2006年06月
2006年06月25日
食育は楽しい!
子どもたちを連れて、瀬戸内海の江田島市切串(きりくし)へアサリの潮干狩りに出かけた。
干潮の2時間ぐらい前に合わせて、宇品港から船に乗り、干潟に到着した。
父親らしく、子どもたちに潮が引いたり満ちたりする不思議さを教えてやろうとしたが、そんなことには目もくれず、彼らは貝堀りと水遊びに熱中していた。
大物のアサリは、サラサラした砂地よりも、泥っぽいところに潜んでいる。
だから、貝の表面は少しヌルヌルしていて、そのまま塩水に漬けておいたらやたら元気に潮を吹く。
家に持ち帰り、そのまま置いておいたら、翌朝、ほとんどのアサリが、見たこともないぐらい大きく体を貝からはみ出して動いていた。「アサリって、こんなに大きかったんだ!」とびっくり。
そんな元気なアサリをみそ汁にしたり、パスタにして味わった。
先日も、自然の中のカレー屋ジャスミンへ行った際に、マスターの薦めで近くの川でハヤを釣り、家で天ぷらにして食べた。
獲った時に元気に生きてた貝や魚を、みそ汁や天ぷらにしてしまうのを子どもたちに見せるのは、ちょっと複雑な気持ちになる。
が、親のためらいを知ってか知らでか、彼らは割と素直に当然のように受け止めて「おいしい!」などと言っている。
魚が可哀想とか、人間は残酷だとか考えてしまうのは大人の勝手な心配であって、ありのままをきちんと見せて、自然の恵みを知ってもらうことが大切なのだろう。
最近は、家のベランダでキュウリ、コマツナ、ルッコラの栽培を始めた。
毎朝子どもたちと手分けして水をやり、晩もその成長ぶりを見るのが日課である。
週末に間引き作業をしたが、ルッコラは、間引いたのを別のプランターに移し変えても元気に育っている。強い生命力を感じる。
生き物を獲って食べるのは人間の営みの基本中の基本のはずだが、街なかで普通に暮らしていると、そうした場面に出会う機会はほとんどない。
しかし、それを求めてあちこち出掛けて遊ぶのは、理屈ぬきに楽しい。
「子どものための食育」だなんて言って、一番楽しんでいるのは自分自身のような気もする。

父親らしく、子どもたちに潮が引いたり満ちたりする不思議さを教えてやろうとしたが、そんなことには目もくれず、彼らは貝堀りと水遊びに熱中していた。
大物のアサリは、サラサラした砂地よりも、泥っぽいところに潜んでいる。
だから、貝の表面は少しヌルヌルしていて、そのまま塩水に漬けておいたらやたら元気に潮を吹く。
家に持ち帰り、そのまま置いておいたら、翌朝、ほとんどのアサリが、見たこともないぐらい大きく体を貝からはみ出して動いていた。「アサリって、こんなに大きかったんだ!」とびっくり。
そんな元気なアサリをみそ汁にしたり、パスタにして味わった。
先日も、自然の中のカレー屋ジャスミンへ行った際に、マスターの薦めで近くの川でハヤを釣り、家で天ぷらにして食べた。
獲った時に元気に生きてた貝や魚を、みそ汁や天ぷらにしてしまうのを子どもたちに見せるのは、ちょっと複雑な気持ちになる。
が、親のためらいを知ってか知らでか、彼らは割と素直に当然のように受け止めて「おいしい!」などと言っている。
魚が可哀想とか、人間は残酷だとか考えてしまうのは大人の勝手な心配であって、ありのままをきちんと見せて、自然の恵みを知ってもらうことが大切なのだろう。
最近は、家のベランダでキュウリ、コマツナ、ルッコラの栽培を始めた。
毎朝子どもたちと手分けして水をやり、晩もその成長ぶりを見るのが日課である。
週末に間引き作業をしたが、ルッコラは、間引いたのを別のプランターに移し変えても元気に育っている。強い生命力を感じる。
生き物を獲って食べるのは人間の営みの基本中の基本のはずだが、街なかで普通に暮らしていると、そうした場面に出会う機会はほとんどない。
しかし、それを求めてあちこち出掛けて遊ぶのは、理屈ぬきに楽しい。
「子どものための食育」だなんて言って、一番楽しんでいるのは自分自身のような気もする。
2006年06月17日
神秘・モリアオガエルの価値
安芸太田町(旧加計町)の吉水園の池へ、モリアオガエルの卵を見に行った。
木の枝に、フワフワしたメレンゲのような卵のうがたくさん産みつけられていた。
去年も訪れたのだが、今年は時期が少し遅かったせいか、高い木の上にも産卵されていたのが印象的だった。
卵のうから出ていくオタマジャクシにとって、生まれて初めての社会体験が「5mもの高さから池への落下」になる訳だから、さぞかしタフなカエルになることだろう。
卵のうの破れた箇所から中身をよく観察すると、小さなオタマジャクシが泳ぎ回っている。
この中で何日ぐらい過ごしてから飛び出すのだろう?
