2006年04月

2006年04月29日

財政再建に向けた発想

財政室に異動して1ヶ月。あらためて「財政」って何だろう?と考えさせられる。

(1)「財政が厳しいんです」と言ってみても、「そりゃ財政当局はいつでもそう言うわな」としか受け止めてもらえない

いつの時代も、査定をするのが財政の仕事だから、「カネに余裕がある」などと口走る財政担当者はいない。
だから、今の地方財政がどれほどひどいのか、誰にでも分かるように伝えられないのは、財政当局の努力不足である。
「厳しい厳しいっていうけど、毎年赤字にならずに済んでいるじゃないか」という反論にどう答えるのか?
財政状況をどういう水準に持っていくことを目指そうというのか?
公務員、議員はもちろん、住民にも共感を得られる、分かりやすい目標をはっきり示すことができないものだろうか。

(2)財政再建は大事なことだが、財政再建をしたからと言って、それだけで喜ぶ一般住民はいない

行政の役割は、適切な行政サービスを提供することによって、住民生活を良くすることなんだから、健全な財政というのは、その前提条件であって、目的ではない。
しかし、国・地方を挙げて財政再建に取り組まざるを得ない昨今は、「税金の無駄遣いを排除すること」自体に対する納税者の支持を集めなければならない事態に陥っているわけで(「財政再建」を公約にする首長も増えている)、本来の姿からはかなり離れてしまっていると言えよう。

(3)財政当局は、納税者に最も近い視点で仕事をするセクションである

財政当局は、他部局が要求する予算を「つけてやる」とか「切る」とかいう権力的で偉そうなイメージが強いが、本来、住民に納めていただいた税金を無駄にせず、大切に使うという、行政の基本中の基本を実践するセクションであるはずだ。
日々の仕事の中で、ついその視点を忘れがちだが、この基本スタンス「納税者の感覚」を持ち続けるため、財政担当者こそ、現場に入り、住民の声を聞いて回る努力を常に怠ってはならないと思う。

(4)公務員にコスト意識が欠けているのは、「稼ぐ」ことを考えたことがないからではないか

財政担当になると、やたら「コスト」を意識するようになる。
それが仕事なのだから当然だし、それはそれで良いことなのだが、大事なのは、他のセクションの職員のコスト意識を高める方法を考えることだ。
(1)とも重なるが、共感できる目標が必要だと思う。
そこで思うのが、公務員も「稼ぐ」ことをもっと発想すべきではないか。
前向きな目標なしに、コストを絞ってばかりでは、その必要性は理解できても、決して心からやりたい仕事にはならない。人の本能に反すると思う。仕事は理性を持って取り組むべきではあるが、それにも限度がある。
企業と比べた行政の特徴を挙げてみると、行政の持つアドバンテージがよく分かる。
例えば、市場信用力、信頼性、中立公平性、唯一性、知名度・認知度、資産量、資金量、情報量、人材(マンパワー)・・・
考えてみれば、これらはいずれも民間企業が苦労を重ねてようやく手に入れられるもの。それを行政は所与のものとして有しているのだ。
財産を売ってもよい、広告を募ってもよい、無料だったものを有料にしてもよい。
こうしたアドバンテージをうまく活用して、少しでも収益を上げる努力をしてみる必要があるのではないか。
もちろん、数百億を稼ぐようなことにはならないだろう。制度上の制約も相当ある。一生懸命やって数百万円かもしれない。
しかし、稼ぐ苦労を知れば、コスト削減にも身が入るというものだ。
県庁内で「稼ぐ」仕事をしているのは、基本的に税務部門だけである。
誤解を恐れずに言えば、その他の部局は「使う」ことしか考えていない。
霞ヶ関ほどひどくはなくとも、自治体にもタテ割りの問題はある。
民間の大企業にも同様の悩みはあるだろう。
各分野の方々と話し合ってみたいと思う。

shigetoku2 at 13:30|PermalinkComments(1)TrackBack(0) 行政・地方自治 

2006年04月23日

スケボーパークの「非常識」

廿日市市のスケボーパークがついに完成した。

市役所からは原材料費のみ出してもらい、広島ZITのメンバーでもある野村洋一さんを中心として、365人、のべ6000人近いボランティアの方々が建設作業に関わり、2年がかりで出来上がったスケボー・インラインスケート・BMX専用の施設だ。

