料理・生活

2009年04月02日

玉コンニャクとゴボウとちくわの煮物を作ってみた。あんまりコンニャク、好きじゃないんだよな。
玉コンニャクとゴボウとちくわの煮物

前回更新した「生活ができるようになっちゃダメなのか?」という記事に、よく分からないはてブコメントがついているのですが……

blackseptember 『確かにフリーター時代よりは収入は増えたけど、それは私個人の努力の成果であり、至極当然の話です。』ばっかじゃねえの。どの口がそれを言うか。それ言ったら正社員の皆さんだって努力してるだろうがよ。

 んー、「正社員の皆さんだって努力してる」ということは、正社員の努力も私の努力と同等に認めろってことですよね。そして、私と同等の努力ということは、給料も私と同等でいいと。
 つまり、正社員の給料は、ギリギリ一人暮らしができる程度で十分ということです。要は「blackseptember」という人は、正社員の賃下げ要求をしているのですね、分かります。

 「フリーターだって努力をしている」というと、どうも「正社員の努力を認めていない」と勘違いする人がいるみたいですね。彼らの中では、正社員はフリーターの何十倍もの努力をしていることになっているようです。「フリーターなんかと一緒にするな」ということですね。
 しかし、私はフリーターも正社員も同じ位の努力をしていると思います。
 努力ということで、受け取る金額が決まると考えれば、フリーターも正社員も同程度の金額であるべきです。「努力を認めろ」という発言を理論通りに捉えるならば、給料の平旦化に行き着くと考えています。

 その努力の上に、「効率や成果」があって、実際の給料はそこで差がつきます。しかし、「正社員はフリーターより努力をしている」という人の「努力」の考え方は、なぜか効率や成果から逆算されるんですよね。
 つまり「努力をした上で、効率や成果の高さがある」という評価ではなく、「効率や成果が高い人は、努力をしている」という評価です。
 ところが、この逆算された努力で問題になるのは、いくら努力をしても、それが効率や成果に結びつかない人の努力が、全く認められないということですね。
 もちろん、どれだけ仕事を頑張っても、そもそも効率や成果を求められておらず、給料に反映されないフリーターの努力もそうなのですが、もっと問題なのは、いくら努力をしても健常者よりも絶対に作業効率が悪くなってしまう障がい者ですね。彼らの労働を効率成果で判断しようとすれば、確実に絶望的な収入しか得られないことになります。

 しかし、「努力」という言葉を本来の意味で用いて、効率や成果と切り離すことができるのであれば、努力を収入のベースとして考えることができます。そしてその努力は憲法上の「勤労の義務」を満たすものであると考えます。そして当然、国も憲法25条、生存権を満たす義務を負います。
 そして私の要求する「最低限度の生活」とは、ひとりの人間が、自分の望む地域で、普通に一人暮らしをできる程度の生活であり、おおよそ今の私の生活でしょう。風呂付きエアコン付きの1Kの部屋ぐらいには、憲法上住む権利があるべきです。
 というと「働けない人には、最低限度の生活を認めなくていいのか」と思う人もいるのでしょうが、努力というのは、あくまでも「当人ができる範囲で頑張る」ということに過ぎないので、ホームレスの人なんかは、生きていくこと自体を正社員と同程度の努力と認めていいのです。そもそも「努力が査定できる」と思っていること自体が間違いですので。

 誰かさんが「フリーターは障害者と同じ」と言ったようですが、別に正社員だって同じですよ。「労働者に対して、努力という最低限度の生活を認めた上で、効率成果分の格差を認める」という同じ評価軸を与えればいいだけの話でです。
 努力に関してはホームレスも、障がい者も、フリーターも、正社員も同じ。「会社」での仕事につかない主婦だって、引退した老人だって同じ。「誰だって自分が任された場で、生きるために努力をしている」それをベースにすればいいのです。

 つまり、「正社員の皆さんだって努力してるだろうがよ」の人は、立派な正社員様が、他の立場の人と、同じベースで査定されることが、気に入らないのでしょう。ようやく彼の主張が理解できました。



(06:52)