子どもの頃に図鑑で見たことしかなかった、世にも不思議で、神秘的な存在だ。
先日テレビを見ていたら、TOKIOのメンバーが、ある池をモリアオガエルの棲める環境に戻そうと作業をしていたが、今やそんなことがゴールデンタイムの番組になってしまうご時世なのだ。
加計のモリアオガエルが棲みやすい環境を守り続けてきたのは、地域の方々の努力によるものである。
「コンビニもない」「スタバもない」田舎には、都会にはありえないものがある。
モリアオガエルに魅きつけられる子どもたちの目を見れば、その価値に疑いの余地はない。
都会と地方の“格差”が取り沙汰される時代にこそ、地域のこうした価値を「社会観」の土俵に上げ、どちらが“格上”なのか、世に問いたいところである。
バラエティ番組でモリアオガエルが取り上げられるのは、時代の必然であり、単なる偶然ではないと考えるべきではないか。

去年も訪れたのだが、今年は時期が少し遅かったせいか、高い木の上にも産卵されていたのが印象的だった。
卵のうから出ていくオタマジャクシにとって、生まれて初めての社会体験が「5mもの高さから池への落下」になる訳だから、さぞかしタフなカエルになることだろう。

この中で何日ぐらい過ごしてから飛び出すのだろう?
子どもの頃に図鑑で見たことしかなかった、世にも不思議で、神秘的な存在だ。
先日テレビを見ていたら、TOKIOのメンバーが、ある池をモリアオガエルの棲める環境に戻そうと作業をしていたが、今やそんなことがゴールデンタイムの番組になってしまうご時世なのだ。
加計のモリアオガエルが棲みやすい環境を守り続けてきたのは、地域の方々の努力によるものである。
「コンビニもない」「スタバもない」田舎には、都会にはありえないものがある。
モリアオガエルに魅きつけられる子どもたちの目を見れば、その価値に疑いの余地はない。
都会と地方の“格差”が取り沙汰される時代にこそ、地域のこうした価値を「社会観」の土俵に上げ、どちらが“格上”なのか、世に問いたいところである。
バラエティ番組でモリアオガエルが取り上げられるのは、時代の必然であり、単なる偶然ではないと考えるべきではないか。
2006年06月11日
財政難をみんなで乗り切るために
財政難である。
広島県の場合、税収は増えているのだが、地方交付税がそれ以上に減っているので、使える財源が足りなくなってしまうのである。
足りない分は、借金したり、貯金(基金)を崩したりしてやりくりしている。
その額、なんと数百億円規模だ。
そもそも地方交付税は、自治体の仕事のうち、国の法令で義務づけられている仕事(教育とか道路管理とか)の財源を国が保障しているものなので、交付税額を減らすなら、義務づけも減らさないと筋が通らない。
「公立学校の先生の給料は、国が全部払うから、県が払わなくていいよ。だから、その分地方交付税を減らします」とか言うのなら、分かる。
とにかく自治体は、国からの「やらされ仕事」が多すぎる。
県民のために役立つ仕事なのか、一つ一つ良くチェックしないといけない。
きちんと法令で、県の役割が明記されている仕事ならば、まだ良い。(それでもその法令の意義を疑ってみる必要があるが。)
国から補助金が出てるから県はお付き合いして○億円出さざるを得ない、というようなものもたくさんある。
国から頼まれて実施する調査も数多い。事業費はかからないかもしれないが、調査作業には県職員の人件費がかかっているのだ。せめて何のための調査なのか、明らかにすべきだ。「県民にとって何の役に立つ調査なのか分からないけど、国から依頼があったので意味も分からずやっている」なんていう仕事を続けていたら、給料を負担してくれている県民に申し訳ない。
分権改革の本丸は、国との関係の見直しである。
先日、そういうことを県職員有志のオフサイトミーティングで話したところ、かなり反響もあった。
まず県職員が、県民を向いて仕事するのか、霞ヶ関を向いて仕事するのか、断固たる決意を固めなければならない。
そうでなければ、県民から預かった税金を最大限大切に使い、財政難を乗り切ることなどできないのではないか。
広島県の場合、税収は増えているのだが、地方交付税がそれ以上に減っているので、使える財源が足りなくなってしまうのである。
足りない分は、借金したり、貯金(基金)を崩したりしてやりくりしている。
その額、なんと数百億円規模だ。
そもそも地方交付税は、自治体の仕事のうち、国の法令で義務づけられている仕事(教育とか道路管理とか)の財源を国が保障しているものなので、交付税額を減らすなら、義務づけも減らさないと筋が通らない。
