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新選組の島田魁(さきがけ)が、池田屋事件(元治元年=1864)のきっかけになった古高俊太郎の逮捕に貢献していた事を知り、調べてみると、これまで知らなかった幕末高瀬川の別の顔が見えてきました。
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(↑2/27、一之舟入で高瀬川と高瀬舟をスケッチしました。)
 
 新選組は、「8.18政変」で京都を追放された長州勢力が、復権を目指して不穏な動きを始めていることを掴んでいました。探索方の島田魁(↓)も、木屋町周辺で調査を開始しました。
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 飲めない酒を飲む振りをして、二ヶ月以上先斗町や四条河原町の縄暖簾に通い、餅やうどんを食わせる屋台にも顔を出すうちに「九之舟入」沿いに店を構える古道具商「枡屋」周辺の不審な動きをキャッチしました。

 一之舟入に面した長州藩邸と、九之舟入の枡屋の間を夜な夜な、腰提灯の灯火も点けずに、人を乗せ降ろししては往来する舟を見つけたのです。
高瀬川地図+

 そこで島田は、高瀬船を船主から借り、手ぬぐい頬被りに侍髷を隠し、小袖を尻端折りして船頭を装い、実際に水竿を操りながら枡屋裏手の高瀬川を往復しては、情報を絞り込んでいったのです。

古高俊太郎 その結果、枡屋が長州藩らの勤皇志士たちの京都での活動拠点=アジトであることに疑いの余地はなくなり、すぐさま古高俊太郎(→)捕縛が決行されたのでした。同じ日(6月5日)の夜、血にまみれた島田魁の姿が、三条小橋付近の「池田屋」にありました。

 こうして長州藩士や勤皇志士たちが、息を殺して往来した高瀬川・・・それを見逃がさじと、180㎝、160kgの巨体で小舟を操りながら追跡した島田魁・・・闇夜の高瀬川にはこんなスリリングなドラマもあったんですね!

 なお、スケッチした一之舟入の南100m程の所には、大村益次郎、佐久間象山の遭難碑、桂小五郎ゆかりの料亭「幾松」があります。

 「大きな爆発音が何回もしたかと思うと、大きな煙が空高くあがって・・・」と、今年で88歳になる母は私の小さな頃から何回も、まるで昨日のことのように、大爆発の恐ろしさを語ってくれます。

■ 29回の爆発で、3日間燃え続け、94名が死亡。

禁野火薬庫 逃げる市民禁野火薬庫 慌てる兵士

 大阪と京都の中間点にある枚方(ひらかた)市の禁野(きんや)に、70年前まであった旧陸軍の火薬庫が、76年前の昭和14(1939)年の3月1日に大爆発を起こしました。
50716 禁野弾薬庫地図

 母は、その禁野から約20KM離れた京都市に住んでいて、その大爆発を目撃しましたが、爆発が起こったのが午後2時45分、その後午後7時まで29回もの爆発が連続しました。折からの強風のため構内一帯と近隣集落までが炎と誘爆に包まれました。やっと爆発が終息し、鎮火したのが3日後。その間続いた噴煙と爆発の下では94名の死者と,602名の負傷者という大惨事が起こっていたのです。

■7/18の現地説明会 に行きました。
禁野 撮影全景

 7月18日に禁野火薬庫跡で、最近発見された建物跡や土塁についての「現地説明会」(写真↑)があったので参加してきました。ヘルメット姿の建設作業員の方の誘導で、現地に着くと、すでに大部分が取り壊されたアパート群の西の端にある、地肌が剥き出しの小高い丘のような所に案内されました。
禁野火薬庫 地図
(左が①明治30年当時、右が②昭和14年当時の禁野火薬庫の構内図)
 最近の発掘で見つかった火薬庫は、①日露戦争前の明治30(1897)年に開設された時の倉庫(「井号建物」と呼ばれる)、②昭和14(1939)年、大爆発当時の「五号乾燥火薬庫」の2種類で、それらに加えて、火薬庫群を外からの侵入から守り、爆発事故があっても外へ被害を拡大しないようにする「土塁」も発見されました。
 
