2008年04月

2008年04月23日

チベットって・・・

読売新聞の記事に、「中国とチベット/主権と仏教のはざま」(平野聡東京大学准教授)があった。

いま話題のチベット問題だが、チベットの歴史については全くといっていいほど知らなかった。
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チベット仏教は当初から、インド仏教の正統を継ぐという意識で、民族や文化の違いを超えたさらなる広がりを目指していた。
とくに14〜15世紀の僧・ツォンカパが創始したゲルク派(黄帽派)は、広くモンゴル人にも受け容れられた。

17世紀の北東アジアに興り、「中国」をも支配に組み込んだ満州人の帝国・清は、同盟者であるモンゴル人と自らがともに信仰するゲルク派の仏教を保護するため、1720年までにチベット高原全体を版図とした。

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さらに専門書を紐解いてみると、もともとチベット仏教は、元の時代、明の時代を通じて歴代皇帝の熱狂的信仰もあって、王朝から厚遇されたようである。
しかし、これによりチベット僧の横暴と堕落を招いたため、これを改革し厳格な戒律を実行したのがゲルク派であり、僧侶が着用する僧帽の色から、黄帽派とも呼ばれたそうである。(山川出版社『詳説世界史研究』より)

やはり中国の歴代王朝が、広大な国土を支配する上で、特定宗教を利用したのは必然性があったのだろう。
しかし、近代に入るまで、その支配は直接的ではなかったようである。
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もっとも、この時点のチベットは「中国」ではない。
清は「天下」支配を目指す世界帝国であり、その中に「中国」と、チベット・モンゴルなど独自の政治社会を持ちながら皇帝の強い保護の下にある「藩部」、そして朝貢国が含まれていた。

しかしその後、清が近代国際関係に組み込まれて朝貢国を失い、清の官僚や近代中国ナショナリストが「清=天下を統べる帝国」から「清の残された範囲=近代主権国家・中国」へと発想を変える中で、チベットの運命も激変した。

「チベットも中国の主権に従うべきだ」と考えた彼らは、チベット独自の政治と社会を否定して近代化を進め、漢字文化と「愛国主義」を共有する均質な「中国人」に改めようとした。

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帝国主義時代の植民地政策が台頭する中で、このように清国が転換した方向性は、当時としては先進諸国と類似したものだったと言えるのだろうが、こうした流れが現在まで続いているところに中国の問題があるようだ。

この記事は次のように結んでいる。
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ダライ・ラマの高度自治構想(香港と類似の一国二制度)を中国が拒否するのは、高度自治の範囲が現状を大きく変更する「大チベット」であることに加え、ダライ・ラマの影響力が高度自治を通じて強まり、中国の国家統合が風化することを恐れるためである。
しかし、それに応じない限り、チベット問題で改めて大きく損なわれた中国の国際的な名誉が回復される見込みは薄い。
これもまた中国が自ら招いた難題である。

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北京オリンピックを前に、世界中でこの問題をめぐる混乱が生じてきており、中国がいったいどのようにこの「難題」に取り組むのか分からないが、われわれ他国人の立場からは、まずその背景や歴史を少しでも正確に知ることから始めるべきかもしれない。

shigetoku2 at 00:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 国際問題 

2008年04月21日

霞ヶ関を語ること

“新しい霞ヶ関を創る若手の会”の手による『霞ヶ関構造改革・プロジェクトK』(東洋経済新報社)という本が、職場の本棚に入ってたので、読んでみた。

この会の構成員は、平成9年度に入省した省庁横断のメンバーが中心であり、数年前に出版した頃にはTVなどにもちょくちょく登場しているのを記憶している。
HPによれば、最近も活動を続けているようだ。