「公立学校の先生の給料は、国が全部払うから、県が払わなくていいよ。だから、その分地方交付税を減らします」とか言うのなら、分かる。
とにかく自治体は、国からの「やらされ仕事」が多すぎる。
県民のために役立つ仕事なのか、一つ一つ良くチェックしないといけない。
きちんと法令で、県の役割が明記されている仕事ならば、まだ良い。(それでもその法令の意義を疑ってみる必要があるが。)
国から補助金が出てるから県はお付き合いして○億円出さざるを得ない、というようなものもたくさんある。
国から頼まれて実施する調査も数多い。事業費はかからないかもしれないが、調査作業には県職員の人件費がかかっているのだ。せめて何のための調査なのか、明らかにすべきだ。「県民にとって何の役に立つ調査なのか分からないけど、国から依頼があったので意味も分からずやっている」なんていう仕事を続けていたら、給料を負担してくれている県民に申し訳ない。
分権改革の本丸は、国との関係の見直しである。
先日、そういうことを県職員有志のオフサイトミーティングで話したところ、かなり反響もあった。
まず県職員が、県民を向いて仕事するのか、霞ヶ関を向いて仕事するのか、断固たる決意を固めなければならない。
そうでなければ、県民から預かった税金を最大限大切に使い、財政難を乗り切ることなどできないのではないか。
2006年06月03日
広島版のプラットフォームを!
国際NGOピース・ウィンズ・ジャパン(PWJ)統括責任者であり、ジャパン・プラットフォーム(JPF)評議会議長である、大西健丞さんにお会いした。
PWJなどのNGOは、海外で紛争や大地震が起こるといち早く現地に駆けつけ、難民や被災者に医療や食料を提供する「国際緊急人道援助活動」を行っている。
つまり、わが国が苦手といわれる「顔の見える支援」を担っているのである。
政府にはないNGOの強みは、現地との「人間レベル」の協力関係である。
日経新聞編集委員の原田勝広さんが書かれた「『こころざし』は国境を越えて」によれば、PWJについて、次のような例を挙げている。
これこそが「顔の見える支援」の醍醐味であろう。
“ピースウィンズの特徴は、市民レベルで熱心な支持者に恵まれていることのほかに、スタッフのユニークさがある。とりわけ難民をそのままスタッフに取り込んでしまうしたたかさは他のNGOに例がないであろう。
こんなことがあった。
壊れた家に住む住民にUNHCR〔国連難民高等弁務官事務所〕が屋根や壁を覆うためのプラスチックシートを配るよう言ってきた。欧米の大手NGOはこれに従ったが、シムコ〔クルド人難民スタッフ〕は「こんなものでは厳しい冬は越せない」と強硬に主張して、破壊家屋の大がかりな修復に踏み切った。結果的には難民側にたった彼の判断が正しく、日本のNGOの評価を高めることになった。”
しかし従来、日本のNGOは、資金力が弱かったため、外国のNGOに比べ初動で出遅れたり、支援内容が不十分だったようである。
そこで、日本のNGOを支援するために、2000年8月に設立されたのが、ジャパン・プラットフォームである。
このプラットフォームは、NGO・外務省・経済界などのネットワークで、現地に出動するNGOに対して政府の拠出金や企業・市民からの寄付金が直接・迅速に提供されるので、各NGOの緊急援助活動が円滑に開始できるわけだ。
プラットフォームの設立のメリットとして、とりわけ大きいのが資金問題である。
“緊急援助というのは、要するに各NGOによる陣取り合戦である。早く到着できれば、UNHCRから自己資金の額を聞かれる。無名のNGOとなるとしかるべき額の自己資金がなければ相手にされない。”
国際緊急援助の現場とは、こういうものなのだ・・・。
良かれと思って現地に赴いても、「相手にされない」のではどうにもならない。
プラットフォームが機能することによって、こんな状況が解消され、緊急援助における日本の存在感が高まることが期待される。
一方、国内事情からすれば、プラットフォームは、団塊の世代の人材活用にも一役買っているようだ。
“例えば、国際社会貢献センター。商社OBを国の内外で社会貢献を行うために派遣する、いわば「有償ボランティア」組織だ。
ジャパン・プラットフォームに何とか人材を送り込みたいと思ってNGOにアプローチを繰り返しているうちに思わぬ獲物がかかった。
東ティモールのコーヒーを輸入する手伝いをしてほしいという話が持ち込まれたのだ。
コーヒーの専門家で、元三井物産の人物がすぐ見つかり、アドバイザー契約が成立した。”
