2009年06月

2009年06月29日

骨太にみる新たな公

今年も、今月23日に骨太方針(基本方針2009)が閣議決定された(pdf資料)。

TVや新聞では、もっぱら、来年度予算における社会保障費の削減をめぐり政府・与党の調整が難航したことに話題が集まったが、実はNPO界にとって重要な文言が入ったことはあまり知られていない。

【第1章3(本文p2)】
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企業・NPO・地域などの参加と役割・責任分担による新たな「公」の創造を国全体の課題として位置づけ直すことが必要である。
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ここで大事なのは、「参加」だけでなく、「役割・責任分担」という表現が入っていることだ。

公とは、もはや行政だけが担うものではないことは、何となくであれ理解している人たちも多い。

しかし、そこから先が問題だ。

私の感覚では、「参加」だけでは、行政主導の社会づくりの域を出ることができないように思う。

典型的なのが「住民参加型行政」。

国でも自治体でも、新たな施策を立案するときには、「有識者」「現場を知る関係者」の意見を聞く委員会が開催され、そこでつくられた報告書に基づいて仕事を進めることが多い。

が、その場合でも、事務局は行政であり、委員の提案を実現するかどうかは行政の考え次第である。
それどころか、委員に「委員会でこんなことしゃべってください」と、役所のスタンスを事前調整したりすることもある。

もっとも、委員側もみんながみんな「(行政の意に反して)自分の意見を飲ませたい!」という強い気持ちを持つ人ばかりではないから、委員会での発言を事務局側と調整するのは、“場違い”な発言をせずに済むため、ありがたがられることも多い。

いずれにしても、委員は施策の実施主体そのものではないので、委員会での発言に必ずしも責任を問われることはない。
(いや、むしろ、委員による幅広い議論の中から、事務局が施策に反映可能な部分を取捨選択するのが委員会の趣旨なのだから、委員には多少無責任でも、思い切った発言が求められるのかもしれない。)
そして、繰り返しになるが、こうした「参加」は、あくまでも行政の土俵上での議論なのである。


しかし「役割・責任分担」という話になると、少々意味合いが異なってくる。

そもそも行政とNPOとの役割の違いとは何なのだろうか?

たとえば、次のような例はどうだろう。

昔つくられた生活用水路が、都市化や工業化に伴い、汚染が進んでしまった。
そこで、地域住民の努力により、用水路を浄化し、さらに人々の憩いの場へと再生した。
行政もこうした取り組みの支援に乗り出し、まちを活性化させることに成功した。

この場合、汚染した用水路を浄化し、まちを活性化させる役割は、行政なのか、NPO(住民)なのか。

少なくとも、公衆衛生の観点からは、水路の浄化までは行政が担うべき役割のように思われる。
しかし、水路の中に、水車を設置するなど景観を向上させ、人々が水辺で過ごせるような空間をつくっていくのは、行政の最低限の役割を超えているのではないかとも思う。
(少なくとも、予算査定で財政当局は「そんなことまで行政の役割ではなく、予算をつけるわけにはいかない」という議論を吹っ掛けるであろう。)

そしてもっと重要なことは、NPOは、単なる行政の代替手段とか安上がりな手法ではないということだ。

行政が予算をつけ、業者がつくれば、あっという間にモノは出来上がるだろう。
しかし、住民にとっては“いつの間にか誰かがつくってくれた施設”に過ぎない。
そこには住民の想いや地域愛はなかなか生まれない。
その割に財政負担は大きい。

一方、NPOが中心となって水辺を楽しめるまちづくりに取り組めば、そのプロセスに多くのボランティアの方々がかかわり、住民や利用者の視点に立った多彩なアイディアが生まれ、施設が完成した後も、引き続き地域への想いを込めた運営が行われるようになるだろう。

