フランス語の勉強?

mars 2014

自転車の後輪反射プレート/地デジのテレビを買いました/Hidalgo

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140130_SakeHana_Saijo

Si je suis loin d'une personne proche, j'éprouve le désir qu'elle soit avec moi. Mais comment s'appelle ce sentiment ?
もし近しいひとから離れると,そのひとに一緒にいてもらいたいと感じる.でも,この感じはなんというのだろう.

去年9月に壊れてそのままにしていた自転車後輪の反射プレート.やっと直してもらいました.そういえばプレートが壊れて取れてしまったのは新大阪の近くです.
明日から消費税8%になるので慌てて地デジのテレビを買いました.ケーブルテレビで見ていたので,地デジ関係なかったんです.小さなブラウン管が大きなフラットディスプレイになって,よかったです.でもテレビは基本的にそんなに見ないのでどうかなぁ・・・という思いもありますが・・・

フランス地方選は左派の社会党が苦戦したようですが,パリではフェミニストで社会主義者のアンヌ・イダルゴさんが頑張ってくれました.初めての女性市長誕生です.

Hidalgo garde Paris à gauche
Libération
La socialiste emporte la capitale devant Nathalie Kosciusko-Morizet, qui ne conquiert qu'un arrondissement.

酒花通り???西条です.

透明な力を 第6部・原発避難(4)必死な親の姿 立て直す糧に

 長女ちひろ。次女ちさき。3女ちさと。
 3姉妹の名に共通する「ち」は「智」と「千」にちなむ。長女の「ひろ」は母の名から1字取った。次女の「さき」は花が「咲く」になぞらえた。3女は父の名の「賢」が「さと」と読むことから引いている。
 佐藤ちひろさん(18)、ちさきさん(16)、ちさとさん(15)は父賢二さん(42)、母博美さん(42)の間に生まれ、福島県飯舘村の自然に囲まれて育った。
 愛らしく元気に成長してほしい。
 親のささやかな願いは福島第1原発事故で打ち砕かれた。姉妹が15歳、13歳、12歳の時だった。
 一家は古里を追われ、父母は相馬市、長女はいわき市、次女と3女と祖母(69)は栃木県へと分散避難を強いられた。
 地元の農協に勤める両親は毎週末、子のいる栃木県に通う。車で3時間。金曜の夜中に来て日曜の夕に戻る。
 二重生活で親の体力が限界にきている。ちさとさんの目にはそう映る。
 母はやつれて目の周りがくぼんできた。こっちに来ても日中は横になっている時が多い。父もしんどそうだ。
 「毎週は来なくていいよ」と母に言った。
 「大丈夫、大丈夫」と受け流された。
 両親は仕事人間だった。村にいた時も帰宅はいつも子が寝た後。家族そろって食卓を囲むのは朝ご飯の時だけだ。家事と育児は祖母に任せきりだった。
 そんな両親が毎週欠かさずに子に会いに来るのは意外だった。子とのつながりを断つまいと必死になっているのだろう。
 「私たちも頑張るから、あんたも頑張りなさい」。母に何度も言われた。不慣れな避難生活でへこたれそうになると、思い出して気持ちを立て直す。
 避難先で母と車で出掛けた。沿道に栃木の農協の看板が立っている。「ここに就職しようかな」。母が冗談ぽく言った。
 「本当? こっちで暮らせるの?」。思わず前のめりになった。母は困った顔になり、それ以上しゃべらなくなった。
 2014年3月11日。栃木県の中学校を卒業した。原発事故から丸3年。結局、中学生活は全部こっちの学校で過ごした。
 両親は有給休暇を取って式に出てくれた。在校生の花道を抜けると、ハンカチで目頭を押さえる母の姿が見えた。
 伝えたいことがあり、親の所に駆け寄った。
 「無事卒業できました。ありがとうございました」


産経
【東日本大震災3年 第4部・都路のいま(中)】
医療・買い物一歩ずつ 続く帰還への模索

 おなじみの赤とオレンジの「7」マークが入った軽トラックが、かやぶき屋根の軒先に止まった。コンビニ最大手セブン−イレブンの移動販売車。東京電力福島第1原発事故による避難指示が来月1日に解除される福島県田村市の都路(みやこじ)地区を走り始めて半年になる。

 顔なじみの男性店員が荷台の扉を開けると、主婦の酒井ヤスさん(80)が「さあ、きょうは何にするかな」と棚をのぞき込んだ。生鮮野菜をはじめ、お茶や牛乳、雑貨など300種類の商品が並ぶ。スーパーと比べ割高な商品もあるが、地区の個人商店とあまり変わりはない。ヤスさんは「店員さんと話をする楽しみもある」と、ヨーグルトに手を伸ばした。

 都路の人々はかつて、買い物や医療、通勤通学など生活の大半を、車で15分ほどの道のりにある大熊町など太平洋岸の「浜通り」に頼っていた。だが、第1原発のある大熊町は無人の地と化した。移動販売車は復興庁や市がセブン−イレブン・ジャパンへ要請したもので、週1〜2回、100軒ほどを回っている。

 同社の伊藤裕之震災復興応援リーダー(55)は「口コミで広がっている。地域のためにできる限り続けていきたい」と語った。

「やれること何でも」

 住民が放射線への不安とともに心配しているのが生活環境の問題だ。

 買い物では移動販売車のほか、地元の鮮魚店や食品店など6店が品物を並べるプレハブの共同商業施設が来月6日、地区の2カ所にできる。今夏か秋には大手コンビニの出店も決まった。

 医療施設では、地区にある週5日の診療所に加え、地区から40分の市中心部に来月1日、週5日の夜間診療所が開業する。ただ薬局は原発事故で閉店したままとなっている。このほか、お年寄りがまとまって住めるようにと地区にある市営住宅の優先入居も始まる。1人暮らしの高齢者の帰還には、不安が伴うためだ。

 避難指示区域ではないものの、地区で暮らす市の渡辺清徳市民部長(57)は「コンビニは若い世代のイメージ向上にもつながる。生活環境の整備は『これをやれば帰還できる』というものではない。やれることは何でもやる。総合対策だと思う」と話す。

「右から左といかぬ」

 2年前、独自で出した避難指示を解除し、帰還を呼びかけた自治体がある。原発20〜30キロ圏にあり、事故収束拠点となった「Jヴィレッジ」がある広野町だ。

 平成23年3月11日の事故直後、全町民5490人に避難指示を出した。1年後の24年3月末に帰還を呼びかけ、当初は9カ月間での帰還完了を目指したが、今月20日時点で完全帰町は1392人。人口回復率は25%にとどまる。

 遠藤智町長(52)は「人口がなかなか回復しない一方で、原発事故の収束や除染の作業員が2600人ほど町内で生活している。町民以上に作業員が住んでいる状況なのに、町民が帰れない現実がある」と話す。

 町は主な理由に(1)放射線への不安(2)医療機関の未再開(3)生鮮食品・日用品店の未再開(4)JR常磐線の運行減少−を挙げる。町を歩くと、閉鎖された医院は事故収束に携わるゼネコンの事務所に変わっていた。歯科の青い看板がかかる平屋は電気工事会社に、町唯一のスーパーは原発関連企業の「福島第一事業所」になっていた。遠藤町長は言う。

 「除染が終われば、右から左へ帰還というものではない。一歩一歩の歩みの先に、復興があると思う」

 5月になれば、別の歯科医院が週1日だけ再開する。医師は避難先の福島市で開業しており、休診日に車で2時間かけて通う。

 人々は牛歩であっても、その先の希望にかける。



帰還と賠償

 政府は昨年末、住民の帰還を後押しするためとして、住宅の修繕や建て替えに必要な費用の追加賠償や、1年以内に戻った早期帰還者へ1人90万円を支払うことを決めた。一方、避難指示区域の住民へ支払われている精神的損害への1人月10万円の賠償は、避難指示の解除後、避難を続けていても1年で打ち切るとした。いずれも都路地区の住民が初の適用となる。


AFP
パリ初の女性市長にイダルゴ氏 仏地方選、左派与党は大敗

30日に行われたフランス地方選挙の決選投票で、パリ(Paris)市長選に出馬したスペイン生まれのアンヌ・イダルゴ(Anne Hidalgo)氏(54)が予想外の勝利を収め、同市初の女性市長となる見込みになった。一方、イダルゴ氏が所属しフランソワ・オランド(Francois Hollande)大統領が率いる左派与党・社会党は、他の地域では大敗し、極右政党・国民戦線(Front National、FN)が大躍進を果たした。

 イダルゴ氏は、中道右派野党・国民運動連合(UMP)の対立候補で元閣僚のナタリー・コシウスコモリゼ(Nathalie Kosciusko-Morizet)氏との接戦を予想されていたが、出口調査によると決選投票で54.5%を獲得。同氏の追い上げを楽にかわした。

 フェミニストで社会主義者のイダルゴ氏は、ベルトラン・ドラノエ(Bertrand Delanoe)現市長の第一助役を13年間務め、これまで表舞台に出ることはあまりなかった。

 1959年にスペイン南西部カディス(Cadiz)近郊で生まれ、幼少期にフランスに移住。リヨン(Lyon)郊外の労働者階級地域で育ち、14歳の時に仏国籍を取得した。労働監視官として働いた後、フランスの週35時間労働を立案したマルティヌ・オブリ(Martine Aubry)元労働相の顧問となった。社会党入党は比較的遅く30代半ばで、当時の社会党党首はリオネル・ジョスパン(Lionel Jospin)元首相だった。

 一方、初期開票結果によると、国民戦線は人口900人以上の町で行われた少なくとも11の選挙で勝利。全国の地方議会では計1200の議席を獲得する勢いで、地方選では同党史上最大の勝利を収めている。Angus MACKINNON

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午前中は雨/鹿児島ラーメン/夕方寝てしまいました

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oliva2

Donc pour chasser ces démons, il faut jeter des haricots ?
だから,その魔物を追いはらうために,豆をまかなきゃいけないんですね?
Ce matin, j'ai vu des masques de Oni dans les konbini !
けさ,コンビニで鬼のお面を見たんですよ!

午前中は雨でなんだかイヤな気分.お昼はテレビを見つつ,ラーメンを作りました.鹿児島で買ってもらった豚とろラーメンです.お腹がいっぱいになりましたがジムでトレーニングをしました.部屋に帰ってNHKラジオのストリーミングを聞いているうちに眠ってしまいました・・・

今日はパレスチナ土地の日です.具体的に何かができるわけではないのですが,イスラエルの非道な行為を忘れずにパレスチナのことを思っていようと思いました.

NHK
明日へ−支えあおう−選「消えないイタミをいやす〜震災から3年目の鎮魂劇〜」

去年11月、津波のまさにその瞬間を描いた舞台「祝/言」が上演された。演じるのは被災地の俳優たち。消えないイタミ、そして被災地の未来をどのように表現するのか?

去年11月、仙台で、津波のまさにその瞬間を描いた舞台「祝/言」が上演された。俳優やスタッフには被災者や被災地出身者が加わり、東京・北京・ソウルでも公演が行われた。「震災で受けた痛みは大きくなりこそすれ、消えることはない。人々の“消えないイタミ”を癒やすのが演劇の役割なのではないか…」。舞台では、命を落とした人たちの無念とともに、未来への希望も語られる。舞台「祝/言」の準備から公演までに密着する。
語り 中嶋朋子


NHK
震災3年 高校生が被災地に送るエール

AKB48の岩田華怜さんが愛媛の震災イベントに参加、「書道パフォーマンス」で被災地にエールを送る高校生と出会う。悩んだ末に書いた「言葉」、込められた思いとは。
出演者 岩田華怜,愛媛県立三島高等学校書道部,長野夢生


ラジオイラン
パレスチナの「土地の日」の由来

エマーディ解説員

3月30日のパレスチナの「土地の日」に際し、パレスチナ各地の他、中東や世界の一部の国々でデモが行われました。

世界各国では、毎年3月30日の土地の日に合わせ、パレスチナの虐げられた人々を支持し、シオニスト政権イスラエルの犯罪を非難するデモが行われています。では、この「土地の日」とは、一体どんな理由で制定されたのでしょうか? 

「土地の日」は、1976年3月30日のイスラエルの行動に由来します。イスラエル軍は、1976年、パレスチナ領土のおよそ1万9000キロを占領し、3月30日に行われたイスラエル軍に対する大規模なデモの中で、パレスチナ人6名が殉教しました。そのため、この日は「土地の日」とされ、1976年以来毎年、パレスチナ人は、世界中の自由な人々やパレスチナ人を支持する人々と共にデモを実施しています。

重要なのは、イスラエルが、この土地の日をはじめとする一部の日の反イスラエルデモを、他のデモ以上に恐れているということです。この日のデモを前に、イスラエル軍が厳戒態勢を敷くことが、この政権の恐怖心を物語っています。さらに、土地の日のデモには、イスラエルの高官の不安や恐怖を煽るような別の側面も存在します。

この日のデモは、世界の多くの場所で、特にイスラエルと緊密な関係を持つ国々でも行われています。例えば、イギリスでは昨年、土地の日に最大のデモが行われ、数千人が参加しましたが、イギリスはイスラエルと緊密な関係を持っており、この政権の誕生に大きな役割を果たしました。

このことから、土地の日は、世界中の自由を求める人々が、パレスチナの虐げられた人々と団結する日であると言えます。また、世界各地のデモ参加者は、イスラエルの大使館前などに集まり、反イスラエルのスローガンを叫び、パレスチナ領土に対するイスラエルの占領の終結を求めています。

また、世界の多くの場所での反イスラエル集会は、重要なメッセージを含んでおり、国際世論に、イスラエルによる人権侵害を明らかにしています。さらに現在の状況は、土地の日のデモの重要性を増大させています。パレスチナ人に対するイスラエルの暴力や占領が拡大する一方で、パレスチナは国連で、自治政府から国家に格上げされています。

最終的に言えるのは、土地の日の世界各地でのデモは、イスラエルの高官に苛立ちや怒りと共に、戸惑いという精神的な影響を与えているということなのです。


Wikipedia
Land Day

Land Day (Arabic: يوم الأرض‎, Yom al-Ard; Hebrew: יוֹם הַאֲדָמָה, Yom HaAdama), March 30, is an annual day of commemoration for Palestinians of the events of that date in 1976. In response to the Israeli government's announcement of a plan to expropriate thousands of dunams of land for security and settlement purposes, a general strike and marches were organized in Arab towns from the Galilee to the Negev. In the ensuing confrontations with the Israeli army and police, six unarmed Arab citizens were killed, about one hundred were wounded, and hundreds of others arrested.

Scholarship on the Israeli-Palestinian conflict recognizes Land Day as a pivotal event in the struggle over land and in the relationship of Arab citizens to the Israeli state and body politic. It is significant in that it was the first time since 1948 that Arabs in Israel organized a response to Israeli policies as a Palestinian national collective. An important annual day of commemoration in the Palestinian national political calendar ever since, it is marked not only by Arab citizens of Israel, but also by Palestinians all over the world.


Wikipédia
Journée de la Terre

Le 19 février 1976, le gouvernement israélien annonça sa décision de confisquer 25 000 dunums de terre en Galilée. Suite à cette décision, les Arabes d'Israël répliquèrent par la grève générale, suivant le mot d’ordre lancé par la Conférence Nationale pour la Défense des Terres Arabes (front constitué en septembre 1975, réunissant des villageois, maires et conseillers municipaux des principaux villages arabes, en Galilée et dans la région du Triangle, la seconde région de peuplement arabe en importance à l’intérieur d’Israël) avec les chefs traditionnels de la communauté druze et chefs tribaux des bédouins du Néguev. En dépit des pressions, des menaces et d'une campagne hostile menée par la presse israélienne, la grève eut lieu le 30 mars. La présence de l'armée israélienne transforma la grève en manifestation, puis en révolte. En même temps, les Palestiniens de Cisjordanie et Gaza se mirent en grève, en solidarité avec leurs frères, citoyens d'Israël. Bilan de la journée : 6 morts, une centaine de blessés et des centaines d'arrestations. Cette logique de confiscation des terres a conduit progressivement les Arabes israéliens à se découvrir, comme les autres palestiniens, victimes du même processus de dépossession qui ne se poursuit pas seulement dans les Territoires occupés mais en Israël même, en Galilée et au Neguev.

河北新報
透明な力を 第6部・原発避難(3)遠のいた故郷 近づいた夢

 言うとひんしゅくを買うから黙っていたけれども、佐藤ちさきさん(16)は、姉のちひろさん(18)と妹のちさとさん(15)が避難生活への適応に時間がかかっていることが正直、信じられなかった。
 福島第1原発事故で福島県飯舘村の家を追われた。仕事で地元に残った父(42)、母(42)と離れて妹、祖母(69)と栃木県那須塩原市に移り、現地の中学校に転校した。姉はいわき市の高専に進み、寮生活を送っている。
 姉と妹は真面目で人見知り。ともに部活動に打ち込み、新しい環境に慣れようと必死になっている。妹は剣道部。町道場にも通い、2年生でレギュラーの座を勝ち取った。

 自分は「楽天家でマイペース」と言われる。ぽっかり浮かんだ雲を祖母と見ていたら、「ちさきみたい」とからかわれたこともある。
 転校先では早々にクラスに溶け込んだ。部活動は妹と同じ。後じんを拝し、補欠の補欠に甘んじた。「楽しければいい」と、日曜も部活動に励む妹を横目に友達と繁華街に繰り出す。
 映画館。ゲームセンター。村にないから新鮮で、楽しんでいる。親と別々で寂しいといえば寂しいが、週末に会いに来てくれるし、身の回りの世話は祖母がしてくれる。
 ある日、妹から人間関係で相談を受けた。「よく分からない」と答えたら、それきりになった。
 親には「一番上と下は不慣れな環境に押しつぶされないかどうか心配。真ん中はもう少し落ち着いてくれないかと別の意味で心配」と言われる。
 小さいころから食に興味があった。何でももりもり食べた。母の焼くホットケーキに目がない。作るのも好きで、小学生の時に料理教室に通った。小学校の卒業文集に「夢はレストランのシェフ」と書いている。

 13年4月、宇都宮市にある高校の調理科に進学した。福島県には調理科がある高校はない。避難して開けた道だ。卒業と同時に調理師免許が取れる。
 「原発事故で避難生活を強いられたけれども、結果的に夢に近づいている気がする」
 今月14日。妹が同じ高校の普通科に入るのを機に、那須塩原市から宇都宮市に引っ越した。妹が卒業するまで3年間はここに腰を据える。
 避難でなくしたものは少なくない。家。友達。故郷の景色。だが、得たものも多い。
 祖母に耳打ちした。
 「お母さんには言わないでね。私、栃木に来てよかった」


産経
【東日本大震災3年 第4部・都路のいま(上)】
避難指示解除…8万人帰還の試金石

 東京電力福島第1原発から20キロ圏と、その周辺に広がる「避難指示区域」。そのなかの一角、福島県田村市都路(みやこじ)地区は原発事故による避難指示が来月1日、県内の11市町村で初めて解除される。人の住めなかった地域が再び脈動を始める。

 ペンチを握る手にも希望がこもる。都路地区に自宅がある溶接工、渡辺秀一さん(57)は、2月に降った大雪の重みで大きくへこんだ倉庫の修理を急いでいた。

 「3年ぶりに自分の田んぼで米が作れる。またここで暮らせる。本当にうれしいね」

 原発事故後、避難所など6カ所を転々とした。昨年8月、夜間も特別に地区内で滞在できる「特例宿泊」が認められてからは、週の半分を自宅で過ごすようになった。避難指示の解除を見据え、昨年9月には自宅の壁や天井などの修復を終えた。家具や家電製品といった家財道具も少しずつ自宅へ持ち帰っている。

 「お盆までには荷物を運び終えたい。90歳の母をできるだけ早く、住み慣れた家で落ち着いて生活させてやりたい」

 春からは、1ヘクタールの田畑で米や野菜作りも再開する。

 ■まず数十世帯…集まる注目

 みやこじ、という風雅な名前の由来は、市教委によると2説。一つは源平合戦の際、幼い安徳天皇が壇ノ浦へ身を投げず、平氏の落ち武者に守られてこの地へ落ち延びた伝説から。もう一つは地区を東西に走る国道288号がかつて、陸海路を通じて京の都との往還に使われたためという説。古老たちは「避難指示が解除される集落には、家紋が菊の家もある」と笑う。

 そんな山里は今、原発事故からの「住民帰還の試金石」として注目を集めている。都路地区を皮切りに、避難指示区域のある他の10市町村でも、政府は除染の完了といった環境が整い次第順次、解除の検討に入っていく。今回、避難指示が解除されるのは117世帯357人。彼らには、ふるさとを奪われたままの8万人の希望が託される。

 地区は比較的、放射線量の低い「避難指示解除準備区域」に指定され、線量は特例宿泊者へ貸し出した個人線量計15人分の実測値から、年間追加被曝線量で0・4〜1・6ミリシーベルトだった。内閣府は「除染の長期目標である1ミリシーベルトをおおむねクリアしており、問題なく生活できる」としている。

 当初戻るのは渡辺さんら特例宿泊の26世帯をはじめ、数十世帯とみられる。

 ■保護者、葛藤と決断と

 住民の帰還に合わせ、仮校舎だった小中3校も元の校舎で再開する。市教委によると、対象者174人のうち9割近い152人が通う。だが、その6割の91人は、自宅でなく避難先からスクールバスで通学する。

 市内の仮設住宅で暮らす元会社員、坪井秀幸さん(36)は9歳を頭に3歳、10カ月の3人の娘がいる。一時帰宅した際、子供が除染されていない場所の石を触ったことがあった。

 「放射性物質の危険性を理解できない小さな子供は口に入れてしまう恐れもある。子供を持つ親の目線で除染を見直してほしい」

 妻(38)と何度も話し合い、もう戻らないと決めた。長女は仮設住宅からスクールバスで通わせる。

 市教委は、バスの乗車時間が40〜50分になることから、途中でトイレ休憩を設ける。放射線への不安を少しでも取り除こうと、学校の線量モニタリングや、雨どいなどホットスポットの再除染を行っている。

 入学式は来月7日。市学校教育課の冨塚忠夫課長(56)はこう語った。

 「保護者もさまざまな葛藤の中で、子供を通わせる決断をしている。子供たちが帰れてよかったと思えるような学校づくりをしていきたい。避難指示が続く他の10市町村も皆、都路の行方を見つめている」

     ◇

 東日本大震災から3年を経て、被災地の課題を伝える連載。第4部は、原発事故から帰還する住民の姿を最前線の地から報告する。

 避難指示区域 政府は東京電力福島第1原発の20キロ圏とその周辺11市町村に避難指示区域を設定。対象は昨年末時点で2万8880世帯、8万942人。避難指示の解除について、政府は国際基準を踏まえ、個人の年間追加被曝線量20ミリシーベルト(毎時3・8マイクロシーベルト)以下を「必須の条件」としている。一方で、除染の長期目標は事故前の平常時と同じ1ミリシーベルト(毎時0・23マイクロシーベルト)以下を目指している。

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TPP学習会/クレジットカードがどこかに・・・

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140329_TPP_Ohno

On peut traduire cd mot par « démon », mais en fait, ils ressemblent plus à des ogres.
「魔物」ということばで訳せますけど,実際は人食い鬼のほうに似ていますね.

TPPの学習会で天満橋に行きました.「ほんまやばいでTPP」で講師は大野和興さん.ちょっと話が早い感じがしましたが,とても参考になりました.TPP反対運動をどれだけ大きくできるか??難しいところですが頑張ってみたいと思います.
140329_TPP_Paggie

学習会の終わりはパギやん.三里塚の歌(??).歌で学習会を終えるというのもいいですね.帰ろうとすると小雨.ただプリンタとクリーニングした上着を持って帰らればならないので疲れてしまいました.
どうにか部屋にたどり着いてプリンタの設定をして印刷できるようにしました.ちなみに朝は部屋にあった使っていないプリンタをリサイクルのお店に持っていきました.
ふと気がつくと,カードがありません.銀行のカードとクレジットカードがどこかに???ちょっと心配ですが,どうしようもありません.

毎日新聞
東日本大震災:被災者が集える場所を カフェの再開めざす

 東日本大震災で夫直基さん(当時53歳)を亡くした宮城県南三陸町の内海明美さん(42)が、カフェの再開をめざしている。震災翌年に避難所で知り合った被災者と最初のカフェを始め、被災者の交流の場になったが、道路用地になり今年1月に閉店せざるを得なかった。「被災者が『ただいま』と帰って来ることができる場所を作るまで、あきらめません」

 義理の両親、夫と自宅で被災。明美さんは義理の両親を連れて高台に逃げたが、町教委に勤める夫は役場に戻るため3人を見送った。4カ月後、浜辺で遺体が見つかった。明美さんは長男の大夢(ひろむ)さん(17)、長女の采己(あやな)さん(8)を含めた一家5人の大黒柱として働かなければならなくなった。

 2級建築士の資格を持っていたが、それを生かした仕事には抵抗があった。「前の人生に戻ることが怖かった。(直基さんを)失った悲しみを受け止める勇気がなかった」と振り返る。

 明美さんは、志津川高校の避難所で食事の準備など被災者の世話に携わった。「せっかく知り合ったのに、離ればなれになりたくない」。仮設住宅へ移動する人たちの言葉が心に残り、避難所仲間7人と被災者の居場所として「さんさカフェ」を2012年1月に開店させた。

 店では主に厨房(ちゅうぼう)で1日12時間働いた。「店に来る障害者の介助の仕方が分からない」と、仕事の合間を縫ってホームヘルパー2級の資格を取得した。あえて立ち止まらないように働いた。

 カフェには、たくさんの被災者が来てくれた。家族や親戚を亡くし、家や職場を失った人たちが、町の復興のために立ち上がっていた。被災者のために、と始めたカフェだったが、被災者と交流することで、少しずつ直基さんの死を受け止められるようになった。「頑張ろうかなと思えた。交流することでリハビリをさせてもらいました」。

 カフェの閉店後は、仮設住宅に暮らす被災者らに弁当を配達。改めて被災者らと交流することが生きがいだと感じている。「被災者が集まる場所は、まだ必要」。道路工事が遅れているため、4月中旬に一旦「さんさカフェ」の跡地で再開し、その上で近くに続けられる場所を探すつもりだ。【道下寛子】


毎日新聞
東日本大震災:震災の記憶、牧師ら絵本に 福島原発に最も近い教会「子どもに伝えたい」

 東京電力福島第1原発から約5キロにある福島第一聖書バプテスト教会(福島県大熊町)の牧師らが、東日本大震災の体験を基にした絵本を出版した。「子供たちに震災の記憶を伝えたい」と、原発事故前の穏やかな暮らしや過酷な避難生活、たくさんの温かい支援などを描いている。【樋口岳大】

 絵本は「くびわをはずしたパピ パピの東日本大震災」(自由国民社、税別1400円)。子供が親しめるようにと、佐藤彰牧師(57)の愛犬パピを主人公にした。

 同教会は「福島第1原発に最も近いキリスト教会」で、信徒ら約60人は原発事故直後、福島県会津若松市と山形県米沢市の教会に集団で避難した。2011年3月末から1年間は、東京都奥多摩町のキリスト教のキャンプ場で地元住民らの支援を受けて共同生活を送った。

 絵本では、原発事故前の教会周辺の四季の美しさや、避難先の体育館で布団もなく身を震わせる様子、多くの人から食料や衣料品などをもらった体験などが紹介されている。

 物語の中で主人公パピは避難の旅の末に死んでしまい、天国で2匹の犬とたわむれる。この2匹は、福島県富岡町の女性信徒(72)が避難したまま帰宅できず、死んでしまった犬たちがモデルだ。「自分だけが生き残って良かったのだろうか」と思うパピを、2匹は温かく迎える。

 文は佐藤牧師と妻ちえ子さん(56)が担当した。ちえ子さんは「震災で身内を亡くした人に、『あなたが幸せになることで亡くなった方も喜ばれる』ということを伝えたかった」と話す。

 絵を描いたのは副牧師の妻の佐藤涼子さん(39)。涼子さんは避難先の寒い体育館で当時1歳だった次女を自分のおなかの上に寝かせて温めた。教会は昨年5月、福島県いわき市内に新しく建てられ、信徒らは新たなスタートを切っている。涼子さんは「体験した者だからこそ描けるものがある。次女には震災の記憶はないけれど、絵本を通して伝えていきたい」と話す。

 絵本の問い合わせは自由国民社(03・6233・0781)。


河北新報
「鎮魂の丘」高さ7メートル以上 石巻・復興祈念公園

 東北地方整備局と宮城県、石巻市は28日、東日本大震災で被災した石巻市南浜地区に整備を目指す復興祈念公園の基本構想を策定した。同地区を襲った津波の高さを上回る「追悼と鎮魂の丘」を整備し、その麓に式典広場を設けることなどを明記。国は新年度、より詳細な基本計画を策定する。
 基本方針は「追悼と鎮魂の場の構築」「被災の実情と教訓を後世に伝承する」「復興の象徴の場としてのメッセージを国内外に発信する」「来訪者の安全を確保する」などとした。
 公園区域として検討されているのは48ヘクタール。「鎮魂の丘」は高さ7メートル以上とする方針で、「海を望み、津波の高さを実感できる適切な位置、高さで整備する」とした。市街地としての歴史や、震災後に出現した湿地などの周辺環境にも配慮することを記した。
 基本構想は、国が本年度設置した有識者委員会の議論や、意見公募手続きを踏まえて決定した。
 岩手、宮城両県に整備される国営復興祈念施設について、国は10日開いた復興推進会議で「2015年度に事業化予定、20年度末までをめどに整備」との目標を公表している。


朝日新聞
3年目へ「原発ノー」 首相官邸前で抗議

 東京・永田町の首相官邸前で金曜夜に脱原発を訴える抗議行動が始まって丸2年。28日も「原発回帰」を危ぶむ人たちが、「原発いらない」「再稼働反対」と声をあげた。

 抗議行動は民主党政権時代の2012年3月末に始まり、定着した。だが、安倍政権は民主党政権の「30年代に原発ゼロ」の方針を転換し、主催する首都圏反原発連合は危機感を募らせている。

 同連合によると、この日は国会前で抗議した人を含め、のべ約2200人が集まった。


朝日新聞
猪瀬氏の処分―これで幕は引けない

 政治とカネをめぐる重大な問題である。公開の法廷で真実を究明すべきではなかったか。

 徳洲会グループから5千万円を受けとった猪瀬前都知事に対し、東京簡裁がきのう罰金50万円を命じた。

 知事選を目前に控えた時期の金銭授受である。都議会や記者会見で猪瀬氏が繰り返してきた「選挙に関係ない」「個人的な借り入れ」という釈明では、およそ国民の理解は得られなかった。刑事処分は当然だろう。

 政治腐敗への不信を背景に、政治家のカネの流れの透明化が本格的に進んで20年になる。その後、政治家個人は企業献金を受けられず、政党だけに絞る法改正もされた。

 だが、政治家による企業からの「個人的な借り入れ」がまかり通るようでは、政治資金をただす制度は意味がなくなる。

 今週も、みんなの党の渡辺喜美代表に8億円を貸した、と化粧品大手の会長が明かした。

 こうして表沙汰になる闇のカネは、氷山の一角にすぎないとみるべきだろう。「個人的」という名目で政治につきまとうカネの横行を見過ごすことはできない。

 猪瀬氏に対し、書面審理の簡単な手続きで罰金刑が宣告されたのは、東京地検が略式起訴を選んだためだ。

 一応の刑事責任を問う処分ではあるが、事件の社会的な波紋を考えれば、あまりに中途半端ではないか。

 金銭授受が何であったのか、国民が公開審理で知る機会は失われた。

 授受の趣旨について、猪瀬氏と徳洲会側の主張には食い違いが大きかった。きのう会見した猪瀬氏は、これまでの釈明を修正し、「選挙に使う可能性があったのも事実」と認めた。

 それでもなお不明朗なことが多すぎる。

 徳洲会側は見返りに何を期待し、猪瀬氏はどんな形でこたえたのか。謝礼を受けた仲介役はどんな役割をしていたのか。そもそも、なぜ猪瀬氏は選挙前に見知らぬ人間とこんな関係を結ぶに至ったのか。

 裁判になれば、当事者たちが証言し、そうした問題がただされる可能性もあったはずだ。

 略式起訴は、容疑者の同意なしにはできない。猪瀬氏は有罪を認めることと引きかえに、自分のふるまいが精査される局面を免れた。

 本当に罪を認めるならば、やるべきことが残っている。自らが深みにはまった政治にまつわる利権の構造を、できる限り明らかにすることだ。

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メールデータのエクスポート/電子レンジをリサイクルに

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140112_Tamayu_ramen

Cette fête se déroule le 3 février chaque année pour célébrer le passage de l'hiver au printemps.

その祭りは,毎年2月3日におこなわれて,冬から春になることを祝う.

たまゆらーめんです.ラーメンはそんなに好きではないので買いませんでした.でもまた竹原に行きたいと思いました.鹿児島で買ってもらったラーメンがまだ余っています・・・

12時半という中途半端な時間から打ち合わせがあって,その後しばらくブツブツ.あっという間に時間が過ぎました.夕方はメールデータのエクスポートを試みました.時間がかかります.
部屋で使っていない電子レンジをリサイクルショップに持ち込みました.ジャマだからというのが正直なところでしたが意外にも結構な金額で買い取ってもらいました.

週刊朝日
“母ロス”に襲われる娘たち 40代以上の女性500人にアンケート

 お母さん−−。その呼び名を口にした途端、甘く懐かしい気持ちが心に広がっていくのを感じるだろう。しかし母との別れは、必ずやってくる。その悲しみはどれほど大きく深いのか。喪失感にさいなまれる“母ロス”が今、娘たちを襲う。

《あなたは大丈夫よ》
 えっ、お母さん? ドキッとして振り返った。仕事で落ち込んだ時、迷った時に母がよくかけてくれた言葉だった。でも、そこに母はいない。
 街で似た人を見かけたり、父のいる老人ホームのコーラスで似た歌声を耳にしたり。そのたび、都内在住の会社員Aさん(50)は涙がこみ上げる。
 肺炎で入院していた母は、東日本大震災の年に73歳で亡くなった。あれからもうすぐ3年になるが、悲しみは終わらない。
 医師の心臓マッサージを受けていた最期の場面を忘れられない。体の小さい母がいじめられているようで、「もうやめてくださいっ!」と叫んでしまった。母を殺したのは私だ−−そんな思いが拭えない。
 母の葬儀には150人以上の弔問客が参列した。専業主婦だったのに、なぜこんなに大勢? 遺品の整理をするうち、民生委員をしたりボランティア活動に励んだりしていたことや、ウクレレ・英会話・写真・コーラスなど幅広い趣味を楽しんでいた生前の姿が見えてきた。
 何も知らずに、都会で独身生活を謳歌していた自分に無性に腹が立った。仕事帰りの飲み会を断り、休日は誰とも会わず、母の写真に話しかける日々が続いた。
「人生でこんなに一つのことが頭から離れないことはありませんでした」
 親はいつか死ぬ。わかっていても、まさかその日がやってくるなんて−−。母親の死に直面し、“母ロス”に襲われる娘たちは多い。悲しみはどのぐらいの期間続くのか。
 今回、本誌が40代以上の女性500人に実施したウェブアンケートによると、半年後までに立ち直ったケースが4割強だった一方、3人に1人は「自分が死ぬまで続くと思う」と回答しており、精神的なダメージが長引くことがうかがえた。
 関西地方のフリーライターBさん(63)も“母ロス”真っただ中だ。肺がんだった母が86歳で息を引き取って1年弱になるが、今も仕事の依頼を断り続けている。働く気になれず、生きる気力がわかない。
 ほうれん草のごま和えに大根と厚揚げの煮物……。母がよくつくってくれた手料理を再現して泣く。家に遊びに来た時に着せたパジャマを目にするたびに「もういないんだ」とつらくなる。

 ■間をおいて現れることも
 母とは一時期、不仲だった。
 40歳で夫を亡くした母に「いい子」を強要され、人と違うことをしたり誰かを批判したりすることを禁じられた。大人になり、母に「文句一つ言えないように育てたあんたが悪い!」と怒りをぶつけた。Bさん自身が自分のがん発症を機に過呼吸症候群やパニック障害と診断され、母をさらに恨んだ。うまくいかないことは全部、母のせいにした。
 だが、ある取材をきっかけに、母を一人の人間として向き合った時、「何でもしてあげたい」と思えるようになった。過去の暴言を詫びるように旅行に誘い、毎週手料理を届けた。病状が進み、何も食べられなくなっても、母はBさんがつくった黄桃の寒天だけは食べた。その母は、もういない。
「私はいつまでも母に甘えていたかったのだと思う。“母ロス”の処方箋は『日にち薬』と自分に言い聞かせながら過ごしています」
 このように母の死がもたらす喪失感の大きさは、2人の関係の良し悪しにかかわらない面がある。さらに“母ロス”は時間をおいて現れることも。
 京都で会社を経営するCさん(45)もその一人だ。亡き母はいわゆる“毒親”で、自分が思い描いた通りの人生を娘に強いた。Cさんが若いころ結婚したくなかったのは「大嫌いな母が嬉しそうにしている姿を見たくないから」だった。母が認知症で施設に入った後も兄夫婦に世話を任せ、ほとんど顔を出さなかった。柩に入った亡骸を見ても何も感じなかった。だが一周忌を迎えるころ、会社へ行くのが億劫になり、生きる気力がわかなくなった。その原因が母親の死と気づいたのはつい最近で、没後3年が経過していた。
「いつも『母を困らせたい』の一心で、母を憎むことが私の存在理由だった。それを失い、どう生きていいかがわからなくなったんです」
 身近な人を喪失したことへのグリーフ(悲嘆)ケアの第一人者である、上智大学グリーフケア研究所特任所長の高木慶子さん(77)はこう言う。
「人間の苦しみや悲しみのほとんどが喪失体験によるものですが、母親の死は『何よりも大きい』とされている。親子関係の良し悪しにかかわらず、母親とは自分を安定させる存在。それがなくなる喪失感は、時に想像を上回るんです」
“母ロス”は死んだ直後にわき起こることが多いが、10年後、あるいは20年経ってから襲ってくる場合もあるという。さらに高木さんが指摘するのは、母との確執があった娘の喪失感の原因は、「被害者意識からくる罪悪感」ということだ。
 母娘関係のカウンセリングをする臨床心理士の信田さよ子さん(67)は、こう解説する。
「確執のある母親に対して『早く死んでくれたらいい』と願い、実際に亡くなって楽になる人も多いですが、それは『母に愛されていない』と実感した時点で母親を喪失しているから。憎しみを抱く一方で、自分のことをわかってほしいという期待が続くほど、また生前の関係が複雑であるほど、『○○すればよかった』という罪悪感は余計に強く出てきます」
 ちなみに、前出のCさんは母の死後しばらくして体に異変が現れた。アトピーでもないのに顔や体が赤くなり、かゆくなったのだ。原因はわからなかった。
 こうした体の変化も“母ロス”の表れと指摘するのは、遺児の支援活動などでグリーフケアに携わる一般社団法人「リヴオン」(※)代表の尾角光美さん(30)だ。19歳で母を失った直後、椎間板ヘルニアでしばらく動けなかった。
「大切な人を失った時、その影響は、精神面のほか、身体的・社会的な面にも出てきますが、どんな感情も反応も異常なものではないので、『自分はおかしい』と否定しないで大丈夫です。自分の思いに気づくことも喪失感を癒やすきっかけになります」
 躁鬱だった尾角さんの母は観音様のように優しいかと思えば、瞬時に般若の形相に変わり、「なんで生まれてきたんや!」と激しい怒りをぶつけてきた。
 父親が事業に失敗し、借金を抱えて家を出ていくと、母はさらに不安定に。「私なんていらないんだろう」「死にたい」と繰り返すようになった。
 尾角さんが「どうしたら生きていてくれる? 大学に行かずに働く?」と希望をきくと、「そんなことしなくていい」と母。だが次の日には「学校やめて働け」。その繰り返しから無力感が膨らんでいった。

 ■折に触れて入る「悲しみスイッチ」
 ある日、「散歩に行く」と言った母の背中に〈死にに行くんだ〉と直感した。
「でも私は母の手を離してしまった。死にに行こうとする母を止めませんでした」
 当時、自分が死ぬか、母が死ぬか、一緒に死ぬかという心境まで追い込まれていた、と尾角さん。
「親に否定されて生きていると、親に生きていてほしいと思えなくなる。私は自分の人生を生きたかった」
 2日後、公園のトイレで母が凍死体で発見された。自死だった。
「無感覚でした。まるで真空管の中にすっぽりと入ったような……。しばらくして、もうこれ以上苦しまなくていいという安堵も生まれました」
 だが、大学の友人の元に「母から荷物が届いた」と聞けば涙が出て、小さい子が母に甘える光景がうらやましかった。他界から11年経った今も、折に触れて“悲しみスイッチ”が入る。
「親の死への悲しみや苦しみは、人生の節目ごとに形を変えて生まれてきます。今はその悲しみを、そのまま大切にするように生きています。喪失感、怒り、憎しみ、罪悪感は、つながりの表れ。親の死とは卒業したり乗り越えたりするものではなく、ともに生きるものだと思う」
 今回のアンケートで“母ロス”に陥った際の悲しみの癒やし方や乗り越え方をたずねた。「墓参りをした」「パートナーに頼った」「気を紛らわせるために趣味などを始めた」「日記や手紙に書いた」といった具体的行動を起こした人がいる一方で、最も多かったのは「時が過ぎるのを待った」。
 こうして娘たちを苦しめる“母ロス”を長引かせないためにはどうすればいいのか。親が生きている間にどう向き合うべきなのだろうか。
「親は必ず先に死ぬ、喪失感は必ずやってくると覚悟を決めること。自分の母親がどんな人生選択をしてきたかを知ることも一つの方法です。そうやって母親と向き合い、『どう送るか』を考えておく。いずれにしても、母親の死は娘にとっては転機になるんです」(信田さん)
 冒頭で紹介したAさんは今、仕事のピンチを乗り越えるたび、母が支えてくれたと感じる。大好きな海に行くと、心の中で母と会話ができるという。以前、知人が同じようなことを言った時は、〈そう思いたいだけだ〉と聞き流していたが、今は「私がいてほしいと思う時には必ず母はそこにいてくれる」と信じている。
 Bさんは、母に一時期抱いた確執は、2人の関係に問題があったのではなく、自分自身の生き方がうまくいっていなかったせいと気づいた。
 尾角さんはこの正月、白味噌仕立ての雑煮をつくった。だし巻き卵には酒を入れた。数少ないながら懐かしい母の味だ。
「お米を洗った後、蛇口から水をちょろちょろと出しておくのも母の影響。母が大事にしていたことを自分も大事にすることが、今、私にできることです。母に感謝はできるようになったけど、好きにはなれない。でも小さなことを引き継ぐことで、母とのつながりを紡いでいる気がします」

 ■「母の日」の起源、亡き母を偲ぶ日
 亡き母を偲ぶことが「母の日」の起源と知って以降、尾角さんは毎年、母の日に亡母への手紙を募集して冊子にまとめている。11歳の子どもから90代の高齢者までが母への思いを綴る。
「書くことですっきりし、自分を大事にできるようになったという人もいます。必ずしも『ありがとう』と言わなくていい。母への思いの定期点検日という位置づけでいいと思います」
 生きていても、亡くなっても、母と娘は永遠の関係。カトリック修道女でもある前出の高木さんは、「生きている限り、人は誰かの送り人」と言う。
「ありのままの悲しみを受け入れ、泣きながらでも日常生活を送っていく。それで“母ロス”は癒えていきます」(ライター・松田亜子)
 <イラスト 和田慧子>
 ※尾角光美さんが代表を務める「リヴオン」は「母の日プロジェクト」として亡き母へのメッセージを募集中(4月10日まで)。http://okakuterumi.jugem.jp/

 ■「死んで終わり」じゃない、その母らしさ ノンフィクション作家・吉永みち子さん(64)
 子どもの頃、靴を買ってもらうことになり、母が好きそうな赤を選んだ。母を喜ばそうと新しい靴を履いてスキップし、「春よ来い」を歌った。すると母の顔から笑顔が消えた。いつもそうだった。突然、不機嫌になって私を全身で拒む。得体の知れない憎しみと怒りを感じ、不安だった。
 母はよく言った。
「優しい子は死んで、優しくない子は生きている」
 優しくない子が私だと何となくわかった。優しい子に負けないよう母の機嫌を損ねないことばかりを考えた。家の中で気を抜いたことも熟睡したこともない。
 母の日記で、私に異父姉がいたことを知った。昭和11年に母は未婚で姉を産み、世間の白い目と闘いながら育てたが、姉は7歳で病死した。その後、母は22歳上の父と結婚して私を産んだ。正式に結婚して人生をやり直し、世間を見返したかったのだろう。だから、私がちゃんとしていないと許さず、「優しい子=姉が生きていたら」と思ったのだ。
 それでも私はずっと母と離れられなかった。27歳で騎手の故・吉永正人と結婚した時は父の遺産も自分の預金通帳も母に渡し、経済的に困らないようにした。
 私が40歳のある日、母の家に行くと、大きな市松人形が「さちこ」と名付けられていた。亡き姉と同じだ。まだ姉がいいのか! 強烈に頭にきた。永遠の理想である姉にはかなわない−−思えば、あの時が、私が母を喪失した瞬間かもしれない。
 当時、私が日記に書き綴っていた望みは「母よりも一日も早く死ぬ」。私を大切な娘だと思い知らせたかった。だから私が42歳の時、母が旅先であっけなく死ぬと、「しまった!」と思った。
 私は大きな喪失感を抱いたと同時に、清々しい青空も見えた。これで葛藤や確執から解放される。しかし気づくと、私と母との関係は、私と子どもたちに連鎖していた。変に気を使い、距離のある家族になっていた。結局、私は母の影響を大きく受けている。母が死んでからも逃れられない。
 母を最後まで頑なにさせたのは、私のせいでもある。母の世話をしたのは愛情ではなく、そうしないと何を言われるかわからないからだ。そんな私に母も安心を感じられなかったはずだ。もっと感情でぶつかればよかった。親子はお互いが鏡なのだから。
 5年前、恐山のイタコを訪ねた。嘘でもいいから「いつも見守っている」という母の言葉を聞き、現世でのつらい関係に終止符を打ちたかった。あの世で穏やかに会えるようにと思った。だが、イタコに“降りてきた”らしい母は、「優しい子と優しくない子がいる」と、一番聞きたくない言葉を言った。別のイタコを訪ねると開口一番、「私も忙しいんですよ。どうぞ一人で生きていって」。私が望んだ優しい言葉は聞けなかった。やりきれなさを息子にぶつけると、「それ、お母さんが、おばあちゃんは“こう言うだろう”と思っていることだね」と言われた。
 ハッとした。母の姿は、私自身が作り上げていてそれとずっと格闘していたのかもしれない。
 母の死後、ベッドに入ると部屋のドアが開きっぱなしだったことがある。閉めに行くのが面倒で悶々としていると、すっとドアが動き、カチャッと閉まった。
 母だ、と思った。私は「ありがとね」とつぶやいた。母にお礼を言うのは初めてだった。生きている間に言えば良かった。
 没後20年以上経つが、今も気付かせられることがある。死んで終わりじゃないのが、母と娘なのかも。
     *
 よしなが・みちこ 1950年、埼玉県生まれ。85年に『気がつけば騎手の女房』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。コメンテーターや地方分権改革推進会議の委員などを歴任。

 ◇あなたの「母ロス」体験や生前のお母さんの思い出、記事への感想、ご意見などをお寄せください。〒104−8011 東京都中央区築地5−3−2 週刊朝日編集部「母ロス」係まで。ファクス(03−5541−8820)、電子メール(wa@asahi.com)でもどうぞ。

 ◆Q:お母さんが亡くなった悲しみはどのくらい続きましたか?
〜1カ月         14.1%
半年間          28.9%
3年間          17.8%
5年間           4.6%
10年以上         4.3%
自分が死ぬまで続くと想う 30.3%

 ◆Q:お母さんが亡くなった原因は?
がん       41.6%
心臓病       8.4%
脳の病気     13.1%
肺炎        9.5%
老衰       17.5%
交通事故      1.5%
交通事故以外の事故 1.5%
腎臓病       1.8%
自殺        2.2%
糖尿病       2.9%
 ※インターネット調査会社ミクシィ・リサーチの協力を得て、2014年3月に「母を亡くした40代以上の女性の意識調査」を実施し、回答を得た。


河北新報
津波で亡くした家族思い、手作りのドレス 気仙沼出身の女性

 「このサイズなら妹も着られるかな」「おばあちゃんに見せたかったな」−。東日本大震災の津波で祖母と妹を亡くした仙台市太白区の藤崎智子さん(22)が、服飾専門学校の卒業を記念し、ウエディングドレスを手作りした。肉親を奪われた悲しみから一時は退学を考えたが、服作りの夢を取り戻し、2人の姿を思って縫い上げた。

 ドレスは約150センチ。仙台市内で2〜3月に開かれた青葉区の仙台青葉服飾福祉専門学校の作品展に合わせ、約13メートルの紫色のサテン生地を裁断して縫い、6カ月かけて仕上げた。
 同校卒業生の斎藤美遙さん(20)=太白区=は「私ならやめてしまうような細かい作業に没頭していた」と話す。
 藤崎さんは震災当時、青葉区の学校寮にいて無事だったが、宮城県気仙沼市の実家にいた祖母妙子さん=当時(75)=と妹寛子さん=当時(16)=を津波で失った。
 2011年6月に休学し、難を逃れた両親と3人で気仙沼市の仮設住宅に移った。妹の同級生と会うたび「妹はここにいないのかとやりきれない思いになった」と打ち明ける。中学生のころからの服作りの夢を諦め、退学を考えた。
 失意の中、母千恵子さん(53)から「やりたいことをとことんやってほしい」と励まされた。
 千恵子さんは実家で妙子さん、寛子さんと一緒に津波に流され、1人だけ助かった。外出がままならないほど落ち込んでいた母からの一言。藤崎さんは「祖母と妹の分まで生きる」と誓い、12年4月に復学。太白区のアパートから通った。
 ドレス制作中、何度も祖母と妹の顔が浮かび、涙を浮かべながら一針一針に心を込めた。出来上がったドレスを着て記念に写真を撮り、千恵子さんに見せた。
 7日に卒業した藤崎さんは4月から青葉区の仙台三越で服飾販売員として働く。「おしゃれの喜びを多くの人に伝えたい。残された者として悔いのない人生を生きる」と誓った。


河北新報
袴田事件再審へ/償うため一刻も早い無罪を

 「重要証拠捏造(ねつぞう)」の疑いが司法の場で認定された以上、検察はもはやできるだけ早く再審公判を開かなければならない。
 最終的に無実を証明する場である再審公判をいたずらに遅らせるべきではない。迫られているのは、反省と償いのための行動になる。
 1966年に静岡市で起きた袴田事件をめぐり静岡地裁が27日、再審開始を決定した。地裁は同時に、強盗殺人罪などでいったん死刑が確定した袴田巌さん(78)の拘置停止も求め、即日釈放された。
 死刑判決の確定後、再審開始が決まったのは財田川(香川県)、免田(熊本県)、松山(宮城県)、島田(静岡県)、名張毒ぶどう酒(三重県)の各事件に続いて6人目になる。
 そのうち名張では、名古屋高裁の再審開始決定が後に覆されるという予想外の結果になったが、他の4人は再審で無罪になっている。
 静岡地裁は今回、死刑確定事件の再審請求審で初めて、拘置停止も決めた。あえて即時釈放に道を開いたのは、間違った判決を言い渡した司法としてのせめてもの反省の意の表れなのだろう。
 捜査から起訴、裁判に至るまで、人権や正義がないがしろにされたことを裏付けている。
 事件は1966年6月30日に起きた。当時の清水市にあったみそ製造会社の専務宅が全焼し、4人の遺体が発見された。従業員だった袴田さんがその年の8月、強盗殺人などの容疑で逮捕されている。
 袴田さんは初公判から無罪を主張し続けたが、捜査段階の自白調書や犯行時に着ていたという衣類が決め手とされ、80年に最高裁で死刑判決が確定した。
 翌81年の第1次再審請求は棄却されたが、2008年からの第2次再審請求で無実を示す「新証拠」が次々に明らかになった。
 犯行を認めたとされる自白は録音テープがあったが、専門家の分析で「収集された証拠を基に『体験』を構成」、つまりは誘導の結果だと判断された。
 さらに衣類に付着していた血液が、DNA鑑定で袴田さんと一致しないことも分かった。静岡地裁は今回の決定で捏造された疑いを指摘している。その通りなら、犯人をでっち上げたことに他ならない。
 早い段階から証拠としての価値を疑うことは可能だった。日弁連によると、自白調書は45通もあったが一審では44通が無効とされ、衣類も事件後1年以上たって「発見」されるという奇妙さだった。
 公正に予断なく事件を見つめれば、無罪はずっと昔に明らかになっていただろう。袴田事件には刑事司法の欠陥や不正が凝縮されていると言っていい。
 釈放した以上、一日も早く無罪を確定させて謝罪する必要がある。そして取り調べの録音・録画や、捜査で集めた証拠の全面開示などをできるだけ早く実行に移し、真剣に冤罪(えんざい)防止に取り組む姿勢を示すべきだ。


毎日新聞
袴田事件決定 直ちに再審を開始せよ

 捜査側の証拠捏造(ねつぞう)の疑いにまで踏み込んだ事実上の無罪認定だ。

 静岡県で1966年、一家4人が殺害された袴田事件で、静岡地裁が再審開始の決定を出した。袴田巌元被告(78)のこれ以上の拘置は「耐え難いほど正義に反する」との地裁の決定で、袴田元被告は逮捕から48年ぶりに釈放された。

 再審に費やした時間は、あまりに長すぎた。検察は決定に不服があれば高裁に即時抗告できる。だが、決定の内容や袴田元被告の年齢を考慮すれば、再審裁判をするか否かでこれ以上、時間をかけてはならない。速やかに再審裁判を開始すべきだ。

 再審の扉は、新証拠が提示されなければ開かれない。今回の第2次再審請求審では、確定判決で犯行時の着衣とされたシャツなど5点の衣類のDNA型鑑定が焦点となった。

 地裁は、「血痕が袴田元被告や被害者と一致しない」とした弁護側のDNA型鑑定を新証拠と認め、袴田元被告を犯人とするには合理的な疑いが残るとした。「疑わしきは被告人の利益に」の刑事裁判の原則が再審にも当てはまるとした最高裁の白鳥決定に沿った妥当な判断だ。

 決定は、5点の衣類が、事件から1年以上経過して発見されたことを「不自然だ」と指摘した。「後日捏造された疑いを生じさせる」として、捜査当局が、なりふり構わず証拠を捏造した疑いまで投げかけた。

 証拠の捏造があったとすれば許されない。確定裁判でも45通の自白調書のうち44通の任意性が否定され、証拠不採用になった。証拠が不十分な中、犯人視や自白の強要など不当捜査が行われた疑いが残る。静岡県警は捜査を徹底検証すべきだ。

 検察の責任も大きい。第2次再審請求審では、公判で未提出だった約600点の証拠が地裁の勧告を受けて新たに開示され、弁護側が確定判決との矛盾点などを突いた。

 裁判の遂行には、公正な証拠の開示が不可欠だ。東京電力女性社員殺害事件や布川事件など近年、再審無罪が確定した事件でも、検察の証拠開示の不十分さが指摘された。被告側に有利な証拠を検察が恣意(しい)的に出さないことを防ぐ証拠開示の制度やルールが必要だ。

 一連の再審請求審を振り返れば、裁判所も強く反省を迫られる。81年提起の第1次再審請求審は、最高裁で棄却されるまで27年を要した。自由を奪われ、死刑台と隣り合わせで過ごした袴田元被告の長い年月を思うと、迅速な裁判が実現できなかったことが悔やまれる。

 半世紀近い塀の扉を開けたのは最新のDNA型鑑定の成果だが、適正な刑事手続きや公正な証拠開示など国民に信頼される刑事司法の原点を改めて確認したい。


東京新聞
袴田事件再審決定 冤罪は国家の犯罪

 裁判所が自ら言及した通り、「耐え難いほど正義に反する状況」である。捏造(ねつぞう)された証拠で死刑判決が確定したのか。速やかに裁判をやり直すべきだ。

 事件発生から一年二カ月後に工場のみそタンクから見つかった血痕の付いた衣類五点は、確定判決が、袴田巌さんを犯人と認定する上で最も重視した証拠だった。

 その衣類について、今回の静岡地裁決定は「後日捏造された疑いがある」と述べた。

 検察庁も裁判所も証拠の捏造を見抜けないまま死刑を宣告していたのであろうか。
◆「こちらが犯行着衣」

 絶対にあってはならないことであるが、死刑を言い渡した当の裁判所が、その疑いが極めて高くなったと認めたのである。ただならぬ事態と言わざるを得ない。

 そもそも、起訴の段階で犯行着衣とされたのは、血痕と油の付着したパジャマだった。

 ところが、一審公判の中でパジャマに関する鑑定の信用性に疑いがもたれるや、問題の衣類五点がみそタンクの中から突然見つかり、検察官は「こちらが真の犯行着衣である」と主張を変更した。

 袴田さんは、公判では起訴内容を否認したが、捜査段階で四十五通の自白調書が作られていた。毎日十二時間以上に及んだという厳しい取り調べの末に追い込まれた自白で、その内容は、日替わりで変遷していた。

 一審判決は、そのうち四十四通を、信用性も任意性もないとして証拠から排斥したが、残り一通の検察官作成の自白調書だけを証拠として採用し、問題の衣類五点を犯行着衣と認定して死刑を言い渡した。判決はそのまま高裁、最高裁を経て一九八〇年に確定した。この間、どれほどの吟味がなされたのか。

 この確定判決をおかしいと考えていたのは、再審を請求した弁護側だけではなかった。
◆新証拠の開示が鍵に

 一審で死刑判決を書いた元裁判官の熊本典道さん(76)は二〇〇七年、「自白に疑問を抱き無罪を主張したが、裁判官三人の合議で死刑が決まった」と告白している。

 「評議の秘密」を破ることは裁判官の職業倫理に反する暴挙だと批判されたが、この一件で、袴田事件に対する市民の疑念も決定的に深まったのではないか。

 第二次再審請求審では、弁護団の開示請求を受けて、裁判所が検察側に幾度も証拠開示を勧告。静岡地検は、これまで法廷に提出していなかった五点の衣類の発見時のカラー写真、その衣類のズボンを販売した会社の役員の供述調書、取り調べの録音テープなど六百点の新証拠を開示した。その一部が再審の扉を開く鍵になった。

 これまでの再審請求事件では、捜査当局が集めた証拠の開示、非開示は検察の判断に委ねられたままで、言い換えれば、検察側は自分たちに都合のよい証拠しか出してこなかったともいえる。弁護側から見れば、隠されたことと同じだ。今回の請求審では、証拠開示の重要性があらためて証明されたといっていい。

 そもそもが、公権力が公費を使って集めた証拠である。真相解明には、検察側の手持ち証拠が全面開示されてしかるべきだろう。

 柔道二段で体格もよい被害者を襲う腕力があるのは、元プロボクサーの彼以外にない…。従業員だから給料支給日で現金があることを知っている…。袴田さんは、いわゆる見込み捜査で犯人に仕立てられた。一カ月余り尾行され、逮捕後は、時に水も与えられない取り調べで「自白」に追い込まれる。典型的な冤罪(えんざい)の構図である。無理な捜査は証拠捏造につながりやすい。

 冤罪であれば、警察、検察庁、裁判所、すべてが誤りを犯したことになる。真犯人を取り逃がした上、ぬれぎぬを着せられた人物の一生を破滅に追い込む。被害者側は真相を知り得ない。冤罪とは国家の犯罪である。

 市民の常識、良識を事実認定や量刑に反映させる裁判員裁判の時代にある。誤判につながるような制度の欠陥、弱点は皆無にする必要がある。
◆検察は即時抗告やめよ

 司法の判断が二転三転した名張毒ぶどう酒事件を含め、日弁連が再審請求を支援している重要事件だけでも袴田事件以外に八件。証拠開示を徹底するなら、有罪認定が揺らぐケースはほかにもあるのではないか。

 冤罪は、古い事件に限らない。今も起きうることは、やはり証拠捏造が明らかになった村木厚子さんの事件などが示している。

 袴田さんの拘置停止にまで踏み込んだ今決定は、地裁が無罪を確信したことを意味している。

 検察は即時抗告することなく、速やかに再審は開始されるべきである。

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机の移動・・・荷物を運びました/袴田事件 再審開始決定!!!

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- Shinkichi, ne t'inquiète pas. Une femme qui ramène chez elle un jeune gaillard quand son mari n'y est pas, forcément elle n'est pas bête ! Elle a dû garder le portefeuille sur elle. Hein, chéri, tu ne crois pas ?

新吉さん,心配するこたぁないよ.旦那の留守に若い男を引っ張り込むようなおかみさんだよ.ぬかりはないよ.紙入れはちゃんと取ってあると,私はそう思うね.ねぇ,あんた?
ミホとアンナのフラふら落語22より (荻野アンナ,小池美穂 監修 Vincent Brancourt)

刀痕はいずこ寺田屋宝柱 野風呂

机の移動です.鞄に荷物をいれ何度か移動しました.バランスランチの後に,「もう移動したの?」と聞かれましたが,進行中です.
袴田事件で再審開始決定がなされたということでとても嬉しいです.
事件の詳しいところはよく知らないのですが,袴田巌さんは無実なのでしょう.1日も早く無罪判決が出るようにと思いました.

河北新報
透明な力を 第6部・原発避難(1)親と離れ生活 我慢もう無理

 福島第1原発事故で、多くの子どもが古里での暮らしを奪われた。親と離れて避難生活を送る子どもも少なくない。家族離散に追い込まれた福島県飯舘村出身の姉妹3人にとっての原発事故、そして今をつづる。(震災と子ども取材班)

 両親は帽子を目深にかぶり、マスクをして出て行った。顔がこわばっているのが子どもの目にも見て取れた。
 2011年3月27日。佐藤ちさとさん(15)は避難先の栃木県那須塩原市の親戚宅から福島県飯舘村に帰る父(42)と母(42)を見送った。12歳で小6の時だった。
 原発事故直後で村は放射能の恐怖のただ中にあった。2日前に両親、2人の姉、祖母と避難してきたばかり。両親は勤め先の地元農協から帰還要請を受け、子を置いて引き返した。
 親ともう会えなくなるのではないか。不安が頭をよぎり、慌てて首を横に振ってかき消した。

 「原発20キロ圏内に避難指示」。事故翌日のテレビニュースを思い出す。
 家の勉強部屋で地図帳を開き、コンパスで20キロの円を引いた。家は外れていた。「セーフ」と胸をなで下ろす。放射線がその時、北西の風に乗って村に降り注いでいるとは知る由もなかった。
 4月、両親が子の元に一時戻った。今後を話し合う。長女は15歳で、いわき市の高専に進んで学生寮に入る。次女は13歳で中2。自分も中学進学を控えていた。
 村は避難区域に指定される。両親は仕事で地元を離れられず、相馬市に夫婦だけで生活拠点を置いた。ちさとさんは次女、祖母の3人で那須塩原市に残り、現地の学校に進むことになった。
 制服は卒業生のお下がり。ぶかぶかで手の甲が袖に隠れた。
 「どこから来たの?」。同級生に聞かれた。
 「飯舘村」。恐る恐る答えた。村の放射能汚染が連日報道されていた。
 「知らない」
 拍子抜けした。それだけ遠くに来たと思った。
 クラスにはなかなかなじめなかった。友達になってくれる子を探し、グループを転々とした。

 親戚宅にいつまでも厄介になれず、3人で市内のアパートに移った。月3万5000円の2Kだった。
 両親は毎週末にやって来た。1週間分の会話を2日間に詰め込んだ。
 長女の夏休みに合わせて、久々に全員がアパートにそろった。「お姉ちゃんがいわきに行ってせいせいする」。強がる元気は残っていた。
 狭い家で、寝ても覚めても祖母と姉と顔を突き合わせる。ストレスが募り、何でもないことで姉とけんかした。顔を合わせたくない時も同じ部屋にいるしかなかった。
 12年4月。避難生活は1年を過ぎた。感情を抑えられなくなり、便箋にぶつけた。
 <毎日イヤなことばっかで、学校では1人で過ごす時間が多いんだ。1人でいる時間は寂しい>
 宛先は一番上の姉。強がる余裕はもうなかった。


朝日新聞
袴田事件の再審開始決定、釈放へ 証拠「捏造の疑い」

 1966年に静岡県の一家4人が殺害、放火された「袴田事件」で死刑が確定した元プロボクサー袴田巌(いわお)死刑囚(78)=東京拘置所在監=の第2次再審請求審で、静岡地裁(村山浩昭裁判長)は27日、再審開始を認める決定をした。村山裁判長は「捜査機関が重要な証拠を捏造(ねつぞう)した疑いがあり、犯人と認めるには合理的疑いが残る」と判断。「拘置の続行は耐え難いほど正義に反する」と刑の執行停止(釈放)も決めた。

 死刑囚の再審開始決定は免田、財田川、松山、島田の無罪確定4事件と、後に覆された2005年の名張毒ブドウ酒事件の名古屋高裁決定に次いで6件目。

 静岡地検の西谷隆次席検事は「予想外の決定。上級庁と協議して速やかに対応する」と語った。刑の執行停止に対しては即日、不服申し立てをする方針。再審開始の判断については、不服申し立てを28日以降に行う方向とみられる。

 事件は66年6月30日に発生。同年8月、みそ工場従業員だった袴田元被告が強盗殺人や放火などの容疑で逮捕され、捜査段階で犯行を認める自白調書が作られたが、公判では一貫して否認。静岡地裁は68年9月、自白調書1通と間接証拠から元被告の犯行と断定して死刑を宣告し、80年11月に最高裁で確定した。

 08年4月に始まった第2次再審請求の最大の争点は、犯行時の着衣の一つとされる白半袖シャツに付いていた血痕のDNA型鑑定だった。確定判決は、シャツの右肩についた血痕の血液型が同じB型だとして、元被告のものと認定。第1次再審請求でもDNA型鑑定が行われたが、「鑑定不能」だった。

 第2次請求で再鑑定された結果、検察、弁護側双方の鑑定ともシャツの血と元被告のDNA型が「一致しない」とする結果が出た。検察側は「鑑定したDNAが劣化しており、汚染された可能性がある」と主張。弁護側と鑑定結果の信用性を巡って争っていた。

 この日の静岡地裁決定は弁護側鑑定について、「検査方法に再現性もあり、より信頼性の高い方法を用いている」と指摘。「検察側主張によっても信用性は失われない」と判断した。そのうえで、犯行時に元被告が着ていたとされる着衣は「後日捏造された疑いがぬぐえない」と指摘。DNA型鑑定の証拠が過去の裁判で提出されていれば、「死刑囚が有罪との判断に到達しなかった」と述べ、刑事訴訟法上の「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」にあたると結論づけた。

 さらに「捏造された疑いがある重要な証拠で有罪とされ、極めて長期間死刑の恐怖の下で身柄拘束されてきた」として、「再審を開始する以上、死刑の執行停止は当然」とも指摘した。

 事件では起訴から1年後の一審公判中、現場近くのみそ工場のタンクから血染めの白半袖シャツやズボンなどが見つかり、検察側は犯行時の着衣を、パジャマから変更。静岡地裁判決は自白偏重の捜査を批判し、45通のうち44通の自白調書を違法な取り調べによるものとして証拠排除したが、5点の衣類を始めとする間接証拠類と自白調書1通で、死刑を選択した。

     ◇

 〈袴田事件〉 1966年6月30日未明、静岡県清水市(現・静岡市清水区)のみそ製造会社専務(当時41)宅から出火。焼け跡から専務、妻(同39)、次女(同17)、長男(同14)の遺体が見つかった。全員、胸や背中に多数の刺し傷があった。県警は同年8月、従業員の袴田巌元被告(同30)を強盗殺人などの疑いで逮捕。一審で死刑判決を書いた熊本典道・元裁判官は2007年、「捜査段階での自白に疑問を抱き、無罪を主張したが、裁判官3人の合議で死刑が決まった」と評議の経緯を明かし、再審開始を求めていた。


朝日新聞
輪島功一さんも再審喜ぶ 「やった。最後のゴングだ」

 午前10時過ぎ、静岡地裁前。「再審開始」と書かれた布が掲げられると、詰めかけた数百人の支援者から「やったー」「よし」と歓声があがった。

 1967年に茨城県で起きた強盗殺人事件「布川事件」で再審無罪が確定した杉山卓男さん(67)は「自分のことを思い出し、2倍の喜びを感じた。まだまだ日本の裁判所も捨てたもんじゃないと思った」。東京拘置所で袴田元被告と過ごした経験を振り返り、「その時から無実だと思っていた。拘置所から出てきたら、一緒に酒を飲もうと言ってあげたい」と話した。

 同じく「布川事件」で再審無罪が確定した桜井昌司さん(67)は「自分のことよりもうれしい。家族も大変だったと思う。本当に良かった」と目を潤ませた。

 元被告を支援し続けてきたボクシング元世界王者の輪島功一さん(70)は「やったという感じ。15ラウンド最後のゴングだ。釈放されたら、一番いい席でボクシングを見てほしい」。

 97年に起きた東京電力女性社員殺害事件で再審無罪となったゴビンダ・プラサド・マイナリさん(47)もカトマンズ市内の自宅から支援者を通じ、「真実は必ず勝つ。警察、検察の誤りがまた明らかになりました。袴田さんをすぐに出して欲しい。日本に行けるなら袴田さんを励ましてあげたい」と談話を寄せた。


朝日新聞
袴田死刑囚の姉ら拘置所到着 「どうしても会いたい」

 静岡地裁の再審開始決定を受け、袴田巌死刑囚(78)の姉ひで子さん(81)が27日午後3時ごろ、支援者らとともに、袴田死刑囚がいる東京・小菅の東京拘置所に到着した。ひで子さんは「ただ、ただ、うれしいだけです。巌の拘置を一日も早く解いてあげたい」と改めて喜びを語った。

 袴田元被告は精神を病んでおり、ひで子さんが毎月面会に出向いても、会えない状態が3年半続いている。ひで子さんは「いつもなら、会いたくないと言われたらすぐに帰るんですが、今日はどうしても会いたい。いい知らせがあるからどうしても出てこいと言って、頑張るつもりです」と話した。

 最初にかけてあげたい言葉は何かと聞かれると、「本人が分からなくても、『元気か?再審開始になった』と言ってみようと思います」と答えた。


毎日新聞
袴田事件:再審決定 48年、重い扉開く/待ち続け、姉歓喜(その1) 「真実への第一歩」

 決定的証拠とされた「5点の衣類」の“呪縛”を解いたのは、執念でたぐり寄せたDNA型鑑定の新証拠だった。袴田(はかまだ)巌(いわお)死刑囚(78)と姉弟2人で再審入り口にたどり着いた姉秀子さん(81)は「真実が明らかになる第一歩だ」と弁護団、支援者と歓喜に沸いた。無実を訴えて半世紀近く。重い扉が開かれようとしている。【平塚雄太、樋口淳也、山本佳孝】

 27日午前10時過ぎ、静岡地裁の玄関から駆け出した弁護団の白山聖浩(たかひろ)弁護士が息せき切って「再審開始」の垂れ幕を掲げた。待ち望んだ4文字に、緊張した表情で待つ約100人の支援者らは「ワーッ」とどよめいた。雲の切れ間から日差しが届く。すかさず、大きな拍手が湧き起こった。

 決定文受け取りの際はこわ張った表情だった秀子さんは、決定を受けて笑顔が広がった。弁護団の西嶋勝彦団長は、支援者を前にかぶっていた帽子を高く掲げて振った。

 2人は静岡市内で記者会見。拘置停止決定に検察側が抗告などを検討していることに触れ「拘置所から出すよう強く申し入れる。場合によっては法相にも申し入れる」と反発した。

 これまでの主張を大筋で認めた決定については「長い審理だったが、新証拠も丁寧に評価してくれた」と評価。さらに地裁が捏造(ねつぞう)の疑いにまで踏み込んだことから、「今からでも遅くはない。捏造に関わった人は名乗りを上げ真相解明に協力してほしい」と呼びかけた。さらに「事件で4人殺された。真犯人を取り逃がし、被害者も翻弄(ほんろう)しているようなものだ。身柄拘束の手法と決別すべきだ」と県警や検察を厳しく批判した。

 逮捕から約48年。秀子さんは「やっと自由になれると巌に声をかけてやりたい」と、時折声を震わせて喜びをかみしめた。ただ、袴田死刑囚の健康状態については「(死刑執行のストレスを抱えた独房生活で)まともでいろという方が無理」と気遣った。

 地裁前には強盗殺人事件「布川事件」で再審無罪が確定した杉山卓男さんも駆け付け、「まっとうな判断。袴田さんとは拘置所で話したことがある。『無罪になる』と確信しながら有罪になったので、早く再会したい」と高揚した気持ちを抑えきれない様子。

 袴田死刑囚はかつてプロボクサーだった。ボクシング元世界王者、輪島功一さんは「後楽園ホールで袴田さんに早くボクシングを見せたい。今までの苦労を解消してあげたい」と拘束が続く袴田死刑囚をねぎらった。

 東京電力女性社員殺害事件で再審無罪が確定したゴビンダ・プラサド・マイナリさんは支援者を通じ「正義は最後に必ず勝つ。警察、検察の不正が明らかになった。袴田さんがすぐ出てこられないのは残念だ」とメッセージを寄せた。
 ◇「そっとして」現場周辺住民−−静岡

 静岡市清水区の事件現場周辺は、清水港のふ頭にほど近い。街並みは当時とほとんど変わっていない。

 全焼した被害者宅の消火に消防団員として加わった男性(74)は「そっとしておいてほしい」。事件翌日から刑事に何度も不審者の心当たりを聞かれたという近所の男性(74)は「一家4人が殺された恐ろしい事件。白黒付けてほしい」と話した。

 今も区内で暮らす遺族の60代の女性は「裁判はもう終わった。何も話すことはない」と言葉少なで、袴田死刑囚については固く口を閉ざした。【荒木涼子】
 ◇法務・検察に動揺 「衝撃、非常に厳しい」

 静岡地裁の決定に、法務・検察幹部には動揺が広がった。幹部の一人は「再審請求審の段階から『大丈夫なのか』との声も検察内部ではあった」と明かす。東京電力女性社員殺害事件の再審無罪などを踏まえ「鑑定(技術)が進み、裁判所の再審のハードルが低くなっていると感じる」と話した。また、「証拠の捏造(ねつぞう)の疑い」とまで言及されたことについて、ある幹部は「衝撃だ。検察にとって非常に厳しい決定内容だ」と戸惑いを隠さなかった。

 また別の幹部は「かなり厳しい決定内容に驚いている。死刑だけでなく、拘置の停止まで命じた決定はあまり聞いたことがない。法務・検察としては、死刑囚の身柄の問題にも対応しなければならず、慎重かつ早急な判断が必要となる」と話した。【島田信幸、近松仁太郎】

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 ◇袴田事件と再審請求の経過

1966年 6月 みそ製造会社専務宅が全焼、一家4人の遺体見つかる

      8月 静岡県警が袴田死刑囚を強盗殺人、放火などの容疑で逮捕

      9月 否認から一転、容疑を認める

     11月 静岡地裁の初公判で起訴内容を否認

  67年 8月 みそ工場内タンクから、血の付いた「5点の衣類」見つかる

  68年 9月 静岡地裁で死刑判決。5点の衣類を犯行時の着衣と認定

  76年 5月 東京高裁が控訴棄却

  80年11月 最高裁が上告を棄却し死刑が確定

  81年 4月 静岡地裁に第1次再審請求

     11月 日弁連が再審請求の支援を開始

  94年 8月 静岡地裁が請求を棄却

2004年 8月 東京高裁が即時抗告棄却

  07年 3月 1審担当の熊本典道・元裁判官が「無罪心証あった」と証言

  08年 3月 最高裁で再審請求棄却が確定

      4月 静岡地裁に第2次再審請求

  11年 8月 5点の衣類の血痕が返り血かどうかDNA型再鑑定の実施決定

     12月 弁護側鑑定人は「被害者のDNA型と不一致」、検察側鑑定人「一部一致の可能性排除できず」

  13年11月 「袴田は事件直後、社員寮に」と確定判決と違う供述判明

     12月 村山裁判長らの意見聴取を袴田死刑囚が拒否

  14年 3月 静岡地裁が再審開始を決定


毎日新聞
袴田事件:再審決定 48年、重い扉開く/待ち続け、姉歓喜(その2止) 獄中で闘う弟支え

 「顔さえ見られればね」。袴田巌死刑囚の78歳の誕生日だった今月10日、東京拘置所を訪れた姉秀子さん(81)は、ポツリとつぶやいた。独房生活が40年以上も続く弟は認知症の疑いがあり、3年半前から面会拒否が続く。それでも、月1回の訪問は欠かさない。【荒木涼子】

 この日、秀子さんは「拘置所の生活が少しでも明るくなれば」と、生花を差し入れた。誕生日の祝いの言葉は直接掛けられなかったが、拘置所の係官から朗報がもたらされた。「氏名、生年月日、年齢を正確に答え、問いかけにも応じる。会わせたいくらい元気」。糖尿病治療でインスリンを投与し食事量も制限されているが、精神状態は安定しているという。

 3年前は名前も書けない状態で、奇行も目立つとの説明を受けていた。「巌も闘っているんだと思う。自分の名前を言えたと聞き、症状が回復していると思いたい」。少し胸をなで下ろした。

 秀子さんが1人で暮らす浜松市内のマンションには、押し入れの衣類ケースいっぱいに袴田死刑囚からの手紙1000通以上が保管されている。1991年以降、返信が途切れるようになっても、「『へのへのもへじ』でもいいから何かよこしな」と手紙を出し続けている。

 第2次請求の決定を前に、改めて便箋を1枚ずつ見返した。30歳で逮捕された後、人生の大半を「無実の訴え」に費やした弟。死刑執行におびえて精神に変調を来した心の叫びが聞こえてきた。「帰っておいで」。6人きょうだいで2人だけとなった姉弟で暮らす日を信じ、マンションの一部屋を空け待っている。
 ◇冤罪被害者たち「よく頑張った」

 再審無罪を勝ち取った冤罪(えんざい)被害者たちからは、決定を評価する声が相次いだ。布川事件で再審無罪が確定した桜井昌司さん(67)は「本当に良かった。再審では証拠の捏造(ねつぞう)がなぜ行われたかということも追及してほしい」と喜んだ。足利事件で再審無罪となった菅家利和さん(67)は「無実なのに刑務所生活に耐え、よく頑張った」と話した。【佐久間一輝】
 ◇1審判決「死刑」、悔やむ元裁判官

 1審・静岡地裁で死刑の判決文を書いた元裁判官、熊本典道(のりみち)さん(76)は「公判で袴田さんが『やっていません』と言った姿が忘れられない。思い出すと涙が出る」と、今でも悔やみ続けている。

 真っすぐに裁判長を見て受け答えする袴田死刑囚の様子や、任意性に乏しい供述調書などを通じ、「有罪認定は難しい」と思っていた。だが、結審後に判決文を検討する中で、結果的に先輩判事に押し切られた、と振り返る。

 半年後、耐えられず退官し、弁護士に転じた。「自分は他の裁判官を説得できなかった。償いをしたい」と訴えた。【荒木涼子】
 ◇再審請求89人 長期拘束も

 袴田死刑囚が1審で死刑判決を受けたのは1968年9月。「死刑囚として世界で最も長く収監された」とギネス記録に認定されるなど、長期間の拘束が問題となっている。超党派国会議員の「救援議連」(会長、塩谷立・元文部科学相)は今月18日、死刑の執行停止を求める決議を採択した。

 法務省によると、今月25日現在、国内の確定死刑囚は131人で、うち89人が再審を請求中だ。市民団体「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」によると、確定後30年以上経過しているのは袴田死刑囚を含め計4人いる。【荒木涼子】


毎日新聞
原発地下水放出 対策本番はこれからだ

 東京電力福島第1原発事故の汚染水対策で、原子炉建屋に流れ込む前の地下水をくみ上げて海に流す「地下水バイパス」計画を福島県漁連が容認した。対策を一歩前進させるためには、汚染前の地下水放出はやむを得ない措置だ。しかし、計画を容認した漁業者の間には東電への不信が根強く残っている。政府と東電は漁業者の苦渋の決断を受け止め、国内外への情報公開の徹底や風評被害対策に努めてもらいたい。

 福島第1原発の敷地では、山側から海側に1日1000トンの地下水が流れている。このうち400トンが建屋内に流入し、溶融した核燃料に触れて汚染水となっている。

 計画では建屋流入前の地下水を12本の井戸でくみ上げる。タンクに一時保管し、放射性物質濃度が目標値を下回ることを確認後に海に流す。汚染水の発生量を1日最大100トン削減できるという。目標値は法令基準値の約5分の1で、周辺河川と同程度だと東電は説明している。

 地下水バイパスの設備は昨春完成した。漁連が地下水バイパスの容認に踏み切れなかったのは、福島第1原発で汚染水漏れなどが相次ぎ、東電の運用能力を信頼できなかったからだ。福島県沖では、本格的な漁業再開に向けた試験操業が続く。漁連側が目標値の順守と第三者による監視、風評被害による損害の賠償などを政府や東電に求めたのは当然だ。

 地下水バイパスが始まっても、汚染水がたまり続ける状況に変わりはない。対策本番はこれからだ。

 東電は回収した汚染水を敷地内のタンクで保管中で、2015年度末までに80万トンの容量確保を目指して増設を急ぐが、貯蔵量は既に40万トンを超えた。先月もタンクから約100トンの汚染水漏れを起こすなど、東電の安全管理体制には疑問符が付いたままで、体質改善は急務だ。

 今後の主要な汚染水対策は、トリチウム以外の放射性物質を取り除く多核種除去装置「ALPS(アルプス)」と原子炉建屋周囲の地盤を凍らせて地下水の流入を止める「凍土遮水壁」だ。しかし、アルプスはトラブル続きで本格稼働が見通せない。アルプスが稼働してもトリチウムを含む水は残る。海洋放出も検討されているが、漁業者などの同意に加え、国際社会の理解が欠かせない。凍土遮水壁完成は15年度だ。

 東電は福島第1原発の廃炉・汚染水対策を担当する部門を4月に社内分社化する。原発メーカーなどからも人材を招き、「オールジャパン体制」で臨むという。東電の最優先課題は廃炉・汚染水対策であり、政府も前面に出て取り組む必要がある。

 地下水バイパスの確実な実施をその第一歩とすべきだ。

朝日新聞
(担当記者が選ぶ注目の論点)震災3年の意味を問う

 1年でも2年でもなく、3年。東日本大震災の発生から経た月日の意味を探る論考が目立った。

 阿部晃成、三浦友幸、山本隆の座談会「何が『復興』をさまたげているか」(世界4月号)は、被災地で支援活動を進める3人が話し合った。仮設住宅の住宅環境、水産業や林業など地元産業の現実など、現場で直面する課題に触れたうえで「『復興』という言葉に何をイメージしているかが一人ひとり違う」(阿部)、「あきらめなくてはいけないこともけっこうあると思う」(山本)、「新しい何かが生まれているという手ごたえは確かにありますね」(三浦)と、切実な言葉が続いた。

 DAYS JAPAN3月号は、「3年目の福島」を特集。広河隆一による、トラウマケアの専門家宮地尚子へのインタビュー「子どものトラウマと支援者の支援」では、「共感疲労」など支援者側に蓄積するストレスの問題を指摘した。開沼博「『フクシマ』の現実(リアリティ)」(kotoba15号)は、原発についての議論で、頻繁に言及される再生可能エネルギー拡大論を巡って、なぜ福島で拡大していく必要があるのかという「思想」を語り続ける重要性を説いた。経済的な合理性にとどまらない議論の必要性を指摘した。

 緊迫するウクライナ情勢については、「ウクライナ危機は新冷戦の序章か」(ニューズウィーク日本版3月4日号)「ウクライナをめぐる新冷戦」(同3月11日号)など、冷戦を鍵言葉にした論考が数多く掲載された。国内政治については、砂原庸介「橋下『大阪都構想』に立ちはだかる地方自治の壁」(中央公論4月号)が、「出直し選挙」となった市長選を題材に、地方議会の選挙制度がうまく「民意」を問えない仕組みになっていることを指摘した。


福島民報
震災3年【記録庫拠点】「観光地化」はどうか

 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の記録や教訓を後世に伝える「アーカイブ(記録庫)拠点施設」建設への動きが本格化してきた。県は基本構想をまとめた。政府の研究会で提案し、実現を国に働き掛ける。「3・11」から3年が過ぎ、記憶や関心の「風化」が懸念される。惨状や県民の苦しみを伝えるとともに、県土の復興、再生にも役立つ施設が急務だ。
 構想は施設整備の基本理念に、災害に至った歴史や復興の記録・教訓などの「未来への継承」「世界との共有」を掲げた。機能としてゝ録、資料の収集・保存調査・研究情報発信・展示ざ軌蕁Ω鯲・人材育成―を挙げた。
 浜通り地方の経済復興に向けた政府の「福島・国際研究産業都市構想」に盛り込みたい考えだ。構想を策定する都市構想研究会に提案する。
 本県は地震、津波、原発事故という過去に経験のない複合災害に見舞われた。特に事故の爪痕は大きく、拠点施設の主軸となろう。ただ、目に見えない放射線の被害や住民の不安を伝えるのは難しい。原発への評価も分かれる。他原発の再稼働に前のめりな政府の対応が注目される。
 研究会には、内堀雅雄副知事や渡辺利綱双葉地方町村会長(大熊町長)ら本県関係者が参加している。県民の思いをしっかり主張し、施設の中身に反映させてほしい。
 内外の知恵や力も生かしたい。提言書「福島第一原発観光地化計画」(ゲンロン刊)が昨年11月発刊された。原発跡地と周辺を〈観光客に開放し、だれもが見ることのできる、見たいと思う場所にする〉方策を示す。作家東浩紀さんを編者に、県人を含む研究者や建築家らが2036年までを見据え、多様な意見やアイデアを寄せている。
 〈2020年の東京五輪に合わせてJヴィレッジで復興博開催〉〈モニュメント「ツナミの塔」の設置〉〈復興博会場跡に原発事故博物館や復興農業館を建設〉〈バスで廃炉作業を見学〉〈ガイドの制度化〉などだ。いずれも一考に値する内容だろう。
 原爆に関する広島市平和記念資料館や神戸市の阪神・淡路大震災記念・人と防災未来センターなどの厄災関連施設は教育、研修旅行などの訪問先としてにぎわっている。本県などでも既に「被災地ツアー」が自主的に催され、県外への情報発信の大きな力になっているという。
 「観光地化」に抵抗を感じる向きもいよう。言葉自体は、風化対策の糸口として受け止めていいのではないか。幅広い議論を望む。(鈴木 久)


安倍政権10の大罪 (佐高信の政経外科 16)
佐高 信 毎日新聞社 2014-01-25
アベノミクスというニセ札の発行/消費税増税,法人税減税のアベコベ/”安倍の秘密を守る法”の強行採決/御用作家らによるNHK支配/アメリカに屈服してTPP参加/屈辱の「主権回復の日」を祝う”琉球処分”/オリンピック参加のための”福島処分”/朝鮮学校の「無償化」を拒む罪/九六条改変等の改憲志向/壊れたブレーキの公明党を共犯者に/番外の特別大罪--靖国神社公式参拝


1970
阿久悠 、社会現象を創った男(鈴木耕)
田中美津と榎本美沙子(田中優子)
検定官を萎縮させた家永三郎(高嶋伸欣)
現代人の「まつり」に爆発させた岡本太郎(北村 肇)
「あしたのジョー」が渡った1970年という橋(田沢竜次)
1970/1971
三島由紀夫と高橋和巳(鈴木邦男)
1971
ニクソンショック(山田厚史)
日活ロマンポルノ(寺脇 研)
『二十歳の原点』と高野悦子(成澤宗男)
司法の右旋回を狙った青法協攻撃(宇都宮健児)
1971/1975
昭和天皇裕仁の二つの「海外訪問」(天野恵一)
1972
連合赤軍事件(雨宮処凛)
沖縄不在の「復帰」に異を唱えた屋良朝苗(平良亀之介)
田中角栄と越山会に挑んだ「たった一人の闘い」(桜井善作)
1973
『神田川』と過ぎ去った季節の追憶(成澤宗男)
川本輝夫と水俣(緒方正人)
1974
セブン-イレブンから始まった利便性の果てに(斎藤貴男)
つかこうへい演劇の衝撃(横内謙介)
「共創協定」を仲介した国民作家・松本清張(辻井 喬)
“狼"大道寺将司と東アジア反日武装戦線(宇賀神寿一)
1975
時代を疾走した青春の「べ平連」(吉岡 忍)
1976/1979
「人間解放」をめぐる交錯 村上龍と村上春樹(池田雄一)
1977
山田太一「岸辺のアルバム」と崩壊家庭を立て直そうとする者(佐高 信)
1978/1979
蜷川・美濃部・黒田革新知事と「TOKYO作戦」(村上恭介)

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ヤル気がないです/Wordファイルを保存し損ねました・・・

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Melos1

- Ah, il n'a pas choisi le bon moment ! Quoi ? Et en t'enfuyant, t'as oublié le portefeuille ? T'es vraiment bête ! ... C'est Dieu qui t'a puni ...
「なんだ,間の悪い時に帰ってくる旦那だな.なに,逃げるときに紙入れを忘れた?お前もドジだな.天罰だよ.」
ミホとアンナのフラふら落語22より (荻野アンナ,小池美穂 監修 Vincent Brancourt)

昨日は仕事頑張れたのですが,今日はヤル気ないです.ヤル気スイッチ見つけてほしいなぁ・・・
でも仕事はしなくてはなりません.Wordで報告書を書いたのですが,保存に失敗してしまいました.今日の努力が無駄になってしまいましたが仕方ありません.

