2010年06月

2010年06月25日

6月25日 読売新聞 編集手帳

 よく見聞きする「目からウロコが落ちる」という表現は新約聖書に由来する。日常語として定着したのはそう昔ではなく、戦後のことという◆「魚類や爬虫類(はちゅうるい)ではあるまいし、人間に、ましてや目に、ウロコがあってたまるものか」と、言語学者の田中克彦さんはこの表現になじめなかったらしい◆皆が使い慣れ、聞き慣れた今、ウロコを詮索(せんさく)する人はいない。聞き慣れた言葉には注意せよと、田中さんは言う。〈ことばは考えるために役立つが、人々を考えなくさせるためにも役立つ〉と(岩波現代文庫『法廷にたつ言語』)◆思考を妨げる言葉の一例はスローガンだろう。民主党が圧勝した昨年衆院選の「政権交代」は分かりやすい反面、有権者が公約の中身を一つひとつ吟味するのを邪魔したうらみもなしとしない。参院選が公示された。勇ましいスローガンは消え、「消費税」「普天間」「政治とカネ」などを争点に、与党野党が政見の中身を競う。耳をすまし、考える、本来の国政選挙らしい選挙になりそうな気配である◆日本には今、何が必要か。有権者の目から積年のウロコが落ちるような舌戦を待つ。

 聞き慣れた言葉に注意しろというのはその通りだが、では、そうした言葉を作るのは何者なのか。もちろん、古くから言い伝えられる故事成語にそれを求める必要もないけれども、少なくとも報道の範疇で聞きなれた言葉を作り出すのはマスコミである。

 「消費税」「普天間」「政治とカネ」。このうち、鳩山前政権下で作られた言葉が「普天間」と「政治とカネ」だ。
 「政治とカネ」の問題で、もっとも批判されたのは「小沢一郎の陸山会をめぐる政治資金問題」であった。
 検察が家宅捜索をし、直接の事情聴取を行った結果、不起訴となったが、マスコミは「グレー」として、小沢の潔白を報じなかった。それどころか、検察検査会の「起訴相当」の内実が「期ズレ」の問題のみであることすら明らかにせず、さも「政治とカネ」の問題は解決していないかのように報じ続けた。
 こうしてマスコミは、「小沢一郎の政治と金の問題」についての正しい説明を国民に対してまったくしない一方で、小沢には「説明責任」を上から目線で求め続けた。
 「普天間」も同様である。
 沖縄の日本返還以来の長きにわたる問題の解決のために奔走した鳩山前首相の姿を「迷走」であるとマイナスイメージを植え付け、本来であれば数年かけてじっくり取り組むべき問題に対し「アメリカ様がご機嫌を損なっているぞ!」と、早期決着を煽り立てたのは、いったい誰なのか。

 前回の参院選において、マスコミが盛んに報じたのは「消えた年金」であった。
 杜撰な行政のありように憤る国民をマスメディアが盛んに取り上げる一方で、NHKスペシャルの放送などで当時話題となっていた「ワーキングプア」の問題は争点からかき消されていた。
 また、去年の衆院選において、確かに「政権交代」という言葉が、その他の争点をかき消した事は確かである。
 そして、今回の衆院選を、マスコミは「消費税」「普天間」「政治とカネ」にとりまとめ、またその他の問題をかき消すのだろうか?
 聞きなれた言葉に、我々は注意する必要がある。



(15:38)

2010年06月15日

6月15日 朝日新聞 天声人語

 いくらかの熱を帯びて顧みる日が、各世代にある。60代半ばから上には1960(昭和35)年6月15日もその一つだろう。半世紀前のきょう、日米安保条約の改定に反対する学生デモが国会構内に突入、警官隊との衝突で22歳の東大生樺(かんば)美智子さんが死んだ▼控えめだが芯のある女性だったという。全学連の活動家として、読書と集会に明け暮れる日々。そろそろ卒論を、と話していたそうだ。死に顔はほほえんでいるようだったと、肉親の手記にある▼新条約は成り、岸首相は退いた。続く池田内閣は所得倍増を掲げ、戦後は経済の季節へと移る。『樺美智子 聖少女伝説』(文芸春秋)を著した江刺昭子氏は、日本人の意識や生活は、皇太子妃と樺さんの「二人の美智子」から変わったと見る。一人は命を捨てて重い扉を開いたと▼雨上がりの午後、彼女が眠る多磨霊園を訪れた。墓碑に刻まれた高校時代の詩「最後に」は、こう結ばれる。〈でも私は/いつまでも笑わないだろう/いつまでも笑えないだろう/それでいいのだ/ただ許されるものなら/最後に/人知れずほほえみたいものだ〉▼学生運動は全共闘などに受け継がれたが、もはや大衆を熱くすることはなかった。片や、冷戦後も極東には緊張が残り、米軍はそこにいる。沖縄が示す通り、異常も長く続けば日常にすり替わる▼あの頃、幼子までが口ずさんだ〈安保反対〉の声は弱い。日米同盟を「国際的な共有財産」とたたえたのは、ほかならぬ全共闘世代、菅首相である。樺さん、まだほほえんでおられようか。

