叫んでお母さんにしがみつくの。どんな惨めな気持ちになるかあなたにはわからないでしょう」
「よく聞いて、街を歩いていても、後ろから冷やかし半分に近づいて来た男たちが、私の顔を見たとたん、みんな声を上げて逃げるの。そのたびに死にたくなるわ。死のうとしたこともあるわ、こんな惨めな気持ちがあなたにわかるっ。福島さん、私には強姦してくれる男もいないのよ」と叫ぶと幸子さんは僕を突き放し、大声で泣きながら土曜日の夜の雑踏のなかに姿を消した。」

私は今や86歳になる福島菊次郎に、この幸子さんのことを問うた。「幸子さんは福島さんに惚れていたんですね」。福島は沈黙を守り続けた。そして、ぽつりと言った。「う〜ん、いろんなことがあったんだ」

この「ヒロシマの嘘」の中に、アメリカが広島と長崎につくったABCC(原爆傷害調査委員会)のことが書かれている。

週刊朝日編集部編「1945-1971 アメリカとの26年」(1971年)から引用する。

(中略:ここでこのABCCやその歴史について書かれている。)

この本の中にはABCCのことが詳しく書かれている。広島に住む詩人深川宗俊さんの主張が、この本に載っている。「占領軍が駐留していたころは被爆者をもてあそんでいたくせに、今になって手のひらを返したように「世界人類のため」などとゴタクを並べて協力を要請する。そもそも原爆を落とした国が被害を受けた国に乗り込んで調査研究をやるというのは、人道上許されないことではないでしょうか」

かのときの占領軍は被害者にピストルを突きつけ、「アナタ、軍法会議ニカカッテモイイデズカ」とおどし、少女を全裸にして、体のすみずみまでライトで照らし出す。あげくのはてに恥毛の発育状態まで検査する。そのため少女は気が変になってしまった、という例も報告されている。

吉川清は「「原爆1号」といわれて」(1981年)の中で、ABCCの横暴について触れている。

「ABCCの活動については、被爆者の不満や不安、疑惑と非難の声が絶えなかった。健康の不安に怯えながらも、日雇いに出なければ、その日を暮らせない被爆者にとって、ABCCの検査に1日つぶすことは深刻な生活問題であった。しかも、治療は一切しないばかりでなく、検査の結果も何一つ知らせはしなかった。それではモルモットではないか、というのであった。おまけに検査の結果、身体に異常をきたす者まであったのである。そして、被爆者が死んだと聞きつけると、ABCCは必ずといってよいほどにやって来ては、遺体を解剖させてくれというのだ。それは、死骸にむらがるハゲタカを思わせた。実は、その上にABCCの調査の手は、被爆していない人たちの上にまでのびていた。ある婦人は子宮組織を切り取られたといい、またある娘さんは強引な検査のために、気が狂ったというような話まで伝えられた。そのABCCは、1951年になると、規模を拡大し、設備を充実して、比治山の上に幾棟かの施設を作って移転したのであった。

吉川清は被爆者組織の「原爆傷害者厚生会」を1951年8月27日につくった。この組織が、被爆者の結束をうながすことになった。

原爆投下からそれまでの6年間、被爆者は沈黙を強いられ、差別を受けて生きてきた。国家は彼らを見殺しにしていた。吉川は「原爆乙女」とともに東京へ行く。なにゆえか、彼らは巣鴨拘置所を訪問することになる。彼は怒りを込めて書いている。

「加賀興宣と畑俊六(私の注:終戦直前に西日本の陸軍を統括した第二総軍の司令官として、アメリカと共謀して広島の原爆投下を画策した、と鬼塚氏がする人物。参考リンク:http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8204663.html)が登場して、あいさつをのべた。戦争責任者としての反省も、悔恨の言葉も、2人の口から聞くことができなかった。」

吉川は1947年、アメリカの通信社のカメラマンの要望に応じ、広島日赤病院の屋上で自らの被曝写真を撮らせた。アメリカの各紙は彼を「原爆患者第一号 ヨシカワ」として報道した。吉川は「原爆第一号」と自ら名のり、被爆者の先頭に立ち、被爆者更生法のために尽力した。私はこの彼の本を読み、「よし、原爆を書こう」と思ったのである。

このABCCを告発し続けた男こそは、原爆写真家、否、日本最高の勇気ある写真家・福島菊次郎であった。彼は次のように書いている。

「政府は原子爆弾の被害に驚き、被爆直後に広島、長崎両市に「臨時戦災救助法」を適用した。しかし現地の惨状を無視して、わずか3ヶ月後の11月には同法を解除して30万被爆者を焦土のなかに野晒しにした。国家は戦争でボロ布のように国民を使い捨て、奇跡的に生き残った国民の命さえ守ってはくれなかったのである。」

天皇の皇弟高松宮を総裁とあおぐ日本赤十字社がすすんで原爆被害者を見捨てたことが、はっきりとここに書かれている。

福島菊次郎は、多くの原爆患者と接し、彼らの写真を撮り続け、この不条理の中からABCCが誕生してきたことを知る。そして彼はABCCの内部に潜入する。

「ABCCは、1948年のからの2年間だけでも5592体の人体解剖を実施した。休日なしに稼働しても2台の解剖台で1日7体解剖したことになる。驚くべき数字ではないか」と指摘している。彼は続けて書いている。

「この時期は被爆後5年間に5万人近くの人々が何の手当を受けることなく放射性障害で次々に死亡していった時期である。戦後の荒廃とインフレの中で葬式を出す金にも困った遺族の苦境に乗じ、謝礼程度の金で遺体を収奪し、死亡者の約半数を半強制的に解剖してのである。原爆を投下して二十数万人を惨殺したうえに、生き残って貧苦と病苦に喘いで亡くなった被爆者まで借貸なく軍事研究の生け贄にした行為は、ナチスのアウシュビッツの残虐行為を超えるものである。」

福島菊次郎は大手出版社の編集部からアメリカ大使館を通して交渉してもらい、簡単な取材許可が下りたのでABCCに行きダーリング所長に面談し内部を視察し、写真を撮る。彼は解剖台まで見る。彼は書いている。

「被爆者が亡くなると黒い喪服を着て花束を持って現れ、「日米友好のために」と無礼に遺体の提供を強要するABCCの日本人職員の姿がその解剖台の背後に見え隠れして、やり場のない怒りがこみ上げてきた。解剖台に運ばれて毎日流れ作業的に行われている人体実験を想像し、独立国家とは名ばかりで、アメリカの属国であり続ける国民の悲哀と屈辱を噛みしめながら、シャッターを切り続けた。

(中略)

しかも、ペンタゴンは放射能障害の死に至る克明なデータを収集研究するために、ABCCに「原爆の徹底的な研究のために被爆者の治療をしてはならない」と禁止した内部通達まで出していたことが2002年に公表され、現在なお約1万8000人が追跡調査対象になっていることもわかった。

この報道をより衝撃なものにしたのは、ABCCの実態が初めて明らかになったのに、国も反核団体も被爆者も一切反応せず、抗議する姿勢を示さなかったことである。アメリカに殺生与奪の権を委ね切った国は、もはや「医療行為でもない」、被爆者の遺体を切り刻まれる非人道的行為に抗議する勇気すら失ってしまったのだろうか。」

読者よ、この福島菊次郎の「アメリカに殺生与奪の権を委ね切った国」という怒りの言葉を、私は書き続けてきたのだ。誰がどのように殺生与奪の権を、誰に委ねたのか。その点に焦点を絞って私は書いてきた。

原爆はどうして、広島と長崎に落ちたのか?その問いもこの点にあるのである。日本という国はスキャンダラスな国である。そのスキャンダラスな体制を隠蔽し続ける限り、福島菊次郎が絶叫してやまぬ真実が私たちの心に突き刺さるのである。

「君、スリーマイル原発事故のことを知っているか?」
原爆7
福島菊次郎は突然、私に問いかけた。「君、あのとき(1976年)、アメリカ政府が放射能予防薬5万人分を急遽現地に急送した、という臨時ニュースが流れた。私はそのニュースを聞いてピンときたんだ。広島・長崎の10万人のモルモットから抽出した放射能障害の予防薬と分かったんだ。

