NPO

2010年09月25日

災害救助犬を育てよう

子どもたちと一緒に、解体中の狛江市立第七小学校へ災害救助犬の訓練を見学しに行った。

災害救助犬は、がれきに埋もれる人間の臭いをかぎつけ、発見するとワンワン吠えて知らせる、災害時には欠かせない存在である。

もとはと言えば、長男が「出動!災害救助犬トマト」の読書感想文を書き終えた8月終わり頃、ある新聞記事を目にしたのがきっかけだ。

災害救助犬や聴導犬、介助犬を育成するアジア・ワーキング・ドッグ・サポート協会傘下のS.A.R.D.(SEARCH AND RESCUE DOG)東京事務所代表・下條哉子さんが、実践的な訓練場所を探し求めて、中学時代の同級生である狛江市役所の課長さんに相談した。
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市内ではちょうど、小学校の解体工事が予定されており、副市長さんが新潟県中越地震の救助活動のご経験があり理解が深かったこともあって、今回の訓練の実現に至ったという。

何事も熱意と人脈、そしてタイミングが重要だ。




災害救助というと、さぞかし体が大きくて強そうな犬が勢揃いしてるんだろうと想像していたのだが、さにあらず。

ラブラドールリトリバーやシェパードのような大型犬ももちろんいるが、毛の手入れの行き届いたプードル、ちょこまかと動き回るダックスフントなど、愛らしい飼い犬がそのままがれきの上に登場する。
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小型犬は、斜面を登るのが大変だったりするが、狭い隙間をかいくぐって救助にあたることができるので、一概に不向きとは言えないそうだ。

2010_0920_130252-P9200106また、災害救助犬としての適性は、犬の種類とか嗅覚能力よりも、個々の犬の性格的な要素のほうが大きいという。たとえば、神経質すぎる犬は災害現場のような非日常の場所には不向きだったりする。

人間の場合と重ね合わせても、想像がつく話だ。


ところで訓練の一場面で、犬が、要救助者役の人が隠れていた場所と真逆の方向に走り出した。
「おいおい、どっちいっちゃうんだ、大丈夫かいな?」と思っていたら、やがて元に戻ってきて、無事に人を発見した。

訓練員の方のお話によれば、風が要救助者の臭いを運び、犬を風下方向に導いたが、臭いのもとがそこに存在しないと分かり、戻ってきたのだという。

目で見て物事を理解しようとする人間と、臭いを頼りにする犬の行動原理の違いだ。
分かっているようで、実際に目にしてみると興味深い。

災害救助犬は、警察犬と異なり、最初に犯人(要救助者)の臭いを記憶してから探し始めるわけではない。
捜索活動をする人間など、多数の人間の臭いが混在する中で、特定されていない(存在するかどうかも分からない)要救助者の臭いを嗅ぎ分けて探し当てるのだからすごい。


さて、第七小学校の解体現場を使えるのは、その日限りである。

次回の訓練のため、また別の訓練場所を探しまわらなければならないのである。

民間建築も含め、解体工事はまちじゅうで日常的に行われているはずだが、現場に立ち入って訓練する場所の提供をお願いしても、なかなか受け入れてくれないのが実情だそうだ。
確かに、解体工事を行う業者が場所提供するためには、工期の調整に手間やコストがかかるに違いない。
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もちろん、事故や怪我は訓練者側の自己責任であり、ボランティア保険にも加入している。

それでも災害救助犬の意義への理解は十分浸透しておらず、なかなか積極的な協力者が見つからないようである。

災害時の備えとして、こうした訓練活動が不可欠であることをもっと周知していかなければならないと思う。


前述したように、ごくふつうの飼い犬を訓練すれば、災害救助犬に育てることができる。
飼い主の方々と話すと、訓練を続けることは大変だが、愛犬との間で通常以上に信頼関係を強めつつ、社会の役にも立てるという楽しみや喜びが大きいそうだ。

社会貢献と自己実現。

今回の訓練に参加されていた方々の明るい笑顔が印象的だった。

shigetoku2 at 10:23|PermalinkComments(1)TrackBack(0)

2010年09月13日

放課後が変われば、教育が変わる

第11回「地域力おっはー!クラブ」のゲストスピーカーは、放課後NPOアフタースクール平岩国泰さん

このNPOでは、社会人による“市民先生”が、放課後の小学生たちにプロの技を教えるプログラムのコーディネートをしている。


【以下、平岩さんのプレゼンの(勝手な)要約】
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子どもの放課後の風景はずいぶん変わった。

昔は近所の子たちがお互いの家を訪ねて声掛け合ったりして、何となく集まって遊んでいたが、最近はアポなしでは遊ばないようになった。

外で遊ばずTVゲームで遊ぶ。

夕刻に、子どもの連れ去り事件が相次いだこともあった。

色んな意味で、放課後の過ごし方を変えなければならないという強い想いに駆られた。


「ゲームより面白く、塾より学びがある放課後」を目指そうと、’05年の長女誕生を機に、放課後活動を開始し、これまで5年間で100種類以上のプログラムを開催、1万人以上の子どもが参加した。

