2006年03月

2006年03月26日

下流社会のベネフィットを探そう

気象予報士・キャスターで、東大大学院医学系研究科に在籍している河合薫さんが、格差社会とのかかわりで「ベネフィット・ファインディング」という考え方をプレジデント誌「ストレス予報」で紹介している。

【以下抜粋】
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所得の高低と人生の豊かさには、どの程度の相関関係があるのだろうか?
近年、医学の世界で注目されている概念に、ベネフィット・ファインディングがある。
これは苦しみを経験することで、それまでは何でもないと思っていた出来事に意味と価値を見出だす過程をいう。

例えば慢性疾患に侵され、その病気とともに生きていくことを強いられたとき、苦しみを経験する中で、何気ない友人の優しさなど他者との関わりに大切なものを見つけたり、自分が生を与えられてことに価値を見出だしたり、「苦しい状況にあるから○○○だ」と自分の置かれている状況にさえ価値を見出すようになる。

そのような「価値=ベネフィット」を見出すことは、ココロに潤いを与え、生きる力となる。
所得が低く、すべてのことを「がんばったってムダ。めんどくさい」と思っている人たちも、ベネフィット・ファインディングを経験することさえできれば、客観的な社会経済的地位が下流であっても、主観レベルでは富裕層にも勝る豊かな人生を送ることが可能なのである。
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そうそう、社会経済的地位よりも、主観的に幸せなのか、豊かなのかが問題なのだ。
そこに気がつかないと、いつまで経っても「ああ高度成長時代は良かったなー」という思想になる。
家族との時間を大事にすること、田舎で農作業して暮らすこと、ボランティアやNPO活動をすること・・・経済活動以外での人生の充足に価値観を持つ人も増えてきている。
しかし、こうした充実感を得るのにも、仕事以上に個人の熱意や根気、人との信頼関係が不可欠だし、必ずしも会社で働くのと比べてラクなことばかりではない。
いずれにしても、「ガンバル」ことは必要だ。

【再び抜粋】
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まず第一に、自分を客観的に見つめ、自分の置かれている状況を否定しないこと。
「否定しないこと」とは「肯定する」とは異なる。
「肯定する」には、物事を自分に都合良く判断するという意味が含まれるが、「否定しないこと」というのは、あくまでもありのままを受け入れるということである。
つまり、自分の所得が低い状況を、自分に合う仕事がないからとか、自分のやりたいことが見つからないからなどと理由をつけ肯定するのではなく、「自分は所得が低い」と、ありのままの自分を受け入れることが必要なのである。

次に、人と関わりを持つことを恐れないこともベネフィット・ファインディングのきっかけとなる。
これまで行われてきたベネフィット・ファインディングに関する実証研究でも、自分がココロを許すことができるサポートを得ている人ほど、ベネフィット・ファインディングを経験していることも明らかだ。

つまり、人生が豊かになるために必要不可欠なのは所得や地位ではなく、「自己への気づき」と「ココロを許せる他者の存在」なのだ。
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う〜ん。「自己への気づき」と「ココロを許せる他者の存在」。

私なりに解釈すれば、モノやカネの格差や横並びばかり気にするのでなく、人それぞれの幸福を「自他ともに認めていくこと」、そういう生き方をしようじゃないか、という問題提起だと思う。

【三たび抜粋】
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格差社会が広がったことを悲観し、経済的格差を小さくする社会を目指すよりも、ベネフィット・ファインディングを経験できる社会を目指すことのほうがよっぽど豊かである。
下流社会に位置する人たちは物にあふれ、生活が豊かになったことで見失っていた本当のベネフィットを見つけるチャンスを得た人たち。
これって結構、素敵なことではないだろうか。
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「ベネフィット・ファインディングを経験できる社会を目指す」というのは、政策の方向性にかかわる指摘である。

