社会批評

2011年11月02日

園田政務官に、ジャーナリストの田中昭と寺澤有が、飲用ではない水を飲むことを、結果として強要してしまった事件について。
 結論じみたことを言ってしまうと、いくら後から「現場に記者が入ることが本丸だった」と言い訳をしても、そもそも「安全というなら飲め」という理屈を展開して、相手側にとって有利な条件を提示してしまい、それを実行されてしまった以上、田中と寺澤の負けである。飲まれて困るなら、最初からそんな要求をせず、報道側の福一への立ち入りを、粛々と要求すればよかったのである。
 園田政務官の水飲みをパフォーマンスと卑しめるなら、水を飲めと要求したことそのものは田中・寺澤のパフォーマンスであり、仮に私が田中・寺澤に最大の肩入れをするとしても「飲めと言う方も飲んだ方もダメだった」と評価をするのが精一杯だ。

 そもそも、この件は問題の始まりからして、筋の悪いものだった。
 寺澤は発端となった田中と東電側のやり取り

10日、東京電力の単独の記者会見で、ジャーナリストの田中昭さんが「我々、報道機関は福島第1原発の現地取材を拒否されている。本当に『低濃度』か確かめようがない」と追及。東京電力側が「(放射能汚染水は)口に入れても大丈夫」と答弁したことを捉えて、田中さんは「それならば、実際にコップに入れて飲んでもらいたい」と迫った。しかし、東京電力側は「飲料水ではないので……」と渋った。

 と、書いている。
 しかし、田中が提供しているUSTの動画(田中の質問は8分頃から)を見ると、田中の側から「飲めるのか?」と質問し、それに対して東電側がもののたとえとして、飲用水ではないと前置きをしながらも「飲める水準と同程度に、放射性物質が含まれない」との旨を回答している。
 そして田中は現地に報道陣が入れないことが問題であると語り、その直後に「飲めると言うなら、飲んでもらわないと信用できない」と述べている。この文脈を園田政務官に水を飲むことを迫った寺澤も踏襲している。
 つまり「飲めるというなら飲まなければ信用できない」と強弁し、「水を飲めば信用できる」という文脈を作った責任はひとえに田中・寺澤の側にあるのであって、東電や政府の側ではない。
 園田政務官が水を飲んだことに対して「水の検証の問題を、パフォーマンスの問題に矮小化している」と不満を持っている人もいるが、それも田中・寺澤は結局「記者を現場に入れてデータを検証できるようにするか、水を飲むかで信頼を示せ」と要求してしまったことの問題だ。
 前者の第三者である記者などが現地に入って、取材や事実確認をできるようにする必要があることについては、全く同意である。少なくとも「東電も政府はもちろん、原子力保安院も信用できない」のであれば、データの透明性を確保するためには、原子力保安院ではない第三者を入れる必要がある。
 しかし、それだけになぜそこに「安全なら飲め」という、よく分からない主張が入り込んでしまったのか。そこが私にはさっぱりわからない。「福一に第三者である記者たちを継続的に入れるのか、もしくは水を飲むのか」の二択でいいなら、俺が園田政務官の立場だったとしても、水を飲んで終わりにするほうが簡単だと考えるに違いない。

 勘違いされたくないのだが、この記事は決して田中・寺澤を批難することが目的ではない。
 目的は、この一連の過程において、私達が「本当に政府側に要求するべきこと」を提示することだ。
 今回「水を飲むことを要求したこと」は、2つの意味で間違っていた。
 1つが「水を飲んだことは、安全であることの証明にはならない」ということ。
 先日、えびすのユッケを食べて亡くなった方が5人となったが、一方で同じユッケを食べながら、なんら体に異変を生じなかった人もいるのだ。飲み食いしたものが体に与える影響を測るのに、人体そのものを使っても、個体差が大きすぎて、データとしては全く役に立たない。逆に実際に危険な物質であっても、それを口にして影響がでなければ大丈夫なのだと、むしろ安全性の議論を誤った方向に推し進めてしまう可能性がある。
 もう1つが「政府側に対して安全に対する誠意を求めたこと」である。つまり、「あなたが騙しているのでなければ、当然それを飲めるはずだ」という論旨である。
 とはいえ、そもそもデータの透明性や検証性を求めるのは、むしろそうした内部の人間の恣意によって、検査結果がごまかされたり、必要なデータが出なかったりすることを問題視するからこそ、データの透明性や検証性が重要なはずである。
 ならば政府や東電に対して「誠意を示せ」と迫ること自体が、逆に内部の人間の恣意性が、データの提出や信用性に大きく関与してもいいのだと認めてしまうことになる。その人が信頼に足るか足らないかに関係なく、データが検証可能な形で開示されること、それを実現するために記者による取材や検証を認めることこそ、田中・寺澤が本来求めていたはずのことではなかったのか?