俺は厚生省の役人に言ったんだ。「至急米国政府と交渉しろ。予防薬をとりよせろ」。そいつは何と言ったと思うか。「国立医学研究所だ」というんだ。

俺はな、核禁団体、被爆者団体、そしてマスコミまで回って説いたんだ。
「てめえら命がおしくねえのか」と怒鳴ったんだ。

いいか、君、ABCCで抽出された薬はガンや発育障害を予防する薬として広くアメリカで売られているんだ。チェルノブイリ原発事故のときにも使われたんだ・・・・」

福島は現在86歳。ガンの手術を3回もして痩せほそっている。体重36キロ。アパートの一室で、広島で被爆した朝鮮人の悲劇を書き続けている。視力もおとろえている。

「君、俺は一日一日を生きている。この本を書き終えるまでは死ねないんだ。・・・・また来い。ドアは開けて待っているからな。」

日本人には、たまには、ごくたまには、福島菊次郎のように、会いたくてたまらない人物がいる。狭いアパートの一隅に自らが制作したという棺桶が立てられていた。

(引用終わり)

戦後、ABCC(原爆傷害調査委員会)をアメリカがつくり、広島、長崎の被爆者がその後、どのような、被爆した身体における傷害の変化が起こっていくか、を調べ始める。そして1951年に吉川清氏が被爆者組織の「原爆傷害者厚生会」をつくるまでは被爆者は沈黙を強いられ、差別を受けて生きていた。つまり日本政府が「被爆者はアメリカが行う傷害の悪化状況の調査に体を提供して、しかもそのことは一切口にするな」という政策を行った。

しかもその被爆者の傷害の経過の調査というのはあくまで調査であって、治療は一切してはならない、とする信じられない通達がアメリカのペンタゴンから出されていた。それを日本政府は黙認し、かろうじて生き残った被爆者たちさえも治療しようとはしなかった。

そうした、あえて治療されずに、被爆者が死亡したら、ABCCの日本人職員がやってきて、謝礼程度のカネを遺族に渡し、遺体をABCCに運んで、1日7体のペースで解剖された。あくまでアメリカのウラン原爆やプルトニウム原爆が人体に及ぼす影響を調べる、という目的だけのために。

そんなABCCを糾弾し続けていた、著者の鬼塚氏が、‘日本最高の勇気ある写真家’とする、福島菊次郎という人物が1976年にアメリカ・スリーマイル島で起きた‘スリーマイル島原発事故’でその放射能被害者に配られた放射能予防薬の存在を知って、「この予防薬は広島、長崎で被爆した人たちをABCCで身体調査、死体解剖をした中で開発された薬だ!」と分かった、というわけです。

こういった流れを見ていくと、戦後、原子力事業でカネ儲けしていく‘原発マフィア’の連中が画策した、世界中における原子力発電の拡散計画の手始めに、実験として、広島、長崎に原爆が落とされた、と考えられます。もし、本当に、福島菊次郎氏が言うように、スリーマイル島で配られた放射能予防薬が広島、長崎のABCCで開発されたものであるならば。

いずれにしても、原爆投下後に生き残った人たちさえも、アメリカや日本政府は見殺しにしただけでなく、ABCCでモルモットにしていたということです。

闇に葬られた原爆投下後の広島、長崎の放射能汚染

先日、先々日と、「原爆の秘密(国内篇)----昭和天皇は知っていた」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊 という本をもとに広島、長崎に原爆が落とされたことの真相について書きました。今日はその原爆によって死に至らしめられた人のことが同著に記してあったのでそのことについて書きたいと思います。尚、この本の著者である鬼塚氏はこの原爆によって死に至らしめられた人たちの数多くの記録を目にして、あまりにも悲惨すぎて書けなかった、と記しています。しかしこの本を書くことに至らしめた勇気はこの原爆によって死に至らしめられた人たちの記録を目にすることによって与えられた、とも書いています。さらには、いざこの原爆によって死んでいった人たちの記録を原稿に書き込んでいると、いつまでも涙が止まらなかった、とも記しています。その、鬼塚氏が涙を止めることが出来なかった記録について書きます。では、まずはその部分の引用から始めたいと思います。

(引用開始)

(前略)私はたくさんの人々の記録を読んできた。しかし、本書ではいままで一つとして引用しなかった。引用する気になれなかったのである。原爆患者たちの手記を記録を読んで、私は彼らから、この本を書くエネルギーと勇気を与えられ続けたのである。

一つの物語を伝えたい。中国新聞社編「証言は消えない 広島の記録機(1996年)の中から「この子を残して」という記事を引用する。林田奈々子さんは当時国民学校6年生だった。彼女の一家みんなも被曝する。

「苦労をみかねた奈々子さんは、広島女子商を中退して美容師になった。マシンひとつ、ドライヤひとつ、17平方メートル(5坪)たらずの小さな店。借金ではあったが、ともかく「奈々子美容院」開店した。客も少しずつふえた。昭和28年、奈々子さんは瀬戸絙さん(37歳)=広島原爆1西警察署勤務=と結婚。31年2月には長女真美ちゃんが生まれた。原爆で痛めつけられた一家に、やっとバラ色の未来が微笑んだとき、原爆は'目まい'という何なにげない形で死を予告した。32年6月、奈々子さんは軽い貧血で倒れた。

近所の医者は「過労だ。4、5日くらいでなおる」と言った。目まいはなおらない。やがて右手首の痛み、吐き気、歯茎からの出血----お歯黒のような黒い血は、原爆が届けた喪章だった。10月末、原爆病院に入院、翌年2月退院。同年5月再入院。そして翌年4月10日午前10時すぎ、死亡。

死の前日、幼稚園の制服を着た真美ちゃんをベッドにすわらせ、奈々子さんは「夕焼け小焼け」を歌った。翌10日「きょうが峠だ」と主治医が言った。家族、知人の輸血がつづく。ハチの巣のようになった堅い腕には、針が立たなかった。「手がダメなら足に、足がダメならここに・・・・・」奈々子さんは訴えつづけた。「マミちゃん、マミちゃん」死ぬまでわが子の名を呼びつづけた若い母は「・・・・ネ、・・・・ネ」となにかを言おうと必死に繰り返した。ノドがクククッと鳴った。

マクラ元に大学ノート2冊に書かれた日記があった。

「マミよ、こんな病気の母をうらまないで・・・・。マミちゃんはきっとおとうさんのキレイな血をいただいているのよ。だから嘆かないで・・・・。そしておとうちゃんのような人と結婚するのですよ」

死の床にあえぎながら娘と夫によせる一筋の愛。娘の血の中にまで'原爆'を見る母の苦悩----日記は「かえらぬ鶴」と題して出版され、原水爆禁止を願う母親の共感を呼んだ。」

この記録の中に奈々子さんの詩が一つ載っている。

あまりにも残酷な
取り返しのつかぬ現実に
苦しみながら私は
生きぬかねばならい
近く終わるであろうことを
察しながら

この悲しい記録の引用を続ける。

「広島市の西、三滝山の中腹に「かえらぬ鶴の碑」がある。遺族が昭和40年4月、七回忌に建てたものだ。碑文には奈々子さんの詩が刻んである。

「マミチャン、テンマヤ(広島市内の百貨店)へユコウネ」

そう書いた母親は、約束を果たさずに死んだ。碑の前に立てば、近代ビルの立ち並ぶ50万都市が、夏の日をはね返す。今世紀最大の死が襲った当時のヒロシマは、どこへ行ってしまったのだろう。

「奈々子の苦しい戦いは終わった。しかし、私の苦しい戦いはいまもなおつづいている」

「かえらぬ鶴」のあと書きに、ミヤコさん(奈々子さんの母親)はこう書いた。ヒロシマが追憶の都市になっても、被爆者のケロイドが癒える日はない。」

この「奈々子さん」の記録には前文がある。ここで、その前文を記す。

「昭和34年4月10日、皇太子ご成婚の日、皇居内賢所では午前10時から「結婚の儀」が行われた。束帯姿の皇太子、十二ひとえ、紫の唐衣をまとった美智子妃。テレビは平安朝そのままの華麗な慶事を中継する。アナウンサーの興奮した声、テレビの前のため息・・・・同じとき広島原爆病院でひとりの被爆者が死んだ。骨髄性白血病、14年目に訪れた'悪魔に魅入られた死'だ。広島市福島町、瀬戸奈々子さん)旧姓林田)----妻として、母としてだれよりも生きつづけたいと願った27歳の女の死だ。(後略)

(引用終わり)

「悲し過ぎる」・・・・などと私ごときが簡単に言葉を発するのは不敬かもしれない。しかし 悲し過ぎる、としか言いようがない。いや、それよりも大きな怒りを感じる。もちろん、この引用文の最後の部分にだ。

