2008年07月

2008年07月31日

極上の手紙

明日から8月。
多くの年輩の方々にとって、戦争の記憶が蘇る時期。

山手線内の広告に掲載された手紙に釘付けになった。

ある冠婚葬祭企業の広告だ。
これはもう、読んでもらうしかない。
(画像をクリック)

20080731天国のあなたへ


shigetoku2 at 07:02|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ちょっとした気づき 

2008年07月24日

NPOとの協働の心得

公務員のためのNPO講座を受講した。

日本NPOセンター主催で、全国の自治体から市民協働の担当が80人ぐらい集まった。
私もNPO施策について、体系的に学んだことがなかったので良い機会となった。

特定非営利活動促進法、いわゆるNPO法は、98年3月に成立し、同年12月1日に施行されたというから、今年はちょうど10年目の年にあたる。

NPO法人の数も、私が青森の仲間と青森ITSクラブを立ち上げた2002年には全国で1万程度だったのが、広島の仲間とひろしま創発塾を立ち上げた今年4月現在では、34,000となっているようだから、すごい増えようだ。
だが一方で、税制優遇が受けられる認定NPO法人は、全国で89法人しかないそうで、まだまだNPOが社会から十分認知されているとはいえない。

センター常務理事で民間から宮城県環境生活部次長に登用された経験をお持ちの萩原なつ子さんから、「NPOと自治体の協働」について話があった。

まず、NPOと行政とは対等な関係であり、協働にあたっては共通の目標を明確にする必要があると指摘した上で、例として、宮城県では、毎年度の協働事業について、県とNPOとがお互いに活動の評価をする「NPO推進事業評価」を実施しHPで公開している事例を挙げられた。

全国各地で、行政がNPOとの協働を行うためのルールを定める動きが出てくるなど、自治体が地域の施策を展開するためにNPOは欠かせない存在になりつつあるようにも見えるが、地域によってはまだまだ相互の理解が十分でない。
なにより公務員個人々々がNPOを理解することが第一歩である。

萩原さんからは「NPOを理解するための3つの早道」が紹介された。
。裡丕呂硫餔になってみよう!
■裡丕呂粒萋阿忙臆辰靴討澆茲Α
F本NPOセンターのHPにアクセスしてみよう!

萩原さんのように、NPO人が途中で公務員に採用されることはめったにないし、まして独力でできることではないが、逆に公務員がNPO人として活動することには何の妨げもない。
住民と行政との間の相互理解のための有力な手段は、やはり「公務員参加型NPO」であろう。

公務員だって住民なのである。
国民の税金から給料をいただいているのだからまず仕事を全力でやるのは当然であるが、その上で、地域社会の質を高めるためのライフワークとしてNPOに参画し、NPO人として活動する公務員が、もっともっと増えてくることを念願している。

shigetoku2 at 23:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0) NPO 

2008年07月23日

信金さんの気概

都内某所の勉強会で聞いた西武信用金庫の方の話が印象に残った。

西武信金では、コミュニティビジネスなど地域活性化の活動をする団体を支援している。
コミュニティビジネスへの融資150件、うちNPO法人が99件。
NPOに対してこれほど融資している信金は他にないのではないか。

一般に、非営利組織が金融機関から融資を受けようとしても、融資実績がなかったり、十分な収益性のある事業計画を示せないケースが多く、相当ハードルが高いと言われている。
西武信金の場合、信金側から助言・指導をかなり積極的に行っているのではないかと思う。

また、ご紹介あったのが、「eco.定期預金」。
定期預金の利息の一部を環境NPO団体への助成に充てるというもので、信金の担当者が、預金してくれたお客さんのところへNPOの事業実績報告を持って個別に説明して回るというから、きめ細かいアフターケアだ。
預金者の満足度も高いであろう。

もともと信用金庫は、地域の相互扶助を目的とした協同組織であって、営業地域も限定されている点で、銀行とは異なるのだが、信金も近年の金融機関の競争的な環境の中で、経営基盤強化が強く求められ、一方でその数も半減しているという。

そんな中で一信金がNPOへの融資・支援の実績を挙げているのは、高い理念と強い意志あってこそだと思う。
話によれば、営利企業よりもNPOの方が焦げ付きが少ないとのことであるが、こうした事実も、貸し手側の姿勢が借り手との間で共感を得ているが故ではないか。

