日本論・人生論
2010年01月18日
得すること、損すること
敬虔なカトリック教徒としても知られる作家の曽野綾子さんが、ある雑誌への寄稿の中で次のように述べておられる。
【以下引用】
========================
人生のことを「損得」の勘定で選ぶことは、マーケットで買い物をするときくらいなものだ。
3本でいくらというキュウリを買う時など、私は真剣に素早く太くてイボのはっきりしたキュウリを選んでいる。
しかし他のもっと大切な人生の選択は、あまり損得で決めたことはない。
・・・
損か得かということは、その場ではわからないことが多い。
さらに損か得かという形の分け方は、凡庸でつまらない。
人生にとって意味のあることは、そんなに軽々には損だったか得だったかがわからないものなのだ。
========================
キュウリの例は面白い。
確かに、スーパーで買ってきたバナナが傷んでいたとき、リンゴの歯ごたえが柔らかかったとき、卵にヒビが入っていたときなど、ショックは大きい。
しかし人生の選択では、そもそも損得が分からないことも多い。
他人に言われて初めて気がつく場合も多い。
だから、選択を迷ったときには、もしかして損するかもしれない、と心配になって他人に相談することもあるが、結局損得は分からないことが多い。
分からないまま、自分で決めるしかない。
【以下また引用】
========================
現世でのご利益を、私の信仰では求めないことになっているのだが、不思議なくらい、私が誰かに贈ることのできたものは、神さまが返してくださっているような気がする。
運命を嘆いたり、人に文句ばかり言っている人と話をして気がつくことは、多くの場合、そういう人はだれかにさし出すことをほとんどしていない。
与える究極のものは、自分の命をさし出すことなのだが、私のような心の弱い者には、とうていそんな勇気はない。
しかしささやかなものなら、さし出せるだろう。
国家からでも個人からでも受けている間(得をしている間)は、人は決して満足しない。
もっとくれればいいのに、と思うだけだ。
しかし与えること(損をすること)が僅かでもできれば、途方もなく満ち足りる。
不思議な人間の心理学である。
========================
社会や他者に不満を感じることは、実は、世の中を良くするための第1歩だと思う。
ただし、第2歩として、他者を批判したり他者からの施しを求めるのではなく、他者を理解し、社会を良くするため自分に何ができるのか考え、行動できるかどうかが重要であり、もしこれができれば、“途方もなく満ち足りる”はずだ。
この意味で、本来、行政の仕事などは“満ち足りる”チャンスの多い仕事の1つだと思っている。
もっとも、人によっては“損な”仕事に見えるかもしれない。
自分の心がけ次第である。
【以下引用】
========================
人生のことを「損得」の勘定で選ぶことは、マーケットで買い物をするときくらいなものだ。
3本でいくらというキュウリを買う時など、私は真剣に素早く太くてイボのはっきりしたキュウリを選んでいる。
しかし他のもっと大切な人生の選択は、あまり損得で決めたことはない。
・・・
損か得かということは、その場ではわからないことが多い。
さらに損か得かという形の分け方は、凡庸でつまらない。
人生にとって意味のあることは、そんなに軽々には損だったか得だったかがわからないものなのだ。
========================
キュウリの例は面白い。
確かに、スーパーで買ってきたバナナが傷んでいたとき、リンゴの歯ごたえが柔らかかったとき、卵にヒビが入っていたときなど、ショックは大きい。
しかし人生の選択では、そもそも損得が分からないことも多い。
他人に言われて初めて気がつく場合も多い。
だから、選択を迷ったときには、もしかして損するかもしれない、と心配になって他人に相談することもあるが、結局損得は分からないことが多い。
分からないまま、自分で決めるしかない。
【以下また引用】
========================
現世でのご利益を、私の信仰では求めないことになっているのだが、不思議なくらい、私が誰かに贈ることのできたものは、神さまが返してくださっているような気がする。
運命を嘆いたり、人に文句ばかり言っている人と話をして気がつくことは、多くの場合、そういう人はだれかにさし出すことをほとんどしていない。
与える究極のものは、自分の命をさし出すことなのだが、私のような心の弱い者には、とうていそんな勇気はない。
しかしささやかなものなら、さし出せるだろう。
国家からでも個人からでも受けている間(得をしている間)は、人は決して満足しない。
もっとくれればいいのに、と思うだけだ。
しかし与えること(損をすること)が僅かでもできれば、途方もなく満ち足りる。
不思議な人間の心理学である。
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社会や他者に不満を感じることは、実は、世の中を良くするための第1歩だと思う。
ただし、第2歩として、他者を批判したり他者からの施しを求めるのではなく、他者を理解し、社会を良くするため自分に何ができるのか考え、行動できるかどうかが重要であり、もしこれができれば、“途方もなく満ち足りる”はずだ。
この意味で、本来、行政の仕事などは“満ち足りる”チャンスの多い仕事の1つだと思っている。
もっとも、人によっては“損な”仕事に見えるかもしれない。
自分の心がけ次第である。
2009年11月10日
熱情
趣味の話になるが、私は昔から、ベートーベンの3大ピアノソナタが大好きである。
高校3年生の頃、受験勉強をしながら毎晩「熱情」(Appassionata)を聴いた。
今は亡き伯父が大のクラシック好きで、お薦めのカセットテープを1本くれたのだ。
オートリバース機能もない古いテープレコーダーを20数分ごとに巻き戻しては繰り返し聞いていた。
1日何時間勉強していたか覚えてないが、2時間で4〜5回聴ける計算になるから、1年間で1000回以上聴いたことになる(そんなに聴いたかな?)。
今でも「熱情」を聴くと涙が出るほど胸に込み上げるものがある。
とはいえ、まだコンサートを聴きに行ったこともない。
コンサートホールで「熱情」を聞いたら・・・きっと背筋が震えることだろう。
200年も前に、耳の不自由な作曲家が、いったいどうやってこんな曲を作ったのだろうか?
世紀を超えて伝わる芸術作品を、ありがとう!
高校3年生の頃、受験勉強をしながら毎晩「熱情」(Appassionata)を聴いた。
今は亡き伯父が大のクラシック好きで、お薦めのカセットテープを1本くれたのだ。
オートリバース機能もない古いテープレコーダーを20数分ごとに巻き戻しては繰り返し聞いていた。
1日何時間勉強していたか覚えてないが、2時間で4〜5回聴ける計算になるから、1年間で1000回以上聴いたことになる(そんなに聴いたかな?)。
今でも「熱情」を聴くと涙が出るほど胸に込み上げるものがある。
とはいえ、まだコンサートを聴きに行ったこともない。
コンサートホールで「熱情」を聞いたら・・・きっと背筋が震えることだろう。
200年も前に、耳の不自由な作曲家が、いったいどうやってこんな曲を作ったのだろうか?
世紀を超えて伝わる芸術作品を、ありがとう!
