2011年05月01日

国債

国債(2011・5・1)

 政府が議会に年度の予算案を提出する。野党は「そのための財源はあるのか」と問う。政府は事もなげに「国債でまかなう」と答える。
 国債という名前は知っているが、それが何なのか、よく分からないので、我が家の経済を一切任せている妻に訊くと、国債ならウチにもある、ウン百万円買ってあるという。その利息は国債が発行される都度明示され、それは国の経済が破綻しない限り元本ともに保証される。よく外国債を勧められるが、外国の事情は変動するから、利率がよくても、うっかり買えない。過去に苦い経験をした、と言う。東日本大震災の被害状況を見ていると、その補償のために国債も底をついて破綻するのではないかと心配である。

 ところで、これから話すのは、今から60有余年前の国債についてである。
 昭和15年(1940)だったと思うが、この国の戦時体制の一環として、隣組制度というものができた。その組織は近隣の所帯を町内会→組→隣保という具合に細分して掌握する。末端の単位である隣保は一列に並んだ数軒である。
私の隣保は軒並みに同じ年頃の子供がいて、家同士仲が良かった。戦後、あれは相互監視制度だったといわれて驚いた。
 隣保では月(ふた月に?)に一度常会というものが開かれて、各家庭が回り持ちで会場を提供する。そこで何が話し合われたかは、子供には分からない。
 ただ、戦況が不利になった昭和18年頃、我が家で常会がもたれた時、私が母に言われてお茶を出しに行ったところ、普段は和気あいあいと気軽に話し合っている近所のおばさんたちが、うってかわってムッツリした顔を伏せている。孤児院の事務長をやっている老人が、ひとり声高に弁じ、私の父がにこやかにほほ笑んで、座を取り持っている。それは私にとって異様な光景だった。
 私の母は子供の私をグチのはけ口にし、私はそれらのグチの意味を大人になってから初めて理解するのだが、この時のこともそうである。
 当時、常会のたびに、組織の上から(その一番上は国であろう)国債の割当てがきて、初めは皆、戦争に協力して気持よく買っていたが、毎回のことになると、戦況の不利も影響して、「またか」とウンザリするものの、あからさまに不満をいえば、例の老人から怒鳴られそうなので、ダンマリをきめこみ、揚句のはてに、隣保の世話係である父が割当てを全部引き受けるハメになっていたらしい。常会が終わるといつも、父は疲れ果てた顔で不機嫌に黙りこんでいた。
 日本が戦争に負けてしばらくして、母が小箱から玩具のお札のようなものを、ドサッと出してばらまき、「これもチリ紙と同じになってしもた」とつぶやいた。    その時私は初めて戦時国債の実物を見たのだ。ほんもののお札よりは小さいが、玩具のお札よりは印刷も数段立派で、私は思わず「ちょうだい」と言おうとしてやめた。母が汚らわしいものに触るなというような顔をしたからである。
 戦争に負けて日本の経済がどん底まで破綻し、国債は一文の値打ちのない紙切れになってしまったようである。
 でも、あの時、私は勇気をだして、あれらをもらって残しておけば、戦争を語る貴重な資料の一つになったのにと惜しまれる。
 

  
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2010年08月19日

庭の千草ーバラと菊

庭の千草ーバラと菊(2010.8.19)

 
「庭の千草」の原曲はアイルランド民謡「夏の名残りのバラ」で、原詩の作者は同国の詩人トマス・ムーア(1770~1852)である。三番まである詩の大意を以下に要約する。
「夏の名残りのバラが、一輪取り残されて咲いている。彼女の愛らしい仲間たちはみな、しぼんで消えてしまった。お前も仲間たちのところへ行って眠りなさい。寝床にはお前の花びらをふりかけてやろう。もうすぐ私もお前の後を追って行くだろう。愛するものがいなくなれば、どうしてひとり生きられよう、この寂しい世界に」
 後期高齢者にはなんとも身につまされるような詩である。
 これが明治17年3月、「小学唱歌集(三)」に「庭の千草」として登場する。
 日本語の詩の作者は里見義(ただし 1824〜1886)。
「庭の千草も、むしのねも、かれてさびしく、なりにけり。
ああ しらぎく、嗚呼 白菊。ひとりおくれて、さきにけり。
「露にたわむや、菊の花。しもに おごるや、きくの花。
ああ あわれあわれ、ああ 白菊。人のみさおも、かくてこそ」

 ところでなぜ、以上のような話をするのかというと、日本の歌になった段階で、当時の教育者たちがバラを白菊に置き換え、意図的に皇室の紋章になぞらえようとしたたのだという説があるからだ。音楽教育でそれを唱えている人は、私よりちょうど一回り下の生まれの人で、彼は「戦後民主主義教育」を小学校からドップリ受けた「戦争を知らない世代」に属する。
 明治2年(1969年)、太政官布告により、「十六八重表菊」は皇室の紋章と認められた。明治22年(1989年)大日本帝国憲法発布、翌年、教育勅語発布。 「庭の千草」の作詞者・里見義は、そういう時代を教育者として生きている。だからといって彼は「庭の千草」の白菊を皇室の紋章に結び付けようとしただろうか。
 戦争末期にヒットした歌謡曲「勘太郎月夜唄」には「菊は栄える、葵(徳川家の紋章)は枯れる」とあるが、「ひとりおくれて」咲いた菊には「栄える」というイメージはない。これも戦争末期に登場した童謡「お山の杉の子」を聴いた時、小学6年生で軍国少年だった私は、即座にこれが明治維新以後の日本の歴史をなぞらえた歌だと理解した。しかし「ひとりおくれて」咲いた菊には、人を昂揚させるようなイメージはない。「ああ、あわれあわれ」なのである。
 バラは万葉集の時代から日本にもあった。しかしそれは野イバラである。里見先生にはこの場合、バラよりも白菊の方が身近で感情移入がしやすかった、それ以上でも以下でもない、と考えるのが自然ではないかと、私は考える。
 
