国際問題

2008年11月12日

日本人の主体性

11月11日の日経新聞・経済教室に、北岡伸一東大教授「大転換期、共同で乗り切れ」が掲載されていた。

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オバマ次期米大統領の下、米国はどこに向かうのか。

現在の米国は、おそらく1945年以来の転換の中にある。

傷ついたのは、モラルリーダーシップである。
米国を偉大ならしめてきたのは自由と民主主義の擁護者としてのモラルリーダーシップ(道義的指導力)であって、それなしには、米国はただの大国にすぎない。

極端な保護主義に走ることになれば、国際協調にとっては打撃であり、米国のリーダーシップを損なう。

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ロシア、中東、北朝鮮など各国との外交政策について議論した後、日本について次のように述べられている。

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オバマ政権になれば、対日政策はどうなるか・・・我々はこういう議論を散々聞かされてきた。
だがこういう考え方は、問題の本質を突いていない。

世界をどうすべきか、米国自身が悩んでいるのである。
米国とともに、世界をどうするか、一緒に考えるという姿勢が必要だ。

オバマ政権になれば親中国になるという懸念をいう人がいる。
それも順序が違う。
米国がモラルリーダーシップを維持しようとすれば、価値を共有するパートナーと組むのがよいことは明らかである。
日本は当然のパートナーである。
しかし日本が当てにならないのならば、次善の手段として、価値は共有していなくても当てになるパートナーを探すことになる。
オバマ政権が親中になるか親日になるかは、かなりの程度、日本自身の選択なのである。

日本の問題は、必ずしもねじれ国会のせいではない。

たとえばインド洋における給油は、なぜ1年の時限立法なのか。
連立与党への配慮のためではないか。
もっと政府開発援助(ODA)を増やせないのは財務省の反対のせいではないか。
平和維持活動にもっと参加できないのは、自衛隊や警察や内閣法制局のせいではないのか。
45年以来の大転換に遭遇しているのに、政府一丸となった必死の努力が見られないのである。

日本は、自らの潜在的能力を自分で拘束し、進んで二流の国家になろうとしている。
自己卑小化とでもいうべきだろうか。
これでは頼りになるパートナーにはなりえない。

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たまたま外交政策論を取り上げたが、これに共通する問題は、外交に限らずわが国の様々な分野において気になることである。

官僚批判、政治主導の流れの中で、官僚がタテ割りのタコツボの中にこもってしまい、「物事を決めるのは政治だから」と消極的になり、自分の職責をとがめられることのないように(もちろん表から見れば「与えられた職責をしっかりと果たすべく」と見ることもできるわけだが)という姿勢で仕事をしているように見える。

官僚個人の所属は「○省○局○課職員」であるが、それ以前に“国家”公務員であることを忘れてはならないと思う。
政治家とともに、日本国を背負っているのが官僚なのであり、国民からそう期待されていることも忘れてはならない。
そもそも、こういう気概を忘れたら、国家公務員になった意味がない。


関連する話として、最近、日本の政治や行政やメディアの姿勢、さらに国民の基本姿勢が、色々なことに対して客観的あるいは受身的に見えることが多い。

「世の中こういうものなんだ」ということを唯々諾々と受け入れた上で、指導的立場にある人の無能力さを批判したり、自分たちの無力感を嘆いたりする。

確かに指導者がしっかりすべきことは言うまでもないが、しかし、他人のことをどうこう言う前に、自分ができること、社会のためになすべきことを、日本人一人々々が考え、もう一歩前に出ようと行動すべきではないか。

オバマ氏の「Yes,we can」とは、私が大統領になったらこうします、というだけでなく、アメリカ国民の主体的行動をも求める訴えではないのか。
「施しを待つのではなく、国民自身が、米国のために何ができるか」と訴えたケネディ大統領に通じるものがあるのではないか。

環境問題にしろ、教育問題にしろ、治安問題にしろ「あなたならどうしますか?」と問われたら「いや、それはどこかの偉い人が考えることで・・・」なんて言わずに、「行政は行政、企業は企業、学校は学校で、それぞれ組織として責任ある仕事をしてもらいたいが、自分個人としても、地域としても、こういう取り組みをしていくんだ」という国民一人々々の決意にもとづき、全国津々浦々に主体性あるダイナミズムが生まれることを日本社会に期待したい。

shigetoku2 at 06:27|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2008年04月23日

チベットって・・・

読売新聞の記事に、「中国とチベット/主権と仏教のはざま」(平野聡東京大学准教授)があった。

いま話題のチベット問題だが、チベットの歴史については全くといっていいほど知らなかった。
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チベット仏教は当初から、インド仏教の正統を継ぐという意識で、民族や文化の違いを超えたさらなる広がりを目指していた。
とくに14〜15世紀の僧・ツォンカパが創始したゲルク派(黄帽派)は、広くモンゴル人にも受け容れられた。