社会のあり方や政策の方向性について、医学界など、従来とは違う視点からとらえた意見を目にする機会が増えてきたように思う。
これは、多様化する価値観の中で、主観、すなわち「人間」に着目し、人間にとって住み心地の良い社会を求める期待があるからではないか。
身体運動科学の見地からの跡見順子教授の指摘もそうだ。

人間の根源から社会をとらえることが、基本的視点になりつつあるのではないかと思う。

shigetoku2 at 18:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日本論・人生論 

地域のエネルギーの解放

道州制について、中川秀直自民党政調会長と木村良樹和歌山県知事(全国知事会道州制特別委員長)が、新聞紙上で次のように述べている。

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【中川氏】
東京の一極集中が地方の衰退を招いている。
道州が創設されれば大小の差はあるが、EU諸国やアジアの国々の経済規模とほぼ同じになる。
それぞれが政策を工夫し成長競争を行う。
国内に複数の「中央」をつくることで、人材や情報、産業を引き寄せる。
州都は高度の政策形成をするようになるから、学会や経済団体、メディアなども集まってくる。

ことは簡単でなく、10年以上かかるかもしれない。行政の仕分けと関連する法律改正が必要で、中央省庁の解体・再編を伴う膨大で綿密な作業だ。

地方の首長も議員も現状打破になるから簡単に賛成と言いにくいだろうが、大事なのは国民が自分たちで選択できる地方政府をつくるということだ。
中央集権体制では発揮できなかった地域の人々のエネルギーが解放される。
そういう議論が展開されれば賛成者は圧倒的に多くなる。

【木村氏】
グローバル化が世界が小さくなる中、国は国家の責任やグランドデザインをもっと真剣に考えるべき時代になっている、というのは国民のコンセンサスになりつつある。
何も「あそこの道に穴ぼこができたから、補助金いくらやろうか」と霞ヶ関に考えてもらわなくても結構だ。
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まったく同感だ。

政策立案・決定権が東京にあるから、東京に人材が集まるようになる。
が、よく見れば、その人材の能力が最大限生かされているかというと疑問だ。
霞ヶ関の入省数年目の若手と話をしても、「現場がないので、仕事に満足感がない」と悩んでいる者も多い。
霞ヶ関を分割し、現場に近い道州で勤務できるようにすることは、実は、現在の霞ヶ関勤務に限界や不満を感じている人たちにとって、大変な朗報なのである。

中川政調会長の「中央集権体制では発揮できなかった地域の人々のエネルギーが解放される」というのは正鵠を射た主張である。
たとえば、現在苦境に立たされている多くの地方大学が、道州政府のシンクタンク機能を担うことになるのではないか。

木村知事の「穴ぼこ」の話については、広島県内でも、類似の議論がある。

たとえば、市町村行政の一つである幼稚園。
園児の親に対する就園費助成の制度は、国が「1人目は何万円、2人目は何万円・・・」と、細かく決め、国庫補助金を配分しているのである。

しかも、親に渡る助成金のうち、国は実質1/4しか負担していないことが多いようだ。残り3/4は市町村負担である。
幼稚園は、教材や給食など所要経費も様々なのに、1/4しかカネを出していない国が、全国一律に助成内容を決める姿は、決して合理的とは言えないだろう。

そんなことまで「霞ヶ関に考えてもらわなくて結構」だ。

さらに、こういう国から市町村への補助金は、その申請から配分までの事務手続に、つなぎ役である県がかかわっている。
この3重行政は、公務セクターの膨大な無駄を生んでいると思う。
特に、仲介してるだけの県って一体何なんだろうか?

こういう地域に密着した事務は、権限と財源を州に移し、国には担当セクションすら置く必要はないと思う。
仮に道州間のヨコの連絡調整の必要があれば、道州が共同で連絡組織をつくればよいのである。


総論の方向性は確実に道州制へと向かっている。

個々の自治体職員としてできることは、個別具体の各論の問題に気づき、他の自治体と連携しながら、堂々と主張し、各省庁と間で徹底的に議論していくことだと思う。

その過程で実現されてくるのが、自治体職員の大いなる意識改革である。
これこそが「中央集権体制では発揮できなかった地域の人々のエネルギーが解放される」現象に他ならない。

shigetoku2 at 11:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 行政・地方自治 

2006年03月19日

大河ホームドラマ?

