2008年09月

2008年09月28日

大臣が残した言葉

安倍内閣の後半から総務大臣に就任した増田寛也大臣が、福田内閣総辞職に伴い、先日退任された。

総務省の講堂で行われた退任式で、増田大臣は挨拶の締めくくりに次のように述べられた。

======================
最後に皆さんに2つお願いがある。

1つは、とにかく地域を元気にしていただきたい。

もう1つは、若い職員が誇りを持って働ける職場にしてもらいたい。

======================

ぐっと来る言葉である。

いまの日本に何が足りないって、それはもう、地方の元気に尽きると言っても過言ではない。

この感覚は、ずっと東京に住んでいると、次第に分からなくなってくるものである。
半年前まで地方に勤務し、過疎地域の実情や自治体財政の厳しさを身にしみて感じていた私でさえ、東京で日々を送っているうちに、広島や青森での暮らしがどんどん過去のことになっていってしまう。
ずっと東京に住んでいる方々には“地方が疲弊している”、その意味もよく分からない人も多いに違いない。

幸い、総務省には、地方から色んな人たちが日々顔を出してくれる。
お話を一生懸命聞いて、地方の現場の感覚を忘れずにいたい。

そして、地方分権、道州制、行政とNPOとの協働、地域住民の自立、地域内の資金循環・・・。
こうした制度的・精神的土壌の強化に取り組み、“地方の元気”に貢献していきたい。


そしてもう一つ、誇りを持てる職場づくり。

近年の官僚バッシングは増すばかり。

思い返せば、私が役所に入った平成6年頃から、官官接待、カラ出張にはじまり、最近の収賄事件、社保庁問題まで、官僚スキャンダルの噴出が途切れることなく続いてきたような気がする。

初めの頃は、接待など縁遠いぺーぺーの私に「お前も接待受けとるんだろう、いいなあー」と軽いノリでツッコミを入れてくる友人もいたものだ。
が、最近では真剣に心配、または同情してくれる方が多いように思う。
「ほんとに大変ですねー」とか「政府の役人のやる気がなくなっちゃったら誰が日本を支えるんだ?」とか・・・。

実際に、こうした懸念は、無視し得ない形となって最近現れてきている。
まず、霞ヶ関の人たちと話していると、何をやっても叩かれっぱなしの現状に辟易とし、公務員として高い志を維持することが難しくなっていると感じることが多い。

また、数字にも表れているのが、公務員志望者の減少である。これは、法科大学院に行く学生が増えたことも大きな要因の一つではあるが、官庁イメージの低下が影響していることも間違いないだろう。

パブリックな問題の解決主体も多様化している中で、行政だけに人材を集める必要はないと思うが、必要以上に役人の士気を下げるような無用なバッシングの風潮は改めるべきである。
たとえば天下りなんて、20代、30代の若い職員には無縁の話であり、天下りなど廃止すれば良いではないかと思っている若手も多いはずである。

マスコミ受けするスキャンダラスな話題はともかくとして、本質的な問題はむしろ、規制改革や地方分権、公務員制度改革といった、霞ヶ関の権力関係の現状を変更しようとする改革に対する霞ヶ関のスタンスである。
こうした改革に対して、長期的、また国際的視点に立って、自己改革(自己否定と言っても良いかもしれない)ができるかどうか。
これができなければ、霞ヶ関は本当に魅力のない職場に陥ることだろう。

これから頑張っていこうとしている若い公務員が、行政の仕事に誇りや希望を持てるようにするためには、国民から支持される前向きでダイナミックな組織を作らなければならないのである。
幹部はもちろん、われわれ中堅職員もそういう道を切り開く責任がある。

大臣が残された言葉は、本当に重く感じた。

shigetoku2 at 22:21|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 行政・地方自治 