17世紀の北東アジアに興り、「中国」をも支配に組み込んだ満州人の帝国・清は、同盟者であるモンゴル人と自らがともに信仰するゲルク派の仏教を保護するため、1720年までにチベット高原全体を版図とした。

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さらに専門書を紐解いてみると、もともとチベット仏教は、元の時代、明の時代を通じて歴代皇帝の熱狂的信仰もあって、王朝から厚遇されたようである。
しかし、これによりチベット僧の横暴と堕落を招いたため、これを改革し厳格な戒律を実行したのがゲルク派であり、僧侶が着用する僧帽の色から、黄帽派とも呼ばれたそうである。(山川出版社『詳説世界史研究』より)

やはり中国の歴代王朝が、広大な国土を支配する上で、特定宗教を利用したのは必然性があったのだろう。
しかし、近代に入るまで、その支配は直接的ではなかったようである。
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もっとも、この時点のチベットは「中国」ではない。
清は「天下」支配を目指す世界帝国であり、その中に「中国」と、チベット・モンゴルなど独自の政治社会を持ちながら皇帝の強い保護の下にある「藩部」、そして朝貢国が含まれていた。

しかしその後、清が近代国際関係に組み込まれて朝貢国を失い、清の官僚や近代中国ナショナリストが「清=天下を統べる帝国」から「清の残された範囲=近代主権国家・中国」へと発想を変える中で、チベットの運命も激変した。

「チベットも中国の主権に従うべきだ」と考えた彼らは、チベット独自の政治と社会を否定して近代化を進め、漢字文化と「愛国主義」を共有する均質な「中国人」に改めようとした。

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帝国主義時代の植民地政策が台頭する中で、このように清国が転換した方向性は、当時としては先進諸国と類似したものだったと言えるのだろうが、こうした流れが現在まで続いているところに中国の問題があるようだ。

この記事は次のように結んでいる。
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ダライ・ラマの高度自治構想(香港と類似の一国二制度)を中国が拒否するのは、高度自治の範囲が現状を大きく変更する「大チベット」であることに加え、ダライ・ラマの影響力が高度自治を通じて強まり、中国の国家統合が風化することを恐れるためである。
しかし、それに応じない限り、チベット問題で改めて大きく損なわれた中国の国際的な名誉が回復される見込みは薄い。
これもまた中国が自ら招いた難題である。

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北京オリンピックを前に、世界中でこの問題をめぐる混乱が生じてきており、中国がいったいどのようにこの「難題」に取り組むのか分からないが、われわれ他国人の立場からは、まずその背景や歴史を少しでも正確に知ることから始めるべきかもしれない。

shigetoku2 at 00:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2005年10月24日

ロシア論

たまたまラジオで、青山学院の袴田茂樹教授の「日露両国の相互認識」という番組を聴いた。

ロシアでは、東方進出の野心から、ピョートル大帝時代の1705年から日本語学校が置かれ、ラックスマンが来日したりする一方、19世紀末にはジャポニズム(日本の古典文学)が大流行するなど、日本の文化をずいぶん受容してきたそうだ。

また、日本人の感性も、不思議とロシア人と共通するところがあり、黒澤明が映画化したドストエフスキーの「白痴」は、ロシア映画よりも本質を捉えているとロシア国内で評されているとのこと。

歴史的な背景として、日本とロシアは、ともに19世紀後半から欧米列強に遅れて民主主義国の仲間入りを果たしたという親近感があるのではないか、と袴田教授は見解を述べている。
また、大恐慌時代には、自由主義国でもニューディールなどの国家主導の経済政策がとられたし、戦後日本ではマルクス思想がずいぶん広まった経緯もある。

最近でも、ロシアでは、村上春樹、村上龍、吉本ばなな、俵まちらの文学が大売れで、特に村上春樹は、日本の小説というよりは、成熟社会の最先端の世界観を表す文学として、広くロシア人に読まれているそうだ。

普段、アメリカ、そして最近では中国・韓国の国民が、日本をどう見ているかを意識する程度の私たちだが、ロシア人のこういう認識を知るのは嬉しい。

しかしある調査によると、70%の日本人がロシアをネガティブなイメージで捉えているという状況にあるそうだ。

寒く、共産主義の統制国家のイメージの強いロシアだが(と断じること自体問題だが)、本当は、自由奔放な国民性らしい。
バイアスを排し、認識を改める必要がありそうだ。

shigetoku2 at 01:39|PermalinkComments(0)TrackBack(0)