2009年10月01日
大科学者の言
有機化学の研究で有名な東京大学大学院教授の福山透さんの話を聞いた。
岡崎高校の先輩であり、今年、中日新聞の中日文化賞を受賞された。
首都圏の同窓会である首都圏段戸会では、年に数回「段戸フォーラム」を開催しており、若者から年配の方まで数十人集まる。
福山さんは、製薬につながる分子構造の基礎研究の権威であり、非常に高度な内容を私たちシロウト向けに解説してくださった(けどここでそれを伝える能力がありません・・・)。
それでも、講演と質疑の中では、どんな分野にも通じる心にグッとくる言葉がいくつもあった。
特に印象的だったのは、次の言葉だ。
○ひらめきは、相当勉強しないと生まれない。
○他人と違うことをやらないと面白くない。
これが、福山さんの生き方であり、仕事への姿勢だ!と感じた。
何十人もいる研究室の学生さんたちにもこうした姿勢で指導しているそうだ。
20年以上アメリカで研究活動を続けてこられた福山さんは、十数年前に日本に戻ってこられた。
業界誌への寄稿文には、次のようなくだりがある。
=====================
「なぜ帰国したの?」とよく訪ねられるが、一番の理由は「私は根っからの日本人」に尽きると思う。
22年もアメリカで暮らしたが、背中にはいつも日の丸を背負っていた。
自分の家でも何か借家住まいのように思えたのは異邦人としての意識が抜けないからだ。
「日本に帰ってきてよかった?」と、聞かれれば、以前はのらりくらりと答えていたものだが、今では素直に「よかった!」と答えられる。
「日本の若者を育ててみたい」という願いは叶い、気持ちのよい青年たちに囲まれて幸せな日々を送っている。
=====================
正直言って、日本は、こういう方でも帰ってきたくなるような国なんだ、とホッとする感覚を持ったのは私だけでなかったと思う。
実際、世界で通用する日本の人材が海外に流出するのはよくあることだ。
研究者にとって、大学のサポート体制、研究資金、ビジネス環境、様々な面で日本はまだまだ欧米に見劣りすると言われる。
行政に携わる人間として、そんな状況を何とかしたいという思いに駆られる。
福山さんへの質疑の中では同窓会らしく、子どもの頃を知る方から「あのいたずら坊主が世界的な科学者か」という感嘆の声も上がり、楽しい時間を過ごすことができた。
首都圏段戸会では、D-misoプロジェクトも進行中であり、これからも老若男女にとって有意義な同窓会として発展することを期待したい。
岡崎高校の先輩であり、今年、中日新聞の中日文化賞を受賞された。
首都圏の同窓会である首都圏段戸会では、年に数回「段戸フォーラム」を開催しており、若者から年配の方まで数十人集まる。
福山さんは、製薬につながる分子構造の基礎研究の権威であり、非常に高度な内容を私たちシロウト向けに解説してくださった(けどここでそれを伝える能力がありません・・・)。
それでも、講演と質疑の中では、どんな分野にも通じる心にグッとくる言葉がいくつもあった。
特に印象的だったのは、次の言葉だ。
○ひらめきは、相当勉強しないと生まれない。
○他人と違うことをやらないと面白くない。
これが、福山さんの生き方であり、仕事への姿勢だ!と感じた。
何十人もいる研究室の学生さんたちにもこうした姿勢で指導しているそうだ。
20年以上アメリカで研究活動を続けてこられた福山さんは、十数年前に日本に戻ってこられた。
業界誌への寄稿文には、次のようなくだりがある。
=====================
「なぜ帰国したの?」とよく訪ねられるが、一番の理由は「私は根っからの日本人」に尽きると思う。
22年もアメリカで暮らしたが、背中にはいつも日の丸を背負っていた。
自分の家でも何か借家住まいのように思えたのは異邦人としての意識が抜けないからだ。
「日本に帰ってきてよかった?」と、聞かれれば、以前はのらりくらりと答えていたものだが、今では素直に「よかった!」と答えられる。
「日本の若者を育ててみたい」という願いは叶い、気持ちのよい青年たちに囲まれて幸せな日々を送っている。
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正直言って、日本は、こういう方でも帰ってきたくなるような国なんだ、とホッとする感覚を持ったのは私だけでなかったと思う。
実際、世界で通用する日本の人材が海外に流出するのはよくあることだ。
研究者にとって、大学のサポート体制、研究資金、ビジネス環境、様々な面で日本はまだまだ欧米に見劣りすると言われる。
行政に携わる人間として、そんな状況を何とかしたいという思いに駆られる。
福山さんへの質疑の中では同窓会らしく、子どもの頃を知る方から「あのいたずら坊主が世界的な科学者か」という感嘆の声も上がり、楽しい時間を過ごすことができた。
首都圏段戸会では、D-misoプロジェクトも進行中であり、これからも老若男女にとって有意義な同窓会として発展することを期待したい。
2009年09月02日
人材にまつわる広告記事
仕事で地域活性化の人材育成を担当しているせいか、最近、やたらと「人材」に関するネタが気になる。
先日、飛行機の中で朝日新聞を読んでいたら、広告欄に「人材」をテーマとする記事を2つ見つけた。
1つは、藤巻兄弟社の藤巻幸夫さん(弟)だ。
【以下抜粋】
=====================
僕は、今、日本に息づいている伝統の技や暮らしの文化に強い関心を持っています。
100年200年と続く産業が、見捨てられるようなことがあってはならないと思っている。
決して大量生産型消費や効率経済を否定するわけではありませんが、その一方で、一度失ったら取り返せない技術や文化の衰退に危機感を感じます。
しかし、生産当事者だけでは、なかなか販路の広がりを見いだせないのが現状ですね。
=====================
これは、地域活性化に携わる者にとっての命題そのものである。
全国各地で直面しているのが、中心商店街の活力低下、伝統産業の衰退だ。
現代社会の急激な変化の中で、長年にわたる先人の営みを簡単に見捨てることがあってはならない、という気持ちは多くの日本人の間で共有されているように思う。
問題は、その解決方策である。
=====================
そのために僕に何ができるかと言えば、企画を考えつつ、人と人をつないでいくことです。
あの人とあの人を会わせたら素晴らしい仕事になっていくのではないかと思い巡らせる。
結局、仕事は人次第。人こそが財産だし、人こそがブランドなんですね。
僕は、一年のうち正月の三が日しか家で食事をしない。
それ以外は毎日、誰かとランチや夕食を共にしています。
それぐらい人に会います。
年下だろうが、すぐに仕事に結び付かなかろうが関係ない。
=====================
地域に根ざした産業の活力源となる重要なリソースの一つは、外部の人材との交流やコラボレーションだ。
そのためには、その地域に関心を持ちつつ、他の地域との接点を見出していく、いわゆる“コーディネーター”の役割は重要である。
もちろん、コーディネーターは必ずしも外部の人間である必要はないが、地域の中の人間であっても、学生時代に一度その地域を離れた経験のあるような方がその役割を果たすことが多い。
それにしても、ここまで徹底して外で会食するのもすごい。
もっとも、家で食事をすることも大事だと思うが・・・。でも、そんな中途半端ではいけないのかもしれない。
=====================
そして、動物的な本能を大切にし、毎日やんちゃになんでも吸収すると、創造的な発想が生まれてきます。
いつもと違う鮮やかな色のネクタイをしてみる、黒ではなく茶色い靴を履いてみる、メガネのデザインを思いっきり変えてみる。
そんな外的変化で自分の感覚が新鮮に変わり、周囲の見る目にもオヤッという驚きが表れ、硬かった頭が動き始めます。
=====================
一つの組織に長年属したりしていると、普段と違う動作をすることへの抵抗感が大きくなる。
それが仕事の進歩を妨げているとすれば最悪である。
たまに違うファッションをする試みから始めるべきだというのは、的確なサジェスチョンである。
何より「動物的な本能を大切に」というのが良い。
もう1つの記事は、元ラグビー日本代表の平尾誠二さん。
【以下抜粋】
=====================
僕らが若かった頃、スポーツに限らず何かを教わること、指導を受けることには常に「鍛える」という厳しさがありました。
