ちょっとした気づき

2010年06月12日

夢の国の楽しみ方?

先日、久しぶりに東京ディズニーランドに遊びに行った。

私はもともとディズニーランドはあまり好きではなく(幼少のころは好きだったはずなのだが・・・)、これまで何度か妻や子どもといやいや付き合って行ったことしかない。

うまく言えないのだが、ディズニーランドは、無理にウキウキ気分にならなきゃいけないような強迫観念みたいなものがあるようだ。

そこで今回は、いやそんな風に無理する必要はない、大人の乗りこなし(?)を心がければいいんだ、と割り切ってみた。
子どものころ読んだ本を大人になって読み返すとき、別の楽しみ方ができるような感覚だろうか。(ちょっと違うか。)


しかし実際には“大人の乗りこなし”もなかなか大変。

最初に乗ったスペースマウンテンでは、真っ暗闇でのアップダウンで、いきなり酔いそうになった。こんなに過激な乗り物だっけ??

ジャングルクルーズの船頭さんのナレーションのテンションが高く、トークを楽しむより、「これを一日中続けるのは並大抵の努力ではないだろうな〜」と他人事ながら心配になり、勝手に“疲れ”を共有してしまった。

初めて乗ったバズ・ライトイヤーのアストロブラスターは、宇宙空間を移動しながらのシューティングゲームである。ルールが最初よく分からず、途中から一生懸命撃ち始めたが、なかなか的に当たらない。点数は長男に完敗。

例外的にスターツアーズだけは昔から好きなのだが、他のアトラクションが60分、90分待ちだったのに、なぜかスターツアーズは5分で入れてしまった。
なぜ人気がないんだ?なぜ空いていたんだ〜!?

その他、カリブの海賊、ピーター・パン、スプラッシュマウンテン、ビッグサンダーマウンテン、ホーンテッドマンション、小さな世界(It's a Small World)、白雪姫・・・。
さらには普通の遊園地にもあるメリーゴーランド、ティーカップ・・・朝から閉園時刻の22時まで、ほぼ休憩なしで14種類のアトラクションに乗った。

・・・これが“大人の乗りこなし”である。(汗)
(もちろん子どもたちは大喜びである。)


ところで今回は、ファスト・パスをうまく使いこなせたことがポイントの1つといえよう。

ファスト・パスは、優れた仕組みである。

あらかじめアトラクション入場口付近にある発券機にパスポート(入場券)を挿入しファストパス券を取得、券に記載された時間に再度そのアトラクションを訪れることによって、専用入場口から入場でき、通常混雑時より並ぶことなくアトラクションを体験できるというもの。
無料で利用できる。
ただし、一度発券すると、記載された指定時間を過ぎるか2時間経過しないと、他のアトラクションで発券することはできない。
」(wikipediaより)

ファスト・パスが発券されるのは、スプラッシュマウンテンなどいくつかの人気アトラクションに限られ、また枚数にも限りがあるので、すべての人気アトラクションをファストパスで、というわけにはいかない構造になっている。

そこで、ファスト・パスで予約を入れながら、それまでの時間は予約の取れない別のアトラクションに、待ち時間を考えながら並ぶのである。

つまり、どういう順番と組み合わせで乗るのか、自分の頭で考えて決めることができる。

その意味は非常に大きいと思う。
人間は、少し主体性を持てると、より楽しく過ごせるのである。

ディズニーランドは、この仕組みによって、待ち時間の表示を見てウンザリしながらも、ひたすら待ち続けるだけのディズニーランドから脱却したのだ。

すごい仕組みだ。誰が考えたのだろう?


今回改めて気がついたのだが、ディズニーランドのレストランにはアルコールが置かれていない。

また、子ども連れへの対応についても、従業員はよく教育されて、レストランでは食物アレルギーへの対応もしっかりしている。

ジュースのお代わり(無料)も、頼みもしないのに店員さんが「お代わりいかがですか?」と聞いてくれる。


夢の国は、やはり究極のサービス業である。

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2010年06月07日

次世代の公共の担い手

慶応大学の1〜2年生でつくるフロントランナーという勉強会グループ代表の松下英樹くんの依頼を受け、講演をする機会があった。

当日、日吉キャンパスの教室には、法学部から理工学部、医学部まで文理を問わず、幅広いメンバーが20人ぐらい集まった。

私からは、“1億総当事者”の精神で、社会にイノベーションを起こそう!という話をさせてもらった。

若者と年輩者、男性と女性、官と民、教員と親、政治家と有権者、組織の中枢と現場・・・これらは本来理解し合い、補い合う関係であるべきだが、昨今では排他的だったり対立したりして、社会に大きな壁やスキマが生まれてしまっている。

