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2012年06月

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銅鐸は現在全国で約500基ほど出土しています。その殆どが、山や丘陵の斜面に横向けに埋められた状態で発見されています。銅鐸は一般に一世紀から二世紀にかけて製造され二世紀末には使用されなくなったと言われてます。その後、三世紀の前半には、三角縁神獣鏡が現れます。

 

 これはどういうことでしょうか。銅鐸は明らかに祭祈用です。宗教と密着しています。その銅鐸が2世紀末に破棄され、記紀にも記載されておらず全く忘れ去られたのです。この意味する処は、明らかに違う神もしくは祭祈を執り行う集団が侵入しこの広大な地域を支配していったからでしょう。私は、発掘された銅鐸の形状や用途についてはここでは論じません。ここで話したいことは、支配階級がどこから来てどこに本拠地を置き。全国を支配していったかを類推していきます。

 

 戦後、江上波夫教授の「騎馬民族説」が一時、もてはやされました。

かれは、五胡が中国の華北に侵入し、騎馬民族の高句麗が朝鮮に境域を拡大したころ、高句麗と同じツングース系の騎馬民族の一派が、朝鮮半島を南下し、南端の狗邪地方の倭人を征服するとともに、やがて日本に侵入した。そのころ、日本の倭人の間では、畿内大和を中心とする統合が進みつつあったが、四世紀のはじめ、天皇氏を中心とするこの騎馬民族は九州の地に上陸した。そして大和に入り「一世紀たらず」の後、即ち四世紀末ないし五世紀のはじめに、強大な王国を確立した、というのです。

私が今関心があるのは、4世紀ではなく魏志倭人伝の世界即ち三世紀の前半です。3世紀始めに大和地方を押さえた民族が、四世紀末から五世紀はじめに騎馬民族に取って代わられたのかも知れません。これが、神武と崇神、応神の説話かも知れません。

 

まず参考となるデーターを見ましょう。

1.古墳所在地(平成13年3月末)    

1位 兵庫県 16,577基

2位 千葉県 13,112基

3位 鳥取県 13,094基

4位 福岡県 11、311基

5位 京都府 11,310基

 

2.銅鐸出土数

1位 兵庫県  56点      その他地域を見ると

2位 島根県  54点      奈良県 16(19)点

3位 徳島県  42点      大阪府 18

4位 滋賀県  41点      愛知県 28

5位 和歌山県 41点      静岡県 29

奈良県のデーターは文献上も計算し、且つ小指ほどの破片も一点と数えているようです。

 

3.三角縁神獣鏡

1位 奈良県  75面

2位 京都府  55面

3位 兵庫県  45面

4位 福岡県  18面

 

奈良県に注目してみますと、古墳の数は以外にも5位以内に入っていません。

銅鐸の数も少なく、実物が存在するのは10前後でしょう。それに比べて、三世紀の三角縁神獣鏡はダントツの一位で75面も出土しています。

これは明らかに、銅鐸を祭祈用に用いていた部族から、新たに侵入してきた銅鐸を否定する部族(民族)に支配権が移ったことを暗示しています。

 

奈良県から出土する銅鐸の数が少ない理由は二通り考えられます。京都府の数は調べてませんが奈良・大阪と大差ないのではと思います。

まず一つの考えは、1-2世紀の奈良地方は、文化が遅れていたが、3世紀に文化の進んだ民族が定住した。

別の考え方もあります。

三世紀前半に、奈良地方に侵入した民族が銅鏡(三角縁神獣鏡)を鋳造するために、奈良・京都・大阪の豪族から銅鐸を徴収した。その情報がその他地方に流れたために銅鐸は目立たない山麓に埋めて隠された。その侵入した民族が即ち前回触れた呉の軍隊であった。

 

この推理が成立するためには、三角縁神獣鏡と銅鐸(特にこの地方で出土する)の成分が一致するかが重要ですが、なにぶん科学音痴ですので、ana5さんよろしくお願いします。

参考となるデーターは

三角縁神獣鏡が

http://www.spring8.or.jp/ja/news_publications/research_highlights/no_16/

銅鐸が

http://homepage1.nifty.com/moritaya/bunseki.html

です。

 

銅鐸は鋳直した場合、鉛が溶け出す可能性もありますので、この点も考慮して分析していただければたすかります・・・ ana5さんへ

 

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前回の続きです。王仲殊氏は、三角縁神獣鏡と同時代の中国で出土した各種銅鏡の型式と出土地を検討した結果、三角縁神獣鏡は呉鏡の神獣鏡と画像鏡の特長を結合したものと結論付け、そして、三角縁神獣鏡は呉国でも魏国で作られた鏡でもなく倭国で呉の工匠によって作られたものであるとの説明している。

その後、以前このブログ「魏志倭人伝を読む(19)中国銅鏡と三角縁神獣鏡の関係」で湖北省卾州市博物館の董亜巍の試論では、彼は銅鏡の鏡上の神獣の精度及び製造工程から検討し、「鋳造は呉の工匠だが、彫像は稚拙であり日本人の可能性がある」と説いた。この時代の銅鏡製造工程は完全に分業制であり、例えば日本の浮世絵のように「絵師」と「彫師」と「刷り師」が完全分業であったように、銅鏡の製造も「彫塑」「鋳型」「鋳造」は完全分業であり、多分日本へ行ったのは「鋳型」と「鋳造」の専門家だったのではと結論つけた。また、彼は当時の銅鏡の製法上、「彫塑」から「鋳型」までの工程は非常に複雑であり多くの工程を経て鋳型が作られたと説明している。

 

私は、彼らの説をベースに更に理論を展開するにあたり、まず解決すべき疑問点を整理したいと思う。

疑問点1:もし魏の工匠が日本で鋳造したのなら、彼らを派遣した権力者は呉王(帝)であり、彼は誰の要請でいつ派遣したのだろうか。そして派遣した目的はなんだったのだろうか。これを解決するためには銅鏡を鋳造した場所を特定し発掘で実証する必要がある。

 

疑問点2:現在までに発掘されている三角縁神獣鏡は400枚以上ある。1700年以上前の物がこれだけ見つかるということは、当時鋳造されて紛失もしくは破棄されたり未発掘のものを含めると、恐らくこの数倍或いは数十倍あったと推定できる。このような大量の青銅をどのように、そしてどのルートから入手したのであろうか。そして、これだけの銅鏡を製造するのにどのくらいの期間が必要だったのか。

 

疑問点3:魏帝が卑弥呼及び壹与に賜ったとされる銅鏡は約200枚と推定できるが(歴代王朝は前例を重視するので、壹与も卑弥呼と同数の100枚と考えるのが妥当)、この銅鏡の型式は何だったのか。また、日本で見つかった「画像鏡」と「神獣鏡」は明らかに舶載鏡だという。そして、これは明らかに「呉鏡」だという。では、これらの銅鏡はどのようなルートでどこに入ってきたのだろうか。

 

疑問点4:三角縁神獣鏡には多種多様な銘文があり、その中に魏の年号である「景初」と「正始」も含まれる。一般にはこの年号を根拠として卑弥呼が魏帝より賜ったものだと理解されていたが、王仲殊氏は呉の工匠がなぜこの年号を用いたか、説明している。この説明が妥当かどうかはさておき、もし三角縁神獣鏡が日本で作られたのなら、当然製作年代は「正始元年」以降であり、まだ北九州は魏との関係が非常によい時期である。そして、卑弥呼はまだ生存している。これをどのように解釈すればよいのか。

 

  また、三角縁神獣鏡にはその他の銘文があり、「銅出徐州 師出洛陽」に関しては、王氏は適当で誇張しており、逆に中国産でありえないと言い。銘文中に「作者名」があるのは、民間の工房で造られたものであって、皇帝の下賜品には考えられないと董氏は解釈している。これらも彼らが中国製(魏帝が卑弥呼に賜ったもの)でない根拠にしているが、果たして彼らの解釈が信じるに値するものだろうか。

 

他にも疑問点は多々あるが、今回はとりあえずこの四点に絞って検討してみたい。

 

