昨日、中国のネットを閲覧していると、中国版ウィッキーも百度百科も卑弥呼が朝貢を求めたのは「景初3年の6月」と書いています。驚きました。何か新資料でも出てきたのでしょうか。それとも日本の学説を採用したのでしょうか。日本版ウィッキーは景初2年とまだかいてあるのですが。。。

 

そこで、今日はこの「景初2年は誤り」説をもう一度分析してみましょう。よくわかる文章で書かれている松本清張の「邪馬台国」を引用します。

 

てっとりばやい例でいうと、」「日本書紀」を編集するころにはすでに「魏志」が渡来していたと見えて、その神功皇后紀には「倭人伝」の一節が引用されている。「書記」の編者は、中国史書の卑弥呼を暗に神功皇后にあてはめてそこに挿入したようである。

明帝景初年六月,倭の女王、大夫難升米等を遣わし都に詣り,天子に詣りて朝献せんことを求む」(「書記」引用「倭人伝」)

「景初二年六月,倭の女王、大夫難升米等を遣わし都に詣り,天子に詣りて朝献せんことを求む」(紹興版「倭人伝」)

 前者には「明帝景初三年」とあるが、後者の紹興版には「明帝」の文字がなく、年も「景初二年」となっている。どちらがほんとうだろうか。

紹興版の「景初二年」のほうが誤りで、紀が引用した「景初三年」が正しいのである。げんに岩波文庫版の「魏志倭人伝」には「景初二年」を明帝の年号。景初三年(239)の誤。梁書は三年とする」と注している。

景初二年が誤りであることは、この年に魏が遼東の公孫氏をほろぼして楽浪・帯方の二郡を接収したのであるから、その戦争のさなかに倭の女王が使者を帯方郡に行かせ、さらに魏の都の洛陽に朝献させるはずがない。それは戦争がすんで情勢を見きわめた翌年でなければならない。これも『二年』が「三年」の誤りという傍証となる。

そうしてみると、「景初三年」の上に「明帝」を記してある「書記」引用のほうが、単に「景初二年」と誤記をした紹興版よりも原本に近かったといえるであろう。つまり八世紀初頭の「書記」の編者は、原本に近い写本をじっさいに読んでいたのである。

・・・・・・以上引用おわり。

 

上記文章を読んで皆さんはどのように思われましたか。一見、なるほどと思われたのではないでしょうか。

冷静にこの文章を見ると、私が赤線で引いた部分があまりにも強引であることが明らかになります。

まず、第一に、「景初三年」の上に「明帝」を記してある「書記」引用のほうが、単に「景初二年」と誤記をした紹興版よりも原本に近かったといえるであろうを注目してみましょう。

「魏志」も「書記」も原本は失われており、現存するのはどちらも筆写本です。ということはどちらも筆写時に誤りを犯す可能性があるということです。

また、三国志のどこにも、『年号』の前に「皇帝名」を冠した例は見当たりません。そして倭人伝で「景初二年」に続いて出てくる「正始元年」にも、皇帝名は頭についていません。   極め付きは「景初三年六月」には、すでに「明帝」は崩御しており、あえて皇帝名を冠するのであれば「少帝」の名であるはずです。したがって、「書記」の編者が、魏志にない「皇帝名」をあえて解りやすいように冠したのであり、もとは景初二年であったことは明白です。

 

二番目に、清張氏がいう、「この年に魏が遼東の公孫氏をほろぼして楽浪・帯方の二郡を接収したのであるからその戦争のさなかに倭の女王が使者を帯方郡に行かせ、さらに魏の都の洛陽に朝献させるはずがない。それは戦争がすんで情勢を見きわめた翌年でなければならない。」も、簡単に反論できます。

明帝は景初元年に「青、、幽、冀四州大作海船」を命じています。これは8月以前のことです。そして「景初中,大兴师旅,渊,又潜浮海,收浪、方之郡」「景初中,明帝密遣方太守刘昕、浪太守于嗣越海定二郡,」とあります。