オープニングセレモニーで、野村さんは「高度成長で失われたものを取り戻したい。何でも行政にお願いするのでなく、地域住民の主体性で実現することで、心の通った地域にしたい」と述べられた。

財政的にも、業者に発注するのに比べ、経費は格安だ。

いつもはっきりした発言で親しまれている山下三郎市長さんは「行政にはカネがない。カネがなければ知恵を出すしかない。みんなで力を合わせればできないことは何もない!」と言い切った。(さすがだ)

その他の来賓のお話も印象的だった。

法務省法務総合研究所長の中井憲治さんは、「法務省の抱える最大の課題は、治安を回復することと、裁判員制度をはじめとした司法制度改革を実現することであり、住民との連携なしにいずれの課題も解決できない」と述べた。
法務省といえば、裁判員のほかにも、この秋から『法テラス』という法律相談サービスセンターを全国に配置し、市民に身近なサービスを展開しつつある。
一般住民からは縁遠い存在だった法務省でさえ、住民起点の考え方に転換してきている証だろう。

また、県の石原照彦地域振興部長のコメントは「廿日市市長さんの決断は、いわば非常識。しかし、本来は、行政に住民が参画するのでなく、住民の主体的活動を行政が支援する姿が正しいはず。これからは、今までの非常識が常識になるようにしていきたい」。

この視点は、野村さんの「高度成長で失われたもの」発言と重なる。
「失われた」のは、住民の主体性や自己責任の感覚である。

参考までに、もしスケボーパークで事故があったときはどうなるのか、野村さんに尋ねてみた。
行政が整備した施設の場合、何か事故が起こればすぐに訴えられる。
従来の「常識」で考えると、行政の責任が問われるのではないか?と考えてしまうのだ。
しかし返ってきた答えは、やはり「自己責任」。
元来、地域での人の活動リスクは自己責任のはずなのだ。
(もちろん安全のためフェンスを張り、防具を用意してあるそうだが。)

住民が行政に依存し、欠陥があれば責任追及するのでは、行政側も萎縮するし、財政難の中では機能不全を招く。
「非常識を常識に変えていく」ためには、国民的な意識の大転換が必要だ。
時間はかかるが、根気強く訴え続け、実現していきたい。

「小さな政府」が主張されているが、これは行政の一方的な責任放棄ではなく、温かみのある地域や人間のつながりと主体性を取り戻すことと表裏一体のものだと思う。

小学生のスケボー少年たちが、記念碑の除幕式のテープを引いた後、自分たちの頬をつねりながら「これ夢じゃないよね!」と言い合っていた。
人の志やつながりが、人に与える喜びの大きさに、久しぶりに感動を覚えた。

shigetoku2 at 16:39|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 地域活性化・地域の話題 

2006年04月16日

トヨタ生協改革

小・中・高校の先輩である豊田市東京事務所長さんから「トヨタ生協革命」をいただいた。

トヨタ自動車の総務部長まで務めた神谷敏之さんが、生協の理事長となり、8人の理事、管理職、職員とともに猛烈な「カイゼン」に取り組むという経営改革の書である。

【以下抜粋】
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「そもそも理事は経営者なんです。その認識が皆さんにあるのか。
理事は担当部門を持っていたとしても、その部署の利益代表じゃありません。生協全体の利益を考えて、行動も発言もしてほしい。
職員は理事の補助者となるべきもの。職員に使われるような理事だったら、本末転倒です。」

管理職の心構えについても、「リーダーとマネージャーの双方の役割を果たせ」。
リーダーとして求められるのは、改革案、改善案を提案できること。マネージャーは、決められた改革案、改善案を実行できる人。管理職となる以上は、どちらもできなければダメと説いたのだ。
「いまの管理職にはプランニング能力が欠けている。自分で新しいことを提案する力も意欲も足りないんだ」「管理職は自分の頭で考え、自分の足で立て」

現場の職員たちの間では、管理職に対する不満が表には出ないまでも、潜在的にはかなりあったようだ。
減収減益がつづいていたため、さすがの理事も管理職たちに「なんとかせいや」などと指示を出し、それを受けて管理職も同じように「なんとかしろ」「頑張れ」といっていたためである。
第一線の職員にすれば、そんな指示は指示ではない。