 本当に必要な要求は、それが本当に安全(この言葉は決してゼロリスクを指すものではない)かどうかを提示出来るだけの検証可能なデータを要求することだし、また、危険だとすれば危険が発生する経路を見極めて、適切な対策を行うことに繋がる要求である。
 対策の例としては、牛肉から基準値を超えるセシウム検出された問題があったが「事故直後に天日干しにされていたワラが原因であった」ということが発覚し、それ以降は大きな問題は発生していないことがあげられる。(ちなみに、こうした原因追求に対する真摯な態度を「牛にセシウムが出たのに、豚や鳥にセシウムが出ないはずがない。政府は隠蔽している」などと、問題を単純化して、対策を嘲笑ったのが、あの上杉隆である)

 今回の事故に対し、政府や東電に対する態度は2つあると考えている。1つが政府や東電に安全や安全を証明して欲しいという要求する態度だ。私は現状、この態度を取る人が多すぎると考えている。といっても、かつての安全神話のように、政府が安全だといえば安全だと思う人は、事故以降ほとんどおらず、「政府や東電は信用できない」という世論が盛り上がっているのだから、そんな人は少ないのではないか? と思う人もいるだろう。
 しかし、「信用できない」と口にする人たちは結局は「信用」という軸で物事を考えている以上「信用する」である安全神話とはコインの裏表に過ぎない。しかし、重要なことは、政府や東電が信用できるか否かでは無いはずだ。
 そしてもう1つが、政府や東電には、価値判断を挟まない生データや、透明性などを求める態度である。担当者が水を飲むような誠意のある人間であろうとなかろうと、第三者による監視の目を入れることで、常に問題点を検証可能な状態に置くことを求める態度である。
 本来、田中・寺澤が求めたのは後者であったはずだ。しかし、何故かそこに前者の態度である「誠意=信頼できることを示せ」と要求してしまった。

 田中・寺澤が要求するべきだったのは「データの検証可能性」であり、そのために現地に記者という第三者の立ち入りを認めさせることである。
 昨日、福島第一原子力発電所が、報道陣に公開されることが決まったそうだが、立ち入ることができるのは大手メディアだけで、行動も大きく制限される。たぶん現場の責任者に話を聞いて、構内をクルマでぐるっとめぐるバスツアー形式が関の山だろう。
 田中・寺澤にはまだやるべき仕事がいくらでも残っている。今回は道を外れてしまったが、元々の論拠に立ち戻って、進むべき道をじっくりと、焦らずに進んでいただきたい。

(似た様な事を2回書いてしまっているが、ブログ用の記事なので、そのまま出しました)



(17:01)

2011年05月26日

前回書いた2つ以外に、もうひとつ震災問題で書けることがありました。
3,被災者個人のこと。現状被災者は「被災者」として1つの存在であるかのようにくくられがちだが、当然個々の存在である。震災直後に「ペット」の存在が問題になったが、被災者はペットを避難所に持ち込むべきではないという合理的判断をされる一方で、被災をした個人はペットという家族を守りたいという感情があるが、そこで被災者というくくりを受け入れることを、世間から要求されてしまう問題。
 また、被災者が「被災者というくくり」を過剰に背負ってしまう問題。特に「被害者」が強い日本では、被災者の皮をかぶり続けた方が得なことは多い。それによってむしろ「被災者の個」が覆い被されてしまうことの問題。

原発事故を語るジャーナリストの中に、安易に「政府が正確な情報をだせば、市民はそれを正確に読み解く」という、市民に対する愚直な信頼を表明する人たちがいる。
 私は単純にそういう連中が許せない。
 客観的な理由をつけるのであれば、いまだに「少年犯罪が急増している」とか「中国産食品は危険」という、事実に基づかない風評が当たり前に受け入れられている中、放射性物質の問題だけを市民が正しく読み解くなど、なんの根拠もないという理由。
 直接的な理由は、就職氷河期世代はそうした「市民」に批判され、自己責任を押し付けられてきたから。
 市民の判断が正しいというのであれば、彼らが口にする「自己責任」も正しいということになる。市民の理性というものを安易に肯定するジャーナリストは、自己責任論は理性的な判断の結果だと同調しているに等しい。だから絶対に許せない。
 「原発で事故は起きない」という考え方を安全神話というなら、「市民は間違わない」という考え方は「市民神話」とでもするべきだろう。市民神話を振りまき、市民の判断は常に正しい「から」情報提供をするべきだ。と語るジャーナリストは、安全神話を語る連中と同じ穴の狢。
 本来であれば「市民も間違えるが、それでも正確な情報提供をしなければならない」と論じなければならず、その情報解読に対して、極めて慎重な姿勢を見せなければならないはずだ。
 安易に市民を賛美し、媚びてカネを稼ごうとする人間を、私は絶対に許さない。こういう人間が私たちのようなマイノリティーを苦しめてきたのだ。



(08:32)

2010年12月05日

都条例の問題について軽く。
 おおかたの論点は出尽くしているので、感想を書いてみる。
 「非実在青少年」のようなおかしな文言は消えたが、その一方で描かれる対象の年齢に関わらず、違法や非道徳なセックスなどを描くことが、取り締まりの対象となった。