 彼らが大学紛争を語る時、そこには「青春」という言葉が見え隠れする。
 大学の中で政治活動に燃え、正義の名の下に数々の施設を占拠し、暴力沙汰を繰り返した事が、彼らにとっては「良き思い出」なのだろう。
 樺美智子さんの死も、青春の志ゆえの必然と捉えがちだが、実際にはそんなデモをしなければ、彼女は死ぬ事はなかったのである。
 なるほど、民主主義が正しく運営されるためには、民衆が声を挙げ、政府に反発する事も必要であろう。しかし、大学紛争は多分に劇場的で、幼稚な反発であったように見える。
 また、論旨の持続性もなく、大学紛争に参加した学生の多くは、すぐさまヘルメットとゲバ棒を脱ぎ捨て、スーツを着て企業にはせ参じた。
 彼らは日米安保を批判して自尊心を得ながら、日米安保の傘の下に護られながら、経済成長を謳歌した。
 沖縄の基地は異常が日常にすり替わったのかも知れないが、当時の学生たちは、自らすり替わった日常を選択したのである。



(22:42)

東洋経済オンラインに「トイレの現場から見えてくる話・その1」という話があった。
 これを読んで思い出したのが、伊集院光が少し前にラジオでしていた話だ。

 伊集院のラジオは月曜深夜から生放送で行われているが、打ち合わせなどのためにTBSに入ってトイレに行くと、いつもトイレにウンコが流されずにあるのだという。
 ところが、TBSのトイレはセンサー式の自動水洗で、用を足そうとすれば、普通は放っておいても流れるようになっている。むしろ流さない事は至難のワザである。このXファイルよろしくの怪奇事件に対して、伊集院と助手の「汚いメーテル」こと構成のスカリー(ウンコだけに)が、犯人像を突き詰めていくわけだ。
 もし、センサーに流さず、用を足すとすれば、かなりアクロバティックな姿勢で用を足す事が求められる。
 そこで伊集院たちが思いついたのは、「ある種の人たち」のトイレにおける行動である。
 つまり「洋式トイレに座るのが嫌な人たち」や、「洋式トイレに違和感がある老人」が、洋式便器をどのように使うのかといえば、洋式便器の上に乗っかって、和式のような形で用を足すのである。
 さらに、ウンコを流さないというのは、センサー式のトイレになれていない人。若い人ならセンサーに手を近づけて反応させるなどを思いつくだろうということにも思い至る。
 そして伊集院たちは、「犯人は、月曜日にTBSラジオにいて、長寿番組をもっているおじいちゃんおばあちゃんなのではないか?」という推論に行き着く。

 そして、ある日、スカリーがトイレに行って、便器を確かめたが、流されていないブツはなかった。トイレを出ようとした時に、目を付けていた、とある長寿番組のラジオパーソナリティーがそのトイレに入っていった。彼がトイレを出た後に、急いで便器を確かめるとそこには!!! トントントン トントテントン トンテントン

 まぁ、そんな話なわけです。
 東洋経済の記事に出てくる小学生の男の子は、洋式トイレに慣れ親しんでいるから和式トイレがつかえない。そして伊集院の話に出てくる「的こころ」なご老人は、和式トイレに慣れ親しんでいるから洋式トイレやセンサーがうまく使えない。どっちの話も、本来、それだけのことです。
 しかし、伊集院の話は、ご本人のキャラクターも含めて「笑い話」になっているのですが、その一方で東洋経済の記事は、医者などの権威を出して、筋肉がどうのこうのと、俗流若者論に貶めているわけです。
 もし私が、「タッチパネル式券売機の使い方が解らず、まごまごしている老人」に対して、同じような記事を書いたらどうなるだろうか?