広島県廿日市市の「野坂中学校区おやじの会」代表だった故・野村洋一さんが中心に進めてこられたスケボーパークは、私が知る中で最高レベルの住民主体の活動である。

このように、「役割・責任分担」論は、住民の主体性や創造性、地域愛といった要素がクローズアップされることにつながるのである。


しかし、こうしたまちづくりは、まだまだ全国津々浦々で進んでいるとは言い難い。

実は、今回の骨太方針づくりの前提となった「安心社会実現会議」における増田寛也委員(元総務大臣)の提出資料にも、次のようなくだりがある。

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NPOについては、人材育成、運営ノウハウ、財政基盤の面での課題も多く、制度面での一層の充実がぜひとも必要である。また、企業の社会的責任(CSR)の増進とともに、若者にとって、志と生活が両立する社会貢献型のベンチャー企業やコミュニティ・ビジネス、社会起業家の育成にも力を入れるべきである。
・・・
行政からの高い目線での住民「利用」や民間「委託」ではなく、対等な立場で「地域協働」に取り組んでいかなくてはならない。

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今後の地域活性化の主役となっていくNPOや社会起業家については、最近ずいぶんマスコミにも登場するようになったが、総選挙が間近になってきている時期でもあり、さらに国民的関心になることを望みたい。

shigetoku2 at 08:03|PermalinkComments(3)TrackBack(0) 行政・地方自治 

2009年06月25日

映画と人生、地域づくり

結婚記念日に休暇をとり、妻と(めちゃくちゃ久しぶりに)映画を観に行った。

最初は、TVで話題の“ルーキーズ”を観ようとしたのだが、上映時間が合わず、迷った挙句、結局マリオンで観たのは“60歳のラブレター”。

いままで広告で見たことなかったが、中村雅俊、原田美枝子、井上順、戸田恵子、イッセー尾形、綾戸智恵・・・とそうそうたるキャストだ。

定年退職したバリバリサラリーマンと専業主婦の夫婦、長年二人で魚屋を営み悪態をつき合いながら病気と闘う夫婦、妻と死別し売れっ子翻訳家女性と恋に落ちる医師という3組の熟年男女の心の動きを描く、笑いあり涙ありのストーリーだ。

HPにあるとおり、「豪華キャストが、個性的な3組の夫婦を熱演。歳を重ねてこそ感じる迷いや焦り、喜びや幸せ、そしてかけがえのない大切な人との絆を丹念に演じます。パートナーとどう人生を歩んでいくか、何より<わたし>はどう生きるのか。これからの人生をよりよく、美しく輝いて生きていこうとするすべての人たちに、勇気と希望を与えてくれる感動作です」。

例によって、私は涙をボロボロこぼしながら観ていたが、周りからも鼻をすする音が聞こえてきた。

平日ということもあってか、9割方は60歳前後と見える方々であった。
映画のタイトルが少々年齢を選ばせているような気がするが、30代や40代の方々にもお勧めの映画である。
残業も多く、仕事中心、組織にどっぷり浸かりがちな働き盛りのわれわれ世代にも、少し先を見据え、歳を重ねつつ幸せな人生を送るために何を大切にすべきなのか、時には考えるゆとりが必要ではないか。


さてその夜、近所の料理屋へ食事をしに行ったら、たまたま俳優・映画監督の竹中直人さんにお会いした。
竹中さんは最近、8/1封切りの「山形スクリーム」という映画をつくられたそうだ。

もともと以前から本気でバカバカしい映画を作りたいという思いはあったんですよ。そんな時にホラー映画を撮りませんかと・・・。それなら女子高生と落ち武者が戦うというのはどうだろう、場所は山奥にある小さい村で起きるのはどうだろう・・・そしてそんなイメージ通りの場所はどこだろうと探していたら、スタッフから山形がベストではないか・・・という意見が出たんです」。(HPの竹中監督インタビューより)

ロケ地は山形県の庄内地方だ。

この映画には、山形県鶴岡市に本拠を置く庄内映画村がかかわっているそうだ。
庄内映画村といえば、地元企業が共同で3年ほど前に設立された会社であり、今年3月総務省の第3回地域力創造に関する有識者会議に宇生雅明社長をお招きしたところだ。

まさに地域資源を最大限活用し、地域経済の活性化につなげることをミッションとしている地域づくり団体である。
今回の映画の制作では、芸能界を代表する映画監督と、地域おこしに燃える地元団体とのコラボが成立したわけだ。

山形県は、私の初任地であり、個人的にも想いの深い土地である。
このように話がつながってくると、本当にうれしい気持ちになる。


また、最近よく思うのだが、地域づくりは基本的に“楽しめる”要素がなければ、成り立たないし、続かない。
したがって、“バカバカし”かろうと何であろうと、とにかく多くの人たちが興味を持ち、ワクワク感を持って参加することは、一つの重要な要素なのである。

