2010年07月
2010年07月26日
ネット上のつながりの意義
爆笑問題の太田光さんと田中裕二さんが、歩道橋の上で「僕らはいつから、つながることが当たり前になったんだろう。」と語り合うNTTdocomoの広告がある。
二人の会話は、次のやりとりで終わる。
===================
太田:「ま、ケータイがなかった時代もそれはそれでよかったけどな。」
田中:「どうやって連絡取り合ってたんだっけ。」
太田:「・・・忘れちゃった。」
===================
以前は、飲み会の約束一つにも、幹事が個別に電話したりして日程・出欠確認し、場所も連絡していたのだろう。
そんなめんどくさいこと、本当にいちいちやっていたのか?
待ち合わせ場所で会えなかったとき、どうしていたのだろう?
・・・太田さんの言うとおり、忘れてしまった。
ほんの10数年前のことなのに。
ネットの普及した現在では、面白そうなコミュニティサイトやメーリングリスト(ML)に登録し、「今度どこどこで飲み会をしよう!」という情報をもとに、まったく面識のない人たちの輪にいきなり飛び込むことだってできる。
「地域に飛び出す公務員ネットワーク」では、全国各地の公務員同士が、ML上でさんざん議論した後に、何かの場で初めて会うと「いや〜、あなたがあの議論をしていた〇〇さんでしたか!」てな感じでフェイス・トゥ・フェイスの関係がつくられていくことも多い。
最近では「あたらしい『新しい公共円卓会議』(PURC)」のMLや掲示板に集った人たちが、「新しい公共について語ろう!」と、各地でゲリラ的に集会をやっている。
初対面でもずっと前から知り合いのような感じがするし、下手な顔見知りなどよりも、ずっと深い相互理解や信頼関係を築くことができることも多い。
この流れは、日本社会が今後直面する大きな課題へのソリューションの1つだと思う。
日本では戦後、都市部への大規模な人口移動が起こり、職場中心の毎日を送るサラリーマンは、朝から晩まで居住地域の外で過ごしてきたこともあって、ベッドタウンとなった地域の生活空間では、人と人のつながりはきわめて薄いと言われている。
こうした中で高齢化が進めば、福祉や防災への不安が強まり、生き甲斐や安心など心豊かな日常生活を送ることが難しくなってくる。
しかし、この流れは不可逆であり、いまさら都市地域に農村のような地縁的な人間関係をつくりだすのは現実的ではない以上、何らかの手立てが必要である。
人口密集地におけるマンション暮らしの場合、“向こう三軒両隣”との濃いお付き合いは必ずしも必須ではない(し、現実的でもない)。
むしろ、多少の物理的距離があっても、深い理解と信頼に基づくつながりが重要なのではなかろうか。
ここで言うつながりとは、仕事上のみのつながりというよりは、より人間的な部分に立脚した関係を念頭に置いている。(もちろん仕事がきっかけということはありうるが。)
そして、これを補完する機能が、前述のネットを通じたコミュニケーションであろう。
少し離れたところにいても、たとえ会ったこともなくても、人と結びつき、つながることによって、人生がより豊かになることがある。
また、ネットで出会えば、リアルに顔を合わせることもさほど難しくない。
確かにネット上で見知らぬ人たちとニックネームで呼び合うような流儀のサイトもあったりして、なじめない人も少なくないとは思う(私もその流儀は得意ではない)。
が、人との絆を求めること自体は、人間ならば誰もが持っている特性であって、これからの日常生活をより豊かな人間関係に立脚したものにしようとするならば、ネット上の人間関係というのは、無視しえないものとなりそうだ。
二人の会話は、次のやりとりで終わる。
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太田:「ま、ケータイがなかった時代もそれはそれでよかったけどな。」
田中:「どうやって連絡取り合ってたんだっけ。」
太田:「・・・忘れちゃった。」
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以前は、飲み会の約束一つにも、幹事が個別に電話したりして日程・出欠確認し、場所も連絡していたのだろう。
そんなめんどくさいこと、本当にいちいちやっていたのか?
待ち合わせ場所で会えなかったとき、どうしていたのだろう?