「テレビは平安朝そのままの華麗な慶事を中継する。・・・・」のくだりがある文章だ。100歩譲って、天皇家が我々の税金を使って平安朝だか何だか知らないが皇室行事のたわごとをするのは良しとする。だが、この天皇家の昭和天皇ヒロヒトが中心となって太平洋戦争をヒロシマとナガサキに原爆が落とされるまで引き延ばした。もっと早い段階で戦争を、ヒロヒトが「降伏宣言」するだけで、原爆を落とされることなく、終わらせることができたのだ。

そのヒロヒトの子供の結婚式が平安朝さながらに、華麗に行われていたその時に、瀬戸奈々子さんは「骨髄性白血病」で苦しみながら、マミちゃんに、「おかあさんの血を引かせてごめんね」と日記に書き残して死んでいった。もちろんその血は奈々子さんのせいではなく、ヒロシマに原爆が落とされた結果、できてしまった血だ。

では次に鬼塚氏が同じ原爆で苦しんで死んでいった、長崎の人について記した部分を引用します。

(引用開始)

(前略)長崎原爆で忘れてならないのは、長崎医科大学の潰滅である。長崎医科大学は戦前、西日本唯一の総合医科大学であった。

かつて長崎大学教授を務めた小路俊彦は「長崎医科大学潰滅の日」(1995年)の中で次のように書いている。

(中略:ここで長崎に原爆が落とされた時の長崎医科大学の悲惨な状況が描かれている)

この基礎キャンパスは4教室あり、410名の生徒が講義を受けていた。その全員が被曝死したのである。これを見ても、この原爆のすごさが理解できよう。

この本に「遺族の手記から」が載っている。その中に、土橋弘基(医専1年生)の父、土橋清英の手記の一部を引用する。

・・・・やっと学校裏手の丘で、神の慈悲により、弘基の哀れな姿に遭遇することが出来ました。眼鏡も帽子もありません。ただ破れたボロボロの被服をまとっているのみです。歩行も不自由な程衰弱していましたから、援護して10日後、愛宕町の自宅に収容する事が出来ました。

本人の話によれば、階段教室で授業中、原爆の閃光と同時に建物が潰れ、全員がその下敷きとなって、一瞬その場は阿鼻叫喚の修羅場と化し、断末魔の唸り声が聞こえた。けれどもその後は人事不省に陥り、一切記憶はない。夕刻近く覚醒したので、全力をふり絞って頭上の障害物を押しのけ、同僚4人が脱出に成功した。しかし一帯は火の海で帰宅することも叶わず、すでに日没後で山伝いに帰ることも出来ないので、止むなく4人で裏山で一夜を明かすことにした。非常な渇きを覚え、空腹を訴えたが、勿論水も食糧もなく、仕方なく附近の畑にあった南瓜を生食して、飢えを凌いだといっておりました。

自宅では家族全員で看護に努めましたが、原爆症でしょうか、飲食物は嘔吐を催して受けつけません。日々衰弱の一途をたどり、一週間目の8月16日、家族の見守る中に永眠致しました。

本人は中学校卒業後文科系に進むことを志望していましたが、医学は長崎が発祥の地であり、医科に入学すれば、自宅から通学も出来て安心だからと私が勧めた所、親思いの素直な弘基は私の意見を受け入れて、長崎医専に入学した次第であります。文科系に進んでいれば原爆死を免れていたのに、私がそれを拒否して医科にやったばかりに死んだのです。弘基は私が殺したようなもので、誠に申訳ないと思い、毎月16日(死亡の日)には必ず香を焚き灯明を点じて謝罪を続けています。この精神的悩みは、私の生ある限り、永く尾を曳き続けることでありましょう。(昭和43年4月「忘れな草」第一号より)

広島の瀬戸奈々子さんの死とはまた異なる土橋弘基さんの死である。しかし、この死には一つの確実な共通点が存在する。それは国家の殺人による死という点である。土橋弘基さんが授業を受けていた頃、アメリカの捕虜1000名たちは何処かで「神隠し」されていたのである。彼らアメリカ人を救うために数万人単位で長崎の人々は、一瞬のうちに、そして後遺症で死んでいったのである。この原爆投下を受け入れて「原爆殺し」を行った連中すべてが戦争終結後に生き延びて、権力と富を独占していくのである。

「弘基さんのお父さん、あなたが弘基さんを殺したのではありません。あなたの、親思いの素直な弘基さんは、「原爆殺し」を仕掛けたアメリカと、「原爆殺し」を受け入れた日本の国家によって殺されたのです。」(後略)

(引用終わり)

原爆投下は日本がやられた、ものではなく、日本という国家がアメリカ(マンハッタン計画を遂行した連中)と共同でやった。その原爆による「日本人殺し」によって瀬戸奈々子さんも土橋弘基さんも殺された。しかも戦後、その「日本人殺し」をやった日本人が日本の富と権力を独占していく、と鬼塚氏は書いています。では、その戦後の日本という国家はこういった被爆者たちに何をしたか? について同著に書いてありましたので引用したいと思います。

(引用開始)

(前略)私は「ファレル准将(私の注:戦後直後に原爆の爆発により出た放射線の影響度を調べたアメリカ人)の覚え書き」の中の「放射能に関して長崎につき詳細な検討をした。そしてこの地域内のどこにも測定可能な放射能を見出さなかった」という文書の一部を記載した(198頁参照)。しかし、長崎の放射能被害は甚大であった。

日赤広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編「原爆災害 ヒロシマ・ナガサキ」(1985年)に長崎について次のように書かれている。

「原子爆弾の爆発によって生じるアイソトープは約200種類に達し、その大部分は放射性である。長崎に西山地区の土壌の分析の結果、ストロンチウム89(半減期52.7日、バリウム140(半減期17.3日)、ジルコニウム95(半減期65.5日)、ストロンチウム90(半減期27.7年)セシウム137(半減期30年)、セリウム144(半減期285日)が検出されている。このほか核分裂をまぬがれたプルトニウム239も見出された。

これは1945年10月3日から7日にかけて実施された調査の結果である。ファレル准将は「広島と長崎に測定可能な放射能なし」と、GHQのマッカーサー司令官とトルーマン大統領に報告書を提供する。日本政府は、このファレル文書認めるのである。それは、「広島と長崎には原爆患者はいない」との宣言を日本政府がしたことを意味する。スイスの国際赤十字が原爆患者に薬を与えようとするのを日本赤十字が拒否するのである。私は次章でこの顛末を書き、彼らを、原爆患者に薬を与えるなと拒否した連中に、たった一人で天誅を下す。

(引用終わり)

つまり日本という国家はアメリカと「原爆投下」による「日本人殺し」を共謀し、アメリカ人捕虜を助け、原爆投下後はその被爆者をろくに救済しなかっただけでなく、信じられないことに、福島原発事故の時とは比較にならないほど放射線が広島と長崎に充満していたにもかかわらず、「測定可能な放射能なし」としたということです。そして、そのアメリカと「原爆殺し」を共謀した日本人こそが戦後、富と権力を手中にした、ということです。

毎年、8月の終戦記念日(敗戦記念日)になると、必ずといっていいほど、「過ちは繰り返しません。もう二度と」という広島の原爆慰霊碑が話に出てきますが、我々はこんな慰霊碑を見て、反省してアメリカ(本当はその裏にいる連中)の思惑通りになっている暇はありません。先日、マスコミは安倍内閣が作成した憲法改正案を報道していましたが(http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/2015-05-19.html)、その中にある「天皇は憲法に拘束されない」といった要旨の文言を意図的にか、そうでないのか分かりませんがほとんど取り上げなかったようです。つまり天皇は何をしても国民の縛りを受けない、とされるものです。

安倍は以前から天皇を「元首」にしたがっていました。戦前はその天皇が日本の元首ということで、太平洋戦争を遂行しました。そして広島、長崎を含む日本全土が焼け野原になるまで昭和天皇は戦争を続けました。天皇が元首であったゆえの起こり得た悲惨な結末なのです。

今回政府が作成した憲法草案の天皇に関する記述が、天皇が戦争を、国民が反対しても遂行させる権限を有するものなのかどうか、は私には分かりません。が、安倍内閣がなぜか憲法9条改正の論議が盛んになっている時に、どさくさに紛れて、「天皇、摂政は憲法に拘束されない」といった要旨の文言を入れたのは事実です。

