妄想映画史:映画監督 山中貞雄

昨年、過去に「諸君!」で連載した映画監督山中貞雄についての評伝を全面的に書き直しました。一応、出版社に持込をしてみたものの、あまり芳しい返事もなく、友人からは再度書き直した方がいいといわれました。しかし、一度、気持ちが離れるとどうししょうもなく、生来の怠け者の性分で、時期も逸したと放ったらかしにしていましたが、せめて書き直した部分を中心に、公表してみようとブログを立ち上げました。どうぞよろしく。

第五章 南京攻略戦と山中貞雄

南京へ入る その3

 八日、第一大隊は湯水鎮から追撃を続行。翌日の九日には、南京の東に位置する麒麟門を占拠した。

 

 十二月九日、南京陥落もあと一両日に迫ったその日の夕方、南京へ一歩手前の××橋(白水橋と推測)の戦線で、私は志波西果(元日活監督)とひょっこり出あった。

 此の日は激戦だった。

 前線と云ってもやや後方に陣地をとっていた私たちの附近へも敵の榴弾が飛んで来たし、頭上では榴霰弾が破裂した。

 友軍の戦車に乗ってアイモを廻していた同盟の槙島君(元J・O技術部)が、やはり砲弾の破片で額に負傷した。

 「激戦だったネ。こんどは紫金山だネ」

 この日歩兵の第一線に出て決死撮影をやって来た志波氏は、歩兵の奔騰ぶりを感激をこめて語り終わってから、

 「ところで、先刻山中君に出あったよ」

 君は?と云う目で私を見た。

 「ほほう。どこで?第一線で?」

 山中貞雄が補充隊に残ったと聞いていた私はすっかり彼の事を忘れていた。

 会いたい。一刻も早く会いたい。

 志波氏から、私たちの陣地と二百米も離れてないところに彼が来ていることを知った私は、すぐに飛んで行った。(山口勲「昭和十二年末より十三年春頃の彼 陣中の山中貞雄と語る(在支派遣軍中にて)」『山中貞雄監督の想い出』映画之友・映画ファン・映画世界社編集)

 

 同じ師団に所属する山口勲だが、召集されてからこの日まで、戦場で山中貞雄と出会ったことはなかった。それが南京城攻略戦目前の夜に出会えたのだから、感激はひとしおだったに違いない。

(続く)

第五章 南京攻略戦と山中貞雄

南京へ入る その2

 これらは、六車政次郎少尉の回想録(『惜春賊』自費出版)によるものだが、このあたりから、「南京事件」に関わる「便衣兵」の記述が現れる。

 これは、山中貞雄の物語である。しかし、一人の日本兵の記録でもある。私自身、南京事件については、あまりにもいろいろな情報がありすぎて、扱いきれない部分があるが、たぶん山中が見たであろう光景を六車少尉の回想録から抜粋する。

 

 この時前方の丘陵の上に在る学校のような大きい窪初に多数の敵兵が逃げ込んで行くのが見えた。敵兵に交じって、藍色の服を着た農民の姿も見られたが、住民ぐるみで戦っていたのか、はた又逃亡に際して軍服を脱ぎ捨てて農民服に着替えたのか、いずれとも判断し兼ねた。屋内戦覚悟で構内に突入したが、予想に反して抵抗がない。一部屋づつ調べながら奥に進む。至る所に軍服が脱ぎ捨ててあるので、私は寝台の下まで軍刀を突っ込んで確かめながら用心して進んだ。奥の大部屋に飛び込んだ瞬間、大勢の人が部屋の隅にかたまっているのが目に入った。老婆も交じっている。世話役らしい年配男が大げさな手振りを交えて叫んでいろ。「兵隊ではない、避難民だ!」と訴えている事くらいは通訳が居なくても分かる。前方に女や老人を立て、奥の方には全農民腕に着替えたばかりという感じの屈強な男も居る。昨日来の激戦で気の立っている兵達は、「騙されるな、やってしまえ!」といきり立つ。正直な折、これだけの激戦をしている地域に住民が残っている事自体が不自然である。本当の住民なのか、戦闘員ないしは戦闘協力員なのか、甚だ怪しい。私は卑劣なやり方に腹が立って一瞬心が迷ったが、目の前にいる老婆の姿に負けて、「手を出すな!」と制した。兵達は「副官殿、偏されてますよ」と言いながらも私の指示に従った.

(続く)

第五章 南京攻略戦と山中貞雄

南京に入る その1 

 

 無錫は、上海と南京の中間地に位置し、戦略的には首都南京防衛の第一線陣地にあたる。外周が大きなクリークで取り囲まれ、トーチカが縦横に配置されていた。この陣地に対して、上海派遣軍は総攻撃をかけた。山中がいたと思われる第四中隊は予備隊として、戦闘には参加しなかったようだ。戦闘は十一月二十四日から三日間続いた。

 その戦闘が終結した二十七日、昆城湖に取り残された後続部隊がようやく合流。二十九日、中国軍への追撃命令が下り、京都師団の全軍は南京方面へ向かった。

 そして、師走の声を聞く頃には、南京周辺に、続々と各地の軍隊が集結を始めた。

 十二月四日、「歩兵第九連隊は追撃隊の右迂回隊となり、行郷鎮より北方に迂回して湯山(湯水鎮の西側標高三百八十二メートルの山)方面に進出せよ」との命令が下り、六日、大隊の総攻撃が始まったが、中国軍の迫撃砲などを含む予想外の抵抗を受けたため、湯水鎮の正面を攻撃する第一大隊を残して、連隊主力は迂回して湯山の後方から攻めることになった。