わが国が行政主導社会から市民社会へと脱皮していくためには、お金の流れを市民自身に引き寄せ、地域に資金が循環する社会にしていかなければならない。

そのためには、信金など地域密着型の金融機関が原点に立ち返り、地域視点の経営を展開していく必要があろう。

shigetoku2 at 23:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0) NPO 

2008年07月22日

テレワークの可能性

クールアースデーに関連した取り組みとして、総務省の推進施策の一つであるテレワークを、1日だけ自宅で試行する機会があった。

職場から貸与されるパソコンを自宅に設置し、メールなど職場と同一の設定にした上で、在宅勤務をしたのである。

クールアースの名のとおり、究極的には地球への環境負荷を低減することが目標といえようが、その他にもいろいろと感じたことがあったので、以下に整理してみた。

(1)組織や社会にとってのメリット
\こΠ譴箸盡世錣譴訶豕の通勤ラッシュからの解放は、多くの通勤者の心身上のコンディションを向上させ、より生産性の高い活動への従事時間の確保を可能とすることにつながる。痴漢行為も抑止できる。

→一部の路線で「女性専用車両」を導入せざるを得ない現状も嘆かわしいが、痴漢犯罪の撲滅のためには、やはり本質的には満員電車をなくすことだと思う。
▲瓠璽襪篥塞侫侫.ぅ襪離廛螢鵐肇▲Ε箸魘卜枠鬚韻襪茲Δ砲覆蝓∋罐灰好箸削減できる。
→職場の高性能プリンタを使っていると、何の抵抗もなく印刷してしまうが、自宅だと少し気になる。本来は職場からプリンタや用紙も割り当てられるべきかもしれないが、今回は試行ということもあって自前だったので、なおさらである。
新型インフルエンザ流行時のように、社会的に外出自粛が必要となる場面における業務継続対策として有効手段の1つとなる。
な親の日中を自宅で過ごすことは、地域の日常生活空間で何が起こっているかを肌で感じる機会となり、会社組織至上主義からの脱却、価値観の多元化に結びつけば、我が国の活力の起爆剤となる可能性を秘めているのではないか。



(2)職員の個人生活にとってのメリット
…牟个垢詆要がないため、人によっては1日当たり2〜3時間のゆとりができ、特に、子育てや介護を行う世帯にとっては相当大きな意義がある。
夫だけが働く世帯においても、子どもが小さいうちは、妻は家事・子育てにおわれ、買い物等も十分にできない日々を送っている状況にある。夫が日中に自宅にいて配達受け取りぐらいやれる状況になれば、少しは心置きなく外出できる時間も増すだろう。

→厳密に言えば、勤務時間中に「家事」に類することを行うことについては、職務専念義務との関係を検討すべきだが、まあ荷物の受け取りぐらいは在宅勤務に必然的に付随する事柄だろう。
6侈鎧間終了後、ただちに家族と食事ができたのは、大変新鮮であった。
→現状では、平日の夕食を幼少の子どもたちと一緒にとっている国家公務員はきわめて少ないと推測される。もともと定時(18:30)に退庁しても、通勤に要する時間によっては、すでに間に合わないのだから。

これら(1)(2)については、(社)日本テレワーク協会の主張する「テレワークの期待と効果」とも重なる部分がある。

(3)デメリット
‖臧屋主義の情報共有ができにくくなり、周囲の者が仕事をサポートしづらくなる。

→従来は特段必要のなかった、職場内での情報共有のための仕組みを考える必要があろう。外部からの問い合わせ内容や業務上の気づきを記録しておくなど。
個人の自宅において、執務部屋の状況(個室かどうか)、机の広さ、いすの形状が、職場と同等になっておらず、必ずしも長時間勤務に適した環境とはいえない。
2搬欧龍力を求める(TV、電話、訪問者の自粛など)のは、家族にとって負担となる場合がある。
げ搬欧外出している時間(=通常は家に誰もいない時間)に、自宅で電気やエアコンを稼働させるなど、かえって省エネに逆行する面もある。



(4)検討すべき課題
 閥侈鎧間”や“職務専念義務”といった勤務上のルールが、現行のままで良いのか、検討が必要である。たとえば、残業代を支給する前提として、時間外勤務の状況をどう把握するのか。また、在宅勤務において避けられない家事への従事をどこまで許容するのか。

→家にいると、どうしても宅急便が届いたり、仕事と関係ない訪問者や電話に対応せざるを得ないことがあり、職場での服務義務を厳格に適用するのは現実的でないこともあるだろう。
家で仕事している職員の勤務態度の管理や評価をどう行うのかという課題もある。
→従来、サラリーマンにとって仕事ぶりを誰からも監視されない状況はありえなかった。従来の勤務時間を中心とした業務管理よりも、上司から仕事内容と期限を明確に指示して、それに対する成果で評価するなど、テレワーク流に仕事のやり方を大幅に変更する必要があるのかもしれない。
職場の内線電話を使えるようにすべき。
→メールやインターネットについてはPCが貸与され、職場と同一の環境で仕事ができる。内線電話がないと、組織内なのにいちいち外線番号を使わなくてはならず、テレワークの場合の組織内コミュニケーションのハードルが高くなってしまう。
ただ、これもまた仕事のやり方の問題か。メールでのやりとりを基本とすれば良いのだから。