トヨタ生協労組の執行委員長も、現場の職員の率直な声をしばしば直接聞く立場にあった。
「ただ頑張れといわれても、どこに向かって頑張ればいいんだ。いったい自分たちの日々の努力は、どこに消えてしまっているんだ。」

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県庁で言えば、理事は部局長、管理職は室長であろう。
財政改革について言えば、総務部長や財政当局だけで考えるだけでなく、各部局長が全体益を目指し、それぞれ担当する所管行政の中で、限られた資源で最大の効果を発揮するための目標を定め、それを受けて室長がその具体策を考え、提案し、実行することが必要だと思う。

そのためには、具体的な目標や情報を職員一人々々と共有することが不可欠だし、ささいなことであっても、具体的な取り組みを日々の職員の行動に浸透させることが必要だ。
トヨタ生協では、赤字店の閉鎖などコスト削減効果の大きな抜本的対策を打つだけでなく、職員のコスト意識の徹底にも力を注いでいる。

県庁でも昼休みは消灯するし、コピー用紙を両面使う努力をしている。
しかし例えばトイレには「使用後は消灯を」などと掲示されているが、あまり守られているとは言えない。

確かに、トイレの電気を消したところで、数百億円にのぼる財源不足や1兆数千億円の借金にどれほどの足しになるのか、と言われればそれまでだ。
しかし、職員個人々々にできることはすべてやりきること、まず行動することが大事だ。
職員の心にコスト意識が染み渡るような具体的行動を促すことが必要なのだ。

【再び抜粋】
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それにしても、95年に就任してからしばらくの間の神谷の言葉を集めてみれば、けっこう厳しいと感じる表現が多い。
にもかかわらず、理事にしろ、管理職にしろ、現場の担当者にしろ、神谷の厳しい言葉を浴びて反発心を抱く人が極端に少ないのは不思議でならなかった。
2つのワケがあるのではないか。

1つは、神谷の個性である。とにかく愚直なくらいひたむき。
この人は本心で生協をよくしたいと思っている−そう思わせるのである。
現場で評価できるものを目にしたとき、「感動した」「目頭が熱くなった」としばしば躊躇なく口にしている。アルバイト女性のサービス精神のこもった接客ぶりから、些細なトラブルを迅速に片付けた事例まで、喜怒哀楽を率直にすぐ表す姿も、職員たちの神谷評を高めていたはずだ。

もう1つ思い浮かぶのは、素直さである。
理事、職員を問わず、素直で真面目。
「私も素直さや生真面目さはこの生協の職員たちの大きな特徴だと感じていました。
彼らはやる気がないわけではない。そう思えたからこそ、この組織は立て直せるとも考えられたわけです。
しかし素直さの反面、人任せで自分たちの力で変えていこうとはしない。だからこそ、この組織は理事、管理職の指示が重要になってくるわけです」
「管理職として、やさしさを誤解しないでほしい。部下に嫌われることを恐れないでほしい。管理職にとっての部下は、友達じゃない」
「他の部署に対しても、気がついたことは言ってほしい。文句を堂々と言い、批判があったらどんどん口にしてほしい」
仲良しクラブではダメだ。神谷が常々思っていることを表現を変えて伝えたものだ。

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やはり組織は人である。
公文書や制度も大事だが、責任ある立場の人たちの言葉一つ、行動一つで、組織が生きることもあれば、死んでしまうこともある。


一方、コスト意識だけでは会社は再生しない。
神谷さんは、「攻めの姿勢」「とにかくやってみる」ことの大切さも徹底してきたようである。
失敗は成功のもと。できない理由探しなど時間の無駄。トヨタ式経営の真骨頂である。

【三たび抜粋】
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ある職員が、正月商戦の企画として「福袋をやってみてはどうでしょう」と提案した。
必ず売れるといった裏付けデータがあったわけではない。神谷は「いいな、やってみろよ」すぐその場でOKを出した。
しかし正月での売れ行きは、みごとなまでの惨敗。悲惨な結果を報告に行くと、神谷はなにごともないように逆に励ました。
「結果についてはしょうがない。そんなに暗い顔をすることではないじゃないか。やらんよりは、やったほうがいいんだ」
チャレンジのほとんどは、成功するかどうかなんて最初は分からないものだ。だから挑戦なんだ。でも、ともかくやってみなければ、何もはじまらない。
やったあとで、改善策を考えればいい。

