古代出雲王国 スサノオ 谷田茂 スサノオ超考古学

スサノオ超考古学とは〜イメージ写真家 shig の「宇宙意識から与えられる直観」を目、耳とし、あらゆる知識を手足として紡ぎ出さられる、極めてオリジナルな考古学である

和気清麻呂の秘された真実 其の参 河堀口(こぼれぐち)

さて、僕は大阪市阿倍野区に住んでいるのだが、
大阪市HPに阿倍野の地名・町名の由来が載っていて、興味深く読んでいた

その中に、
河堀口(こぼれぐち)が記載されている

ーーー

3 河堀口(こぼれぐち)

 延暦7年(788年)当時の守護職であった和気清麻呂(わけのきよまろ)によって、今のJR寺田町駅の南方、猫間川の辺(此の地点を河掘口と云う。
大正14年市に編入されるまで小字名として存続)から着工して、西へ庚申街道から茶臼山の南、河底池に達する洪水対策用の工事が行われました。
この工事は未完のまま長く中断されていたが、徳川時代に大和川への転さく工事となって実を結んだ。
工事のためこのあたりー帯は湿潤地帯となったが、ホタルの名所となり、シーズンには出店が並んで賑わった。
現在、近鉄南大阪線の駅名にその名を残している。 
ーーー

 近鉄電車河堀口駅は僕の家から歩いて4〜5分の距離にある
河堀口と書いてこぼれぐち・・大阪の読み方が難解な地名の一つであるが、この文章の中に、和気清麻呂公の名を見つけた時、僕は不思議な縁を感じた

wikipediaには、こう記されている

和気清麻呂が、788年(延暦7年)に上町台地開削工事を行った際、掘りかけた堀川にちなむ。
堀川は河堀(こぼり)といい、なまって「こぼれ」となり、その掘り始めた場所であることから河堀口(こぼれぐち)となった。


問題はこの工事なのだが・・

和気清麻呂の秘された真実 其の弐 和気清麻呂公の失われた真実探しの旅の始まり

社門横の絵で基礎知識を得た僕は境内に足を踏み入れた
すぐ左に社務所があり、猪グッズが所狭しと並んでいる
明治に発行された、清麻呂公の肖像画が印刷された、兌換紙幣も売っている
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本殿前には、清麻呂公の立派な銅像が設置してある


猪・・

清麻呂公が弓削道鏡に足を傷つけられ、大隅國(鹿児島県)に流されるのだが、
その途中、宇佐の海岸につくと、なんと猪の群れが現れ、清麿公を載せて宇佐八幡宮に運んだ。
そこで「これより北西、豊前国企救郡湯川郷の山の麓に湯がわき出ている。その湯に浸れば足はなおるであろう。」と尊い神のお告げがあった

 清麿公は神馬をかりて、豊前国へむかいました。神馬は疾風のごとくひたすら走り、野を過ぎ、川を渡り、森を抜け、山を越え、湯川郷まで運んでくれました。
神馬の着いたあたりが、竹馬川と呼ばれるようになったともいわれています。

 「これが神さまのお告げにあった湯のでる池か。」

 清麿公はその日から、お告げにしたがって毎日毎日湯を浴びはじめました。

 足の傷は日を追ってみるみる回復し、ついに二十一日目には自分の足でたつことができました。
 「足がたったぞ!足がたったぞ。」
喜び勇んだ清麿公は湯の湧く山の頂上に駆け登り、はるか南の宇佐八幡宮へ向かい、お礼を申しました。
それから、この山は足が立つ山、足立山と呼ばれるようになったと言われています。 
以上
猪に乗った和気清麿(足立山にまつわるお話)より抜粋)

もちろん、作り話に違いない

そもそも、清麻呂公にまつわる一連の逸話は、僕にはどうもしっくりこなかった

ここから僕の和気清麻呂公の失われた真実探しの旅が始まったのだ 

和気清麻呂の秘された真実 其の壱 神使・猪が招いた

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僕は不思議な感覚に陥っていた
え!?猪の狛犬だって?

15年以上前、冬の朝
京都御所前のホテルに投宿していた僕は、朝食後の散歩に出かけた
そして、出会ってしまったのだ
この猪の狛犬に

神使(しんし)・・
猪が僕を導いたのだろうか

ここは 京都御所西 護王神社
社門の右に十数枚の絵が並んでいる
和気清麻呂公のストーリーが
紙芝居さながらにつづられている
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まだ、この古代史シリーズを始めるはるか前のこと
和気清麻呂公について、高校時代の教科書に載っていた記憶がかすかにある

基礎知識を得てから参拝しようと、僕は順々に読んでいった
概略はこのようなものだ

護王神社HPより引用する

御祭神伝記
和気清麻呂公の波乱の生涯

ご誕生

 和気清麻呂公は、天平5年(733)、現在の岡山県和気町でお生まれになり、長じて奈良の都へ上り、朝廷にお仕えしました。

姉君 - 和気広虫姫

 清麻呂公の姉君・和気広虫姫は、早くから宮廷にお仕えし、そのお人柄は「他人の悪口を言うことがない」と天皇からも厚く信頼されていました。天平宝字8年(764)に起きた藤原仲麻呂の乱の折には、乱に連座した375名の死刑者の減刑を天皇にお願いし、死罪を流罪に改められ、乱の影響で身寄りを失った子どもたち83人を養子として養育されるなど、大変慈悲深い方でした。

道鏡事件

 奈良時代末の神護景雲3年(769)、当時法王となり権勢をふるっていた僧・弓削道鏡が、「道鏡を天皇にせよ」という九州・宇佐八幡のご神託があったとして天皇になろうとたくらみます。清麻呂公は称徳天皇に命じられて、そのご神託の真偽を確かめるため宇佐八幡へ赴き、ご神託が偽物であったことを報告。清麻呂公は身を挺して道鏡の野望をくじき、世の中の平安のために活躍されました。しかし、道鏡の怒りを買った清麻呂公は、広虫姫とともに流罪にされてしまいます。

中央への復帰とその後のご活躍

 それから一年が経ち、朝廷では称徳天皇の崩御により道鏡は失脚し、光仁天皇によって清麻呂公と広虫姫は許されて都へ呼び戻されました。その後、清麻呂公は豊前守、摂津大夫を歴任するなど、めざましい活躍をされました。

平安京の造営

 桓武天皇は、都を平城京から長岡京へ遷されましたが、新しい都造りはなかなかはかどりませんでした。そこで清麻呂公は、淀川上流の葛野の地に新たに都を造営することを天皇に進言されました。桓武天皇はこれを聞き入れ、ここに新しい都を造営し、遷都されました。これが以後千年の都となる平安京、現在の京都です。清麻呂公は造宮大夫として、平安建都にも力を尽くされました。