まず何よりも、平成9年度入省というところにポイントがあるようだ。
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我々平成9年度入省者は、入省当初、3ヶ月もの間寝食を共にする長期研修を受けた最初の世代であり、それまでの世代に比べても横のつながりが格段に強い。
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確かに、私の頃には3日間ぐらいだった泊り込みの研修の期間が延長された影響は、色々なところに出てくると思う。
私の周りにも、他省庁に対する敵愾心とも言える感情が、入省したての頃にはなかったのに、人によっては1年も立たないうちに「○○省の奴ら」呼ばわりになって現れてきたりしたものだ。
就職活動の結果如何によっては、自分がそっちの省庁に入ってたかもしれなかったのに、である。

次に、会の基本姿勢は、これだ。
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我々は霞ヶ関に残って良い仕事がしたいから単なる批判ではなく具体的な提言をもって改革をするということである。これまでも、「さらば霞ヶ関」的に職を辞して内情を白日の下にさらし、批判を行う個人も多々いたが、批判だけでは、霞ヶ関は何も変わらないように思われる。
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ここの部分は、もっとも重要な点である。
マスコミにおいても、「霞ヶ関を志望する学生が減ってる」とか「辞めていく若手官僚が増えてる」と報道する一方、「時代は官から政、官から民である」と報じ、霞ヶ関の官僚はあらゆる改革に消極的な“抵抗勢力”扱いである。
要は、霞ヶ関で働く者が士気を維持し続けるためには、相当な努力を要する状況になってきているのだ。


さて、斜め読みではあったが、いくつかなるほどという点があった。
とはいえこれは、霞ヶ関で何年も過ごしていれば、誰もが気づくはずの事柄であり、これを各職員が常に初心として忘れてはならないと思う。

霞ヶ関で働いている者は、この手の話に対しては“引き気味”または“冷ややか”に見ている人が多いと思うし、新しい試みに対して揚げ足を取ったりするのは簡単であるが、それじゃあいけない。
全部でなくとも賛同できる部分があるならば、それに対してしっかり目を向けるべきではないかと思う。

何年も前に出版されたと知っていた本を、たまたま近くに置いてあったので手に取ったに過ぎない私も大きなことは言えないが・・・。

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「○○省になんか危なっかしくて任せられるか」という意見にも一面の真理があることは確かであるが、各省各部局が同じような思いを持って牽制し合う結果、全体としては足を引っ張り合って何の方向性も示されずに国益を損ねるという「合成の誤謬」が生じているのである。
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まあ確かに個人的な友情関係でもなければ、実務上、他省庁に対する不信感が芽生えかねない場面は、現にしばしばある。
タテ割り組織で仕事をしている以上、やむを得ない面もあるが、しかしそれも程度もんである。

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しばしば「霞ヶ関の人材は個人として見れば優秀な人も数多いのに組織として見ればなぜあんなにパフォーマンスが悪いのか」とよく耳にする。具体的には、なぜ根強い省益意識からの呪縛を逃れられず、政策立案能力も低いのか。我々はその大きな一因は現行の人事制度に起因すると考える。
事務次官から係員まで実質的にすべての人事権が各省に分散し、システムとして省益を追及した者が評価を受ける仕組みになっている。このようなシステムの下では職員個人が内向き志向になることは極めて当然な帰結であると言える。

改革案を考えるにあたって特に皆で意識したことは、「変化を恐れない」ということである。現状が良くなければ、知恵を絞っていろいろな手段を検討し、試してみるということである。できない理屈ばかりを並べるのではなく、まずはやってみて、その上でうまくいかないところがあれば次々に改良していけば良い。

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言ってる内容自体は必ずしも斬新ではないかもしれないが、そんなことよりも、「まずやってみる」なんていう姿勢で仕事に取り組めている職員が霞ヶ関にどの程度いるかが問題である。

地方分権の議論だってそうだ。
広島県では、多くの権限を市町村に移譲しているが、なかには「本当にその仕事まで移譲しちゃって良いのか?」と議員さんから指摘を受けるようなものもある。
しかし、やはりまずはやってみることだと思う。
移譲する前に「こういう懸念がある」なんてことを先回りして考えてばっかりしたら、日本は前進しない。
国から地方への分権もどんどんやってみるべきだ。

