先日、訪れた御所の南西にある「旧九条邸跡」は、「88人列参」と呼ばれる「公家の反乱」の舞台となり、幕末に朝廷がのしあがるきっかけとなった場所です。今は、茶室・拾翠亭(しゅうすいてい)(写真↓)と、九条池(写真↓↓)と呼ばれる池だけを残し、当時の高級公家の優雅な暮らしを偲ばせています。
 
88 拾翠亭

88 九条池

■老中・堀田正睦が入洛

 江戸からの長い旅も終わり、老中・堀田正睦(写真↓)はその疲れを放つように旅装束を解きました。
 「やれやれ・・条約調印引き延ばしのためとは言え、ほんの出任せでハリスに言った”勅許”を得るために、私ごときがわざわざ上洛するはめになったが、いよいよ旅も終わりだ。持参した金品を、御所でばらまき終われば、勅許を手にすぐさま江戸へ帰れるだろう」・・安政5年(1859)2月5日、京都は本能寺のことでした。
堀田正睦
 これまで徳川幕府は、数百年に渡って国内統治はもちろん外交についても、朝廷の意見を聞くなどという発想すら持ち合わせていませんでした。ところが、安政元年(1854)の日米和親条約締結以来、アメリカの日本駐在総領事ハリスらが、執拗に日米修好通商条約の調印を迫ってくる中で、何とかそれを引き延ばそうと「埃をかぶった京都の亡霊」を引っ張りだす「奇策」を思い立ったのです。

■金品で「条約勅許」を企む

 相手は世間知らずで貧乏な公家と朝廷のこと。ちょいと脅して、裏で金品を握らせれば、「勅許」など容易いもの。これで通商条約に調印しても「最終責任は朝廷にあり」と言いふらせば自分たちは責任逃れできるし、幕府への反感も鈍るだろうという読みがあったからです。

 自信満々で京都に乗り込んだ老中・堀田正睦は、まず孝明天皇に色絵鳳凰香炉や伽羅(きゃら)、黄金50枚など、将軍からの献上品を贈ります。

 ところが、孝明天皇は、「夷人は鬼」という根っからの外国人排斥に凝り固まっていましたから、条約締結などはもってのほか。さらに、自分たちを条約調印の「隠れ蓑」に利用しようとする幕府の姑息なやり方にも腹を立てていました。公家の大半も、同じ意見でまとまっていたようです。

■関白・九条尚忠が「幕府一任」で独走

 こうした御所の気配を感じ取った堀田正睦は、関白・九条尚忠(くじょうひさただ)(写真↓)に狙いを定めます。当時、朝廷内での九条尚忠の権力は絶大なもので、ときには天皇ですら頭が上がらなかったほどの実力者だったからです。九条に説得と贈り物を集中させる一方で、外交については慣例通り幕府に一任するという勅許案をいっきにまとめようと奔走します。
九条尚忠

 そもそも九条家は、近衛・二条・一条・鷹司と並んで公家社会の頂点に立つ五摂家(ごせっけ)のひとつで、この五摂家が摂政・関白、太政大臣を回り持ちで独占していました。近衛家の血を引く昭和の総理大臣・近衛文麿(1891-1945)が、当時天皇の前で唯一、足を組むことを許されたと言うエピソードが残っていますが、時として天皇を凌ぐ力を持ち朝廷内を牛耳る実権派の家系だったからです。
 
御所の区画

 上の幕末当時の御所内図を見れば、一目瞭然ですが、”100坪区画”の狭い公家屋敷が長屋のように並ぶ区画がある中で、九条邸だけは、敷地1万坪、建坪でも4000坪という江戸城本丸御殿(1万4000坪)に匹敵する大きさで、御所内では最大の面積を占めていました。これは公家の「格差社会」をみごとに表しています。ちなみに「88人列参」の首謀者とされる岩倉具視の邸宅は「緑○」印で、”100坪区画”と大差なかったことがわかります。

 「さもあらん」と孝明天皇は、堀田入洛前に九条に宛てて「幕府の買収には応じるな」と宸翰(しんかん)まで発して注意を促していたのですが、「聞く耳持たず」の九条の独断専行はとどまるところを知りません。

■岩倉具視らがデモ行進

 ところが最後の段階で、状況が一変したのです。

 安政5年(1858)3月12日、多数の公家が結束して幕府一任反対、条約調印拒否を訴え、前代未聞のデモンストレーションを行ったのです。当時の宮廷では、平素勝手な参内は許されません。列参は、これに公然と背く違法なデモ行進でした。「88人列参」と呼ばれるこの事件・・当時の公家数は137家でしたから、その大半が参加する朝廷始まって以来の「下克上」が起こったのです。
 