 念のために記しておくが、都条例は決して「指定された図書を、18禁の棚に移動させること」を指定するわけではない。指定されれば、取次や書店の自主規制と密着し、その本を市場から締め出し、18歳以上の大人でもその本を買えなくなる。市場がなければ本は絶版し、裁断されるしかないからだ。
 その点を無視して「18禁の棚に移動させるだけ」であるかのように言い張ることは、「このボタンを押せば、確実に特定の誰かを殺せるスイッチ」というものを押したとして、その人が「俺はボタンを押しただけだ。殺人はしていない」と言い張るのに等しい。
 法的には殺人罪を問うことはできないが、それでも十分に「情を知って」押したのであれば、それは殺人を心から望み、それを実行したのと同じことである。

 そもそも、都の青少年健全育成条例で、表現規制を行うこと自体がおかしいのだ。
 この条例で同等の表現でありながらも、映画やビデオ、小説などが問題にならないのは「漫画は子供が見るもの」という、偏見が根強く存在しているからだろう。いまだ日本は手塚治虫を認めていないのだろうか。
 どうにせよ、表現そのものを規制したいのなら、メディア全般に向けて表現を規制すればいいし、それを前提とした議論を行うべきである。
 特に小説などは、性表現があるものが18禁のラベリングがされているわけでもなく、思春期の子供がいつ目にしてもおかしくない状況にある。青少年のための条例だからと、小説を無視して、漫画だけを規制対象にするのは、都合のいい狙い撃ちであることは、明らかである。

 あとはまぁ「非実在犯罪」問題。これをやってしまうと完全に「物語」が描けなくなってしまう。単純に抜きだけのエロ漫画であれば、そんなことはどうとでもなるだろう。一方で、ストーリーを含む漫画「作品」こそ描けなくなってしまい、「エロを排除する」という条例の意図としても本末転倒である。水戸黄門を「暴行罪が描かれている物語」と理解するほど、そら寒い理解の仕方はないだろう。

 他にも思うところはあるけれども、とりあえず、今日はこれだけ。



(04:49)

2010年10月11日

すこし遅くなったが、氷河期世代ユニオン主催の「考えよう、若者の雇用と未来 −働くことと、生きること−」のイベントに参加してきた。

イベント参加者の写真

 ちょうど先日、韓国に入国できず強制送還になった「素人の乱」の松本哉さんがいらっしゃったので、「強制送還おめでとうございます」と挨拶すると、「みんなが、おめでとうございますと言ってくる」と笑っていた。

 第一部は、氷河期世代が見聞きしたことの話。
 第二部が、現在の就活世代の話。
 第三部が、広い世代を揃えた、世代横断的な話。

 一部と三部は自分も出ているので、二部に対する感想を少々。
 最近は、一度社会に出ても転職をするというのは当たり前になりつつあるが、それまでの世代にとっての就職活動というのは、一生に一回、学校を卒業する時だけに行うことだった。
 そうした時代に就職活動を行った人たちの大半は、経済成長著しい、緩やかな売り手市場の中で就職活動を行ったために、就職活動に楽なイメージを持ったままである。
 彼らは、今の就職活動に苦しむ学生たちを、良くても「苦しむのは良い経験」くらいにしか見ていない。
 しかし現実は、新卒カードを用いることができる最初の一歩の正否が、今後の人生にクリティカルに関わってくるのであり、就活失敗への恐怖は、人生そのものを失いかねない、死の恐怖に等しいのである。それはどこかの都知事が言うような「教育のための徴兵制」のような、人を人とも思わない、恥ずべき言説である。
 大学生たちは勉学や部活などを行う余裕もなく、1年生のころから就職活動の準備を進めている。今や、大学での勉学はおまけであり、本質は選抜制ハローワークに過ぎない。
 「就活」という言葉は、決して大学生が就職活動をしていることそのものを表す言葉ではなく、ハローワーク化した大学や、リクナビなどの就職サイトを含めた就職産業と、それを利用して学生の人生を選抜のために一方的に利用する会社、それらとの大学生たちの関わり。その体系を指した言葉なのではないか。
 だから「就活くたばれ!」というスローガンはストライクだなー。などということを、二部を見聞きしながら思った。

 自分の発言としては、人数が多く、言いたいことを全部しゃべることは不可能と判断したので、第三部の最初に、話したいことの要点は先に話してしまった。
 発言の要旨は、
「もう、自分は35歳であり、オッサンである」
「オッサンをいつまでも若者扱いする社会はおかしい」
「オッサンにはオッサンにふさわしい社会的役割が存在するはずであり、それを与えるのが社会の役割だ」
 ということ。もし会場で違うふうに聞こえてたらゴメン。