その他の御事績

 清麻呂公は、ほかにも民部省の長官として「民部省例」を整備したり、和気氏の子弟を教育するために、我が国初めての私学「弘文院」の創設に力を入れるなど、晩年まで世のため人のために尽くされました。
 清麻呂公は延暦18年(799)、同年卒去された姉君広虫姫の後を追うように薨去(こうきょ)されましたが、その誠実で清廉潔白な人柄は、多くの人々から慕われ、後世まで語り継がれるところとなりました。


 前後するが

御由緒と御祭神

 護王神社は京都御所の西側、烏丸通に沿いに鎮座する神社で、平安京の建都に貢献された和気清麻呂公(わけのきよまろこう)をお祀りしています。

 確かな創建年は伝えられていませんが、もとは洛西の高雄山神護寺の境内に清麻呂公の霊社として祀られ、古くから「護法善神」と称されていました。

 江戸時代末の嘉永4年(1851)、孝明天皇は清麻呂公の歴史的功績を讃えて正一位護王大明神の神階神号を授けられ、明治7年(1874)には「護王神社」と改称して別格官幣社に列せられました。

 明治19年(1866)、明治天皇の勅命により、華族中院家邸宅跡地であった京都御所蛤御門(はまぐりごもん)前の現在地に社殿を造営し、神護寺境内からご遷座。後に姉君の和気広虫姫も主祭神として合わせ祀りました。

 その後、崇敬者により境内の霊猪像(狛いのしし)が奉納され、「いのしし神社」とも呼ばれ親しまれています。


主祭神
和気清麻呂公命(わけのきよまろこうのみこと)
和気広虫姫命(わけのひろむしひめのみこと)
配 祀
藤原百川公命(ふじわらのももかわこうのみこと)
路豊永卿命(みちのとよながきょうのみこと)
 

新シリーズ「和気清麻呂の秘された真実」の予告

土佐山内家の秘密シリーズの続編は、
資料が得られるまで延期とします

次のシリーズは、
さらに興味深い
和気清麻呂の秘された真実
とします
あっと驚く展開に驚かれることになるでしょう

ご期待ください 

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和気清麻呂公 

土佐山内家の秘密 其の弐拾壱 発見!山内一豊と鉄砲の接点!

国友鉄砲鍛冶というのをご存知だろうか

以下、歴史の歩みを加速させた兵器「鉄砲」より一部引用する

 最後に、戦国期、特に徳川時代に日本の鉄砲製造工場としての役目を担っていた「国友鉄砲鍛冶」 について述べたい。
現在の長浜市国友地区は、室町末期から江戸幕府の終末まで一貫して鉄砲鍛冶の町として栄え、その規模・歴史においても国内随一で、最盛期には鉄砲鍛冶が八十戸も存在 していたという。
国友における鉄砲の歴史を記す唯一の資料「国友鉄砲記」によれば、種子島に 鉄砲が伝来するのは1543年である。
伝来した鉄砲は鹿児島藩主の島津家に贈られ、島津家はそれ を室町将軍足利家に贈ったという。
そしてその鉄砲をモデルに同じものを作るよう命じられたの が国友鍛冶であり、その仕掛けを見極め、伝来の翌年には国産鉄砲を完成させた。

 国友と戦国武将との関係は織田信長から始まる。
信長は早くから鉄砲に関心を寄せ、また合戦 武器として着目していたこともあり、
鉄砲伝来わずか6年後には国友鉄砲鍛冶たちは、信長から鉄砲五百挺の注文を受けている。
さらにはこの注文により国友は鉄砲による生活・生産の基礎ができ大いに繁盛した。
そのような関係から当時の国友は、はじめ京極家、次いで浅井家の支配地だ ったが、経済的には織田信長と深く結びついていったのである。
しかし、国友鉄砲鍛冶が量産体制を整えるのは徳川家康との関係が密接になって以後のことであり、大阪の両陣がその契機になった。
というのは、家康は大阪方に対する戦備から、国友鉄砲鍛冶の集団を直接支配下におき、 銃砲製造工場としての役目を担わせ、大量の大砲などを発注し、本格的に量産体制を整えさせたからである。

以下はWikipediaより

国友

将軍・足利義晴より見本の銃を示され作ったのが始まりと『国友鉄砲記』に伝わる。
これが正確な年かどうかは信頼性が問われるが、ともあれ将軍の命を受けて管領の細川晴元が村を尋ね、国友善兵衛、藤九左衛門、兵衛四郎、助太夫ら名声ある4名ほかの鉄鍛冶と接触し、苦労して鍛え上げた六匁玉の鉄砲2挺を同年8月12日将軍に献上した。

1549年には織田信長が、500挺もの国友村鉄砲を発注したという記録があるが、姉川の戦い(1570年)を機に村を所領とした信長は、羽柴秀吉に命じ、この地の鉄砲業の発展をなし遂げさせた。
江戸幕府のもとでは、村は徳川家康の掌中にはいるが、慶長12年(1607年)前述の4名は鉄砲代官に任命されることとなる。
このあたりから産業は隆盛を極め、大坂夏の陣の時点では国友村は鉄砲鍛冶が73軒、鉄匠が500人だったと記録されるが、太平の世の中になると需要は激減した


長浜・・

49
30国友町

上が虎姫町
山内一豊の生涯より抜粋

『山内家史料』にも永禄四年から天正元年の史料が欠けているため明らかではありませんが、永禄十(1567)年から元亀年間に至る間に桶狭間の戦い以後頭角を現してきた織田信長に仕えるようになったといわれています。
『一豊公御武功御伝記』などの書物に、次のような武勇が伝えられています。
元亀元 (1570) 年、朝倉氏と戦った金ヶ崎城の戦後の天正元(1573)年、越前刀根山の朝倉追撃戦で朝倉家でも剛勇の誉れ高かった三段崎勘右衛門を組討の末に倒し、首級を挙げました。
勘右衛門は強弓の名手であったとされ、一豊は左目尻から右奥歯にかけて矢が貫通する傷を負いながらも勘右衛門を討ち取り、劇的な殊勲を挙げました。
これらの功績により天正元 (1573) 年、秀吉に与えられた領国の一部である近江唐国(滋賀県虎姫町)四百石を信長から与えられ領主となり、これが戦国武将山内一豊としての始まりでした。

国友の記事にある、「国友における鉄砲製造の起源は、天文13年(1544年」と重なる 

ここに、 山内一豊と鉄砲のあまりにも深いつながりが見出せる

もう一度、

土佐山内家の秘密 其の拾九 長宗我部は鉄砲を作っていた!

