堺の秘密を追う中で、注目すべき記事を発見した
そのまま転載する

万屋満載さんより

戦国時代、堺の町は中立公正な「自由都市」だったのか

 永禄4年(1561)に堺の町を訪れた、ポルトガルの宣教師ガスパル・ブィレラが『耶蘇会子(やそかいし)日本通信』の中で、堺を「日本でもっとも自由で平和な地」と讃え、「イタリアのベニスのように執行官によって治められ、共和国のような政治をしている」と報告している。

 このように、堺の町は「自由都市」だったとの印象が強いのだが、果たして実際そうだったのであろうか?

 確かに、現在の大阪府堺市は、摂津、河内、和泉3国の“境”に発展したことから、その名がついたといわれる。

 周知のように、戦国時代には、商業、貿易都市として大いに栄えた町である。

 ガスパル・ブィレラ宣教師が云うように「執行官」の代わりに「会合(えごう)衆」と呼ばれる36人の代表によって、合議に基づいて町の運営が行われていた。

 また、応仁の乱以降、戦乱から町を守るために、堺は「環濠(かんごう)都市」として整備されていたのだ。

 環濠都市というのは、守りを堅固にするために、四方(堺の場合、海に面していない三方)に深い堀を廻らせた町のことであり、さらに堺の町には、中世ヨーロッパの都市のように門も作られ、戦いが起きると門が閉ざされるようになっていた。

 このように、堅固な防衛施設があったが故に、堺は戦国時代に大名達の干渉を受けることなく、明をはじめ、朝鮮や琉球、東南アジア方面との貿易によって、富を築くことができたのである。

 しかし、だからといって「堺は経済・貿易によって成り立つ、中立公平な自由都市だった」と、簡単に云ってしまうことはできないのだ。

 当時の堺の貿易品目の内、最大のものは阿波、土佐産の木材で、市政に当たった会合衆は、その木材貿易から巨利を得た豪商によって形成されていたのだ。

 そして、彼等はいずれも、淡路・阿波を拠点とする戦国大名・三好氏の軍事力の保護のもと、安全な貿易を保障されていたのである。

 したがって、どの大名にも属していなかったとされている堺の町だが、実質的には“用心棒”の役割を担っていた三好氏を、経済的に支援していたことになり、完全に中立公平だったとはいえないのである。 

 実際、天文15年(1546)に、三好長慶(ながよし)が、対立していた河内守護代・遊佐長教(ゆさながのり)の大軍に堺で包囲されたときには、堺の会合衆が仲介役となって、長慶を窮地から救ったこともある。
 ここからも、堺の町が自治都市を備えつつも、純粋な中立都市ではなかったことが分るのだ。
 (参考〜歴史の謎研究会書他) 

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南の空から見た堺環濠都市遺跡(堺市博物館提供)

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町を囲う環濠

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町中を巡る濠

画像は全て堺市HP
堺環濠都市遺跡より

 戦国時代、堺が自由都市を保つことができた理由については、さらに探って行きたいが、
ここで僕が注目したのは 
「当時の堺の貿易品目の内、最大のものは阿波、土佐産の木材で」
という箇所だ

はるばる阿波、土佐から木材を船で運ぶ必要があったのだろうか
この記述をご覧いただきたい

大阪の森林と林業より

おおさか河内材について

ご存知ですか?
 全国の都道府県の中で最も森林面積の少ない大阪にも、
豊かな森林に恵まれ、長年の林業技術で育まれた、とても質の良い木材生産地があります。

 中でも、大阪最高峰の金剛山、大和葛城山、岩湧山に連なり、大和川の支流石川の源流域に位置する「河内林業地」は、およそ300年もの昔から、スギやヒノキの人工造林が行なわれてきたと伝えられています 

今も、金剛山の麓、千早赤阪村においても林業が営まれている
かつて大和川は材木を運ぶ船が行き交っていたという 
にも関わらず、土佐や阿波から木材を?

堺と土佐
ここにも接点が見つかった

土佐山内家の秘密 其の拾四 土佐打刃物
で見たように、土佐は林業と土佐打刃物

 

堺といえば刃物と鉄砲

面白くなってきた