車中から多くの客でにぎわう店が見えた。部下は「あんな店をうちも持てたらいいですね」と言いつつ、なぜそのような店をトヨタ生協ができないのか説明した。
トヨタ生協には標準棚割というルールがあって、ああいう売り方はできないんです。うちの場合は労務費が高いから、あんな若い人たちの店にようにはいかないんですよね・・・。次々と目の前の活気ある店と生協の店との違いを話していった。
いきなり怒鳴り声が飛んできた。
「それだけできない原因が分かっていて、なんで手を打たないんだ。できない理由をどうしたらいいかと考えんのだ」
「結局、失敗しても神谷さんに叱られたことってないんですよ。失敗なんか、したっていいじゃないか。ただし、失敗の原因だけはきちんと分析しておけという指示なんです。何もしないで、ことなかれ主義のヤツなんかいらんということでしょうね」
「できない理由など1分で考えられる。理路整然たる敗者の弁など聞いている暇はない。」

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さらに、経営状態の一発逆転のためには、従来のイメージを刷新するような新機軸も重要なことのようだ。

【四たび抜粋】
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「店舗は倉庫ではないんじゃないか」「商品だって部品ではないだろう」
神谷はもともと生協の店について、遅れているとは思っていた。安全で安心で、より安く。生協の基本的な考えである三本柱には共感している。
それでもいまの生協の店で思い浮かぶ言葉といえば、ダサい、暗い、安い。「なんかアカ抜けしないんだよな」
「とにかく買い物が楽しくなるような店じゃなければダメだ。倉庫じゃダメなんだ。明るくてセンスのいい店でないと」
トヨタ生協では三番目の大型店となるメグリア三好店は無事、98年10月30日、オープンした。
マリア・テレジア・イエローとグリーンを基調色とした概観と同様、店内もシックなカラーコーディネートでまとめられている。開放感と明るさが漂う雰囲気は、それまでのトヨタ生協の店のイメージを変えた。

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考えてみれば、生協のダサさは、県庁にも共通するものがあると思う。
県庁には、安全・安心というさわやかなイメージもあるだろうが、ダサい・暗い・アカ抜けないのも確か。

生協の新規出店は、行政で言えば新規施策に当たるのではないだろうか。
今までの県庁では考えられなかったような常識破りの施策を考え出すことが必要だ。
これもまた、「まずやってみること」という基本精神から生み出されるものだろう。
職員のチャレンジ精神が遺憾なく発揮されるような職場づくりが急務だと思う。

shigetoku2 at 20:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 行政・地方自治 

2006年04月02日

キレイな・・・

中四国で一番高いと言われる超高層ビル、アーバンビューグランドタワーの地下駐車場で、真ん中にクルマのキーが写っているだけの、シンプルなポスターを見かけた。

カーナビを無視して遠回りしたら、とてもキレイな紅葉と出会えました。Good Health Makes a Good Drive.」というコピー。
生活習慣病予防クリニックのポスターだ。

機械による支配へのささやか抵抗、というほどのことでもないが、私のクルマにはカーナビを付けていない。
糖尿病予防だけでなく、コンピュータや人工音声からの人間解放、メンタルヘルスの維持も大切にしたい。
きっと「キレイな」何か、誰かに出会えるに違いない。

shigetoku2 at 23:39|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ちょっとした気づき 

エルミタージュ展に見るダメおやじ

広島県立美術館の「偉大なるエルミタージュ美術館展」で、ダフィート・テニールスの作品に感銘を受けた。

フランドル地方(ベルギー)に生まれた17世紀の画家で、日本ではあまり知られていないが(私も初耳)、ヨーロッパで高く評価されているらしい。
農村の日常的な庶民生活、地域の絆を描いたような写実的な絵が多い。

私が気に入ったのは、テニールスが、地域コミュニティを単なるきれいごととして描くのでなく、仲間の輪を乱す奴とか、酔っ払いのダメおやじの存在を忘れずしっかりと描写しているところだ。

結婚式やお祭りの絵では、みんなが盛り上がっている中、酔いつぶれて顔をテーブルに伏せているオジさんや、べろんべろんになって奥さんに抱き起こされている男が片隅にいたりする。