ただ、この辺り、実は行政がもっとも苦手とするところだ。
行政のプロは、慎重に慎重を重ね、言葉を選んで利害関係者の調整にあたることは大の得意である。
しかし、ともすると、正確を期するためか、人の感情に訴えるような言葉を使うのをためらい、表情もしかめっ面になってしまう。
まして、“バカバカしい”ことなど、あまり重要視しない傾向もある。

だがそれだけでは、地域は元気にならない。

日本の地域力をつくり出すため、何よりも、それにかかわる人たちの笑顔をつくり出すことが、地域活性化を目指す公務員の重要な能力の一つなのではないかと最近思うのである。(ほかにも公務員に求められる能力はたくさんありますけどね。)

shigetoku2 at 00:46|PermalinkComments(5)TrackBack(0) 地域活性化・地域の話題 | 家族と教育、子育て

2009年06月22日

おやじの会と学校のコラボ

池尻小学校で学校公開週間が始まり、土曜日に授業が行われた。

この日に向けて、池小88会(おやじの会)で企画してきたのが、「大豆を育てて食べよう」プロジェクトである。
きっかけは、昨年末に88会が主催した、地場の大根を使った「おやこ料理教室」。
今年はさらに、学校の畑で大豆を育て、収穫した大豆を使って、料理教室をやろうと。

今回のポイントは、何よりも、学校の先生方とのコラボである。

大豆を育てるには、子どもたちが当番で水やりなどをする必要があるため、校長先生・副校長先生、担任の先生方と相談した結果、2年生が担当することになった。
苗植えは授業の中で行うことになり、お父さんたちが集まりやすい学校公開の土曜日に「生活科」の授業を60分に延長して(通常は45分)あててくれることになった。
さらに、学校の畑も広く提供してくれることになった。

先生方の絶大なるご理解のおかげである。

また、もう一つのポイントは、地域の方々とのコラボだ。

授業には、農業指導をしてくださる元JAの住友米一さんと、昨年の料理教室でも協力してくださった東京栄養食糧専門学校の小林陽子先生が、“先生”として登場することになった。

当日の学校との役割分担は、次のとおり。

・88会のお父さんたちは、朝8時に集合し、住友さんの指導のもと、子どもたちのために畑を耕し、畝をつくっておく。
・授業では、教室で小林先生が「大豆からつくられる食品」の説明をする。
・また、住友さんが子どもたちに大豆の苗を観察させ、畑への苗の植え方を説明する。
・畑に出て、子どもたちが苗を植えた後、88会メンバーは、苗が倒れないように添え木をゆわえる。


“子どもたちのために畝をつくっておく”などと言っても、お父さんたちも(私を含め)ふだん畑を耕すことはないので、実はこの日は貴重な「お父さんの農業体験」をさせてもらうことになった。

また、授業での住友さんの説明によると、大豆の根には「根粒」という粒がたくさんでき、根粒が大豆から得た栄養を土に供給するので、大豆をつくった後の畑は農作物がよく育つのだそうだ。

・・・へ〜、知らなかった。


今後の88会の役割は、
・夏休み中の水やり(学期中は、子どもたちが行う)を分担する。
・豆ができてくると、カラスなどに狙われるので、防鳥対策を講じる。
といったことだ。

秋にたくさん大豆が収穫できるといいなー!

秋の料理教室は、全学年を対象とする予定だ。
子どもたちの反応を見る限り、豆腐や納豆をつくりたい、という希望が強そうだ。

先生と親、そして地域の方々が協力しあって、こうした新しい教育プログラムが生まれれば、きっと子どもたちの心身の成長に良い影響が出てくるはずだ。

子どもの教育は学校まかせ、塾まかせ、という風潮が強い中、子どもたちの将来に期待し責任を持つ親や地域が、みんなで温かく見守り育てる姿勢も忘れずにいたいものだ。

shigetoku2 at 07:49|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 家族と教育、子育て 

