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2008年03月10日

平山画伯の国家観

尾道市(旧瀬戸田町)の平山郁夫美術館を訪れた。

2年半前に来たときは、子どもたちが館内で大騒ぎし、作品を見ることなく外でシャボン玉遊びに付き合って終わりになってしまったので、今回はリベンジである。

平山郁夫「行七歩」新たな収蔵品として、「行七歩(こうしちほ)」という画伯の長男をモデルとした絵があるなど、地方にありながら黒字を続ける美術館には素晴らしい作品が並んでいた。

平山画伯は、著書「絵と心」にその国家観について述べられている。
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東西文明の交流ということがよく言われる。私自身、東西をつなぐ心を求め、画題を求めて世界の道を歩いてきた。この東西文明、あるいは東西文化の交流というものがなぜ起こってきたのか、歴史の中での日本の国のあり方を理解することをめざして、私なりに考えてみることにしよう。

大きな東西文明交流の末端に連なった日本は、自分だけの力ではとうてい手の届かない、インドの仏教にふれたり、はるか西方のイスラム文化が生んだ文物まで、唐を通じて手に入れることになった。私たちは今日、それを正倉院の文物に見ることができる。

このように、残念ながら日本は、自らの力で文字を生んだ国でもなく、東西文明の交流の中では、もっぱら西からの文明の流れを受け容れた国でしかない。少なくとも、古代においてはそうである。しかし、中国を中心とする大陸の文化を、独自の方法で受容し、消化してきたことの中に、日本の文化の優れた力があった。

私は、日本は中国を中心とする東西文明交流から、はかり知れない裨益を受けている国だと思っている。そのことに、日本人の末裔の一人として、感謝の心を忘れないようにしたい。私の仕事が、そうした感謝の表現であってほしいと願っている。

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シルクロードと仏教を生涯かけて描き続けている画伯から見れば、日本という国は、やはり西方からの文明の行き着く先であり、東西文明の交流あってこそ、成り立っている国なのである。

しかし、そうありながらも、日本人の美意識や文化には大いに独自性があるとする。
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私は、美というものは、生きることそのものだと思っている。これは人間だけでなく、この世に存在するあらゆるものについて言えることである。
わかりやすくいえば、たとえば鳥が鳥として、花が花として生きよう、成長しようとしているときには、美しさを表す、ということである。この世に存在するあらゆるものが、生きようとする意志をもっている。人間や動植物だけでなく、私たちには見えないだけで、水や石のようなものにさえ、生きようとする意志があるかもしれない。

この世のありとあらゆるものを、自然と言い換えてもいい。長い歴史を通じて、自然とともに暮らしてきた日本人は、自然の恵みによって生きられることに感謝し、自然に学びながら文化を形成してきた。これが日本人の文化の本質なのだ。

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そして、大陸の合理的精神の源流を体験的に見極めたうえで、さらに日本人の美意識の価値を強調しているのである。
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大陸で生きる人々の精神構造が、日本列島で暮らす人々と違ってくるのは当然である。私はシルクロードの旅の中で、砂漠を移動中、思いがけない天候の急変にあって立往生するようなことを、再三経験した。そういうときに、砂漠の暮らしというものが、常に死と紙一重のところにあることをつくづく感じさせられたものである。

砂漠や荒野に生きる集団に指導者がいた場合、その指導者の判断しだいでは、集団の全員が死ぬこともある。指導者は判断を迫られたとき、絶対に判断を誤ってはならない。私は、こういうところに、きびしい合理精神や論理性も生まれてくるに違いないが、強烈な一神教が受け入れられる基盤もまたあるのだと思った。

科学は、世界のあらゆることを解明したかに見えるが、実はわからないことだらけである。逆説的に言えば、科学の発達は、自然というもの、あるいは生きるということの謎をかえって深めたとも言える。自然のいのちを感じるところから出発している日本の美は、意味を失ってはいない。むしろ世界的に存在価値を増してきたとも言える。

現在の価値観に合わないものは、何でも切り捨てるというなら、神話などは何の意味ももたないだろう。そこにマンションやオフィス・ビルを建てるのに、神社やお地蔵さんが邪魔だということになる。
私は日本人は、現代的な生活をしながらも、神話の価値がわかるような生活をすべきだと思う。古くから伝わった歴史の遺跡、文化遺産は、私たちがどんなに優れていても新たにつくることはできない。自分たちの歴史の価値を知らない日本人は、国際的にも尊敬を得られないだろうと思う。

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著書のあとがきにも、戦後日本の歩みを振り返った上で、今のわが国が、蓄積された富を人類のためにどう生かすのか、専門性に陥ることなく、自然との調和、真善美の認識を通じて、世界から信用を勝ち取るのかといった持論が述べられている。
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日本的価値観の一つに、自然との調和を述べてきたが、政治、経済、文化に関しても調和こそが前提であろう。

日本では「真」、「善」、「美」の調和を教養として学ぶ時代があった。この考え方は古い伝統的なものである。と同時に、普遍性がある。全人格的な人間形成として、これまで少なくとも日本の指導者には、この思想を持つよう教育されてきたものである。

ちょうど、自然の生態系に似ている。宇宙は、森羅万象が、大自然の法則によって、何十億年と悠久の時を経てきている。
その中を何百万種類の生命体が、自然の摂理に沿って進化しようと、努力を繰り返している。これまでこの真善美が、宗教的に、哲学的に、文化的に様々な方式で人の生き様を支えてきた。

こうした自然の調和や摂理と国家の運営を比較すると、失敗した例はすべてこの原則を破っている。或いは、科学技術が高度に専門化され分化した結果、専門的な技術論に陥り易く、この原則が崩れている。
開発者の目的や、利用など、また、すべてを統治する政治家の判断で、真善美のバランスが根底から崩れることになり、人類を破滅に導くことになる。

日本は、今一度、この失いかけた真善美や自然の摂理を再認識して、しっかりとした日本のグローバルな目標を示せば、世界は日本を認め国際信用が高まるだろう。

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平山画伯が魅せられた東西文明交流の道・シルクロードを訪れてみたいという気持ちが、数年前からずっと心の中にある。
その道をたどれば、日本の伝統文化や、日本人独特の感性(その細やかさ、いたわり、調和を重んじる精神など)がなぜ存立するのか、深い理解を得られるに違いない。

米国に留学していた頃、“欧米文化に対して卑屈になる同僚日本人”への嫌悪感を強く感じたものだ。
一つには、常によそからの文化を受け入れることにより成り立ってきた、日本人の(文明の発祥地におけるような)文明の自発性のなさに対し、私自身こそが卑屈になっていたのかもしれない。
だがもう一つには、日本人には、世界に誇るべき文化性(平山画伯の言われる美の感性がその代表格なのであろう)を有していることへのプライドが許さなかったのではないかと思う。

これからの日本経済は、国際的に相対的には縮小局面に向かうのだろうが、そうであればあるほど、国家の成り立ちの歴史や、日本人の持つ文化性の高さをしっかりと心に据えていくべきだと思う。

shigetoku2 at 23:21│Comments(0)TrackBack(0) 経済社会・文化・科学 

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