まず第一の疑問点の解釈として、公孫淵が遼東を支配していた時、公孫淵は呉の孫権と連絡をとっており、また、その当時から伊都国には帯方郡の郡吏が常駐していたので、呉国の工匠は帯方郡経由で日本へ来たのではないかという。しかし、233年に公孫淵は呉の使節を斬って呉と決別している。その後景初二年(238年)に魏に攻め滅ぼされた。ですから、帯方郡経由で日本へ来たのなら233年以前と言うことになる。三角縁神獣鏡で年号の銘文がある最初の年号は景初三年(239年)で、最後が景初四年及び正始元年(240年)ですから、この間、七年以上経過している。この説を採用するなら、招聘したのは卑弥呼であり、233年以前もしくは238年以前に卑弥呼は呉の使節と接触していたことになる。

そして、呉の工匠は239年以前から三角縁神獣鏡を倭国内で製造し、239年以降に満足な銅鏡が出来だしたか、もしくは帰国が近くなったので銘文入りの三角縁神獣鏡を作り始めた。呉の工匠が魏の年号を鏡銘にしたのは、卑弥呼が魏と接触し始めた為であり、卑弥呼の要請で魏の年号を銘記したことになる。

 

しかし、問題点もある。それは、三角縁神獣鏡が近畿エリアを中心として出土している事です。もう一つの問題点は、邪馬台国畿内説を採用するなら、近畿エリア中心の出土は理解できるが、問題は帯方郡と近畿(奈良と仮定しよう)の距離です。「魏志倭人伝を読む(25)」で引用したように、隋の裴世清が使節として都へ来たとき「大宰府から難波まで水行30日、難波から都まで馬で3日」要している。これに帯方郡から伊都国までの日数を水行10-20日として、片道約二ヶ月を要します。司馬懿が遼東へ軍を動かしたのが正月で遼水を渡って総孫淵を攻め、城を落として公孫淵の首を刎ねたのが8月です。その前に山東半島から海を渡って楽浪・帯方両郡を攻めて公孫淵の退路を断ったのを見極めた後に司馬懿は公孫淵を攻めていますから、帯方郡が落ちたのが早くて四月としても、卑弥呼の使者難升米が帯方郡に到着して魏帝に謁見を求めたのが六月ですから二ヵ月後に到着しています。

   卑弥呼は当然、帯方郡が魏の手に落ちたことを知って、早速使節を派遣した。この当時、帯方郡から奈良までは先ほど書いたように、約二ヶ月要します。往復だと、使節が翌日に出発したとしても四ヶ月必要です。もしもっと早く到着するとの意見でも、卑弥呼が知らせを聞き、派遣を決定し、準備する期間を計算すればやはり四ヶ月は必要でしょう。邪馬台国畿内説では、計算が合いませんね。邪馬台国が九州のどこかにあったなら、多分計算が合うでしょう。但し、水行20日陸行10日の疑問がのこりますが。

 

したがって、呉国と接触し呉の工匠を招いたのが邪馬台国連合国の卑弥呼ではないという見方も浮上します。近畿中心に三角縁神獣鏡が出土することから、呉が接触したのは近畿地方の豪族であったとの考えです。もしくは、呉の軍隊が近畿地方に侵入し、その土地を支配した。この場合、銅鏡を作った目的は周辺の土着豪族を手なずけるために贈り物として用いたのでしょう。この根拠になるのが《三国志・孫権伝》の、黄龙二年正月,魏作合肥新城。诏立都讲,以教学诸子。遣将军卫温,诸葛直将甲士万人浮海求夷及亶州。亶州在海中,长老传言秦始皇帝遣方士徐福童女数千人入海,求蓬莱神山及仙药、止此洲不还。世相承有数万家、其上人民、时有至会稽货布、会稽东县人海行、亦有遭风移亶洲者。所在绝远、卒不可得至、但得夷洲数千人还の文章です。黄龍二年とは230年のことであり、亶州は日本列島のことだという説が有力です。(上文の翻訳は拙訳http://shimajyo.iza.ne.jp/blog/entry/2520880/を参照)

  この内亶州を求めて今の寧波あたりから船出した船の一部が黒潮に乗って紀州あたりに到着のではないでしょうか。彼らが呉に帰りついたとは史書には書いていません。それと、上文にもあるように彼らは徐福の故事にならって、当然、食糧やたどり着いた土地での生活を考えて、種子や農耕器具も積み、各種技術者も同行したことでしょう。技術者の中に銅鏡の工匠もいたと考えられないでしょうか。私はこの考えに非常に惹かれます。

  彼らは、銅鏡も船に積んでおり、それが今日出土する舶載鏡の「画像鏡」と「神獣鏡」であったとも説明できます。

  この説では、彼らはなぜ呉の年号を使用せずに、魏の年号を使用したのかの説明が必要です。これは、非常に単純で、彼らは日本に辿りついて後、呉の情報を得ることが出来なかったが、北九州ルートで魏の情報は入っており、魏の年号は知っていた。だから、仕方なく魏の年号を使用した。

 

  では、卑弥呼が魏帝から贈られた鏡はどのようなものだったのでしょうか。やはり魏鏡であり、今日出土する、“内行花紋鏡”、“方格規矩鏡”、“獣帯鏡”の類と考えて間違いないでしょう。

  

余談ですが、呉の軍船が紀伊半島にたどり着いたとしたら、その後どうなるでしょうか。神武天皇は呉の武人であったといえます。そして、日向とは、「日の向こう」即ち西の方向の呉の故地を指す言葉であり、高千穂の峰とは「会稽山」の事である。どんどん脱線しますね。

 

また脱線しますが、日本に「もち」という食べ物があります。中国では「年羹」(niangao)といいます。しかし、友人の話では寧波あたりでは「mochi」というそうです。なにか、符号みたいなものを感じませんか。

 

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(五)

 前に話したように、日本で出土した三角縁神獣鏡は“求心式”と“同向式”の二分類に分けられ、前者が多く、後者は少ない。後者の内区の主紋は殆ど中国の画文帯同向式神獣鏡の主紋を模倣しており、前者の内区の主紋は中国の各種神獣鏡の内区主紋も顕著に似通っている。しかし、鏡全体を見れば、日本の三角縁神獣鏡は中国の各種神獣鏡との間に少なからず差異が存在する。

 まず、日本の三角縁神獣鏡は、形体が中国の神獣鏡より遥かに大きい。中国でも大型鏡が見つかったことがある。例えば西安市文管処所蔵の二枚の前漢の鏡(1979年に日本に貸し出しことがある)は、直径がそれぞれ25センチと28センチです。しかし、このような大型鏡は中国ではさすがに珍しい。後漢、三国と西晋の神獣鏡といえば、一般に直径がただの十数センチです。卾城の西晋墓で発見された最大の一枚の画文帯対置式神獣鏡は直径18センチ、江西省南昌の西晋墓から見つかった一枚の画文帯環状乳神獣鏡の直径は18.2センチで、これらはかなり抜きん出ている。画文帯神獣鏡のうち、直径が二十センチ以上のものもあるが、そんなに多くない。しかし、日本の三角縁神獣鏡は、一般に直径が皆20センチを超えており、二十五センチ以上もある。当然、鏡の同異を考察するには、主に鏡の形制と紋飾面を着眼するが、形体の大きさがかけ離れている事も、軽視できない問題である。

 中国戦国時代の銅鏡は、縁部が往々に断面が凹的に孤形を呈している。しかし、漢代に至り、特に前漢中葉以後、銅鏡の縁部の平面形制は時には鏡の種類の相違で差異があるが、それらの断面は、全て平縁であるといえる。概ね後漢中期より始まり、とりわけ漢末・三国時期まで、各種銅鏡の縁部は、平縁以外に断面が三角形或いは三角形に近いのがある。しかし、総じていえば、平縁の銅鏡がやはり大多数を占め、三角縁或いは近三角縁は少数である。特に神獣鏡では、建安式重列神獣鏡或いは半円方格帯神獣鏡に問わず、画文帯神獣鏡を含んでも、全て平縁鏡の範疇に入る。今日までに、中国で出土した各種神獣鏡のうち、縁部の断面が三角形或いは近三角形を呈したものは発見されていないということが出来る。(後述の“二神二獣鏡は除外)。これは中国の各種神獣鏡が日本の三角縁神獣鏡との間で最も主要な区別の一つです。

