見よ、この石垣!!
これは戦国時代に作られたものではありませんぞ!!
玉置神社公式HPから一部を紹介する
神社概要
玉置神社は大峰山脈の南端に位置する標高1,076mの玉置山の山頂近くに鎮座し神武天皇御東征の途上として伝承されています。創立は紀元前三十七年第十代崇神天皇の御宇に王城火防鎮護と悪魔退散のため
早玉神を奉祀したことに始まると伝えられています。
古くより熊野から吉野に至る熊野・大峰修験の行場の一つとされ、平安時代には神仏混淆となり玉置三所権現または熊野三山の奥院と称せられ霊場として栄えました。
ーーー
wikipedia
社伝の『玉置山縁起』では崇神天皇によって崇神天皇61年(紀元前37年)に、熊野本宮(和歌山県田辺市本宮町)とともに創建されたと伝えられ
古来より十津川郷の鎮守であった
しかし、『旧事紀』には崇神天皇61年の記事はなく、玉置神社のことも伝えられていない一方で
『水鏡』伝の新宮創祀と同年であることから作為と考えられ、創建年代は不詳である
『玉置山縁起』をはじめとする社伝は、玉置山山頂近くに露頭する玉石を神体とする末社玉石社を玉置の称の由来とし
地主神または奥の院と位置づけており、山容を神奈備として崇拝することが起源であったと考えられている
ーーー
本社御祭神
国常立尊(くにとこたちのみこと)
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冊尊(いざなみのみこと)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)
摂社・三柱神社御祭神
倉稲魂神(うがのみたまのかみ)
天御柱神(あめのみはしらのかみ)
国御柱神
(くにのみはしらのかみ)
末社・玉石社
大巳貴命
(おおなむぢのみこと)
境内の御案内
本 社
玉置山の頂上近く、標高1000m付近に鎮座する玉置神社は、第十代崇神天皇の時代に王城火防鎮護と悪神退散のため、
創建されたと伝えられています。
入母屋造り内陣に三社を奉祀、欅(けやき)材の堂々たる社殿です。
末社・玉石社
古代、神武東征以前から熊野磐座信仰の一つとして崇められてきた玉石は、
玉置神社本殿と玉置山頂上中程に鎮座します。
社殿がなくご神体の玉石に礼拝する古代の信仰様式を残しています。
玉置神社の基となったのが、この玉石社と伝えられ、玉石に宝珠や神宝を
鎮めて祈願したと伝わっています。
大峯修験道では、玉石社を聖地と崇め、本殿に先んじて礼拝するのが習わしと
なっています。
社務所
社務所・台所は昭和63年(1988)に国指定有形重要文化財となりました。
江戸時代末期、神仏混淆であった玉置神社の別当寺であった高牟婁院の主殿及び庫裏として建立されたもので
神仏分離後は社務所・台所および参籠所として使用されています。
棟札から文化元年(1804年)の建立と判明。
社務所は入母屋造銅板葺き、桁行22メートル、梁行15メートルで、北面に玄関を設け、南面は懸造とし、
地階には参籠所を備えます。
台所は桁行9メートル、梁行8.9メートルで、屋根は銅板葺き、東面は入母屋造、
西側は社務所に接続されています。
上質な書院建築と参籠所を上下に複合させた構造は、近世における修験教団の活動が作り出したものであり、
社務所および台所とも、わずかな改造を受けたのみで古い様式を今に残しています。
出雲大社玉置教会
明治維新の際、十津川郷中すべて廃寺され、全村民が大社教に属したことから、その総元締めとして設立された。
神楽殿
弓神楽を奉納し、参詣者に御神符を交付し、大いにに賑わった時期もある。
伝統芸能など各種奉納の要請も多くなりつつある。
絵馬堂
もとは2、3階になっていた。現在は一層であるが、往時の力を保っている。
ーーー
おや、石だらけ(笑)
ここからは十津川村観光協会の記事より
↓クリック
聖地・熊野三山の奥の宮「玉置神社」
境内には天然記念物の老巨杉郡(神代杉・常立杉・磐余杉・大杉などの)
樹齢3000年の御神木が叢生しており
清浄な空気と荘厳な世界があなたを太古の世界へといざないます。
日本における神様は国常立尊主神が1番はじめに現れたとしています。
日本で祀られている神社は、玉置神社とそして岐阜 の位山、木曽の御嶽山(里宮)、伊勢外宮など極めて 重要なところに祀られています。
日本最古の神社が玉置神社にあたります。
そして八柱の神の1神である伊弉諾尊(いざなぎのみこと)神と 夫婦神になられた伊弉册尊(いざなみのみこと)神が
今の日本の国を お創りになり玉置神社に祀られています。
神武天皇御東征のときこの地で兵を休め
「十種神宝(とくさのかんだから)」の「玉」を鎮め(置き)武運を祈願されたことから玉置(たまき)の名前の由来となっておる。
山深い吉野の山中を神武天皇の道案内に立った八咫烏(やたがらす)が、わしらの祖先とのいいつたえがあるのじゃ
「修験道(しゅげんどう)の開祖」役の行者(えんのぎょうじゃ)さま、
弘法大師さま、天台宗の智証大師さまもこの地で修行されたそうじゃ。