本物の大人との出会いを通じた体験プログラムである。

地域の方々からすれば、NPOの活動は、行政と比べ継続性が心配されるため、地域に根付き、地域に入り込んでコーディネートすることを心がけている。

’06年から世田谷区内の地区会館にて開催、’07年には区内の学校、’08年には港区や目黒区の学校へと活動に広がり、企業との提携プログラムも始まった。


衣・食・住にかかわるモノづくりが中心テーマである。

例えば、食をテーマに、シェフの市民先生が登場。
シェフの方は、しゃべりはそれほど得意でないことが多い。でも、本物の技を見せるからこそ、子どもたちは多くを学ぶ。
プログラムをきっかけに料理が好きになり、色んなことにトライ&エラーを繰り返す習慣が身に付き、学校の成績まで伸びたというケースもある。

みんなで家を建てるプログラム。
プロの建築士さんに対し、子どもたちがつくりたい建物をプレゼンし、それをもとに建築士さんが設計する。
設計に基づき1年かけて完成した“自分たちの家”は、2年連続グッドデザイン賞を受賞した。

音楽では、元かぐや姫の山田パンダさんがギターを教えてくれたりする。
障害児の子も、普通の勉強ではなかなか大変でも、音楽活動なら健常児と一緒に活動できる。

弁護士さんの協力を得て、模擬裁判を行った。
小学校低学年がうまくやれるだろうかと心配したが、被告人を訊問し、判決をうまく出すことができた。
弁護士さんからは「学校の勉強とちがって、世の中に出ると必ずしも“正解”はない。みんなで議論し、納得感のある結論を出すことが大事」との話があった。

企業からも協力いただいている。

ハーゲンダッツ社は、アイスクリームの重さを比べ、なぜハーゲンダッツが美味しいのかを解説。
放課後プログラムでの評判が良いので、今では学校の授業への引き合いもある。

松屋銀座では、店頭での売り子体験。
本当の売り場で本格的な体験を行うため、5回にわたって訓練を行い、その上で実地で本番。

TBSテレビ・ラジオでは、記者として取材をし、原稿書き。
本物のアナウンサーが原稿を読んでくれたり。


今後は特に、学校と放課後NPOとの協力関係の強化に取り組んでいきたい。

来年からは、私学との提携実績の積み重ねの結果、新渡戸文化学園(中野区)で、夢のアフタースクールが開校する。

全国各地に放課後NPOが広がっていくことを目指している。

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多くの大人が“市民先生”になり、子どもたちの学びの場が広がっていく社会。

上述の弁護士さんのコメントのとおり、世の中に“正解”はない。
特に成熟国家となったこれからの日本には、往時の「成功パターン」はないのである。

職業、経済、教養文化、科学技術、自然環境、食と農、家庭生活・・・。豊かさの尺度や価値観も様々だ。

そんな社会で生きていくため、子どもたちには幅の広い経験や視野を持ってもらい、狭量な考え方にとらわれずに生きる意義を見出してもらう必要があるのではないだろうか。

メディアの言うことが正しい、行政の言うことが正しい、周りのみんなが言ってることが正しい・・・。
自らの力で本質を考えることを置き去りにして、何となく他人が決めた生き方をしなければ間違うのではないかという不安。
日本をこんな閉塞的な社会にしてはならない。

色んな生き方をしている人々との出会いが、自ら考え行動することにチャレンジするきっかけとなる。
そんな出会いやきっかけに満ちた、夢あふれる温かな社会を目指したい。


放課後が変われば、教育が変わる!」。

平岩さんのNPOのキャッチフレーズである。

こんな風に、将来への責任感と気概をもって社会変革に取り組み、仕掛け続けるリーダーがどんどん登場することに期待したい。

日本の未来は、みんなでつくるのである!

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2010年09月06日

パーソナルサポート実現へ、NPOの課題

NPOが若者就労・自立支援を行う横浜の「パーソナルサポーター特区」は、NPO相互、そしてNPOと行政との連携協力体制をいかに構築できるかがカギを握る。

お盆明けから、ユースポート横濱理事長の岩永さんらと一緒に、横浜市内のNPOなどを回りながら発したツイートを以下に編集してみた。

【以下、拙ツイッターより抜粋】
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ヨコハマ特区では、複数のNPOが共同で若者自立・就労を支援することにしています。
今日から各NPOをまわり、具体的な連携体制について個別に議論を始めました。
行政との協働も重要なポイントです。
単なる業務委託でなく、NPOがタテ割りを超えたイニシアチブを発揮できるかが成否を握ります。

不登校の生徒が通う楠ノ木学園
NPO法人なので、学校法人と異なり財政支援はなく、学費を払える高所得者しか通えません。
不登校状態は本来でなく、学校に通うのが本筋というのも分かりますが、不登校の背景には、家庭環境や発達障害などがあり、社会全体の課題と捉え直す必要があると思います。