明帝は、景初元年に「渤海湾」に接する四州に造船を命じ、その後「密かに軍を船で派遣し、楽浪と帯方郡を接収し」、公孫淵の退路を断ってから、司馬懿に公孫淵の本拠地である遼東の襄平を攻めさせたのです。楽浪と帯方郡を接収したのは景初元年の末から遅くとも景初二年の三・四月と考えてよいでしょう。当然、この時には倭の船が帯方郡にいたと想定され、帯方郡の郡使が伊都国に常駐していたと思われます。

もし、私のこの仮説が正しければ、卑弥呼は遅くとも景初2年の5月には帯方郡が魏に接収されたことを知ることができたでしょう。

しかし、やはり景初二年であったと断定するためには、まだ二つほど厄介な問題が能古っています。

一つ目は「梁書」の記載内容です。

「至魏景初三年,公后,卑弥呼始遣使朝,魏以为亲魏王,假金印紫。」と書かれています。魏の景初三年に、公孫淵を誅した後、卑弥呼は使節を派遣し朝貢し、魏は親魏王となし、金印紫綬を授与した。という内容です。「梁書」が編されたのが七世紀ですから魏志の編纂から400年が経過しています。当然参考にしたのは魏志です。これをどのように説明するかです。

二点目は、帯方郡の太守のことです。

「密かに軍船を浮かべて帯方郡を接収した」時の、太守は「劉昕」ですが、景初2年6月に難升米が帯方郡に使節として行った時の太守は「劉夏」でした。正始元年には「弓遵」に変わっています。この弓遵はこの後戦死しています。

これを説明しなければなりません。

これを説明するには楽浪郡の太守の交代も見なければなりません。楽浪郡を接収した時の太守は于嗣」ですが、帯方郡の太守「弓遵」が戦死したときの楽浪郡太守は「劉茂」でした。そこで考えられるのは、接収責任者として郡を攻めた太守は、接収後ただちに帰任して新任の太守と交代していたのではないでしょうか。

 

本日はここまでにします。

 

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皆様お久しぶりです。 またぞろ落ち着いてきたのでお遊びを継続してみます。

 

明帝が景初三年正月の27日に死去して斉王芳が皇帝になりました。彼は少帝と呼ばれています。魏書の三少帝紀第四にこのような文章があります。「十二月詔曰 烈祖明皇帝以正月棄背天下 臣子永惟忌日之哀 其復用夏正 虽违先帝通三统之义 斯亦礼制所由变改也 又夏正于数為得天正 其以建寅之月為正始元年正月 以建丑月為后十二月」と書いています。 非常に難解な文章です。

この文章を理解するには中国古来の暦法の知識が必要です。

中国の春秋戦国時代には三つの異なる暦がありました。一般に夏歴、殷歴、周歴と言われています。この三者の大きな違いは年の始めが違い「三正」といわれます。周歴は通常「建子の月」(即ち夏歴の十一月)を年の始めとし、殷暦は「建丑の月」(即ち夏歴の十二月)、夏歴は「建寅の月」(即ち後世に言う陰暦の正月)を年の始めとします。

 

またこの「三正」は歴算上では、「天正」(陰暦の11月、建子の月、冬至月)は太陽光の照射量が最も少ない冬至点の月でありこの月より日中が延びていきます。「地正」(陰暦の12月、建丑の月、大寒月)は気温が最も低い月であり、この月より気温が上昇し始めます。「人正」(陰暦の正月、建寅の月、雨水月)は太陽光は冬至と春分の中間で、気温が上昇し始め、春の始まりの指標です。中国の現在の農暦は暦算上「天正」を使用し、冬至を暦年の始めとし、民間では「人正」を用いで、立春を年の始めとしています。 

 