ほっといても今日より明日が豊かになる時代はとっくに終わり、日本の先行きが見えにくくなっている中、他者を批判したり、社会を他人任せにしていても仕方がない。

すべての人が社会を良くする当事者として、社会活動に参画すること。
現場や人の心といった基本を大切にすること。
日常的な小さな不満や疑問に気づき、それを他者への批判に終わらせず、自らの力で物事を改善する気構えで、日本の公共にイノベーションを起こしていこう、というような話をした。


しかし、そんなことを言うまでもなく、いまの学生は、NPOやボランティア活動に取り組む人が増えてきている。

当日聞いた中でも、イギリス発祥のクリケットを日本に広めるNPOに参画したり、ネパールの子どもたちに本を送ったり、児童養護施設でボランティアをしたり・・・。

私たちの世代がただの理想や想像で終えていたものを、実際に活動に身を投じ、肌で体得しようとしている。
彼らは、バブルに踊らされず、確かなものを求める世代といわれているのである。


ところで、渋谷から日吉に向かう東横線で、女性専用列車に乗り込んでしまった。
降りるまで気づかなかったのだが、あとになってみれば、なんとなく周囲からの視線が厳しかったような・・・。

毎朝使っている東急田園都市線では、最後尾が女性専用なので、間違えて乗ることはないが、正直言ってこの仕組みは、男であること自体が犯罪予備軍と言われているような気がして、あまり気分の良いものではない。
これも社会のスキマなのだろうか・・・。

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2009年12月14日

モヤイは、いただいた

渋谷駅を歩いていたら、あのモヤイ像がなくなっていることに気がついた。

モヤイはいただいたたくさんの人たちに交じって、“犯行現場”をケータイで撮ってきた。

ネットで調べてみると、アニメのルパン三世に盗んでほしいものを募集する「LUPIN STEAL JAPAN PROJECT」というのが始まっている。

モヤイ像は、もともと1980年に新島村が渋谷区に寄贈したものだそうで、私も学生時代にはハチ公以上にしょっちゅう待ち合わせに使っていただけに愛着がある。

モヤイ像の跡には「お問い合わせは新島観光協会へ」と看板が立っているので、今回の“事件”の真相解明には、まず同協会に電話してみることだろう。


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2009年09月11日

どじょうすくいのお菓子

島根県の方がお土産に持ってきてくださったお菓子が面白かった。

どじょうすくい見てのとおり、「どじょう掬いまんじゅう」だ。
パッケージが手ぬぐいの色になっている。

こういうお菓子のアイディアは素晴らしい。
ユーモアがあり、見た目のインパクトもある。

どじょうすくいは、島根県発祥の安来節に起源を持つそうだ。

このお菓子の製造元の中浦本舗(松江市)の解説にはこう書いてある。
=======================
日本の民謡の中でユーモアのあふれる安来節は、明治の初め安来に住む渡辺お糸が安来節として東京の浅草で歌ったのが全国大流行の始まりと言われておりますが、元歌は出船入船で賑わった堺港で、各地の民謡からアレンジされた歌で元禄の頃より始まったとされております。
=======================

やはり昔は人やモノとともに文化が、海を通じ、港に集まったのだ。

こういう歴史を背景とする産品は、どんなものであれ心に残る。

美味しかったです。ごちそうさまでした。

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2009年03月30日

ネットが浸透した生活

自宅のパソコンのハードディスクが壊れてしまったので、電機屋さんに修理に出し、10日間ほどで直って却ってきた。

パソコンがないと、メールやブログが書けないのはもちろんだが、そのほかにもいくらか気づきがあった。

まず、家に帰ってからの時間が長く感じる。

つまり、メールチェックなどパソコンに向かう時間が減る分、アナログの時間が増えるのである。
夫婦の会話も増え、その日の出来事を振り返るようになる。
プチ・スローライフという感じだ。


