2006年09月

2006年09月30日

大人としての涙

最近、妙に涙もろくなったようである。
TVドラマやスポーツ番組が効く。

たとえば、今日2度泣いた。

まず朝の連ドラ「純情きらり」の最終回。
結核で亡くなった主人公・桜子(宮崎あおい)があの世から、遺された子に対して「生きていて一番素敵だったことは、お父さんと出会えたこと」と言うセリフが効いた。

もう一つは、大河ドラマ「功名が辻」。
山内一豊(上川隆也)が、家督争いの芽を摘むため、心を鬼にして、自分の子として育てた9歳の子(もともと捨て子)に出家せよと命じた際、その子が「父上の下命とあらば」と涙ながらに受け入れる場面。

人生の基礎である親子、夫婦、兄弟の信頼とか絆の強さゆえのセリフには、多かれ少なかれ誰もが心を動かされるものだと思うが、私の場合は、特に感情移入する傾向が強く、涙腺がゆるいようである。

「歳をとると涙もろくなる」といわれるような歳ではないが、それでも少しずつ人生経験が増すに連れ、心の琴線に触れる場面が多くなってきているような気もする。

自由奔放で、人生の可能性が360°無限だと(勝手に)思っていたころに比べて、最近は、少しは生きる意味について考え、人間という存在の有限性を理解し、社会や家族への責任を負うようになって、ようやく先人たちが経験してきた苦悩や喜びを共有できるようになり、その意味での感受性が強まってきたのかもしれない。

感受性の豊かさといえば子どもの専売特許の感もあるが、しかし実は、歳を重ねるほど敏感になる側面があるのではないか。
だとすれば、それは人生経験の豊かさに比例するものであり、人間として成長した証ではないか(我田引水的だが)。

これからも、どんどん泣こうと思う。

とはいえ、テレビの前で涙ぐむたびに、一緒に観ている妻・子どもにからかわれるのは、少し気恥ずかしいのだが。

shigetoku2 at 23:54|PermalinkComments(1)TrackBack(0) 日本論・人生論 

2006年09月18日

日本という国のとらえ方

テレ朝の「サンデープロジェクト」を見ていたら、大勲位・中曽根康弘元総理が、日本という国を「共同体」的存在ととらえるべきであるという趣旨の話をされていた。

これは、キャスターの宮田佳代子さんからの子育てや教育問題に関する質問への答えの中での発言だったのだが、にわかには分かりにくい言葉だったようである。

「共同体」と聞くと、一般には、地域コミュニティとか集落のイメージが出てしまうが、氏の言う「共同体」とは日本国の成り立ちにかかわるものと思われ、その意味するところはなかなか深い。

日本という国家の成り立ちについて、中曽根氏は、著書「政治と哲学」で次のように述べている。

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私は国家というものを、人口国家と自然国家という具合に分けて考えてみることがあります。
たとえばアメリカやソ連は人口国家です。
中国もそうです。
契約とかイデオロギーで成り立つのが人口国家であり、それらの国々は得てして非常に戦略的です。

それに比べると、日本のような場合、その長い歴史を概観すると、自然国家といわざるを得ない。
大和朝廷の発生には武力の行使や国家の構築作業があり、その後も隋唐の制度を入れて補修はしました。
しかし、その後の長い歴史を概観すると天皇の権力的要素は薄れて権威的要素が累積され、国内史の堆積の上に、自然の成長、形成の上に日本国家は存立してきました。
さきに述べましたが、天皇は、権力を超越してその上に立つ神主の統領みたいな存在だと思う。
実権は聖徳太子や藤原氏や将軍家が握り、天皇は、北極星のようなものとして存在してきた。
万葉の時代から、国民の間に天皇がそういうものとして確信されていったのだと思います。
地上的な権力者であったら、こうも長く天皇制は続かなかったはずです。

そんな天皇家を中心に、日本は国家としてのまとまりを維持してきたわけです。自然国家といってもいいように私は思います。

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中曽根氏の言うように、日本という国は、万世一系の天皇家が有史以来続き、独自の伝統と価値観を脈々と受け継いできた、きわめてオリジナリティの高い国家である、ということについて、私たちはもっと認識を強めるべきだと思う。

欧米や中国、ロシアは、幾度となく武力による王朝の転覆が行われ、新たな皇帝が次々と現れては消えていく繰り返しの歴史であって、現在も、明確なイデオロギーを背景として成立に至っている国家なのである。

こういう成り立ちの違いを踏まえると、日本は、これからも伝統ある日本であり続けることこそ自然なのであって、現代的文脈においてどれほどよその国からの影響力が強い現実があるにしても、けっしてわが国の独自性を破棄するようなことがあってはならないのである。