に掲載した高知新聞の記事を見てみよう

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山内一豊が長浜(近江)で召し抱えた国友氏と記してある 
 

山内一豊は、土佐に鉄砲作りを持ち込んだのだ

土佐山内家の秘密 其の弐拾 堺の秘密2

堺の秘密を追う中で、注目すべき記事を発見した
そのまま転載する

万屋満載さんより

戦国時代、堺の町は中立公正な「自由都市」だったのか

 永禄4年(1561)に堺の町を訪れた、ポルトガルの宣教師ガスパル・ブィレラが『耶蘇会子(やそかいし)日本通信』の中で、堺を「日本でもっとも自由で平和な地」と讃え、「イタリアのベニスのように執行官によって治められ、共和国のような政治をしている」と報告している。

 このように、堺の町は「自由都市」だったとの印象が強いのだが、果たして実際そうだったのであろうか?

 確かに、現在の大阪府堺市は、摂津、河内、和泉3国の“境”に発展したことから、その名がついたといわれる。

 周知のように、戦国時代には、商業、貿易都市として大いに栄えた町である。

 ガスパル・ブィレラ宣教師が云うように「執行官」の代わりに「会合(えごう)衆」と呼ばれる36人の代表によって、合議に基づいて町の運営が行われていた。

 また、応仁の乱以降、戦乱から町を守るために、堺は「環濠(かんごう)都市」として整備されていたのだ。

 環濠都市というのは、守りを堅固にするために、四方(堺の場合、海に面していない三方)に深い堀を廻らせた町のことであり、さらに堺の町には、中世ヨーロッパの都市のように門も作られ、戦いが起きると門が閉ざされるようになっていた。

 このように、堅固な防衛施設があったが故に、堺は戦国時代に大名達の干渉を受けることなく、明をはじめ、朝鮮や琉球、東南アジア方面との貿易によって、富を築くことができたのである。

 しかし、だからといって「堺は経済・貿易によって成り立つ、中立公平な自由都市だった」と、簡単に云ってしまうことはできないのだ。

 当時の堺の貿易品目の内、最大のものは阿波、土佐産の木材で、市政に当たった会合衆は、その木材貿易から巨利を得た豪商によって形成されていたのだ。

 そして、彼等はいずれも、淡路・阿波を拠点とする戦国大名・三好氏の軍事力の保護のもと、安全な貿易を保障されていたのである。

 したがって、どの大名にも属していなかったとされている堺の町だが、実質的には“用心棒”の役割を担っていた三好氏を、経済的に支援していたことになり、完全に中立公平だったとはいえないのである。 

 実際、天文15年(1546)に、三好長慶(ながよし)が、対立していた河内守護代・遊佐長教(ゆさながのり)の大軍に堺で包囲されたときには、堺の会合衆が仲介役となって、長慶を窮地から救ったこともある。
 ここからも、堺の町が自治都市を備えつつも、純粋な中立都市ではなかったことが分るのだ。
 (参考〜歴史の謎研究会書他) 

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南の空から見た堺環濠都市遺跡(堺市博物館提供)

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町を囲う環濠

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町中を巡る濠

画像は全て堺市HP
堺環濠都市遺跡より

 戦国時代、堺が自由都市を保つことができた理由については、さらに探って行きたいが、
ここで僕が注目したのは 
「当時の堺の貿易品目の内、最大のものは阿波、土佐産の木材で」
という箇所だ

はるばる阿波、土佐から木材を船で運ぶ必要があったのだろうか
この記述をご覧いただきたい

大阪の森林と林業より

おおさか河内材について

ご存知ですか?
 全国の都道府県の中で最も森林面積の少ない大阪にも、
豊かな森林に恵まれ、長年の林業技術で育まれた、とても質の良い木材生産地があります。

 中でも、大阪最高峰の金剛山、大和葛城山、岩湧山に連なり、大和川の支流石川の源流域に位置する「河内林業地」は、およそ300年もの昔から、スギやヒノキの人工造林が行なわれてきたと伝えられています 

今も、金剛山の麓、千早赤阪村においても林業が営まれている
かつて大和川は材木を運ぶ船が行き交っていたという 
にも関わらず、土佐や阿波から木材を?

堺と土佐
ここにも接点が見つかった

土佐山内家の秘密 其の拾四 土佐打刃物
で見たように、土佐は林業と土佐打刃物

 

堺といえば刃物と鉄砲

面白くなってきた 

土佐山内家の秘密 其の拾九 長宗我部は鉄砲を作っていた!

堺の秘密の続編を書こうとしている時、
ふと、土佐において鉄砲を作っていたのではないか、と調べてみた

すると・・
たどり着いたのは高知新聞であった
僕の父は高知県出身で、僕も数回訪れているが、高知の人はとても親切だ

高知新聞社学芸部のT氏が、それならば、とデータベースを調べ、
一昨日送ってくださった、
高知新聞の過去記事を読者と共有したい

kochiShinbun

注目すべきは、
日本に火縄銃が伝来したのは1543年といわれるが、その14年後には土佐でも、
幡多一條氏の文書のなかに”手火矢(鉄砲)”が記録されている。

という箇所

14年後というと、1557年
いつから土佐において鉄砲づくりが始まったかについては、定かではないが、
堺で1553年に鉄砲が作られていたという記録が残っているので、
おそらく、堺と同時期に土佐でも鉄砲づくりがなされたのだろう

また、
種子島から、九州の大友氏(一條氏と親類)を経て、もたらされたとも考えられるという。
との記述

wikipedia 鉄砲鍛冶の項には
鉄砲伝来後に、日本で最初の鉄砲鍛冶で呼ぶべき人物は、天文12年(1543年)に種子島において鉄砲の生産に成功した八板清定(金兵衛)らであったとされている。螺子の技術など当時の日本では知られていなかった技術が用いられていたため、八板らは苦心をして鉄砲を製作したことが知られているが、要領が明らかになると比較的単純な技術をもって製作が可能であったことから各地に生産が広まった。
とある

いずれにせよ、鉄砲づくりに必要なたたら跡を土佐に探らねばならない
それは、後日 

 

土佐山内家の秘密 其の拾八 堺の秘密1

話は土佐から堺へと

堺にザビエル公園がある
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ザビエル公園 画像はwikipediaから