一方、圧倒的に“不足感”を感じたのが、ネット検索とニュースの2つの機能だ。
裏を返せば、日常的にネットで最も利用しているのがこの2つということであろう。

たとえば、電車の路線図や時刻表とか、店の場所や電話番号、営業時間など、ちょっとしたことが調べられない。
以前は電話で聞いたりしていたのだろうが、ネット検索に慣れていると不便きわまりない。

また、ネットでニュースを見られないので、新聞やTVニュースを見るようになる。
最近では主なニュースはネットで目に入ってくるので、新聞などの情報源は、補完的に必要あれば見る程度になっていたように思う。


あらためて、現代人の生活にはインターネットが溶け込んでいると感じさせられた。

そして、ネットの普及は、現代人の生活を慌ただしくさせている。

今も昔も1日は24時間しかないが、ネットは人々の1日の過ごし方を効率化させ、同じ時間の中で、以前よりも多くのことを見聞きできるようになっている。

私の場合、職場に届くメールやネット情報も、職場で見る暇がなければ自宅に転送して家で見たりする。
職場と家を連続化・一体化させ、それぞれにおける時間配分をコントロールしていると言えよう。

また、気になる音楽も、以前なら、レンタル屋さんでCDを借りて、ダビングまでしていたのに、今ではYouTubeで視聴しておしまい。


昔ならば、もう少し1つずつのことに執着する余裕があったような気もするが、今ではたくさんの事柄を日々こなし続けている。

一方で、スローライフや農村生活へのあこがれも、現代人の志向だ。

利便性の高まる今(そして将来)も良いが、ゆっくりとした昔も良かった。
IT革命による時代の流れは不可逆だが、生活の効率化・利便化という一方向だけでなく、ゆっくりと過ごす選択肢も失いたくない。
IT革命の果実は、“選択肢の増加”ととらえたい。


たまにはパソコンが故障して、こういう振り返りをしてみるのも良いかもしれない。

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2009年03月07日

えせ専業主夫の1日

妻が出かける用事があったので、平日に1日休暇をとった。

この日はほぼ1日、“専業主夫”で、朝から色んなことがあった。

まず、三男(2歳)の検診のため、歯医者に行った。
あいにくの天気だったので、傘をさしながら抱っこで歩いていった。
本当は小さな傘を持って歩かせたかったのだが、途中で「歩けない。抱っこして〜」と言われると、子供の長ぐつの泥で私の服が汚れる。
しかも彼は、生意気にもベビーカーに乗りたがらない。
しかたなく、最初から最後まで抱っこする選択肢しか残らなかったのである。
重たかった。

歯医者の次は、小学校へ長男の授業参観に。
3時間目と4時間目を見に行った。
ところが途中から三男坊が騒ぎ始め、授業参観どころでなく、廊下でまたずっと抱っこ。
教室の中の方が暖かいので、「中に入ろうよ」と言っても、どうしても「いやだ!」と言う。
仕方なく廊下側の窓からずっと授業を覗いていたら、やがて三男は寝てしまった。

あー眠たかったのか!そうと分かっていたらベビーカーを持ってきて寝かせたのに!

が、いよいよ抱っこしているしかない。
寝た子は、起きてるとき以上に重く感じる。
先日痛めた腰がまた悪くなりそうだ。

給食の様子まで見届け、次は昼ごはんを食べに家に帰る。
くたびれたので、朝の残りのごはんと納豆と味噌汁だけで済ませる。(この辺りが“主夫”としてまだまだ甘いが。)

今度は、幼稚園が14時に終わるので、次男を迎えに。
でも、雨足が強まっていたので、マイカーで向かう。
実は幼稚園の前にクルマを止めておくスペースはないのだが、一瞬だけ路上に停車して、すぐ次男を連れてくれば大丈夫だろうと踏んで、園が終わる時刻ちょうどを目指して家を出た。
予定通り14時ピッタリに園に着いたのだが、そんなときに限って、終わる時間が遅れている。
このため、園の裏側のクルマがすれ違えないほど狭い道に「別のクルマが来ませんように」と祈りながら、停車して時間調整。
10分ほど後に、次男をピックアップ。

さて14時20分ごろには長男が学校から帰ってくる予定なので、急いで帰らなければ。
しかし、帰りの道路はなんと渋滞。
しかも、途中で、職場から携帯に電話がかかってきたので、またしばし停車。