発想を転換して、たとえば、「毎週水曜日はテレワークの日」と定め、対人の打ち合わせは、それ以外の曜日にやるような仕事の組み立てができるようになれば、役所のような組織でも普及する可能性はあるだろう。
あるいは、定時後の仕事は職場でなく、自宅でテレワークとするのも一つの手である。(この場合も時間勤務手当の問題はあるが。)

・・・まあ、どこまで行ってもテレワークに馴染まない業務もあると思う。

しかし、この手の話はまず職員がみんな一度は経験して、テレワークとは何かを考える共通の土俵に乗るところから始まるのだと思う。
まさに「案ずるより産むが易し」「百聞は一見にしかず」という類の話であろう。

shigetoku2 at 23:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 行政・地方自治 

2008年07月21日

都会での暮らし

家(官舎)の中が暑いので、エアコンを入れる日が多いが、ベランダに出てみると外は意外と涼しいこともある。
しかし要は風通しが悪いということなのか、いくら窓を開けても、なかなか部屋の中の温度は下がらない。

そこで、窓や網戸を取り外し、部屋とベランダが続きになるような形にして、ビニールシートを敷いて夕食をしてみた。

狭いベランダだけではとても家族全員で食事などできないが、半分部屋に上がり込む形でスペースを確保し、キャンプ用のランタンを物干しに引っ掛ければ、ちょっとした屋外パーティーだ。
ランタンの明かりのもと、いつものおかずや発泡酒が、スペシャルディナーになる。
ちょっとした工夫で、古びた官舎でも楽しめる余地があるんだなーと感じた。

せっかく3連休なのだから、遠出してキャンプでもやればいいじゃないか、という気もするが・・・。


そうそう、先般からの“にわかバードウォッチャー”として、家の近所でも鳥を少し気をつけて観察するようになった。
今日は電線に止まっているオナガを発見したぞ。「世田谷の鳥」だ。
ギュー、って鳴いてた。

東京は都会で自然がない、田舎は自然が豊かだが仕事がない、などと言われ、それはそれで間違ってはいないと思うが、物事は常に多面的であることを忘れてはならない。
都会でこそ大事にされている自然もある。世田谷のトラスト活動はその典型だ。

単純な二元論的な見方を少し離れ、都会は都会なりに自然とのふれあいを大事にしている人がいること、地方の豊かな自然にはもっと人が入ってその美しさに磨きをかける必要があることを理解した方が良いと思う。
日本中のどの地域に住んでいる人でも、自然との共生や調和によって、人間生活はいくらでも豊かになることを実感できる、そんな社会づくりをしていきたいものである。

shigetoku2 at 22:38|PermalinkComments(1)TrackBack(0) ちょっとした気づき 

2008年07月20日

ツバメと人間の共生

夕方の多摩川の土手で、“ツバメのねぐら入り”を観察した。
(財)世田谷トラストまちづくり主催のバードウォッチングの続編である。

集合場所に到着したら、対岸に望遠鏡が向けられていたので、覗いてみると、それは世にも美しいカワセミだった。

カワセミ
数十メートル先の岸辺にじっと佇む小さなカワセミ。

肉眼では点にも見えないを小さなカワセミを見つけてくれる、ボランティアのおじさん、おばさんたちの能力・経験は測り知れない。
(実際、望遠鏡と肉眼で、見比べるようにして探してみたが、何度見ても、肉眼では最後までどこにいるのか分からなかった。ほんと、どうやって見つけたのだろう?)


さて、よく家の軒などで見かけるツバメの巣は、あくまで卵やヒナを産み育てる場所であって、ひとたび巣立ったツバメは、巣には戻らず、たくさんの仲間と水辺のヨシ(葦)原などで眠るそうだ。
今回は、ねぐら入りするツバメたちの集団を観察しに出かけたのであった。
ヨシ原

日の入り時刻は午後6時55分。
川辺のヨシ原にはパラパラと数羽のツバメが飛び回っていた。

ボランティアの専門家の方は「1500羽が一斉に舞い降りる」なんて言ってたが、本当だろうか・・・?
企画だおれってこともあるのかも??
・・・なんて思っていた。

しかし7時過ぎ。
徐々にツバメたちが集まり始めた。
最初は上空を舞っていたが、数分経つと、もう数えきれないほどのツバメたちが、空を埋め尽くした。(中には、コウモリくんもパタパタ飛んでいた。)

そして7時半、ヨシ原に一斉に着陸。
ボランティアのおじさんによれば、2000羽いたそうだ。(これぞバードウォッチングの極意!)

