1945年(昭和20年)7月9日、第二次世界大戦におけるアメリカ軍最強の戦闘機P-51ムスタング(写真↓)約50機が、大阪へ侵入しました。主として豊中飛行場を攻撃し、そのほか周辺町村ならびに三島郡(味生村、玉島村、三箇牧村)、北河内郡、中河内郡の一部を攻撃しました。これが、茨木を襲った2回目の空襲ですが、白昼、逃げ惑う児童を追いかけ回し、逃げ込んだ先が校舎と分かっていながら、猛烈な機銃掃射を浴びせて殺す残虐さは言葉に出来ません。
ムスタング

 この日は、夏の太陽がギラギラ照りつけるとても暑い日でした。小学6年生児童は、早朝から新聞を各家庭に配達するのが、銃後の守りとしての役割でした。そのあと、水筒と防空頭巾を肩に掛け、腰に弁当をくくりつけて学校に登校します。学校では、勉強らしい勉強はほとんどなく、荒れ地や堤防を開墾しサツマイモや大豆を植えたりして、食糧増産に一役かうことが小学生の大きな仕事でした。

 この日も、朝から6年生約60名は開墾に出かけていきました。午前中の作業を終え、野々宮のお宮さんで、ほんのひとときの楽しみであった昼食をとっていました。

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〔児童達が昼食をとっていた野々宮神社-現・乙神社)

 その時、敵機の襲来を告げる警戒警報のサイレンがお宮の森に鳴り響きました。みんな「学校なら米軍が来ても安全」と思ったのでしょうか?あわてて学校へ向かって走りました。空襲警報のサイレンと同時に飛行機の爆音も聞こえ、学校をめがけて飛んでくる5,6機の編隊がはっきりと分かりました。米軍機にとっては、児童の動きは手に取るように見渡せるので、まるでウサギ狩りゲームでも楽しむかのように、どんどん後ろから追い立てるように迫ってくる。・・学校までわずか300m位の距離が、ずいぶん長く感じられました。校門をくぐり運動場を走っているとき、頭上に戦闘機が飛び交い機体の星のマークがやけに大きく見えるくらい低空飛行していました。
玉島小
(当時の玉島国民学校=小学校↑)

 やっとの思いで教室に入り、机の下にもぐり親指で耳を残りの指で目をしっかり押さえました(爆風で鼓膜が破れたり、目玉が飛び出さないように身を守るための処置)。また、極度の危機感の中で「もう助からない」と観念したのか、お経を唱える児童もいました(6月の空襲が激しかったときに、学校に行けず村のお寺で勉強したときに、お坊さんがお経を教えたくれた)。

 しかし米軍機は、児童が校舎に逃げ込んだのを見届けたかのように、今度は機首をさらに下げて、校舎の屋根すれすれに急降下しながら機銃掃射を浴びせてきました。激しい爆音と、キャーッという悲鳴が教室中に響き、バリバリバリと耳をつんざくような銃撃の音が続きました。

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 一瞬、教室が静まりかえったかと思うと、そのうちあちこちから「痛い!」「助けて!」という悲鳴や鳴き声が聞こえ騒然となりました。米軍機が放った機銃の弾丸が、木造校舎の屋根を撃ち抜き、その下に身を隠していた児童に命中したのです。この朝、いつもの顔ぶれで元気よく登校した同級生の中から、2人の犠牲者と5名の重軽傷者が出ました。

◇仲ヤエさん(犠牲者の母)の話

 7月9日昼過ぎ、壕のなかで心配していた。敵機が学校を襲ってきたからである。先生の連絡を受けて驚いた私は、裸足で家を飛び出した。学校に入ると定子はオルガンの傍に寝かせてあり、おしりに座布団が掛けてあった。(定子は)重傷であった。私は戸板に乗せて、家に連れて帰ることにした。しかし家にたどり着く前に、定子は息を引き取った。

 息を引き取る前に定子は、口を開いて何か話しかけるようにもぐもぐさせていたので、私は水筒の水を注いでやった。するとそれを一口ゴクンと飲んだ後息絶えてしまった。哀れなかわいそうな、何とも言えない淋しい死であった。私は誰はばかることなく道の真ん中に座り込み、定子にしがみついて大声を張り上げて泣き叫んだ。

(参照:聞き取り集「茨木の空襲」/玉島小創立50周年記念誌/「茨木に埋もれた日本史」東實文男著)