ようやく到着し、家の駐車場にクルマをとめたが、次男坊がぐずぐずしてクルマから降りてこない。
すでに長男が帰ってくるはずの時刻を過ぎていたので、「先に家に戻ってるから、クルマのドア閉めてこいよ!」と言い残して、三男を抱きかかえて階段を上がった。

が、長男がどこにもいない。
もしカギが開いてなくても、すぐ帰るから、家の前で待ってろと言ってあったのだが・・・。
晴れた日なら、家の周りで遊んでいるだろうが、雨なので、友達の家に行ってしまったか、学校に戻ったのか?見当がつかない。

しかたないので、学校に電話をかけ、「まだ帰ってきてないのですが、そちらを何時に出たのでしょうか?」と尋ねてみた。
最初に副校長先生が出て、担任の先生に代わり、「ちょっとクラスが終わるのが遅くなってしまったので、もう家に着くころだと思うんですけど」との回答。
・・・という話をしているところへ、ちょうど長男が帰ってきた。
何のことはない。クラスの終了時間も少しは遅かったのかもしれないが、それ以上に、どうやら友達と道草食っていて遅くなったらしい。
担任の先生は産休代替で先日着任されたばかりの若い先生だ。
まったく責めるつもりはなかったのだが、「今後は時間どおりに終えるようにします。申し訳ありません」とお詫びをされてしまった。こちらこそ申し訳ありません。

さて続いて、3時15分からは、長男・次男のピアノのレッスンだ。
余裕を持って家を出ようと思ったその時、三男がうんち。
お尻にべっとり付いていたので、シャワーで洗い流し、おむつを換えた。

結局時間ぎりぎりになってしまい、大慌てで家を出ようとしたら、次男が「楽譜が1冊見つからない〜」と騒ぎ出す。
少し探したら見つかったので、泣きべそかいてる次男坊の手さげ袋に入れて、家を飛び出した。

しかも、先ほど「クルマのドア閉めてこい」と言っていたにもかかわらず、次男はスライドドアを閉めてこなかったらしい。
駐車場へ回り、クルマのドアを閉め、ロックしてから、レッスンへと向かった。
雨なので、ちょっとした行動がめんどくさい。

雨の中、また三男を抱きかかえながら、10分ほど早足で歩いた。
クルマが通るたびに、後ろを振り返り、ついてくる上の2人に「クルマが来たぞ!端っこに寄れよ!」と注意を促す。
ピアノ教室に着いたころには、腕が限界。(うちの三男坊は肉付きがよく、けっこう重たいのである。)

レッスンは当然1人ずつなので、もう1人は黙って聞いていなければならない。
さらに一緒にいる三男がおとなしくしているはずもない。
私としては、とにかくレッスンを妨害しないよう、騒ぎ出そうとするガキどもを封じ込めるのに必死である。
教室に折り紙が置いてあるので、それでヒコーキを作ったりしながら、なんとかしのぐ。先生の指導内容は、半分も聞くことができない。

さて、ピアノの先生に「ありがとうございました」と言って建物を出ると、三男が、雨で濡れた地面で滑って転び、大泣き。・・・また抱っこだ。

腕と腰への負担がピークになる頃に家に着くと、次は晩ごはんの支度だ。
食材を切ったり混ぜたりしてたら、次男や三男がわらわらと寄ってきて、「手伝いたい!」と言うので、「じゃあ一緒に混ぜ混ぜしよう!」とかなんとか言って、一緒に作業。(といってもほとんど戦力になるはずもなく、煩わしいだけなのが、お手伝いも教育のうちと思い、“笑顔”で「役に立つなー、お前たちは!」。この辺りになると、さすがに自分で自分を褒めてやりたいぐらいだ。)

ところが。
アレルギー体質の三男が、何にどう反応したのか、じんましん発生。
かゆさの余り、不機嫌になる。かわいそうに。
薬を見つけたので、薬を飲みやすくするため、大好きなあんこに練りこんで食べさせたら、かゆさよりも「あんこ食べた〜い!」が続く。
一口ずつ小分けにあげていたら、何度も「もっと食べる〜」と言うので、やむなく最後はドカッとあげて、黙らせた。