朝日新聞
ネットで全国のラジオ聴取可能に ラジコ、4月から開始

 パソコンやスマートフォンでもラジオを聞けるサービス「ラジコ」が、4月1日から、各局ごとに限定されていた配信地域を全国に拡大させることになった。配信中の全国のラジオ番組がインターネット経由で聴取可能になる。電波による放送地域が限定されているラジオ放送の仕組みにも影響を与える新しい取り組みだ。

 ラジコは難聴取地域の解消や若い世代にラジオに親しんでもらうことなどを目的に、2010年3月に試験配信を開始。これまで配信地域は放送電波の受信地域に限定されていたが、エリアを超えた番組を聞きたいという声が多く寄せられて新サービスの実現に至ったという。文化放送など民放ラジオ60局の番組を全国で聞けるようになる。月額350円。

 東日本大震災の発生時には、被災者への情報提供を理由に関東・関西地区など19局の番組をエリア制限を一部解除して配信した。今後も大規模災害の際には時限的に全国へ無料配信することを検討している。

 ラジコは、放送局の増加や配信設備に力を入れてきたが、新しいラジオの楽しみ方を提案し、サービス向上を推進する段階に移行するという。


河北新報
女川復興へ希望の一歩 JR駅舎と温泉併設施設の安全祈願祭

 宮城県女川町が東日本大震災からの復興で中心市街地のシンボルと位置付けるJR女川駅の新駅舎と、併設する町営温泉「女川温泉ゆぽっぽ」の工事安全祈願祭が25日、同町女川浜の建設予定地であった。休止中のJR石巻線浦宿−女川間の運行再開が予定されている2015年3月の開業を目指す。

 震災前は隣接していた駅舎とゆぽっぽの併設施設は、従来より約150メートル内陸寄りに移設。かさ上げした土地に町が建設し、駅舎部分をJRに有償貸与する。
 線路用地もかさ上げし、4月1日に町からJR東日本に引き渡し後、敷設工事に入る。ルート変更で浦宿−女川間は約2.4キロと約200メートル短くなる。
 併設施設は3階で、延べ床面積約900平方メートル。1階が駅、2階がゆぽっぽ、3階が展望フロアとなる。設計は世界的建築家の坂(ばん)茂さん(56)が担った。施設から女川港にかけてプロムナードを整備し、周囲に商業エリアを形成する。
 安全祈願祭後のあいさつで須田善明町長は「立ち入り禁止の中心部造成エリアで、最初に建てられる大型建築物。出来上がっていく様子は住民の心に希望をともし、町を訪れる人にとっても大きな一歩になる」と述べた。
 JR仙台支社の西野史尚支社長は「被災した地域を元に戻すだけでなく、より良いものにしようとする町に応えるため、一体となって取り組みたい」と語った。


河北新報
福島県漁連 バイパス容認苦渋の決断 汚染水減量未知数

 福島第1原発の汚染水問題で、福島県漁連が25日、地下水バイパス計画にゴーサインを出した。風評被害のリスク拡大と汚染水の増加をてんびんに掛けた末の苦渋の決断。汚染水減量効果は未知数で、浜は新たな火種を抱えることになった。

 「漁に出られるのはうれしいが、地下水バイパスは迷惑だ。新たな問題が起きないか不安だ」
 いわき市四倉の漁業佐藤芳紀さん(55)は25日朝、4年ぶりのコウナゴ漁で約170キロを水揚げしたが表情は晴れない。
 昨年7月、汚染水の海洋流出が発覚し、9月に予定していたいわき市沖のシラス漁は中止に追い込まれた。市内の海水浴客も激減した。
 東電は汚染水流出を否定し続けた末、参院選終了直後に海洋流出を認めた。「東電は信用できない」と佐藤さんは語気を強める。
 25日の県漁連組合長会議で、いわき市漁協の矢吹正一組合長は「風評被害で漁業者は命取りになるかもしれない。なぜ大臣が来ないのか」とかみついた。
 東電不信を深める漁業者にとって、国が頼みの綱だ。安倍晋三首相は「国が前面に出る」と言いながら漁協への説明を東電や官僚に任せてきた。矢吹組合長の怒りが漁業者の思いを代弁していた。
 国の試算では原発建屋地下に流れ込む1日400トンの地下水のうち、バイパス計画で減らせるのは10〜110トンと幅がある。減量効果がほとんどないまま海洋放出が続く可能性も否定できない。
 地上タンクからの汚染水漏れや汚染水処理工程のトラブルで、漁業者の不安は増幅されている。県漁連が突き付けた排出基準の順守など5項目の要求は守られるのか。東電、国の対応を見詰める浜の視線は厳しい。


北海道新聞
大間原発の建設差し止め議案可決 函館市議会、提訴条件満たす

 【函館】電源開発(東京)が青森県大間町に建設中の大間原発をめぐり、函館市議会は26日、国と同社に建設の差し止めなどを求める訴訟の可否を問う議案を全会一致で可決した。市は4月3日に東京地裁に提訴する方針で、自治体が国に原発差し止め訴訟を起こす初のケースとなる。

 議決の際、市議30人のうち2人が「訴訟という手段はなじまない」などとして退席した。このうち1人は北電労組出身の議員。

 訴訟費用391万円を計上した2014年度一般会計補正予算案も可決した。工藤寿樹市長は定例市議会閉会のあいさつの中で、「多くの議員がまちを思い、市民を思う強い気持ちで決断された勇気と行動に敬意を表する」と述べた。

 自治体による提訴には地方自治法で議会の出席議員の過半数の賛成による議決が必要で、この日の可決で提訴への条件を満たした。

 函館市は津軽海峡を挟み大間原発と最短で23キロにあり、工藤市長は「事故が起きれば主要産業の水産業、観光業が壊滅的打撃を受ける」とし、原発建設の同意手続きを立地自治体と同様に踏むべきだと訴えていた。

 市の訴状要旨では、大間原発の設置許可申請時に用いられた安全設計審査指針や、原子力規制委員会が策定した新規制基準では「安全性は確保されない」と主張。原発周辺に活断層がある可能性やテロ対策の不備も指摘している。電源開発は6日の大間町議会で、完成後の稼働に向け、規制基準を満たすかどうかの審査を今秋にも原子力規制委に申請すると表明している。

入門書にして議論の書 By きよし
「釈迦の仏教」を説いた本。大乗仏教から派生した「日本の仏教」は、釈迦の教えとは違うが著者の基本。単なる「仏教入門」の書ではない。
 しかし、「仏教」の基本を知るには分かりいい。「初転法輪」「一切皆苦」「四諦」「八正道」。それらをうまく説明した上で、「釈迦の仏教」の最大特徴と目標を示す。
特徴=「外の力に頼らず、あくまでも自分の力で道を切り開くという点」。
目標=「永久に到達できない目標に向かって、一歩でも近づけるよう努力し続けること」
以上が第一章「生きることは苦である」。

第2章は「恨みから離れる」。「釈迦の仏教」の特異性が説かれていく。「この世で起こっているものごとの正しい姿とは何か。それはすなわち、『すべてうつろう』ということ」=「諸行無常」。このことを正しく認識することが「釈迦の仏教」の要という(54頁)。

 そして第3章で「諸法無我」を説き、「諸行無常」との二つが「世界を正しく見るための羅針盤」とした(72頁)。「この世に『私』という絶対的存在など、どこにもない」が「諸法無我」の意。ここの「行」は「原因と結果の因果関係によってこの世に生れ出るすべてのもの」のことという。このあたりは難解。

 さらに第4章「正しいものの見方」のはじめに、「釈迦の仏教」の最大特徴は「自己鍛錬システム」だと規定している。あくまでも超越的な存在によらず「自己改良」で解決していくと考えるのだとする。その目指すところは「涅槃寂静」。確かにブッダはそうであった。その原点に立つべく努力しようという。
 著者は、アメリカに「ナイトスタンド・ブディスト」と呼ばれる人々がいるという。普通に働き暮らしながら、夜に部屋を暗くして瞑想、「涅槃寂静」を目指す人びとがいるらしい。すでに推定300万人と言われていると。そう紹介し、「今後は『仏法僧』ではなく、『仏法』だけの仏教、『個の仏教』が広がる可能性が高いと私は思っています」と(108頁)。これはいかがかと評者は考える。著者は、「僧」は「サンガ」で「修行のための組織」だと書いていた(86頁)。それが無くてもいいと考えるのは勇み足ではないか。「個の仏教」は、人と人とが結ばれて生かし生かされるという関連性を無視してしまうだろう。それでいいのかという問題がある。

 しかし著者は、幾つもの仏教があっていい、選択肢を知っていることが大事だとも書いている(115頁)。やや混乱した記述ではあるが、テレビ番組を制作する過程の、収録した映像を編集する段階で生じた混乱を整理し切れていないのかもと思う。

 そうした評者が傷と思う箇所がありながらも、伝統的な「日本の仏教」への対抗軸を提出した努力には敬意を表したい。
また、巻末の認知脳科学者・藤田一郎との対談で提出した仏教と科学の関連性という問題は、評者には難解ながら、これから問われ続けることだろうと思わせてくれた。



NHK「100分de名著」ブックス 般若心経
佐々木 閑 NHK出版 2014-01-22
「空」とは何か?「色即是空」のほんとうの意味とは―。日本人にとって最もなじみの深いお経といえる『般若心経』。その実体は、「釈迦の仏教」とは異なり、自らが仏へと至る“神秘力”を得るための重要なファクターだった。最小限の言葉だからこそ、逆に無限大の宇宙がそこには存在する。わずか二百六十二文字に、般若経の神髄を表現したとされる“呪文経典”の全貌を知る。


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Gグループと打ち合わせ/PCがWin7に

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140131_Mawa_rose_Fukuyama

- Ben oui, ... La femme avait mis les petits plats dans les grands ; et puis, quand elle a été un peu pompette, elle a commencé à mettre sa tête sur mon epaule ...
- Oh, mon dieu ! La chance que t'as ! Raconte-moi la suite.

「へえ.えらくご馳走になりまして,酔ったおかみさんがしなだれかかってきて」
「うらやましいぞ,バカ野郎.先を聞かせろ」

ミホとアンナのフラふら落語22より (荻野アンナ,小池美穂 監修 Vincent Brancourt)

福山のバス,まわローズです.トモテツバスです.トモは鞆でテツは鉄道.バス会社なのに鉄道???気にしないことにしましょう.・・・と思っていましたが,よく見たら中国バスでした.

今日はGグループとの打ち合わせ.10時からMaの人,11時からPhの人ということで忙しかったのでした.午後も図書館に行って本を借りて,そしてPCがWin7にかわったのでFirefoxの設定を行って,プリントアウトができるようにしてもらいました.メールの設定等確認していたらあっという間に妙の時間.今日は割と集中できたような気もしますが,いつもより早めに足をくずしてしまいました.お菓子はBOUL' MICH(ブールミッシュ)のGateau au Marronでおいしかったです.

河北新報
透明な力を 第5部・さらば学びや(下)思い出は永遠 新たな出発へ

 学校は、浜の人々のよりどころだった。閉校の方針に、震災で傷ついた地域は揺れた。
 岩手県宮古市の重茂(おもえ)半島にある千鶏(ちけい)小はこの3月末、137年の歴史に終止符を打つ。
 2012年春、市教委が統合を検討しているという話が、集落に広がり始めた。
 校舎の2階まで津波が押し寄せ、再建の見通しが立たない。震災前に30人を切った児童が、増える見込みは薄かった。
 「拠点がなくなる」「人がまた減ってしまう」。年配の卒業生を中心に反対の声が上がった。
 地域は、学校とともに歩んできた。運動会は住民総ぐるみで盛り上がる。全校児童が一輪車に乗って演技を披露し、参加者全員が校歌に合わせ踊った。
 風土や文化が違う内陸から赴任する先生たちとの交流も、活力になった。「先生方が浜に新しい風を運んでくれた。刺激になった」。PTA会長を長年務めた木村民茂さん(67)は振り返る。
 昭和30年代、児童は100人を超えた。今は男子が1人だけの学年も複数ある。保護者も悩んだ。「少人数の環境が子どもにとっていいのか」
 住民は何度も話し合いを重ねた。統合やむなし−。12年暮れに市教委の方針を受け入れた。
 昨年春。校舎を借りて授業を続けてきた重茂小で、畠山博明校長(58)は千鶏小がなくなることを児童に伝えた。
 「やっぱりそうなっちゃうんだ」。6年の畠山美早紀さん(12)は、家で親が話しているのを聞き、うすうすは感じていた。「人数が少ないから仕方ないのかな」と受け止めた。
 4年の高屋敷朱由(しゅう)さん(10)は「あの校舎には1年しか通えなかったんだな」と思うと、何だかさみしかった。
 地域に愛された学びやの歴史を後世に残そう。畠山校長はお年寄りに声を掛けて昔の写真を集め、アルバムを作った。在校生24人の手形をはめ込んだ記念碑造りにも奔走した。
 重茂小には、同じく教室を借りている鵜磯小も統合し、新しい学校の児童は100人に増える。
 ことしに入り、統合に向けた準備が本格化した。3校合同で体育の授業を行ったりした。
 4年の畠山愛深(まなみ)さん(10)は、ポートボールで初めてチーム競技の面白さを知った。「全部負けちゃったけど、楽しかった」
 3年で唯一の男子、畠山知晃君(9)は千鶏小の伝統だった一輪車にまた乗りたい。「重茂小にも一輪車クラブができないかな」と思っている。


河北新報
遺族「納得できず」 山元の園児津波犠牲訴訟 請求棄却

 「納得できない」。東日本大震災の津波で亡くなった宮城県山元町東保育所の園児2人の遺族が損害賠償を求めた訴訟で24日、仙台地裁が請求を退けたのを受け、遺族2人は記者会見で「ショックを受けている」と沈痛な面持ちを浮かべた。

 遺族側は「判決は町側の主張に沿ってしまった」と批判。厳しい表情で「極めて残念。このような結果に終わり、非常に不満がある」と述べた。
 園児らが通っていた東保育所は木造平屋で民家に囲まれていた。
 「頼りない父親で申し訳なかった」。長男歩夢(あゆむ)ちゃん=当時(2)=を亡くした渋谷亮さん(30)は語る。「保育所は地域住民の様子がすぐ分かる場所にあった。民家の2階に避難させてほしかった」
 2011年3月11日の地震発生後、保育士らが避難行動を始めたのは保育所の約80メートル先に津波が迫っているころだった。
 息子の将宏ちゃん=当時(6)=を失った鈴木あけみさんは「小さい子どもは自分の意思では何もできない。どうしろというのか」と嘆く。
 11年11月の提訴から2年余り。震災犠牲者の遺族が行政の管理責任をめぐって訴訟を起こしたのは初めてだった。
 渋谷さんは「町が相手で精神的にきつい部分があった。周りの支えなどがあり、大きく心に傷を負うことはなかった」と説明。鈴木さんは「厳しい闘いになると分かっていたが、息子の無念を思うと何もせずに引き下がれなかった」と話す。
 代理人の弁護士は、町がラジオなどで情報収集をしていない点について「町側がここまで情報を集めず、当事者としての危機意識が足りなくてもやむを得ないとなれば、同じような人災が繰り返される」と指摘。「判決は今後の保育や震災における避難について危機意識を低下させてしまう」と懸念を示す。
 一方、斎藤俊夫町長は「町の主張が認められたことを評価したい。園児の命が失われたことに変わりはなく、この事実を厳粛に受け止め、あらためて哀悼の意を表する」との談話を出した。

◎防災行政役割再検討を

 【解説】24日の仙台地裁判決は「避難指示は地域防災計画に従った」という宮城県山元町の主張を受け入れた。想定を超える津波の危険性を町は認識したとしつつ、防災計画や浸水予測に基づけば保育所への到達までは予見できないとして、最終的に遺族側の請求を退けた。
 災害をめぐる法的責任が問われる場面で、判決は防災計画や被害想定が災害発生後の責任の有無を決める鍵となることを示した。今後、大災害が想定される中、住民や企業ものっとる防災計画などを整備する過程がより一層重い意味を持つようになったといえる。
 ただ、防災計画や被害想定を「免罪符」にしてしまえば今後の防災行政に教訓を残せない。命を預かる現場が頼る防災行政のあるべき役割について、地裁がどう考えているかは判決から読み取れない。
 結果として犠牲を生んだ防災行政を追認したと受け止められる。町の情報収集の在り方に疑問を呈しながら、行政に予算や人員の制約がある以上、「予測の難しい自然災害に完璧な応急対策を求めるのは酷だ」との意識が働いた可能性がある。
 津波訴訟の犠牲者には幼児や障害者といった「災害弱者」が多い。病院職員や会社員ら容易に持ち場を離れられない人もいる。「公助」を担う行政の役割は大きい。
 失われた命は戻ってこない。犠牲者や遺族の損害を司法が被災後に救済できる範囲は極めて限られている。
 判決は防災計画や被害想定に基づく行政の応急対策の限界を示したといえる。行政は住民の命を守るため、災害の起きる前に何ができ、何をすべきなのか検討し直す必要がある。(報道部・菊間深哉)

<免責の余地ないのでは>
 千葉大・新藤宗幸名誉教授(行政学)の話 基本的に考えなくてはならないのは、津波が危険だと判断する能力が大人と子どもで格段に違う点だ。保育士や保育所長、指揮命令権を持つ町長が子どもの命を預かっていることを大前提に考えるべきで、免責の余地はないと思う。今後の教訓として、判断能力に欠ける子どもらを預かる側は、現場の判断が命を左右することを普段から認識して行動する必要がある。突発的な自然災害が起きた時の情報収集に敏感でなければならない。

<行政の義務争点ならず>
 東大大学院法学政治学研究科・米村滋人准教授(民法)の話 判断のポイントが町総務課長や保育士の当日の行動に限定され、住民の生命を守るという行政の役割が考慮されていない。防災に関する法的責任では、当日の行動で責任が認められるケースは限られるが、本件では他の問題点も多い。地域防災計画やハザードマップが適正だったか、どの地域に避難指示を出すかが事前に十分検討されていたかなど行政としての義務が争点になっていれば結論が違った可能性もある。

<責任の所在明確化必要>
 NPO法人くらしの安全安心サポーター(東京)の中村八郎理事長の話 市町村はよほどのミスがない限り責任逃れができるという判決だ。県がハザードマップを作る今の制度では、市町村職員が被害想定の不十分さを理解できず、県や研究者らを含めて責任の所在を明らかにしなければ社会の改善につながらない。自ら避難できない乳幼児を預かる側は一般の想定以上に安全な避難計画を設けるべきだ。どんな判決にせよ、行政に緊張感を持たせるようなシグナルを出すべきだった。


毎日新聞
東日本大震災:福島第1原発事故 被ばく線量、公表せず 想定外、数値高く 福島の3カ所−−内閣府

 東京電力福島第1原発事故に伴う避難指示の解除予定地域で昨年実施された個人線量計による被ばく線量調査について、内閣府原子力被災者生活支援チームが当初予定していた結果の公表を見送っていたことが24日、分かった。関係者によると、当初の想定より高い数値が出たため、住民の帰還を妨げかねないとの意見が強まったという。調査結果は、住民が通常屋外にいる時間を短く見積もることなどで線量を低く推計し直され、近く福島県の関係自治体に示す見込み。調査結果を隠したうえ、操作した疑いがあり、住民帰還を強引に促す手法が批判を集めそうだ。

 毎日新聞は支援チームが昨年11月に作成した公表用資料(現在も未公表)などを入手した。これらによると、新型の個人線量計による測定調査は、支援チームの要請を受けた日本原子力研究開発機構(原子力機構)と放射線医学総合研究所(放医研)が昨年9月、田村市都路(みやこじ)地区▽川内村▽飯舘村の3カ所(いずれも福島県内)で実施した。

 それぞれ数日間にわたって、学校や民家など建物の内外のほか、農地や山林などでアクリル板の箱に個人線量計を設置するなどして線量を測定。データは昨年10月半ば、支援チームに提出された。一般的に被ばく線量は航空機モニタリングで測定する空間線量からの推計値が使われており、支援チームはこれと比較するため、生活パターンを屋外8時間・屋内16時間とするなどの条件を合わせ、農業や林業など職業別に年間被ばく線量を推計した。

 関係者によると、支援チームは当初、福島県内の自治体が住民に配布した従来型の個人線量計の数値が、航空機モニタリングに比べて大幅に低かったことに着目。関係省庁の担当者のほか、有識者や福島の地元関係者らが参加する原子力規制委員会の「帰還に向けた安全・安心対策に関する検討チーム」が昨年9〜11月に開いた会合で調査結果を公表し、被ばく線量の低さを強調する方針だった。

 しかし、特に大半が1ミリシーベルト台になると想定していた川内村の推計値が2・6〜6・6ミリシーベルトと高かったため、関係者間で「インパクトが大きい」「自治体への十分な説明が必要」などの意見が交わされ、検討チームでの公表を見送ったという。

 その後、原子力機構と放医研は支援チームの再要請を受けて、屋外8時間・屋内16時間の条件を変え、NHKの「2010年国民生活時間調査」に基づいて屋外時間を農業や林業なら1日約6時間に短縮するなどして推計をやり直し、被ばく推計値を低く抑えた最終報告書を作成、支援チームに今月提出した。支援チームは近く3市村に示す予定だという。

 支援チームの田村厚雄・担当参事官は、検討チームで公表するための文書を作成したことや、推計をやり直したことを認めた上で、「推計値が高かったから公表しなかったのではなく、生活パターンの条件が実態に合っているか精査が必要だったからだ」と調査結果隠しを否定している。

 これに対し、独協医科大の木村真三准教授(放射線衛生学)は「屋外8時間・屋内16時間の条件は一般的なもので、それを変えること自体がおかしい。自分たちの都合に合わせた数字いじりとしか思えない」と指摘する。

 田村市都路地区や川内村東部は避難指示解除準備区域で、政府は4月1日に田村市都路地区の避難指示を解除する。また川内村東部も来年度中の解除が見込まれている。【日野行介】

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 ■ことば
 ◇原子力被災者生活支援チーム

 福島第1原発事故直後、政府が避難者支援や被ばく医療の強化のため各省職員を集めて設置した緊急対応用の組織。チーム長は経済産業相と環境相で、事務方トップは経産省の菅原郁郎経済産業政策局長と日下部聡官房長が兼ねる。現在の事務局員は約30人でほぼ全員が経産省職員。避難指示の解除に向けた住民や自治体との交渉が主な業務になっている。


河北新報
陽気一気、ウメ開花 昨年より3日早く 仙台

 仙台管区気象台は25日午前、仙台でウメが開花したと発表した。平年より26日遅く、昨年に比べ3日早い。
 宮城野区の気象台構内の観測用標本木で、花が数輪開いたのを職員が確認した。仙台の25日朝の最低気温は4月下旬並みの8.4度。正午までの最高気温は5月上旬並みの18.5度を観測した。
 気象台は「ウメの開花は年によって3カ月程度のばらつきがあるが、ことしは2月から3月中旬にかけて気温が低めに推移した影響があるかもしれない」と話した。
 26日の県内は朝は晴れるが、低気圧の接近に伴い雲が広がり、夜は雨が降る所が多い見込み。日中の最高気温は仙台と白石17度、大崎市古川と石巻16度と予想される。


朝日新聞
東京でソメイヨシノ開花 春の陽気、都心22.3度

 気象庁は25日、東京で桜(ソメイヨシノ)が開花したと発表した。東京・九段の靖国神社にある標本木で午後2時半過ぎ、5、6輪の花が咲いているのが確認された。平年より1日早く、昨年より9日遅い。

 25日は東日本を中心に高気圧に覆われて気温が上がり、各地で4月中旬から5月下旬並みの陽気となった。東京都心でも午後3時過ぎに22・3度を記録した。

 この日は、横浜市や広島市、大分市などでも開花が確認された。1週間ほどで満開になりそうだという。

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樟葉で講習会・・・眠くてしんどかったです

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140113_Iwakuni_gateau

- Arrêtez, qu'est-ce qu'on va faire si votre mari rentre !
- Ne t'inquiète pas pour ce soir. Reste ici ...

「やめてください.旦那さんが帰ってきたら大変です!」
「今夜は大丈夫.泊まっていきなさいな・・・」

ミホとアンナのフラふら落語22より (荻野アンナ,小池美穂 監修 Vincent Brancourt)

岩国のお菓子は買わずに蓮根を買ったのを思い出しました.妹たちと食べたんですが,辛かったですよ.
英語だとlotus rootなのでフランス語ではracine de lotusかな???

朝から講習会なので早起きして京阪で出かけました.樟葉でバスに乗ります.どこかの女子大学生が「アールアイが・・・」と言っているのを聞いて,ふうんと思いました.というか眠くてつらいんです.講習会も寝てはいけないので苦しかったです.どうにか頑張ったのでお昼は守口でお刺身をいただきました.

本を2冊読みました.どちらもいい本だと感じました.
僕の死に方 エンディングダイアリー500日
金子 哲雄 小学館 2012-11-22
死生観 By 石島 嘉人
はじめに、私事ですが、本書を読む切っ掛けになったのは、私自身、精神疾患を患ったこともあり、「生きる」とは何なのか?「死」と向き合うとは何なのか?と真剣に悩み、仏教関係の本を読み漁ったりした時期もありましたが、これといった明白な答えも出せず、ただいたずらに時間だけが過ぎていき、悶々としていた時期に、偶然、本書と巡り会うことができました。

本書は、金子さんがお亡くなりになられる1ヶ月前あたりから執筆された御本ということだけあって、それこそ中盤以降は、金子さんの死生観がたくさん詰まっており、まさに“今”、死と隣合わせの立場にいる金子さんの揺れ動く心の内を赤裸々に綴った、それはもう命懸けの一冊に感じ取れました。

マスコミ紙上では、金子さんは、自分の最期、葬儀までも、自らプロデュースした、まるで人生を悟られた、大変、稀有な方だったと紹介されていましたが、改めて本書を読んでみると、
「なんで、治らない病気にかかるんだよ。仕事も順調なのに、なんで人生のチャンスをもらえないんだよ。なんで、すぐ死んじゃうんだよ。なんで、今すぐ死ななきゃいけないんだ。俺、なんか悪いことしたか?ねぇ、俺が悪いのか?」
と、自分の運命を呪ったことも何度かあると吐露しており、金子さんも、「生」と「死」の狭間で、ものすごい葛藤をされてきたお方なんだ。人間である以上、煩悩を拭い去ることなんてできないし、この姿こそ、まさに人間そのものなんだ!!と感じたら、金子さんも、さぞかしおつらかっただろうな…と、思わず感傷に浸ってしまいました。それでも、金子さんが自暴自棄にならずに人生を達観され、自身の死生観を最期まで貫き通されたことには、本当に頭が下がるばかりです。

後半の奥様の執筆された「あとがき」を読んだ際には、不覚にも涙がこぼれ落ちました。
しかし、奥様の文章には、ある種の悟りとも言える境地を感じ取ることができました。
「今までと違っているのは、金子があの世側にいるということだけ。金子はあの世側に移り、私はこの世側に残った感覚…。」
と仰る奥様の達観された言葉には、ただただ敬服するばかりです。

改めて、本書を読み終え、妻を置いて、この世に別れを告げようとしている夫の「死生観」、また、夫に先立たれ、この世に残された妻の「死生観」というものを嘘偽りなく赤裸々に書き綴られた本書に、大変、多くのものを学ばせて頂くことができました。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。


メロスのようには走らない。~女の友情論~
北原 みのり ベストセラーズ 2013-12-21
「毒婦」には友達がいなかった By もふもふ
以前、北原みのりさんの『毒婦。』を読んで、それがとても
面白かったので、この本も購入しました。

「女友だち」という大きなテーマではありますが、書かれている
ことはとても具体的なエピソードで、ぐいぐいひきこまれました。

著者が、過去に起こった出来事や自分の気持ちを正直にさらけ
出しているのが好感が持てます(美人の友達に誘われた合コンで、
相手の男たちが自分を無視したエピソードとか、著者のいたたま
れない気持ちがすごくよく分かる…)。

「女友達」との関係ってわりと個人的なことだと思っていたの
ですが、嫉妬したり優越感を持ったり、それで罪悪感を感じたり
するのって、私だけじゃないんだなと思ってほっとしました。
あと、「女の敵は女」とよく言われたりするけれど、この本には、
本当の敵とは何かが随所随所に書かれていて、腑に落ちることが
結構ありました。

あとがきで、「毒婦」と呼ばれた女たち(木島佳苗、上田美由紀、
東電OLなど)には女友達がいなかったという旨が書かれていましたが、
確かに、彼女たちに友達がいたら、人生はまるで違っていたものに
なっていたんだろうなと思います。

「女友達」をテーマにした小説はたくさんありますが、エッセイで
ここまで赤裸々に語っている本は読んだことがなかったので、
新鮮で面白かったです。



河北新報
大川小遺族との話し合い 石巻市教委、訴訟に影響と回答拒否

 東日本大震災で児童と教職員計84人が死亡・行方不明になった宮城県石巻市大川小の津波災害で、児童遺族と市教委の話し合いが23日、市内であった。第三者による事故検証委員会の最終報告を受け遺族は責任問題などをただしたが、市教委は19家族が市と宮城県に損害賠償を求めた訴訟への影響を理由に回答を拒否。今後、公開での話し合いはしない方針も示した。

 遺族は約30人、市側は亀山紘市長と境直彦教育長らが出席した。市は検証委の最終報告と再発防止策の提言を受け、市教委に学校安全推進課を新設することなどを説明。遺族からは「市全体の防災対策であり、大川小遺族への対応ではない」という批判が出た。
 「山に逃げたがっていた子どもたちが逃げられなかったことをどう考えるか」「最終報告にある『結果責任』をどう受け止めるのか」といった質問に、市教委は「訴訟に関わる発言は控える」と繰り返した。
 亀山市長は「学校管理下で子どもたちを守れなかったことを重く受け止め、悲惨な事故が二度と起きないよう防災対策を徹底したい」と強調。終了後、報道陣の法的責任に関する質問にも「提訴の内容を検討した上で考えたい」と述べるにとどめた。
 6年だった次女を亡くした佐藤敏郎さん(50)は「市教委のあまりにも血の通わない説明にがくぜんとした。検証委の調査中は『検証に影響する』と言い、今度は訴訟を理由に話し合いを避ける。訴訟にかかわらず、子どもの命を守るために必要なことは話し合わなくてはならないはずだ」と憤った。


河北新報
透明な力を 第5部・さらば学びや(中)3年は仮校舎 それでも感謝

 3年ぶりの校舎は、あの日のまま、時間が止まっていた。
 岩手県宮古市の重茂(おもえ)半島にある千鶏(ちけい)小。津波で校舎が使えなくなり、この3月末で閉校する。
 6年の畠山奈巳さん(12)は今月10日、被災した母校に足を踏み入れて驚いた。2階の教室の床には津波の痕跡が残っている。ほこりも厚く積もっていた。
 「2011年3月11日」。チョークで書かれた黒板の日付は震災後、書き換えられていない。「日直 奈巳」。3年前の自分の文字もある。「下手だったんだな」。ちょっぴり成長を感じた。
 校舎が被災した千鶏小は3年間、約10キロ離れた重茂小で授業を続けた。卒業式と閉校式をどちらの学校でやりたいですか−。先生の問いに24人の児童全員が「元の学校で」と答えた。
 15日の式に備え、この日はリハーサルのため、3年ぶりに児童たちが母校に集まった。

 震災の当日。津波は海抜22メートルに立つ校舎2階にまで押し寄せた。学校に残っていた児童11人と教職員9人は、校舎裏の細い道をよじ登って難を逃れた。
 保護者に引き渡された17人のうち、2人が行方不明になった。きょうだいや祖父母を失った児童もいる。児童の大半の家が被災し、3人が転校した。

 重茂小で新学期が始まったのは、震災発生から1カ月半たった4月下旬。先生たちは、行方が分からない児童の机や靴箱も用意した。
 集会室をついたてで仕切っての授業。1年生が朗読をしている隣で、2年生が算数を勉強した。
 「静かにしなきゃ、といつも思っていた。みんな、なんだか気を使い合っている感じだった」。6年の畠山渚さん(12)は当時を思い出す。
 歩いて千鶏小に通っていた児童もバス通学を余儀なくされた。片道最大45分。半島の道路は細く、カーブが続く。車酔いする児童もいた。
 授業中、ちょっとした物音でびくっと反応する子どもが少なからずいた。落ち着かせようと、先生たちは休み時間もできる限り児童と一緒に過ごした。
 冬休み明け、集会室に壁が取り付けられ、少し落ち着いた環境が整った。児童たちは次第にバス通学にも慣れ、車中で本を読めるようになった。
 小学6年のうち、半分の3年間が仮校舎での学校生活。「泣いたことも、怒られたことも宝物。たくさんの思い出をくれた千鶏小、本当にありがとう」
 15日の閉校式。奈巳さんは児童を代表し、集まった地元住民や卒業生ら約100人を前に感謝の言葉を述べた。


河北新報
遺族側の請求を棄却 仙台地裁 宮城・山元園児津波犠牲訴訟

 東日本大震災の津波で亡くなった宮城県山元町東保育所の園児2人の遺族が町に計約8800万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、仙台地裁(山田真紀裁判長)は24日、遺族側の請求を棄却した。震災の津波による犠牲で行政の責任が問われた訴訟の判決は初めて。
 遺族側は2011年11月に提訴。訴訟では主に、町による避難指示の対象が保育所を含む沿岸行政区全域だったか、保育所が入らない浸水予測区域内や海浜部だけだったかなどが争われた。


朝日新聞
被災地選んだ息子に拍手 東陵バッテリーの父母 第86回選抜高校野球

 東日本大震災で被害の大きかった岩手、宮城、福島の3県から唯一出場した東陵(宮城)が23日、白鴎大足利(栃木)戦に臨んだ。佐藤洸雅(こうが)投手(2年)と伊東拓人捕手(3年)のバッテリーは自宅を離れ、被害の激しい宮城県気仙沼市の同校で野球をすることを選んだ。見守ってきた親や地域の人たちは、大舞台に立った選手たちに盛んな拍手を送った。

 気仙沼市は、震災で1200人以上の死者・行方不明者が出た。ベンチ入り選手全員が宮城、岩手両県の出身。いまの3年生は震災1年後に東陵を選んで入学してきた。

 千葉亮輔監督は「町はまだ大変な状況。野球ができることへの感謝の気持ちを持とう」と呼びかけてきた。甲子園出場が決まった後、選手が通う医院やコンビニで「おめでとう。応援するね」と励まされ、地域の温かみを感じたという。

 「東陵に行きたい」

 宮城県登米市に住む伊東君の母、梢さん(43)は震災の年の夏、中学3年だった息子からそう告げられた。伊東君も東陵の練習を見学した際、家や店がなくなり、がれきが散らばっている市街地を目の当たりにした。しかし、明るく声を出して楽しむ先輩たちの姿が忘れられなかった。

 梢さんは「ひとりで何でもできるようになった。本当にたくましくなった」と目を細めた。

 「自分が決めたところでがんばれ」。仙台市に住む佐藤君の父、士(つかさ)さん(36)と母、裕希(ゆき)さん(36)は、東陵に行くと決めた息子の背中を押した。入学後も寮で生活する息子に電話をし、励ましてきた。佐藤君は「プレーで親に恩返しがしたい」と試合に臨んだ。試合後、「すごい応援だった」と感謝の気持ちを表した。(石川幸夫、青瀬健)

毎日新聞
大阪市長選:当選橋下氏、次点は白票 6万票余が無効票に

 大阪市の出直し市長選が23日投開票され、大阪維新の会公認で前職の橋下徹氏(44)=日本維新の会推薦=が新人3人を破り、再選した。投票率は23.59%(前回60.92%)と、同市長選で過去最低だった。当日有権者数は211万4978人。

 今回の出直し大阪市長選では、白票が4万5098票(投票総数の9.04%)もあり、当選した橋下徹氏に次ぐ結果になった。白票が次点候補者を上回るのは同市長選で初めて。白票を含む無効票は6万7506票(同13.53%)で、落選した3候補の合計得票5万3895票を上回った。出直し選を仕掛けた橋下氏に反発する有権者の票が、大阪府・市両議会の野党が候補を擁立しなかったために、行き場を失ったとみられる。

 記録が残っている1951年以降、無効票の割合がこれまで最高だったのは63年の4.71%で、今回は8.82ポイントも上回った。同様に白票の割合は67年の1.79%で、7.25ポイントも上回った。

 2005年にあった出直し市長選でも現職の対抗馬擁立が難航したが、無効投票率は2.63%、白票投票率は1.52%だった。また、河村たかし氏が市民税減税を訴えて仕掛けた11年の出直し名古屋市長選(投票率54.14%)では、無効投票率は1.36%、白票投票率は0.88%にとどまった。対抗馬選びが難航しがちな出直し選の中でも、今回は突出した結果といえる。

 最近の選挙で無効票が多かったのは07年長崎市長選で、7.69%を占めた。選挙期間中に現職市長が射殺され、市長への期日前投票が無効票になるなどした異例のケースだが、今回はこれよりも5.84ポイント高かった。

 一方、総務省によると、今回の投票率23.59%は、全国の政令市長選の投票率で、85年神戸市長選(22.44%)に次ぐワースト6位だった。過去最低は79年の京都市長選の16.13%。【山下貴史】


毎日新聞
橋下市長再選 市政、空転させただけだ

 23日に投開票された出直し大阪市長選で、橋下徹前市長が再選を決めた。投票率は23.59%で、橋下改革への期待から60%に達した2011年11月の前回選を大きく下回り、大阪市長選として過去最低となった。

 議会の抵抗で行き詰まった「大阪都」構想実現の手続きを進めようと橋下氏が仕掛けた選挙だが、低調な投票率は、有権者が冷ややかに受け止めた表れだ。

 世論調査では、出直し選に6割が反対だった。都構想への賛否は拮抗(きっこう)し、多数が慎重な議論を望んでいる。拙速を避けて、内容を充実してほしいというのが民意だろう。

 唐突で乱暴な手法に市議会野党が反発し、有力な対立候補は出なかった。選挙で都構想に市民の関心や期待が高まったと言えず、再選されたからといって、橋下氏が野党多数の議会を動かせるわけでもない。約6億円の選挙費用を使いながら市政を空転させただけではないか。

 大阪府と大阪市を統合再編し、二重行政を解消するという都構想は、橋下氏の最大の公約で、来春の移行を目指している。その中身を定める協定書を作成する協議会で、橋下氏は再編案を一つに絞り込むよう提案したが、市議会野党の公明、自民、民主、共産が「議論が不十分」と反対した。選挙で民意を得て、それを後ろ盾にして議会に同意を迫る手法を選び、選挙戦では、協議会から反対派議員を外す考えも示した。

 「大阪都」を実現するには、協定書を完成したとしても、府・市議会の承認を得たうえで、大阪市民を対象にした住民投票で賛否を決める必要がある。橋下氏は住民投票まで手続きを進めたい考えだが、自ら代表を務める大阪維新の会は両議会とも少数与党だ。橋下氏の主張を議会が認める保証はなく壁は高い。

 橋下氏は既得権益層を敵に見立てて攻撃することで支持を得てきたが、この政治手法も限界にきたのではないか。来春は府・市議選が予定されている。選挙をにらんで議会との対立が続けば、市民不在の空虚な政争と受け取られてしまうだろう。

 出直し選で野党は候補擁立を見送ったが、候補を立てて都構想の是非を争うべきではなかったか。政策論争のない選挙戦となり、有権者に選択肢を与えられなかったのは残念だ。

 市長と議会はいずれも選挙による民意を代表する。市長は議会の反対意見にも耳を傾け、協議を尽くして合意形成を図らねばならない。

 「大阪都」になれば住民にどんなメリットがあるのかなど具体的にわからないことは多い。構想を練り上げるためには期限を切らず、議論を積み重ねるしかない。橋下氏に求められるのは議会との丁寧な対話だ。

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1日寝てました/大阪市長選は棄権

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140131_tenmaya_fukuyama

Je doute qu'il soit parti avant midi.
彼が正午まえに出発してしまっているとはおもわない.
接続法過去 subjonctif passé
従属節の動作・状態が完了していることのみをあらわします.

大阪には天満屋はありません.写真は福山.

朝からしんどかったです.一旦持ち直して昼ご飯食べたのですが,やはりしんどくなって寝てしまいました.起きたら夜の10時.つまり1日寝てました.京都のShさんは「まあ、そういう日もあるでしょう、と、気を楽にもつことでしょう。」だって.彼女優しいです.
もちろん大阪市長選は棄権.ハシモト君のワガママ選挙に付き合ってられません.

河北新報
透明な力を 第5部 さらば学びや(上)「海に生きる」受け継ぐ志

 東日本大震災で校舎が被災したり、子どもの数が減ったりしてやむなく閉校する学校が相次ぐ。本州最東端に位置する岩手県宮古市千鶏(ちけい)小もこの春、137年の歴史に幕を閉じる。地域とともに歩んだ学びやと子どもたち。終幕を控えた日々を追った。
(震災と子ども取材班)

 津波を見て、海が怖くなった。今は違う。以前のように浜仕事を手伝う。
 3月上旬の日曜日、宮古市東部の重茂(おもえ)半島にある石浜地区。
 千鶏小6年の畠山渚さん(12)は自宅横の作業場で、早朝からワカメのメカブ切りに精を出した。
 フォークに似た道具で茎からメカブを切り落とす。5歳の時から手伝っている。祖母玲子さん(62)にも負けない手つきの良さだ。
 弟で1年生の澪迅(れいじ)君(7)が丸まったメカブを見つけ、「キャッチボールをしよう」と言い出す。「ちゃんとやってよ」と注意する。
 妹の音波(おとは)ちゃん(5)は見よう見まねで手を動かす。

 渚さんと澪迅君が通う千鶏小は震災で校舎が被災し、3月末で閉校することになった。約10キロ離れた重茂小に鵜磯小とともに統合される。
 渚さんの父光久さん(31)と祖父の光八さん(66)、曽祖父の故孫太郎さんも千鶏小の卒業生。代々漁業を営んできた。
 光久さんが沖出しした1隻を残し、船や養殖施設は全て津波で流された。自宅は1階天井まで浸水した。
 渚さんは、澪迅君と母志緒里さん(31)と一緒に自宅裏の斜面をよじ登って津波から逃げた。集落が茶色の波にのまれていくのを見た。
 光久さんは震災直後から、がれき撤去をしたり、使えそうな船を修理したり復旧作業に走り回った。震災発生から2カ月後の5月には、天然ワカメの漁を再開させた。
 渚さんはしばらく海が怖かった。家を修理している間も「住むのは嫌だ」と思った。

 翌年春、光久さんに促されて、養殖ワカメの収穫作業をしぶしぶ手伝った。気持ちの整理をする間もなく、元の浜の暮らしに戻っていった。
 ここに住む以上、海と共に暮らしていかなければならない−。光久さんは分かってほしかった。
 昨年秋。同級生が親を手伝って船に乗っていることを知り、澪迅君は「僕も行きたい」と泣いた。初めてアワビ漁に出て「パパのようになりたい」と思った。
 千鶏小で15日にあった最後の卒業式と閉校式。
 「大きな災害に見舞われても、家族と汗を流して海に生きる文化を引き継ぎ、成長したみんなは素晴らしかった」
 畠山博明校長(58)は子どもたちをたたえた。学校はなくなるけれど、浜の集落は残る。親や地域から学び、魂を受け継いでほしい。そんな願いを込めた。


東京新聞
週のはじめに考える 自衛隊の積極的平和主義

 安倍晋三首相は、平和の前に戦争あり、を疑わせる「積極的平和主義」を打ち出しました。自衛隊の活動は、見直しが必要なほど消極的でしょうか。

 「自衛隊の高度な知識、能力を身につけたい」

 今月中旬、茨城県ひたちなか市にある陸上自衛隊施設学校で、モンゴル陸軍の将校団五人が研修を受けました。陸上自衛隊の施設科は他国では工兵と呼ばれています。国連平和維持活動(PKO)の開始後は派遣先で道路の補修や建物の建設を続けています。

◆モンゴル軍に技術指導

 将校団は測量器材を操作しながら、自衛隊の担当者を質問攻めにしました。モンゴル軍は測量は民間業者に委託し、施工のみ工兵部隊が行います。しかし、海外活動であるPKOに民間業者は同行しません。測量から施工まで自己完結させる必要があるのです。

 団長のダワードルジ大佐は「装備品はロシア、ドイツ、韓国などが提供してくれる。招いたうえ、技術を教えてくれるのは日本だけ。こうした交流を通じて二国間の関係が発展することを願います」と謝意を表しました。

 ロシア、中国という大国に挟まれ、バランス保持が欠かせないモンゴルに対し、日本政府は有償・無償の資金援助をしています。自衛隊は人的貢献を担っているのです。

 防衛省は二〇一一年度から、人道支援・災害救援、地雷・不発弾処理などの安全保障分野で東南アジア諸国の能力を高める「能力構築支援」を開始しました。PKO、国際緊急援助隊に続く、三番目の国際貢献策にあたります。

 カンボジア、東ティモールといった自衛隊がPKOで活動した国のほか、憲法改正してPKO参加を決めたベトナム、モンゴル、インドネシアへ隊員を派遣したり、軍人を招いて日本の技術を習得してもらおうというのです。

◆イラクでも独自の活動

 陸上幕僚監部国際防衛協力室長の笠松誠一佐は「人種、宗教が異なるアジアの国々は多種多様。日本がけん引して共通の価値観を形成していきたい」。能力構築支援は平和への積極的な貢献策と強調するのです。

 初の「戦地派遣」となったイラクでの自衛隊は独特でした。自衛隊らしい活動を考え抜いた結果、施設復旧、医療指導、給水に徹したのです。地元の人々を雇用しての施設建設や道路工事によって信頼は高まり、各国の軍隊が視察に訪れるほどでした。

 独自性はその服装にも出ていました。薄茶色の砂漠の中で、日本仕様の緑色を基調とした迷彩服。しかも頭、肩、胸、背中の四カ所に大きな「日の丸」。これほど目だつ格好はありません。迷彩も何もないのです。

 「われわれの任務は人道復興支援、はっきり分かる格好をしていた方が安全だからです」。派遣された幹部は疑問に答えました。一方の米軍は薄茶色の迷彩服を着ていて目だたない。「人助け」に行った自衛隊と戦争に行った米軍との違いは、こんなところにも表れていました。

 アフガニスタン戦争、イラク戦争を経験した米国は「テロとの戦い」のあり方を見直し、テロの背景にある貧困の解消を目指しています。〇八年ごろから陸海空、海兵隊の四軍がイスラム国家の多いアジアで医療、技術指導を行う「善行キャンペーン」に取り組んでいます。自衛隊は、変化する米軍とも協調しています。

 米海軍主催の「パシフィック・パートナーシップ」は米海軍の病院船を東南アジアに派遣し、無償で住民を診察します。海上自衛隊は輸送艦のほか、医官、看護官を参加させています。

 さて「積極的平和主義」です。安倍政権は昨年末、安全保障政策の柱として「国家安全保障戦略」を閣議決定しました。その中に出てくる言葉です。文中、「積極的」が三十回も繰り返し登場、海外の安全保障問題に文字通り積極的に関わっていく姿勢を鮮明にしています。

◆「軍事力強化」に違和感

 海外の紛争から距離を置いてきた戦後の平和主義を「消極的」とみなして否定し、第一次安倍政権で掲げた「戦後レジームからの脱却」を実現する狙いがうかがえます。強い意気込みは「パワーバランスの変化の担い手は中国、インドなどの新興国であり」「米国の国際社会における相対的影響力が変化」「強力な指導力が失われつつある」との記述から分かります。弱体化した米国を軍事力を強化して補うというのです。それには憲法解釈の変更が必要だというのが安倍首相の考えです。

 自衛隊の地道な活動とはあまりにも違います。「普通の軍隊」にしようとする試みに強い違和感を覚えます。

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パレスチナの報告会に行く予定でしたが・・・

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oliva1

Elle est la personne la plus gentille que je connaisse.
彼女は,わたしの知っているなかで,いちばん親切なひとだ.

最上級をあらわす語の関係節においても,動詞が接続法になります.

お昼京阪百貨店でお粥を食べました.おかずなしでお粥だけでも美味しいんです.たくさんおかわりしてしまいました.店員さんがすすめるのがうまくてお腹いっぱいなのにおかわりしてしまったんです.ダメですね.

夕方パレスチナの報告会に行く予定でしたが,調子が悪くてやめにしました.残念です.

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パレスチナ・ガザ最新報告 〜極限封鎖の中で生きる人々を訪ねて〜

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■主催:日本国際ボランティアセンター(JVC)
■共催:パレスチナの平和を考える会、大阪YWCA国際部委員会

■報告者プロフィール:金子由佳(かねこ・ゆか)

2011年、国際政治学部・紛争予防及び平和学専攻でオーストラリア クイーンズランド大学大学院を卒業。直後にパレスチナを訪れ、現地NGOの活動にボランティアとして参加。一ヶ月のヨルダン川西岸地区での生活を通じ、パレスチナ人が直面する苦難を目の当たりにする。2012年6月よりJVC勤務、同年8月より現地調整員ガザ事業担当としてパレスチナに赴任。JVCのプロジェクトを通じて、苦難に直面する人々と連帯し、その時間・経験を日本社会と共有したいと願う。

■呼びかけ文

2012年11月の大規模空爆の後、停戦となったパレスチナ・ガザ地区。一方でイスラエル軍からの日々の攻撃は止むことがなく、現場には毎日のように負傷者のニュースが飛び込んできます。

加えて2013年のエジプトにおけるクーデターや政変が、ガザ地区の人々に更なる苦難を強いています。生活必需品が通るエジプトからの密輸トンネル破壊、ガソリン供給の停止、失業率の増加、そして整えられないインフラ問題のため生じた大規模な洪水…。食料も手に入らない家庭が続出し、ガザ全体が逼迫する中、イスラエルに
よる封鎖への抵抗として起こるガザからのロケット弾発射とイスラエル軍の報復の応酬も激化しています。

そのような中、JVCではガザでの子どもの栄養失調予防事業を続けてきました。今回の報告では、2012年の空爆直後にもガザ入りし、エルサレムに住みながら以降も毎月ガザへ足を運んできたスタッフ金子が、家庭や女性グループの訪問を通じて見てきた人々の姿、最新のガザ情勢についてお話しします。


河北新報
石巻・大川小遺族、原告に加わらず 悲劇自ら伝えたい

 東日本大震災で児童と教職員計84人が犠牲になった宮城県石巻市大川小の津波災害で、児童の遺族が市と宮城県を相手に損害賠償請求訴訟を起こした。原因究明を求める遺族のまとめ役だった女川中(宮城県女川町)教諭の佐藤敏郎さん(50)は原告に加わらず、自身の言葉で悲劇を伝える道を選んだ。津波を教訓とする教え子たちの取り組みも発信し、「あの日」と向き合い続ける。(石巻総局・丹野綾子)

 「見上げれば ガレキの上に こいのぼり」
 東京都内で15日に講演した佐藤さんは、震災後に女川一中(現女川中)の生徒が詠んだ俳句を紹介した。
 町の大半が壊滅し身近な人を失った心情を五七五に込めながら、生徒たちは「女川のために何ができるか」を思案。大地震が来たら津波に備えて高台に逃げる鉄則を引き継ぐ「いのちの石碑」を計画し、募金活動で資金を集めて実現させた。
 「過酷な体験と向き合うのはつらいが、大切なこと。生徒は同じ悲しみを繰り返してほしくないと行動し、大人でも難しいことをやり遂げた」
 講演の後半、大川小について語り始めた。6年だった次女みずほさん=当時(12)=が犠牲になった。
 「避難に必要な時間も情報も手段もあったのに、救えなかった。なぜ救えなかったのかを議論しないといけないのに、『大災害だから仕方がなかった』で片付けられようとしている」
 第三者の事故検証委員会がまとめた最終報告書は多くの犠牲を出した原因の核心に触れず、責任追及を避けた。再発防止への提言も、検証すべき本質を分かりにくくしていると感じる。
 遺族の一部は子どもの死の真相究明と責任の明確化を求め、提訴に踏み切った。責任をかわしたり、体面を取り繕おうとしたりしているとしか見えない市教委や検証委に失望した。
 命の重みを受け止める検証を司法の場に委ねざるを得なくなった親の思いは、佐藤さんも同じだった。
 葛藤の末、別の決断をした。「裁判は難しい役所言葉の応酬になる。それより中学生でも分かる言葉で大川小のことを伝えたい」。教員でもある自分にできる使命だと思った。
 教え子たちは17文字で悲しみや絆の大切さ、支援への感謝、未来への希望を伝えた。200ページを超える検証委の報告書より説得力があった。
 「大川小の犠牲は救えた命だった。子ども一人一人の姿が命そのものに見えた時、先生や学校は変わる」
 市教委との話し合いを続けながら、願いを込めた言葉を講演会やブログで紡いでいく。

[大川小の津波災害と検証作業] 児童108人と教職員13人のうち児童74人、教職員10人が犠牲になった。地震発生後約50分間は校庭にとどまり、北上川堤防付近に移動中、津波に襲われたとみられる。石巻市教委の調査は助かった子どもの聞き取りメモを廃棄するなどして遺族の不信を招き、第三者の事故検証委員会が設置された。検証委は3月1日、「避難の意思決定の遅れと堤防付近を避難先に選んだことが直接的要因」とする最終報告書を市に提出した。


産経
妹の手に亡き姉の卒業証書 仙台・荒浜小

 東日本大震災の津波で被害に遭った仙台市立荒浜小学校の卒業式が22日、間借り先で開かれた。学校側が「津波で亡くなった3年生の熊谷花瑚さん=当時(9)=も一緒に送り出したい」と提案し、妹で小学4年の海音さん(10)が代理で花瑚さんの卒業証書を受け取った。

 海音さんは震災で両親と2歳年上の花瑚さんを失い、現在は岩手県陸前高田市で祖父母と暮らし、市立高田小に通っている。この日は祖母、隆子さん(72)らと出席。隆子さんは、乗馬講師になるのが夢だったという花瑚さんが馬に乗ってほほ笑む写真を胸に抱き式に臨んだ。

 式場となった仙台市立東宮城野小の体育館で、「熊谷花瑚」と呼ばれると、海音さんは落ち着いた声で「はい」と応じ、他の卒業生と同じように壇上で卒業証書を受け取った。

河北新報
みなし仮設 潜む影(上)肩身狭く/「被災者」と言いづらい

 大規模災害で住まいを失った人が身を寄せる仮設住宅。東日本大震災で仙台市内に避難する被災者の大半が、民間借り上げや公営の集合住宅などで暮らす。いわゆる「みなし仮設」。プレハブ仮設と違って居住の実態が見えにくく、制度も多くの問題点をはらむ。見えない被災者の現状と課題に迫った。(報道部・佐々木智也)

<近所とは疎遠>
 JR仙山線東照宮駅(青葉区)から歩いて10分。古い住宅地の路地を入った突き当たりに、築13年のアパートが建つ。
 7.5畳の居間に簡素な台所が付く1K。「初めは部屋にこもってばかり。気持ちもひどく落ち込んだ」。南三陸町志津川の自宅が津波に流され、青葉区のみなし仮設で1人暮らしの西条せつ子さん(77)は振り返る。
 結婚を機に50年以上暮らした志津川では、自宅を頻繁に訪ねてくる友人に囲まれ、にぎやかだった。それとは対照的に、学生向けのアパートで近所付き合いは一切ない。
 みなし仮設に入り、震災前から市内で暮らす長男(44)と長女(42)宅とを行き来するようになった。離れ離れだった家族との距離が、皮肉にも震災で縮まった。
 「この先は、子どものそばで生きていく」。そう心に決めた西条さんは昨年5月、住民票を仙台に移した。

<自力再建遅れ>
 市生活再建支援室によると、市内のみなし仮設は1日現在、8002世帯に上る。
 2年前(2012年3月末)の1万663世帯よりだいぶ減ったが、依然としてプレハブ仮設の約1000世帯を大きく上回る。賃貸物件が豊富な仙台ならではの仮設事情と言えそうだ。
 震災時の居住地は市内63.9%、仙台以外の県内27.8%、福島県7.8%、岩手県0.5%。このうち市内の約7割は津波ではなく、地震の揺れによる住宅損壊などが理由の被災世帯だ。
 支援室の担当者は「もともと賃貸暮らしの世帯が多い。自力再建が遅れ、みなし仮設入居期間が長引いている」とみる。

<4年間に延長>
 宮城野区にあった1LDKの賃貸マンションが全壊し、青葉区のみなし仮設に住むパート従業員の女性(68)は「自分が被災者だとは周囲に言いづらい」と話す。同僚には、みなし仮設への入居を隠している。
 津波で掛け替えのない家族を失ったり、原発事故で古里を追われたりしたわけではない。そんな被災者に比べ「肩身が狭い」と言う。
 みなし仮設の入居期限は1年後の14年度末。当初2年間だったが、住宅再建の基盤整備に時間がかかっているため4年間に延びた。
 女性は、みなし仮設で暮らすのは市内の災害公営住宅が完成するまでと決めている。
 給料と年金で月14万円の収入がある。国と県が家賃の全額を負担してくれるみなし仮設を退居しても、最低限の生活はできる。
 「体が元気なうちは仕事を続け、自分の稼ぎで暮らしたい」と自分に言い聞かせる。

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朝から3.11映画祭/神保町・エチオピアで激辛カレー

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140320_couscous_los_barbados

Il faut que je rentre avant que ma femme ne revienne.
妻がもどってこないうちに家に帰ってなくちゃ.
接続法現在です.

写真は渋谷のLos barbadosで食べた野菜とヒヨコ豆のクスクスです.美味しかったですよ.

今日は1日3.11映画祭で映画を見ました.3331 Arts Chiyoda(アーツ千代田 3331)が会場です.文京区と思ってましたが,千代田区なのでした.

1本目は石巻市立湊小学校避難所です.ゆきなちゃんという小学生が出てきて10歳の誕生日を避難所のみんなが祝ってくれていました.避難所にいるのはお年寄りが多いように思いました.

2本目はうたごころです.主人公は南三陸に住んでいますが,通学のため気仙沼に通っています.わたしが小学生のころ住んでいた街です.その頃通っていた南気仙沼小学校は東日本大震災のせいで廃校になってしまいました.気仙沼小と統合というのが正確なのでしょうけれど・・・4年生までしか気仙沼にいなかったので卒業生ではないですが,母校みたいなものです.そんなことを思い出しながら見ました.

上映の後トークショーがありました.監督の榛葉健さんのお話は非常に温かみのあるもので,よかったです.
3本目はフタバから遠く離れてで埼玉県立騎西高等学校を避難所としている双葉町の方々の映像です.

夕方は神保町・エチオピアまで行って激辛カレーを食べました.55倍の辛さです.平日だったら明治大学の師弟食堂かな???と思ってみてみたらスカイラウンジ暁ということで移転していたんですね.

朝日新聞
雨の野音、4千人が「解釈改憲を許すな」

 集団的自衛権行使容認の阻止をめざす「戦争をさせない1000人委員会」の集会が20日、東京都千代田区の日比谷公園野外音楽堂で開かれた。雨の中、主催者発表で約4千人が参加し、「安倍政権による解釈改憲を許すな」と声をあげた。

 委員会発起人の一人、作家の大江健三郎さんは「集団的自衛権を使うということは、アメリカと一緒に戦争をするということ。この戦争には参加し、この戦争には参加しない、というわけにはいかない。世界中で戦争をするアメリカとともに、先頭に立つことは避けよう」と訴えた。

 憲法研究者の山内敏弘・一橋大名誉教授は「集団的自衛権の行使容認とは、憲法の定める立憲主義と平和主義を根底から破壊するもの」と批判。作家の落合恵子さんは、安倍晋三首相が東京電力福島第一原発の汚染水漏れを「アンダーコントロール(管理下にある)」と発言したことに触れ、「(発言を)この国のトップに返しましょう。戦争をしたいあなたたちを、戦争をさせないと決めた私たちがコントロールしていく」と呼びかけた。

 イラク復興支援で2006年にクウェートに派遣された元航空自衛隊員の池田頼将(よりまさ)さん(42)は、訓練中に米軍関連車両にはねられて負傷。首などに後遺症が残り退職し、国に損害賠償を求めて係争中だ。「僕のように負傷したからといっても十分に補償されない。集団的自衛権(行使)になると、さらにこういった問題が増えると思う」と語った。

 委員会は今後、全国各地で集会や署名活動を進める予定。問い合わせは、事務局の電話(03・5289・8222)か、ウェブ(http://anti-war.info)。(田井中雅人)


河北新報
透明な力を 第4部・古里を離れて(5)完 心に傷負う 子癒やせる人に

 傷ついた子どもの心を癒やしたい。遠藤悠華さん(16)=仙台東高1年=は、震災のつらい体験を、将来の職業に生かしたいと思う。
 石巻市鹿妻南の自宅が被災した。父伸太郎さん(42)と母桐恵(ひさえ)さん(42)、妹の桃華さん(15)=宮城野中3年=と裕美さん(11)=榴岡小5年=の5人で仙台市宮城野区のみなし仮設住宅で暮らす。
 震災発生から2日後、家族と離れ離れになった避難所に父が迎えに来てくれた。安心感はすぐに消えた。現実とは思えない話を聞いた。

 近所に住んでいた、いとこの遠藤花さん=当時(13)=、奏さん=同(8)=が津波にのまれて亡くなり、侃太(かんた)君=同(10)=は行方不明だという。
 「また一緒にカラオケに行きたいな…」。外の様子が分からない避難所で、そんなことを思ったりしていた。心が張り裂けそうになった。泣き崩れた。
 花さんとは同い年で、特に仲が良かった。そろって渡波中に入学した。見せ合ったテストの成績はいつも同じぐらい。友達に「見た目も性格もそっくりだね」と言われたこともある。
 中学で始めた交換ノート。「好きな人ができた」。花さんから告げられた。「応援するね」と約束した。
 仙台の中学校に転入し新学期が始まっても、心にぽっかり穴が開いたままだった。1人でいると落ち込んでしまう。不意に涙がこぼれ、窓の外をぼんやり眺めることが多くなった。
 石巻の中学時代と同じ吹奏楽部に入ろうとしたが、ちょっとの間、練習しないだけでクラリネットが吹けなくなっていた。情けなくなった。
 部員不足のソフトボール部に誘われた。運動は大の苦手。グラブのない右手で捕球し、指の骨が折れた。練習は休まず、左手だけで素振りした。フォームが安定し、大会に指名打者で出場できた。気持ちが少し上向いた。

 子どもが好きで、震災前から保育士の道を進もうと思っていた。悲しい体験を経て、親しい人を亡くしたりした子どものために働きたいと願うようになった。
 児童養護施設で働く心理カウンセラーを紹介するテレビ番組を見て、「こういう人になりたい」と思った。大学に進学し、心理学を専攻しようと考えている。
 あの日から3年がたった11日、両親と妹と、いとこの自宅があった場所を訪ねた。祭壇にじっと手を合わせ、誓った。
 「みんなの分まで頑張るよ」
(震災と子ども取材班)


河北新報
「復興に遅れ」宮城県民6割が実感 「廃棄物の処理」6割超満足

 東日本大震災からの復旧・復興事業の進み具合について、宮城県民の約60%が遅れていると感じていることが県の意識調査で分かった。前年調査より割合はやや下がったが、依然として高率。分野別では、原発事故への対応や地域社会の再建、被災者の生活支援などで復興を実感できない人の割合が高かった。

 復旧・復興事業全般に関する質問では、「遅れている」「やや遅れている」と回答した県民が合わせて59.4%(前年比7.1ポイント減)に上った。「進んでいる」「やや進んでいる」は31.6%(6.6ポイント増)だった。
 地域別では、被災規模が大きい沿岸部で遅れを感じる割合が64.7%(5.8ポイント減)と高く、内陸部の55.9%(7.9ポイント減)を上回った。
 県が県震災復興計画に掲げた緊急重点項目に沿ってみると、「原子力災害への対応」に遅れを感じる県民が78.0%(2.7ポイント増)で最多。「安全・安心な地域社会の再構築」53.9%(8.6ポイント減)、「被災者の生活支援」53.2%(7ポイント減)が続いた。
 復旧・復興事業の分野別に満足度を聞くと、「沿岸市町などのまちの再構築」「雇用の維持・確保」「海岸、河川などの県土保全」「被災者の生活環境の確保」の各項目で30%以上が不満と回答。「廃棄物の適正処理」は、年度内にがれき処理が完了することもあり、61.3%(8.6ポイント増)が満足と答えた。
 県震災復興政策課は「仮設住宅の解消など、来年度は県民の目に見える形で復興を推進し、数値の改善につなげたい」と強調する。
 調査は昨年12月、県内の20歳以上の男女4000人を対象に郵送で実施。回収率は53.68%。


朝日新聞
強制送還―死への経過、再検証を

 日本で20年以上暮らし、日本人の女性と家庭を築いていた。

 だが入管は、在留期限が切れたとの理由で拘束し、猿ぐつわをして国外に出そうとした。

 その途中、このガーナ人男性は死亡した。4年前に成田空港で起きた事件をめぐり、東京地裁は入管の責任を認めた。

 入管職員による過剰な制圧が男性を窒息死させたと断じた。硬直した入管行政を考え直す契機とすべきだ。

 この強制送還の手続きで、いったい何が起きたのか。だれが責任を負うのか。法務省は再検証をしなくてはならない。

 同省は、本人の持病による病死と主張し、入管職員の制圧に問題はなかったとしていた。

 だが判決は、男性は飛行機内でほとんど抵抗しておらず、入管の制圧のやり方は違法だったと結論づけた。

 千葉地検は2年前、職員たちの不起訴処分を決めている。今後の検察審査会の判断を待つまでもなく、検察は見直し捜査を始めるべきだろう。

 そもそも入管の手続きは、外部の目にさらされることが少ない。国内の容疑者らの拘束をめぐる刑事手続きと同様に、きちんと監視の目を行き届かせる仕組みを検討すべきだ。

 国外退去を命じられる人の中には、在留期限を過ぎてはいるが、犯罪に手を染めることもなく、仕事や家族などを通じて日本の社会にしっかり根をはった人が少なくない。日本で教育を受けた子をもつ人もいる。

 様々な事情を抱える人びとを一律に犯罪者を見る目で扱うことは避けるべきではないか。

 退去の対象となっても、法相が特別に在留を認める制度はある。法務省は06年から、考慮される事情を示したガイドラインを公開しているが、認められるかどうかは当局の裁量にまかされている。

 事件後、法務省は本人の同意がない送還を控えていたが、その後再開した。以前は民間機で一人ずつだったが、現在では、ほかの一般客への影響を考慮して、チャーター機で一斉送還している。

 一人ひとりの事情を勘案するよりも、一つの便で多人数を送還する効率が優先されがちだ。在留を求め裁判を準備しているさなかに対象になったケースもあるという。

 どの国籍の人が、世界のどの地にいても、人間としての権利をもつのは同じはずだ。多様な理由で日本に生活の基盤をもつ人びとを、できる限り受け入れ、共生する寛容な社会でありたい。


朝日新聞
(東日本大震災3年)被災校へ、支えたいから 志願の教師、手探りの授業

 「あの日」を引き継ぐとは。復興とは。東日本大震災の後、津波被害を受けた東北地方沿岸部の学校に志願して赴任した教師たちが自問している。津波を経験した同僚が異動で学校を去る中、手探りが続く。

 岩手県山田町立山田北小学校の6年生の教室。「町役場の人に聞きたい質問を考えてみよう」。菅野晋(かんのすすむ)教諭(40)が学級の9人の子どもたちに呼びかけた。役場の若手職員を招き、どんな町にしたいか話し合う。

 震災当日、校庭に津波が押し寄せた。迎えに来た保護者と帰宅した後、命を落とした子が2人。父を失った子もいる。数人が、なお仮設住宅に暮らす。

 菅野教諭が内陸部の同県金ケ崎町の小学校から山田北小に赴任したのは震災翌年の2012年春だった。

 ボランティアで沿岸部に通い、何かしたい、しないといけないという気持ちが募り、被災地を志望した。妻、3人の子と離れて一人、アパートに暮らす。

 最初は津波のメカニズムを学ぶ授業をと考えたが、踏み切れなかった。迷いながら試みたのが、復興を目指す町の人々に話を聞きに行く活動だ。カキやホタテの養殖を復活させようとする漁協の人、商店街組合を立ち上げ、町づくりを提言する人……。

 水産加工を手がけていたが津波で養殖ができなくなり、弁当の宅配を始めた店主がいた。なぜ弁当店を、と子どもらが聞き始めると声を詰まらせた。

 「しゃべれねえ」。生きるために始めたが、客の励ましに支えられたという。

 店主は言った。「俺らはもう花を咲かせられねえ。俺にできるのは耕して種をまくことだ」。そして児童一人ひとりの頭をなでた。

 子どもらは、もじもじしていた。だがその後、学習の成果を発表する劇に店主を登場させた。タオルの鉢巻きに黒ひげをつけ、「俺にできるのは耕して種をまくことだ」と同じ言葉で。

 「地域の人との出会いが子どもが街を担う10年後、20年後、きっと生きる」。菅野教諭は確信した。

 佐藤理央君(12)も言う。「子どもは地域の宝だと言ってくれ、うれしかった。大人が頑張って津波を乗り越えてきたから、僕らがもう一度町をつくる」

 北小にはもう1人、被災地を志願し、12年に軽米町の小学校から来た浅倉修教諭(54)がいる。

 教務担当として学校の年間計画を立てた。子どもと向き合う時間をつくるのに鼓笛パレードなどの行事を削りたいと提案するが、次々反対にあう。

 やがて気づいた。ここで震災に遭った先生は元の学校に戻し、子どもに日常を与えたいのだと。子どもも同じ行事をやりたがった。

 毎月11日、校長と1人の教員が学校から消える。亡くなった子の墓参りに行っていたと後でわかった。「何も知らなかった。俺は、グランドキャニオンの対岸にいるんだ」

 いま考えているのは、4月、みんなで高台に上り、海の絵を描くことだ。

 「山田の海の空気やにおいを感じてほしい。子どもはサケの稚魚。故郷の川に戻って来られるように」

 当時を体験した子や教職員の思いを大切にしながら、背中をそっと押す。それが、後から来た教師の役割だと思っている。


 ■教え子ら感謝の言葉

 津波の被災校に志願して異動した小中学校の教員は、12、13年春合わせて岩手県63人。仙台市15人。宮城、福島県は「希望したかどうか県教委の資料には残っていない」という。

 昨春、宮城県白石市から山元町立山下小に赴任したのは高橋研一教諭(51)。5年生を担任し、復興を担う人に育ってほしいと、学習発表会で、町の人が作った歌と子どもの思いをつづった作文を組み合わせた。

 同県女川町立女川中の殿村泰弘教諭(56)は震災翌年、利府町から赴任。かつての教え子たちは言った。「先生、来てくれてありがとう」

 被災地は不登校の子が増えている。担任らと手分けして家に行き、盛り上がるこたつ布団をポンとたたいて「来ねえか」。それだけ言って帰る。同校では不登校の生徒は少しずつ減っているという。

 神崎哲男教諭(57)も震災翌春、同県大衡村の小学校から石巻市立湊中へ。父親を津波で亡くしたかつての教え子を2、3カ月に一度、車に乗せ、墓参りに行く。並んで海を見ながら、父や仮設の暮らしについて話すのを聞く。「子どもの心の居場所をつくりたい」と話す。

 (編集委員・氏岡真弓)


毎日新聞
思い重ねて:東日本大震災3年 「長い夢のよう」 長男を失った43歳女性 心に穴、涙も流れず

 肌寒い日だった。岩手県陸前高田市の広田半島の付け根にある小友(おとも)町のオートキャンプ場に設けられた仮設住宅の前には、数週間前の雪が残っていた。

 紺野直子さん(43)は、長男将成(まさなり)君(震災当時14歳)の写真を手にぽつりとこぼした。「忘れたわけじゃない。でも、感情が湧いてこなくて。涙も出なくなった。無なんです」

    ◇

 小友中学校の2年生だった将成君は、東日本大震災の発生当日、野球部の仲間7人と市の中心部へ遊びに出かけていた。市民体育館に逃げ込み、100人を超える人々とともに津波にのまれた。遺体は3日後、鉄骨がむき出しになった体育館の3階で見つかった。

 体育館は避難所に指定されていた。「こんなもの一日も早く取り壊してほしい」。前を通るたび、激しい憎しみがこみ上げた。

 少年たちは保育園からの同窓で、母親たちも互いに顔なじみだった。2012年3月上旬、当時同市などを中心に取材していた私は、母親たちに一周忌を目前にした心境を聞かせてほしいと頼んだ。「みんな一緒なら」と集まってくれた。

 「『腹減ったー、今日は何よ夕飯』って冷蔵庫開けて、竹輪とかスライスチーズつまみ食いするんだよね。台所に立って振り向いたら、そこにいる気がして……」。紺野さんは目を真っ赤にして息子への思いを語った。

 12年秋、体育館の解体が始まった。あれほど望んだことだったが、無くなってしまう前に目に焼き付けておきたいと思った。何度も工事現場へ足を運んだ。黄色いテープをくぐり、夢中でカメラのシャッターを押した。

 涙が出なくなったのは、その後だ。三回忌で訪れた跡地は、雑草に覆われていた。花を供え、手を合わせた。何の感慨もなかった。人ごとみたいだった。

 悲しみと入れ替わるように、むなしさが心を占めるようになった。次女優花ちゃん(11)の通う小学校の行事に顔を出せなくなった。教室のにぎやかな光景を目にしたくない。深い溝を感じて我が子を亡くした母親たちと話すこともなくなった。仮設住宅では近所付き合いもしていない。隣町にある勤務先の食品加工会社と仮設住宅を往復する、それだけの毎日になった。

    ◇

 久しぶりに会った紺野さんは、以前より笑顔が減ったように見えた。

 「もう3年なんですね。長い夢でも見ているみたい」。夫とは震災後、感情のすれ違いから別居している。この春高校を卒業した長女は4月から群馬県の旅館に就職し、優花ちゃんと二人きりになる。「こんなお母さんでごめんね」と、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。せめて一緒にいる時は、ぽっかり開いた心の穴を、隠そうと努めている。

 「将来は介護士か看護師になりたいって言ってた。将来が楽しみだったな。いたんだよね、息子……。もしかしたら、震災前が夢だったのかな」

 ねずみ色の空を仰いだ。【市川明代】

毎日新聞
東日本大震災:母兄が津波犠牲、妹「星の電飾見えるかな」

 ◇岩手・釜石で夜空を見上げてつぶやく

 流れ星のイルミネーションが輝いていた。岩手県釜石市定内(さだない)町の菊池通幸(みちゆき)さん(66)が東日本大震災後、近所にある長男辰弥(たつや)さん(37)の自宅外壁に取り付けた。孫の風音(かざね)ちゃん(6)は時折、夜空を見上げてつぶやく。「お母さんとお兄ちゃんに見えるかな」

    □

 震災直後の3月下旬。釜石市鵜住居(うのすまい)町の遺体安置所に、紙のかぶとをかぶった男の子の写真が張られていた。菊池さんが孫の涼斗(すずと)君(当時6歳)の情報を求めて張ったものだった。涼斗君は、菊池さんに買ってもらったランドセルを背負い小学校に通うのを楽しみにしていた。

 涼斗君は母琴美(ことみ)さん(当時34歳)の実家から、近くの鵜住居地区防災センターに母子で避難した。津波で200人以上が犠牲になった場所だ。

 「涼斗は寂しがりや。母親の琴ちゃんにしがみついていたはず」。菊池さんは当時、私や同僚にそう繰り返し、防災センターの室内に積もった泥や備品の山をかき分けていた。琴美さんの遺体は2階で見つかっていたが、涼斗君の行方は分からないままだった。

 「やっぱり、センターにいた」。4月7日、菊池さんが連絡をくれた。私が東京に戻って1週間たっていた。辰弥さんが1階で涼斗君の遺体を見つけたという。菊池さんはむせび泣いていた。

 涼斗君は星のイルミネーションが大好きだった。クリスマスになると、近所の飾り付けを見て回った。菊池さんは震災の翌年の冬、辰弥さんの家に星の電飾を付けた。「天国から見たら、家さ分かるかなと思って」

    □

 震災から3年がたち、風音ちゃんは涼斗君と同じ年齢になった。私は2月に菊池さんを再訪した。辰弥さん宅で風音ちゃんが迎えてくれた。「ビデオ見ようよ」。風音ちゃんがリモコンの再生ボタンを押した。震災前の夏に撮影されたホームビデオの映像には、Tシャツ姿ではしゃぐ兄妹がいた。

 「だ、だ、だ、だめだめ」。カブトムシをつかもうとする風音ちゃんを、怖がる涼斗君が慌てて止める。「ね、お兄ちゃん面白いでしょ」。風音ちゃんが笑うと、菊池さんは「風音はこの場面が好きでね。幸せだった」と目頭を押さえた。

 辰弥さんがそっと教えてくれた。「私はまだビデオを見る気になれなくて。帰宅すると、風音は消すんです。気を使ってくれて」

 春から、風音ちゃんは、涼斗君が行くはずだった小学校に通う。酒を楽しむ菊池さんにいたずらっぽく言った。「じいちゃん、飲み過ぎはだめ」。菊池さんは「普通に元気に大きく育ってくれれば、それが一番の望み」と笑った。そして、風音ちゃんを抱き寄せた。【鈴木一生】

フランス語
フランス語の勉強?