 こうした考え方を「クレクレだ」と批判することは簡単だけど、それは社会が持つ「承認」という重大な機能からの逃避であり、「社会責任」の放棄といえる。
 今回はさまざまな人が登壇したわけだが、その中の誰一人として、社会の中での自らの役割を希求していない人はいなかった。
 友人であった大友さんの言葉を通して聞いた、秋葉原通り魔事件を引き起こした加藤智大だって、労働という形での承認を希求していた。
 だが、労働という承認の形は、もはや日本人のすべてに承認を与えることは不可能である。なぜならば、労働の形は多種多様であるのに関わらず、今の日本では正社員という、「生活を営めるだけの給料を得られる賃労働」にしか、承認を与えていないからである。
 では、右肩上がりの経済成長の時代には、そんな承認が十分であったかといえば、実は人口の半数にしかそうした承認は与えられていなかった。すなわち、男性のみがその承認を得て、女性を自らの承認(家族)のために囲い込んでいたというのが、かつての日本社会の現実であった。
 それが女性が社会進出をするに従い、また、不況になるに従い、承認を得られず、かつ承認された誰かに養われることもできない人達が増えてきたのが、現状であろう。

 だから私は、社会に対して、昔ながらの家族概念である「家庭を持つ」「子供を育てる」という役割を要求する。
 それは、私が実際に家庭を持ち、子供を育てるような役割を得たいと考えているのが1つ。
 そしてもう1つが、社会的役割を明確に希求することにより、いいかげんオッサンをモラトリアムのように扱っていいという社会的風潮に、異議を申し立てたいということ。
 オッサンが家族も持てず、子供を育てることができないのは、彼らが自ら、家庭を持たず、子供を育てなくてもいいと選択しているのではない。
 就職氷河期世代は、フリーターであることも、薄給であることも、苦しいことも、承認をえられないことも、何一つ選択させていない。就職氷河期世代にそういう人生を歩ませているのは、社会そのもの、そしてそうした社会に暮らし、他人を蹴落としながら、安穏としている人達なのである。



(22:23)

2010年10月02日

本日19時より、阿佐ケ谷ロフトAで、「考えよう、若者の雇用と未来−働くことと、生きること−」というイベントに出演いたします。出演者は以下の通り(プラス、シークレットゲストがいるらしい)。お時間があれば是非。
 あと、二コ生もありますので、遠方の方はこちらで。

司会
荻上チキ(批評家)

出演
雨宮処凛(作家)
赤木智弘(フリーライター)
山内太地(大学ジャーナリスト)
ペペ長谷川(だめ連)
大友秀逸(加藤智大被告の元同僚)
清水直子(ライター・フリーター全般労働組合)
塩見孝也(元赤軍派議長)
増澤諒(就活生の本音フェス実行委員会代表)
大瀧雅史(就活くたばれデモ@札幌・首謀者)
AT(氷河期世代ユニオン)ほか ※ 敬称略

参加費:
前売1500円/当日1700円 (8月25日よりローソンチケットにて販売開始)

『代替医療のトリック』読了

 分厚いけど、文字の密度はさほどではなく、文体も平易で読みやすかった。
 まぁ、JCCastで代替医療の話は何度か取り上げているので、予備知識はそれなりにあるから、スラスラ読めたのかもしれないけど。

 本自体に書かれた話としては、《科学的根拠に基づく医療》エビデンス=ベースド・メディシンが、いかに公共の利益に添うものか、そしてエビデンスに基づかない代替医療が、人の生命を危機に追いやるかという話。
 私は、本を読みながら「我々はどうして、権威よりも、身の回りの「真実」とやらに、騙されてしまうのだろう」ということを考えていた。
 それこそ「ネットで真実」の方たちは、新聞やテレビで報じられるものを「マスゴミ」と揶揄し、自分たちが【拡散】する情報こそ、マスゴミが必死になって隠す本当の真実だと思いたがっている。
 もちろん、現状のマスコミが《客観的根拠に基づく報道》だなんてはずもなく、とても堕落しているけど、だからといって、じゃあネットの真実を伝えてくれるニュースサイトは堕落していないのかと。ネットで真実と言う人達ご用達のニュースサイトは、それこそ「曖昧なソース」「露骨な印象操作」にまみれている。そして、マスゴミが金で報道を切り売りするように、ニュースサイトはアフィリエイトで金を稼いでいる(そう書いているこの文章の冒頭に『代替医療のトリック』のアフィが貼ってあるのは、ご愛嬌)。そして、お金を稼ぐために、他サイトにヘッドラインを引用されたときに、できるだけ目立たせようと、読者の目を引くヘッドラインを演出している。
 簡単に例をもってくると、例えば経済学者の森永卓郎が、秋葉原にアダルトショップが増えていることへのコメントをしているこの記事。
 これがニュースサイトに引用されると。「森永卓郎氏「オタク男性の“二次最高・二次元で満足”は嘘。女性に相手してもらえないので逃げている」
 となる。カッコ書きで、まるで森永の発言のようにされている内容は、この記事の中には「ない」といって過言ではない。
 この記事もそうだ、楽天の三木谷浩史が基調講演を行った中で、「日本語で1時間もしゃべったのは久しぶり」としゃべったことが、ニュースサイトに取り上げられると「楽天・三木谷社長が講演「やべー日本語で1時間もしゃべったのは久しぶりだわー」」と変化してしまう。もちろん三木谷はこんな地獄のミサワのような口調でしゃべってなどいない。
 最近のニュースサイトは、こうしたヘッドラインでの印象操作合戦を繰り返しており、東スポやゲンダイも真っ青で、どれだけ堕落したマスコミといえど、ここまで酷いものはほとんどないという状況であるにも関わらず、いまだに「ネットにこそ真実がある」と信じている人達は、決して少なくない。彼らと代替医療にのめり込み、お金と生命を浪費する人たちは、私からは同類に見える。

