魏志倭人伝を読む(29)銅鐸の謎
- カテゴリ:
- 指定なし
銅鐸は現在全国で約500基ほど出土しています。その殆どが、山や丘陵の斜面に横向けに埋められた状態で発見されています。銅鐸は一般に一世紀から二世紀にかけて製造され二世紀末には使用されなくなったと言われてます。その後、三世紀の前半には、三角縁神獣鏡が現れます。
これはどういうことでしょうか。銅鐸は明らかに祭祈用です。宗教と密着しています。その銅鐸が2世紀末に破棄され、記紀にも記載されておらず全く忘れ去られたのです。この意味する処は、明らかに違う神もしくは祭祈を執り行う集団が侵入しこの広大な地域を支配していったからでしょう。私は、発掘された銅鐸の形状や用途についてはここでは論じません。ここで話したいことは、支配階級がどこから来てどこに本拠地を置き。全国を支配していったかを類推していきます。
戦後、江上波夫教授の「騎馬民族説」が一時、もてはやされました。
かれは、五胡が中国の華北に侵入し、騎馬民族の高句麗が朝鮮に境域を拡大したころ、高句麗と同じツングース系の騎馬民族の一派が、朝鮮半島を南下し、南端の狗邪地方の倭人を征服するとともに、やがて日本に侵入した。そのころ、日本の倭人の間では、畿内大和を中心とする統合が進みつつあったが、四世紀のはじめ、天皇氏を中心とするこの騎馬民族は九州の地に上陸した。そして大和に入り「一世紀たらず」の後、即ち四世紀末ないし五世紀のはじめに、強大な王国を確立した、というのです。
私が今関心があるのは、4世紀ではなく魏志倭人伝の世界即ち三世紀の前半です。3世紀始めに大和地方を押さえた民族が、四世紀末から五世紀はじめに騎馬民族に取って代わられたのかも知れません。これが、神武と崇神、応神の説話かも知れません。
まず参考となるデーターを見ましょう。
1.古墳所在地(平成13年3月末)
1位 兵庫県 16,577基
2位 千葉県 13,112基
3位 鳥取県 13,094基
4位 福岡県 11、311基
5位 京都府 11,310基
2.銅鐸出土数
1位 兵庫県 56点 その他地域を見ると
2位 島根県 54点 奈良県 16(19)点
3位 徳島県 42点 大阪府 18
4位 滋賀県 41点 愛知県 28
5位 和歌山県 41点 静岡県 29
奈良県のデーターは文献上も計算し、且つ小指ほどの破片も一点と数えているようです。
3.三角縁神獣鏡
1位 奈良県 75面
2位 京都府 55面
3位 兵庫県 45面
4位 福岡県 18面
奈良県に注目してみますと、古墳の数は以外にも5位以内に入っていません。
銅鐸の数も少なく、実物が存在するのは10前後でしょう。それに比べて、三世紀の三角縁神獣鏡はダントツの一位で75面も出土しています。
これは明らかに、銅鐸を祭祈用に用いていた部族から、新たに侵入してきた銅鐸を否定する部族(民族)に支配権が移ったことを暗示しています。
奈良県から出土する銅鐸の数が少ない理由は二通り考えられます。京都府の数は調べてませんが奈良・大阪と大差ないのではと思います。
まず一つの考えは、1-2世紀の奈良地方は、文化が遅れていたが、3世紀に文化の進んだ民族が定住した。
別の考え方もあります。
三世紀前半に、奈良地方に侵入した民族が銅鏡(三角縁神獣鏡)を鋳造するために、奈良・京都・大阪の豪族から銅鐸を徴収した。その情報がその他地方に流れたために銅鐸は目立たない山麓に埋めて隠された。その侵入した民族が即ち前回触れた呉の軍隊であった。
この推理が成立するためには、三角縁神獣鏡と銅鐸(特にこの地方で出土する)の成分が一致するかが重要ですが、なにぶん科学音痴ですので、ana5さんよろしくお願いします。
参考となるデーターは
三角縁神獣鏡が
http://www.spring8.or.jp/ja/news_publications/research_highlights/no_16/
銅鐸が
http://homepage1.nifty.com/moritaya/bunseki.html
です。
銅鐸は鋳直した場合、鉛が溶け出す可能性もありますので、この点も考慮して分析していただければたすかります・・・ ana5さんへ