ところで、難民問題の第一人者、緒方貞子・元国連難民高等弁務官は、プラットフォームについて、次のような認識を持っているという。
“21世紀に向けての課題は何か。緒方の頭にはふたつある。
一つはギャップの問題である。
「緊急人道援助から開発援助へのつなぎが非常に大事であるのに、現状はこの両者の間、つまり復興の段階でギャップが生じている」と緒方は表情を曇らせる。
例えば大量虐殺があったアフリカのルワンダ。
難民キャンプから難民を故郷に帰還させても家さえない。
政府がようやく動き出しているのに役人に支払うべき給料もない。
政府自体の復興手当てが必要なのだ。
帰還すれば難民ではないから本来はUNHCRの援助対象ではなくなるのだが、この時は結局、UNHCRが「建設業者」になって10万戸くらい住宅を建ててしまったが、これが開発援助の機関に任せるとこうはいかない。
まずコンサルタントを雇い、調査をして、といった具合で非常に時間がかかるのだ。
「緊急援助が成功しても復興でちゃんとつながないと意味がない。いまシエラレオネではギャップを埋めるためUNHCRが国連開発計画(UNDP)、世銀とパイロット・プロジェクトを実施している。お互いの機関のカルチャーが微妙に違う上、戦闘が始まって苦労している。この試みにNGOも加わってもらえるといいのだが。」
もうひとつは民間セクターの協力をどこまで得られるかである。
「企業は今後、われわれのような援助機関の重要なパートナーになる。コソボでは米マイクロソフトと新しいソフトを開発して難民の登録に取り組み、社員もボランティアで参加してくれた。米コンパック・コンピュータも協力してくれ難民のIDカードを作ってくれた。」
その意味で緒方は、ジャパン・プラットフォームは時代の要請だと感じている。
「21世紀にはパブリック・セクターは規模においても影響力においても、その存在は徐々に小さくなっていく。政府に頼れない時には民間セクターとタイアップするしかない。プラットフォームのような試みを通してNGOの参加能力を高めてほしい。」と期待を寄せる。”
==============================
いま広島県では、広島版プラットフォームづくりへの動きが始まっている。
平和貢献への意識が高く、かつ、ものづくりなどの経済活動も活発な広島県において、経済界、市民セクター、そして行政が共通認識を持ち、共通の土俵が出来上がれば、本家JPFに勝るとも劣らない活動を展開することができるのではないか。
NGOといえば、国際志向の人たちによる、特殊な集まりのような印象を受けがちだが、しかしよく考えてみれば、国内の災害に対応する能力がなければ、海外で緊急援助などできるはずがない。
逆に言えば、国内での災害時を想定した支援体制や、災害に強いまちづくり、人づくりに取り組むことは、海外に通用する活動の基盤になるはずである。
その意味で、国際貢献とは、地域貢献の延長線上にある。
広島に「時代の要請」であるプラットフォームが設立され、県内、国内、そして世界の平和と安定に貢献することを願っている。
PWJなどのNGOは、海外で紛争や大地震が起こるといち早く現地に駆けつけ、難民や被災者に医療や食料を提供する「国際緊急人道援助活動」を行っている。
つまり、わが国が苦手といわれる「顔の見える支援」を担っているのである。
政府にはないNGOの強みは、現地との「人間レベル」の協力関係である。
日経新聞編集委員の原田勝広さんが書かれた「『こころざし』は国境を越えて」によれば、PWJについて、次のような例を挙げている。
これこそが「顔の見える支援」の醍醐味であろう。
“ピースウィンズの特徴は、市民レベルで熱心な支持者に恵まれていることのほかに、スタッフのユニークさがある。とりわけ難民をそのままスタッフに取り込んでしまうしたたかさは他のNGOに例がないであろう。
こんなことがあった。
壊れた家に住む住民にUNHCR〔国連難民高等弁務官事務所〕が屋根や壁を覆うためのプラスチックシートを配るよう言ってきた。欧米の大手NGOはこれに従ったが、シムコ〔クルド人難民スタッフ〕は「こんなものでは厳しい冬は越せない」と強硬に主張して、破壊家屋の大がかりな修復に踏み切った。結果的には難民側にたった彼の判断が正しく、日本のNGOの評価を高めることになった。”
しかし従来、日本のNGOは、資金力が弱かったため、外国のNGOに比べ初動で出遅れたり、支援内容が不十分だったようである。
そこで、日本のNGOを支援するために、2000年8月に設立されたのが、ジャパン・プラットフォームである。