引きこもりの若者が社会への第一歩を踏み出すための居場所(よこはま西部ユースプラザ)を運営しているNPOリロード
精神疾患や貧困への支援(医療、生活保護、住居確保)とか、就労訓練などとのつなぎをもっと充実させたいそうです。
そのためには行政のタテ割りを超える必要もありそうです。

横浜市寿町で20年来、路上生活者支援に取組む寿支援者交流会の高沢さん
自立生活をするのに必要なのは、住居や就労体験などの受け皿。
要支援者の増加により、相談後のアフターケアも大変だそうです。
個人情報の取扱いを含む、行政とNPOとの協力体制づくりも課題になりそうです。

横浜市磯子区の商店街で若者自立を支援するNPO夢・コミュニティ・ネットワーク
「他の支援団体との間で、要支援者本人も含めた、顔の見える関係が必要。行政にはちょっとした気の利く動きをしてもらいたい。」
この「ちょっとした」が意外と難関なのが現状です。言葉の通じる官民関係を作りたいです。

(株)シェアするココロの石井さんと織田さん
生活保護世帯を家庭訪問し、若者を引きこもりから脱却させる活動を続けて来られました。想像を絶するスキルと労力です。
また高校生に対し、就職後を展望した指導を行う必要があるとのこと。本田由紀著「教育の職業的意義」を想起しました。

NPO「月一の会
社会になじめない若者の居場所(横浜市北部ユースプラザ)を運営されています。
就労前のニーズだけでなく、就労後も若者が心の安寧を求め訪ねて来るそうです。
“居場所”の公的な必要性はなかなか理解されにくいようですが、若者の仕事定着を支える役割もあるかもしれません。

DV被害者を長らく支援して来られたNPO「かながわ女のスペースみずら」の阿部さん
一時保護から精神医療、行政との調整手法まで、話せば話すほど奥深いです。
ヨコハマ特区の若者支援は、NPOの知恵と行政のリソースを組み合わせ、官民融合による公共サービスの最適化を進めなければなりません。

コンピュータデザイン専門学校のアーツカレッジ・ヨコハマ
企業の協力を得て、女子学生4人がウェブ製作を実践経験してました。
先々が展望できる就職口があれば、スキル習得への意欲も高まります。
雇用開発とマッチングもパーソナルサポートの重要な役割になりそうです。

神奈川労働局
ハローワークでは、職員削減と求職者増により、個別対応がじっくりできないようですが、NPOに必要な情報共有やパートナーシップの必要性については、部長さんの理解を得ました。心強いです。

生活保護ケースワーカーとの連携について、横浜市保護課
個人情報取扱いのルール化など課題はありますが、大筋の方向性は一致しました。
問題意識を共有できる方々と話すと、前進する意欲が高まります。
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・・・ざっとこんな状況である。

色んな人たちと話せば話すほど、さらに連携する必要のある組織・団体が登場してくる。
この分野の課題は山積みである。


8月23日に開催された内閣府の第3回「パーソナル・サポート・サービス検討委員会」を傍聴し、認識を新たにした。

雇用問題が、景気に左右されるのは当然だが、新卒時の景気次第で一生が決まってしまう構造が続けば、正社員になれない人は不安な人生を永久に強いられる状況になってしまう。

このままでは社会不安が高まる懸念がある。

高度経済成長期の「新卒・正社員・終身雇用」という成功体験的パターンは、現代日本では通用しなくなってきていることを多くの方々が認識し、今後の社会の姿、あり方をよく展望しなければならないと思う。


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2010年08月22日

公務員が地域に飛び出す意義(あらためて)

今月時点で700人規模となった地域に飛び出す公務員ネットワークについて、「非営利法人データベースシステム(NOPODAS)」に寄稿させていただいた。

このサイトは、(財)公益法人協会が運営している非営利法人に関する総合サイトである。

飛び出すネットが2年前の10月に発足して以来、公務員が地域に飛び出す意義については、いろいろな場面で感じてきたが、あらためて3点に整理をしてみた。

【以下、寄稿の概要。詳しくは上記NOPODASをご参照ください。】
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 公務員は、役所での仕事だけが公共への関わり方ではないはず。
 アフターファイブや休日には、仕事外の活動に参画し、地域おこしや社会貢献をどんどんやろうじゃないか!
 こんな想いを持つ全国の国・地方の公務員が、所属や役職を問わず参加しているのが『地域に飛び出す公務員ネットワーク』。

(1)“1億総当事者”の社会を目指し、公務員がその第一歩を踏み出す
 職業や肩書で自他をはっきり区別するステレオタイプの傾向が蔓延する社会。
 まず公務員が自分のミッションを再確認し、問題を“他人任せ”にせず、“当事者”意識を持つべき。
 ひいては“1億総当事者”の社会へ。

(2)“官民融合”でNPOがパワーアップ
 「公務員参加型NPO」では、公務員がタテ割りを超えた能力を発揮する。
 官と民が組織面でも人材面でも一体となる“官民融合”によって、NPOは、あらゆるセクターを超えた戦力へと成長する。

