2006年08月

2006年08月16日

広島の夏

8月は、被爆地ヒロシマにとってやはり特別な意味を持つ月のようだ。

新聞でもテレビでも、わが国降伏のきっかけとなった61年前の原爆投下の様子、そして今も後遺症に苦しむ被爆者の実情をビジュアルに報道する。

いつものように自転車で街を走っていても、エノラゲイが投下目標としたというT字型の相生橋を通るときには、何となく胸騒ぎがするし、原爆ドームを眺めると、上空600mで炸裂した爆弾のことを想像してしまう。

暑いさなか、広島平和記念資料館を訪れ、悪魔の兵器を広島に投下した経緯をあらためて確認した。

,覆鵑箸い辰討癲国際政治力学が決定的理由であった。
1945年5月7日に降伏したドイツの戦後処理を巡り、ソ連と対立を深めていたアメリカは、ソ連が対日参戦により戦後の影響力を持つことを懸念し、早期降伏を目的に原爆の投下を決めたのである。

原爆を実用化することで、マンハッタン計画につぎ込んだ20億ドルもの研究費を正当化できる、という米国内の事情もあった。
一瞬で奪われた14万人の命がこんなことと天秤にかけられたと思うと、政治判断の恐ろしさを思い知る。

ではなぜ広島だったのか。
米軍は、広島のほか、直径3マイル以上の市街地を持つ都市を候補地として検討していた。実際に長崎、新潟、小倉などがリストアップされた。
広島が選ばれたのは、連合国軍の捕虜収容所がなかったことが理由だった。
原爆の破壊効果の正確な測定のため、わざわざ空爆を禁じたそうである。
直前まで何も知らずに生活していた無辜の広島市民のことを思うと、何とも言えない無力感と悲しみを禁じえない。

被爆自転車有名な被爆三輪車もあらためて見学した。

当時3歳だった子どもの父親は、子の遺体を焼く気になれず、自転車とともに庭に埋め、40年間自宅で弔ったそうだ。




続いて、「袋町小学校平和資料館」へ向かった。
袋町小学校資料館
被爆時は国民学校であり、救護所として使われた場所だ。
つい4年前まで学校校舎としてそのまま使われていたそうで、戦後に塗られた壁や黒板をはがすと、当時チョークで書かれた家族への伝言や、手当を受けていた患者の名前が残っていた。
離れ離れになった家族が生きていた証が、こんなところに残されていたのである。
館内で上映されたビデオでは、61年前に別れたままの母親の存在を知り、涙する姉妹の姿が映された。


広島での生活が1年半近くになったこの夏、これら2施設を訪問したことで、61年前の8月の暑い日々に、大した治療も受けられずに苦しみ続けた被爆者の人たちや、離散した家族の心情を、今まで以上に身近に実感する機会となった。

世界には、こんな苦しみを知らぬままに核開発を行い、外交カードとして保有し続ける国々が数多くある。
核の傘を前提とする現代国際政治のリアリズムについては、それはそれで理解するが、私たち一人一人は、この世に生を賜ったからには、人間が人間らしく生きる世界の姿、理想の姿を愚直に思い描く機会を失いたくないものである。
多くの人々が広島を訪れ、この街の持つ強烈なメッセージ性を感じとってもらいたい。

shigetoku2 at 23:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日本論・人生論