2009年11月
2009年11月17日
事業仕分けの意義(のごく一部)
「事業仕分け」が連日のニュースで大きく報じられている。
行政刷新会議を代表する見解ではないが、現に準備から実施まで関わっている一担当者からみた現時点での感想を述べてみたい。
問題点や改善を要する点については、日々のメディアの論調などに委ねるとして、特に、査定当局や議会での議論との違いは何か、という視点で見ると、大まかに次の3点あるんじゃないかと思う。
(1)仕分け人の“当事者性”
仕分け人は、財政当局や議会と比べ、行財政論にはシロウトであるが、各分野における現場の利害当事者・実務者自身の立場からの意見がダイレクトに出る。
議員は多様な国民の声を代弁する立場だが、当事者本人とまでは言えない。(それが代議制の意味なのだろうけれども。)
いわんや財政当局は、まったく当事者ではない。
たとえば、ある施策について現場の実情を議論するとした場合、政治家や財政担当者自身が現場の実務に携わっているわけではない。
その点、日々現場で活動する自治体職員や中小企業者の仕分け人は、現場の状況を交えながら発言する迫力がある。
私自身が財政をやっていた頃、よく「査定する者が現場を知りすぎては査定できない」などと言われることがあったが、逆にそれが現場を知らない財政当局の弱みとなり、要求側から机上で論破されたり、訳も分からず手を握らざるを得ない事態も発生すると思われる。
たまには、要求側も査定側も、出るところへ出てみることも意味のあることではないか。査定側にとっても発見が多いと思う。
(2)誰でも自由に出入りできる場所+HP公開
このオープンさは財政当局の査定プロセスにはないことだ。
衆人環視ということは、利害当事者からのプレッシャーだけでなく、一般納税者からの視線にさらされることになる。
通常の予算編成過程においては、利害当事者側からのアプローチはあっても、一般納税者が「そんなの税金の無駄遣いだ」という声をさしはさむ機会はまずない。
それに対し、こうしたオープンな場では、「一部の関係者にとってのみオイシイ事業」、「やたらコストの高い事業」が目につくことになる。
典型的なのは、天下り法人へのコスト高な管理費・人件費の支出である。
また、本来、議会こそ公開の議論をする場のはずだが、現状では議会は、一つ一つの事業をこと細かに追及する事業仕分けのような場になっていない。
まあやろうと思えばできるはずなのだが、今のところないのが現状だ。
(3)行政職員のプレゼンテーションスキルが求められること
行政用語も知らないシロウトの人たちが納得する分かりやすい説明能力が求められる。
公務員にとっては、議員へのプレゼンも重要だが、議員は行政の世界についてもある程度精通しているし、お付き合いの長い議員さんなら貸し借りの中で納得してもらうこともある。
しかし、利害当事者と一般納税者のシロウトの目にさらされながら、仕分け人からの厳しいツッコミに答えていくのは、容易なことではない。
費用対効果や予算の積算根拠などの数字的なもの、テクニカルな知識はベースとして求められるし、万人に分かりやすく、質問に対してポイントを押さえて的確に答えるプレゼンスキルが必要となる。
でも近くで見ていると、それ以外にも重要な要素があるように思われてならない。
というのは、「現場わかってるな」とか「想いを持ってやってるな」とか「内輪の理屈しか持ち合わせてないな」とかいうのは、ちょっと説明ぶりを聞いただけですぐに分かるのである。
話す内容はもちろん、受け答えや身振り手振り、表情など、全人格的に勝負する場になっているような気がする。
現に、どこかのテレビ番組で、仕分け人が事業を評価する際に重視する点として「熱意」が挙がっていた。
まだ事業仕分けが半分しか終わってない段階で、事務局の人間があまりあれこれ書くと誤解を招いたりする可能性があるので、このぐらいにするが、(3)にかこつけて私が思うのは、やはり現場への理解、社会への想いの強い公務員は、どこへ出ても勝負できる。
公務員が地域に飛び出す重要性を改めて感じている。
また、今回の事業仕分けは、報道量がとにかく多いということもあって、国民的な話題になっている。
せっかく国民が国の仕事を身近に感じられる珍しい機会である。
いろいろな意味で大切にしたいと思う。
行政刷新会議を代表する見解ではないが、現に準備から実施まで関わっている一担当者からみた現時点での感想を述べてみたい。
問題点や改善を要する点については、日々のメディアの論調などに委ねるとして、特に、査定当局や議会での議論との違いは何か、という視点で見ると、大まかに次の3点あるんじゃないかと思う。
(1)仕分け人の“当事者性”