・・・太田さんの言うとおり、忘れてしまった。
ほんの10数年前のことなのに。
ネットの普及した現在では、面白そうなコミュニティサイトやメーリングリスト(ML)に登録し、「今度どこどこで飲み会をしよう!」という情報をもとに、まったく面識のない人たちの輪にいきなり飛び込むことだってできる。
「地域に飛び出す公務員ネットワーク」では、全国各地の公務員同士が、ML上でさんざん議論した後に、何かの場で初めて会うと「いや〜、あなたがあの議論をしていた〇〇さんでしたか!」てな感じでフェイス・トゥ・フェイスの関係がつくられていくことも多い。
最近では「あたらしい『新しい公共円卓会議』(PURC)」のMLや掲示板に集った人たちが、「新しい公共について語ろう!」と、各地でゲリラ的に集会をやっている。
初対面でもずっと前から知り合いのような感じがするし、下手な顔見知りなどよりも、ずっと深い相互理解や信頼関係を築くことができることも多い。
この流れは、日本社会が今後直面する大きな課題へのソリューションの1つだと思う。
日本では戦後、都市部への大規模な人口移動が起こり、職場中心の毎日を送るサラリーマンは、朝から晩まで居住地域の外で過ごしてきたこともあって、ベッドタウンとなった地域の生活空間では、人と人のつながりはきわめて薄いと言われている。
こうした中で高齢化が進めば、福祉や防災への不安が強まり、生き甲斐や安心など心豊かな日常生活を送ることが難しくなってくる。
しかし、この流れは不可逆であり、いまさら都市地域に農村のような地縁的な人間関係をつくりだすのは現実的ではない以上、何らかの手立てが必要である。
人口密集地におけるマンション暮らしの場合、“向こう三軒両隣”との濃いお付き合いは必ずしも必須ではない(し、現実的でもない)。
むしろ、多少の物理的距離があっても、深い理解と信頼に基づくつながりが重要なのではなかろうか。
ここで言うつながりとは、仕事上のみのつながりというよりは、より人間的な部分に立脚した関係を念頭に置いている。(もちろん仕事がきっかけということはありうるが。)
そして、これを補完する機能が、前述のネットを通じたコミュニケーションであろう。
少し離れたところにいても、たとえ会ったこともなくても、人と結びつき、つながることによって、人生がより豊かになることがある。
また、ネットで出会えば、リアルに顔を合わせることもさほど難しくない。
確かにネット上で見知らぬ人たちとニックネームで呼び合うような流儀のサイトもあったりして、なじめない人も少なくないとは思う(私もその流儀は得意ではない)。
が、人との絆を求めること自体は、人間ならば誰もが持っている特性であって、これからの日常生活をより豊かな人間関係に立脚したものにしようとするならば、ネット上の人間関係というのは、無視しえないものとなりそうだ。
2010年07月20日
国民にとって政治とは
7月15日の朝日新聞オピニオン欄に、今回の参院選について、ソフトバンクの犬のお父さん・白戸次郎のCMを制作した佐々木宏さんのインタビュー記事が載っている。
とても共感したので、一部引用してみたい。
====================
《揚げ足取り癖に》
菅(直人)さんがブレてると批判されたけど、自民党も消費増税に反対したわけじゃない。
それなのに「民主惨敗」「自民勝利」とか報じられると、「あれっ?そうなっちゃったんだ」という感じなんじゃないですか。
「あなたの一票が生かされましたか」と聞いてみれば、「うーん、微妙」という答えが返ってくるような気がします。
今の政治を見て思うのは、世論が、政治家にすごく冷たく当たっているように見えるんですね。
何かというと「ブレてる」と批判されたり、ちょっとした失言が連日報道され続けたり。
マスコミだけでなく、僕を含めた国民の側も「揚げ足取り」が癖になってしまっている。
今のマスコミと世論は、政治家に対してネガティブチェックだけになっている。
「菅さんもいいけど、谷垣(禎一)さんもいい」なんてほめたら、すごく変わった人だと思われる。
「菅さんはイマイチだし、谷垣さんも頼りない」とか言っておけば無難だという空気がある。
評論家やかっこいいことを言っている人に「じゃ、あなた、総理大臣やってみますか?」と言ってみたい。
大変だし、損な仕事ですよ、いまや。
====================
政治家は権力者だから、適度な批判は必要だし、適度な批判ならば、多くの有権者が聞いていてもバランス的にも心地よいはずだ。
しかし最近は聞いてて「そこまで突っ込み続けるか?」と疑問を持ってしまうような批判も多い。
自民党政権の頃に批判された「神の国」発言、「産む機械」発言・・・。
どのような文脈であれ、一国の総理や閣僚が発言すれば、批判のそしりを免れない。
