高知県の龍河洞のある地
香美というところがあり
物部(ものべ)町(旧物部村)を研究した
香美市のサイトはこちら
http://www.kigenhaeikayo.com/index.html
以下は研究成果
香美の歴史の秘密
まず
信濃国より土佐の入り、長岡郡長宗我部郷の地頭と なった秦 氏は 入部した郷より長宗我部を名乗る
秦氏は平安時代に集団で渡来し
鉄、絹、土木事業を得意とした
山積族(山部)は韓半島南部から渡来した海洋民の鉱山鍛冶集団で ある。
越後国は宇都志金折命の後裔五 十嵐氏の本拠地で、信濃国は穂高見命の後裔安曇氏の本拠地にて、
両国に山浦・山岸・山口・山崎・山田・山本等が多く存す。
長宗我部が信濃国から土佐に来ていることから
渡来系鉱山鍛冶集団であることがわかる
では
山内家は
古代の奥州阿部族は阿(あ、お)をウと云い、山と唱え集落を山地・山 内(やまち)と称す。
阿部族 山姓は奥州の鉱山地に多く存す。
これまた
同じく山積族(山部)渡来した海洋民の鉱山鍛冶集
では
野中兼山は
山もクサイが
野 中 ノナカ 野は国の意味、那も同じく国の意味、曷(か)は村の意味。
韓国(辛国)渡来人集落を野中と称す。
治水灌漑による新田開発や在郷 町の開発、港湾の整備
山田堰の建設により物部川の水を治め、舟入、中井、上井の三用水の利水 による新田開発
秦氏 は平安京の造営、治水、鉄の生産を得意とした
道具だけでなく鍛冶屋もたたら製鉄師もついて行き
全国ネットワークが組織され
物部の力は盤石になったはずである
香美というところがあり
物部(ものべ)町(旧物部村)を研究した
香美市のサイトはこちら
http://www.kigenhaeikayo.com/index.html
以下は研究成果
香美の歴史の秘密
まず
信濃国より土佐の入り、長岡郡長宗我部郷の地頭と なった秦 氏は 入部した郷より長宗我部を名乗る
秦氏は平安時代に集団で渡来し
鉄、絹、土木事業を得意とした
山積族(山部)は韓半島南部から渡来した海洋民の鉱山鍛冶集団で ある。
越後国は宇都志金折命の後裔五 十嵐氏の本拠地で、信濃国は穂高見命の後裔安曇氏の本拠地にて、
両国に山浦・山岸・山口・山崎・山田・山本等が多く存す。
長宗我部が信濃国から土佐に来ていることから
渡来系鉱山鍛冶集団であることがわかる
では
山内家は
古代の奥州阿部族は阿(あ、お)をウと云い、山と唱え集落を山地・山 内(やまち)と称す。
阿部族 山姓は奥州の鉱山地に多く存す。
これまた
同じく山積族(山部)渡来した海洋民の鉱山鍛冶集
では
野中兼山は
山もクサイが
野 中 ノナカ 野は国の意味、那も同じく国の意味、曷(か)は村の意味。
韓国(辛国)渡来人集落を野中と称す。
治水灌漑による新田開発や在郷 町の開発、港湾の整備
山田堰の建設により物部川の水を治め、舟入、中井、上井の三用水の利水 による新田開発
秦氏 は平安京の造営、治水、鉄の生産を得意とした
江戸時代に入り、土佐藩の行財 政改革を担った執政野中兼山は、森林資源の確保や新田の開発による産業振興に果敢に取り 組む。
・・・
必然、農業林業用の刃物の需要も拡大し土佐打刃物は生産量品質ともに格段の向上が見られた。
・・・
必然、農業林業用の刃物の需要も拡大し土佐打刃物は生産量品質ともに格段の向上が見られた。
特に現在の香美市は、山田堰の建設により
・・・
また堰の袂である神母ノ木は山からの物資、特に搬出材の集積地ともなり
数多くの鍛冶職人が仕事場を構え製材用の鋸や山仕事用の鉈や斧、農作業用の鎌や鍬 を生産するようになった。
また堰の袂である神母ノ木は山からの物資、特に搬出材の集積地ともなり
数多くの鍛冶職人が仕事場を構え製材用の鋸や山仕事用の鉈や斧、農作業用の鎌や鍬 を生産するようになった。
さらに
谷泰山は
秦という名を使っているところが決定的だが
谷は矢であり、物部
矢 ヤ 日本書紀・神武天皇即位前紀に「饒速日命の天羽羽矢一隻(ひとつ)と歩靫(かちゆき)とを取りて、以ちて天皇に示せ奉る」と見ゆ。
布都大神は饒速日命のことで 「矢」と別称す。(註:饒速日命=ニギハヤヒは物部氏の祖先)
矢田、矢作、矢部等参照。また、佳字に谷を用いて、ヤツと称し、二字の制により谷津、谷之、矢野とも称す。
物部は秦氏を大陸から受け入れ
鉄、鍛冶、刃物、養蚕、絹織物、土木事業、呪術などを
全国に広めたのだが
最初は出雲地方
そこから
瀬戸内、信濃、畿内、四国、九州・・と広げ
谷泰山は
秦という名を使っているところが決定的だが
谷は矢であり、物部
矢 ヤ 日本書紀・神武天皇即位前紀に「饒速日命の天羽羽矢一隻(ひとつ)と歩靫(かちゆき)とを取りて、以ちて天皇に示せ奉る」と見ゆ。
布都大神は饒速日命のことで 「矢」と別称す。(註:饒速日命=ニギハヤヒは物部氏の祖先)
矢田、矢作、矢部等参照。また、佳字に谷を用いて、ヤツと称し、二字の制により谷津、谷之、矢野とも称す。
物部は秦氏を大陸から受け入れ
鉄、鍛冶、刃物、養蚕、絹織物、土木事業、呪術などを
全国に広めたのだが
最初は出雲地方
そこから
瀬戸内、信濃、畿内、四国、九州・・と広げ
江戸時代に
土佐打刃物を全国に広める際
土佐打刃物を全国に広める際
山仕事から発祥し、質の良い道具として発達した土佐打刃物で
あるが、峻嶮な山から大木巨木を見事に切り出す山男たちは杣師と呼ばれ、土佐の杣師はその卓越した山林作業技術が高く買われ、やがて 全国各地の山仕事の現場にかりだされることになる。
土佐の杣師たちには常に大切な相棒としての土佐打刃物の道具がついて行った。
切れ味、耐久性、使い勝手のよさ。
山仕事の一級品としての土佐打刃物の名前は土佐の山男の仕事ぶりとともに日本全国に広がっていくことになる。
道具だけでなく鍛冶屋もたたら製鉄師もついて行き
全国ネットワークが組織され
物部の力は盤石になったはずである