収穫時期に、仲間で手分けして刈入れ作業をする絵では、建物の陰で酒飲みに興じるオッサンがいたりする。(あかんのはみんなオッサンだ)

衛兵隊が集まった絵でも、アツい隊長が気合いを入れているのをよそに、カード遊びに興じる連中はいるわ、武具はその辺りに雑然と転がっているわ・・・

とうてい衛生的には見えない、土(?)でできた家の床には、果物や魚が転がり、動物たちも遊んでいる。家の中で壁に向かって立ちションベンしている男までいる。身なりも貧しく、当時の農村の経済レベルも推し量れる。その分、時々登場する身なりの良い少年がやけに引き立つ

物事には表と裏、陰と陽がある。そういうものではないか。
登場人物がみんな幸せそうにしているルノアールとか、美しい風景画のモネの絵などは確かにパッとするが、むしろセザンヌのような陰気な絵に共感を覚える人も多いのではないか?

テニールスの絵には、文字通り「光と陰」の技法が多用されている。
解説にも、フランドルの人間模様をこんなに克明に描写した画家はほかにいないとあった。うなずける。

どういう気持ちでこういう絵を描いていたのか分からないが、しかし年表を見て、テニールスの生きた時代に思いを馳せると、少し気分を共有できる。

テニールスは1610〜1690年を生きた(長生き!)。
社会の有り様が分かってくる30代ごろには、フランスでルイ14世(太陽王)が即位する(1643年)。
隣国オランダはウェストファリア条約でスペインから独立を果たすが(1648年)、フランドルはルイ14世からさんざん攻撃を仕掛けられるのだ。
これはたまらん。

結局、ベルギーが独立するのは、その後、オーストリア、フランスによる支配、オランダとの併合を経て、フランス7月革命後のロンドン会議(1830年)まで、200年近くかかるのだ。

大国の野心に惑わされ、先の見えない時代には、せこい人間関係を皮肉る絵を描きたくなるのも分かる。
そして、ぐでんぐでんに酔っ払いたくなるオッサンの気持ちも分かるような気がする(?)。

shigetoku2 at 21:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 経済社会・文化・科学 

2006年04月01日

男の育休

経産省の友人である山田正人さんが1年間育休を取ったそうだ。
先日東京の職場に顔を出したら、「ちょうど今日復帰したんだ。楽しかったよ」と言っていた。

その山田さんが書いたある雑誌の寄稿を読んだ。
(著書『経産省の山田課長補佐、ただいま育休中』(日本経済新聞社)も出しているとのこと。カスタマーレビューも賛否両論あって面白い。)

【以下抜粋】
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・まず、最初の苦しみは、家を出られないことだった。
・早々に職場復帰した妻を横目に、自分はずーっと赤ん坊と向き合うことになった。話し相手はいない。
・仕事とは違って、理屈が通用する相手ではない。気がついてみると、仕事をしている夢を毎夜見るようになっていた。夢の中で、赤ん坊と二人きりの圧迫から、仕事へと逃げ込んでいたのである。
・厳しい仕事をやりぬいた後の達成感、その厳しさを分かち合った仲間との打ち上げ。そういう日常から、いきなり隔離されて赤ん坊と密室で向き合うのだ。

・「うちの組織では、男が育休なんて取ったら、もうそれだけでアウト。絶対に出世できませんな。」古くからの友人が電話口で言う。
・同じ職場の友人も、「うちの組織だって同じじゃないの。やっぱりハンデになるだろ。」しまった。どうやら、少し鈍感だったのかもしれない。
・出世への影響はともかく、やはり職場に戻ってからも、従前と同様に、責任ある仕事に就きたいとは真剣に思う。育休を取ったことを理由に「戦線離脱」との烙印を押されたくはないのだ。

・この点、職場の上司や友人が、時折連絡をくれることは大変に有難かった。職場から離れていると、自然と「職場はもう自分を必要としていない。」という観念が徐々に頭の中で大きくなっていくのだ。