 鏡縁の形制と緊密な関係は、鏡の外区の形制と紋飾です。日本の三角縁神獣鏡は、外区の紋飾が定型化され、すべて二周の鋸歯紋帯の間に一周の複線波紋帯が挟まっており、それは中国後漢前期以来の一部“方格矩鏡”或いは“獣帯鏡”等の外区と類似している。年号銘鏡はといえば、紹興出土と伝えられている後漢永平七年銘の“獣帯鏡”一枚の外区がこの種の紋飾に属する。紹興等の地から出土した多くの画像鏡の外区の紋飾は更にそうです。しかし、問題は中国出土の各種神獣鏡には却ってこのような外区は全くない。

 ここまで話して、我々は紹興等の地で出土した後漢中晩期から三国・晋大までの多くの画像鏡を取り上げないわけにはいかない。中国の各種神獣鏡に反して、紹興等の地で出土した画像鏡の形体は甚だ大きく、直径が時には二十センチ前後ある。特に注意に値すべきは、これらが像鏡の縁部は平縁もあるが、また少なからず三角縁或いは近三角縁がある。そして、鏡の外区は飾りが流雲紋帯と獣紋帯以外に、飾りが二周している鋸歯紋帯とその間に一周の複線波紋帯が挟まっている。以上の面から見れば、中国の一部の画像鏡は日本の三角縁神獣鏡と頗るよく似ている。しかし、鏡の内区の主紋から見れば、それらはやはり画像鏡である、神獣鏡ではない。それらの内区の主紋は中国の各種神獣鏡とも異なり、日本の三角縁神獣鏡とも異なる。たとえ後者の内区の主紋が時に画像鏡の内区の主紋の一部要素を含んでいてもである。もしある人が、日本の三角縁神獣鏡は中国の画像鏡の外区(鏡縁を含む)と神獣鏡の内区の結合であるといえば、それは簡単に人の同意を得るであろう。しかし、現実の問題は中国で画像鏡は神獣鏡と同様に後漢中期以後に新しく興った銅鏡であり、花紋の題材は模様の製作技法は共に似通っており、且つ共に紹興等の呉地で製作されたものであるが、それらは却って各々自ずから一種類を成し、紹興にも中国のその他各地でも結合されたことはない。

それゆえ、両者は日本の三角縁神獣鏡と対比して、たとえ似通っていようと、却ってともに差異を覆い隠すことはできない。

 このように、中国で見つかった銅鏡は、鏡の全体から言えば、最も日本の三角縁神獣鏡に似通っているのは、ただ一種のいわゆる“二神二獣鏡”である。この種の“二神二獣鏡”は、中国での発見は決して多くない、以前見た目録に二枚の伝世品があるが、発掘品は1957年に安徽省合肥の西晋墓から出土した一枚だけである。それらの縁部はすべて三角縁に近く、外区と内区の間に一周の鋸歯紋帯に一周の複線波紋帯が挟まっており、外区の紋飾は二周の鋸歯紋帯に一周の複線波紋帯が挟まっており、外区と内区の間には一周の櫛歯紋帯と一周の銘文帯がある(銘文はすべて“吾作明鏡”で始まる)。内区には四つの“乳”があり、その間に神像と獣形が配置され、全体の鏡面の形制と紋様の風格は日本の三角縁神獣鏡と概ねそっくりである。しかし、同様の“二神二獣鏡”は日本では少なからず見つかっており、周知のようにそれらは“斜縁(或いは半三角縁)二神二獣鏡”と呼ばれ、三角縁神獣鏡の範疇から除外されている。事実、三角縁神獣鏡と比較してみれば、この種の銅鏡は縁部の断面が本当の三角縁と差異があるだけでなく、内区の主紋と外区の鋸歯紋帯、複線波帯などが簡単であり、鏡の形の大きくなく、直径は十五センチ前後に過ぎない。直径が二十センチを超える三角縁神獣鏡と対比して、中型鏡であり、三角縁神獣鏡と同日には語れない。

 

 もし中国の一部画像鏡の外区(鏡縁を含む)と神獣鏡の内区を結合して、日本の三角縁神獣鏡になり、そして外区と内区に依然存在する差異を不問にしたとしても、ここにはまだ重要な欠陥があり、それは日本の三角縁神獣鏡によく見られるいわゆる“笠松形”紋様がある。研究によれば、この種の笠松形はが変化したものである。しかし、中国の銅鏡には、伝世の画像鏡にの紋様が僅かばかりあるが、これと日本の三角縁神獣鏡の笠松形とは非常に大きく異なる。我々は笠松形はが変化したものと認識できるが、を笠松形と言うことはできない。ですから、私はやはり言わねばならない、中国で見つかった銅鏡には、日本の三角縁神獣鏡上に散見される笠松形はないと。伝世の一枚即ち孫呉の太平元年の神獣鏡のは、いわゆる“笠松形”だとかつては考えられていたが、形状は簡単であり、紋様も不明瞭であり、これはにも似ておらず、笠松形にも似ていない。結局三角縁神獣鏡の笠松形に近いとは決して論じる事ができない。

 

(六)

 日本の三角縁神獣鏡上の各種銘文は大部分中国で出土した同時期の各種銅鏡に常見される。しかし、全くの例外がないわけではない。例えば、富岡謙蔵が証拠とした三角縁神獣鏡上の“銅出徐州、師出洛陽”の銘文もその例である。

 

 日本の三角縁神獣鏡のうち上述の銘文があるのは凡そ10枚ある。その内の大多数は、銘文が四文字で、“銅出徐州”、“師出洛陽”の両句が連なっている。しかし僅かだが、上句が““銅出徐州”で、下句が“刻鏤文章”で、“師出洛陽”がないのがある。滋賀県富波山古墳から出土した一枚は、まさに“銅出徐州”と““刻鏤文章”の両句の合成であり、“銅出徐州刻鏤成”の七文字であり、“師出洛陽”の句はない。

 指摘したいことは、今日まで、中国では“銅出徐州”の銘文は遼寧省遼陽三道壕の魏晋墓から出土した銅鏡一枚のみであり、“師出洛陽”の銘文は如何なる銅鏡にも見えない。

 前述の遼陽三道壕の魏晋墓の銅鏡は方格規矩鏡であり、神獣鏡或いは画像鏡ではない。この銘文は“吾作大竟真是好、同(銅)出徐州(清)且明兮”で計七文字あるが、日本の三角縁神獣鏡と比べて文字数は同じだが全文は簡単である。しかし“銅出徐州”の四文字は一致し、その意味は当然鋳鏡に用いた銅が徐州で採られたと言っている。

  王莽時期及びその後の多くの銅鏡にはよく“漢有善銅出丹陽”或いは“新有善出丹陽”の銘文があり、丹陽(今の安徽省当塗)は漢代最も有名な銅鉱の所在地であったと見なす事が出来る。《漢書・地理志》の記載によれば、漢朝政府は丹陽郡(この治所は宛陵にあり、今の安徽省宣城)に銅官を設置した。ですから、“善銅出丹陽”の銘文は当時の情況と完全に合致するが、この種の銘文のある鏡は、必ずしも丹陽の銅を用いたとは限らないことが読み取れる。

 