88人列参事件

 のちの「王政復古の大号令」(1868)で大きな役割を果たす中山忠能(ただやす)が起草した諫疏(かんそ)の文に88名の公家が連署し、関白・九条尚忠に突きつけようとしたのです。予想外の反発に驚いた九条は、仮病を使って引きこもりましたが、公家らは九条邸まで押しかけ実力行使に出ます。そして、口々に「国賊」「奸賊」「打ち殺せ」と関白・九条を罵り、門前で座り込みまではじめました。
岩倉具視 500円札
 この中には、下級公家・岩倉具視(写真→)の姿もありました。岩倉は、この日に向けて連日、公家諸家の門を叩いては説得を繰りかえし、前日には議奏・久我建通(こがたけみち)から「お前らの計謀は忠義天地を貫くと云うて可なり」と励まされ、天皇からも支持の内勅があったことを知らされています。

 予想外の事態に慌てた九条尚忠は、翌日の朝議での議案取り上げを約束して、ようやく一同を引き上げさせますが、もはや流れは食い止められません。御所を包み込んだ騒然とした雰囲気の中で、九条の用意した幕府一任の勅答案は、岩倉具視らの「一撃」で葬り去られたのです。

■堀田正睦の敗北と朝廷の浮上

 3月20日に、御所に呼び出された堀田正睦は、これまでと何ら変わらぬ条約拒否の勅答を受けて、自らの敗北を悟ります。 「辛苦して堀田かいなし唐井戸へ雲の上人はまりこまねば」と庶民の戯れ歌はからかいます。

 こうして「条約勅許」を目論んだ幕府の「奇策」は、逆に、天皇の「鎖国攘夷」にかける決意を満天下に知らせただけでなく、朝廷が幕府に対抗する権力者として公然と幕末の政治に登場する、とんでもない結果に終わりました。これ以後、幕末日本の政治の重心は、徐々に江戸(幕府)から京都(朝廷)に移り、「王政復古」でケリが付きます。

 役目を果たせなかった堀田正睦が、江戸へ帰り着いて3日後、井伊直弼の大老就任が発表されます。井伊は勅許を得ぬまま、日米修好通商条約に調印し、返す刀で高まる「条約反対」の世論を強権で押さえ込みにかかります。「安政の大獄」の始まりです。条約調印の4日後の6月23日、堀田正睦は責任を一身に背負わされる形で老中を罷免され、元治元年(1864)3月、蟄居先の千葉県佐倉城で55年の生涯を閉じました。

■公家社会に風穴あけた「88人列参」

  これまで数百年間、京都の公家社会は、幕府・京都所司代の監視下で御所に閉じ込められ、政治的発言はもとより外社会との交流も大きく制限され、たんなる「官位発行」機関として細々と生きながらえてきました。

 天皇でさえ、女官に囲まれ、衣食の順序や礼儀作法、数々の年中行事に明け暮れて終わる一生でした。公家も、世襲で縛られ、少ない収入の中で、御所の外の社会や政治とは無関係な祭儀典礼、様々な家芸に明け暮れているうちに、子弟の教育など基本的生活すら衰退する「ガラパゴス化」の中で、品行の乱れ、退廃ムードさえ漂っていました。中には、屋敷を賭博場として貸し出して泡銭をかせぐ公家(岩倉具視?笑)まで出てくる有り様でした。

 ところが「88人列参」によって、公家社会に大きな風穴が開きました。公家たちは、自分たちの力が幕府を圧倒したばかりか、九条家など公家内の旧勢力=権力者を追い詰め、公家社会をひっくり返したことに大きな自信を持ちました。そして公家達は、朝廷を慕って続々と京都に集まってくる尊攘派の志士や学者から、むさぼるように「外の」政治知識を吸収しはじめます。

 やがてその流れは、閉鎖社会だった御所を、志士と公家が一体となった尊皇攘夷運動の一大拠点に造り変えてしまいます。もし「88人列参」がなかったか、失敗していたとすれば、その後の公家社会や維新の流れ自体もも大きく違っていたことでしょう。以後、京都を舞台にした様々な政争の中で、「七卿落ち」の三条実美や「王政復古」の岩倉具視など、多くの優れた公家活動家を生みだしますが、そのルーツが「88人列参」にあったことは間違いありません。