でも、そうした権力への抑制機能を超え、こうした一言(しかも国会での公式発言でもない)をキャッチフレーズにして、選挙でネガティブキャンペーンを張るような展開は、自民党の長期安定政権の時代にはさほど問題なかったかもしれないが、今のようないつ政権交代が起こるか分からないような時代には、争点とするにはあまりに政策論争から離れ過ぎ、危険な風潮となってしまうような気がする。
自分が子どもの頃のことなので文脈はよく知らないが、昔、中曽根総理が日本のことを米国の「不沈空母」だと発言し物議を醸したと記憶しているが、こうした日米関係への政治スタンスを問われるような発言ならまだしも、日常会話にも登場しそうな“ついウッカリ発言”みたいなレベルの言葉を「総理の失言」と酷評し、全国紙などで連日取り上げるような批判は、権力への抑制機能を超えていると言われかねない。
まして、総理の記者に対する物言い(「あなたとは違うんです」など)を嘲笑するような面白がり方を見ていると、豊富な知識と経験のある老獪な政治記者が政治家との間でウィットに富んだ軽妙なやりとりを楽しむといった、洗練された記者会見のイメージ(これ自体が妄想なのかもしれないが)を著しく下げてしまっているような気がする。
【以下、また記事から引用】
====================
《首相ほめてみて》
有権者は、無理やりにでもいいから政治家をほめてみたらどうでしょうか。
CMの中で犬の白戸次郎は当選したんですが、子どもたちが政治家になりたいと思うような環境を作ることが大事なんじゃないですか。
野球のイチローやサッカーの本田にあこがれるみたいに、首相にあこがれるようになってほしいですね。
====================
アメリカでは、若者が尊敬する人物の上位を大統領が占めることが多いそうだ。
歴史的な経緯の違いに由来するだろうけれども、純粋に羨ましく思う。
日本の公共の担い手としては、少なくとも10数年前までは官僚がそれなりに尊敬される時代があった。
“経済一流、政治三流”と言われる中で、以前は「政治家が仕事しなくても、官僚がいれば大丈夫」という“神話”があったようだが、昨今の官僚批判やら不祥事やらで(実はそれだけではないと思っているが)、消し飛んでしまった。
そして今後、二度と「官僚さえいれば」などと言われることはないだろう。
なぜなら、そんなのは、民主主義国家の本来あるべき姿ではないからだ。(一公務員としては言われてみたいものだが。)
おそらく霞が関にも、政治主導の必要性を否定する者はほとんどいないと思う。
多くの志高き若者が官僚を目指してきたように、今後は、多くの人々が政治家を目指し、闊達な民主主義国家として繁栄していくことが期待される。
その意味でも、いま一度“政治主導”という言葉の意味をきちんと考える必要があると思う。
ただウケを狙った役所叩きとか、政治家と役所との内輪もめみたいな低次元なことにとどまっているうちは、日本という国は前に進んでいかない。
「よっぽど優秀な人が政治家にならなければ、政治主導なんてできるわけがない」と言われることがある。
この場合の“優秀”とはいかなる意味なのだろうか。
仮に、“めちゃくちゃ頭がいい”と言われる政治家が「絶対この道が正しいのだ!」と言って独善的に国をリードしていこうとしても、それは決して受け入れられないだろう。
発展途上国とは異なるのだから、誰か優秀な人が勝手に国をリードするような他人任せの政治ではなく、いろんな立場や考えを持つたくさんの人たちが、それぞれの地域単位で議論を尽くすことを前提として、それを収斂させ、最終的な合意をつくっていく場が政治なのではないだろうか。
政治家が信頼され、尊敬される社会に至る過程には、国民が地域主権や「新しい公共」を自分たちのものとして獲得し、地域住民による自治に裏打ちされた成熟した民主主義への移行を伴わなければならないと思う。
となると、今後政治家に求められる重要な役割・能力の一つは、単なる大衆迎合とは一線を画し、本当の意味で有権者を政治プロセスに巻き込んでいくという、極めて地道でマジメな取り組みではないかと思うのである。
とても共感したので、一部引用してみたい。
====================
《揚げ足取り癖に》
菅(直人)さんがブレてると批判されたけど、自民党も消費増税に反対したわけじゃない。
それなのに「民主惨敗」「自民勝利」とか報じられると、「あれっ?そうなっちゃったんだ」という感じなんじゃないですか。
「あなたの一票が生かされましたか」と聞いてみれば、「うーん、微妙」という答えが返ってくるような気がします。
今の政治を見て思うのは、世論が、政治家にすごく冷たく当たっているように見えるんですね。
何かというと「ブレてる」と批判されたり、ちょっとした失言が連日報道され続けたり。
マスコミだけでなく、僕を含めた国民の側も「揚げ足取り」が癖になってしまっている。
今のマスコミと世論は、政治家に対してネガティブチェックだけになっている。