戦後70年にして、我々日本人は大変な岐路に立っている、と思えてならないのです。

アメリカ兵全員が生き残った長崎収容所の謎

先日、「原爆の秘密(国内篇)----昭和天皇は知っていた」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊という本をもとに書きましたが今日もこの本をもとに書いていきたいと思います。

前回は日本陸軍の畑元帥と大屋中佐がアメリカ(マンハッタン計画を推進していた連中)とグルになって広島に原爆を投下する計画を遂行していたことについて書きました。今日は長崎への原爆投下について書きたいと思います。

その長崎への原爆投下ですがこれについても不審なことがありました。当時、長崎港に2つ捕虜収容所があり、1つは三菱の兵器工場の真ん中に米軍兵などの捕虜収容所がありました。場所は2つとも原爆が落とされた場所のすぐそばです。ですがこれら収容所にいたアメリカ兵は全員被曝死しませんでした。その他の連合国軍の捕虜でない、一般の日本人も含めて2万人以上も被爆死しているというのに。なので今日はその不審な点について書きたいと思います。では、まずはそのことについて記してある部分を「原爆の秘密(国内篇)----昭和天皇は知っていた」から引用したいと思います。

(引用開始)

「(前略)ウェラーの「日本・長崎発。1945年9月7日(金曜日)午前零時」と書かれた記録がある。その最初の部分を記す。

原爆1長崎港にある2つの連合兵捕虜収容所にはおよそ1,000人が収容所されているが、みんな知りたいことはただ1つ、「原子爆弾はどういう仕組みになっているか」ということだった。

彼らはその威力は目にした。日本軍は収容所の1つを三菱の巨大な兵器製造所の真ん中に設置し、もう一つを長崎港の入り口に設置した。上陸部隊が侵攻する際には、砲撃を避けられない場所である。

原子爆弾で、捕虜の指揮官をしていたキック・アールダー中尉(ジャワ、バンドン出身)を含む7人のオランダ人とイギリス人1人が死んだ。記者(ウェラー)は6日午後、彼らの収容所を訪れた。外部の人間が訪れるのは数年ぶりのことだ。アメリカ人、イギリス人、オランダ人、オーストリア人の国ごとに最大の関心事がそれぞれ違う。」

読者はこの文章を読んで不思議に思わなかったであろうか。長崎港に1,000人といた捕虜のうちで死亡したのは、たったの8人であった。しかもアメリカ兵は一人も死んでいない。「日本軍は収容所の1つを三菱の巨大な兵器製造所の真ん中に設置」していたのである。ウェラーは「長崎医療センターは、三菱の魚雷、ディーゼルエンジン製造工場や、造船所をなぎ払った同じ爆風で、ほとんどの職員もろとも破壊されてしまった」と書いている。また、彼は「2万1,000人が死亡したが、これは原子爆弾の放射線が致命的であるのではなく、上空を飛ぶアメリカ機がはっきりと見えているのに、市民が出されていた警報を無視して防空壕に入らなかったのが原因と言える。三菱の工場で死んだ人たちも、工場群の真っただ中に収容所があった連合国軍人の捕虜たちを含めて、上空に敵機がいるにもかかわらず三菱が仕事を続けるように命じたがために死んだ」と記している。

幾度も引用したゴードン・トマスとマックス・モーガン=ウィッツの「エノラ・ゲイ」の中に、長崎の捕虜収容所について書かれた文章がある。

(中略:ここでアメリカのグローブス将軍とスティムソン陸軍長官などがグアム島のスパーツ(おそらくアメリカ兵)から届いた長崎の捕虜収容所についての電報(質問書)をもとに長崎の捕虜収容所の場所がどこなのか?について話した経緯が書いてある。)

グローブス将軍はスティムソン陸軍長官に会い、この質問書を見せる。スティムソンはグローブス将軍に「返電をする場合はすみやかにみせろ」と言っている。グローブス将軍が「しかし、どっちの位置が正しいにせよ、原爆爆発の時には、おそらく彼らは造船所付近で働いており、当然原爆の危険にまともにさらされるのは免れないようにみえた」と書いている。しかし、7月31日から10日後の9日に長崎に原爆が投下される。そして、長崎港の捕虜収容所にいた1,000人のうち、たった8人しか死ななかった。しかも、アメリカ人はただの1人も死ななかった。私はこの奇跡の謎を解く力を持たない。ただ、謎を解けないでは読者に申し訳ない。それで、推測をして、この章を終わることにしたい。

---- グローブス将軍はステイムソン陸軍長官に依頼した。

「閣下、私は重大なミスを犯しました。捕虜は1,000人以上います。長崎港の収容所だけかと思っていましたが、あの目標地に定めた三菱の中にもいます。閣下、閣下のルートでこの捕虜たちを救って下さい」

「グローブス将軍、最後の最後で難問にいたったが心配しなくてもよい。私は小倉の代わりに長崎を第一目標にしようと思っていたのだ。グルーを通じてさっそく交渉をしよう。最小限の捕虜が三菱で犠牲になるのは避けがたい。しかし、長崎港にある収容所にいるのはほとんどがアメリカ人だ。爆弾を投下する前に、日本海軍の艦船かどこかに彼らを密かに移す。原爆が投下された後に、また彼らを収容所に戻す。この収容所には何人も外から入れてはならない。そして、捕虜たちに将来にわたって沈黙を守れと言わねばならない。帰国前に誓約書を書かせろ。さもなくば、国家反逆罪で罪に落とすとな」---- 

ウェラーの報告書は永遠に葬られたはずであった。ウェラーは記者として一番最初に長崎に入ったが、日本から追放処分になった。しかし、彼は貴重な記録を残して死んだ。その息子がこの事実を伝えるまでに60年の年月が流れた。私の推測以外に別の推測はないし、事実があるならば、是非、公にしてほしい。どうして1,000人のうち8人しか死ななかったのか、を。(後略)

(引用終わり)

三菱の兵器工場の真ん中にあえて捕虜収容所を置いて、その捕虜も工場で三菱は働かせていた。そしていざ、アメリカ機が飛んできて原爆を落とされるというのになぜか三菱はその捕虜と日本人労働者を防空壕に入れることなく、働かせ続けた。結果、2万人以上の死者が出た。否、連合国軍の捕虜のほとんどは死ななかった。なぜか1,000以上いた捕虜のうち8人しか死ななかった。三菱の日本人労働者を含め、多くの日本人が死んだのというのに。

原爆6その理由を著者の鬼塚氏は推測のもとに、「原爆投下直前に捕虜を日本海軍の艦船か何かに移動させ、原爆投下後にまた収容所に戻した」としているのです。

もしこの鬼塚氏の推測が真実であるならば、三菱及び日本海軍などはアメリカ(マンハッタン計画を遂行した連中)とグルになって連合国の捕虜は助けて、長崎にいた日本人は見殺しにしたことになります。

この「日本・長崎発。1945年9月7日(金曜日)午前零時」という記録を世に出したウェラー(アンソニー・ウェラー)はこの記録を実際に当時の長崎の捕虜収容所の状況を記録した父親のジョージ・ウェラーの息子にあたる人物です。その記録した父のジョージ・ウェラーが戦後、日本から追放されたと鬼塚氏は書いています。引用文の鬼塚氏の推測に則れば、そのジョージ・ウェラー追放とその記録文の処分はGHQは当然やっていたでしょう。スティムソンが本当に「収容所には何人も入れてはならない」と決めていたならば。

そして三菱はなぜ、原爆を搭載したアメリカ機が工場の上空に飛んで来ても労働者を防空壕に入れなかったのか?を考える時に、前回書いた広島への原爆投下作戦を考えると、一つの答えが出てきます。つまり広島の原爆投下同様に長崎でも原爆の人間に対する殺傷能力が試す人体実験が行われた、ということです。そう考えないならば、三菱が原爆を搭載したアメリカ機が工場の上空に飛んで来ているのに、避難警報が出されているのに、そのまま日本人労働者を働かせ続けた理由を他に見つけなくてはならないでしょう。そしてその人間に対する殺傷能力の実験とやらは、広島に落とされた原子爆弾とは違う原子爆弾の殺傷能力が試された。ウランではなく、プルトニウムというものの殺傷能力が。

つまり、長崎も広島もその原爆投下は、アメリカ(マンハッタン計画を遂行した連中)と日本軍などが共謀して、原爆による日本人における殺傷能力を試すためのものだった、ということです。