NHK大河ドラマ「功名が辻」が面白い。

戦国時代のストーリーは毎度おなじみだが、現代の視聴者としてこのドラマに魅かれるのは、50石(年収500万円)、家臣2人という小所帯からのスタート、庶民・サラリーマン感覚と重ね合わせられる部分があるからではないかと思う。(最終的には土佐24万石になるのだが。これも「夢」としては共有できるのかも?)

また、妻の千代に頭が上がらず、かつ、しっかり支えてもらっているというのも、どこぞの家庭でよく見られる光景だ。
浮気がばれての大騒動(第10回)もあり、いわば「大河版ホームドラマ」である。

配役も、山内一豊役の上川隆也が愚直な役を好演しているし、千代役の仲間由紀恵は今や実力派女優、ピカイチだ。
家臣の吉兵衛(武田鉄也)と新右衛門(前田吟)のベテラン勢の忠臣ぶりやコミカルな行動も、温かみがあり笑いを誘う。

信長(館ひろし)と秀吉(榎本明)の大袈裟なキャラも期待を外さないし、家康役は大河ドラマ常連の西田敏行が家康というのも安定感を下支えしていると思う。
足利義昭役は三谷幸喜というのもちょっと驚きだったが、実はかなりはまっている。

オープニング曲も良い。
最近の大河ドラマで私の好きだったのは、「新撰組」とか「葵・徳川三代」の曲だ。
曲が良いと、冒頭から見逃したくなくなる。

うちの男児2人も「かずとよ!」とか「サル!」と言いながら一緒に楽しんでいる。
内容が分からずとも、戦国の雰囲気とか、サムライの心意気を幼少期から感じておくのは、ニッポン男児として大事なことではないか??
何と言っても、2人の間で流行っているのは「戦いごっこ」なのだ。
「戦い」と言っても、マジレンジャーやアンパンマンの方なのだが・・・。


shigetoku2 at 21:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 家族と教育、子育て 

切れない包丁

休日に少しだけ家事をし、家の中にこんなものがあることに気がついた。

鉄拳風に言えば、こんな感じか。

こんな包丁はいやだ。
\擇譴覆ぁ
硬いものを切ると折れそうになる。
でも見た目だけは切れそう。

こんな洗剤もいやだ。
,垢戮襦弊いながら食器を落としそうになる)。
⊃紊芭してもなかなか落ちない。
7なにおいがする。

包丁はガソリンスタンドでもらった景品、洗剤はカタログ購入したものなので、文句が言いづらいが、しかし、そもそもこういう製品がなぜ世の中に存在するのだろうか?

自然産品ならともかく、加工製品である以上、誰かが設計し、製品化し、「これなら世に出せる」という判断をしているはずだ。
しかも、包丁も洗剤も昔からある製品であり、最低限の品質を作り上げるための技術は既に確立されているはずではないか。
作る側からしても、同じ労力をかけるなら、そこそこの品質以上のもの、できれば未だかつてない最高品質のものを作りたいというのが、ものづくりをする人間の性ではないのか?