渋谷→鶴見→経産省前で新宿に泊まります

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Si tu n'avais pas bu trop de vin, tu n'aurais pas eu mal à la tête.
そんなにワインを飲みすぎてなければ、きみも頭痛なんてしなかっただろうに.

朝少ししんどい感じです.渋谷のアップリンクuplinkで映画を見るので,小田急+京王井の頭線で渋谷まで移動しました.小田急はそんなでもなかったですが,井の頭線は殺人的な混み具合でぎゅうぎゅうでした.どうにか渋谷についたのですが,でもそこから迷ってしまいました.109が見つからず,当然東急もわからない.雨の中いろいろ人に聞いてもイマイチな返事ばかり.映画館に電話して,どうにか時間に間に合いました.見た映画は,1000年後の未来へ−3.11保健師たちの証言−です.

ちょっと歩いてロス・バルバドス (Los Barbados)で野菜とヒヨコ豆のクスクスを食べました.実はクスクスあるとは思ってなかったのでラッキーでした.
食後はJRで鶴見まで出かけました.少ししんどい感じ.そして再びJRで新橋まで.経産省前まで少し歩いてテントの人に少しカンパをしました.ホテルは決めていなかったのですが,疲れてきたこともあり,新宿の安いホテルにしました.

河北新報
仮設住民、なお精神面不調 宮城県・本年度調査

 東日本大震災に伴い県内9市町のプレハブ仮設住宅で暮らす被災者のうち、精神的なストレスによる不眠などで日常生活に支障が生じかねない状態にある人は8.3%を占めることが、県が本年度実施した調査で分かった。割合は前年度調査から1.2ポイント低下したものの、全国調査を上回る高い水準が続いている。
 県の調査では、六つの質問で心の健康状態を測定する指標(24点満点)を活用。日常生活に支障が出る可能性があるとされる13点以上(重症精神障害相当)は8.3%で、国が震災前(2010年)に実施した全国調査を3.7ポイント上回った。
 13点以上の割合は、女性が9.3%(前年度10.8%)で、男性の7.3%(8.0%)を2ポイント上回った。男性は80歳以上が11.5%、女性は70代が11.2%、80歳以上が10.6%を占めた。
 調査では、朝や昼から飲酒する習慣の有無も聞いた。「飲酒することがある」と答えた人の割合は2.2%と、前年度より0.4ポイント上昇。特に男性は50代で7.1%(5.2%)、60代で6.4%(5.3%)に達し、上昇ぶりが顕著だった。
 県健康推進課は「精神面で震災の影響を抱える人の割合は依然として高い。市町と連携しケアに当たる態勢を引き続き取りたい」と説明する。
 調査は昨年9〜11月、石巻、気仙沼、名取、岩沼、東松島、亘理、山元、美里、南三陸の9市町の1万5106世帯を対象に実施。50.9%に当たる7686世帯(1万6728人)が回答した。


河北新報
透明な力を 第4部 古里を離れて(4)3姉妹の望郷 時がたち三様

 黄色の外壁が3人のお気に入りだった。傷だらけになった玄関の扉を開け、足を踏み入れると、懐かしい匂いがした。
 遠藤悠華さん(16)=仙台東高1年=と桃華さん(15)=宮城野中3年=、裕美さん(11)=榴岡小5年=の3姉妹は昨年8月、津波で被災した石巻市鹿妻南の自宅を久しぶりに訪れた。
 お盆明けに解体されることが決まっていた。震災前の5年を過ごしたわが家。穏やかな日々の思い出が次々よみがえる。

 友達が集まる「たまり場」だった。リビングのカーテンを閉め切ってお化けごっこをした。友達が来るたびにパンケーキを作って食べた。
 母桐恵(ひさえ)さん(42)が庭でイチゴやハーブを育てた。木工作家の伯父が造ったウッドデッキがあった。津波で亡くなった3人のいとことスイカ割りやバーベキューをした。
 津波は1階天井まで押し寄せた。まるで洗濯機でかき回したように部屋の中はめちゃくちゃになり、柱だけが残った。
 一家で安心して暮らせる場所を求め、父伸太郎さん(42)の職場がある仙台市宮城野区に引っ越したのは、震災発生から1カ月後のことだった。
 思い出の詰まった家がない。3姉妹はそれぞれ仙台の学校に通い、新たな土地での生活に少しずつ慣れていく。時がたつにつれ、古里への思いは三者三様に移り変わってきた。

 桃華さんは昨年、石巻の北上川開き祭りの花火を仙台の友達と一緒に見た。「花火、まじヤバいね」。友達が祭りに感激する姿に古里がまた好きになった。
 足を運ぶたび、「このまま離れたくない」という気持ちが強まる。石巻の高校を受験しようと考えたこともある。
 悠華さんは、怖い思いをした石巻で再び生活することにはまだ抵抗がある。津波を逃れて家族と離れて避難し、二晩独りぼっちで泣き明かした。仙台に引っ越す時、後ろめたさもあったが、心の痛みはまだ癒えない。
 裕美さんは石巻の友達3人と文通を続ける。<ひろみちゃんが石巻に帰ってくるといううわさがあります∨。ある時、手紙にそう書いてあった。
 桐恵さんに確認したけれど、そんな話はなかった。自分が戻ってくることを期待している友達をがっかりさせないよう、どんな返事を書けばいいか困ってしまった。
 「石巻は好きだけれど、仙台にたくさん友達ができたし…」。古里での楽しい思い出を大事にしながら、前を向こうとしている。


朝日新聞
岩手)被災、統合後初の卒業式 大槌小

 19日、震災を機に四つの小学校が統合した大槌小学校で初の卒業式があり、90人が巣立った。

 卒業生は入学した各小学校の校舎が被災などで使えなくなり、震災の年の秋に一つの仮設校舎に集まって勉強を始め、今年度から統合した。

 仮設体育館で菊池啓子校長は、6年間の後半を仮設校舎で過ごした卒業生に「あなたたちがいたから、先生たちも元気でがんばれた。たくさんの喜びをありがとう」と感謝した。



記者の目:東日本大震災3年 大川小を取材して=近藤綾加(仙台支局)

◇遺族の熱意、生かす社会に

 「我が子の命を、決して無駄にはしたくない」。宮城県石巻市立大川小学校で大津波によって最愛の子どもを失った遺族は、この3年間、学校や第三者検証委員会に原因究明と再発防止を訴え続けてきた。しかし、思いが報われているとは言い難い。曖昧さを許さない遺族の真剣な姿勢を事故検証や再発防止に生かすことが、将来の自然災害から命を守ることにつながると思う。

 大川小で犠牲になった児童・教職員84人は校庭に居続け、津波にのまれた。学校裏には山があり、地震から津波到達まで約50分間もあったのに、なぜ−−。疑問を持った遺族は避難行動や学校の災害時対応マニュアルについて、市教委に説明を求めた。

 ◇説明が二転三転、石巻市に不信感

 2011年6月の遺族向け会合で、市教育委員会は助かった児童への聞き取りをもとに「(校庭で)『山さ逃げよう』と言う男子がいた」と説明した。しかし、調査報告書に証言の記載はなく、証言の記録メモも破棄されていたことが判明。12年3月には、証言の存在自体「市教委としては押さえていない」と説明を変えた。二転三転する説明に、遺族には不信感が募った。

 一方で、遺族自身も震災直後から、助かった地元住民や保護者らに聞き取りなどをしてきた。例えば校庭からの移動開始時間について、当初市教委は「(津波到達の)12分前」と説明していたが、遺族は住民の聞き取りなどから、津波到達2分前まで校庭にいたことを突き止めた。6年生だった三男雄樹君(当時12歳)を亡くした佐藤和隆さん(47)は言う。「寒くて、怖くて、逃げたいと思いながら死んでいった子どもの気持ちを思うと、親は全てを知るまで途中で逃げられねっちゃ」

 ◇検証委員に直接質問する場なく

 13年2月、事実解明に行き詰まった市は第三者機関「大川小事故検証委員会」を設置し、検証をスタート。一から客観的事実を求める検証委と、独自調査をしてきた遺族の間で食い違いが出てきた。傍聴する遺族が委員に直接質問できる場はなく、コミュニケーション不足は明らか。先月23日に発表された最終報告書でも、遺族が調べた以上の新しい情報は明らかにならなかった。

 検証委の取材を通して、委員が中立であることは客観的な事実解明に必要だが、それだけでは不十分だと感じた。委員から解明への熱意が伝わって来ないことが、不信を招くのだ。関係者の多くが死亡し解明が困難だからこそ、専門家の客観性と両立する形で、遺族を検証作業に加えることが肝要だったと思う。遺族の熱意を生かすことができれば、より深く、正確な検証に結びつけられたのではないか。また遺族にとっても、子どもの最期の真実に一歩でも近づけたと心休まるものにできたのではないかと残念だ。

 今月10日、遺族のうち19家族は「教職員が子どもたちを守る義務を怠ったことによる人災」として、市と県に損害賠償を求める訴訟を仙台地裁に起こした。提訴後、3年生だった一人息子の健太君(同9歳)を亡くした佐藤美広さん(53)は「なぜ安全なはずの学校で、命を落とさなければならなかったのか。3年間ずっと悩んできた。最後に残された道として、裁判でしか知ることはできないのかなと思う」と語った。しかし私立日和幼稚園(同市)の被災をめぐる訴訟で、勝訴した遺族が「裁判を通して新しく分かった事実は、思い浮かばない」と話すように、法廷での事実究明にも限界がある。

 当時5年生だった次女千聖さん(同11歳)を亡くし提訴した紫桃(しとう)隆洋さん(49)、さよみさん(48)夫妻も「裁判だけではダメ」と言う。隆洋さんは週末、全国から大川小旧校舎を訪れる教職員や教育学部生などに、被災当時の様子などを話す語り部をしている。涙を流す人、勤め先の学校で防災訓練を見直したと手紙を寄せる人−−。そんな出会いを重ねてきた。さよみさんは「思いが伝わったと実感できた時、報われた気がする」。隆洋さんも「学校の先生らに、『絶対に子どもたちの命を守って』と直接伝える地道な行動が、同じ犠牲を生まない確実な方法だと思う」と話す。

 遺族にしか分からない悲しみや絶望、怒りがある。私たちはあまりの惨事に戸惑う中で、その激しい感情を無意識に遠ざけようとしていないだろうか。失われたのが自分の家族の命だったら。救えたはず、救える社会にしたい、と考えるのではないか。遺族の熱意を受け止め、教訓を後世に残せる社会にしていきたい。


毎日新聞
大震災3年:バッテリー組んだ友亡くし 13歳自立誓う

 野球のバッテリーは特別な存在だ。中学生になったんだから、もう頼らないと決めたけれど、ここぞという時、その名を心で叫ぶ。「空、俺は頑張ってるぞ」。宮城県石巻市の石巻中1年、沢田佑(たすけ)君(13)は、小学4年の時に白球を受けてくれた同級生の捕手、松川空君(当時10歳)を東日本大震災の津波で失った。その遺影は野球バッグの中にいつもある。

 「イチ、ニ、イチ、ニ」。今月8日、強風が吹き付ける石巻商業高校グラウンド。中学生硬式野球チーム「石巻中央リトルシニア」の練習に、沢田君の姿があった。グラウンドが震災がれきの置き場になったため、空いているグラウンドを転々としながら、内野手としてボールを追う。

 震災前は投手だった。同市の少年野球団「釜小ヤンキース」(釜ヤン)に所属し、松川君と誓い合った。「6年生の時にレギュラーになって県大会で優勝しよう」。その夢を津波に奪われた。松川君を含む部員3人が犠牲に。全員が被災しグラウンドも浸水した。

 釜ヤンが練習を再開して間もない2011年6月、私は初めて練習を見た。練習場所の学校は、グラウンドの隅にヘドロが残り、多目的室には避難者もいる。「お前らもっと声出せ」。監督が一喝しても、小さな声しか返ってこなかった。沢田君にも、どの子にも笑顔はなかった。

 指導者と保護者、子どもたちが一体となって野球に打ち込もうとする姿にひかれ、私は度々、釜ヤンの練習や試合をのぞくようになった。試合中のベンチには松川君のユニホーム姿の遺影が立てかけられ、チームを見守っていた。3カ月後には、キャッチボールなどで出る声が大きく響くようになった。練習の合間に冗談を言い合う姿に、ホッとした。

    ◇

 中学に進んだ沢田君は「空の力を借りるんじゃなくて、自分の力でやりたい」と思うようになった。釜ヤンの卒団を機に、両親から「空と野球をするのは終わりね。自分でしたい野球をしなさい」と言われたのがきっかけだ。

 もっとうまくなりたいと、全国大会出場経験がある強豪のリトルシニアに入った。「みんな個性的で楽しい」。でも今も、松川君は特別だ。「空、頼む」。1点差のゲームやピンチの時に、沢田君は松川君に祈る。すると、好機にヒットを打てる時がある

 あの日から丸3年となった11日、松川君の自宅で遺影に向かった沢田君は心の中でこう語りかけた。「これからも野球をやっていく。見ていてくれよ」【小林洋子】


毎日新聞
東日本大震災:福島第1原発事故 誇りを胸に、一人きりの門出

 東京電力福島第1原発事故による避難が相次ぎ、昨年4月から在校生1人だった福島市立大波小学校で20日、卒業式が行われた。この1年、一日も休まず登校を続けた6年生の佐藤隆志君は「大波小を卒業したことを誇りに、自信を持って歩んでいきたい」と感謝の言葉を述べた。同校は児童ゼロとなり、来月休校する。

 佐藤君は担任の大室(おおむろ)圭教諭(42)にリボンを着けてもらい、住民ら約50人が集まった式で阿部正明校長から卒業証書を受け取った。父照治さん(59)は「1人の学校生活で精神的に強くなった」と目を細めた。同市東部の山あいにある同小は事故前の児童数は41人だったが、放射線への不安で転校や学区外通学が相次いだ。【蓬田正志】

フランス語
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町田で6人で飲み会→5000円です・・・飲みすぎかな???

ブログネタ
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フランス語はお休みです.テレビでフランス語を見たいのですが,以下に記すように飲んでしまったのでダメです.
今日は朝からまじめにお話を聞きました・・・と言いたいのですが,単に座っていただけというのが正確かもしれません.仕事の後はYanさんたちと飲み会です.町田でお魚料理がおいしそうなお店.6人でわいわいガヤガヤ.5000円もかかってしまいましたが,まあ仕方ありません.さらに困ったことには飲みすぎかもしれません.

河北新報
命の尊さ胸に 気仙沼・小泉小で卒業式

 県内の多くの公立小学校で18日、卒業式があった。よく学び、支え合った学校生活、命の大切さを学んだ東日本大震災。卒業生はさまざまな思い出を胸に、親しんだ学びやを巣立った。
 震災の津波で多くの児童の自宅が被災した宮城県気仙沼市小泉小(児童76人)では、6年生12人が卒業式に臨んだ。
 はかまや着物姿の卒業生は三浦雅彦校長から卒業証書を手渡され、それぞれ中学校生活での目標を発表した。及川美知さん(12)は「数学と英語を頑張りたい」、三浦太紀さん(12)は「勉強と部活を両立させたい」と元気よく誓った。
 卒業生は全員で言葉をつなぎ、6年間の思い出をつづった。3年生のときの震災にも触れ、「雪の降る寒い日で、みんなで励ましあった。僕たちも将来は地域の人たちを助けられるようになりたい」と振り返った。
 同校は小泉地区の高台にある。震災後、児童の7割以上が仮設住宅やみなし仮設に入居し、今なお4割ほどが仮設暮らしを強いられている。
 三浦校長は式辞で「ふるさとの復興はこれから。みなさんには夢を持ち、努力を続けてほしい。いつの日か、復興に貢献する姿を見ることができるのを楽しみにしている」と力づけた。
 この日卒業式を実施した公立小は109校。19日は最も多い383校で卒業式があり、24日まで続く。


河北新報
透明な力を 第4部 古里を離れて(3)狭い家で工夫 母の日は特別

 母の日の「サプライズ」は遠藤家の恒例行事だ。住むところが変わり、家が狭くなっても、3姉妹は続けたかった。
 昨年5月の日曜日。「ママ、文房具屋さんに連れてってよ」。末っ子の裕美さん(11)=榴岡小5年=が、母親の桐恵(ひさえ)さん(42)を誘い出した。
 2人が出掛けると、長女悠華さん(16)=仙台東高1年=がケーキ作りに取り掛かり、次女桃華さん(15)=宮城野中3年=は近所のスーパーに買い出しに走った。
 遠藤さん一家は宮城県石巻市鹿妻南にあった自宅が津波で被災。それから1カ月後、父伸太郎さん(42)の職場がある仙台市宮城野区に引っ越した。2度の転居を経て、JR仙台駅東口近くの賃貸マンションで暮らす。
 震災発生の5年前に買った石巻の家は2階建てで、リビングのほかに部屋が四つあった。
 宮沢賢治の「注文の多い料理店」をまね、「髪をとかしてください」「ワンピースを着てください」といった指示書をあちこちに置いたりする凝った企画もできた。

 みなし仮設は2LDK。大がかりな仕掛けはできなくなったけれど、3人は母への変わらぬ感謝を伝えたかった。
 部屋にこっそり隠していた花束を、戻ってきた母親に贈った。桐恵さんは娘たちの作戦に気付いていた。でも、うれしくて驚いたふりをして歓声を上げた。
 6畳の洋室が3人の寝室だ。布団を敷き詰めて寝る。周囲には洋服や学校の道具があふれる。リビングは夜、桐恵さんの寝室に変わる。伸太郎さんが4畳半の和室を仕事部屋兼寝室として使っている。
 勉強場所の確保にも苦労した。家に学習机を置けるスペースはない。高校受験を控えていた悠華さんは、キッチンにござを敷いて小さな机に向かった時もあった。
 仙台駅前の複合ビルに見つけた図書室には、「自習場所ではありません」と貼り紙があった。足を延ばした別の図書館は、人が多くて落ち着かない。

 市の広報紙で復興支援のNPOが学習スペースを提供しているのを知った。週3、4日、放課後に3人で通い出した。
 ボランティアの大学生が指導してくれる。「お兄さん、お姉さんが優しく教えてくれるんだ」と裕美さん。勉強が終われば、学校の出来事や石巻の思い出話に花を咲かす。
 環境が大きく変わり、寂しい思いもしているのに、3人は愚痴やわがままを言わなかった。「けなげに頑張る姿を見て親も元気をもらっている」。伸太郎さんと桐恵さんはそう感じている。


産経
東日本大震災3年 産経「前を向ける人は前を」「心の復興」へ視点さまざま

 東日本大震災から3年となる3月11日を中心に、各紙とも数日にわたり震災関連の社説を掲載した。多くのテーマがさまざまな視点から取り上げられた。

 原発問題では産経が13日付で、再稼働は国が前面に出て説得に当たれと迫り、「それができないなら、日本は米国の有識者から危惧されたように『一流国家』の看板を下ろさざるを得なくなる」と論じたのに対し、朝日は「そもそも、なぜ再稼働が必要なのか」(12日付)、東京は「原因解明が不十分なまま再稼働だけを急いで、本当に大丈夫なのだろうか」(9日付)と、ともに疑義を呈した。

 このように論調が対立するものもあったが、社説全体を通読してみると、3年の節目でもあるからか、被災者や被災地の人々の心に目を向けた論述が多かったように見受けられる。

 産経は11日付で、「『風化』などという言葉がどれほど実態とかけ離れているか、被災地を訪れれば思い知るだろう」と復興も遅れがちの厳しい現状を見据えたうえで、「それでも3年がたった。無理強いをしてはいけない。だが前を向ける人は、前を向いてほしい」と書いた。普段の主張(社説)とはやや異なり、被災者らの心情に訴えかけるような筆致である。

 被災地でワイナリー造りを志した一人の青年とその仲間の活動を紹介するなかでは、「被災地で同志や同世代の輪が広がりつつある。こうした若い芽をつぶさず育てることこそ、本当の復興につながるのではないか」とも問いかけた。一方で政府には、人々が前を向くための支援を求めている。

 読売(10日付)と朝日(同)は、被災地の子供の心に視線を注いだ。読売は「阪神大震災の3年後に、精神面の配慮が必要な小中学生の数がピークとなったことを考えると、これからが心のケアの正念場」と示し、被災地で不登校が顕在化していることについて「スクールソーシャルワーカーの増員など相談体制の強化が、国や自治体に求められる」と述べた。

 朝日は「被災した子の3割が強い不安や不眠などに苦しむ」との深刻な状態を伝える一方で、「経験を糧に、子どもたちは何のために自分は学ぶのかを深く考え始めているようだ」と「希望の芽」にも触れた。

 仮設住宅居住者の心のケアに関しては、毎日(11日付)、東京(10日付)、日経(9日付)などが言及している。

 「狭くて粗末な仮設の早期解消は、震災関連死や(中略)孤独死を防ぐために喫緊の課題だ」「住民の健康管理や心のケアも大きな課題だ」(毎日)、「仮設住宅の生活が長引いてうつ状態やアルコール依存になる人も急増している」(東京)

 日経は「高齢の被災者は高血圧や心臓病などの持病を抱えている人が多いが、医療や介護の人材が足りない」「心のケアに努める人材ももっと要る」と人材確保の困難に焦点を当てた。

 被災地の人々の心を傷つけ、復興を妨げているものの一つに「風評被害」がある。これについて産経(12日付)は「自分の中の小さな風評と向き合うこともあるだろう。その積み重ねが、被災者に寄り添い、復興を支える力になるはずだ」として、国民自らの心がけ次第で風評被害はなくなることを示唆した。毎日(11日付)も同様に「国民一人一人が復興を妨げる芽を摘みたい」と説く。

 真の震災復興へは、道はまだまだ遠い。が、被災者や被災地の人々の「心の復興」を抜きにしては、いかなる復興策も十分に功を奏し得ないだろう。(清湖口敏)

■「3月11日」付の各紙社説 

 産経

 ・前を向き復興への夢語れ/政府は効果的な長期支援を

 朝日

 ・復興への道/住民の納得があってこそ

 毎日

 ・まだ程遠い復興への道

 読売

 ・住まいの再建が喫緊の課題だ/支援の「格差」是正に目配りを

 日経

 ・日本は変われるか/専門超える知を集め想定外なくせ

 東京

 ・死者の声に耳傾けよ



産経
【忘れない〜東日本大震災3年】
「娘に晴れ着を…」メークされた1枚の写真、成人式に  

 晴れ着姿の同級生に抱かれた遺影には、鮮やかなピンクの振り袖を着た娘の姿があった。1月12日、岩手県陸前高田市で開かれた成人式。同市の会社員、佐藤健二さん(51)が東日本大震災の津波で失った長女の千(ち)明(あき)さん=当時(17)=を思い、準備した写真だ。

 「最初は同級生を祝いに行こうと思ったんだけど、せっかく行くなら、振り袖姿の千明を連れて行きたくて」。昨年末、知り合いの印刷会社社長に頼み、高校生だった千明さんの写真に振り袖とヘアメークを施してもらった。

 ピンクが大好きだった千明さん。「きっとこんな感じの着物を着るんじゃないかな、と想像しながら選んだ。本当に成人式の前撮り写真みたい」。健二さんは写真をじっと見つめた。

 写真を直視できるようになったのはつい最近のことだ。「あまりにも自分がイメージしていた20歳の千明と合致していて、最初はつらくて見られなかった」

         ■

 県内最多の死者・行方不明者を出した陸前高田市。その数は1814人に上る。水泳部だった千明さんはあの日、沿岸部にあるプールで練習中だった。多くの犠牲者が出た市民会館に避難しているときに津波にのまれたとみられる。

 健二さんは岩手、宮城両県の病院に手当たり次第に電話をかけまくり、市内の遺体安置所をめぐった。海岸沿いを歩き、手がかりを探した。それでも千明さんは見つからなかった。

 苦しい気持ちを抑えて平成23年12月30日に死亡届を提出し、翌1月に葬儀を行った。「葬式は済ませたけれど、遺体が戻ってこないから、どこかでまだ生きているような気がして」

 健二さんの中では、あの日で時間が止まったままだ。いつもと変わらない朝だった。歯磨きの時間、慌ただしく千明さんと洗面所の取り合いをした。最後に交わした言葉は覚えていない。それが余計に悲しい。

 千明さんは兄と弟に挟まれた3人きょうだいの真ん中。「いつまでも明るい子でいてほしい」との思いを込めて付けられた名前の通り、明るく、にこにこと笑顔の絶えない17歳だった。

 よく夜更かしをして朝寝坊をしたり、魚介類が好きだったり。「千明はおれに似たところが多くて。『親より先に子供が逝くとつらい』とよく聞くけれど、これかあという感じ」

          ■

 震災から3年。「娘は17歳のまま年を取らないけれど、娘の同級生たちが成長する姿を見て『大人になったらこんな感じかな』と想像しながら生きていく」。成人式で千明さんの同級生たちと会い、その思いを強くした。

 今、心に決めていることがある。定年になったら本格的に娘を捜すつもりだ。

 「どこかで見つけてもらうのを待っているはず。海岸沿いなど捜せるところはもう一度捜すからね。もうそろそろ、いろいろめぐって帰ってきてもいい頃なのになあ」。娘の写真に語りかけた。(奥田翔子)


毎日新聞
東日本大震災:重なった姉妹の手 地滑りで夫と娘2人失う 最期知り生きる勇気

 東日本大震災では、津波だけでなく、大規模な地滑りで奪われた命もあった。13人が土砂にのまれた福島県白河市葉ノ木平地区。震災2日後、最初に発見されたのは、19歳と23歳の姉妹の遺体だった。夫も犠牲となり、生きる希望を見失っていた母の渡辺美野(よしの)さん(53)は、昨年になって「2人の手は重なり合っていた」と知った。「最後まで力を合わせたんだ」。自分も前を向いて生きよう。そんな勇気をもらえた。【大平明日香】

 市街地から北東1・5キロの山あい。震災の激しい揺れで、山の斜面が幅130メートルにわたって崩れた。土砂の量は約7万5000立方メートルに上るという。民家10軒がのまれた。

 渡辺さんは夫登さん(当時53歳)と長女美穂さん(同23歳)、次女沙織さん(同19歳)の4人暮らしだった。あの日、渡辺さんだけが仕事で自宅にいなかった。激しい揺れの直後、自宅に戻ったが、手の施しようがなかった。午後9時過ぎに到着した重機の前で「早く掘って」と泣き叫んだことを覚えている。3月13日夕、折り重なるようになった沙織さんと美穂さんの遺体が見つかり2日後、登さんも見つかった。

 崩壊した自宅は土砂にまみれ、家財道具はほとんど残らなかった。美穂さんが成人式に着た振り袖だけが木箱に入ってきれいな状態で見つかり、1年後に着るはずだった沙織さんのひつぎに納めた。

 誰に頼って生きていけばいいのか−−。家も家族も奪われ、生きる気力を失った。後を追うことも考えた。「お墓を守るのは私しかいない」と無理やり自身を鼓舞した。

 2012年9月、市営住宅から、登さんがオーナーだった災害現場脇のアパートに移った。昨年3月だった。1人の男性が訪ねてきた。現場に立ち会い、姉妹の死亡を確認した医師だった。

 「2人は手と手が重なり合って発見されました」

 具体的な状況を聞くのは初めてだった。我慢強くしっかり者の美穂さん。わがままで甘えん坊の沙織さん。性格は正反対なのに、洋服の貸し借りをしたり、一緒に買い物に出かけたり。震災前の1月の渡辺さんの誕生日には、登さんと3人で腕時計をプレゼントしてくれた。「最期まで一緒で良かった」。少し救われた気がした。

 現場は更地になり、防災機能を備えた公園に生まれ変わる。アパートの前の市道も拡幅工事が計画され、渡辺さんは数年後には立ち退かないといけない。最近、市内で土地を探し始めた。「小さくてもいいから自分の家を建てたい。いつも3人には見守っていてほしい」。突然1人になったあの日から3年、ようやく目標ができた。



東京新聞
集団的自衛権 与党内の慎重論は重い

 自民党総務会は党の意思決定を担う重要機関だ。そのメンバーから「集団的自衛権の行使」容認に向けた憲法解釈変更に慎重論が相次いだ意味は重い。安倍晋三首相は真摯(しんし)に受け止めるべきである。

 自民党が重要な政策課題について非公式に意見交換する総務懇談会を開いたのは、小泉内閣当時の郵政民営化問題以来九年ぶり。今回の議題は、首相が目指す集団的自衛権の行使容認問題である。

 集団的自衛権は自国が攻撃されていないにもかかわらず、友好国などへの攻撃に反撃する権利。政府は長年、集団的自衛権を有しているが、憲法上行使できないとの憲法解釈を堅持してきた。

 戦争や武力による威嚇、武力の行使を放棄した平和主義は、戦後日本の国是である。集団的自衛権を行使しなければ国民の生命、財産や国益が著しく毀損(きそん)されるという切迫した事情も見当たらない。

 にもかかわらず、政府の憲法解釈を変えてまで行使を認めようというのは、いかにも乱暴だ。

 総務懇談会では、首相の手法を追認する意見の一方、「集団的自衛権(の行使)を憲法解釈で認めれば、政権が交代するたびに解釈が変わり、法の安定性を害する」「行使容認で何を目指すのか。具体的な事実に基づき議論すべきだ」との慎重論も相次いだ、という。

 国家権力の暴走を防ぎ、国民の自由と権利を保障するため、政治権力が最高法規の憲法を順守する「立憲主義」は、明治憲法制定以来、日本政治の根本原理である。

 長年の議論の積み重ねで定着した憲法解釈を、時の政権の思惑で変える「解釈改憲」という手法は立憲主義と議会制民主主義に対する重大な挑戦にほかならない。

 政権与党の一員である公明党はもともと集団的自衛権の行使容認に慎重だ。自民党内でも異論が顕在化したことは安倍内閣の手法への危機感の表れと受け止めるが、議会を愚弄(ぐろう)する行使容認を許さぬよう一層の奮起を期待したい。

 政府の憲法解釈を実質的に担うのは内閣法制局だが、安倍内閣に行使容認派として起用された小松一郎長官が適格かは疑問だ。委員長の制止を振り切って答弁を続けたり、質問にないことを答えたり、国会議員と口論を繰り返したりと、その言動は尋常でなく、まともな国会審議が続けられる状況でない。

 首相はまず自らの任命責任を率直に認めた上で、小松氏を交代させたらどうか。それが立憲主義を「取り戻す」第一歩である。


週刊朝日
肌が赤くなったり、かゆみが出ることも 娘がかかる“母ロス”とは

 身近な人の死は悲しいもの。特にそれが母親ならば、その悲しみはどれほど大きく深いのか。喪失感にさいなまれる。“母ロス”が今、娘たちを襲っている。ライターの松田亜子がその実態を調べた。

*  *  *
 身近な人を喪失したことへのグリーフ(悲嘆)ケアの第一人者である、上智大学グリーフケア研究所特任所長の高木慶子さん(77)はこう言う。

「人間の苦しみや悲しみのほとんどが喪失体験によるものですが、母親の死は『何よりも大きい』とされている。親子関係の良し悪しにかかわらず、母親とは自分を安定させる存在。それがなくなる喪失感は、時に想像を上回るんです」

“母ロス”は死んだ直後にわき起こることが多いが、10年後、あるいは20年経ってから襲ってくる場合もあるという。さらに高木さんが指摘するのは、母との確執があった娘の喪失感の原因は、「被害者意識からくる罪悪感」ということだ。

 母娘関係のカウンセリングをする臨床心理士の信田さよ子さん(67)は、こう解説する。

「確執のある母親に対して『早く死んでくれたらいい』と願い、実際に亡くなって楽になる人も多いですが、それは『母に愛されていない』と実感した時点で母親を喪失しているから。憎しみを抱く一方で、自分のことをわかってほしいという期待が続くほど、また生前の関係が複雑であるほど、『○○すればよかった』という罪悪感は余計に強く出てきます」

 ちなみに、Cさんは母の死後しばらくして体に異変が現れた。アトピーでもないのに顔や体が赤くなり、かゆくなったのだ。原因はわからなかった。

 こうした体の変化も“母ロス”の表れと指摘するのは、遺児の支援活動などでグリーフケアに携わる一般社団法人「リヴオン」代表の尾角光美(おかくてるみ)さん(30)だ。19歳で母を失った直後、椎間板ヘルニアでしばらく動けなかった。

「大切な人を失った時、その影響は、精神面のほか、身体的・社会的な面にも出てきますが、どんな感情も反応も異常なものではないので、『自分はおかしい』と否定しないで大丈夫です。自分の思いに気づくことも喪失感を癒やすきっかけになります」

※週刊朝日 2014年3月28日号

フランス語
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朝からしんどいです/渋谷で一服/赤坂シンドバッドでクスクス

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Wasuremasen

J'avais perdu votre numéro de téléphone. Sinon, je vous aurais appelé.あなたの電話番号をなくしてしまいまして.さもなくば,あなたにお電話さしあげていたのですが.

朝からしんどいです.会議をサボって東急で渋谷まで移動しました.ネットカフェで1時間くらいウダウダしてどうにか気持ちが持ち直しました.缶コーヒーのアンケートに答えて図書券をもらいました.カラオケで時間つぶそうかと思いましたが,やめました.
夕方311映画祭に行きました.今日は津波のあとの時間割〜石巻・門脇小・1年の記録〜架け橋 きこえなかった3.11を見ました.

架け橋:予告編

今日は18日なので3月11日東日本大震災の3年から一週間しか経っていないのですが,ニュースでは震災関連が急に減ったような気がします.

その後千代田線で赤坂まで移動してシンドバッドというレバノン料理店でクスクス・バフリ(couscous bahri)をいただきました.シーフードのクスクスでトマトソース味.エビ,貝,タコ,ホタテが入っていました.

忘れま箋という付箋いいですね.さすが曹洞宗?!

河北新報
透明な力を 第4部 古里を離れて(2)家族5人で 安らげる場へ

 夫と長女の安否が分からない。余震が続く避難所で、娘2人を抱き寄せた。「残った3人で生きていこう」。一時はそんな覚悟もした。
 2011年3月11日。宮城県石巻市鹿妻南に住んでいた遠藤桐恵(ひさえ)さん(42)は、市内にある勤務先の信用金庫から自転車で自宅に戻り、次女桃華さん(15)と三女裕美さん(11)が通っていた小学校に急いだ。
 「津波が来てる」。悲鳴が上がる。バキバキと家がなぎ倒される音。必死にペダルをこいで難を逃れ、2人に会えた。
 「友達と遊びに行ってきま〜す」。長女悠華さん(16)はのんきな書き置きを残していた。無事を祈るしかなかった。
 仙台市で働く夫の伸太郎さん(42)が小学校にたどり着いたのは翌日夜。夜明け前から市内を探し歩き、隣の学区の中学校で悠華さんを見つけ出してくれた。
 「どごさ行ってだの!」。怒ったふりをしながら、抱きしめた。

 自宅は1階の天井まで津波が押し寄せ、ぐちゃぐちゃになっていた。家の周りには流されてきた車が折り重なり、シートをかぶせただけの遺体があちらこちらに見えた。
 信じがたい知らせも入った。娘たちと同年代で、しょっちゅう行き来していたおいとめいの3人が亡くなった−。
 避難所から毎日、仕事で仙台に向かう伸太郎さんの車に家族全員が乗り込んだ。桐恵さんは、5人が一緒でなければ不安だった。
 浸水を免れた自宅2階で片付けをしていた3月末、津波注意報を告げるサイレンが鳴った。
 まとめていた荷物に気をとられ、すぐに逃げようとしない桐恵さんに、伸太郎さんが怒鳴った。「何やってんだ。早く逃げろ」
 家族が離れ離れの時に、また大きな地震があったら耐えられない。伸太郎さんは、職場がある仙台にとりあえず引っ越した方がいいと思った。
 仙台市中心部に空き部屋を見つけることができた。「ここには津波、来ないよね」。娘たちが少し安心して眠れるようになったのが何よりだった。

 伸太郎さんも桐恵さんも石巻育ち。地元を離れることにはためらいがあった。仙台の学校に休まず通う娘たちの姿に「もう振り回せない」とも感じた。そのまま住み続けることになった。
 震災発生から3年が過ぎたこの15日、裕美さんの誕生会を開いた。3年前は避難所で菓子パンをケーキ代わりに祝った。失いかけた家族の笑顔がある。それだけでいい。桐恵さんはしみじみ思った。


河北新報
東日本大震災 宮城のカキ/ブランド再興人材育成が鍵

 全国的なブランドとして定着した産品の供給量が突如、激減したら、どのように立て直し、将来展望を描くか。市場から高い評価を得てきた宮城産カキに東日本大震災後、降りかかった難題である。
 全国2位の生産量を誇った主要産地ですら、従事者の高齢化と担い手不足を解消するめどが立たず、先細りの懸念を打ち消せない中で震災に見舞われた。
 担い手の育成は容易ではない。三陸の沿岸に根差した産業を再興させるためにはマンパワーの拡充が何より重要だ。慢性的な課題に切り込む取り組みをより強める必要がある。
 今シーズン、宮城産カキの生産量は約1500トンが見込まれている。前期の2.5倍増とはいえ、優に4千トンを超えていた震災前の4割にも満たない。
 生産者の減少が主因だ。親族らで経営体をつくり、養殖から水揚げまでを担うが、震災前に920あった経営体は廃業などで622に減っている。約1万400人いた県漁協組合員は2015年度には1千人以上減る見通しだ。住宅の再建が進まなかったり、子どもの学校が統廃合されたりして、浜離れが加速しているからだ。
 一方で、徐々にではあるが、インフラは復旧が進んでいる。殻むき処理場は操業再開を目指した県内53カ所のうち48カ所が稼働するまでに整備された。入札のため一時保管される県漁協の共販所は、国連機関が採用を推奨する高度衛生管理方式「ハサップ」対応型に再建され、生食用の出荷体制が強化された。
 それだけに担い手確保の心もとなさが際立つと言わざるを得ない。生産態勢の集約化を図るなど収益を上げる構造を強固にし、若者を引きつけられる魅力を生み出したい。
 石巻市の浜では「カキ小屋」に殻付きカキを提供したり、漁業体験教室などのイベントを開催したりと若者を呼び込むための活動が活発化している。民間の知恵とノウハウも取り入れ、人材の確保に一段と力を入れてほしい。
 宮城産カキは全国の産地で唯一、生食用を主流にしてきた。だが、原発事故の風評によって「生で食べられる」特長が逆効果となり、敬遠される傾向がいまだに残る。
 放射性物質の検査で基準値を超した場合は、市場に出回らない仕組みを既に構築している。それでも、消費者に浸透していないのであれば、警戒感を取り除くまで、業界が一丸となって取り組みを徹底するしかない。
 日本の海産物に対し、海外の人気が高まっている。日本貿易振興機構(ジェトロ)は今月、食品の輸出を支援しようと、石巻市で初めて商談会を開いた。
 参加した東南アジアやメキシコのバイヤーの中には、手応えを感じた業者もいた。この3年の間、宮城産カキは他産地にシェアを奪われ、販路が縮小している。地位の低下が否めない現状を冷静に受け止め、新たな販路確保に向けて、海外にも視野を広げる必要があるだろう。



yahoo
サクラ前線、高知からスタート 関東では春一番

 今年のサクラ前線がスタートです。18日、高知で全国のトップを切ってソメイヨシノの開花が発表されました。

 高知市の高知公園内にあるソメイヨシノの標本木が、18日、6輪咲いているのを気象台の職員が確認して全国で初めてソメイヨシノの開花が発表されました。高知の開花は平年より4日早く、去年より3日遅い観測です。また、18日は、全国的に南風が強まっていて、関東では午前に春一番が観測されました。この南風で気温が上がり、午前11時の気温は、東京、さいたまでは19.4度となっています。午後の予想最高気温は、東京で20度、さいたまで21度と今年初めて20度を超える所が多くなりそうです。


毎日新聞
記者の目:東日本大震災3年 国との交渉注意点=藤原章生(郡山支局)

 ◇政府の言葉の裏考える
 福島県田村市の都路(みやこじ)地区東部が4月1日、同県内11市町村で初めて避難区域の指定を解除され、東京電力福島第1原発事故による避難者の帰還が実現する。避難者には国の決定を喜ぶ人もいるが、不満を漏らす人も少なくなく、毎日新聞の全世帯アンケート(1〜2月、回答率73%)では47%が「来春以降」への解除先延ばしを望み、「今春」は39%だった。避難区域は今後も川内村、楢葉町など国の除染を終えた市町村から解除される見込みだ。これから交渉する住民のためにも、都路で感じた解除に向けた国の手法に対する五つの注意点を書いておきたい。

 第一は、国が示す言葉の裏の意味を考えることだ。

 ◇会合前に戦略練っていた国
 都路地区東部は117世帯が暮らした阿武隈山地の集落。国が解除を明言したのは2月23日の住民説明会だった。早期解除を望まない住民の反対理由は、山の幸・川の幸の放射能汚染への不安や不十分な除染、買い物や医療を頼ってきた太平洋側への交通の遮断、精神的賠償の早期打ち切りへの不満など多岐にわたった。

 会合の後半、「話は尽きた」と言いたげに国側が「4月1日解除」を提案し、説明会は終わった。急テンポの決着をいぶかった私に、参加官僚は「官僚は頭がいいんですよ」と応えた。住民をばかにしたのではない。国が会合前に戦略を練っていたことを暗に示すものだった。

 昨年6月、国は除染直後の会合で住民に「お墓参り、お祭りのため」と避難区域での特例宿泊を自ら打診した。住民の多くは「夏だけの話」と思ったが、事前の相談もなく「8〜10月」という長期宿泊に変わった。これは判断の期限が迫る10月に提示する、避難区域「11月解除」案の布石だった。この案は住民の反発で取り下げられたが、「皆さん、夏は帰りたいでしょう」という言葉の真意を住民同士で議論することはなかった。「国は何でも後出しする」と住民が怒ったのは、秋も過ぎた頃。住民は国の言葉の裏を問いただす必要があった。

 二つ目は住民の分断だ。夏にはのんびりしていた住民たちが、昨年末ごろから厳しい言葉を吐くようになった。「解除反対と言うと『賠償金目当て』と言われる」「もうこの地域は仲の良かった前のようにはなれない。みんな互いの顔色をうかがっている」

 ◇住民の分断が決定を後押し
 都路東部は4地区に分かれる。年明けに1地区が4月解除を求め、比較的放射線量が高い他の2地区が再除染と解除の先延ばしを求め、残る1地区は方向性が出せずにいた。国と市は1月、住民との会合を地区ごとに開いたが、解除時期が話し合われたのは「容認派」の1地区だけ。2月23日の住民説明会で国が一気に決めた「4月解除」には、「容認派」の声が大きく影響した。結果的に住民の分断が解除決定を後押しした形となった。

 第三に、国のシナリオがある。2月23日の説明会での解除決定の流れは芝居のようだった。「解除が望ましいと提案したら、(他地区の住民から)脅しととれる反応があった。国の判断を」と住民側から提案が出ると、それまで黙っていた内閣府の役人らが突如、憲法22条の居住権を持ち出し「国を挙げてできるだけのことをした。4月1日解除が適当」と、解除を既成事実化させるせりふを連発した。まるで棒読みだったが、ある程度のシナリオがあったと、政府関係者が認めている。

 一部住民の呼びかけで国が一気に決める。これに対抗するには、地域で弁の立つ進行役を選び、住民同士で妥協点を決めて、政府決定に異議を挟むシナリオを用意しておくなど戦略を考えるしかない。

 第四は住民の諦めだ。「どうせお上が決める」「何を要望しても国は『検討する』だけ」。4月解除の決定に住民が異論を挟めなかった底には、こうした諦めがある。だが相手は公務員。住民に奉仕する人々であり、遠慮は禁物だ。長い仮設暮らしで「自分を小さく感じる」住民もいるが、国策の原発で自然と暮らしを奪われた住民は落ち度のない被害者だ。公務員を使うつもりで会合に臨めばいい。

 最後の第五の注意点は会合の非公開だ。都路の説明会は昨年6月から公開されたが、環境省や県主催の会合は非公開が目立つ。「住民から自由な意見を聞くため」や「慣例」が理由だが、住民は自らの状況や議論を第三者に記録させ、全国から助言を得るため、公開を求めるべきだ。

 以上、五つの視点が、この先「解除」や「中間貯蔵施設」を国と交渉していく各地の住民の一助になればと思う。


朝日新聞
(天声人語)とどめを刺さない交渉術

 社会学者の上野千鶴子さんには数々の名言がある。かなり前のエッセー「かさばらない男」は、題名から感心して読んだ。「男はどちらかと言えば、自分を実力以上にかさばらせて見せたい動物だ」▼だからそうでない、「邪魔にならない」男は、えがたい存在ではないだろうか、と。そういう男は、限りなく「おばさん」に近い、とも。以来、胸の底にだいじにしまってときどき取り出してみるが、とうていその域には届かない▼「相手にとどめを刺しちゃいけません」というのもある。タレントの遙(はるか)洋子さんの著書『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』が紹介する、論争のときの心得だ。刺すのではなく、もてあそべ。勝ちはおのずから決まる。恐ろしくも鋭い教えである▼逃げ道を残しておくという点で、名言通りの展開となったようだ。山梨県山梨市が上野さんに介護をテーマとする講演を頼んでいたが、新しい市長が難色を示し、中止となった。市長はおとといまでに翻意し、きょう予定通りに講演会が開かれる▼当初は、たとえば上野さんの著書『セクシィ・ギャルの大研究』のタイトルが問題視されたという。介護とはなんの関係もなく、まさに言いがかり。しかし、上野さんは中止を撤回すれば講演する用意はあると宣言し、ボールを市長に投げた▼契約不履行で訴えることもできたが、寛容な対応が功を奏したかっこうだ。さすが、である。撤回を決めた市長も、おそらくは「かさばらない」人なのだろうと拝察した。

読売新聞
東日本大震災 喪失の悲しみ分かち合う

遺族ら 同じ立場で語り合い

 東日本大震災で大切な人を亡くした多くの遺族は、今も悲しみの中にいる。この3年で、喪失のつらさを分かち合う自助的な集まりや、子どもの心のケアに取り組む団体など様々な活動が生まれている。
自助グループ

 2月19日、仙台市の浄土宗の寺院「慈恩寺」で、男女の笑い声が広がった。茶菓子を手にした人たちが、ソチ五輪や大雪から得意料理まで、様々な話題で盛り上がっていた。

 震災の遺族が中心になり2011年10月に生まれた自助グループで、2か月に1回集まっている。信仰や宗派は関係ない。参加者は毎回、住職の樋口法生さん(44)の話を聞き、念仏を唱えて焼香する。その後2、3時間、お茶を飲みながら自由に会話する。

 この集まりを呼びかけたのは仙台市の田中幸子さん(64)。息子が自ら命を絶った体験を基に、7年前から自助グループ「つむぎの会」を作り活動してきた。震災後、多くの遺族が生まれた被災地で自助グループの発足を手伝ってきた。

 田中さんは「定期的に集まって話すことで『笑ってもいい』と思える。震災の遺族にもそんな場が必要だった。独りだと悲しみを抱え込む。同じような体験をした人たちが語り合い、思いを分かち合う意味は大きい」と説明する。

 「発足当初は今と違い、みな涙を流していた。1年ほど前から笑い声も出るようになった」と樋口住職。田中さんは「表面的に元気にみえても、周りに必死に合わせていることもある」と指摘。「悲しみは消えるものではないし治療でなくなるものでもない。付き合いながら生きていくには支え合いが必要」と言う。

 この日に集まった遺族11人のうち、4人が震災で子どもを失った母親だった。

 その一人、佐々木奈央さん(39)は11年暮れから参加する。宮城県気仙沼市の家が津波で流され、6歳だった娘が行方不明のまま。「どこかで元気に生きていてほしい」と思い続ける。最初はほかの参加者から「顔色が悪くて倒れそう」と心配されたが、今では会話の中心にいる。

 樋口住職は「『この世で別れても別の世でまた会える』と伝えている。再会の願いは宗教や信仰でしかかなわないものだから」と話す。
子どもの支援

 NPO法人「子どもグリーフサポートステーション」(仙台市)は、喪失体験に伴う悲嘆や愛惜などの感情を「グリーフ」と呼び、子どもの支援に取り組む。交通遺児などをサポートしてきた西田正弘代表(53)が12年11月に始めた。

 仙台市や岩手県陸前高田市などで定期的に開催する集まりでは、親や友人を亡くした子どもが集まり、ボールで遊んだりピアノを弾いたり、思い思いに過ごす。亡くなった人の話をすることもある。独りでないことを感じられる場となることを目指している。

 西田代表は「強い悲しみや怒りはある時突然よみがえる。特に子どもは成長に伴って死の理解が深まり、喪失の実感が強まる。3年経たから落ち着くものではなく、継続的支援が必要」と話す。
高まる関心

 悲しみに向き合う活動は、阪神大震災やJR福知山線脱線事故の後などにも生まれたが、今回の震災を機に関心が高まっている。

 上智大のグリーフケア研究所は来月から人材養成コースを開く。宗教学や死生学、先端医療などの講義を行うほか、悲嘆を抱える人への援助技術を伝授する。看護師やボランティア従事者など、志願者は定員の約3倍に上った。

 仙台市のNPO法人「仙台グリーフケア研究会」代表で医師の滑川明男さん(52)は「現代社会で死は見えにくくなったが、震災で身近なものだと認識させられた。日本人全体が死を意識しながら生きることの意味を問い直しているのかもしれない」と話す。(小林直貴、写真も)

 〈遺族の自助グループなどの連絡先〉

 ◇「つむぎの会」(電)090・5835・0017

 ◇「子どもグリーフサポートステーション」(電)022・796・2710 

 ◇「仙台グリーフケア研究会」(電)070・5548・2186

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町田に来ました/地酒を飲みました

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femme_nue1

Tu savais que je t'avais attendu(e) ? Tu aurais dû m'appeler pour me prévenir.

ぼくがきみを待っていたのを知っていただろう? きみは,ぼくにあらかじめ電話すべきだったのになあ.

出張です.ホテルは町田です.Yaさんに会いました.お昼はセミナーで季節の炊き込みご飯弁当です.夕方ホテルの近くで地酒を飲みました.浦霞(本仕込み)と上喜元(じょうきげん,特別純米)がおいしかったです.おつまみのいわし南蛮漬けもよかったです.

河北新報
透明な力を 第4部 古里を離れて(1) 不安な入学式 卒業は笑顔で

 東日本大震災で古里を離れなければならなかった子どもたちは、新たな土地でどんな日々を送ってきたのか。宮城県石巻市から仙台市に引っ越した3姉妹の3年の軌跡をたどる。(震災と子ども取材班)

 笑顔でこの日を迎えられるなんて、3年前は想像できなかった。
 8日、仙台市宮城野区の宮城野中。卒業式を終えた遠藤桃華さん(15)は、大好きなクラスメートとじゃれ合って写真を撮り、中学校生活の最後の日を惜しんだ。

 震災で石巻市鹿妻南の自宅が住めなくなった。仲の良かったいとこ3人を津波で失った。
 震災発生から1カ月後、父伸太郎さん(42)と母桐恵(ひさえ)さん(42)、姉悠華さん(16)、妹裕美さん(11)の5人で仙台に引っ越してきた。
 気持ちの整理もつかぬまま慌ただしく臨んだ中学の入学式。「友達はできるんだろうか」。心配でたまらなかった。
 悪い予感は的中した。教室では、学区内の出身小学校ごとにグループができていた。
 ぽつんとしていると、母が廊下を歩いてきた。独りぼっちの姿を見せたくない。クラスメートの輪の中に無理やり入って取り繕った。
 学校が始まる前、「石巻弁」が出てばかにされないようにと、自己紹介を姉妹で何度も練習した。結局、名前しか言わなかったのに、イントネーションが変だったのか、笑われた。
 石巻に帰りたい。小学校の友達に会いたい。何で仙台に来たんだろう。でも、両親には何も言えなかった。
 「仙台に連れて来てよかったのだろうか」。桐恵さんは、無理して明るく振る舞う娘がかえって心配になった。

 しばらくして心を許し合える友達ができると、桃華さんはやっていけそうな自信が出てきた。
 「名前、同じだよね」。偶然、漢字も同じ名前のクラスメートがいて、声を掛けてくれた。2人でバドミントン部に入った。「モモ」と呼び合った。
 震災のことも話した。、石巻の友達の写真を見せると、「私も石巻に行きたいな」と言ってくれた。石巻の花火大会に一緒に出掛けたりした。
 持ち前の笑顔が戻った。クラス替えなどで独りぼっちになっている人がいると、積極的に話し掛ける。入学式の時のさみしさを思い出し、放ってはおけない。卒業文集のアンケートで、「クラスを明るくしてくれた人」の1位に選ばれた。
 それでも、古里を離れた悲しみが消えたわけではない。できるならば戻りたい。
 卒業式が終わって家に帰り、石巻の友達にメールを送った。
 <卒業式お疲れ。春休みに小学校のクラス会やろうね>


毎日新聞
色の消えた町:震災避難者の怒り、悲しみ漫画に 4月出版

 東京電力福島第1原発で働いた経験を持ち、福島県南相馬市から前橋市に避難中の漫画家、西崎正(ただし)さん(58)が東日本大震災をテーマにした漫画「色の消えた町」(人間と歴史社刊、1296円)を4月1日出版する。偏見を持たれながらも避難先に溶け込もうと努める被災者の姿、原発を巡る議論など被災の実態を幅広く描いた。西崎さんは「3年たっても続く、被災者の苦悩や古里への思いを感じてほしい」と話す。

 漫画の舞台は、同原発を望む海沿いの架空の町。津波で祖母を亡くした小学生が、家族と避難した先でさまざまな苦労に直面しながら懸命に生きるストーリーだ。被災者への取材を基に、避難先で▽古里と仕事を失い朝から酒を飲む男性▽「放射能」と偏見を持たれていると感じる少年−−ら、先の見えない避難生活の現実を描く。

 西崎さんは20代から、看護師などとして勤めながら、漫画家としても活動し少年誌などで活躍。震災の際は、南相馬市原町区の自宅近くで地震に遭い、1週間後に群馬県片品村へ集団避難、2012年夏から前橋市の団地で暮らす。

 震災をテーマにした漫画は、周囲から何度か勧められたが「被害が大きすぎて自分には無理だ」と断っていた。しかし、避難先で多くの被災者に接し「今の怒りや悲しみの気持ちを後世に残さなければならない。漫画なら、子どもたちにも分かりやすい」と考え直した。13年5月から半年かけて約250ページの作品を完成させた。

 30代の約1年間、福島第1原発で作業に携わった経験を生かし、原子炉建屋内の作業の様子も描いている。

 震災後に仕事が見つからず、蓄えを取り崩しながら避難生活を送ってきた西崎さんにとっても、今回の出版は再スタートの一歩になる。「多くの人に接して、いつまでも下を向いていてはダメだと教えられた。震災を風化させないために自分にできる形で貢献していきたい」【角田直哉】


毎日新聞
思い重ねて:東日本大震災3年 生きがい、見つけた 「遺族支える活動したい」

 ずっと同じ願いを抱き続けている。「雅人を見つけて、思い切り泣きたい」。仙台市若林区の会社員、竹沢守雅さん(46)は、長男雅人ちゃん(当時8カ月)が行方不明のままだ。宮城県名取市閖上(ゆりあげ)の実家に預けていて、津波にさらわれた。更地になった閖上はかさ上げによる現地再建が決まったが、自分は一歩も前に進めていない。

 「さがしています ご存じの方、連絡いただけないでしょうか」。震災の約1カ月後、閖上の避難所で、竹沢さんが張った雅人ちゃんの写真を見た。3日後、閖上小体育館での取材で、がれきの中から見つかった写真を洗う女性と出会った。竹沢さんの妻さおりさん(38)。雅人ちゃんのことを「おそらく駄目だなということは分かっている」と語りつつ「誰かが思い出の品を見つけているとうれしい」と笑顔も見せていた。

 竹沢さんに会えたのは約4カ月後、自宅を訪ねたときだ。「3人家族の家とは思えないでしょう」。おもちゃもベビーベッドもない。部屋の一角には雅人ちゃんの写真が何枚も飾られている。生後6カ月の時にケーキを買った店で、またケーキを買って1歳を祝ったと話してくれた。

 2012年4月に仙台支局に赴任し翌月に再会した。死亡届を提出し、お別れ会を済ませたばかりだという。「納得はしていないけど、けじめを付けようと思った。何もしないと、雅人が忘れられてしまう気がした」

 だが、心の空白は埋まらない。声を上げて泣けたのは、避難所を回り続けていた震災発生数日後、何もなくなった実家跡を見た後、義弟と会った時だけという。「何かをしていないと死んでしまう」

 支えになったのは、ボランティアや他の災害の遺族との出会いだった。13年2月、竹沢さんの話を聞いたボランティアが閖上の側溝の捜索を始めた。「かさ上げ前に最後の捜索を」と県・市に求める署名には全国の2万4000人以上が名を連ねた。

 震災後に生まれた長女に雅人ちゃんのことを伝えたいとの思いは、阪神大震災(1995年)の遺族と作った絵本に結実した。兵庫県明石市で起きた明石歩道橋事故(01年)の遺族とは子どもを亡くした気持ちを吐露しあうことができた。

 今月、竹沢さんは「彼らのように防災を伝えて遺族を支える活動をしたい」と明かしてくれた。「雅人が見つかったら」、その次に、やりたいことができた。【金森崇之】


産経
【忘れない〜東日本大震災3年】
思い出詰まった自宅で「民泊」、家族好き夫の心継ぎ

 「いらっしゃい。よく来たねえ。寒くなかった?」

 豊かな里山に抱かれた宮城県南三陸町入谷(いりや)地区。阿部高枝さん(63)は2階建ての自宅で、宿泊客を温かく迎えた。宿泊施設不足の解消のため町観光協会を窓口に、民家が泊まり客を受け入れる「民泊(みんぱく)」だ。

 客と郷土料理をつくり、孫ら3世代の家族も集まった食堂兼居間で、長さ3メートル近くもある木目のテーブルを囲んだ。左奥の席にはいつも、東日本大震災で犠牲になった夫、敏勝(としかつ)さん=当時(64)=の大きな顔写真が置かれている。指定席だった。柔和にほほ笑む体重100キロ超の夫。民泊の屋号はその名前にちなんで「アベトシ」という。

 42年連れ添った伴侶を失い、ふさぎ込んでいた高枝さんは昨春、町観光協会から民泊を勧められた際、喜々とした夫のワンシーンを思い出した。

 震災の約1年前、試しに東京などの子供たちを受け入れたときのことだ。山菜採りに連れて行った夫は「続けてみてもいいぞ。孫に友達ができるし、よその子にも田舎の良さを知ってもらえる」と話していた。

 「長男が結婚するときに『嫁じゃなくて、娘をもらうんだ』と言うほど、家族の輪が広がってにぎやかになるのが大好きな人だったからね。やったら喜ぶかなって」。夫の思いを継ぎ、昨年12月から始めた。

 18歳の時、勤務先の静岡・熱海の宿に客で来た敏勝さんと知り合った。それから、ずっと苦楽をともにした。約30年前、夫が地元・南三陸で土木会社を起こし、東京から移り住んだ。

 毎日、朝の4時起きで工事現場に足を運ぶ夫は、台風や地震があれば率先して現場に向かう「仕事の鬼」。「親方」と慕う従業員を気軽に泊め、食卓を囲むのが好きだった。その合間、孫たちをかまった。

 最期の姿も親方らしかった。あの日、気仙沼市本吉町にいた。河口から3キロ近く上流の川で指揮していた橋脚工事。遡上(そじょう)する津波を最初に見つけ「逃げろ!」と車のクラクションを鳴らした。全員の無事を見届け、最後に現場を離れようとしたとき、のみ込まれた。「親方は冷静だった」。従業員は泣きながら話してくれた。

 それから、何も手につかなくなった。「ここにどんと座ってたな。庭に植えたイチイとか、大好きな木の剪定(せんてい)をしてたな。池も手作りだったよな…」。家中に残るぬくもり。「いっそ家も流されて思い出も全部なくなったらよかった」。誰にも明るく接した高枝さんから、表情が消えた。

 震災の10日ほど前、「もう息子に任せて大丈夫だ」と話していた夫。その思いを継いで社長に就いた長男、憲一さん(39)が「後を追うんじゃないか」と危ぶむほどだった。

 思い出の詰まった自宅で民泊を始める決意をきっかけに、前に踏み出した高枝さん。いま、孫の中に夫が息づいていると感じる。

 夫の写真を小さいサイズに替えようとしたとき、小学5年の孫、幹太君(10)は「これじゃあ、じいやの迫力がない。あの写真じゃないとダメ」と怒った。「家族7人になっちゃったね」とつぶやくと、小学3年の武尊(たける)君(9)は「違うよ。8人じゃないか」とむきになった。

 女子中学生の孫、美咲さん(15)と夏実さん(13)は震災後、町募集のオーストラリア留学に応募した。「視野を広く持て。外国に行く機会があれば迷わず行け」という夫の教えを実践してくれたのだ。

 震災3年の11日、ウイスキーを提げて孫たちと墓前で手を合わせると、「なんだ、俺は家にいるぞ」と笑い声が聞こえた気がした。

(今村義丈)


朝日新聞
首相の懇談会―「空疎」なのはどっちだ

 どうしても、違和感が募る。

 集団的自衛権の憲法解釈変更について、安倍首相は「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)」の報告書が提出された後に対応を検討すると強調している。

 このため国会もメディアも「待ち」の態勢を取らざるを得ず、報告書の価値が自然とつり上がっている印象だ。しかしそもそも報告書は、どれほどの正統性を持ち得るのだろうか。

 確認しておきたい。安保法制懇は首相の私的諮問機関である。設置は法令に基づかず、人選も運用も好きに決められ、国会の目は届かず、法的な情報公開の義務もない。政府は従来、私的諮問機関は「意見交換の場にすぎない」と説明してきた。

 安保法制懇には、首相と志を同じくする仲間が並ぶ。これまでの懇談会の議論では「集団的自衛権を行使できるようにすべきではないといった意見は表明されていない」という答弁書が先日、閣議決定された。

 首相は「空疎な議論をされている方は排除している」と国会で述べた。「結論ありき」の疑念はぬぐいようがない。

 安保法制懇だけではない。同じく首相の私的諮問機関「教育再生実行会議」のメンバーも首相に近い人物が目立つ。内閣法制局長官人事でも、内部昇格という慣例を破り、自らに近い人物を据えた。安倍政権の特徴的な政治手法の一つだ。

 かつて中曽根政権も私的諮問機関を多用し批判を浴びたが、最低限の正統性確保への配慮はあった。例えば84年に設置された「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」。適切な方式での公式参拝実現を促す内容の報告書を出し、それを根拠に中曽根首相は公式参拝に踏み切った。ただ、公式参拝違憲論を唱えていた憲法学の権威・芦部信喜氏もメンバーに入り、報告書には違憲の主張が付記された。

 この事実は決して軽くない。

 少数意見に耳を傾け、反対派からも合意を得られるよう力を尽くす。その合意形成のプロセスをおろそかにして、選挙に勝てば何でもできるとばかりに「勝者の正義」を押しつけるようなやり方では民主政治は成り立たないし、政権の正統性をも傷つけてしまうだろう。

 ある時点において多数派だったことを足場にする「勝者の正義」は歴史の風雪に耐えられない。首相が是が非でも「戦後レジームからの脱却」に挑むというなら、「お友達」の意見を錦の御旗にして強引に事を進めるのはやめ、国会など公的な場で堂々と議論に臨むべきだ。

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小銭入れが行方不明/忘れもので日曜出勤

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≪ En faisant l’acteur, on devient une espèce d’animal intuitif. ≫
de Mathieu Amalric

お財布がありません.小銭入れがないんです.どこかでなくしてしまったみたいです.ガーン.
職場に忘れ物をしてしまいました.仕事はないけど日曜出勤です.

河北新報
持ち主と会えぬまま 石巻・写真公開センター閉所

 東日本大震災の津波で流され、宮城県石巻市内で見つかった写真や賞状、位牌(いはい)などを保管してきた同市の「思い出の写真」デジタル公開センターの閉所式が15日あり、持ち主が現れなかった品々を僧侶が供養した。
 同市職員やボランティアが出席し、僧侶の読経が響く中、静かに手を合わせた。センター職員の津田未帆さん(25)=石巻市=は「寂しさでいっぱい。写真を手にした人々の表情が今でも忘れられない」と話した。
 市内全体で津波に流された拾得物は80万点に上る。このうち26万点がセンターなどを通じ、所有者に戻った。今回、返却数の減少や被災写真のデジタル化が進んだことなどを受け、震災から3年を機に閉所した。
 持ち主不明の品の多くは3月中に焼却される。デジタル化した写真は市役所などのパソコンで閲覧できる。


河北新報
透明な力を 第3部・友を思う(下) 思いは2人分 今、踏み出す

 夢を諦めそうになる自分を救ってくれたのは、亡き友が生前掛けてくれた言葉だった。「大丈夫。アヤならできる」
 岩手県陸前高田市出身の村上綾香さん(21)は震災で、ともに看護の道を志していた幼なじみ小田春菜さん=当時(18)=を失った。後ろ髪を引かれる思いで古里を離れ、横浜市の看護学校に進んだ。
 授業は想像以上にハードだった。勉強漬けの毎日。特に実習はきつく、看護記録作りに追われて徹夜する日もあった。
 コツコツ型だが、要領がいいタイプではない。できないと思うことが多く、落ち込んだ。「どうして、私が生き残っちゃったんだろう」

 あの日。自宅近くの高田病院に避難した。最上階の4階まで水が迫り、屋上に駆け上がって難を逃れた。
 指定避難所の市民会館に逃げるつもりだった。3階建ての建物は津波で水没し、避難したほとんどの人たちが犠牲になった。妹に「病院の方が近い」と促されなかったら…。
 母親が准看護師の春菜さんは、中学時代から看護師を目指していた。
 「心の強かったハルが進学した方がよかったのでは」「自分は看護師に向いていない」
 春菜さんの母親を訪ね、胸の内を打ち明けた。
 「気負わなくてもいい。アヤはアヤなりに頑張ればいい」。最愛の娘を失ってつらいはずなのに、励ましてくれた。
 投げ出したら彼女の夢まで無にしてしまう。志を果たせなかった友の悔しさ、無念が、折れそうな自分を奮い立たせた。
 4月から川崎市の労災病院で働く。しばらくは、高度医療の現場で経験を積みたい。早く一人前になりたい。

 通っていた高田高では春菜さんを含め22人が犠牲になった。大切な人がいつ、目の前からいなくなるか分からない。命のはかなさを知った。
 避難所で出会った医療関係者の優しい言葉も忘れられない。患者さんに安心感を与えられる看護師になりたい。そしていつか、地元で働きたい。
 古里の復興は進んでいない。横浜から帰省するたび、「同じ日本とは思えない」とショックを受ける。
 「これからまちはどうなってしまうんだろう」。母に尋ねた。「あなたたちの世代が、復興を担っていくんだよ」
 どうなるかではなく、どうにかする。これから、そう考えたい。
 看護師として切磋琢磨(せっさたくま)し、子どもができたら家族ぐるみで付き合おう。そう誓い合った友は今はいない。
 姿は見えなくても、一緒に働き、成長していける気がする。「ありがとう。これからも頑張るからね」


河北新報
大震災3年 暮らしの再建/「人間の復興」を道しるべに

 あの日から3年が過ぎたというのに、復興の手応えを実感できないのはなぜなのか。どこかでボタンの掛け違いがあったのだとしたら、それはどの時点だったのだろうか。
 「関東大震災からの帝都再建を復興のモデルに」という震災直後の世論に、行政学の泰斗である西尾勝東大名誉教授は、違和感を覚えたと振り返っている。実際、帝都復興院に倣って東北復興院の創設を求める建白もあった。
 復興院は、岩手県出身の後藤新平(1857〜1929年)が総裁として辣腕(らつわん)を振るい、今日の首都東京の骨格を成した。そこには「最新のインフラを整備すれば、おのずと人々の暮らしも再生する」という巨大都市ならではの前提があった。
 広域に小都市や農山漁村が点在する今回の震災に、都市型災害の知見で臨むことの筋違いぶりを、西尾氏は危惧したのだ。
 きれいになった街区をもって復興とする考え方には、当時から異論があった。後藤と同時代を生き、わが国経済学の先駆を成した福田徳三は「復興事業の第一は人間の復興でなければならぬ」と説き、後藤の復興手法を「物本位」と断じている。
 福田の論じる「人間の復興」とは、暮らしの持続可能性を下支えする生存権の擁護を意味する。平たく言えば「医・職・住」重視。今回の震災でも、指摘されている事柄ばかりだ。
 直近の復興モデルとされる阪神大震災では「創造的復興」の掛け声の元、巨額予算の半分が神戸空港建設などのハコモノに消費された。暮らしの再建を過去の知見から学ぶという視点に立てば、残念ながら阪神大震災からの復興も理想的な手本とは言い難い。
 くしくも、昨年10月の宮城県知事選で3選を果たした村井嘉浩知事の掲げたスローガンが「創造的復興」だった。対立候補は「人間の復興」を訴えた。
 知事の復興路線が、阪神大震災のそれと別物であることは承知しているが、二つの復興論をめぐって踏み込んだ検討があってもよかったのではないか。
 被災地は今、復旧期から復興期へ移り変わろうとしている。被災者一人一人がその手応えを実感するための道しるべを「人間の復興」論に求めたい。
 福田の思想を基に関西学院大災害復興制度研究所が発表した災害復興基本法案が、その手掛かりになるだろう。
 いわく「働く権利、生活する権利が『まちづくり』『防災』といった抽象的概念によってないがしろにされてはならない」「バラック建ての営業再開があっていい」「経済成長のみを肯定的復興とは考えない」
 貫くのは被災者を社会の「少数者」と捉え、その生存権を徹底して擁護する姿勢であり、現在の復興手法とは様相を異にしていると気付かされる。
 基本法案の一節は「復興の主役は『街』ではなく、『人』である」と結んでいる。直面するこの復興のあるべき姿をあらためて深く問い直すべきだろう。


毎日新聞
山梨市:上野千鶴子さん講演会中止 市長、性巡る過去の発言問題視

 山梨市が18日に予定していた社会学者の上野千鶴子さんの講演会について、過去の発言などを理由に中止したことが分かった。

 望月清賢市長は「市民から抗議もあり、公費開催はふさわしくないと判断した」と説明。上野さんは「市長の権力乱用だ」と反発している。

 市介護保険課によると、講演会は18日、市民を対象に在宅医療や介護をテーマに市民会館で開く予定だった。在宅医療の問題に取り組む上野さんに昨年10月、講師を依頼し、既に164人が参加を申し込んでいた。

 しかし、市側は今月に入って上野さんにメールで中止方針を伝え、12日に職員が上野さんを訪ねて「市民からさまざまな意見があり、運営に支障をきたす恐れがある」などと記した望月市長名の文書を渡した。

 望月市長は取材に対し、過去に新聞に掲載された少年の性を巡る上野さんの意見などを挙げて「(表現が)強すぎる。当日に混乱が起きる可能性もある」などと説明。上野さんは「市から依頼される前の発言で、今回のテーマとも関係がない。納得できない」と話している。

 望月市長は前自民党県議で、今年2月の市長選で初当選した。【山口香織】


産経
【忘れない〜東日本大震災3年】
命救った法被誇り 息子の「親孝行」に感謝 相馬市 阿部洋子さん(67)

 狭い仮設住宅の壁に掛けられた消防団の法被(はっぴ)を見るたび、地域の消防活動に奔走した息子の姿を思い出す。「とにかく何かあると、すぐに、この法被を羽織って出て行ったの」

 あの日も同じだった。福島県相馬市の阿部洋子さん(67)は外出先で東日本大震災に遭い、急いで自宅に帰ると、地元消防団の副分団長だった長男、健一さん=写真、当時(39)=が法被姿で出動するところだった。

 「津波来っから早ぐ避難しろ!」。息子は母を見るなり怒鳴った。気になって家の中を確認しに行った母にもう一度叫んだ。「早ぐしろ! 高台さ行け!」

 車に乗り、高台に向かう際、バックミラーに沿岸へ向かおうとする車を、両手を挙げて制止する息子の姿が映った。それが最後になった。健一さんは消防車で住民に避難を呼び掛けている最中、津波にのまれた。



 458人の犠牲者のうち457人が津波で亡くなった相馬市。自宅があった磯部地区は最も被害が大きかった。「磯部の海は遠浅だから、津波は絶対来ねえ」という地区での“常識”が災いしたのか、逃げない人が多かったためだ。

 洋子さんも津波に無警戒だったが、夫の新太郎さん(73)とともに息子の指示に従った。理由があった。

 震災の数年前に相馬市が大雨に見舞われた際、夫婦は近隣が避難する中、自宅にとどまった。自宅の床を高く建て替えていたための安心感からだったが、健一さんは「何のために避難さ呼び掛けてんだ」と激怒した。「だから今度からは絶対避難しなきゃいけないという思いがずっとあったの。あのとき、健に叱られていなかったら…」

 震災で活動中に犠牲になった消防団員は全体で約200人に上る。政府の検討会では「消防団員も自分の命、家族の命を守るため避難行動を最優先すべきだ」との提言がまとめられた。

 震災後、「健ちゃんも逃げればよかったのに」と言われると、複雑な思いになる。「確かにそうだと思う。命をかけろとまでは言われてないから」。それでも「健ちゃんのおかげで助かった」と言われるたび、息子の死を誇らしく思う。「健は法被さ着て、地域の人を助けるという責任を果たした。宿命だったんだ」



 健一さんは姉2人と妹に挟まれた長男で、一家で漁業を営む阿部家の大事な跡取りだった。岸壁で父の仕事を見て育ち、高校を中退して船に乗った。結婚し、娘2人も生まれた。「一つ屋根の下、家族6人、仕事も食事も何もかも一緒」の幸せな生活だった。

 震災が起きる前年、父母は30年前に船や一軒家の購入でつくった借金を完済。翌年の10月に健一さんが40歳を迎えるため、家計など家の全てを譲ろうと思っていたところだった。

 「がんばっぺなー、がんばっぺなーって30年間、懸命に働き借金も返して頂上に近づいたとき、家も船も跡取り息子も全部失った」

 喪失感は大きかったが、「悲しんでばかりいられない」と前を向いた。この3年間、ボランティアなどが誘ってくれるツアーに夫婦で積極的に参加した。長野や山梨、沖縄…。

 人生初の海外にも行った。昨年4月、震災直後の相馬市の病院を描いた演劇が公演されるのを機に、関係者に誘われ、米ニューヨークを訪問。中枢同時テロで命を落とした米国人消防士の父親と交流した。

 働きづめだった夫婦はそれまで旅行する暇もなかった。「結果的に、健のおかげで、お父ちゃんと、いろんなところに行けて、いろんな人に会えてるの」

 旅先から帰ると、法被に語りかける。「また健に親孝行してもらったなー」

(河合龍一)

阿修羅
フクシマを忘れない!−さようなら原発 3・15脱原発集会
2014年3月15日  日比谷野外音楽堂

文字起こし部分のYoutube→20140315 UPLAN 【手話付・日比谷野音脱原発集会】フクシマを忘れない!さようなら原発

みなさんこんにちは。
被ばく労働を考えるネットワークのなすびと申します。

私たち被ばく労働を考えるネットワークは福島原発事故のあと、
収束作業の労働者や除染作業の労働者の労働相談を受け、労働争議に取り組んでいます。
重層下請構造のもとで、これらの労働者は賃金や危険手当をピンハネされて、
そして、突然の一方的な解雇や使い捨てにされ、ひどい労働環境の中で仕事をしてきました。

今取り組んでいる労働争議の一例をちょっとだけお話しますと、
汚染水にまつわる仕事についている労働者がいます。
彼は1日8時間の労働以外に朝残業2時間、そして晩に残業2時間
1日12時間の作業を毎日強制されていました。

放射線作業というのは危険労働ですから、
1日2時間以上の時間外勤務というのは労働安全基準法の違反行為です。
それを日々、毎日強制されていました。

そして彼の話によると、政府のロードマップ、それから政治的なスケジュール、
そして、東電からの強い意向によって、毎週毎週ノルマがきつくなったというふうに言っています。

で、彼は「本当にもう体がしんどくて動けない」
「もう毎日こんな仕事なんかできない」というふうに訴えて、
「仕事ができない」という抗議を具体的に示したところ、
その下請けの社長から、即日の解雇、そして宿舎からの即日の退去を要求されました。

で、これもですね、
解雇は1カ月前の解雇通知が必要ですので、違法行為です。

そのような様々な労働相談と労働争議を今私たちは取り組んでいます。
そしてこの2月3月は、被ばく労働者統一春闘というふうに位置づけまして、
多くの労働者からの要求をとりあげてひとつの統一要求を作りました。

で、昨日東京電力と除染作業の元請けの一つである前田建設工業に対して、
その統一要求書を提出して、回答を要求するという行動を行いました。
で、社前で抗議行動を行いました。

午後からは関係する厚生労働省、経済産業省、環境省に対して同様の要求書を突き付け交渉を行いました。

ただ、この収束作業や除染作業というのはそういう劣悪な労働環境であるという事だけが問題なのではありません。
それらは被ばくを前提とした労働であるという事が最大の問題です。

今収束作業の労働者は多くの人が累積被ばく20ミリシーベルトで解雇されています。
もちろんそのまま即解雇という事自体も問題なんですが、
20ミリシーベルトという数値がどういう数値か?

