2007年08月

2007年08月06日

平和という理念と行動

この8月6日は、広島に来てから3度目の原爆の日。

最近の日課は、朝少し(といっても5分ぐらい)早く家を出て、平和記念公園でお祈りを捧げることである。
小銭を投げ入れて、5秒ぐらい手を合わせるだけのことであるが。

平和公園には、朝っぱらから、外国人観光客がとても多いし、修学旅行生とみられる中学生ぐらいの団体旅行客もしょっちゅう訪れている。

しかし、観光客であれば、初めて見る原爆資料館でショックを覚え、「ああ、ヒロシマよ・・・」と感じ入るであろうが、広島に住み、毎日平和公園を通るわたしのような者は、世界平和について何を学べるのだろうか?
原爆慰霊碑の前で手を合わせる行動、これが何につながるのだろうか?

そんな思いを持っていたところ、先日、中国新聞に広島大平和科学研究センター准教授の篠田英朗さんが寄稿されていた。

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仕事柄、出張の多い生活を送っている。
行き先は、霞ヶ関からニューヨーク、あるいはアフガニスタンの首都であったり、アフリカの小国の田舎町であったりもする。

そうした生活をしていると、時々ふと奇妙な錯覚にとらわれることがある。
飛行機を乗り継いで何時間もかけてきた場所であるのに、自分がいるのが実はほんの近所の隣町であるのではないかという気がしてくるのである。

だがもちろんそれは錯覚にすぎず、町並みは日本のそれとは全く異なり、行きかう人々の中にも日本人は見つからない。
だがそれでも距離感を失うことがあるのは、実際に入り込んでしまえば、人間の生活に、本質的な部分では違いはないと感じているからだろう。

紛争後の平和構築を研究する者として、戦争の傷跡がまだ残る場所に調査に行くこともある。
しかし考えてみれば、広島をはじめとして日本の町々もまた、いずれも戦後復興を成し遂げている。
直接的に戦争の残滓が見られないからといって、戦争の歴史が消滅しているわけではない。
事情は欧米諸国に言っても同じであり、戦後復興を何も経験していない町など、ほとんど存在しない。

世界中に戦後復興都市があるとするならば、広島に絶対的に特権的な地位があるわけではないことになる。

前防衛相が問題発言で辞任した。
彼が根本的に理解していなかったのは、広島・長崎が示すのは、「恨み」を「しょうがない」という「諦め」によって克服した町の歴史ではない、ということだ。
広島・長崎は、「平和都市」という未来志向の戦後復興の中で、悲惨な境遇を乗り越えようとした。

広島・長崎に対して世界の人々が関心を持つのは、比類なき戦争の惨禍を乗り越えて生き続けた人々が達成した奇跡の復興である。
しかもその復興を、「平和都市」という理念の中に位置づけて、成し遂げたことである。

広島の復興は、建築家の図面通りに建設されたビルのようにつくられたものではない。
さまざまな苦悩と葛藤を抱え、多くの困難に直面して立ち止まりながら、なお前に歩み続けた無数の市民の努力の結晶として、広島の復興は生まれた。
実は世界の他の町であっても同様に、戦後の復興は、約束された設計図などない中で、必死に生き続ける一人一人の市民の人生の積み重ねとして、達成される。

だがそこで平和という理念は、決して設計図のようなものではないにせよ、人々が進むべき方向を示す灯火としての役割を果たしてくれる。
戦後復興は、平和をつくり出す作業でなければならない。
だからこそ、意識的に「平和都市」の建設を目指した広島の歴史に、より大きな象徴的意味が生まれるのである。

広島は、必ずしも肩ひじを張って、世界に誇る平和都市としての自らの立場を誇示する必要はない。
しかし世界の多くの人々が平和について考えるひとときを持ちたいと思ったときに、まず訪問したくなるような町であるべきだ。
平和について考えるために世界中の人々に開かれた場所。
それが今後の広島が目指していくべき道ではないかと思う。
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名文だったので、ほとんど全文引用になってしまった(中国新聞さんごめんなさい)。

篠田教授によれば、「平和という理念」は「設計図」ではなく「灯火」である。

私なりに敷衍してみれば、平和の構築のためには、あらかじめ計画されたかのように「平和のためには○○をしなきゃならない」とまで規定する必要はなく、「平和という理念」に沿った方向であれば、何となく、何気なくやっていることさえも否定されるべきではない。

つまり、大事なのは、平和に向けて何かをすることであって、それを何にどうつなげるのか?ということまであらかじめ規定する必要はないのである。

この考え方は、失敗の許されない行政の「計画」を軸にしたまちづくりから、何が生まれるか分からない、個々の市民が主体となった「創発的」なまちづくりへの展開を目指す「創発まちづくり〜動く・繋がる・生まれる」の基本的考え方に通じるものがある。

私のような一人の人間が毎日5秒間繰り返す行動さえも、何かの拍子に誰かの思いとつながり、そして何かを生み出すことができるかもしれないのだ。


・・・そんなわけで、かなり独りよがりだが、自分の行動の意義も掴めたことだし、これからもささやかなお祈りを続けようと思う。

それにしても、こんな小さなことすら、何らかの方法によって納得しないと落ち着いて行動することができないのも、人間(というか私)という根拠の薄い存在の弱さによるものか・・・??


shigetoku2 at 23:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0) NPO