先生や監督と僕らの間には明確な上下関係と距離があり、生徒や選手には、与えられた厳しい課題を苦しみながら達成していくことがいつも求められました。
質より量を重視する練習には無駄もあり、非効率な面も少なくなかったと思います。
その後、時代が変わるとそんな非効率はやめよう、無駄をなくそうという考えが主流になってきました。
上から押しつけるのではなく、指導者は選手と対等な立場で成長をサポートする。
いってみれば「鍛える」から「育てる」へシフトしたということです。
ところが最近は、どうもそれだけで足りないんじゃないか、基礎的な部分でしっかりと「鍛えられた」ベースがない人は、なかなかうまく育たないんじゃないかという声が、指導の現場で聞かれるようになってきました。
最近は、「鍛える」ことが教育や指導の現場で、もう一度重要なキーワードになってきたのだと思います。
=====================
確かに少年時代のスポーツの練習は、きわめて理不尽だった。
中学時代、野球部の練習ではよくグラウンドを何十周もグルグル走らされた。
失敗すると「けつバット」を受けた。
いわゆる“スポ根”だが、当時は当たり前だった。
大学になっても、ラグビー部の練習はやたらと長時間で、気合いで乗り切るメニューも多く、とても科学的とは言えなかった。
でも、あれがなかったら、自分はもっと意志の弱い、ひ弱な人間だったような気がする。(気のせいなのかどうかは、神のみぞ知るが。)
「鍛える」ことの是非については、スポーツの世界だけでなく、近年の学校、地域、職場など、あらゆる分野に共通するテーマのように思う。
政治も、経済も、地域社会も、これまでと異なる段階に突入している感があり、人材育成の手法も、常に見直しをかけなければならない。
もちろん単に時計の針を戻すような懐古主義ではいけないが、行き過ぎた現代をどう是正するか、常に考えていくことも大切であろう。
先日、飛行機の中で朝日新聞を読んでいたら、広告欄に「人材」をテーマとする記事を2つ見つけた。
1つは、藤巻兄弟社の藤巻幸夫さん(弟)だ。
【以下抜粋】
=====================
僕は、今、日本に息づいている伝統の技や暮らしの文化に強い関心を持っています。
100年200年と続く産業が、見捨てられるようなことがあってはならないと思っている。
決して大量生産型消費や効率経済を否定するわけではありませんが、その一方で、一度失ったら取り返せない技術や文化の衰退に危機感を感じます。
しかし、生産当事者だけでは、なかなか販路の広がりを見いだせないのが現状ですね。
=====================
これは、地域活性化に携わる者にとっての命題そのものである。
全国各地で直面しているのが、中心商店街の活力低下、伝統産業の衰退だ。
現代社会の急激な変化の中で、長年にわたる先人の営みを簡単に見捨てることがあってはならない、という気持ちは多くの日本人の間で共有されているように思う。
問題は、その解決方策である。
=====================
そのために僕に何ができるかと言えば、企画を考えつつ、人と人をつないでいくことです。
あの人とあの人を会わせたら素晴らしい仕事になっていくのではないかと思い巡らせる。
結局、仕事は人次第。人こそが財産だし、人こそがブランドなんですね。
僕は、一年のうち正月の三が日しか家で食事をしない。
それ以外は毎日、誰かとランチや夕食を共にしています。
それぐらい人に会います。
年下だろうが、すぐに仕事に結び付かなかろうが関係ない。
=====================
地域に根ざした産業の活力源となる重要なリソースの一つは、外部の人材との交流やコラボレーションだ。
そのためには、その地域に関心を持ちつつ、他の地域との接点を見出していく、いわゆる“コーディネーター”の役割は重要である。
もちろん、コーディネーターは必ずしも外部の人間である必要はないが、地域の中の人間であっても、学生時代に一度その地域を離れた経験のあるような方がその役割を果たすことが多い。
それにしても、ここまで徹底して外で会食するのもすごい。
もっとも、家で食事をすることも大事だと思うが・・・。でも、そんな中途半端ではいけないのかもしれない。
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そして、動物的な本能を大切にし、毎日やんちゃになんでも吸収すると、創造的な発想が生まれてきます。
いつもと違う鮮やかな色のネクタイをしてみる、黒ではなく茶色い靴を履いてみる、メガネのデザインを思いっきり変えてみる。
そんな外的変化で自分の感覚が新鮮に変わり、周囲の見る目にもオヤッという驚きが表れ、硬かった頭が動き始めます。
=====================
一つの組織に長年属したりしていると、普段と違う動作をすることへの抵抗感が大きくなる。
それが仕事の進歩を妨げているとすれば最悪である。
たまに違うファッションをする試みから始めるべきだというのは、的確なサジェスチョンである。
何より「動物的な本能を大切に」というのが良い。
もう1つの記事は、元ラグビー日本代表の平尾誠二さん。
【以下抜粋】
=====================
僕らが若かった頃、スポーツに限らず何かを教わること、指導を受けることには常に「鍛える」という厳しさがありました。
先生や監督と僕らの間には明確な上下関係と距離があり、生徒や選手には、与えられた厳しい課題を苦しみながら達成していくことがいつも求められました。
質より量を重視する練習には無駄もあり、非効率な面も少なくなかったと思います。
その後、時代が変わるとそんな非効率はやめよう、無駄をなくそうという考えが主流になってきました。
上から押しつけるのではなく、指導者は選手と対等な立場で成長をサポートする。
いってみれば「鍛える」から「育てる」へシフトしたということです。
ところが最近は、どうもそれだけで足りないんじゃないか、基礎的な部分でしっかりと「鍛えられた」ベースがない人は、なかなかうまく育たないんじゃないかという声が、指導の現場で聞かれるようになってきました。
最近は、「鍛える」ことが教育や指導の現場で、もう一度重要なキーワードになってきたのだと思います。
=====================
確かに少年時代のスポーツの練習は、きわめて理不尽だった。
中学時代、野球部の練習ではよくグラウンドを何十周もグルグル走らされた。
失敗すると「けつバット」を受けた。
いわゆる“スポ根”だが、当時は当たり前だった。
大学になっても、ラグビー部の練習はやたらと長時間で、気合いで乗り切るメニューも多く、とても科学的とは言えなかった。
でも、あれがなかったら、自分はもっと意志の弱い、ひ弱な人間だったような気がする。(気のせいなのかどうかは、神のみぞ知るが。)
「鍛える」ことの是非については、スポーツの世界だけでなく、近年の学校、地域、職場など、あらゆる分野に共通するテーマのように思う。
政治も、経済も、地域社会も、これまでと異なる段階に突入している感があり、人材育成の手法も、常に見直しをかけなければならない。
もちろん単に時計の針を戻すような懐古主義ではいけないが、行き過ぎた現代をどう是正するか、常に考えていくことも大切であろう。
2009年08月18日
農村文明と木島平村
7月末に長野県北部の木島平村を訪問した。
この村は、“いのち”の循環そのものを体感することのできる村だ。
村を囲む豊かな山林では、ブナが育ち、繁り、倒壊する。ブナが倒れた箇所は、森の中に光が差し込む“ギャップ”を形成し、新たな樹木の誕生を促す。
こうしたサイクルが数十年で繰り返されるのである。
湿原にはニッコウキスゲやミズバショウが咲き乱れる。
山から里へと向かって美しい扇状地が開け、ブナ林から伏流水となって里に名水が湧き出る。
この水は、全国トップレベルの美味しいコシヒカリを生産する豊かな田の水利となり、村民が日々口にする美味しい飲み水となる。
美しい水は、村の特産品を生み出す。
最近、この村で誕生した名物そば「名水火口(ぼくち)そば」を生み出したのもこの水である。つなぎには、「雄山火口」(おやまぼくち)というヤマゴボウの一種が使われているという。
今回の旅程では、国際日本文化研究センターの安田喜憲教授とご一緒させていただいた。
安田教授は、世界文明を生み出し、人類の繁栄を支え続けてきた森・川・里・海の循環の重要性を説く「環境考古学」の創始者である。