これは同じ割合で被ばくをしていけば、
「毎年0.1%ずつ癌になって死亡する人が増える」そういう割合です。

「なんだ、0.1%か」というふうに思われる方もいるかもしれません。
しかし今収束作業に入っている労働者は、1日3000人います。
その0.1%と言えば3人。
その3人は他の仕事をしていれば死ななかったのに、
収束作業に入った事によって「死ぬ」という事が予定されている3人なんです。

被ばく労働というのはそういうある割合で死ぬのを前提とした労働なんです。
これを非人間的な労働と言わずしてなんと言いましょうか!

その一方で「被ばく労働を止めよう」というのは実は簡単な事です。
でも、今、そういうふうに言ったら、
あの福島第一原発の労働者はみんな引き上げてくるしかありません。
そのようになったらどうなるか?
おそらく核燃料は再び臨界を起こして、
それこそ手を付けられない壊滅的な状況になるというふうに想像が付きます。

私たちはすでにそういう、
ある割合の人達を犠牲にしてしまう様な社会を選びとってきてしまったわけです。
私たち一人一人にそのような責任があります。

私は今、ですから、ここで是非皆さんにお願いしたいことは、
「収束作業を急げ」とか、
「廃炉作業を加速化しろ」とか
「漏れた汚染水をすぐに回収しろ」とか、
そういう言い方をしないでいただきたい。というふうにぼくは思っています。

「急いで処理をしろ」ではなくて、労働者の安全を第一として、
「慎重に回収しろ、作業しろ」そのように要求していただきたいというふうに僕は思っています。

今、収束作業と除染作業の労働者のその7割が地元福島の労働者です。
この原発事故によって、故郷を奪われ、財産を奪われ、家族を失った福島の人達に、
今もなおこういう仕事を押し付けている。
これが私たちの、この社会の現実です。

このような、非人間的な行動をなくすには、
もちろん「脱原発」それしかありません。

しかし脱原発というのは単にエネルギー政策を転換させる、再稼働を許さない、全ての原発を即時廃炉させる、
それだけで終わるものではありません。
廃炉させるには廃炉作業があります。
その後に廃棄物の管理作業があります。

私たちはもう、気の遠くなるような長い時間、
この被ばく労働の問題と向き合っていかなければならないんです。

ですから、「脱原発」というのは、ただ単に政策の選択の問題ではありません。
誰かを踏みつけにしていく様な社会。
あるいは誰かを犠牲にしていく様な社会。
その上で経済や産業が発展していく様な社会を、私たちは拒否する!

そのためのリスクと努力。
それこそが脱原発を得るのではないでしょうか。


都市が地方社会を犠牲にするのではなく、
格差や差別を許さない
誰もが共に一緒に生きていく社会を具体的にこれから模索する。
そういう取り組みを一緒にしながら、この脱原発運動を共に進めていきたいというふうに思っています。

共にがんばりましょう!


AFP
東電本店前で原発作業員らデモ

都内の東京電力(TEPCO)本店前で14日、福島第1原子力発電所の事故処理に当たってきた作業員らが、劣悪な労働環境の改善を訴えるデモを行った。

 約100人の作業員らは、拳を宙に突き上げ、事故収束作業の人員を確保しようとする下請け企業にだまされたと抗議。AFPの取材に応じた30代の男性は、きちんとした安全対策もないまま理不尽な作業を強要され、数か月働いて被ばく線量が基準を超えると解雇されたと話し、人間が働くべき環境ではなく、プレッシャーの中で些細なミスが起きやすくなっていると訴えた。

 東日本大震災に伴う未曽有の原発事故から11日で丸3年が経過したが、福島第1ではまだ廃炉作業に入れる状況とはなっていない。廃炉までの道のりがこの先数十年に及ぶとみられる中、数千人の作業員が毎日、汚染水の処理や無数の修復などの危険な作業を続けている。Harumi OZAWA

朝日新聞
「小保方氏個人の問題だけではない」 教育の重要性指摘

 STAP(スタップ)細胞論文の問題で、科学界の重鎮から若手研究者教育の重要性を唱える声が出ている。理化学研究所の14日の会見では、論文著者の小保方(おぼかた)晴子・ユニットリーダーは「未熟だった」とされたが、「個人の問題だけで片付けてはいけない」と指摘している。

 小保方さんは博士号の取得から約2年後の2013年、理研発生・再生科学総合研究センター(CDB)のユニットリーダーになった。会見では、小保方さんは、STAP細胞ができたことを示す画像を加工し、「いけないという認識がなかった」と話していたことが明らかになった。大学院での教育が十分だったのか疑問が出ている。

 日本学術会議会長や、東京電力福島第一原発の国会事故調査委員会委員長を務めた黒川清・政策研究大学院大学教授は「日本の研究者は、次の世代の研究者をトレーニングすることの重要性をどこまで自覚しているのか心配になる。欧米では、どんな大学院生を育てあげたかで、教員の評価が決まる。小保方さんをスケープゴートに仕立てて終わってはいけない」と語る。

 前科学技術振興機構理事長の北沢宏一・東京都市大学長は「一般的に学生は、教授がこうだと言うと、それに沿ったデータを出したがる。いいデータを早く出したいと思う気持ちがある。今回はその典型ではないか」と推測した。

     ◇

 CDBの研究者22人が「同じ研究者として科学の公正性を回復、担保するためのあらゆる努力を払う」とする声明を発表した。今年、iPS細胞(人工多能性幹細胞)の世界初の臨床研究を始める高橋政代プロジェクトリーダーらが名を連ねている。

フランス語
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しんどくて昼寝てました/読者会

ブログネタ
フランス語 に参加中!
zassouan_140112

Ce qui se passe aujourd'hui, ce qui est effectivement en rupture totale avec le moment.

今起こっていることは,事実,あの時代との完全な断絶だ.


しんどくて昼寝ていました.目が覚めたら4時.どうするか迷ったのですが,とりあえず読者会に行くことにしました.やはりちょっとしんどかったです.成り行きで懇親会に参加しましたが5人です.

河北新報
透明な力を 第3部・友を思う(中) 面影が薄れる、古里の記憶

 周囲の助けで新生活は支障なく始まった。でも、「かわいそうな被災者」と同情されたくはなかった。
 陸前高田市出身の村上綾香さん(21)は、ともに看護の道を志した幼なじみの小田春菜さん=当時(18)=を震災で亡くした。

 2011年4月、横浜市の横浜労災看護専門学校に入学した。自宅が全壊したため、学校は入寮時期を早めてくれた。先輩たちから日用品や服などを分けてもらった。
 気持ちは、なかなか切り替えられなかった。
 自己紹介の時、「出身地は岩手」とだけ言った。被災の激しかった陸前高田出身であることを知られたくなかった。
 幼なじみの死を受け入れられず、誰かに話すとそれを認めてしまうような気がした。家族を被災地に残し、不自由なく暮らしていることに心苦しさもあった。同級生から聞かれても、自らの体験を深くは話さなかった。「被災してない」。ときにはうそもついた。
 担任の和波美香さん(39)は心配だった。「友達ができた」などと気丈に振る舞うのに、表情は硬い。
 「つらい気持ちを分かってほしいけれど、触れられたくない」。綾香さんは一人、苦しみを抱え込んだ。
 夢に春菜さんが出てきたり、テレビで津波の映像が流れたりすると、感情が高ぶった。勉強に集中できず、眠れない夜もあった。「自分だけが乗り遅れている」。焦りが募った。

 2年生に進級したころ、平静さを装い続けることに耐えられなくなった。正直な気持ちを和波さんに打ち明けた。
 「みんな気に掛けているよ。いつでも話していいんだよ」。温かい言葉に「一人ではないんだ」とようやく思えた。
 看護師を目指す高校の同級生たちの存在も支えになった。
 <ハルの分まで頑張ろうね。いつでも応援してる>
 友達が送ってくれた手紙に、春菜さんとみんなの写真が添えられていた。思い出の写真は流されて1枚もなかった。部屋のコルクボードに張って励みにした。
 少しずつ周囲になじみ始めた一方、新たな不安がもたげ始めた。
 首都圏での日常は、震災と無縁だ。長期休暇で帰郷しても、春菜さんたちと過ごした思い出の場所はどんどん更地になっていく。面影をたどることができない。
 「夢を見ていただけかも」
 大事な思い出すら記憶のかなたに消えてしまいそうで、怖かった。


河北新報
大震災3年 「心の復興」/体調のケアに手だて尽くせ

 東日本大震災から3年がたった。テンポはまちまちながらも、ハード中心の基盤整備が進むその陰で、見落とせない課題として重みを持ち始めている。
 心身の健康をいかに保つか、それである。
 大震災が傷付けたのは「まち」ばかりではない。「被災者の心」にもダメージを与えた。まちは時間の経過とともに再生していくが、被災者が抱える問題は、時が解決してくれるとは限らない。逆に、深刻さを増していくケースさえある。
 厚生労働省の調査で、被災を体験した岩手、宮城、福島3県の子ども(保育・幼稚園児)の約3割に、強い不安や不眠といった心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状がみられた。
 「非被災地」の三重県の子どもと比較、9倍の高率だった。
 ひきこもり、暴力などの問題行動も多く見られ、地震、津波、家族や友人との別離など、つらい体験が重なるほどに、発症する確率は高まった。
 調査は2012年9月〜13年6月に行われた。その後、症状の改善は図られているだろうか。仮設住宅での不自由な生活が長引いたり、家計の悪化などを背景に親が離婚し家庭環境が大きく変化したりしていれば、和らぐどころではあるまい。
 文部科学省の調査によると、12年度に不登校になった中学生の割合は、宮城県が約3%と全国で最も高かった。阪神大震災では3年後に情緒不安定や体調不良になる子どもの数がピークを迎えた。目配りが要る。
 子どもばかりではない。東北大が宮城県沿岸部で実施した被災住民の健康調査で、5%に震災によるPTSDの疑いがあった。支援が必要な住民は4%おり、震災前の全国調査の2倍近い。抑鬱(うつ)傾向も高率だった。
 転々とする避難生活とその長期化が認知症発症のリスクを高めているとする調査結果もある。地域コミュニティーが崩壊し、居室に閉じこもりがちな生活は体調を崩すもとだ。「孤立死」を引き寄せてはならない。
 疲労やストレスの蓄積が健康を損ね、家族を亡くした喪失感や失業などで先行きに希望を見いだせない絶望感が、自死への衝動を高める。警察庁のまとめによると、福島などで震災自殺者が増えている。復興格差の拡大も引き金になりかねない。
 震災の過酷な体験や避難生活の心身に与える影響は当初から懸念されていたが、対応は後回しにされてきた面がある。
 被災者の「心の復興」がなければ、まちの復興は形だけに終わる。行政はカウンセラーや看護師らに巡回してもらうなど、十分なケアと未然防止に努めるべきだ。多くの調査結果が、その必要性を訴えている。
 孤立しがちな被災者への声掛けや交流機会の提供など、地域社会自らの取り組みも欠かせない。NPOなどボランティアらの手助けも、ぜひ得たい。
 「3年後の危機」。瀬戸際にあるとの認識を共有し、顕在化させることがないよう、早急に手だてを尽くしてほしい。


河北新報
「復興に役立つ人になる」 仙台・東六郷小、6人巣立つ

 東日本大震災で地域が大きな被害を受けた仙台市若林区の東六郷小(児童26人)は15日、卒業式を行った。震災直後から仮校舎になっている六郷中の体育館を会場に、保護者や恩師らが卒業生6人の門出を祝った。
 鈴木一彦校長は式辞で「震災では多くの人に支えられた。感謝と思いやりを忘れず、中学校生活を送ってほしい」と激励した。
 卒業生は壇上で6年間の思い出と将来の夢を述べた。「うれしいことを友達と分かち合うと2倍、3倍になった」と渡辺千紘さん(12)。伊藤駿君(12)は「東北の復興に役立つ人間になり、家族や地域に笑顔を届けたい」と力強く語った。
 式には震災以降、支援と交流が続く神戸市から市教委職員ら4人が来賓として参列した。BGMは同小の音楽の授業をサポートする宮教大大学院の学生4人が演奏し、温かい雰囲気の中、6人は学びやを巣立った。
 仙台市の小学校は、約7割にあたる90校が19日に卒業式を行う。修了式は小中学校とも24日にある。


東京新聞
STAP細胞 徹底解明こそ信頼回復

 「STAP細胞」の論文撤回を理化学研究所(理研)が求め、主要著者たちも同意した。論文調査の中間報告では不正の有無は分からなかった。徹底した事実解明を行い結果を速やかに公表すべきだ。

 理研の調査委員会が調査の中間報告を公表した。

 調査委は英科学誌ネイチャー論文に、故意に人をだますための捏造(ねつぞう)、データを操作する改ざん、他の論文などからの盗用があるか調査した。

 一部の画像に改ざんはあったと認めた。理研発生・再生科学総合研究センターの小保方晴子さんの博士論文に掲載された写真とネイチャー論文の写真が酷似している点も同じものと認めた。ただ、故意による不正の有無については調査中とした。

 肝心のSTAP細胞が作製できたかどうかについては、第三者の検証を待つしかないという。研究に携わった研究者に故意があったのか、STAP細胞は本当に存在するのか、最も知りたいことは分からないままだ。

 万能細胞の研究は再生医療につながる重要な分野である。人工多能性幹細胞(iPS細胞)で大きな成果を収め、世界の注目を集めている。ネイチャー論文の撤回騒ぎは日本の研究全体への信頼を失うものだ。理研も研究者もこの責任を痛切に感じるべきだ。

 「論文の体をなしていない」と竹市雅俊センター長がいうようなレベルの論文をなぜ認めたのか、理研の説明は不十分である。

 研究員への教育や組織内の審査体制を見直すと表明したが当然である。研究論文は研究者に責任があるとの考えが研究の世界では一般的とされるが、理研はこの分野の国の拠点施設だ。厳しい審査体制や共同研究者同士の相互チェックルールなどを検討すべきだ。

 小保方さんの博士論文にも疑問がでている。研究を指導した早稲田大も大学の威信のために経緯を調査し事実を明らかにすべきだ。

 安倍政権は成長戦略の柱に女性の活躍推進を掲げる。女性が能力を発揮できる社会の実現は強く求められている。その動きに水を差しかねない。

 野依良治理事長は「若い研究者の未熟としか言いようがない」と突き放した。理研のトップとして人ごとのようである。小保方さんに研究を任せたのは理研だということを忘れるべきでない。

 今後、STAP細胞の存在有無を含め全容の徹底解明をしなければ、失った信用は回復しない。


朝日新聞
(鎮魂を歩く 再会:10)お母さん、また会おうね 東日本大震災

 糸田川朋子さん(31)は昨年、母になった。

 娘の多恵ちゃん(10カ月)の名は、震災で亡くなった母、伊藤恵美子さん(当時55)から1字をもらった。

 夫(33)の転勤で移った静岡の社宅アパートで、多恵ちゃんは6畳の居間を自由にはい回る。興味深げに私へ近寄り、さっとボールペンをつかみ取る。朋子さんは腰をなかなか落ち着けられない。

 母の料理上手を見習いたい。2年半前にそう話していたのを思い出し、得意料理を何か持てたか尋ねると、「えー、そうだなー」。うつむき、考え込んでしまった。「あれー、何だろー。出てこないなー」

 介護や家事に追われた母。最近思い出すのは、「つらくないの」と気遣ったときに返ってきた言葉だという。「あんたら小さいころ、みんなでいろんなとこ行けて楽しかったから、いまはいいんだー」

 そんなわけないじゃん、って思ったんだけど、いまは少し、わかるんですよね。

 親子3人でスーパーに行く。カートを押し、夕飯の相談をしながら野菜、魚、肉と売り場を回る。それだけのことがどうしてか胸に温かく、楽しい。

 お母さんが言ってたのは、これだったのかもなーって。

 アルバムを見せてもらっていると、朋子さんはふいに「あ、カキ雑炊かな」と言った。

 「カキ雑炊。おいしいってうちの人も喜んでくれたんです。お母さんのレシピをメモしてあったんです」。カキは恵美子さんが暮らした宮城・石巻の名産だ。

 去年のあの日は、テレビの前で号泣しながら一人で手を合わせる午後2時46分だったという。今年はどうだったか、後日電話で尋ねた。

 それが、多恵ちゃんがウンチしてぐずっちゃって。朋子さんは笑った。

 すぐに眠ってくれたんで、改めて手を合わせました。また会おうね、がんばるね。すっと浮かんできたのがそれでした。(松川敦志)


毎日新聞
大震災3年:大川小卒業生は1人「みんなのこと忘れない」

 東日本大震災の津波で児童・教職員計84人が犠牲となった宮城県石巻市立大川小は15日、市立二俣小敷地内の仮設校舎で卒業式を開いた。唯一の卒業生となった男子児童(12)が「みんなのこと忘れない」とあいさつ。亡くなった児童のうち13人の家族も出席し卒業証書を受け取った。震災前の写真を収めた卒業記念アルバムも作られた。

 今年の卒業生は震災時3年。当時在籍の児童20人のうち、津波で17人が亡くなり、その後に2人が転校した。

 卒業する男児が「僕には、先生とみんなと忘れられない日々がある。本当にありがとう。みんなのこと忘れません」とあいさつ。(共同)


東日本大震災3年:南部ダイバー目指す岩手の16歳

 復興を助ける潜水士になる。そんな夢をかなえようと、東日本大震災で岩手県宮古市田老(たろう)地区の自宅を失った高校1年生、山本拓実さん(16)は仮設住宅で暮らす母の元を離れ、同県洋野(ひろの)町で下宿生活を送っている。通学する種市(たねいち)高校は銅製ヘルメットが特徴のダイバー「南部潜り」を育成し、潜水と土木両方の技術を学べる全国唯一の学校だ。父は仕事を求め、2年前から宮城県女川町に単身赴任する。離れ離れの家族はそれぞれを思いながら、震災3年を迎えた。【安高晋】

  額の前で手ぬぐいを結ぶと表情が引き締まる。2月初めの潜水実習。空気を送るホースの付いた20キロのヘルメットがずしりと重い。最深10メートルのプールに身を沈める。時間を忘れるような静けさが山本さんの前に広がった。

 父は田老のアワビ育成場で働く潜水士。山本さんが生まれる前に亡くなった母方の祖父も、漁師だったと聞いた。それでも夢は調理師だった。海に生きるつもりはなかった山本さんを変えたのは、震災だった。3年前の津波で自宅を流された。避難先では行方不明者を捜す潜水士の映像が流れていた。その姿は仮設住宅に移ってからも、頭から離れなかった。

 震災から1年後。職場を流された父の光広さん(54)が、女川町で働くことになった。その夏、母の運転する車で6時間かけて父を訪ねた。新しい海でウニ漁に汗を流す父の姿は、輝いて見えた。「いつか父さんと一緒に潜りたい」。思いが膨らんだ。

 種市高の体験入学に行ってみた。深さ10メートルから見上げた水面はきらめいていた。母の裕子さん(40)に「潜水士になろうかな」と打ち明けると、母は祖父のことを語り始めた。

 30年前、漁に出て行方不明になったこと。1週間が過ぎて捜索が打ち切られる寸前に、潜水士が遺体を見つけてくれたこと……。初めて聞く話だった。

 当時小学生だった裕子さんは今も、遭難の前夜を覚えている。雨がやまず、嫌な予感がした。離したくなくて父にしがみついて寝た。それが父との最後の記憶になった。海の怖さを知っている。息子の決心には反対だった。でも、続く一言が胸に迫った。「僕が潜水士になって、みんなを見つけたい」

 父を1週間待つのも苦しかった。今、多くの人が3年も家族の帰りを待ち続けている。思いを受け入れた。

 南部(旧南部藩)に伝わるヘルメット式の潜水実習が始まったのはこの冬からだ。空気をうまく抜かないと体が水中で回転してしまい、難しい。父の光広さんには電話で「まだ宇宙遊泳みたいだべ」とからかわれるが「潜りの基本だから頑張れ」と励ましてくれる。

 潜水士が復興のためにできることは幅広い。漁や捜索だけではなく、港の復旧やサルベージにも人が必要だ。自分にやれることを、これからじっくり考えたい。伝統の「南部ダイバー」を目指して。この夏、潜水士の試験に臨む。


毎日新聞
東日本大震災:半数、転居見通し立たず 釜石の仮設住民、復興事業遅れ−−東大など調査

 東日本大震災で被害が大きかった岩手県釜石市の仮設住宅住民の5割超が転居先の見通しが立っていないことが、神戸大と東大などの研究グループの意識調査で分かった。高台への集団移転や災害公営住宅(復興住宅)の建設など復興事業の遅れが問題となる中、仮設生活が長期化する懸念が高まっている。

 調査は2011年夏から毎年実施し、3回目。昨年11〜12月、釜石市の仮設住宅64カ所の計2532世帯に調査票を郵送し、805世帯(回収率31・8%)が回答した。

 転居先の見通しを尋ねた質問では、17・0%が「あまり立っていない」、37・5%が「全く立っていない」と回答、見通しが不透明な世帯は計54・4%に上った。「既に決まっている」は19・7%だった。転居先の予定や希望は、「震災前に住んでいた地区・集落」が39・1%だった。「震災前と同じ場所」は17・9%で、初回調査からほぼ半減した。

 高齢者のみの世帯は36・2%で、初回調査より9・4ポイント増加。1人暮らしは34・1%で、11・3ポイント増えた。「早く落ち着いた生活がしたい」「仮設で終わるのかと思うと寂しい」と不安を示す記述も目立ったという。

 研究グループ共同代表の平山洋介・神戸大教授(住宅政策)は転居先が決まらない背景に「経済的理由やどこに転居していいか分からない実情があるのでは」と分析。「若い世代が仮設住宅から出て、世帯の高齢化と小規模化が進んでいる」と指摘している。【椋田佳代】


産経
【語る〜東日本大震災3年】
「短編に明るい光 にじませたかった」 福島県三春町の住職で小説家の玄侑宗久氏(57)

 震災直後、ボランティアで火葬場に何度も行き、次から次へと運ばれてくる遺体にお経をあげた。津波により損傷した遺体はすさまじかったが、その後、私が励まされたのは虫だった。

 津波の被災地は塩水に漬かり、多くの生き物が死んだと思われたが、夏にはぼうぼうと生えてきた草の中で、無数のコオロギが同期して鳴いていた。そのワイルドな力に励まされ、メンタルな部分で弱ってちゃいけないよねと思った。

 震災後は忙しかったが、自分を支える「行」のように短編小説を書いた。自然と「蟋(コオ)蟀(ロギ)」「アメンボ」「拝み虫」(いずれも短編集『光の山』に収録)と虫に目がいった。テーマはそれぞれ津波の迫力、放射能による分断、仮設住宅の現実…。最悪だと思える現実でも最悪のまま描いたわけではない。私なりの祈りを込めている。救いというか、明るい光のようなものをにじませたかった。

 この3年で被災者の心情はどう変わったか。世代の差は大きい。本当に精神的にダメージを受けたのは高齢の方々だと思う。苦労して建てた家や農地を原発事故で手放し、「朽ちつづけている家が頭から離れない」と言う人もいる。

 人が生きていくための安定感は、なにより家と仕事で生まれる。しかし、今も仮設住宅に住み、仕事を失った人が大勢いる。家族も集落もばらばらになった。大家族が多かった福島県飯舘村では若夫婦と親が別れ別れになったから、世帯数が2・7倍にもなった。

 住めないというより、住まないというのが現状だと思う。政府が除染の長期目標としている「年間1ミリシーベルト以下」という基準なら、国内にもほかに住めない場所がたくさんあることになる。よく「安全安心」という使い方をするが、安全は学問分野の話で、安心は心情的なもの。いっしょに論ずるべきではない。政府は今こそ、被災者に安全性のラインや将来的なビジョンをもう一度示すべきだ。

 子供たちはたくましい。この経験は必ず実っていくと思う。講演をすると、福島県民とは結婚しないほうがいいという“風評被害”を気にする子供がいるが、そんな阿(あ)呆(ほう)が事前に識別できるのだからありがたい。目も肥えてくるだろう。

 私は今後の福島を背負う子供たちや若者に期待し、支援し続けていきたいと思っている。

フランス語
フランス語の勉強?

3年前のメールを見ました/報告会です

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train_mihara_140112

Pour nous forcer à voir des choses à côté desquelles on pouvait parfois passer parce qu'on était un peu paresseux.
時に僕等がちょっと怠惰なせいで,もうちょっとで見逃すところだったものを強制的に見せるために

わたしは鉄ではありません.中学生の頃,鉄の人がいたことを思い出しました.

3年前のメールを見ました.母からの優しいメールです.3.11の後仙台に行くのが大変で新潟経由で高速バスを乗り継いてどうにか仙台に行ったのは3年前の3月14日です.思い出して悲しくなります.

今日は報告会でした.黙って座っていればいいのですが,その後の懇親会という名の飲み会が面倒でした.でも京都からSzさんが,横浜からKoさんが来ていたのでよかったです.宝塚のGoさんには私が仕事を真面目にしていないことを見破られてしまいました.

河北新報
透明な力を 第3部・友を思う(上) 看護師になる、誓い合った夢

 東日本大震災で、大切な友達を亡くした子どもが大勢いる。同じ時間を過ごし、泣き笑いした仲間との突然の別れ。無念さを胸に刻み、古里を離れて看護師を目指した学生の思いに触れた。
(震災と子ども取材班)

 看護師の卵たちの歌声が体育館に響く。
 <誰にも見せない泪(なみだ)があった 人知れず流した泪があった>
 3月7日、横浜労災看護専門学校(横浜市)の卒業式。陸前高田市出身の村上綾香さん(21)は、あの日からの3年間が歌詞に重なって、歌い続けることができなくなった。
 ともに看護師を目指していた親友の小田春菜さん=当時(18)=を津波で失った。自宅は流されたが、自分は間一髪で助かった。喪失感や恐怖心にさいなまれ、幾たび挫折しそうになったことか。

 2011年3月11日。自宅近くの高田病院に逃げ、窓越しに川を逆流する真っ黒い波を見た。ごう音とともに濁流が流れ込んできた。怒声と悲鳴が交錯する中、無我夢中で階段を駆け上った。
 屋上から眺めた市街地は海になっていた。夜、寒さで凍えた。ごみ袋をかぶったりして少しでも体を温めた。自衛隊のヘリで救助されたのは翌12日のことだった。
 春菜さんの安否が気になって仕方がなかった。母親同士が親友で、生まれたころから家族のような存在だった。
 連絡がつかぬまま、数日後、遺体の仮安置所で対面した。自宅近くで見つかったという。
 「絶対にうそだ」。信じたくなかった。触ったほおが冷たかった。ただ、泣くしかなかった。「ハル ハル!」
 誕生会やひな祭り、クリスマスパーティー、バーベキュー…。楽しみの隣には、いつも春菜さんがいた。
 高校は一緒に自転車で通った。聞き上手の姉御肌。恋の悩みなど、いろいろ相談をした。
 母親が准看護師だった春菜さんは、中学のころから看護師を夢見ていた。責任感の強い彼女にふさわしい仕事に思え、触発された。同じ道を歩もうと誓い合った。

 震災から日が浅い3月下旬。がれきが残る陸前高田を離れる日が近づくにつれ、迷いが膨らんでいく。
 「自分だけ夢に向かっていいの?」
 新しい生活のためにそろえたものは、全て流された。妹や弟たちは明日さえ見えない避難所暮らしを強いられている。
 出発の日、避難所で会った春菜さんの母が、涙ながらに背中を押してくれた。
 「春菜の分まで一生懸命やってきなさい。応援してくれていると思う」
 気持ちがちょっとだけ前を向いた。
 横浜へ。父親の知人に車に乗せてもらい、避難所を後にした。荷物は、かばん一つだけだった。


河北新報
河北春秋

 3日、3カ月、3年、30年。事故や災害などの記憶が失われるまでの時間には、法則性があるそうだ。起きてしまったミスをどう生かすかを探る「失敗学」の提唱者で、東大名誉教授の畑村洋太郎さんが指摘していた

 ▼個人のレベルでは、3日で飽きて3カ月で冷めて3年で忘れる。会社などの組織の場合は、30年で記憶や教訓の伝承が途絶える。もっと時間軸を伸ばせば、60年もたつと地域が忘れてしまい、300年では社会から消えてしまう、という▼東日本大震災から3年を節目と呼んでいいのかどうか。在京のテレビ局も一日中、被災地の表情を伝えたのに、3日もたてばもう、出演者の口の端にも上るまい。まるで、失敗学が教える「忘却の時間の法則」を実証してくれているようだ

 ▼津波到達点に桜を植える活動をしている陸前高田市のNPOのホームページに「10メートルを超える津波の可能性が以前から声高に叫ばれていれば、奪われた命はもっと少なくて済んだのではないか」とあった。そして「私たちは悔しいんです」と▼現実とは思われない震災直後の惨状を見て悔恨を感じなかった人はいない。なぜ、迅速な避難ができなかったのか。忘却にあらがって、30年、60年、300年の先に、教訓をリアルに伝えるには、何が必要なのだろう。

河北新報
大震災3年 どうなる原発/議論不在の再稼働は危うい

 経済の論理を優先させて、原子力回帰が急ピッチで進められようとしている。広範な議論も東京電力福島第1原発事故への真剣な反省もなく、いつか来た道にまた足を踏み入れるつもりだろうか。
 メルトダウン(炉心溶融)と水素爆発によって無残な姿をさらし、放射性物質をまき散らした事故から3年が過ぎた。
 放射能汚染によって、福島県では今も13万6千人が避難を余儀なくされている。事故処理にはこれから何十年もかかるが、汚染水の漏出を止められず出だしから四苦八苦している。
 原発事故の影響は今や「慢性症状」と化し、重苦しく被災地を覆っている。
 それでも原発は重要な電源と位置付けられ、推進されようとしている。政府がまとめたエネルギー基本計画案では、昼夜を問わず発電する「ベースロード電源」とみなされた。
 日々の電力需要の変動にかかわらず、運転し続けることを指す。原発は以前からそう活用されており、目新しい役割を担うわけではない。
 原発事故前と変わらない重要性があると、政策的な正当性が与えられるわけだ。エネルギー基本計画が正式に決まれば、国の原子力規制委員会による安全審査を通った原発の再稼働を目指すのは当然の道筋になる。
 九州電力川内原発(鹿児島県)の1、2号機は既に審査合格の見通しになった。
 原発事故から1年半後の2012年9月、当時の民主党政権は「30年代の原発稼働ゼロ」を打ち出したが、同じ年の12月の衆院選によって政権が交代すると、原発回帰への動きが鮮明になってきた。
 だが、原子力を取り巻く課題は何も解決していない。原発から出る高レベル放射性廃棄物の最終処分地選定は依然として手つかずのままだ。国内の原発が次々に再稼働すれば、使用済み核燃料の保管や処理がさらに困難になっていくのは目に見えているのではないか。
 原発で重大事故が起きた際の避難の問題も解決から程遠い。福島第1原発事故の大きな教訓の一つは、安全で確実な避難は至難の業だということだった。
 原発周辺の市町村単位で計画を作ったところで意味をなさないだろう。万単位の人々を確実に避難させようとするなら、計画段階から国が責任を持たなければ実効性は期待できない。
 それこそ住民にとってかけがえのない安全性なのに、政府や規制委の取り組みは全く不十分だ。福島県の被災地で詳細に調べ、反省点を採り入れるのが本来のあり方だろう。
 再稼働に向かうのであれば、放射性廃棄物や避難、さらに中長期の具体的なエネルギー政策とセットになるべきだ。
 政治のリードによって広範な議論を呼び掛け解決策を探るのが筋にもかかわらず、原発設備の技術的な検討だけで済ませようとしている。それは政治の怠慢であるとともに、原発事故被災地の置き去りに他ならない。


毎日新聞
集団的自衛権と憲法 問題だらけの解釈変更

 集団的自衛権をめぐる国会の議論は、安倍政権が見直しの全体像をまだ明らかにしていないこともあって、憲法の解釈変更という手法が妥当かどうかに集中している。

 私たちは先に、安倍政権の外交姿勢や歴史認識への懸念から、集団的自衛権の行使容認に今踏み出すべきではないと主張した。

 そのうえで、憲法解釈の変更という手法についても、あまりに問題が多いことを指摘したい。一内閣の判断だけで、安全保障政策の重大な転換を行い、戦後日本の平和主義を支えてきた憲法9条を骨抜きにしてはならない。
 ◇9条の根幹にかかわる

 憲法解釈変更についての国会の議論に火をつけたのは、2月12日の衆院予算委員会での安倍晋三首相の答弁だった。

 首相は「(政府の)最高の責任者は私だ。政府の答弁に私が責任を持って、その上で選挙で国民から審判を受ける」と述べた。

 首相の発言に野党だけでなく自民党の一部からも批判が起きた。選挙で勝ちさえすれば、その時々の政権が憲法解釈を自由に変更できると受け取られたからだ。

 首相がそう考えているのなら、憲法は国家権力を縛る最高法規だという立憲主義の否定につながる。誤解を招いても仕方ない発言だった。

 集団的自衛権は、日本が直接攻撃されていなくても、米国など密接な関係にある国への武力攻撃に反撃できる権利だ。

 歴代政権は、日本は国際法上は集団的自衛権を持っているが、憲法9条のもとで許される必要最小限度の自衛権の範囲を超えるため行使できない、と解釈してきた。つまり、自衛隊は海外で武力行使ができないということだ。

 戦後の日本は、憲法9条のもと専守防衛の基本原則に従って、安全保障政策を積み上げてきた。

 集団的自衛権の行使を認めれば、自国を守るだけでなく他国を守れるようになり、自衛隊が海外で武力行使できるようになる。

 これは憲法9条の理念を転換し、根幹を変えてしまいかねない重大な変更だ。憲法解釈で変更できる許容範囲を超えている。閣議決定だけで、変えていい性質のものではない。

 しかも、憲法解釈の最終的な「権限」は、憲法81条に定められているように最高裁にある。政府は行政運営にあたって憲法を適正に解釈する「責任」を持っているに過ぎない。その政府がここまでの解釈変更をしていいのかも疑問だ。

 政府が自ら積み上げてきた憲法解釈との整合性や論理性を軽視して、憲法解釈を自由に変更することはできないことも指摘したい。政府の憲法解釈や憲法そのものに対する国民の信頼が損なわれかねないからだ。政府が恣意(しい)的に解釈を変更すれば、国際的信用にもかかわるだろう。

 集団的自衛権をめぐる政府の憲法解釈は、1981年に現在のものに定着し、以後30年以上維持されてきた。解釈が定まっていない時期に変遷をとげた経緯はあっても、定着し国民にも浸透した解釈が、がらりと変わったことはない。

 その中で、内閣の一部局として政府の憲法解釈を担う内閣法制局が、過去に自らの憲法解釈を変更したと認める例が一つだけある。
 ◇論理性や整合性乏しい

 憲法66条2項は、首相と閣僚は文民でなければならないと定めている。自衛官が文民かどうかについて、自衛隊発足当初は「文民」としていたが、65年に佐藤内閣で「文民に当たらない」と解釈を変えた。

 自衛隊制度が育ち、武力組織であることがはっきりしたため、武力で治める政治を防ぐ憲法の精神に照らし、自衛官は首相や閣僚になれないよう解釈を厳しくした。これは論理性があり、国民の理解が得られる憲法解釈の変更といえるだろう。

 しかし、安倍首相が目指す憲法解釈変更に、こうした論理性や過去の憲法解釈との整合性は乏しい。

 安倍政権内で解釈変更の根拠になると考えられているのが、59年の砂川事件最高裁判決だ。

 基地拡張に反対して米軍基地内に侵入したデモ隊への刑事罰をめぐり、日米安保条約と米軍駐留の合憲性が争われた裁判で、最高裁は日本が「固有の自衛権」を持つことを認め、「自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうる」とした。

 安倍政権は、ここから集団的自衛権の行使は認められていると導き出す考えのようだ。しかし、集団的自衛権の解釈が確立しておらず、最高裁がそれを想定していたかどうかはっきりしない半世紀以上前の判決が根拠になるだろうか。

 政権内では、集団的自衛権を「持っているのに使えないのはおかしい」という議論もよく出る。国際法上認められている権利でも、国家の理念や政策上の判断から行使を留保するのはおかしいことではない。

 安倍政権は、4月にも首相の私的懇談会の報告書が出るのを受けて、与党協議を行い、今国会中にも行使容認を閣議決定するとみられる。議論も国民の理解も不十分で、乱暴すぎる。拙速に進めてはならない。


毎日新聞
希望新聞:東日本大震災 故郷の岩手・大船渡への思い、歌に シンガー・ソングライター、束さん

 東日本大震災で津波の被害を受けた岩手県大船渡市のシンガー・ソングライター、束(たば)さん(30)は歌で大船渡を発信する。市民を元気づける一方、県外では3年を迎えた震災を風化させないために歌う。束さんは「伝えたい思いを歌い、生まれ故郷への恩返しをしたい」と話す。

 <何一つ残ってないんだ 窓も 食卓も 縁側も 粉々に砕けて今は土の中>。震災の2カ月後、津波に流された自宅を初めて見た思いをつづる曲「庭」。庭に残る縁側の窓ガラスや風呂場のタイルなどの破片を拾うと、自宅での思い出がよみがえる。何気ない日常を奪った震災の曲だ。

 県外のライブで「庭」を演奏すると客は涙を流し共感する。「『庭』は震災を忘れさせない力がある」と感じるが、大船渡では歌えない。昨春に大船渡に戻るまでに「庭」など震災がテーマの3曲を作ったが、大船渡でライブなどの主催者から「最悪だ。思い出してしまう」と断られた。

 ストリートミュージシャンに憧れ高校時代にギターを手にした。弘前大に進学後、「束」と名乗り路上などで演奏した。だが卒業後、沖縄に移ると音楽の情熱は冷めた。

 2011年3月11日、友達から「岩手で地震だけど大丈夫?」とメールが届いた。職場のテレビから、見覚えのある大船渡市街を襲う津波の映像が飛び込んだ。早退し帰宅しても涙が止まらず動揺した。「歌おう」。3年間触れなかったギターケースをふと開け、音楽活動の再開を決意した。

 仮設店舗の飲食店が並ぶ「大船渡屋台村」で昨年6月、屋台村の応援歌の作曲を頼まれた。作った「あかり」で、市の花・ツバキのような赤ちょうちんの明かりに復興への希望を託した。屋台村の及川雄右(ゆうすけ)さん(49)は「店を津波に流され、仮設で頑張る店主たちを元気づける癒やしの曲だ」と絶賛する。束さんは「大船渡の人たちが前向きになれる曲を作ろう」と決めた。

 学童保育の仕事をしながら、昨秋以降は県外でのライブに積極的だ。ライブでは被災地を忘れないでとの願いを込め客にこう語りかける。「大船渡に一度、遊びに来てください」【仲田力行】

フランス語
フランス語の勉強?

少ししんどいです/歯ブラシ忘れました

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takehara_tamayura_140112

Heursement que le train avait un peu de retard, sinon je l'aurais raté.
さいわい,列車は少し遅れてきた.さもなければそれに乗れていなかっただろう.

たまゆらを見ていないけれども竹原の街は好きです.

しんどいです.いつもよりしんどい感じ.どうしようもありません.
ふと思い出しました.妹のところに歯ブラシを忘れてしまったこと.

朝日新聞
復興予算―無理な執行は禁物だ

 東日本大震災の復興予算は、5年で25兆円におよぶ。

 被災地以外への「流用」がすでに問題になったが、被災地では予算が使い切れず、先送りしている実態がわかった。

 集中復興期間が終わるまで、あと2年。経緯を検証し、執行期間の延長など軌道修正をはかるべきだろう。

 朝日新聞が岩手、宮城、福島3県と各市町村の決算から集計したところ、震災をはさんだ10年度から12年度にかけ、使われなかった予算を積む「基金」の残高が3兆円近く増えていた。

 大震災では、被災自治体が自己負担せずにすむ復興交付金制度が設けられた。

 ところが、昨年度までに交付されたこの補助金のうち、業者との契約まで済んだのは半分強にとどまっている。

 震災から3年たっても、復興はなかなか進まない――。基金の急増は、そんな感覚を裏打ちするデータと言えよう。

 どこに原因があるのか。福島県のように、除染のため、本格的なインフラ復旧が遅れる事例もある。

 ただ見過ごせないのは、復興を担う市町村の人手不足だ。

 津波で壊滅的な打撃を受けた沿岸部の自治体は、もともと小規模で職員も少ない。そこに膨大な予算が流れ込んだ。職員1人あたりの額が震災で20倍以上になった自治体もあり、とてもこなせない。

 疲労をため込んで心身を病む職員も少なくなく、「もっと働け」というのは酷だ。

 全国から派遣される応援職員や、任期付きの「助っ人」職員で補ってはいる。しかし、必要な技術や知識を持つ人材の供給は限られており、これ以上の増員に限界も見えている。

 追い打ちをかけているのが、東京五輪の開催決定で強まった資材や人件費の高騰である。入札の不調が相次ぎ、事業の実施がさらに遅れている。

 15年度末までの集中復興期間を決めた震災直後には想定されていなかった事態だ。

 もし無理な態勢のまま期限を意識して予算の消化を急げば、計画通りの事業の質や量が確保されない。「有利な補助金があるうちに」と、ムダな事業を誘発するおそれもある。

 これまで明らかになったマンパワーなどの制約条件や事業執行の難しさを踏まえ、柔軟な対応を検討し、被災自治体に「焦らなくていい」というメッセージを送るべきだ。それが増税で賄われた資金の有効な使い方につながる。


河北新報
女川の津波桜、地蔵で復活 「守りの会」が開眼法要

 宮城県女川町で長年住民に親しまれ、東日本大震災で津波を受けながら一度は花を咲かせた「津波桜」が、「桜咲く地蔵」として生まれ変わった。住民グループ「女川桜守りの会」が枯れた桜の幹で地蔵を作り、開眼法要が12日、同町女川浜の海岸広場献花台前であった。

 地蔵は台座を含め高さ約60センチ。桜の木目が生かされた優しい風合いで、穏やかな表情を浮かべている。高さ120センチ、幅110センチ、奥行き130センチの地蔵堂とともにお披露目された。
 桜は町中心部の授産施設の庭にあった樹齢60年を超える2本のソメイヨシノ。津波で幹の半分以上が引きちぎられたが、1カ月半後に3輪の花を咲かせ、被災した住民を励ましてくれた。
 約1年後に枯れてしまい、守りの会が残った幹の活用を検討。町を訪れた僧侶の助言で地蔵を彫ることになり、京都府の木地師小田健太郎さん(31)が制作を引き受けた。
 開眼法要には守りの会メンバーや小田さんら約40人が参加。遠藤定治会長(73)は「震災直後、津波桜が花を咲かせた時の感動は忘れられない。亡くなった人への鎮魂の祈りと震災を語り継ぐ伝承の礎としたい」と述べた。小田さんは「お地蔵さんが被災者のつらさを和らげてくれたらうれしい」と語った。
 桜咲く地蔵は来年3月、移転再建されるJR女川駅の周辺に安置される。それまでは町内の寺などが預かるという。

産経
【忘れない〜東日本大震災3年】
「俺の仕事、見てるだろ?」 亡き祖父追って野菜作り

 宮城県東松島市の農家、武田真吾さん(38)は12日、いつもの通り畑に立った。足元の土塊(つちくれ)をひとつ手のひらに握り取ると、指の間からぽろぽろとこぼれ落ちる。津波で失った祖父、久(ひさし)さん=当時(85)=のにおいがする。復興は野菜たちを育てることに似ている、と思う。この3年間に少しずつ元の姿を取り戻している街を見て、確かにそう感じるのだ。

 東松島では東日本大震災で、全域の3分の2以上が津波に襲われ、死者・行方不明者は1068人に上った。奥松島とも呼ばれ、日本三景の一つに数えられる市内の浜では、造成工事が進んでいる。

 武田さんは畑に建てた白いビニールハウスの中でカボチャの世話をしている。祖父と両親で営んできた野菜作り。高校を卒業後、自然とその輪に加わった。

 「おじいさんの思い出か? 無口だった。いや笑顔か。いやいや、やっぱり、真面目だったことだな」

 津波に襲われる直前も、一緒にトマト畑にいた。逃げる途中、祖父はがれきに足を取られ、目の前で津波にのまれた。武田さん自身も流され、助けられなかった。蘇生しようと、冷たい海水にぬれた祖父の胸を何度も押した。



 トマトが実らないと伝えると、夜中の2時に起きて手入れをしていた祖父。「おじいさんよ、いくらなんでも早すぎるだろ」。案の定、昼寝していた。「真面目っつうか、融通が利かない。でも、絶対仕事に手は抜かない人だったんだ」

 そんな祖父は家族に笑いを与えた。「おじいさんがいなければ、農業はつまらなかったと思うよ」

 畑も失った。がれきに埋もれ、地力を失った土で野菜は育たない。電気工事の仕事に就き、妻と3人の子供、両親と仮設住宅で暮らす武田さんに声をかけたのは、農家仲間の阿部聡さん(36)だった。「自分で頑張れば、自分に返ってくっから。もう一度、農業始めねえか」

 阿部さんは妻と幼い3人の子供、祖母を失っていた。武田さんに躊躇(ちゅうちょ)がなかったといえば嘘だ。「でも、阿部さんは自分よりつらいだろうに」。奮起した。

 震災から9カ月後の平成23年末、若手の農家仲間4人で「イグナルファーム」という農場を立ち上げた。地元の人たちが「これからは、いぐなる(良くなる)よ」と励ましてくれた。その思いも引き受けた。



 復興は農作業と同じだ。種をまかなければ、野菜が実ることはない。畑を離れた農家が多い中、武田さんはトマトやキュウリを栽培しながら、25人の見習農家に育て方を教えている。

 この冬、ファームは東京の大手コンビニエンスストアと契約を決めた。野菜の販路は着実に広がっている。桜が咲き始めるころにはイチゴの栽培も始める。

 「震災からもう3年か。今は、ファームを軌道に乗せることだけしか考えてないな。おじいさんのように、真面目一本やりに野菜を育てるだけしかないな」

 身長160センチだった祖父は、武田さんよりも随分小柄だった。しかし、その手だけは一回りも大きかった。幼いころには、よく頭をなでてくれた。ごつごつした手はトマトの木の樹液でいつも黒く汚れていた。

 今、祖父に伝えたいことは何もないという。

 「これから半世紀がたって、おじいさんと同じ年になっても、俺は農作業をしていると思うよ。おじいさん、俺の仕事ぶりを見ていてくれるだろう?」

 そう問いかけてみる孫の手も真っ黒だった。そして、土のにおいが染みついていた。(玉崎栄次)


石巻かほく
見守って 山形のNPO法人、笑顔のお地蔵様3体建立 東松島・長音寺

 東日本大震災で大きな被害を受けた東松島市野蒜の長音寺敷地内に地蔵3体が建立され、除幕式が11日、現地であった。山形市のNPO法人「被災地に届けたい『お地蔵さん』プロジェクト」の企画。石巻地方で設置されたのは石巻市門脇町に次いで2カ所目。

 地蔵は中央の1体が高さ1.5メートルで、両脇に90センチ、70センチの2体を並べた。費用は約300万円で、全国からの寄付で賄った。

 除幕式には阿部秀保市長や住民らが出席。地蔵をなでたり、ハトをかたどった白い風船を空に飛ばしたりして犠牲者への思いをはせた。

 長男の妻を亡くした野蒜地区の内海牧子さん(63)は「お地蔵さんは心が和む表情をしている。これからも手を合わせに来たい」と話した。

 プロジェクトは被災した宮城、岩手、福島3県の沿岸部37市町村で50体の設置を目指している。葦原正憲理事長(73)は「地元の要望を聞いて笑顔の地蔵にした。地蔵を通じて被災地のつながりが生まれればうれしい」と語った。


朝日新聞
東日本大震災3年 (3)「つなぐ」

 「おはよう、おばあちゃん」

 月曜の午前7時20分、吐く息が白い。山形市立第六中学校2年の関菜乃子さん(14)はこの1月から、近所に住む小春おばあさん(仮名)を訪ねて、燃えるゴミを受け取り集積所に出して登校している。玄関に入ると、小春おばあさんはゴミ袋を用意して待っていた。「元気だった」とか「寒いね」とか二言、三言交わすだけだが、小春おばあさんが喜んでくれるのがうれしい。

 ◆ ゴミ出し援助

 この「単身高齢者宅ゴミ出し支援活動」は、県内一のマンモス校、六中(佐藤政彦校長、全校生徒879人)が東日本大震災をきっかけに昨年暮れからはじめた取り組みだ。

 小春おばあさん宅へは、関さんと生徒会長の今井颯真(そう・ま)君(14)が週に1度、交互に顔を出している。

 数年前、夫を亡くして閉じこもりがちだった小春おばあさんは、二人が代わる代わる顔を出すようになってから「表情が明るくなった」(民生委員)という。

 六中の生徒は一昨年夏から、被災地の宮城県七ケ浜町へ震災ボランティアに出掛けている。3年生は一昨年夏、2年生は昨年夏に被災地を案内してもらい、津波にのまれた水田や市民農園で小石やガラスをひたすら拾った。

 「あのときの体験を忘れず、身の回りで自分にできることをしてほしい」(荒木雅彦教頭)。

 ゴミ出し支援活動は生徒に取り組んでほしい社会貢献活動の一つとして、先生たちが提案した。36人の生徒が手を挙げ、昨年暮れから12人の単身高齢者宅を手分けして訪ねている。

 ◆ 地域に恩返し

 「自分の家の手伝いもできないのに他人の手伝いができるのか」「長続きしないのではないか」と地域の人は心配したが、杞憂(き・ゆう)だった。「お世話になっている地域の方々に恩返しができて、すがすがしい」「ちょっとした会話だけどお年寄りと話ができ、気持ちよく登校できている」と3年生は感想文に書いた。

    ■

 震災3年を控えた2月26日、六中は第3回「3・11を忘れない全校集会」を開き、被災地がある東の方角を向いて黙祷(もく・とう)を捧げた。集会には昨年夏、七ケ浜町のボランティアセンターで2年生たちを世話した「デラさん」こと、小野寺龍一朗さん(35)が講師として招かれた。

 七ケ浜町は仙台市の東にあり、津波で町の4割が水没した地域だ。デラさんは当時のスライドを映しながら、3年生たちが復旧に汗を流したがれきだらけの水田に大豆が植えられ、それでみそができたこと、2年生が片付けを手伝った市民農園は、今年から町の住民に貸し出されることになったことを報告。「これからも七ケ浜に関心を持ってくれるとうれしい」と語りかけた。

 全校集会のあと、生徒たちは教室に戻り、それぞれ振り返りの時間を持った。震災と自分、これからの自分を考えた。

 関さんは、自分たちが被災地の復興に貢献できうれしく思ったとつづり、「今の私たちに必要なことはこれをつないでいくことだと思う。私たちも行動で下の学年や周りの人につないでいきたい」とまとめた。

 六中の復興ボランティアは今年の夏にもある。新2年生が七ケ浜町を訪れる予定だ。(伊東大治)

フランス語
フランス語の勉強?

遺言 原発さえなければ/無常素描 を見ました

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mihara_140112

今日もフランス語の勉強はお休みです.東京にいます.
写真の三原はタコの街です.

遺言 原発さえなければをポレポレ東中野で見た後,新宿の模索舎に行ってミニコミをいくつか買いました.
ポレポレ中野は満員でした.その後お茶の水の3.11映画祭で無常素描を見ました.いろいろと思い出してしまいました.

毎日新聞
大震災3年:空から目撃した津波…広がる更地に恐怖の残像

 東日本大震災で大津波に襲われた仙台平野の沿岸部。上空からのぞむと、人々の生活の気配は見えず、いまだに更地が広がっている。

 3年前の3月11日、この地域に大津波が襲来したのは地震発生から約1時間10分後だった。仙台空港から本社ヘリコプターで飛び立ち、目の当たりにした大津波は、海岸の堤防や防潮林を越えても勢いを弱めることなく、どんどんと平野を遡上(そじょう)して、街を破壊していった。あのときの背筋が凍るような感覚は忘れない。

 今も、多くの人たちが、大切な家族やふるさとを失った悲しみも癒えないまま、内陸の仮設住宅などで避難生活を強いられている。防波堤の建設や海岸林再生に向けた植栽地造りなど、少しずつ変化の兆しも見えるが、その速度はとても遅い。

 大津波による破壊は、ほとんど一瞬だった。だからこそ、復興への長い道のりに、もどかしさを感じる。【手塚耕一郎】


毎日新聞
東日本大震災3年:3年経てやっと 3姉妹両親捜索−−浪江遺族会

 東京電力福島第1原発事故で全町避難が続く福島県浪江町の沿岸で11日、遺族会が初めて参加し行方不明者を捜索した。同町は最大で高さ15・5メートルの津波が襲い、149人が死亡し、33人が行方不明となった。

 3姉妹の長女で東京から来た浮渡(うきと)幸江さん(31)は「早くお墓に入れてあげたい」と、妹2人と手分けして両親を捜した。父の鈴木文雄さん(当時64歳)と母十四代(としよ)さん(同61歳)は、もう一人の兄弟・清孝さん(同24歳)と共に家ごと津波にのまれた。清孝さんは1カ月後に遺体が見つかったが、両親は行方が分かっていない。

 いつも静かに見守ってくれた父と厳しい母だった。仙台市の介護施設で准看護師として勤める次女の本居(もとい)春江さん(29)は、仕事を辞めようと思ったとき、十四代さんに「自分で選んだ道だから、つらくても頑張れ」と言われた言葉を今も励みにしている。

 福島県伊達市に避難している三女の美保さん(25)は勤務先の同県南相馬市で震災に遭い、自宅の近くまで戻ったところで警察官に「(津波で家が)もうない」と制止されたときの悔しさを忘れない。自宅は原発から約5キロ。警戒区域に指定され、昨年4月の避難区域再編まで立ち入りが制限され3人は捜索を辛抱していたという。

 この日、約1時間の捜索で手がかりは見つからなかった。幸江さんは「3年たってから捜すのはやっぱり難しい。でも、両親が見つからない限り節目はない。また来ます」と誓い、海を見つめていた。【蓬田正志】


毎日新聞
東日本大震災3年:震災関連死(その1) 震災なければ、延命できた 3000人、なぜ力尽き

 震災後も被災者は死の危険にさらされている。長引く避難生活によるストレスや健康悪化などが引き金となる震災関連死だ。大津波と東京電力福島第1原発事故を伴った東日本大震災の関連死者数は3000人を上回り、さらに増えることが懸念される。だが、時間がたつにつれ、震災と死亡の因果関係の証明は難しくなる。「震災がなければ……」と遺族が思っても、関連死と認められないケースもある。関連死認定の課題、そして、減災にもつながる関連死防止の課題を取材した。

 ◇避難で転々、受診も遅れ 悔しさ募る

 夫は息を引き取る4日前、妻の顔を見つめて「きれいだなあ」とつぶやいた。その声を鮮明に覚えている。

 福島県広野町から福島市に避難中の鈴木恵子さん(66)は2012年11月、夫忠昭さん(当時68歳)を亡くした。一周忌を迎えた昨年11月、鈴木さんは夫の震災関連死認定を求める申請書を町に提出した。「震災がなければ延命できたかもしれないと思うと、悔しくて」。審査は今も続く。

 震災当時、忠昭さんと義母(当時90歳)と3人で暮らしていた。地震の被害はなかったものの、福島第1原発事故を受けて11年3月12日、同県喜多方市の次女宅に避難した。そこで義母は体調を崩し、4月26日、入院先で亡くなった。医師から告げられた死因は「避難のショック」。忠昭さんは広野町に関連死認定を申請し間もなく認められた。

 夫妻はその後、県内外の親戚や知人宅を1週間単位で転々とした。11年10月、忠昭さんは避難生活が続いたため受診が遅れた人間ドックで、肺がんが見つかった。同12月、福島市内の病院に入院した。

 忠昭さんは入退院を繰り返しながら徐々に衰弱していった。12年春ごろからは、時計の秒針を何時間も見つめるなどし、精神科で「居住地が定まらないストレスが原因かもしれない」と言われた。夫妻は同6月、福島市の長女宅近くの一軒家に落ちついた。一時は真っ白になっていた夫の髪が少しずつ黒く戻っていくのを見て、鈴木さんはホッとした。しかし同9月、忠昭さんは呼吸困難に陥り病院に搬送された。

 「見て、お父さん。すごい虹」。12年11月8日、病室の窓から大きな虹が見えた。忠昭さんは、満足そうに大きな息を吐いた。そして鈴木さんの顔をじっと見つめ、にっこりと笑った。「きれいだなあ」。4日後、忠昭さんは家族に囲まれて息を引き取った。

 死因は肺炎。肺がんに起因したとみられるが、「避難生活による悪化」を指摘する医師もいた。1年がたち「震災がなければ」という思いをぬぐえず、申請を決断した。

 申請の翌月、広野町から資料の再提出を求める文書が届いた。震災と夫の死の因果関係に関する情報が足りないのだという。「死ぬと思って看病してなかったから、震災との関係なんて振り返っても分からない」。鈴木さんは戸惑った。

 忠昭さんの闘病生活を振り返ると、「あの時の私の処置が悪かったんじゃないか」との思いが募る。今年2月末、鈴木さんは備忘録と記憶をつなぎ合わせ、書類を町に再提出した。「これでだめなら、もう諦める。でも、震災さえなければと悔しさだけは残るの」

 ◇不認定、納得できない

 たんすの上に穏やかな表情の夫の遺影を置き、ご飯やバナナなど供物を欠かさない。「震災さえなければ、お父さんは元気に暮らしていたと思う」

 岩手県釜石市の自宅を津波で流され、遠野市にある借り上げ住宅の2DKのアパートで1人で暮らす鳥取奈賀子(ながこ)さん(71)は、震災から約1年後の2012年3月に亡くなった夫健二さん(当時80歳)をしのぶ。夫の死は震災後のストレスなどが原因だとして、震災関連死と認めるよう13年11月、盛岡地裁に提訴した。

 鳥取さんによると、健二さんは震災前まで、小型船でウニやアワビを取り、心身に変調はなかったという。しかし、震災直後からぼうぜんと座り込むなど様子が一変した。遠野市にある長男宅に移ると、山を見て「波が来た」と言ったり、近所を徘徊(はいかい)したりした。11年6月に「アルツハイマー型認知症」と診断された。介護老人保健施設に入所後、症状が悪化し、体調の異変を自分から訴えられないまま胆のう腫瘍が原因で死亡したという。

 「関連死じゃないの?」と友人に言われた鳥取さんは12年7月に申請した。だが県の審査会は「施設で介護を受けながら通常の生活をしていた」などと判断し、関連死と認定しなかった。再申請や異議申し立てをしたものの、保健師らの証言を元に「震災前から認知症と思われる症状はあった」と退けられた。鳥取さんは「納得する説明がない。裁判で勝つのは難しいとしても、せめて震災関連死と何が違うのか、はっきりさせてほしい」と願う。

 岩手県内では、11年12月に死亡した陸前高田市の男性(当時56歳)の遺族も同様の提訴をした。震災後の生活の変化や自分の店舗の再建への不安から高血圧症などの持病が悪化したため、急性心筋梗塞(こうそく)との合併症で死亡したと主張している。

 この男性のケースについて県の審査会は、心筋梗塞を患ったのが震災8カ月後で「生活が安定した時期」とみなし、服薬を怠っていたことを指摘して「震災との関連性なし」と判断した。男性の妻は「(審査会は)死亡原因が夫にあると言っているのに等しく悔しい」と代理人を通じてコメントしている。

 ◇9割が高齢者

 東日本大震災の関連死者数は10日現在の毎日新聞のまとめで、3048人に上っている。震災翌日の2011年3月12日に発生した長野県北部地震の関連死を含め、1都9県に及ぶ。

 復興庁は、昨年9月30日現在の1都9県計2916人の関連死を分析している。それによると、福島1572人、宮城873人、岩手417人と東北3県で全体の98%を占める。次いで茨城の41人が多い。

 復興庁データを年齢別にみると、66歳以上が2599人と9割を占めており、高齢者の心身に震災が大きな影響を与えていることがうかがえる。21〜65歳は312人で全体の1割、20歳以下は5人となっている。

 震災後1カ月以内に死亡した人が1156人に上り、このうち1週間以内に亡くなったのは449人だった。半年以内では累計で2241人と、全体の77%を占めている。

 1年を過ぎてから震災関連死と認定された人は全体の1割以下の280人で、時間が経過するにつれて関連死認定数は少なくなっている。この280人のうち9割の255人は、福島第1原発事故の影響をもっとも受けている福島県民の関連死者だ。

 ◇福島は直接死上回る

 福島県では震災関連死が1月末現在で1660人に上り、直接死の1607人を上回っている。東日本大震災の被災地で関連死がもっとも多い同県では、市町村が関連死の審査を担っている。

 福島第1原発事故により被災者の避難生活は長期化。生活習慣病などのリスクが高まっているうえ、原発事故の収束が見えない現状で将来の見通しを立てられず、精神的ストレスが被災者に積み重なっていることが背景にあるとみられる。

 福島県で震災後1年を過ぎて死亡した35人を復興庁が分析したところ、8割が70代以上だった。死亡に至ったと考えられる原因は1人に複数ある場合もあり、7割が「避難生活の肉体・精神的疲労」、4割が「避難所などへの移動中の肉体・精神的疲労」に該当した。自殺者が1人いた。震災後の平均移動(避難)回数は7回にも達している。

 宮城県では2月末現在、883人が関連死と認定された。津波被害が大きかった南三陸町など12市町が県に審査を委託している。県の審査会が審査した件数は13年9月末現在で77件あり、そのうち関連死と認められたのは35件だった。

 県によると、11年11月の最初の審査会で、医師や弁護士ら委員5人に対し、国が県に対して例示した「長岡基準」に沿った内容の「審査の考え方」を示した。審査会はこれを元に個別に判断したという。認定した案件では、津波に襲われたが救助され、入院先で死亡したケースなどが多かったとしている。

 岩手県では17市町村が県の審査会に審査を委託している。独自で審査しているのは沿岸では山田、岩泉の2町、内陸は盛岡市のみだ。今年2月末現在で震災関連死と認められたのは439人で、宮城県の半数だ。

 茨城県では16市町村で41人が関連死と認定され、直接死の24人を上回る。関連死に認定された人の平均年齢は75・5歳。市町村別では、県北部の日立市が最も多い13人となっている。

 ◇阪神大震災で犠牲者の14%

 1995年1月17日に発生した阪神大震災で「関連死」の言葉が生まれた。最も大きな被害を受けた兵庫県の集計(2005年)によると、犠牲者総数6402人のうち、震災関連死が919人と全体の14%を占めている。関連死の死因は、肺炎やストレスによる心筋梗塞(こうそく)、持病の悪化などだった。震災の発生が冬で、厳しい寒さや劣悪な環境の避難所での生活などが、特に高齢者に影響したとされる。

 04年10月23日に発生した新潟県中越地震では、消防庁のまとめによると、犠牲者68人のうち直接死が16人だったのに対し、関連死は52人。避難中の自動車内で脳疾患や心疾患で亡くなったケースがあった。

 この特集は宮崎隆、金寿英、道下寛子、近藤諭、米山淳、喜浦遊、塚本恒、湯浅聖一、鈴木敬子、土江洋範が担当しました。(グラフィック 樫川貴宏、編集・レイアウト 高橋真志)

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 ◇中越地震で「長岡基準」

 ■ことば

 ◇震災関連死

 地震による建物倒壊での圧死や津波による水死など、災害を直接の原因とする死亡を「直接死」という。「関連死」は、避難生活で受けた疲労や精神的ストレスなどで体調が悪化し死亡したケースを指し、自殺者も含まれる。1995年1月に発生した阪神大震災を機に初めて「震災関連死」が認められた。総務省消防庁は阪神大震災以降、災害の被害者数に関連死者を含めるようになった。

 関連死と認定されれば、市町村と県、国から、死亡者が世帯主の場合は500万円、世帯主以外には250万円の災害弔慰金が遺族に支給されるほか、遺児への奨学金など被災者の生活再建に及ぼす影響は大きい。

 関連死か否かは、遺族からの申請を受けた各市町村が「災害弔慰金等支給審査会」で判断する。市町村が県に審査を委託する場合もある。審査会の委員は弁護士や医師が多い。

 関連死の認定に明確な基準はない。死亡に至る経緯は一人一人異なるため、因果関係の判断に迷う自治体からは、統一基準を求める声も上がっている。

 2004年10月に発生した新潟県中越地震では、同県長岡市の審査会が05年10月、死亡までの経過期間などで地震との因果関係の有無を判断するための基準を設けた。「長岡基準」と呼ばれている。国は東日本大震災の被災自治体に対し、長岡基準を関連死認定の「参考」として示した。

 しかし、東日本大震災に長岡基準を単純に当てはめることは妥当ではないという指摘がある。福島県内で関連死者数が最も多い南相馬市の担当者は「原発事故の特有性を考慮した制度を考えるべきだ」と主張する。

 判断のよりどころとなる裁判所の判例として、阪神大震災での関連死不認定を覆し、関連死と認めた98年の判断がある。大阪高裁は「死期が迫っていた人でも、震災がなければ延命できていた可能性がある場合は、死亡と震災に相当な因果関係が認められる」と因果関係を広く認め、最高裁が追認した。


河北新報
命救う道歩もう 家族3人犠牲の陸前高田・高橋さん大学へ

 安らかに眠ってほしい−。津波で家族3人を失った岩手県陸前高田市の高橋敦浩さん(18)は11日、母と兄、妹を思い、仮設住宅で黙とうをささげた。今春、大学に進学し、人間の行動心理などを学ぶ。「あの日、救えた命が必ずあった」。信念を胸に新たな一歩を踏み出す。

 母敦子さん=当時(47)=と、兄康浩さん=同(23)=、妹の美乃ちゃん=同(3)=の3人は市指定避難所の市民会館で、津波に襲われたとみられる。
 母子家庭だった。父親役もこなす敦子さんは、厳しかった。きつく叱られていじけていると、あまり言葉を話せない美乃ちゃんが、寄ってきて心配してくれた。博物館施設勤務の康浩さんは物知りで、多くのことを教わった。
 震災当時は中学3年。高台の中学校にいて、自分だけが生き残った。3人ともう会えない。その事実と向き合ってきた3年だった。妹と同じ年ごろの女の子を見ると、涙がこぼれた。
 「この地を離れようか」。家族と自宅、友人らを失い、何も気力が湧かなかった。支えてくれたのは、高田高の級友らの存在。たわいのない会話にほっとした。
 自分のためになることをしようと2012年、「高校生平和大使」になり、スイスの国連欧州本部で核兵器廃絶を訴えた。市のまちづくり議論に参加し、若者の立場で意見した。「地元に残ったからこそ、多くの経験ができ、人にも出会えた」
 仮設住宅で1人暮らし。炊事や掃除、洗濯をこなした。一日の出来事を家族に報告できず、夜、さみしさが募った。
 3月下旬に盛岡市に引っ越し、岩手大の人文社会科学部に入学する。
 震災の日、地震から津波まで時間はあった。大切な人の死に、「なぜ」の問いが消えない。「人命を守れるようになりたい」。より良い避難方法や防災教育を考える道を歩もう、と誓う。
 岩手大は母が勧めてくれた大学。3年間の頑張りを「きっと褒めてくれる」と思う。
 「3人のおかげで、今の自分がある。ありがとう」


河北新報
東日本大震災3年 東北で追悼行事

◎若者の力が必要/米沢

 福島第1原発事故の影響で、福島県から約1550人が避難している山形県米沢市の伝国の杜で11日、「復興のつどい・追悼式」があった。
 山形県置賜地域のボランティア団体や自治体などでつくる実行委員会の主催で、避難者ら約400人が出席した。
 実行委員長で「ボランティア山形」の井上肇代表理事は「『3.11』を風化させないことを誓う。復興には山形の支援、特に若者の力が必要になる」とあいさつした。
 県立米沢女子短大の遠藤恵子学長が「復興への誓いの言葉」を読み上げ「決して諦めず、共に丁寧な一歩一歩を歩んでいきましょう」と呼び掛けた。
 伊達市から米沢市に避難している熊谷裕介さん(50)は「3年が早いようで遅いような複雑な心境。事故の一日も早い収束と避難者の気持ちをくみ取った支援を願う」と話した。

◎東北は一つ灯に誓う/山形

 山形県山形市は11日、市役所前広場で市追悼・復興祈願式を行った。市川昭男市長と吉村美栄子山形県知事、避難者ら約200人が参加し、地震が発生した午後2時46分に合わせ、全員が黙とうをささげた。
 吉村知事は「東北は一つ。3.11を東北鎮魂の日として決して忘れてはいけない。全力で支援に取り組んでいきたい」とあいさつした。参加者は、恒久平和を願って広場に設置されている釣り鐘「千年和鐘」を突き、手を合わせた。
 県郷土館「文翔館」前広場では、県やNPOなどでつくる実行委員会の主催で、震災犠牲者を追悼するキャンドルナイトがあった。ろうそくが入ったガラス瓶約300個に火がともると、ハートの形と「3.11」の文字が浮かび上がった。
 福島県南相馬市から山形市に避難している武沢治さん(59)は「原発事故が収束していない中、政府は原発再稼働に進んでいる。福島の教訓が生かされず、失望している」と訴えた。

◎灯籠浮かべて海へ冥福祈る/岩手・大槌

 東日本大震災で被災した岩手県大槌町の地元住民でつくる「赤浜の復興を考える会」が11日、同町赤浜漁港で追悼式を行った。
 午後2時46分、サイレンが鳴り響く中、参加者約240人が犠牲者の冥福を祈り黙とう。赤浜地区の死亡・行方不明者数と同じ93個の灯籠と、手書きのメッセージを添えたお札を静かに海に浮かべた。
 川口博美会長(65)は「3年を一つの区切りとして、地域の復旧・復興に今まで以上にまい進する」とあいさつした。
 いとこの男性=当時(62)=が行方不明になっている主婦篠崎京子さん(59)は「私の中では震災がずっと続いている。ただ祈るばかりだが、生きていくしかない」と話し、海に向かって手を合わせた。

◎悲しみ優しさに変える/岩手・山田

 岩手県と同県山田町による東日本大震災津波合同追悼式が11日、山田町中央公民館で開かれ、遺族ら約600人が参列した。
 達増拓也知事は「県の底力を見せ、安全確保・生活再建をさらに進める」と語り、佐藤信逸町長は「復旧期から再生期へ移行し、町の復興に全力で取り組む」と話した。
 遺族を代表し、父健剛さん=当時(64)=を亡くした歯科医内舘伯夫さん(37)が「悲しみや悔しさを、誰かを思いやる優しさに変えることが亡くなった人たちへの敬意になる」と誓うと、会場からは、すすり泣く声が漏れた。
 同町では、犠牲者と行方不明者が計820人に上り、家屋の被害も7000棟を超えた。遺族らは献花などで犠牲者の冥福を祈った。

◎無念の思い忘れない/相馬

 福島県相馬市磯部、原釜の2地区に東日本大震災の慰霊碑が建ち、11日、除幕式が行われた。
 磯部地区の式には遺族ら約400人が参加した。除幕され、遺族は犠牲者名が刻まれた慰霊碑に手を合わせて死を悼んだ。
 立谷秀清市長は「亡くなった人の無念の思い、われわれの追悼の思いを碑に託し、永遠にとどめたい」とあいさつした。
 長男を亡くした主婦阿部洋子さん(67)は「息子は消防団員として仕事を全うした。天国から家族を見守ってほしい」と話した。
 同市では震災で439人が死亡し、19人が行方不明になっている。

◎復興きょうが始まり/福島・浪江

 福島県浪江町は11日、東日本大震災の犠牲者の追悼式を同町の如水典礼さくらホールで行った。町が福島第1原発事故避難区域の町内で震災追悼式を開くのは初めて。
 遺族ら約170人が参加し、震災発生時刻に黙とうした。津波で弟を亡くし、父と母が行方不明の准看護師本居春江さん(29)が遺族を代表し、「震災から3年たっても町は復興の途中。命の尊さとはかなさを知った私たちにしかできないことを始めよう」と語った。
 町の死者は151人で行方不明者は33人。原発事故で2万1090人の全町民が避難している。
 このほかに、県の追悼復興祈念式が福島市であり、佐藤雄平知事が「世界に誇る復興を果たす」と述べた。
 行方不明者の捜索も浪江町などで実施された。農業用ダムが決壊して男女7人が死亡し、当時1歳の男児が行方不明になった須賀川市でも捜索活動が行われた。


河北新報
街の復興、いつか伝えたい 宮城・南三陸防災庁舎の一日

 「あっという間の3年間だった。同僚を亡くしたつらさを忘れることはない」
 東日本大震災の津波が襲い、職員ら43人が死亡・行方不明になった宮城県南三陸町の防災対策庁舎。震災から3年の11日早朝、朝日が差し込む赤い鉄骨の前で、同町職員の三浦勝美さん(51)は手を合わせた。
 三浦さんも屋上で津波に遭った。同僚33人と、消防士だった義弟が帰らぬ人になった。職員全員が大きな痛みを抱えたまま、町の復興作業に向き合ってきた。
 遺族にとっても歳月は止まったままだ。気仙沼市の市臨時職員村上勝正さん(64)は、県南三陸教育事務所に勤めていた長男宏規さん=当時(33)=が庁舎で行方不明になった。「数日出張に行っていて、いつか帰ってくるような、今もそんな気持ちです」
 花束を手向ける人の列とは対照的に、庁舎がある町中心部はさら地が目立つ。復興は途上だが、住民は顔を見合わせると時折、笑みも見せた。
 南三陸消防署副署長の夫・小野寺庄一郎さん=当時(57)=を失った気仙沼市の主婦喜美子さん(60)は「私なりに頑張っていく」と前を向く。「いつか夫に、気仙沼も南三陸もこんな街に復興したんだよと伝えたい」
 あの時のように、防災無線のサイレンが響きわたった午後2時46分。約400人が庁舎前で黙とうした。
 「コーチのおかげで野球が好きになった」。気仙沼高2年で野球部の浅野祐介さん(17)は、庁舎で犠牲になった歌津中野球部コーチの町職員三浦毅さん=当時(51)=を思い、手を合わせた。「3年たっても自分は頑張っている。これからも見守っていてください」と感謝の気持ちを込めた。(報道部・高橋鉄男)


河北新報
哀別の日、希望探す 「会いたい」願い天へ

 東日本大震災の発生から3年。流れる歳月の節目に、あの日の記憶を思い起こし、亡き人に思いをはせる。11日午後2時46分。東北の各地で黙とうがささげられ、犠牲者を哀悼した。
 宮城県名取市の閖上中旧校舎前で、ハト型の白い風船350個が一斉に舞い上がった。
 同中は生徒14人が犠牲になった。故人にメッセージが届いてほしい。風船を伝書バトに見立てた。
 「どんな姿でもいいから会いたい」。長女ななみさん=当時(14)=を亡くした同市の主婦菊地和子さん(51)は風船にそう記した。
 生きていればいま、高校2年生。「同年代の子の成長を見ると、だんだん喪失感が強まる」。手を振りながら、西風に乗って海の方へ遠ざかる風船をずっと見つめた。
 寒風が吹きすさぶ石巻市門脇町の追悼会場には約600人が集まった。
 「長いような短いような3年だった」。会場近くの住宅跡では、仙台市青葉区の無職女性(65)が、地震発生時刻に合わせて親類らと手を合わせた。
 ここに住んでいた姉2人と義理の兄はいまも行方不明。「何度も捜したけれど、どこへ行ったのか。3人にはみんな元気に暮らしていますと伝えたい」
 仙台市青葉区の中心商店街。通りは普段、何事もなかったかのように買い物客や学生らが行き交う。
 午後2時46分。アーケード街の人の流れがぱたりと止まった。震災発生の時刻を告げる鐘の音に全員が目を閉じ、犠牲者の冥福を祈った。
 11日に合わせ仙台市を訪れた東京都三鷹市の会社員千葉夏姫さん(26)=栗原市出身=は、アーケード街に設けられた献花台に花を手向けた。
 「東京と被災地、被災地の中でも年々ギャップが大きくなっているように感じる。多くの人が亡くなったこの震災を忘れてはいけない」。自分に言い聞かせるように語った。
(報道部・片桐大介、坂井直人、勅使河原奨治)


河北新報
大震災3年 復興庁の役割/東北創造へ、指導力を示せ

 心の時間は止まったままという被災者も少なくないだろう。それでも時計の針は確実に時を刻んでいる。
 東日本大震災から3年。日常を砕かれた被災者が、果たしてどれだけ明るい未来像を描けているだろうか。
 復興庁が創設され、2月で2年が過ぎた。すべての省庁より高い位置から復興事業を統括する組織との位置付けだ。
 経験のない困難な災害復興である。わたしたちは、東北が再生するためには、平時の発想から抜け出した異次元の対応が必要だと訴えてきた。
 実態はどうだろう。被災自治体による独創的なまちづくりが、既存の法制度や国が定めた復興事業の枠組みに縛られ、思うように実を結んでいない。
 復興の遅れは、離れた地で避難生活を送る人々の帰還意識を薄れさせ、地域の再生そのものを難しくさせる。こうした負の連鎖が広がらないことを願う。
 何より急がれるのが被災者の生活再建だ。その要、住宅整備が進まず、災害公営住宅や防災集団移転による宅地の完成は約9%にとどまっている。
 土地をめぐる権利関係が複雑で、用地取得に手間取ったことが大きく影響し、人手や資材不足による入札不調ももたつく要因となっている。
 岩手県は弁護士会と共同で土地収用法の特例法をつくる制度案をまとめたが、復興庁は私有財産権の保障など憲法上の課題を指摘し消極的だ。
 自治体が現行制度を使い切れていないだけとの認識も示し、人的支援と手続きの簡素化で対応可能と判断している。
 「制度に合わせた復興ではなく、復興に合わせた制度を」−。用地問題に限らず、柔軟性に欠ける復興庁への不満が被災自治体には充満している。関係省庁に対する勧告権も与えられている復興相が、いかにリーダーシップを発揮するか。司令塔としての真価が問われよう。
 震災復興を、人口減少や高齢化、産業の空洞化といった課題を抱えたままの現状復旧にとどめてはならない。ハード面の整備を急ぎつつ、ソフト面の支援へと軸足を移していく必要があるのはそのためだ。
 復興庁が打ち出した「新しい東北」創造事業が柱となる。
 子どもからお年寄りまでが明るく元気に暮らせるコミュニティーや、持続可能なエネルギー社会の構築、地域資源を活用したビジネスの推進など、可能性ある未来社会をつくる試みは、日本の多くの地域が直面する課題解決の先取りでもある。
 意欲的な取り組みがモデル事業として選ばれており、産学官一体で支える仕組みが必要だ。情報を共有し、ノウハウやマンパワーを提供し合うネットワークの構築は有効だろう。それぞれが得意分野で連携することで持続的な活力が生まれ、震災の風化防止にもつながる。
 明日の日本につながる復興を果たしたとき、被災者もようやく報われる。復興庁の存在意義はそこにある。


河北新報
河北抄

 1万8千人を超す死者、行方不明者を出した東日本大震災。3年前の「あの日」に被災地で産声を上げた新しい生命もある。その誕生物語をまとめた手記集『3・11に生まれた君へ』が出版された。
 地震、津波や原発事故におびえながらの出産、子育て。宮城県の15人を含む31人の母親らが当時の記憶とともに、わが子への慈しみなどをつづっている。

 北海道の官民プロジェクトが震災当日の新生児を被災3県の市町村に確認し、名前入りの椅子を贈った。その後募った手記を河北新報出版センターなど4紙が合同で本にした。
 地震パニックで「産むのをやめます」と叫び、点滴チューブを引き抜こうとした仙台市の女性。七ケ浜町の女性は生まれたばかりの娘を渡され、「お母さんがこの子を守るのよ」という看護師の力強い声でわれに返った。

 柴田町の女性は、息子を産んだことを知って喜んだ祖母が行方不明になった体験を記し、「亡くなられた人々の分も強く生きていってほしい」と結ぶ。
 子どもたちは3歳になった。いつか、この本を読む日も来るだろう。周囲の力添えで生を受けた感謝を胸に。

毎日新聞
震災遺構の保存 鎮魂と学びの場として

 東日本大震災の発生から3年が過ぎた。体験の風化がいわれることも少なくない。死者たちを追悼し、惨禍の記憶を忘れずに未来に伝えたい。被害を受けた建物などを鎮魂と学びの場として保存するのは、その方法の一つと考えられるだろう。

 リアルに破壊のようすを示す遺構は、雄弁に震災や津波の恐ろしさを物語る。見ただけでも、大自然の猛威を実感できるのだ。

 しかし、遺構の保存については問題も多い。最も切実なのは、地元の人々の中に「早く解体してほしい」「見るだけで悲しくなる」という声もあることだ。地元の合意が不可欠だが、その過程で人々を二分することにもなりかねない。多くの犠牲者を出したことを考え、遺構が慰霊の場としても受け入れられることが必要だ。行政などは繊細なうえにも繊細な配慮が求められる。

 保存や維持管理の費用をどうやって捻出するのかも重い課題だ。また、遺構の存在自体が、都市計画などから見て復興の妨げになる場合もある。一方で、新しい街づくりに生かせるケースもあるだろう。

 復興庁は昨年11月、震災遺構保存のための初期費用を負担する政策を発表した。維持管理費は対象にしないことや、支援する遺構は一つの自治体に1カ所のみとすることなどに、不満も聞かれる。だが、遺構保存をしやすくなったのは確かだ。

 復興交付金を活用する震災遺構の第1号となったのは岩手県宮古市の「たろう観光ホテル」で、市は2億1000万円の交付が認められた。

 ホテルの付近は津波で押し流され、更地が広がっている。6階建てのホテルの1、2階はさびた鉄骨がむき出しになり、3階も窓や壁が壊れ、4階まで浸水した。近くには「万里の長城」と呼ばれた巨大な防潮堤があるが、津波はこれを乗り越えて家々を押し流した。

 ホテルの社長は昭和三陸津波(1933年)の教訓が生きなかったことを痛感し、建物を防災の啓発に役立てることにした。この1年間で修学旅行生ら4万人以上が訪れ、語り部の話を聞き、津波の映像を見た。

 宮古市はこのほど、ホテルの建物を無償で譲り受け、土地を購入した。保全工事をし、2015年度から再び公開する。管理費や維持費は、来場者から集める「協力金」でまかなう方針だ。付近一帯を防災を学び、鎮魂をする場所にする構想だ。

 岩手、宮城両県で、保存するかどうかを検討している遺構は計20カ所以上にのぼる。地方議会や有識者会議で議論しているが、価値が認められ、地元の賛成が得られるものは、震災体験の風化を防ぐよすがの一つとして生かしたい。

朝日新聞
原発政策―問題先送りを続けるな

 風だけが吹き抜ける商店街。崩れた家。はびこる雑草。ある日突然、人が消えた町は異様な静けさにつつまれている。

 原発事故から3年。住民避難が続く福島県双葉郡の現実だ。

 福島第一原発では汚染水との闘いに明け暮れている。日々、約4千人が目に見えない放射線と向き合いながら、作業に従事する。

■浜岡は避難に6日?