 たぶん、どっちも「心地がいい」のだと思うね。
 自分が「何となく信じている」ことを、面と向かって肯定されることは、誰だって気持ち良い。
 それが、細かな違和感を無視して、自分を肯定してくれる方向へ突き進んでしまう。「それは間違っている」「もっとよく考えるべきだ」という否定の声は、耳障りの悪いノイズに変わり果てる。体感として正しいものを、理性は容易に乗り越えることはできない。
 とはいえ、それが自分の命や知性を危機に晒すだけであれば、勝手にやってくれればいい。それは「愚行権」の範疇であり、愚かしい趣味もまた、その人の人生を豊かに彩ってくれる。
 しかし、こうした人はたいてい、それを善意の元に他人に広めようとする。否定の声はむしろ「この真実を伝えなければならない」という天啓を伴ってしまう。そして、曖昧でいい加減でせいぜい「友達の友達の知り合いがこんなことを言っていた」程度の情報を信じてそれを広めようとする。医者やマスコミという鼻持ちならない権威より、友達の友達の知り合いの方が信頼できるのだろう。もっともその人間が誰で、何をして生計を立てているかなんて、誰も知りようが無い。自分の作ったデマ話で金を儲けて高笑いしているかもしれないというのに。
 そしてそうした【拡散】の被害にあうのは、いつだって子供や動物といった、立場の弱い者たちだ。ホメオパシーは明らかに「子供や動物を飼っている親」をターゲットにしている。『代替医療のトリック』の中にも鮫の軟骨にガン抑制の効果があると信じ、子供をガンで殺してしまった親がいたという話が出てくるが、嘘か真か、ネトウヨの中にも子供にネトウヨレベルの知識を教え込んでいる親がいるそうだ。

 代替医療の問題は「明確なエビデンス」を持ちながら、それでもなお、インチキとしか言いようの無い代替医療が蔓延り、決して少なくない支持を得て現実に人の健康を損なっている現状を示している。ならば、すべてがケースバイケースで臨床試験などしようがない政治や社会の問題において、幼稚で暴力的な言論を排除していくことは、きわめて遠い道のりである。



(03:56)

2010年09月30日

今日から、アイドルマスター2に対する拒絶反応ともいえる、ネット上の反応について、しばらく考察していこうかと思います。こればっかりは、いまのところ、自分が仕事できる場所に掲載できる類の原稿ではないので、Blogで。
 とはいえ、単純にゲームの話をするのではなく、オフィシャルとユーザーの関係性や、ファン同士の関係性を論じ、最終的にはネット上の炎上や、論評や批評の意味までを組み込んで、ゲームに留まらない文脈まで、もって行ければいいなと思っています。しばらくお付き合い下さい。

 私としてはもう少し考察を重ねるつもりでいたのですが、昼間たかしさんにコメントを寄せた記事が「「やっぱり、騒いでいるのはネットだけ!?」あまりに空虚な『アイマス2』918事件」出ており、私が考えていることの体系が、決して「生粋のファント騒いでいる人の二元論で論じているのではない」ということを、早急に提示する必要性が生じたので、前倒しで。

 今回は前置きとして、私がどのように「アイドルマスターシリーズ」に接しているかを明記しておくと、存在を始めて知ったのは2ちゃんねるで「クイズマジックアカデミー」のスレッドを見ている中で、「アイドルマスターというアイドル育成ゲームがでるらしい」という書き込みで知りました。
 それからアーケードが出回りましたが、お金もかかりそうなので、アーケードは未プレイ。
 それからしばらくして、なんだかんだで出発点はニコニコ動画でのアイドルマスター動画、いわゆる「ニコマス」からアイドルマスターシリーズとの関わりは始まっています。
 プレイしたのは、無印、L4U、PSP(ムーンのみ)、DSと、家庭用ゲーム機のシリーズには一通り触れています。ただ、いずれも「やりこんだ」というほどはプレイしていません。
 だから、アイマス知識のベースとしてはニコマスです。千早は万かつサンドが大好物で、怒らせるとPC枕木で殴られます。それは特定の旅m@sだけですか。そうですか。

 軽口はともかく、次回から集中的に「9.18事件」とも呼ばれるできごとを中心に、いろいろと論じていきたいと思います。よろしくお願いいたします。



(23:05)