「菅さんもいいけど、谷垣(禎一)さんもいい」なんてほめたら、すごく変わった人だと思われる。
「菅さんはイマイチだし、谷垣さんも頼りない」とか言っておけば無難だという空気がある。
評論家やかっこいいことを言っている人に「じゃ、あなた、総理大臣やってみますか?」と言ってみたい。
大変だし、損な仕事ですよ、いまや。
====================
政治家は権力者だから、適度な批判は必要だし、適度な批判ならば、多くの有権者が聞いていてもバランス的にも心地よいはずだ。
しかし最近は聞いてて「そこまで突っ込み続けるか?」と疑問を持ってしまうような批判も多い。
自民党政権の頃に批判された「神の国」発言、「産む機械」発言・・・。
どのような文脈であれ、一国の総理や閣僚が発言すれば、批判のそしりを免れない。
でも、そうした権力への抑制機能を超え、こうした一言(しかも国会での公式発言でもない)をキャッチフレーズにして、選挙でネガティブキャンペーンを張るような展開は、自民党の長期安定政権の時代にはさほど問題なかったかもしれないが、今のようないつ政権交代が起こるか分からないような時代には、争点とするにはあまりに政策論争から離れ過ぎ、危険な風潮となってしまうような気がする。
自分が子どもの頃のことなので文脈はよく知らないが、昔、中曽根総理が日本のことを米国の「不沈空母」だと発言し物議を醸したと記憶しているが、こうした日米関係への政治スタンスを問われるような発言ならまだしも、日常会話にも登場しそうな“ついウッカリ発言”みたいなレベルの言葉を「総理の失言」と酷評し、全国紙などで連日取り上げるような批判は、権力への抑制機能を超えていると言われかねない。
まして、総理の記者に対する物言い(「あなたとは違うんです」など)を嘲笑するような面白がり方を見ていると、豊富な知識と経験のある老獪な政治記者が政治家との間でウィットに富んだ軽妙なやりとりを楽しむといった、洗練された記者会見のイメージ(これ自体が妄想なのかもしれないが)を著しく下げてしまっているような気がする。
【以下、また記事から引用】
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《首相ほめてみて》
有権者は、無理やりにでもいいから政治家をほめてみたらどうでしょうか。
CMの中で犬の白戸次郎は当選したんですが、子どもたちが政治家になりたいと思うような環境を作ることが大事なんじゃないですか。
野球のイチローやサッカーの本田にあこがれるみたいに、首相にあこがれるようになってほしいですね。
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アメリカでは、若者が尊敬する人物の上位を大統領が占めることが多いそうだ。
歴史的な経緯の違いに由来するだろうけれども、純粋に羨ましく思う。
日本の公共の担い手としては、少なくとも10数年前までは官僚がそれなりに尊敬される時代があった。
“経済一流、政治三流”と言われる中で、以前は「政治家が仕事しなくても、官僚がいれば大丈夫」という“神話”があったようだが、昨今の官僚批判やら不祥事やらで(実はそれだけではないと思っているが)、消し飛んでしまった。
そして今後、二度と「官僚さえいれば」などと言われることはないだろう。
なぜなら、そんなのは、民主主義国家の本来あるべき姿ではないからだ。(一公務員としては言われてみたいものだが。)
おそらく霞が関にも、政治主導の必要性を否定する者はほとんどいないと思う。
多くの志高き若者が官僚を目指してきたように、今後は、多くの人々が政治家を目指し、闊達な民主主義国家として繁栄していくことが期待される。
その意味でも、いま一度“政治主導”という言葉の意味をきちんと考える必要があると思う。
ただウケを狙った役所叩きとか、政治家と役所との内輪もめみたいな低次元なことにとどまっているうちは、日本という国は前に進んでいかない。
「よっぽど優秀な人が政治家にならなければ、政治主導なんてできるわけがない」と言われることがある。
この場合の“優秀”とはいかなる意味なのだろうか。
仮に、“めちゃくちゃ頭がいい”と言われる政治家が「絶対この道が正しいのだ!」と言って独善的に国をリードしていこうとしても、それは決して受け入れられないだろう。
発展途上国とは異なるのだから、誰か優秀な人が勝手に国をリードするような他人任せの政治ではなく、いろんな立場や考えを持つたくさんの人たちが、それぞれの地域単位で議論を尽くすことを前提として、それを収斂させ、最終的な合意をつくっていく場が政治なのではないだろうか。
政治家が信頼され、尊敬される社会に至る過程には、国民が地域主権や「新しい公共」を自分たちのものとして獲得し、地域住民による自治に裏打ちされた成熟した民主主義への移行を伴わなければならないと思う。