・・・そうこうするうちに、ついに妻が帰宅。

結局、晩ごはんのおかずは妻がササッとつくってくれた。
やっぱり手際がいい。
妻はすごいな、と思いながら、みんなで食卓を囲んだ。


それにしても、たまの専業主夫でもくたくたである。
この文章を読み返すだけでも、どっと疲れが出る。

日々専業主婦をしている妻へのいたわりと敬意、そして感謝が必要だと思った。

と同時に、育児支援や男女共同参画、女性の社会進出を本気で語るには、男性陣による“専業主夫体験”の共有が必要だとも思った。

世の男性(もちろん私を含む)は、お母さん方の昼間の状況をほとんど知らずに、夜中に酔っ払っていい気分で帰ってくるのだから・・・。

shigetoku2 at 09:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2009年02月02日

バス中にて

休日に、三男坊(2歳)を連れて外出したら、帰りに眠ってしまったので、抱っこしてバスに乗ったのだが、これが満席。

こういう時、座っている人との間合いが難しい。

「席譲った方がいいかな?」と思ってくれている人の“気”を感じるのだが、こちらもこちらで男子のプライド(?)として2歳児を抱える程度のことが肉体的につらいという姿を見せたくない。
あえて余裕をかますのである。
救いを求めるような目で誰かと目が合うといけないので、平然と遠くに視線を向ける。(でも実はうちの三男坊は結構重たいのである。)

そうすると、譲ろうかと思ってくださる方も、“断られるリスク”を感じ、黙ってしまう。

自身の強がりにもかかわらず、私は「それでも誰か譲ってくれないかな〜?」と心の中で思う。
他の皆は「誰か譲ってやれよ」と心の中でつぶやく。
誰も目を合わせようとしない。

・・・とっても気まずい空気が醸成されるのである。

もっとも、申し出が断られるケースでは、もっと気まずい空気になることがある。
ひどいときには、譲りかけた席に誰も座らず、車内は混んでいるにもかかわらず席が1つだけ、ポッカリと空いたままの状態になったりする。

しかし間違いなく言えるのは、席を譲ることに“成功”した場合には、譲った側も譲られた側も、さらに周囲の人たちも、とってもハッピーな気持になることである。
譲ってもらった人が降車時に、譲ってくれた人に挨拶を交わすシーンなどに遭遇すると、「日本社会もまだまだイケるじゃないか〜!」と思ってしまう。

・・・きわめて典型的なテーマであるが、たまに譲られる(可能性のある)立場に立つ経験を他山の石としながら、気持ちの良い社会のコミュニケーションを心がけていきたい。

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2008年11月10日

健康マラソンに参加して

世田谷健康マラソン」(10km)に参加した。

マラソンと名の付くものに参加するのは、学生時代にホノルルマラソンを走って以来。
ちゃんと走るのはものすごく久しぶりだから、3ヶ月前に参加費1000円払って申し込んだときには、よっぽど練習しないといけない・・・と思っていたのだが。

申し込み直後は、やる気満々で、何度か近所の公園で走ったのだが、その後あまり練習もせず・・・。
気がついたら本番の2週間前になり、あわてて毎朝走ることにしたが、3日続けて走ったらひざの調子が悪くなってしまったりして(いや〜冴えない)。

特に、前日に酒を飲んでたりすると、翌朝の練習では、アルコールが再び体内を回り始め、高地トレーニングに匹敵するぐらい(?)体をいじめる練習となった。

結局、準備不足のまま本番を迎えることになってしまったが、結果は予想以上で、360人といわれる参加者の中で、36位の45分06秒。

もともと学生時代まで得意だった長距離走が、少しは体に残っていたか。
それとも“高地トレーニング”の成果だろうか。(んな訳ないか)


ところで今回、1つ試してみたことがある。

スタートの際、最後尾から走ってみたのである。

それは、次の素朴な疑問を解決するためであった。
〆埜緘からスタートラインまで、どのぐらいかかるのだろう?
∈埜緘からスタートする人のタイムって、いつ、どこからカウントするのだろう?