 私たちは11年7月の社説特集で、「原発ゼロ社会」を提言した。老朽化した原子炉や巨大地震の想定震源域にある原発は閉め、代替電源への切り替えを急ぎ、できるだけ早く原発をなくそうと呼びかけた。

 いまも、その考えは変わらない。むしろ、原発全廃までの期間はずっと短くできる見通しが立ったといえる。

 最も心配した電力不足の問題が、広域融通や節電の定着で夏・冬ともに、おおむね解消できることが立証されたからだ。

 ところが、安倍政権は一定量の原発を「重要なベースロード電源」として今後も使い続ける方針を掲げる。

 原子力規制委員会の審査に適合した原発は動かすことを決めている。「原発依存度を低減させる」といいながら、再稼働への前のめり姿勢は明らかだ。

 はたして安倍政権は、福島での事故であらわになった「原発リスク」に十分、手を打ってきただろうか。

 ひとつは防災・避難計画だ。

 事故の際、双葉郡では予定したバスが放射線の影響で来なかったり、避難の車が渋滞したりして大混乱が生じた。

 その後、防災計画の策定が義務づけられる自治体は、原発から30キロ圏内の135市町村へと拡大された。政府の指針やマニュアルも改定された。

 だが、中身は項目の列挙にとどまる。これまでに具体的な避難計画をまとめた自治体は5割に満たない。

 民間団体「環境経済研究所」の上岡直見代表が全国17原発を対象に全住民の避難にかかる時間を計算したところ、高速道路が使えても、最短の大飯(福井県)で8時間。最長の浜岡(静岡県)は63時間かかり、国道のみだと6日を要するという。

 あくまで試算だが、一部の道府県が公表している詳細シミュレーションでも同じ傾向が見てとれる。

 規制委や国の原子力防災会議事務局が計画策定の支援に乗り出しているものの、現実問題として避難が可能なのか、客観的に判断する仕組みはない。

 福島の経験を重くみるなら、たとえば交通の専門家らによる「避難計画検証委員会」を設けてはどうか。

 各自治体の計画の妥当性を調べ、30キロ圏内の住民が情報を共有する。そのうえで、周辺自治体が再稼働の可否に関与できる制度を整えるべきだ。

■総量規制も検討せず

 放射性廃棄物も、原発が抱える大きなリスクである。

 原発を動かせば、それだけ使用済み核燃料が増えるのに、各原発にある燃料プールの容量は限界に近づいている。

 政府が描くのは、使用済み燃料を青森県六ケ所村にある再処理工場に持ち込み、再び燃料として利用する核燃料サイクル事業だ。

 しかし、再処理には巨額のコストがかかるうえ、新たにできる燃料を使える原発は現時点で3基しかない。仮に工場がうまく動いても、危険なプルトニウムを増やすだけだ。再処理の過程で出る高レベル放射性廃棄物の処分場もまだない。

 こうした原発ごみの処分の難しさは以前からわかっていた。事故後、日本学術会議は原発から出る放射性廃棄物の総量に上限を設ける規制を提言したが、安倍政権がそれを真剣に検討した節はない。

■「国富流出」論の本質

 そもそも、なぜ再稼働が必要なのか。

 政府は「国富流出」を言い募るが、本質は電力会社の経営問題である。原発の停止に円安があいまって、火力発電用の化石燃料の輸入コストが急増し、各社の収益は悪化している。これまでに6社が値上げした。

 確かに電気料金が家計や企業活動に与える影響は、注意深く見守る必要がある。原発が動けば、電力会社の経営が目先、好転するのも事実だ。

 しかし、廃棄物の処理や事故リスクを考えれば、原発のコストがずっと大きいことを政府はきちんと認めるべきだ。

 原発再稼働を最優先に考える電力会社は、古くて効率の悪い火力発電所の建て替えや増強に二の足を踏む。自然エネルギー電源との接続にも言を左右にする。代替電源の確保にさまざまな手を打つべき政権が、それを黙認するなら、国民への背信行為になるだろう。

 福島での事故は、原発が抱える根源的な問題を見て見ぬふりをしてきた末に起きた。

 もう先送りは許されない。


朝日新聞
集団的自衛権行使反対 首相官邸前、市民ら60人デモ

 安倍政権が解釈改憲によって目指す集団的自衛権行使容認を阻止しようと、東京・永田町の首相官邸前で12日夜、約60人が抗議デモを繰り広げた。参加者らは「集団的自衛権の行使反対」「戦争する国、絶対反対」などと声を上げた。

 横浜市の大学講師の男性(45)は「国民に問いかけることなく、政権だけで憲法9条の解釈を勝手に変えていいのか」と指摘。「日本の国を変えてしまう大問題。日本は世界の緊張をなくしていく方向に進むのが本来の使命のはずだ」と訴えた。東京都の自営業の女性(49)は「特定秘密保護法の時もそうだったが、安倍(晋三)さんのやり方は荒っぽすぎる。とにかく声を上げなくては」と話した。

 呼びかけ人の藤原家康弁護士は「安倍政権は数の力で不合理な解釈改憲を進めようとしている。市民が結集して、この動きを止めよう」と訴えた。(田井中雅人)


毎日新聞
東日本大震災3年:防潮堤、町の魅力消す 見直し訴える首相夫人 「若者の意見も聞いて」

 東日本大震災から3年。震災直後から被災地に足を運び続ける安倍晋三首相の妻、昭恵さん(51)が毎日新聞のインタビューに応じた。昭恵さんは昨秋以来、政府が進める防潮堤建設計画の見直しを訴えており、安倍首相も10日、国会答弁で計画見直しに言及した。昭恵さんの真意はどこにあるのか。被災地への思いも含めて聞いた。【聞き手・吉永康朗、影山哲也】

 −−なぜ防潮堤建設計画の見直しを主張されているのですか。

 ◆昨年6月ごろから急に気になり始め、気仙沼(宮城県)に通う中で、問題意識を持つ人が集まってきて、12月の自民党環境部会で発言したり、地元でフォーラムを開催したりしてきた。防潮堤について、いろいろ調べてみると、完全に安全でもないし、それなりの高さの物は必要かもしれないが、あまりに巨大な物は、何の基準によるのか分からない。生態系を崩し、海の見えない魅力のない町になるという意味ではマイナス面が大きい。必要以上の物を造るべきではないし、すごくお金がかかる。

 −−建設を進める宮城県の村井嘉浩知事と先月、意見交換したそうですね。

 ◆反対運動をするつもりはなく、良い復興をしてもらいたいと伝えたかったが、平行線だった。知事は「目の前で人が亡くなり、涙を流している人をたくさん見た。二度とこういう思いを県民にしてもらいたくない」と防潮堤の必要性を主張された。私は「必ずしも皆が賛成ではないし、安全な町がつくれても魅力がなくなって若い人が出ていったら、何のための防潮堤か。若い人たちの意見も聞いてほしい」と言った。4月にも仙台でフォーラムを開き、賛成・反対の人たちが率直に議論できる場をつくりたい。

 −−震災直後、防潮堤建設を求める声は聞きましたか。

 ◆私は聞いたことがない。自治体の要望はあったのだろうが、個々の被災者で「造ってください」という人は本当にいたのかと思う。住民合意が十分でない中で、建設計画だけが進められていったのではないか。県側も、全部県の予算でやってくださいと言ったら造らないと思う。何が一番大事かというのが、造ってもらうために見えなくなっているところもあるのではないか。原発も一緒だ。建設反対の人たちがいても、過疎の町だと原発に付随していいこともあるので、結局受け入れてしまう。

 −−地元住民の要望に基づくというよりは、国から言われたものを受ける形になっていると?

 ◆先日伺った愛知県岡崎市立北中学校の子供たちは宮城県石巻市立湊中学校と交流していて、「何が必要ですか」と聞き、地元の人たちの協力で80万円を集め、部活動のいろいろな道具をそろえたそうだ。微々たるお金だが、その学校にとってはすごく大事なもので、おかげで部活を続けられると。それを聞いて、8000億円とも1兆円ともいわれる防潮堤建設費と比べてしまった。政治家の女房を何年もやりながら、そういうことに気付いていなかったが、防潮堤問題でスイッチが入ってしまった。

 −−復興と今後どう関わっていきますか。

 ◆被災地復興だけではなく、多様性のある社会を目指すべきだと思う。どの地域にも「小さい東京」をつくるのではなく、それぞれの良さを生かした地域づくりをする。ここにしかないものが何か一つあると、人が集まってくる。農業もその一つで、興味を持つ若い人たちもたくさんいる。主人が(首相を)何年やるか分からないが、辞めたら私も農業しながら生活できたらいい。震災をきっかけにボランティアに目覚めた人たちが助け合っていけたらと思う。隣の国が困っていたら、ちょっと何かできる、ちょっとの義援金でも送ってあげる。そういうお手伝いができたらいい。

朝日新聞
心いつも共に 各地で鎮魂の祈り 東日本大震災3年

 ■両親捜すことが慰霊 浪江

 東京電力福島第一原発から約7キロ、海沿いにある福島県浪江町の請戸(うけど)地区。原発事故による放射能汚染で今も立ち入りが制限されている。昨年4月に制限は緩和されたが、町の許可証がなければ出入りできない。11日、3年経って初めて、遺族による行方不明者の大規模な捜索が行われた。

 「3年経っても、見つけられずごめんね」

 ジャージーと長靴姿の鈴木美保さん(25)は午前10時半すぎ、土台だけ残った自宅跡地で手を合わせ、心の中で語りかけた。避難先の同県伊達市からやってきた。結婚して県外で暮らす浮渡幸江さん(31)、本居春江さん(29)の姉2人も一緒だ。兄鈴木清孝さん(当時24)の遺体は見つかったが、父文雄さん(同64)と母十四代(としよ)さん(同61)の行方がわかっていない。

 立ち入り制限が続いたため、街角には打ち上げられた船や車が転がり、骨組みだけの家が残る。この地区を中心とした町沿岸部の津波による死者は151人で、33人が今も行方不明だ。

 「3年の区切りって言うけど、ここは時が止まった感じ。少しでも時を進められたら」と春江さん。3姉妹は、すぐに軍手をはめて海辺へ向かった。

 棒や流木で掘ったところで、両親が見つかるとは思えない。それでも、掘らずにはいられなかった。美保さんは言う。「私たちにとって捜し続けることが、慰霊なんだと思う」

 地区の沿岸部の十字路には、犠牲者を悼む十数本の卒塔婆(そとば)が立つ。周辺に花や果物が並んだ。長年連れ添った妻、消防団員の息子や郵便局員の娘、可愛かった孫娘……。地区のあちこちで、住民らが故人に思いをはせた。町の遺族会が開いた慰霊祭には遺族約130人が参加した。(矢島大輔)


 ■福島の魚、早く届けたい いわき

 津波で65人が犠牲になった福島県いわき市の久之浜地区。海岸沿いにあるのに被害を免れ、地区の象徴となっている「秋義(あきば)神社」に地元の商店主ら約20人が集まった。午後2時46分、献花台に花を手向け、長いサイレンにあわせて海に向かって手を合わせた。

 「亡くなった人を生き返らせてほしい。昔の町に戻ってほしい」。鮮魚店を経営する石井良和さん(44)は、そう言って海を見つめた。

 地区では500棟以上が全半壊。町商工会に加盟する約40店舗もほとんど全壊し、家族を失った人もいる。それでも2011年9月、近くの小学校の校庭にプレハブの「浜風商店街」を開業。酒屋やスーパー、食堂など10店舗が営業し、住民の憩いの場となっている。

 石井さんは3年前のあの日、消防団員として多くの遺体を海から引き揚げた。自分の店も津波でやられ、一時は廃業も考えた。だが、常連客から「魚が食べたい」と言われ、仮設店舗での再開を決めた。

 県内産の魚を並べていた店先にはいま、原発事故の影響で青森や秋田など他県産の魚が並ぶ。「一日も早く県内産の魚を提供したい」(伊藤弘毅)


朝日新聞
涙いつか虹に 各地で鎮魂の祈り 東日本大震災3年

 東日本大震災から3年。町は少しずつ姿を変えている。それでも、心はなかなか前を向けない。11日、被災者たちが家族や仲間と亡き人を思い、手をあわせた。行方がわからない人を捜した。海辺で、街角で、流された家の前で、鎮魂の祈りが広がった。


 ■3人の子が見守る遊び場 石巻

 腕の中にすっぽり入るほどの小さなお地蔵様が3体。かなたに見える海の方に向かって、にっこり目を細めて笑っている。

 宮城県石巻市長浜町。木工作家の遠藤伸一さん(45)と妻綾子さん(45)の自宅跡で、午前11時すぎから慰霊祭があった。

 お地蔵様のモデルは長女の花(はな)ちゃん(当時13)、長男の侃太(かんた)君(同10)、次女の奏(かな)ちゃん(同8)。あの日、自宅にいて濁流にのまれた命だ。

 慰霊祭は、夫妻が震災直後に市立渡波(わたのは)保育所で避難生活をともにした約40人と一緒に催した。参加者はお地蔵様に花輪をかぶせたり、頭をなでたり。周囲はかわいらしい人形と花束で埋め尽くされた。

 「あのときは名前も知らない人だったのに、今は家族そのもの」。一緒に避難生活を送ったノリ養殖業、相沢充さん(39)は言った。

 支援物資が届かず、缶詰や米などの食料を探して分け合い、命をつないだ。奏ちゃんと花ちゃんが遺体で見つかると、遺体安置所に移すまでの5日間、保育所で2人を抱き続ける夫妻を見守った。

 仲間たちは避難所が閉じた後も月に1回、仮設住宅で会い、復興支援団体「チームわたほい」を立ち上げた。群馬や北海道からボランティアで来て、石巻に住み着いた人も加わった。

 伸一さんにとっては、自分を責め続ける日々でもあった。あの日、侃太君と奏ちゃんを小学校から呼び返していなかったら。子どもたちを自宅に残したまま、親戚の家の様子を見に行かなかったら――。

 「わたほい」では、仮設住宅で一人暮らしのお年寄りの買い物を手伝ったり、墓参りに付き合ったりした。仲間と活動するうち、新たな感情も生まれた。

 「子どもたちが大切な仲間と会わせてくれた。本当に苦しいときに支え合った、損得抜きの、思いでつながった仲間だ。人間捨てたもんじゃないな、って」

 この日の慰霊祭では、みなでちゃんこ鍋をつつきあった。笑い声が絶えないなか、午後2時46分が近づくと、伸一さんはそっと仲間の輪から離れた。「そのとき」を知らせる市のサイレンが聞こえないようにトラックを遠くに走らせた。

 夕方。伸一さんが虹の架け橋を模して今年、お地蔵様の隣につくった「遊具」の前に戻ってきた。改めて思った。子どもたちの笑い声が戻ってきてほしい。この場所を寂しいままにしておきたくないから。(今村優莉)


 ■我が家の跡、消えても 大槌

 そこに暮らしがあったことを示すのは、建物の基礎部分だけだ。

 自動車販売会社員の阿部好広さん(60)は午前9時、実家の跡地に立った。足元のコンクリートに青いペンキで「どこにいだの(行ったの)」。震災の年の7月に書いた。父の死亡が確認されたが、母は今も見つかっていない。

 津波で市街地がほぼ全滅した岩手県大槌町。中心部で昨年秋、かさ上げ事業が始まった。対象地域の約30ヘクタールに盛り土をして、土地を平均で約2メートル高くする。

 母の行方を尋ねたこの文字も、埋もれる日が来る。盛り土で家の跡地に花を手向けられない人の分まで――。阿部さんは、近所で犠牲になった10人を思い、手を合わせた。「最近、無性に母の雑煮が食べたくてね」。語りかけるようにつぶやいた。

 かさ上げ用の土砂の山があちこちにそびえる。午後2時46分が近づくと、地区にゆかりのある人たちが集まってきた。

 小石進さん(81)と弟の大工、幸悦さん(67)ら家族7人も自宅跡のそばで、祈りを捧げた。母ら3人は今も行方不明のままだ。震災後、幸悦さんは小さなお堂をつくった。近所の住民たちも手を合わせるようになった。だが、昨年秋、かさ上げのため、撤去された。

 一家にとって故人を思う場は、お骨の納められていない墓でも、町主催の追悼式でもない。進さんらは言う。「家族が流されたこの近くに、拝む場所がほしい」(東野真和)


毎日新聞
東日本大震災:ちゃーちゃん、今日もありがとうね 亡き娘へ日記で思い 岩手・陸前高田の女性、1000通のメッセージ

 <ちゃーちゃん、また3月11日が巡ってくる>−−。岩手県陸前高田市広田町の主婦、藤野順子さん(59)は、東日本大震災で市職員だった一人娘の紗央里さん(当時25歳)を失った。今も悲しみから抜け出せない藤野さんの心の支えは、震災後から娘に語りかけるように毎日欠かさず付けている日記だ。大人になってからも時々、子どもの時の愛称で呼んだ「ちゃーちゃん」にあてたメッセージは1000通を超えた。【塩田彩】

 <2011・4・26 紗央里に聞いてもらったり伝えたり相談に乗ってもらうようなつもりで書きます。お母さんそうでもしなければ生きてく力がなくなってしまいそうだから>

 1ページ目にはこう記されている。「気が紛れる」と教えられ、紗央里さんが残したA4判のノートに娘への思いや毎日の出来事をつづるようになった。藤野さんは元中学校教諭で、夫(61)と夫の両親、紗央里さんとの5人家族だった。藤野さんにとって、紗央里さんは娘であり妹のような存在だった。

 日記を付けるのは就寝前だ。1日の大半を過ごす娘の部屋で、娘が使っていた勉強机に向かう。写真立てに入った写真を眺めながら言葉をつづる時、娘を一番近くに感じる。

 <2011・12・31〜2012・1・1 さおりとお別れした2011年が終わる。今日の夜見る夢が初夢? 紗央里、お母さんに会いに来てくれますように!>

 あの日、藤野さんは市内のショッピングセンターにいた。揺れが収まり、高台にある自宅へ戻った。途中で「紗央里を助けにいかなきゃ」と思ったが、市民の避難誘導などで忙しいはずの娘を連れ帰ることはできないと思い直した。「無理にでも連れ帰っていたら」。後悔が胸を締め付ける。

 <2012・3・25 ちゃーちゃん、1年前、紗央里が水門で見つかった日だよ。紗央里、よく帰ってきてくれたね。ありがとう。一人ぼっちにさせて悪かった>

 3回目の命日を迎えた11日、広田湾を望む高台のお墓の前で手を合わせた。日記には<ちゃーちゃん 来年の命日までますます幸せになれ>と記した。

 日記を付け続けるのは、それが自分にとって「生きるために必要なこと」だからだ。日記の最後はいつも、同じフレーズだ。

 <今日も1日ありがとうね>


毎日新聞
東日本大震災3年:交通網、分断続く

 東日本大震災の被災地では、8路線約271キロで鉄道の運休が続く。この1年で運行が再開したのは3路線の一部区間計33・1キロにとどまった。国は一部に国費を投入する方針だが、実現に向けてクリアすべき課題も残る。巨額な費用負担を巡る議論が長期化し、鉄路による復旧そのものにめどが立たない路線もある。震災から11日で3年。交通インフラの復旧には、なお時間がかかりそうだ。

 ◆鉄道
 ◇費用負担が課題

 岩手、宮城両県の鉄道のうち、JR東日本の山田線宮古−釜石間(55・4キロ)と大船渡線気仙沼−盛間(43・7キロ)、気仙沼線柳津−気仙沼間(55・3キロ)は今も運行再開時期が見通せない。

 NHK連続テレビ小説「あまちゃん」で注目された第三セクター・三陸鉄道の北リアス線。その南端と、南リアス線の北端を結んでいるのが山田線だ。三鉄は4月に全面復旧する予定だが、山田線が再開しない限り「南北分断」が続く。

 JR東は今年1月末、山田線を復旧させたうえで、土地と施設、運行を地元4市町や三鉄に無償譲渡する意向を示した。JR東が震災で不通になった区間からの「撤退」を表明したのは初めてだった。突然の提案に岩手県の担当者は「早期復旧を何度も要望してきたが、なぜ今なのか」と不信感をあらわにした。運行再開を求める市民団体代表の村上幸三郎さん(61)は「復旧するならありがたいが、複雑な思いだ」と話す。

 背景には深刻な赤字がある。JR東が発足した1987年度の宮古−釜石間の1日平均利用者は1719人だったが、震災直前の2010年度は4割の693人に減少した。山田線全体では377人で同社管内ワースト3位。譲渡による運行再開が実現しても採算が取れる見通しはなく、運賃値上げは避けられそうにない。施設維持のために自治体も負担を強いられる。

 2月に入り、JR東は譲渡後の支援策として10年間分の赤字計5億円を一括で支払うと提案した。県や沿線4市町は支援拡大に加え、固定資産税収入確保のために同社による設備保有の継続を求めている。赤字路線引き受けには抵抗もあるが、譲渡に前向きな意見も出始めた。県も「選択肢の一つ」とJR東との協議を始める意向だ。

 だが、クリアすべき問題は多い。山田線は線路をかさ上げして復旧させる方向で調整が進んでいる。JR東の負担は原状復帰費の約140億円。黒字企業である同社の線路復旧には原則として国費を投入できないが、国土交通省や復興庁はかさ上げを含む「復興まちづくり」に必要な70億円に復興交付金などを充てる方針だ。山田線が南北の三鉄をつないでいることを考慮したとみられるが、復興交付金の使途は限定されており、まちづくりにどこまで充てられるかは不透明だ。

 かさ上げした場合、区間によっては勾配が急になり過ぎて列車が走行できなくなる可能性もあり、技術面でも課題が残る。国交省鉄道事業課は「震災から3年が経過するので解決を急ぎたい」としているが、国費投入に向け調整が遅れているのが現状だ。

 議論が具体化している山田線に比べ、大船渡、気仙沼両線は復旧への道筋すら見えない。JR東はバス高速輸送システム(BRT)で両線を仮復旧させた。津波対策でルートを移設して鉄路を復旧させるには大船渡線で270億円、気仙沼線で400億円の公的支援が必要としているが、地元にとっては受け入れがたい金額だ。国の支援がない限り復旧は困難だが、国交省関係者は「国費投入は検討していない」と話す。

 JR東は「地元の意向を尊重しながら、利便性の高い交通手段を提供していきたい」との立場だ。地元からは「費用負担の議論で我々を疲れさせ、BRTの定着を認めさせる作戦としか思えない」と廃線を警戒する声が上がっている。

 一方、宮城県南部の浜吉田と福島第1原発南側の広野間で大半の区間の運休が続く常磐線。浜吉田−相馬間は津波対策でルートを移設して3年後の再開を見込む。だが、原発周辺の原ノ町−竜田間(46キロ)は再開のめどが立っていない。【安藤いく子、松谷譲二】

 ◆高速道
 ◇作業阻む高線量

 福島第1原発の北に位置する福島県相馬地方は、鉄道の復旧だけでなく、震災前から計画されていた常磐自動車道の建設が遅れ、「陸の孤島」と呼ばれてきた。それだけに地元からは安倍晋三首相が10日に発表した常磐道全線開通計画を歓迎する声が上がる。南相馬市の桜井勝延市長は「復興に役立ち、緊急時の避難経路にもなる。必ず実現してほしい」と語った。

 相馬地方の沿岸部を通る国道6号は、復興車両などを除き原発周辺で通行止めが続いており、周辺道路を含めて頻繁に渋滞が発生する。

 2月の大雪では福島市につながる県道と国道が2本とも3〜4日間、通行止めとなり、いったん宮城県に入る形で遠回りしなければ福島市中心部にたどり着けなかった。

 相馬市の立谷秀清市長はこの現状を「日常生活はもとより産業、医療、教育など多くの苦難に直面している」と指摘。「常磐道の全線開通で相馬地方といわき市の分断も解消される」と歓迎した。

 首相が示した計画によると、山元−相馬インターチェンジ(IC)間(24キロ)と、南相馬−浪江IC間(18キロ)の開通は当初目標の「2014年度内」から「14年内」に前倒しされる。「14年度内を目指す他の区間から大きく遅れない時期」だった浪江−常磐富岡IC間(14キロ)の開通時期も「来年の大型連休前」と明示された。計画通りなら年内に仙台、来年4月下旬にも首都圏と直結し、渋滞緩和や一時帰宅する避難者らの利便性向上が期待される。

 ただし、帰還困難区域を通る浪江−常磐富岡IC間は「被ばく線量が高く作業員を確保するのが難しい」(東日本高速道路)とされていた区間だ。環境省が昨年、建設中だった路面の除染を終えたものの、周辺に比べて放射線量は高く、作業員の安全確保や資機材の調達などが課題となる。開通後に原発でトラブルが発生した場合の避難誘導方法なども議論になりそうだ。【高橋秀郎】

フランス語
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東日本大震災から3年/東日本大震災犠牲者追悼供養会/お墓参りをしました

ブログネタ
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今日もフランス語はお休みです.大切な日です.
写真は尾道の桂馬.蒲鉾屋さんだったような気がします.

東日本大震災から3年.つまり母が亡くなってから3年です.
10時からお寺での東日本大震災犠牲者追悼供養会に参加しました.
妹とお墓参りをしました.
風があって雪がパラパラで寒いです.
ものすごく寒いです.
山形のNPOによるお地蔵さんの建立の式典でメッセージカードをつけた鳩型風船を飛ばしました.
涙は出てきませんし,悲しみもそんなでもなかったです.
3年と言う時間薬のおかげだと思います.

部屋に帰ってきてからテレビも見ました.まだ深く悲しんでいる人が多いと思いました.
わたしはまだ完全に元気が出ているという状態ではないですが,深い悲しみの中というわけでもありません.母が安心していられるよう頑張りたいと思います.

Shさんは来年イタリアに行くそうです.
NHKスペシャル「あの日 生まれた命」

東日本大震災で多くの命が失われた3年前のあの日。被災地で110を超える新しい命が誕生していた。生まれた命を守り抜いてきた家族の3年と未来への希望を見つめる。
東日本大震災で多くの命が失われた3年前のあの日、被災地で110を超える新しい命が誕生していた。家族や故郷が一瞬にして奪われたあの日。不安に押しつぶされそうになりながら産んだ母親。大切な人を亡くした悲しみの中で、自分だけが喜べないという母親。それでも「我が子の笑顔を守りたい」という思いで、家族はさまざまな困難を乗りこえてきた。被災地で生まれた命を守り抜いてきた家族たちの3年と未来への希望を見つめる。


河北新報
大震災から3年 消えぬ悲しみ、悔しさ 各地で追悼

 「こっちはこっちで頑張るから。見守ってて」。遺族は慰霊碑に語り掛けた。東日本大震災から3年となった11日、被災地で鎮魂の祈りが広がった。街を覆い尽くしたがれきは姿を消したが、3年を経ても被災地は更地が広がる。遺族の胸中は深い悲しみと、復興が遅々として進まないことへの悔しさが交錯した。

 荒涼とした景色が広がる宮城県名取市閖上地区は、津波で約750人の住民が亡くなった。地区を一望する日和山で、仙台市太白区の無職玉田松郎さん(83)は供養塔の周囲をほうきで掃き清めた。
 津波は閖上の姉夫婦ら親類10人の命を奪い、自宅を押し流した。「足の不自由な姉を車に乗せて避難させていれば…」。後悔はまだ消えない。
 自営業岡崎孝雄さん(65)は出勤前、犠牲になった弟の自宅跡地に立ち寄った。弟が好きだった缶ビールを供え「両親と(天国で)仲良く暮らしてください」と祈った。
 閖上の自宅が流され太白区の中古住宅で暮らすが、古里に戻りたい気持ちは変わらない。「年も年なので、早くかさ上げ工事をしてほしい」と早期の復興を求めた。
 閖上中の旧校舎では遺族会代表の丹野祐子さん(45)が午後の「追悼の集い」に備え、亡くなった生徒14人の名前を刻んだ慰霊碑を掃除した。「悲しみは癒えないが、風化を防ぐためにも多くの人に来てもらいたい」と話した。
 186人の犠牲者が出た仙台市若林区荒浜地区。会社員大学敏彦さん(59)は日の出直後、慰霊塔を訪れた。「がれきがなくなっただけで、荒浜はこの3年、何も変わっていない」と語った。妻と両親、兄、おいの計5人を津波で亡くした。「2人の子どもたちと仕事に救われた気がする」と思い返した。

河北新報
尽きぬ思い、刻む日 東日本大震災3年 各地で遺族ら祈り

 東日本大震災の被災地は3度目の「3・11」を迎えた。宮城県内では早朝から、遺族らが慰霊塔や墓前で手を合わせた。あの日、巨大津波が押し寄せ、掛け替えのない家族や友人、平穏な暮らしが奪われた。津波の爪跡が残る被災地は、鎮魂と復興への祈りに包まれた。

 岩手、宮城、福島の各県警によると、3県の10日現在の死者は震災関連死も含めて1万8810人。行方不明者は依然として2631人に上る。各県警や海上保安部は11日朝、沿岸部で行方不明者の大規模な捜索をした。
 仙台市若林区の荒浜地区では早朝、小雪がちらつく中、遺族や友人らが慰霊塔などを訪れた。
 親類と友人を亡くした若林区の会社員高橋健太さん(33)は慰霊塔に線香を手向けた。「3年は早かった。復興は徐々に進みつつあるが、心の整理がまだできていない」と語った。
 11日は、宮城県が条例で定めてから初めての「みやぎ鎮魂の日」。県内では各地に献花所が設けられた。
 県内の沿岸14市町は11日午後、各地で慰霊祭を実施。地震発生の午後2時46分に合わせ、黙とうした。


河北新報
不明者の手掛かり、一つでも 宮城県警など15カ所集中捜索

 宮城県警は11日、仙台市若林区の名取川河川敷や宮城野区の蒲生干潟など県内15カ所で、震災による行方不明者の集中捜索に当たった。約360人が海岸線や河川敷などを調べた。宮城海上保安部(宮城県塩釜市)と連携して海上からも捜索した。
 名取川河川敷の捜索は午前9時半に始まった。仙台南署員ら約80人が両岸を歩きながら、枯れ草を刈ったり地面を掘ったりして行方不明者の手掛かりを捜した。
 南署管内で死亡が確認されたのは342人で、6人が行方不明となっている。山田信敏警備課長は「一つでも手掛かりを見つけたい」と話した。
 宮城海保は同県女川町の女川湾など5カ所に巡視船など4隻を出し、海上や海岸線を捜索した。
 宮城県警によると、県内の行方不明者は1282人に上る。


河北新報
大震災3年 復興の作法/「忘れない」を行動で示そう

 宮城、岩手の被災地を巡っていて見えてきたものがある。「確かなあした」が見えてこない現実だ。
 地域や被災者で復興の状況は一様ではない。ただ、基盤整備が進む地域であっても、暮らしが戻ったようには感じない。福島第1原発事故の対応は依然手探り状態で、汚染された周辺は復旧以前の姿をさらす。
 東日本大震災から、きょう3年を迎える。被災地は焦りを募らせ、被災者は戻らぬ日常に途方に暮れる。要の「住まい」と「なりわい」を十分得られないまま、時間が過ぎてゆく。
 避難者は26万人を超え、岩手、宮城、福島3県で10万人近くが仮設住宅で暮らす。生産活動は風評にも災いされ、低迷。企業倒産は阪神大震災の3.8倍(帝国データバンク調べ)。一時的な復興特需頼みが続く。
 「3年もたてば生活再建も…」。期待は遠のき、津波の猛威を物語る建物がほぼ撤去され、思い出が跡形もなく消えた更地が道のりの険しさを教える。
 地震、津波、原発と前例のない複合型の大震災が人口減少、少子高齢社会を突き進む地域一帯を、広い範囲で襲った。地域産業も伸び悩んでいた。
 再生の難しさは想定されていたし、そもそも社会の変化を見越せば、旧に復して落着とはいかない。持続可能なまちへ、長期戦を覚悟せざるを得ない。
 ただ、待っていられない高齢者が多く、取り組みの停滞は被災住民の域外流出につながり、まちづくりを一層難しくする。被災自治体は住民と深く連携し、先を読んだ的確な計画の策定、実施を急ぐ必要がある。犠牲者の無念を忘れてはならない。
 世論調査が一般の大震災に対する関心の低下を伝える。忘却は再生を進める被災地の意欲をそぎ、立ち直りに向けた被災者の気力をくじく。
 「忘れない」。哀悼と共感の心を届け続けることが被災地を励まし、被災者に前を向く勇気を与えてくれる。
 被災地の物産を購入し、実際に現地を訪ねて縁ができれば、その効果は二倍、三倍になる。ボランティア活動などに参加すれば、なおいい。
 明日はわが身。被災地の現状を知ることで、備えの重要性を学び、地域の防災・減災力を高めることも期待できよう。
 国政は経済と国家主義的な政策を軸に回る。東京などでは景気回復感と五輪開催ムードに浮かれ、震災対応がかすみがちだ。産業界も政府が打ち出す国土強靱(きょうじん)化に吸い寄せられる。
 国は復興最優先の姿勢を堅持し、難航する事業用地取得や入札不調対策などに万策を尽くしているのか。産業界も震災直後に示した支援の熱意に衰えはないか、問うてみてほしい。
 被災地は時計が早回しされ、30年後、50年後の日本をあらわにした。その創造は間違いなく、日本の未来を映し出す。
 政治や企業、市民こぞって、あの日刻んだ思いをかみしめ行動で示そう。地域主導の復興を支える大きな力になるはずだ。

河北新報
東日本大震災きょう3年 希望の光、未来につなぐ

◎ろうそく1500個で「絆」/仙台

 東日本大震災の犠牲者への追悼と復興の願いを込めたイベント「キャンドルin国分町」が10日、仙台市青葉区の元鍛冶丁公園で開かれた。
 飲食店経営者や町内会関係者らでつくる「国分町街づくりプロジェクト」の主催。水の入った紙コップ約1500個にろうそくを浮かべ、「2014 3.11 絆」の文字を浮かび上がらせた。
 参加者はコップ一つ一つに「必ず来る明日のため あきらめない未来のため」「一日も早い復興を心から願って」などのメッセージを記した。
 イベントは、食材を提供する地元漁業者らを応援しようと2012年3月に始まり、3回目。紙コップ1個ごとに500円を募り、沿岸部の生産者組織と震災孤児支援団体に全額寄付する。
 実行委員長の前田尚養(なおきよ)さん(37)は「震災を風化させないように、11年に生まれた子どもたちが成人するまで続けたい」と話した。

◎セロハンに思い託す/石巻

 東日本大震災から3年を迎えるのに合わせ、宮城県石巻市湊町3丁目の松巌寺で10日、立方体のオブジェ「光の箱」に明かりがともされ、被災者らが希望の思いを託した。
 オブジェは一辺3メートルのコンテナに、セロハンの箱330個を敷き詰めた。午後5時すぎ、発光ダイオード(LED)が点灯され、赤や青、黄、緑といった光が広がると歓声が上がった。
 乃村工芸社(東京)が制作を呼び掛け、昨年11月に石巻市の被災者らが思い思いにセロハンの箱を作った。2月中旬まで東京都内で展示。復興支援で、住宅の多くが被災した湊地区に明かりをもたらそうと移設した。
 松巌寺近くの自宅が全壊し、市内の仮設住宅で暮らす渡辺政子さん(75)は箱作りに加わった。
 「周囲は夜暗くなるので、すてきな光になると思う」と話した。
 オブジェは4月13日まで午後5〜10時に点灯される。


河北新報
「真相は」「子ども返して」 大川小遺族、苦渋の法廷闘争

 最愛のわが子を亡くした日から3年を目前に、追い続けた事実の究明を司法の場に託した。東日本大震災の津波で多数の児童と教職員が犠牲になった宮城県石巻市大川小。19家族が10日、宮城県と市に23億円の損害賠償を求めて提訴した。「死の真相と責任の所在を明らかにしてほしい」。市教委や第三者事故検証委員会に失望を深めた親たちは苦渋の末、法廷闘争に踏み切った。

 午後1時半すぎ、遺影を手にした父親8人が硬い表情で仙台市青葉区の仙台地裁に入った。
 提訴後の記者会見。5年だった次女を失った紫桃隆洋さん(49)は「あの日から3年、学校で何があったのかを知りたくて市教委と話し合い、検証委にも資料を全て提供した。でも、核心にたどり着けなかった。娘が寒空の下、校庭に50分間縛られ亡くなった無念を晴らしたい」と語った。
 3年の一人息子が犠牲になった佐藤美広さん(52)は「心は遺体が見つかった日で止まっている。本当に悔しい」と言葉を絞り出した。
 訴状は「児童は学校にいたから、死ななければならなかった。明らかな人災」と書きだした。同席した吉岡和弘弁護士は「本来、市が事実を解明して遺族に謝罪するべきなのに、裁判を起こさないと究明できないのはおかしい」と語った。
 請求額について、吉岡弁護士は「過失の度合いが著しい。懲罰的な慰謝料に加え、子どもを返してほしいという親たちの無念を反映させた」と説明した。
 3年だった一人娘を失った中村次男さん(39)は提訴に至った真情を吐露。「学校は児童を守る場所。こんな裁判を起こされてはならないのに、謝罪も誠意もない。仮設住宅で暮らし、市と県が整備する集団移転用地に移る。その市と県を相手にするのは苦しい」と声を詰まらせた。


朝日新聞
「ずっと見守っていて」 震災追悼式3県代表のことば

 3年がたち、なお消えることのない悲しみ。それでも今を、精いっぱい生きる。11日の政府主催東日本大震災追悼式で、被災3県の遺族代表はこの3年の日々を振り返り、そう誓った。そして、亡くなった家族に伝えた。《ずっと見守っていてください》

 ■岩手県代表・浅沼ミキ子さんのことば全文

 もう顔を見られなくなって3年も経つのですね。私たち夫婦に初めて授かった子供として25年間、時には大笑いし、時には一緒に涙し考えて、あたりまえのように過ごした日々。そんな日常が、こんなにもいとしい日々だったことを、かみしめる毎日です。

 地震の直後に、お客様を避難誘導してきたあなたと会うことができました。生き生きとした顔で仕事を遂行しているあなたを頼もしく思い、言葉を掛け合って、お互い安心して別れましたね。

 あれが最期になることなど思いもせず、3月11日停電になった家で、あなたの帰りを待ちました。元気よく「ただいま」と帰ってくるものだと、翌日も、その翌日も……。

 10日後、二百体以上のご遺体が並ぶ中で、あなたを見つけた時、目視では確認しても、頭の中は認めようとしませんでした。そんな中、一日一日をどう過ごしたのか、思いだすことができません。

 ただ、たくさんの方が支えてくれました。どれだけのお力をいただいたのか、物心両面での、全国・全世界のお心寄せに、感謝の思いでいっぱいです。

 多くのいとしい命が、人を助けたい一心で、頑張ってくれました。大好きだった陸前高田の人たちを、守りたかったでしょう。

 みなさん、お疲れ様でした。

 生かされた私たちは、亡くなった方々の無念さと、その数倍ものご遺族の悲しみと悔しさを、未来へと語り伝えていかねばなりません。

 あなたが大好きだったこの街を、安心して暮らしていける街になるように、復興へと歩んでいきますから、ずっと一緒に見守っていて下さい。

 母は、あなたを誇りに思います。

 私たちのもとに生まれてきてくれたこと、ありがとう。

 最後に、東日本大震災で亡くなられたいとしい御霊のご冥福をお祈り申し上げます。

 平成26年3月11日

 岩手県代表 浅沼ミキ子

 ■宮城県代表・和泉勝夫さんのことば全文

 あの大惨事から3年が経ちました。私が住んでいる宮城県東松島市においても、震災により千余名の尊い命が奪われ、いまだ二十数名の方々が行方不明となられております。

 地震直後、私は地域の集会施設に駆け付け、避難所準備に追われていましたが、その後、津波が押し寄せていることを聞き、近くの小学校に逃げ、難を逃れました。

 私の母は自宅で、そして妻は、地震後に訪問先の姉の家から年老いた母を思い、自宅に駆けつける途中で大津波に遭い、帰らぬ人となりました。

 妻とは退職後の生活をお互い楽しみ、有意義な日々を過ごしておりました。特に妻は姉妹との旅行や、コーラスグループでの活動、絵手紙教室では地域の友人と仲良く手紙のやり取りをしておりました。

 一方、婦人防火クラブ員としての活動や、小学校での朝の読み聞かせ活動など、地域貢献にも熱心な一面もありました。未曽有の災害とはいえ、一緒にいてやれなかったことが残念でなりません。

 しかし、残された者、生かされた者の使命として、亡くなられた人たちの分まで精いっぱい生きていかなければならないと思っております。

 今、被災地では復興に向けた整備が行われておりますが、私の地元、東松島市野蒜地区においても、集団移転団地の造成や森に囲まれた学校施設の整備などが急ピッチで進められており、一日も早い復興の実現を望んでやみません。

 最後になりますが、この震災に際し、日本全国、世界各国の皆さんから、たくさんの温かいご支援をいただきましたことに、心から感謝いたしますとともに、震災により犠牲となられた皆様の御霊が安らかなるよう、心からご冥福をお祈り申し上げ、追悼の言葉といたします。

 平成26年3月11日

 宮城県代表 和泉勝夫

 ■福島県代表・田中友香理さんのことば全文

 私の住んでいた福島県双葉町は、人口約6400人。小さな町ですが、田畑が広がり、自然豊かで、のどかな町でした。

 そんな穏やかな生活を送っていた私ですが、平成23年3月11日、あの東日本大震災で私は父を失いました。

 原子力発電所事故による避難命令が出されたため、すぐそこにいるかもしれない大切な家族を残して避難しなければならなかった、あの悔しさは今でも忘れられません。「捜しに行けるもんなら、自分たちで捜したい!」。そんな気持ちで避難所生活を送っていました。

 震災から40日後、やっと捜索が入り、父は流された自宅の屋根の下で見つかりました。もしかしたら生きていたかもしれないのに、見つけてあげられなかった……その思いが消えることはなく、ただただ、胸がしめつけられる思いです。

 私の父は、優しく、家族を一番に考える人でした。そんな父だったからこそ、私たち家族を残して逝ってしまったこと、きっと悔やんでいると思います。

 3年経った今でも、あの震災は、私たち残されたものにとって、悲しく、つらいものですが、私の父を含め、皆さんの尊い命が犠牲になってしまったことを教訓に、二度とこのようなことが起きないよう、一生忘れてはならず、向き合っていかなければなりません。

 これまで、被災者である私たちに対しての、全国からの多くの心温まる善意に、心より深く感謝を申し上げます。

 最後に、この震災により亡くなられた方々の安らかなるご冥福をお祈りいたしますとともに、いまだに見つからない方々が、一日でも早く家族のもとへ帰れることを願い、追悼のことばといたします。

 平成26年3月11日

 福島県代表 田中友香理


朝日新聞
東日本大震災から3年 避難生活、今なお26万7千人

 東日本大震災から11日で3年になる。約26万7千人が今なお、避難生活を強いられている。仮設住宅には約10万4千世帯が暮らし、岩手、宮城、福島の3県のプレハブ仮設住宅の入居率は約84%に上る。同時期の入居率が50%台だった阪神大震災と比べて、暮らしの再建の遅れが目立つ。

 警察庁によると、震災による死者は1万5884人、行方不明者は2633人(10日現在)。10日も宮城県女川町の女川湾や福島県の沿岸部で海上保安部や警察が捜索した。

 震災後の避難生活による体調悪化や自殺などによる「震災関連死」は3県で2973人。原発事故による避難が続く福島県では、地震や津波による直接の死者数を上回った。

 住まいの復興は道半ばだ。復興庁によると、今月末までに3県で2347戸の災害公営住宅が完成する予定だが、計画戸数の9%にすぎない。自力再建者が家を建てる移転先などに造成する宅地は計画の6%、1388戸分にとどまる。

 地域再生の要となる学校でも、多くの子どもらが仮設校舎や他校の「間借り」で過ごしている。また、被災自治体は人口流出や事業所の減少、まちづくり、被災者の心のケアなど、様々な課題に直面している。


朝日新聞
復興への道―住民の納得があってこそ

 「復興が遅すぎる」。東日本大震災から3年を迎え、そんな指摘が絶えない。

 役所の縦割り、土地確保の難しさ、人手や建設資材の不足……。解決すべき課題は、なお山積みである。

 一方で、当面の遅れを覚悟しつつ、事業を急ぐ国や自治体に待ったをかけた住民がいる。

 どんな思いから立ち止まったのか。

■危機感から勉強会

 宮城県気仙沼市で今月初め、住民参加の小さな会合が開かれた。発言はおのずと防潮堤の建設問題に集まった。

 約1400人の死者・行方不明者を出した悔いと、水産業や観光業という市の強みが防潮堤で損なわれかねないという懸念が交錯する。

 「防潮堤は高い方がいいという人もいる。しかし、市が掲げるのは『海と生きる』。高すぎる防潮堤はいかがなものか」(医師の森田潔さん)

 「家族を失った人に『防潮堤はいらない』とは言いにくい。でも、造れば維持管理や建て替えの費用が子孫に回る。波も守れない、ボロボロのコンクリートが残ったら……」(和装品会社社長の高橋和江さん)

 発言した人の多くは「防潮堤を勉強する会」の参加者だ。大震災から1年余の12年夏に発足した。

 当時、県が地区ごとに防潮堤建設の説明会を開いていた。住民は足元の生活再建に追われ、専門用語が飛び交う説明に沈黙するばかり。県側は「特に異論は出なかった」として手続きを進めようとする。

 危機感を抱いた気仙沼商工会議所の菅原昭彦さんらが水産・商工業者やNPO関係者に声をかけ、30人近くを発起人として自由参加の会を設けた。

■二者択一ではなく

 いきなり是非を議論すれば対立を招く。そもそも、防潮堤について何も知らなかった。賛否は脇に置き、行政の担当者やさまざまな分野の専門家を次々と招いて話を聞いた。

 いろいろなことがわかった。

 どの程度の津波を、どれくらいの高さの防潮堤で防ぐか。それを決める手順を国がまとめたのは、震災からわずか4カ月後だった。過去のデータや計算をもとに宮城県が高さを決め、気仙沼市内では数メートル〜十数メートルの堤防が必要とされていた。

 堤を高くすれば安全性は高まる。だが、防潮堤のために産業がすたれたら、子や孫は気仙沼で暮らしていけない。

 勉強会の参加者は「守るべきものは何か」と同時に「住民の合意とは何か」も問い続けた。

 住民全員の考えが一致する「合意」作りは難しい。多数決で決めるわけにもいかない。「防潮堤は必要か、不要か」という二者択一ではないはずだ。多くの人が「納得」できる方法はないか。

 県に示す代替案づくりでは、広くアイデアを募った。選択肢を増やし、それを絞り込んでいく過程が、一人ひとりの納得につながると考えたからだ。

 昨年8月と9月には、計画通りの建設を主張する村井嘉浩知事を招いて直接、対話した。溝は埋まらなかったものの、知恵を絞ることでは一致した。

 今年1月、市の顔である気仙沼湾の最奥部、内湾地区について「最終案」が示される。

 最初は高さ5メートル余の堤で湾をぐるりと囲む案だったが、一部で堤をなくし、別の区間では堤の上に海が見える広場を造る。津波時に立ち上がる金属製の可動式扉を組み合わせ、ふだんの高さを抑える区間も設けた。

 内湾から船で20分の大島でも、地元の反発を受けて県が二つの浜で計画を改めた。

■将来世代への責任

 ただ、住民が県に異議を申し立てて変更を勝ち取った例は、ごく一部にすぎない。

 「国や県に刃向かって予算を削られたら大変」「防潮堤でもたつけば、漁業施設の整備も遅れてしまう」。こんな声が少なくないのも事実だ。気仙沼市によると、90近くある市内の防潮堤事業のうち、すでに7割近くで作業が進んでいる。

 復興は簡単ではない。津波で市の内陸部に打ち上げられた大型漁船を昨年秋に撤去したら、訪れる観光バスが激減したという厳しい現実もある。

 それでも、会議所会頭に就いた菅原さんは「防潮堤を議論した過程自体が、今後の街づくりの土台になる」と前を向く。

 被災地の復興は、息の長い取り組みになる。行政主導の対策が住民の考えとずれたり、住民同士の利害が対立したりして、うまく進んでいない例があちこちで見られる。

 気仙沼の模索から学ぶべきは「将来世代への責任」と「今を生きる住民の納得」だろう。そのために、行政任せにせず一人ひとりが自ら考え、一致点を見いだす努力を重ねていく。

 少子高齢化と財政難のなかで苦闘する、被災地以外の地域にも問われている課題である。


朝日新聞
怒りでは「共有」できない 作家・古川日出男さん寄稿

 ■古川日出男(作家)

 僕は福島県出身の小説家なのだが、たまに地元の郡山の若い人たちと触れ合う機会があるたび、やはり三年というのは長いなと感じる。単純計算するならば、三年間というのは「中学校での全部の時間」や「高校でのそれ」に相当する。しかしながら東日本大震災は、年度の変わり目の三月に起きた。いまの中学三年生は小学生で被災し、高校三年生は中学生で被災した。彼ら彼女らはみな、一度は人生の“区切り”となるような瞬間を越えている――しかも動揺の日々の内側で。これは、どうしたって単純に計算できるものではない。

 また、季節もそうだ。僕たちはあの震災を“春の悲劇”だと記憶している。しかし、被災地の多くは東北地方だった。僕は確認のために、昨年の三月の九日・十日と岩手から宮城、福島県の太平洋沿岸地帯を車で回っていたのだが、明らかに“冬の実感”があった。もちろん三年前の日本国内で、あの三月十一日はもう春になっていた土地もあっただろう。こんなふうに僕たちは、季節ですら単純に「春だった」「いや、まだ冬だった」と断じきれない一つの国土のなかにいて、実は体験をちゃんとは共有できていない。

 共有できなかったことを共有しようとするのは、言うまでもないが難しい。そのために、それを無理に共有させたいと願う時に、人はついつい“怒り”という旗印を求める。憤りをぶつける対象を求めれば共闘できるはずだ、と短絡的に考える。が、本当にそうなのか。原発問題に怒っている人たちがいて、その“怒り”に関心が持てないから、原発問題にいっさい興味を示さない人たちがいる。それで本当にいいのか。ここで一人ひとりが向き合うべき対象は、“怒り”というネガティブな感情ではない。もっと建設的な、そう、未来をポジティブに捉えようとする感情だし、姿勢だ。あらゆる議論は、そこを出発点にしなければ深まりようがない。

 それに、僕はどうしても思ってしまうのだ。ネガティブな感情を共有し合ったところで、そこから何が生まれるのか? 何かを憎まないかぎり、僕たち日本人同士がその手と手を握り合えない状況というのは、何かが、どうしたって少々おかしい。

 たぶん、“怒り”というものが単純なのだ。そして三年前の震災の悲劇は、どこをどう切り取っても単純ではなかった。僕たちは被災地の、その一人ひとりの方々の憤り――さまざまな形の憤り――を共有することはできない。それが「可能だ」と思い込む態度は、正直おこがましい。しかし、悲しみに寄り添うことならば可能ではないか。そして、被災地に無数の「楽しさ」が生まれる手助けをすることは、もっともっと可能ではないか。共有とは、喜怒哀楽の感情から“怒り”のみをマイナスしたところから生まれるのだ、と断じることは、それはそれで大変に愚かしいのかもしれない。だがしかし、それでも僕は思うのだ――「私たちは、どうしたら“怒り”に変えずに憶(おぼ)えていられるのかを、いま、試されているのだ」と。

     ◇

 ふるかわ・ひでお 1966年生まれ。2002年『アラビアの夜の種族』で日本推理作家協会賞と日本SF大賞。06年『LOVE』で三島賞。『ベルカ、吠えないのか?』『聖家族』など。近刊に『南無ロックンロール二十一部経』、戯曲『冬眠する熊に添い寝してごらん』がある。


毎日新聞
東日本大震災3年 まだ程遠い復興への道

 死者・行方不明者1万8520人を出した東日本大震災から3年。津波に襲われた地域では再建のつち音が響くが、被災地全体の復興には程遠いのが現状だ。津波と原発事故による被害で、自宅に住めずに避難生活を続ける人が、岩手、宮城、福島の3県を中心に今も約26万7000人いる。3年の節目に、私たちは改めてその現実を直視したい。

 中でも、福島が直面する現状は厳しい。避難者の約半数は福島県民だ。もう一つ、心配な数字がある。津波や地震による直接的な死亡とは別に、避難生活の長期化による「震災関連死」の死者が、福島で1600人を超え、直接死を上回ったことだ。800人台の宮城、400人台の岩手を大きく上回る。

 ◇福島の苦難を見つめよ

 見通しのつかぬ放射能との闘い、帰還の悩みと不安、故郷喪失への絶望。福島の人たちの苦悩は深い。政府は昨年12月、福島復興の加速化を宣言した。その徹底を求めたい。

 福島県いわき市の山あい。南台仮設住宅に400人近い双葉町民が暮らす。福島第1原発の地元である双葉町は、96%が帰還困難区域だ。

 プレハブの仮設は歩けばきしみ、隣の人が朝起きた気配さえ分かる。自治会長の斉藤宗一さん(64)は「皆、ストレスをため込んでいる。言い争いがあれば、聞きたくない言葉も聞こえてくる」と話す。

 福島県内でいまだ2万8000人以上が仮設暮らしだ。狭くて粗末な仮設の早期解消は、震災関連死や、阪神大震災でも問題になった孤独死を防ぐために喫緊の課題だ。

 だが、県などが進める賃貸の復興住宅整備は、用地確保が進まないこともあり、遅れている。民間からの借り上げ住宅を含め、最低限の生活が営める住環境の整備に、国や県はまず取り組むべきだ。住民の健康管理や心のケアも大きな課題だ。

 昨年末の指針で、政府は福島県民の全員帰還の方針転換を明確にした。長期に帰還が難しい自治体の住民には、賠償を積み増し移住も促す。

 ただし、帰還が困難な地域の自治体や住民が、帰還をあきらめたわけではない。双葉町は、いわき市内に福祉や商業施設を設置し、いわゆる「仮の町」の整備でコミュニティーの維持を図る方針だ。また、今春には、震災で休園・休校になっていた町立幼稚園と小中学校を同市で再開する。9人でのスタートだが、町にとっては久々の明るい話題だ。


 除染後の廃棄物を保管する中間貯蔵施設の候補地にもなる双葉町だが、復興のゴールは、帰還と町の再興だと掲げる。双葉町にとどまらず、原発周辺の市町村の抱える問題は、それぞれ異なる。また、同じ市町村内でも地区によって住民の意識は分かれている。避難指示解除準備区域に指定されている田村市都路地区は、4月1日の避難指示解除が決まった。だが、除染への不安などから住民の意見は賛否二分した。

 それぞれの自治体の復興後の姿をどう描くのか。そこまでの道のりはどうなるのか。国は丁寧に説明を続けなければならない。その上で、住民の意向をよく聞き、きめ細かい対応を心がけるべきだ。

 汚染水問題など不安定な福島第1原発の安定が大前提だ。長期間の低線量被ばくの影響が未解明の中、放射線への県民の不安は依然大きい。

 ◇風評被害をなくそう

 各種世論調査では、放射線への不安を感じる県民は、そうでもない人を上回る。個人線量計の配布や、日常の生活環境整備で放射線の影響を減らすなど、一層の努力が必要だ。

 進まぬ除染への国の責任ある対応も必要だ。避難区域が設定された11市町村の除染は、国が直轄で実施しているが、今年度中の終了予定は大きくずれ込みそうだ。それ以外の地域の住宅除染も、国は財政支援だけで事務は市町村任せだとの不満がくすぶる。国が適切な見通しを示し、前面に出て指導力を発揮すべきだ。

 国や県は、帰還できる市町村については、帰還を促している。ただし、自主避難も含め、帰還の判断は住民の意思を尊重すべきなのは当然だ。帰還か移住か決められず、当面避難を選択する住民に対しても、生活が成り立つ具体的な支援が必要だ。

 約2年前に政府の避難指示が解除された川内村や広野町の帰還率は、20〜25%にとどまる。子供が安心して暮らせる環境、働く場所の確保など、帰りたい人が安心して帰れる着実な施策の実行も求めたい。

 国の原子力損害賠償紛争審査会の指針に基づき、被災者に支払われる賠償金は、被災者の自立を促す意味合いも持つ。だが、支払いに当たり、東京電力の消極姿勢が目立つ。

 審査会の下部組織の紛争解決センター(原発ADR)が、被災者と東電の和解仲介に当たるが、原発ADRの提示した和解案受諾を東電が渋ったり、拒否したりする事案が報告される。和解に強制力はないが、決裂すれば司法の場で争うしかない。長い争いは被災者を苦しめる。東電は和解案の尊重を徹底すべきだ。

 東北や関東の被災地は、原発事故に絡む漁業や農業などの風評被害に苦しむ。こうした地場産業の振興は地域再生の推進力になる。国民一人一人が復興を妨げる芽を摘みたい。


毎日新聞
香山リカのココロの万華鏡:復興っていったい何? /東京

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から3年。自分がどこにいて、この大災害とどういう関わりを持っているかで、「復興の進み具合」の捉え方は大きく違うと思う。たとえ被災地に暮らしていても力強い復興への歩みを感じ、希望を持って日々を送っている人も多いはずだ。

 私は東京にいるが、正直に言うと、ほとんど復興を実感できずにいる。それは私があの日以降、被災地の自治体職員の、心のケアに携わり続けているからだ。こういった大災害が起きると、仕事の量や内容が最も大きく変わるのが、役場や公立施設などの職員だ。この震災では税務係や戸籍係といった部署に関係なく、多くの自治体職員が避難所や遺体安置所で苛酷な労働に従事した。

 中には自分も家族や家を失い、悲しみの中にありながら、住民のために働き続けた人もいた。それなのに、住民のために尽くすのが仕事である公務員にはねぎらいや感謝の声がかけられない。そんな中で心身の調子を崩す人も少なくなかった。

 そういう自治体職員のための電話相談や現地での相談室を続けているのだが、その件数は2年たっても3年たってもあまり変わらない。とはいっても、その件数は最初からそれほど多くなく、かといってゼロになることもなく、いつも同じペースを保っている。しかもその内容は、震災直後より最近のほうが深刻になりつつある。

 震災後、激増した業務のストレスに加え、自分の家族や同僚との人間関係など日常的な問題も出てきて悩みがより複雑になってきている印象がある。なかなか進まない復興に、管理職らもイライラしてきているせいか、役所内でのパワハラも目立つ。

 被災地自治体職員の電話相談の日。今日も電話が鳴る。「ずっと相談したかったのですが、その余裕もなかった。ようやくかけられました」と、匿名で被災地の役所に勤める人が震災以降、たまっていた思いを吐き出す。最初はおずおずと、そしてそのうち声が大きくなり、涙で言葉が詰まることもある。

 こんなことが2年前にも、1年前にも、そして今も続いている。被災地の「支援者への支援」の重要性を感じている専門家仲間と一緒に相談に応じながら「復興っていったい何のこと?」と言いたくなることもある。電話の件数ゼロが続く日など、本当にいつか来るのだろうか。「きっと来るはず」と信じて、今は「進まぬ復興」に伴走していくしかないと思っている。


毎日新聞
東日本大震災3年:姜尚中さんに聞く 犠牲者の生きた証し、言葉に

 今年もこの日がめぐってきた。親しい人を亡くした悲しみは今も癒えることはない。3年という時間は私たちに何をもたらし、生き残った者はこの先の時間をどう紡いでいけばいいのか。5年前に亡くした一人息子と震災の犠牲者たちへの思いを込めた小説「心」(集英社)の著者で、政治学者の姜尚中さん(63)に聞いた。

 ●忘却促される不安

 −−3年という時間の意味は。

 3年という節目は、当事者にとってこれまでとは違ったつらさがあります。「日常に戻りたい」と思い、実際に戻りつつある一方、亡くなった人を忘れていくのではないかと不安になるのです。

 社会的には一つの区切りのような意味を持つ「3年」という時間。でも親しい人を突然に失う悲しみを経験した人にとって、数字はほとんど意味がありません。むしろ、「もう3年なんだから」と忘れることを促されているような不安感を抱えているのではないでしょうか。

 悲しみを抱える人は喪失対象との距離感を持てません。「この悲しみは私にしか分からない」と思いつめ、他人がそこに立ち入ることに拒否反応を示します。自分のカプセルの中に死者とともに入り込んでしまうのです。

 距離感がない時期は絶対に必要です。でも距離感が生まれる時も必ず来ます。それは他人が働きかけて作れるものではありません。そして、死者と距離を置けるようになった時、初めて生と死というものが見えてくると思うのです。

 ●死者と距離置いて

 −−距離感はどう作ればいいのでしょうか。

 僕は「心」を執筆したことで距離感を作れました。

 「心」の主人公「なおひろ」は僕の息子の名前です。息子は「生きとし生けるもの末永く元気で」という言葉を残して逝きました。

 当初はゲーテの「親和力」をテーマに人間と自然の関係性を描きたかったんです。そこでキーワードとなるのが「水」でした。そこに震災が起きたんです。津波が来て、僕自身が驚きました。フィクションだったはずが、現実がどっと押し寄せてきたようで、息子の死や最期の言葉も重ねて考えるととても偶然とは思えませんでした。どうすれば生者と死者の関係を構築できるか考え、大幅に書き換えました。

 死んだら終わりではありません。「その人が生きた証し」が、生き残った者と亡くなった者の双方に必要なんです。その人がかけがえのない、地球上でたった一人の存在だという証し。その人が生きた歴史や意味を見いだし、受け取れるのは生きている人間だけです。どんな短い人生でも、どんな死に方でも、僕はそこに意味はあると思います。

 だから「心」では「死とは結局、生き残った者の思いなのだ」と書きました。息子の死に、僕自身がそう感じたからです。

 最近思うのは、人間が行き着く終着地点は「言葉」だということです。人間は、満たされないものを言葉や活字に求める生き物なのです。

 「この誰とも比較できない悲しみは、死者への愛情につながっている。だからこの悲しみは自分だけのものだ。他人に立ち入ってほしくない」。そんなふうに感じる人は、本を読むのもいいでしょう。聖書や般若心経、(ユダヤ人強制収容所での体験を描いた)フランクルの「夜と霧」や、僕の「心」でもいいと思います。同じ喪失感を経験した人間が、今ここにいる。本を読むことが、死者と距離を置いて考えたり語ったりする、ある種のきっかけになれると思うのです。

 ●見切り発車の風潮

 −−被災地から離れた場所にいる人間や社会は何ができるのでしょうか。

 東日本大震災を思う時、僕は18世紀にヨーロッパ中を震撼(しんかん)させたリスボン大地震(ポルトガル)を思い出します。当時、宗教界は大論争になりました。死生観など根源的な既成観念が揺り動かされたんです。

 3年前の3月11日、私たちはいろいろなものを問われたはずでした。でも被災地から離れた場所では、既に震災などなかったような空気が流れています。何かが見切り発車のまま忘れられていこうとしています。震災を対岸の火事と捉えるのではなく、3年の節目を機に社会全体でこれまでの生き方を見直すべきではないでしょうか。

 原発は本当に安全なのか、事故は本当に収束していくのか−−。社会や経済の行き詰まりも決定的になりました。ところが政治は急速に元に戻ろうとしています。これは被災地にとっては大きな違和感です。「戻れない」「戻らない」と決めることが被災者へ報いることではないでしょうか。

 今、国家や社会が一つの自然災害に見舞われた人と地域をどう遇するかが問われていると感じています。大事なのは、抱えきれない悲しみや喪失を経験した被災地や被災者が他人を受け入れる距離感を持てた時、「自分は見捨てられていない」と思える関係や環境を用意できるかどうかです。【聞き手・中村かさね】

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 ■人物略歴

 ◇カン・サンジュン

 政治学者。1950年、熊本県生まれ。聖学院大全学教授(4月から学長)、東京大名誉教授。「ナショナリズム」「悩む力」など著書多数。


毎日新聞
さあこれからだ:/75 被災地に家を、絆を、生きがいを=鎌田實

 東日本大震災からきょうで3年がたった。被災した人たちはこの3年間、どのように過ごしてきたのだろうか。そして、3年で何が変わったのだろうか。先月下旬、宮城県石巻市を訪ねた。

 ここは震災直後に上下水道が止まり、3週間たっても多くの人がお風呂に入っていなかった。ぼくが代表を務めるJIM−NET(日本イラク医療支援ネットワーク)は、市内2カ所に仮設のお風呂を設置する「千人風呂プロジェクト」を実施し、約5万4000人の方にお風呂に入っていただいた。

 プロジェクトの中心的な担い手だったクマさんは、そのまま石巻に住み着き、商店街の店舗を借りて「スペース千人風呂」を運営している。ライブや講演会を開くフリースペースだ。当時、クマさんを含め3人のJIM−NETスタッフが石巻で活動したが、全員が「復興を見届けたい」と石巻に移り住んだ。

 被災地の人たちと日常を共にして得た「絆」のなかで、彼らは自分の生きる場を見つけたのかもしれない。頭が下がる思いだ。

 クマさんを応援しようと、ぼくは「スペース千人風呂」で講演した。地元の若者3人のバンド「信頼度60%」が、前座ですてきな演奏をしてくれた。リードボーカルの武山君に「歌がうまいね」と声をかけると、こんな返事が返ってきた。

 「いや、歌が救いなんです」

 彼は、津波で奥さんとお子さんを亡くした。さびしくて、つらくて、苦しいが、音楽が救いなのだという。

 武山君の姿を見ていたバンド仲間の日野君が、武山君がいつでも演奏できるようにと、会社を辞めて石巻に「シークレットベース(秘密基地)」というライブハウスを作った。「オレはこいつの友情を一生忘れません」と語る武山君。日野君に「君はえらいな」と声をかけると、彼はこう答えた。

 「あの津波を経験して、人生のはかなさがわかってしまった。好きなことをやれる時にやった方がいい、と思いました。武山君のおかげで踏ん切りがついたんです」

 友情はいいな、と思った。絆があれば、人間は強く生きていける。

 人間が健康に生きていくためには、人との「絆」と「生きがい」が重要だ。しかし、被災地では絆や生きがい以前に、生活の基盤になる「家」すらも、まだ整っていない。

 昨年末にウクライナを訪ねた時のことを思い出した。

 首都キエフの郊外にあるその町は、チェルノブイリ原発事故で原発から30キロ圏内に住んでいた4万人が移住してできた新しい町だ。「ゼムリャキ」という住民自治組織の人に、話を聞くことができた。

 「原発事故から半年間、私たちは避難場所を転々とした。みんな不安で、アルコール依存症になったり、うつ病になったり、自殺者が出たり。そんななかでこの新しい町ができ、住む場所を与えられた。家という存在ができたことで、私たちはわずかだが心の傷をふさぐことができ、未来も少し見えるようになった」

 「東日本大震災の被災地では、多くの人たちが今も仮設住宅で暮らしている」と話すと、信じられないといった様子で、同情を寄せてくれた。

 「福島の人たちが心配です。福島の人たちも、人と人との絆をどう結びつけるか。これが大事だと思います。伝えてください」

 ゼムリャキの人たちの忠告が、今も胸に強く響いている。

 今、仮設住宅では若い人たちが出ていき、高齢者が残されている。石巻の仮設住宅でも、高齢者の1人暮らしや、90代の母親を70代の息子がみている家庭があった。津波で流された家のローンを年金で払っている人もいた。みんな精神的に落ち込んでいた。

 人生の「下り坂」ともいえる苦難のなかで、どうしたら「上り坂」をつくることができるか。

 最近「下りのなかで上りを生きる 『不可能』の時に『可能』を見つけろ」(ポプラ新書)を出版した。ゆるやかな下り坂にある日本で、個人も社会も幸福になるために必要なことは何か。

 その一つが、人と人を結び付け、人の経験や優しさを社会資源として回していく「回転力」だと思う。

 被災地は傷ついており、まだまだ全国からの応援は必要だ。だが、被災地には回転力を生み出す「絆」も芽生えつつあるはずだ。それは、成熟した新しい生き方のヒントになるに違いない。(医師・作家)

フジテレビ系(FNN)
震災から3年 震災関連死で残された遺族の悲しみを取材しました。

東日本大震災の地震や津波の直接的な被害で亡くなったのではなく、長引く避難生活で体調を崩したり、自殺などによって命を落とす、震災関連死。
その数は、震災から3年がたった今も、なお増え続けていて、FNNが10日までに取材したところ、1都9県で3,000人を超えました。
福島県では特に、福島第1原発事故によって、避難生活が長引き、関連死の死者数が、震災で直接亡くなった人たちの数を上回りました。
残された遺族の悲しみと、戦いの今を取材しました。

福島・川俣町、ここで妻と2人、養鶏場を営んでいた渡辺幹夫さん(63)。
渡辺さんは「このへんで、火柱上がったのは見た。(妻が)古い布団でも燃やしたのかなと思って」と話した。
しかし、そうではなかった。
炎に包まれていたのは、最愛の妻・はま子さん(当時58)だった。
渡辺さんは「よく笑う、よくしゃべるやつだったね」と話した。
夫婦が過ごしたこの家は、「避難指示解除準備区域」にある。
そのため、原発事故後は、避難所やアパートを転々とすることになり、次第に、はま子さんの表情も曇ってきた。
一時帰宅した際、「アパートに戻りたくない」とつぶやき、翌日、自ら命を絶った。
つらい出来事から遠ざかろうと、遺品を処分したという渡辺さん。
それでも、玄関には、はま子さんのサンダルが今も残っていた。
渡辺さんは「亡くなって1年くらいは、『おーい』って、声にまで出たことがあったもんね。『あ、いなかったんだっけ』って、あとで気がついて」と話した。
気持ちに区切りをつけたいと、渡辺さんは、東京電力に損害賠償を求めた。
妻の自殺は、原発事故の「関連死」と訴えた。
渡辺さんのような原発事故の被災者を支援している弁護士事務所。
相談者は、これまでに数千人にのぼる。
しかし、原発事故と死亡の因果関係の証明は難しく、交渉は難航している。
原発被災者弁護団の清水 卓弁護士は「適切な賠償を通して、被災者の思いを受け止めてあげることは、被災者の方々の立ち直りのためにも、重要だと考えています」と話した。
最愛の人の突然の死。
震災や原発事故のせいだと、ただただ認めてほしい。
遺族の多くが裁判に求めているのは、心の救いだという。
慣れない手つきで、包丁を握る渡辺さん。
仮設住宅での暮らしは、もう2年半になる。
4畳半の部屋でたった1人の食事、ビールがつがれる。
渡辺さんは「(酒の量)やっぱり増えるね、どうしても。誰も今、止めるやついないからね。事故さえなかったらと、今でも悔しい思いしています。(裁判で)亡くなったやつが帰ってくるわけじゃないけど、1つの区切りとして、自分の気持ちの整理もつくと思います」と話した。
春には下される判決。
渡辺さんにとって、過去と決別し、前に進めるかどうかの判決でもある。

「関連死」の賠償請求について、東京電力は「被害を受けられた方々、それぞれのご事情を十分にふまえて、真摯(しんし)に、かつ法令にのっとって、適切に対応したい」とコメントしている。

フランス語
フランス語の勉強?

仙台に来ました/明日で東日本大震災3年

ブログネタ
フランス語 に参加中!
Fruit_jelly_140112

フランス語の勉強はお休みです.
仙台に来ました.
妹のところにお邪魔してます.
明日で東日本大震災3年になります.
晩は牛タンとマグロの刺身でビールを飲みました.缶ビールとはいえ飲み過ぎかな???