 
  
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2010年06月16日

文化大革命終期の中国訪問記

文化大革命終期の中国訪問記2

2.いよいよ出発(1974年4月14日)

 とはいうものの、十日間ほど日本を留守にするとなると、それまでにしておかねばならないこともアレコレあり、それは年がゆくほどに感ずる正月前のわずらわしさみたいなもので、とても「もういくつねると・・」などと指折り数えてワクワクしながら待つどころではなく、「とかくするうち、はや」4月14日が来てしまったのだ。
 当日は日和もよく、以降十日間、一度も雨に降られず、幸せな旅ではあった。
 午後1時半からポートターミナルで結団式。4時の出港に対して四百余名の出国手続には時間がかかるということで、2時より乗船開始というスケジュールになっており、子供達は退屈して、とてももつまいから、3時半頃来たらエエやろと、一足先に家を出たのだが、ポートターミナルはもう見送り客でいっぱい。コーラル・プリンセス号をバックにイソイソと記念撮影なんかしている。影響されやすい私は、あわてて家に電話をかけたが、2時からの乗船があまりにもスムーズにいってしまい、ついに、わが家族は陸上での御対面には間に合わず、出港までの一時間半、私たちは船の甲板とデッキにわかれわかれのまま、手持ち無沙汰になってしまった。
 ウレシソウにほうり投げたテープも強い風にちぎれてしまい、私は家族に手真似で合図して小便にいった。
 一人当たり五人の見送りとしても二千余人になるが、それどころではないようだ。旗やのぼりをうちたてて歓送デッキと船とで人々が大声で叫びあっているのを見ると、やはりこれは大変なことなのだと改めて思う。「ちょっとそこまで」と思っていたけれど、そんなことではなさそうだ。
 中にひときわ印象に残ったのは、戦後三十年生き別れになっている残留家族の消息も忘れず伝えてほしいと訴えた長い横幕だった。それは賑やかな歓送の叫び声の中で、私の胸をついた。しかし、訪中期間中、興奮の中で私は、そのことはすっかり忘れてしまっていた。
 ・・・まあ、とにかく、船は出た。

2010年時点での註
 厚生省が中心になって、残留孤児の訪日、親探しが始まったのは、私たちの訪中より7年経った1981年からである。日中国交回復によって、中国残留孤児・離散家族の問題が初めてクローズアップされた。私たちの訪中は、そういう時期であった。
  
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2010年06月12日

文化大革命終期の中国訪問記1

文化大革命終期の中国訪問記1

 以下は36年前の記録である。
文化大革命の終息は周恩来、毛沢東が相次いで亡くなり、四人組が逮捕された1976年10月とされるから、これは我々の訪中の2年前のことであり、事前の説明会では「武闘はまだ続いているから、訪問は中止になることもあり得る」と言われていた。書かれたのは1974年10月から翌年1月にかけてである。

 はじめに

昭和49年4月14日から10日間、私は「神戸天津友好の船」中華人民共和国への短い短い旅をしました。短かったけれど、旅の間に見たこと聞いたこと、そして感じたこと考えたことは、頭の中でひしめきあい、せめぎあって、整理もつかないまま、日常のあれこれに追われて今日まできてしまいました。
「中国はいかがでしたか」と問われて「ウーン、いわくいい難しですねえ」と言葉を濁しておりましたが、忙しさを理由にしていては、いつまでもラチがあかないので、この辺で腰をすえて整理してみようと思いました。
一方的におつき合いいただくことになって恐縮ですが、感想おきかせ下さい。
月一回の割でおお送りするつもりですので、よろしくお願いいたします。

