2010年03月

2010年03月26日

都条例の問題は、審議継続と言うことになり、あと1ヶ月ぐらいの危機は回避されたわけですが、決して廃案ということではないので、もう少し詰めて考えておきたいと思います。

 まず、基本的な私の考え方については、当然、改定には反対です。「【赤木智弘の眼光紙背】青少年育成条例の改定に反対する」に書いてあるので、読んでいただけると。
 問題をまとめて明示しておくと、以下の通りです。

・実在児童の児童ポルノの存在は問題である。なぜなら被害児童が存在するからである。
・「青少年性的視覚描写物」なる概念は、被害児童が実在しない以上は、決して児童ポルノではありえない。
・描写物が規制されうるとすれば、実在の青少年を性的に描いた場合である。(実在18歳未満のアイドルのセックスシーンを描いたものなど)
・都条例について、規制を実際に行うのは行政ではなく、流通サイドである。故に単純に焚書などと比較することはできない。
・もし、表現に「健全」「健全でない」という色を付けるのであれば、それを付ける側の責任を明確にし、また異議申し立ての窓口が明確に存在しなければならない。
・都側の「曖昧な不健全指定」と、流通側の「強制無き自主規制」という構図では、誰も規制に対する責任をとることができない。

 とりあえずこの辺が眼光紙背で書いた問題ベース+αです。
 他にも、さまざまな人たちが論じている通り、都条例改定案にはなんら正当性は存在しないにも関わらず、産経新聞がこういうことを書くわけです。

【主張】漫画児童ポルノ 子供に見せないのは当然

 もうこのわずか数文字の見出しだけで「非実在」なのか「実在」なのか、さらに児童ポルノの問題が「被害者児童の人権」なのか「児童に対して不健全だから」なのか、そうした細かな諸問題が、産経にはなんら理解されていないということがハッキリと分かります。というか、この記事だと「児童ポルノが存在しても、子供に見せなければいい」などという、被害者児童を無視したとんでもない内容として読むことすらできてしまいます。日本においては「児童ポルノ=実在児童ポルノ」だという前提が産経の記者にはないのでしょう。 (「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」第2条
 改定案の「非実在青少年」や「青少年性的視覚描写物」といった定義は、実在児童の児童ポルノと、実在しない児童を描いた性的描写を明確に区分するための定義であり、産経の記事はそれすら無視しています。
 けれども、世間の多くの人はこうした産経的な考え方でしか、この問題を理解していないのであり、これを「産経クオリティだから」と卑下することは、自らの首を絞めるに等しいでしょう。
 また、この記事自体が包有する問題については、「マナミちゃんブログ エンカウンター」さんの指摘が的確です。産経の記事は条例案も見ずに、あることないこと書いているようにしか読めません。

 さて、ここからが本題ですが、もう少し考えてみると、そもそも規制を望む側が何を考えているか。ということが、この問題のキモになりそうです。
 規制派というと、前田雅英を筆頭に審議会連中の差別意識満々で、オタクを精神障害者に貶めたり、とにかく自分たちが正義だと思いたい、おつむがアレゲなメンツが思い浮かびますが、市民でこの改定案に賛成するような人たちが望んでいるのは、子供が安全安心に生活できる社会でしょう。
 しかし、データを知っていれば当たり前のことですが、そもそも「子供の安全安心」と「非実在の子供がセックスをするようなマンガが存在すること」には、なんら相関関係はありません。というか、そもそも「昔と違って、最近の日本では子供の安全安心が脅かされている」という事実すら存在しないわけです。
 この問題に対して「親たちの気持ちを汲むべきだ」などと言う人がいますが、「ありもしない恐怖感から、とりあえず危険だと思われるモノを排除しようとしている人たち」に対して、「アレが危険ですよ。コレが危険ですよ」と言うがことき言論を繰り広げたところで、実際に危機(思い込み)を排除することはできないのですから無意味です。
 それこそ、ナイフ類の規制や、町中に設置された監視カメラ、そして今回の条例案のような規制と、彼らの危機感(思い込み)は、留まるところを知らないのです。
 ならば、彼らを安心させるためには、偽りの危険分子をほのめかすのではなく、「それは関係ありませんよ。違いますよ。子供は安全ですよ。」と丁寧に解いていくことでしょう。
 反規制派の弱いところは、どうしても「表現の自由」という私たちの生活に直接関係がないように見える理想を最上段に掲げないといけないところです。その点「子供がオタクに狙われるかも知れない!」という危機感は、妄想ですが条例案に賛成するような親御さんにとって、きわめて近しい問題点なのです。
 「ゾーニングの徹底」なんてことがよく言われますが、規制派にとっては「LOのような本を読んでいるオタクがいる」ということが恐怖の対象ですから、そう考えるとゾーニングも「ちゃんと分別してますよ」というぐらいの意味でしか有効ではないでしょう。

 話がすこし飛びますが、都条例改定問題で問われている本質的な問題は「他人への恐怖」です。
 かつて日本が「一億総中流」といわれたのは、経済的にはもちろんですが、日本人の質が統一されたという実感もあったのでしょう。今の「格差社会」は、経済的にはもちろんですが、日本人の質が、よい悪いではなく、違った価値観でバラバラになっていること。それが恐怖の源泉なのだと、私は考えています。
 ただし、この「質」に関しても思い込みです。稀に「日本は単一民族国家だ」などと発言して自爆する政治家がいますが、アイヌなどの少数民族の例を出さずとも、日本には朝鮮の人たちもたくさん住んでいますし、アメリカ人やブラジル人もたくさん住んでいます。さらに日本人だって、多様な考え方の人たちが住んでいるのが、日本という国です。変な「国民性」とか「県民性」などを挙げて「私たちの社会は、同質な人たちが住んでいるのだ」などと思い込むことは、他人の存在を無視することに等しいし、そうした考え方をしている限り「多種多様な人たちが同じ社会に生活している」という現実から逃げ続けることになってしまいます。
 今回の条例改定案に賛成してしまうような人たちは、そういう現実から逃げてしまう性格の人たちだと、私は考えています。
 彼らに対して言説を行うとするならば、現実にはオタクの人たちもたくさんいて、普通に生活している。ということを伝えることが必須でしょう。次の危機が訪れるまで、あまり時間はありませんから、早急にそうした人たちに、多様な人たちが多様な生き方をする日本社会を認めさせる必要がありますね。



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