このプラットフォームは、NGO・外務省・経済界などのネットワークで、現地に出動するNGOに対して政府の拠出金や企業・市民からの寄付金が直接・迅速に提供されるので、各NGOの緊急援助活動が円滑に開始できるわけだ。
プラットフォームの設立のメリットとして、とりわけ大きいのが資金問題である。
“緊急援助というのは、要するに各NGOによる陣取り合戦である。早く到着できれば、UNHCRから自己資金の額を聞かれる。無名のNGOとなるとしかるべき額の自己資金がなければ相手にされない。”
国際緊急援助の現場とは、こういうものなのだ・・・。
良かれと思って現地に赴いても、「相手にされない」のではどうにもならない。
プラットフォームが機能することによって、こんな状況が解消され、緊急援助における日本の存在感が高まることが期待される。
一方、国内事情からすれば、プラットフォームは、団塊の世代の人材活用にも一役買っているようだ。
“例えば、国際社会貢献センター。商社OBを国の内外で社会貢献を行うために派遣する、いわば「有償ボランティア」組織だ。
ジャパン・プラットフォームに何とか人材を送り込みたいと思ってNGOにアプローチを繰り返しているうちに思わぬ獲物がかかった。
東ティモールのコーヒーを輸入する手伝いをしてほしいという話が持ち込まれたのだ。
コーヒーの専門家で、元三井物産の人物がすぐ見つかり、アドバイザー契約が成立した。”
ところで、難民問題の第一人者、緒方貞子・元国連難民高等弁務官は、プラットフォームについて、次のような認識を持っているという。
“21世紀に向けての課題は何か。緒方の頭にはふたつある。
一つはギャップの問題である。
「緊急人道援助から開発援助へのつなぎが非常に大事であるのに、現状はこの両者の間、つまり復興の段階でギャップが生じている」と緒方は表情を曇らせる。
例えば大量虐殺があったアフリカのルワンダ。
難民キャンプから難民を故郷に帰還させても家さえない。
政府がようやく動き出しているのに役人に支払うべき給料もない。
政府自体の復興手当てが必要なのだ。
帰還すれば難民ではないから本来はUNHCRの援助対象ではなくなるのだが、この時は結局、UNHCRが「建設業者」になって10万戸くらい住宅を建ててしまったが、これが開発援助の機関に任せるとこうはいかない。
まずコンサルタントを雇い、調査をして、といった具合で非常に時間がかかるのだ。
「緊急援助が成功しても復興でちゃんとつながないと意味がない。いまシエラレオネではギャップを埋めるためUNHCRが国連開発計画(UNDP)、世銀とパイロット・プロジェクトを実施している。お互いの機関のカルチャーが微妙に違う上、戦闘が始まって苦労している。この試みにNGOも加わってもらえるといいのだが。」
もうひとつは民間セクターの協力をどこまで得られるかである。
「企業は今後、われわれのような援助機関の重要なパートナーになる。コソボでは米マイクロソフトと新しいソフトを開発して難民の登録に取り組み、社員もボランティアで参加してくれた。米コンパック・コンピュータも協力してくれ難民のIDカードを作ってくれた。」
その意味で緒方は、ジャパン・プラットフォームは時代の要請だと感じている。
「21世紀にはパブリック・セクターは規模においても影響力においても、その存在は徐々に小さくなっていく。政府に頼れない時には民間セクターとタイアップするしかない。プラットフォームのような試みを通してNGOの参加能力を高めてほしい。」と期待を寄せる。”
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いま広島県では、広島版プラットフォームづくりへの動きが始まっている。
平和貢献への意識が高く、かつ、ものづくりなどの経済活動も活発な広島県において、経済界、市民セクター、そして行政が共通認識を持ち、共通の土俵が出来上がれば、本家JPFに勝るとも劣らない活動を展開することができるのではないか。
NGOといえば、国際志向の人たちによる、特殊な集まりのような印象を受けがちだが、しかしよく考えてみれば、国内の災害に対応する能力がなければ、海外で緊急援助などできるはずがない。
逆に言えば、国内での災害時を想定した支援体制や、災害に強いまちづくり、人づくりに取り組むことは、海外に通用する活動の基盤になるはずである。
その意味で、国際貢献とは、地域貢献の延長線上にある。
広島に「時代の要請」であるプラットフォームが設立され、県内、国内、そして世界の平和と安定に貢献することを願っている。