2008年09月24日

自然や街なかの教材

秋分の日は、夏至、冬至、春分と並んで、年に4回、地球と太陽の動きに思いを馳せる日だ。

海から昇る日の出を拝んでみようと、家族みんなで朝の暗い時間に起き、ぼんやり明るくなりゆく山手通りをクルマを走らせ、大井埠頭の城南島海浜公園に行ってみた。

日の出5時30分、朝日が海から昇り、水面に縦に長い赤い帯を照らし出した。
こんな風景は、久しぶりなのか初めてなのか分からないぐらい、最近記憶がない。

上空を見上げると、天頂に月があって、朝日に照らされて半月になっていたので、「いま出てる月が、なぜ半分だけ光ってるか分かる?」と子どもたちに問いかけたりしてみた。

考えてみると、自然には不思議がいっぱいで、子どもにとっては最高の教材である。

自然だけではない。
街なかを歩いても、教材だらけだと気づく。

毎朝、次男を幼稚園に連れて行く道のりも、そうした材料には事欠かない。
・クルマのメーカーや車種(世田谷の国道246号線はとにかく外車が多い!)
・お店の種類(牛丼屋、歯医者、居酒屋・・・。三軒茶屋にはツリボリまである)
・マンホール(下水道とかNTTとか。地下から聞こえる下水の流れる音とか)
・街角の収納箱に入ってる消火器、ビルの入り口に設置されている連結送水管(火災時の上層階のホースへの水の供給口)
・雨の日にバスに乗る際には、パスモの仕組み
・・・などなど、毎日、道中で色んな話題で盛り上がる。


全然レベルの違う話ではあるが、有名な杉並区立和田中学校の藤原和博校長が始めた「よのなか科」が、全国に広がりを見せている。
これは「学校で教えられる知識と実際の世の中との架け橋になる授業」で、地域の様々な人たちが、学校の授業と連携して、子どもたちに世の中の仕組みを学ぶ機会を与えているのである。

成長一辺倒、会社一辺倒でない新しい時代を生き、これから私たちの将来を任せることになる子どもたちに対して、必要な力(とは何なのかも良く考えないといけないが)を身につけてもらうため、従来に比べ、地域社会が教育に関わりを持つようになってきている。

自分の子どもの教育に一義的な責任を負う親としても、できることを色々と試してみたい。

shigetoku2 at 06:48|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 家族と教育、子育て 

2008年09月22日

若手市職員の声

ある市の若い職員たちと霞ヶ関の若手職員との面白い意見交換の場に同席させていただいた。

はじめのうちは市のメンバーからは、

・職場には受け身的な人が多く、新規事業を立案するような雰囲気がない。
・空気を読むのが上手な人ばかり偉くなるので、革新的な政策が生まれない。
・国は官僚のタテ割りが強く、総理のトップダウンが必要と言われているが、自治体首長のトップダウンも独断的で困ることが多い。
・市民のプレッシャーを直接受けながら仕事をしている自治体が自分でルールを作ろうとすると流されてしまう可能性がある。企画立案は住民から少し離れた国や県でやった方が良いのではないか。
・地方分権議論に対して、地方には任せられないと思う官僚の気持ちも理解できる。

なんていう弱気な意見もずいぶん出ていたが、霞ヶ関メンバーから

・地域振興に関係する仕事は、中身を自治体の創意工夫に委ねるモデル事業も多く、必ずしも国が企画立案しているわけではない。
・やる気や能力がなく、なんでこんな人がいるの?と言いたくなるような職員がいるのは、国だって同じ。

といった意見が出ると、市メンバーからも

・タテ割りの国家公務員に比べ、地方公務員の方が幅広い分野の仕事を経験することができるのだから、政策立案能力を身につける機会が多いはずではないか。
・現場も近く、たとえば町内会への補助金の統合など、地域の実情にあわせた新しい政策も動き始めている面もある。

といった前向きな声があがるようになった。

もともと市の職員が霞ヶ関の人間と接触する機会はとても少ない。
いつも国が決めた制度を運用し、不明な点は国や県に問い合わせている市で仕事をしている方々は、「自分たちに任せたら社会は良くなる」という確信を持つ人ばかりでもないだろう。

しかし、地方分権は不可逆の流れである。
自治体職員には、自信を持って大胆に仕事をしていってもらいたい。

shigetoku2 at 22:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 行政・地方自治 

2008年09月21日

D−misoプロジェクト

私の母校・岡崎高校には、『首都圏段戸会』という関東在住者の同窓会がある。

私が5年ぐらい前に世話人になった頃には私が最年少だったような気がするのだが、その後急成長し、今では学生を含む若手の世話人が増え、毎年秋の総会は200〜300人が集まる大イベントになっている。