そもそも人類とは、太古の昔より“森の民”だという。
都市に人口が集積し、産業や金融が発展し、欧米のリードにより経済のグローバル化が進んできたのは、たかだかここ数百年。
この間、都市文明は、工業生産性や生活の“利便性”を高めることを目的として、自然と対峙し、自然を破壊し続けてきた。
こんな都市文明に対し、本来、人類が森・川・里・海の循環の中で、自然と共生し肥沃な大地の上で、豊かな農耕生活を営々と築いてきた「農村文明」こそが、人類の悠久の歴史そのものである。
昨年来、世界的な経済危機に直面し、経済合理性や利潤最大化一辺倒のグローバル経済に少なからぬ人々が疑問を抱き始めた。
今こそ、国土の多くが森林として残されている日本は、持続可能な人類社会に向けて、世界人類共通の長い歴史に裏付けられた「農村文明」、「自然との共生」といった価値観をあらためて提唱すべきではないか。
どんな取り組みも、日本の伝統文化にそむくことは、長期的に見て成功しない。
物質的に豊かなのが都市であることは確かだが、農村が大切にすべきものは豊かな「心」。
難しいテーマだが、行政が宗教心をどう取り込んでいくかも、これからの課題。
・・・若い者にも気さくに語りかけてくださる安田先生の話は、世の中の真理を追求する強烈な主張である。迫力と説得力、そして魅力に満ちている。
1年ほど前に聞いた、気仙沼でカキ養殖を営む畠山重篤さんは、この理論の実践家と言えよう。
ところで、この村の高社山(こうしゃさん)という山にはスキー場があるが、パラグライダー発祥の地でもあり、夏場には山頂近くから飛び立つ方々が多数。
田園の美しい豊かな農村風景を上空から眺めたら、さぞかし感動するだろうと想像するけれども、自ら試す勇気までは・・・。
昨年4月からこの村の副村長の任にある総務省の後輩である戸梶晃輔くんに「やってみたら」と勧めるの精一杯であった。
この村は、“いのち”の循環そのものを体感することのできる村だ。
村を囲む豊かな山林では、ブナが育ち、繁り、倒壊する。ブナが倒れた箇所は、森の中に光が差し込む“ギャップ”を形成し、新たな樹木の誕生を促す。
こうしたサイクルが数十年で繰り返されるのである。
湿原にはニッコウキスゲやミズバショウが咲き乱れる。
山から里へと向かって美しい扇状地が開け、ブナ林から伏流水となって里に名水が湧き出る。
この水は、全国トップレベルの美味しいコシヒカリを生産する豊かな田の水利となり、村民が日々口にする美味しい飲み水となる。
美しい水は、村の特産品を生み出す。
最近、この村で誕生した名物そば「名水火口(ぼくち)そば」を生み出したのもこの水である。つなぎには、「雄山火口」(おやまぼくち)というヤマゴボウの一種が使われているという。
今回の旅程では、国際日本文化研究センターの安田喜憲教授とご一緒させていただいた。
安田教授は、世界文明を生み出し、人類の繁栄を支え続けてきた森・川・里・海の循環の重要性を説く「環境考古学」の創始者である。
そもそも人類とは、太古の昔より“森の民”だという。
都市に人口が集積し、産業や金融が発展し、欧米のリードにより経済のグローバル化が進んできたのは、たかだかここ数百年。
この間、都市文明は、工業生産性や生活の“利便性”を高めることを目的として、自然と対峙し、自然を破壊し続けてきた。
こんな都市文明に対し、本来、人類が森・川・里・海の循環の中で、自然と共生し肥沃な大地の上で、豊かな農耕生活を営々と築いてきた「農村文明」こそが、人類の悠久の歴史そのものである。
昨年来、世界的な経済危機に直面し、経済合理性や利潤最大化一辺倒のグローバル経済に少なからぬ人々が疑問を抱き始めた。
今こそ、国土の多くが森林として残されている日本は、持続可能な人類社会に向けて、世界人類共通の長い歴史に裏付けられた「農村文明」、「自然との共生」といった価値観をあらためて提唱すべきではないか。
どんな取り組みも、日本の伝統文化にそむくことは、長期的に見て成功しない。
物質的に豊かなのが都市であることは確かだが、農村が大切にすべきものは豊かな「心」。
難しいテーマだが、行政が宗教心をどう取り込んでいくかも、これからの課題。
・・・若い者にも気さくに語りかけてくださる安田先生の話は、世の中の真理を追求する強烈な主張である。迫力と説得力、そして魅力に満ちている。
1年ほど前に聞いた、気仙沼でカキ養殖を営む畠山重篤さんは、この理論の実践家と言えよう。
ところで、この村の高社山(こうしゃさん)という山にはスキー場があるが、パラグライダー発祥の地でもあり、夏場には山頂近くから飛び立つ方々が多数。
田園の美しい豊かな農村風景を上空から眺めたら、さぞかし感動するだろうと想像するけれども、自ら試す勇気までは・・・。
昨年4月からこの村の副村長の任にある総務省の後輩である戸梶晃輔くんに「やってみたら」と勧めるの精一杯であった。
2009年06月01日
心の安寧
ある宗教家の話を聞いた。
「明治時代、高名な宗教家が布教活動を行った。目が見えない人、病気を持った人が信仰の話を聞いて、次々と良くなっていく。・・・」
といった話である。
西洋医学や科学に慣れ親しみ、世話になってきた私たちは「そんなこと起こるわけない。そんな非科学的なことで病気が治るなら世話ないわ」と考えがちだ。
しかし、である。
現代社会では、うつ病、自殺、DV(家庭内暴力)、児童虐待、いじめ、陰惨な無差別殺傷事件・・・心の持ち方を主因とした問題が、深刻さを増す一方である。
今の日本社会に巣食うこうした問題を、科学で解決できるとはどうも思えないのである。
人は何を拠りどころにして生きるのか、何のために生きるのか、どうすれば幸せに生きられるのか。
こうした問いに対し、科学的に明快な答えはない。
そして、精神と肉体は一体である。
精神が救われれば、健全な肉体を回復できる。
だから、宗教の話では、病気が治る話がよく登場するのだろう。
一方、宗教に対しては無理解、無関心な日本人が多い。
それどころか、宗教は何か怪しいもの、特別なものと思っている人もいる。
もちろん、特定の宗教に関わりを持たないことが問題なのではない。
しかし、どんなときにも心の安寧を保つための気構えは、ふだんから持つようにしておくべきである。
人生は何が起きるかわからない。
昨日まで当たり前にあった自分や身近な人の健康や財産、生命がいつ損なわれるかもわからない。
現に目の前で起こってしまった“不幸”をどう捉えればよいのか。
自分の不幸をひたすら嘆き悲しみ、心の整理ができず、心が折れてしまう人もいる。
どんなときも、心の安寧を保持できてこそ、人は生きられるのである。
最近、政治行政の重要課題が「安全」ではなく「安心・安全」と掲げられるのも、心の安寧を求める国民の声の反映であろう。
政教分離の原則があるため、行政の世界ではあまり語られることがないが、宗教には、この課題にこたえる大きな役割があるのではないかと思う。
いわゆる宗教でなくとも、日本人は全国津々浦々の自然物を八百万(やおよろず)の神として信仰してきたのである。
今後の日本人の心は、グローバルでドライな西洋流の価値観にのみ支配されることなく、こうした宗教心や、日本固有の伝統文化や社会風土に根ざした、心に浸み入る価値観を程よく織り交ぜる必要があろう。
ところで、一番身近な心の安寧の源は、やはり家族だと思うことがよくある。
妻と朝っぱらからけんかをして家を出た日は、一日中ブルーになる。頭痛がして元気もでない。
何だかんだ言う前に、まずは家族の無事と家族の心の安寧に努めることが第一歩のようだ。
「明治時代、高名な宗教家が布教活動を行った。目が見えない人、病気を持った人が信仰の話を聞いて、次々と良くなっていく。・・・」
といった話である。
西洋医学や科学に慣れ親しみ、世話になってきた私たちは「そんなこと起こるわけない。そんな非科学的なことで病気が治るなら世話ないわ」と考えがちだ。
しかし、である。
現代社会では、うつ病、自殺、DV(家庭内暴力)、児童虐待、いじめ、陰惨な無差別殺傷事件・・・心の持ち方を主因とした問題が、深刻さを増す一方である。
今の日本社会に巣食うこうした問題を、科学で解決できるとはどうも思えないのである。
人は何を拠りどころにして生きるのか、何のために生きるのか、どうすれば幸せに生きられるのか。
こうした問いに対し、科学的に明快な答えはない。
そして、精神と肉体は一体である。
精神が救われれば、健全な肉体を回復できる。
だから、宗教の話では、病気が治る話がよく登場するのだろう。
一方、宗教に対しては無理解、無関心な日本人が多い。