「大和なる(古代は熊野じゃった)玉置の宮の弓神楽(ゆみかぐら)弦音すれば悪魔退散」と詠まれ、
全国的にも珍しい「悪魔退散」という特殊なご神徳があり、古くは皇族の方の悪魔祓いが行われていたのじゃよ。
玉置神社の参道の途中には、天然記念物の「枕状溶岩(まくらじょうようがん)」があるのじゃ。
深い海の底から噴き出した玄武岩質マグマが固まったものじゃよ。
それが隆起して今の玉置山が創られたのじゃ。
これは紀伊半島だけではなく日本列島の成り立ちを示す貴重な証拠となるものといわれておるのじゃよ。
玉置神社の駐車場から境内までは歩いて15分程じゃから、歩きやすい足元でおゆきなされよ。
ーーー
上から見ると・・
玉置神社本社(玉置山山頂)付近の空中写真(1976年撮影)。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
ひどいや、山というより、巨大な岩石ですね(笑)
こんなすごいところに住み、悠久の昔に石垣などを作ってしまうのが物部なのだ
ページトップの石垣がいつごろ作れれたのかは
神職に問い合わせても
「わかりません」とのことだった
そりゃそうでしょう
石は石だから
いつの時代のものか分かるはずがない
では
この古社が物部のものであると僕が断言する根拠を示そう
神武天皇御東征のときこの地で兵を休め
「十種神宝(とくさのかんだから)」の「玉」を鎮め(置き)武運を祈願されたことから玉置(たまき)の名前の由来となっておる。」
十種神宝(とくさのかんだから)」の「玉」は天皇家のものではない
大和物部氏と秋田物部氏が所持すると伝えられる十種神宝
旧事本紀』
にニギハヤヒノミコトが天つ神の命を受けて,大和に天降るとき授かったとされる 10種の神宝をさす。
おきつ鏡,辺都 (へつ) 鏡,八握 (やつかの)
剣,生玉 (いくたま) ,足玉 (たるたま) ,死反玉 (まかるかえしのたま) ,道反玉 (ちがえしのたま)
蛇比礼 (へびのひれ)
,蜂比礼,品物 (くさものの) 比礼の 10種。
このうちに玉を鎮め(置き)武運を祈願されたことから玉置(たまき)の名前の由来となっておる。
もう一度見ようか
末社・玉石社
古代、神武東征以前から熊野磐座信仰の一つとして崇められてきた玉石は、
玉置神社本殿と玉置山頂上中程に鎮座します。
社殿がなくご神体の玉石に礼拝する古代の信仰様式を残しています。
玉置神社の基となったのが、この玉石社と伝えられ、玉石に宝珠や神宝を
鎮めて祈願したと伝わっています。
大峯修験道では、玉石社を聖地と崇め、本殿に先んじて礼拝するのが習わしと
なっています。
末社といいながら
玉置神社の基
神様の名前が変わったり、神社の名前が変わったりするのはありがちだけど
というか
大和朝廷はそんなことを下上賀茂神社を中心に行ってきた
「禰宜:ねぎ=神官」を送り込んで代替わりの時に神社の名前や神様の名前を取り代える
コレ
「賀茂が禰宜背負ってきた」=「カモがネギ背負ってきた」の語源
ホントですよ
かつて僕に接触してきた裏神道高官が力説してた
ま
どうでもいいけどね
物部は圧力に屈するふりして
でも
根本は押さえていたということだよね
神宮(ここだけしか神宮って正式には呼んじゃダメなんだって。ゴーイン。伊勢神宮のこと)
では式年遷宮のとき
お白石持(おしらいしもち)またはお白石持行事(おしらいしもちぎょうじ)
下賀茂神社でも21年に一度の遷宮のときにお白石持神事
がおこなわれる
ね、マネっこなのか、物部にさせられたのか(きっと後者だね)
また
「大和なる(古代は熊野じゃった)玉置の宮の弓神楽(ゆみかぐら)弦音すれば悪魔退散」と詠まれ、
全国的にも珍しい「悪魔退散」という特殊なご神徳があり、古くは皇族の方の悪魔祓いが行われていたのじゃよ。
これね、物部は呪(しゅ)を得意とし万葉集では
「ああ、気持ち悪い、また物部氏が弓をびんびん掻きならしているわ」という歌もある
ここまで物部の本質を備えた神社も今ではほとんど現存しないだろう
奈良県十津川村
ここには物部のすべてが残されているといっても過言ではない
有名な谷瀬の吊り橋もある
古民家にゆっくり滞在するプランも用意されているので
じっくりと太古の物部の息吹を感じる旅もいいだろう
↓クリック
十津川村観光協会HP
いいね!と思ったら↓クリック
古代史 ブログランキングへ
古代の事は伝承だとか神話より想定するしか出来ない現在ですが・・・現地には沢山の痕跡が残っております。私は古代出雲と熊野の関係を調べている者ですが、ここ熊野には物部東征前から日本の祖への信仰形態があり、“徐福・スサノオ”の一族は新出雲として認識できるものです。那智 熊野三所大神社・新宮 阿須賀神社・十津川 玉置神社と三光神は移動しています。この信仰は、古代出雲から瀬戸内海を通って紀伊水道を南下してきたものと思われます。新宮 阿須賀さんを除いて、三重 熊野市から尾鷲に至る飛鳥神社の祭神は“八重 事代主”でございます。別名 少彦名命であり蛭子でもあります。
http://www.d1.dion.ne.jp/~kunado/sub3-4.htm