 しかし、“銅出徐州”銘文中の徐州は、いったいどこを指すのか研究に値する。徐州とは漢武帝が設置した十三刺史部の一つで、その所轄は今の江蘇省長江以北及び山東省の南部地域である。後漢時、徐州の治所は剡(今の山東省剡城)にあり、曹魏時は彭城(今の江蘇小徐州)に移った。しかし、今の徐州一帯は、古より銅を産しない。《漢書・地理志》と《続漢書・郡国志》によれば、彭城及びその付近は、漢時代には鉄鉱があり、鉄官が置かれたが、銅鉱はなかった。《新唐書・地理志》《宋書・地理志》等も徐州は鉄を産すると書いているが、銅を産するとは説いていない。明清時の関係書籍に初めて徐州付近に銅山があり、“旧曾産銅”とあるが、実際には根拠がない。清の雍正帝の時代に徐州府に銅山県が置かれたが、所謂銅山は有名無実であった。近代に到り実際に調査されたが、徐州の利国駅の主な鉱石は赤鉄鉱であり、そして銅山島の南端に鉄峰があり赤鉄鉱に黄銅鉱が含まれ、風雨に浸食され緑色に変色している。銅山の名は多分これに由来しているのだろうが、決して採掘可能な銅鉱ではない。要するに結論を言えば、三国時代、彭城及びその付近は絶対に銅を産することはなかった。しかし、もし“銅出徐州”銘文中の徐州が今の江蘇省長江以北と山東省東南部の広大な地域を指すというのであれば、今の揚州と儀征一帯は古に銅鉱があり、漢初に呉王劉濞が鋳銭したと伝えられている。当然、ここは長江に接しており、鏡銘中の“徐州”を指すか否かは、やはり肯定しがたい。要するに、“銅出徐州”の銘文は比較的複雑な問題であり、更なる検討を待たねば為らない。しかしながら、銅鏡に“銅出徐州”の銘文があろうと、銅が必ず徐州産だとの説明は不足しており、とりわけ銅の採掘がない彭城及びその付近から掘られたとの説明は不可能である。

 “師出洛陽”の銘文は、明らかにでたらめである。鏡上に“師出洛陽”の銘文があろうと、決してそれらが洛陽の工匠によって作られたとは説明できないし、更にそれらが洛陽の製品だとは説明できない。中国で出土した各種銅鏡によれば、洛陽及びその付近から出土した銅鏡には、全くこの種の銘文がなく、これも中国銅鏡と日本の三角縁神獣鏡の間の明確な相違の一つになる。

 

 (七)

 総括すれば、結論を引き延ばすことはできない。日本で出土した三角縁神獣鏡は魏鏡ではない。なぜなら、中国での、各種神獣鏡と画像鏡は主に呉の領域内で鋳造され、魏の領域内での鋳造はない。

 

 日本で見つかった多くの中国の神獣鏡と画像鏡は呉鏡であるべきです。なぜならそれらの形制と紋飾は呉鏡と同じであり、特にある銅鏡は“赤烏元年”、“赤烏七年”の年号があり、さらにそれが呉鏡であることを疑いもなく証明している。《三国志・孫権伝》によれば、壇洲(考証によれば、日本列島の一部)は海中にあり、数万家があり、その人民は時に会稽に来て“貨市”する。この条の記載は非常に重視に値する。我々は海上の波風があるのでと言う理由でこれに対し否定の態度を懐くことを改めねばならない。古人の航海能力を低く見積もっても、根拠がない。大切なことは、会稽郡が呉鏡の主要産地であり大量に日本へ伝入したことは、上述の歴史記載が証拠である。しかし、我々は日本の三角縁神獣鏡も呉鏡だとは言えない。なぜなら、それらは中国の呉地で発見された銅鏡(各種神獣鏡と画像鏡を含む)とは同じでない。日本で発表された関係論文には、三角縁神獣鏡は呉鏡であり、中国南方からの日本へ舶載したものだと主張しているのがある。この論文は取るべきところもあるが、その種の結論はやはり人に賛同させることはできない。つまり、三角縁神獣鏡は魏鏡でもなければ、呉鏡でもない。言い換えれば、それらは、中国製造ではなく、日本製造であるべきです。日本で大量に発見された三角縁神獣鏡は、中国では今日まで一つとして見つかっていない。このような情況で、それらが中国製造であると説明するには、実際人を信服させるのは困難である。

 

 しかし、東渡した工匠により日本で製造されたのなら、なぜ一部銅鏡の銘文に中国の“景初”と“正始”の年号を用いる必要があったのか?呉の工匠が製造したなら、なぜ呉の年号を用いず、魏の年号を用いたのか?この種の問題は想像力豊かな専門家にゆだねるのがよかろう。しかし、私が思うに、外国で製造された器物の銘文に中国の年号を使用するとき、このような事例が別の所でもかつてあり、決して絶対に理解不可能な事ではない。ご存知のように、石上神宮の“七支刀”の銘文中に百済で作られたと記されているが、“泰和四年”の年号ですよね?工匠達は国内で神獣鏡を作っていたとき、習慣として銘文中に各種年号を使用していた。なぜ日本へ行ってから、偶然中国の年号を使用してはいけないのか?中国の工匠たちが中国にいたとき、魏と呉の境界線は明確あったが、はっきりと分けることもできなかった。しかし、一旦外国に出て、中国には魏と呉があることを知った。そして関係も良くない事を知った。呉主孫権の統治の下、呉国の工匠は鏡銘中に魏の“黄初”の年号を用いた事があり、東渡以降の工匠はなおさらではないですか?邪馬台国と魏の往来が緊密なので、魏の“景初”と“正始”の年号を用いたことはさらに合理的ではないでしょうか?

 

  中国の工匠は日本に着いて、自己の技能を発揮し、自己の工芸伝統を遵守したが、当地の風習に迎合もした。倭人は銅鏡を重視し、中国鏡を倣制したとき、総じて鏡を特別大きく作った。福岡件平原遺跡で出土した直径46.5センチの“内行花紋鏡”は突出した一例である。倭人の嗜好に迎合するため、工匠たちは三角縁神獣鏡も相当大きく作った。

 

 呉の銅鏡には神獣鏡があり、画像鏡もある。なぜ工匠たちは画像鏡を作らず神獣鏡のみ作ったのか?これは多分当時の日本人の嗜好と関係している。日本人が中国鏡を真似て製作した“倭鏡”を見れば、神獣鏡が非常に多く、画像鏡が比較的すくないではないですか?しかし、工匠たちはきっと画像鏡の伝統を忘れておらず、画像鏡の三角縁と鋸歯紋帯と複線紋帯を組み合わせて神獣鏡の外区に描いた。彼らは有る時画像鏡に常用される“東父王”と“西母王”等のテーマを三角縁神獣鏡に使用した。岡山県車塚古墳、山梨県銚子塚古墳、群馬県三本木古墳、奈良県佐美田塚古墳及び滋賀県大岩山古墳で出土した三角縁神獣鏡は、その内区の主紋は神像と獣形以外に、車馬の造形があり、後者は中国各地で見つかった神獣鏡には見られず、紹興等地で見つかった画像鏡によく見られる。それは、工匠たちが日本に到着後、画像鏡と神獣鏡を結合した事を説明している。当然、結合後の鏡は、その主要面から言えば、やはり神獣鏡である。工匠たちは日本に到着後、作鏡時に新しい模様を加えた。笠松形の類はその一例であり、その源も中国の画像鏡である。

  しかし、三角縁神獣鏡が中国国内で見つからないといえ、なぜ中国の工匠は日本でこの種の中国国内でかつて作ったことのない銅鏡をもっぱらつくったのか?この問題に関する回答は、三角縁神獣鏡以外に、日本で出土したその他各種神獣鏡、例えばある画文帯同向式神獣鏡も、決して完全に日本へ行った中国の工匠の手で出来るのは不可能な事ではない。この問題においては、大阪府黄金塚古墳で出土した“景初三年鏡”も疑うべき例である。

 呉の工匠が日本に行ったのはどんな理由だったのか、どんな経路を辿ったのか?この問題に関して、日本の学者たちは1969年に古墳時代考古学の討論会で、言及したことがあり、呉国と遼東の公孫氏政権の往来と関係あると考えている。更に新しい成熟した考えがないので、ここでは多くは語りたくない。

 大阪府国分茶臼山古墳出土の三角縁神獣鏡の銘文は、“吾作明竟真大好、浮由天下四海、用青同(銅)至海東”。滋賀県大岩山古墳出土の三角縁神獣鏡の銘文は、“鏡陳氏作甚大工、型模周口用青銅、君宜高官至海東、保子宜孫”。これ等の銘文は東渡の中国工匠が日本で鏡を作った証である。古代では、中国の所謂“海東”は、主に朝鮮方面を指す言葉です。しかし、鏡銘中の“海東”は、富岡謙蔵が国分茶臼山古墳で出土した鏡を論じた時説明したように、日本を指しているといえる。しかし、私は二つの鏡の銘文に含まれる意味は、この認識は海の向こうの東に送り出して鏡を作ったと説明しており、海の東で鏡を作ったのが更に適当といえる。梅原末治が神獣鏡と神仙思想の関係を説いて、鏡銘中の“海東”は東方海中の仙境、楽土の類を指すとの主張は妥当ではない。“至海東”の銘文は中国出土の神獣鏡には見当たらないのが、この問題を説明している。東渡の工匠が日本で鏡を作り、鏡銘中の“君宜高官至海東”は、山陰の工匠が卾城で鏡を作っていたとき鏡銘中に、“家在武昌思其少”と同じく、すべて即興の筆による偶然であり、却って当時の事実を説明しており、この情趣はよく似ている。