2010年07月24日

田原総一朗がしゃべり出して、30秒で決着がついた。
 「若者不幸社会」なる議題で始まった、昨日の『朝まで生テレビ』は、最初に田原総一朗が「僕が若い頃は、親に仕送りをしていた(から不幸だった)。ところが今の若い人はそうではない(から不幸ではない)」という主旨の発言をし、それに対する反発が出なかった時点で、もはや終了していた。
 もちろん、あの場にいたメンツを責めるつもりはない。司会者が最初に自分の意見を述べるのは当然であり、普通はそこに意義を挟むようなことはしない。自分だってあの場にいたら、反発を思いながらも、それを止めることはできなかっただろう。
 だが、やはりあそこで、「親の面倒を見られることは幸福なのだ!」と反発するべきであった。

 確かに、それは結果論であるともいえる。田原世代の若者が、親にお金を送りながら、自分はぜいたくはできない。彼らはその当時に不安の中で生きてきたのであろう。しかしそれは結果論であると同時に、過去のことである。今の若者を自らを見比べた場合に「今の若者の方が幸せである」と思える事が、どれだけ恥ずべき事か。そのことを指弾する必要があった。

 若者に親を支える役目が課される、家族をもつ役目が課される、会社で働く役目が課される。そうして社会に役割を与えられ、“徴用”される事は、今の若者から見れば「とてつもない幸福」なのである。

 だいたい、あそこにいたメンツを見ればわかるだろう。福嶋麻衣子を除けば、皆、おっさんおばさんだ。30過ぎて「若者の代弁者」をすることが、どれだけ惨めで空しい事か分かるか? 俺だってもう35だ。本当だったら立派なおっさんだ。にもかかわらず、社会的な役割を与えられてない限り、35だろうが40だろうが、いつまでも「若者」でありさせられ続ける。「若者」というのは、ひとりの人間がモラトリアムであることを示す言葉だ。年齢的には子供ではないが、社会的には大人ではない状況を差す言葉である。
 ならば、若者が不幸なのは、まさに若者が社会から徴用されず、大人になれないからである。田原の世代はは若いうちから、若者ではなく大人として、社会に徴用されたのである。

 何の苦もなく大人になれた彼らは、不幸な人間の気持ちを理解する事ができない。
 自らの幸福を幸福と気づかず、後の世代に適切な権限譲渡をせずに批難ばかりを口にし、「かつて自分は不幸であった」と自分語りをして自尊心を得る。その無自覚な幾重もの傲慢を指弾できなかった時点で、「若者不幸社会」なる議題は破綻し、田原総一朗の圧勝に終わった。



(17:48)

2010年06月05日

6月5日から、渋谷アップリンクで増山麗奈さん主演の映画「桃色のジャンヌ・ダルク」の上映があるそうです。とりあえず見ていない人はぜひ。
「桃色のジャンヌ・ダルク」渋谷UPLINKにて6/5(土)〜6/25(金) 10:30〜

鳩山が総理を辞め、菅直人が新しい総理大臣となった。
 どうも鳩山小沢が辞任した事もには「セージトカネ」の問題が関わっているらしい。辞めた時に「クリーンな民主党」とか言ってたらしいし。
 で、「セージトカネ」ってなに?

 鳩山にはお母さんから毎月一千万円をもらって、政治資金収支報告書に記載していなかったという問題があった。
 それは脱税といえば脱税だが、これはあくまでも「金」だけの問題ではないだろうか。
 母親から子供がカネをもらう事に「政治」性は絡まないだろうし、首相として母親に政治的な便宜を図るわけでもないだろう。
 小沢に至っては、どっかの建設会社との間で、利益供与の疑いなどがあり、検察が必死に調べていたが、結局証拠が揃わなかったのか、不起訴と言う事になった。後に検察審査会が「起訴相当」などと言い出したが、その起訴相当の部分は「土地を10月に取得したのに、政治資金収支報告書には1月と記載されているから虚偽」という部分だけであり、どっかの建設会社の問題は、まったく関係のない起訴相当の判断であった。つまり、世間で合掌されている「セージトカネ」とは、ほとんど関係がないのである。

 にもかかわらず、鳩山小沢体制は「セージトカネ」の問題を追求され、辞任に追い込まれた。
 一方で、同音異義語「政治と金」の問題である、官房機密費のマスコミへのバラマキついては、マスコミはだんまり。彼らは「セージトカネ」の問題は大好きだけど、「政治と金」の問題はお気に召さないようだ。

 どうせ管政権になっても、どこかしらから「セージトカネ」の問題が出てきて、マスコミが声高に叫ぶのだろう。
 でも、誰も「セージトカネ」の問題がなんなのかは、理解しないままなのだろう。

前回の二郎の話に、はてブでコメントがついてて「ホモソーシャル乙」「格差関連の活動をしている人とそういう「文化」は相容れないと思ってた」と書かれていた。

 ハッキリ言うと、私は画一化された行動が大好きです。
 前から私は「コンビニで7年ぐらい働いていた事を評価しろ」といってますが、それは没個性的な画一化された行動をやり続ける事に不満を抱かない証拠だからです。
 もし、自分の生活が、満員電車に乗って残業して働いて、それで成り立つんだったらそれをやり続ける事自体は苦痛ではありません。
 そもそも、私はそうしたコンビニバイトでは自分の生活が成り立たないから貧困問題に関わっているのであって、別に自由闊達な生存や、人間としての価値みたいなものを求めて貧困問題に関わっているわけではありません。単純にお金の問題です。

