国友鉄砲鍛冶というのをご存知だろうか

以下、歴史の歩みを加速させた兵器「鉄砲」より一部引用する

 最後に、戦国期、特に徳川時代に日本の鉄砲製造工場としての役目を担っていた「国友鉄砲鍛冶」 について述べたい。
現在の長浜市国友地区は、室町末期から江戸幕府の終末まで一貫して鉄砲鍛冶の町として栄え、その規模・歴史においても国内随一で、最盛期には鉄砲鍛冶が八十戸も存在 していたという。
国友における鉄砲の歴史を記す唯一の資料「国友鉄砲記」によれば、種子島に 鉄砲が伝来するのは1543年である。
伝来した鉄砲は鹿児島藩主の島津家に贈られ、島津家はそれ を室町将軍足利家に贈ったという。
そしてその鉄砲をモデルに同じものを作るよう命じられたの が国友鍛冶であり、その仕掛けを見極め、伝来の翌年には国産鉄砲を完成させた。

 国友と戦国武将との関係は織田信長から始まる。
信長は早くから鉄砲に関心を寄せ、また合戦 武器として着目していたこともあり、
鉄砲伝来わずか6年後には国友鉄砲鍛冶たちは、信長から鉄砲五百挺の注文を受けている。
さらにはこの注文により国友は鉄砲による生活・生産の基礎ができ大いに繁盛した。
そのような関係から当時の国友は、はじめ京極家、次いで浅井家の支配地だ ったが、経済的には織田信長と深く結びついていったのである。
しかし、国友鉄砲鍛冶が量産体制を整えるのは徳川家康との関係が密接になって以後のことであり、大阪の両陣がその契機になった。
というのは、家康は大阪方に対する戦備から、国友鉄砲鍛冶の集団を直接支配下におき、 銃砲製造工場としての役目を担わせ、大量の大砲などを発注し、本格的に量産体制を整えさせたからである。

以下はWikipediaより

国友

将軍・足利義晴より見本の銃を示され作ったのが始まりと『国友鉄砲記』に伝わる。
これが正確な年かどうかは信頼性が問われるが、ともあれ将軍の命を受けて管領の細川晴元が村を尋ね、国友善兵衛、藤九左衛門、兵衛四郎、助太夫ら名声ある4名ほかの鉄鍛冶と接触し、苦労して鍛え上げた六匁玉の鉄砲2挺を同年8月12日将軍に献上した。

1549年には織田信長が、500挺もの国友村鉄砲を発注したという記録があるが、姉川の戦い(1570年)を機に村を所領とした信長は、羽柴秀吉に命じ、この地の鉄砲業の発展をなし遂げさせた。
江戸幕府のもとでは、村は徳川家康の掌中にはいるが、慶長12年(1607年)前述の4名は鉄砲代官に任命されることとなる。
このあたりから産業は隆盛を極め、大坂夏の陣の時点では国友村は鉄砲鍛冶が73軒、鉄匠が500人だったと記録されるが、太平の世の中になると需要は激減した


長浜・・

49
30国友町

上が虎姫町
山内一豊の生涯より抜粋

『山内家史料』にも永禄四年から天正元年の史料が欠けているため明らかではありませんが、永禄十(1567)年から元亀年間に至る間に桶狭間の戦い以後頭角を現してきた織田信長に仕えるようになったといわれています。
『一豊公御武功御伝記』などの書物に、次のような武勇が伝えられています。
元亀元 (1570) 年、朝倉氏と戦った金ヶ崎城の戦後の天正元(1573)年、越前刀根山の朝倉追撃戦で朝倉家でも剛勇の誉れ高かった三段崎勘右衛門を組討の末に倒し、首級を挙げました。
勘右衛門は強弓の名手であったとされ、一豊は左目尻から右奥歯にかけて矢が貫通する傷を負いながらも勘右衛門を討ち取り、劇的な殊勲を挙げました。
これらの功績により天正元 (1573) 年、秀吉に与えられた領国の一部である近江唐国(滋賀県虎姫町)四百石を信長から与えられ領主となり、これが戦国武将山内一豊としての始まりでした。

国友の記事にある、「国友における鉄砲製造の起源は、天文13年(1544年」と重なる 

ここに、 山内一豊と鉄砲のあまりにも深いつながりが見出せる

もう一度、

土佐山内家の秘密 其の拾九 長宗我部は鉄砲を作っていた!

に掲載した高知新聞の記事を見てみよう

kochiShinbun

山内一豊が長浜(近江)で召し抱えた国友氏と記してある 
 

山内一豊は、土佐に鉄砲作りを持ち込んだのだ