それどころか、宗教は何か怪しいもの、特別なものと思っている人もいる。
もちろん、特定の宗教に関わりを持たないことが問題なのではない。
しかし、どんなときにも心の安寧を保つための気構えは、ふだんから持つようにしておくべきである。
人生は何が起きるかわからない。
昨日まで当たり前にあった自分や身近な人の健康や財産、生命がいつ損なわれるかもわからない。
現に目の前で起こってしまった“不幸”をどう捉えればよいのか。
自分の不幸をひたすら嘆き悲しみ、心の整理ができず、心が折れてしまう人もいる。
どんなときも、心の安寧を保持できてこそ、人は生きられるのである。
最近、政治行政の重要課題が「安全」ではなく「安心・安全」と掲げられるのも、心の安寧を求める国民の声の反映であろう。
政教分離の原則があるため、行政の世界ではあまり語られることがないが、宗教には、この課題にこたえる大きな役割があるのではないかと思う。
いわゆる宗教でなくとも、日本人は全国津々浦々の自然物を八百万(やおよろず)の神として信仰してきたのである。
今後の日本人の心は、グローバルでドライな西洋流の価値観にのみ支配されることなく、こうした宗教心や、日本固有の伝統文化や社会風土に根ざした、心に浸み入る価値観を程よく織り交ぜる必要があろう。
ところで、一番身近な心の安寧の源は、やはり家族だと思うことがよくある。
妻と朝っぱらからけんかをして家を出た日は、一日中ブルーになる。頭痛がして元気もでない。
何だかんだ言う前に、まずは家族の無事と家族の心の安寧に努めることが第一歩のようだ。
2009年02月07日
日本の横綱・朝青竜
相撲界がいろいろなことで揺れている。
大麻や暴力などは論外であり、語る気にもならない。
しかし、“横綱としての自覚・品格に欠ける”として頻繁に問題を起こしている朝青竜は、批判されるべき点、謝罪すべき点があるにしても、私はどうしても好きなのである。
確かに、初場所でカムバック後の優勝を決め、土俵上でガッツポーズをした際には「あちゃー、それをやっちゃうか??やばいじゃろ〜!」と思ったけれど(そして案の定あとで大問題に)。
また、言葉少なく謙虚な力士の方が(面白くはないけれども)一般には好感が持てるとも思う。
しかしそれでも、朝青竜の闘争心あふれる仕切りや、勝ったときの「どうだ!」と言わんばかりの勝ち誇った表情には、鳥肌が立つ。
これは理屈でなく、強い横綱を見たい、という本能的なものと言わざるを得ない。
麻生総理がにこやかに語った「やっぱり横綱は強くなくっちゃ!」という言葉にはとても共感できる。
そしてもう1つ。
優勝後のインタビューで「朝青竜、帰ってきました!」「日本大好きなんで。日本の横綱なんで。」とのコメントは、何度も涙を拭いながら聞いた。
何でこんなに泣けてしまったか。
強烈なパワーと個性を持つこの外国人力士の奔放なパフォーマンスには、苦々しい思いを持つ人も多いかもしれない。
それはそれで良くわかる。
でも、そんなじゃじゃ馬のような横綱が、われらが日本のことを思い、日本のことを自分のアイデンティティと感じてくれている。
いつもクラスメイトを困らせているケンカ番長が実は母校のことを誰よりも愛していると知ったような気分だ。
いずれにしても、これは日本人として最高に嬉しいこと、喜ぶべきことである。
日本人として、涙を流して聞くに値するインタビューだったと思う。
大麻や暴力などは論外であり、語る気にもならない。
しかし、“横綱としての自覚・品格に欠ける”として頻繁に問題を起こしている朝青竜は、批判されるべき点、謝罪すべき点があるにしても、私はどうしても好きなのである。
確かに、初場所でカムバック後の優勝を決め、土俵上でガッツポーズをした際には「あちゃー、それをやっちゃうか??やばいじゃろ〜!」と思ったけれど(そして案の定あとで大問題に)。
また、言葉少なく謙虚な力士の方が(面白くはないけれども)一般には好感が持てるとも思う。
しかしそれでも、朝青竜の闘争心あふれる仕切りや、勝ったときの「どうだ!」と言わんばかりの勝ち誇った表情には、鳥肌が立つ。
これは理屈でなく、強い横綱を見たい、という本能的なものと言わざるを得ない。
麻生総理がにこやかに語った「やっぱり横綱は強くなくっちゃ!」という言葉にはとても共感できる。
そしてもう1つ。
優勝後のインタビューで「朝青竜、帰ってきました!」「日本大好きなんで。日本の横綱なんで。」とのコメントは、何度も涙を拭いながら聞いた。
何でこんなに泣けてしまったか。
強烈なパワーと個性を持つこの外国人力士の奔放なパフォーマンスには、苦々しい思いを持つ人も多いかもしれない。
それはそれで良くわかる。
でも、そんなじゃじゃ馬のような横綱が、われらが日本のことを思い、日本のことを自分のアイデンティティと感じてくれている。
いつもクラスメイトを困らせているケンカ番長が実は母校のことを誰よりも愛していると知ったような気分だ。
いずれにしても、これは日本人として最高に嬉しいこと、喜ぶべきことである。
日本人として、涙を流して聞くに値するインタビューだったと思う。
2009年01月16日
出力倍増!
「出力倍増」。
これが新年の目標である。
自分で勝手につくった目標ではあるが、以下、少し解説してみたい。
昨年の流行語大賞になった“アラフォー”とは40歳前後の、特に女性を指すそうだが、ともあれ私もアラフォーの年代に入ってきた。
一般に、40歳前後ともなれば、10数年の社会経験・人生経験を経て、職場においてもある程度の役割を与えられるようになる。
この段階で、さらにネジを巻き直して、良い仕事、良いアウトプットを出す努力を一段と強めてみようと考えたわけである。
アラフォーなら、これまで蓄積した仕事経験によって、ラクに仕事をする術を知っているわけだから、“従来と同じ程度の出力で済まそう”と思った瞬間に、大した仕事ができなくなるように思う。
何かを進めようとする際に、想定されるリスクが目に浮かぶため、リスクを冒さない方向に走り、弁明ばかり考え、果ては許すまじき“事なかれ主義”の悪弊に陥る懸念すらある。
あと一歩踏ん張ればやれる仕事も、漫然と大儀だな〜と思った途端に成し遂げられなくなる。
一歩前に出れば、社会にインパクトを残せるはずなのに。
でも、だからといって、忙しくしているばかりでは出力倍増にはならない。
何かに追われて仕事をしているだけでは、視野狭小に陥るのが関の山だ。
仕事において「出力倍増」するためには、発想の転換、イノベーションが必要である。
特に、組織で働く者としては、自分だけでなく、職場の同僚の士気を鼓舞し、常に新鮮な気持ちで物事に取り組む組織風土を作り出す努力も必要になってくると思う。
ただ、ここでいう「出力」という言葉は、今のところ厳密に定義していない。
経済用語でいえば「労働生産性」に当たるのかもしれない。
が、しかしそれだけではなく、自己実現、家庭生活、地域社会、国民福祉・・・およそ人が生きる上でかかわるすべての場面において生み出される付加価値をイメージしている。
また、「出力倍増」とは、個人の目標であると同時に、社会の変革目標にもなりうる。
少子高齢化で人口が減る中にあっても、一人々々の出力が倍増すれば、幸福度は向上するはず。
個人の趣味、文化芸術、音楽、スポーツといった分野はもちろん、日常的なちょっとした場面でも、これまで出力されなかった分野で、少しずつ出力を高めていくことで、社会はずいぶん変わると思う。
男性が、育児や家事への出力を増やす。
専業主婦が社会への関わりを増やす。
無関心だった人が選挙の投票に行く。
電車やバスで、子どもやお年寄りや障害者をいたわる。
親が、学校教育や行事に協力する。
家庭や職場で、環境負荷を減らすための行動をとる。
笑顔と少し大きな声であいさつする。
軽い運動とカロリー控えて健康づくりをする。
・・・・・
「所得倍増」が国家的な目標だった頃は、人々はそれぞれの仕事をそれぞれに頑張れば、右肩上がりに所得は上がり、社会は豊かさを増したのだろう。
しかし、出力倍増の求められる現在、人々は、組織中心・タテ割り社会でそれぞれの仕事に一生懸命になるだけでは、社会は豊かにならない。
職場だけでなく、家庭や地域社会の一員として、自分の責任領域を再認識し、役割をしっかり果たしていかなければならない。
何も一人ですべてやる必要はない。複数の当事者でネットワーク的に実施すべきこともある。
社会全体でみた場合の「出力倍増」とは、自分の力量を発揮する場面を多元化するとともに、多様な人々の重層的ネットワークを駆使して、世の中を動かしていくことと言えるのかもしれない。