仕分け人は、財政当局や議会と比べ、行財政論にはシロウトであるが、各分野における現場の利害当事者・実務者自身の立場からの意見がダイレクトに出る。
議員は多様な国民の声を代弁する立場だが、当事者本人とまでは言えない。(それが代議制の意味なのだろうけれども。)
いわんや財政当局は、まったく当事者ではない。
たとえば、ある施策について現場の実情を議論するとした場合、政治家や財政担当者自身が現場の実務に携わっているわけではない。
その点、日々現場で活動する自治体職員や中小企業者の仕分け人は、現場の状況を交えながら発言する迫力がある。
私自身が財政をやっていた頃、よく「査定する者が現場を知りすぎては査定できない」などと言われることがあったが、逆にそれが現場を知らない財政当局の弱みとなり、要求側から机上で論破されたり、訳も分からず手を握らざるを得ない事態も発生すると思われる。
たまには、要求側も査定側も、出るところへ出てみることも意味のあることではないか。査定側にとっても発見が多いと思う。
(2)誰でも自由に出入りできる場所+HP公開
このオープンさは財政当局の査定プロセスにはないことだ。
衆人環視ということは、利害当事者からのプレッシャーだけでなく、一般納税者からの視線にさらされることになる。
通常の予算編成過程においては、利害当事者側からのアプローチはあっても、一般納税者が「そんなの税金の無駄遣いだ」という声をさしはさむ機会はまずない。
それに対し、こうしたオープンな場では、「一部の関係者にとってのみオイシイ事業」、「やたらコストの高い事業」が目につくことになる。
典型的なのは、天下り法人へのコスト高な管理費・人件費の支出である。
また、本来、議会こそ公開の議論をする場のはずだが、現状では議会は、一つ一つの事業をこと細かに追及する事業仕分けのような場になっていない。
まあやろうと思えばできるはずなのだが、今のところないのが現状だ。
(3)行政職員のプレゼンテーションスキルが求められること
行政用語も知らないシロウトの人たちが納得する分かりやすい説明能力が求められる。
公務員にとっては、議員へのプレゼンも重要だが、議員は行政の世界についてもある程度精通しているし、お付き合いの長い議員さんなら貸し借りの中で納得してもらうこともある。
しかし、利害当事者と一般納税者のシロウトの目にさらされながら、仕分け人からの厳しいツッコミに答えていくのは、容易なことではない。
費用対効果や予算の積算根拠などの数字的なもの、テクニカルな知識はベースとして求められるし、万人に分かりやすく、質問に対してポイントを押さえて的確に答えるプレゼンスキルが必要となる。
でも近くで見ていると、それ以外にも重要な要素があるように思われてならない。
というのは、「現場わかってるな」とか「想いを持ってやってるな」とか「内輪の理屈しか持ち合わせてないな」とかいうのは、ちょっと説明ぶりを聞いただけですぐに分かるのである。
話す内容はもちろん、受け答えや身振り手振り、表情など、全人格的に勝負する場になっているような気がする。
現に、どこかのテレビ番組で、仕分け人が事業を評価する際に重視する点として「熱意」が挙がっていた。
まだ事業仕分けが半分しか終わってない段階で、事務局の人間があまりあれこれ書くと誤解を招いたりする可能性があるので、このぐらいにするが、(3)にかこつけて私が思うのは、やはり現場への理解、社会への想いの強い公務員は、どこへ出ても勝負できる。
公務員が地域に飛び出す重要性を改めて感じている。
また、今回の事業仕分けは、報道量がとにかく多いということもあって、国民的な話題になっている。
せっかく国民が国の仕事を身近に感じられる珍しい機会である。
いろいろな意味で大切にしたいと思う。
2009年11月10日
熱情
趣味の話になるが、私は昔から、ベートーベンの3大ピアノソナタが大好きである。
高校3年生の頃、受験勉強をしながら毎晩「熱情」(Appassionata)を聴いた。
今は亡き伯父が大のクラシック好きで、お薦めのカセットテープを1本くれたのだ。
オートリバース機能もない古いテープレコーダーを20数分ごとに巻き戻しては繰り返し聞いていた。
1日何時間勉強していたか覚えてないが、2時間で4〜5回聴ける計算になるから、1年間で1000回以上聴いたことになる(そんなに聴いたかな?)。
今でも「熱情」を聴くと涙が出るほど胸に込み上げるものがある。
とはいえ、まだコンサートを聴きに行ったこともない。
コンサートホールで「熱情」を聞いたら・・・きっと背筋が震えることだろう。
200年も前に、耳の不自由な作曲家が、いったいどうやってこんな曲を作ったのだろうか?