 《魏志・倭人伝》を見れば、魏が邪馬台国に贈った銅鏡は、実数が記載されており、ただの百枚である。この百枚の銅鏡は景初三年十二月に魏帝が卑弥呼宛の詔書にあり、翌年(正始元年)に帯方郡太守弓遵によって遣中校尉らに同詔書、印綬及びその他礼品を倭国に送り届けさせた。当然、邪馬台国は魏と何度も往来しており、特に最後(正始9年)には卑弥呼の継承者である壹与は使節を洛陽に派遣し、贈り物を届け、答礼に、魏より多くの銅鏡等の贈り物を頂いている。しかし、鏡の総数は数百枚を超えることはない。千七百年以上後の今日、これらの銅鏡が当然ながら全て発見されることはありえない。しかし、今までに、日本で見つかった三角縁神獣鏡はすでに三百枚を越えている。もしそれらが魏の贈り物であれば、その数量はいささか多すぎる。曹魏が鏡を贈ったのは、歴史上の事実である。贈られた鏡がどのような種類なのか、三角縁神獣鏡以外の各種同時期の本当の舶載鏡で考えれば、しかし基本的に神獣鏡と画像鏡は当然含まれない。

 

 邪馬台国の所在地は、九州もしくは畿内、これは今後引き続き検討を待たねば為らない。しかし、私が思うに、三角縁神獣鏡が東渡の中国工匠によって日本で作られたのであり、“畿内説”が不利な立場になるとは必ずしも限らないだろう。

                    198141

 

原文は、http://wenku.baidu.com/view/21f06d4ae45c3b3567ec8ba5.html を参照。

 

仕事の合間に翻訳しているので誤訳があります。ほんの参考です。。。。

 

次回は、三角縁神獣鏡について再度突っ込んで検討していきます。

 

 

 

 

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(四)

 後漢中期以降出現した南方と北方の銅鏡製作面での差異は、三国の分裂の伴い更に深くなった。事実、漢献帝の遷都より、南北が対峙する政治局面が形成されだした。偶然の一致か、呉鏡と魏鏡の顕著な差異も漢献帝の建安年間に遡る事ができる。いわゆる“建安式重列神獣鏡”は長江中下流地区で発生し大量に広がった一種新式の神獣鏡である。この種の神獣鏡は、鏡上の年号銘文に基づけば、その年代の上限は建安元年で、下限は呉主の孫皓の天紀年間です。卾城で見つかった十数枚のこの種の神獣鏡のうち、半数以上が年号銘があり、年号は“建安”以外に、孫呉の“黄武”、“黄龍”、“嘉禾”および“赤烏”等がある。今日までに見つかった全ての年号銘の鏡は、“建安”以外のその他“黄武”、“黄龍”、“嘉禾”、“赤烏”、“永安”、と“天紀”は全て孫呉の年号であり、それらは全て呉鏡と見なして良い。別の面では、凡そ出土地点が明らかな建安式重列神獣鏡の調査によれば、その出土地点は多くが紹興と卾城であるが、それ以外は、江蘇省の南京、安徽省の蕪湖、広東省の広州、広西自治区の貴県等であり、呉の領域ないであり、このことからもそれらは全部疑いもなく呉鏡である。要するに、僅か“建安式重列神獣鏡”を見ただけでも、呉鏡と魏鏡の区別が如何なるものか明確に説明できる。

 中国古代の銅鏡は戦国時代から紋様の設計は基本的に鏡面に円心的に対称に配置されている。前漢中期以降、“地紋”の消失及び鏡鈕が弦紋帯状から半球状に変わっていくに伴ない、この種の鏡面円心はいわゆる“心対称”の紋様設計は更に進んで確定してきた。しかし、後漢後期に至り、引き続き流行った“心対称”の紋様設計の情況の中で、別の鏡の円面直径の対称いわゆる“軸対称”という新しい紋様設計が現れた。この種の“軸対称”の紋様を施した銅鏡は、北方で主に“位至三公”、“君宜高官”あるいは“長宜子孫”等の直行文字と左右両側に双頭の龍鳳紋を配置した所謂“双頭龍鳳紋鏡”と“位至三公鏡”であり、南方では前述の建安式重列神獣鏡を代表とし、後者は鏡面の中間に時々“君宜高官”の類の直行文字がある。これ以後、神獣鏡の型式はいわゆる“環状乳神獣鏡”、“対置式神獣鏡”、“同向式神獣鏡”、“求心式神獣鏡”等があるが、神像と獣形等の紋様配置方式から見ると、概ね大きく二つに分類でき、一類は“心対称”、一類は“軸対称”である。全ての各種神獣鏡はみな平縁である。建安式重列神獣鏡を除けば、その他各種神獣鏡は内区の外周ししばしば一周の“半円方格帯”があり、“半円方格帯神獣鏡”といわれる。そして一部銅鏡は外区が縁部の飾りに近い神仙、奇獣、異獣等の紋様組成の“画文帯”があり、ゆえに“画紋帯神獣鏡”と称す。注意すべきは、各種型式んも神獣鏡は、建安式重列神獣鏡と同様に、年号銘鏡は、一部の後漢の物以外は、全ての年号は、“黄武”、“赤烏”、“建興”、“五鳳”、“太平”、“永安”、“甘露”、“宝鼎”、“鳳凰”、“天紀”があり、これに卾城で新たに見つかった“黄龍”、と“嘉禾”が加わり、全てが孫呉の年号であると言える。したがって、これらはみな呉鏡だと確定できる。三国以後の年号銘のある神獣鏡は、“泰始”、“太康”、“元康”、の西晋の年号銘神獣鏡以外は、“建武”、“咸康”、“太和”等の東晋の年号であり、それらもやはり南方呉国の故地の産品だと証明している。伝世の“太和鏡”は、東晋の“太和”であり、曹魏の“太和”ではない。所謂西秦の“太初四年鏡”は、実際には黄初四年の呉鏡であり、このことは跡で述べる。別の面では、各種神獣鏡の出土地点から言えば、紹興・卾城以外に、江蘇省の南京・江都・泰州・無錫、浙江省の黄岩・安吉・武義・寧波、江西省の南昌、湖南省の長沙・瀏陽・常徳、広東省の広州、広西自治区の全エリア、は全て呉の領域内である。ですから、年号銘の有無に関わらず、それらはみな呉鏡といっても問題はない。湖北省の隋県、安徽省の合肥は魏と呉の境界で、魏鏡に属するけれど、出土した鏡はやはり多分呉の産品であり、これは理解しがたくない。