2009年02月05日

前回の料理写真が、ちょっと大きすぎたので、今回から小さくするよ。

 今日の料理のつくりかた。

タマネギとマッシュルームと牛肉
 1.牛、牛を使う。
 「主な具材は、タマネギとマッシュルームと牛肉です。牛肉には軽く小麦粉をまぶしてあります」

バターを溶かす
 2. 牛のお肉を、なんかね、味が付いてるの。味付けるの。
 「バターを溶かして、お肉に軽く火を通します」

材料を炒める
 3. なんかね、あんね、外できっと食べたら、食べた事があるはず。
 「タマネギとマッシュルームを投入します」

サワークリームブイヨンパセリ
 4. なんかね、味が濃いからね、あまり真耶の好みじゃない!!
 「デミグラスソースの写真を撮るのを忘れました。やっぱりサワークリームは欠かせませんね」

デミグラスソース投入
 5. あのねぇ、なんか、イメージ的にはテーブルとイスで、なんか、食べる様な感じでね。
「材料に火が通ったら、デミグラスソースを入れます」

ブイヨンを混ぜて、良く煮込みます
 6. つくるのはきっと焼いてると思われる。
「さらにブイヨンを投入。良く煮込みます」

ふたをしてさらに煮込む
 7. なんかきっとオーブンとかにも入って……。
「フタをして、弱火でじっくり煮込みます」

サワークリーム投入色がそれっぽくなりました
 8. あのさ、よくさ、映画とかの釜とかにも入ってるかもしんないなって感じ。
「サワークリームを投入したら、よく混ぜます。混ぜないと膜が張ります」

バターライス製作中出来上がり
 9. わかんない、あっ、でもあれかも、シチューっぽいかも。
「あったかいご飯にバターとパセリを混ぜ込んで、バターライスを作ります。ライスを盛ったら、周りにでき上がったビーフストロガノフをかけて、カレーっぽいのが完成!」

 ……ガス台のまわり、掃除しないとなー
(元ネタ詳細はこちら:とかち組@ネ実「おいしいビーフストロガノフの作り方」

「大人のカタリバ」行ってきた。
 なんか頭の中からすっかり抜け落ちていて、遅刻して行きました。
 着いたのは第一部の終了直前で、開場に入った通路に、「漂流フリーター」の岩淵さんがいらっしゃいました。挨拶をして名刺を渡して、すぐ客席に行ってしまったのですが、残り時間を考えれば第1部は放棄して、もう少し岩淵さんと話して、映画の感想とか伝えておけば良かったですね。ちょっと失敗したな。
 まぁ、このBlogを見ていただいたそうなので、それで伝わっているとは思います。

 で、ちょろっと1部を聞いて、休憩中に宮台さんに「太った?」とかいわれたりして、第2部。
 ちなみに、私は「そこで何が言われたか」を見て「誰が何を言ったか」は気にしない方なので、「誰が」は記載しません。

 「どうして政治家が老人にばかり目を向けて、若者に目を向けないかといえば、投票率が低くて票にならない、老人は政治の事をよく知っている」という発言があったけど、それは当たり前の話。
 票にならない人に政治家はすり寄らないというのはもちろんなんだけど、それ以上に年を取れば社会の仕組みに詳しくなるのは当たり前の話であって、若いうちにそれに気付かないのも当たり前のこと。
 若者が政治に関心がないのは当たり前なんだから、それでも世代によらず公平な政治を分配するにはどうするべきかと考えるべきであり、それが成熟した政治というものだろう。
 今の政治の問題を若者の投票のせいにするのは、逆ギレに過ぎない。

 あと、なんかやたらと「アメリカではオバマという素晴らしい大統領が登場した」みたいな事をちょくちょく言うんだよねー。まだなにも始まってないのに、そんなに翼賛してだいじょうぶか?
 ちなみに、その後にJCCastの録音をしてきたのだけれど、そのなかではオバマのES細胞研究に対する受容の姿勢などが、生命倫理の観点から問題にされました。「オバマだからオールオッケー」みたいな言いようは、会場の若者たちに、どう映ったでしょうか?
 「就任式でみんな小旗を振って応援していたのが素晴らしい」なんて言ってた人もいましたけど、ヒトラーだってたくさんの聴衆の熱狂的支持に囲まれて就任演説をしましたし、小泉元首相を散々ポピュリズムだなんだの言っておいて、それはないだろうと。