それでは、ここで出てくる「建子」や「建丑」「建寅」の「建」とはどういう意味でしょうか。

中国の古代天文学では北斗星の斗柄を「建」を言いました。一年の内、斗柄は旋回し順次十二辰を指します。これを称して「十二月建」と言います。夏歴(農暦)の月はこれによります。例えば、:建寅(正月);建卯(農暦二月);建辰(農暦三月);建巳(農暦四月);建子(農暦十一月)となります。

 

ではこれ等の知識をベースにして、原文を読み解きましょう。この原文を要約すると

 

12月、即ち景初3年の十二月に詔を出して、先帝(明帝)は正月に亡くなられた。臣民は今後正月に忌日の喪に服さなければならない。そこで暦を夏歴に戻す。夏正(夏歴の正月)を用いて、建寅の月を正始元年の正月とし、建丑の月を12月とする。

 

中国の暦は漢の武帝が紀元前104年に「太初歴」に改め、「建寅の月」を正月にして以来2千年間続いていますが、例外とし王莽と魏の明帝の時に「殷正」を用い、則天武后と唐の粛宗が「周正」を用いた以外は、「夏正」が用いられてきました。

 

上記の詔の意味する所は、景初三年の正月は「建丑月」であり12月は「建子月」でしたが、正始元年の正月は「建寅月」とし12月を「建丑月」に改めたのです。本来正始元年の正月が一周忌になる所をこの月「建丑月」に月を設けず喪に服し、正始年間からは12月に喪に服すようにしたのです。

これを表にすると下の表になります。

 

周歴

正月

2月

3月

4月

5月

6月

7月

8月

9月

10月

11月

12月

殷暦

12月

正月

2月

3月

4月

5月

6月

7月

8月

9月

10月

11月

夏歴

11月

12月

正月

2月

3月

4月

5月

6月

7月

8月

9月

10月

農暦

11月

12月

正月

2月

3月

4月

5月

6月

7月

8月

9月

10月

現在の暦(今年)

12月

正月

2月

3月

4月

5月

6月

7月

8月

9月

10月

11月

 

冬至

大寒

立春

春分

 

 

 

 

 

 

 

 

景初3年

12月

正月

2月

3月

4月

5月

6月

7月

8月

9月

10月

11月

正始元年

11月

12月

正月

2月

3月

4月

5月

6月

7月

8月

9月

10月

 

私が何故このようにくどくどと書いているかですが、卑弥呼が帯方郡から魏の都である洛陽に使節を出したのは三国志によれば景初2年6月であり皇帝に謁見したのがその年の12月となっているが、大方の意見は景初3年の誤りだろうといっています。岩波文庫版の魏志倭人伝の注釈もそう書いています。この根拠として日本書紀に景初3年とあり、その他書物にも景初三年と書いてあるものがあるからです。そしてこのように言っている学者もいます。「景初2年6月はまだ司馬懿は公孫淵を滅ぼしておらず、そんな不安定な時期に使節を送るはずがない。」と。

 

私は景初2年に使節を出したと考えています。

まず景初三年でない理由を述べてみると、明帝が崩御したのが、景初三年正月丁亥の日でこの日は27日だという。明帝は36歳でした。帝位を継いだ少帝芳はまだ9歳位であり明帝は司馬懿と曹爽に補佐を頼んでいる。そして、大事な事は、少帝芳は明帝の実子ではなく、この事は宮中の秘密でこの事を知っている者は少なかった。少帝芳は22歳で皇帝から斉王に戻されている。彼は皇帝の間なんら実権を握っていなかった。

 景初三年は喪中であり、政情も不安で次々と大赦やら衣冠を授けたりしており、極め付きが上記に記した改元に当り、殷正を夏正に戻したことです。このような混乱期の12月に果たして卑弥呼の使節と引見し、そして大判振る舞いとも言うべき答礼品を贈るだろうか。もし贈ったのであれば誰がその決裁をしたのであろうか。皇帝でないことは明らかです。