となると、今後政治家に求められる重要な役割・能力の一つは、単なる大衆迎合とは一線を画し、本当の意味で有権者を政治プロセスに巻き込んでいくという、極めて地道でマジメな取り組みではないかと思うのである。
2010年07月13日
“本格的”な新しい公共とは
「新しい公共」円卓会議では、今年6月4日に「新しい公共」宣言が出され、年内に政府のフォローアップなど具体化に向けた方策が検討されるようだ。
最近では、一般市民の有志による「あたらしい『新しい公共』円卓会議(PURC)」というネットワーク組織が立ち上がり、発足会合に出席した鳩山前総理の「裸踊り」が話題となった。
日々web上の議論が盛んに繰り広げられており、今後、全国各地で会合が展開されるようになっている。
ところが、公務員の方々と「新しい公共」について話すと、どこかクールに見ている感がある。(「定義は何か?」という議論に終始することも多い。)
・NPOは自分たちのことは自分たちで担うとか、市民と行政が対等な立場で議論するとか言ってるけれども、どれほどの能力があると言うんだ。
・楽しくやろう!なんて言ってるけど、公共とはそんな甘い場面ばかりじゃない。
・NPOの権利ばかり主張しているが、義務や責任を背負う覚悟はあるのか。
・困る局面やつらい局面に遭遇したら最後はほっぽらかして逃げるんじゃないか。
・結局、行政からもらうカネを増やすことを期待しているだけではないか。
・・・ストレートに書けば、こういうことを言いたいのだと思う。
確かに公務員には、“常にリアルな世界で勝負している”という自負のようなものがある。
仕事上、世の中の様々な利害対立について、関係者の利害調整をするのは相当骨が折れる。
常に説明責任を問われ、財政当局や議会などとの調整を考えなければならない。
税金から給料をもらっていることもあり、住民からの目線は厳しい。
担当業務であろうとなかろうと「行政は何をやってるんだ!」とクレームや不満を言われる。
公私を問わず24時間、365日、「公務員」という目で見られ、不祥事でも起こそうものなら厳しく批判され、実名で報道される。
ある意味、住民のわがままな面も嫌というほど見せられてきたのが、公務員である。
そんな公務員からすると、“新しい公共を盛り上げよう!”とNPOが騒いでいるのがどこか空虚に映るのであろう。
私自身も公務員なので、そういう感覚は分からないでもない。
しかし、こういう従来の秩序を前提とした官民の2項対立構造の段階は、早く卒業しなければならないと思う。
大まかな歴史を言えば、日本では、明治政府をつくったころから中央政府、そして行政に権限を集中させてきた。
私たちが生きてきたここ数十年間も、何か社会に問題があれば、法律をつくり、予算を組んで、行政が対応する仕組みを積み上げてきた。
「新しい公共」は、140年続いたこの流れを“逆流”させるのである。
実は、この逆流の動きは、地方分権、地域主権とも軌を一にする。
平成5年に衆参両院で「地方分権に関する決議」が行われ、平成12年には地方分権一括法が成立。
その後、地方への税財源移譲を含む三位一体改革なども行われ、中央から地方への流れは一貫して続いている。
“自分たちのことは自分たちで責任もってやる”という基本的思想は、地域主権と新しい公共は、まったく同じはずである。
そうであれば、NPOが本来の市民自治を担う組織として活動するには、過去140年にわたって行政に集積された権限や仕事を取り戻す必要があろう。
つまり、行政の役割や権限を喰っていくのである。
行政に属する者からすると、これには抵抗感があるかもしれない。
しかし、その抵抗感の理由は何だろうか。
・「市民が任意に立ち上げるNPOは、行政とはそもそもの成り立ちが違い、信頼性や公益性の程度に差がある」
・「NPOが行う業務の公益性について十分な議論が必要」
・「行政の仕事をNPOが行うと、公平な取り扱いが困難になる」・・・。
3月に提出した、NPOによるパーソナルサポーター実現に向けたヨコハマ特区提案に対して各府省が回答した“できない理由”である。
確かに、これまでの市民組織の力ではできなかったかもしれない。
社会問題に対して、市民自身が本格的に役割や責任を担うなんてことは想定されず、期待もされてこなかったのだから。
そんな現状を前提とすると、公務員が担ってきた仕事をNPOが行うことを安易に了解するわけにはいかないというのも分からなくはない。
そしてこれは、むしろNPO側のマインドに変革が求められる事柄でもある。
中央省庁からこのような理由で“あなたたちは信用なりません”と宣告され、悔しいと思わないのか。
いや自分たちにもできる、とケンカ腰で勝負しようとしなければ、140年ぶりの逆流など起こせるはずがない。
いまや、時代の転換期といわれて久しい。
なのに、まだ何も起こっていない。
そんな期間が長らく続いている。
政権交代が起こったんだし、政治主導の時代なのだから、政治家にお任せするのが筋道なのだろうか?