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部分最適追求型、リスク回避型の業務実態は、霞ヶ関において一般的に見られる・・・。仮に彼らが「今、この公共事業に国民の税金を費やすことは、国民全体の利益という観点からは求められていない」と考えたとしても、そのような考えを反映した縮小型事業案を策定したところで利害関係者の了解は得られない。そのため、そうした考えは、霞ヶ関の内部的には「間抜け」な考えとされるのである。
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ここは、実際の勤務者でなければなかなか実感できない感覚かもしれない。
霞ヶ関で「間抜け」になることにいかに勇気がいるか。
例えば、自分の省が権限を失い、他省庁を“利する”ような「間抜け」な考えは、それが選択肢となること自体、ほとんど想定できないのが実情であろう。

さて、霞ヶ関の問題点については、総論として以下のように述べている。
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霞ヶ関の問題点
(1)「国民全体のため」という視点の欠如
所管業界とその応援団たる族議員のために政策を作っていることが少なくない。一部のためにはなっても全体のためにはならないということを分かっていて確信犯的にやるケース、そもそも自分の役所が所管する業界のために尽くすことが国全体のためであると信じ込んでいるケースなどいろいろあるが、不要であると思われる補助金一つ容易に廃止できない現在の状態は問題である。こうした現状では、公務員が天下り先の確保等のために業界を優遇するなど、自分たちの保身に汲々としているという国民の批判に明快に反論することもできない。
(2)「商品」たる政策の質の低さ
政策は・・・族議員等の「声の大きい人」の意見や所管業界の声などに代表される一部の国民の声と、財務省や総務省などいわゆる制度官庁(査定をする側の役所)への通りやすさを勘案して決まっている。
国益という観点から議論を闘わせて種々の案を比較検討するのではなく、各省や各局の「なわばり」を侵さないようにしつつ可能な限り自分の省や局や課の都合の良いように字句修正を図っているのが現実だ。

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まあ100%そのとおりとは言わないが、問題点を外部の方々に分かりやすく言えば、こういう感じだろう。

そして、提案しているのが次のような改革案である。(HPより引用)
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私たちが考える次世代の国家像
■官と民が協働する国家(協創国家)
■小さくかつリーダーシップのある国家(小強国家)
■生産者中心ではなく生活者中心の国家(真豊国家)

改革案骨子
〜躪臉鑪本部の設置
・官邸直結で、(1)戦略を策定し、(2)各省に実施させ、(3)各省間争いの裁定をする「総合戦略本部」を構築
⊃融制度の刷新
・各省幹部の人事権を実質的に内閣に一元化
・霞ヶ関内外から能力に応じて人材を登用
・省益を打破する人事評価指針の策定  等
F明化を通じた業務改革
・国民参加による必要業務の洗い出し
・査定や評価業務の統合・実質化
・情報の共有・発信による国民ニーズ把握の促進

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3つの「○○国家」というワーディングは、まったく聞いたことのない表現だが、本書を読めば大体のイメージはつかめる。

現在、国会で議論されている公務員制度改革における「内閣人事庁」の考え方などは、この改革案に通じるものがあるようだ。

ただ個人的には、3つの国家像を実現するため、「抜本的な地方分権」とか「道州制」という選択肢も有効な手段として挙げるべきだと思う。
そもそも霞ヶ関という、国民から最も遠い存在(自治体と比べ)が所管すべき政策分野を限定するという発想がなければ、現場性のない職場での不毛な議論がいつまでも続くであろう。
その点に関しては、本書には次の整理で終わっている感があり、今後改革案をブラッシュアップする一つのポイントとなるだろう。
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国の役割はもうなくなったので、あとは企業や各地方が主体となれば良いという考え方もあろうが、実際の国際社会はまだ国単位で互いにしのぎを削っているのが現状である。
米国も中国も自「国」の発展のために日々、戦略を練って実行に移そうとしているのは疑いのないところである。