ライトで照らすと、猫のように目だけが光っている。
しかしこれも8時過ぎになると目を閉じるので、光らなくなるそうだ。

この一連の情景は、シロウトのカメラではとても捉えられない。
多摩川で専門的に観察しているらしき方のHPを発見した。(動画も入っていてなかなかいい。)


ところで、ツバメは、冬場は台湾やフィリピンに渡り、春になると、子どもを産み育てに日本に帰ってくる。
なんと時速200kmのスピードで飛ぶそうだ。

人間の近くにいると、カラスなどの外的から狙われにくく安全だということを知っているようで、私たちの生活の身近なところで巣を作る。
しかし、最近、街なかでは、巣づくりに適した泥を見つけるのが難しい上、建築材もすべすべした素材やタイル貼りのものが増えたため、ヒナの重みで巣が落下してしまうケースもあるそうだ。

ツバメにとっても、住みにくい世の中になってきた。

実は二子玉川駅の構内にツバメの巣が数ヶ所ある。
しかし駅員さんは、ツバメの巣を除去するのでなく、乗客がツバメの糞の被害に遭わないように、巣の下に受け皿を設置している。
こんな風に、野生動物を温かく見守って、自然と人間が共生できるゆとりを持ちたいものだ。
ツバメツバメツバメツバメ






今回観察したヨシ原は、近年、アレチウリという外来種の植物による被害を受け、放っておくとツバメのねぐらが減ってしまう危機にあるが、これに対してはボランティアの方々が、除去作業を続けられているそうだ。

相当な労力や時間のかかる作業だと拝察する。
こうした方々の思いと行動力に心から敬意を表したい。
そしてこのような、“想いと共感、そして行動力”に裏打ちされた住民の主体的な活動を支えている世田谷区行政にも敬意を表したい。

shigetoku2 at 20:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 地域活性化・地域の話題 

2008年07月18日

太宰の世界(2)

昨日の続き。

さて、主人公は、その後の人生で、銀座のカフェの女給と一緒に入水する事件を起こしたりしながら、酒と女におぼれていく。
連載漫画を描く仕事を得たが、生活態度はいっこうに変わらない。

あまりに自堕落な主人公の姿に、嫌悪感すら感じながら読み進めることとなる。
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無口で、笑わず、毎日毎日シゲ子のおもりをしながら、「キンタさんとオタさんの冒険」やら、またノンキなトウサンの歴然たる亜流の「ノンキ和尚」やら、また「セッカチピンチャン」という自分ながらわけのわからぬヤケクソの題の連載漫画やらを、各社の御注文に応じ、実に実に陰鬱な気持で、のろのろと、いまはただ、酒代がほしいばかりに画いて、そうして、シヅ子が社から帰るとそれと交代にぷいと外へ出て、高円寺の駅近くの屋台やスタンド・バアで安くて強い酒を飲み、少し陽気になってアパートへ帰り・・・
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だが一方で、幼少期からとらわれていた強迫観念から、ようやく解放されつつある様子も垣間見られる。
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世間。
どうやら自分にも、それがぼんやりわかりかけて来たような気がしていました。
個人と個人の争いで、しかも、その場の争いで、しかも、その場で勝てばいいのだ、人間は決して人間に服従しない、奴隷でさえ奴隷らしい不屈なシッペがえしをするものだ、だから、人間にはその場の一本勝負にたよる他、生き伸びる工夫がつかぬのだ、大義名分らしいものを称えていながら、努力の目標は必ず個人、個人を乗り越えてまた個人、世間の難解は、個人の難解、大洋は世間でなくて、個人なのだ、と世の中という大海の幻影におびえる事から、多少解放せられて、以前ほど、あれこれと際限の無い心遣いする事なく、謂わば差し当っての必要に応じて、いくぶんずうずうしく振舞う事を覚えて来たのです。

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長らく自分の中で制御できなかった、人間という幻影が薄まり、自分なりに世の中というものを理解するようになったのである。

自我というのだろうか、大人になり、社会と向き合うようになると、自分と世間との関係性を実体的に理解するようになる。
しかし、その理解の時期は、人によって異なるように思う。

高校時代、学生時代に、すでに世の中が分かったようなことを言う者もいた。
なんでこんなに悟っているのだろう?と、ある種の畏敬の念を感じたものだ。

私などは、むしろ主人公のいう“恐怖感”のようなものを学生時代、いや社会人になってからも、かなり引きずっていたように思う。
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つまり、これまでの自分の恐怖感は、春の風には百日咳の黴菌が何十万、銭湯には、目のつぶれる黴菌が何十万、床屋には禿頭病の黴菌が何十万、省線の吊革には疥癬の虫がうようよ、または、おさしみ、牛豚肉の生焼けには、さなだ虫の幼虫やら、ジストマやら、何やらの卵などが必ずひそんでいて、また、はだしで歩くと足の裏からガラスの小さい破片がはいって、その破片が体内を駆けめぐり眼玉を突いて失明させる事もあるとかいう謂わば「科学の迷信」におびやかされていたようなものなのでした。
それは、たしかに、何十万もの黴菌の浮び泳ぎうごめいているのは、「科学的」にも、正確な事でしょう。
と同時に、その存在を完全に黙殺さえすれば、それは自分とみじんのつながりも無くなってたちまち消え失せる「科学の幽霊」に過ぎないのだという事をも、自分は知るようになったのです。