いや、政治は究極的には国民意識を超えることのできるものではない。
むしろ、国民自身の行動がダイナミックに変化することこそが、日本の閉塞感を突破する唯一の道だと思う。
そういう意味を込めて、行政との関係の再構築を迫る“本格的な”新しい公共の必要性を強く感じるのである。
最近では、一般市民の有志による「あたらしい『新しい公共』円卓会議(PURC)」というネットワーク組織が立ち上がり、発足会合に出席した鳩山前総理の「裸踊り」が話題となった。
日々web上の議論が盛んに繰り広げられており、今後、全国各地で会合が展開されるようになっている。
ところが、公務員の方々と「新しい公共」について話すと、どこかクールに見ている感がある。(「定義は何か?」という議論に終始することも多い。)
・NPOは自分たちのことは自分たちで担うとか、市民と行政が対等な立場で議論するとか言ってるけれども、どれほどの能力があると言うんだ。
・楽しくやろう!なんて言ってるけど、公共とはそんな甘い場面ばかりじゃない。
・NPOの権利ばかり主張しているが、義務や責任を背負う覚悟はあるのか。
・困る局面やつらい局面に遭遇したら最後はほっぽらかして逃げるんじゃないか。
・結局、行政からもらうカネを増やすことを期待しているだけではないか。
・・・ストレートに書けば、こういうことを言いたいのだと思う。
確かに公務員には、“常にリアルな世界で勝負している”という自負のようなものがある。
仕事上、世の中の様々な利害対立について、関係者の利害調整をするのは相当骨が折れる。
常に説明責任を問われ、財政当局や議会などとの調整を考えなければならない。
税金から給料をもらっていることもあり、住民からの目線は厳しい。
担当業務であろうとなかろうと「行政は何をやってるんだ!」とクレームや不満を言われる。
公私を問わず24時間、365日、「公務員」という目で見られ、不祥事でも起こそうものなら厳しく批判され、実名で報道される。
ある意味、住民のわがままな面も嫌というほど見せられてきたのが、公務員である。
そんな公務員からすると、“新しい公共を盛り上げよう!”とNPOが騒いでいるのがどこか空虚に映るのであろう。
私自身も公務員なので、そういう感覚は分からないでもない。
しかし、こういう従来の秩序を前提とした官民の2項対立構造の段階は、早く卒業しなければならないと思う。
大まかな歴史を言えば、日本では、明治政府をつくったころから中央政府、そして行政に権限を集中させてきた。
私たちが生きてきたここ数十年間も、何か社会に問題があれば、法律をつくり、予算を組んで、行政が対応する仕組みを積み上げてきた。
「新しい公共」は、140年続いたこの流れを“逆流”させるのである。
実は、この逆流の動きは、地方分権、地域主権とも軌を一にする。
平成5年に衆参両院で「地方分権に関する決議」が行われ、平成12年には地方分権一括法が成立。
その後、地方への税財源移譲を含む三位一体改革なども行われ、中央から地方への流れは一貫して続いている。
“自分たちのことは自分たちで責任もってやる”という基本的思想は、地域主権と新しい公共は、まったく同じはずである。
そうであれば、NPOが本来の市民自治を担う組織として活動するには、過去140年にわたって行政に集積された権限や仕事を取り戻す必要があろう。
つまり、行政の役割や権限を喰っていくのである。
行政に属する者からすると、これには抵抗感があるかもしれない。
しかし、その抵抗感の理由は何だろうか。
・「市民が任意に立ち上げるNPOは、行政とはそもそもの成り立ちが違い、信頼性や公益性の程度に差がある」
・「NPOが行う業務の公益性について十分な議論が必要」
・「行政の仕事をNPOが行うと、公平な取り扱いが困難になる」・・・。
3月に提出した、NPOによるパーソナルサポーター実現に向けたヨコハマ特区提案に対して各府省が回答した“できない理由”である。
確かに、これまでの市民組織の力ではできなかったかもしれない。
社会問題に対して、市民自身が本格的に役割や責任を担うなんてことは想定されず、期待もされてこなかったのだから。
そんな現状を前提とすると、公務員が担ってきた仕事をNPOが行うことを安易に了解するわけにはいかないというのも分からなくはない。
そしてこれは、むしろNPO側のマインドに変革が求められる事柄でもある。
中央省庁からこのような理由で“あなたたちは信用なりません”と宣告され、悔しいと思わないのか。
いや自分たちにもできる、とケンカ腰で勝負しようとしなければ、140年ぶりの逆流など起こせるはずがない。
いまや、時代の転換期といわれて久しい。
なのに、まだ何も起こっていない。
そんな期間が長らく続いている。
政権交代が起こったんだし、政治主導の時代なのだから、政治家にお任せするのが筋道なのだろうか?