終戦はプルトニウム原爆の完成にかかっていた

前回、私は「原爆の秘密(国内編)--- 昭和天皇は知っていた」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊という本を中心に広島への原爆投下は日本陸軍の一部の人間は知っていて、アメリカ(マンハッタン計画を画策した連中)と共謀で行われたことについて書きました。今日はその証拠としてさらに決定的な記述が同著にあったのでそれについて書きたいと思います。では、まずはその証拠が記されている部分を引用したいと思います。

(引用開始)

(前略)スティムソンはこの会議の翌日、グルーとフォレスタル海軍長官との三者会議をしている。その日の日記、「1945年6月19日」を見てみよう。(一部は「国外篇」で既に引用した)。

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1945年6月19日(火)
最後の最後まで戦うことなく日本に降伏を決定させる何らかの方法を見だすべきであると、だれもが考えていることが、きょうの議論のなかできわめて明らかになり、そして、それがきょうの議論の主題だった。グルーは、この問題について彼がさきに大統領に提出していた報告書を読みあげたが、その中で彼は、沖縄が陥落したらただちに新しい警告を日本に対して発することを強く主張している。しかし、明らかに、この主張は、近く予定されているチャーチルおよびスターリンとの会談に関する大統領の計画には適合しない。私が決めている唯一の期日は最後の機会として警告(を発するとき)であり、それは、地上軍が実際に上陸する前に出さなければならない。幸いにして、今の計画では、われわれの警告には根拠があるのだということを、通常爆撃による猛爆とS-1(私の注:原爆投下作戦の暗号名)による攻撃という形で(日本側に)わからせるための十分な時間を見込んでいる。

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この文章を読むと、スティムソンとグルーがフォレスタルに日本側との交渉について語っているというのが理解できよう。スティムソンはフォレスタルに次のように語って聞かせているのである。

---- 私は、日本の指導者の一部とグルーを通じて交渉している。昨日、マーシャルが、対日侵攻について語ったが、あれはあくまでも表向きの計画だ。マッカーサーとミニッツには、とことん戦争をしろと言うのが目的だ。どう原爆1してもポツダム会議までは、時間を稼がなければならない。トルーマンは会議を7月15日以降に延期してくれた。プルトニウム爆弾は実験を要するということになったからだ。そこで、日本側に提案したんだ。「通常爆弾による猛爆とS-1による攻撃という形でわからせる」べく、グルーが説明書を送ったのだ。これには時間がかかった。日本側がやっと納得した。それで、第一総軍と第二総軍に、それらしく行動させるということになったんだ。この両軍の設置も私の意向によってできたんだ。グルーが、原爆投下計画書を日本に送りつけたのはルーズヴェルトが死ぬ前だった。(フォレスタル海軍長官の)子分のザカリアスが日本向け放送をすることになり、ルーズヴェルトが無条件降伏の意味を訂正するらしいことが分かった。ルーズヴェルトは‘尋常ならざる時’に死んだんだよ。

私とグルーは彼らが第一総軍と第二総軍を設置したときに(4月1日)、日本が降伏をする決心をしたとふんだんだ。それで、第二総軍の傍受室にテニアンからの情報を流し続けた。彼ら畑と大屋には、正式以外の情報をチェックし、これを封じ込めろと、特に命令していたのだ。これは今のところうまくいっている。「幸いにして、今の計画では、われわれの警告には根拠がある」ということを理解してくれただろうか。「私が決めている唯一の期日」はポツダム会談の最後の日が近づいた時だ。それは日本上陸作戦の前なのだ。プルトニウム爆弾次第だ。この爆弾の完成が遅れたら、トルーマンは無条件降伏を日本に迫る宣言は出さないことになっているんだ。----

第二総軍の設置とアメリカ軍の侵攻計画の符号性について書いている本がある。前章で引用したNHK広島放送局原爆取材班の「原爆搭載機「射程内二在り」」である。

「米軍との決戦に際しては、各地の日本軍との連絡が寸断され、孤立する可能性が大きくなる。そこで、東京・市ヶ谷に東日本の全軍を指揮する第一総軍司令部がおかれることになった。第二総軍の総長は畑俊六大将、本部は二葉の里となった。

九州を主戦場とするならば、広島は後方基地となる。原爆の完成という新事態を勘定に入れなければ、恰好の本土決戦本部と目されても仕方がなかった。

アメリカ軍の日本侵攻計画は、こうした大本営の読みと驚くほど符号している。」

「驚くほど符号している」のは当然であり、驚くほどのことはないのである。これが、スティムソンが「われわれが、日本の将来の営みについて合意に達しうる」べく「自由主義的な気質の層」を通じて、共同で作戦計画を練りあげた結果なのである。だから、畑元帥と大屋中佐は、原爆投下のニュースを封じ込め、広島市民が大量殺戮されるのを「黙殺」したのである。続けて読むことにしよう。(後略)

(引用終わり)

スティムソンとは当時のアメリカ陸軍長官であり、原爆投下決定を検討したとされる「暫定委員会」の委員長を務めていた人物です。著者の鬼塚氏はこの原爆投下計画の指令塔のトップに位置するとしている人物です。このスティムソンの1945年6月19日(火)の日記の前半のものにはポツダム会談を基準にフォレスタル海軍長官に作戦について話しています。つまり沖縄に上陸してすぐに九州方面へ攻める気などはじめからなく、それでいて日米戦争を終わらせようとしています。S-1(原爆投下)によって。

後半部分にいたっては明らかに日本に降伏させることが目的ではなく、原爆投下が最大の目的であったことが分かります。ここまで露骨に日本軍がアメリカと共謀して広島への原爆投下作戦を遂行していたことを書かれると怒っても怒りきれない方も多いと思います。

まず、広島に原爆を落とす落とさない以前にだいぶ前から長崎にもプルトニウムの原爆を落とすことは緻密に計画されていた。そしてそのプルトニウムの原爆は製造中だった。だから完成して長崎に落とすことができなければトルーマンにポツダム会談をさせるわけにはいかない。だから本当はもっと早く行うはずだったポツダム会談を7月15日以降に延期した。そして実際に7月17日からポツダム会談は行われた。その原爆投下計画書はしっかり日本側に渡され、日本とアメリカは共同で原爆投下計画を推進した。つまり日本軍がなかなか降参しなかったから原爆が落とされたわけではなく、広島のウラン原爆と長崎のプルトニウム原爆を落とすことが終戦とき、という計画だったということです。

そのためにスティムソンは日本陸軍を第一総軍と第二総軍に分けさせ、第二総軍の畑俊六元帥と大屋中佐を使い、あえて傍受室にテニアンからの情報を流し続けた。つまり敵であるアメリカの爆撃機での日本侵攻の基点となるマリアナ諸島のテニアンの情報を送り続けた。原爆投下作戦をこの畑と大屋と共に遂行するために。

この太平洋戦争はこの陸軍の畑元帥と大屋中佐だけでなく、真珠湾攻撃を決定した山本五十六連合艦隊司令長官や米内光政海軍大将などもアメリカと内通して太平洋戦争を遂行していたといわれています。戦争とは自原爆5国の利益のために戦うものではないということですね。今、イスラム国が中東・アラブ地域で暴れていますがこのイスラム国はCIAが訓練したという話も出ています。それから戦争ではないですけどアラブの春と言われたエジプトの国民による(とされる)ムバラク政権打倒もデモが始まった時、エジプト軍幹部がアメリカのペンタゴンにいました。さらには今も内紛が続いているウクライナですが、2004年に起きたオレンジ革命とやらはもともと親欧米派のユシチェンコと親露派のヤヌコビッチが対決した選挙から始まりました。その選挙で親欧米派のユシチェンコが選挙で負けた途端にアメリカの共和党国際研究所(IRI)などが「不正選挙だ!」と騒ぎ出し、親欧米派のユシチェンコが再選挙で勝ちました(ということになっている)。戦争だけでなく、昨今多く発生している、反米政権転覆に繋がるデモも純粋に自国の利益を守るために起こっているものではない、ということです。

ところで上の引用文の最後に著者の鬼塚氏が、「(「原爆搭載機「射程内二在り」)の続きを読もう」、とありました。その続きをここで引用して終わりたいと思います。尚、前回マンハッタン計画は原爆がどれだけ人間に対する殺傷能力があるか、という人体実験をする計画である、と記しましたが、その殺傷能力の内訳が書かれているものになります。

(引用開始)

「アメリカ軍がオリンピック作戦(私の注:原爆投下作戦)を練っていく一方、日本軍は本土決戦の体制を整えつつあった。このため創設された第二総軍をはじめとして、広島への各部隊への集中は凄まじいものがある。昭和20年当時、司令部関係だけでも第二総軍司令部をはじめとして中国軍管区司令部、広島連隊区司令部、広島地区司令部などがあった。