(3)地域主権に不可欠なNPOのエンパワメント
 地方分権は、中央政府から地方自治体への行政内部の権限移譲にとどまらず、住民やNPOが主役となる真の地域主権の実現が重要。
 公務員が、NPOと一体となって現場からのイノベーションを生むことに期待したい。

 ネットワークで横の連携を深め、公務員が地域に飛び出す有用性が住民から認められれば、多くの職場でも理解してもらえる。
 地域社会を元気にしていくための“公務員の大運動”を展開していきたい。
 公務員が変われば、日本が変わる、と信じて。
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2010年07月13日

“本格的”な新しい公共とは

「新しい公共」円卓会議では、今年6月4日に「新しい公共」宣言が出され、年内に政府のフォローアップなど具体化に向けた方策が検討されるようだ。

最近では、一般市民の有志による「あたらしい『新しい公共』円卓会議(PURC)」というネットワーク組織が立ち上がり、発足会合に出席した鳩山前総理の「裸踊り」が話題となった。
日々web上の議論が盛んに繰り広げられており、今後、全国各地で会合が展開されるようになっている。


ところが、公務員の方々と「新しい公共」について話すと、どこかクールに見ている感がある。(「定義は何か?」という議論に終始することも多い。)

・NPOは自分たちのことは自分たちで担うとか、市民と行政が対等な立場で議論するとか言ってるけれども、どれほどの能力があると言うんだ。
・楽しくやろう!なんて言ってるけど、公共とはそんな甘い場面ばかりじゃない。
・NPOの権利ばかり主張しているが、義務や責任を背負う覚悟はあるのか。
・困る局面やつらい局面に遭遇したら最後はほっぽらかして逃げるんじゃないか。
・結局、行政からもらうカネを増やすことを期待しているだけではないか。


・・・ストレートに書けば、こういうことを言いたいのだと思う。


確かに公務員には、“常にリアルな世界で勝負している”という自負のようなものがある。

仕事上、世の中の様々な利害対立について、関係者の利害調整をするのは相当骨が折れる。
常に説明責任を問われ、財政当局や議会などとの調整を考えなければならない。

税金から給料をもらっていることもあり、住民からの目線は厳しい。
担当業務であろうとなかろうと「行政は何をやってるんだ!」とクレームや不満を言われる。

公私を問わず24時間、365日、「公務員」という目で見られ、不祥事でも起こそうものなら厳しく批判され、実名で報道される。

ある意味、住民のわがままな面も嫌というほど見せられてきたのが、公務員である。

そんな公務員からすると、“新しい公共を盛り上げよう!”とNPOが騒いでいるのがどこか空虚に映るのであろう。
私自身も公務員なので、そういう感覚は分からないでもない。


しかし、こういう従来の秩序を前提とした官民の2項対立構造の段階は、早く卒業しなければならないと思う。


大まかな歴史を言えば、日本では、明治政府をつくったころから中央政府、そして行政に権限を集中させてきた。
私たちが生きてきたここ数十年間も、何か社会に問題があれば、法律をつくり、予算を組んで、行政が対応する仕組みを積み上げてきた。

「新しい公共」は、140年続いたこの流れを“逆流”させるのである。

実は、この逆流の動きは、地方分権、地域主権とも軌を一にする。

平成5年に衆参両院で「地方分権に関する決議」が行われ、平成12年には地方分権一括法が成立。
その後、地方への税財源移譲を含む三位一体改革なども行われ、中央から地方への流れは一貫して続いている。

“自分たちのことは自分たちで責任もってやる”という基本的思想は、地域主権と新しい公共は、まったく同じはずである。


そうであれば、NPOが本来の市民自治を担う組織として活動するには、過去140年にわたって行政に集積された権限や仕事を取り戻す必要があろう。
つまり、行政の役割や権限を喰っていくのである。

行政に属する者からすると、これには抵抗感があるかもしれない。
しかし、その抵抗感の理由は何だろうか。

・「市民が任意に立ち上げるNPOは、行政とはそもそもの成り立ちが違い、信頼性や公益性の程度に差がある」
・「NPOが行う業務の公益性について十分な議論が必要」
・「行政の仕事をNPOが行うと、公平な取り扱いが困難になる」・・・。


3月に提出した、NPOによるパーソナルサポーター実現に向けたヨコハマ特区提案に対して各府省が回答した“できない理由”である。


確かに、これまでの市民組織の力ではできなかったかもしれない。

社会問題に対して、市民自身が本格的に役割や責任を担うなんてことは想定されず、期待もされてこなかったのだから。

そんな現状を前提とすると、公務員が担ってきた仕事をNPOが行うことを安易に了解するわけにはいかないというのも分からなくはない。


そしてこれは、むしろNPO側のマインドに変革が求められる事柄でもある。

中央省庁からこのような理由で“あなたたちは信用なりません”と宣告され、悔しいと思わないのか。
いや自分たちにもできる、とケンカ腰で勝負しようとしなければ、140年ぶりの逆流など起こせるはずがない。