2009年06月15日

未来をつくる資本主義

ミュージックセキュリティーズ社の猪尾愛隆さんと意見交換した。

音楽CD制作のために1万円から始められる小口投資の仕組みを運営している会社である。
通常は、大手のレコード会社でなければ制作できないCDを、たくさんのファンが少しずつ出資することでこれを実現してしまおう、というものである。
HPの紹介によれば、“音楽ファンドは、大好きなアーティストへの想いや皆様の音楽センスを 「リスナー」という受身の立場ではなく、 アーティストの「パートナー」としてご活用頂き、 一緒にアーティストの成長を共有する楽しさをご提供いたします”とある。
小口の出資を通じて、好きな音楽やアーティストに対する、より積極的なコミットメントが実現するわけだ。

さて、この事業モデルを応用して、最近、同社では、コストのかかる純米酒づくりに取り組む酒蔵を応援したり、コメづくり、森づくり、国産ジーンズづくりなどの地場産業を応援する“セキュリテ”という仕組みを作っているそうだ。

酒蔵といえば、わが国の地域経済・文化のシンボルとも言うべき存在だが、その数は減少の一途である。
確かに、ジリ貧の地域経済の状況のもとでは、蔵を維持するのは大変なことであり、まして新規投資には、通常の金融機関は二の足を踏むことも多いだろう。
しかしこうした状況を案じ、酒蔵を活性化させて美味しい日本酒を楽しみ続けるためならおカネを出してもいいと考える地酒愛好家は、全国に大勢いるようである。
(私も、酒どころの東北や広島に住んだ経験が長いためか、ワインや焼酎よりも日本酒党である。)
たとえカネを注ぎ込んでつくった日本酒が期待したほど売れず、金銭的なリターンがなくったって、売れ残った日本酒が現物支給されたり、酒蔵見学ツアーに招待してもらったりするだけで、人の幸せ度は十分高い場合があるのである。

コメづくりへの投資にしても、森づくりへの投資にしても、人の幸せをカネだけで測ることなく、自然との共生による人類の本来の生き方への共感、充足感に対しておカネが投じられていると理解される。

こうした人の気持ちがおカネの流れを少しずつ変え、地域社会での「志金」(資金ならぬ)の循環につながれば、疲弊の一途をたどっている地域経済の再活性化につながっていくことだろう。

こう考えると、この仕掛けは、いわゆる市場原理主義に対するアンチテーゼである。
市場というのは、人間の創造物であり、人間のコントロール下に置くべきものであって、昨今のようにグローバル市場が人間の社会生活を大幅に狂わせるようなことが起こると、そのあり方に疑問を抱かざるを得ない。

“セキュリテ”には「人をつなぎ、未来をつくる、みんなの資本主義のプラットフォーム」というキャッチフレーズがついている。
人類社会を発展させる原動力となった資本主義のなれの果てが、単なるドライで投機的なおカネの流通のシステムというのでは、あまりに悲しいではないか。
ここらで資本主義のあるべき姿を問い直したいところである。

人は誰しも、何かしら好きな食べ物、好きな芸術文化を楽しんでこそ、人生を謳歌できるというものである。
金利を見て預金や投資をするだけでなく、そうした人生を楽しむためのおカネの回し方をもう少し普及させてみたいものだ。

また、地域活性化のためにも、中央に集めた税金を地方に再配分するモデルだけでなく、様々な民間企業の創意工夫により、新しい金融の仕組みなどをどんどん登場させていく必要があると思う。

若い役員の方々ばかりで運営されている同社には、ぜひ今後とも活躍してもらいたいな、と思った次第である。

shigetoku2 at 00:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 地域活性化・地域の話題 

2009年06月07日

消費者庁登場の意義

消費者庁設置関連法案が成立したのを受けて、自民党の消費者問題調査会で、消費者団体や関係省庁を集めた会議が開かれた。

秋の消費者庁スタートに向け、6月4日付で内閣府に「消費者庁・消費者委員会設立準備室」が設置され、新しい室長さん(局長級)が挨拶されていた。

議論では、与野党の修正協議の苦労話や、学校での消費者教育の必要性などあれこれと話題が登場した。

また、消費者団体にとっては、数十年にわたる悲願が、ついに消費者庁という形に結実した歴史的な瞬間と受け止められていた。
とりわけ一番印象に残ったのは、3年前にシンドラー社製のエレベーター事故で亡くなった少年の母親の言葉だった。