広島に駐屯した特別警備隊は、10部隊
中国憲兵隊関連が、司令部他、3部隊
第59郡には、軍司令部、第224師団司令部など、11部隊(大半が編成中)。
第154師団では3部隊が編成中。
高射砲第3師団では、独立高射砲第22大隊本部など、4部隊。
暁部隊として知られる船舶司令部では、船舶砲兵団司令部、第一船舶輸送司令部など21部隊があった。
さらに、広島地区鉄道司令部、広島陸軍兵器補給廠、広島陸軍被服支廠、、広島陸軍糧秩支廠などがあった。(「広島原爆戦災史」)」

市民が郊外に疎開していくなか、大勢の軍人、軍属が流入してきた。広島はまさに「軍都」の実質を備えていた。八月六日当日、どれほどの軍人がいたのか、さかんに部隊編成を行っていたので正確な数は分かっていない。ただ一説には、軍関係者は8万人にものぼるという推計がある。」

この8万人にものぼる軍人たちが、八月六日にほぼ被曝死するのである。生き残ったものは、ごく少数である。これには理由がある。彼らのほとんどは、原爆中心地からごく近いところにいたからである。死者が出なかったのは(出てもごく少数)第二総軍司令部のみである。この8万にのぼる軍人たちに、畑元帥と大屋中佐は原爆投下の情報を全く知らせず、それのみか、巷に洩れてくる原爆投下の情報まで封印してまわったのである。まだそれ以上に悪しきことがある。先に「エノラ・ゲイ」を引用したが、アメリカ爆撃機の空襲の情報を完全に知りながら、そのただ一つとして、軍にも市民にも伝達しなかったのである。(後略)

(引用終わり)

広島への原爆投下の謎

今、私は「原爆の秘密(国内編)--- 昭和天皇は知っていた」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊 という本を読んでいるのですがこの本には恐ろしいことが書かれていました。それは太平洋戦争終戦間際に広島に落とされた原爆は、事前に落とされる場所(広島)、日時(1945年8月15日午前8時15分)を日本陸軍の一部の軍人は事前に知っていたがあえて国民に知らせず、アメリカ(というか「マンハッタン計画」を遂行した連中)が‘ウラン型原子爆弾の人体に対する影響の強度’を測る計画のために協力した、ということです。今日はその恐ろしいことについて書きます。では、まずは「原爆の秘密(国内編)--- 昭和天皇は知っていた」からそのことについて書かれている部分を引用したいと思います。

(引用開始)

タイトル:原爆予告はこうして封印された

2007年7月中旬、私は広島の町中を歩き廻っていた。ふと私は何げなくタクシーに乗った。目的地には近かったのだが・・・・・。タクシーの運転手に、原爆の取材をしている、と語ったときであった。その運転手は私に意外なことを語り始めたのであった。

「私の父と母は原爆が落ちた中心地の近くで死にました。原爆1私は疎開していたので助かった。後で分かったことですが、かなりの人々が原爆が落ちる日を知っていて逃げたんですよ。私の父と母は知らされてなかったんだよ。今も、それを思うと泣きたい気分になってくるんだよ・・・・」

この日の取材は、原爆が落ちた爆心地の周囲を廻ることと、古本屋で本を仕入れることが目的であった。この時から計3度、私は広島を訪れた。東京では新刊書を多数仕入れたが、神田の古書店街に行っても、原爆関係の本はほとんどなかった。私は取材に行くというよりも、古本を買いに行くというような広島詣でであった。その中の1冊に前項で紹介したNHK広島放送局原爆取材班著「原爆搭載機「射程内ニ在り」があった。もう一度引用する。

「広島の原爆投下を予告するような、アメリカ側の動きがあったという話にも出会った。そのひとつが、いわゆる「伝単」といわれる宣伝ビラである。太平洋戦争では、この伝単が日米ともに心理戦の武器として、飛行機によって大がかりに、敵陣内に空中散布された。最初は戦場での将兵向け、やがて戦局がすすむにつれて、日本本土の一般市民を対象にした。米軍が、最初にビラを散布した昭和20年2月16日から終戦まで、全国で合計4,584,000枚散布したと米国は発表している。(「昭和二万日の全記録=第七巻」講談社)」

多くのビラが散布された。前項の当時の広島市議のことばも、そのビラの存在を裏付けるものである。この本には1人の女性が登場する。

「現在(1990年当時)、広島市内で幼稚園を経営している高蔵信子さんは、当時二十歳で、広島市紙屋町の芸備銀行本店(現在の広島銀行)に勤務していた。芸備銀行は、広島の中心部にあり、広島が爆撃を受けるとすれば、当然芸備銀行周辺も狙われるに違いないと危機感を抱いていた。銀行の方でも、万が一の空襲に備え、避難訓練や消防訓練をくり返し行っていた。

(中略)

高蔵さんの職場では、ある伝単の噂が広まっていた。原爆3実際に彼女は、その伝単を見たわけではない。しかし、伝単には恐ろしい原爆予告がされていたという。

「八月五日、広島を大空襲する」

しかし、奇妙なことに、八月になると、アメリカ軍の広島への接近回数は、伝単に反して減少していった。だが、その裏で、運命の日は刻々と近づいていたのだった。」

この本によると、「爆心地からおよそ二百五十メートルの近距離にあった芸備銀行で原爆を受けた人は、高蔵さん以外、誰ひとりとして生きてはいない」と書かれている。(後略)

(引用終わり)

少なくても当時の広島の多くの人たちは原爆が落とされた8月6日の数日前にはそのことが分かっていた。「伝単」に「8月5日(日本時間8月6日)に広島を大空襲する」と書かれていたのを多くの人が見ている。これは数々の証言、記録から疑う余地のない事実。その事実を証明するかのように、この著者の鬼塚氏がたまたま乗ったタクシーの運転手さんが「私の両親は知らされていなかった」と語った。ではなぜ、そんな伝単に書いてある、原爆予告にもとづいて軍や政府は広島で何もしなかったのか?この引用文の少しあとにこんな一文が記されていました。

(引用開始)

(前略)大家中佐は間違いなく、「マリアナ諸島から来た上級将校」を手に入れた。そして情報を聞き出すと、彼らを特別な場所に隔離した。その情報は間違いなく畑元帥と共有し、そして有末中将のもとへ送られた。しかし、広島に原爆が落ちるという情報は一部の憲兵のみが知るだけで封印された。広島に原爆が落ちるようにするのが、大屋中佐、畑元帥に命じられた。‘至高なる人’からの‘お頼み’であったからに他ならない。(後略)

(引用終わり)

当時日本陸軍を東西に分け、東日本と西日本とにそれぞれ陸軍の管轄地域が分かれていました。この文にでてくる大屋中佐と畑元帥はその西日本の方で第2総軍(東日本の方が第1総軍)に所属していました。この第2総軍の司令部は広島の双葉山にありました。

引用文中に、「マリアナ諸島から来た上級将校」とありますが当時大屋中佐はこのマリアナ諸島のアメリカ上級将校を手に入れたがっていた、とこの「原爆の秘密」には記されています。このマリアナ諸島の米テニアン基地がアメリカの日本への空襲・爆撃を行う際の基点となっていてその情報を得たいがためにマリアナ諸島の上級将校を手に入れたかった、ということです。つまり大屋中佐は「マリアナ諸島から来た上級将校」を手に入れ、畑元帥など一部の軍人だけに「原爆投下」の情報を流した。そして他の広島の人々へは知らされず、原爆を落とすように仕組んだ。しかもそれが‘至高なる人’からの‘お頼み’だったということです。

で、核心に至るのはここからなのですがこの引用文中にでてくる畑元帥というのがこの第2総軍の司令官なのですがこの畑元帥が広島への原爆投下計画のカギを握っていたようなのです。それについてこの著者である鬼塚氏が「日本のいちばん醜い日」成甲書房 刊 に書いてあるので少し長くなりますがその部分を引用したいと思います。

(引用開始)

(前略)では、どうして広島か?
有末精三の「終戦秘史 有末機関長の手記」の中に、その謎を解く鍵が見えてくる。有末精三は原爆投下のあった翌日、参謀本部第二部長として、部下十名、理化学研究所の仁科芳雄博士たちと広島に視察に行っている。広島には第二総軍司令部があった。