いまや、時代の転換期といわれて久しい。
なのに、まだ何も起こっていない。
そんな期間が長らく続いている。

政権交代が起こったんだし、政治主導の時代なのだから、政治家にお任せするのが筋道なのだろうか?
いや、政治は究極的には国民意識を超えることのできるものではない。

むしろ、国民自身の行動がダイナミックに変化することこそが、日本の閉塞感を突破する唯一の道だと思う。

そういう意味を込めて、行政との関係の再構築を迫る“本格的な”新しい公共の必要性を強く感じるのである。

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2010年07月05日

児童虐待の司法面接

子どもの司法面接」に関する日弁連の勉強会に参加した。

司法面接(Forensic Interview)とは、身体的・性的虐待を受けた疑いのある子どもに対して更なるトラウマを与えない形で被害事実を聴き取るものである。

日本では、ひとたび虐待の疑いがあると、その子どもに対して、たくさんの大人(学校の先生、親、友人の親、カウンセラー、児童相談所、医師、弁護士、警察)が、それぞれの立場で繰り返し聴き取りを行い、その後、法廷に移っていく。

子どもの場合、大人からの圧力や誘導的質問などによって、証言内容がゆがめられ、最初の証言から内容が変わっていってしまうという。

その上、子どもの立場からすれば、同じ話を繰り返すことを強いられるため、精神的な2次被害も大きいのである。

北海道大学大学院の仲真紀子教授は、講演で次のように語る。
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欧米で普及している司法面接の目的は、次のとおり。

(1)早い時期に、自由報告を重視した面接を1度だけ行い、ビデオで録画する。
(2)必要な情報を客観的に聴取する。カウンセリングではない。
(3)子どもに面接を繰り返させない。
(4)主たる証拠として、主尋問の代わりに用いる。

児童福祉、司法捜査、医療などの関係者が、専門的なスキルを身につけ、面接を行う。

面接の際の留意点は、
・面接する側から情報を出さない。子どもの「言葉」で聞く。
・子どもの言葉を解釈しない。子どもの「言葉」で聞く。
・コメント、評価しない。(「良かったね」「大変だったね」などと言わない。)

といった点であり、具体的には、

「何があったかお話ししてください」(Tell Me)
「さっき言ってた〇〇について、もっとお話しして」
「そして、それで、あとは?」
「うん、うん」

・・・といった言葉で子ども自身の次の言葉を待つことが大切。

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映像では、次のような例が登場した。

【悪い例】
Qおうちには誰がいるの?
Aお母さん
Qお母さんだけ?
Aううん
Qおじさんもいるの?
Aうん
Qおじさん、何か嫌なことするのかな。
Aうん
Qどんなことするの?
A触ったりする
Qそうか。どこ触るの?
A・・・
Qそのときお母さんはどこにいるの?
Aいない

【良い例】
Qおうちにいる人のことお話して。
Aお母さん
Qそれから
Aおじさん
Qそれから
Aそれだけ
Qじゃ、おじさんのことお話して。
Aおじさんは、時々嫌な事をする
Qうん、それで
A叩いたりもする。それから触ったりもする。お母さんがいないときはいつも夜ビデオを見て・・・

前者では、子どもはただYes、Noを答えることが多く、自らの言葉で証言する内容が少ない。(質問の中身を聞かないと証言内容が分からない。)
逆にいえば、子どもが語らない分、面接者が質問内容をあれこれ考えなければならない。

それに対し、後者では、子どもの自発的証言を促すのみなので、質問内容に誘導的な要素が少ない。

スキルの違いが明確である。


さて、わが国で司法面接を導入するための課題は、いろいろあるようだ。

(1)面接者のスキルを確立し、専門性を持った人材を育成すること。

(2)関係機関の連携
子どもに対して同じ質問が繰り返されるのは、児童相談所、警察、検察などが連携しておらず、スキルや体制がバラバラであるためである。
ここでも行政のタテ割りが大きな壁となっている。

(3)裁判におけるビデオ証言の証拠採用
刑事訴訟法上、裁判での証拠の取扱いが最大の課題と言えそうだ。
子どもは身振り手振りも含めてしゃべることも多く、言葉だけでは十分な証言とならないことも多いため、映像での証拠を採用できるかどうかは重要なポイントである。


弁護士の木田秋津さんの報告によると、米ワシントンDCでは、NPO「Safe Shores」が中心となって、福祉機関、訴追機関、医療機関などの多職種専門家チームによるCAC(Children's Advocacy Center)が設立されている。
全米では、700以上のCACが活動しているという。

国内でも、弁護士で(社福)カリヨン子どもセンター理事長の坪井節子さんは、民間が中心になって、児童相談所など関係公的機関を巻き込んで個別ケースを検討する取り組みを始めている。

また、小児科医で、NPO法人子ども虐待ネグレクト防止ネットワーク理事長の山田不二子さんの呼び掛けにより、今月末から神奈川で、児童福祉司、検察官、警察官らが司法面接士のトレーナー養成研修を受講することになっているそうだ。