1. 出発までのこと

 1972年9月、日中間の国交が正常化し、翌73年6月、神戸、天津は友好都市関係を樹立した。
 その年の暮であったか、市の広報で「神戸・天津友好の船」で400名の神戸市民が訪中する計画が報じられ、「誰がいくんかしら、ええわねえ」とワイフがいっていた。
 神戸新聞文化事業局長の松井高男氏から、邦舞、洋舞、邦楽、洋楽関係者各一名の推薦を依頼されたのだが、洋楽関係として中国へいかないかと、お電話いただいたのは、たしか年明けで2月19日であった。私は即座に、いかせていただきますと、返事をした。
 私の友人でバレエをやっているS君は、10数年前、東京のMバレエ団の中国公演に参加して熱烈な歓迎をうけ、それが純粋で情熱的な彼の生活信条に大きな影響を与えたらしく、事あるごとに中国の例がひきあいに出され、彼の口調は熱をおび、「中国と日本は同文同種とかいうけど、それは違うでえ。やっぱり東は東、西は西やんか」と水をさしては、油を注ぐ結果になり、果てはシゲちゃんよ、百聞は一見に如かずやで、いっぺん、いってきてみい、考え方かわるから・・」といわれつつ10年、最近はS君と議論をかわした仲間であるAさんWさんも関西新劇人訪中団の一員として、この地に渡り、もちかえった8ミリなどをみせてもらって、私には中国がある種の親近感を抱かせる存在にはなっていたのだった。
 さて、3月3日、神戸小学校講堂で催された第一回事前研修会に参加して驚いたのは、目のあたりに見た四百余人という集団のゴッツさである。しかも年齢、職業、実に雑多で幅広い。こんなんでホンマにいけんねやろか?と私は不安になってきた。
 洋上大学を企画された兵庫県の青少年局長さんが来られて、年齢層も20代、目的もはっきりした洋上大学の場合でさえ、いろいろ問題が起ったのに、10代から70代までをかかえこんだ集団では、どうなることか、うまくいってモトモトと言下に匂わせる御発言。神戸市側にも、この不安はアリアリとみえ、現地では、全て20人単位がバスで行動するが、一人の行動が、どれだけ大きくスケジュールを狂わせるか、と洋上大学の先例をあげて説明し、くれぐれも規律ある団体行動をとってもらいたい、と切々と訴えていたのが印象的で、団体行動の嫌いな私は、半分位行く気を失ってしまった。
 第二回の研修会では、我々が歓迎をうけた時、お返しに歌うのだ、ということで、次のような新しい中国の歌の指導があった。
 「我愛北京天安門、天安門上太陽昇、偉大領袖毛主席、指引我們向前進」
 天安門が新中国の歴史の中で、中国人にとって、どれだけ象徴的な意味と重さをもっているのか、我々はほんとうに知っているのだろうか。「毛沢東が偉大である」ということについても、私の場合、日本へ帰ってきて、エドガー・スノーの「中国の赤い星」など一連の書物を読んで、ジワジワと、その「偉大さ」が伝わってきたような次第である。
 あれもこれも含めて、この歌は新しい中国で生まれ育った人のみが共感こめて歌えるかどうか判断できるのであって、いわんや、ゆきずりの旅行者ごときが歌える歌ではなく、歌うべき歌でもないように私には思われた。
 「えらいことにこだわりハるねんなあ、歌詞なんかついてるだけでよろしょまっしゃないか」という人もいたけれど、ついてるだけでいいなら、もう少し無意味な方が音楽的に望ましい。
 そもそも日中国交回復した途端に、我々の中国理解の程度をとび越えて、いきなり「我愛北京天安門」とは、どうみても無節操ではないか、と私はアクまで理屈っぽくこだわり続け、「ゆくのん、やめよかな」とフと思ったりしたのだった。
 この日、20人の班編成と、その見学先が発表された。班のメンバーに知った人はひとりもいなかったし、見学先にはゲイジュツブンカ関係は含まれていなかった、しかも、歓迎集会だの、交歓バレー試合などに大きな比重がおかれ、友好友好と、あまりにも政治的な感じがして、いやだなあと思いはじめた。
 既に5万円の参加費も納め、いろいろな手続きは済ませたものの、何だかベルトコンベヤーに載せられたブロイラーのような哀れな気分になった、
 第三回の研修会では、批林批孔運動で文化交流面での情勢が厳しくなってきたので、生産労働に関与しない文化運動は、中国人民がこれを理解しないだろうということで、お茶や生け花、民踊、神戸太鼓などのデモンストレーションは先方から辞退するという電報を打ってきた由、神戸市消防音楽隊の演奏ができるかできないかを最後の一線として交渉中だとか。私は、お祭騒ぎでなくなってきたことを喜ぶとともに、いっそのこと批林批孔運動が激しくなって訪中計画は中止、なんてことになってくれれば、スッキリするのにと、思い半ばする心境であった。
 結果としては、班のメンバーも得難い人物ばかりだったし、見学から得たものも予想外で、いって来てよかったと思っているが、事前の心境をありのままに記せば、以上のような次第であった。(つづく)

2010年時点での註
批林批孔運動
1973年〜76年、林彪と孔子(周恩来に準えたという)を批判する運動。
林彪失脚後、江青ら四人組(毛沢東も加わっていたという説もある)によって推進された。我々が訪中したのは、ちょうどその最中だった。
  
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2010年06月08日

奴隷とは

書架の片隅から5 ジュリアス・レスター著「奴隷とは」(岩波新書)
  
 矢内原忠雄著「余の尊敬する人物」(岩波新書 1940年第1刷 1964年第26刷)のリンコーンの章に「奴隷解放令」のことがでてくる。高校の世界史で学習し、試験のために年号も暗記したはずなのに、今回読みなおして、それが1863年1月1日に宣言されたこと、それは明治維新(大政奉還)のたった5年前であり、現在からはまだ150年に満たない時代のことであることなどを、改めて強く認識した。
 この機会に「奴隷とは」を読み直してみようと思った。