こうした「出力」のあり方について、今後、さらに考えを深めていこうと思う。
これが新年の目標である。
自分で勝手につくった目標ではあるが、以下、少し解説してみたい。
昨年の流行語大賞になった“アラフォー”とは40歳前後の、特に女性を指すそうだが、ともあれ私もアラフォーの年代に入ってきた。
一般に、40歳前後ともなれば、10数年の社会経験・人生経験を経て、職場においてもある程度の役割を与えられるようになる。
この段階で、さらにネジを巻き直して、良い仕事、良いアウトプットを出す努力を一段と強めてみようと考えたわけである。
アラフォーなら、これまで蓄積した仕事経験によって、ラクに仕事をする術を知っているわけだから、“従来と同じ程度の出力で済まそう”と思った瞬間に、大した仕事ができなくなるように思う。
何かを進めようとする際に、想定されるリスクが目に浮かぶため、リスクを冒さない方向に走り、弁明ばかり考え、果ては許すまじき“事なかれ主義”の悪弊に陥る懸念すらある。
あと一歩踏ん張ればやれる仕事も、漫然と大儀だな〜と思った途端に成し遂げられなくなる。
一歩前に出れば、社会にインパクトを残せるはずなのに。
でも、だからといって、忙しくしているばかりでは出力倍増にはならない。
何かに追われて仕事をしているだけでは、視野狭小に陥るのが関の山だ。
仕事において「出力倍増」するためには、発想の転換、イノベーションが必要である。
特に、組織で働く者としては、自分だけでなく、職場の同僚の士気を鼓舞し、常に新鮮な気持ちで物事に取り組む組織風土を作り出す努力も必要になってくると思う。
ただ、ここでいう「出力」という言葉は、今のところ厳密に定義していない。
経済用語でいえば「労働生産性」に当たるのかもしれない。
が、しかしそれだけではなく、自己実現、家庭生活、地域社会、国民福祉・・・およそ人が生きる上でかかわるすべての場面において生み出される付加価値をイメージしている。
また、「出力倍増」とは、個人の目標であると同時に、社会の変革目標にもなりうる。
少子高齢化で人口が減る中にあっても、一人々々の出力が倍増すれば、幸福度は向上するはず。
個人の趣味、文化芸術、音楽、スポーツといった分野はもちろん、日常的なちょっとした場面でも、これまで出力されなかった分野で、少しずつ出力を高めていくことで、社会はずいぶん変わると思う。
男性が、育児や家事への出力を増やす。
専業主婦が社会への関わりを増やす。
無関心だった人が選挙の投票に行く。
電車やバスで、子どもやお年寄りや障害者をいたわる。
親が、学校教育や行事に協力する。
家庭や職場で、環境負荷を減らすための行動をとる。
笑顔と少し大きな声であいさつする。
軽い運動とカロリー控えて健康づくりをする。
・・・・・
「所得倍増」が国家的な目標だった頃は、人々はそれぞれの仕事をそれぞれに頑張れば、右肩上がりに所得は上がり、社会は豊かさを増したのだろう。
しかし、出力倍増の求められる現在、人々は、組織中心・タテ割り社会でそれぞれの仕事に一生懸命になるだけでは、社会は豊かにならない。
職場だけでなく、家庭や地域社会の一員として、自分の責任領域を再認識し、役割をしっかり果たしていかなければならない。
何も一人ですべてやる必要はない。複数の当事者でネットワーク的に実施すべきこともある。
社会全体でみた場合の「出力倍増」とは、自分の力量を発揮する場面を多元化するとともに、多様な人々の重層的ネットワークを駆使して、世の中を動かしていくことと言えるのかもしれない。
こうした「出力」のあり方について、今後、さらに考えを深めていこうと思う。
2008年12月24日
メイク・ア・ウィッシュ
妻が「メイク・ア・ウィッシュ・オブ・ジャパン」の大野寿子さんの講演を聞いて、とても感銘を受けたというので、少し調べてみた。
HPによると、メイク・ア・ウィッシュとは、1980年にアメリカで発足した団体である。
「願いごとをする」意味のボランティア団体で、3歳から18歳未満の難病とたたかっている子どもたちの夢をかなえ、生きる力や病気と闘う勇気を持ってもらいたいと願って設立されたという。
設立のきっかけは、アリゾナに住む7歳の白血病の男の子の「警察官になる」という夢を、地元警察が名誉警察官として実現してあげたことだそうだ。
アメリカ国内のほか、27か国に支部を置いて活動しており、大野寿子さんは、日本支部の事務局長である。
日本では、今年8月現在までに、1200人以上の子どもの夢をかなえてきたという。
あるサイトに大野さんの話が掲載されていたので、少し引用すると・・・。
=========================
夢がかなうと誇らしげに堂々としてくるんです。
それはかなえてもらったからじゃなくて、かなえたからなんですね、自分で。
その気持ちがその子を変えていくんだと思います。
それまでは、いつもしてもらう一方であったり、あるいは家族に迷惑をかけているとか、そういう切ない思いを抱えている。
それが夢をかなえた瞬間から、病気のままでも自分でできたという思いが生まれ、自分がやったことで両親や周りの人もこんなに喜んでいるという、自分が喜びの発信地だということが、自信になるんじゃないかと思うんです。
=========================
「夢を自分でかなえる」って、難病の子どもたちに限らず、すべての子どもたち、いや、大人にとっても一番大切なことだと思う。
大きな夢でも小さな夢でもいい。
まず夢を持つこと、それに向かって突き進んでいくこと、そして少しでも実現していくこと。
これが人間の人生を豊かにするのは間違いない。
一方で、「最近の子どもには夢がない」「今の日本社会は閉塞感があり夢が持てない」といった論調がしばしば見られる。
これは、社会全体の問題である前に、一人一人の大人の姿勢の問題だと思う。
子どもに対し、目標になるような大人像を見せていくことが大人の役割である。
仕事に疲れたり、落ち込んだときでも、「こんな顔を子どもに見せたくない」と思うだけで、背筋が伸びるものだ。
いつも顔を上げ、ニコニコしている大人が多ければ、「あんな大人になりたい」「早く大人になって社会で活躍したい」と思う子どもも増えるはず。
卑近な例だが、たとえば電車で子どもを見かけたときに、二コッとしてあげられる余裕ぐらいは持ちたいものだ。
小さな子どもが騒ぐのに対しムッとした表情をする大人は多いと思うが、これは世の子連れのお母さん方にも相当プレッシャーをかけているに違いない。
周囲を気にして「すみません」と謝りながら、子どもに必要以上に厳しく叱りつけたり、途中下車を強いられる結果となる。
子どもも最低限のルール(座席に土足で上がらないとか)は守らなければならないが、ある程度騒いだり動いたりするのは許容範囲として笑って許せる大人たるべきだと思う。
次に、日本人のボランティア論を語っている。
=========================
例えば外国人が手伝いにきてくれる場合、「もしもし、今新宿にいて1時間ぐらい時間があるんだけど、なんかできることない」ってフットワークがいい。
それと比べて日本人は、「中途半端になったらかえってご迷惑だから」「月曜日から金曜日までいかなきゃいけませんでしょうか」「10時から5時まででしょうか」。
そういう声をたくさん聞いた時に、その生真面目さが結局、1歩も進めないものにするんだと思ったんですね。
・・・
でも、口先だけでも、1日だけでも、やらないより、やってくれる方が助かるんです。
=========================
ボランティア活動の責任論にはいろいろ議論がある。
ボランティアは、義務的な仕事とは異なり、「できる人が、できるときに、できる範囲で」行うのが基本であろう。
でも、だからといってボランティアは通常の仕事よりも責任が軽いということではない。
上記の例でいえば、「今から1時間ぐらい手伝う」と言った以上は、その時間の約束を守り、誠実に労働力を提供しなければ、信頼を失うこととなる。
信頼を失うことは、全人格的な問題であり、金銭的な対価を失う以上にシビアな面がある。
いずれにしても、この辺りの認識は当事者間のコンセンサス、社会のコンセンサスによって左右される要素が大きいので、具体的に個々の団体やボランティアといった当事者間で考え方を明確化し、共有する努力を続けていくべきであろう。
=========================
特にやりたいと思っているのは、学校で子どもたちにメイク・ア・ウィッシュの話をすることなんです。