課題はまだまだ多いが、司法面接はこの社会に必須の仕組みだと思う。
現場関係者、そして幅広く国民の間で議論を展開し、実現していかなければならないテーマだと思う。

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2010年06月18日

企業CSRと“リテラシー”

武田薬品工業(株)のコーポレート・コミュニケーション部シニア・マネジャーの金田晃一さんにお会いした。

これまでソニー、在日米国大使館、大和証券などの勤務を通じて、一貫して途上国支援の人材開発に取り組んでこられ、政府の「新しい公共円卓会議」のメンバーでもある。

いろんな話題に花が咲いたが、まず、近年進みつつある、社会貢献的な目的と関連づけた商品販売を行うコーズ・リレーテッド・マーケティングについてお話を伺った。

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中身で差別化しにくい商品(ガソリンや飲料水など)を取り扱っている企業は、商品の質で勝負しづらいこともあり、コーズ・リレーテッド・マーケティングになじみやすい。

これを本格化させるには、NPOが、企業の社会貢献度を市場にさらし、消費者の動向に影響を与える力を持たなければならない。

この点、海外のNGOは相当な影響力を持っているため、国際競争の激しい大企業を中心に、社会貢献的な企業イメージをかなり意識せざるを得ない状況になってきている。

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コーズ・リレーテッド・マーケティングは、第7回地域力おっはー!クラブ鵜尾さんも語っておられたように、消費者の温度感の変化が背景にあり、これからの日本のファンドレイジングの大きな方向性であろう。


次に、企業によるNPO支援の課題についてもお話を聞いた。

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企業は、NPOへの支援資金をすべて事業費に回すことを求め、その事業を運営するためのマンパワー、すなわち人件費コストが考慮されない、あるいはきわめて少額となる傾向がある。
現に、企業から事業費ばかりもらって人繰りがつかず、事業実施がきつくなっているNPOも少なくない。
(同様の問題は、行政からNPOに対する委託費についても、いわゆる「安い下請け」として指摘されることでもあるが。)

企業の場合、社会貢献部門は、ただでさえ(仮につながったとしても)企業収益に間接的にしかつながらない部門である。
その上、その多くが“NPOの人件費に回っている”ということでは、社内や株主に対して説明がつかないことも多い。

これでは、NPOが持続的に活動することが不可能になる。

この問題を解決するには、企業関係者に理解してもらうしかない。

いわば“リテラシー”の問題だ。

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この企業の“リテラシー”を高めるための重要な取り組みの1つは、NPOの会計情報の統一化、透明化である。

NPO法人シーズ(市民活動を支える制度をつくる会)が中心に取り組んでおられるNPO会計の整備などを通じて、NPOの活動内容が企業からも理解され、納得される仕組みを作るべきであろう。

NPOの運営の質を高めるためには、十分な人件費が当然に必要となることを明らかにする必要がある。

また、NPOの特長であるボランタリーな労働力(市民巻き込み力)の価値を客観的に見て明らかにし、ボランティアの力を単なる安上がりの労働力(=したがってNPOは安く上がる)と見る風潮を変更していく必要がある。


当然ながら、そうした“リテラシー”は、学校教育や生涯学習を含め、公的な場での啓発活動を通じて、時間と労力をかけて醸成する努力が必要である。

世の中が本質的に変化するには、相当な期間がかかると思ったほうがいいと思う。
もしかしたら、10年20年かけてジワジワと変化していくものかもしれない。

しかし、仮に瞬間的に成果が出るものではないとしても、現代の成熟社会においては、もはやこうした流れは不可逆である。

これはもう、信じて進むしかないと思う。


私たちの子どもや孫たちの世代に日本社会をどう残していくのか。

政治や行政を批判するだけで自分たちは何もしないという、単調でステレオタイプで退屈な風潮を脱し、主体性と当事者意識を持った1億人が、営利事業であれ、私的生活であれ、自分だけでなく、もっと広い地域社会に想いをいたす、エキサイティングで心豊かなニッポンになっていくことを願いたい。

ほんの少しずつでいいから、一人ひとりがそういう社会づくりに向けて一歩踏み出していくのである。

いまの社会の閉塞感を突破するには、一部の“責任者”や“担当者”や“権力者”の力だけでは到底足りない。

1億人の力が必要なのである。

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2010年06月02日

“官民融合”(3)〜愛と信頼を行政に〜

人間社会の“愛と信頼”

霞ヶ関では日常的にあまり語られることがなく、会議の場なんかで真顔で語れば失笑を買いそうだ。

しかし、愛や信頼は、人間社会の土台である。
愛や信頼こそが生きる糧であり、生きる意味ではないか。
私たち人間は、愛なくして、信頼なくして、どうして生きていけるであろうか。

愛や信頼が欠けているために、空虚な人間関係とか“無縁社会”などと呼ばれる状況が発生し、信じられないような陰惨な事件が起こり、多くの人たちが幸せや安心感を感じられない閉塞感ある社会の状態が生まれるのではないか。