行政のための消費者庁でなく、消費者のための消費者庁であってほしい。

遺族の方が、業界や司法、行政との間でどれほど苦労されてきたか、私たちには残念ながら知るすべもない。
しかし、私たち行政官は、誰のために仕事をしているのか、国民のためのどういう仕事をすべきなのか、常に頭に置いて仕事をしなければならない。

消費者庁の設置は、各省庁の横断的な権限を集約し、タテ割りを廃した迅速・効果的な対応を可能とするのが趣旨の一つであったが、その検討過程で権限移管に難色を示す省庁の姿勢が報道されたり、論者によって様々な課題が指摘されている。
今後、各地域での消費者問題への対応体制など、色々と改善に向けた議論が続けられるだろうが、その都度、誰のための消費者庁か、という原点に立ち返る必要があると思う。


ところで、メディアでの取り上げられ方がやや少ないような気がするが、消費者庁はもともと福田康夫前総理の強い思いがあって検討が始まった経緯がある。
福田さんは、「これまで業界側・生産者側に立っていた霞が関に、消費者の立場、国民の立場の役所がついに登場する」旨強調し、「静かなる革命だ」と述べておられた。

国のトップが打ち出した“消費者”“国民”“生活者”という新しい立ち位置が霞が関に必要なのは間違いないと思う。

この意味で、消費者庁の登場は、成熟国家ニッポンが新しい局面に入った一つの象徴的な出来事と言えるのではないだろうか。

shigetoku2 at 23:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 行政・地方自治 

2009年06月01日

心の安寧

ある宗教家の話を聞いた。

「明治時代、高名な宗教家が布教活動を行った。目が見えない人、病気を持った人が信仰の話を聞いて、次々と良くなっていく。・・・」
といった話である。

西洋医学や科学に慣れ親しみ、世話になってきた私たちは「そんなこと起こるわけない。そんな非科学的なことで病気が治るなら世話ないわ」と考えがちだ。

しかし、である。

現代社会では、うつ病、自殺、DV(家庭内暴力)、児童虐待、いじめ、陰惨な無差別殺傷事件・・・心の持ち方を主因とした問題が、深刻さを増す一方である。

今の日本社会に巣食うこうした問題を、科学で解決できるとはどうも思えないのである。

人は何を拠りどころにして生きるのか、何のために生きるのか、どうすれば幸せに生きられるのか。
こうした問いに対し、科学的に明快な答えはない。

そして、精神と肉体は一体である。
精神が救われれば、健全な肉体を回復できる。
だから、宗教の話では、病気が治る話がよく登場するのだろう。


一方、宗教に対しては無理解、無関心な日本人が多い。
それどころか、宗教は何か怪しいもの、特別なものと思っている人もいる。

もちろん、特定の宗教に関わりを持たないことが問題なのではない。

しかし、どんなときにも心の安寧を保つための気構えは、ふだんから持つようにしておくべきである。

人生は何が起きるかわからない。
昨日まで当たり前にあった自分や身近な人の健康や財産、生命がいつ損なわれるかもわからない。
現に目の前で起こってしまった“不幸”をどう捉えればよいのか。
自分の不幸をひたすら嘆き悲しみ、心の整理ができず、心が折れてしまう人もいる。

どんなときも、心の安寧を保持できてこそ、人は生きられるのである。


最近、政治行政の重要課題が「安全」ではなく「安心・安全」と掲げられるのも、心の安寧を求める国民の声の反映であろう。

政教分離の原則があるため、行政の世界ではあまり語られることがないが、宗教には、この課題にこたえる大きな役割があるのではないかと思う。

いわゆる宗教でなくとも、日本人は全国津々浦々の自然物を八百万(やおよろず)の神として信仰してきたのである。

今後の日本人の心は、グローバルでドライな西洋流の価値観にのみ支配されることなく、こうした宗教心や、日本固有の伝統文化や社会風土に根ざした、心に浸み入る価値観を程よく織り交ぜる必要があろう。


ところで、一番身近な心の安寧の源は、やはり家族だと思うことがよくある。
妻と朝っぱらからけんかをして家を出た日は、一日中ブルーになる。頭痛がして元気もでない。

何だかんだ言う前に、まずは家族の無事と家族の心の安寧に努めることが第一歩のようだ。

shigetoku2 at 07:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日本論・人生論