たまたま、前を通りかかって知ったのだが、
え?堺にザビエル?
意外だった
というか、勉強不足だった

とりあえず堺市教育委員会に電話して聞いた
すると・・
「はい、日比屋了慶の屋敷跡です」 
 
日比屋了慶・・初耳だった

以下、wikipediaから引用

ザビエル公園(ザビエルこうえん)は大阪府堺市堺区櫛屋町西1丁にある公園。
正式名称は戎公園
面積は約1万5000m2

フランシスコ・ザビエルが堺を訪問したとき、ザビエルをもてなした豪商・日比屋了慶の屋敷跡と言われる地に昭和24年(1949年)に開設された。

1949年はザビエルの来航400年記念の年にあたり、園内に「聖フランシスコ・ザヴィエル芳躅」碑が建立されたことから「ザビエル公園」の通称も使われるようになった。

以下、

キリスト教の茶の湯への影響|キリスト教と茶道

より引用

 日比屋了珪(慶)(ひびやりょうけい) 生没不詳 


  堺の貿易商。
日本人からは、「リョウゴ」と呼ばれ、イエズス会総長に連署状を送った時には「了五了珪」と署名している。
茶道関係文書にある「日比谷了慶」、「ヒビヤ了慶」、「比々屋了珪」などと同一人物。

1550(天文19)年12月、ザビエルが京都めざし瀬戸内海を堺へ向かっていく途中、寄港した港の有力者がザビエルの貧しい姿に同情して、堺にいる友人が了慶を紹介したらしい。
了慶は貿易にたずさわり、当時珍しかった瓦葺き木造三階建ての屋敷に住む大豪商であった。

京都へ行ったザビエルであったが、京都は応仁の乱による戦禍で荒れ果て、思うように布教することができず、わずか11日であきらめて堺へ帰った。
それから1ヶ月あまり病気で療養したザビエルを、了慶は親切に世話をしたという。

病気が癒えたザビエルは堺を出て平戸に戻り、再び山口で布教。
領主の大内義隆に謁見、珍しい贈り物で歓心を買い布教が許されたらしい。

その後ザビエルは、日本布教を確固たるものにするためには、日本文化の源・中国の布教に着手すべきとの判断から、日本滞在2年3ヶ月で中国に向かい、旅の途中、1552年志半ばで中国南部の広東において46歳で昇天した。

1559(永禄2)年、布教のため堺にやってきたのがビレラで、了慶はこのときも布教を応援し、自分の家を教会堂とし、「南蛮寺」といわれた。1563年12月には、我が国初めてのクリスマスが南蛮寺で行われたという。

 了慶は自ら率先して洗礼を受け、サンチョと名乗った。
その後13歳の息子も洗礼を受けてビセンテと名乗り、熱心のあまり九州・豊後へ行って宣教師トルレスの教えを受け、日本人イルマン(布教の助手)の中でももっとも優れた人物であった。
娘も洗礼を受けモニカといい、十字架と聖書を四六時中手にして、みずから異教徒であるとして叔父との婚約を捨て、のちキリシタンの男性と結婚した。

日明貿易で繁栄を誇った堺は、自分たちの力で自分たちの町を守ることを考え、周囲に堀を巡らす自治都市へと発展していく。
その中心が「会合衆」(えごうしゅう)と呼ばれる36人の大商人であり、了慶もその一人であった。
同じ会合衆仲間の薬問屋、小西如清(じょせい)の子ペントにその娘を嫁がせて、キリスト教流の結婚式を挙げた。小西行長はペントの弟にあたる。

ビレラの後を受け継いで、1564(永禄7)年に畿内の布教にあたったのがフロイスで、フロイスもはじめは了慶の家を会堂としていた。
了慶などの熱心な信者もいたが、堺での布教はかなり困難であった。

その理由は、堺の人々はその富のためにかなり傲慢であり、「天国へ行くために自分の利権と名誉を捨てなければならないなら天国など行きたくない」という現実主義者が多かったことや、宣教師が布教のため金持ちに近づき貧者を避けたこと、堺がその富ゆえに、相国寺、東福寺に眼を付けられ、仏教が浸透していた、などであるとされる。 

長々と引用したが、堺といえば、千利休、鉄砲の種子島だが、
キリスト教、とりわけイエズス会との 関係を無視できないようだ

この辺り、先ほど堺市教育委員会に問い合わせたのだが、詳しい方がおられず、
古くからお世話になっている、堺市博物館の学芸員の先生が明るいというので、
先生と連絡がつき、興味深い話が聞ければ記事にしたい

とにかく、
1543年、種子島に鉄砲伝来
1549年、種子島にザビエル上陸、キリスト教伝来
堺にて鉄砲(種子島)を製造したというのだが・・

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の鉄砲鍛冶 画像はwikipediaより

堺と土佐山内家の秘された関係について、この後探っていきたい
 


土佐山内家の秘密 其の拾七 長宗我部元親の秘密

土佐山内家の秘密 其の拾参 土佐へ・・

にて
信濃にたたら製鉄炉が二基確認されているという事実を示した
そして、長宗我部元親の父親、長宗我部国親が信濃から入っているという事実

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)から引用してみる

いったい長宗我部元親とはどんな人物だったのか?
その生涯を追ってみよう。

長宗我部元親/wikipediaより引用

渡来系秦氏の子孫で始皇帝に辿り着く!?

長宗我部元親の生年は意外と古く感じるかもしれない。

織田信長に遅れること5年。
天文八年(1539年)、土佐の地に誕生した。

父は、岡豊(おこう)城主で長宗我部家20代目の国親。
母は、美濃の守護代を務めていた斎藤利良の娘。
元親は、7人兄弟(男子4人、女子3人または4人の説もある)の長兄であった。
岡豊城は、現在の高知県南国市に位置している。

本題の元親に入る前に、まずは長宗我部家の歴史を辿ってみたい。

もともと長宗我部家は土佐国人の1つだった。
ルーツは大陸から日本に渡ってきた渡来人であり、姓を「秦(はた)」とするのが通説である。

秦氏の遠祖は秦の始皇帝と言われ、元親も公文書において「長宗我部宮内少輔秦元親」と記しており、元親以外も長宗我部一族は代々「秦」を名乗っていた。

秦氏系図の次に現れる「長宗我部氏系図」の初代は秦能俊(はた よしとし)である。
大正時代に編纂された『更級郡記』には、保元の乱(1156年)で崇徳上皇側についた秦能俊が敗戦の後、拠点であった信濃を去り、土佐の「長岡郡曾我部」に隠れ、これが長曾我部(長宗我部)氏の祖となったと記述されている。

江戸前期に長宗我部の元家臣が書いた『元親記』には「秦能俊が土佐の国司となり、土佐に三千貫を拝領する綸旨を受けて盃を賜った」とある。

秦能俊が天皇より頂いた盃には「酢漿草(かたばみ)」の葉が一つ浮かんでおり、秦能俊はそれを飲み干して、以降その酢漿草を長宗我部家の紋としたとの伝承があり、「七酢漿草(ななつかたばみ)」が代表的な家紋となった。
七酢漿草は軍旗としても用いられている。

tyosoga

ーーー後略ーーー

また、戦国大名研究には

 ところで、長曽我部氏は酢漿草紋のほかに「帆懸船」紋を用いたことが知られる。
nawa
o_yano

そういえば、長宗我部元親は、小田原攻めの際、水軍を派遣している
潮流の変化が激しい紀伊水道を抜け、太平洋を渡り・・
どれほどの船だったのか
ペリーが蒸気船で浦賀にやってくるのは、300年も後のことだ