「わたしは直ぐに降り立ったが、だれひとり出迎えてもいない原爆2。飛行場の短く伸びた芝生は、一斉に一定方向、たぶん東へ向かってなびいており、しかも一様に赤く、真赤ではなく焦茶色といった方が当たっているように焼けていたのに驚いたのであった。ものの二、三分たったころ、飛行場の片隅の防空壕から這い上がってきたのは飛行場長と思われる一中佐、左半面顔中火ぶくれに赤く焼けていた。(略)
司令部は幸に建物は残っていたが、窓ガラスはメチャメチャに壊れていた。その司令部の前庭に運び出された六尺机の前に立ったわたしは、船舶参謀長官馬場英夫少将の詳細にわたる報告を受けた。(略)
飛行場での印象と生々しい火傷の飛行場長の数言、それに馬場少将の報告で二十数万の広島市が、一言で尽せば全滅といった驚くべき特殊爆弾の威力に驚いた。」

この広島の原爆で、第二総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。八月六日朝8時ごろに、多数の第二総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。有末精三は畑俊六元帥のことを書いている。

「山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥(俊六、第12期、元侍従武官長、支那派遣軍総司令官)に敬意を表し、今夕、仁科博士等の到着を待って調査に着手する旨申告した。将軍は被爆当時日課としての朝のお祈りで、神棚に向かっておられたため、幸に被害はなかったとのことであった。」

私はこの文章を読んでいたときに、ハッと気づいたのである。「どうして広島に・・・・」と長いあいだ思い悩んでいた難問が「ついに解けたぞ」と、ひそかなる声を出したのである。

それは一つの仮定ではある。しかし、事実だと確信する。有末精三の次の文章を引用してから謎解きに挑戦してみよう。

「十日早朝、双葉山中腹の総司令官宿舎に畑元帥を訪ね挨拶に行った。ソ連参戦のため急ぎ東京へ帰るべく、原爆の調査研究の一切は仁科博士一行に委任する旨報告したところ、「君!!なるようにしかならんねェ」と短い言葉を漏らされた。元来、元帥は昔から頭が俊敏で、先きの見透しのよいことで有名であった。わたしも参謀本部の演習課勤務の折、隣りの作戦課長だった元帥(畑大佐)の評判をよく聞いていた。「五千メートルしか届かない砲弾を、七千メートル先の目標に向かって発射するような計画には絶対不賛成」といった性格の方であった、その元帥の独語を聞いて、わたしは心なしか和平への予感めいたものを感じたのであった。」

有末精三は「それぞれの頭や顎元や腕に繃帯をしていた岡崎清三郎参謀長(中将、第26期)、真田譲一郎少将(参謀副長、31期、前大本営陸軍部作戦部長)、井本熊男作戦主任参謀(大佐、第37期、後の陸相)、同参謀橋本正勝中佐(第45期、後の陸将)などが草の上に胡座をかいたり横になったりして論議しているところへ挨拶否見舞いに行った・・・・」と書いている。生き残った第二総軍のトップクラスも全員負傷して、草の上で胡座をかいていたのである。

この日、間違いなく、第二総軍の全員は、八時ごろにに集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第二総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。ひとり、畑元帥のみが理由はともあれ、この司令部に行っていないのである。

「山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥」と有末精三は書いている。私は東郷成徳外相の依頼か、他のヨハンセングループ(私の注:吉田反戦グループの略称。つまり吉田茂を中心とした戦争に反対したグループのことを言っている。しかし鬼塚氏は、実際は真逆のことをしていたと解く)依頼を受けた松本俊一次官が原爆投下前のある日、秘かに畑元帥と会談し、八月六日午前八時すぎに、第二総軍の全員が集合するようにして欲しいと依頼したとみる。この第二総軍を全滅状態にしておけば、陸軍の反乱の半分は防げるからである。

畑はヨハンセン・グループの依頼を受けた。「君、これは上の方も承知しているのか。そうか、君、なるようにしかならんねェ・・・・」と言ったに違いない。この指令がヨハンセン・グループからグルー(私の注:当時のアメリカ駐日大使。鬼塚氏はこのグルーがヨハンセン・グループを操っていたとする)とに報告された・・・・。そして、八月六日午前八時すぎ、広島に原爆が落ちたのである。

大木操の「大木日記」の八月七日を見ることにしよう。大木操は当時、衆議院書記官長であった。

「八月七日(火) 晴
十時半登院、間もなく警報、小型機空襲。
議長、副議長と雑談。
正午過、岡田厚相来訪。広島に原子爆弾を六日午前八時半頃投下。十数万の死傷の報、大塚地方総監爆傷死、畑元帥健在、高野知事は出張にて助かる。成層圏より落下傘にて投下、地上二、三百メートルにて爆裂、直径四キロ全壊全焼、エラいことなり。

直ちに依光代議士は日政の幹部会にこれを伝える。一座愕然。」

では、「広島県史(近代供法廚痢峺暁と敗戦」を見ることにする。

「広島地区司令部の強い要請により、中部地区司令部の強い要請により、中国地方総監および広島県知事は八月三日から連日義勇隊約三万人、学徒隊一万五千人の出動を命令した。」

この二つの本を読んで、私は次のように推論する。

八月初旬に広島県庁に入った畑元帥は、高野源進広島県知事と中国地方総監を説得した。第二総軍を動員し、八月三日から連日、義勇隊三万人、学徒隊15,000人を出動せよと命じた。畑はひそかに、高野知事に真相を打ち明けた。高野知事は広島を去った。こうした中で八月六日朝八時十五分を迎えた。第二総軍の軍人たち、義勇隊、学徒隊の多くが死んだのである。

私の説を誤謬とする人は、これに反論する説を述べられよ。すべてが偶然と言いはるつもりなら、もう何も言うべき言葉はない。

この軍隊を指揮した中国軍管区司令官の藤井洋治中将(広島第59軍司令官)も夫人ともに被曝死している。(後略)

(引用終わり)

広島に原爆が落とされた8月6日の3日前に当時の広島県知事であった高野源進は義勇隊員3万人と学徒隊員1万5000人を連日出動するように命じた。その高野知事は偶然にも6日の原爆投下の当日は出張中で助かる。どこに何の目的で出張に行ったかは分からないが、不自然さがある。

その出動命令は引用文中にあるように、「広島地区司令部(これは第二総軍下部組織と思われる)の強い要請により」、高野知事が出した。その第二総軍の司令官は畑俊六元帥。

しかしさらに偶然にもこの畑元帥は原爆が投下された原爆48月6日8時15分のとき、自宅なのかどこなのか分からないがどこかに置いてあった神棚に向かって祈っていたため、被爆せずに済んだ。つまり8月3日から第二総軍が出動しているのにその長である司令官の畑元帥は第二軍指令所がある双葉山に行っていない。やはり不自然さが残る。

この不自然続きの事実をもって著者の鬼塚氏は、畑元帥は原爆の真相を高野知事に話し、第二総軍を8月3日から出動させた、と言っているのです。その目的がアメリカ(マンハッタン計画を推進した連中)が原爆の人体に対する影響度を計るためにということ、さらにはそれが‘至高なる人’からの‘お頼み’だったと鬼塚氏は書いているのです。

そしてそれ以前に「伝単」なるものが広島に幾枚も米軍機から散布されていてそれには、「(アメリカ時間の)8月5日に大空襲する」ということが書いてあり、さらに著者の鬼塚氏が広島に取材に行った際にたまたま乗ったタクシーの運転手さんが、「広島の人たちの多くが原爆投下が8月6日に行われることを知っていて、多くの人が広島から逃げたが、私の両親は知らされてなかったゆえに被曝死した」という証言もあるわけです。

もう何年も前の話になるのですが確かNHKの特番だったと思うのですがその番組は原爆投下の謎に迫る!といった内容のものを私は見ました。その番組の中で広島に原爆を落とした当時のパイロットにNHK取材班は、「なぜ当時はレーダーも無かったのにかなりの遠方から広島の人たちが防空壕から出てきた瞬間をピンポイントで察知し、原爆を落とすことができたのですか?」と質問し、その元パイロットは「それを知ろうとしてどんなに探求しようとしてもそれは永遠にわからないだろう」と言っていました。ようするに真相をうやむやにしたのです。

さらにこのNHKの番組では「アメリカの爆撃機が広島上空付近にいないので防空壕から出るように」と広島でアナウンスした当時の女性のアナウンス係りの人も登場してこう言っていました。「いやぁ 驚きましたよ。アナウンスした後、すぐに爆撃機がき飛んできて原爆が落ちたのですから」と。