いや、政治は究極的には国民意識を超えることのできるものではない。
むしろ、国民自身の行動がダイナミックに変化することこそが、日本の閉塞感を突破する唯一の道だと思う。
そういう意味を込めて、行政との関係の再構築を迫る“本格的な”新しい公共の必要性を強く感じるのである。
2010年07月05日
児童虐待の司法面接
「子どもの司法面接」に関する日弁連の勉強会に参加した。
司法面接(Forensic Interview)とは、身体的・性的虐待を受けた疑いのある子どもに対して更なるトラウマを与えない形で被害事実を聴き取るものである。
日本では、ひとたび虐待の疑いがあると、その子どもに対して、たくさんの大人(学校の先生、親、友人の親、カウンセラー、児童相談所、医師、弁護士、警察)が、それぞれの立場で繰り返し聴き取りを行い、その後、法廷に移っていく。
子どもの場合、大人からの圧力や誘導的質問などによって、証言内容がゆがめられ、最初の証言から内容が変わっていってしまうという。
その上、子どもの立場からすれば、同じ話を繰り返すことを強いられるため、精神的な2次被害も大きいのである。
北海道大学大学院の仲真紀子教授は、講演で次のように語る。
===================
欧米で普及している司法面接の目的は、次のとおり。
(1)早い時期に、自由報告を重視した面接を1度だけ行い、ビデオで録画する。
(2)必要な情報を客観的に聴取する。カウンセリングではない。
(3)子どもに面接を繰り返させない。
(4)主たる証拠として、主尋問の代わりに用いる。
児童福祉、司法捜査、医療などの関係者が、専門的なスキルを身につけ、面接を行う。
面接の際の留意点は、
・面接する側から情報を出さない。子どもの「言葉」で聞く。
・子どもの言葉を解釈しない。子どもの「言葉」で聞く。
・コメント、評価しない。(「良かったね」「大変だったね」などと言わない。)
といった点であり、具体的には、
「何があったかお話ししてください」(Tell Me)
「さっき言ってた〇〇について、もっとお話しして」
「そして、それで、あとは?」
「うん、うん」
・・・といった言葉で子ども自身の次の言葉を待つことが大切。
===================
映像では、次のような例が登場した。
【悪い例】
Qおうちには誰がいるの?
Aお母さん
Qお母さんだけ?
Aううん
Qおじさんもいるの?
Aうん。
Qおじさん、何か嫌なことするのかな。
Aうん
Qどんなことするの?
A触ったりする
Qそうか。どこ触るの?
A・・・
Qそのときお母さんはどこにいるの?
Aいない。
【良い例】
Qおうちにいる人のことお話して。
Aお母さん
Qそれから
Aおじさん
Qそれから
Aそれだけ
Qじゃ、おじさんのことお話して。
Aおじさんは、時々嫌な事をする。
Qうん、それで
A叩いたりもする。それから触ったりもする。お母さんがいないときはいつも夜ビデオを見て・・・
前者では、子どもはただYes、Noを答えることが多く、自らの言葉で証言する内容が少ない。(質問の中身を聞かないと証言内容が分からない。)
逆にいえば、子どもが語らない分、面接者が質問内容をあれこれ考えなければならない。
それに対し、後者では、子どもの自発的証言を促すのみなので、質問内容に誘導的な要素が少ない。
スキルの違いが明確である。
さて、わが国で司法面接を導入するための課題は、いろいろあるようだ。
(1)面接者のスキルを確立し、専門性を持った人材を育成すること。
(2)関係機関の連携
子どもに対して同じ質問が繰り返されるのは、児童相談所、警察、検察などが連携しておらず、スキルや体制がバラバラであるためである。
ここでも行政のタテ割りが大きな壁となっている。
(3)裁判におけるビデオ証言の証拠採用
刑事訴訟法上、裁判での証拠の取扱いが最大の課題と言えそうだ。
子どもは身振り手振りも含めてしゃべることも多く、言葉だけでは十分な証言とならないことも多いため、映像での証拠を採用できるかどうかは重要なポイントである。
弁護士の木田秋津さんの報告によると、米ワシントンDCでは、NPO「Safe Shores」が中心となって、福祉機関、訴追機関、医療機関などの多職種専門家チームによるCAC(Children's Advocacy Center)が設立されている。
全米では、700以上のCACが活動しているという。
国内でも、弁護士で(社福)カリヨン子どもセンター理事長の坪井節子さんは、民間が中心になって、児童相談所など関係公的機関を巻き込んで個別ケースを検討する取り組みを始めている。
また、小児科医で、NPO法人子ども虐待ネグレクト防止ネットワーク理事長の山田不二子さんの呼び掛けにより、今月末から神奈川で、児童福祉司、検察官、警察官らが司法面接士のトレーナー養成研修を受講することになっているそうだ。
課題はまだまだ多いが、司法面接はこの社会に必須の仕組みだと思う。