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何にしても、今後の霞ヶ関のあり方については、職場でタブーなしに議論しない限り、若手を中心とした官僚の仕事に対する士気は高まることはない。

地方分権による、今後の中央政府のあり方、道州制のあり方についても、もっと前向きに語ろうではないか。
少なくとも、最近の地方分権改革推進委員会によるヒアリングで、「ゼロ回答」と言われる各省庁のスタンスを見るにつけ、各省庁の方々が若手も含め、地方の道路とか保育所とかに関する権限を国が握り続けることが日本国のためになると、本心で思っているのか、本当に疑問である。

「個人的には分権しても良いと思っていても、組織としては言えない」なんていうレベルのことであれば、戦争をやめられなかった60数年前の旧政府の体質と何が変わったのだろうかと思わざるを得ない。

shigetoku2 at 00:45|PermalinkComments(1)TrackBack(0) 行政・地方自治 

2008年04月14日

最近の小学校事情

長男が最寄りの区立小学校に通い始めた。

時代も違うので当たり前なのだろうけども、自分の愛知県の公立学校の記憶とずいぶん異なる様相である。

まず、1学年に2クラス、61人しかいない。
数的にはずいぶん寂しいが、先生の目が行き届くし、子ども同士もお互いよく知ることになるだろう。良い友達に多く恵まれることを期待するばかりである。

次に、入学式の記念撮影では、子どもだけでなく親も一緒にパチリ。
両親だけでなくおじいちゃん、おばあちゃんも来ている家族もあり、子どもの2〜3倍の数の大人が子どもたちを取り囲むすごい写真になった。

担任の先生は、ずいぶん父兄に気を遣っていた。
『ご両親のご期待に応えられるように頑張ります』なんて、昔の教師は言わなかっただろうに。威張ってたもんなー・・・。
世の中にモンスターペアレントなんて変な呼称の親がいたりして、先生が子どもたち以外の色んな方面に気配りをしている様子をみると、少し可哀想な気がしてくる。

一方で、親の側もPTA活動への参画意欲が高く、役員や責任者の人選もすんなり決まったようである。
もっともこれは、子どもが低学年のうちにやっておいた方がラクだから、という説もあるようだが。
この辺り、他の小学校の様子も知りたいところである。

これからも色々気がつくことがあると思うので、ウォッチしていきたい。

ところで私は“88会”という名の、おやじの会に参加することにした。
広島での吉島東とうさんの会の経験が生きてくるか??


shigetoku2 at 00:54|PermalinkComments(2)TrackBack(0) 家族と教育、子育て 

2008年04月13日

ICT導入でお寿司の消費拡大?

経済財政諮問会議で議論されている“成長力強化”の重要な要素の一つは、ICTの活用だ。
ICTとは、IT(情報技術)にCommunication(意思のやりとり)を加えた概念であり、私の解釈では、これは必ずしも特別に高度な技術を伴うものでなく、むしろごく普通に使われているIT技術をより様々な情報伝達の場で使っていく“工夫”を要するものだと思う。

ところで妻の実家(春日部市)の回転寿司に行った際、このICTの活用場面に遭遇した。

かっぱ寿司(1)お寿司の注文を各テーブルのタッチパネルでできるようになっているのだ。
これまでのように、わざわざ紙に書いたり、声を挙げて注文する必要がないためか、心理的負担が少なく、ついつい余計に頼んでしまう。
人を介さないと、良くも悪くも、個々人の欲求や思いを発露しやすくなる。

かっぱ寿司(2)お寿司だけでなく、サイドメニューのたこ焼きなんかもこのとおり。実にお手軽だ。

しかも、タッチパネルで注文したメニューは、通常の回転コンベアとは別に、新幹線をかたどったトレーが自動運転で運んでくるから、子どもたちの喜びは格別である。


こうしたICT活用は、経営側の効率化だけでなく、お寿司の消費拡大にも多少なりとも寄与しているのではなかろうか?


shigetoku2 at 01:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ちょっとした気づき