 『先日、駅で奇妙な場面に遭遇した。
 杖をついた90代とおぼしき老人が、駅の券売機の前で不安そうな顔をして立っている。切符を買いたいようである。
 よく見ると券売機は開いている。誰も使っていない。駅員が通りがかると、老人はそそくさと話しかけて、切符を買ってもらっていた。
 後で脳外科の医者に聞くと、今の老人の何割かはタッチパネルが使えないのだという。
 彼らは前頭葉が退化し、新しい技術を受け入れて、操作する事ができなくなる。自分で切符を買おうとしても、券売機をストップさせるのがオチである。
 駅の老人はタッチパネルの操作が出来ないから、駅員を待っていたのだろう。
 ……
 さて、脳外科医によれば、切符を買えなかった老人は、
「切符を買えるのでまだましなほうです」
という。技術の進化におどろき、外出恐怖症に罹っている老人も少なくないという。
 一部ならいいが、老人にタッチパネル恐怖症が蔓延しているとすると、これは横着とは別次元の由々しき問題である。 』

 こんな恥ずかしい記事、俺なら書けない。
 ただ、少しだけ思うのは、この記事は完全に創作であるが、単純に自動改札とか、老人は使いにくいだろうなとは思う。
 自動改札は少し時間が経つと自動扉が「バンッ」と音を立てて閉まるので、つい早歩きで通過してしまう。それができる人はいいが、老人はなかなか難しいのではないだろうか?
 また、俺なんかは背が高いからいいが、背の低い人には、あの自動改札は威圧感があるのではないか?
 俺の場合は、タッチパネルや自動改札でまごついている老人を見たとすれば、「そうしたシステムに問題があるのではないか」と考えてしまうのが常であり、あまり「個人に問題があるのではないか?」とは考えない。

 また、トイレに関しては、少なくとも俺が子どものころから、小学校のトイレではウンコをしてはいけないという風潮があった。実に馬鹿馬鹿しい風潮ではあるが、小学校という村社会において、学校内でウンコをするなどという失態を晒すという事は、その後の在学期間、学区を考えれば中学生卒業までの期間に至るまで「ウンコマン」というあだ名で呼ばれ続けかねない。周囲が気軽にそう呼んだとしても、本人には一生のトラウマとして、人生を左右する事になる。
 記事中の「大人なみの便秘や過敏性腸症候群に罹っているケースも少なくない」という話は、そうした「排便」と言う人間の自尊心をめぐる問題なのであり、決して「大腿四頭筋が退化しているので、和式トイレが使えずひっくり返ってしまう」などという、牧歌的な話ではない。

 あと、老人世帯で、足腰が弱くなって和式便器が使いにくくなっているので、洋式化のリフォームが増えているなど、トイレにまつわる話は色々とあるのだけれど、「その1」でいきなりああした単純な俗流若者論を放ってしまったトイレの話の「その2」がどのようなものになるのか、楽しみである。



(00:20)

2010年06月05日

6月5日から、渋谷アップリンクで増山麗奈さん主演の映画「桃色のジャンヌ・ダルク」の上映があるそうです。とりあえず見ていない人はぜひ。
「桃色のジャンヌ・ダルク」渋谷UPLINKにて6/5(土)〜6/25(金) 10:30〜

鳩山が総理を辞め、菅直人が新しい総理大臣となった。
 どうも鳩山小沢が辞任した事もには「セージトカネ」の問題が関わっているらしい。辞めた時に「クリーンな民主党」とか言ってたらしいし。
 で、「セージトカネ」ってなに?

 鳩山にはお母さんから毎月一千万円をもらって、政治資金収支報告書に記載していなかったという問題があった。
 それは脱税といえば脱税だが、これはあくまでも「金」だけの問題ではないだろうか。
 母親から子供がカネをもらう事に「政治」性は絡まないだろうし、首相として母親に政治的な便宜を図るわけでもないだろう。
 小沢に至っては、どっかの建設会社との間で、利益供与の疑いなどがあり、検察が必死に調べていたが、結局証拠が揃わなかったのか、不起訴と言う事になった。後に検察審査会が「起訴相当」などと言い出したが、その起訴相当の部分は「土地を10月に取得したのに、政治資金収支報告書には1月と記載されているから虚偽」という部分だけであり、どっかの建設会社の問題は、まったく関係のない起訴相当の判断であった。つまり、世間で合掌されている「セージトカネ」とは、ほとんど関係がないのである。

 にもかかわらず、鳩山小沢体制は「セージトカネ」の問題を追求され、辞任に追い込まれた。
 一方で、同音異義語「政治と金」の問題である、官房機密費のマスコミへのバラマキついては、マスコミはだんまり。彼らは「セージトカネ」の問題は大好きだけど、「政治と金」の問題はお気に召さないようだ。

 どうせ管政権になっても、どこかしらから「セージトカネ」の問題が出てきて、マスコミが声高に叫ぶのだろう。
 でも、誰も「セージトカネ」の問題がなんなのかは、理解しないままなのだろう。