 著者ジュリアス・レスターは1939年生まれの黒人フォークシンガー。
この本は1968年に書かれ、岩波新書としての第1刷は1970年。
 「著者覚書」によれば、「十九世紀の前半、アメリカ奴隷制反対協会や、その他の北部の奴隷制廃止の諸グループは、南部から逃げてきた何千人という黒人たちの物語を、書きとめた」「そういう物語は、北部の世論を奴隷制度に反対するように動かしていくための闘いにおいて、有力な武器となった」また、1930年代に組織された連邦作家計画が最初に着手したひとつの仕事は、「当時まだ生きていた元奴隷たちにインタヴューすることだった」
著者は1963年の春に、これらの書きとめられた奴隷の物語のすべてが、「国会図書館の民謡保存部に在庫していることを」知り、「数週間を費やして、6000ページをこえる原稿を読破」し、それらから選択した証言を構成して、「奴隷とは」を著した。
「1. 奴隷とは」で著者は書く。
「奴隷であるとは、人間性が拒まれている条件のもとで、人間であるといことだ」「奴隷とされたひとびとは、じぶんじしんと、じぶんが置かれていた奴隷状態とを、人間の眼と心で見ていた。じぶんの身に起こっている事柄のひとつひとつ、じぶんのまわりで進行したすべてを、自覚していた。それなのに、奴隷たちは、しばしば、押し黙って野蛮な動物なみに描かれ、その唯一の特性が、働き、歌い、踊ることだけにあるとされたのである」。
 ここに採録されている証言は、いずれも奴隷状態から解放された人々が、過去を振り返って語ったものであるが、奴隷状態がさらに続いているとしたら・・。
 私は「2.競売台」「3.大農場」と読み続けることができなくなり、「6.解放」まで読み飛ばし、解放の喜びに狂喜する人々の姿を確かめてから、やっと「4.5.奴隷制度への抵抗 その1、その2」へ戻ることができた。しかし「7.解放後」を読むと、解放された人々は、自由を得たわけではなく、解放されたまま放置されたことが分かる。
 ここで再び矢内原忠雄の述べていることに戻る。

 リンカーンにとって奴隷の解放は「正義の問題」であったが、彼にとってそれは「最初から予定した政策」ではなかった。「彼は南部諸州の現行制度に干渉する意思は、最初から持って居」らず、「奴隷制度の廃止は奴隷州自身の決定に待つべきものであり、且つその廃止は漸進的補償付の解放たるべきことを主張した」「然るに戦闘(南北戦争)の進行に伴い、旧所有者のもとを脱走して北軍に来たり投じ、労働若しくは軍事行動を助ける奴隷が数多く」「前線の司令官は之らの脱走奴隷をいかに取り扱うべきか。若しも南部諸州の制度に干渉しないというならば、脱走奴隷は旧所有者に送り還さねば」ならないが、「そんな不合理な処置はとれ」ない。「前線からは頻々たる報告と要求」が来る。「平時にありては、大統領は一人の奴隷をも解放する憲法上の権利」をもたない。「国会といえどもその権利をもたない」「奴隷は神聖な私有財産の一つ」であった。リンコーンは「戦時に於ける軍隊の最高指揮官として、軍事上の必要の為」「非常手段として」「奴隷解放令の発布を余儀なくされた」のであった。
 このような事情のもとで宣言された奴隷解放令は、解放された奴隷の生活の自立、人権の保護を保証することにはならず、間もなく1876年に南部諸州で制定されたジム・クロウ法(人種分離法=人種差別法)により、南部諸州のみならずアメリカ国内の全ての州では、黒人をはじめとする全ての有色人種に対する蔑視や公然の差別が、1964年の公民権法制定までの間、大手を振って続くことになった。(公民権運動―Wikipedia)
 「奴隷とは」のエピローグは、連邦作家計画の調査員に対する、元奴隷の次のような怒りの言葉でしめくくられる。
 「あんたらがどこから来られたかは知ったことじゃないが、おれの話をあんたに書かれたくないんだよ。そのわけはだね、これまで白人たちは、ずうっと黒人に反対だったんだし、今だってそうだし、これからもずうっとそうだろうからさ」

 「奴隷とは」を再読した私は、ここで二つのことについてのみ触れておきたい。
この時代の良家では奴隷の所有は、何の疑問もなく、ごく当然のことであった。アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンは300人の奴隷を所有していたし、第三代大統領ト−マス・ジェファーソンもまたしかり、それのみならず彼は「ヴァージニア州についての覚書」の中で、黒人の「劣等性」と白人の「優秀性」について、公然と書き記している。
私たちは今日、聖書を題材にしたテキストにより、黒人たちが生みだした、美しく力強   くポピュラーなメロディーを「黒人霊歌」(negro spiritual)として歌い、聴いているが、これらは奴隷であった人々が生活の中で、生活を支える歌として、即興的に夥しく生みだしたもののごく一部にすぎないことを知らされる。私たちは「黒人霊歌」についても、それらが誕生した環境についての想像力を充分に発揮しながら味わうべきべきだと、改めて思うのである。
  
 話はとぶが。
ここに1962年に制作されたアメリカ映画で、ノルマンディー上陸作戦を描いた「史上最大の作戦」(ケン・アナキン監督)がある。封切当時、何の疑問もなくこの作品を観ていた私は、ヴェトナム戦争を描いた1986年制作の「プラトーン」(オリヴァー・ストーン監督)に多数登場するアフロ・アメリカン(黒人)兵士の活躍を観たあと、テレビの放映で前者を観、そこに黒人兵士が全く登場しないことの異常さに気付いたのである。第二次世界大戦に黒人兵士は参加しなかったのか、参加を許されなかったのか、あるいは参加したことがこの映画では隠されているのか。
調べたところでは第一次世界大戦において既に「黒人部隊」が編成され、軍隊内の差別の中、下級兵士として参戦していた。第二次世界大戦でも朝鮮戦争でも黒人と白人の混成部隊は実現せず、1965年からアメリカが本格的に参加したヴェトナム戦争で初めて「黒人部隊」は編成されず、また黒人が士官として配属され、白人の下級兵士に対して指揮を執ることとなった。(公民権運動―Wikipedia)
公民権法制定以後、アメリカ映画における表現に、これだけの変化が起こっているのだ。