ここまで発展してきた“異業種・異年代交流会”で、何か社会貢献的で、楽しめて、かつ、郷里・愛知県三河とも関係あるようなプロジェクトができないかと、先日若手メンバー数人で集まって知恵を絞った。

そこで生まれたのが「D−misoプロジェクト」。

やることは大したことないのだが、
,澆鵑覆それぞれの庭やベランダ、畑で大豆を育てる。
△修譴召譴収穫した大豆を集め、三河ゆかりの赤味噌をつくる。
2010年に愛知県で開催されるCOP10(生物多様性条約会議)にあわせて、国内外の方々にこの取り組みを紹介する。
ず遒辰燭味噌は、同窓会の先輩がやっているおでん屋さんなどで出してもらう。

ちょっとした農作業をして、みんなでつくった三河味噌を世界に向けて発信する!というわけだ。

ちなみに「D」は段戸会や大豆の頭文字であり、三河弁の“どえらい”(ものすごく)とか“だらー”(でしょう)とも引っ掛けている。
海外に発信するからmisoは横文字。

狭いベランダのプランターで育てる忙しい現役若手もいれば、定年退職して畑仕事をやる余裕のある方もいらっしゃるだろう。
大豆の種類や、うまく育てるコツなどについては、現在、同窓生の農業分野の専門家が調査中である。
こういうことができるのも、組織や年代を超えた人が集まる同窓会ならではだ。

来年春に種をまき、秋には収穫し、それから味噌づくりに入る。

都会への食料供給地である農村への理解を深める第一歩として、“食料生産の現場”を身近に引き寄せて、食と農について考える機会にもなるかもしれない。
子どもも一緒に育てれば、食育の一環だ。
ひいては退職後の就農のきっかけになったりして。

まだ具体的な活動が始まってもいない段階ではあるが、故郷への思いを馳せながら、一つの目標に向かってみんなの心がつながる、ちょっとわくわくするようなプロジェクトになるといいな、と思っている。

ついでに、NPO的な活動に取り組む、新たな同窓会の姿も模索してみたい。

shigetoku2 at 22:23|PermalinkComments(2)TrackBack(0) NPO 

2008年09月16日

米国のファンドレイジング

アメリカのNPOのファンドレイジング事情について、勉強する機会があった。

シーズ・市民活動を支える制度をつくる会東京アメリカンセンターとの共催で、マイクロソフト社のアジア地域担当コミュニティ・アフェアーズ・ディレクターであるローリー・フォアマンさんの話を聞いた。

会場は満席、ざっと150人はいただろうか。
周知期間は短かったようだが、この分野への人々の関心の高さを感じる。
日本は、確実に市民社会へ向かっており、その中心機能を担うNPOへの期待が高まっていることを物語る。


ところで、講師の略歴は次のとおり。
一見して分かるとおり、政府とNGOと企業とを渡り歩く人生だ。
========================
ハーバード大学行政政策修士号を取得後、ホワイトハウスの政治分析高官、米国国際開発庁 (USAID)の顧問担当官およびプログラムコーディネーター、世界最大の環境NGOであるザ・ネイチャー・コンサーバンシー日本プログラム部長を経て、再び USAIDにて特別補佐官を務める。
その後アジア開発銀行の理事を経て、2003年にマイクロソフト入社。日本、中国を含むアジア太平洋地域の社会貢献統括ディレクターに就任。
========================

米国ではこういうキャリアを歩むことは決して珍しくないはずである。

10年前、コロンビア大学に留学していた頃、公共政策を学ぶ米国人学生には「卒業後の就職はNPO」という人が多かった。
いや〜日本と違う。
当時「NPO」の意味もよく知らなかった私には、大変な驚きであった。

そして「なぜ政府に入らないのか?」と聞くと、「政府は権限も財政力もあるが、まずは小さな組織で自分の力を十分発揮して、専門分野を身につけた上で、その経験をひっさげて政府に入る」という。


さて、ローリーさんの話によると、資金を集めるNPO側にとって、何よりも大切なのが「ミッションステートメント」(組織の業務目的宣言)。
つまり、一体何のために、何をするNPOなのかを明らかにして、ドナーに対して「ここに寄付してみよう」というインスピレーションを与えることである。
そして、「他のNPOとは違う」という差別化を図ることである。