NPOの「官民融合事務局」は、現場の人間臭さをしっかり受け止め、現場に即したソリューションを考案しながら、“上位”にある権力機関の制度立案機能を常時刺激していくという、ダイナミズム発生装置のイメージである。

これを「愛と信頼モデル」と名付けたい。


愛と信頼は、法令や制度の手のひらのうえで転がされるものではなく、法令や制度を突き動かす原動力たるべきである。

「行政=法令や制度に基づく組織」と「NPO=現場での愛と信頼に基づく組織」と見立てれば、行政の枠組みのもとで、業務委託を下請け的に受けるのがNPOであって良いはずがない。

そろそろ、NPOがもっとエンパワメントされ、現場の実情に即し、タテ割りを超えて行政リソースを使いこなす、という力強いNPOが世の中にたくさん登場しなければならない。

その意味で、今回のヨコハマ特区は、官が民を使うんじゃなくて、民が官を使いこなす“官民ひっくり返し”みたいなイメージである。
ひっくり返すと言っても、民にお仕えする官っていうのは本来の姿のはずなのだが・・・。


昨今、政治や行政に対する批判や不満が強まる一方、他人任せにしても日本社会の将来は何も良くならないという切実さも、国民的に共有されつつあると思う。

20世紀に経済成長のミラクルを遂げた成熟ニッポンが、ここで立ち往生してはならない。
官主導、官任せを脱し、すべての国民(公務員を含む)が、社会の当事者として公共社会を担い、それを官が支えるスタイルへと進化を遂げれば、世界の一歩先を行く心豊かな先進国へと変貌を遂げるのではないだろうか。

「新しい公共」論も、本来、このような意味で日本社会の性格をジワジワと本質的に変えていくものだと考えている。

追いつけ追い越せが終わった(と言われてすでに久しいが)後の日本社会は、こんな姿になるべきだと思い描いているところである。

shigetoku2 at 08:03|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年05月31日

“官民融合”(2)〜公共領域のイノベーションを〜

通常、NPOなどの現場サイドが現状の問題点を行政に訴え、制度改正や弾力的な運用を求める際、前回述べたような“壁越しの握手”の状態では、行政側が現場の事情を容易に理解できないことが多い。

ルールに基づいて仕事をする公務員から見ると、民間側が求めていることが自分勝手な言い分に見えることが多いのである。

たしかに、行政のルールというのは、多くの関係者の利害をあれこれ勘案してようやく出来上がるものであり、公平性を破る例外をつくれば、均衡が崩れてしまうことにつながるのも事実だ。

しかし、ルールは常にすべての人を満足させるとは限らないのであり、一律のルールが唯一絶対ととらえて思考停止してはならない。

また、ルールを定める権限を有する行政の立場は、民間に比べて圧倒的に強いのだから、異論に対しても自分勝手だと切り捨てるのでなく、そうした少数者の声をもきちんと受け止め、常時改善に努める姿勢を持つことは、本来、行政の重要な責務であろう。


そこで、ヨコハマ特区では、こうした官民間の意思疎通の阻害要因となっている“壁”を取っ払い、公務員が、NPO側の発する声を受け身で聞くのでなく、むしろ現場のNPOの一員へと立ち位置を変えた、新しい事務局スタイルを提案しているのである。

この“官民融合事務局”では、行政のロジックや組織事情を理解する公務員が、NPO人と一緒になることによって、現場サイドの実情を直接把握しながら、現場の当事者の立場からソリューションを企画立案し、行政を含む諸機関との調整を円滑化する役割を果たすことになる。

これを可能とするためには、NPOが設立する事務局に相応の権限と責任が伴う必要がある。(そのための特区提案である。)


現場のエンパワメントは、この特区の本質である。

与えられた制度へのあてはめをするのが現場」という構図を脱却し、「現場が頂点にあってそれを支えるのが制度」という姿の実現を目指すのである。

俗っぽく言うと、制度を考える人が一番エラくて、その下の下の下ぐらいに、現場担当者がフラスト抱えながら、苦しんでる人間の人生を必死に支えている、みたいな構図からのパラダイムシフトとでも言おうか。


現状では、役所の政策立案の場には、現場感覚が常時ダイレクトに伝わる機能が不足していると思う。

数年に一度の制度改正時に、有識者を集めた審議会や検討委員会を数回やって、最大公約数的なルールの見直しを行うのが通例だ。

事務局は行政の一部局が務めるため、所管や前例の域を超えることがなかなかできず、民間のダイナミズムも加味されないため、革新的な変化が遂げられないことが多い。

こうした従来のスタイルと異なり、現場の温度が恒常的な刺激としてボトムアップで伝わってくる仕掛けを官民一体となって構築することで(それが官民融合事務局)、“公共領域のイノベーション”を生み出したい。


実は、こうした現場のエンパワメントや、現場発のイノベーションは、中央集権へのアンチテーゼでもある。
地域の多様性・独自性に基づく発展を志向する地方分権、地域主権論とも密接不可分なのである。

