2011年05月26日

前回書いた2つ以外に、もうひとつ震災問題で書けることがありました。
3,被災者個人のこと。現状被災者は「被災者」として1つの存在であるかのようにくくられがちだが、当然個々の存在である。震災直後に「ペット」の存在が問題になったが、被災者はペットを避難所に持ち込むべきではないという合理的判断をされる一方で、被災をした個人はペットという家族を守りたいという感情があるが、そこで被災者というくくりを受け入れることを、世間から要求されてしまう問題。
 また、被災者が「被災者というくくり」を過剰に背負ってしまう問題。特に「被害者」が強い日本では、被災者の皮をかぶり続けた方が得なことは多い。それによってむしろ「被災者の個」が覆い被されてしまうことの問題。

原発事故を語るジャーナリストの中に、安易に「政府が正確な情報をだせば、市民はそれを正確に読み解く」という、市民に対する愚直な信頼を表明する人たちがいる。
 私は単純にそういう連中が許せない。
 客観的な理由をつけるのであれば、いまだに「少年犯罪が急増している」とか「中国産食品は危険」という、事実に基づかない風評が当たり前に受け入れられている中、放射性物質の問題だけを市民が正しく読み解くなど、なんの根拠もないという理由。
 直接的な理由は、就職氷河期世代はそうした「市民」に批判され、自己責任を押し付けられてきたから。
 市民の判断が正しいというのであれば、彼らが口にする「自己責任」も正しいということになる。市民の理性というものを安易に肯定するジャーナリストは、自己責任論は理性的な判断の結果だと同調しているに等しい。だから絶対に許せない。
 「原発で事故は起きない」という考え方を安全神話というなら、「市民は間違わない」という考え方は「市民神話」とでもするべきだろう。市民神話を振りまき、市民の判断は常に正しい「から」情報提供をするべきだ。と語るジャーナリストは、安全神話を語る連中と同じ穴の狢。
 本来であれば「市民も間違えるが、それでも正確な情報提供をしなければならない」と論じなければならず、その情報解読に対して、極めて慎重な姿勢を見せなければならないはずだ。
 安易に市民を賛美し、媚びてカネを稼ごうとする人間を、私は絶対に許さない。こういう人間が私たちのようなマイノリティーを苦しめてきたのだ。



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