「奴隷とは」の訳者は詩人の木島勉と在日の黄寅秀。黄氏は「あとがき」に記す。
「黒人におけるこのような「祖国喪失」の感覚を、わたしは、じぶんの感情体験からいって、かなりよく理解できると思います」「奴隷制度は今日なお、その形態は変わっているにせよ、実質的には存続しているという事実にたいする抗議をふくめて、およそ差別なるものの存在にたいしてこの国の人ひとが抗議の声をあげようとされるとき、現在この国において朝鮮人が置かれている状況にたいしても、目をつむることはできないと考えます」。
 
それから40年後、アメリカの政治の中枢にアフロ・アメリカンが進出し、日本で韓流ブームが起こっている今日、「奴隷とは」が世に出た時代とは事情は大きく変わっている。
しかし、「人間性が拒まれている条件のもとで、人間であるということ」はいつ、どこででも起こりうるし、現実にそこかしこで起こっている。「奴隷とは」は、単なる過去の記録に留まらず、いつの時代にも警鐘を鳴らし続けるであろう。
  
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2010年06月07日

幸田文「流れる」

書架の片隅から4 幸田 文著「流れる」(新潮文庫)

 久々に宮部みゆきの「東京下町殺人暮色」を読み、八木沢刑事父子の家庭に通ってくる家政婦・幸田ハナに再会すると、どうしても「流れる」を読みたくなった。
 「流れる」は1955年(昭和30年)に書かれ、翌年出版されている。このころ私は大学を卒業し、社会へ出たばかりで、この作品のことはまだ何も知らない。私がこの作品を最初に読んだのは、1984年(昭和59年)新潮文庫の第36刷で、私は52歳。およそ私が読みそうにない本であり、なぜ読んだのか、きっかけは分からない。幸田露伴の名は知っていても、その作品は読んだことはなく、「流れる」に先立つ幸田文の作品群も読んでおらず、彼女に関する予備知識はほとんどなしに、いきなり「流れる」を読んだのだ。

 「流れる」はシロウトの目線でクロウトの世界をとらえた作品である。ここでのシロウトは、夫、子供に相次いで死なれ、身ひとつになり、生活のため、芸妓の置き屋に女中として住みこむことになった、元・中流家庭の主婦・梨花である。
 小説なので、こういう設定になっているが、作者の幸田文さんはクロウトの世界に自ら女中として身を置いた体験を、梨花を通して語っているようだ。しかも、彼女はただのシロウトではない。父・幸田露伴に家事を厳しく仕込まれ、物事を観る目を養った1904年(明治37年)生まれの女性である(梨花の年齢は40代に設定されている)。
 梨花は住み込みの女中として、この家に住む人たち、この家を訪れる人たちに振り回されながら、彼らをある時は上から見下ろし、ある時は同じ高さの目線で、ある時は下から見上げ、その都度、それ相応の感想を述べる。ただし、それは梨花の一人称としてではなく、地の文として書かれ、そこのところの微妙さに、いわく言い難い面白さがある。
 例えば、箱鏡台の上に焼き物の三寸ばかりの雌雄の蛙が置いてあり、それについて、この家の主人が梨花に説明する。「おやあんた知らないの。おひきさまと云って有名よ。まあ客をひくっていう一つの縁起ね」。すかさず梨花の反応が地の文として続く。「なぜお茶をひくと考えないんだろう。それに客は女房こどものいる自分のうちへかえるものだと、なぜ思わないんだろう」。
 梨花は俥屋へ「お使いさん」(車引き以外の用事)を頼みに行き、若い挽子(人力車夫)が操る丁寧な流れるような言葉の応待に感動し、帰り途、「久しぶりで人に会ったような気がした」とつぶやく(これもまた地の文である)。
 二日間の「目見え」(試験期間)の後、梨花は主人から雇用条件を聞かされる。
「とにかくこの二日間の豊富さ、めまぐるしく知ったいろんなこと、いろんないきさつ、豊富と云う以外云いようのない二日である。その豊富さは、つまりここの世界の狭さということであり、その狭さがおもしろい。狭いからすぐ底を浚って知りつくせそうなのである。知りつくした上に安心がありそうな希望が湧いているのである。しろうとの世界は退屈で広すぎる。広すぎて不安である。芒っ原へ日が暮れて行くような不安がある。広くて何もない世界が嫌いだというのは、ここが好きだということになる。」こうして梨花はこの家に住み込む決断をする。
 梨花はこの家で、かなり過酷な待遇をうけながらも、徐々に信頼を得て、その生活を楽しむようになる。それほどシロウトにとってクロウトの世界には新鮮な驚きがあり、その驚きは私たち読者にも、そのまま伝わる。
 しかし、これは単なるルポルタージュではなく、そこで起こる様々な小さな事件は、互いに絡み合い、ゆたかなリズムをもって展開し、読者を乗せて流れて行く。やはりこれは小説なのだ。読者をひきつけてやまないのは、作者の語り口、文章の魅力であり、構成力である。まず私たちは、使われている語彙の豊富さに圧倒される。特に形容詞である。中には「なんどりと」などという梨花自身も知らない古い言葉が出てきて、それを言ったヴェテランの女将はたちまち「なんどり女将」と綽名をつけられる。前述の俥屋の挽子の言葉をはじめとして東京の下町言葉がいきいきと書きとめられている。会話といい、地の文といい。日本語がこれほど豊かな言葉だったのかと、改めて思い知らされる。そこには月並みな言い回しは全く見当たらない。そうかと言って、ヒネッタ表現があるわけではなく、文章は、蚕が糸を分泌するように、いともやすやすと見事に生みだされてゆく。

