2008年08月

2008年08月27日

無差別殺人犯は「派遣」と「無職」 これは「格差社会のせい」なのか (J-CAST)

 フジテレビ系「とくダネ!」では小倉智昭氏が「こんなの社会のせいじゃない。戦後の苦しい時期にみんなが人を殺したのか」と憤る。

 うん、殺したよ。(参考:「どうにもならない日々」さん)
 ちなみに昭和20年前後に凄い落ち込みがある理由は、もちろん戦争があったから。戦中に警察がまともに機能するわけがないので。

業界拒絶に京都市長困惑 コンビニ深夜営業自粛

 「ライフスタイルは他人が強制するものではない。民主主義の根幹にかかわる問題だ」とまで言い切った。

 よく言った!!
 つか、自分もそこまで言えば良かった。

ネットカフェ難民に月15万円の生活費融資へ。年収150万以下なら返済全額免除も…厚労省

 「働こうともしないネットカフェ難民にカネをやるとは何事だ!! 俺の手取りと変わらねーじゃねーか」みたいな書込みばかりかと思っていたら、ちゃんと分かっている人も多くて一安心。

 政策としては愚作ですね。15万円を最大6ヶ月分貸し付けるというなら、一年分の家賃を貸し付ける方がいい(もちろん、敷金礼金も肩代わりし、同時に国が保証人になるということ)し、さらには、企業が簡単に使い捨てられるような派遣制度の見直しと、そもそも企業が新卒採用に無意味にこだわって、一度履歴書に傷がついたからと採用しない性根を叩き直さないとどうにもならないわけで。
 もし仮にこの制度でネットカフェ難民がスキルを身に付けたとしても、企業側の姿勢が変わらなければ「より高度なスキルをもった派遣」が産まれるだけですからね。

 でもやはり「俺の手取りと変わらねーじゃねーか」みたいなことを言う正社員がいることも確かで、どうして彼らは自分たちの得ているモノの大きさに気付いてないのかと。カネではなく、それこそ履歴書に書ける経歴や、社会的信用や、住む場所があるということがあるけれども、なにより重要なのは「正社員としてのスキルをもつということは、今後の成長可能性を維持している」ということですよ。「努力が努力として認められる可能性」は、公的扶助を受けるネットカフェ難民よりも、薄給で働く正社員の方が大きいわけです。

 これを、「やよい」「千早」で例えてみよう。
 二人の3サイズに注目してもらいたいのだが、どちらも胸囲は72だ。しかし、アイマス好きの間では、やよいは「72+」、千早は「72ー」と考えられている。
 この+ーの記号の意味は何かというと、やよいはまだ145センチと背が小さく、十分に成長の余地を残している。大きく成長すれば、それに合わせて胸も大きくなる可能性は高い。とされ、十分に伸びしろを残しているという意味で「+」が付く。
 しかし、千早は現時点で162センチという十分な背丈があり、今後の成長に期待できないことから、「ー」の記号が付されている。
 そうした状況で「胸が小さい」ことをネタにされるのは、ほとんど千早である。千早といえば72、72といえば千早。  その認識はあまりに強く教諭されており、Wikiの「千早駅」の項目には、こっそりと「ホームにある72kmポスト」なる写真が掲載されており、千早と72の強い結びつきを認識させられる。
 その一方でやよいの名字と重なる、高槻駅、そして高槻市駅には、72をネタにした記述は見られない。ちなみに高槻市駅そばの定食チェーン店「やよい軒 高槻店」は、やよいスキーなら一度は訪れたい聖地となっている。
 確かに数字上では同じ胸のサイズも、「これから」に対する期待でその意味は全く異なるのだ。