NHKスペシャル
被災地 こころの軌跡 〜遺族たちの歳月〜

NHKは、震災直後から遺族のもとを訪ね取材を続けてきた。さらに震災後2週目から定期的にアンケートを行い、被災者の方々の思いに耳を傾けてきた。アンケートに継続的に答えて下さっている方は1000人。記録してきた映像は数百時間を超える。
番組では、継続的に取材してきた遺族たちの3年間の「こころの軌跡」を丹念に見つめる。さらに1000人の方々にアンケートを行い、今の思いに耳を傾ける。被災地以外では東日本大震災の記憶が確実に失われていく中で、かけがえのない多くの命を奪った惨禍の意味を、そして一人一人の命の重さを、改めて胸に刻み直す。


産経新聞
大川小遺族が提訴へ 23億円の損害賠償請求 石巻市など相手取り

 東日本大震災の津波で、宮城県石巻市立大川小の児童・教職員計84人が死亡、行方不明になったのは学校側が高台に避難させるといった安全配慮義務を果たさなかったためだとして児童23人の遺族が10日、石巻市と宮城県を相手取り1人当たり1億円、計23億円の損害賠償を求め仙台地裁に提訴する。学校管理下で大きな犠牲を出した問題は震災から3年を経て司法の場で検証されることとなった。

 訴えによると、学校側は地震直後、大津波警報や保護者らからの情報で津波が到来する危険を予見できたのに、積極的に情報収集しなかったと指摘。裏山など高台に避難すれば助かったはずなのに、安全配慮義務を怠り、津波が来るまでの50分間、児童らを校庭に待機させ続けたとしている。

 津波犠牲者の遺族が、管理者側を相手に起こした訴訟では、仙台地裁が昨年9月、日和幼稚園側に園児の遺族への賠償を命じる判決を言い渡したが、今年2月には、七十七銀行女川支店従業員の遺族の請求を棄却する判決も出ている。


毎日新聞
東日本大震災:追悼行事 それぞれの思い、灯籠に

 東日本大震災から3年となる11日を前に9日、大きな被害を受けた岩手・宮城・福島3県の各地で追悼行事があった。

 津波で750人以上が死亡・行方不明となった宮城県名取市閖上地区では9日夕、住民の避難路となった道路や、避難先だった閖上小の旧校舎校庭に灯籠(とうろう)を並べて照らす追悼イベントがあった。

 全国からのメッセージが書かれた2100個を、日和(ひより)山から同小旧校舎近くまでの道路脇約1・2キロに並べ「光の道」を描いた。

 知人を失った同市のNPO職員、石橋優子さん(34)は「被災者を忘れないでほしい。これからも現地を見に来てほしい」と話した。

 岩手県大槌町安渡(あんど)の町内会と公民館は9日、仮設住宅が並ぶ高台の旧安渡小校庭で追悼式を営んだ。

 同町消防団長の煙山佳成(けむやまかなり)さん(75)は、妻昌子さん(当時73歳)、義母タマさん(同92歳)、長男隆之さん(同40歳)を亡くし、同地区だけで10人以上の消防団員仲間を失った。「最近、亡くなった家族らに助けられているな、見守られているな、と感じる瞬間が多くなった。仏壇に感謝を伝える日々です」と手を合わせた。【橘建吾、高尾具成】



毎日新聞
大震災3年:夢見つけ前へ 家族全員亡くした仙台の大学生

 東日本大震災で、5人家族でただ一人助かり「あの日を生き残ったことが申し訳ない」と、負い目を感じた。最近ようやく「生きることに集中しよう」と考えられるようになった。子どもたちに勇気を与えられる絵本の作家になりたい。そんな夢ができたからだ。一歩でも近づくため、仙台市の東北生活文化大3年、沼田裕也さん(21)は今、就職活動に励んでいる。【小林洋子】

 震災発生10日後の2011年3月21日。宮城県名取市文化会館は避難した人で廊下まで埋め尽くされ、重苦しい雰囲気がただよっていた。その一角で聞こえた、幼い子たちの笑い声。高校を卒業したばかりの沼田さんがボランティアとして子どもの面倒を見ていた。

 声をかけると、家族4人を失った状況を淡々と語ってくれた。同市閖上(ゆりあげ)地区の自宅から近くの公民館に逃げたが津波で流され、自分だけ助かったこと。軍手とロープを手に近所の人を助けに行った兄(当時22歳)の姿。兄と祖母(同83歳)の遺体は見つかったが、父(同62歳)と母(同46歳)は行方が分からない……。「今は悲しむ時じゃない」と言って、周りの人のために尽くす姿に私は圧倒された。

    ◇

 「公私ともに忙しいです」。今月4日、2年半ぶりに会った沼田さんは充実感をただよわせていた。1人暮らしのアパートの部屋に、ペンで描いたポストカードやデッサンなど作品が並ぶ。「子どもの時から絵を描くのが好きで、大学でも制作に取り組んでいるんです」

 好きなことに熱中しつつも、この3年、困った時には家族のことを思い返す自分がいた。母だったら、どうしただろう……、兄なら何と言っただろう……。地域の人に慕われる市議だった父と自身を比べて、引け目を感じることもあった。周囲の目も気になった。3年前には気づけなかった家族の存在感の大きさ。「死にたくなるくらい」の孤独にさいなまれた。

 支えてくれたのは友人だ。生き残った苦悩を打ち明けると、「考えすぎだよ」。人に頼ってもいいんだと思えた。「勇気を出してやれば大丈夫だよ」。悩む友人にかけた何気ない一言が自身に返ってきて、一歩を踏み出すことの大切さを気づかせてくれた。

 昨年10月に亡くなった漫画家、やなせたかしさんにも力をもらった。子どもの時から絵本が好きだったアンパンマン。「何のために生まれて 何をして生きるのか 答えられないなんて そんなのは嫌だ」。映画のDVDを改めて見て、主題歌に心を打たれた。

 「それぞれの自分の中にある勇気を、絵本を通じて子どもたちに伝えたい」。目標が定まった。一般企業に就職して生活の糧を得ながら、合間に絵本作家として活動していく生活。夢に向かって、今日もペンを握る。


河北新報
東日本大震災あす3年 各地で追悼

◎陸前高田/若者有志 街に光の道/旧駅前通り 300メートル照らす

 岩手県陸前高田市の若者有志によるライトアップイベント「高田に輝(ひかり)の花を咲かせよう」が9日始まった。東日本大震災の津波で被災し、明かりを失ったままの旧市街地に柔らかな光がともった。
 旧陸前高田駅前通り約300メートルに、1000本以上のろうそくと発光ダイオード(LED)数百個を並べた。午後5時30分に点灯されると、光の道が浮かび上がった。
 イベントは、同市の保育士佐々木七扇さん(28)が「夜は真っ暗になってしまう高田で、楽しいイベントをやりたい」と呼び掛け、第一中時代の同級生ら約20人とともに準備を進めてきた。
 イベント名には、消防団活動中に犠牲となった第一中の同級生菊池勇輝さん=当時(25)=から「輝」の1字をもらった。多くの個人・団体が賛同し、LEDの提供などを申し出た。
 佐々木さんは震災で、母美和子さん=当時(57)=を亡くした。12年春に帰郷するまで高田を離れていたことに後ろめたさを感じていたが、イベントを通じ「同世代が一つになれた」と感じている。「かさ上げ後の街づくりに、若い人たちが動いていくための一歩になれば」とも期待している。
 点灯は11日までの午後5時半〜午後9時に行われる。

 東日本大震災の津波で1700人以上が犠牲となった陸前高田市で9日、市主催の追悼式が高田小体育館で行われた。
 遺族や関係者約1200人が参列。黙とうの後、戸羽太市長が「さらなる復興の進捗(しんちょく)で、被災者はじめ全ての人が未来を描ける年にしたい」と述べた。
 遺族を代表し、市内の仮設住宅で暮らす漁業熊谷政之さん(50)が、津波の犠牲になった妻久美さん=当時(42)=に向けて「震災翌日に中学卒業を控えていた長女が高校を卒業し、次女も中学卒業を迎える」と語り掛け、「何かあったらすぐ逃げることを前提に高田が安全な街になることを願っている」と述べた。
 参列者はこの後、それぞれ献花し、犠牲者の冥福を祈った。

◎岩手・大槌/半鐘響き海へ合掌

 東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県大槌町安渡地区の旧安渡小で9日、町内会主催の震災犠牲者追悼式があった。震災時に津波の襲来を知らせ、住民に避難を呼び掛けた半鐘の音が響く中、参列した約150人が、海に向かって静かに手を合わせた。
 式には、震災後、地区外の仮設住宅などに散り散りになった住民も駆け付けた。午後2時46分、消防団員が鎮魂の半鐘を1分間鳴らし、参列者は祈りをささげた。
 安渡地区では震災当時、消防団員の越田冨士夫さん=当時(57)=が、消防屯所で半鐘を打ち鳴らし続けた。半鐘は津波が消防屯所をのみこむまで鳴り続け、越田さんは帰らぬ人となった。
 越田さんの親戚で仮設住宅で暮らす越田ミサさん(76)は「半鐘の音を聞くと、恐ろしいあの日の光景が目に浮かぶ。前を向こうと、普段は明るく振る舞っているが、毎年この時期は忘れられない、忘れてはいけない悲しみが心に重く突き刺さるようだ」と涙ぐんだ。
 町内会によると、同地区には震災前、824世帯1953人が暮らし、218人が犠牲になった。現在は約150世帯約450人に減った。
 大槌町では11日、町主催追悼式が開かれる。

◎南相馬「遺骨、古里に戻したい」/危険区域の慰霊碑訪問

 東日本大震災の津波で住民32人が犠牲になった福島県南相馬市原町区下渋佐地区の慰霊祭が9日、同地区の八坂神社で営まれた。
 慰霊祭には遺族ら約50人が参列。昨年10月に建立された慰霊碑に1人ずつ玉串をささげて拝礼し、故人の冥福を祈った。
 津波で両親を失った会社員湊光之さん(55)=同市鹿島区=は「原発事故で両親の捜索もできずに避難した。あの時の深い悲しみと悔しさは忘れない。ここは住めない土地になったが、早く遺骨を下渋佐の地に戻したい」と遺族を代表して追悼の言葉を述べた。
 夫を亡くした主婦桜田ヨシ子さん(65)=原町区=は、震災後に誕生した孫の朋悠(ともはる)君(1)を連れてきた。「まだ亡くなったとは思えない。それでも、孫が夫の生まれ変わりだと思い、成長を見守りたい」と語った。
 59戸あった下渋佐地区は全域が災害危険区域に指定されている。住民は原町区を中心に地区外で住宅再建を目指すが、流された共同墓地の地区内での再建を望む。平隆男行政区長(74)は「地区住民のつながりは今後も残していきたい」と話した。

◎福島・大熊/避難先で冥福祈る

 福島県大熊町の震災犠牲者追悼式が9日、町役場が避難している会津若松市のセレモニーホールで開かれ、遺族ら約90人が故人の冥福を祈った。
 福島第1原発事故で全町避難している町では、震災以降、292人が亡くなった。渡辺利綱町長は「不自由な避難生活の中、満足に供養もできない状態を余儀なくされている。ふるさと大熊の一日も早い復興を誓う」とあいさつした。
 三春町の借り上げ住宅で暮らす主婦渡部千恵子さん(62)も参列。義父の栄さんは2011年8月、避難先の会津若松市で87歳で亡くなった。
 渡部さんは「震災前は畑を毎日見回りしていたのに、避難後は農業ができなくなり、気落ちしていた」としのんだ。
 渡部家の墓地は、除染廃棄物の中間貯蔵施設の建設候補地の中にある。渡部さんは「墓がどうなるか分からないので、先祖の土地に納骨もできない」と無念さを語った。


河北新報
東日本大震災 あす3年 無念の君 忘れない 絶対に

<沿岸9署 集中捜索>

 県警は東日本大震災から丸3年となる11日、沿岸部の9署管内で行方不明者の集中捜索をする。各署員に機動、航空各隊員らが加わり、全体で360人体制になる。県警としては約1年ぶりの大規模捜索で、不明者の発見を目指す。
 捜索は、行方不明者が多い宮城県名取市の閖上大橋周辺の名取川河川敷や仙台市宮城野区蒲生地区などを重点的に実施。離島での捜索にも力を入れ、塩釜市浦戸諸島の桂島ではオフロードバイクを運び込み、海岸線を調べる。
 石巻市南浜地区の捜索現場では横内泉本部長が職員を督励する予定。震災が発生した午後2時46分に黙とうをささげる。県警身元不明・行方不明者捜査班に全国から届いた激励金で花を購入し、同市南境の市遺骨管理所など10カ所で献花する。

<復興 自然活用を/菅原文太氏ら仙台で講演会>
 自然を生かした東日本大震災からの復興を考える「夢と希望のまちづくり講演会」が11日、仙台市青葉区の東北福祉大けやきホールで開かれる。
 震災がれきを活用した防潮堤の整備を提案する「いのちを守る森の防潮堤」推進東北協議会(仙台市)の主催。名誉会長の宮脇昭横浜国立大名誉教授が、森の防潮堤構想をテーマに講演する。
 仙台市出身の俳優菅原文太氏は震災復興の在り方などについて講話。宮脇、菅原両氏と、東北大災害科学国際研究所の今村文彦副所長が意見を交わすパネル討論もある。
 開催は午後6〜8時。参加無料。連絡先は東北協議会022(234)5327。

<殉職消防団 語る場に/名取・下増田神社>
 東日本大震災で殉職した仲間を慰霊するため、宮城県名取市消防団下増田分団が9日、下増田神社に桜の木を植えた。在りし日の仲間の面影に思いをはせ、生きた証しを後世に伝える鎮魂の場にしたいという。
 下増田分団では4人、増田分団では1人が犠牲になった。消防車両で避難誘導中だったり、家族や付近の住民を車で搬送したりしていて津波にのまれた。
 3年が経過し、関係者に「殉職者のことを忘れたくない」との思いが膨らんだ。津波に遭いながらもかろうじて本殿が残った下増田神社に桜を植え、慰霊の場とすることを決めた。
 植樹には分団員やOB、神社総代ら約40人が参加。スコップを手に、ヨウコウザクラ10本を境内に植えた。植樹費用は分団や市消防本部の関係者の寄付で賄った。
 下増田分団員は震災前は60人いたが、現在は50人に減った。
 体力の衰えなどで今春退団する加藤治分団長(60)は「消防団の役割は今後も変わらない」と後進の活躍を願い、「桜が咲くころ、みんなで花の下に集まりたい。最後まで懸命に務めを果たした仲間のことを語り継いでいく」と強調した。
 植樹には、震災で亡くなった地域住民の鎮魂の願いも込めた。神社の高橋茂信総代長(70)は「桜には人間の心が宿っている。末永く大事にしたい」と話した。

<地域彩れ 復興の象徴/東松島・宮戸>
 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県東松島市宮戸地区で、住民らが設立した奥松島縄文村再生プロジェクト実行委員会が、自生のヤマザクラを復興のシンボルにする取り組みを進めている。初めての植樹祭が9日にあった。
 ヤマザクラは鹿児島県・屋久島から県内にかけて分布し、奥松島が北限とされる。実行委は2011年8月に発足。震災発生年と同じ本数を植樹する「ヤマザクラ2011本プロジェクト」を12年4月に始動した。
 苗木は全て地区内で採取した種から用意する計画。植樹祭では住民ら約70人が、さとはま縄文の里史跡公園と奥松島ウオーキングトレイル公園の散策道に、2年間で約1メートルに成長した苗木36本を植えた。5年ほどで花が咲くという。
 宮戸小5年の尾形帆波さん(11)は「苗木に傷を付けないように気を付けた。咲いたら、みんなで見に来たい」と話した。
 プロジェクトは最低でも10年間続け、主要な道路沿いや集団移転地、県が整備する松島自然の家などに植樹する予定。実行委代表の岡村道雄奥松島縄文村歴史資料館名誉館長は「ヤマザクラの寿命は数百年。息の長い活動で、復興と同時に地域の活性化や観光につなげたい」と語った。

<迫力の太鼓 海に響く/石巻・日和山>
 東日本大震災の被災地の復興と犠牲者の鎮魂を祈願する和太鼓追悼演奏会(県太鼓連絡協議会など主催)が9日、宮城県石巻市の日和山であった。
 石巻日高見太鼓や米山丸山太鼓など、県内各地の8団体から約100人が参加。眼前に広がる海に向かって大小の太鼓を打ち鳴らした。
 地震発生時刻の午後2時46分には全員で黙とうをささげた。最後は各団体から選ばれた約50人で、協議会の統一曲「鼓音」を披露した。
 大勢の見物客が訪れ、市内の仮設住宅で暮らす浜田忠男さん(64)は「浜を見ながら太鼓の音を聞いていたら、思わず涙が出てきた。心が震える素晴らしい演奏だった」と話した。
 協議会は2011年6月にも同じ場所で追悼演奏をした。今野境子副会長(53)は「皆さんに私たちの思いが届き、少しでも元気になってくれればいい」と述べた。


朝日新聞
震災と教育―学ぶ志に希望を見る

 東日本大震災から3年経つ今もなお、被災地の子どもたちを取り巻く環境は厳しい。

 岩手・宮城・福島3県では、小中学生の6〜7人に1人が、生活の苦しい家庭向けの就学援助を受ける。厚生労働省の調べでは、被災した子の3割が強い不安や不眠などに苦しむ。いまだ仮設校舎の学校も多い。

 だが、希望の芽も探せる。

 家族や家を失った子、親が仕事を失った子。被災しなかった子も周囲の現実は見ている。経験を糧に、子どもたちは何のために自分は学ぶのかを深く考え始めているようだ。

 3県の大学進学率には落ち込みがみられない一方、高校卒業後に就職も進学もしない生徒は減った。「自分も社会と復興に貢献したいという意識の表れ」と福島県教委の担当者はみる。

 大手予備校、河合塾の佐々木一幸東北本部長も、明確な志望動機をもつ大学受験生が増えたと感じる。「たとえば再生可能エネルギーを学びたいと話す生徒が何人もいる。震災前には聞いたことがなかった」

 東北の危機を「わがこと」ととらえ、自分にできることを考える。そんな姿勢は、地元の教育者らが机の上では身につかない「生きる力」を養う実践を重ねた成果でもあるだろう。

 福島県立福島高校の生徒有志は、課外の活動で福島復興プランを考えている。

 例えば、地元の土湯温泉街は原発事故で宿泊客が激減した。「温泉の熱を使って南国の果実を育て、食の魅力で再建しては」。生徒らの提案を受け、温泉街で試験栽培が始まった。「世の中に出て役立つ力を育てたい。文句を言うより自ら行動する大人になってほしい」。指導する遠藤直哉教諭の願いだ。

 社会の課題を自ら見つけ、解決策を考え、行動する。福島大学が経済協力開発機構(OECD)と進めるプロジェクト「OECD東北スクール」もそんな力を育む試みの一つだ。

 「東北の魅力と復興を世界に発信するイベントを作る」との課題に、3県の中高生ら100人が2年前から取り組む。支援に慣れて受け身にならぬよう、費用も参加者が企業の協賛などを頼んで回り、調達する。

 この夏パリで集大成の祭典を催す。「私は津波にのまれ、九死に一生を得た。命の文字通りの『有り難さ』を伝えたい」。一人一人がこうした伝えたい体験や言葉を抱えて臨む。

 自分が今いる場所から、このさきの社会を考える。東北で出た芽が全国に広がるなら、未来は捨てたものではない。


朝日新聞
(天声人語)鎮魂と再生の三月

 わびしげに早ばやと暮れていた頃にくらべて、ずいぶん日が伸びてきた。「一月往(い)ぬる、二月逃げる、三月去る」と、この時期のあわただしさを表して言う。このあいだ年をまたいだと思っていたのに、もう弥生も中旬に入る▼それなのに偏西風の蛇行とかで寒気が居座る。唱歌の「早春賦」は二月の歌と思っていたが、今年は東京辺りでもまだ「春は名のみ」だ。といっても気温の話で、光はもう十分に春の色を湛(たた)えている▼せんだって、小欄で照井翠(みどり)さんの震災俳句を紹介した。岩手県の高校教師で東日本大震災を体験した人だ。その後、俳誌に連載中のエッセー「釜石の風」を送っていただいた。最新号の「三月を愛さない」という題名に、はっとさせられた▼「ここ被災地では、私達は三月を愛さないし、三月もまた私達を愛さない。三月は凄惨(せいさん)な記憶を蘇(よみがえ)らせ、私達の心をずたずたに引き裂く。……二月の後が、すぐに四月であったならと思う」。一語一語が、当事者でない者の胸に突き刺さる▼「忘れない」の声は薄れがちで、この国、とりわけ東京の日常はいつしか浮かれてしまった観がある。被災した人の胸の内は一様ではあるまい。ただ、春を明るいものと見た「かつて」に立ち戻れない人を思えば、三月はやはりつらい月だ▼きのう、黒土を割って咲く黄色のクロッカスを近所で見つけた。木々の芽も張ってきた。被災地でも、冬が幼い春に少しずつ道をあけていくときだろう。鎮魂と再生の三月を分かち持ちたい。

毎日新聞
福島原発の廃炉 国が先頭に立ち道開け

 広大な敷地に、青と灰色の貯水タンクがひしめく。既に1000基を超えている。なお、2日に1基のペースで増設しなければ、増え続ける放射性汚染水をためきれない。

 東京電力福島第1原発の事故から3年がたつ。先月、タンクから高濃度の汚染水があふれ出た。相次ぐ失態で東電の安全管理への信頼は大きく揺らいでいる。

 廃炉には30〜40年かかるとされる。世界に前例のない過酷な作業である。しかし放射能の脅威を取り去り、国民の安全を守るためには失敗は許されない。東電1社の手には負えないのだ。安倍晋三首相の約束通り「国が前面に出て」責任を分担し、廃炉への道を切り開くべきだ。

汚染水漏れ解消を急げ 現場では毎日、東電社員や協力会社、下請け企業の従業員ら合わせて4000人以上が廃炉に向けた作業に当たっている。

 水素爆発で天井が吹き飛び、ひしゃげた鉄骨がむき出しになっていた3号機は上層部がきれいに整理された。4号機では昨秋に始まった使用済み燃料プールからの燃料取り出しが進む。廃炉への歩みは少しずつ進んでいる。

 その足をすくいかねないのが汚染水問題だ。先月の事故では、海への排出基準の800万倍という高濃度の放射能に汚染された水がタンクから約100トン流出した。本来、別のタンクに入れようとした汚染水を誤って満杯に近いタンクに入れたためにあふれた。単純なミスに見えるが、事態は深刻だ。

 注入すべきタンクへの弁が閉じられ、注入すべきでないタンクへの弁が開いていた。それがミスなのか故意なのか、再発防止のために徹底した調査が必要だ。タンクの水位が高すぎることを示す警報が鳴ったにもかかわらず、誤作動として見過ごされたことも危機管理の甘さを示している。

 東電は昨夏にも300トンの汚染水漏れを起こした。その後、タンクがあふれないよう警告する水位計を付けた。作業員による監視も強化した。そうした再発防止策を生かせないようでは安全管理体制そのものが疑われても仕方あるまい。

 汚染水は既に43万トンもたまっている。そして毎日400トンずつ増えていく。環境汚染のリスクは高まるばかりだ。東電はトリチウム以外の放射性物質を取り除けるという多核種除去装置「ALPS(アルプス)」で処理した水や、原子炉建屋に流入する前の地下水を海に放出する計画を立てている。しかし、アルプスはトラブルが相次いで本格稼働のめどが立たない。地元漁業者との交渉も行き詰まったままだ。やはり、東電だけに任せてはおけない。

 安倍首相は1月の施政方針演説で汚染水対策をめぐり「国も前面に立って、予防的・重層的な対策を進める」と明言した。必要な支援や指導・監督に乗り出し、万一の場合は責任も負う。それが「前面に立つ」ということではないか。政府はその覚悟を示すべきだ。

 廃炉作業は放射能との闘いである。作業員の被ばく線量は日々蓄積される。被ばくの限度は1年間で50ミリシーベルト、5年間で100ミリシーベルトだ。それを超えると5年間は放射線を浴びる作業にはつけない。

 ◇被ばく量の徹底管理を

 工程が進むにつれ、放射線量の高い原子炉建屋内での作業が増える。規制値に達する作業員は増え続けるはずだ。新たな作業員の確保が大きな課題になる。

 「現場は高齢化している。10年後に働く人がいるだろうか」。ある下請け企業社長の述懐だ。震災前に約20人いた作業員は避難で散り散りになった後、被ばくをおそれて一人も戻ってこなかったという。

 作業員を確保するためには、安全を担保する必要がある。肝心なのは被ばく線量の管理だ。東電は社員に限らず、現場で働くすべての作業員に管理が行き届くよう目配りすべきだろう。

 正当な報酬の確保も大切だ。多段階の下請け構造のために、東電が支払った日給が作業員に届く前に目減りするおそれがある。東電は待遇改善のため昨年12月に元請け企業に支払う日給を1万円引き上げた。作業員にまで行き渡るよう協力企業との連絡、連携を強める必要がある。

 東電は4月に廃炉を担当する部門を「廃炉カンパニー」として社内分社化する。現場の指揮命令系統を見直すほか、社外からの人材活用も検討するという。

 しかし越えるべき壁はあまりにも高い。政府の計画では核燃料の取り出しは1、2号機で2020年度、3号機では21年度に始める。だが、溶け落ちた核燃料がどこにどんな状態で存在するかも定かではない。取り出した後の処理も大きな課題だ。

 国内外から広く研究成果を集め、技術を開発していく必要がある。政府は原子力損害賠償支援機構を改組し廃炉を支援する組織を新設する。電力会社や原発関連企業などで作る国際廃炉研究開発機構とも連携し、実効性のある体制を整えてほしい。

 長期にわたる廃炉作業を成功に導くためには国が先頭に立ち、官民の力を結集することが欠かせない。


毎日新聞
わが子よ:東日本大震災3年 真面目さ、トマトに実る

 仙台市若林区荒浜で、長男の栄一さん(当時53歳)を失った佐藤栄さん(83)。

 「大きくて赤くて、うれしいね」。昨夏、自身の建築会社跡地で作ったトマトを手に、佐藤さんは笑った。栄一さんが亡くなった場所だ。

 左官として働き作った会社。栄一さんと共に真面目な仕事で信頼を得てきた。跡地を無駄にしたくない。来る理由にもなるとがれきを撤去し、土を入れ昨春から家庭菜園を続ける。ここでの農作業は心が安らぐ。

 会社はたたんだが、微力ながら復興のためと、今も現役で仕事を続ける。自宅に帰り、姿なき栄一さんを思う。「子を失う。この年になっても、こんなつらいことはない」【梅村直承】


毎日新聞
東日本大震災:娘への誇り胸に 「職務、全うした」 市職員、勤務中に犠牲−−岩手・陸前高田

 東日本大震災から3年を11日に控え、岩手県で最多の1800人以上が犠牲になった陸前高田市で9日、追悼式が営まれた。参列した遺族や関係者約1300人の中には、同市役所に入庁1年目だった次女の臼井史果(ふみか)さん(当時23歳)をしのぶ父力(ちから)さん(64)の姿もあった。史果さんは発生直後、出先から本庁舎に戻ろうとして津波にのまれた。「職務を全うしようとして亡くなった。娘らしい最後だったと思う」。深い悲しみを抱える父を、娘への誇りが支えている。

 震災当日、農林課勤務の史果さんは庁舎から約3キロ離れた営農指導センターにいた。だが地震後、庁舎近くで同僚が史果さんを見ており、災害対応に当たるため急いで戻ったらしい。2日後、庁舎から約2キロ離れた山林で、胸に市職員のバッジを付けた遺体が見つかった。安置所で確認したのは力さんだった。

 最後の状況を人づてに聞いた時は「出先から山に逃げれば助かったかもしれない」と悔しさがこみ上げた。だが、娘が農家の人や同僚との交流を語り「仕事が楽しい」と見せた笑顔を覚えていた。「たとえ山に逃げて生き残っても、後悔したんじゃないかな」。そう自分に言い聞かせた。

 一周忌を終えた頃、史果さんの母校の仙台市の大学の教員らが卒業論文を持って訪ねてきた。経済学部だった史果さんの論文のテーマは環境問題。車社会や排ガスなど、自動車整備会社を経営する父の仕事と関連する内容だった。意外だった。

 娘が幼い頃から仕事に追われ、一緒にいる時間は少なかった。仕事について話したこともない。「生き方に関心を持ってくれていたのだろうか」。そう思うと、うれしかった。専門用語は分からなかったが、その論文を懸命に読んだ。

 「少しでも地域の役に立とう」と従業員らと誓い合い、全壊した工場は震災の年の夏に再建していた。津波で壊れた車の修理などに追われる日々を、一周忌後も走り通した。

 この日、市立高田小で開かれた市主催の追悼式の冒頭、1分間黙とうをした。「震災さえなければ……」。続いていたはずの娘の人生に思いを巡らせた。歯を食いしばっても涙が出た。式後は、自宅近くの墓に娘が好きだったフルーツケーキを供え、手を合わせた。

 「もっと娘にしてやることはなかったろうか」と考え、苦しくなることがある。だが、「一度決めたら貫くところは俺に似ているかな」と、自分と娘の生き方を重ねて振り返るようになった。震災前はあと1年くらいで誰かに任せようと思っていた会社だが、今は投げ出すわけにいかないと決めている。【高木香奈】


産経
政局に明け暮れた政権、今も憤り 家族と秘書失った黄川田代議士の3年

 東日本大震災で両親と妻、長男、秘書を失った民主党衆院議員、黄川田(きかわだ)徹(60)は9日、地元の岩手県陸前高田市で家族の墓参りをした。平成23年3月11日から3年、政権が交代し、中央政界の風景は様変わりしたが、政治と被災地の大きなギャップを国会議員として被災者として身をもって体験してきた。(千葉倫之)

 ■現地の情景

 「ほら、地震で倒れたままの墓石もあるでしょう。墓を直すにも至ってない人がいるわけだ。転居して墓を移した人もいるし、一家全滅のところもある。再建できる者、できない者…3年の中にいろんな人生があるんだ」

 黄川田は、陸前高田市内の小学校で催された市主催の追悼式に参列した後、先祖代々の菩提(ぼだい)寺を訪ねた。市の死者・不明者は約1800人。この寺の檀徒(だんと)だけでも303人。「あの日」を没年月日に刻んだ墓石があちこちにある。

 黄川田の3年は、苦悩の一言に尽きる。

 震災直後、市街地はがれきの山だった。黄川田も家族の行方を捜しながら、かつての同僚である市職員に交じり、医療や物資の確保へ駆け回っていた。悲しみに暮れる余裕はなかった。

 かつての市街地には雑草だらけの空き地が広がる。街の名残をとどめるのは道路だけで、信号のない交差点をダンプが行き交う。あちこちに重機やかさ上げのための土盛りが散在するが、本格復興というにはほど遠い。黄川田はいまも、2間の仮設住宅で暮らす。

 黄川田は、亡き家族の戒名を刻んだ墓に線香を供え、冥福を祈り、今後の決意をこう語った。

 「まだ街の将来は見えていないが、自治体の目線で復興とともに歩む。国会議員だけど元は市職員だ。国と自治体をつないでいくのが自分の仕事だから…」

■政局に翻弄され

 「震災復興に与党も野党もない。政局をやっている暇はなかったんだ」

 黄川田は、民主党政権が党内政局に明け暮れたことを今でも残念がる。しかも、自身が所属していた元代表、小沢一郎(生活の党代表)のグループが政局の震源だったことに今でも憤りがこみ上げてくる。

 黄川田は復興の最前線にいた。小沢らは違った。

 震災から間もなく、黄川田は東京・深沢の小沢邸に呼ばれた。

 「小沢先生が被災地のために走ってくれれば復興は進む」という期待を抱いていた。だが、集まったグループ議員が交わす会話は、菅直人内閣をどう倒すかという謀議ばかり。小沢も、いたわりの言葉どころか復興や原発事故について一言も口にしなかった。

 「おい、(目の前の)この机ひっくり返していいか?」。怒りがこみ上げ、隣の同僚議員にそう漏らしたことを覚えている。「徹ちゃん、こらえろ」と制止されなければ、本当にそうしていたかもしれない。

 小沢家と黄川田家は50年以上の付き合いがあり、そう簡単に小沢と縁を切ることはできなかった。

 震災から約1年後の24年3月、消費税増税法案が閣議決定された。増税に反対する小沢は、総務副大臣の辞任を迫り、黄川田の仮設住宅を訪ね、家族の位牌(いはい)を拝んだ。黄川田は複雑な思いのまま小沢に従った。同年7月、党を飛び出す小沢に従わず、残留した。

 被災地への財政支援の仕組みづくりや、地域防災を担う消防団を強化する議員立法など、取り組みの多くは実を結んだ。同年末の衆院選では小沢に刺客を立てられながらも破り、5選を果たした。

 ■失われた一体感

 民主党は野党に戻った。それでも黄川田は「政権が交代しても、復興に向けてすべきことも私の思いも変わらない」と意気込んだ。

 今年2月24日、衆院予算委員会で質問に立ち、首相、安倍晋三らに復興の取り組みをただした。

 「被災者は、それぞれの人生設計について決断していかなければならない段階だ。福島では復興はスタートラインに着いたところで、現実的な対応を決断、実行していかなければならない。私も5年の仮設住宅生活の先を見据えてがんばっていきたい」

 「被災者のそれぞれの判断に応じて丁寧に支援していく」との安倍の答弁に、黄川田は「熱意はわかった」と応じた上で、与党にこう注文をつけた。「国民や被災者に説明する機会も持たなければならない」

 被災地は、「集中復興期間」5年の半ばを過ぎても、仮設から災害公営住宅への入居は進まず、被災者間での「格差問題」は顕在化。行政による土地買収も、地権者の特定や利害調整のため難航している。

 与党時代は「復興に党派はない」との思いがあり、自民党議員と復興に汗をかく一体感があった。立場が変わり、それが薄れつつあるという。先の衆院選で誕生した大勢の新人議員は、震災当時を知る議員とはどうしても感覚の差がある。黄川田らは土地収用を加速するための議員立法を提出したが、野党の立場ではなかなか成立も見込めない。

 安倍政権に対しては、民主党政権の自戒も込めて「大臣は泥をかぶる覚悟で先頭に立ち、他の人ができない案件にレールを敷くのが仕事だろう」と苦言を呈する。

 震災直後、「国民に安心感を与えるのが政治だ」と語っていたが…。

 「方向性と着地点は見えてきた。ただ、被災者からすれば、あと2年も仮設暮らしとなればもう限界だ。あと2年、どう支えていくか…」(敬称略)


毎日新聞
東日本大震災:福島第1原発事故 市民ら「原発なくせ」 国会議事堂周辺でデモ

 福島を忘れるな、再稼働を許すな−−。東京電力福島第1原発事故から3年を迎えるのを前に、国会議事堂周辺で9日、大規模な反原発デモがあり、大勢の市民が原発事故を風化させまいと声を張り上げた。

 東京都千代田区の日比谷公園の野音で開かれた集会で、首都圏反原発連合(反原連)のミサオ・レッドウルフさんは「福島の状況は変わらないどころか後退している。さらに大きな声を上げ、原発ゼロを実現したい」、音楽家の坂本龍一さんも「声を上げにくい人に寄り添い、その声に応えよう」と呼びかけた。

 参加者は「原発なくせ」「輸出をやめろ」と訴えながら首相官邸や国会周辺をデモ行進し、その後議事堂を取り囲んだ。肺病で鼻に酸素チューブを通し、ボンベを引きながら歩く東京都調布市の伊藤忠男さん(75)は「体はつらいが、反対の意思を表明したい」。相模原市の会社経営、大賀祥三郎さん(58)は「事故の原因究明も終わっていないのに再稼働はありえない。事故も被災者も無視されている」と訴えた。

 デモの参加者は、反原連などの主催者発表で延べ約3万2000人。11日前後に全国175カ所以上で原発抗議行動が行われるという。【町田結子】



時事通信
9000人が「人間の鎖」=東電事故から3年、脱原発願い―独仏国境

 【エルスタン(仏東部)時事】2011年3月の東京電力福島第1原発事故から3年を控えた9日、ドイツ・フランスの国境付近の九つの橋で、独仏やスイスなどから集まった約9000人が、脱原発を訴え「人間の鎖」をつくった。仏東部エルスタンのゲルストハイム橋には約500人が集結。「福島の悲劇を繰り返さない」と叫びながら、原発撤廃の願いを込めた風船を空に放った。
 参加者は拡声器を手に「事故の被害に苦しむ福島の人々の救済を諦めてはいけない」「今年の欧州議会選に向けて、脱原発の声を上げよう」と口々に主張。「目に見えず、音も聞こえない放射能の危険性を語り合おう」などと記した横断幕を掲げ、100メートル超にわたる橋を手をつないで埋め尽くした。


共同通信
元左翼ゲリラ候補優勢か エルサルバドル大統領選

 【ロサンゼルス共同】中米エルサルバドルで9日、フネス大統領の任期満了に伴う大統領選の決選投票が行われ、開票が始まった。左派の与党ファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)の候補で元ゲリラのサルバドル・サンチェスセレン副大統領(69)が優勢とみられる。

 対抗馬は右派、民族主義共和同盟(ARENA)の候補で首都サンサルバドル市のノルマン・キハノ市長(67)。同日夜(日本時間10日午後)にも大勢が判明する見通し。サンチェスセレン氏は80年代、米国を後ろ盾にした右派政権に対するゲリラ戦を率いた人物で、同氏が勝利した場合、米国との関係悪化を懸念する声もある。

フランス語
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さよなら原発 3・9 関西行動/部落解放同盟の和太鼓

ブログネタ
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Toi, tu es laid, et tu ne connais pas ta chance : au moins, si on t'aime, c'est pour une autre raison.
Charles Bukowski
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和太鼓 部落解放同盟浪速支部「怒」 「地天〜魁(さきがけ)」です.
力強い太鼓の音が素晴らしいです.彼ら・彼女らは差別に負けずに生きていくことができるのだろうと思いました.

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特別報告 福島から 地脇美和さん (福島原発告訴団事務局)
今日はpptを使っての報告です.

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特別報告 福井から 水上賢一さん (原子力発電に反対する福井県民会議事務局長)
福井でも今日集会が行われているそうです.

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小出裕章さん (京都大学原子炉実験所助教) 「子どもたちを放射能から守るために」
ナマ小出は初めて.でもYoutubeなどで動画を見ていたので,既視感があります.

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制服向上委員会.
リハーサルも聞きました.

フラガール〜未来へつなぐメッセージ〜

進まぬ故郷の復興という現実を抱えながら、「復興のシンボル」として笑顔で踊り続けるフラガールのリーダー。1000日間におよぶ完全密着ドキュメント。
フラガールのリーダー大森梨江さん。双葉町の自宅は福島第一原発からわずか1キロで復興の兆しすらない。それでも「復興のシンボル」として笑顔で踊り続ける。震災から3年が経ち、復興の格差という新たな問題も。フラガールは綻びかけた福島の絆を再び取り戻せるのか?


震災から3年 特集 明日へ−支えあおう−

震災3年特番▽福島県出身の西田敏行さんが語る3年▽“原発避難の町”浪江町を模型で復元▽福島の今▽防災無線を発信し続け亡くなった娘へ▽大槌の高校生がまち作りに参加
盛岡市で開かれている、町並みを模型で復元した特別展。その会場をキーステーションに、被災地の声や復興への取り組みを紹介する特集番組。午後の部には西田敏行さんも参加。作家・重松清さん、女優・南果歩さんとともに「福島のいま」「娘を亡くしたご両親の思い」、そして「未来へのいしずえ」を見つめる。生放送でみなさんからのメッセージも募集する。http://www.nhk.or.jp/ashita/311/


東北発☆未来塾 生放送スペシャル「いまこそ、つながるチカラ」


「東北のために何かやりたい」「でも何をしたらいいかわからない」。そんな若者が集まり復興について生トーク!HPやツイッター、スマホで番組に参加して君もつながろう!
震災から3年。これからできることって何だろう? 「やりたいこと・アイデア」「支援活動に関する悩み・疑問」「みんなに伝えたいこと」などを、ツイッターでどんどんつぶやいて。#nhk_miraiを忘れずに。番組を見て「いいな」「一緒にやってみたい」と思ったら、テレビのリモコンやスマホで、サンドゥ(賛同)ボタンをクリック。みんなでつながろう。

朝日新聞
原発事故と規制委―教訓いかす改革続けよ

 原発再稼働の前提となる原子力規制委員会の審査が、最初のヤマ場を迎えつつある。

 新しい規制基準に比較的早く適合しそうな原発の絞り込みが進み、最初の再稼働の候補原発が「優先審査」の対象として近く公表される見込みだ。

 再稼働に前のめりな政治家らからは「世界一厳しい規制」といった言葉も聞かれる。基準を満たしさえすれば問題ない、と言いたげだ。

 だが、それは違う。

 周辺住民の避難計画や使用済み核燃料の行き先など、規制基準には含まれない大きな問題が横たわっている。それだけではない。規制委による審査そのものも改革途上であるからだ。

 規制委の審査はまだ、福島第一原発事故の反省を十分に反映しているとはいえない。狭い範囲に多くの原発がある集中立地の問題など、重要課題がいくつも残されている。

■集中立地は未検討

 思い起こそう。3年前、福島第一では1、2、3号機が次々に炉心溶融を起こし、大量の放射性物質をまき散らした。

 「どこまでひどいことになるのか」。日本中が底知れない恐怖に襲われた。

 4号機の燃料プールが過熱して使用済み核燃料が大規模に破損すれば、放射能汚染で近づけなくなる恐れがあった。

 そうなれば、停止中の5、6号機や12キロほどしか離れていない福島第二の4基まで、最大10基の原発から次々に放射能が放出されることもありえたのだ。

 運転員の懸命な努力や4号機燃料プールに大量の水が流れ込んだ幸運などで、「最悪のシナリオ」はかろうじて免れた。

 それでも、世界の原子力規制当局には衝撃を与えた。主流になっている軽水炉で放射能を大量放出する過酷事故が起き、さらに燃料プールや集中立地のリスクまで浮上したためだ。

 日本を含む各国とも、自然災害対策などを見直し、複数基の同時事故に対応できる態勢を事業者に求めるようになった。

 ただ、7基を抱える柏崎刈羽原発(新潟県)があり、福井県内には14基の原発・高速増殖炉が集まるなど、日本は集中立地では世界的にも突出している。それを考えると、規制委の取り組みは甘い。

 規制委の田中俊一委員長は「いずれ議論しなければいけないが、まだしていない」という。1カ所でいくつもの原発が同時に動く状況はまだ先と考えているからのようだ。

 しかし、燃料が入った原発は止まっていても危険がある。運転は1基でも、近くに原発があれば事故拡大の危険がつきまとう。特に複数の事業者が絡むと事業者任せではすまない。

 日本こそ率先して検討すべき問題だ。集中立地のリスクに正面から向き合わずに、審査結果をどう説明するつもりなのか。

■訓練も抜き打ちで

 新規制基準は、地震や津波などの自然災害に備えた設備面では格段に厳しくなった。

 過酷事故も想定させ、各原子炉で炉心損傷事故の確率を1万年に1回程度以下に抑えるなどとする「安全目標」も定めた。目標を満たすように構造や設備を強化させる。

 欧米では広く採用されている手法で、日本でも10年以上前から議論されながら安全神話に阻まれて導入されずにきた。

 安全目標で比べれば、各国とほぼ同水準であり「世界一」ではない。設備の追加要求に事業者は不満顔だが、自然災害の多い日本では最低限の水準と考えるべきだ。

 一方、運転時の事故対応などソフト面の規制はまだ弱い。航空機の衝突しか考慮していないテロ対策も含め、抜本的な見直しが必要だ。訓練の立ち会いで済まさず、事故やテロ時の対応を事前の打ち合わせなしで実地で審査するなど、海外の実践例にも学んで強化すべきである。

■周回遅れ取り戻せ

 福島での事故は事業者に都合のいい規制のもとで起きた。規制強化は欧米から周回遅れであり、早く追いつく必要がある。

 国民への説明にはもっと意をつくすべきだ。委員長会見や審査会合をインターネットで中継したりしているが、審査や規制について社会にどこまで伝わっているだろうか。避難計画への関与も強めてもらいたい。

 実務にあたる職員の能力と意欲を高めることも不可欠だ。

 原子力規制庁は原子力安全基盤機構を統合し、職員が約千人に倍増した。機構は事故前も審査実務を担い、「事業者寄り」との批判を浴びた。新生規制庁は意識を改め、事業者と健全な緊張関係を持ち、規制の質を高めなければならない。

 それには規制委が原発推進派から独立を保ち、規制の意義を職員に浸透させる必要がある。

 安倍政権や事業者は再稼働を急ごうとしている。しかし、規制委はあくまで厳格な審査を貫き、常に改善策を追究していく姿勢が求められる。


東京新聞
3・11から3年 まだ知らないフクシマ

 過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目になる−。原発事故にも通ずるかもしれない。あれから三年。私たちは、福島原発事故を実はまだ知らない。

 忘却が神話を復活させるのか。

 政府のエネルギー基本計画案は原発をあらためて「重要なベースロード電源」と位置付けた。昼夜を問わず、一定量の電力供給を担う主要な発電設備のことをいう。

 一昨年の衆院選で掲げた脱原発依存の約束に目をつむり、3・11以前に戻したいという意味だ。
◆忘却とは少し違う

 「忘却というのは、ちょっと違うかな…」

 写真家の島田恵さんは、少しの間考え込んだ。核燃料サイクル施設が集中する青森県六ケ所村で十二年間生活し、変わっていく村の様子、変われない村の暮らしをつぶさに記録し続けたことがある。

 3・11の後、六ケ所と福島を結ぶ記録映画「福島 六ヶ所 未来への伝言」を製作し、自主上映会を経て先月、東京・渋谷の映画館で初公開した。

 核燃料サイクルとは、原発で使用済みの核燃料を再利用する計画だ。エネルギー政策の根幹ともされてきた。

 核のごみが全国から集まる六ケ所村も、福島同様、国策に翻弄(ほんろう)されながら、都市の繁栄を支えてきた。いわば入り口と出口の関係だと、島田さんは考える。

 巨額の交付金と引き換えに推進派と反対派に分断された寒村は、列島の縮図にも映る。

 この三年、おびただしい活字と映像が、フクシマを伝えてきた。周囲から「公開のタイミングを外したのでは」と指摘されたこともある。

 それでもなお、映画を見た多くの人が「知らなかった」という感想を寄せてくる。
◆事故報告書は未完成

 私たちは福島をまだ知らない。

 福島原発事故がどれほど大きな事故だったのか。もし偶然の救いがなければ、どれほど巨大な事故になったか。国民として、もっと正しく知る必要があるだろう。

 国会事故調の調査期間は、実質約三カ月だったという。

 報告書は「破損した原子炉の現状は詳しくは判明しておらず、今後の地震、台風などの自然災害に果たして耐えられるのか分からない」などと、冒頭で未完成であることを吐露している。

 例えば、こんな事実もある。

 震災発生当日、福島第一原発4号機は定期点検中で、核燃料はすべて使用済み燃料の貯蔵プールに移されていた。

 プールの中では約千五百体の核燃料が高い崩壊熱を発しており、最も危険な状態だったとされている。放射線量が高く建屋の中に入ることは不可能だったと、作業員は語っている。

 燃料を冷やす手だてがなかったということだ。

 ところが、貯蔵プールの横にある「原子炉ウェル」と呼ばれる縦穴に、大量の水がたまっていた。

 津波か地震の衝撃で仕切り板がずれ、そこから貯蔵プールに水が流れて冷やしてくれた。

 そして皮肉にも爆発で建屋の屋根が飛び、外部からの注水が可能になった。

 点検作業の不手際があり、四日前に抜き取られていたはずの水がそこに残されていた。もし“不手際”がなかったら−。私たちは幸運だったのだ。

 チェルノブイリ原発事故の原因について、当時のソ連当局は、規則違反の動作試験が行われたため、運転出力が急上昇したことによると発表した。

 しかし、事故から五年後、「主因は人為的なものではなく、原子炉の構造的な欠陥である」という内容の報告書をまとめている。

 米スリーマイル原発事故が起きたのは、作業員が誤って非常用冷却装置を止めてしまったからだと、調査の結果判明した。

 事故原因が解析され、判明し、防止策を講じた上で、原発は再び動き始めた。しかし、福島の場合はどうか。世界史にも例がない多重事故は極めて複雑だ。

 原因解明が不十分なまま再稼働だけを急いで、本当に大丈夫なのだろうか。根源的な疑問は、やっぱり残る。
◆無事故の保証ではない

 3・11以前への回帰を目指すエネルギー基本計画が、間もなく正式に決定される。

 政府は、積極的に再稼働を認める姿勢を隠さない。

 だが、原子力規制庁自身が明確に認めているように、世界一の規制基準とは、たとえそうであれ、無事故を保証するものではない。 地震国日本に、安全な場所はない。なし崩しの再稼働を受け入れるか、受け入れないか。フクシマを知り、フクシマの今を踏まえて、決めるのは私たち自身である。


河北新報
最後の巣立ち、被災校舎から 閉校の南三陸・戸倉中で卒業式

 東日本大震災の津波で被災し、今月で閉校する宮城県南三陸町戸倉中(生徒43人)の卒業式が8日、現在使われていない被災校舎であった。震災直後に入学した卒業生16人は、地元の校舎で学べなかった悔しさと、苦境を乗り越えた充実感を胸に、67年の歴史を終える母校から巣立った。

 卒業生は1学年時は宮城県登米市の旧善王寺小で、2、3学年時は志津川中で授業を受けた。母校は4月、志津川中に統合される。答辞で佐藤貴大君(15)は「この校舎でみんなと思い出をつくりたかった。『最後』という言葉におびえを感じてきたけれど、今まで以上に努力できた。胸を張って新たな道を踏み出したい」と思いを語った。
 戸倉中の校舎は海抜約20メートルの高台にあるが、津波は1階の天井付近まで達した。卒業式は戸倉地区の浸水域を一望する2階の多目的ホールで開かれ、1、2年生が紙吹雪で卒業生を送り出した。
 卒業生の父で漁業の佐藤正浩さん(46)は「父母の多くは戸倉中出身なので、みんな感無量だろう。今の生徒は『母校』に通うことはできなかったけれど、今日の景色を目に焼き付けて忘れないでほしい」と話した。


東日本大震災避難者らが追悼法要

 東日本大震災から十一日で丸三年を迎えるのを前に、岐阜市神田町の円徳寺で八日、追悼法要が営まれた。福島第一原発事故により岐阜県内に避難した人たちや地元住民ら五十人が参列し、犠牲者に祈りをささげた。

 「実家のお墓がある地域には放射線量が高くて行けないし、今(の避難先に)は仏壇がない。私たちには、手を合わせる所もない」。松田明宗住職の読経が続く中で、福島市から岐阜市へ避難中の女性会社員(31)がおえつを漏らした。

 原発事故から五カ月たった二〇一一年八月、原発から六十キロ離れた福島市の自宅を後にした。同居していた義理の両親に「お前らだけ逃げろ」と勧められた。岐阜での生活は夫(28)と保育園児の長男(6つ)とで始まり、半年ほど前に長女も授かった。でも習慣だった墓参りはかなわず「心にもやもやがあった」。久々に手を合わせた後、女性は「ふっ切れた気分になりました」と涙をぬぐった。

 法要には、福島県北部の町から、小学生の子ども三人と岐阜市へ避難したパート男性(34)も。子どもの世話があるため、正社員として採用してくれる企業は見つからず「震災前の半分の収入での生活」。除染が進まない故郷の状況に表情を曇らせ「気持ちとしては戻りたい。でも戻れないのが現実です」と話した。

 追悼法要は、避難者を支援するボランティア団体「岐阜キッズな(絆)支援室」と円徳寺が営んだ。団体の若岡ます美代表は、避難中の子どもが笑顔を浮かべるようになったことを喜びつつ「友達と別れた寂しさなど、三年たっても心の傷は癒えていない」と話した。

 (藤沢有哉)


毎日新聞
反原発:大規模なデモ、国会周辺で 坂本龍一さんも参加

 福島を忘れるな、再稼働を許すな−−。東京電力福島第1原発事故から3年を迎えるのを前に、国会議事堂周辺で9日、大規模な反原発デモがあり、大勢の市民が原発事故を風化させまいと声を張り上げた。

 東京都千代田区の日比谷公園の野音で開かれた集会で、首都圏反原発連合(反原連)のミサオ・レッドウルフさんは「事故から3年、福島の状況は変わらないどころか後退している。さらに大きな声を上げ、原発ゼロを実現したい」、音楽家の坂本龍一さんも「声を上げにくい人に寄り添い、その声に応えよう」と呼びかけた。

 参加者は「原発なくせ」「輸出をやめろ」と訴えながら首相官邸や国会周辺をデモ行進し、その後議事堂を取り囲んだ。肺病で鼻に酸素チューブを通し、ボンベを引きながら歩く東京都調布市の伊藤忠男さん(75)は「体はつらいが、反対の意思を表明したい」。相模原市の会社経営、大賀祥三郎さん(58)は「事故の原因究明も終わっていないのに再稼働はありえない。事故も被災者も無視されている」と訴えた。

 デモの参加者は、反原連などの主催者発表で延べ約3万2000人。11日前後に全国175カ所以上で原発抗議行動が行われるという。【町田結子】


毎日新聞
大震災3年:灯籠に思い込め 各地で追悼行事

 東日本大震災から3年となる11日を前に9日、大きな被害を受けた岩手・宮城・福島3県の各地で追悼行事があった。

 津波で750人以上が死亡・行方不明となった宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区では9日夕、震災時に住民の避難路となった道路や、避難先だった閖上小の旧校舎校庭に灯籠(とうろう)を並べて照らす追悼イベントがあった。市民ら500人以上が犠牲者の冥福を祈った。

 閖上中の卒業生や被災者らでつくる実行委員会が主催。全国からのメッセージが書かれた2100個を、地区内の日和(ひより)山から同小旧校舎近くまでの道路脇約1.2キロに並べ「光の道」を描いた。昨年は強風で実施できなかったが、今回は事前に風防実験などを行い、風雨に強いプラスチック製の灯籠を開発した。

 校庭にも紙の灯籠1200個とキャンドル2500本で縦約30メートル、横約50メートルの「天の川」を浮かび上がらせた。知人を失った同市のNPO職員、石橋優子さん(34)は「被災者を忘れないでほしい。これからも現地を見に来てほしい」と話した。

 岩手県大槌町安渡(あんど)の町内会と公民館は9日、仮設住宅が並ぶ高台の旧安渡小校庭で、地区独自の追悼式を営んだ。参列した約150人は震災発生の午後2時46分、消防団の半鐘の音に合わせて大槌湾に向かって黙とうし、花々を手向けた。

 安渡地区は人口約1950人の1割以上にあたる218人が津波の犠牲となった。同町消防団長の煙山佳成(けむやま・かなり)さん(75)は、妻昌子さん(当時73歳)、義母タマさん(同92歳)、長男隆之さん(同40歳)を亡くし、同地区だけで10人以上の消防団員仲間を失った。「最近、亡くなった家族らに助けられているな、見守られているな、と感じる瞬間が多くなった。仏壇に感謝を伝える日々です」と手を合わせた。

 親族を多数失った小国兼太郎さん(90)は「鎮魂の気持ちで、毎日、刺し子制作に向き合っています」と涙を浮かべた。【橘建吾、高尾具成】


京都新聞
バイバイ原発、再稼働反対 円山公園一帯に2500人集う

 原発のない社会を求める集会「バイバイ原発3・8きょうと」が8日、京都市東山区の円山公園一帯であり、約2500人(主催者発表)が参加した。福島第1原発事故の避難者のスピーチやデモ行進が行われ、「原発いらない。再稼働反対」などと声を上げた。

■避難者ら苦悩語る

 京都の市民団体の代表らが呼び掛け人となり、2012年から毎年開いている。東日本大震災の犠牲者の冥福を祈り、参加者が黙とうをささげた後、避難者らが思いを述べた。

 福島市から京田辺市に避難している宇野朗子(さえこ)さん(42)は「この3年間、まるで戦時中のように必死で生きてきた。あの日からやむことのない原発震災が続いている。なのに事故を忘れ、原発が推し進められている」と苦悩を語った。

 政府の原発政策の矛盾を追及している金子勝慶応大教授は「あれだけの事故をおこしながら、経営者は誰も責任を取っていない。エネルギーが石炭から石油に代わって産業構造が変わったように、脱原発で新しい産業が生まれる」と熱く語った。

 集会後には中京区の市役所前までデモ行進した。

フランス語
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バイバイ原発3・8きょうと/寺町でAnさんと

ブログネタ
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140308_KYOTO_CHIWAKI

Quand Dieu se fit homme, le diable s'était déjà fait femme.

バイバイ原発3・8きょうとに参加しました.

福島からの訴えで地脇美和さん(福島原発告訴団・子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク)がアピールをしました.
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次に避難者からの訴えでうのさえこさん(福島市から避難)がお話をしました.
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「脱原発成長論」と題して,慶應義塾大学経済学部教授・金子勝さんが講演をしました.
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制服向上委員会のライブです.「ダッ!ダッ!脱原発の歌」など.


円山野音から祇園・四条河原町を経て市役所前までデモをしました.

その後Anさんと会って喫茶店でお話をした後寺町でお好み焼きを食べました.

毎日新聞
東日本大震災3年:俺たち復興3兄弟 「生まれ育った南三陸のため」18年ぶり集結

 ◇38歳長男、バスツアー語り部
 ◇32歳次男、町観光協会職員に
 ◇31歳三男、地元特産品を販売

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県南三陸町で、復興に向けて活動を続ける3兄弟がいる。伊藤俊(しゅん)さん(38)、聡さん(32)、孝浩さん(31)。別々に暮らしていた3人は震災を機に、長男が町を出て以来18年ぶりに古里に集結。震災の語り部、観光企画、特産品販売と、地元の再起のために奮闘している。【山本佳孝】

 同町歌津で生まれ育った。海や町並み、商店街を見渡せる地元小学校の校庭でサッカーの練習に明け暮れたこと−−3兄弟に共通する思い出だ。しかし、海から約2キロ離れた実家に被害はなかったものの、3人の思い出の町並みは津波にのみ込まれてしまった。

 長男の俊さんは高校卒業後にいったん町を離れ、25歳の時に古里に戻った。5年前から「南三陸ホテル観洋」に勤務する。震災発生時はホテルで客やスタッフの避難誘導に追われた。住んでいた町営住宅は津波で壊滅したが、妻(38)と長女(3)は無事だった。仮設住宅で3人で暮らす。

 震災から1年がたったころ、ホテルが始めたバスツアーで震災の語り部を「町の人間としてやらなければならない」と引き受けた。20枚の写真を手に、骨組みだけが残った防災対策庁舎の前などで津波の恐ろしさをツアー客に伝える。「震災を風化させたくない。聞きたいという人がいる限り、続けていきます」と話す。

 次男の聡さんは高校卒業後に町を出て、震災当時は仙台市内のレストランに勤務していた。立食パーティーの準備中に激しい揺れに襲われた。1週間後、古里に戻ると、見えるはずのないところから海が見える光景に衝撃を受けた。

 接客が大好きで仕事は充実していた。続けたい気持ちもあった。しかし、津波に襲われた南三陸町の光景が頭から離れない。2カ月後、町へ戻る覚悟を決めた。地域のコミュニティー作りに携わり、現在は町観光協会の臨時職員として、町民と観光客がふれ合うツアーの企画を担当する。

 三男の孝浩さんは大手外食チェーン社員として駐在していた中国・青島で震災を知った。「大変なことになった」。インターネットで家族の安否や町の情報をなんとか集めようとした。眠れない日々が続いた。ようやく帰国できたのは1カ月後だった。がれきだらけの古里に言葉を失った。「町のために何かしないといけない」。使命感に駆られた。

 2012年5月、会社の慰留を振り切り、中学卒業以来約15年ぶりに町で生活することを決めた。知人が設立したネットショッピングサイト「南三陸deお買い物」を引き継ぎ、同年8月から運営。地元のワカメや昆布などの特産品、菓子などを全国各地に販売している。サイトには自分が町を取材した記事も載せ、震災後の現状などを発信している。

 3兄弟は観光の盛り上がりこそ、今後の南三陸町の復興に欠かせない要素だと思っている。「来る人がこの町を好きだと思えるように活動を続けたい」。思いは一つだ。


毎日新聞
東日本大震災3年:「母校」で卒業式 南三陸・戸倉中

 宮城県南三陸町の町立戸倉中学校(小野寺由美子校長)の卒業式が8日、同校舎であり、16人が巣立った。同校は東日本大震災の津波で1階天井近くまで浸水し閉鎖された。別の学校を間借りして学んできた生徒たちにとって、最初で最後の「母校」での式典となった。

 卒業生代表の佐藤貴大(たかひろ)君(15)は「この校舎に通いたかった。戻りたかった。思い出をここで作りたかった」と悔し涙を流したが、「いつも誰かに支えられてきた。仲間と一緒だったから頑張ってこられた」と3年間を振り返った。同中は今月15日に閉校する。

 生徒たちは3年前、町立戸倉小学校の卒業式間近に津波で校舎を流され、同県登米(とめ)市で間借りした校舎で5カ月遅れて卒業式をした。【丸山博】

産経
卒業生「寂しいが前に進む」被災の女川高で閉校式

 東日本大震災で校舎や体育館が被災した宮城県女川町の女川高校で8日、閉校式があった。生徒数の減少で震災前から閉校が決まっており、今年で最後の卒業生や既卒生ら約300人が参加。64年余りの歴史を振り返り、卒業生代表が「寂しいが前に進む」と決意を述べた。

 涙を見せた谷井美美さん(18)は「震災で亡くなった母も、女川高出身。無事に卒業できたので喜んでくれていると思います」と感慨深そうな表情を見せた。

 谷井さんら震災直後に入学した45人は、ずっと後輩がいないままだった。生徒会長、柏峻平さん(18)は「新しい出会いに対する期待より、震災への不安が大きいまま高校生活が始まった」と振り返る。

 閉校式で柏さんは「最後の卒業生であることを誇りに、前に進むことを誓う」と力強く述べた。

朝日新聞
原発関連死―福島の痛みを直視せよ

 「事故によって死亡者が出ている状況ではない」。福島での原発の事故について、自民党の高市早苗・政調会長が昨年、こんな発言をした。

 だが、命にかかわるのは放射線だけではない。避難生活で体調を崩して亡くなったり、自殺に追い込まれたりする「震災関連死」が増え続けている。

 長期避難が続く福島では今年1月末までの関連死が1660人で、地震や津波による「直接死」の1607人を上回った。東日本大震災の被災3県全体の関連死のうち、6割近くを福島が占める。

 福島では今なお、毎月30人ほどが新たに関連死と認定されている。「原発事故関連死」とも呼ばれ、避難生活が長期化する原発事故の深刻さを浮き彫りにしている。

 復興庁は関連死をめぐる課題と対策を12年夏にまとめたが、減る傾向のみえない福島については昨春に改めて実情や問題点などを調査した。

 被災から1年以上たってから関連死した35人を対象にしたその調査によると、ほとんどの人が、移動や避難生活による疲労やストレス、医療事情の悪化で徐々に衰弱した。避難区域の相次ぐ変更などで平均して7回も移動を強いられていた。

 岩手や宮城の被災地と大きく異なるのは、放射能で住み慣れた地域を追われ、「生きているうちに今の避難先から出られないかもしれない」という不安だ。復興庁の報告で専門家はそう指摘している。

 調査した福祉施設での12年2月までの3カ月の死亡率は、前年同期の1・2倍に増えた。報告では、全体に健康へのリスクが高まったと考えるべきで、認定された関連死は「氷山の一角」としている。

 福島の避難者は13万人を超える。関連死を防ぐには生活の立て直しが最大の課題だが、帰還の前提となる除染は長引き、生活再建への道のりは長い。

 被災自治体では保健師や生活支援相談員らに仮設住宅などを巡回させている。心身両面の健康を保っていくため、今できることを尽くしてほしい。

 安倍政権は原発の再稼働に積極的だ。だが、再稼働の前に、万一に備えて避難計画を整える必要がある。放射能被害から逃れるために、いち早く避難する計画も大切だが、ただ避難するだけでなく、どのように関連死を防ぐかも重要課題である。

 原発事故で痛めつけられ、関連死のリスクとも向き合わなければならない。その不条理を、政治は直視すべきだ。


河北新報
被災校の現状 3県94校今も仮校舎 31校解消めど立たず

 東日本大震災で被災するなどして校舎が使えなくなった岩手、宮城、福島3県の公立小中高校のうち、現在も仮校舎に入る学校が94校に上ることが、各県教委などへの取材で分かった。仮校舎に通う児童生徒は合計で約1万7300人に上るとみられる。約3分の2の63校は校舎再建や他校との統合などで仮校舎から出る予定が決まっているが、福島第1原発事故の影響が残る福島県内を中心に31校は今後の見通しが立っていない。(鹿又久孝)

 仮校舎にはプレハブの仮設校舎や他校の空き教室、廃校の校舎などを使用している。本来の校舎と違い教育環境が十分でないため、各地の教育委員会は移転・新築や大規模改修による校舎の再建、他校との統合などで仮校舎の状態を解消するよう急いでいる。
 仮校舎94校の県別内訳は表の通り。各校とも津波で校舎が損壊したり、原発事故で避難指示が出されたりし、校舎が使えなくなった。ピーク時の2011年度に校舎が使用不能だった学校数(173校)と比べると、震災から3年がたっても半数以上の学校で仮校舎の状態が続いていることになる。

<岩 手>
 仮校舎に入るのは釜石や大船渡市など7市町の小中学校16校と、県立高田高(陸前高田市)。このうち宮古市の小学校2校は今春、他校と統合し、統合相手の校舎に移る。高田高など14校は新校舎建設(計画含む)が進行中で、17年春までに各校で校舎再建が完了する予定だ。
 陸前高田市気仙中は唯一、仮校舎から出る計画が決まっていない。市教委は統合の方向だが、市全体の復興の見通しが立たず、保護者や地域住民の意見を集約できる状況になっていない。

<宮 城>
 仙台市や石巻市、名取市、南三陸町、亘理町など10市町の小中学校26校と宮城農、気仙沼向洋、石巻市女商の高校3校が仮校舎に入っている。津波被害のほか、地震の揺れで校舎が損壊した内陸部の学校も含まれる。
 27校は統合か校舎再建が決まり、18年春までに仮校舎状態が解消する予定。このうち石巻市門脇小は今月に入り、ようやく統合の方針が固まった。1年後に仮校舎から出られる予定だが、引き換えに約140年の歴史を事実上閉じる。
 いつまで仮校舎状態が続くか決まっていないのは仙台市東六郷、石巻市大川の2小学校。東六郷は仙台市教委が統合の方針だが、保護者らの合意が得られていない。大川は石巻市教委が移転・新築の方針を表明したが、場所や時期は未定だ。

<福 島>
 仮校舎に入る48校のうち12校は避難区域外にある学校で、校舎は地震などで損壊した。新校舎建設や統合などにより、16年春までに12校全ての仮校舎が解消する。
 元の校舎が避難区域内にあるのは36校で、児童生徒は避難先で仮校舎に通う。うち田村市都路地区の古道小、岩井沢小、都路中の3校は、避難指示の解除に伴い4月に学校を再開する。高校5校は15年度での入学者募集停止が決まっている。
 残る28校は、いつまで仮校舎状態が続くか現時点で未定だ。


毎日新聞
東日本大震災:天国の母へ「元気だよ」 石巻の15歳卒業

 「もっと一緒にいたかった。でも最近は空からちゃんと見ててくれてるって信じているんだよ」。離婚で父の顔を知らずに育ち、大好きだった母を東日本大震災の津波で亡くした宮城県石巻市の中野美咲(みさき)さん(15)は8日、市立渡波(わたのは)中で卒業式を迎えた。仮設住宅から仮設校舎に通った3年間。「中学は楽しかったよ」。笑顔で母に報告した。

 震災11日後の2011年3月22日。私は、避難生活を送る小学生に欲しいものや困っていることを聞く取材で、避難所になっていた同市の渡波小体育館を訪ねた。「ママに『私は大丈夫です。連絡ください』と伝えて」。にっこり笑って答えてくれたのが同小6年の美咲さんだった。

 その日訪れた市役所で、遺体安置所に運ばれた人たちのリストを目にした。母喜子(よしこ)さん(当時33歳)の名前があった。市中心部で弟夫妻と買い物中に地震に遭った喜子さんは、車で帰宅する途中、同小から1.5キロの地点で津波に襲われていた。

 すぐに体育館に戻り、一緒に避難生活を送っていた祖父邦夫さん(66)と祖母美恵子さん(67)にそっと伝えた。頼まれて、私が運転する車に3人を乗せた。「どこに行くの」と聞く後部座席の美咲さん。無言だった助手席の邦夫さんに電話がかかってきた。「安置所さ行く」。その意味に気づいた美咲さんが声を震わせた。「うそだあ」。胸が締め付けられた。「うそだあ」。到着まで約30分、すすり泣きはやまなかった。

 1カ月後、私は異動で被災地を離れたが、3人のことが忘れられず、電話で連絡を取り続けた。「一人でいるとき、苦しいんだ」。娘と息子夫婦を一度に失った邦夫さんが吐露することもあった。美恵子さんは「娘の後を追おう」と何度も考えたという。だが、気丈に振る舞う美咲さんの姿に「一人前に育て上げるまで頑張らなきゃ」と思いとどまった。

    ◇

 ショッピングセンターに勤めていた喜子さんは、帰宅が午後10時を過ぎることが多かった。でも美咲さんは起きて待っていた。一緒にお風呂に入りたかったから。湯船で「中学に行ったらママと同じバレー部に入るんだ」と話したことがある。中学時代にバレーボール部だった喜子さんは「あんたがっ」と目を丸くした。体育は最も苦手な教科。「ママと一緒に練習できる」ことが理由だった。

 中学で美咲さんは母との約束通りバレー部に入り、母の予想を覆してレギュラーになった。「生きているんだし、やりたいと思ったことはやってみようと思った。少し度胸がついたかな」

 化粧品やタンスに残る服に亡き母のぬくもりを感じ、ふと涙があふれる日もある。それでも「基本は、いつも元気」。卒業式に出席した美恵子さんに手紙で「あたしが幸せになるまで元気でいてね。大好きだよ」と伝えた。いつもの笑顔とともに。【比嘉洋】

フランス語
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ヤル気がないです/豚足を買いました

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yamatoyu_140112

Certain films ont été bénéficié de soutiens critiques.

批評的な擁護の恩恵に浴する映画もある.

尾道の大和湯です.でも本当は銭湯ではなく,ゆーゆーというカフェだそうです.
NHKテレビでフランス語でmemento mori 死を忘れるな,というのが出てきました.ラテン語なのですが気に入りました.
今日は朝からやる気なしです.夕方に豚足を買いました.英語ではpig's trottersでフランス語ではpied de cochonかな?

2013年5月9日にこれからしばらくお酒は控えたいと思います.と記していましたが,実際は結構飲んでいました.反省.
おつきあいの場合は仕方ないのかもしれませんが,そうでない場合にはなるべく飲まないようにしたいと思います.




毎日新聞
大震災3年:娘奪った海眺め 78歳岸壁に立つのが日課に

 復旧工事が続く岸壁に、船外機付きの新品の小型船が20隻ほど、きれいに並んで浮かんでいた。元漁師の佐々木菊松さん(78)の船は、もうない。それでも、朝、夕と足を運び、海を眺めている。「何をするでもないんだが。暇つぶしかなあ」

 岩手県釜石市の箱崎半島の先端にある白浜漁港。一人娘の智也子(ちやこ)さん(当時44歳)をのみこんだ津波は、愛船「新宝丸」もさらっていった。新調には約170万円かかる。国などから補助も受けられるが、「後継者はいないし、何より娘がいない。船を持っても仕方ない」とあきらめた。

 智也子さんはスーパーの店長だった。逃げ遅れた従業員を助けようと店に引き返し、犠牲になったらしい。2011年5月、私が避難所で初めて佐々木さんと妻鈴子さん(71)に会ってまもなく、遺体が見つかった。智也子さんは「父さんと母さんの面倒は私が見る」と独身を貫いていた。そのお返しということだろうか。葬儀の日、佐々木さんは言った。「これからは仏さん(娘の遺骨)を守るために生きていく」

    ◇

 漁師ばかりの白浜地区で生まれた佐々木さんは、20歳になると当たり前のように漁に出た。北海道・釧路のサケ、マス漁など、20代は大きな船で遠洋漁業に出た。30歳で結婚すると、地元を漁場にウニ、アワビ、ワカメの養殖で生計を立てた。

 先月、2年ぶりに会った佐々木さんは一緒に漁港を歩きながら、「本当なら今ごろ、3月中旬から始まるワカメ漁に向けて間引き作業をやってたな」とぽつりと言った。漁に未練がありそうで、胸の内を聞くと、しばらく黙った後、目を伏せた。

 「母ちゃんが『智也子があんなことになった海に、もう行かないで』って言ったんだ」

 震災から半年もたたないころ、漁協から「持ち主が死亡した船を希望者に安く貸し出す」と聞き、悩んだ。そんな時、鈴子さんから懇願されたという。「確かに、もう年だ」と自分でも納得した。

 親戚の手伝いで時々は海に出ることもあるが、自分の船でないと張り合いがない。「何もやる気が出ない。でも、自分だけじゃないから」。震災後、漁協の組合員のうち3割以上が離職した。ほとんどが船をなくした高齢者だった。

 朝起きると必ず仏壇にお茶を供える。そして考える。「何で親より先に逝ったかなあ」

    ◇

 自宅の居間に手のひら大の鉄製の器具が飾ってあった。若い頃、ウニの大きさを測るのに使ったという。手に取り思い出を語った。

 ウニ漁ではな、舟の上から海ん中さのぞき、ゆっくり獲物に近づくんだ。「前、前」。かいをこぐ母ちゃんに声さ掛ける。毎年変わる漁場を探しあてんのは、そりゃ長年のカンよ。

 鈴子さんが横で時々相づちを打った。佐々木さんは少し興奮してきたようだった。「釜石のウニは日本一」。うれしそうに繰り返した。【黒田阿紗子】

毎日新聞
わが子よ:東日本大震災3年 スーツの破れ、あの日の痛み

 岩手県陸前高田市で、長男の寛(ひろし)さん(当時24歳)を失った村上智子さん(53)。

 あの日、寛さんが着ていたスーツが仏前に掛けてある。折り目はきっちりだが、所々破れている。「がれきにもまれた時の痛みが分かるような気がして」

 市職員だった寛さんは役場周辺で避難誘導に立ち、さらに消防団の活動に向かおうとして逃げ遅れた。「責任感が強い子に育ってくれてありがとう」と思う半面、「先に逃げてくれれば、生きていたのに」と声が震えた。智子さんは手首に巻いた、息子の数珠に触れた。【写真・文 小川昌宏】

毎日新聞
東日本大震災3年:原発事故被災の福島・双葉郡 学校存続、正念場 小中学生、震災前の1割

 東京電力福島第1原発事故で被災した福島県双葉郡(8町村)の学校が存廃問題の正念場を迎えている。全国各地に避難した子供たちの帰還は進まず、小中学校の児童生徒数は震災前の1割程度。もしも廃校になれば、子供がいる世帯はますます戻れなくなり、自治体そのものの存続危機に直結する。地元では、県立の中高一貫校を開設しようと郡を挙げて取り組むが、年月とともに、被災者は避難先で生活を定着させ、子供の「ふるさと喪失」は既成事実化しつつある。【蓬田正志、中尾卓英、福田隆】

 今春、双葉郡内で三つの超小規模校が授業を始める。児童生徒数の回復が見通せない中で、あえて再開するのは、学校が地域社会存続への「意思表示」になるからだ。

 震災後、約200キロ離れた埼玉県加須(かぞ)市に多くの町民が役場ごと避難した双葉町。今年4月、町立小中学校がいわき市内で再開する。児童生徒数は小学校4人、中学校4人の計8人。震災前は計551人が学んでいた。それでも、さまざまな事情で避難先から帰還する子供たちの受け皿となる。

 原発作業員で広野町に単身赴任していた男性(41)は、新潟県内に避難中の家族をいわき市内に呼び戻し、長男(10)を再開される双葉北小に通わせる。長男は避難先で不登校になっていた。男性は「何らかの行動を起こさなければいけなかった。人数の多い学校で切磋琢磨(せっさたくま)してほしい気持ちもあるが、少人数教育で勉強の遅れを取り戻してほしい」と期待する。被災地では、避難先になじめず、いじめや不登校に悩んで帰還する子供も多い。事情を知る地元教師のケアは命綱だ。

 もう一つの象徴は浪江町だ。浪江町は避難先の二本松市内で2011年8月、震災前にあった小学校6校、中学校3校を事実上統合して1校ずつ再開した。当時の小学生は28人、中学生33人で、震災前のわずか3%。今年度も小中合わせて58人とほぼ変化がない。だが、その校舎に今春、新たに町立津島小が復活し、小2、小5、小6となる3兄弟を迎えることになった。

 畠山熙一郎・浪江町教育長は「全校をできる限り再開したいと思っていた。このままでは元の学校にどんどん戻りづらくなる」。地元に戻ってくる家庭があれば、超小規模校でも看板を掲げ続ける意義があるのだ。

 それでも、現実はあまりに厳しい。三春町内の工場施設を改修して町立4小中学校と幼稚園を開いた富岡町。震災から半年後の再開だったが、それでも町民からは「遅い」と批判された。小中計4校の合計児童生徒数は64人。ただし、小学校2校の来年度新入生の見込みはゼロ。同じく三春町内の廃校を活用して昨年4月に小中学校を再開させた葛尾村では、小学校の来年度の入学予定者がいない。12年4月にいわき市内で学校を再開させ、約2割の児童生徒が戻るほど順調な回復ぶりを見せていた楢葉町でも、来年度入学の小中学生は計33人で、卒業生計37人を下回る見込みだ。

 会津若松市教委の全面協力で、同市内に震災1カ月後に学校を再開させ、初期対応が最もうまくいった大熊町では、昨年ごろから、元の住まいに近いいわき市に転出する家庭が増えた。慣れない土地での生活や仕事、先の見えない生活に、我慢の限界を超えたのだ。小学2校と中学1校の合計人数は、今年度の284人から来年度は197人に激減する。武内敏英・大熊町教育長は「初期対応としては、学校を再開して町民を引っ張っていく方法は正解だったが、日がたつと、親の働き先があるところに引っ越してしまう。学校だけでなく、保護者の雇用創出もセットで進めるべきだった」と悔やむ。
 ◇中高一貫校を構想 地元帰還、呼び水に−−郡教育長会

 子供を持つ世帯にとっては、区域外就学として通う避難先自治体の学校に慣れたこと、極度の小規模化など、地元への帰還を敬遠する理由は山ほどある。活路はあるのか。かぎを握るのは、双葉郡教育長会が昨年7月に策定した教育復興ビジョンに盛り込まれた「県立中高一貫校構想」だ。

 現在、双葉郡の教育長や県教委、文部科学省らで作る同ビジョン推進協議会で内容を練っている。2月27日に開かれた第4回会合では「子供たちは、大人でも答えを出せないような難しい課題に取り組むことになる。その挑戦自体が、生きる力につながるはずだ」「教育の土台である地域が破壊されてしまった。そこから立て直さなくてはならない」など、白熱した議論が3時間に及んだ。

 協議会メンバーが可能性を実感したのは、今年1〜2月に実施した島根県隠岐諸島の島前地区への視察だ。同地区にある県立隠岐島前高校は島外からの生徒を集めるため、寮を完備。徹底した地域連携のカリキュラムと難関大合格も可能とするコース設定で、教育を軸とした地域おこしの成功例として知られている。極端な過疎・高齢化を克服した現場を目の当たりにし、一行は「双葉でもできるかもしれない」と興奮した。

 中高一貫校の高校部分は、進学、就職、スポーツなどの選択肢を備える総合学科として3クラス(約120人想定)で15年度にスタートの予定だ。校舎は広野町内に構え、整備費は国が負担する。中学は、既存中学の活用による連携型を主張する県教委と、新しく高校に隣接して建設する併設型を求める双葉郡側で意見の違いがあり、協議中だ。また、郡内町村の小中学校や中高一貫校に通う子供たち全員を対象とする共通カリキュラム「ふるさと創造学」を編成、小中学校では来年度から開始するという。

 一貫校設置に伴い、現在サテライト校舎で運営されている既存の県立5高校(浪江、浪江・津島校、双葉、双葉翔陽、富岡)は募集停止となる。構想が実現しなければ、結果的に5高校を統廃合しただけとなる恐れもある。現在、双葉高に次女を通わせている母親は「地元の意見を反映した計画にしないと、大学に何人進学したかという尺度で測られ、みんな双葉郡、福島から出ていってしまうのでは」と危惧する。

 双葉郡教育長会長でもある大熊町の武内教育長は「このビジョンを実現させないと双葉郡の将来はない」と危機感を募らせる。双葉郡の教育を包括的に扱う事務局を法人化し、世界に向けた情報発信も始めるなど、背水の陣で臨む覚悟だ。

朝日新聞
(この一歩)花束買って家にかえろう 役場勤め上げたら

 仏壇の前で畳に両手をつき、体を折り曲げて深々と頭を下げる。3秒ぐらいか、5秒だったろうか。

 3月いっぱいで宮城・南三陸町役場を退職する元総務課長、佐藤徳憲(とくのり)さん(63)は、ざらついた畳の感触が忘れられない。

 震災の年の初秋の話だ。

 「無事にご家族をお返しできず、大変申し訳ございません」

 仏壇には、ほほえむ部下の遺影と骨つぼ。罵声が飛んだ。「高台さ、なして逃がさなかった!」。50代の遺族のうめき声が続く。「なあ、うちの子、返してくれよぉ」

 津波で犠牲になった職員36人の遺族のもとを一軒ずつ、佐藤仁(じん)町長(62)とふたりで弔問した。同級生で役場のバレー部の仲間だった同僚課長、結婚式で司会をした女性職員……。

 秋も深まったころ、いつもは町長に向かう遺族の矛先が隣の佐藤さんに向いた。「うちの人さ逃げろって言わねで、自分の女房には言うのか」。インターネット上でも見ず知らずの人から「職務放棄じゃないか」と書かれていた。

 佐藤さんと20代の頃から友人の町長は、そばにいて胸が苦しくなった。「徳さんは何も反論せず、黙って聞いてんだ。で、夜に一緒に飲んだら、泣くんだ」

     ◇

 退職の日が20日後に迫っていた。

 2011年3月11日。佐藤さんは議場で震度6弱の揺れに襲われた。急いで役場裏の自宅へ。防寒着と携帯ラジオを手に取り、「おい、はやく逃げろよっ」。2階にいた妻節子さん(当時63)に声をかけた。「2階なら大丈夫よ」。背中で妻の声を聞き、町危機管理課が入る防災対策庁舎に走った。

 約40分後、津波が街を襲った。屋上に駆け上がった。25年間、暮らした家が目の前で真っ二つに割れ、波にさらわれていく。絶叫した。

 「せつこぉぉーーー」

 波は、庁舎を丸ごとのみ込んだ。気づくと、屋上に避難した54人のうち、残っていたのは佐藤さんと町長ら10人だけだった。

 町長に請われ、4月以降も総務課長を続投することに。行く手に待っていたのは、容赦ない混乱だった。

 仮役場の設置、窓口業務の再開、職員の確保……。当たり前の日常を取り戻したい。1年間、一日も休まなかった。私情は封印した。役場人生で染みついた習性でもあった。

 2年目の春、妻の遺体が県警のDNA型鑑定でわかった。「退職したら2匹の犬と一緒に旅行にいこう」。そう約束していた節子さんは小さな骨つぼに入っていた。ふたを開ける気になれなかった。

     ◇

 高台では山を切って宅地が造られ、浸水した市街地ではがれきが撤去され、盛り土が進む。

 町内に再建された式場で昨年11月、次男弦(ゆづる)さん(33)が結婚式を挙げた。佐藤さんの隣の席に、節子さんの遺影も置いた。

 余興で、丸っこい体を揺らして近づく町長に遺影をふんだくられた。町長は佐藤さんに差し向けながら、長渕剛の「しあわせになろうよ」を歌ってくれた。

 〈初めて出会った場所に も一度戻ってみよう〉

 節子さんは、初めての配属先の先輩だった。歓迎会で妙に気が合った。解散後、「漁港まで歩きませんか」と誘った。佐藤さん、18歳。節子さん、21歳。交際が始まり、3年後に結婚。2男1女を授かった。

 出張時には、同行する部下の弁当まで作ってくれたっけ。よく一緒に、海岸まで愛犬の散歩に行ったっけ――。我慢していたのに、また泣いた。

 今年1月、「あとはやりますよ」と町長が言ってくれた。震災前は我が家での一杯が生きがいだった。いまは町の変化がよろこびだ。復興の現場で、奮闘する部下たちも心強い。思い残すことはない。

 姉と暮らす高台の中古物件の自室に、友人たちから分けてもらった妻の写真を8枚はった。妻も好きだった時代小説を本棚にもう一度、買いそろえた。

 3年前、退職したら妻にバラを贈ろうと思っていた。言いそびれた「ありがとう」。今度こそ、花束を買って家にかえろう。(伊藤喜之)

     ◇

 新たな一歩を踏み出した人、踏み出そうとしている人がいる。この一歩がなお遠い人もいる。震災から11日で3年。被災地で取材を重ねる記者たちが訪ねた。


朝日新聞
(いま伝えたい)俺が船に乗る姿、待ち望んでいるはず

 ■「千人の声」2014

 港の岸壁を打ち砕く黒い濁流。妻の「お父さーん」の声が今も耳に残る。

 福島県相馬市の漁師、佐藤弘行さん(58)が、自宅のがれきの下から見つけた妻けい子さん(当時51)の遺体は「まるで眠っているようだった」。

 漁をやめようと思った。「この仕事は母ちゃんの支えや力なくしてはできないから」。だが思い直した。病気で漁に出られない時も、妻が懸命に看病してくれたおかげで海に戻れた。「女房は俺がまた船に乗る姿を待ち望んでいるはず」

 昨年6月から相馬双葉漁業協同組合長を務める。震災前、季節を通じて100種を超える魚を取り、東北有数の水揚げを誇った松川浦漁港。津波で漁協の組合員101人が亡くなった。3年たった今、岸壁の復旧や市場の土台作りが進むが、本格操業再開のめどはたたない。

 佐藤さんは「賠償金をもらって生活はできるけど、復興はできない。じっとしていても浜は守れない」と組合員らに言い聞かせる。

 一昨年6月にミズダコなど3種で始めた試験操業は30種を超えた。国より厳しい基準でモニタリング検査し、東京や名古屋に出荷する。

 だが、東京電力福島第一原発の放射能汚染水漏れが発覚した昨年7月には、名古屋の卸関係者から「値段がつかない」と言われ、一時出荷を止めた。震災前に年間45億円あった港の水揚げは今、1億円に満たない。

 それでも、佐藤さんの一人息子の泰弘さん(23)は昨年、「おやじの手伝いをしたい」と消防士をやめて漁に出始めた。船酔いと格闘しながら仕事を覚える息子の姿に「若い漁師たちが生計をたてられるようにしなければ」と佐藤さん。「魚の仕分けを手伝う漁師の妻たちでにぎわう、港の風景を取り戻したい」

     ◇

 福島県いわき市の魚仲買人、熊木敏男さん(65)は昨年10月、「いわき仲買組合」(27社)を代表して、いわきの魚をPRするため、東京・築地の取引先を訪ねた。汚染水漏れなどで福島産の魚に対する懸念が広がっていた時期。「何しに来た」「まだ早いんじゃないか」との反応に厳しい現実を思い知らされた。

 だがあきらめない。今月中旬から、震災後初めて、いわきの白魚を築地に出荷する。「試験操業で取れた魚は全て検査済み。組合の連絡先を記したラベルを貼り、安全性を訴えたい」

 いわきの白魚は震災前、市場で1キロ6千円の値がついたブランド品。だが、今も築地の取引先は「福島県産と表示したら難しいよ」と言う。熊木さんは「値段は二の次だ。アピールしなければ、本当にいわきの魚が廃れてしまう。いわきの魚を残す、大義の問題だ」。

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雪がちらほら/秘密保護法廃止!ロックアクション

ブログネタ
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Il n'y a rien de plus vulgaire que de parler de cinéma.
映画について語ることほど下品なことはない.