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潔癖症とか神経質の類に見えるかもしれない。

が、次に吐露されるところを見ると、主人公は長らくの間、頭の中の純粋で精緻な世界と、世間一般で受け入れられている粗雑ともいえる常識や相場との間のギャップを、調整できずにいたようだ。(それにしても1文が長い、長い。これで1文だ。)
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お弁当箱に食べ残しのごはん三粒、千万人が一日に三粒ずつ食べ残しても既にそれは、米何俵をむだに捨てた事になる、とか、或いは、一日鼻紙一枚の節約を千万人が行うならば、どれだけのパルプが浮くか、などという「科学的統計」に、自分は、どれだけおびやかされ、ごはんを一粒でも食べ残す度毎に、また鼻をかむ度毎に、山ほどの米、山ほどのパルプを空費するような錯覚に悩み、自分がいま重大な罪を犯しているみたいな気持になったものですが、しかし、それこそ「科学の嘘」「統計の嘘」「数学の嘘」で、三粒のごはんは集められるものでなく、掛算割算の応用問題としても、まことに原始的で低能なテーマで、電気のついてない暗いお便所の、あの穴に人は何度にいちど片足を踏みはずして落下させるか、または、省線電車の出入口と、プラットフォームの縁とのあの隙間に、乗客の何人中の何人が足を落し込むか、そんなプロバビリティを計算するのと同じ程度にばからしく、それは如何にも有り得る事のようでもありながら、お便所の穴をまたぎそこねて怪我をしたという例は、少しも聞かないし、そんな仮説を「科学的事実」として教え込まれ、それを全く現実として受け取り、恐怖していた昨日までの自分をいとおしく思い、笑いたく思ったくらいに、自分は、世の中というものの実体を少しずつ知って来たというわけなのでした。
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このギャップを調整できずにいるうちに、主人公は酒、催眠剤、そしてモルヒネ中毒となり、ついに脳病院へ収容され、兄に引き取られる。

そして、有名な最後の部分にいたる。
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人間、失格。
もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。
・・・
いまは自分には、幸福も不幸もありません。
ただ、一さいは過ぎて行きます。
自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。
ただ、一さいは過ぎて行きます。
自分はことし、二十七になります。白髪がめっきりふえたので、たいていの人から、四十以上に見られます。

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なんとも不気味な後味を残して、この人物の物語は終わるのである。

shigetoku2 at 23:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日本論・人生論 

2008年07月17日

太宰の世界(1)

太宰治の「人間失格」を読んだ。

太宰の人間像については色々と言われるが、個人的には、青森県金木町(現五所川原市)の斜陽館を訪れたときが、もっとも身近に感じた瞬間だっただろうか。
金融業を営んでいた名家・津島家で、経済的には何不自由なく幼少期を過ごしたんだろう、しかしそれでも、どこか満たされない思いを抱いていたんだろう・・・などとごちゃごちゃ考えていた記憶がある。

「人間失格」は完全な私小説ではないかもしれないが、しかし、著者自身を重ね合わせている面は多分にあると言われている。

特に、自殺(未遂)と女というのは、太宰のイメージとして一般に定着している感があるし、この小説の後半は、主人公が女と酒そして薬物依存となり、破滅的な人生を送る描写があまりに強烈な印象を放っている。

しかし、私はまだ若年(のつもり)のせいか(といっても、まもなく太宰が人生を終える年齢に達するのだが)、晩年の状況よりも、むしろ主人公の幼少期の人格形成過程に興味を覚える。

経済的には不自由なく過ごしたはずの、主人公の幼少期は、次のように記されている。
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自分は、肉親たちに何か言われて、口応えした事はいちども有りませんでした。
そのわずかなおこごとは、自分には霹靂の如く強く感ぜられ、狂うみたいになり、口応えどころか、そのおこごとこそ、謂わば万世一系の人間の「真理」とかいうものに違いない、自分にはその真理を行う力が無いのだから、もはや人間と一緒に住めないのではないかしら、と思い込んでしまうのでした。
だから自分には、言い争いも自己弁解も出来ないのでした。
・・・
人間に対して、いつも恐怖に震えおののき、また、人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、そうして自分ひとりの懊悩は胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、次第に完成されて行きました。