 特に指摘すべきは、一部の神獣鏡に魏文帝の“黄初”の年号銘があるが、これらは呉鏡であり、魏鏡ではない。卾城の新発見から、今日まで、発掘出土した伝世の“黄初”年号銘の神獣鏡は既に八枚に増えた。年度の前後によりそれらを並べてみた(下の表)。まず伝世の“黄初二年”鏡が一枚、長沙出土と伝えられ、銘文に“武昌元作明鏡”の文字がある。以前は“武昌元”は作鏡者と考えられていたが、私は“武昌”の二字は地名であり、《三国志・孫権伝》の記載によれば、黄初二年四月孫権は公安から卾に遷都し、武昌に改めたので、これは黄初二年四月以降に呉都の卾城で製作したものであると見なせると思っている。その次に近年卾州で“黄初二年十一月丁卯朔廿七日癸已”鏡が二枚発掘された。それらの形制・花紋と銘文は全く同じであり、同範鏡である。銘文中には“揚州会稽山陰師唐豫命作竟”と明記されており、最も有力にそれらは会稽山陰で鋳られた呉鏡であると説明している。その後また伝世の“黄初三年”鏡が二枚見つかり、これもまた同範鏡で、その中の一枚は紹興から出土したと伝えられているので、これらも呉鏡と考えられる。最後は卾城で出土した“(黄初)四年五月丙午朔十四日”鏡(黄初の二字は不明瞭)は、伝世の“黄初四年五月壬午朔十四日”鏡と伝世の“(黄)初四年五月壬申朔十四日”鏡が各一枚で、後者は銘文中の“黄”の字とその他比較的多い文字は不明瞭で、過去には干支の関係から西泰太初四年作と考えられていた。実際は三者の形制・花紋と大きさは全て一致し、もし銘文中の“丙午”、“壬午”、“壬申”の違いがなければ、(調査によれば黄初四年五月は庚午朔であり、“丙午”、“壬午”、“壬申”はすべて実際と一致せず、誤りと解釈されるので、この点は論じない。しかし干支の混乱は鏡銘中に散見されるので、物におかしくはない)、誰も同範鏡を疑わないし、前の二つははっきりと“会稽師鮑作明竟”の銘文が読み取れるので、これらは全て呉国会稽の作品であると証明できる。要するに、魏文帝曹丕が魏朝を建てた後、呉主孫権は臣服を表した事があり、魏の正朔を奉じ、そして黄初三年十月にやっと魏に抵抗し自ら年号を立て、改元して“黄武”とした。しかし未だに帝を称せず、かつ暫くしてまた“魏文帝と相往来し、後年にこれを絶つ”(《三国志・孫権伝》)で、それが呉鏡の銘文中に使用された魏の“黄初”年号の理由です。

序列

年号

型式

直径(cm)

関係銘文

出土地

1

黄初ニ年

同向式

11.6

武昌元作明鏡

伝長沙

2

黄初ニ年十一月

同向式

13.1

揚州会稽山陰師

卾城

 

丁卯朔廿七日癸巳

 

 

唐豫命作竟

 

3

黄初ニ年十一月

同向式

13.1

揚州会稽山陰師

卾城

 

丁卯朔廿七日癸巳

 

 

唐豫命作竟

 

4

黄初三年

同向式

10.3

師卜徳□合作明金竟

伝紹興

5

黄初三年

同向式

10.3

師卜徳□合作明金竟

不明

6

(黄初)四年五月

対置式

13

会稽師鮑作明竟

卾城

 

丙午朔十四日

 

 

 

 

7

黄初四年五月

対置式

13

会稽師鮑作明竟

不明

 

壬午朔十四日

 

 

 

 

8

(黄)初四年五月

対置式

13.05

(文字が不明瞭)

不明

 

壬申朔十四日

 

 

 

 

 

 日本の学者は1969年に古墳時代考古学討論会上で、“黄初”の年号の神獣鏡は“景初”、“正始”、“甘露”、“景元”等の年号銘のある神獣鏡・獣首鏡・規矩鏡と今後統計に加え、(正)始元年の一枚は確定できないので除外し、十枚の年号のある魏鏡のうち、四枚は“画文帯(?)神獣鏡”、三枚は獣首鏡を加えると考えた。実際は、以上の論証のように、“黄初鏡”を魏鏡に参入できない。もし“黄初鏡”を除ぞけば、年号のある魏鏡のうち、神獣鏡の占める比率は大幅に減少する。要するに、“黄初鏡”を魏鏡から排除すれば、各種神獣鏡は主に呉鏡であり魏鏡でないと認識でき、この問題は十分重要である。

 このように、魏の年号鏡のうち、日本で出土した“景初三年鏡”と“(正)始元年鏡”がたとえあろうと、中国の神獣鏡でいえば、ただ伝世の“正始五年鏡”一枚があるだけです。指摘すべきは、この“正始五年鏡”はいわゆる“画文帯環状乳神獣鏡”の形式に属します。しかし、形制・花紋と銘文から見れば、同型式の神獣鏡中にも類例はなく、ただ一枚の“異式鏡”といえる。この“異式鏡”に対し、私はここでは取り上げず態度を保留します。

 周知のように、孫呉の年号銘がある神獣鏡のうち、時には銘文中に作鏡の地点と工匠の氏姓が明記されている。例えば“揚州会稽山陰安本里”、“会稽師鮑作明竟”等。注意すべきは、卾城で発見された漢末建安年間と孫呉時期の神獣鏡のうち、上述の“揚州会稽山陰安本里”、“会稽師鮑作明竟”以外に、“会稽所作”、“大師鮑豫作明竟”等の銘文がある。これは卾城の神獣鏡が少なくとも相当部分が紹興方面の工匠によって作られ、多分紹興方面から移入されたものであると説明している。漢末と三国時期に会稽郡の参院は更に進んで全国で最重要な銅鏡鋳造の中心になっていた事が覗える。当然、卾城も規模が比較的大きな銅鏡鋳造業であり、それは疑えない。既に述べたように、長沙で出土したと伝えられる一枚の同向式神獣鏡の銘文に“黄初二年武昌元作明鏡”と明記されており、これは卾城の産品であることを説明しており、これも有力な証拠の一つになる。最も興味あるのは卾城で出土した一枚の黄武六年の年号がある重列式神獣鏡で、これは名文中に“会稽山陰作師鮑唐”と記されており、同時にまた“家在武昌思其少”と明記され、当時紹興方面の工匠も卾城へ行き鏡を作ったことは明らかである。

 卾城と紹興はどちらも孫呉の領域に属し、どちらも銅鏡の製造が盛んだが、産する銅鏡は種類に差異がある。これは主に表現上であり卾城方面の銅鏡は神獣鏡が主体で画像今日は甚だ少ない。そして紹興方面の銅鏡は神獣鏡以外に、やはり大量の画像鏡がある。紹興・卾城以外に、画像鏡の出土地点、例えば浙江省の杭州、江蘇省の南京・揚州、湖南省の長沙等の地も全て呉の域内である。神獣鏡と違い、画像鏡には年号銘が欠乏しているが、出土地点からもそれらは呉鏡であると説明でき、しかも紹興は画像鏡の主要な産地である。紹興及びその付近の地区から出土した画像鏡は、図紋の内容が“東王父”、“西王母”とうの神話以外に、時には呉王に関するものや伍子胥の歴史故事があり、地方的特色がはっきりしている。

 孫呉の域内の紹興・卾城等の南方の広大な地区で各種神獣鏡と画像鏡が大量に流行ったとき、曹魏の域内の洛陽を中心とする中原・関中と華北の各地区では引き続き“内行花紋鏡”、“方格規矩鏡”、“獣首鏡”、“變鳳鏡”、“盤竜鏡”、“双頭龍鳳鏡”、といわゆる“位至三公鏡”が流行した。当然、考古発掘作業中に、洛陽、西安等の地で、魏晋時期の神獣鏡と画像鏡が見つからないわけではないが、それらは数が非常に少なく、明らかに当地の主要な産品ではなく、南方から移入されたことは疑いもない。1953年から1955年に洛陽で発掘された54座の西晋の墓から、銅鏡が二十四枚出土し、その内神獣鏡は僅か一枚であり、しかも以後続々と発掘された洛陽の晋墓からは二枚目の神獣鏡が未だに出土していないことが、この問題を説明している。

ただ一種のいわゆる“三段神仙鏡”が、西安地区で少し見つかっており、この種の銅鏡は各地の発掘では稀にしか見えないし、日本での出土例もただ一つしかない。

・・・・・続く・・・・

 

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30年ほど前に中国の学者「王仲殊」氏は「三角縁神獣鏡は呉の工匠が日本で製作したものである」と唱えた。私は、以前、彼の説を発展的に銅鏡の製法より検討した中国卾城博物館の先生の説を掲載したことがある。彼は、彫塑は日本人で鋳造は呉の工匠であると結論つけた。

私は、王仲殊先生の説の全容が知りたくてネットで検索して何とか見つけた。しかし、彼は元々大量の写真図版を使用して説明していたようだが、この部分は見つけることが出来なかった。大変長文なので何回かに分けて翻訳掲載します。