秦氏・・

秦氏の遠祖は秦の始皇帝というのは偽りだが、

香美から物部を語る

にて 
野中兼山は

治水灌漑による新田開発や在郷 町の開発港湾の整備

山田堰の建設により物部川の水を治め、舟入、中井、上井の三用水の利水 による新田開発

秦氏 は平安京の造営、治水、鉄の生産を得意とした

と記した 

渡来人にして秦を名乗るのであれば、当然信濃において鉄づくりに励んだであろう

となると、
織田信長が武田勝頼を倒した長篠の戦いにおいて、
3000梃の鉄砲隊で勝頼の騎馬隊を大敗させたというのは、
ウソの歴史ではないのか

僕は、戦国時代というのは、スペインやポルトガルに日の本を奪われないように
表面上戦っているふりをしながら、それぞれ力を蓄えて行った
壮大なヤラセではなかったか、と見ている

つまり、織田信長が使用した鉄砲って
実は、信濃で作られていたとしたら、
長篠の戦いの歴史はひっくり返ることになる

この図は本当ではないのでは?
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土佐山内家の秘密 番外 無添加ハム・ウインナーに情熱を傾ける山内さんのこと

たくさん買った
無添加のハムやウインナー

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とても、嬉しい

左から
実山椒入りソーセージ、プレーンソーセージ、
焼き豚、ロースハム、
フライッシュケーゼ、ベーコン

無添加って、例えば、プレーンソーセージの原材料を見てみると
豚肉、豚脂肪、食塩、馬鈴薯澱粉、砂糖、香辛料
これだけ

ロースハムも見ますか
豚肉、豚脂肪、食塩、砂糖、香辛料
これだけ

市販のハム、ウインナーには、必ずといっていいほど、亜硝酸Naが使用されている
猛毒の青酸カリと変わらない毒性、発がん性のある添加物だ
また、同じく発がん性があるタール系色素も含有している場合が多い


これらを排除して、完全無添加のハムやウインナーを作るには、並大抵の苦労ではない

僕は古代史のほかに、いくつかブログを管理しているが、
アメーバでは、食の安全を中心に記事を書いている
特に、食品添加物に関する記事が多い

ひとー人

その中で、わずか3日前に知り合った方
o192025601423889415479山内啓輔さん

アメーバのプロフィールを転載しよう


私が無添加を始めた理由
無添加のハム・ソーセージ作りは、不可能だと考え、低添加でソーセージ作りを行っていましたが、マスコミの取材を受け注文が殺到した際に頂いたお客様からの手紙が始まりでした。 

私の人生を変えた一通の手紙
その手紙は、アレルギーのある小学生のおばあ様からのものでした。「低添加だったら食べさせることが出来ると思って、食べさせたが駄目だった。孫には食べられるソーセージがないので、完全無添加のソーセージをできるなら作って欲しい・・・・」という内容でした。この時にいつかはそんな子供たちをはじめすべての方々に安心して食べてもらえる物を作ろうと思い立ちました。 

自然素材完全無添加への苦難の道
マスコミによって頂いた注文も落ち着いた時、独立して完全無添加のソーセージを作ろうと決意しました。 
直ちに今までのやり方で添加物を使わずに作ってみると、
 ・燻製が上手くいかない。
 ・肉の旨味が流出して、美味しくない。
 ・ボソボソの食感。
という有様で、今までのやり方を一切捨て一から無添加ソーセージ作りを始めて約6ヶ月経て納得した物ができ、ハム工房古都を開店することができました。
これからもソーセージ作りに精進を重ねてまいります。 

素材のこだわり
無添加ソーセージ作りを始めて分かったことが、原料のお肉がいかに大事かということ。肉によってそれぞれ旨みの感じ方が変わります。             
そこで、ハム工房古都では、松茸・黒豆・栗などの産地で有名な京都府南丹市日吉町の自然が豊かな環境で大切に育てられた脂っぽさがなく、肉質が甘みがあり軟らかい特徴の「京丹波高原豚」を使用しています。 

安心のこだわり
アレルギーをお持ちのお子様でも安心して食べて欲しいとの思いから作り始めた完全無添加のソーセージですので、自然素材だけを使用した製造で作らせて頂いております。毎年、食品検査においてそのような添加物は検出されておりません。 

ハム工房古都のホームページ 
【無添加ソーセージの手作り風景】

〔掬魂奪宗璽察璽犬寮乎郎遒
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¬掬魂奪宗璽察璽犬猟乙
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むむ・・安全な食べ物造りへのひたむきな姿勢

3日前の記事

1127.彼岸と家紋・・・。

ハム工房古都京都市東山区今日

天気は、です。雨

今日は、春分の日ですね・・・。ほっこり

祝日ですが、平常営業でロースハムの

仕上げとソーセージ作りをいたします。

彼岸でもあるので、一昨日墓参りをし

てまいりました・・・。ほっこり

天気も今週は、雨の日の予報が多くて、

仕事も忙しくなって・・・。

いつ墓参できるのか・・・。

ということで、気になっていましたもので

すから・・・。

一昨日、仕事のきりをつけて、行くこと

ができました・・・。ほっこり

今年も無事に・・・。

ホッとした気持ちになり・・・。

年に数度しか墓参りしていないけれど、

いつも近く見守って下さっている・・・。

そんなことを改めて感じる・・・。ニコ

一番苦しかった頃不思議

見させていただいた・・・。ニコ

先祖様が現れて、店の看板暖簾・私

名刺等々、目に付くところに家紋

入れるように・・・。ほっこり

家紋・・・。

墓石彫られているだけで・・・。

何も意識もしてなかった・・・。

でも、鮮明な夢だったので、家紋を入

れるように直ぐ行動・・・。ニコ

少しずつ店も成長を始めた・・・。

このタイミングピッタリ・・・。

そして、独自の製法「山内啓輔作」

完成した・・・。クローバー

嘘のような本当の話・・・。

彼岸が来るといつも思い出す・・・。

忘れることの無いことの一つ・・・。

山内啓輔

ーーー
この、家紋に僕のこころはすぐさま反応した
三つ柏、山内姓
画像を拡大

家紋
9f93305a803f57ce8835591e28183a69土佐山内家の家紋

上の記事に、僕が入れたコメント

家紋
土佐山内家の丸に三つ柏なのですね
ぜひ、僕の別ブログを見ていただきたいです
「土佐山内家の秘密」と題して、書き綴っています
スサノオ超考古学
シリーズ:土佐山内家の秘密 其の壱から始まります
http://blog.livedoor.jp/shig1/archives/2166384.html