【答え】
。隠吃団度だった。まあ360人ならそんなものか。
東京マラソンのように2万人以上走るレースになると、20分以上かかるらしい。
スタートする前に気分が悪くなりそうだ。

∧垢い討澆燭箸海蹇∈2鵑侶鮃マラソンでは、ゼッケンにICタグが付いていて、スタートラインを通過してからゴールラインを通過するまでのタイム(“ネットタイム”)であった。
しかし、本当のマラソンでは、一斉スタートの時点から計測する“グロスタイム”が公式記録だそうだ。


それにしても、やっぱり練習と本番では、ぜんぜん違う。

一人で練習しているときには、ちょっときつくなってくると「別にここでやめたって構わないんだぜ・・・」という悪魔のささやきとの戦いになる。
それもほんの1〜2km走った辺りからささやきが始まるのだ。
学生時代には、そんなささやきに負けた記憶はないのだが、30代後半ともなると、やたらと自分に甘くなる。
くじけそうで、くじけそうで、本当につらくなる。

それに比べ、大勢の人たちと一緒に走る本番は、やっぱり違う。
まず、スタート前には、10数年ぶりだろうか、アドレナリンが体内から発せられる感覚を味わった。
そして、やはり競争は大事だ。
途中、何人かのランナーと抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げた。
体が悲鳴を上げそうになっても、前後に走っている人がいると、くじけずに走れる。
まして、前方のランナーを捕らえられそうだと思うと、俄然力が湧いてくる。

そんな風にして走りながら、「やっぱり競争のない中央省庁による政策立案より、自治体間で政策を競い合う方が、頑張って良い政策が作れるはずだ」などと妙なところで“地方分権の必要性”を確信したりした。(職業病である。)

少しおかしなマラソンではあったが、やっぱり体を動かすことは良いことだ。
来年もまた参加したいと思う。

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2008年08月16日

英語教育への洞察

富山県に「でるくい」という県職員による政策情報誌がある。

職場の先輩である岡本全勝さんが富山県に出向されていたときに発刊した冊子である。

過去の投稿は、全部HPで見れるようになっている。
「でるくい」とは、“杭も出すぎりゃ打たれない 打てるものなら打ってみろ”との趣旨で付けられたタイトルのようである。

先日、岡本さんから今年発刊された号を手渡されたので、読んでみた。
その中で、ALT(外国語指導助手)のローラ・ティムリングさんという方が書いた、洞察力ある論文が印象に残った。

【以下、ほぼ引用】
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ESOL(English for Speakers of Other Languages 母国語が英語以外の人たちのための英語)の教授技術と応用法を大学で学び、さらに保育所や高校で教師経験を積んで、私は海外(日本)で英語を教える準備が整ったと思った。

ところが、現実は非常に厳しい見方をしていた友人と同じで、ESOLとEFL(English as a Foreign Language 外国語としての英語)教育とは全く別物であることを思い知らされた。

アメリカの高等教育では英語の流暢さが不可欠で、英語読解力なしには将来の自立と成功の可能性が極めて小さいか、全くないという厳しい現実が待ち受けている。

一方、日本ではバイリンガルであることが就職上有利であったり、旅行や国際的なコミュニケーションを容易にしたりするなど、経済的動因が働きもするが、キャリア形成の上では英語を必要としない。
日本で居心地よく暮らし、様々な国へパック旅行もでき、英語の教科書を手にする必要の全くないまま人生を終えることすらできる。

「日本語を完全に話すことができるのに、なぜ英語の勉強に煩わされなければならないの?」と尋ねる生徒がいたが、彼らはその質問に対する回答を探している。

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一般に、日本人が英語が苦手といわれるのは、まさにこうした理由が大きいと思う。

私たちが中高生の頃から、「これからは英語が大事」と言われ続けてきたが、その割りに現実には、あえて英語を使う仕事や外国人の伴侶でも選ばない限り(とまで言うのは言いすぎかな?)、英語など使わずとも仕事や生活には何の支障もない人が相当多いはずだ。

人間はインセンティブの生き物なのである。
英語を使いもしないのに、常に磨いておく、勉強しておくなんていうのは、よっぽど意志の強い人でなければできない。

子どもたちにとって、将来何の役に立つのか分からないという意味では、理科も数学も同じようなものかもしれないが、こと語学教育に関しては、目的意識が特に重要なのであろう。
現状では、入学試験という目標が唯一無二という生徒も多いはず。

彼らが探しているという“回答”をいかに与えてあげられるか、それは親や教育者の重要な役割だ。


さて次に、ローラさんは、実際に英語を教える上でのキーポイントを指摘している。

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英語教師自身が英語を日常的に、あるいは自信を持って話すことを恥ずかしいと思っているか、生徒の前で間違いを犯すことを恐れすぎているのではないか。

間違えることは、教えるときや学ぶときに、最も効果的かつ重要な手法である。
毎年、私は新一年生に間違えることを恐れないよう伝える。
私はクラスの全員を前にして、日本語で話して間違える。
私の日本語が未熟なこともあるが、これが生徒をリラックスさせるからである。