 

  タイトル:日本の三角縁神獣鏡に関する問題

 著者:王 仲 殊

 

(一)

 日本の古墳(主に四世紀の前期古墳)より出土する“三角縁神獣鏡”は、だいたい“倣制鏡”と“舶載鏡”に大きく分類される。前者は中国鏡の模倣であるが、形制・花紋等の各方面で明らかに中国鏡と大きく異なる。従って、“倣制三角縁神獣鏡”と称され、所謂“日本鏡”に属する。本文が討論すべきは後者であり、前者ではない。通常言うところの“三角縁神獣鏡”は“倣制”の二字を加えず、主にもっぱら後者を指す。

 三角縁神獣鏡は、その内区の主紋が“東王父”“西王母”等の神像と龍虎等の獣形であり、それらの形態と数には各様あり、排列方式は“求心式”、“同向式”の二種に分けることができ、後者は”伯牙弾琴“の像である。紋様は全て浮彫りで、立体感に富む。鏡縁は甚だ隆起して高く、頂端は尖っており、断面は三角形を呈するので、“三角縁神獣鏡”と言われる。内区に比べて、外区の鏡面(実際は鏡背、以下同様)は少し高くなっており、全て飾りは二周の鋸歯紋帯があり、その間に一周の複線の波紋帯が挟まっている。内区と外区の間は又往々にして鋸歯紋帯と櫛歯紋帯があり、その間に一周の花紋帯或いは銘文帯が挟まっている。花紋帯内には、時に若干の方格形が挿入されており、中に“天王日月”のような字がある。銘文帯内には、比較的長い文句、例えば“尚方作竟佳且好、明而日月世少有”、“吾作明竟真大好、上有神守及龍虎”、“陳是作竟”、“張是作竟”、“王氏作竟”、及び“銅出徐州、師出洛陽”等々がある。内区の鏡面には、各種形状の“乳”が配置されている以外は、時には所謂“笠松形”がある。日本考古学上では、“三角縁神獣鏡”は既に専門の名詞になっており、含まれている各種には必ず具備すべき条件がある。それゆえ、文字通りに縁部の断面が三角形の神像と獣形がある銅鏡は全て三角縁神獣鏡を称される。

 

 銅の形制と花紋、銘文等の方面から見ると、三角縁神獣鏡は大方全て中国鏡の基本的な特長を有し、製作も相当に精良である。それゆえ、既に話したように、長期間これらは中国製と見做されてきた。各方面の特長から判断すれば、鏡の制作年代は概ね漢末と魏晋である。1920年、富岡謙蔵の考証を経て、更にこれらは魏鏡と確定し、ある鏡の銘文に“景初三年”、“(正)始元年”の魏の年号が見つかり、更にこれが魏鏡であると疑いもなく信じられた。この後、三角縁神獣鏡は日本で大量に見つかり、《魏志・倭人伝》の記載と緊密に関係がでてきた。これらは当時の中国魏朝の統治者が邪馬台国の女王卑弥呼及びその継承者である壹与に贈られたものであると考えられた。邪馬台国の所在地に関しては、長く日本の学界には二つの異なる意見があり、“九州説”と“畿内説”が互いに論争している。三角縁神獣鏡の発見が主に畿内及びその付近地区であることから、かつては“畿内説”が有力であると支持された。

 

 しかし、深刻な問題はこれまでに中国では未だに上述した日本で出土しているこの種の三角縁神獣鏡は見つかっていないことである。特に開放以来、中国での発掘作業は迅速に発展し、田野での調査発掘作業は広範囲に展開され、各種古代文化遺物、各種銅鏡も大量に発掘されている。ただ日本で発掘されたあのような三角縁神獣鏡のようなものは一枚すら見つかっていない。同様に注意に値することは、朝鮮でもこの種の銅鏡は発掘されていない。それゆえ、最近では、日本の学界では、新しい見解が出てきており、三角縁神獣鏡は中国で作られたのだろうかという疑問が提出された。しかし大部分の学者は依然として中国製であると堅持しているが、一部の学者は東へ渡った中国の工匠によって日本で作られたと考えている。それ以外に、一種の説があり、多分中国朝廷が倭国に贈ったのは特別製だと考えている。やはり、邪馬台国論争と関係があり、三角縁神獣鏡は日本の考古学上だけでなく、古代史研究方面にも非常に重要な問題になっており、学会と多くの大衆の関心を引いている。

 

(二)

 1981年2月、中国科学院考古・古代史の学者の代表団が日中文化交流会の招待で、日本を訪問した。併せて、全日空・朝日新聞社・日中文化交流協会の招聘で、それら聨合主催の日本第五次古代史討論会に参加した。このたびの討論会は東京で行なわれ、主題は“日中古代文化の交接点の考察”であり、中日双方の考古学者及び古代史学者が講演し、お互いに質疑応答を行なった。聴衆には日本各地の各方面の名士と含む一千二百余人に達した。討論会は2月14日午前に始まり、15日の夕方に終わり、丸二日行なわれた。2月15日午後の質疑応答会で、日本側の主弁者の一人である九州大学考古学教授の岡崎敬先生が私に質問した。“聞くところに寄れば湖北省の鄂城で三角縁神獣鏡が見つかったという。真相は如何に?”

  岡崎先生の質問に対し、私は以下のように答えた。

 “ここ二十年来、わが国の湖北省卾城即ち三国時代孫呉の前期の都城の所在地で、多くの後漢と三国及び晋代の墓葬が発掘され、多くの銅鏡が発見された。そして孫呉時代の銅鏡が最も多かった。私は代表的な銅鏡の写真を百枚以上見た。一部銅鏡は正式に発掘され出土し、器物に納められていた。そして多くの鏡には“永康”、“綦平”、“建安”、“黄初”、“黄武”、“黄龍”、“嘉禾”、“赤烏”、“太平”、“永安”、“宝鼎”等の後漢・曹魏、特に孫呉の年号銘文があり、中国の古代銅鏡の研究上新たな重要な資料となった。

“私が見た百枚以上の銅鏡には、“方格規矩鏡”、“内行花紋鏡”、“獣首鏡”、“竜虎鏡”、“變鳳鏡”等を除けば、いわゆる“神獣鏡”の概ね四十数枚である。その内、“建安式重列神獣鏡”が十数枚、当然全て平縁です。“半円方格帯神獣鏡”が二十数枚で、これも平縁で、鏡縁及び外区には往々にして花紋があり、“画文帯神獣鏡”と言えるものがある。ただ少数の銅鏡の縁が三角縁に近いものがあり、それらの主紋も神像と獣形であるが、鏡の全体の形制と紋様の作風からいえば、“画像鏡”に属すべきであり、“神獣鏡”ではない。総じて、私が見た限りでは、卾城では決して三角縁神獣鏡は発見されていない。

 

 洛陽・・曹魏の都の所在地では、既に発表されているのもの以外に、私も多くの後漢と魏晋時期の銅鏡を見ました。言えることは、卾城方面に反して、洛陽地区では、“神獣鏡”と称させる銅鏡は発見されていない。少数の銅鏡は縁が三角形を呈しているが、形制と花紋は完全に“神獣鏡”の範疇に属さない。これらの三角縁鏡は、その主紋は神像、獣形および車馬だが、先に述べた卾城で発掘された少数の銅鏡と同じく、明らかに“画像鏡”であり、“神獣鏡”ではなく、それは洛陽地区でも非常に稀である。