日本の独自性を端的に物語るのは、国家の起源そのものであろう。

「日本書紀」によれば、いざなぎ・いざなみの尊が最初に生んだ淡路島に始まり8つの島が・・・・という話になるのであろうが。
しかし、一般の日本人が「日本っていつからあるの?」と問われれば、「何となく昔からあった国」ぐらいの感覚ではなかろうか。
そう。
わが国の成り立ちは、理屈や論理はさて置き、八百万(やおよろず)の自然神を崇め、天皇を世俗を超越した存在として敬ってきた歴史の積み重ねなのであろう。

理屈といえば、日本人は理屈でない部分で納得する国民だと思う。

「コーヒーでもいかがですか?」と聞かれ、「いえ、どうぞお構いなく」と答える場面がよくあるが、これは決して要らないと言っているわけじゃないし、かといって、コーヒーが出てこなくて文句を言う人もいないだろう。
本当は飲みたい人も、飲みたくない人も、同じセリフを述べるのである。
YesかNoかのアメリカ人には不可解な部分である。

野球中継でよく聞かれる「いやー、今のプレーで試合の流れが変わりそうですねー」なんていうのも、論理的根拠のある解説とは言いがたいが、日本人は納得して聞いている。
理論派にとってみれば、「流れ」って何だよ??と言いたくなる。
しかし、日本人には「流れ」というもので物事をとらえる習性があるように思う。
飲み会の後、2次会に行くのも3次会まで行くのも、「流れ」次第である。
日本という国自体が「流れ」の中に存在するのだから、これは国民性の奥深くに根ざしている感覚であるはずだ。

その意味では、若者が「何となくー」「別にー」「わたし的にはー」とかあいまいな話し方をするのも、今に始まった話ではなく、日本人特有の感性に宿る要素の一部が体現されたものに過ぎないのではないか。


・・・まあ、こんな具体例の妥当性云々はともかくとして。

中曽根氏は同書の中で、わが国の伝統や歴史の独自性を重視する立場から、憲法改正の必要性を訴えている。
そして、その中で、前述の「共同体」という概念に言及しているのである。

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私は、いずれの国にもその国なりの伝統あるいは建国のいわれがあると思っています。
それに基づく国柄があると思います。憲法とは、本来それらが成文化されたものであるべきだと思います。
その国の伝統なり文化なり習俗なりが文章になったものが憲法でなければいけないのです。
何も外国のものを、切り花的にもってくることはない。

現在の日本国憲法は、前文にしても全体の内容にしても、その考え方からすれば基本的に占領政策的要素がかなり強く入っています。
世界の中で責任のある自主的独立平和国家像が薄い。
だから、そういうところを改正する必要があるのではないかと考えるわけです。
何も極端なナショナリズムに走るべきだというのではありません。
中庸を逸したものは何事であれ駄目です。

私はよくいうのですが、大切なことはこういうことなのではないでしょうか。
どんな社会にも、どんな国にも、そこで生きて暮らしてきた人々の実績というものがあります。
人間が生きていく上で関わらなければいけないさまざまな場で、数知れない人々が生き抜いた実績がある。
そしてそこには、それが腐敗したときに、それを正そう、もとに戻そうという自浄作用もあります。
それらを全部ひっくるめて、一つの共同体、あるいは歴史の文化財として、そこに生きる人間はそれを守る義務があるのではないか
私はそのように考えるのです。

それを守って、子孫に伝え残すために、権利や利益を享受するだけでなく、いざというときには国家につくす覚悟をしていないといけないのではないか。
それがないと、国家は存続しないと思います。
歴史に流れる日本人の願望や体臭が全くない。

いまの憲法は、その辺のところが作為的に削除されています。

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日本という、独特の歴史と伝統を持つ国の国民として、憲法を自分たちで作ろうと発想することはきわめて自然な態度ではないか。
日本人が、謙虚でありながらも、自分たちの国に対して心から誇りを持つことができるようになること、これが私たちの「心の豊かさ」につながるのではないかと思うのである。

米国在住中に感じたのは、アメリカに住んでいる日本人が、日本を卑下する物の言い方をすることがとても多いことである。
どこに住んでいようと、日本人は日本人なのだから、外国で生活したり国際的な仕事に携わる人であればあるほど、日本人であることへの誇りを失ったら、外国人を前に、何も持たない人間になる。
これがナショナル・アイデンティティというものである。

国際化社会において、日本をどうとらえ、自分が日本人であることをどう考えるか。
国家的命題であり、個々人の意識の問題でもある、この課題は、21世紀のわが国最大のテーマの一つと言えよう。

shigetoku2 at 00:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日本論・人生論