 この事はとても重要で、現代の貧困問題は、決してヒッピー文化的な文脈で理解できるものではないという事を示しています。
 社会運動などにはどうしてもヒッピー文化的な価値観がまとわりつきますが、彼らが自らの選択としてそうした文化を引き継ぐのはいいとしても、私はそうした文化に巻き込まれたくはないのです。
 自由である事を選択したが故に、貧困に「価値」を求める貧困者(もしくは、貧困的価値観を有していると自称する人たち)と、画一的な行動規範を受け入れながら、社会から切り離された貧困者。この両者の考え方は大きく隔たっているのですが、どうも現在の貧困問題では、その線引きがなされていないように思います。

 確かに、貧困問題で名前を売るためには、画一的な行動規律に対して反発していた方が、既存の左派からは受け入れられやすいでしょう。しかし私は画一的な行動をしながら社会のなかで安穏と生活したいのです。そして貧困に晒される人たちの多くもまた、「普通に会社に就職して、普通に家庭を営みたい」と考えているのではないでしょうか。
 もし、貧困問題の活動をする人が、みんなホモソーシャル的な文化に理解を示さないとしたら、多くの貧困者は「これは私とは関係のない活動だ」として、去ってしまうでしょう。そして実際、これまで貧困問題に対する運動が力を持ちえなかったのは、ヒッピー文化的なノリについていけない人が多かったからだと思います。

 特に、考えも無しに書いたラーメン二郎の話ですが、そう考えると実は「私はホモソーシャルが好きな人の気持ちも分かりますよ」というパフォーマンスも含まれていたのかもしれません。



(12:08)

2010年04月15日

4月9日に朝日新聞のオピニオン欄に掲載された、アグネス・チャンによる規制賛成論を読みました。
 そして、アグネス・チャンのような考え方が、いかに子供の人権をないがしろにしているかということを再認識しました。
 条例案が「18歳未満の子供に、エロマンガが渡らないようにしようとしているだけ」というデマや、子供が性的虐待を受けているマンガが「コンビニに置かれている」というデマ。そして、世界から日本がロリコン大国視されているという印象操作については、多くのサイトが言及しているのでそちらにお任せするとして、私は以下の部分に注目したいと思います。

「子どもの性虐待を描いたポルノを、子どもが見てしまうことで起こる問題は、大きく二つあります。ひとつは、子どもが性的に搾取されている場面を露骨に描いた表現は、子どもという存在全体を貶めることになる。これは広い意味での人権侵害です。もうひとつは、それを見た子どもが、虐待や暴力を受け入れなくてはいけない、喜ばなくてはいけないと思いこむ、誤ったしつけ効果を招く恐れがある点です。」

 まず、前者の点についてですが、これはアグネスが冒頭で言っている「マンガやアニメなどの姿を借りたポルノ」を「18歳未満の子どもたちの手に渡らないようにしようとしているだけです。」という主張に反しています。「見てしまうことで起こる問題」といいつつ、実質的には「表現そのものが子どもという存在を貶めている」としている。これは都条例の本質が「児童ポルノの根絶に向けた気運の醸成」という文言に表れているのと同じ意味です。
 そして、本題は後者なのですが、アグネスは子供がセックスを喜ばなくてはならないと思い込むことを問題にしています。
 確かに、子供が不本意なセックスを受け入れざるを得ない状況は批判されなければなりません。しかし、それと同じように、子供が本意のセックスを受け入れて、喜ぶ状況は認められなければならないのです。

 性的同意年齢という言葉があります。これは性交の同意能力があると見なされる年齢のことです。日本においては刑法177条でこの年齢が規定されています。

(強姦)
第177条 暴行又は脅迫を用いて13歳以上の女子を姦淫した者は、強姦の罪とし、3年以上の有期懲役に処する。13歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする。

 つまり、13歳以上の女子であれば、性交の同意能力があると刑法的には見なされているわけです。(もちろん、各種条例等で、行政レベルでは(特に成人男性と)18歳未満とのセックスは、たとえ当事者間の合意があったとしても、条例違反と見なされるケースが多いわけですが。)
 13歳以上の女子が、好きな男性とのセックスを受け入れて幸せを感じる。それは人間の本質としての喜びであり、そのことに対して女子は決して否定的な感情を持つべきではないし、私たちはそれを否定するべきではありません。それを否定することは、13歳以上の女子が持つ、性的主体としての権利を抑圧してしまっているのです。
 本当に子供たちの人権を守りたいと考えるのであれば、「セックスをすれば傷つく」といった一方的なメッセージを投げ掛けるのではなく、まずは十分な性教育を義務教育の中に盛り込んでいくことを目指すべきです。