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程度の差はあれ、子どもの頃に、自分の性格や行動の不器用さに苛まれた人はけっこう多いのではないかと思う。
子どもの頃からずっと「自分のこと大好き!」と思い続けてきた人は、一体どのぐらいいるものだろうか?そんな人、いるんだろうか?と思ってしまう。

私自身の小中学生の頃を思い起こすと、けっこうナイーヴで、運動オンチで、そんな自分が嫌で、クラスで目立っていたやんちゃな友達に憧れていたような気がする。
内省的に過ごす時間も多く、自分を変えたくて仕方がなかった頃がある。

でもそうした時期を経て、どこかの時点で、割り切りか、あきらめか、納得か分からないが、「自分は自分」ということに気がついたんだと思う。

しかし、たとえば私が憧憬のまなざしで見てきた、クラスの周囲を笑わせてくれる子が、この小説の主人公のような内面をバックにしながら、無理に明るく振舞っていたとしたら・・・?などと一人々々の顔を思い出しながら想像してみたりするのも面白い。


さて次に主人公は、故郷から離れた中学へ入学し、そこで、さらに道化を演じやすい環境に身を置くことになる。
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生れてはじめて、謂わば他郷へ出たわけなのですが、自分には、その他郷のほうが、自分の生れ故郷よりも、ずっと気楽な場所のように思われました。
・・・
俳優にとって、最も演じにくい場所は、故郷の劇場であって、しかも六親眷属全部そ
ろって坐っている一部屋の中に在っては、いかな名優も演技どころでは無くなるのではないでしょうか。
けれども自分は演じて来ました。
しかも、それが、かなりの成功を収めたのです。
それほどの曲者が、他郷に出て、万が一にも演じ損ねるなどという事は無いわけでした。

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人間は、大人になるまでの間に、何度か転機が訪れるものである。
その転機のたびに、新しく出会う人たちの前で自分をどう演じようか、これを機に新しい自分に脱皮しよう、などと考える機会となる。

私のような転勤族の場合、大人になってからも転機が数年おきに続いていて、確かに新しい職場や生活環境では、知らない人たちの人間関係の中で“道化”を演じやすくなるのは事実だ。
“道化”の技能をさらに発展させることもある。


ところが主人公の場合、ここでとんでもないハプニングが起こる。

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その日、体操の時間に、その生徒、その竹一は、れいに依って見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。
自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅跳びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。
すべて、計画的な失敗でした。
果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁きました。
「ワザ。ワザ。」
自分は震撼しました。
ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。
自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上がるのを眼前に見るような心地がして、わあっ!と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。
それからの日々の、自分の不安と恐怖。

==========================

新しい環境での“道化”を見破られるという、主人公にとっては人生最大級のハプニングが起こる。
これは痛恨である。

本当は内省的なタイプなのに、外にはそう見せまいとして“お道化”て見せる人間は、自分の内面を見られまいとするのだから、“道化”を見透かされるということは、自分の本性がばれるのと同義である。

ここで、自分の本性、自分の確固としたものを考え抜く動機が発生するのだと思う。

私も、米国留学させてもらっている間、日々の仕事に忙殺される状況から完全に解放されたことの反作用で、「自分はなぜ生きているのか、自分のアイデンティティは何か」ということにずいぶん悩まされたものだ。

こうした問いに対しては、今に至っても明確な答えはないのだが、人間の本質、人生の意義を見極めようと一生懸命考え、思い悩んだ経験は、何かしらの形で現在の自分の価値観や生き方に反映されているように思う。

shigetoku2 at 23:56|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日本論・人生論 

2008年07月10日

森と川と海、もろもろの効用

宮城県の気仙沼で牡蠣養殖を営む畠山重篤さんのお話を聴いた。
本当に、学ぶところの大きい講演だった。

20年前、仲間の漁師と一緒に気仙沼湾に注ぐ川の源流、室根山への植林活動を始め、これまで5万本の広葉樹を植えた。
いまは毎年1回行う植樹祭に1000人が参加するようになったという。

この活動が高じ、いまや京都大学で教鞭をとっているというから面白い。
独特の東北なまりのしゃべりで、聴く者を惹き付ける。

いわく、
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・ブナなどの広葉樹の葉が落ち、腐葉土となると、土中の鉄分が空気と触れないので酸化しないまま、川に流れ込む。
・この鉄は、酸化しない代わりに、腐葉土から発生する「フルボ酸」と総称される酸と結びついた状態(これを「キレート状」という)となっている。
・フルボ酸原子は、酸素原子より小さいことから、キレート状の鉄(フルボ酸鉄)は、酸化鉄に比べて分子が小さく、生物の体内に吸収されやすい。
・このキレート鉄が川から海に流れ込むと、植物プランクトンの栄養となり、日本近海は豊穣の海となる。
・また、植物プランクトンは光合成で二酸化炭素を吸収し、酸素を出すため、地球温暖化防止にも効果が絶大である。

