高杉晋作らが、英軍艦「ユーリアラス号」で、四国連合艦隊と行っていた講和会議が、元治元年(1864)8月14日に講和五か条を協定して和睦した。この講和交渉は、高杉晋作の「古事記演説」、彦島租借など、いくつかの有名なエピソードも残しているが、とどのつまり連合国側の通訳として参加したアーネスト・サトウの「長州人を破ってからは、われわれは長州人を好きになっていたのだ。また、長州人を尊敬する念も起こってきていた」(『一外交官の見た明治維新』)という言葉に尽きるのではないだろうか?すなわち、戦いすんで英長の対幕協調の道が開けた、とは言い過ぎだろうか?
下関 長州人 龍馬伝
(NHK大河ドラマ『龍馬伝』のワンシーンより)
■「300万ドル賠償請求」について

 8月8日から始まった交渉の中では、「下関開港」と連合国側からの300万ドルの「賠償金請求」が交渉の主なテーマとなった。

 下関開港について高杉はあっさり認めたものの、賠償金の請求に対しては「外国艦隊砲撃は、朝廷の命令であり、幕府も外艦打払令を出している。長州はそれに従ったまでだから、賠償金は幕府からとってもらいたい」と主張し、これを譲らなかった。
下関 高杉 伊藤
(写真↑左=高杉晋作、右=伊藤俊輔)
 高杉晋作も必死だった。「300万ドル」といえば、当時の貨幣価値で500トン程度の蒸気船なら100隻近く、もう少し上等なものでも50隻は買い得るほどの額である。それを一藩で抱え込むには余りに巨額すぎた。ましてや戦乱相次ぎ疲弊した長州が出せるはずもなかった。

■賠償請求に「徹底抗戦する」と

 高杉は「要求額が当方の財源以上のものなら、それに対する支払い能力はないのだ。この領内には、主君への忠義のために身命を捨てるのを何とも思わぬ者が大勢いる」。債務奴隷の道しかないなら、徹底抗戦すると。
下関 砲撃
(画↑下関を砲撃する外国艦隊)
 これには連合国側通訳のアーネスト・サトウも「驚いたことに、彼らの唯一の目的は長州人の士気がまだ沮喪し切っていないことを私たちに知らせることにあったのだ。そして、わが方の要求があまり過大である場合には」、屈服よりも、むしろ戦うことを望んでいたのである。」

 連合国側にしても、過大な要求を突きつけて、もとより支払う意思も能力もない長州に攻め込んで無理矢理でも賠償金を毟り取ろうとすれば、更なる戦闘と戦費の拡大は目に見えていた。連合艦隊といえども、「長州反撃」の一点だけで寄せ集めただけの急造艦隊の弱さがある。
下関 前田砲台
(写真↑下関、前田砲台を占拠したフランス陸戦隊)
 それに対して、負けたとは言え、長州兵の戦闘意欲の高さは随所で目撃されていた。武士よりも、百姓、町人が戦闘の最前線に立っていた。下関戦争の2日間での、長州側の戦死者は31名・・しかしそのうち武士は5名で、あとの26名は、奇兵隊、膺懲隊、報国隊に所属する百姓・町民であった。この事実こそ、高杉晋作の「領民による徹底抗戦」は、はったりでも苦し紛れでもなかったことを示している。

■「賠償金」カードで幕府に矛先を

 長州が「攘夷砲撃の責任は幕府にあり」としたことは、むしろ連合国側を喜ばせたかもしれない。開国以来、いくつかの港は開港したが、朝廷に気兼ねして、追加開港はおろか「横浜鎖港」まで言い始めてる幕府に、「賠償金」カードを突きつけることで優位に立ち、あわよくば全面開港の道も開けるからだ。

 長州一国を深追いするより、幕府を揺さぶる方が得策と判断した連合国側は、幕府側に賠償の責を負わせることで合意した。長州の高杉らの巧みな交渉と列強の外交的な思惑がとが見事に合致した瞬間でもあった。

 そして、それから2週間も経たない8月26日には、硝煙の臭いも消えない連合艦隊を大坂・天保山沖に出現させ、今度は矛先を朝廷・幕府に向けて「通商拡大・全面開国」を要求する一大デモンストレーションを展開したのである。

■「下関開港」について

 講和が、もう一つひらいた道は、下関開港だった。攘夷の急先鋒だった長州・・敗北の末、外国と和睦すると聞いただけでもいきり立つ藩内の攘夷派に、「下関開港」の噂が流れるとさすがの高杉らも、命を狙われる身となり、講和どころではなくなった。