 「流れる」は出版されたその年(昭和31年)、ただちに「芸術祭参加作品」として東宝で映画化されており、後年私はVTRで観た。田中絹代、山田五十鈴、高峰秀子、杉村春子、岡田ま梨子、中北千枝子、賀原夏子、栗島すみ子、仲谷昇、宮口精二、加東大介といった豪華メンバーがそろっており、それぞれに好演しているにもかかわらず、映画そのものは、少しも面白くなかった。視覚的にも聴覚的にも、これは映像化に相応しい作品だと思われるのに、肝心なものが欠けている。それは小説には地の文として、全編に張りめぐらされている梨花のつぶやきである。映画の場合、それらをモノローグとして映像に挿入する手法があるが、それでは映画全編をモノローグで埋めなくてはならない。田中絹代は節度のある曖昧な微笑で身を守る梨花を好演しているが、観客は梨花の心の中までは、映像からは読み取れない。
やはりこれは「読む」作品であると思い知らされる。
  
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2010年05月25日

東京下町殺人暮色

書架の片隅から3 宮部みゆき著「東京下町殺人暮色」(光文社文庫)

 宮部みゆきの初期の作品(1990年)である。私が初めて読んだのは文庫本の第一刷(1994年10月20日)。以後幾度となく読み返している。結末が分かっていても、そこに至る物語の展開と文章に、推理小説には珍しい温かみがある。特に今回は高村薫の「レディー・ジョーカー」(上・中・下)を読み終えた直後だったので、ガチガチになった頭が快くほぐされてゆくのを感じた。犯罪そのものはかなり陰惨であるが、それを解決してゆく側の人たち、誤って被疑者にされてしまった人物の描写が温かい。
 警視庁捜査一課の八木沢道雄は中学一年生の息子・順と、隅田川と荒川にはさまれた下町に新居を構える。刑事との生活に疲れて離婚した妻・幸恵は、今は高校の同級生で、前妻と死別した、一女の父親である産婦人科の医師と再婚している。道雄・順親子の面倒をみるのは、通いの家政婦で大正14年生まれ、名はなんと幸田ハナ! これは幸田文さんの「流れる」を連想せずにはいられない。これを映画化するとすればハナの役は「流れる」で主人公の女中梨花を演じた故・田中絹代しかないと私はずっと思ってきた。道雄を旦那さま、順をぼっちゃまと呼び、「ございます」口調で通すハナの立ち居振る舞いと語り口まで、私は田中絹代に重ね合わせて読んでいる。
 プロローグも好きだが、ハナが日曜日に八木沢家に臨時出張してきて、順に白菜の樽漬けを手ほどきしながら、近所での噂話を始める。ここから物語は実質的に始まる。二人はともに映画ファンである。そしてさまざまな映画が、この作品の至るところでキーポイントになる。
 噂話に登場し、最後まで犯人として疑われ続ける70代の日本画家・篠田東吾と順との出会い、そして交流、その中で登場する「火炎」という絵画(それは東京大空襲を描いた作品である)について、作者の篠田東吾が順に語って聞かせる空襲を通じて、「戦争を知らない」世代の宮部みゆきという作家が、実に誠実に正確に、戦中そして空襲について調べていることが分かり、あの時代を生きた私は感動し、彼女を信頼する重要なきっかけとなった。
 事件が新聞で大きく取り上げられ、順の身辺を案ずる幸恵は、息子を引き取ろうとしてやってくる。そこで交わされる母子の会話の温かさ、幸恵の役は風吹ジュンと私は決めている。両親はなぜ別れたのか、改めて考えはじめる順にハナは、十三歳から華族の屋敷に奉公に出、結婚して子供を生み、戦争未亡人となった身の上を語る。これら事件の本筋から離れたいくつかのエピソードが幾度読み返しても飽きることなく、私をひきつけ続けている。
 一方、行われた犯罪、犯罪とは無関係なのに、結果として捜査を混乱させてしまう順の同級生・大木毅の言動には唖然とさせられるが、これらに対して「想像力の欠如」という言葉が、期せずしてハナと道雄の双方から発せられる。ハナは毅に怒りを覚える順に語りかける。
「他人様の迷惑をおもんばかるにも、想像力が要りますでしょう。わたくしはつねられれば痛い。では、あなたさまもきっとつねられれば痛いでしょうねと思う気持ちでございますね」。
 道雄は少年犯罪の実態につぃて、「常識のある大人たちの目には残虐きわまりないことが平気でやれる。こうしたら相手がどう感じるか、そこに頭が回らないんだ。生きてそこに存在している他人を、自分と同じ生身の人間だと思うことができない。ただ、自分の欲望の対象としてしかとらえることができない。だが、そういう彼らも、自分の欲望を満たすために手にかけた相手も、やっぱり自分と同じ人間なんだと気づくときが、必ず一度はくる。それは、相手を殺してしまったときだ。その死にざまを見たときだ」
 昨今、理解を超えた残虐な犯罪が、いとも容易に続出するのも「想像力の欠如」に原因があるように思われる。そしてそれは20年後の今日、年齢的には下へも上へもますます広がっているのを感じる。大人は誰でも常識ある存在とは言えなくなってきているのが不気味である。
 その対極に、順の親友の慎吾、道雄の同僚刑事たち、ハナ、篠田東吾とその娘明子、犯人の姉・安奈らがいきいきと描かれて、この作品の質を支えている。
 順とハナも事件に関わってしまい、生命の危険にさらされるが、そこで発揮されるハナの知恵と推理の見事さには感嘆させられる。
 肝心の本筋にはまったくと言っていいほど触れなかったが、それは作品を直接読んでいただきたいということを申し上げるにとどめる。
 断っておきたいが、私は高村薫の作品も好きである。ただ、読むと大変疲れる。宮部みゆきの作品も、最近の力作はやっぱり疲れる。
 今ひとつ。この作品のタイトルは小津安二郎監督の映画「東京暮色」からきていると思う。いろんなところに映画が影をおとしているのもほほえましい。