 正社員は今は15万しかもらっていないけれども、それは今後に対するのびしろがあることでカバーされている。それは努力をして成り上がることもあるし、今後の経済成長によって救われる可能性があるということもある。貧しい正社員はこれからの成長可能性のために一生懸命働いているのである。そういう意味で「貧困+」と言える。
 一方でネットカフェ難民は一時的に15万円をもらえても、そこから上昇につながる可能性は限りなく低い。彼らの労働は「今の生活を維持するため」であり、いわば「貧困ー」だ。

 重要なことは、この「貧困ー」を「貧困+」に変え、「+」属性のある人たちがちゃんと「安定」にあがることができる仕組みを構築することです。個別事例への場当たり的な解決ではなく、労働全体を捉えて処方箋を考えていかなければいけません。



(11:21)

2008年08月22日

まだまだ忙しくてしかたがないのだけど、火の粉を払うぐらいのことはしておかないといけないので。

 毎日新聞の記事で東浩紀が私の名前を出してこういうことを言っている。

東 別の言い方をすれば、結局、彼に代表される人たちに欠けているのは、自分の人生を自分で引き受けることだと思います。

 自分が選択できないものを選択して、人間は主体を構成する。選択できないものとは、普通は地縁や血縁ですね。本当は、この場所でこの時代にこの親の子に生まれたくなかった。でもそれを仕方がないと、いわばあきらめて主体は安定する。あきらめずには大人になれないのに、現代社会ではそのあきらめの回路がうまく働いていない。

 今回の事件だけでなく、昨年話題になった赤木智弘さんの論文「『丸山眞男』をひっぱたきたい」も同じ。あれは「自分が正社員になれなかったのが耐えられないから世界をリセットしたい」という話です。確かに、正社員になれなかったのは、運が悪かっただけかもしれない。不条理は修正する必要があるけど、他方で絶対にある程度の不条理が残るのも確か。その部分は世界の決定事項として引き受けるしかない。そもそも戦争で現実がリセットできたとしても、人生はリセットできない。今、戦争が起きても、赤木さんは既に30代半ば近い。それはもう変えられない。

 東浩紀は、なにを寝ぼけたことを言っているのか。

 私は「リセットしたい」なんてことを言った覚えはありませんし、リセットを望んでもいません。
 戦争はリセット、すなわち「前の状態に戻す」ことではなく、「これから先を変える」考えから産まれています。重要なのは未来を変えることです。
 私はいつでも、「戦争と言う外部の力によって、今の状況が変わることに期待する」と言っています。
 というか、なんで戦争をして「前の状態に戻る」だと思っているのかが、全く分かりません。戦争したら人が死んだり社会体制も揺れ動くんだから、状況は変わるに決まってるんですよ。
 それに比べて「リセット」は単なるループです。ループはやがて今の状況に戻ります。意味がありません。

 あと、「不条理を受け入れない」なんてことも私は言ってませんね。33歳の男のライフスタイルとして「年収300万円ぐらいで、独身でもいいから安定した生活をよこせ」というのは、十分不条理を受け入れている提案だと思いますけどねぇ。
 東先生は「自分の人生を自分で引き受ける」とかいうけどさ、それでよかったのは、経済成長で、貧しいと言えども、みんながそれなりに幸せだった時代だけですよ。
 江戸時代には小作人は飢餓で死んだりしてたのだし、加藤容疑者だっていつ仕事を失って死んでもおかしく無い状況にいた。「それを受け入れろ!」なんていうのは、お金持ちの欺瞞ですよ。東先生は子供もいるし、お金持ちですね。

 まぁ、結論としては「自分の人生を自分で引き受けろ」なんてのは、「お金の問題を個人の心情にすり替える」という、よくあるごまかしに過ぎませんね。

#東先生は私に不条理を引き受けさせるために、黙って毎年私の口座に100万円を振り込むように(笑)。それで俺は自分の人生を引き受けるし、それが東浩紀の人生と言うことにすればいいのです。論理的な意味はありませんが、不条理とはそういうものです。人に対して「受け入れろ」というなら、東先生も不条理を受け入れることを実践してくださいね。



(07:45)