日本人英語教師が間違いを認め、自分自身の間違いを笑い飛ばせば、授業はもっと生徒たちに身近なものになるだろう。
人は励ましのある中で正された間違いは忘れず、次には間違えなくなるものだ。

日本の教育において、個性と教師の間違いがなかなか受け入れられない傾向にあるが、これらこそが、外国語学習に多様性と関心を植えつけるために必要とされているものだと思う。

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これは、実に痛快な指摘だ。逆転の発想と言っても良い。
「でるくい」にふさわしいと言えようか。

私の中高生時代にも、外国人が来ると隠れてしまうような英語の先生がいたものだ。

先生は、少なくとも大半の生徒よりは上手に話せるはずなんだから、堂々としゃべり、堂々と間違えれば良かったのではないかと思う。
しゃべりで間違えて下がる権威より、逃げたことによる権威失墜の方がよっぽど大きいはずだ。

こんなことは、社会の人間関係でいえば、初歩中の初歩だ。
いつも“自分はこんなにできるんだぞ、お前に教えてやる”と言っておきながら、肝心なところで逃げるような人間を誰が信頼しようか。

まあ先生と生徒の場合には、社会人の人間関係よりも、もう少し微妙な関係があるような気もするが・・・。

しかし、子どもたちのためにも、あえて自分の失敗をさらけ出せるぐらいの度量のある先生であれば、生徒は信頼し、ついてくるように思う。
学校教育がいろいろと取り沙汰される昨今だが、良くも悪くも、生徒にとって教師は最大の模範である。
自信を持って子どもたちを導いて行ってほしい。


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2008年08月07日

ラグビー場で思うこと

帰省したついでに、母校の高校ラグビー部の練習を見に行った。

私の同級生が、監督としてチームを率いているが、ケガ人が多いようで、練習に参加していたのは1・2年生あわせて13人だった。(3年生は春の大会で引退するのである。)


さて私が高校・大学7年間のラグビー生活を振り返って、反省していることの1つに、「練習が自己目的化してしまう」ことが挙げられる。

たとえばオフェンス2人が、ディフェンス1人をパスでかわして抜く練習がある。
「2vs1」と呼ばれるメニューだ。

本来技術を磨く練習だが、1つ1つの動きをチェックすることを怠り、炎天下で単調に延々と繰り返すと、体力ばかり消耗する練習になってしまう。
「これは体力練か?」と勘違いしてしまいそうだ。

実際の試合では、フォワードがモールサイドを攻撃したり、モールやラックからタマがなかなか出てこなかったりと、バックスにタマが供給される状況は様々だ。
基礎練習とはいえ、スクラムハーフ(SH)からタマを出すタイミングを少し変えてみるとか、タマ出しの位置を前後左右に動かしてみるとか、少しでも実戦に近づける工夫をすべきだ。

少し練習方法を変えてみるだけで、選手が試合のイメージを持ちやすくすることが可能なはず。

・・・と、こんなことを思いながら、高校生の練習ぶりを見ていると、ついついあれこれ言いたくなってしまうのだが、大学生ならともかく、高校生、とりわけ1年生はラグビー経験も浅く、体もできていない。
監督いわく「シゲの言うことはよく分かるが、まだその段階じゃないので、秋口あたりから徐々に実戦に近い練習をしていくつもり」。

そりゃそうだ。
高校生はまず基礎プレー、そして体づくりをちゃんとやらなきゃ、ケガにつながる。

それに、そもそも現役選手にとって、たまにしか顔を出さないOBからつべこべ言われることほど嫌なことはない。(これも、私の7年間の教訓である。)


一方で、OBの重要な役割は現役のための資金集めである。

資金があれば、選手の練習環境は色んな面で向上する。
練習用の道具を購入できるし、遠征試合もできる。
プロテインなどの栄養サプリメントも調達できるようになる。

いまやプレーの面ではなかなか胸も貸せないOB20年目の先輩としてできることは、こうした後方支援が中心となろう。

何より、(実社会と違って??)純粋な気持ちで頑張っているラガーメンは、自然に心から応援したくなる存在である。

会費集めの場でもある毎年お正月のOB会にもっと大勢のOBが参加するよう、呼びかけをしていきたい。

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