 しかし高杉らの「開港」は、列強に屈服したからではなく、列強の開港要求を逆手にとって、幕府が諸藩に認めない開港・貿易に踏み出そうという構想からでたものだった。つまり「開港」によって、まず列強の脅威、列強との敵対的関係を取り除いたうえで、さらにすすんで、密貿易によって新鋭兵器を手に入れ、対幕戦争に備えようという、「防長割拠」(=長州版”富国強兵”)の具体化でもあった。

 事実、連合艦隊が帰ってからも、関門海峡を通過する外国船は、下関で燃料、食糧などが調達できると知って、気軽に寄港するようになり、下関港にはいつも何隻かの外国船が入って、「馬関(下関)開港」の様相を呈し始めた。まだ幕府が反対している限りは、あくまで非合法ではあったが、とにかく長州は「国を開いた」のであった。

■「密貿易」で「富国強兵」

 さしあたって長州にとっての下関港は、密貿易の基地になること・・輸入品は、もちろん武器だった。長州は、下関港から陸揚げされた銃火器で、第二次長州戦争、戊辰戦争を勝ち抜いたのである。イギリス商人グラバーは「明治維新達成は私のお陰だ」と豪語していたらしいが、下関港からあがった兵器が長州藩の軍事力を飛躍的に高めたことは間違いない。

 さすがの幕府も長州の密貿易の動きに神経をとがらせ、対岸の小倉から偵察したり、フランスを介してイギリスに圧力をかけたり、なんとか止めさせようと必死に動き回った。しかし、すでに流れは変わらないどころか、薩摩藩も巻き込んだ武器輸入ネットワークへと発展し、とうとう戊辰戦争時の銃火器保有数では全国一(大砲=221門、小銃=24029挺)にまで発展した。

 四国連合艦隊が襲来したとき、弓矢や刀剣で戦った長州兵が、その後わずかの間に近代兵器で武装された軍事組織へと変貌し、奇兵隊が戊辰戦争で最強兵団と呼ばれるようになったのも、下関港を拠点とする密貿易が大きな役割を果たしたからであった。

■あわてる幕府

下関 小栗忠順 この講和の情報を得た幕府は驚いた。なにしろ朝敵として討伐軍を長州へ送ろうとしていた矢先のこと。蛤門の変敗退後の外国軍砲撃に、てっきり失意も戦備もどん底の長州と踏んでいたのに・・あろうことか下関は勝手に開港されるし、列強と長州が急接近してしまったからである。

 さらに賠償金まで背負わされ、一転して幕府の外交の方が危機に立たされる事態になったのである。幕臣・小栗忠順(おぐりただまさ)(写真→)にいたっては「下関戦争と講和は、列強と長州の八百長では?」とまで勘ぐる始末だった。蛤門の変の余勢を駆って、一気に長州を攻め落とそうとする幕府の思惑が、ぐらつき始めた瞬間でもあった。

 9月6日には、四国艦隊が品川沖に現れ、幕府に威圧を加えながら300万ドルの賠償金を請求してきた。そして9月22日幕府は泣く泣く賠償金の支払いを確約した。(結局、幕府は賠償金を払う前に倒れ、その債務は明治新政府が引き継いだのだが!笑)

■「防長割拠」の第一歩

 高杉晋作が、数ヶ月間の野山獄での囚人生活を送っているあいだに、蛤門の変、外国艦隊来襲と立て続けの変事は、長州をまさに崖っぷちに立たせた。ここで幕府から征長出兵のひと突きでもあれば、長州は消えていただろう。

 しかし藩内には、諸隊兵士を中心に幕府にも外国にも屈しないエネルギーがまだまだ充満していた。それを「防長割拠」へ導く転換点となったのが、下関講和ではなかっただろうか?まさに「災い転じて福と成す」の言葉通りの見事な外交的勝利だった。

 つまり高杉晋作は、列強の思惑と幕府の弱点を冷静に分析した上で、敗戦をテコに(利用して?)長州の攘夷のエネルギーを倒幕へ、列強の脅威を取り除き列強を兵器廠にする道筋をつくったのである。もちろん目的は対幕→倒幕。そして功山寺決起で藩論を統一したうえで、長州を強く新しい列車に作り替え、維新に向けて爆走させる「防長割拠」の第一歩を踏み出したのであった。

■「長州ファイブ」の成果

 見逃せないのは、長州ファイブの一員である井上聞多と伊藤俊輔が、「止戦」のために6月に帰国して以来、藩内要人はもちろん外国列強の要人と情報交換をしていたこと。また、その情報を基礎に、講和交渉の前から、高杉晋作と入念に打ち合わせをしていたこと。かれらが身体を張って得た情報と、外国人からの信頼・・それらが高杉晋作をして藩運に関わる「下関開港」「賠償責任を幕府に転嫁」の重大決断に導いたことは間違いない。