2011年10月11日
●かんたん書評『もうダマされないための「科学」講義』 (光文社新書)
かんたんな書評をします。かんたんなので本全体の大雑把な印象と、数個の細かい部分を取り上げるだけです。
論じ方もだいたいざっくりです。
そもそもこの本を読む動機としては「新しい見地を手に入れる」よりも「自分の知識を整理する」という意味が大きい。震災からこっち、こうした「科学」の問題はもう数え切れられないほど触れていて、ある意味でもううんざりしているなかで、一度冷静に振り返っておきたい。
私が注目したのは、第4章、平川秀幸による「3・11以降の科学技術コミュニケーションの課題 ー日本版「信頼の危機」とその応答」。
正直、章全体にある種の「市民社会無謬論」とも言える、「しっかりした国民、ダメな政府」的な感覚が内包されていて、ちょっとイラッとすることはあるのだが、それを差っ引いてもコミュニケーションの話がしっかり整理されている。そのうちの「欠如モデルとその限界」がちょっと気になった。
欠如モデルというのは「一般市民が科学技術に対して、不安や抵抗感を感じるのは、科学の正しい理解が欠けているからであり、正しい理解を広めれば不安はなくなる」という考え方のことであると。
で、こうした考え方はうまくいかなくて、対話や参加を促すコミュニケーションをしているという話になるのだが、僕は逆に「一般市民が不安になるのは、政府や東電がちゃんとデータを出していないからだ」という、市民側のからの欠如モデルが気になっている。
確かにSPEEDIの予測を伏せたことはまずかったにせよ、現状においては各地や食べ物の放射性物質の量は公開されているわけだ。にもかかわらずいまだに「政府や東電が隠している」ということを、慣用句のように使っている人は少なくない。
震災後に私が何度かツイートしたように、「子供が巻き込まれる犯罪」とか「少年犯罪」というお題においては、データ等が出揃っていて、明らかに子供の安全は増していたり、少年が凶悪化していないデータが出ているにも関わらず、不安を訴える市民は後を絶たない。これは「正しいデータがないから私たちは不安なのだ(=正しいデータさえあれば、私たちは不安は解消されるはずだ)」という「市民側からの欠如モデル」の破綻を実証している。
要は、何が言いたいかというと、こうしたコミュニケーション不全ってのは、コミュニケーションを取る双方の問題なわけだ。欠如モデルの概念においては「政府が十分説明できていない」という文脈で政府側だけを批判していればよかったのだけれど、今後のコミュニケーションにおいて「政府と市民双方」が主体になるのであれば、批判も政府と市民双方に対して向けられなければならないということ。
つまり、この章全体に対する「イラッとするところ」ってのは、「政府と市民」を理論上は互いに対等な主体として扱いながら、批判は旧来型の「市民は素朴で善良、政府は狡猾で姑息」みたいな古臭い価値観でされていることに苛立つわけだ。
というわけで、そうしたことも含めて、コミュニケーションの問題が提示されていると感じました。