 その翌日、前進した第一大隊は、湯水鎮の北部を占拠した。市街には、まだ多くの中国人が取り残されていた。

(続く)

第三章 山中貞雄の長い五日間

「兄さん]の思い出 その3

「兄さんは生きているような気がするんですよ。あれだけ丈夫な兄さんは死ぬなんて信じられなかった。何か夢のようでした」

 原田さんは、山中が何事もなかったように、ふと顔をみせるのではないかと思うことがあるそうだ。

「兄さんは、小さな箱になって帰って来たんです。その時は、見せてもらえなかったけれど、後から喜与蔵兄さん(山中の実兄)に聞いたら、『からっぽだったよ』って教えてくれました」

 作次郎さんは衝撃のあまり、二、三日、一言もしゃべらなかった。原田さんは、「かわいそうで見てられなかった」と話す。

 

貞雄さん

あなたが出征せられてから毎日どうしていられるかと一家の者が案じて暮していますので一度御たよりしたいと思い手紙を書いて郵便局へ持って尋ねにいったのですが部隊がわからぬと出す事が出来ぬとの事でしかたなく毎日何卒曲事に御苦労下さる様神様に御願ばかり致していました処先日鳴滝 藤井様が結婚せられたので其御祝いにいってあなたの処をおしへて頂いたものですから取あへえず少しばかりのもの御送り致します いろ送り度いものもありますがあまり多く送っては持ち廻るのにお困りでしょうから又送るとして少しばかり送ります こちらでさへ此頃は零下五度といふのですから定免しそちらはどんなにお寒いかと思へばぬくとおこたを入れて毎ばんねるのが勿体なくたべるものも大変不自由なと聞いてもこちらでは何でも頂けるのが勿体なくて兄ちゃんの事思ふと決してぜいたくは云へぬからどんな粗末なものでもよろこんで頂かねばならんと道子いってきかせています 毎日の新聞に皇軍の連戦連勝が出ているので内地の人は皆よろこんでいますが遠く北支で戦っていて下さる兵隊さんはどんなにつらい事であろうと思へば涙が出ます 今日の新聞にももう南京も今日明日中にかんらくとかかいてありますがどうか多くの犠牲者が出ませぬ様にとただ神様に皇軍の武運長久を御祈りするばかりですどうぞ一日も早く戦争がすんで皆様のがいせんをなさる日をひたすらお待ち致して居ります大変寒いですからどうぞ身体に気をつけて下さいまし あなたは大変寒がりでしたのにどうしていられるかと思ふと気が気でありませんけれどどうしてあげることも出来ず毎日案じてばかり暮しています

 

 道子さんの母、ゑいさんが山中にあてた手紙である。ゑいさんは、母親を亡くした山中を、実の息子のように感じていたようで、京都に居た時は、留守宅の掃除など、母親のように面倒を見ていた。

 後年、山中の遺作『人情紙風船』を見たゑいさんは、ぽつりと「やっぱり死ぬと、あんなに暗い映画になるのかなぁ」と漏らした。道子さんは、その時の母親の寂しそうな顔を今でも鮮明に覚えているという。

(この項目終り)

第三章 山中貞雄の長い五日間

「兄さん」の思い出 その2

「ほんの数年前に藤子さんに電話したんですよ。戦争が終わってから初めて。『覚えてる』って聞くと、『もちろんミッチャンでしょう』って懐かしそうに声は元気でしたが、お身体の調子が悪かったんでしょうか。少ししか話はできませんでした」

 深水藤子のインタビュー(「山中貞雄の思い出」『講座 日本映画3』岩波書店)によれば、山中が召集した日、撮影所のスタッフたちとトラック二台を連ねて、伏見の連隊宿舎まで見送りに行ったそうである。それが山中との別れだった。その回想インタビューには、「毎日おがんでいます。十七日がご命日で」と、山中の月命日には特に礼拝を欠かさなかったようだ。

 

「召集した日は、歓送迎会や何やらで、あわただしくて、ほとんど自分の時間はなかったようです」

 原田さんによれば、召集令状はずいぶん前に京都の実家に届いていたようだ。しかし、山中が東京に転居したために、手元に届くのが遅れていたのだ。そのため、召集日の三十一日までに、わずかに五日しかなく、この時の山中は、各方面のあいさつ回りなどで、かなり疲労の色が見受けられたという。

「あの時、私は、四条河原町の交差点に立って、千人針を作ったんですよ。同じような人がぎょうさんいたので、道行く人は流れ作業のように針を通してくれました。こうして出来上がったばかりの千人針を、平安神宮で兄さんに手渡したんですが、それが最後でしたねぇ」

 『映画と演劇』昭和十二年九月号の「勇士の家族を訪ねて」というグラビアページに、女学生時代の原田さんが、父、作次郎さんと母、ゑいさんと共に写っている。たぶんカメラマンがポーズを付けさせたのだろうが、実に神妙な面持ちで、「上海戦線で活躍する小津安二郎」の記事を読んでいる。この記事の中で、作次郎さんは、「何しろ貞雄と来たら大の無精ものでして、隊に居るのか戦地に居るのかさっぱり分かりません」と話しているのが印象的である。

(続く)

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