お昼にバランスランチを食べに外に出たらなんと雪がちらほら.3月なのに・・・

秘密保護法廃止!ロックアクションに参加しました.中之島公園女神像前で6時半から集会です.
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デモは御堂筋を北上し,アメリカ領事館前を通りました.米軍は日本から出ていけ!!!って叫びました.1号線を左折し西に向かいます.桜橋を越え,出入橋の西梅田公園まで歩きました.ふと見るとNaさんが,太鼓を陽気に叩いていました.3月なのに真冬並みに寒いですが,最後までデモを頑張りました.
安保強化を改憲STOP神戸大生の会ってなんだか,とある政治団体の匂いがします.

毎日新聞
東日本大震災:いとしい…だから悲しい 子を失った親の会

 午後5時のチャイムを聞くと、秀和君が帰宅する姿を思い出し動けなくなる。女手一つで育てた末っ子だった。

 やり場のない苦しみに沈む鈴木さんは震災直後、長男の謙治さん(当時31歳)を失った青木恭子さん(54)と、幼い息子を失ったルミさん(仮名)に出会い、気兼ねなく泣き、笑えた。子を失った親の「石巻・つむぎの会」と、震災遺族の「蓮の会」世話役を続ける。悲しいのはいとしいから。

 哀は愛。

 悲しみを乗り越え前にと「復興」が強調される中、失った子への「愛」を分かち合う場がますます必要だと感じている。【梅村直承】


河北新報
費用足かせ減少続く/人手、企業・学校頼み/ボランティア

 東日本大震災から3年となる被災地で、ボランティア数の減少傾向が続く。震災の風化や資金、人員不足が影響している。活動のニーズはがれき撤去や物資の仕分けから、生業や地域づくりの支援へと様変わりした。活動の主役も、個人から企業や学校に移りつつある。(報道部・村上俊)

<活動が長期化>
 2月上旬、宮城県南三陸町戸倉で、ボランティア約70人が農地の復旧作業に携わった。雪交じりの浜風を受けながら、つるはしで凍った農地を砕き、ごみや石を掘り起こす。多くは関東の企業や学校の関係者だ。
 「寒さは痛いほどだが、少しでも農業再開に役立ちたい」と三菱商事社員の佐藤伸昭さん(28)。同社は2011年10月からボランティア約850人を南三陸町に派遣した。被災地全体では、同年4月以降の合計は2920人に達する。
 13年度に町内で活動したボランティアは延べ2万3000人(2月末現在)。約6万人だった11年度と比べて大幅に減った。活動の中心が力仕事からコミュニケーション重視の支援に変わり、継続性、専門性が求められる。ニーズの変化に加え、活動期間の長期化で交通費や宿泊費が負担になることが減少の要因とみられる。
 その中で、ボランティアの担い手として比重が増しているのが、人材と資金の確保が見込める企業や学校だ。町内では企業だけで全国の約100社が関わり、全体の6割を占める。
 町災害ボランティアセンター長の猪又隆弘さん(55)は「復興にはまだ時間がかかる。企業、学校には組織力と専門性を発揮して継続的に支援してほしい」と期待する。

<過疎に危機感>
 全国の私大、短大23校でつくる「東北再生 私大ネット36(さんりく)」と地元住民は昨年3月、同町入谷に宿泊研修施設「南三陸まなびの里 いりやど」を開設した。学生たちが滞在し、水産加工場や商店でのインターンなどに取り組む。
 町は震災前から過疎化に直面していた。開設に関わった町入谷公民館長の阿部忠義さん(55)は「ボランティアが来ているうちに交流人口を増やさないと、再建しても町は衰退する」と危機感を募らせる。
 私大ネットの活動をきっかけに、宮城県内に就職する学生もいる。埼玉県出身で国学院大4年の保坂敦史さん(22)は今春、中学教員として赴任する。「復興を担う子どもたちを支え、いつかは南三陸の学校でも教えたい」と前を向く。


河北新報
観音像に命刻む 東松島の住職、震災犠牲者悼む

 宮城県東松島市の清泰寺住職小池康裕さん(72)が、東日本大震災の犠牲者のために観音像を彫り、命を吹き込もうと読経している。像は60体以上が出来上がり、震災から3年となる11日、家族を亡くした檀家(だんか)に手渡す。
 昨年秋から制作に取り掛かり、寺の裏山から切り出したケヤキや、秋田から仕入れたヒノキを手彫りした。高さはいずれも約40センチで穏やかな表情を浮かべる。
 小池さんは毎朝午前6時、冷え込みが厳しい寺の作業場で像に囲まれながら「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱える。
 震災では230人以上の葬儀を執り行ったという。うち50人は高校生以下の犠牲者だった。2011年には子どもを亡くした檀家に地蔵50体を彫り進呈したが、その後、持病の脊髄狭窄(きょうさく)症が悪化し、右の膝元と右手の小指のしびれが今もひどい。それでも「悲しんでいる檀家がまだいる。供養したい」と再び、のみを握った。

毎日新聞
東日本大震災3年:解雇の62歳女性、縫い物工房を起業へ

 東日本大震災の津波で家を流され、勤め先も解雇された宮城県南三陸町の三浦幸子(さちこ)さん(62)がゼロからミシンの技術を学び、震災から3年が経過する3月下旬、「縫い物工房」を設立、経営者として起業する。従業員は仮設住宅に暮らす女性2人で、プレハブにミシン10台を置く。「さっちゃん」と呼ばれる三浦さんの目標は「被災地雇用の拡大」だ。

 震災3カ月後の2011年6月。三浦さんは勤務していた漁協の上司に「震災で何もかも失った。払える給料もない」と解雇を告げられた。「本当に申し訳ない」。上司は何度も頭を下げた。事務員として働き41年。年長者から順にリストラ対象になったという。

 約15年前に脳梗塞(こうそく)で倒れた夫(67)は障害が残り働けない。一緒に暮らす義母(94)は寝たきり。三浦さんが家計を支え、子供4人を育て上げた。そんな「肝っ玉かあさん」だが、震災後の不況でハローワークに通っても仕事はなく、酒なしでは寝付けなくなった。

 転機が訪れたのは11年10月。仕事を探している被災者向けのミシン講習会に「家計の足しになるかも」と参加した。一生懸命勉強し、布製の名刺入れやバッグを作った。地元スーパーの協力で売り出すと、被災地を支援する全国各地の企業から注文が舞い込んだ。

 多い月で十数万円の収入になり、「起業」の2文字が頭に浮かんだのは昨年11月ごろ。いずれも仮設住宅で暮らす小野寺正子さん(61)と佐藤てるみさん(49)に「一緒に働こう」と声を掛けた。広さ10畳のプレハブを工房として使う。てきぱきと準備する「さっちゃん」について、小野寺さんは「弱い部分を見せない芯の強い人。私たちはついて行くだけよ」と話す。

 三浦さんが津波で家を流されたのは、数千万円のローンを払い終えた1年後だった。当時は「人生そんなに甘くないね」と現実を受け入れるしかなかったが、今は違う。同じ境遇の仲間がいる。従業員をもう2人増やし、1人当たり180万円の年収を目指す。「さあ、忙しくなるぞ」。来年は個人事業主として確定申告する、生まれ変わった自分がいるはずだ。【鈴木理之】


朝日新聞
(東日本大震災3年)犠牲なぜ、検証二の足 遺族感情に配慮・復興優先

 東日本大震災で被災した岩手、宮城、福島3県の沿岸30市町村のうち、震災で多くの命が失われた原因について、第三者らの検証委員会を立ち上げて調査しているのが4市町にとどまることが朝日新聞の調べでわかった。遺族感情への配慮や復興を優先して検証作業に二の足を踏む自治体も多い。

 「市の対応がおろそかだったことが明らかにされた」。約800人もの犠牲者を出した宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区。被害について検証を求めてきた遺族の一人、遠藤道男さん(55)は5日、第三者検証委員会(委員長・吉井博明東京経済大教授)を評価した。

 閖上では、市の防災行政無線が故障し、避難呼びかけの放送が流れなかったことなどから、犠牲者が拡大したとされる。第三者検証委は遺族らの声を受けて、市が昨年8月に設置。学識者9人が独立の立場から聞き取りなどを進めてきた。

 この日は第4回会合。検証結果がほぼ出そろった。東北大の協力で、無線設備の故障を実験で再現。強い揺れでネジなどがスイッチ電源部分に入り込み、ショートした可能性があると結論づけた。異物混入防止の措置がとられなかったことについて、市は「メーカー任せだった」、メーカーも「規格と仕様さえ満たせばよいと、倫理が欠如していた」と断じた。

 このほか、市が地域防災計画の改定を怠ったため、防災設備や態勢の変更などが盛り込まれず、職員の初動も鈍かったことなど、行政の備えのまずさを厳しく指摘した。(石橋英昭)

 ■委員会設置は4市町

 調査は被災3県の沿岸部37市町村から、東京電力福島第一原発事故で30キロ圏にある7市町を除いた。

 第三者らによる検証委を設置していたのは、岩手県大槌町、釜石市、陸前高田市、宮城県名取市の4市町。防災専門家など第三者を加え、将来、犠牲者を出さないために客観的で詳しい調査をめざしている。

 一方、22市町村が地域防災計画に教訓を反映させようと行政職員による検証に取り組んでいるが、踏み込んだ検証は簡単ではないという。

 住民752人が犠牲になった岩手県山田町は11年5月に、アンケートで被災時の居場所や避難行動を尋ねるにとどまっている。担当者は検証の必要性は理解しつつ、「被災者の暮らしも気持ちも落ち着かず、聞き取りは難しい」。

 検証作業では、犠牲者が逃げ遅れた状況なども調査項目になるため、遺族らにとってはつらい作業を強いることになる。ある自治体担当者は「『検証よりもほかにやることがある』と被災者に言われたことがある」と打ち明ける。

 除染や健康被害対策など原発事故の対応に追われる福島県相馬市は「検証よりも住民の健康を守ることや復興に力を注ぐ方が優先順位が高い」と話す。(岩井建樹)

 ■専門家「教訓導き出して」

 検証委員会が設置されても十分な調査をするのは難しい。専門家たちは検証開始が遅れてしまうことや、客観性をどう担保するかなどの課題を指摘する。

 避難行動に詳しい群馬大の金井昌信准教授は「復興で多忙な今、検証が後回しになるのはやむを得ない。ただ時間がたつほど記憶は都合よく修正される恐れがあり、早いほうがいい。検証では責任追及を求められがちだが、大切なのは第三者の視点から教訓を導き出すことだ」という。

 文部科学省主導で設置された、宮城県石巻市の大川小学校の検証委で委員長を務めた室崎益輝・神戸大名誉教授は「証言の信用性や委員の中立性をどう担保するかなどをめぐり、混乱が起きている」と指摘。「自然災害でも航空機事故のような原因検証の枠組みを決めておく必要がある」と提言する。(杉村和将)


毎日新聞
明日を育む:東日本大震災3年/3 苦境の父子家庭を支援 制度の欠陥訴え、子育て環境改善図る−−宮城

 「妻じゃなくて、おれが死ねばよかった。そうすれば行政の支援も受けられて、子どもたちが家事に困ることもなかったのに」

 宮城県父子の会代表、村上吉宣さん(34)は、東日本大震災の後に同県石巻市の男性から届いた訴えが忘れられない。

 男性は津波で妻と家を失い、仕事も解雇された。高校生と中学生の計3人の子どもを抱え、途方に暮れた。生活を立て直すために公的な経済援助を受けようと市役所に遺族年金を申請したところ、父子家庭は支給対象でないことを告げられた。

 「お子さんも、父親と生計を別にしなくては、支給対象になりません」

 子育て中の家庭で片方の親を失った時、困窮するのは母子家庭だけ−−。男性が遺族年金を受けられない背景には、長年の社会的通念が生んだ制度の欠陥があった。男性の訴えには悲しみと怒りが入り交じっていた。

    ◇

 津波と地震で、両親あるいは一方の親を失った18歳未満の子どもは約1700人。うち、母親を失い父子家庭となった子どもは約600人いる。

 妻の存在なしに仕事と育児を両立する男性は、社会的に多数派ではない。しかし、震災は確実にそんな家庭を生み出した。震災直後から電話相談などを行っていた村上さんのところには、家計や家事を支えていた妻に加えて家や仕事を失い、幼い子や障害児を抱えて生活と仕事の両立にもがく父親たちの困惑の声が、次々と集まっていた。

 「子育てしながら働きやすい社会になってほしい」。村上さんは、支援制度から孤立しがちな父と子らのために活動を続けている。

 遺族年金の問題だけではない。就労のための技能習得支援や雇用開発助成金も当初、父親は対象ではなかった。村上さんが理事を務める全国父子家庭支援連絡会(片山知行代表)は、ファザーリングジャパン(吉田大樹代表)と協力し、死別の父子家庭に対する支援拡充を国に求める意見書を提出するよう、全国の地方議会に働きかけた。4月から、母子家庭のみだった遺族基礎年金が、父子家庭にも支給されることになった。

    ◇

 村上さん自身も約10年前からシングルファーザー。12歳の長男と11歳の長女がいる。早朝に2人の子どもを起こし、宿題をやり終えているか確認。前日に用意しておいた朝食を済ませ、午前8時までに出社する。帰宅は午後8時ごろだ。

 長男は血液のがんで3度の入退院を経験し、一時はつきっきりの看護が必要だった。残業や出張に応じることのできない子どもたちの生活リズムの中で職を探すのは容易ではなく、自信を失いかけたことも。生活保護に頼る時期もあったが、長男の健康回復で昨年秋に保護を外れた。

 震災の時、村上さんは幸い被害には遭わなかった。だが、津波でめちゃくちゃになった港や街を見て、震災で多くの父子家庭が生まれ、困難や孤立に直面するだろうことが、すぐに予測できた。「将来、別の災害で同様の苦しみを味わう父子家庭が出てこないとも限らない」。その思いが、村上さんを支援活動に走らせる。

 だが、制度改革だけで父子家庭を守るのは難しい。価値観の変革が必要だと感じる。

 「子育ては女性が担い、男性は外で働いた収入で評価されるもの」という考えは、日本社会にいまだに根強く、男性が「父親」として育つ機会は少ない。父親の定時退社などに対する職場の理解は進んだとはいえず、多くの父親が「貧困か、仕事か」という選択を前に、仕事を選んで育児放棄に陥ってしまう。

 だが村上さんは言う。「お父さんたちのプレゼンテーション能力や企画力はすごい。何かあった時に自分たちが守られる環境作りに、その力を結集しない手はありません」

 仕事を離れたところで地域社会にかかわることで、父親の孤立を回避することにつながることを、村上さんは期待している。

    ◇

 「イクメン(育児をする男性)が注目されることはいいことだけど、平時に子育てできていることが、リスクマネジメントにつながります」

 被災地の父子家庭を含む父親支援を行っている埼玉県新座市のNPO法人「新座子育てネットワーク」の佐野育子さんは、言葉をかみしめるように話す。

 同ネットは母親の子育て支援を中心に活動していたが、2004年から父親を対象としたプログラムも始めた。震災半年後の11年9月、日本ユニセフ協会の委託を受けて、仙台市と石巻市で父子家庭を含む父親支援をスタート。その後、活動の幅を宮城、岩手、福島の3県に拡大した。

 同ネットは「パパと子どもの暮らしガイド」というパンフレットを作製したほか、「お父さん支援員」を養成し、育児講座や交流会などを開いて父親を支援している。つらい体験をした子どもが行動や体調で発するサインの読み取り方や、年齢に応じた対処の仕方を解説したり、保育所の優先入所といった行政の支援事業の情報を提供したりと、子育ての基本的なノウハウを伝授している。

 活動の中で、東北ならではの「多世代家族」が、家事や育児を妻や祖父母任せにでき、結果として家事や子育てができる父親が育たない一因となっていることも分かってきた。佐野さんは「子育てのために職場を変わったり、子どもの進学のために経済的な課題に悩んだりする父親の姿が見えてきた。全国どこでも起こり得る課題として、被災地を支えていかなくては」と表情を引き締める。【山崎明子】


毎日新聞
東日本大震災3年:高齢者見回り続ける66歳 孤独、分かるから 娘と離別、津波で兄失い「これが生きがい」

 東日本大震災後、孤独死を防ごうと高齢者宅の見回りを続ける一人に、宮城県山元町の仮設住宅で独居生活を送る鈴木勝雄さん(66)がいる。使命感を支えるのは、27年前に離婚で生き別れ、どこで暮らしているかも分からない娘2人の存在だ。「駄目なおやじだった。でも、今は一生懸命生きてんぞ」。そう娘たちに伝えたい。【鈴木理之】

 昨年12月17日の夜。6畳一間の仮設住宅で2人の姿を思い浮かべた。この日は長女の39回目の誕生日。次女も11日後に37歳になる。

 かつて家族が暮らした自宅は津波で全壊した。アルバムをしまっていた金庫は見つかったが、海水に洗われた写真は真っ白で、娘たちの姿が消えていた。「幸せに暮らしているだろうか」。2人を思うと、切なくなる。

 6人兄弟の末っ子として山元町の漁師町に生まれた。地元の工業高校を卒業後に上京し、大手電機メーカーの工場で働いた。大卒者が追い越していくのに嫌気がさし、25歳で退職。この工場で知り合った女性と古里に戻り結婚した。

 転職して長距離トラックの運転手に。家族サービスの時間は作れず、学校行事は運動会に1度参加したくらい。家族のすれ違いが重なり、離婚時の娘は中学1年と小学5年。荷造りする2人に「親の身勝手でごめん」と話しかけたのが最後だった。行き先は九州としか分からなかった。

 寝付けない日々が続き、1年後、トラックを運転していると、目的地と逆方向を走っていた。うつ病と診断された。頼れるのは、近くに暮らす兄正一さん(震災時84歳)だけ。落ち込んだ様子の鈴木さんを見ると「また子どものことを考えているのか」といたわってくれた。その兄は震災で津波に流され、約1カ月後にがれきの下から遺体で見つかった。

 仮設住宅「中山熊野堂住宅団地」に暮らしていた2012年6月、被災者と自治体を橋渡しする「行政連絡員」になった。「孤独な自分だからこそ1人暮らしの高齢者の孤独が痛いほど分かる」と引き受けた。104世帯209人(13年12月末現在)が暮らし、毎日見回るのは10世帯。チャイムを押して「変わりねえか」と話しかける。

 鈴木さんは今も、うつ病と闘い、睡眠導入剤を服用しないと眠れない。起床は午前6時。レトルトご飯を温め、インスタントのみそ汁に湯をそそぎ、食後に朝の見回りに向かう。もし許されるなら、娘たちに言いたいことがある。「この仕事はおれの生きがいだ。この姿を見てほしい」と。


産経
死者は1万5884人 警察庁「今後も捜索継続」

 東日本大震災から3年を迎えるのを前に、警察庁は6日、今年2月末時点での被害状況をまとめた。震災による死者は全国で1万5884人、行方不明者は2636人に上る。

 岩手、宮城、福島の被災3県では、これまでに収容された遺体の99.4%にあたる1万5716体の身元を確認、今後は身元不明となっている残る98体の確認を進める。

 警察当局は、行方不明者の捜索に延べ約53万人を投入。警察庁幹部は「今後も収容された遺体の身元確認と、不明者の捜索を続けていく」としている。

フランス語
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宅急便の受け取りで朝ダラダラ/夜は寒い

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0311_Kandenmae

S'il y avait eu plus de choix, j'y serais peut-être allé plus souvent !
もし,もっと選択肢があったなら,たぶんもっとそこに行っていたのに!

宅急便の受け取りが午前中なので朝はダラダラしてしまいました.昨夜夜更かしをしてしまったこともあり9時過ぎまで起きれませんでした.11時頃無事に荷物が届き,それから仕事に出かけました.小雨なのがイヤですが,仕方ありません.
夕方は寒いです.図書館で本を借りて,部屋ではどてらを着てコンカの本を読みました.

3.11原発ゼロ◎再稼働反対大抗議@大阪・関電本店前


BS世界のドキュメンタリー「パレスチナ 国家承認への道」(後編)
長引くパレスチナ問題の解決策として、パレスチナとイスラエル「二国家共存」が模索されている。2012年11月の国連総会で「国連のオブザーバー国」として承認されたパレスチナだが、正式な加盟国ではなく国家として認められてはいない。番組は、「国家承認」への闘いの先頭に立ったパレスチナ暫定自治政府の首相だったサラム・ファイヤドに密着。イスラエル国内や海外でも高まる「国家承認」支持の動きを取材した。(後編)

毎日新聞
明日を信じ短歌詠む…息子、夫失った79歳

 <湯豆腐に息子を思い夫を恋(こ)う>−−。失意の底で浮かんだ言葉が心の支えになった。東日本大震災の津波に息子を奪われ、後を追うように夫にも先立たれた岩手県大槌町の小畑幸子(さちこ)さん(79)。その後は短歌で心の移ろいを詠み続け、650首を超えた。「泣いたり笑ったり、山あり谷ありが人生がんす」【狩野智彦】

 あの日、小畑さんと夫の士(つかさ)さん(当時81歳)は、山あいにいて無事だったが、町中心部の自宅にいた長男の剛(たけし)さん(同49歳)は津波で行方不明になった。安置所で息子と再会したのは3カ月後。両足が欠け、骨つぼが軽かった。

 当時、夫は「俺が捜す」と浸水区域を回って何度も転び、脊髄(せきずい)を傷つけ入院していた。息子が見つかったと伝えると「そうか」。食が落ち始め、1カ月後に息を引き取った。

 心配をかけまいと夫に言えなかったことがあった。乳がんだった。夫の死後に行った手術は成功したが体重は一時10キロ以上落ちた。

 気持ちが沈んでいた2011年12月、ふと2人が好きだった「湯豆腐」の句が浮かんだ。30年以上前から日記をつけていたが、俳句も短歌も詠んだことがない。「歌なら、こまこま書かなくてもいい」。思いつくまま短歌作りを始めた。

 当初、短歌で夫と息子の姿を描き、生きた証しを残そうと思っていた。しかし、実際に作ってみると、喪失感や悲しみをテーマにしたものが多かった。

 <雨戸開け霧の深さにおどろきぬ 震災当時の我が心の如(ごと)く>

 一人残された自宅のベッドに入り、小畑さんは枕元に置いたチラシの裏で文を練った。

 転機があったのは13年正月。新築した自宅の椅子から落ち左足を骨折し、近くの病院に入院した。1年半にわたり一人暮らしを続け他人との会話が減っていた。しかし、病院には話し相手が多く、自然と笑顔が多くなった。

 同年2月7日の<今日よりは明日はきっと良くなると 信じて生きねば道は開けず>という歌は初めて前向きな内容だった。

 以後、自分を励ますような歌も増えた。

 <いつまでも涙流すは女女しいと 我にむち打ち盆支度する>

 小畑さんは涙を拭きながら言う。「浮世の裏も表も見たような気がんす。歌でも詠んで楽しまないとす、生きていけないなす。よく『1人で寂しくないの?』って聞かれるけんど、こんなもんでねえか。私ば(か)りでねえ」

 <なやみなき人生等は無きものと 割り切る事もいつか身につき>。地元では、小畑さんの歌を出版しようという声があるという。

朝日新聞
(東日本大震災3年:3)原発 事故原因、なぞのまま 津波か地震か、分かれる見方

 東京電力福島第一原発で事故はなぜ起きたのか。多くはなぞのままだ。原因究明には何十年もかかる。

 事故は津波によって引き起こされたのか、あるいは地震の揺れによるものか。政府や東電の事故調査委員会は津波が原因としているのに対し、国会事故調は一部地震説をとる。津波は国の想定をはるかに超えたが、地震の揺れは一部の場所で想定を若干超えたものの、ほぼ想定の範囲内だった。どちらが事故の原因かは、原発の安全対策の是非、東電や国の責任問題にかかわる。

 そうしたことから、原子力規制委員会と東電が、それぞれ調査を続けている。焦点になっているのは、事故時に作業員が目撃した1号機の非常用復水器(IC)付近での出水だ。国会事故調は、地震の揺れが原因でICの配管が破損して水漏れを起こし、原子炉の冷却が十分にできなくなった可能性があると指摘する。

 規制委は昨年5月、現場を調査。出水はICの破損によるものではなく、使用済み燃料プールの水が地震の揺れによってあふれてダクトに入り込み、それが漏れ出たとの見方を示した。東電も同じ見方を示すが、決着はしていない。

 原子力規制庁の小坂淳彦・地域原子力規制総括調整官は「思ったより壊れていないと感じた。しかし、さらに調査が必要だ」と話す。

 津波が原発に到達した時刻についても議論がある。国会事故調は1号機では津波が到達する前に一部の非常用ディーゼル発電機が止まったとし、地震の揺れによる破損の可能性を指摘している。

 そもそも、大きな津波の「第2波」が到達したとされていた、午後3時35分は原発の沖合1・5キロに置かれた波高計での記録だ。国会事故調は、敷地に津波が到達したのは午後3時37分以降で、非常用ディーゼル発電が止まって電源を喪失した後だとみている。

 これに対し、東電は昨年10月、新たな見解を示した。

 津波の写真と電源に関するデータを改めて解析。カメラに内蔵された時計の時刻が6分半ほどずれていたとし、津波の到達時刻は非常用ディーゼル発電機が止まるのとほぼ同時刻の午後3時36分と判断。発電機が止まった原因は津波による浸水と結論づけている。

 ■相次ぐ炉心溶融、防げたのか

 福島第一原発事故では3基の原発が相次いで炉心溶融事故を起こした。運転員や発電所長らの判断が的確で、適切に対処していれば、相次ぐ炉心溶融は防ぐことができたのか。

 政府事故調が指摘するのは、3号機の緊急炉心冷却装置の一つ、高圧注水系(HPCI)に関する操作だ。運転員は通常と異なる状況から故障を恐れて、現場の判断で3月13日午前2時42分に装置を止めた。しかし、その後HPCIを再び起動しようとしたが動かなかった。

 政府事故調は、代替注水の手段を確保せずに止めたため、7時間近く原子炉への注水が止まり、炉心溶融が進んだと指摘した。また、消防車による代替注水の作業も遅れていたことも問題視した。

 しかし、東電は昨年12月に従来の見解を覆す解析結果を打ち出した。HPCIによる原子炉への注水量はこれまで想定していたよりも少なく、原子炉の水位も想定よりも前に下がっていて、炉心溶融も進んでいたという。

 つまり、HPCIの停止操作の有無にかかわらず、炉心溶融は防げなかった可能性が高いとするのが東電の考えだ。

 さらに、冷却装置停止後の消防車による原子炉への代替注水も十分ではなかったとする見方も示した。

 東電は冷却装置が止まった後、消防車のポンプを原子炉建屋の消火用配管につなぎ、原子炉に水を送り込んだ。しかし、途中で枝分かれした配管から、一部が原子炉に届かずに復水器に流れ込んだとしている。事故当時、東電はそうしたことに考えが至らなかったという。

 日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)元研究主幹の田辺文也さんは「消防車による給水の不備は大きな問題だが、そもそも事故発生直後から、冷却装置に替わる原子炉内に注水できる態勢を整えるべきだった。そうすれば、爆発事故の連鎖を断ち切ることができたはずだ」と話している。

 (波多野陽、編集委員・服部尚)

 ■史上最悪のレベル7

 2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生し、想定を大幅に超える高さ11.5〜15.5メートルの津波が福島第一原発を襲った。各号機で相次いで電源が失われ原子炉の冷却ができない状態に陥った。

 その後、消防車を使った原子炉への注水に手間取り、全6基のうち運転中だった1、2、3号機は原子炉の燃料が溶けるメルトダウン事故を起こした。さらに、原子炉の圧力を下げるための排気(ベント)もなかなかうまくいかず、原子炉圧力容器や格納容器が破損。大量の放射性物質が大気中にまき散らされた。

 さらに、1、3号機は燃料が溶けることで発生した水素が原子炉建屋に充満して、爆発事故を起こした。定期検査で停止中だった4号機も建屋が爆発。3号機で発生した水素が回り込んだとみられる。1986年に起きた旧ソ連のチェルノブイリ原発事故と並び、国際原子力事象評価尺度(INES)で最悪のレベル7という、世界的にみても最も深刻な原発事故となった。

 事故調査は、東電のほか政府、国会、民間組織、学会など様々な機関や団体が取り組み、報告書を出した。しかし、事故で計器が壊れたり、放射線量が高くて現在も原子炉に近寄ることができなかったりして、正確なデータが得られていない。このため、なお未解明な部分が多い。現在、東電と原子力規制委員会が継続して、調査を進めている。東電は50件の未確認・未解明事象があるとし、優先順位が高いと判断したものは2年以内に結論を出すという。


朝日新聞
震災記録映画「ガレキとラジオ」でやらせ ラジオ聴くふり

 東日本大震災の被災地、宮城県南三陸町のラジオ局に密着したドキュメンタリー映画「ガレキとラジオ」に、「やらせ」があったことが分かった。娘と孫を津波で失った女性がラジオに励まされる場面が描かれるが、実際はラジオを聴いていなかった。女性は制作者の求めに応じて演技をしてしまったことに罪悪感を抱き、苦しんでいる。

 映画は大手広告会社の博報堂が企画制作。同社社員の梅村太郎氏が監督し、俳優の役所広司氏がナレーションを担当した。震災直後に開局した臨時災害ラジオ局のスタッフと、放送で元気づけられる被災者らを描いた。

 関係者によると、やらせを強いられたのは同町の仮設住宅に暮らす70代の女性。梅村監督らに対し、女性は当初、出演を断ったが、撮影班が何度か訪ねるうちに承諾したという。数回目の撮影中、女性はラジオを聴くよう求められた。普段聴いていないことを伝えたが、撮影班は「聴いてるふりをしてください」と指示したという。

 だが、この仮設周辺は災害ラジオ局の電波が届いていなかった。ラジカセを撮影班が用意し、地元中学生の合唱のCDを聴かされた。撮影中にラジオを聴く機会はなかったという。

 さらに撮影班はせりふを細かく指示。「いつも聴いている」「音がないと寂しい」などと言わせたという。

 映画は2013年春から秋まで全国25館で公開され、その後も市民らの自主上映会が50カ所以上で続く。女性は映画が評判になるにつれて罪悪感を覚えるようになり、「映画を見た人に申し訳ない」と話しているという。

 梅村監督は朝日新聞の取材に、女性宅ではラジオの電波が入らないことや、撮影班がラジカセを持ち込んだことを認め、「(ラジオ放送として)CDで聴いてもらう演出はした。ラジオとの接点がゼロではないと思った」と説明した。

 博報堂の藤井慶太広報グループマネジャーは「監督は女性のことをあくまでもラジオのリスナーと考えて撮影していたと認識している」と話した。(伊藤喜之、高津祐典)

 ■朝日新聞も紹介

 朝日新聞は「ガレキとラジオ」と梅村監督について夕刊や地域面で紹介した。昨年1月8日付夕刊の記事の中で梅村監督は「被災地の記憶を『再生の記録』として残したい」などと撮影の動機を語り、「町の人にこの映画を受け止めてもらえたことで、自分自身も救われた」と述べていた。

 ■演出範囲超えている

 <ノンフィクション作家の吉岡忍さんの話> 実際にラジオを聞いていなかった人にCDで聞かせていたというのは、ドラマとしては成立するが、ドキュメンタリーではない。間違いなく演出の範囲を超えており、許されることではない。ラジオに励まされる被災者を作ってしまったのだろう。「ドキュメンタリータッチ」などとする必要があったと思う。


毎日新聞
震災からの復興 地域主導を支える時だ

 東日本大震災の津波被災で1100人を超す犠牲者を出し、住民の集団移転を進める宮城県東松島市。同市野蒜(のびる)地区の丘陵で宅地造成の際にできる大量の土砂を海沿いまで運ぶ全長1.2キロの巨大ベルトコンベヤーが今年から稼働している。

 トラックで土砂を運んだ場合、4年近い年月を要するというのが市の試算だった。それでは計画自体が破綻してしまうと阿部秀保市長らが国にかけ合い、70億円の工費で設置した。震災前約4万3000人だった人口は流出もあり、約3000人減った。寒風と重機音の中、搬出した土砂が山を築く光景は復興の「時間との闘い」を象徴している。
 ◇厳しい時間との闘い

 震災発生からまもなく3年、今なお全体で26万7000人が避難生活を強いられ、このうち10万人はプレハブ仮設住宅の暮らしが続く。自宅を再建できた被災者はまだ、ごく一部である。

 津波対策の切り札とされる集団移転は震災5年にあたる2016年3月になっても岩手、宮城両県で宅地供給が済むのはなお半分程度だ。同時点で賃貸形式の復興住宅の供給すら8割程度にとどまる。住宅、雇用など暮らし再建の展望が開けないことが被災者にとって一番つらい。この1年で被災3県の集団移転計画が全体の約2割にあたる約5800戸縮小したのも、多くの人が故郷での自宅再建をあきらめざるを得なかった厳しい現実の表れだろう。

 安倍内閣や与野党が「復興の加速」を本気で目指すのであれば、避けられない二つの政治的な課題を特に指摘したい。

 ひとつは移転用地の買収に手間取る自治体の窮状の打開だ。岩手県大槌町など用地の複雑な権利関係が障壁となり、取得作業が滞る自治体がなお少なくない。

 復興庁は要員の支援や手続きの簡素化で対処しているが、関係自治体には土地収用の特別措置法制定を求める声が強い。私有財産権との兼ね合いもあり行政が動きにくい領域だけに、必要ならば早急に議員立法による対処を政党が判断すべきだ。

 もうひとつは被災地で深刻化する資材などの工費高騰や建設業界の人手不足への対応である。

 安倍内閣の下で全国的に公共事業が活発化、復興事業の落札業者が決まらず入札不調に終わるケースが目立っている。アベノミクスによる経済政策や東京五輪開催に向けた建設需要が復興の妨げとなりかねない。工費の算定基準見直しや、外国人労働者の短期的な活用を求める議論も出始めている。復興需要への対応策を急がねばならない。

 さまざまな困難に直面しながらも再建への取り組みは進んでいる。東松島市の場合、震災前からあった地域の自治組織が参加して数カ所の移転候補地を選び、移転先の住民予定者による協議会を主体にまちづくりプランが練られている。

 そのうち「東矢本駅北団地」の協議会では宅地の割りふりをはじめ、町並みや新自治会のルールなども移転を予定する人たちが相談しながら決めている。団地や併設する復興住宅でペットを飼えるよう、ルール作りも手がけている。根気のいる作業だが協議会長の小野竹一さん(66)は「100%でなくとも70、80%はみんなが満足できるようにしたい。日本一の団地にしたい」と意気込みを語る。
 ◇「日本の課題」の縮図

 国が自治体に、自治体が住民に計画づくりを委ね、支え役に回るのが地域主導のサイクルだ。だが、その歯車はなかなかかみ合わない。

 宮城県山元町の場合、公共交通や都市機能が整った内陸部に津波の被災集落を再編、集中する「コンパクトシティー」構想を町は主導する。だが、もとの居住地近くでの移転を望む被災者らは生活環境を無視した方針だと反発、対立を生んでいる。

 国からの復興交付金も復興庁が他の自治体との横並びにこだわるため「使い勝手が悪い」との声がなお、被災自治体から聞かれる。日々変化するニーズに対応するには首長が必要と判断したものは原則として交付を認めるくらいの信頼がないと、地域主導は実現しまい。

 国が担うべき役割も次第に変わる。政府は震災発生から5年間を集中復興期間と定め、19兆円だった復興費総額は25兆円に拡大された。だが、今後比重を増すのはハードからソフトに軸足を移した再生支援だ。

 津波で浸水した跡地の有効利用、農水産業の再生や雇用確保などに民間企業やNPOも含めた協力がこれからはますます大切になる。復興庁は大手企業と地元企業をつなぐ場を考えるなどしているが、取り組みはまだ不足している。中央官庁のタテ割りを超え、一体的支援を展開できるか真価が問われよう。

 高齢化が進み、人口が減る中で地域のコミュニティーを保ち、雇用や暮らしをどう守っていくのか。被災地の課題は日本の多くの地域が共通に抱える課題でもある。

 だからこそ、復興の行方は明日の社会を映す鏡なのだ。被災地の挑戦がとても大事な局面を迎えるいま、行政のみならず私たち一人一人がこれを支える思いを新たにしたい。


東京新聞
夜行バス事故 防止策は十分だったか

 またも高速バスの死傷事故が起こった。関越自動車道のツアーバス事故を教訓に、制度改正や基準強化による安全策は採られたが、運転手の健康管理を含め、再発防止の取り組みに終わりはない。

 富山県小矢部市の北陸自動車道サービスエリア(SA)内で夜行バスが駐車中のトラック二台に激突、バス運転手と乗客の計二人が死亡した。現場にブレーキ痕はなく、SA手前でガードレールに二度も接触していた。県警では運転手が事故直前に意識を失っていた疑いもあるとみて、遺体を司法解剖して調べている。

 高速夜行バス事故で記憶に新しいのは一昨年四月、群馬県藤岡市の関越自動車道で金沢発のツアーバスが防音壁に激突し、石川、富山県の乗客七人が死亡、三十八人が重軽傷を負った大惨事。運転手の居眠りが原因とみられ、睡眠時無呼吸症候群(SAS)を患っていたことが分かった。

 国土交通省は居眠りや過労による事故を防ぐため、昨年八月から一日当たりの夜間運転を原則四百キロ、高速道路の連続運転をおおむね二時間などに制限し、交代要員の配置基準を強化した。

 さらに旅行会社が貸し切りバス会社に運行委託するツアーバスを廃止、安全規制が厳しい乗り合いバスに運行形態を一本化した。

 以来、業界の安全意識は神経質なほど高まったという。しかし、惨事はまたも起きた。安全に絶対はない。事故原因を徹底究明し、再発防止へ向けて国も事業者も対策を考えてもらいたい。

 事故を起こしたバス会社は宮城県内最大手。事故後の同省特別監査では明らかな法令違反は見つからなかった。死亡した運転手は、昨年十月に同社が自主的に行ったSASの簡易検査で要経過観察と判定されたが、産業医は「業務に支障ない」と判断した。

 なぜ意識を失ったのか、捜査の焦点はここに絞られる。人命を預かる運転業務者にSAS検査を義務づけ、少しでも疑いのある要経過観察者には精密検査を受けさせる必要はないのか。さらに産業医の判断に基準のようなものがいるのか、検討すべき課題だ。

 同省は今年十一月以降に生産される総重量十二トン超の大型バスに、衝突しそうになると自動でブレーキがかかる装置の設置を義務付ける。販売済みの車種は三年後の生産分から適用される。

 バス事故は大惨事につながりかねない。ハード、ソフト両面から事故防止を追究してもらいたい。


朝日新聞
ウクライナ危機―孤立の愚 ロシアは悟れ

 「21世紀の欧州で起きた最大の危機である」。混迷を深めるウクライナの首都を訪れた英国外相はそう語った。

 ウクライナ南部のクリミア半島でのロシアの軍事行動が、情勢を一層緊迫させている。

 黒海艦隊の部隊は半島をほぼ制圧した。ウクライナ東部へも軍事展開しかねず、国際社会は「信じられない侵略行為」(米政府)と非難している。

 ロシアは、このまま強硬策を続け、世界から孤立する道へ突き進むつもりなのか。プーチン大統領は一刻も早く、軍を撤収させる決断をすべきである。

 ロシアは、ウクライナ国内のロシア系住民の保護を軍事行動の主な名目にしている。

 だが、半島でも、ほかのウクライナ領でも、ロシア系住民が迫害された事態は見られない。ロシアの駐留部隊への攻撃も起きていない。

 現実には、ロシアが親欧米派のウクライナ新政権に武力で圧力をかけているのが実態だ。

 米国と欧州連合(EU)は、独立国の主権や領土保全を侵す行為は国際法違反とし、ロシアへの制裁に向け動いている。

 渡航の制限だけでなく、資産凍結や貿易・投資の規制などの経済制裁が実施されれば、ロシア経済に打撃となる。

 安全保障でも今後の米欧との軍事交流は期待できなくなる。ロシアが警戒する西側の軍事組織、北大西洋条約機構(NATO)は、ウクライナ情勢を受けて対応を検討し始めた。

 プーチン氏は、ロシアにとっての真の国益を真剣に考えるべきだ。冷戦時代さながらに周辺国の領土に踏み入るのは時代錯誤というほかない。

 近年の国連でのシリアやイラン問題などの論議でも、ロシアは国家主権の尊重をかねて唱えてきた。その理屈を自ら捨て去る愚挙はやめるべきだ。

 米欧側は、EUや欧州安保協力機構(OSCE)を挙げてロシアへの説得を強めねばなるまい。国連とOSCEが合同で取り組む当事者の仲介も、早急に実現するべきだ。

 日本政府も「すべての当事者の最大限の自制」(菅官房長官)を求めており、冬季五輪の開催地ソチで6月に開く主要国首脳会議(G8サミット)の準備活動を停止した。

 だが、米欧と比べてロシア批判のトーンは明らかに弱い。

 安倍首相は就任以来、プーチン氏と5回も会談し、「個人的信頼関係を深めた」と強調してきたはずだ。ならばこの危機にこそ、積極的な平和外交の役割を探るべきではないか。


毎日新聞
PC遠隔操作事件:片山被告保釈 会見で無罪訴え

 パソコン(PC)の遠隔操作事件で、東京高裁(三好幹夫裁判長)は5日、威力業務妨害罪などに問われた元IT関連会社社員、片山祐輔被告(31)の保釈を認めた。同日夜、東京拘置所から出た片山被告は東京都内で記者会見し「(真犯人に)早く出てきてほしい。自首してほしい」と改めて無罪を訴えた。

 昨年2月の逮捕から1年1カ月にわたって身柄拘束が続いた片山被告は「疲れ果てた」と述べ、東京地裁で公判中の事件については「(自分のPCも)遠隔操作された可能性が高い」と主張した。

 片山被告の保釈を巡っては、高裁が4日に「証拠隠滅を図る余地は大きくない」として保釈を許可し、片山被告側は保釈保証金1000万円を即日納付した。検察側の申し立てを受けた高裁はいったん保釈の執行を停止したが、5日になってこれ以上の勾留をしないと判断した。【山本将克】


朝日新聞
戦争参加、許さない 作家ら「1000人委員会」発足

 解釈改憲によって日本を戦争に参加できる国にしようとする動きを止めようと呼びかけ、憲法学者や作家らが4日、「戦争をさせない1000人委員会」を発足させた。安倍政権の解釈改憲による集団的自衛権行使容認の阻止をめざし、全国に賛同人を募る。

 4日は国会内で発起人らが発足集会や記者会見を開いた。憲法学者の奥平康弘・東京大名誉教授は「内閣の解釈だけで憲法9条をないがしろにできる解釈改憲を阻止しなければならない」と呼びかけた。

 作家の佐高信さんは「集団的自衛権を容認すれば、日本の『自衛』は他の国も守る『他衛』に変わり、米国の戦争に参加する義務を負う」と指摘。作家の落合恵子さんは「日本は世界の平和に貢献する国となるべきなのに、武器を輸出し戦争ができる国になろうとしている」と話した。憲法学者の高良鉄美・琉球大教授は「沖縄の戦争体験者には『戦争に向かっているきな臭い状況』に見える」と語った。

 多くの賛同を集めたいと、「1000人委員会」と名づけた。発起人16人の訴えに賛同し、俳優の菅原文太さんや作家の赤川次郎さん、作詞家の湯川れい子さんら83人が呼びかけ人に名を連ねた。10日夕に東京・神田駿河台の連合会館で実行委員会を、20日夕には東京・日比谷公園の野外音楽堂で「出発集会」を開く予定。問い合わせは、事務局の電話(03・5289・8222)か、ウェブ(http://anti-war.info)。(北野隆一)

フランス語
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ネパールカレーが激辛/manju de feuilletage

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140309_Osaka
Amour
Les célibataires pourront envisager une amélioration de leurs relations amoureuses si elles laissent à désirer, à condition qu'ils s'en donnent la peine. Si vous analysez bien la cause de vos déboires sentimentaux, vous vous rendrez compte que, en vous révoltant à la moindre contrainte et en n'ayant pour règle de conduite que vos caprices personnels, vous finirez par lasser vos partenaires. Si vous êtes marié, vous vous consacrerez avant tout à votre famille au détriment peut-être de votre vie conjugale, qui sera cette fois sans grand relief.
Yahoo.frのHoroscopeを見ました.

さよなら原発 3.9 関西行動のチケットです.定員700人で666番てことは,ほぼ満員ということかな??

しのに行った後,森小路のネパールカレーのお店に.激辛カレーをたのんだのですが,本当に辛いです.

夕方,中津で猛毒PCB調査を求めるビラをもらいました.北区中津連合振興町会のビラです.
施主や工事業者らが猛毒PCBについて,住民説明会で嘘をつき,住民運動を抑圧しようとする理由はどこにあるのか!?
住民の健康より企業の利益優先ということでしょう.原発再稼働を狙う電力会社と同じです.

夕方の妙では新宿中村屋のうすあわせ・さつまいもをいただきました.フランス語でmanju de feuilletageと書いてありました.feuilletageはパイ生地の折り込み.


BS世界のドキュメンタリー「パレスチナ 国家承認への道」(前編)


長引くパレスチナ問題の解決策として、パレスチナとイスラエル「二国家共存」が模索されている。2012年11月の国連総会で「国連のオブザーバー国」として承認されたパレスチナだが、正式な加盟国ではなく国家として認められてはいない。番組は、「国家承認」への闘いの先頭に立ったパレスチナ暫定自治政府の首相だったサラム・ファイヤドに密着。イスラエル国内や海外でも高まる「国家承認」支持の動きを取材した。(前編)


朝日新聞
(東日本大震災3年:2)産業 沿岸部、いびつな回復 震災前後の活動を分析

 あのとき、工場や店は津波で流され、企業の活動は止まった。いま痛手からの回復は進んだのだろうか。

 ■企業業績、頼みの綱は公共事業

 朝日新聞社が、民間の信用調査会社「帝国データバンク」の協力の下、同社が持つ企業データを使って被災地企業の現状を分析した。岩手、宮城、福島3県の沿岸自治体に本社がある約2万7千社が対象だ。

 全体として見えてきたのは、回復は「地域」や「業種」によって、ばらつきが目立つということだ。

 まず、企業の震災前(2010年度)と震災後(12年度)の売上高を比べた。合計では、約22兆円から約26兆円と、約4兆円(17%)増えた。自治体(市と郡)別に見ると、増えたのが20自治体。逆に減った自治体は5だった。

 減り方が目立つのは、事故を起こした東京電力福島第一原発(福島県大熊町、双葉町)がある双葉郡だ。住民が自宅に帰れず震災前の生活ができない地域を抱えているため、企業は活動を再開できず、震災前の1割ほどに売り上げが低迷している。全村避難を強いられた飯舘村がある相馬郡も、売り上げの回復は8割に届いていない。

 そのほかの地域は、震災前と比べて売り上げが伸びたところが多い。仙台市や福島県いわき市など、もともと街の規模が大きく企業活動が活発だったところやその周辺ほど、回復も早いようだ。「同じ沿岸部といっても、地域でばらつきが出ている状況は、直近でも変わっていない」(帝国データバンク)という。

 ただ、企業活動の回復を業種別に細かく見ると、公共事業に支えられた「いびつな回復」の姿が見えてくる。仙台市など一部の都市を除けば、構図は同じだ。

 「奇跡の一本松」で知られる岩手県陸前高田市。企業の売上高は震災前と比べて35%増えた。

 ただ、それを支えているのは圧倒的に公共事業だ。12年度の建設業の売上高は、震災前の10年度の3倍の213億円。一方で、製造業は3割減の37億円と減少が止まらず、「卸売り・小売業、飲食店」や「サービス業」も震災前の水準に戻っていない。陸前高田市では、道路の復旧などに加えて、より大規模な住宅地のかさ上げ事業などが今後、本格化する。「これから数年がピーク」(市の担当者)。ピークが過ぎた後、地域を支える産業はデータからは見えない。

 仙台市の南にある名取市の企業の売上高は、震災前と比べて2倍以上になった。仙台のベッドタウンで、人口増加率も仙台に次いで県内2位だ。自宅を無くした沿岸部の人たちが、名取に移っている。工業団地には震災後、物流会社などが進出を決めている。ただ市商工会の担当者は、「基幹産業だった水産関連の売り上げは震災前の半分程度までしか戻っていない。復興事業で建設関連などが伸びているのだろう」という。

 ■宮城・水産加工の街 落ち込みから復調の兆し

 水産加工業の街として知られる宮城県石巻市と気仙沼市。データをみると、震災後の落ち込みから回復しつつある姿が浮かび上がる。取引先数と取引高(推計)のデータを分析した。

 石巻市に本社がある漁業・水産加工業は約60社。これらの会社が取引(仕入れ・販売)する会社は、10年は186社あった。震災後はやや減ったが、12年には172社まで戻っている。帝国データバンクの推計取引高(仕入れ額と販売額の合計)は、震災前の10年(148億円)より、12年(150億円)の方が多かった。

 気仙沼市の約50社の取引先は、10年の141社から12年は124社になった。取引高は150億円超あったが、12年は121億円。石巻よりも規模の小さい企業が多いことが、回復が遅れている要因とみられる。

 震災で多くの加工場が被災し、生産が止まった。生産停止が長引けば、取引の打ち切り、それによる水産加工業の衰退も懸念された。ただ早期復旧に向けた関係者の努力や、取引先との信頼関係が、それを食い止めたといえそうだ。

 企業活動は復活しつつある。だが、企業が今後も存続していくには、後継者が必要だ。社長の年齢と後継者がいるかどうかを、全国と石巻・気仙沼の水産加工業で比べた。

 社長の年齢は、全国、石巻・気仙沼とも60代が最多で、50代がそれに続く。その比率に大きな違いはない。違いは後継者の有無に出た。石巻・気仙沼は、50歳未満の経営者の約半分が、そして50代は5割、60代で3割の経営者が「後継者がいない」「決まっていない」と答えた。全国よりも明らかに比率が高い。

 石巻市水産加工業協同組合の須田耕一郎参事は、「原発事故に絡む風評被害で、特に西日本方面で東北の魚を敬遠する動きがある」という。

 国内の人口は減少傾向が続き、若い世代ほど魚を食べなくなってきた。そして経営者は、震災で苦しい思いもした。「先がみえないのなら、自分の代で終わりにしよう、ということではないか」

 (上地兼太郎)

 ■気仙沼・つくだ煮店 「津波に負けない」仮設工場新設

 気仙沼港の周りは、いまも骨組みや基礎部分だけになった住宅や店舗が残る。

 そこに、小さなプレハブの仮設工場がある。全国屈指の水揚げ量を誇る、気仙沼のサンマやカキを材料にしたつくだ煮をつくる「ケイ」だ。菅原義子社長(74)のほか、夫の啓さん(78)や、近所から通う50〜70代の女性ら総勢8人の会社だ。

 震災の日、工場を兼ねた築50年近い3階建ての自宅は6メートルを超える津波に襲われ2階すれすれまで水につかった。幸い、自分たちは3階に逃れ、助かった。ただ、亡くなった親族もいる。つらい気持ちはあった。でも「津波に負けたくない」。工場は壊れたが、つくだ煮用の鍋が残っていた。夏には駐車場だった場所に仮設工場を建てた。

 「家内制手工業みたいなものだから、すぐ再開できた」。最初の年の売上高は震災前の半分だったが、次第に新しいお客さんも増え、13年9月期は震災前の1・5倍に。今はカキのつくだ煮づくりの真っ最中だ。

 義子さんは毎朝5時に起き、6時から仕込みを始める。「後を継いで、やりたいと言ってくれる若い人がいれば良いんだけど。つくだ煮でお金を稼ぐのは大変だしねえ……」

 息子と娘はそれぞれ、東京と気仙沼で別の仕事をしている。いま店を構えている場所も、防潮堤や道路などをつくる構想があり、数年以内に立ち退きを迫られる可能性があるという。

 ■石巻・水産加工会社 父誇りの会社、次男「後を継ぐ」

 石巻市の中心部から北東に約20キロ。上雄勝地区の「マルカ高橋水産」は、北海道や三陸の港から魚介類を集荷し、業務用に加工して卸すのが仕事だ。売上高は最盛期で年13億円ほどあり、地域では有数の水産加工会社だ。

 あの日、工場は津波で流失。不自由な仮設工場暮らしを経て、昨年11月、ようやく新工場が完成した。

 大阪や神戸などが主な取引先だ。震災後も、取引を切られることはなかった。高橋貞社長(60)は「ウチほど良い素材をたくさん集められるところは他にはない、という自負がある」と、自信満々だ。

 だが、生産はいま、震災前の6割。新工場は完成したが、生産設備や、それを動かす人が足りない。

 従業員は40人いたが、今は23人。「家が流され、遠くに引っ越ししなきゃならなくて、通えなくなった。仙台や東京へ出て行ってしまった若者が、もう戻ろうとしない」

 工場の設備を増やしたいが、資金がない。金融機関の融資態度は硬い。消費者は魚を食べなくなった。高橋社長も「日本中で魚が余っている。立ちゆかなくなる業者がどんどん出てくるだろう」。水産加工業の先行きは、明るくない。

 それでも、東京で会社勤めの次男(26)が後を継ぐという。震災後「家業にとらわれず、自由にしていい」と言った。「そしたら『やりたい』とね。うれしいよ」。従業員のため、家族のため、いまはひたすら前に進むだけだ。

 ■地域担うハブ企業支援を

 企業の売上高や取引といった大量の情報「ビッグデータ」を使い、被災地の企業の現状をみた。まだまだ苦しんでいる企業も多いが、震災に負けず業績を伸ばしている企業もある。

 大事だと感じたのは、企業の「取引の価値」だ。個人とは違い、企業は、信用をベースに取引関係をつくり、ビジネスに役立てている。津波に襲われた沿岸部では建物などに大きな被害が出ている一方、取引関係というパイプが生きている。このパイプを強化すれば、地域経済が動き出す可能性がある。

 取引の流れには、要となるいくつかの「ハブ(中核)企業」がある。この企業を活性化すれば、全体の取引量が増える。ハブ企業を助ける政策が、苦闘する地域の経済を支える一手になるのではないか。

 たとえば、水産業。東京や大阪など大きな市場と取引しているハブ企業をまず選び出し、取引を活性化して売り上げが増えるような支援策をやる。このハブ企業の売り上げが増えれば、仕入れ先である漁業や包装会社、運送業者といった、取り巻く全体の動きが盛んになる。今後は、地域にどういう取引の流れがあるかを知ることで、ハブ企業を通じた産業支援ができるのではないだろうか。

 (帝国データバンク産業調査部・北村慎也課長補佐)


毎日新聞
記者の目:東日本大震災3年 心のケア、正念場=久木田照子(仙台支局)

 ◇支援システム、息長く

 東日本大震災から3年を機に、「被災者の心の傷の影響がこれから本格的に出てくる」と心配する声が、現地で活動する心のケアの専門家の間に広がっている。復興の差が目に見える形で現れ、「取り残されていく」と感じる被災者が増えるからだ。国は被災地に「心のケアセンター」を設置しているが、一人でも多くの被災者が将来に希望を持って踏み出せるよう、さらにきめ細かな対策を求めたい。

 「朝からお酒を飲んでしまう被災者に、どう対応すればよいか」。仙台市の「みやぎ心のケアセンター」には、仮設住宅を訪ねる生活支援相談員などから、多量飲酒の相談が多く寄せられる。「嗜好(しこう)品のお酒をやめられない、意志が弱い人の自己責任の問題」と決めつけないでほしい。過酷な体験や、生活ストレスからの苦しみを誰かに相談できず、孤独を感じている人の「心の悲鳴」は多量飲酒として表れやすい。1995年の阪神大震災でも、多量飲酒に続く孤独死が問題になった。治療を受けても4割が再発するともいわれ、専門医らの適切な治療や、自助グループへの参加を続けることが重要だ。
 ◇アルコール依存、増加する被災地

 東日本大震災の被災地でも、アルコール依存症と診断される患者が増加している。宮城県で唯一の専門病棟がある東北会病院(仙台市)の調査では、震災前の3年間は年平均271人だった宮城県内の新規のアルコール依存症患者が、2011年度は293人、12年度は344人と増加し、13年度は過去最多ペースだ。甚大な津波被害を受けた気仙沼市や石巻市などの沿岸部で特に増加傾向が目立つ。

 「一人でいると震災を思い出して、酒に安らぎを求めた。寂しいんだよね」と言うのは、同病院で治療を受ける元漁師の男性(62)。震災前は南三陸町で1人暮らしし、友人とお酒を飲むのが好きだった。震災で高台に避難した際、自宅や近所の家々、人が津波で流される光景を見た。内陸部の仮設住宅でも1人で暮らしたが、震災の記憶に苦しんだ。近所の声や足音が気になり、夜は深く眠れない。悩みから逃れるように毎日飲み歩き、焼酎をロックであおり、一升瓶を空けた。泥酔状態での暴言が原因で親族との付き合いは途絶えた。手が震えて幻覚も見た。保健師の勧めで12年10月に同病院に入院した時は、「助けてけろ」とすがる思いだった。

 患者の多くは男性で、「震災後に家族を捜し歩いた時や、仕事中に見た遺体の姿が頭から離れずに眠れず、酒量が増えた」「仮設暮らしが続くと思うと、全てを消し去りたくなった」などの経験を聞いた。別の調査では沿岸部の住民の喫煙率や、仮設住宅に住む女性の睡眠薬の使用頻度が高い傾向も出ている。人の死、家族との断絶、失業、被災後の生活再建の難しさなどの苦しみが酒などに向かわせる。
 ◇センターの運営、継続確約されず

 国は岩手、宮城、福島の3県に復興予算で地域拠点「心のケアセンター」を設置し、被災者の相談を受けたり、保健師らに研修をしたりしている。具体的には国が3県のセンター運営費などに年間計18億円(14年度予算案)を補助し、県が精神保健福祉協会や大学に運営委託している。宮城県では仙台、石巻、気仙沼の3市の拠点で、精神科医や臨床心理士などの専門家66人を常勤・非常勤で雇用。常勤職員の4割近くが「専門分野で被災者の力になりたい」と県外の職場を退職して赴任し、被災地を回っている。

 問題は、現在のような被災者の心のケアが、いつまで行われるか分からない点だ。宮城県の心のケアセンターは20年度までの県復興計画に基づき設置されたが、運営費は国負担で、継続は確約されていない。予算が1年単位のため、職員も単年度採用だ。県外の専門家からは、「不安定な態勢で長期的に支援ができるか見通しがつかず、応募に踏み切れない」(30代臨床心理士)との声も聞こえる。

 私は昨年3月まで関西で勤務し、阪神大震災の被災者を取材していた。「なぜ大切な家族や友人が命を失い、自身は生かされたのか」「死者への思いを抱えながら、どう生きていくべきか」。19年経た今も大勢の人が心の傷に向き合い「格闘」している。東日本大震災の多くの被災者も、同じように心の葛藤を抱えながら生きていく。阪神大震災を機に進んだ心のケアの取り組みが、東日本大震災でさらに拡充されることを願う。


毎日新聞
わが子よ:東日本大震災3年 続く葛藤、海と向き合う

 福島県富岡町で長女の柑那(かんな)ちゃん(当時1歳半)が行方不明の石井宏和さん(37)。

 福島第1原発から約10キロ南の富岡港で釣り船業を営んでいた。地震が起き、船を沖に出し守ったが、津波被害は想像を超えていた。代々恩恵を受けてきた海に大切な人を奪われ、原発事故が起きた。

 家族を守れなかった情けなさに「何もかもが嫌になった」が、山積する課題を前に海を離れられなかった。「自分たちの世代があきらめれば、福島の海は終わる」

 汚染水の海洋流出などが試験操業に水を差す。「船を守ったことは何だったのか」。葛藤するが屈することはできない。自ら地元漁協の支所長となり格闘している。【写真・文 森田剛史】


毎日新聞
わが子よ:東日本大震災3年 お兄ちゃんはいたんだよ

 宮城県東松島市で長男の佑哉君(当時2歳)を失った佐藤美貴子さん(36)。

 重機が家の土台を壊していく。昨年6月、佐藤さんは震災後に生まれた長女の百華(ももか)ちゃん(1歳5カ月)を抱きしめ、わが子が最後にいた実家跡を目に焼き付けた。がれき撤去が終わった周辺の更地では、隣家との境目さえ分からなくなった。

 最近佐藤さんは、佑哉君をよく知る人からでさえ「『2人目』はどうするの?」と聞かれる。兄がいたのに−−。津波の爪痕が消える「復興」は、人々の記憶まで風化させるのか。

 「思いを寄せられる家も集落も、何事もなかったかのように忘れられるのが怖い」。百華ちゃんには「お兄ちゃんがいなくても、いたんだ」と伝えたい。【森田剛史】


毎日新聞
大震災3年:今も自問自答「あの避難は…」大槌小の元校長

 岩手県大槌町にあった旧町立大槌小(統合により閉校)では東日本大震災で児童3人が津波の犠牲になった。当時校長だった小野寺美恵子さん(60)=現・同県釜石市立栗林小校長=は今も、あの時の避難対応が正しかったのかどうか、自問自答を繰り返している。発生3年を迎える今月、38年間の教員生活を終える。「苦しみは続くかもしれないが、今後も震災と向き合って生きていきたい」

 震災で旧大槌小では2年の女児、5年と4年の兄妹が亡くなった。小野寺さんが思い浮かべるのは保護者への引き渡しの場面だ。

 当時、同小には児童283人と教職員19人がいた。揺れが収まり、校庭に出ると防災無線が流れたが、サイレンの音にかき消され、聞こえるのは「大津波警報」という言葉だけ。学校にやって来た保護者に向け、小野寺さんはハンドマイクで「必ず上に上がってくださいね」と叫んだ。各担任は児童名簿をチェックしながら、児童を保護者に引き渡した。

 それ以外の児童を引率して同小(標高約4メートル)から約200メートル離れた同町中央公民館の第1駐車場(標高約30メートル)へ向かった。児童を引き渡された保護者の大半も行動を共にし、最終的にはさらに高台へ避難。だが、中には別行動を取った保護者もいた。亡くなった2組の親子も、車で他の家族を迎えに行くなどして津波にのまれたとみられる。

 「あの時、『自分に任せてください』と言っていたら」。そう思うことがたびたびある。「その一言で子どもだけでも救えたかも」「信頼関係を築けていなかったから従ってくれなかったのではないか」「他の人が大槌小の校長だったら3人は救えたんじゃないか」。そんな思いが頭を行き来した。

 震災から1年たったころ、学校を訪ねてきた兄妹の遺族に「犠牲を無駄にしてほしくない」と言われ「もちろんです」と答えた。現在の学校に移ってからも月1回は避難した高台まで足を運び、「3・11」を思い起こす。旧大槌小に津波が来襲し、校庭に止まっていた車がぐるぐる回るのが見え、児童の悲鳴と泣き声が響いた場所だ。

 退職が目前に迫る。あの時の行動に対する答えも、これからどんな活動をしていくかも見えてはいないが、はっきりしていることがある。「体験を次世代に語り継ぐことは、自分の退職後の責務です」【後藤豪】


毎日新聞
東日本大震災3年:流された母の「生きろ」胸に 心の痛み見つめたい 引きこもって逝った弟思い

 東日本大震災の津波で弟と母を亡くした岩手県陸前高田市の団体職員、佐々木陽一さん(33)が被災者の心のケアにあたる精神保健福祉士の取得を目指している。体調がすぐれず部屋に引きこもったままだった弟、一緒に逃げたがわずかの差で生死が分かれた母、自身もトタン屋根の上で17時間漂流した。「せっかくの命。誰かのために役立てたい」と誓う。【鈴木一生】

 あの日、突然襲った激しい揺れ。小学校の非常勤講師だった佐々木さんは市街地の自宅にいた。「巨大な津波が来ると直感した」

 2階にあった弟仁也(じんや)さん(当時28歳)の部屋の前で、母みき子さん(当時57歳)が「早く逃げて」と扉越しに声をかけていた。それでも開かない扉のそばに、米10キロと炊飯器、ジュース24缶とスナック菓子を佐々木さんは置いた。「2階まで波がこないでくれ」と祈って。

 ごう音とともに黒い波が道路を駆け上がって来る。佐々木さんは「逃げろ」と叫び、近くの高台へ。走って来たみき子さんを引き上げた瞬間、自宅は流れた。仁也さんの姿は見えないままだった。

 水塊はなお迫る。近くの市営球場まで流された佐々木さんとみき子さんは何とか内野スタンドに上がった。「もう駄目だ」と弱音を吐く佐々木さんを、みき子さんは励ました。「せっかく助かったんだ。生きろ」

 佐々木さんが流れて来たトタン屋根に乗った瞬間、急に水位が上がり、スタンドのみき子さんは沈んでいく。浮き上がった佐々木さんは、母に声をかける間もなかった。翌朝、東に約4キロ離れた海岸に一人流れ着いた。

 佐々木さんは震災後、父善仁(よしひと)さん(63)と、知人の紹介してくれた会社の保養所を借り暮らす。善仁さんは高台にある小学校の校長で無事だった。非常勤講師の任期を終え社会福祉の研修・啓発施設で働いている。

 亡き弟の心境に徐々に思いを寄せるようになったのは最近だ。中学時代から引きこもりがちだった仁也さんに「働かないで将来どうするつもりだ」と口にしたこともあった。「普段から、もっと相談に乗ってやれていたら。人には言えない心の葛藤があったのでは……」と悔やむ。

 精神保健福祉士の勉強を昨春始めた。「あんな体験をした自分だからこそ、震災で傷ついた人の心のケアができるのではないか」と考えた。生活や勉強で大変な時は母を思う。

 「『生きろ』っていう最期の言葉を思い出すんです」


毎日新聞
東日本大震災:女川サプリメント解体 津波で倒壊「ずっと忘れずに」 /宮城

 東日本大震災の津波で倒壊した女川町女川浜の薬局「女川サプリメント」の解体工事が3日、始まった。同町中心部に横倒しになったままの姿をさらし、津波の威力を伝えてきた同町の三つのビルの一つが姿を消す。

 女川サプリメントは鉄筋コンクリート造り4階建てで、高さ約17メートルの津波の引き波に襲われて横倒しとなった。建物内には今も赤色の乗用車や木材などのがれきが取り残されたままとなっている。

 午前9時、作業員7人がパワーショベルやクレーンなど重機3台を使って1階床部分のコンクリートを切り取って外す作業を開始。取り除いた、鉄筋むき出しのコンクリート片を、ダンプカーで次々と搬出した。

 初めて被災地を訪れたという大阪府高槻市の自営業、出口武智郎(ふじお)さん(55)は近くの高台から解体工事を見守り、「解体されても、横倒しになった建物があったことをずっと忘れずにいたい」と話した。

 町は三つのビルについて、津波を後世に伝える震災遺構の候補として保存を検討していたが、昨年11月、女川サプリメントと、離島・江島の宿泊施設だった「江島共済会館」を解体し、旧女川交番だけを保存することを決めた。女川漁港に面する女川サプリメントは、県の護岸工事に支障を来すとされた。解体工事は28日まで。跡地周辺は約1メートル土盛りされる予定。【近藤綾加】

産経
【語る 大震災3年】 「1日だけでも憂えることを肯定しよう」 仙台在住の作家、伊集院静さん(64)

 ソチ五輪で羽生結弦(はにゅう・ゆづる)君が金メダルを取って帰国早々、報奨金を被災地に寄付したいと言った。東北の人たちは私を含めて大変うれしかった。若い人たちが震災を忘れないでいてくれて、公の場でそう言ってくれたことに対し、3月11日を前に「ありがとう」といいたい。

 彼も「3・11」に仙台で被災して、「もうスケートはできない」と多分泣いたと思うんだ。それを頑張って活躍してくれたことは、東北の今いる子供たちにも大変な勇気になった。

 昨年暮れ、2カ所の避難所を回った。震災から3年を迎える前に、明るい人もいるけれど、年寄りに少しあきらめているというムードがあった。しようがない。家族が亡くなっているんだからね。

 今高い場所へ新しい家をと行政はいう。でも、家族を失ってたった一人の人が残ったお金で高台の家を建てるはずもない。彼ら、彼女たちがそのわずかなお金を何に使いたいかといったら、自分の孫や誰かのために使いたいと思うんだ。それは、日本人の死生観の表れだから。自分だけがいいという発想はしていないから、高台移転はなかなか進みにくい。それができやすいような対策を取るしかないんだ。

 「3・11」で1年に1回、亡くなった人に哀悼の意を表したり、震災を思いだしたりする。私はそれでいいと思う。1年に1回だけ思いだすだけでも、それは実に意義深いことだ。

 日本には表には出ないけれど、援助している人が今もたくさんいる。なぜその人たちは支援を続けるのか。ほとんどの人たちが一回被災地に行っているからなんだ。一回被災地へ行けば、必ず何かをしなければいけないという使命感と連帯感ができる。

 だから、「3・11」が近づいて、それを思うということは非常に素晴らしい。「その日ぐらいしか思わないのよね」という気持ちを否定的に考えないで肯定的に取るべきなんだ。それは当たり前のことなんだってね。

 被災地にまだ行っていない人には、政府なり県が何かツアーみたいなものを組んで、「これが災害で被災することだ」ということを実際に見せることが大事だろうと思う。

     



 ■いじゅういん・しずか 昭和25年、山口県防府市生まれ。立教大学文学部卒。56年に「皐月」で作家デビュー。平成4年に「受け月」で直木賞、6年に「機関車先生」で柴田錬三郎賞、14年に「ごろごろ」で吉川英治文学賞を受賞した。近著に「いねむり先生」「ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石」など。仙台市在住。東日本大震災では自宅が半壊した。


朝日新聞
(東日本大震災3年)汚染水対応「評価せず」83% 福島県民共同世論調査

 東日本大震災の発生と福島第一原発事故から3年になるのを前に、朝日新聞社は福島放送と共同で、福島県民を対象にした世論調査(電話)を行った。国や東京電力の汚染水問題の対応について「評価しない」と答えた人は8割を超えた。国や自治体の除染作業についても「評価しない」は6割を占めた。

 調査は1、2日に実施した。事故の半年後、1年後、2年後にも同様の調査をしている。

 原発事故へのこれまでの政府の対応について聞いたところ、「評価する」は11%で、「評価しない」は74%にのぼった。昨年3月の調査では17%対73%で、県民の政府に対する視線は依然として厳しいといえる。

 今回の調査で初めて、具体的に汚染水問題の対応について質問したところ、「評価する」は8%で、「評価しない」は83%だった。特に中学生以下の子どもがいる人では「評価しない」は90%に達した。

 除染作業については、「大いに」「ある程度」を合わせた「評価する」は36%で、「あまり」「まったく」を合わせた「評価しない」は62%だった。

 人が住んでいる地域について、費用や時間がかかっても、政府目標の年間放射線量1ミリシーベルトまで除染する必要があるかどうか尋ねたところ、「必要がある」は63%で、「その必要はない」の27%を大きく上回った。30〜50代の女性では「必要がある」は7〜8割にのぼった。

 政府は、除染で出た廃棄物などを福島県内に設ける中間貯蔵施設に保存した後、30年以内に県外へ移す計画を立てている。この約束が守られると思うかどうか聞いたところ、「大いに」「ある程度」を合わせた「そう思う」は9%にとどまり、「あまり」「まったく」を合わせた「そう思わない」は87%を占めた。


朝日新聞
(鎮魂を歩く 再会:1)頑張りてえ、誰かのために 岩手県山田町 東日本大震災

 ■戻ると家族は消えていた。漁師ひとり――

 居酒屋のカウンターで首にタオルをかけた五十嵐康裕さん(50)は、陽気に話し続けた。「山田のみこしは最高なんだ。9月の祭りで復活するがらな」

 津波のあと殺風景なままの町なかに、ぽつんとある「復興食堂やまだ駅」。

 夜は更け、客が一人また一人と帰っていく。飲み始めて3時間を過ぎ、巡る話題はいつしか震災に行き着いた。「わらしには、つらいごど楽しいごど、いっぺえさせでがったんだ」

 店主の斉藤秀喜さん(56)が言った。「若(わげ)えころに悪いごどしたからこうなったんだ、おれが殺したようなもんだ、なんて言うわげよ。ばがなごど言うなって、なんぼ言ってもよ」。張り付いたように動かない眉。グラスを握る分厚い手。五十嵐さんは焼酎の湯割りをぐいぐいのどに流し込んでいった。

     *

 五十嵐さんと会うのは、震災の年の7月以来だ。

 あの地震の直後、五十嵐さんは海に向かった。雇われ船頭を務める15トンのタラ漁船を沖へ逃がすためだ。家を女に任せ、男は生きる糧を守る。漁師の鉄則に従って2日後に戻ると、家は跡形もなく、父と母、妻と2人の子も消えていた。毎朝、海に近い自宅跡に茶わんを五つ並べ、両手を合わせていた。

 あのあと五十嵐さんは、沖に逃がした漁船を買い取り、船主になった。

     *

 「裕正(ゆうせい)丸」という名は、長女の裕妃(ゆうき)ちゃん(当時3)、長男の裕大(ゆうた)君(同2)、妻の正子(まさこ)さん(同41)から取った。絶対に津波の来ない山の上に家も建て直した。

 3人の遺体は見つからず、半年ほど遺体安置所を捜し回った。いまは仏壇の周りを写真で埋め、ときおり眺めるだけにしている。

 五十嵐さんを伝えた震災の年の記事をきっかけに、映画監督が五十嵐さんを取材し、ドキュメンタリー映画を作ったという。居間のテレビでDVDを見せてもらった。

 タラ漁再開を目指す姿をカメラは淡々と追う。

 「3歳、2歳だもんねえ。ほんとにかわいそうなごどしたよねえ。おやじが甲斐性(かいしょう)なしだと、こんなもんだよねえ」

 映画の五十嵐さんが言い、ソファの五十嵐さんは、すん、と軽く鼻をすすった。視線は画面に焦点を結んでいるのか、その先を漂っているのか。家族の思い出を振り返る場面になると、「コーヒー飲むが?」と席を立った。

 「かさぶたの上の平穏」。私はメモ帳に書き留めておいた言葉を持ち出した。復興食堂のカウンターで隣り合った、10年近い知人だという若い地元紙記者が口にしていた。

 んだなあ。

 一呼吸置き、五十嵐さんは続けた。

 この傷は、一生治んねんだべなあ。

 画面の五十嵐さんが漁に出て、映画は終わりに近づいていった。ソファに寝転がっていた五十嵐さんがふいに、「おれは再生するんだ」と言った。

 子ども、1人でいいがら欲しいんだよな。あいづらのごどは忘れようったって忘れられるもんじゃねえ。ただ、自分のためでねくてだれかのために頑張りてえんだ。それだげなんだ。

 涙も笑みもないままに、そう言った。

 また来いと上げる右手に見送られ、表に出た。ドアの横の表札にも、1階のガラス窓にも、トラックの荷台にも、「裕正丸」の3文字が記されていた。(松川敦志)

     ◇

 東日本大震災の直後、被災地を記者が訪れ、身近な人をなくした人々の思いを連載「鎮魂を歩く」でつづった。震災から3年。同じ記者が、かつてたどった地を再び歩く。


毎日新聞
東日本大震災3年:兄を見つけたい 茨城最後の不明者 弟「自分の中で終わらない」 40年間一緒に漁

 茨城県警などは4日、東日本大震災で茨城県内最後の行方不明者となっている北茨城市大津町、漁師、村山正一さん(当時62歳)を再捜索した。村山さんは大津漁港で津波にのまれ、行方が分からなくなった。約40年にわたり「兄弟船」に乗ってきた弟辰男さん(61)は「ずっと心に穴が開いたままだった。兄が見つからないと、自分の中で震災は終わらない」と話している。

 村山さんは、7人兄妹の長男。漁師だった父の背中を追い、中学校卒業後、すぐに船に乗った。4歳年下の次男辰男さんも漁師となり、父が亡くなってからは、2人で「第7辰巳丸」を操業してきた。

 漁師仲間によると、村山さんは震災発生後に大津漁港で「船が転覆しないよう、沖合に出してくる」と言っていた。辰男さんは「漁師にとって船は家より大事。絶対に守らなければならないと思ったのだろう」と推し量る。

 震災から1カ月間、港を毎日歩いて兄を捜した。陸に打ち上げられて無事だった船も「一人では回しきれない」と売り払った。「海に放り投げられたら生きている可能性は限りなくゼロ。海で生きてきたから分かる」。気持ちの整理を付けるため、葬式も行った。

 今も兄の笑顔が思い浮かぶ。「大漁のときは日本酒を飲みながら喜んでいた。本当に海が好きだった」。村山さんの一斉捜索は4回目。この日は午前10時から警察官や消防隊員ら約80人が集まり、村山さんが行方不明になった大津漁港付近を捜索。一部はゴムボートで海に出て海中に潜った。

 少し離れた場所で、様子を見守った辰男さん。「何か兄につながるものが見つかってほしい」と望みを託した。【土江洋範】


毎日新聞
ウクライナ緊迫 ロシア軍は介入やめよ

 ロシアのプーチン大統領がウクライナへの軍事介入方針を打ち出し、ウクライナ南部のクリミア半島をロシア軍とみられる部隊がほぼ掌握したと伝えられる。国家主権を侵害する武力行使は国際法違反である。ロシアは速やかに軍事介入を中止してほしい。

 クリミア半島は1954年、いずれもソ連の構成国だったロシア共和国からウクライナ共和国に移管された。ソ連崩壊後はウクライナの統治下に入ったが、ロシア系住民が6割を占める。旧ソ連軍から継承したロシア軍黒海艦隊の基地があり、ウクライナ政府との協定で敷地を貸与されている。

 ロシアは、ウクライナの首都キエフでの政変後、クリミアの多数派ロシア系住民が保護を求めたことや、ロシア軍基地の安全確保を軍事介入の理由に挙げているが、説得力は乏しい。クリミアでロシア系住民と先住民族のタタール系住民との衝突などで緊張が高まったのは事実だが、ウクライナの軍や武装勢力が行動を起こした形跡はない。

 ウクライナでは、ロシア寄りのヤヌコビッチ前政権に反発し、欧州連合(EU)への仲間入りを求めてデモを展開していた旧野党勢力が政権を奪取した。ロシア政府はこの政変を非合法として認めず、デモ隊側を支援してきた欧米諸国を批判している。政変後の政権に、ロシアに敵対的で、武力衝突を指揮したウクライナ民族主義の過激派勢力が参画していることも危険視している。

 ウクライナの政権には、こうした懸念も理解し、強硬策に訴えない自制を求めたい。ウクライナ語とともにロシア語も公用語として認めていた法律の復活など、ロシア系住民の保護を約束する必要がある。

 ロシアは2008年のグルジア紛争で、ロシア国籍を取得していた南オセチア住民の保護を理由に武力介入し、南オセチアの独立を承認したうえでロシア軍を常駐させた。クリミアでも住民によるロシア国籍取得の動きが伝えられ、ロシアが軍事介入を正当化して勢力圏の拡大を図っているという危惧もぬぐえない。

 オバマ米大統領がロシアへの経済制裁の可能性を示唆するなど、欧米は強く反発している。ロシアを除く日米など主要7カ国は、冬季五輪が開かれたロシア南部ソチで6月に予定される首脳会議(G8サミット)の準備活動を凍結すると警告した。

 北方領土問題の解決に向け、ロシアとの信頼関係確立を目指している日本は難しい立場にあるが、領土主権の帰属問題を武力で思い通りにしないという国際法の原則に立ち、軍事介入をやめるようロシアに自制を求めていくべきだ。


東京新聞
汚染水漏出 「管理下」に大きな疑問

 福島第一原発で、また高濃度の放射能汚染水があふれ出た。配管系の故障なのか、人為的な事故なのかも定かでない。敷地の外へは出ていないというものの、「管理下」というには程遠い。

 とても危険な状態だ。

 放射性物質の濃度が極めて高い汚染水が、また、タンクの外にこぼれ出た。

 漏れ出た量は約百トン。一リットル当たり二億四〇〇〇万ベクレルのストロンチウム90などが検出された。原発外に放出できる上限の八百万倍の濃度だ。

 謎めいた出来事だ。配管を通して移送される汚染水が、間違って満杯に近い別のタンクに注入されてしまったのだという。

 途中に取り付けられた三つの弁が、なぜかすべて開かれており、問題が発覚した後、うち一つが閉じた状態に戻っていた。操作ミスか、それとも故意か。わかっていない。

 水位の高さを知らせる警報は鳴ったが、九時間以上、放置されていた。何のための警報か。

 弁の操作ミスに原因不明の故障、その上ずさんな管理体制が重なった三重のトラブルだとすれば、これは深刻な事件である。

 一日四百トンという地下水の流入は止まらない。

 敷地内には、膨大な汚染水をため込んだ約千基のタンクが立ち並ぶ。そして増えていく。つまり、危険の程度は増していく。作業員の疲労は募るばかりだろう。四十年とされる長い廃炉への工程は、まだ緒についたとも言えない状況なのにである。

 トリチウム(三重水素)以外の放射性物質を取り除くことができるという「多核種除去設備(ALPS)」も、先月末に水を送るポンプが故障を起こすなどトラブルが相次いでおり、試運転の域を出ていない。

 安倍晋三首相は施政方針演説で、対策には「国が前面に立つ」と約束した。しかし、事態は悪くなっている。とても「アンダーコントロール(管理下)」とは言い難い。

 作業態勢の見直しや、見回りの強化は当然必要だ。だが最優先するべきは、持てる技術を総動員して、一日も早く根本治療を図ること、地下水の流入を食い止めることではなかったか。

 水回りの管理すらおぼつかない政府と電力会社。これが「国策」だと胸を張れるのだろうか。とてもじゃないが、再稼働を急ぐ資格はない。


朝日新聞
原発と政治―このまま「安全宣言」か

 新たな「安全神話」が形づくられようとしていないか。

 安倍政権が示したエネルギー基本計画案に、原発再稼働の手順が示された。

 安全性は原子力規制委員会の専門的判断に委ねる。規制委が新規制基準に適合していると認めた原発は再稼働を進める。国は立地自治体などの理解と協力を得られるよう前面に立つ。

 要するに、規制委の基準に適合した原発は国が全力で支援して動かすというわけだ。

 安倍首相は参院予算委員会で「世界で最も厳しい基準で安全だと判断されたものは再稼働していきたい」と述べ、閣僚らからも規制委の判断を「安全宣言」とみなす発言が相次ぐ。

 だが規制委の田中俊一委員長は「私どもは絶対安全とかそういうことは申し上げていない」「お墨付きを与えるためにやっている意識はない」という。

 確認しておきたい。新しい規制基準は原発事故以前よりもずっと厳しいが、万全ではない。

 たとえば、放射能が原発敷地外に放散した場合には周辺住民の避難が必要だが、規制基準に避難計画は入っていない。具体的な計画づくりと実施は、自治体や国の仕事になっている。規制委が基準適合を判断したからといって、住民の安全が保証されるわけではない。

 人口密集地に近い東海第二(茨城県)、浜岡(静岡県)の両原発や、県庁所在地にある島根原発についても、電力事業者は再稼働をめざしている。防災計画の策定が義務づけられた30キロ圏内の人口は、東海第二が98万人、浜岡では86万人、島根で47万人にのぼる。

 格納容器が破損する事態となれば、25時間以内に30キロ圏内の避難が必要という試算もある。津波や地震を伴う複合災害となれば、道路の寸断や大渋滞も起きるだろう。そうした中で、これだけの人を被曝(ひばく)させずに避難させることができるのか。

 日常を砕かれる住民への賠償の仕組みが全く不備だったことも、福島での事故で明らかになった。日本最大だった東京電力ですら支払いは不安だらけだ。他の事業者ならなお困難なのに、新たな仕組みも詰めないまま見切り発車するのか。

 事故の教訓のひとつは、万一に備えることだ。規制委の適合判断でどこまでリスクが減らせるか。それだけでは足りないものは何なのか。

 そこを見極め、国民に正直に説明することが、政治の使命である。規制委の判断をもって、住民を守る安全論議に終止符を打つことではない。

フランス語
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ひなちらし寿司にイチゴムース/庶務課がないです

ブログネタ
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onomichi_ramen_140112

En 2050, nous pourrions habiter sur la lune.
2050年には,ぼくらは月面に住むことができるかもしれない.
On dirait une poupée.
まるでお人形さんのようだ.