 あと、「意見がかみ合っていない」という壇上の若い人の意見に対して、文化人側の人が怒る場面があった。
 確かにディベートやってるんじゃないんだから、意見をかみ合わせる必要なんかなくて、それぞれの分野から見地を語って、それを各自が持ち帰って考えればいいというのはその通りだと思う。
 でも、1つ重要なのは、今回のテーマは「格差」で、その格差は昔のような「俺は軽自動車だけど、アイツは3ナンバー」みたいな格差ではなくて「俺は生活できない」という貧困レベルに至る格差であって、そのリスク負担はバブル崩壊後に社会に出た若者だけが負わされている。
 そうした状態で、この問題を語る「年長者」と「若者」が、同等の立場になど、なりうるはずがない。片や議論を先延ばしにすればするほど安泰な年長者、片や議論が延びればリスクだけが高まる若者。その両者の立場の違いは、ハッキリと自覚しておいて欲しいですね。

 今日はこんなもんで。
 阿佐ケ谷ロフトのイベントについては、また後日。



(01:35)

2009年01月28日

麻婆茄子を作った。

麻婆茄子とご飯

 市販の麻婆茄子の元だけでもいいんだけど、ちょっとオイスターソースと豆板醤を足して、辛めの味付けに。
 つか、使い切れなかった豚ひき肉が残ってたから作ったのだが、今度は茄子が余ってしまった。揚げびたしにでもしようかな。

『遭難フリーター』の試写会に行ってきた。
 で、作品を見ながら「大丈夫かなー」って思ってたの。
 何が大丈夫かって、この作品の立ち位置が、以下にも「底辺で転がっている若者に同情的な目を向けながら優越感に浸るサヨク」が大好きっぽい作品だったから。
 作中で岩淵さんの肩を叩きながら「お前は社会の奴隷なんだ」なんて、スーツという奴隷服を着ながら説教するオッサンがいたんだけど、あのオッサンはこういう映画が大好きだろうな。
 で、主題としては、刺激を求めるような「生き甲斐」や「働きがい」そして、「賃金」の問題あたりが軸になっているんだけれども、全体としては「生き甲斐」が主題になっていて、ラストも青春映画っぽい〆になっていた。
 だから、こういう映画でサヨクに持ち上げられて、「結局なにも岩淵さんが救われないような結果になったらやだなー」なんて思ってた。

 で、岩淵監督のティーチインがあって、その中で、今は派遣ではあるけれども、時給のいい仕事をしているから、仕事はつまらないけど、生活には多少の余裕があるらしい。そこで質問してみた。
「もし、今のつまらない仕事のまま、給料だけ上がって生活ができるようになるとするならば、今の仕事を続けることができますか?」と、こんな感じ。
 すると岩淵監督は、それならできると言っていました。その返答で、映画の中で生き甲斐というものにすがろうとしていた岩淵さんの姿は、あくまでも当時のものに過ぎないということが、よく分かりました。逆に言えば、生活が苦しいからこそ、生き甲斐にすがろうとしていたのかもしれません。
 社会運動で政治を動かせるとして、政府が国民に対して与えられるものは「お金」だけです。
 現在の偏った再配分を是正することによって、今苦しんでいる人の生活は激変します。
 しかし、政府は国民に「生き甲斐」を配ることはできないのですから、それを社会に求めてもムダなのです。生き甲斐は衣食住が保証された状況で、自ら社会の中で見つけだすものなのです。
 貧困問題は徹底して「金銭問題」であり、社会運動をもって生き甲斐を云々するような考え方はムダであり有害であると、私は考えています。
 実際、岩淵監督は映画内とは違い、極めて落ちついた好青年という印象でした。時給の高い派遣労働での賃金と、注目される映画監督という社会的立場が、彼にしっかりとした自尊心を与えているようです。

 また、他の質問の中で秋葉の事件の話がでましたが、そういう情報はシャットアウトしているそうです。
 岩淵監督は徹底して、自分のことだけを語り、非正規労働者の代表のような顔をするつもりはないようです。この様子であれば、岩淵監督がサヨクにいいように使われることはないでしょう。とても安心しました。
 まぁ逆に、映画だけを観ると、その辺を誤解しそうなんだけど。