前回の二郎の話に、はてブでコメントがついてて「ホモソーシャル乙」「格差関連の活動をしている人とそういう「文化」は相容れないと思ってた」と書かれていた。

 ハッキリ言うと、私は画一化された行動が大好きです。
 前から私は「コンビニで7年ぐらい働いていた事を評価しろ」といってますが、それは没個性的な画一化された行動をやり続ける事に不満を抱かない証拠だからです。
 もし、自分の生活が、満員電車に乗って残業して働いて、それで成り立つんだったらそれをやり続ける事自体は苦痛ではありません。
 そもそも、私はそうしたコンビニバイトでは自分の生活が成り立たないから貧困問題に関わっているのであって、別に自由闊達な生存や、人間としての価値みたいなものを求めて貧困問題に関わっているわけではありません。単純にお金の問題です。

 この事はとても重要で、現代の貧困問題は、決してヒッピー文化的な文脈で理解できるものではないという事を示しています。
 社会運動などにはどうしてもヒッピー文化的な価値観がまとわりつきますが、彼らが自らの選択としてそうした文化を引き継ぐのはいいとしても、私はそうした文化に巻き込まれたくはないのです。
 自由である事を選択したが故に、貧困に「価値」を求める貧困者(もしくは、貧困的価値観を有していると自称する人たち)と、画一的な行動規範を受け入れながら、社会から切り離された貧困者。この両者の考え方は大きく隔たっているのですが、どうも現在の貧困問題では、その線引きがなされていないように思います。

 確かに、貧困問題で名前を売るためには、画一的な行動規律に対して反発していた方が、既存の左派からは受け入れられやすいでしょう。しかし私は画一的な行動をしながら社会のなかで安穏と生活したいのです。そして貧困に晒される人たちの多くもまた、「普通に会社に就職して、普通に家庭を営みたい」と考えているのではないでしょうか。
 もし、貧困問題の活動をする人が、みんなホモソーシャル的な文化に理解を示さないとしたら、多くの貧困者は「これは私とは関係のない活動だ」として、去ってしまうでしょう。そして実際、これまで貧困問題に対する運動が力を持ちえなかったのは、ヒッピー文化的なノリについていけない人が多かったからだと思います。

 特に、考えも無しに書いたラーメン二郎の話ですが、そう考えると実は「私はホモソーシャルが好きな人の気持ちも分かりますよ」というパフォーマンスも含まれていたのかもしれません。



(12:08)

2010年06月03日

ラーメン二郎がブームらしい。
 経済誌の『PRESIDENT』でもラーメン二郎が取り上げられた。
 どこもかしこも不況の中で、本店はもちろん、支店まで含めて行列を絶やさないラーメン二郎のビジネスに、経済人も食らいついたのだろう。
 実をいうと、この二週間ぐらいで、ラーメン二郎を数店回っていた。
 別にブームに便乗したわけではなく、たまたま「ここ数ヶ月、ラーメン二郎行ってないなー」と思って、桜台の二郎に食べに行ってから、なんとなく二郎づいてしまっただけのことである。また今はまったく食べる気にならなくて、次に食べるのはまた数ヶ月後だと思う。

 ここから本題なのだが、先に言っておくと、この文章で二郎のビジネスモデルを査定したり、二郎の人気の秘密を探る気はない。そういうことを期待している人は回れ右で。

 ラーメン二郎はチェーン店ではあるが、味は各店で違う。もちろん「二郎」という食べ物としてのベースはあるものの、味は各店で大きく異なる。そうした各店の個性が、「各地の二郎に行ってみよう」という二郎ファンへの誘因に繋がっている。
 そうした中で、別に毎週のように食べる二郎マニアではないけど、私も、たまに遠出をして散策がてら各地の二郎に行っていた。
 ネット上に「二郎コピペ」(1) (2)と呼ばれるジャンルの文章がある。その多くは他の飲食店と違う、二郎独自のシステムを大げさにおもしろおかしく表現したものである。
 私もこのコピペを話半分で面白がっていた。これまでに回ってきた二郎では、もちろんあまりちんたら食べてはいけないという意識はあったが、私も食べるのが早い方なので、その辺は気にせずに済んだ。
 しかし、目黒二郎に行った時には、さすがに二郎コピペに描かれる「ロット」を気にせざるを得なくなった。