追記
無添加ソーセージやハム、美味しそうですね
今度注文させてください

答えは
shigさん、ありがとうございます。
お彼岸の日に最高の贈り物でした。(*^▽^*)
家の言い伝えとも合致していて、とても分かりやすくて
読み耽ってしまいました・・・。
また、お会いできれば嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。
無添加 ハム工房古都 

そのようなわけで、今日の山内さんの記事で、大阪に出張販売すると知り、
出かけていった。
といっても、わずか40分の距離なのだが・・
会場では奥様がウインナーなどを試食&販売されていた
3点ほど購入し、「山内さんはこられていますか?」と聞くと
すぐ横におられ、静かなところに移動し、2時間ほど歓談した

素晴らしい方であった

家紋のこと、歴史のこと、食品添加物のこと、もちろんハムやウインナー作りのことや
原料になる豚や飼料など・・

名残惜しかったが、さらに2点購入して会場を後にした
今度は京都に伺って、いろんな話をしましょうと約束した

さて、お味は・・
rorsham
ロースハム

そのまま食べた

2ミリ厚にスライスしてあるのだが
噛み始め、やや薄味と思いきや、
噛むほどに、程よい塩味と肉の旨味が口いっぱいに広がって・・
1枚食べるのに5分もかかってしまった
粒マスタードを用意したのだが、出る幕なし
最高のハムの味をじっくりと堪能した
明日は、どれを食べようか・・

HP↓
自然素材完全無添加 ハム工房古都
店名: ハム工房古都
所在地: 京都市東山区山田町499番地1
代表者: 山内啓輔
Tel&Fax: 075-525-0068
定休日: 日曜日・祝日(不定休あり)
営業時間: 9時〜18時
email: info@hamkobo-koto.jp

※お取り寄せには欠品がある場合も
ぜひ、京都に行きましょう 

土佐山内家の秘密 其の拾六 蕎麦と古代鉄づくりの密接な関係とは

香美郡 物部村 観光スポットHPより

 住民は自給生活をしていたため、水田の少ない本村は焼畑農業で食料の確保をするため、山を伐り拓き、山を焼き、ソバや小豆・大豆・大根・ヒエ・アワを栽培して、その後製紙原料の三椏を植え、地力がなくなると最後に杉や桧の植林をしました。

香美は蕎麦屋が多い
古代より鉄づくりが 盛んなところは例外なく林業と蕎麦作りが盛んだ

みんなの農業広場より 

ソバ栽培

●原産地は、中国南部の四川省から雲南省にかけての山岳地帯、特に三江地域と推定されています。
●4600年前のソバの種子が東チベットの遺跡から見つかっており、
起源地から東アジアやヨーロッパに伝わったと考えられています。

日本では、縄文時代晩期に各地で栽培されていた証拠があります。

「栽培状況」 
●現在の栽培地は、中国、ロシアなどの夏に涼しい地帯が中心です。
イネが栽培できないアジアの中山間地では、主食用に栽培されています。
●日本では、北海道や中部地方などの冷涼な地域で栽培が盛んであり、
水田転作作物としても各地で栽培されています。

香美には、棚田が多い

kahoku1
有瀬を代表する棚田風景

kahoku2
西ノ峰近くの棚田

画像は風景への旅 美しき棚田よりお借りした

棚田は鉄づくりに利用した、鉄穴流し(かんなながし)のあとを利用して水田にしたものだ

しかし、米を効率よく採取するためには水田が要るのだが、鉄づくりをする間、
エネルギー補給をする必要がある
それが、蕎麦だった
蕎麦は斜面に種を蒔くだけで育つ

そのようなわけで、鉄づくり、林業、蕎麦は切ってもきれない

土佐山内家の秘密 其の拾四 土佐打刃物

の章で見たように、香美に置いて、林業に必要な刃物が発達したことと無縁ではない

さて、次章では、いよいよ
長宗我部元親の父親が信濃から入っていることと、長篠の戦いの秘密に迫りたい





土佐山内家の秘密 其の拾五 香美・物部(物部)の秘密

鉄と薬草を追いかけて、僕は香美は物部(ものべ)に導かれた
03
枠内が物部 青は物部川


Wikipediaを覗いてみよう

物部村(ものべそん)は、高知県の北東部、物部川の源流域に位置していた、日本一のゆず産地と知られる村である。

面積の約95%を山林が占め、林業や柚子の栽培などの農業、それを使った特産品が主な産業である。

剣山国定公園のエリア内にあるべふ峡など、四季折々の自然が楽しめる。
また、陰陽道や古神道の一つといわれるいざなぎ流が伝わる地域としても有名なほか、平家の落人伝説も残っている。 

いざなぎ流

いざなぎ流は、陰陽道の要素を含むが、中世の京都で発展した陰陽師の家元である土御門家や賀茂氏とは歴史的な関連性が確認されておらず、土佐国で独自発展した民間信仰である。

伝承によれば、天竺(インド)のいざなぎ大王から伝授された24種の方術に基づくとする。
法具は無く、儀式の都度にそれに応じた定式の和紙の切り紙(御幣)を使う。
民間信仰ではあるが、祭祀の祝詞・呪文は体系化されて定式的に伝承されている。

祭儀は太夫と呼ばれる神職によって執り行われるが、太夫は家元制度や世襲でもなく、特定の教団組織もなく、男女の性別も問わない。
地域の中の適格者と認められた人物が膨大ないざなぎ流の祭文と祭礼の様式を伝承する。

近年、物部村の民家から土御門家からの免許状が発見された

動画↓クリック
いざなぎ流

次に、香美より取り寄せた冊子

物部川源流地 神秘の扉より

物部は近代以前までは焼畑農業と林業を主な生業とする典型的な山村だった。
平家の落人伝説を語り伝え、深い山間の斜面や谷の奥でひっそりと暮らしていた。

平地がほとんどないため、山の斜面に石垣を築き、土地を拓いて家を建て田畑にした。

昔から狩猟が盛んで、かつてはイノシシ、タヌキ、ウサギ、ムササビなどが食用や毛皮目的で捕獲されていた。
また、物部では伝説の漁師から伝えたとされる「西山法」なる作法によって、動物霊の鎮魂が行われてきた。
中でも特徴的なものがクマに対する鎮めで、西山流の巻物を開いてクマの首にかけ「我は西山両氏に撃たれた故に祟るな」と唱え、山中に首を埋め、石をのせておく。このようにすれば、魂は鎮められ眼を覚ますことはないと言われた。