世紀を超えて伝わる芸術作品を、ありがとう!
高校3年生の頃、受験勉強をしながら毎晩「熱情」(Appassionata)を聴いた。
今は亡き伯父が大のクラシック好きで、お薦めのカセットテープを1本くれたのだ。
オートリバース機能もない古いテープレコーダーを20数分ごとに巻き戻しては繰り返し聞いていた。
1日何時間勉強していたか覚えてないが、2時間で4〜5回聴ける計算になるから、1年間で1000回以上聴いたことになる(そんなに聴いたかな?)。
今でも「熱情」を聴くと涙が出るほど胸に込み上げるものがある。
とはいえ、まだコンサートを聴きに行ったこともない。
コンサートホールで「熱情」を聞いたら・・・きっと背筋が震えることだろう。
200年も前に、耳の不自由な作曲家が、いったいどうやってこんな曲を作ったのだろうか?
世紀を超えて伝わる芸術作品を、ありがとう!
2009年11月02日
幼稚園に通うために
三男の願書受付のため、近くの幼稚園に行った。
希望者が多いため、なんと早朝の3時から並んだのである。
世田谷には幼稚園がたくさんあるが、小規模な園が多く、少しでも近いところに入れたい親が願書をもらいに殺到するようである。
今年春まで幼稚園児だった次男の場合、昨年4月に広島から引っ越してきたときには、すでに近場の幼稚園に空きがなく、少し遠い三軒茶屋の幼稚園まで通園せざるを得なかった。
次男を連れて、毎朝、職場と逆方向の三軒茶屋まで1駅歩いて送った日々は、ちょっと負担だったが、いまや懐かしくもある。
「もう歩きたくない!」とか「抱っこして〜!」とか、毎朝大騒ぎだったが、街を歩きながら色んな話をした。
いずれにしても、願書受付に出遅れてしまうと、来年4月以降の我が家の生活が大きく左右される。
月曜日の未明からなんでこんな所に並ばされなきゃいけないんだ〜と、東京の幼稚園事情を恨めしく思うが、ほかに選択肢がない以上、仕方がない。
希望者が多いため、なんと早朝の3時から並んだのである。
世田谷には幼稚園がたくさんあるが、小規模な園が多く、少しでも近いところに入れたい親が願書をもらいに殺到するようである。
今年春まで幼稚園児だった次男の場合、昨年4月に広島から引っ越してきたときには、すでに近場の幼稚園に空きがなく、少し遠い三軒茶屋の幼稚園まで通園せざるを得なかった。
次男を連れて、毎朝、職場と逆方向の三軒茶屋まで1駅歩いて送った日々は、ちょっと負担だったが、いまや懐かしくもある。
「もう歩きたくない!」とか「抱っこして〜!」とか、毎朝大騒ぎだったが、街を歩きながら色んな話をした。
いずれにしても、願書受付に出遅れてしまうと、来年4月以降の我が家の生活が大きく左右される。
月曜日の未明からなんでこんな所に並ばされなきゃいけないんだ〜と、東京の幼稚園事情を恨めしく思うが、ほかに選択肢がない以上、仕方がない。