現状の地方分権論は、基本的に地方自治体という行政主体のニーズに基づいているため、どうしても財源や人材といった要素を前提とせざるを得ない。(そのため、「財源とセットでなければ、その権限は受けられない」といった駆け引きが行われたりして、かえって権限移譲が進まない場面も出てくる。)

しかし、NPOの場合は「現場に何が必要か」という視点から地域に必要な施策を求めることになるため、自治体が「国の法令で決まっているので、それは自治体限りでは判断できません」といった対応に終始することになると、結局、公共サービスの革新をするためには、中央集権体制から脱しなければならないことが、現場でも理解されるようになるのではなかろうか。

つまり、エンパワメントされた官民融合事務局の登場は、現場に近い自治体の変革とともに、全国一律の画一行政から脱却する地方分権の流れの加速につながることが予想されるのである。

shigetoku2 at 07:56|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年05月28日

“官民融合”(1)〜連携を超えて〜

前回書いたヨコハマ特区を実現する上での重要なポイントの1つは、パーソナルサポーターの活動を支える「官民融合事務局」である。


“官民連携”ではなく“官民融合”というのには理由がある。

近年、行政と住民との協働や住民参加型行政などの“官民連携”が進んできたが、“連携”はどうしても「官と民が壁越しに無理に握手しようとする」ような構図になる。

官の側にいる人は、何か民のお役に立てればと考えてはいるものの、あくまでも官は官、民は民、と立場が違うことを前提として物を考えている。
このため、民が行う公共活動に対して「結構なことですが、行政としてはこれ以上関わりを持つことはできません」と、常に公平性の観点から分をわきまえ(?)、どこか他人事のように見ていることが多い。
民間人の活動に熱烈なシンパシーを感じ、身も心も一緒になって取り組もうという姿勢をあらわにする公務員は少数派ではなかろうか。

また、「住民参加型行政」にはいろんな形態があり、官民が絶妙な協力関係をつくれているケースも中には存在するが、基本的にはあくまで行政の土俵の上で、住民の意見は聞くものの、その意見は行政の事務局で調整し、もっぱら行政が主導して決定することが多い。

一方、民の側で活動する人は、行政固有の公平中立性や予算や議会のプロセスなど、行政のロジックを理解していないことが多いから、行政との接点が増えれば増えるほど、行政の動きが鈍いとか融通が利かないと感じることが多くなってしまう。
はじめのうちは官の気の利いた動きに期待はするものの、しまいには「下手なおせっかいをするぐらいなら、口出しせず邪魔しないでくれれば官の役割としては十分だ」と皮肉まじりに(?)言うようになる人も少なくない。


つまり、志はともに地域社会、公共社会に貢献しようとしているはずなのに、官民間には越えがたい壁があるのが現状だ。

そんなわけで、“協働疲れ”などといわれることがあるように、長く協働に取り組んできた地域であっても、どうしても相互の立場の違いを理解しあえない状況が続いていることが多い。(もっとも、官民連携の取り組みがほとんど進んでいない地域もあるわけだから、くたびれるほど協働しようと頑張っているところには心から敬意を表したいと思っているが。)


そこで、これからの官民の協力関係は、こうした壁を取っ払い、お互いが同じ立場でモノを考え行動する“官民融合”であるべきと考えている。

私が関わってきたNPO法人青森ITSクラブやNPO法人ひろしま創発塾では、公務員が欠かせないメンバーとなっている。

こうしたNPOを“公務員参加型NPO”と呼んでいる。
NPOは非行政組織であるが、その構成員が非公務員でなければならないわけではない。
いや、むしろ公務員は役所の人間である以前に、一住民であることをもっともっと認識すべきで、住民の一員としてNPO活動に参画すべきである。
そもそも民間人でもNPOに専従する人はまだ少なく、多くの場合、本業を持ちながらNPOの運営をするケースもあるのだから、公務員が勤務時間外にNPOに参加することと何ら変わりないのである。
いや、むしろ公共の仕事を本業とする公務員こそNPOの担い手たるべきという見方もできると思う。


また、ふだん役所組織ベースでタテ割りでモノを考える公務員も、NPOという器に民間人と一緒に所属すると、行政の立場を超え、NPOのミッションに基づいた建設的な議論ができるようになる。
行政組織の中では気づかなかったような本質的な発見をすることも多い。
この意味でも、公務員が行政組織を飛び出して活動する意義は大きい。
NPOは、いわば、公務員個人の能力を組織内のみで活用するのでなく(組織に埋もれさせず)、地域社会に役立つ潜在力をより大きく引き出す仕掛けになるのである。

このように、公務員が官の土俵上のみで仕事をすることを前提として、“官民連携”と称し民間人まで官の土俵に引っ張り込むのでなく、むしろ官と民が一体となって広い社会を縦横無尽に活動展開し、官と民の2項対立みたいな図式を脱するイメージが、“官民融合”なのである。

shigetoku2 at 07:49|PermalinkComments(2)TrackBack(0)