そして、薬

タヌキの油、サルの頭蓋骨の黒焼き、サル肉の塩漬が薬とされていた。黒焼きは婦人系疾患、塩漬は下痢に効くとされ、現代においても未だ使用されている。薬草・山草などの植物も薬として使われ、農林業体験実習館裏にある岩場でも珍しい薬草を見つけることができる。

すごいですね、これだけではないのです
物部の研究を長らく行っておられる女性から、物部の薬の一覧を送ってもらった
その中には・・
膨大な植物由来の薬草はもちろん、動物由来のものとして
炒って乾燥させ、粉末にした赤とかげは扁桃腺や熱下し
カマキリの黒焼きを粉末にして心臓病、喘息
クモを潰して汁を蜂さされや、やけど
ネズミの黒焼きを飲むと心臓病
などなど・・

それにしても、物部なる地名

薬草、そしてセットになるのは、鉄と蕎麦だ
 

 

土佐山内家の秘密 其の拾四 土佐打刃物

土佐のユニークな産物といえば、
土佐打刃物(とさうちはもの)である
香美市観光協会のサイトから引用しよう

土佐打刃物

アジアモンスーンが運ぶ暖かい空気と多くの雨の恵みを受けた土佐の国は古くから森林資源に恵まれ、良木の産地として多くの木材を搬出していた。
 それに伴い、伐採、搬出に必要な打ち刃物の製造も行われていた。

また、鎌倉時代後期、徳冶元年(1306)大和国より刀鍛冶・五郎衛門吉光が土佐の国に移住し、その一派が戦国末期まで繁栄し、打ち続く戦乱の世で武具刀剣等の需要に応じたとの記録がある。

刀鍛冶と山林用刃物鍛冶は技術面でも互いに影響しあい、土佐には独特の高度な技術を有する鍛冶屋が点在していくようになった。
天正18年(1519)の長宗我部地検帳には399件の鍛冶屋が記録されている。

土佐打刃物(鋸)
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江戸時代に入り、土佐藩の行財政改革を担った執政野中兼山は、森林資源の確保や新田の開発による産業振興に果敢に取り組む。

このことにより、平野部には広大な農地が開かれ、山々は植林、造林により美林が造成されていった。
必然、農業林業用の刃物の需要も拡大し土佐打刃物は生産量品質ともに格段の向上が見られた。

特に現在の香美市は、山田堰の建設により新田開発と水運の拠点となり、ここから発する井水が新たな農地を生みだし、また堰の袂である神母ノ木は山からの物資、特に搬出材の集積地ともなり、数多くの鍛冶職人が仕事場を構え製材用の鋸や山仕事用の鉈や斧、農作業用の鎌や鍬を生産するようになった。

神母ノ木周辺の職人が作りだす鋸には片地村の刻印が押され、全国に名を知られるブランドとしての地位を確立していた。

土佐打刃物(鉈)
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山仕事から発祥し、質の良い道具として発達した土佐打刃物であるが、峻嶮な山から大木巨木を見事に切り出す山男たちは杣師と呼ばれ、土佐の杣師はその卓越した山林作業技術が高く買われ、やがて全国各地の山仕事の現場にかりだされることになる。

土佐の杣師たちには常に大切な相棒としての土佐打刃物の道具がついて行った。

切れ味、耐久性,使い勝手のよさ。
山仕事の一級品としての土佐打刃物の名前は土佐の山男の仕事ぶりとともに日本全国に広がっていくことになる。

歴史的にもはっきりした出自を持ち、優れた道具として日本の産業とともに発展してきた土佐打刃物。

林業の機械化に始まり、やがて林業そのものが低迷して行くとともに道具としての打刃物は徐々に一般の人にはなじみの薄いものとなっていった。

土佐打刃物(作業風景)
拡大表示

多くの刃物産地が量販店の商品家庭品の需要や洋食器への転換などに対応し、機械化のより廉価品の量産化をはかるなどしていく中、土佐打刃物はあくまでも鍛冶職人の手による伝統技法にこだわり、産地を守ってきた。

火床により真っ赤に焼かれた鉄が鋼と融合して、職人とハンマーの阿吽の呼吸により鍛えられ成形され刃物に生まれ変わっていく。
どのような大きさでもどのような形状でも自由自在に作り上げて行く。
これが土佐の自由鍛造である。

槌がベルトハンマーに変わった以外は恐らく数百年変わることなく受け継がれてきた伝統の技。
土佐の打刃物はいごっそう土佐人そのものであり、私たちの誇りである。
平成10年には経済産業省より伝統工芸品の指定を受けた。

土佐打刃物
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昨今、環境問題が重要な課題となっていく中で、山林の生み出す価値に注目が集まってきた。
山に入り緑を育むことがとても大切なことだと、日本人の多くが気付きはじめた。

土佐打刃物は山育ちの伝統産業である。
山の復権とともに土佐打刃物がまたたくさんの人に手にとってもらえる日がくることを期待したい。

土佐打刃物は優れた工芸品であると同時に、日本の産業の歴史を担った大切な道具なのだ。
土佐打刃物はふるさとの先人の汗も涙も知っているのだ、と思う。


僕の古くからの友人に、江戸最後の刃物職人と呼ばれる方がいる
彼に土佐打刃物 について尋ねてみた
すると、
「谷田さん、土佐打刃物はね 、とても変わってるんだよ、でっかいのばかり作るんだ」
「それって、斧とか鉈や鋸ですか?」
「うん、そう」

たたら製鉄に最も必要とされるのは、原材料になる砂鉄はもちろんだが、
実は「炭」なのだ
いかった炭の上に砂鉄を流し込み、落ちて来たものの結晶が玉鋼(たまはがね)
炭は広葉樹林を切り出して作った
そのために必要とされた鉄器具、それが斧、鉈、鋸だ

