2008年06月

2008年06月14日

バードウォッチングの効用

家族でバードウォッチングに行った。

世田谷トラスト公社主催のイベントで、二子玉川の兵庫島付近を観察したのである。

鳥なんて普段からそこらを飛んでるしなー、でもちゃんと観たら面白いのかな、というぐらいの軽い気持ちで参加してみたのだが、予想以上に楽しかった。

ボランティアの方々のアドバイスをいただきながら、コゲラ、シジュウカラ、コアジサシ、コサギ、ササゴイ、ムクドリ、ハシブトカラス、カルガモなど、多摩川河畔の野生鳥類を観察することができた。

コアジサシ中でも良かったのが、コアジサシ。
水面上5〜6mぐらいで数秒間ホバーリングして獲物に狙いを定め、そこから急降下して水中の魚を獲るという繰り返しだ。
何度観ても面白いが、今日観察できた数回の捕り物劇は、いずれも取逃がしに終わり、お世辞にも効率の良い狩りとは言い難い。
絶滅が危惧されているという話だが、もしかしてこの非効率さがわざわいしているのかもしれない(??)。

コゲラもう1つはコゲラ。
これはキツツキの仲間とのこと。
キツツキの本物も見たことないのだが、ツバメやスズメなどと動きが異なって、何となく“キツツキっぽい”のである。




世田谷トラスト公社の方の話によれば、公社は区内に棲息する生き物の実態把握に取り組んでおり、その取り組みに住民参画を求めているとのこと。
行政施策への住民参加や、住民の主体性が、社会づくりにつながっていく1つの事例であり、こうした世の中の流れは不可逆だと思う。

それにしても、いつもパソコンに向かって仕事をしている身としては、久しぶりに少し遠くに目を凝らす機会となった。
最近、奥さんが眼科医であるM君から、老眼防止のためには普段から遠くを見て目の筋肉を使うことを勧められたばかりだ。
やはり休日は、ふだん使わない体の組織を活性化させて、心身とも健康な体を維持したいものである。

shigetoku2 at 21:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 地域活性化・地域の話題 

2008年06月04日

「人生の目的」

昨日のつづき。

「歎異抄」の親鸞の言葉に「業縁(ごうえん)」という表現がある。
五木氏はこれを「宿命と運命」の意味だと解説する。

そして、親鸞が弟子の唯円に説く場面を引用している。
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「人の心の善し悪しとは関係なく、人には<業縁>というものがあるのだ。
だから良い人、悪い人、などと人を区別して考えたりしてはいけない。
人は思いがけない善いこともする。
また、自分の意志に反して恐ろしいこともする。
いつもそのことを忘れてはならない。
自分に安心しきっていてはいけない。
いつ、何をしでかすかわからない危うく頼りない自分、そのことを常にしっかり心にとどめておくことが大事なのだよ。」

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大変共感する。

自分はそんなに完全無欠な、絶対安定な精神基盤を持つ人間ではない。
何かの拍子に、おかしなことをしでかす可能性だってあるように思う。
ただ、この世の中に適応し、平和に住み続けるために「頑張って」理性的に生きているのである。
でもいつか、糸がぷっつんと切れてしまうのではないかと心配になるぐらい、薄弱な存在のような気がしてならない。

ただ、そう考えることを良しとするのが五木氏の本意ではない。
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親鸞がここで唯円に言おうとしたのは、何もかもが<業縁>のせいで、自己の責任などこれっぽっちもない、人は勝手気ままに生きればよいのだ、などということでは決してなかった。
ここで重要なのは<業縁>の強調ではない。
犯罪者や悲惨な立場にある者たちを自分ら常人とは別な世界の住人としてつい見てしまう、私たち大多数の世間人の感覚、その思いあがった安易な自分へのよりかかりを、親鸞は徹底的に激しく批判しているのだと思う。

あれは業の深い極悪人、自分たちはそんな連中とはちがう、と、つい私たちは考えがちだ。
アウシュヴィッツの収容所で、何百万人のユダヤ人家族たちを日常の作業として殺戮し、処理していった人びとがいる。
私たちはそういった者たちをうとましく思い、戦争犯罪者として追及する映画に拍手することもある。
そのような人間、つまり極悪人たちと自分たち常人とのあいだに、はっきり一線を引き、区別して安心している者が世間では大部分をしめる。
殺人事件が増え、犯罪や自殺が激増しても、それは世間の一部の者であり、大部分の人間たちは岸のこちら側にいると思って私たちは安心している。
岸のむこう側にいるのは特殊な悪人たちなのだと。

