1945年6月1日に、奈良県で初の米軍による空襲がありました。
 
大阪空襲の帰りと思われるB29が奈良市法蓮町に落とした焼夷弾が米穀店を直撃。国民学校2年生の少女が火炎に巻き込まれ、近所の人が病院に運んだが命尽きました。少女は全身に火傷を負ったが意識はあり、病院で「死ぬのん怖い」と繰り返しながら、最期まで「ゆけゆけ軍艦日本の」という唱歌を口ずさんでいたといいます。 
奈良空襲

米穀店横にあった地蔵には戦後、いつしか数十体の石仏が集められ、地元の人々も大切に手入れをして悲劇を伝えてきた。

戦争中に、貴重な国宝がどうなっていたのか?も関心のひとつです。
 
 1943年に閣議決定された「防空施設整備要項」に基づく実施要項で、国宝の解体や疎開などが求められました。奈良市史や東大寺などによると、45年に大仏殿の屋根に偽装のための網が掛けられ、法華堂の金剛力士像や四天王立像(いずれも国宝)など、多数の仏像が山間部の寺などに疎開しました。法華堂は、解体準備中に敗戦を迎えました。しかし、運搬途上で、金剛力士像2体に穴が開くなど破損しました。仏像疎開に強く抵抗した寺もあったようですが、もともと「焼ければ終わり」の文化財と戦争は相容れないものでした。
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
 その奈良の空襲の実態を調べ、知らせようとする女子高生の活動も、新聞に紹介されていました。 

戦跡:10代の心、刻む戦禍 奈良の女子高生が独自調査

毎日新聞 2013年06月04日 大阪夕刊

戦時中に防空壕として使われた所で吉川さん(右)から説明を受ける高校生たち=奈良市の奈良ホテルで
戦時中に防空壕として使われた所で吉川さん(右)から説明を受ける高校生たち=奈良市の奈良ホテルで

 「奈良は文化財が多いので戦災を免れた」という説は本当か。疑問を抱いた奈良県立法隆寺国際高校(同県斑鳩町)3年の女子生徒グループが県内の戦跡を訪ね、戦争被害の実態を調べている。奈良市の戦跡ガイド、吉川好胤(よしたね)さん(76)の協力も得て、大阪などに比べると被害は小さいものの、死傷者が出る空襲が県内各地であったことを知った。11月に校内で発表し、語り継いでいくつもりだ。【宮本翔平】

 同県内の空襲被害の全容は公的に整理されておらず、民間有志がまとめた資料に頼っている。グループの森本遥さん(17)=同県川西町=は小学生の時、近くに住む親類から「2000年に畑で米軍の不発弾が見つかった」と聞かされた。しかし、「文化財の多い京都や奈良は空襲目標から外された」という説を家族らから聞いていたため、戦災があったのかどうか分からないままだった。

 同校独自の科目「課題研究」で「奈良の戦災」を提案し、昨年9月から6人で調べ始めた。図書館やインターネットを使って県内の戦争被害、戦跡などの資料を探した。文献などによると、県内でも1945年6月1日の奈良市を最初に少なくとも15回の空襲があったとされる。

 更にボランティアで戦跡ガイドを続ける元中学教諭の吉川さんに案内役を依頼。列車が米軍の戦闘機に銃撃された近鉄榛原(はいばら)駅(同県宇陀市)近くの架道橋下には手のひらより大きい弾痕が残り、森本さんは恐怖を覚えたという。奈良ホテル(奈良市)では、階段踊り場にある銅鑼(どら)が宿泊客を防空壕(ごう)に避難させる際に使われたことも学んだ。森本さんは「戦災を実感するためにも戦跡を残すことが大事」と話した。

 吉川さんはこれまで100回以上ガイドをしたが、高校生グループは初めて。「戦争を知らない若い世代に現実にあった戦争被害を知ってほしい」と語る。担任の門司雅之教諭(41)も「発表を通じて、他の生徒も戦争を考えるきっかけになれば」と期待している。