(11:14)

2009年01月26日

最近、一人暮らしを始めた事は、もうアナウンスしたと思うけど、お金もギリギリなので自炊をいろいろとやっています。
 簡単な丼ものとかショウガ焼きとか作ってるんですが、こないだ作って大ヒットしたのが、手羽先。
 油で揚げて熱々の手羽先に、酒醤油みりん砂糖、そしておろしニンニクで作った調味液を付けて、塩コショウで味を整えてパクつくと、これが美味い。ビールが進む。でも、手がべったべたになるから、缶ビールを滑って落とさないように。
 火加減さえ間違えなければ、ホネの周りの肉がそもそも美味しいので、多分失敗しないはず。

どうやって書こうか迷ってきたんだけど、ゲバってきましたよ。
 試写会にご招待いただいたので、今公開中の「29歳の革命」はもちろん、31日から公開の、「39歳別れの手紙」も見てきました。
 で、感想なのですが、まぁネタバレ配慮はいらないですね、史実的にキューバ革命は成功し、ボリビアでは死ぬというのは明らかなわけですから。
 だから、「29歳の革命」は右肩上がりの物語で、「39歳別れの手紙」は右肩下がりの物語です。

 結論から言うと、ゲバラは自己責任ですよ。自己責任論。
 他人のために戦って、自己責任で死ぬわけです。
 革命に生き、革命に死ぬというのはカッコいいように見えるけど、要はゲバラはそういう生き方しかできなかったわけです。
 保身のための長期的な視野を持つより、目先の「成すべきこと」に命をかける。それが凄いかどうかは、私は判断を避けます。ゲバラはキューバ革命においては象徴的に扱われますが、別にゲバラがいなければ革命は成功しなかったというわけではないのですから。実際ボリビアでは革命に失敗してますので。
 革命がなにかと言えば、「反政府」という空気の醸成であって、そのための闘争は醸成のための道具でしかありません。私が「希望は戦争」を書いた時に「革命は目指さないのか」なんて言う人がいましたが、革命できるような空気があれば、俺があれを書いただけで自然発火するでしょうよ。そうじゃない以上、革命なんか目指しても意味がない。俺は戦いに生きるなんてことのできない俗物ですからね。

 まぁなんだ。俺は映画評論家じゃないから、娯楽ではない作品に対して、映画を語ろうとは思わない。娯楽なら「あのシーンが迫力があった」でいいんだろうけど。
 というわけで、「チェ」についてはあんまり語れません。

民主・平田議員「海賊は漫画で見たことあるがイメージがわかない。日本の船舶が襲撃を受けて被害を受けた事があったのか」

 現状すら把握していない、民主のアホ議員なんてどうでもいいんだけど、むしろ俺が思うのは、「なんで企業の船舶には自己責任論が適用されないの?」ってこと。
 海賊がもし「相手の船に乗り込んで、乗組員を斬り殺して積み荷を奪って船を沈める」ような連中だったら、これは退治しないといけない。
 けれども今の海賊は「乗組員を人質にとって、企業に対して金銭的要求をする」わけですよ。それは「公海」というルートをとる以上は、企業が負うべきリスクに過ぎないのです。
 リスクは商売の上での自己責任なのだから、企業が金を出して傭兵会社にでも護衛を頼めばいいはずなのです。
 というのが、昨今の自己責任論を演繹(用法あってる?)した場合に、本来社会が至るべき結論だと考えられます。私は自己責任論者ではないので、そんなことは思ってませんので念のため。

 ところが、上記スレの2ちゃんねらーの反応もそうなのですが、これだけ個人に対する自己責任論が大合唱される中で、企業に対しては自己責任の自の字も出てこないのです。
 ならば、海賊の件だって、どうして日本が海自を出す云々の話になるかといえば、実際に命の危機に去らされる乗組員の命を守るためではなく、身代金という企業の不利益を無くすために自衛隊を出せって話になっているのですよ。それは「人が襲われているのだから、守るのは当たり前」などという純粋な論理ではありません。
 そういうわけで、私はこうした反応に自己責任論のダブルスタンダードを見るわけです。



(07:33)