でもまあよく考えると、まずいラーメン屋、接客サービスの悪い旅館、道を知らんタクシー運転手、注射の下手な看護師、米国人と話せない英語教師・・・。
「よくこれで商売になるなー」という感じる機会はいくらでもある。

客から見て、存在そのものに疑問を持ってしまうレベルでも、淘汰されて本当に食っていけなくなる最低レベルまでは、もう少しあるのだろう。
気持ち一つで、いくらでも良い仕事ができ、良い収入につながるように思える。

もっとも公務員こそ、犯罪でも犯さない限り一生食っていける、世の中で最も「気持ち一つ」を持つことへのインセンティブの乏しい職業と思われているのかもしれないが・・・(自戒)。

shigetoku2 at 15:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ちょっとした気づき 

2006年03月08日

女性の人権を考える

県庁で「人権研修」を受けたのをきっかけに、男女差別について少し考えてみた。

基本的に日本社会はまだまだ男性中心に成り立っており、システムを変える必要があると思う。

私は米国で計5年間生活しても、あまり米国の価値観を好きになれないが、それでもどうしても良さとして認めざるを得ない生活習慣がある。
レディファーストと家族ぐるみのパーティーだ。

欧米人が女性を先にエレベーターから降りさせるのは、理屈抜きにスマートだ。
日本の職場ではやはり男が威張ってるし、奥さんは文字通り「家内」であって、社交の場に連れ出さないことが多い。

自分がもし女だったら、と想像してみると・・・。
○「家内」なんて呼ばれたくない。しかもお前が「主人」かよ。
○結婚して自分の姓が変わるのは嫌だ。同窓会名簿を見れば、既婚も未婚もばれてしまうではないか。(南米人と結婚した友人(女)によると、結婚しても姓が変わらないそうだ。子供は両親の姓を組み合わせた姓になるそうだ。)
○男が便座上げて小便した後に座るのは嫌だ。(しかし小便は立ってするものだと「男の尊厳」を主張する男性は多いらしい。)
○電車内のエロ吊り広告を放任しすぎ。もっと他の情報を見たいのに。痴漢の動機になってるんじゃないか?女性専用車両の中吊り広告はどうなってるんだろうか?(そもそも男だって、わざわざ電車の中で女の水着姿を見たいわけではない。)
○「女のくせに煙草吸ってる」と眉をひそめないでほしい。妊娠中でもないのに何か問題なのだろうか?

社会生活のいろんな場面に「女性の視点」を取り入れる努力が必要である。特に政治行政に関わる者は、「世の中に男女が半々いること」を意識した制度に一から作り替える訓練を積むべきだと思う。
女性の率直な意見を聞いてみたい。
社会人教育として、女装して一日過ごすカリキュラムがあっても良いかもしれない。

女性議員志望者がなぜ少ないのか、もっと具体的に検証すべきではないか。
また、「看護婦→看護師」みたいに名称を変えるべきものが他にもあるんじゃなかろうか?

もちろん、世の中は着実に進歩しつつある。
先ごろ「産婦人科」という名称を「女性診療科」に変更すべきとの議論があったようだ。女子高生などが通院しづらいという理由だ。
また、広島県の2月県議会では、条例で流川の風俗案内所の規制を強化する。案内所の外に見える状態で掲示されるわいせつな写真が街を訪れる人たちに不快感を与えており、これを規制することで、若い女性を含む多くの人たちが流川を訪れ、明るい雰囲気の中で過ごしてもらえるように、とのことである。

しかし物事は常に多面的である。
「女だから」と宴会の主賓の隣に座らされるのは、ある意味チャンスと言っていた同期の女性官僚がいる。

また、そこまで考える必要あるかと思ってしまうケースもある。
昔のゴレンジャーではモモレンジャーだけが女だったが、最近のマジレンジャーでは5人中2人に増えている。マジブルーとマジピンクが女なのである。
そんなところで配慮するよりも、善玉ぶった5人がたった1人の悪者をやっつける「いじめの構図」を解消してみてはどうかと思ったりもするが・・・。
ちなみに、今日の研修講師である地域振興総務室の伊達調整監によれば、レッドでなくブルーが女なのは、「女の色」を赤系に固定しない意図もあるんじゃないかと。
その意味ではマジピンクが女のままなのはちょっと中途半端かもしれない。

shigetoku2 at 01:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 経済社会・文化・科学