ただし、世の中は多様であり、インスピレーションの感じ方、企業や人の関心対象はそれぞれだ。みんながみんな、環境や福祉に興味があるわけじゃない。

ターゲットを絞って、決めた相手の心に響くミッションステートメントを作れるかどうかが、第一歩だという。


また、米国ではCSR(企業の社会的責任)としてNPOへの寄付が盛んだが、あくまで本業と関連した分野を支援する。
マイクロソフト社の場合、IT教育を行い、障害者の就業支援や途上国の貧困脱却を目指すNPO活動にお金を投じるという。

したがって、マイクロソフト社に対して「野生動物保護に寄付を」などと依頼するのは、ファンドレイジング戦略としては最悪だそうだ。
“ドナー企業のHPすら見てこない、勉強不足のNPO”のレッテルを貼られてしまう。


ところで、大企業や富裕層の多い日本は、他国と比べ、NPOのファンドレイジングにとって恵まれた環境にあるはずだが、なにしろNPO自体が、社会においてまだ新しい存在(今年でNPO法施行10年)であるため十分認知されておらず、寄付という行為自体がまだ定着していない。

また、ローリーさんいわく「日本では、公的事業はほとんど政府が行っており、そのための財源を企業も個人も税金として払っているので、さらにNPOに寄付するインセンティブがなかなか沸かない。何のために高い税金を払っているのか?ということになってしまう」。
なるほど、税金を払えばすべて終わりという感覚、日本に“寄付文化がない”理由を裏付けるコメントである。

しかし、これからは時代が変わる。
財政の厳しさ、社会の多様化により、行政がすべてではなくなってきた。
この点は、すでに行政関係者の間では共通認識となっている。

米国では、労働力の9%がNPOで働いているという。
日本のNPOも、これから成長していくのは間違いない。
いや、NPOが活躍できる社会をみんなでつくっていかねばならない、という方が正しいだろう。


ローリーさんの最後の言葉が印象的であった。

「NPOは、常にInnovative(革新的)である。なぜならそうでなければ存続し得ないから」。

この言葉に「行政と違って」という枕詞が付きかねない。
行政がNPOを見るとき、よく考えなければならないことだと思う。

shigetoku2 at 22:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0) NPO 

2008年09月15日

「生活」という教科

先日、小学校の保護者会に出席し、1年2組の担任の先生から、2学期の主な学習内容を聞く機会があった。
出席者は基本的にお母さん方で、クラスで父親は私1人だった。

まず気づいたのは、授業の中身以前に、わたしの子ども時代とは教科構成が異なっていることだ。

1・2年生は「理科」「社会」がなくなり、「生活」という教科になっている。
これは、学習指導要領改正により平成4年から始まったというから、今の20代前半以下の人たちが経験していることになる。

先生によると、今学期の「生活」では、家のお仕事を見つけて実行する『お手伝い大作戦』と、年末年始に向けて『お正月遊び』をするとのこと。

学習指導要領に照らしてみると、『お手伝い大作戦』は、
(2)家庭生活を支えている家族のことや自分でできることなどについて考え,自分の役割を積極的に果たすとともに,規則正しく健康に気を付けて生活することができるようにする。
に該当するのだろう。

また『お正月遊び』は、
(5)身近な自然を観察したり,季節や地域の行事にかかわる活動を行ったりして,四季の変化や季節によって生活の様子が変わることに気付き,自分たちの生活を工夫したり楽しくしたりできるようにする。
だろうか、あるいは、
(6)身の回りの自然を利用したり,身近にある物を使ったりなどして遊びを工夫し,みんなで遊びを楽しむことができるようにする。
かもしれない。


思いついたことだが、『お正月遊び』については、おやじの会が協力してすることができるかもしれない。
私が参加しているおやじの会(“88会”という名前の会)では、学校キャンプを企画し、隣接するものづくり学校を借りて肝試しをしたり、土日に校庭でペットボトルロケット飛ばしたり、色んなことを活発にやっている。(私自身はまだあまり貢献できていないが・・・。)
凧揚げ、はねつき、コマ回し、かるた・・・といったお正月遊びを子どもたちと一緒にやることもできるのではないかと思う。

そもそも「生活」という教科は、家庭や地域との関わりが想定されているようだ。

学習指導要領によると、「指導計画の作成に当たっての配慮事項」として、
地域の人々,社会及び自然を生かす」とか、
校外での活動を積極的に取り入れる」とか、
身近な幼児や高齢者,障害のある児童生徒など多様な人々と触れ合う
と書いてある。