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キレートといえば、最近、「キレートレモン」というドリンクが出ている。
ポッカのHPではこう解説されている。
“カルシウムはクエン酸と仲良し。レモンのクエン酸には、カルシウムを溶けやすい形にするチカラがあります。それを「キレート」作用といいます。”

やはり「キレート」化すると、体に吸収されやすいというわけだ。


キレートについては、畠山さんはこんな話も紹介してくれた。
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武蔵野の豊かな雑木林から流れ込む川があったので、東京湾では江戸前の極上の寿司ネタが獲れた。

一方、鹿児島湾は火山の爆発で誕生し、大きな川がないため、東京湾よりも漁業資源が乏しい。
養殖業は盛んだが、それにはエサ代がかかる。
(ちなみに牡蠣は植物プランクトンだけで育つから、エサ代はかからない。)

ところで、空前の焼酎ブームで鹿児島の焼酎業界は大繁盛だが、焼酎カスの処理に困っているという。
しかし「焼酎カスにはクエン酸が含まれている」と聞いた私は、「鉄を混ぜればキレート化して、海の肥やしになる」と提案している。

これがうまくいけば、鹿児島湾は東京湾よりも豊かになるかもしれない。
みんながおいしい魚をもっとたくさん食べるようになれば、焼酎ももっと売れるかもしれない(!)。

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川勝平太氏の「海洋連邦論」じゃないが、古来より文明は海を介して出会い、そこから世界の歴史はつくられた。海路こそが交通の基盤だったのである。

しかし、自動車交通や空路の発達によって、海に囲まれている日本人でさえ、日常的に海を意識することが少なくなった。
離島と行き来する用事でもない限り、多くの人は、船で出かけようなんて思わない。

畠山さんは、海と触れ合う機会の少ない子どもたちに、牡蠣やホタテの養殖現場や、森から海へと流れ込む川の流れを見せる中で、食物連鎖や環境の大切さを体験的に学ばせる教育活動も行っているそうだ。

継続的な植樹活動や教育活動は、成果となって現れている。

気仙沼には、数十年ぶりに天然のシラスウナギが戻ってきたそうだ。
流域の住民意識も変わってきたという。

日本に2万1千本あるというすべての河川の流域で、こうした森と海の関連性や環境保全に対する意識の高まりが広がれば、植物プランクトンが「海の森」を形成し、光合成を通じた地球温暖化防止の決定打になるはずだという。

また、畠山さんは、鉄の効用にもっと気づくべきだと力説されている。
鉄片を海中に置いておくだけで、鉄分が溶け出し、魚介や海藻が育つとのこと。

近年、海浜では「磯焼け」と呼ばれる、海藻が消滅する現象があるそうだ。
これに対し、新日鉄のような大企業が鉄鋼スラグを活用して、コンブの再生に乗り出す動きもあるという。

畠山さんのあふれるアイディアは尽きることがない。

安くて美味しい魚介類がたくさん手に入れば、食卓やすし屋で魚を食べる人も増える。
魚を食べれば、コメも食べる。
コメの消費が増え、日本の食糧自給率も上がる、というわけだ。

こうした現場からの知恵、活動を通じた知恵によって、地球環境問題や食料問題へのソリューションの1つとなる可能性があるのだ。


ところで、畠山さんに聞いたところ、森と海が県境をまたいでいたり、水産行政と林野行政が別の部門で所管されていることから、これまでなかなか行政とうまく連携できなかったそうだ。
こうした行政のタテ割り問題は、今に始まったことではないが、いまや行政のみで解決しようのない課題が増える中で、行政は、「民による公」とうまく連携し、民間の知恵と行動力を適度にバックアップするセンスが必要だと思う。
(この辺りが難しい。「過度にバックアップ」しようとすると、余計なお世話になったりする。)

そして、このセンスを磨くためには、まず公務員が一個人としてこうした公共的な住民活動にどんどん参加していくしか方法はないと思う。
畠山さんの植林活動には、公務員もけっこう参加しているというから、今後につながるよう期待したい。
もっとも、教育行政との連携は進みつつあるようで、行政との連携も部分的には行われていることを付言しておきたい。

国民一人々々が、日常生活や仕事を通じての「気づき」から「知恵と行動力」、そして「共感とつながり」へと広がっていくことで、行政が担えないことを実現する大きなパワーになる1つの好例だと思う。

shigetoku2 at 23:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 地域活性化・地域の話題 