 また、もう一つ重要なことは、子供たちに「まっとうな権利意識」を教えることです。セックスの問題でいうなら、例え恋人であっても嫌なセックスは拒んでもいいと教えることです。こうしたことにより子供が性的被害に遭うことはもちろん、「デートレイプ」や「配偶者からのレイプ」といった被害を抑え、「性的描写の描かれたマンガやアニメを拒否する」権利を教えることができるでしょう。
 しかし、そうした権利意識を育むことは、子供自身が「望むセックスを受け入れる権利」や「性的描写のあるマンガやアニメを見る権利」を育むこととまったく同じことなのです。このどちらか片方を否定して、どちらか片方を受け入れるということはできません。

 私には、どうしてもアグネスが、子供たちの権利をないがしろにしているようにしか思えません。もちろん、アグネスだけではなく、規制賛成派の多くは、子供自身の権利よりも、親や権力者の権利ばかりに配慮しているように思えます。
 アグネスは記事中で「少なくとも、兄妹がひたすらセックスしたり、性的な虐待を受けたりしているマンガを、教育上いい効果が期待できるから進んで子どもに見せたいと思う親はいないと思います。」と述べていますが、それを読むか読まないかを最終的に判断する権利は子供にあるのです。アグネスがこの問題を「子供の権利」としてではなく、「親の教育権」の一環としてしか考えてないから、こういう言葉が出てくるのでしょう。
 このように、親の権利をもって、子供の権利を抑圧することは、「親が望まないから、性描写のあるマンガやアニメを見てはならない」という誤った意識を植え付ける可能性があります。それは同時に「親からの望まない性的虐待に反発できない」と、自らの権利を卑小化してしまう子供を生み出しかねません。子供の性的被害も、その多くは親や身近な大人によるものであり、親の権利を拡大し、子供の権利を抑圧することは非常に危険です。

 確かに「子供への性教育」や「子供の権利意識」に向けた教育というのは、いわゆる保守層から非常に評判が悪く、数々の妨害があることは理解できます。しかし、だからといってその矛先をマンガやアニメに向け、安直な性描写の批判に熱を上げるようでは、子供の人権を守ることはできません。むしろ現実の子供の問題から目をそらし、問題意識すら「仮想」に成り果ててしまうのではないでしょうか。



(14:55)

2010年04月11日

今回は都条例問題ではなく、ある記事の話。
「年収300万円なら十分“勝ち組”に? 給料の「無限デフレスパイラル」が始まった 」という、強烈なタイトルの記事が上がっていて、多くのニュースサイトからリンクが張られている。
 記事によると、全労働者の平均年収が300万円台を割ったのだという。

平成21年度の全勤労者の平均年収(賞与のぞく)は、前年比▲1.5%の294万5000円(平均年齢41.1歳、平均勤続年数11.4年)と、前年に続き300万円の大台を割った。

 だが、残念ながらこの記事は明確な誤りである。
 記事にある、厚生労働省の「賃金構造基本統計調査」を調べて見れば簡単に分かることだ。
 「平成21年賃金構造基本統計調査(全国)結果の概況」のサイトにある、「賃金の推移」というPDFに記された「第1表 性別賃金及び対前年増減率の推移」の平成21年をみればいい。
 確かに賃金の欄には「294.5」という数値があり、前年比は▲1.5%。平均年齢が41.1歳で、勤続年数が11.4年である。
 しかし、表の上の方に目を移すと、「賃金(千円)」と書かれている。つまり、この欄の「294.5」という数値は「294万5000円」を表すのではなく「29万4500円」を表しているのである。当然、29万4500円が平均「年収」のはずがない。
 そこで見なければならないのは、「主な用語の定義」というPDFである。ここにしっかりと「当概況に用いている「賃金」は、平成21年6月分の所定内給与額をいい、すべて平均所定内給与額である。」と書かれている。つまり、この数値は平均年収ではなく、「平均月収」29万4500円なのである。
 この月収に12を掛ければ、年収は当然300万を超える。さらにこの数値にはボーナスや残業代などが含まれていないことを考えれば、平均年収はもっと高くなるだろう。

 概要のPDFにもハッキリとこう書かれている。

I 一般労働者(短時間労働者以外の労働者)の賃金(月額)(注) 1 男女計は 294.5 千円(前年比 1.5%減)

 しょうもない間違いと言えばそれまでだが、この記事が配信され、それが提携先のサイトや、ニュースサイトなどに引用や転載をされ、それをエンドユーザーが鵜呑みにされてしまう。それによって年収200万弱のフリーターに対して「正社員だって平均300万切ってるんだ。文句を言うな。お前の生活が苦しいのは無駄遣いをしているからだろう」という、誤った批判をされてしまうかもしれない。こうした細かいニュースが賃金格差の実態を覆い隠し、格差の是正が立ち後れる可能性がある。
 身近にこの記事を信じている人がいるならば、是非とも火消しをお願いしたい。



(03:17)