もっとも「生活」でなくても、家庭が学校とタイアップしなければならないことは色々ある。

たとえば、今週から、教科書を毎日音読することが宿題となった。
家で子どもが読むのを聞くのは、親だ。

また、保護者会の場で、PTAの方が自転車の前のカゴに付ける防犯パトロールのプレートを配布してくださった。
これもまた、家庭と地域、そして学校生活とを結びつけるものだろう。


ところで「生活」が始まったのは、前述のとおり平成4年。
これは“ゆとり教育”の象徴として平成14年から始まった「総合学習の時間」よりも、ずっと前だ。

調べてみると、学校教育において“ゆとり”を求める動きは昭和50年代ぐらいからずっとあって、授業時間数も減り続けてきたようである。

これは、長期的・大局的に見れば、社会の成熟化に伴う変化なのではないかと思う。

つまり、大量生産体制を基礎とした高度経済成長を目指す発展途上国型国家に必要とされた教育と、グローバル経済で先進国として高付加価値を生み出し相対的な競争力を高めるために必要な教育の違いである。
簡単に言えば、均質な労働力から、多様な創造力への変化といえよう。


だが、最近の国における教育再生の議論を踏まえ、学習指導要領は今年3月に改正され、来年度から今度は、授業時間を増やす方向になるようだ。
ややこしいが、教育現場はこれに対応していくしかない。

ちなみに新しい学習指導要領の「生活」の目標として、新たに掲げられたのは、
自分のよさや可能性に気付き、意欲と自信をもって生活することができるようにする。

学校だけでなく、家族教育においても、とっても大切なテーマである。


国レベルで語られる教育論と、現場レベルの学校教育。
いずれのレベルにおいても、改善や工夫もあれば、試行錯誤もある。

今後も、教育には色んな形で関心を持ち続けようと思う。

shigetoku2 at 09:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 家族と教育、子育て 

2008年09月04日

今どきの授業風景

平日に休暇をとり、長男の小学校の授業を見に行った。

朝、学校に電話して「授業を見に行きたいのですが」と担任の先生に聞いてみたら、「ぜひ来てください」と快諾してくださった。

行くとちょうど2時間目の国語の授業が始まった。
大勢の父兄が来る授業参観日とは違い、わたし一人で教室の後ろで見物していた。

今日は教科書の『けんかした山』というお話だった。

まず読む前に、先生が「題名だけ聞いて、どういう話だと想像しますか?」と問いかけると、子どもたちから手が挙がり、

・2つの山の兄弟ゲンカ説
・ケンカして山のてっぺんがとれる説(「ありえねー」との声あり)
・山が怒って火山噴火する説

などなど色々な意見が出た。

次に、先生が教科書を朗読した。
==================
『けんかした山』

 たかい 山が、ならんで たって いました。
 いつも せいくらべを しては、けんかばかり して いました。
「けんかを やめろ。」 お日さまが いいました。
 お月さまも いいました。
「おやめなさい。そうで ないと、もりの どうぶつたちは、あんしんして ねて いられないから。」
 それでも、どちらの 山も いう ことを ききません。

 ある 日の ことでした。
 とうとう、りょうほうの 山が、まけずに どっと 火を ふきだしました。
 たくさんの みどりの 木が、あっと いう まに、火に つつまれました。
 ことりたちが、くちぐちに いいました。
「お日さま。はやく くもを よんで、あめを ふらせて ください。わたしたちも よびに いきますから。」

 お日さまは、くもを よびました。
 くろい くもが、わっさ わっさと あつまって、どんどん あめを ふらせました。
 火の きえた 山は、しょんぼりと かおを みあわせました。
 一ねん、二ねん、三ねん たちました。
 なんねんも なんねんも たちました。
 山は、すっかり みどりに つつまれました。

==================

読み終わると、先生が「何か分からない言葉などありましたか?」。

ここでもたくさん手が挙がる。

・「くちぐちに」って?
・「わっさ わっさ」って?
・「かおを みあわせました」って?
・「みどりに つつまれました」って?