・しかし、である。今まで述べてきた全ての苦労をはるかに上回るぐらいの喜びが子育てにはあるのだ。
・家族5人で囲む夕食はとっても楽しい。たまに夜に外出すると、「昨日はパパがいなくて寂しかったー。」と翌朝訴えてくる。
・最初に覚えた言葉は「ママ」ではなくて「パパ」なのだ。
・「抱っこしてー」「絵本読んでー」子供の欲求には際限がない。子供になつかれると、親はますます大変になる。それでも、それを単純に「負担」とは感じない。親にとって、子供に頼られることや子供のために尽くすことが、こんなにもやり甲斐のあることだとは知らなかった。

・復職後、意外なほど多くの省内外の男性職員の方から、「自分も育休を取りたい」「取りたかった」という告白を受けた。
・育休の1年間は、確かに狭い意味の仕事だけを考えればマイナスだったかもしれない。
・しかし、地域社会とふれあい、地方行政の最前線を住民の立場から経験できたことは、自分の日常の仕事にも視野の広がりをもたらしてくれた。

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育休がすべてとは言わないが、価値観の転換期を象徴する、率先垂範の行動である。
ちょっとした仕事よりもずっと価値のある経験で、同僚の方々同様、羨ましいなー。
しかも、その効果は一生モノである。
きっと山田さんとお子さんとの絆は、生涯固く結ばれたままであろう。


ところで、男女共同参画に関するNHKの討論番組を見ていたら、一人の主婦の方の言葉が印象に残った。
主婦は、家庭で育児や家事をしているだけでなく、地域を支える役割も果たしている。最近では、防犯パトロールなどを地域のお年寄りとともに行っている。会社勤めの人たちが子どもを安心して学校に行かせられるのも、こういう活動に支えられているからなのです。

確かに、物事を一面的に見るのは正しくない。
主婦の地域における公的活動を見逃してはならない。
そもそも、「サラリーマンと専業主婦」という夫婦は、「男は仕事、女は家庭」の典型のように見えるが、その実情はかなり変わってきているように思う。
最近の子育て世代は、昔のように子育てや家事を完全に妻に任せっきりにするケースが少なくなっている。たとえば、土日の公園は、子連れのパパたちばかりだ。

では、育休を含めて、こういう問題をシロウト感覚から考えてみると・・・。

・職場を長期(数日〜数週間)休むとき、「病気で手術しないといけないので」とか「家庭に不幸があって」とか「交通事故に遭って」という理由であれば、「それはしょうがない。大変ですね」と、同僚のよき理解の下で仕事をカバーしてもらえるだろう。しかし「子どもが生まれたので育休で」となると「ナニ??そんなことで大事な仕事を休んでいいのか?許されるのか?」という反応になるのではないだろうか。価値観の転換が必要だ。また、考えてみれば、病気や事故で急に休むより、数ヶ月も前から周囲の同僚と相談しながら計画的に休める育休の方が、よっぽど人様への迷惑がかからないはずだ。

・同様に、「今日は(大事な?)飲み会があるので」と言えば早々に定時退庁できても、「今日は家で子どもを風呂に入れるので」とはなかなか言いづらい雰囲気がある。子どもの世話など、神聖なる職場で口にする言葉ではない、ということなのだろうか。

・自分の心の中にも敵がいる。土日や平日の帰宅後に子どもの面倒や家事を頼まれると、「オレは職場では仕事で大変なんだ。家では少しは休ませてくれよ」と言いたくなることがある。しかし、山田さんが言うように「厳しい仕事」であっても、「達成感」とか「仲間との打ち上げ」が直後に控えており、息抜きもあるし充実感も伴う。それに比べ、たまに丸一日子守りを任せられると、ガキどもはわがまま言い放題だし、ご飯一つ食べさせるのも苦労するし、かといって放っておいて目を離すわけにもいかないし。(かわいいはずの)子どもたちにイライラさせられることばかりで、その大変さが本当に身にしみる。「土日ぐらい休ませろ」とは夫婦どちらのセリフか・・・。

・そもそも、私自身も含め、世の男性の多くは、男女半々の職場で働いた経験が絶対的に少ない。多くの女性と一緒に仕事をするのは、楽しいことだと思う。「創発まちづくり」の編集会議が楽しかったのは、男女半々(4人+4人)だったからのような気もする。


子育て、男女のあり方については、世の中全体の意識をまったく変えていかなければならない。
そうでなければ、出生率アップなども望めないのではないか。

shigetoku2 at 23:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 家族と教育、子育て