あなたたちにも他人事じゃないのよ、と。
例えば10万人に1人病気になる子どもがいるということは、残りの9万9999人はその子のおかげで10万分の1の確率から逃れられたわけです。
その子のおかげであなたは10万人に1人にならなかった。
でも、その子が自分の力だけじゃできないんだとしたら、残りの9万9999人はその子の手伝いをしても当たり前じゃないのと。
・・・・
私は確信を持つんですけど、私たちの中には「自分さえよければ」と思う気持ちがあるけれど、それに負けないぐらい「誰かの役に立ちたい」という気持ちが強い。
それがDNAに組み込まれているって確信する。
========================
前段の例え話が適当なのかどうかはよく分からないが、しかし私たちの中に「誰かの役に立ちたい」DNAが組み込まれているのは、間違いないと思う。
だからこそ、人々の「思い」に支えられた公共・非営利の活動が成り立つのだ。
日本のような成熟国家においては、これまで以上に多くの人たちのDNAが本領発揮することがいよいよ期待される。
このDNAをいかに引き出し、具体的な活動に転化させ、社会の質的向上につなげていけるかが、勝負どころである。
ボランティアも、行政も、NPOも、企業CSRも、それぞれの舞台で「誰かの役に立ちたい」という思いを源に、ダイナミックに活動を展開していくことを期待したい。
HPによると、メイク・ア・ウィッシュとは、1980年にアメリカで発足した団体である。
「願いごとをする」意味のボランティア団体で、3歳から18歳未満の難病とたたかっている子どもたちの夢をかなえ、生きる力や病気と闘う勇気を持ってもらいたいと願って設立されたという。
設立のきっかけは、アリゾナに住む7歳の白血病の男の子の「警察官になる」という夢を、地元警察が名誉警察官として実現してあげたことだそうだ。
アメリカ国内のほか、27か国に支部を置いて活動しており、大野寿子さんは、日本支部の事務局長である。
日本では、今年8月現在までに、1200人以上の子どもの夢をかなえてきたという。
あるサイトに大野さんの話が掲載されていたので、少し引用すると・・・。
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夢がかなうと誇らしげに堂々としてくるんです。
それはかなえてもらったからじゃなくて、かなえたからなんですね、自分で。
その気持ちがその子を変えていくんだと思います。
それまでは、いつもしてもらう一方であったり、あるいは家族に迷惑をかけているとか、そういう切ない思いを抱えている。
それが夢をかなえた瞬間から、病気のままでも自分でできたという思いが生まれ、自分がやったことで両親や周りの人もこんなに喜んでいるという、自分が喜びの発信地だということが、自信になるんじゃないかと思うんです。
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「夢を自分でかなえる」って、難病の子どもたちに限らず、すべての子どもたち、いや、大人にとっても一番大切なことだと思う。
大きな夢でも小さな夢でもいい。
まず夢を持つこと、それに向かって突き進んでいくこと、そして少しでも実現していくこと。
これが人間の人生を豊かにするのは間違いない。
一方で、「最近の子どもには夢がない」「今の日本社会は閉塞感があり夢が持てない」といった論調がしばしば見られる。
これは、社会全体の問題である前に、一人一人の大人の姿勢の問題だと思う。
子どもに対し、目標になるような大人像を見せていくことが大人の役割である。
仕事に疲れたり、落ち込んだときでも、「こんな顔を子どもに見せたくない」と思うだけで、背筋が伸びるものだ。
いつも顔を上げ、ニコニコしている大人が多ければ、「あんな大人になりたい」「早く大人になって社会で活躍したい」と思う子どもも増えるはず。
卑近な例だが、たとえば電車で子どもを見かけたときに、二コッとしてあげられる余裕ぐらいは持ちたいものだ。
小さな子どもが騒ぐのに対しムッとした表情をする大人は多いと思うが、これは世の子連れのお母さん方にも相当プレッシャーをかけているに違いない。
周囲を気にして「すみません」と謝りながら、子どもに必要以上に厳しく叱りつけたり、途中下車を強いられる結果となる。
子どもも最低限のルール(座席に土足で上がらないとか)は守らなければならないが、ある程度騒いだり動いたりするのは許容範囲として笑って許せる大人たるべきだと思う。
次に、日本人のボランティア論を語っている。
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例えば外国人が手伝いにきてくれる場合、「もしもし、今新宿にいて1時間ぐらい時間があるんだけど、なんかできることない」ってフットワークがいい。
それと比べて日本人は、「中途半端になったらかえってご迷惑だから」「月曜日から金曜日までいかなきゃいけませんでしょうか」「10時から5時まででしょうか」。
そういう声をたくさん聞いた時に、その生真面目さが結局、1歩も進めないものにするんだと思ったんですね。
・・・
でも、口先だけでも、1日だけでも、やらないより、やってくれる方が助かるんです。
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ボランティア活動の責任論にはいろいろ議論がある。
ボランティアは、義務的な仕事とは異なり、「できる人が、できるときに、できる範囲で」行うのが基本であろう。
でも、だからといってボランティアは通常の仕事よりも責任が軽いということではない。
上記の例でいえば、「今から1時間ぐらい手伝う」と言った以上は、その時間の約束を守り、誠実に労働力を提供しなければ、信頼を失うこととなる。
信頼を失うことは、全人格的な問題であり、金銭的な対価を失う以上にシビアな面がある。
いずれにしても、この辺りの認識は当事者間のコンセンサス、社会のコンセンサスによって左右される要素が大きいので、具体的に個々の団体やボランティアといった当事者間で考え方を明確化し、共有する努力を続けていくべきであろう。
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特にやりたいと思っているのは、学校で子どもたちにメイク・ア・ウィッシュの話をすることなんです。
あなたたちにも他人事じゃないのよ、と。
例えば10万人に1人病気になる子どもがいるということは、残りの9万9999人はその子のおかげで10万分の1の確率から逃れられたわけです。
その子のおかげであなたは10万人に1人にならなかった。
でも、その子が自分の力だけじゃできないんだとしたら、残りの9万9999人はその子の手伝いをしても当たり前じゃないのと。
・・・・
私は確信を持つんですけど、私たちの中には「自分さえよければ」と思う気持ちがあるけれど、それに負けないぐらい「誰かの役に立ちたい」という気持ちが強い。
それがDNAに組み込まれているって確信する。
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前段の例え話が適当なのかどうかはよく分からないが、しかし私たちの中に「誰かの役に立ちたい」DNAが組み込まれているのは、間違いないと思う。
だからこそ、人々の「思い」に支えられた公共・非営利の活動が成り立つのだ。
日本のような成熟国家においては、これまで以上に多くの人たちのDNAが本領発揮することがいよいよ期待される。
このDNAをいかに引き出し、具体的な活動に転化させ、社会の質的向上につなげていけるかが、勝負どころである。
ボランティアも、行政も、NPOも、企業CSRも、それぞれの舞台で「誰かの役に立ちたい」という思いを源に、ダイナミックに活動を展開していくことを期待したい。
2008年11月12日
日本人の主体性
11月11日の日経新聞・経済教室に、北岡伸一東大教授「大転換期、共同で乗り切れ」が掲載されていた。
===========================
オバマ次期米大統領の下、米国はどこに向かうのか。
現在の米国は、おそらく1945年以来の転換の中にある。
傷ついたのは、モラルリーダーシップである。
米国を偉大ならしめてきたのは自由と民主主義の擁護者としてのモラルリーダーシップ(道義的指導力)であって、それなしには、米国はただの大国にすぎない。
極端な保護主義に走ることになれば、国際協調にとっては打撃であり、米国のリーダーシップを損なう。