 かたや卑弥呼はといえば、明帝が崩御した情報は遅くとも4月には入っていた事でしょう。もし邪馬台国が大和に在ったのであれば6月に帯方郡に到着するためには4月に出発しなければなりません。九州であっても5月には出発する必要があります。この混乱期に帯方郡太守に対して皇帝への朝献をなぜ求めたのでしょう。弔問であれば理解できますが。

 

 景初2年であればすんなりします。

まず、大判振る舞いとも言える答礼品は、公孫淵を滅ぼした司馬懿が11月に凱旋し、司馬懿以下主な者に封土と爵位を授けている。そして当然祝勝祝いが行われたであろう。その時に朝貢してきた邪馬台国に対し曹操の直系の孫である皇帝(35歳)が喜びの余り多くの答礼品を授けたことは理解できる。邪馬台国の使節は多分司馬懿の軍隊と同行して都に入ったと思われる。だとすれば使節は11月に都に入った事に成ります。この年は11月が二度あり(即ち11月の後に閏11月があった)魏が使節への答礼品を準備するのに充分な時間がありました。

 明帝は12月の乙丑の日に病で床に伏したとのことだが、景初2年12月の乙丑の日とは、皇帝が崩御した景初3年正月丁亥の日から逆算すると12月22日であろう。邪馬台国の使節と謁見後暫くして病に倒れたと考えられる。これも辻褄があう。そして卑弥呼への答礼の使節が正始元年になったのも景初三年は喪中であったからと説明できる。

 

次回は、景初2年の6月に卑弥呼の使節が帯方郡に到着したのは、偶然でなかった。既に情報が入っていたことを説明します。

 

 

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今日やっと千葉の家にたどり着いた。


10日ばかり大阪神戸にいて、久しぶりに神戸で餃子を食べ歩きしてきた。

 

一軒目は、学生時代によく通った店で、三宮の高架下にある。餃子を二人前注文すると、相変わらず「コーテル リャンガ」と注文を通している。学生時代はこれが面白くてよく通ったものだ。この「コーテル」なるものが「锅贴」(guotie)のことだと知ったのはだいぶ後になってからだった。土曜日の昼だったが、店の客はすべてが60過ぎのおっさんとその連れのおばさんだ。やはり、ノスタルジーを感じてこの店に来るのだろう。

 

二件目は、JR六甲道の北口にある「宇宙軒」。神戸に行ったときたまに寄るのだが開いていたためしがない。夕方7時には殆んど売り切れで店を閉めている。といって、昼に開いているわけでもない。この店は夕方4時オープンで準備した餃子がなくなると店を閉める。カウンター席10席程度でメニューは焼餃子のみ。最近は、紫蘇餃子もありこの方が人気があるようだ。


「宇宙軒」も学生時代からの馴染みで、大連から引き揚げてきたご夫婦が戦後、六甲道の駅北で中華そばと餃子の店を開き、私の学生時代はご主人が店を切り盛りしていた。そのご主人が四十数年前に亡くなってからは奥さんと娘さん二人で餃子専門店として引き継いでいる。店も駅前再開発で二回移転し現在の場所に落ち着いたのは何年前のことだろう。たぶん二十年以上前だと思う。


今回は五時に行くと幸いにも店が開いており席も空いていた。相変わらずおばあちゃんが餃子を焼いており、娘さん(といっても60過ぎ)がいつもと同じで餃子を包んでいる。席に着くなり、おばありゃんが「ひさしぶり」と声をかけてくれる。「おばあちゃん、お元気で何より。何歳になった?」と聞くと、「何歳やと思う。」。少し考えて「85歳かな」といえば「87歳になった。」とのこと。
餃子二人前とビールを飲んで引き揚げた。この店は、一軒目と違い若い女性が比較的多く、土産の持ち帰へりが多い。
次に行くまで元気に餃子を焼いていることを祈って「次に来るまで元気でいて。」と言って店を後にした。

 

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