2008年07月08日

大先輩の弁

長野県副知事をしている総務省の大先輩、板倉敏和さんから、官僚人生を振り返ってのお話を聞く機会があった。

残念ながら私は仕事で直接お世話になったことはないのだが、人事担当を歴任し、自治税務局長、消防庁長官までされた方である。

冒頭から、「昨今の官僚不信は、長年役人として仕事をしてきた先輩である私たちに責任があるのは間違いなく、反省しなければならない」など、きわめて率直な話から始まった。

以下、印象に残ったお話を紹介する。
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○全体の奉仕者
公務員は『全体の奉仕者』とされているが、我々は『全体』という言葉をどうとらえるべきか。
『全体』とは、国民一人々々のことであることを認識しなければならない。

○日露戦争と大東亜戦争
日露戦争で勝利を収めた日本が大東亜戦争で敗れていく歴史の背景には、教育の問題があったのではないか。
江戸時代の人たちは、四書五経などを通じて「人間はどう生きるべきか」を学んでいたが、明治以降の教育は、技術的な教育に偏っていった。
その結果、大局観を失った指導者層は、陸軍と海軍の確執を起こし、勝算があるとは誰も思っていなかった大東亜戦争への突入も避けられなかったのではないか。

○われわれの尊敬すべき人物
昭和20年の沖縄戦の直前、内務官僚の島田叡(あきら)氏は、沖縄県知事への赴任にあたり、「自分が死にたくないからといって、誰かに死ねとはいえない」と述べ、任地へ向かった。
自分がやらなければ誰がやる?

○官僚の信頼回復に必要なこと
・縄張り争いよりは、国民の利益にかなう政策提言を。
・誘惑に負けない潔癖な精神を。
・公務は国家国民のためであることの再確認。
・マスコミと世論を味方に。
・政と官の役割の明確化。

○官僚制度のアキレス腱となっていること
・処遇
・天下り問題
・順送り、年次優先人事、在任期間短期
・各省各部局の割拠性、縄張り争い
・純粋培養
・組織の力とその使い方
・変化への対応

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現在、私たち国家公務員の課長補佐クラスは、事務処理的な仕事に多大な時間を費やし、些事に振り回される感覚を味わっている一方で、大きな視点で物事をとらえ、それを職場で自由に議論するような時間をとっているかと言えば、それは、きわめて不十分のように思う。

これを「天下国家を語る余裕がないぐらい多忙な日々を送っている」と言えば少しはかっこがつくが、しかし、「忙しい」というのが言い訳になっていないか、自省する必要があると思う。

日本の行政を支える国家公務員が、人生の意義、日本人として生きる意味を原点から捉える努力を怠り、日々の仕事を切り盛りすることばかりに神経を使っていては、大東亜戦争じゃないが、国家の衰退は避けられないように思う。

板倉さんは、人事担当者としての経験から、公務員の心の病のこともずいぶん心配されていて、仕事で悩んだときの解消法として「星空を見上げ、宇宙から見た小さな地球の、その上に住む小さな自分たち人間であることを意識すること」、との紹介があった。

大きな宇宙から地球上の自分たちを眺めたとき、つまらぬことにこだわり、悩んだりするなんて、本当にちっぽけなこと。
日常の些事を乗り越え、国民を向いてダイナミックに仕事をしていかなければ、官僚の信頼回復もなかなか望めないのではないか、それまでの一日々々が国家的なロスにつながっているのではないか、と感じた。


ところで、今日の東京新聞でコロンビア大学のジェラルド・カーティス教授がこう述べている。
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要は政治家と官僚の関係はどの国でも政治関係なのである。
政治家は官僚を巨大な政治勢力とみて、官僚機構をどううまく利用し、どうコントロールするかを考えなければならない。
「官僚機構をつぶす」という政治家は多いが、官僚機構をつぶしたら、いったい誰が政策を作るのか。

官僚ではなく、政治家が政策を作るべきだという考えは根本的に間違っている。
官僚に政策を作らせ、総理大臣と与党の望む通りにしないなら厳しく罰するのが本当の政治主導である。
日本のマスコミはしばらく官僚バッシングをやめて、政治家を問うてみたらどうか。

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官僚がやたらと厚遇されるのはおかしいと思うが、逆に叩きすぎて官僚の士気が下がり、政策立案の意欲や能力まで下がってしまっては、国益を損ねてしまう。
その意味で、冒頭の板倉さんの率直な“反省の弁”については、我々も粋に感じたいし、また謙虚に受け止めるべきだと思うが、必要以上のバッシングは有害無益であることは言うまでもない。


ところで板倉さんは、蕎麦打ちで5段位を持っていて、HP「板倉庵」もある。
「そばの打ち方を徹底的に詳しく解説」するページなどを見るとほんとにすごい。

日常生活のどこかでこんな風に楽しめるゆとりも欲しいものである。

shigetoku2 at 00:06|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 行政・地方自治 | 日本論・人生論