 “そのほか、三角縁神獣鏡の問題に関し、私は二三説明したい。

中国でも大型の銅鏡は見つかったことがある。しかし、後漢・魏晋時期には、一般に言って、中国で発見された銅鏡は日本の銅鏡ほど大きくない。日本で見つかった三角縁神獣鏡のような大きい鏡は、中国でも非常に少ない。(2)中国で見つかった同時期の銅鏡は平縁が大多数を占め、三角縁或いは三角縁に近いものは小数である。特に神獣鏡では、全て平縁であるといえる。(3)前に言ったように、ある種の三角縁の鏡は、内区の主紋も神像と獣形であるが、鏡の形制と紋様の作風から見れば、“画像鏡”に属し、神獣鏡ではない。(4)中国で見つかった各種銅鏡には、日本の三角縁神獣鏡に常見される“笠松形”は全くない。(5)日本で見つかった一部三角縁神獣鏡には、“銅出徐州、師出洛陽”の銘文がある。しかし、中国では、今まで“銅出徐州”の銘文は遼寧省遼陽の魏晋墓から出土した一枚だけで、“方格規矩鏡”であり、“師出洛陽”の銘文は如何なる銅鏡にも見られない。(6)日本で出土した三角縁神獣鏡に近似した“二神ニ獣鏡”がある。この種の銅鏡は日本では“斜縁(或いは半三角縁)ニ神二獣鏡”と称され、三角縁神獣鏡の範疇から除かれている。(7)浙江省紹興一帯から出土した多くの後漢と呉晋時期の銅鏡は、一部分は各種の平縁の神獣鏡であり、卾城で見つかった大多数の“神獣鏡”とよく似ていること以外に、少なくない銅鏡はその縁部が三角形になり、外区の紋飾もまた日本の三角縁神獣鏡と似ているが、内区の主紋から言えば、それらは“画像鏡”であり、“神獣鏡”ではない。総じて言えば、今日まで、中国ではまだ日本の考古学界でいうあの種の三角縁神獣鏡は見つかっていない。

 

 日本訪問期間に、第五次古代史討論会が終わった後、我々は東京・静岡・京都・奈良・大阪・福岡・宮崎とうで多くの博物館・資料館・研究所及び大学の考古研究室を参観し、多くの三角縁神獣鏡を見た。特に京都大学考古研究室を参観したとき、樋口隆康先生の好意で、京都府椿井大塚山古墳から出土した大量の三角縁神獣鏡を見ることが出来た。初めて実物に接したけれど、仔細に何度も観察して、私は第五次古代史討論会で発言したことは間違いなかったと深く確信した。ですから、訪日から帰国後の今日では、私は上述の討論会での発言をベースに、この文章を書き、中国では見つかっていない日本で出土するあの種の三角縁神獣鏡の問題を更に一歩進めて述し、併せて私の三角縁神獣鏡のその他問題の見解を発表する。その中には三角縁神獣鏡が中国製であるか否かの問題も含まれる。

 

(三)

 中国は世界で最も早く銅鏡を発明した国家のひとつである。近年来の発掘によれば、中国の銅鏡の出現は四千年前の斉家文化まで遡れる。商代の銅鏡は、早くは1934年に河南省安陽候家庄の発掘中に見つかった。1976年安陽小屯の“婦好”墓の発掘は更に新しく疑うべくもない出土品が増えた。しかし、銅鏡の普遍的な製作と使用は、主にやはり戦国時代である。当時、全中国の範囲内で、銅鏡はすでに相当に精良に作られ、一定の格式があるが、各地で発見された鏡は時には形制と紋飾方面で多少まだ地方性があった。漢代に至り、特に前漢中期以後、全国大統一の政治局面が更に揺るぎなき発展と共に、文化芸術方面も統一されていった。特に銅鏡は、前漢中期以後、中原から南方及び北方の遠隔地まで、各地で発見されるのは往々にして形制が同じであり、花紋も似ており、殆ど地方性が存在しない。この種の情勢はずうっと後漢前期まで続く。当時の銅鏡は総じて言えば、たとえ花紋は簡単でも、紋様は主に線条で構成され、それは視覚的には平面的である。しかし、概ね後漢の中期に至り、一種新興の銅鏡が出現し始め、その花紋の主題は神仙・人物・竜虎およびその他の瑞獣であり、時には馬車もあり、内容は神話・伝説・歴史故事に及び、紋様の作法はレリーフであり、視覚的には半立体状を呈する。それらは概ね“神獣鏡”と“画像鏡”の二種に区分される。前者は花紋の題材は“東王父”、“西王母”等の神像と竜虎等の獣形が主であり、“伯牙弾琴”の像もあり、紋様は図案化されており、立体化の程度は比較的高い。後者の題材は更に広く、上述の神像と獣形以外に、時には各種歴史人物もあり、車騎や歌舞の類もあり、形態は非常に躍動的であるが、紋様は簡略化され扁平状で、立体感に乏しい。主紋以外に、両者は形制と紋飾にその他多くの面でも一定の区別があり、決して混同して一つと見なすことは出来ない。しかし、総じて言えば、後漢中期以前の各種銅鏡と対比して、神獣鏡と画像鏡は共に新興の銅鏡に属し、花紋の題材と製作技法面で一定の共通性と有する。年号銘文ついて言えば、神獣鏡の年代は伝世(後漢和帝)の元興元年の鏡が最も早期である。画像鏡には年号が無いが、鏡の形制と花紋及び出土情況から見れば、出現し始めた年代は凡そ神獣鏡と似ている。新興であることから、浮彫り式花紋の神獣鏡と画像鏡の出現は、中国北方(黄河流域)と南方(長江流域)の銅鏡は、概ねやはりよく似ている情況の下で、一定の差異が生まれ始めた。

 後漢の首都洛陽は全国の政治経済及び文化の中心地である。しかし、決して全ての新しい事柄が洛陽地区から発生したわけではない。返って、多分首都の所在地であったがゆえに、ある事柄は容易に因習旧制に陥り、創造性に乏しく、銅鏡がその一例であろう。

1952年から1953年にかけて、洛陽の陽焼溝付近で発掘された二百二十五座の漢墓は、年代が前漢中期から後漢晩期で、合計百十八枚の銅鏡と七枚の鉄鏡が出土し、その内後漢中晩期に属するものが二十数枚、それらは全て“内行花紋鏡”、“方格規矩鏡”、“獣帯鏡”、“獣首鏡(変形)と”變鳳鏡“等であり、そして浮彫り式の神獣鏡は只の一枚で、その年代は後漢の晩期に属する。1955年河南省陜県の劉家梁で発掘された四十六座の漢墓、年代の多くは後漢の中晩期に属し、共に出土した多くは類似しているが、神獣鏡と画像鏡は一枚も無かった。河南省のその他地区でも続々と多くの漢墓が発掘され、出土した銅鏡は少なくないが、神獣鏡と画像鏡は見つからなかった。1977年同省洪県で一枚の後漢後期の画像鏡が見つかった。これは中原地区で絶えてなかったことである。したがって、後漢中期以降に作られた新興の銅鏡、即ち神獣鏡と画像鏡は洛陽で最初に出現したのではなく、洛陽及びその近辺地区で大量に流行したのでもない。

 後漢時、南方の朝貢流域は更に開発され、経済でも絶え間なく発展した。この江南地区の会稽郡は、各面で有利な条件により、逐次繁栄をきたした。浙江省の紹興は当時の山陰県であり、会稽郡の経済文化の中心地で、後漢中葉以降更に郡の治所となった。記載に拠れば、紹興付近は当時銅鉱と錫鉱があった。しかし事実かどうかは、研究を待たねばならないが、考古上の発見は、後漢以来、ここは疑いもなく銅鏡鋳造業の中心の一つであることを証明している。注意に値する事は、洛陽地区と相反して、紹興及びその付近で発見された銅鏡は、後漢中期以後のもので、主に各種神獣鏡と画像鏡であり、数量も多く、その他地区と比べ物にならない。ですから、後漢中期以降の新興の神獣鏡と画像鏡の大量製作は、まず長江下流の会稽郡の中心である紹興地区を推さねばならない。当然、長江中流域の江夏郡は、地理的位置が重要であり、経済が発達し、域内には多くの銅鉱があり、きっと銅鏡鋳造の重要な場所であった。卾城の発見がその点を証明している。前述のように、卾城で見つかった銅鏡も神獣鏡が多く、同時に少しの画像鏡もある。前述の元康元年鏡およびその他の伝世鏡たとえば延熹二年神獣鏡と延熹三年神獣鏡は全て銘文中に西蜀広漢所造と記明されており、神獣鏡と画像鏡はまず長江流域で生産され、長江流域で絶え間なく流行したと認識する事が出来る。これは中国古代銅鏡の発展史上十分注目に値する事実です。

・・・・・・続く・・・・・ 

 

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