その一つ一つについて先生は「分かる人?」。

また手が挙がり、次々と子どもたちは“答え”を競い合う。
先生は“答え”を聞くたびに「それはちょっと違うかな」「近いですねー」「ほかには?」などと投げ返す。

私の30年前の記憶では、そもそも「分からないことを手を挙げて言う」なんて考えられないことだったと思う。
覚えるべき言葉を先生が取り上げ、「○○の意味の分かる人?」なんて聞かれて、手を挙げて答えると、「正解」か「間違い」か判定される。
「間違い」と言われたくないから、自信のない子は手を挙げない。

・・・こういう受け身的かつ消極的な授業態度だったように思う。
要は、一方的で詰め込み型の教育だったわけだ。

ずいぶん変わったものだ。
授業の後、先生に尋ねてみたらやはり「詰め込みはやりませんねー」とのこと。

それにしても「わっさ わっさ」の意味なんて、聞かれても答える自信がないなー。
そもそも正解なんてないのかもしれない。


そして授業の最後に、「次回から漢字の勉強が始まります」とのアナウンスがあった。
そっか、ついにうちの子も漢字を書き始めるんだな、と知った。

子どもの勉強の進捗状況を垣間見るだけでも、学校への信頼感や安心感が生まれる。
また、30年前の自分の経験との違いも感じられ、この間の時代の流れもよく分かる。


だが、日々のニュースでは、教育に関する悪い話題がむちゃくちゃ多く、日本の公教育はもうダメなのではないかと、少なからぬ大人が思っているのではないかと思う。

“いじめ問題が深刻化”とか、
“ゆとり教育の弊害”(しかも“3.14を3としか教えないらしい!”とかいうセンセーショナルな一事をもって万事と考えがち)とか、
“教師のわいせつ行為や採用試験不正など教育界の不祥事続出”とか、
“モンスターペアレント対策が大変で教師の本業に支障が出てる”(これはむしろ親側の問題だが)とか
“PISA(OECDによる学習到達度調査)の結果によると日本の学力が低下している”(ちなみにトップはフィンランド)とか、

・・・枚挙に暇がない。

さらに、教員の指導力の低下、なんていう酷評もよく耳にする。
私が不勉強なのだろうが、教員の指導力って一体何なのか、どこまで求められるのか、よく分からない。
指導力が不十分な教員なら昔もいただろうが、最近はそういう人に対してはっきりと「指導力不足」の烙印を押して教員免許を剥奪すべき、という議論がクローズアップされているというだけのことなのか?
昔は体罰が可能だったから指導力を発揮できた、というようなことを言う人もいるが、殴る先生が評判の良い先生だったような気もしない。


一方、別の切り口からは、教育に対して家庭や地域の関わりが弱くなった、という議論も多い。
これに対して、親や地域はどう答えを出していくのか、こちらの問題も大きいのではないかと思う。


まあ、いずれにしても、報道などで聞く話だけを頼りに考えて、肝心の自分の子どもを預けている普段の教育現場(授業風景)を見たこともない、というのもナンセンスな気がして、ふと思い立って学校を訪問してみたわけである。

実際に先生と話をすると、すごく熱意や愛情を持って接してくれていることもよく分かった。


もう一つ分かったことは、クラスのお友達には、実に色んな子がいるということだ。

授業態度はもちろん(善し悪しも含め(苦笑))色々だし、授業の合間の20分休憩には、外に出て遊ぶ子、図書室で本を読む子、そして教室で絵を描く子もいる。

また、夏休みの自由研究の展示も、この夏の様々な経験をもとに、高速道路のサービスエリアの模型、塩の作り方、手話のやり方、北海道旅行記、詰め将棋の手の紹介など、実に多岐にわたっていた。(そして親御さんのご苦労も垣間見られた・・・(笑)。)

いろんな環境や経験をバックグラウンドとしたいろんな子がいて、そんな子たちと交わりながら、学校生活を送っているのだなと感じた。

この観点からは、過疎地域の児童数のきわめて少ない小規模学校のあり方にも思いを致さざるを得ない。


これからの日本を託すことになる子どもたちの教育のあり方に対しては、多くの大人が関心を高く持つべきだと思う。

その意味でも身近なところで、平日の仕事の合間を縫って、たまに自分の子の学校に行ってみるというのも、考えを深める第一歩になるのではないかと思った次第である。

shigetoku2 at 23:14|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 家族と教育、子育て