現場関係者、そして幅広く国民の間で議論を展開し、実現していかなければならないテーマだと思う。
司法面接(Forensic Interview)とは、身体的・性的虐待を受けた疑いのある子どもに対して更なるトラウマを与えない形で被害事実を聴き取るものである。
日本では、ひとたび虐待の疑いがあると、その子どもに対して、たくさんの大人(学校の先生、親、友人の親、カウンセラー、児童相談所、医師、弁護士、警察)が、それぞれの立場で繰り返し聴き取りを行い、その後、法廷に移っていく。
子どもの場合、大人からの圧力や誘導的質問などによって、証言内容がゆがめられ、最初の証言から内容が変わっていってしまうという。
その上、子どもの立場からすれば、同じ話を繰り返すことを強いられるため、精神的な2次被害も大きいのである。
北海道大学大学院の仲真紀子教授は、講演で次のように語る。
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欧米で普及している司法面接の目的は、次のとおり。
(1)早い時期に、自由報告を重視した面接を1度だけ行い、ビデオで録画する。
(2)必要な情報を客観的に聴取する。カウンセリングではない。
(3)子どもに面接を繰り返させない。
(4)主たる証拠として、主尋問の代わりに用いる。
児童福祉、司法捜査、医療などの関係者が、専門的なスキルを身につけ、面接を行う。
面接の際の留意点は、
・面接する側から情報を出さない。子どもの「言葉」で聞く。
・子どもの言葉を解釈しない。子どもの「言葉」で聞く。
・コメント、評価しない。(「良かったね」「大変だったね」などと言わない。)
といった点であり、具体的には、
「何があったかお話ししてください」(Tell Me)
「さっき言ってた〇〇について、もっとお話しして」
「そして、それで、あとは?」
「うん、うん」
・・・といった言葉で子ども自身の次の言葉を待つことが大切。
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映像では、次のような例が登場した。
【悪い例】
Qおうちには誰がいるの?
Aお母さん
Qお母さんだけ?
Aううん
Qおじさんもいるの?
Aうん。
Qおじさん、何か嫌なことするのかな。
Aうん
Qどんなことするの?
A触ったりする
Qそうか。どこ触るの?
A・・・
Qそのときお母さんはどこにいるの?
Aいない。
【良い例】
Qおうちにいる人のことお話して。
Aお母さん
Qそれから
Aおじさん
Qそれから
Aそれだけ
Qじゃ、おじさんのことお話して。
Aおじさんは、時々嫌な事をする。
Qうん、それで
A叩いたりもする。それから触ったりもする。お母さんがいないときはいつも夜ビデオを見て・・・
前者では、子どもはただYes、Noを答えることが多く、自らの言葉で証言する内容が少ない。(質問の中身を聞かないと証言内容が分からない。)
逆にいえば、子どもが語らない分、面接者が質問内容をあれこれ考えなければならない。
それに対し、後者では、子どもの自発的証言を促すのみなので、質問内容に誘導的な要素が少ない。
スキルの違いが明確である。
さて、わが国で司法面接を導入するための課題は、いろいろあるようだ。
(1)面接者のスキルを確立し、専門性を持った人材を育成すること。
(2)関係機関の連携
子どもに対して同じ質問が繰り返されるのは、児童相談所、警察、検察などが連携しておらず、スキルや体制がバラバラであるためである。
ここでも行政のタテ割りが大きな壁となっている。
(3)裁判におけるビデオ証言の証拠採用
刑事訴訟法上、裁判での証拠の取扱いが最大の課題と言えそうだ。
子どもは身振り手振りも含めてしゃべることも多く、言葉だけでは十分な証言とならないことも多いため、映像での証拠を採用できるかどうかは重要なポイントである。
弁護士の木田秋津さんの報告によると、米ワシントンDCでは、NPO「Safe Shores」が中心となって、福祉機関、訴追機関、医療機関などの多職種専門家チームによるCAC(Children's Advocacy Center)が設立されている。
全米では、700以上のCACが活動しているという。
国内でも、弁護士で(社福)カリヨン子どもセンター理事長の坪井節子さんは、民間が中心になって、児童相談所など関係公的機関を巻き込んで個別ケースを検討する取り組みを始めている。
また、小児科医で、NPO法人子ども虐待ネグレクト防止ネットワーク理事長の山田不二子さんの呼び掛けにより、今月末から神奈川で、児童福祉司、検察官、警察官らが司法面接士のトレーナー養成研修を受講することになっているそうだ。
課題はまだまだ多いが、司法面接はこの社会に必須の仕組みだと思う。
現場関係者、そして幅広く国民の間で議論を展開し、実現していかなければならないテーマだと思う。