 
 
  
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2010年05月20日

国家の罠2

書架の片隅から2 佐藤優著「国家の罠」(つづき)その2

 1997年11月、橋本龍太郎首相はクラスノヤルスク(西シベリア)を非公式訪問し、エリツイン大統領と会談、「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力をつくすこと」で合意。この目標のため、2000年までに北方領土4島の日本への返還を実現すべく、佐藤優氏は鈴木宗男氏に協力して様々の行動を起こす。これらの行動は全て外務省上層部の決裁を経たものであるにもかかわらず、結果として佐藤氏は「背任」「偽計業務妨害」の容疑で逮捕される(詳細は「国家の罠」を読んでください)。
 佐藤氏は「国策捜査とは事件を摘発するのではなく、事件を作るもの」であり、「冤罪事件と違って、初めから特定の人物を断罪することを想定した上で捜査が始まる」と述べる。佐藤氏を巡る一連の「事件」は「明らかに国策捜査に基づく政治性の強い「事件」にもかかわらず、なぜ背任であるとか偽計業務妨害といった下品な経済犯罪に引っかけられるのか」が納得ゆかず、この件の関連文書が30年後には公開されることを念頭におき、「供述調書についても、法的盲点について考えるよりも、歴史の検証に耐えうるものにしたい」(以上「獄中記」より)と考え、保釈が実現しそうになった時にも、佐藤氏は自ら拘留を申し出て「検察が僕を用済みにするまで獄中にいる用意がある」と宣言する。
 さかのぼって、取り調べ開始から十日前後の時期、佐藤氏と西村検事の間で、ある衝突が起こる(詳細は「国家の罠」参照)。これが契機となり、西村検事の鈴木宗男氏に対する呼び方が、「鈴木」から「鈴木さん」「鈴木先生」に変わる。以後、お互いの顔をたて、「迎合」したり「折り合い」をつけたりしながらの奇妙な供述調書作成作業が始まる。
 逮捕三日目の取り調べで、これが国策捜査であると、手の内を明かした検事は、他日「密室」で佐藤氏に語りかける。「国策捜査は「時代のけじめ」として必要」であり、「時代を転換するために、何か象徴的な事件を作り出して、それを断罪する」、「あなたはそれに当たってしまった」「運が悪かった」、「あなたはやりすぎた。仕事のためにいつのまにか線を越えてしまった。仕事は与えられた条件の範囲でやればよい」「成果が出なくても、自分や家族の生活をたいせつにすればよい」「それが官僚なんだ」と。
 西村検事と向かい合う弁護士三人はいずれも元検事(ヤメ検)である。弁護人と佐藤氏の面会での会話記録は、検事の取調べの対極として貴重な内容だ。    
今一つ、佐藤氏がロシア(旧ソ連を含む)・イスラエルを対象としたインテリジェンス(情報収集)のプロであったことも、氏の一連の行動とその背景を考える上で重要である。この側面に関心のある方には同著者の「自壊する帝国」をお勧めしたい。(おわり)

  
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j国家の罠1

書架の片隅から1 佐藤優著「国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて」
(新潮文庫 平成19年(2007年)11月1日 発行)その1

 民主党幹事長・小沢一郎氏の資金管理団体「陸山会」にまつわる金銭疑惑により、三人の秘書が逮捕された。その一人石川知裕氏(現・衆議院議員)が逮捕前、「国家の罠」の著者・佐藤優氏に「このケースは国策捜査ではないのか」と問うていた由、さる民放テレビが報じていたことに、私は関心をもった。
 私は「国家の罠」の文庫版で「国策捜査」というものの存在を知り、以後、佐藤ファンになり、「自壊する帝国」「獄中記」と読み継いでいる。読みやすい文体だが、内容が濃密なので、繰り返し読まないと、私にはなかなか理解できなかった。そんな本がベストセラーになっていることが、私には驚きである。
まず、2002年5月14日、佐藤氏が東京地検特捜部により背任容疑で逮捕される瞬間が、冷静かつ具体的に叙述されていることに驚く。人間いつどこでこれと同じような立場に立たされるかもしれず、その時オタオタしないためにも、記録された逮捕の手続きなるものをしっかり記憶しておこうと思った。
次に、2001年4月、小泉内閣の外務大臣として田中真紀子氏が着任し、
2002年1月、更迭されるまで、鈴木宗男衆議院議員との間に繰り広げられ、マスコミが「面白おかしく」伝えた壮絶なバトルの受けとめ方が、この本を読み、180度変わった。私は戦中・戦後に小・中学生として、ものの見方の劇的な逆転を、次いで戦後の米軍占領下とサンフランシスコ平和条約締結後との間で再び同様の逆転を体験し(例えば「松川事件」)、以降、自分で考え納得したこと以外は絶対信じないぞと心に決めていたのに、今回また「だまされた」。
 第三は、執行猶予のつく判決が明確に予想されているのに、佐藤氏は罪状を全面否認した結果、512日間の拘置所生活を送るが、そこでの食事が大変おいしく、マスコミに追い回されることもなく、取り調べ以外の時間を読書・研究・語学学習などに存分使えることを喜んでいる様子が素直に伝わってきた。
 第四は東京地方検察庁特別捜査部検事・西村尚芳氏による取り調べ手法の意外性である。逮捕後2日目の取り調べで、西村検事は「(検察)事務官には席をはずしてもらうことにします。その方が話しやすいでしょう」と言い、佐藤氏は「私はどちらでもいいです」と答える。しかし、以降の記述を読むと、検事が何かで席をはずす時に事務官を呼び入れるだけで、大半は二人だけの「密室」で取り調べは進んでいるようだ。二人の会話の自由さ・大胆さは、そういう「密室」により確保されていると思う。
佐藤氏は述べる。「あの密室(取調室)の中で、西村氏は人間として私に真剣に向かい合ったのである。もちろん私も誠実に西村氏と対峙した」「西村尚芳検事は、誠実で優れた、実に尊敬に値する敵であった」。(つづく)