■明治30年に爆発したが、火薬庫は大拡張された

禁野火薬庫 内部禁野火薬庫 軽便鉄道
 ①の大爆発で、火薬庫は施設の大半が倒壊しましたが、その後復旧が進むと、敷地も3倍以上に拡張されます。軍国主義と対外拡張熱が高まると、軍隊の第一の武器とも言える火薬・弾薬の増産は至上命令となりました。昭和11(1936)年には鉄道の片町線津田駅からの専用引き込み線(写真右↑火薬庫構内に敷設された軽便鉄道の枕木)も敷設され、翌年からの日中戦争では弾薬の供給に追われフル稼働になります。1937年には、東隣に陸軍造兵廠枚方製造所が建設され、一帯は大軍需工場地帯となりました。

■昭和14年の大爆発前は、一大軍需工業地帯に。

 そんな中で起こった②の大爆発は、1939年の3月1日のこと。15号倉庫で砲弾の信管を外す作業中に発生した事故から発火し、他の弾薬倉庫に飛び火して次々と誘爆し、大惨事となったのです。その結果、火薬庫として継続できたのは南側の約1/3だけになり、戦後はもちろん廃止され、住宅地になりました。

■強固な土塁を火薬庫の周囲に。

 今回発掘された「五号乾燥火薬庫」跡は、②の大爆発の凄まじさを見せつけてくれました。もともと終戦までの日本社会で、圧倒的な権力、財力を握っていた陸軍のこと・・・火薬庫一つ建てるにも、容赦・妥協はありません。まず火薬を扱うので、高台で地盤が固いこの禁野周辺を選びました。それから敷地を整備し、外界と遮断するために高さ約7mの土塁を周りに張り巡らせます。土塁は、単に土を盛り上げるだけでなく、硬い土を何度も押し固めながら順々に積み上げて作られていました。

■爆発、火災の凄まじさを見せつける炭化物層
禁野撮影 火薬庫生系図
(写真↑火薬庫の設計図)
 そこに7.7m×21.6mの火薬倉庫を何棟も建てるのですが、ここでも基礎部分には煉瓦や鉄筋など、時々の最新の建築素材が惜しげもなく使われました。屋根と壁は木製ですが、壁には防火のためにタイル状の瓦が貼り付けられていました。火薬庫の床には建物を安定させるための砂利や石が敷かれていましたが、大爆発で配列が歪み、赤く変色した石も見ることが出来ました(写真↓)
禁野撮影 ゆがんだ石

 とくに今回の発掘では、煉瓦や瓦、砲弾の破片を含み、黒く変色した炭化物の層(写真↓)が出土し、爆発の大きさ、爆風の威力が相当なものであったことを示していました。また土塁からも、爆発で吹き飛ばされ突き刺さったとみられる砲弾や、火薬庫のコンクリート壁(2×3m)や見つかっています。
禁野撮影 炭化層

■周辺に土塁や慰霊碑・・消えぬ戦争の記憶 

禁野撮影 殉難義冽碑禁野撮影 殉職

 今回伺った禁野火薬庫の遺跡周辺にも、同じような土塁があちこちに見られ、また爆発事故の記念碑や、爆発で犠牲になった職員や救助員の慰霊碑などもありました。

 戦後70年、銃後でも多くの国民の命を奪った戦争の遺跡が新たに発見されたことは、爆発の犠牲者が、安倍内閣がすすめる「集団的自衛権」に警鐘を鳴らしているようでもありました。

 先週の6月13日、高槻市のしろあと歴史館で開催されている「幕末の梶原台場と長州藩の上洛」展示に行ってきました。

 展示の中心は、高槻市の東にあり松平容保が薩長の上洛に備えて、淀川沿いに構築したと言われる梶原台場についてでしたが、「蛤門の変」(元治元年=1864年)前に長州軍が上洛する緊迫した様子を示す興味深い資料がありました。
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 写真(↑)の書状は「長州藩の者 武具・弓・鉄砲等携え 先触なく通行ニ付 芥川駅口上書」と題する、元治元年7月8日の文書です。そこには、その10日あまり後の7月19日に勃発した「禁門の変」の直前に、武装した長州藩兵が上京する様子が、西国街道の芥川宿(高槻市芥川町)からの生々しい報告として記載されています。

 --- 先触れも無く。四百人が残らず武具を携え、弓、鉄砲を持参し、大砲一挺まで用意して、次の宿場である山崎駅(京都府大山崎町)まで進んだと報じています。京へ繋がる西国街道の緊張が一気に高まった様子を知ることが出来ます。

 どうやら、この部隊・・京都の不逞浪士鎮圧を口実とした進発第三弾組で、7月8日に三田尻から兵庫に到着した国司信濃・児玉民部が率いる部隊のようで、3日後の11には、嵯峨天龍寺に布陣しています。

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