この場面で、親鸞が辛辣な口調で徹底的に批判しているのは、そのような善人と悪人を対立させて区別する人間観なのだ。

人間というのは、本当は何をしでかすかわからないじつに不安定な存在なんだぞ、と彼は言っているのだ。
良い人、悪い人、などという区別は無意味なことだ。
どんな人間でも、いつ、なんどき恐ろしい極悪人になるかもしれない。
虫けら一匹さえ殺さずにきた者が、突然、殺人者に変わることだってあるのだ。
悪心を抱きながら、なぜか人を助けてばかりいて、世間からりっぱな人だと感心されたりもする。

人間は思うにまかせぬ不安定な存在なのだ。
良く生きようと切に願いつつも、犯罪者として刑務所の塀のなかで一生の大部分をすごすような人生もある。
そのやさしさのゆえに、他人から利用され、泣きながら暮らさなければならない人もいる。
どれほど愛しても、どれほど尽くしても、相手に心のとどかぬこともある。
親を殺し、子を殺し、みずからをも殺す者もいる。
そのような者たちを、他人ごとのように扱ってはいけない。
指さして嘲り、なんと業の深い連中だと目をそむけたりしてはいけない。
必ずしも努力しなかった者だけが世の中からはみだし、沈んでゆくのではない。
<運命>と<宿命>の交錯するなかで、人間は浮きつ沈みつ流れてゆくのだ。

自己を信じて努力する者が成功する、反対に努力しなかった者が失敗する、それは世間の考えかただ。
信仰というのはそうではない。
善をなさんとして悪をなし、悪をなさんとして善をなすことも、人間にはある。
私たちはすべてそのように、思うに任せぬ<業縁>とともに生きる。
それゆえにこそ、と親鸞は唯円の目を見つめて言うのだ。
「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」

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昨年、NHK広島『ちゅうごく再生プロジェクト』という、日本人のモラル低下についての市民討論番組に出演した際に、同様のことを感じた記憶がある。

番組では、給食代を払わない親や、不法投棄をする人たちの問題をみんなで考え、その対策を討論した。
だが、自分の胸に手を当てて考えてみれば、自分は人のことを言えるほど立派な人間ではない。
番組収録の場でも、害の少ない例(のつもり)として、「私だって駐輪禁止の場所に自転車を止めて撤去されたり、図書館への返却期限を守らなかったりすることがある」と述べたりもした(カットされオンエアされなかったが。)

自分はそんなにエライのか?恥ずべき点もあるはずだ、という自問自答が必要だ。

国の役所で仕事をしていてもそうだ。

省庁間で協議をする際などに、他省庁の人たちを「○○省のやつら」なんて呼んで徹底的に非難することがあるが、自分の役所が100%正しくて、他省庁が100%間違っているなんてことは滅多にない。
省庁同士の健全な政策競争自体は世の為になることもあるので、全否定はしないが、しかしたまには「本当に自分の役所の主張は筋が通ってるんだろうか?」と、顧みることも必要だと思う。

似たような話として、先日読売新聞の「問い語り」欄にいわゆるモンスターペアレントとかクレーマーについて論じられていた。
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テストで採点ミスをした先生が親から電話で罵詈雑言を浴びせられた。
平謝りに謝ってから家庭訪問したところ、親は恐縮しきり。
最近子供が反抗的で、つい怒りをぶつけたのだという。
先生が「学校でも気を付けてお子さんに声をかけてみます」と約束すると大いに感謝されたそうだ。
これが初めから「モンスターの言うことだから」と相手にしていなかったら・・・。
モンスターペアレントという言葉が広まるにつれ、実際に苦情や要望の安易な切捨てが目立ってきたという。

企業の危機管理に詳しい弁護士から先日、クレーマーという言葉がはやったせいで、消費者の正当な要求がクレーマー案件として処理されるケースが出てきた、との話を聞いた。

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他人をモンスター呼ばわりする前に、少し立ち止まって考えてみよう。

人の価値観はそれぞれなので、他人に注文を付けたくなることもあるだろう。
学校の先生に一言いいたくなることだってある。
そんなとき、仮に自分が学校にちょっと苦情を言えばモンスター呼ばわりされると思うと、言いたいことも言えなくなってしまう。