===========================
ロシア、中東、北朝鮮など各国との外交政策について議論した後、日本について次のように述べられている。
===========================
オバマ政権になれば、対日政策はどうなるか・・・我々はこういう議論を散々聞かされてきた。
だがこういう考え方は、問題の本質を突いていない。
世界をどうすべきか、米国自身が悩んでいるのである。
米国とともに、世界をどうするか、一緒に考えるという姿勢が必要だ。
オバマ政権になれば親中国になるという懸念をいう人がいる。
それも順序が違う。
米国がモラルリーダーシップを維持しようとすれば、価値を共有するパートナーと組むのがよいことは明らかである。
日本は当然のパートナーである。
しかし日本が当てにならないのならば、次善の手段として、価値は共有していなくても当てになるパートナーを探すことになる。
オバマ政権が親中になるか親日になるかは、かなりの程度、日本自身の選択なのである。
日本の問題は、必ずしもねじれ国会のせいではない。
たとえばインド洋における給油は、なぜ1年の時限立法なのか。
連立与党への配慮のためではないか。
もっと政府開発援助(ODA)を増やせないのは財務省の反対のせいではないか。
平和維持活動にもっと参加できないのは、自衛隊や警察や内閣法制局のせいではないのか。
45年以来の大転換に遭遇しているのに、政府一丸となった必死の努力が見られないのである。
日本は、自らの潜在的能力を自分で拘束し、進んで二流の国家になろうとしている。
自己卑小化とでもいうべきだろうか。
これでは頼りになるパートナーにはなりえない。
===========================
たまたま外交政策論を取り上げたが、これに共通する問題は、外交に限らずわが国の様々な分野において気になることである。
官僚批判、政治主導の流れの中で、官僚がタテ割りのタコツボの中にこもってしまい、「物事を決めるのは政治だから」と消極的になり、自分の職責をとがめられることのないように(もちろん表から見れば「与えられた職責をしっかりと果たすべく」と見ることもできるわけだが)という姿勢で仕事をしているように見える。
官僚個人の所属は「○省○局○課職員」であるが、それ以前に“国家”公務員であることを忘れてはならないと思う。
政治家とともに、日本国を背負っているのが官僚なのであり、国民からそう期待されていることも忘れてはならない。
そもそも、こういう気概を忘れたら、国家公務員になった意味がない。
関連する話として、最近、日本の政治や行政やメディアの姿勢、さらに国民の基本姿勢が、色々なことに対して客観的あるいは受身的に見えることが多い。
「世の中こういうものなんだ」ということを唯々諾々と受け入れた上で、指導的立場にある人の無能力さを批判したり、自分たちの無力感を嘆いたりする。
確かに指導者がしっかりすべきことは言うまでもないが、しかし、他人のことをどうこう言う前に、自分ができること、社会のためになすべきことを、日本人一人々々が考え、もう一歩前に出ようと行動すべきではないか。
オバマ氏の「Yes,we can」とは、私が大統領になったらこうします、というだけでなく、アメリカ国民の主体的行動をも求める訴えではないのか。
「施しを待つのではなく、国民自身が、米国のために何ができるか」と訴えたケネディ大統領に通じるものがあるのではないか。
環境問題にしろ、教育問題にしろ、治安問題にしろ「あなたならどうしますか?」と問われたら「いや、それはどこかの偉い人が考えることで・・・」なんて言わずに、「行政は行政、企業は企業、学校は学校で、それぞれ組織として責任ある仕事をしてもらいたいが、自分個人としても、地域としても、こういう取り組みをしていくんだ」という国民一人々々の決意にもとづき、全国津々浦々に主体性あるダイナミズムが生まれることを日本社会に期待したい。
===========================
オバマ次期米大統領の下、米国はどこに向かうのか。
現在の米国は、おそらく1945年以来の転換の中にある。
傷ついたのは、モラルリーダーシップである。
米国を偉大ならしめてきたのは自由と民主主義の擁護者としてのモラルリーダーシップ(道義的指導力)であって、それなしには、米国はただの大国にすぎない。
極端な保護主義に走ることになれば、国際協調にとっては打撃であり、米国のリーダーシップを損なう。
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ロシア、中東、北朝鮮など各国との外交政策について議論した後、日本について次のように述べられている。
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オバマ政権になれば、対日政策はどうなるか・・・我々はこういう議論を散々聞かされてきた。
だがこういう考え方は、問題の本質を突いていない。
世界をどうすべきか、米国自身が悩んでいるのである。
米国とともに、世界をどうするか、一緒に考えるという姿勢が必要だ。
オバマ政権になれば親中国になるという懸念をいう人がいる。
それも順序が違う。
米国がモラルリーダーシップを維持しようとすれば、価値を共有するパートナーと組むのがよいことは明らかである。
日本は当然のパートナーである。
しかし日本が当てにならないのならば、次善の手段として、価値は共有していなくても当てになるパートナーを探すことになる。
オバマ政権が親中になるか親日になるかは、かなりの程度、日本自身の選択なのである。
日本の問題は、必ずしもねじれ国会のせいではない。
たとえばインド洋における給油は、なぜ1年の時限立法なのか。
連立与党への配慮のためではないか。
もっと政府開発援助(ODA)を増やせないのは財務省の反対のせいではないか。
平和維持活動にもっと参加できないのは、自衛隊や警察や内閣法制局のせいではないのか。
45年以来の大転換に遭遇しているのに、政府一丸となった必死の努力が見られないのである。
日本は、自らの潜在的能力を自分で拘束し、進んで二流の国家になろうとしている。
自己卑小化とでもいうべきだろうか。
これでは頼りになるパートナーにはなりえない。
===========================
たまたま外交政策論を取り上げたが、これに共通する問題は、外交に限らずわが国の様々な分野において気になることである。
官僚批判、政治主導の流れの中で、官僚がタテ割りのタコツボの中にこもってしまい、「物事を決めるのは政治だから」と消極的になり、自分の職責をとがめられることのないように(もちろん表から見れば「与えられた職責をしっかりと果たすべく」と見ることもできるわけだが)という姿勢で仕事をしているように見える。
官僚個人の所属は「○省○局○課職員」であるが、それ以前に“国家”公務員であることを忘れてはならないと思う。
政治家とともに、日本国を背負っているのが官僚なのであり、国民からそう期待されていることも忘れてはならない。
そもそも、こういう気概を忘れたら、国家公務員になった意味がない。
関連する話として、最近、日本の政治や行政やメディアの姿勢、さらに国民の基本姿勢が、色々なことに対して客観的あるいは受身的に見えることが多い。
「世の中こういうものなんだ」ということを唯々諾々と受け入れた上で、指導的立場にある人の無能力さを批判したり、自分たちの無力感を嘆いたりする。
確かに指導者がしっかりすべきことは言うまでもないが、しかし、他人のことをどうこう言う前に、自分ができること、社会のためになすべきことを、日本人一人々々が考え、もう一歩前に出ようと行動すべきではないか。
オバマ氏の「Yes,we can」とは、私が大統領になったらこうします、というだけでなく、アメリカ国民の主体的行動をも求める訴えではないのか。
「施しを待つのではなく、国民自身が、米国のために何ができるか」と訴えたケネディ大統領に通じるものがあるのではないか。
環境問題にしろ、教育問題にしろ、治安問題にしろ「あなたならどうしますか?」と問われたら「いや、それはどこかの偉い人が考えることで・・・」なんて言わずに、「行政は行政、企業は企業、学校は学校で、それぞれ組織として責任ある仕事をしてもらいたいが、自分個人としても、地域としても、こういう取り組みをしていくんだ」という国民一人々々の決意にもとづき、全国津々浦々に主体性あるダイナミズムが生まれることを日本社会に期待したい。