 「ロット」とは、二郎の麺を1回茹でる時に、何人前ずつ作る事ができるかを1とする単位である。
 二郎は行列店なので、常に同じペースで麺を茹で続ける。その際、一度に何人分ずつ作るのかが「1ロット」となる。目黒の場合、1回に5人分の麺を茹でるので、「1ロット5人」である。
 私がこれまで行った、他の二郎で食べている分には、席は食べ終わった順に開き、そこに次の人が座る。その席はバラバラなので、ロットごとに二郎が提供されていても、そのことを明確に意識する事はなかった。
 しかし、目黒の場合、1ロット5人、かつ、テーブルがL字になっていて、片方(A列)に5人、もう片方(B列)に5人。計10席。つまり、1回の提供ごとに片方の5人ずつに提供される。
 あなたがA列に座ったとしよう。自分の列5人に、茹で上がった二郎がほぼ同時に提供される。食べていると、次にB列の5人に提供される(1ロット目)。そして次に提供されるのはどこか。もちろんA列である(2ロット目)。

 二郎コピペでは、食べる時間制限として「2ロット」という表現がされる。2ロット越えてまで食べ続けるのは「ギルティー」だという。
 行列店である二郎では、常に同じペースで麺が茹でられている。二郎に並んでいると、列の先頭付近で先に食券を確認されたり、ラーメンのサイズを聞かれることがあるが、これは行列に並んでいるうちから麺を茹で始め、速やかに二郎を提供するためである。そうして茹でられた麺が、ゆで上がった時に、もし席が開いてなかったらどうなるか。席が開いていない分の麺が無駄になってしまう。また、開いてない人の麺は、次のロットに回される。そうなるとその後に並ぶ人がその分だけ、長時間待たされる事になる。
 店は2ロットまでに席が開く事を前提に麺を茹でている。そうした前提を崩すことは後の客の迷惑になるからこそ、「2ロットを超えて食べ続けるロット乱しはギルティー」なのである。
 そうした事が、列ごとに同時に提供され、横一列で同一ロットのラーメンを食べることになる目黒二郎では、おのずと自覚させられた。A列に座って二郎を食べながら、B列に二郎が提供されるのを目にしたら、制限時間はあと1ロットなのである。
 「ロットバトル」なんていう表現も、そうした二郎の風景を表した言葉であろう。サウナなどで「こいつが出るまで我慢する」ような、しょうもない競争心が芽生えるように、二郎でも「同一ロットのこいつより先に食べてやる」という競争心が芽生えるのだろう。ただしこっちは、実際に意味のある「2ロット」と違い、単なるネタである。

 ネットなどに描かれる二郎の姿をみると、二郎はおもしろおかしく「ヤサイマシマシニンニクカラメ」などという呪文を唱えなければならず、ロットバトルに敗れたものは屈辱を味わい、ロットを乱した者は店主に土下座などと、過剰におもしろおかしく表現されている。
 しかし実際は、「(小)ラーメン」であれば、普通の男性が私語とかなしに集中して食べる分には、十分食べられる量であり、トッピングのコールについても、「ニンニク入れますか」と聞かれたら「お願いします」とか「入れないでください」で十分である。私もたいていの場合はトッピングはニンニクのみだ。
 後ろに人が並んでいる事を自覚し、彼らに迷惑をかけない事だけを考えていれば、おのずと取る行動は決まってくる。ついでに、基本的に丼をカウンターに上げ、自分の周囲を備え付けのふきんで拭く事を忘れずに。

 最後におまけとして、ちょっとした情報を。
 二郎は行列店なので、普通は食べるために並ぶ事になるのだが、私が食べて回ったうち、唯一並ばずに食べられ、かつ食べている間も空席があった二郎が、実はラーメン二郎の本店にあたる「三田二郎」である。
 もちろん三田二郎は不人気店ではない。それどころか、二郎の創業者である山田拓美氏が元気に厨房に立つ、屈指の人気店である。そんな三田二郎を、行列に並ばず、すぐに食べられたのはなぜか。
 二郎のファンサイトなどには営業時間が10時からと書かれているが、実は三田二郎は朝の9時過ぎぐらいから営業しているのである。私はその時間に行って食べたのである。もちろん、常時ウォッチしているわけではないのでハッキリとは言えないが、9時から10時の時間であれば、ほぼ行列ができることはないようである。
 もし、これから始めて二郎を食べるという人がいれば、この時間帯の三田二郎をお勧めしたい。ロットも気にする必要もなく、食べるのが遅かったとしても、並んでいるジロリアンから「ギルティー!!」と土下座を要求される事もない(笑)。
 もっとも、朝早くからたっぷりの二郎を食べるのは、少々キツイかもしれないし、電車で行くにも通勤ラッシュに揉まれなければならないのだけれど。



(18:24)