世の中は多様な考えの人間から成り立っているからこそ、発展していくのである。
そういう社会の健全性を大事にするためにも、安易に人にレッテルを貼ることなく、むしろ自分自身の立ち位置を変えてみて、複眼的に物を見てみる必要があるのである。

shigetoku2 at 22:32|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日本論・人生論 

2008年06月03日

「人生の目的」

五木寛之著「人生の目的」を読んだ。

いわく「人間とは不自由な存在である。」
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私たちはオギャアと生まれる瞬間から、いや、その前の受胎の段階から百人百様の異なった条件をあたえられてスタートするのだ。
努力や誠意でそれを変えることはできない。

ブッダが説いた四つの真理の第一は、「人生は苦である」という考えだった。私たちの存在を本質的に苦と見るのだ。

「人が生きるということは、思うにまかせぬこと」である、といってもらえばよくわかる。
人間というものは、自分の思うとおりにはならないものなのだ。
そう考えると、運命、という言葉や、宿命、という表現がふと頭にうかんでくる。
そもそも私たちはこの世に誕生する瞬間から、そういう不自由なものを背負って生まれてくるのではないか。

私たちは自分で、生まれてくる家を選ぶことができない。
親も、兄弟姉妹も、私自身が選んだものではない。
生まれる国も、民族もそうである。
大都会か、砂漠のまんなかか、それとも南海の孤島か。
肌の色や髪の色もそうだ。
黒の髪でなく金髪に生まれてきたかった若者もいるだろう。
男か、女か。
また生まれる時代にしても勝手に選ぶことはできない。
私は小学生のころ、講談本で伊賀や甲賀の忍術つかいの話を読み、自分が戦国時代に生まれてこなかったことを心の底から口惜しがったものだった。

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テレビで世界の国々に住む人々の様子を見るたびにそう思う。

ジャングルの奥地や水のない砂漠地帯、険しい高山に住む民族がいると、「なぜこんなところにわざわざ住むのだろうか。でも、生まれて以来こういう生活しか知らない人たちにとっては、住めば都なんだろうなー」と考えてしまう。
が、そういう人々が、大都市の狭くて日当りの悪いアパートに、近所に知り合いもいない環境の中で暮らしている日本人を見れば「なぜこんなところに」と逆に問うてくるに違いない。

私たちが「苦」と感じるか否かを問わず、私たちの持つ価値観や人生観は、生まれた瞬間からきわめて限定されているのだ。

この社会が住みやすいと思おうが、住みにくくて嫌だと思おうと、別の選択肢はほとんどないと言っても過言ではない。
たとえば自由の国アメリカに飛び出す人はいるが、日本人という看板を完全に外して外国に住むことができるわけではない。あくまで「アメリカに住む日本人」である。

また、私たちはたまたまこの時代に生まれ育ち、暮らし、死んでいく。そこに選択の余地はない。

だが一方でこう考えることもできる。

暮らしてみたいと思う場所や時代を自由に選べないということは、与えられた条件の中で精一杯やれば、それで十分ということだ。
もし、時空を超えて、自分の限界まで生きるという選択肢があったら大変だ。
優秀な頭脳を持つ人は、日本人としてでなく、発展途上の小国の国民として国の発展に貢献すべきかもしれない。
強靭な肉体を持つ人は、オリンピックを目指すよりも、戦国武将として天下統一に力を貸すべきという価値判断が出てくる。

幸か不幸か、我々にはそこまでの選択肢は与えられていない。
国が、時代が違えば、もっと活躍できる人もいるかもしれないが、21世紀の大国日本で暮らすしかないのだ。

日本の一サラリーマンの働きぶりが外国で語られることもなければ、後世まで残ることもほとんどない。
100年前の東京のどこかに住んでた一住人がどう生きようと、今の私たちに伝わることはほとんどないのと同様に、今私たちがどんな人生を送ろうと、100年後の世の中には何の影響もない。
それでも、そのぐらいに限定された存在であるがゆえに、「小さな幸せ」に満足できる。

世界中の食材のうち日本で手に入るものは限られているからこそ、毎日の食卓で満たされる。
ひとたび就職すると、仕事に日々忙殺されるからこそ、他の仕事に目移りすることなく、自分の仕事に満足できる。
人生の中で出会える女性が限られるからこそ、妻に満足できる(なんちゃって)。

こう考えてみると、われわれは「不自由であるがゆえに自由」なのかもしれない。

毎日、世田谷と霞ヶ関の間をせかせかと日々往復する日本人がいたとして、それが一体誰の記憶に残るのか、何の記録に残るか?
どう生きようとも、大したことがないといえば、大したことがない。
しかしそう思えばこそ、すべてを許し、あまり瑣末なことにとらわれず、かえって何でも思い切ってやれるのではないかと思う。

shigetoku2 at 23:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日本論・人生論