このNHKの特番で放送された謎が上の引用文を読んで、私は解けたのでした。

浜岡原発を大地震が襲ったら日本は終わる

昨日、原発とロスチャイルドの繋がりについて「黒い絆 ロスチャイルドと原発マフィア」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊 をもとにその核心部分を書かせて頂きました。その中で原発マフィアが「原発は環境に優しい」キャンペーンが展開された伏線にオーストラリアで世界の4割の埋蔵量のウランが発見された、と書きました。そしてこの著作にはその4割のウランが発見されてからのオーストラリアで原発マフィアがしたことも記されていました。

その記述はもちろんオーストラリアのウランをめぐり原発マフィアがしてきたことが書かれているものになっていました。それは世界で起こる他の事象と共通していることでもあり、それに日本も(企業など)も関わっているものです。ゆえに重要と判断したので今日はそのことについて書きたいと思います。ではまずはそのことが書かれている部分を引用したいと思います。

(引用開始)

(前略)さて、大量のウランの売買契約の成功に驚いたオーストラリア政府とRTZは、南部のアデレードから、北のダーウィン港をつなぐ鉄道を建設した。この鉄道を支配し、イエローケーキ(私の注:オーストラリアのウラン鉱山のこと)を運ぶ利権のすべてを、ブッシュ政権の副大統領ディック・チェイニーのハリバートン社が獲得した。ハリバートン社は、イラン戦争の兵器受注ではGEとデュポンと組み、また、傭兵を一手に送り込んで莫大な利益を上げた軍需企業である。ハリバートン社を実際に支配するのは、イスラエル最大のユダヤ財閥、アイゼンベルグである。簡単に書けば、オーストラリアのイエローケーキを各国に買わせた背景にロスチャイルドがいたということになる。

ハリバートン社の鉄道はイエローケーキが大量に埋原発1蔵されている中央オーストラリアの真ん中を走っている。これからオーストラリアは核廃棄物のゴミ捨て場となるかもしれない。オーストラリア政府とRTZは秘密契約を結んでいるかもしれない。「原発廃棄物のプルトニウムを受け入れる」との。

オーストラリアではノーザン・テリトリーの4ヶ所で、巨大核廃棄物処理施設の建設が始まっている。その施設はすべて、ハリバートンの路線の近くである。GEやデュポンと関係の深い軍事企業、ケロッグ・ブラウン&ルート社と結んでいるにちがいない。

電力会社の黒幕はもちろん、原発マフィアであるが、その原発マフィアの中に原発メーカーがあることを忘れてはならない。東電の福島原発を造ったのは、鹿島建設と東芝のコンビだった。東芝は2006年、アメリカの大手原発メーカーのウェスティングハウスを傘下に入れた。日立製作所はGEと連合体となった。もう一つ、フランスにあるアレバは三菱重工と連合した。今、世界にある原発3大勢力に、日本が最も深くかかわっている。

2011年4月15日日付の「朝日新聞」に「原発「なお有力な選択肢」」なる記事が出た。その記事のなかの、東芝社長佐々木則夫のインタビューを紹介する。

---- 「朝日新聞」の引用始め ----

今回の事故について、佐々木氏は「住民の方々に非常にご迷惑をおかけした(原発を)安定化させることに最大限の努力をしている」と話し、当面、事故処理に注力する考えを強調した。ただし、経営の柱の一つに掲げる原発事業は揺るがないという。2015年までに国内外で39基の原発を受注し、関連売上高を1兆円に倍増する計画は厳しそうだが、佐々木社長は「実際の着工が少し(後ろに)シフトすることは考えられるが、39基で、やらないと断ってきたところはない」とした。事故の推移を見つつ5月中には新しい経営計画を出すという。

9自信の裏付けは、原発に期待されてきた地球温暖化対策の役割。経済産業省の試算では今後15年間で原発の新市場は中国で63.5兆円、米国で15.5兆円にも上る。佐々木氏は「エネルギー安全保障と二酸化炭素問題を解決しなければいけない。原子力が有力な選択肢であることに変わりはない」と指摘した。

東芝が東電と経産省に出した福島原発1〜4号機の廃炉案で10年半とした期間は、「技術的に最短のものを示した」。「最初に30年と言ってしまうと短くできない」とした。

---- 「朝日新聞」の引用終わり ----

間違いなく、原発は廃止どころか、これからも造り続けられる。私はここで決して届くことのない手紙を、届いても決して返事がこない手紙を、東芝の佐々木則夫社長宛てに出す。(後略)

(引用終わり)

つまりはオーストラリアのイエローケーキに群がる原発マフィアはその原料となるウランでカネ儲けのためにオーストラリアで奔走する。しかしそのイエローケーキでカネ儲けするのはオーストラリアで事業展開する連中だけでなく、日本の東芝もそうだということです。つまり東芝もそのウランを仕入れて、「エネルギー安全保障と二酸化炭素問題を解決しなければいけない。原子力が有力な選択肢であることに変わりはない」などと言い、原発をつくりカネ儲けする原発マフィアであるということです。

そしてこのオーストラリアでカネ儲けした者の一つとして著者の鬼塚氏が挙げているアメリカの軍需企業の「ハリバートン社」は、2003年にアメリカが、イラクに大量破壊兵器が隠されている!として起こしたイラク戦争(実際には大量破壊兵器は無かった)で、2006年の4半期だけで200億ドルの収入を上げまた、2005年にアメリカ南部地域で起こった‘ハリケーン・カトリーナ’でもボロ儲けしている軍需企業です。さらに鬼塚氏が推測として、このイエローケーキでカネ儲けした企業としてもう一つ挙げている「ケロッグ・ブラウン&ルート社」は元ハリバートン社の子会社です。なんでまたそのハリバートン社がオーストラリアのウラン鉱山事業で姿を現しているのでしょうかね?

ところで鬼塚氏は引用文の最後で東電の佐々木則夫社長に返事がこないことを承知で手紙を出す、としています。その手紙の内容がこの引用文の後に書いてありましたのでその手紙を引用して終わりたいと思います。

---- 手紙の引用開始 ----

あなたは、大昔からオーストラリアに住む原住民のアボリジニーを知っていますか。彼らはウラン鉱石が地表に近かったり、露出したりしているところを「病気の国」よ呼んでいました。彼らは直感力を信じていました。アボリジニーたちは「母なる大地の胎内に眠らせておけ」と、ウラン鉱の近くを避けて生きてきました。しかし、オーストラリアの大地を自由に歩きまわり、ながいながい悠久の歴史を生きた彼らは、イギリスからきた白人たちに殺害されていきました。かろうじて生き残った彼らはウラン鉱の中で、その近くで生きています。ウラン鉱山からイエローケーキを取り出した後の尾鉱といわれる放射性物質が彼らを24時間、襲っています。私は彼らの中に日本の未来の悲劇を見ます(私の注:その未来とは例えば鬼塚氏がこの本で書いている、静岡の浜岡原発を大災害が襲ったら日本という国家機能は完全に喪失し、日本という国は放射能まみれになって終わる。それは311福島原発事故とは比べものならないほど被害が大きすぎる、といった日本の未来)。

あなたは地球温暖化を原発製造の理由としますが、完全なウソです。どうか心を入れかえてください。あなたの会社が造った原発が事故を起こし、数万の人々が家を仕事を失っています。あなたは彼らのところへ行き、頭を下げるげきです。

あなたは人間とは、間違える動物であるということを知らないのですか。いかに上手に作ろうとも、人間は、間違いを犯す動物です。その上に、人間の力ではいかにしても抗しえない地震が日本を襲ってきます。

あなたのインタビュー記事を読み、日本はかくも病める国なのか、と私は思いました。かくも異質の人間がいるのか、とも思いました。今、日本全国で、‘がんばろう日本’の声が盛り上がっています。彼らの声を聞いてください。もし、南海トラフに巨大地震が発生し(私の注:この地震が自然地震か人工地震か、は鬼塚氏は問題にしていない。あくまで地震は地震であり、とにかく再度地震や津波が原発を襲ったら日本という国は未来がない、という論調で書いている)、そのとき浜岡原発が稼働していたら、日本はどうなるのかを考えてください。

あなたにも子供さんと孫がいるでしょう。私にもいます。だから、私は自分の未来のためではなく、日本のこれからの子供たちのために、彼らの心情を代弁して、あなたに届くことのない、決して返事のこない手紙を差し上げるのです。

---- 手紙の引用終わり ----

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