数ある鉄製品の中で、これらの大型刃物に特化した土佐
それは、日本の林業の発展に著しく貢献したわけだが・・

さて、香美の名産に蕎麦のがあげられる
この、蕎麦
実は鉄づくりと密接な関係がある
それは・・ 

土佐山内家の秘密 其の拾参 土佐へ・・

ようやく土佐の秘密に戻ってきた

ここで、過去の記事を振り返ってみよう

ーーー

香美から物部を語る


高知県の龍河洞のある地
香美というところがあり
物部(ものべ)町(旧物部村)を研究した

 
香美市のサイトはこちら
http://www.kigenhaeikayo.com/index.html

以下は研究成果

香美の歴史の秘密

まず
信濃国より土佐の入り、長岡郡長宗我部郷の地頭となった
入部した郷より長宗我を名乗る


秦氏は平安時代に集団で渡来し
鉄、絹、土木事業を得意とした


山積族(山部)は韓半島南部から渡来した海洋民の鉱山鍛冶集団ある。
越後国は宇都志金折命の後裔十嵐氏の本拠地で、
信濃国は穂高見命の後裔安曇氏の本拠地にて、

両国に山浦・山岸・山口・山崎・山田・山本等が多く存す。


長宗我部が信濃国から土佐に来ていることから

渡来系鉱山鍛冶集団であることがわかる


では

山内家は


古代の奥州阿部族は阿(あ、お)をウと云い、山と唱え集落山地・山 内(やまち)と称す。
阿部族 山姓は奥州の鉱山地に多く存す


これまた
同じく山積族(山部)
渡来した海洋民の鉱山鍛冶集


では

野中兼山は

山もクサイが

野 中 ノナカ  野は国の意味、那も同じく国の意味、曷(か)は村の意味。
韓国(辛国)渡来人集落を野中と称す。


治水灌漑による新田開発や在郷 町の開発港湾の整備

山田堰の建設により物部川の水を治め、舟入、中井、上井の三用水の利水 による新田開発

秦氏 は平安京の造営、治水、鉄の生産を得意とした


江戸時代に入り、土佐藩の行財 政改革を担った執政野中兼山は、
森林資源の確保や新田の開発による産業振興に果敢に取り 組む。
・・・
必然、農業林業用の刃物の需要も拡大し土佐打刃物は生産量品質ともに格段の向上が見られた
特に現在の香美市は、山田の建設により
・・・
また堰の袂である神母ノ木は山からの物資、特に搬出材の集積地ともなり
数多くの鍛冶職人が仕事場を構え製材用の鋸や山仕事用の鉈や斧、農作業用の鎌や鍬を生産するようになった。

さらに

谷泰山は

秦という名を使っているところが決定的だが

谷は矢であり、物部

矢 ヤ  日本書紀・神武天皇即位前紀に「饒速日命の天羽羽矢一隻(ひとつ)と歩靫(かちゆき)とを取りて、以ちて天皇に示せ奉る」と見ゆ。

布都大神は饒速日命のことで 「矢」と別称す。(註:饒速日命=ニギハヤヒは物部氏の祖先)
矢田、矢作、矢部等参照。また、佳字に谷を用いて、ヤツと称し、二字の制により谷津、谷之、矢野とも称す。

物部は秦氏を大陸から受け入れ
鉄、鍛冶、刃物、養蚕、絹織物、土木事業、呪術などを全国に広めたのだが

最初は出雲地方
そこから
瀬戸内、信濃、
畿内、四国、九州・・と広げ 
 
江戸時代に
土佐打刃物を全国に広める際
山仕事から発祥し、質の良い道具として発達した土佐打刃物で あるが、
峻嶮な山から大木巨木を見事に切り出す山男たちは杣師と呼ばれ、
土佐の杣師はその卓越した山林作業技術が高く買われ、
やがて 全国各地の山仕事の現場にかりだされることになる。

土佐の杣師たちには常に大切な相棒としての土佐打刃物の道具がついて行った。
切れ味、耐久性、使い勝手のよさ。
山仕事の一級品としての土佐打刃物の名前は土佐の山男の仕事ぶりとともに
日本全国に広がっていくことになる。

道具だけでなく鍛冶屋もたたら製鉄師もついて行き、全国ネットワークが組織され
物部の力は盤石になったはずである


ーーー 

鉄のオンパレードだ

ここで一番気になるのが長宗我部元親の父親が信濃から入っていること

信濃・・時代が下ると武田の本拠地となる
長野県植科郡坂城に
鉄の展示館がある
そのHPに、見つけた

坂城町は戦国時代の名将、葛尾城主村上義清の活躍した歴史の町です。
町内にはこの義清時代頃と思われるたたら製鉄炉が2基確認されています。

やはり・・

僕が何を言いたいのか、お分かりになるだろうか

下の地図を見ていただきたい 左に坂城町が見えるが・・
 sakaki


 

土佐山内家の秘密 其の拾弐 え!ザビエル?

其の拾 大倉山の秘密
において
僕は、こう記した
大倉山、大岩見神社のある、日南市だが、隣の日野市と共に、300以上のたたら跡が発見されている
室町〜江戸時代にかけて、日本の鉄の7割をここで生産されていた
それを仕切っていたのは、近藤家

そして、生産された玉鋼(たまはがね)は馬に背負わせ、岡山に
そこから船に乗せて大坂に運ばれ、 近藤家の支店で売りさばかれたというのだが・・

問題は、この室町〜江戸にかけて、大量生産した鉄が、なぜ必要だったかなのだが

1,600年 ご存知のように関ヶ原の戦いがあり、徳川が豊臣を滅ぼす
その恩賞で、山内一豊が土佐を賜る

1,543年 種子島に鉄砲が伝来
1,549年 種子島にフランシスコ・ザビエル上陸 キリスト教を伝える
当時はまだ、室町時代、実質は戦国時代であった

日野、日南で作られた玉鋼(たまはがね)を材料に大量に作られた鉄砲 種子島


織田信長が武田勝頼を倒した長篠の戦い

天正3 (1575) 年5月三河 (愛知県) 設楽原における武田勝頼と,織田信長徳川家康連合軍との戦い。
勝頼は,天正2 (74) 年遠江 (静岡県) の高天神城を陥れ,その勢いに乗って翌年長篠を囲んだ。
城主奥平定昌 (のち信昌) の要請により,信長と家康が出陣。
極楽寺山に陣した信長は馬防柵を設け,3000梃の鉄砲隊で勝頼の騎馬隊を大敗させ,その後の築城法や戦術に画期的変化をもたらした。
コトバンク
Battle_of_Nagashino
5e8f91af

画像はWikipediaより

 3000挺で武田騎馬軍団を打ち破ったと・・
そうかな?ホントかな?
武田側には、鉄砲はなかったのか?
これは別の章に譲りたい

そうそう、ザビエルである

フランシスコ・デ・ザビエル
Franciscus_de_Xabier

1,534年、イグナチウス・ロヨラ等とイエズス会を結成
ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドゴアに派遣され、その後1549年天文18年)に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。
また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。
Wikipedia

彼の使命は、布教とともにスパイ活動であった。
日本の状況を逐一ポルトガルに報告していたのである

しかし、秀吉や徳川幕府がキリスト教に対して弾圧を始めたのに、
結局ポルトガルもスペインも攻めて来なかった
それは、なぜか?

当時、全ヨーロッパの数倍の
鉄砲が日本にあったのだ

戦国時代は、実は来るべき列強の襲撃に備えるための馴れ合いだったのではないかと
僕は見ている
でなければ、鉄砲が必要がなくなった江戸時代にあっても、種子島を作り続ける意味がわからない


そして、それを解く鍵が山内なのだ
次回から、いよいよ土佐に話は戻る
その中で、長篠の戦いの秘密にも迫っていく
 
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