  
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2008年02月27日

アンコール遺蹟巡りの旅(8)

897d3f60.JPGアンコール遺蹟巡りの旅(8) アンコールトム バイヨン廟

 南大門は中型車一台が通れるくらいの幅で、両面交通だから、人も車も互いに譲り合って通過する。歩いて通り抜けると、先回りして待っていたワゴンが私達をアンコールトムの中心バイヨン廟へ運んでくれる。
 
 アンコールトムは12世紀末から13世紀初頭にかけて造られた。この時期、隣国チャンパ(ヴェトナム中部の王国)に20数年ぶりに打ち勝ったアンコール王朝は、その苦い体験から前回述べたように一辺3キロ高さ86メートルの正方形の城壁を築き、その中心にバイヨン廟を建てた。それは日本では源頼朝が鎌倉に幕府の基礎をを確立させた時期にあたる。

 私達はまず廟を囲む第一回廊の壁面一杯に展開される壮大なレリーフ(浮き彫り)に圧倒される。上部にはトンレサップ湖(最後の日に訪ねる)でのチャンパとの海戦が描かれている。おびただしい両軍の兵士達が船上で対峙する群像の中で、船から落ちた兵士がワニに噛まれる姿が克明に描かれているのが強烈な印象として残る(こういう細部は説明を受けなければ見落としてしまいそうだ)。
 下部には当時の民衆の日常生活が、これまた詳細に描かれている。お産をする女性、闘犬、闘鶏を愉しむ人々。これらは当時のリアルタイムの描写であろう。おびただしい数の小さな人間が壁面一杯にぎっしりと手抜きもなく、一人一人活き活きと彫りこまれている。
 第二回廊に登ると、今度は対照的に、天を突くような巨大な石の像の乱舞に目を奪われる(写真参照)。この王朝ではヒンズー教と仏教とが並立して受容されているため、これらの石像が観世音菩薩像であるとの判断に落ち着いたのは、それほど古い時代のことではないらしい(ヒンズー教ならばこれらは神々の像ということになる)。
 これほど巨大な建造物(いや、アンコールトムという城郭そのもの)が、1860年、フランスの植物学者によって発見されるまで、最短で200年、最長で400年、森林の巨木に埋もれて忘れられていたとは、ちょっと想像しがたいことである。
 
 第一回廊のレリーフのミクロな世界と、第二回廊のダイナミックな石像群にふりまわされ、私はおおいに混乱し、いささか疲れた。あまりにも多くのものを見たので、何も観なかったような感覚に襲われた。
 昔は映画館の入れ替えがなかったので、映画は必ず二度観た。一回目は緊張してスクリーンを凝視しているものの、映像の一瞬一瞬の変化に追われて終ってしまう。二回目は余裕をもって観るから、全体と細部をバランスよく整理して頭に叩き込むことができる(最近は録画したヴィデオで同じことができるようになった)。
 バイヨン廟を出た時に「もう一度ゆっくり観たい」と思ったのは、このような映画鑑賞の体験からである。しかし映画館と違って、ここではこちらが歩き回らなければならない。そんなことは私達年寄りには無理であるし、私達のペースにあわせて辛抱強く付き合ってくれているブンジーさんは、次の予定を念頭において、いささか焦っているかもしれない。それに、いますぐもう一度観ても、この疲れた体調では、印象がうまくまとめられるとは思えない。改めてもう一度訪れ、一日費やしてボンヤリと逍遥するしかないが、そんな機会が再びもてるかどうか。これは遺蹟巡り全体について思ったことである。

 ところで、バイヨン廟を出たところで私は急激な便意に襲われたが、すぐそばにトイレはない。少し離れた駐車場までゆるゆると歩き、ワゴンで城郭の北端にあるトイレまで約1キロ(?)移動した。有料だがパスを見せると無料になった。
 往復の車窓から象のテラス、王のテラスなどを眺めたが、ブンジーさんも降りて歩いてみるかとは尋ねないし、私達にももはやそんな意欲は残っておらず、昼食の時間も迫っていたので、ワゴンは真っ直ぐにクメール料理のレストランに向かった。
  
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