尾道ラーメンです.ラーメン自体はあまり好きではないのですが,尾道に行った記念ということでいただきました.

今日はひな祭り.そのせいかバランスランチはひなちらし寿司にイチゴムース.おいしくいただきました.
Wikipédiaにひな祭りがフランス語で説明されています.
Hina matsuri, littéralement ≪ fête des poupées ≫) est une fête qui a lieu au Japon le 3 mars, jour consacré aux petites filles.
Les jours précédant le 3 mars, les petites filles japonaises exposent de précieuses poupées posées sur des petites estrades à plusieurs niveaux. Ces poupées spéciales, qui se transmettent de génération en génération, sont rangées dans un carton tout le reste de l'année. Elles représentent des personnages de la cour impériale de l'ère Heian.

枚方のKiさんから「庶務担当の人からハンコをもらって・・・」と連絡があったのですが,いろいろ調べてみて庶務課がないことに気付きました.代わりに企画課??とりあえず事務室の人にお願いすることにしました.


Orquesta Aragon - Esperanza


フクシマの嘘 其の弐(隠ぺい・詭弁・脅迫)
【日本語字幕版】ドイツ放送局ZDFによるフクシマ3周年のドキュメンタリー番組

【東日本大震災3年 第3部・こころのいま(下)】
「仕事の終わり見通せぬ」 自治体職員の苦悩

 窓口では笑顔で住民に接していても、自宅アパートへ戻ると、ふと遺影に目がとまる。東日本大震災で被災した岩手県釜石市で市役所に勤める金崎紘輔(かねざきこうすけ)主事(28)は、隣の大槌町で実家が津波に流され、父の寿成(としなり)さんと祖母のミキさんを亡くした。63歳と84歳だった。

 「仕事が大変なとき、みんながいたら、なんて声をかけてくれるかなと思うときがある」

 震災の前年、62歳で亡くなった母、恵子さんに「困っている人の役に立つ仕事をしなさい」と言われ、公務員の職を選んだ。震災直後の平成23年4月に入庁、4カ月半避難所を回った。担当していた避難所が移転する際、被災者に「ふざけるな」と怒鳴られたこともあった。

 この3年で仕事にも慣れてきた。税務課で法人市民税の徴収を担当。確定申告の時期のため、2日も日曜日にかかわらず市内を回った。「いつになったら生活が元に戻るんだ」。住民から尋ねられることもある。

 「自分も被災しているからこそ、そう言いたい気持ちは分かる。でも、同僚が復興のために日付が変わるころまで働いていることを知っているし、体調を崩して休職した人もいるとも聞いている」

14%「眠れない」

 総務省によると、岩手、宮城、福島3県の太平洋岸37市町村の正職員数は1万3千人余り。全国の自治体から約1400人が応援で派遣されているが、復興事業が本格化するにつれて仕事が増え、人手は全く足りない。

 町長を含む職員40人が犠牲になった大槌町に、遠野市役所から派遣されている昆(こん)悠一主任(36)は「どれだけ働いても仕事に終わりが見えない。現場はぎりぎりの状況だ」と明かす。

 宮城県石巻市は昨年2月、市職員に健康調査をした。回答者1385人のうち14%に当たる192人が「眠れない」「あまり眠れない」と答えた。体調については「悪い」「あまりよくない」が1割を超えた。

 調査を分析した東北大学の若島孔文(こうぶん)准教授(42)=臨床心理学=は「石巻では業務量が震災前の4倍に増え、ストレスの一因になっている。調査は1年前のものだが、職員が足りない状況は慢性化しており、現時点で大幅に改善しているとは考えにくい」と話す。

当たり前の日常

 福島県南相馬市出身の田中衛さん(54)は昨年3月、東京電力福島第1原発事故後の除染を担う環境省の福島環境再生事務所に課長補佐として転職した。東電の関連会社で技術者として32年間働き、埼玉県蕨(わらび)市から東京へ通った。現在は福島市に単身赴任する。

 実家は南相馬市の「避難指示解除準備区域」にある。定年後に戻るつもりだった実家は津波で流され、両親は無事だったものの一時、仮設住宅で暮らした。

 事務所では、飯舘村を担当し、住民説明会のため仮設住宅を回った。環境省によると、村の住宅除染の完了率は1月末時点で9%。

 「いつになったら始まるんだ」「それで放射線量が下がるのか」。説明会では、ふるさとを思い涙ぐむ中年女性の姿も見た。

 「国の役人は本当に被災者の気持ちが分かるのか」

 自分だってそう思うときがある。国の職員として話す以上、「気持ちは分かります」としか言えない。

 環境省は昨年末、飯舘村の除染について今月末までの完了を断念し、3年遅れるとした。田中さんの仕事の終わりは見通せない。

 「町の中に人の声が聞こえる。そういう当たり前の日常を取り戻したい」

 昨秋、福島市の事務所から車で飯舘へ向かう途中、若い母親が散歩をしていた。彼女の手には、幼子の小さな手が握られていた。


気仙沼女子高:がれき越えて通った3年 最後の18人卒業

 宮城県気仙沼市中心部にある私立気仙沼女子高で3日、卒業式と閉校式があった。定員割れは1990年代から続いていたが、2011年3月の東日本大震災で拍車がかかり、45年の歴史を閉じる。震災翌月に入学し、がれきだらけの道を越えて通った3年生18人は最後の卒業生として復興途上の街から巣立つ。

 卒業式は午前9時半に始まり、生徒会長の菅原綾香さん(18)は「これからの気仙沼の復興を心から願い、卒業生代表の言葉といたします」とあいさつ。菅原さんは「震災があったからこそいろんな人に会えた。この学校に入らなかったら今の自分もない」と話す。

 同校は気仙沼湾の最奥部から約150メートル。3年前の津波で高台にある校舎に被害はなかったが、周辺の建物が流され、一帯はがれきで埋まった。学校の目の前の道路は地盤沈下し、満潮の度に海水をかぶった。電気も水道も止まった。4月下旬に行われた入学式には制服が間に合わず、新入生は私服や中学の制服姿で臨んだ。

 69年に開校し最大600人以上が在籍したが、人口減少で90年代から定員割れ。震災の津波で、通学の足であるJR気仙沼線と大船渡線も被災し、現在の3年生を最後に新入生の募集を打ち切った。

 転校を余儀なくされた生徒も少なくない。その一人、小松由美子さん(18)は自宅が被災、養殖施設を流された父博文さん(43)の仕事の都合で、1年の秋に家族で東京に移った。だが、博文さんがカキ、ホタテの養殖再開にこぎつけ、2年の2学期から戻り、一緒に卒業を迎える。「最初は、がれきが本当になくなるのかなとか、また地震や津波が来るんじゃないかと不安だった」と振り返り、「でも、帰ってきてよかった。東京で十分にできなかった陸上部の活動に打ち込めたのが一番の思い出です」と笑顔を見せた。

 1月、近くにある東陵高に選抜高校野球初出場のニュースが届いた。同じ学校法人が経営する姉妹校で、気仙沼女子の生徒数が少なくなった昨年度からはマラソン大会などの行事を合同で開催してきた。小松さんは「部活を通じて知ってる子もいる。頑張ってほしい」とエールを送る。

 卒業生の多くは進学、就職のため地元を離れ、21日からの大会をそろって観戦する機会はない。栄養士志望の菅原さんは福島県の短大に進学、小松さんは作業療法士を目指して仙台の専門学校に進む。同高の跡地には、災害公営住宅の建設が計画されている。【井田純】




東日本大震災3年:防潮堤近く、同居の母失う 「勘弁してね」言えた 悔恨、自分だけじゃない−−岩手・宮古の田老

 岩手県宮古市田老地区の理容師、三浦岩雄さん(68)は、東日本大震災で母キクさん(当時95歳)を亡くした。地区の防潮堤を過信して津波が来るとは思わなかった三浦さんは、1人で逃げろという母の言葉に仕方なく従い、結果的に置き去りにした。「なぜ自分だけ……」。3年の苦しみの末、やっと少しずつ、胸の中で母と語らえるようになった。

 三浦さんは独身で、1993年に父を亡くしてからはキクさんと2人暮らしだった。キクさんは88歳の頃に階段から転落して骨折し、体の自由がきかないため、三浦さんが食事を作って世話をした。

 震災当日、親子は海から約500メートルの自宅にいた。「絶対に津波が来るから逃げよう」。キクさんが言った。

 田老地区は、明治と昭和の大津波で壊滅的被害を受けた。その後、住民が「万里の長城」と誇った総延長2・4キロ、高さ10メートルの防潮堤が80年に完成。過去の大津波の記憶は風化していった。三浦さんは「防災無線で津波の高さは3メートルと言っている。2階で大丈夫だ」と母をなだめた。

 だが余震は収まらなかった。「お前だけでもいいから助かってくれ」と繰り返す母を落ち着かせるため、「すぐ戻るから」と言い残して約100メートル離れた高台へ1人で行った。十数分後、防潮堤を乗り越えた津波が母を家ごとのみ込んだ。

 「母は何かを覚悟していたのかもしれない」。息子を見送ったキクさんの悲しげな表情が脳裏に残る。

 震災後は仮設住宅で1人暮らしを続ける。酒で気を紛らわすこともあった。夢に何度もキクさんが出てきた。「なんだ、お前も『あたり(脳梗塞(こうそく))』になったのか」。父と同じ病気になったのかと夢の中で気遣われた。「塩分に気をつけなね」。生きていた頃よく言われた言葉だった。

 仮設住宅などで住人たちと話すうち、同じように自分を責めている人が多いことを知った。両親と息子と車で逃げる途中、海の様子を見たくて車を止め、離れた間に3人を津波にさらわれた男性。夫と山に逃げたが、夫だけ家に懐中電灯を取りに戻って犠牲となり、生き残った女性。「自分だけではない」と思えるようになった。

 3年間欠かしていない月命日(11日)の墓参り。1年前は「申し訳ない」の一言しか言えなかった。今年2月には胸の中でこう語りかけながら手を合わせた。「助けられなかったけど、勘弁してね」【後藤豪】


慰霊、14市町が11日に式典 風化防止、初の鎮魂の日

 東日本大震災で多数の犠牲者が出た沿岸14市町は11日、それぞれ追悼式や慰霊祭を開く。震災から丸3年となる11日は、県が昨年4月に条例で定めてから初めての「みやぎ鎮魂の日」。村井嘉浩知事は当日、震災の記憶の風化防止や復興祈念など条例制定の目的を県民に訴える。また、ほとんどの県立学校は、生徒らが慰霊行事に参加しやすいよう休校とし、犠牲者を悼み、防災などを考える日にしたい考えだ。
 各地の式典は表の通り。各会場では、モニターから流れる政府主催の追悼式に合わせ、震災が発生した午後2時46分に黙とうをささげる。村井知事は東松島市主催の慰霊祭に出席し、追悼の辞でみやぎ鎮魂の日の制定目的を伝える。
 沿岸市町のうち式典を開かない松島町は、午後2時46分に開会中の町議会を一時中断し、職員と議員が議事堂で犠牲者の冥福を祈る。
 県などは県庁と大崎、大河原両合同庁舎、最大規模の遺体安置所となった利府町の県総合運動公園(グランディ21)総合体育館に献花台と記帳所を設ける予定。
 内陸部を含む26市町村では、計59の関連行事も催される。石巻市では、震災の拾得物を所有者や遺族に返却するための公開展示会を開催。気仙沼市では、大型サーチライトで3本の光の柱を立ち上げる「3月11日からのヒカリプロジェクト」が行われる。
 県消防課の担当者は「みやぎ鎮魂の日の制定趣旨を理解してもらい、各地で行われる式典や行事に参加して犠牲者に黙とうをささげてほしい」と呼び掛けている。
 県立学校は全92校のうち90校が休校する。登校日とした宮城農高では追悼の全校集会を開く。多賀城高は追悼集会で犠牲者の冥福を祈るとともに、生徒が防災や減災の取り組みを紹介するなどして防災意識を高める。
 小中学校は、石巻市と東松島市が全小中学校を休校とするほか、気仙沼市と南三陸町が午前中のみの授業とする。東松島市教委は、市内の石巻西高でシンポジウムを開催。同校の生徒や中学生らが「被災地から未来地への提言」をテーマに、国内外からの支援に感謝の思いを伝える。



がれき中から発見 思い出の品、最後の展示 石巻

 東日本大震災の被害が広がった宮城県石巻市沿岸部で、がれきの中から見つかった写真など約16万点が、同市河北総合センターで展示されている。11日まで。
 2日は約130人が訪れ、写真や盾、卒業証書など「思い出の品」約2200点を持ち帰った。
 石巻市の実家が津波で流され、両親と兄が犠牲となった会社員の阿部啓介さん(46)=仙台市=は「2歳の息子におじいちゃんとおばあちゃんの姿を見せたくて写真を探しに来ました」と、アルバムを次々開いていた。
 展示は2011年5月に石巻市役所内で始まり、ことし1月までに約20万点を持ち主に返した。
 今回が最終展示で、持ち主が見つからなかった品は僧侶に供養してもらい、焼却する。



おんなのしんぶん:Tokiko’s Kiss 対談 加藤登紀子×鎌田實 大震災から3年「大丈夫」じゃない

 発生から間もなく3年を迎える東日本大震災。「Tokiko’s Kiss」4回目は、東京電力福島第1原発事故の直後から、原発にほど近い福島県南相馬市の病院に駆けつけ支援を続けてきた医師、鎌田實さんがゲストです。同じくコンサート活動などで、被災地にエールを送り続けている加藤登紀子さん。継続的に現地と向き合い、その中で見えてきたものは何か? 旧知の2人が、その答えについて探ります。【構成・吉永磨美、写真・武市公孝】

登紀子 「○に近い△」。鎌田さんがよく話される言葉ですね。鎌田さんの著書「○に近い△を生きる」(ポプラ社)では、「正論」や「正解」である「○」にこだわらず、「別解」のような「△」に限りない自由と魅力を感じるとされています。私は「○を超えた△」と言った方がいいんじゃないか、と思っています。

鎌田 「○を超えた△」という表現は初めて聞いたなあ(笑い)。

登紀子 だって、いつも「○は時代遅れ」などと批判しているじゃないですか。

鎌田 確かに△は革命的。私は諏訪中央病院で39年間、地域医療にたずさわっています。「医療とは救命する仕事」という大学で教わる「正論」だけでは、地域のみなさんは幸せにならないと思いました。悩んだ末、「○と×の間にある無数の△から、その地域にあったやり方を探せばいい」と思い、健康づくりや、国内初のデイケアなど独自の試みを始めました。
 ◇被災者に選択肢を

登紀子 東日本大震災で起こった東京電力福島第1原発事故では、諏訪中央病院はすぐに、南相馬市へ医師や看護師を派遣していますね。また、旧ソ連のチェルノブイリ原発(ウクライナ)の事故の被災地支援もされています。事故後27年たった現地では、放射線量が今の福島県内と同じくらいの地域に住む人も避難の対象になっているとか。

鎌田 ウクライナでは、法律で年間被ばく線量5ミリシーベルト超は「強制移住地域」ですが、1ミリシーベルト超5ミリシーベルト以下は「移住権利地域」で、居住するかどうかを自分で決められることになっています。福島でも同じような制度があればいいなと思っています。ウクライナでは7歳の子供と「強制移住地域」に住む医師に会いました。食べ物に気をつけ、年3回子供を遠く離れた場所に保養に出しているそうです。そのうち、1回は国の負担で23日間、林間学校に。そのぐらいの期間、保養すると、万が一体内被ばくをしていても放射性物質が体外に出るとされている。隣国のベラルーシでは12万人の子供が外国に保養に行ったとのことです。

登紀子 日本でも被災地支援の力を集めれば、ウクライナと同じように福島の子供も保養ができると思いますね。
 ◇「まだ仮設に」……

鎌田 昨年、ウクライナの首都・キエフ郊外にある古里に戻れない被災者が住む4万人の町を訪れました。事故後の半年間、住む場所をたらい回しにされて、自殺者やアルコール依存症などの患者がずいぶん出たそうです。その後、自分たちの住む町が与えられましたが、住民は、被災者にとって家を与えられることがどれほど大事であるかを話してくれました。また、福島の被災者が今も仮設住宅に住んでいると知り、すごく同情し心配していました。「3年たつのにまだ仮設住宅なのか」と。

登紀子 日本では仮設住宅から出るにしても、「自力でバラバラに」となり、悲しい思いをしていると聞いています。

鎌田 彼らが、一番心がけてきたのは、「絆」と「生きがい」を作り続けていくことでした。それは人の「存在欲求」なのです。被災者だけではなく、人にとって、一番大事にしたい「△」ではないかと思います。戦後、私たちは「物質欲求」優先で生きてきました。「経済成長すれば幸せになれる」と思ってきたけど、どんどん非人間的になってしまった。今は「存在欲求」が満たされるような社会が被災地に、ひいては日本全体に必要だと思います。

 最近、岩手の被災者の方に言われたんです。「『絆』という言葉に救われ生き抜いてきたんだけど、もう東京の人も関西の人も、私たちのことなんか忘れてますよね。忘れるくらいなら、『絆』とか言わないでほしかった」と。「3年たったから大丈夫」ではありません。全然復興していないんですよ。

登紀子 「存在欲求」、響く言葉です。被災者の意思に沿った復興ができるように、これからも応援していきたいですね。

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 ■人物略歴
 ◇かまた・みのる

 1948年東京都生まれ。医師、作家。チェルノブイリ、イラク、福島の救援活動を続けている。加藤さんと企画したCD「ふくしま・うた語り」(税込み1500円)を、2012年に発売。売り上げの一部はチェルノブイリや福島の被災者支援に充てられます。2人の共作「海よ、大地よ」など4曲。問い合わせは日本チェルノブイリ連帯基金(0263・46・4218)。



東京五輪組織委/被災地視点、抜けていないか

 重厚と言えば響きはいいけれど、新時代にふさわしい息吹は感じられない。1月に発足した2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会の陣容だ。
 会長は元首相の森喜朗氏。実務を仕切る事務総長には、日銀総裁候補でもあった元財務事務次官の武藤敏郎氏が就いた。
 森氏は76歳。武藤氏は70歳。6年後の本番には両氏合わせて150歳を超える。
 ソチ冬季五輪の選手たちの躍動感や舞台裏のヒストリーを見ていると、この森、武藤両氏のツートップから伝わるのはスポーツマンシップというより政官主導のにおいだろう。
 五輪の大舞台まで息切れせずに走り通すこと自体、いささか心もとなくもある。
 森氏は早速、ソチに出場したフィギュア女子の浅田真央選手を「あの子、大事なときには必ず転ぶ」などと評した。かつての「神の国」発言をはじめ「大事なときに必ず失言する」癖は抜けきらないようだ。
 何より、五輪招致の際のメッセージとして用いられた「東日本大震災の復興支援」への情熱が組織委から強く伝わってこないのはどうしたことか。
 復興支援が招致を有利に運ぶための、単なる呼び水に使われたわけでもあるまい。ソチ五輪の感動の一端を、公約通り、2020年には被災地、東北でもと期待したい。
 組織委発足とほぼ同時に始まった都知事選では、五輪と復興についても論戦があった。招致に際しての「立候補ファイル」にあったような競技の一部実施だけでなく、公式競技を被災地で開催してはどうかと訴える候補者もいた。
 五輪開催には確かに被災地に夢と希望を与える側面がある。コンパクトな運営を目指す以上、公式競技の開催は難しいとしても、被災地と手を携えて何が実現可能なのか、真剣に探っていく姿勢を強く求めたい。
 そのためには福島第1原発事故への対応もカギを握る。
 招致レースの最終局面で、安倍晋三首相は汚染水問題について状況はコントロール下にあると強調したが、その後も汚染水は漏れ続けている。
 各国の関係者や選手の懸念に応え、政府や東電が対策に万全を期すのは当然だ。汚染水問題や廃炉作業に的確に対応。安全性をアピールし、組織委を後押しする必要がある。
 2度目の東京五輪が、日本の新たな挑戦を世界に発信する機会となる。被災地復興が前提となるのは論をまたない。
 会長の人選をめぐって紆余(うよ)曲折もあり、組織の態勢づくりは遅れた。組織委と車の両輪の東京都も決定後間もなく発覚した前知事の資金提供問題をめぐる混乱で、出はなをくじかれた。
 日本ラグビー協会会長でもある森氏は、国内外の政財界、スポーツ界との太いパイプで知られる。被災地も語れるスポーツに通じた人材を巻き込むなど復興を意識した態勢を強化。日本の再生を象徴する五輪へ、精力的に取り組んでほしい。


大震災3年:大切な人への思いをつないだ「風の電話」

 真っ青な船越湾が一望できる高台に、白色の木製格子でできた電話ボックスがある。亡くなった家族や友人らと、もう一度心を通わせてもらえたら−−。そう願い、岩手県大槌町のガーデナー、佐々木格(いたる)さん(69)が自宅の庭に設置した。間もなく東日本大震災から3年になるが、訪れる人は後を絶たない。

 ダイヤル式の黒電話の線はつながっていない。声が届かなくても心で会話する。電話ボックスに置かれたノートには一人一人の胸の内がつづられている。

 <母さんどこにいるの? 親孝行できずにごめんね。会いたいよ>

 訪れるのは家族連れや夫婦、友人同士などさまざま。だが、ボックスには大半の人が1人きりで入っていく。名前は「風の電話」。大切な人への思いを風に乗せて伝えるという意味を込めた。

 佐々木さんは18歳で父を亡くし、長男として家計を支えるため釜石市の鉄鋼メーカーでがむしゃらに働いた。「自分の力で生きてきたといううぬぼれがあった」。参事の職を最後に早期退職し、地元の会社で働いた後、趣味のガーデニングをして暮らしていた。

 だが、穏やかな日々は一変した。「町がそっくり無くなり、周りの人や環境に生かされていたと痛感した」。自身は自宅も家族も難を逃れ、生かされた命を他人のために役立てたいと思った。「突然会えなくなった人と、せめて最後の一言を交わしたい人がいるのでは」。風の電話が完成したのは、震災から1カ月後だった。

 ブログで利用を呼びかけ、訪れる人は3年間で約1万人に上った。観光客もいるが、いまだ母や息子を捜し続けているという人も。死亡届も出せず、何をしていいか分からないと漏らして帰っていく。「時間が止まったままの人が大勢いる。電話が『心の復興』の一助になれば」と語る。

 先月、この話を基に絵本「かぜのでんわ」(金の星社、いもとようこ作絵)が出版された。ウサギやキツネ、ネコが電話を通して会えなくなった家族に話しかける物語だ。「絵本を読んで、うちに来た人たちの間に交流の輪ができたら本望です」【大野友嘉子】




集団的自衛権―解釈で9条を変えるな

 集団的自衛権とは何か。

 日本に関係のある国が攻撃されたとき、自衛隊が反撃に加勢する権利である。

 この権利を使うことは、何を意味するのか。

 日本が直接攻撃されたわけではないのに、交戦国になるということだ。

 日本国憲法のもと、この権利は認められるのか。

 歴代内閣はこう答えてきた。「国際法では認められているが、憲法はこの権利を使うことを許してはいない」

 これに対し、こんな批判もある。「持っているけど使えない。そんなおかしな議論をしているのは日本だけだ」

 確かに日本だけの議論かもしれない。でもそれは、戦後日本が憲法9条による平和主義を厳しく守ってきたからこそだ。おかしいことではない。

 安倍首相はいまの国会のうちに、集団的自衛権を使えるようにするつもりだ。

 しかし、憲法改正の手続きはとらない。9条の解釈を改め、閣議決定するのだという。

 憲法の精神に照らして、それは許されることではない。

 「国民の手に憲法を取り戻す」。首相が繰り返すこの主張にも矛盾する。

■米国と憲法との間で

 国民の安全を確実に守るにはどうしたらいいのか。自衛隊が世界の平和に貢献する道はどうあるべきか。

 政府や国会がこうした議論をするのは当然のことだ。

 冷戦は終わったが、テロや地域紛争が増えた。中国の台頭と北朝鮮の核開発で、東アジアの緊張は高まっている。安全保障環境は大きく変わった。

 これにあわせ、政府は米国からの要請と9条との折り合いに四苦八苦しながら、自衛隊の活動範囲を広げてきた。

 内閣法制局が集団的自衛権の行使を認めず、海外での武力行使はできないとしながらも、苦しい辻褄(つじつま)あわせを重ねてきたのも事実だ。イラクで自衛隊が活動できるとした「非戦闘地域」という考えはその典型だ。

 首相はこんな安全保障政策の綱渡りを、一気に解消したいのだろう。ならばなおさら、正面からの議論が必要だ。

 首相の手法は、意に沿う有識者懇談会に解釈変更を求める報告を出させ、それを追認しようというものだ。

 首相に近い高官は、新しい解釈が成り立つならば、政府が状況の変化に応じて解釈を変更しても構わないという。

 そうだろうか。

■立憲政治から外れる

 日本は、自国を守るための必要最小限の実力しか持たない。海外で戦争はしない。

 それは戦争の反省からうまれた平和主義であり、憲法の基本原理の一つだ。この原理は、自衛隊がPKOや人道復興支援で海外に出て行くようになっても変わっていない。

 集団的自衛権をめぐる解釈は、国会での長年の議論を通じて定着した、いわば政府と国民との間の合意だ。

 時の首相の一存で改められれば、民主国家がよってたつ立憲主義は壊れてしまう。

 集団的自衛権の容認が意味するのは9条の死文化だ。平和主義の根幹が変わる。自衛隊員が他国民を殺し、他国民に殺される可能性が格段に高まる。

 それでも日本が国際社会に生きるために必要だというなら、国会での論戦に臨み、憲法96条が定めた改正手続きに沿って進めるのが筋道だ。

 米軍が攻撃されたときに、自衛隊が集団的自衛権を行使して反撃する。これが懇談会の主な想定だ。だが、日本周辺で、米軍だけが自衛隊より先に攻撃を受けるという事態に、どれほどの現実味があるのか。

■「普通の軍」ありきか

 いつでも集団的自衛権を使えるようにして、自衛隊を「普通の軍」にしたい。そんな理念が先走っていないか。それにこだわるあまり、領土を守ったり、PKOにもっと積極的に参加したりするにはどんな法制が必要かという、目の前にある課題の議論を妨げていないか。

 日本が安全保障政策を改めるにあたっては、近隣諸国の理解を得るのが望ましいことはもちろんだ。

 私たち日本人は、自衛隊が海外に出かけても、かつての日本軍のような暴走は決してしないと信じている。その信頼を、旧日本軍の被害にあった国々とも共有できるようにするのは、日本政府の責任である。

 安倍政権は、その要請には全くこたえていない。

 「侵略の定義は定まっていない」と語り、A級戦犯がまつられる靖国神社に参拝する。不信と反感をあおるばかりだ。

 そんな政権が安保政策の大転換に突き進めば、中国は一層の軍拡の口実にするし、欧米諸国も不安を抱くに違いない。

 それは、日本国民の利益と安全の確保、そして地域の平和と安定にも反する。



安倍政権と日米関係 歴史の原点を忘れるな

 日米関係は、危険水域に入りつつあるのではないか。安倍政権周辺から同盟の原点を揺るがす言動が続く現状を、深く憂慮する。

 米国の反対を振り切った安倍晋三首相の靖国神社参拝。それに対する米国の「失望」表明と、首相補佐官の「こちらこそ失望だ」という反発の応酬。NHK会長や経営委員の歴史をめぐる発言。一連の出来事が、日米同盟の基盤にかつてない深刻な亀裂を生じさせている。

 今起きているのは、過去の通商摩擦や防衛摩擦とは質的に異なる、歴史摩擦である。放置すれば同盟の根幹が崩れる。政治指導者は立て直しに真剣に努力すべきだ。
 ◇永遠の同盟はない

 日本は日米安保条約によって米国主導の戦後国際秩序の主要な担い手となり、平和を享受してきた。半世紀以上も続く成功体験が、この同盟関係を、水や空気のように永続するものと錯覚させている。

 だが、英国の元首相パーマストンの「永遠の同盟というものはない。あるのは永遠の国益だ」との言葉にあるように、同盟は利害の一致によって生まれ、共通の価値観が失われれば、消えてなくなる。

 日米同盟の土台は、1952年発効のサンフランシスコ講和条約だ。日本はA級戦犯の戦争責任を東京裁判受諾で受け入れ、戦前の日本と一線を画す国に生まれ変わることで、世界に迎え入れられた。

 日米同盟は単なる軍事同盟ではなく、人権意識や文化の成熟など先進民主国家同士の共通の価値観に基づく同盟として、今日まで日本外交の資産となってきたのだ。

 太平洋戦争をめぐる歴史認識は、そうした戦後国際秩序の前提であって、日米同盟の基盤である。それが揺らげば同盟も揺らぐ。

 日本側が「(オバマ政権は民主党だから)共和党とならうまくいくはずだ」と考えているなら、それは誤った見方だ。歴史認識や人権といったテーマは、どの政党の政権かによらず米国は厳しい、ということを忘れてはならないだろう。

 見逃せないのは、政権周辺の無責任な言動を首相がはっきり否定しない限り、それは安倍政権と自民党の考えだと、国際社会が受け止めることだ。日本は戦後国際秩序への挑戦者だと宣伝工作する中国につけいるスキを与えないためにも、早めに手を打つべきではないか。

 一方、日米同盟に不協和音が出ているのは、米国側にも責任があることを強調しておきたい。

 日本でナショナリズムが高まる背景には、尖閣諸島周辺で相次ぐ中国の挑発的な行為がある。日本が領土拡張主義なのではない。

 にもかかわらず、オバマ政権は、中国の脅威にさらされる日本への十分な理解があるようには見えない。アジア最大の同盟国に対するとは思えない冷たい対応が、日本人の不満と不安をあおっている。

 米国主導の戦後国際秩序は、日本にとって、二律背反の複雑さを持つものでもある。いつまでも戦争責任を追及され、「悪者扱い」されることに、抵抗を覚える日本人も少なくない。原爆投下や東京大空襲も不正な殺りくだと考える人は、いて当然だろう。その意味では、日米両国の真の戦後和解もまた、完全に達成されているとは言えない。
 ◇相互理解の努力を

 だが、そうしたむき出しの感情が対立する事態になれば、同盟全体を損なう。日米同盟の原点に立ち返った大局的な判断と行動を、双方の政治指導者には求めたい。

 政治学者の故永井陽之助氏は、あの戦争を「太平洋を挟んで相対峙(たいじ)した2大海軍国が、心から手を握るために、支払わねばならなかった巨大な代償」と書き、日米友好は「なんら相互理解の努力なしに達成しうるものではない。日米間に友好関係の自然状態がつねにあるなどと錯覚してはならない」(「平和の代償」)と警告した。この言葉をかみしめるべきではないだろうか。

 そのため、安倍政権は以下のことに取り組むべきである。

 侵略と植民地支配を明確に認め、過去の反省に基づく理念で世界と協調する道を歩む決意を示す。侵略という言葉を使った村山談話、従軍慰安婦の河野談話を見直す考えのないことを明言し、中国、韓国との歴史対立解消の道筋を探る。

 靖国神社には再び参拝せず、A級戦犯の戦争責任を受け入れ、日本人自身による戦争の総括と慰霊の観点から、戦没者追悼の新たなあり方を国民的な議論にかける。

 こうしたことが、歴史認識で国際社会の信任を取り戻し、日米同盟の基盤を強め、近隣外交を立て直す現実的な方策だと考える。

 中国と対立し、米国とも対立することは、両国との戦争で破滅へと進んだ戦前の教訓に学ばないことになる。米中の双方と衝突すれば、日本の外交は立ちゆかない。

 安倍政権は、集団的自衛権を行使できるようにしないと日米同盟は危機に陥る、として憲法解釈変更を急ぐ構えだ。だが、同盟の原点である歴史認識の問題で米国の不信の解消に動こうとしない方が、日米関係をより危うくするだろう。



フランス語
フランス語の勉強?

朝からお酒飲んでしまいました/本を読みました

ブログネタ
フランス語 に参加中!
senkoji_femme_140112

Il m'a dit qu'il partirait en France lendemain.
彼は,わたしに,翌日フランスに行くと言った.

千光寺公園のあけぼの像です.私はこの像が好きです.

今日もしんどいです.朝からお酒飲んでしまいました・・・
それでもお昼から本を読みました.


自殺者が3万人を超えている原因はなにか? By 米光一成
自殺者が右肩上がりに増えたと主張し、日本は自殺大国だ、格差社会の犠牲者だとか、そういったことを語る書籍や知識人は多い。
「うつ」に関する本でも、自殺者の増加と絡めて社会問題やうつの話に結びつけるモノがいくつもある。
だが本書はそれとは全く異なる事実を組み上げて、驚く。はっとする。
しかも、それが明快、論理的で、データと根拠をしっかりと提示する。
自殺者はほんとうに増えているのか。その原因は何なのか。
うつに関する常識を5章立てで、くつがえしていく。
データをどう読み解くべきか、論理的に思考を積み上げるにはどうすればいいのか、という具体的なテキストとしてもオススメ。

百姓が時代を創る
山下惣一
七つ森書館
2008-02-28


農業に対する一つの考え方がよく分かります By 希望を探して
発売から半年以上経ってもレビューがないことから、あまり売れていないと思いますが、農業に興味がある人にとっては、示唆に富む一冊となっています。是非、一読ください。

この本は「農」と「農業」を峻別しています。作物を作るのは農であって、それを売るのが業。農は楽しいが業は苦しい、というのが筆者の主張。そして小農と大農という区分けをして、自分が食べる分+αが小農、最初から売る目的なのが大農。大農は苦しいので、小農で行くべきだとしています。

思いつきでこの本を書いているのではないことは、事細かに「歴史」とその「背景」を説明してくれる点でよく分かります。家庭菜園をやっていて、もう少し大きくやってみたいと考えているような人にとっては、どのような考え方でやっていくべきかの参考になります。



ヘイト・スピーチがもたらす被害をふまえて、法的規制の在り方等を丁寧に論じる入門書 By bunny knights
 近年、「行動する保守」などと称する人たちによるヘイト・スピーチが、ネットにとどまらず現実社会に大手を振って現れるようになった。この現象に対して、ある人は「表現の自由」だといい、ある人は「表現の自由の範疇を超えるものであり規制されるべき」だといい、多くの人は「どうでもいい」と考えているようである。

 本書は、弁護士として活動する中でヘイト・スピーチ、ヘイト・クライムのもたらす深刻な被害に気づいた筆者が、ヘイト・スピーチ等の規制に関する国際的な現状を研究した成果をまとめた入門書である。著者は、ヘイト・スピーチの悪質なものは法的に規制されるべきだと考える立場であり、法規制の必要性、許容性、その在り方について丁寧に論じており、説得力がある。ヘイト・スピーチを野放しにすることが、ナチスによる民主主義の破壊とアウシュビッツ、戦争の惨禍を招き、関東大震災時の日本人集団による朝鮮人虐殺を招いた。そうした歴史も概説されており、現在の日本に重なって見えるところがある。その意味でも本書は、ヘイト・スピーチは「自分には無関係の問題だ」と考えている人たちにも、ぜひとも広く読まれるべき1冊だといえよう。

 本書の魅力は、多角的な観点からヘイト・スピーチ規制に関する問題を扱っている点である。章別に分けると、(1)「在特会」らはなにも突然現れた異様な怪物などではなく著名政治家たちや日本政府の政策によって発生の土壌が用意されてきたこと(第1章)、(2)ヘイト・スピーチとはどのようなものであり、その規制がなぜ必要なのかということ(第2章)、(3)ヘイト・スピーチの法的規制を選んだ諸外国はどのような経緯でどのような規制を設けてきたのかということ(第3章)、(4)ヘイト・スピーチ規制についての慎重論についての法的検討(第4章)、(5)日本でいかなる規制がなされていくべきなのか(第5章)という、5つの視点である。

 第1章を読めば、日本社会の状況がどれほど陰惨たるものか、痛切に実感できるだろう。第2章で描かれる、ヘイト・スピーチの対象とされたマイノリティ集団の人たちにもたらされる被害の深刻さに、この社会のマジョリティを自認する人たちは、目をつむるべきではあるまい。
 第4章については、「表現の自由であって許容されるべきだ」と主張する論者たちが、はたして著者による批判に対して効果的な反論ができるのか、はなはだ疑問である。

 評者は、法律をかじっている者として、第3章の諸外国の法的規制の状況が非常に興味深かった。事実を踏まえ、人権とその根底にある人の尊厳、生命を尊重し保障する社会を築いていこうとする姿勢こそ、民主主義と平和の基礎なのではないか。そう考えさせられて、彼我の差に嘆息せざるを得なかった。なかなかしんどいことではあるが、第5章で提示された筆者の提言をたたき台に、これからなすべきことをあきらめずに考えていくこととしたい。


読売新聞
高田高 仮校舎で卒業式

 県内の高校のほとんどで1日、卒業式が行われた。東日本大震災直後の2011年4月に入学した学年で、様々な困難と闘いながら3年間を過ごし、門出の日を迎えた。

 陸前高田市にあった校舎が津波で全壊した県立高田高校の卒業式は、仮校舎となっている大船渡市の大船渡東高校萱中(かやなか)校舎で行われ、169人が巣立った。陸前高田市の旧校舎近くに造成された海抜41メートルの用地で新校舎の建設が進み、今年2月には体育館が完成し、卒業式は可能だったが、学校側の意向調査に対し、生徒や保護者の95%が、「ここが私たちの高田高校です」と、3年間過ごした萱中校舎での式を希望したという。

 式では、震災の犠牲者に対し全員で黙とうした。横田昭彦校長は「君たちの3年間の頑張りをたたえずにはいられない。志を失わなければどこにいてもふるさとに貢献できる。君たちは希望そのものです」とあいさつした。

 震災で1000人近い住民らが避難生活を送った県立大槌高校(大槌町)では、80人が卒業証書を受け取った。3年生は震災時、ほとんどが制服を用意できないまま入学式を迎えた。今も、263人の全校生徒のうち117人が仮設住宅で暮らしている。

 元生徒会長の東梅佳菜さん(18)は、「私たちは、支えられるだけでなく、地域の一員として何ができるのかを考え、行動するようになった」と述べた。


岩手日報
震災直後に入学…感謝の巣立ち 沿岸各高校で卒業式

 支援への感謝。復興への希望と決意。県内沿岸各地で1日、東日本大震災直後に入学した高校生たちが特別な思いを胸に卒業式に臨んだ。先の見えない中で高校生活を始め、友人や恩師、家族に支えられながらの頑張りは、多くの人に勇気を届けてきた。苦難を越え、たくましく成長した若者たちが学びやを巣立った。

 「同じ制服を着て学校に通い、勉強や部活動ができる。当たり前のことに喜びを感じる高校生活だった」。約1カ月遅れで入学し、大船渡市立根町の仮校舎で3年間過ごした陸前高田市の高田高。前生徒会長の及川詩央里さんが答辞を述べた。

 涙で声を詰まらせながらの感謝と決意の言葉。「たとえ仮校舎であっても母校。被災地復興の力、光になれるよう努力を重ねる」。卒業生は、被災前の陸前高田の情景を歌う校歌を目を真っ赤にしながら歌い上げた。

 大船渡市猪川町の大船渡高は、全日、定時制計237人が卒業。中学の卒業式は中止や縮小を強いられ、入学式は20日間遅れた。鉄道網が寸断され、3年間送り迎えをした保護者もいる。金野恵君は答辞で「6年分の思いが詰まった卒業式だ」と感慨を込め「震災を経験し、人事のはかなさと人間のたくましさに触れた私たちにできることを模索したい」と力強く決意した。

 宮古市磯鶏の宮古商高は、入学式では全員分の制服がそろわず、服装もまばらな状態で高校生活が始まった。3年後の卒業式では全員が同じ制服に身を包み、人生の門出に立った。卒業生代表であいさつした木村優さんは「久々に仲間に再会したとき、誇れるような生き方をしていきたい」と力を込めて誓った。

 県内公立高校の卒業式は同日、全日制・定時制合わせて63本分校で行われた。


朝日新聞
(“3年”で見えたもの 東日本大震災:上)いい顔だけの政治、矛盾生む

 あれから3年。被災地で見えてきたものがある。

 福島では、いい顔ばかりする安請け合いの政治がはびこった。政治と民意の関係が揺れ、避難者は振り回される。

 東京電力福島第一原発事故の避難者約2万3千人が暮らす福島県いわき市。仮設住宅に、監視カメラが光る。高級車ばかり7台のフロントガラスが割られ、ペンキをかけられる事件が昨年起きてからだ。被害を受けた楢葉町の男性(25)は「東電から賠償金をもらっているので、ねたまれているのかもしれない」。

 市役所には「被災者帰れ」というスプレー書きもあった。背景には津波被害を受けながら東電の損害賠償がほとんどない地元と、4人家族で平均5千万〜1億円を受ける原発避難者の感情的な対立がある。避難者同士でも、賠償の額に差が付けられる。賠償金を元手にパチンコ店に入りびたる、わずかな避難者の存在が対立に輪をかける。

 民主党政権下では細野豪志・元原発相ら閣僚が毎週のように福島を訪れ、避難者や首長の要望を聞いて歩いた。そして拒むことはほとんどなかった。「原発の安全神話が覆された反動でしょう。国は憎まれ役になるのを嫌がり、避難者にものが言えなくなった」(清水敏男・いわき市長)

 ■現実路線の不安

 安請け合いの政治は深刻な「矛盾」も生んでいる。

 国は放射線を不安がる住民をなだめるため、除染などで下げる目標を年間1ミリシーベルトと決めた。だが汚染土を保管する中間貯蔵施設は「1ミリまで下げることを前提にしていない」(環境省)。1ミリまで除染すれば汚染土はあふれるが、住民に説明はしていない。「除染はいずれ破綻(はたん)する」。復興庁幹部は予告する。

 政権が代わり、政府は避難者への対応で現実路線に転じた。3年たったんだから――。この国に漂い始めた「空気」も背中を押す。

 復興庁や環境省は昨秋、除染目標を緩める動きに出た。目標値は変えず、放射線を測る対象を「空間」から「個人」に変える。ひとけのない場所は除染せずに済ませるつもりだ。

 政権は放射能の高い区域の全員帰還も諦めた。一方、比較的低い区域は、避難指示の解除を急ぐ。

 第一原発から西に20キロの田村市都路(みやこじ)地区。事故以来初めて、避難指示が4月に解除される。住民は「戻っても、ちゃんと暮らせるのか。風評被害や失業問題が起きても、国はまた『想定外』と言い逃れ、都路を見放すのではないか」(地元商工会幹部)。

 急な幕引きに、戸惑うのは避難者だけではない。福島全体だ。政権交代以降の県内の市町長選で、現職7人が落選した。有権者が不満をぶつけた結果だ。「現職でなければ誰でもよかった」。当選、落選両陣営に共通した分析だ。だが、首長が代わっても、抱えた難題は残ったままだ。

 福島と、どう向き合うのか。日本に住むみんなで考えることだ。


毎日新聞
東日本大震災3年:17歳被災者に寄り添う 大学で心理学

 ◇岩手で卒業式 母と姉亡くした私だから…

 岩手県陸前高田市の県立高田高校3年、小友茜李さん(17)は、この春から岩手大(盛岡市)に進み、人文社会科学部で災害心理学を学ぶ。東日本大震災の津波で母と姉を失った。「大切な人を亡くした悲しみを知る自分だからできることがある」と、被災者らの心のケアにあたるのが将来の目標だ。岩手県立高校の卒業式が一斉に行われた1日、母と姉に心の中で語りかけた。「無事卒業したよ」

 津波が市の中心部を壊滅させた3年前、小友さんは高台にある中学校にとどまった。夜になって父剛史さん(46)が迎えに来てくれたが、仕事に出ていた母聡子さん(当時44歳)と3人姉妹の長女、史佳さん(同20歳)の行方が分からなくなっていた。数日後、別々の遺体安置所で対面した。2人とも顔に傷もなく、寝ているみたいだなと思った。

 高校では、小学生で始めたバレーボールを続けるつもりだったが入部しなかった。バレーボールを教えてくれた姉や、いつも試合を見に来てくれた母の声援なしに続けていく自信がなかったからだ。

 自宅も流され、父らと仮設住宅で暮らすようになった小友さんに、地域の人が誘いの声を掛けた。国際NGO団体が同市など被災地に設立した「子どもまちづくりクラブ」。そこで復興に向けた提言づくりなどに関わり、バレーボールの代わりに打ち込めるものを見つけられた。スイスで開かれた国際防災会議にも被災地の子どもの一人として出席した。

 一方で、震災後1年たったころから、気持ちの沈む日が続くことがあった。「どうして私が生き残ったんだろう」。地域の人たちの中には、同じように家族を亡くした人がたくさんいた。その人たちと語り合うと、素直に涙が出て、少し気持ちが楽になった。「私も同じ思いをしている人の力になりたい」。将来の目標が、少しずつ定まった。

 3年間を過ごした大船渡市内の仮校舎であったこの日の卒業式。答辞に立った友達が1カ月遅れとなった入学式を振り返るのを聞き、「みんなばらばらのジャージー姿だったけど、入学式ができてうれしかったな」と思い出して涙が出た。末っ子の手のかかる自分を男手一つで養い卒業させてくれた父への感謝が胸にあふれた。そして、母と姉の顔を思い浮かべた。

 バレーボールの試合中、体育館のギャラリー席から誰よりも大きな声援を送ってくれたお母さん。初デートの時に、花柄のスカートを貸してくれたお姉ちゃん。「どこかで見ていてくれるよね」

 まだどんな仕事ができるか分からないが、大学を卒業したら陸前高田に戻るつもりだ。同じ悲しみを抱える人たちに寄り添い、生きていこうと決めている。【塩田彩】


毎日新聞
東日本大震災:大川小事故検証委、石巻市長に最終報告書を提出 /宮城

 東日本大震災の津波で石巻市立大川小学校の児童・教職員84人が死亡、行方不明となった事故の原因を検証する第三者機関「大川小事故検証委」(室崎益輝委員長)は1日、同市に最終報告書を提出した。亀山紘市長は「事故の教訓と課題を真摯(しんし)に受け止め、今後の学校防災に努めたい」と話した。

 最終報告書は、生存教員や児童、地域住民への聞き取り調査などを基にまとめ、市教委などに24項目の提言を示した。室崎委員長は「大川小事故は極めて重いこととして、原因究明と再発防止の視点から検証にあたった。提言を実行していただきたい」と述べた。

 記者会見した境直彦教育長は「厳しい分析がされた部分もある。提言を着実に実現できるよう関係機関と連携していきたい」。提言を基に「市学校防災基本方針」の見直しと改善▽専門家による各学校の防災マニュアル点検と指導▽防災副読本や避難訓練などの防災教育の充実−−を目指すとした。遺族との話し合いも継続する意向を示した。【近藤綾加】


河北新報
それぞれの春(1)女川高最後の3年生/閉校する母校に誇り

 中学生のころは「怖い人に絡まれないように、目立たずに生きていこう」と考えていた。
 今ではボランティア活動で知り合った全国の高校生と交流する。各地の文化祭に招かれ、活動を発表したこともあった。母には「あんたがこんなに変わるなんて」と驚かれている。

◎生徒会活動通じ成長

 宮城県女川町の女川高で、3年の柏峻平君(18)は生徒会長を務める。
 2月14日は学校グラウンドに建てられた仮設商店街「きぼうのかね商店街」で、生徒会の役員らと大福を配った。
 「バレンタインデーに大福をどうぞ」。買い物客らは喜び、お返しに菓子をくれる人もいた。うれしかったが、最後の生徒会活動となるだけに寂しさも募った。

<人を笑顔に>
 女川高は東日本大震災前から本年度での閉校が決まっていた。3年生は震災直後の2011年春に入学。3年間、後輩はいなかった。今月8日に卒業式と閉校式を迎える。
 女川高近くの自宅は津波で全壊し、家族と学校に避難した。武道場で2週間暮らし、石巻市にある父の実家に移った。4月下旬、再び学校の門をくぐったのは、例年より遅い入学式だった。
 「ここで暮らしたっけ」。学習環境を確保するため避難所は閉鎖されていたが、地震の影響で体育館が使えないなど落ち着かなかった。JR石巻線は不通で、代行バスが通学の足となった。グラウンドに仮設商店街ができ、入部した野球部は練習もままならなかった。
 2年生のとき、生徒会に誘われた。先輩たちは石巻市の「大沼製菓」と共同で、義援金付き「たまげ大福だっちゃ」を開発。「被災地から笑顔を」をテーマに他校の文化祭などで販売し、女川町の活性化に貢献しようと奮闘していた。
 最初は断った。ただ、人が笑顔になるのを見るのが好きだった。「自分にできるかな」。やがて「やってみたい」に変わった。

<全国に友達>
 会長に選ばれ、あいさつ運動や地域の清掃をするようになった。文化祭の企画を担当し、どうすれば楽しんでもらえるか知恵を絞った。他の学校や仙台市内の商店街で大福を販売しながら、町の被災状況を説明した。
 12年12月、全国の青少年のボランティア活動をたたえる「ボランティア・スピリット賞」で奨励賞を受賞した。東京であった表彰式で、全国に同世代の友達ができた。
 最終学年となった昨年は、大福に続くオリジナルクッキー「女川AGAIN(あがいん)ボウル」を大沼製菓と考案。最後の文化祭で販売し、閉校後も製造されることが決まった。
 「震災に遭ったことで、人を笑顔にしたいと思えるようになった。でも、こんなに成長できるとは思わなかった」
 卒業後は仙台市内の大学に進む。会話する機能を回復させるリハビリ専門職の言語聴覚士を目指す。
 母校がなくなるのは寂しいが、成長させてくれたと感謝している。「女川高にありがとうと言いたい」。最後の生徒会長は誇らしげに笑った。

 東日本大震災から間もなく3年となる。大津波や福島第1原発事故で被災した人々は複雑な思いを抱きながらも、歳月を刻んできた。また巡ってきた3月。新たなステップに向かう人々の「それぞれの春」を追う。


産経
【東日本大震災3年 第3部・こころのいま(中)】
終わらぬ非日常、ケア大切 不登校じわり増加

 登校中に時々、おなかが痛くなる。東日本大震災で635人が犠牲になった宮城県山元町の町立小2年の男児(8)は校門をくぐるとき、少しだけ、勇気を振り絞る。

 サッカーが大好きで、活発な少年に異変が起きたのは、夏休み明けの昨年9月のことだった。毎朝、「学校に行きたくない」と泣きながら訴え、机を蹴って抵抗することもあった。母親(35)が1カ月間、全ての授業に付き添った。

 震災当時、5歳だった。震災直後、保育園に迎えに来た祖母らと車で避難。翌日から隣町の親類宅に身を寄せた。自宅は津波で浸水して住めなくなり、町内の仮設住宅で暮らす。

 「津波を見たり、避難所で過ごしたり、トラウマになるような経験はしていないのに」と母親は言う。だが、仮設暮らしは2年半を超え、通学する小学校は他校に間借りしたまま。親しかった友達も転校した。取り巻く環境は今も「非日常」の中にある。

 年末からは落ち着きを取り戻し、元気に登校している。心の不調の原因が何だったのかは分からない。母親は「見守っていきたい」と話した。

 配慮必要な時期

 文部科学省の問題行動調査によると、昨年度に30日以上長期欠席した不登校の小中学生は、宮城県が2511人で前年より7%、福島県も1566人で5%増え、逆に岩手県は849人で3%減った。

 平成7年1月に発生した阪神大震災。兵庫県教委の調査で、不登校や無気力、暴力などの症状があり「教育的配慮」を必要とする児童生徒が、震災から3年を経過した10年度に、4106人と最も多くなったことが明らかになった。

 要因別にみると「震災の恐怖」が4割以上と最も高く、「住環境の変化」「家族・友人関係の変化」が3割、「経済環境の悪化」が2割を占めた。震災のトラウマに加え、2次的なストレスの増加が背景にあったと県教委は分析する。

 東日本大震災から3年。東北の子供たちはこれから、最も「配慮」が必要な時期を迎える。

 「阪神」の教訓

 阪神大震災を受け、兵庫県教委は子供たちと向き合おうと7年度から15年間、「教育復興担当」などの名称で、延べ1671人の教員を配置した。

 「ご飯食べたか」「逆上がりできたか」。兵庫県西宮市の小学校で計8年間、復興担当教員を務めた兵庫教育文化研究所の神田英幸所長(65)は、何げない日々の声かけを大切にしたという。

 神田さんは「教師は心の専門家ではないが、家族、友人関係を把握しており、個々の子供に合った対応ができる。自分のことを気にかけてくれる先生がいるんだという安心感が、結果的にケアにつながったのではないか」と振り返る。

 東日本大震災で被災した仙台市宮城野区の仙台湾に近い市立高砂中。津波で校舎が浸水し、学校では今も、避難訓練のサイレンで泣き出したり、地震に関する学習などで気分を悪くしたりする生徒が数人いる。伊藤香奈養護教諭(35)は「家庭生活が落ち着かず、なんとなく寂しくて保健室にくる子供も多い」と話す。

 学校は「心のケア」の一環として、防災教育に力を入れている。生徒たちは被災体験を語り継ぎ、地域ぐるみの避難訓練に参加してお年寄りの介助を行っている。伊藤教諭は言う。

 「震災をただ恐れるだけでなく、自分にもできることがあるんだということを学んでほしい。自分は誰かの役に立つという感情が、自信につながる」

 ■教育復興担当教員 平成7年の阪神大震災で、兵庫県教委が国に教員定数の上乗せを要求し、被災した小中学校へ特別に配置された。学級担任を持たない自由な立場で、「心のケア」や防災教育のほか、学校と家庭、地域の仲介役を任された。17年度以降は「阪神・淡路大震災に係る心のケア担当教員」と名称を変更。震災の年に生まれた子供が中学を卒業する21年度まで計15年間続いた。


NHK
震災を教訓に「津波の教え石」

東日本大震災を教訓に、大きな地震が起きた際は津波を避けるため、より高いところに逃げるよう呼びかける、「津波の教え石」という石碑が、被災地の宮城県東松島市に建てられ、除幕式が行われました。

この石碑は、東日本大震災の教訓を後の世代に伝えていこうと、大手住宅メーカーから寄贈され、震災で被害があった宮城県東松島市牛網地区の集会所に建てられました。
高さ1メートル70センチ、幅2メートル30センチほどの御影石の碑で、2日、地元の住民などおよそ150人が出席して、除幕式が行われました。
この地区は海岸から700メートルほど離れていますが、石碑には震災が起きた日付と共に、「ここにも津波は来る。まずは逃げる、高台へ。高台へ。伝えてほしい 未来に生きる人達へ」などと刻まれ、悲劇が繰り返されてほしくないという願いが込められています。
地元の60代の女性は、「この石碑を住民に見てもらうことで、津波の恐ろしさを将来にわたってみんなに伝えることができると思います」と話していました。
津波の被害を受けた宮城県石巻市にも、同じような石碑が贈られるということです。

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部屋で本を読んで過ごしました/泣きました

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senkojiyama_ropeway_140112

J'aimerais bien habiter au-dessus d'un konbini.
コンビニの上に住みたいのですが.
Alors, vous devriez aller dans une agence immobilière.
じゃあ,不動産屋さんに行かねばならないですね.

千光寺山のロープウエイです.

朝からお酒を飲んでしまいました.なんだか悲しい日.仕事はサボって部屋でゴロゴロ.昼過ぎから本をいろいろ読みました.


繊細なロジック・大胆な議論 By 青ち
本書を書くに当たって著者が念頭に置いているのは、いわゆる「俗論」というヤツである。一見「常識」のようでありながら、実はその根拠がよくわからない政治的主張。典型は、本書でもしばしば言及される安倍晋三のそれであるが、そのような「俗論」を吐くのは政治家とは限らない。おそらく、著者が日々前にしているであろう学生などにも、「集団的自衛権は自然権のごとく行使できて当然のものではないのか」「日米安保体制の片務性を克服すべきなのは当然だ」「ミサイル防衛システムを整備して何が問題なのか」といった意見を持っている者は多くいる。

著者は、豊富で着実な実証から導き出される繊細なロジックに基づいて、そうした「俗論」を検証し、一つ一つ反駁していく。この丁寧な叙述の過程には、外交史家たる著者の面目躍如を見ることができよう。さらに、繊細なロジックは、こうした反駁にとどまることがない。最も長い第6章においてそれは、「日本外交のオルタナティブ」というチャレンジングなテーマへ切り込むための刀ともなる。実証に堕することないこの挑戦的試論の大胆さを前にしては、著者に対する敬服の念を評者は禁じ得ない。


東日本大震災の津波被害、原発事故の渦中で、地域の中核であるお寺や神社は被災者や支援者とともにどのように歩んできたのか。福島県いわき市に生まれ育ち、奈良を中心に古社寺と文化財を取材してきた新聞記者が一念発起、地元の再建に奔走する多くの僧侶や神職の思い、苦しみと怒り、覚悟と希望をルポした。薬師寺や東大寺、春日大社の試みをはじめとした「外からの力」、被災地の内外をつなぐ様々なネットワークも紹介。


まけないタオルを聞いたから???涙が出てきました.

NHKスペシャル「“災害ヘリ”映像は語る〜知られざる大震災の記録〜」


東日本大震災を空から記録した膨大な映像がある。自衛隊や自治体などのヘリコプターが撮影した被災直後の動画だ。上空から見た映像は、人類が巨大津波を初めて空から捉えた貴重な記録だ。研究者が体系的に解析したところ、震災の知られざる姿が浮かび上がってきた。津波が見せた予想外の挙動。従来の防火の常識が通用しない津波火災の実像。救助にあたった乗組員たちの証言も交えながら、あの日の真実に迫り、減災の教訓を探る。

産経
【東日本大震災3年 第3部・こころのいま(上)】
将来の道筋どう見守る 増える震災関連自殺

 24歳の若者は昨年1月、自ら命を絶った。東京電力福島第1原発事故で全町避難が続く福島県富岡町の出身だった。電力関係の会社勤務のため借りていた相馬市のアパートで独り、首にひもをかけた。

 「遺書はあったが、それだけでは理由は分からなかった。とにかく、理由が分からないんです」

 若者の父親は、沈痛な面持ちで話した。

 浪江町から避難する自営業の男性(68)は今も、一昨年5月に自殺した商店街の仲間をしのぶ。長年スーパーを経営していた仲間は避難先から一時帰宅した際、倉庫で亡くなっていた。62歳。「生きていても仕方ない」「夜よく眠れない」と話していた。男性は「まじめな人だった」と、うなだれた。

 内閣府によると、昨年1年間に東日本大震災や原発事故との関連で自殺した「震災関連自殺」は、被災3県で前年より13人多い37人。岩手4人(4人減)、宮城10人(7人増)、福島23人(10人増)だった。

 とりわけ、福島での自殺者は毎年増えている。

■ ■ ■
   

 「死にたいほどのつらい気持ちを聞いてほしい…」

 一般社団法人「社会的包摂サポートセンター」(東京)が24時間無料、匿名で受け付ける電話相談「よりそいホットライン」。被災3県から今年1月にかかってきた電話で、生活相談や女性相談など5つの分野のうち、自殺に関する相談は1万2638件と全体の35%を占め、全国平均の2・5倍に及んだ。

 《震災で家を失い、持病が悪化した。生活保護をもらって生きているのが申し訳なくなる。こんな自分でも生きていていいのですか。仮設住宅で電話すると隣に聞こえるので、布団をかぶってかけています》

 《原発事故後に夫が亡くなった。家族関係も悪くなり、子供たちが突然出ていってしまった。家族が離散してしまい、どのようにしてよいか気持ちの整理がつきません》

 センターの代表理事で、前岩手県宮古市長の熊坂義裕医師(62)は「震災から3年になり、将来の展望が見えてきた人と、そうでない人の格差が広がり、二極化している。阪神大震災でも3年で自殺者が増えたと聞いている。非常に危惧される状況だ」と語る。

■ ■ ■

 入居開始から2年9カ月間、自殺者、孤独死、アルコール依存症が一人も出ていない仮設住宅が、宮城県名取市にある。

 震災から2カ月弱の平成23年5月3日に入居が始まった際、101世帯257人を前に、自治会長となった元養護学校教諭、大脇兵七さん(75)は阪神大震災で問題になった自殺や孤独死のことを考えたという。

 見守り活動を始めた。家庭ごみを調べ、日本酒や焼酎の酒量が増えていないかまで確かめた。そこまでしなければ救えない命があることが分かった。部屋にこもり酒浸りの中高年男性。「酒を飲むなと言うとかえって飲んでしまう。飲みたい気持ちだって分かる」。自治会で「居酒屋」を始めた。集会所で2カ月に1度、会費200円で飲み放題。つまみは女性たちが作る。毎回40人ほどが集う。

 「現在は幸い、自殺者、孤独死ゼロが続いている。だが、今後は仮設を出て災害公営住宅へ移る。自宅を再建する人も増える。どう見守っていけばいいのか」

 東北学院大学の金菱清准教授(38)=環境社会学=は「被災地は今、曲がり角に来ている」と話し、こう述べた。

 「現在、防潮堤の高さをめぐり議論が起きているが、被災地でより深刻で重要なのは、将来の津波から命を守ることではない。今回の津波から助かった命をきょう、どのようにつなぎ留めるのか、どうやって震災関連死、関連自殺を防いでいくのかではないか」



 東日本大震災は11日、発生から3年を迎える。第3部は、被災者の心の今を見つめる。

■震災関連自殺 内閣府などは震災関連自殺を、(1)遺体を仮設住宅などで発見(2)仮設住宅などに居住(3)被災地からの避難者(4)自宅や居住地域、職場が地震や津波で甚大な被害(5)遺書や生前の言葉から震災の直接の影響あり−のいずれかの場合と定義。警察庁が認定する。復興庁がまとめる「震災関連死」にも自殺が含まれるが、これは災害弔慰金支給のため、市町村が遺族の申請により認定している。

わが子よ:東日本大震災3年 思い出せない声

 宮城県名取市閖上(ゆりあげ)で、長男の公太君(当時13歳)を失った丹野祐子さん(45)。

 「声をね。思いだせないの」。大粒の涙が丹野さんの頬を伝った。家も流され息子の声を記録したものが無い。3年の時間を痛切に感じている。遺族会を作り、市立閖上中に公太君ら生徒14人の慰霊碑を建てた。大切な人を亡くす苦しさを、もう誰にも経験してほしくない。語り部として同中前の津波復興祈念資料館「閖上の記憶」で、あの日のことを伝える。最後に必ず「また来てくださいね」と語りかける。息子が育った場所を忘れないでほしいから。帰る人が見えなくなるまで手を振り続けていた。【梅村直承】

毎日新聞
東日本大震災:「佳代、誕生日おめでとう」家族は忘れない

 ◇いつものようにケーキ 「本人がいないのに、いるように」

 2013年12月21日。東日本大震災で犠牲となった国井佳代さんの19回目の誕生日。母史映(ふみえ)さん(40)は宮城県東松島市の自宅で、この年の誕生日プレゼントにと買った真新しいジャケットを広げた。「佳代に似合うかなと思って」

 誕生日にはいつも家族でケーキを囲み、歌ってお祝いした。史映さんはこの日もケーキを用意した。「本人がいないのに、いるようにしてしまう」。部屋には就職する頃だからと春に買ったスーツも。

 仏前には友達がくれたメッセージ入りのケーキ。隣に置いた佳代さんの携帯電話は、まだ契約したままだ。

 大切な家族の誕生日−−。震災に奪われてもそれが変わることはない。今日も明日も、主役のいない誕生日を、静かに過ごす人たちがいる。【小川昌宏】


河北新報
東日本大震災3年 人口変動/地元離れ、過疎に拍車

 東日本大震災の影響で、東北の太平洋沿岸部の人口流出に拍車が掛かっている。住まいや職を求め、多くの住民が仙台市など都市部に移り住み、被災地の過疎と少子高齢化が加速。時計の針が一気に進んだような人口変動が起きている。人口減少時代に、魅力ある地域をどう築くのか。各自治体が復興に知恵を絞る。(報道部・片桐大介)

<県の値 上回る>
 国立社会保障・人口問題研究所(東京)による2015年以降の岩手、宮城両県沿岸部の人口推移はグラフの通り。福島県の市町村別の推計は、原発事故で避難者の帰還の見通しが立たないため行っていない。
 岩手県沿岸12市町村の15年の推計人口は24万5846で、震災前の10年より10.3%減少する。25年は22.6%、40年は41.6%それぞれ減り、県全体の減少率(15年4.8%、25年14.3%、40年29.5%)を大きく上回る。
 宮城県沿岸の15年人口は、仙台市を除く14市町で62万6893。10年比で5.4%減少し、25年10.7%、40年23.3%と減る。県の減少率(15年1.8%、25年5.9%、40年16.0%)と比べ過疎化は明らかだ。
 研究所人口構造研究部の小池司朗第2室長は「若者の流出が長期間続き、出生率が低下傾向にある地域で震災が発生した」と指摘。復興の進展で住民が戻るとみて「15年以降は減少幅は緩やかになる」と話す。
 だが現実は厳しい。推計を上回る速度で人口減少が進む地域がある。
 宮城県南三陸町が2月下旬、実際に町内で生活する住民の人口の概数は約1万2400(震災前は1万7666)と発表した。研究所の15年推計値1万5436を既に下回っている。町総務課は「実数はもっと少ないかと想定していた。復興のスピードを上げ、帰ってくる住民を増やしたい」と話す。

<40%高齢者に>
 人口減少は地域の高齢化を一段と速める。
 被災3県の高齢化率(人口に占める65歳以上の割合)は表の通り。岩手県沿岸部は15年時点で34.9%で、県全体の高齢化率30.6%を上回る。宮城県沿岸部も、人口流入が続く仙台市を除けば高齢化率が高い。
 宮城県女川町は40年に高齢化率が40%を超す。須田善明町長は「医療や福祉など町の機能を中心部に集約化する。世代を超えて住みやすく、模範になる町にしたい」と決意を語る。

 巨大津波が襲った東日本大震災の発生から11日で3年を迎える。農漁業、医療、教育など被災地の生活基盤の再建が徐々に進む一方で、多くの被災者が今なお仮住まいを強いられている。原発事故による避難が終わる見通しもない。被災地再生への課題を探った。

[メモ]国立社会保障・人口問題研究所は、10年の国勢調査を基に人口を推計。被災地は震災死者数、12年までの住民基本台帳による人口移動などを加味。北海道南西沖地震、阪神大震災の被災地の人口推移も参考にした。


河北新報
避難先・大阪に味な恩返し 気仙沼の男性、さんまカレー提供

 東日本大震災で被災し、大阪に避難していた宮城県気仙沼市出身の派遣社員後藤哲さん(43)が、帰郷を前に大阪の人たちへ恩返ししようと「気仙沼さんまカレー」の提供を始めた。発生から3年がたつ3月11日まで、大阪市北区の飲食店でランチメニューなどとして販売する。
 気仙沼市で健康食品の販売業をしていた後藤さんは被災から間もなく、大阪府内の知人宅に母親(80)ら家族4人で身を寄せた。
 母親が体調を崩したことから避難生活が長引いたが、自身の就業状況や家族の避難疲れなどから「そろそろ古里に戻ろう」と、ことし5月初めまでに帰郷することを決意した。
 大阪の人たちにお礼の気持ちを表すため、被災前に気仙沼市の仲間と共に開発した「気仙沼さんまカレー」の提供を発案した。協力を申し出た飲食店で2月12日から1カ月間の限定で発売。平日は500円のランチで、火曜−土曜の夜は「お通し」として提供している。
 具材の中心となるサンマは気仙沼産で、すり身の状態で取り寄せた。ヨーグルトを加えて香りと味をほどよく調え、油で揚げて「つみれ」にした。ルーは大阪バージョンとして、やや酸味の利いたトマト風味にアレンジした。
 後藤さんは「気仙沼と大阪の橋渡しになればいい」と交流拡大も期待する。店内には期間中、震災直後から現在までの気仙沼市の様子を伝える写真も展示する。連絡先は大阪市北区豊崎3の4の10「ジャスティス」。電話は06(6110)5653。


河北新報
東電汚染水漏れ/相変わらずのずさんな管理

 東京電力福島第1原発でまた、高濃度の放射性物質を含む汚染水が漏れた。保管タンクにつながる弁の開閉ミスによって、約100トンがあふれ出てしまった。不注意やミスが重なった結果とみられるが、弁の開閉について意図的な隠蔽(いんぺい)が行われた可能性も指摘されている。
 タンクからの大規模な汚染水漏れは昨年8月にも発覚した。タンク底部のパッキンが変形して約300トンの汚染水が漏れたが、今回は構造の問題でなく作業上の不手際になる。
 福島第1原発では膨大な量の汚染水が発生し、海への流出も止められないでいる。いまだに初歩的なミスを防げないのは深刻な事態であり、国は東電の管理体制を抜本的に見直す姿勢で臨むべきだ。
 汚染水漏れは「H6」と呼ばれる場所のタンク群の中の1基で起きた。放射線量は1リットル当たり約2億3千万ベクレルで、昨年8月(約2億ベクレル)を超える強さになっている。ストロンチウム90などの放射性物質が含まれているとみられる。
 別の場所にあるタンクに汚染水を入れようとしたのに、誤ってH6のタンクに入れてしまった。このタンクは既に汚染水で満杯に近かったため、天板からあふれる結果になった。
 本来はタンクにつながる配管にある弁を閉じなければならないのに、開いていたことが原因だった。
 弁の開閉を間違うのも大きな問題だが、より厳しく検証しなければならないのは東電の安全管理体質ではないか。
 あふれたタンクでは、水位が高すぎることを示す警報が鳴った。協力企業が東電に連絡したが、担当者は汚染水を入れる予定のタンクでなかったために、単なる計器異常と判断したという。
 正常に作動した警報を故障による間違いと決めつけてしまっては、安全確保が根本から崩れてしまう。
 さらに東電の調査によって、弁の開閉をめぐって不可解な事実が判明している。汚染水の漏えいが分かったのは先月19日午後11時半ごろだった。その12時間程前に撮られた写真では問題の弁は開いており、汚染水が流れ込む状態だった。
 ところが漏えいが発覚した約1時間後には、なぜか閉じていたことが分かっている。その間、弁を操作したという報告はないというから、開閉ミスを隠すために何者かが急いで「証拠隠滅」を図ったと受け止めるしかあるまい。
 原発内の作業現場は一体どうなっているのか、度重なる失態に不信感は強まる一方だ。
 東電はさらに、放射線量をこれまで過小評価していた疑いも濃厚になっている。国の原子力規制委員会から「放射線測定の基本知識が欠けている」とまで酷評された。
 当然のことだが、廃炉作業や汚染水対策のためには安全確保が大前提になる。組織の体質や科学的な知識の不足が問われるようでは、全く心もとない。


東京新聞
アンネ本の受難 「人間の善」を信じたい

 心底悲しく、憂うべき事件である。多くの図書館でアンネ・フランクにまつわる蔵書が相次いで破られた。ナチスの焚書(ふんしょ)さえ想起させる。世界の平和を願い、十五歳で逝った少女の魂を守らねば。

 破損していたのは、ナチスドイツによるユダヤ人迫害下で二年余りにわたり書かれた「アンネの日記」やその関連本である。

 東京では四十近い公立図書館や書店で三百冊を超す被害が確認されている。横浜にも及んでいた。

 手でびりびりと引きちぎったり、ナイフで切り取ったりしたらしい。図書館は監視を強めたり、開架を取りやめたりした。自由であるべき言論空間が息苦しくなるのは残念だ。

 衝撃は国内外に広がり、懸念や非難の声が上がっている。もはや単なる器物損壊事件にとどまらず、国際問題にまで発展した。

 警視庁は凶悪犯罪を担う刑事を動員し、異例の捜査態勢を敷いた。知る権利はもちろん、平和や人権を希求してきた戦後の努力を踏みにじる蛮行というほかない。

 アンネは一九二九年にドイツで生まれた。反ユダヤ主義を掲げるナチスが政権を握ると、一家は祖国を捨ててオランダに逃れた。しかし、第二次世界大戦中は占領され、隠れ家生活を強いられた。

 日記は十三歳から十五歳にかけてしたためられた。恐怖と飢えと不自由にさいなまれながらも勇気や希望、愛情を諦めず、けなげに暮らした様子が伝わってくる。

 思春期の少女の成長と苦悩が描かれた文学作品として、戦争や差別、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)を考える史料として、世代を超えて読み継がれてきた。世界記憶遺産にも登録されている。

 ユダヤ人の抹殺には加担しなかったとはいえ、かつて日本はナチスドイツの同盟国だった。日本が主権を回復した五二年に初めて日記の邦訳が出版されたが、オランダ国内には反発もあったという。

 日本は今日までアンネと共に歩んできた。なのに、最近ではホロコーストの歴史を否定したり、日記の創作説を唱えたりする動きもネット上で目立っている。

 在日コリアンを攻撃するヘイトスピーチも同根だ。差別を助長し、日本の国際的信用を損ねる愚行である。互いの違いを認め、尊重し合う寛容さ、謙虚さの欠如は民主主義を危うくする。

 絶望的な境遇下でも、アンネはつづった。「人間の本性はやっぱり善なのだ」と。その言葉の重みをあらためてかみしめたい。


東京新聞
ビキニ60年 「死の灰」は今も、の怖さ

 米国が太平洋ビキニ環礁で行った水爆実験で日本の漁船が「死の灰」を浴びた惨禍から六十年。被ばくした元乗組員や周辺の島民らの苦悩は今も続く。核は許されない、その思いを新たにしたい。

 東京・井の頭線渋谷駅の連絡通路に巨大壁画がある。岡本太郎さんの「明日の神話」。水爆さく裂の瞬間がマグロ漁船「第五福竜丸」とともに描かれた代表作だ。

 「福竜丸」は一九五四年三月一日、中部太平洋のマーシャル諸島で行われた米国の水爆実験で、放射能を含む「死の灰」を浴びた。威力は広島に投下された原爆の約千倍。二十三人の乗組員は全員急性放射線障害を発症し、四十歳だった無線長の久保山愛吉さんが半年後、入院先の東大病院で亡くなった。生き残った多くの人もその後肝臓がんなどで亡くなり、生存する七人も病魔と闘っている。

 水爆実験で被災した日本漁船は福竜丸だけではない。米ソ冷戦下、四八年から五八年まで行われた実験は六十七回に及び、日本政府の調査では少なくとも八百五十六隻の被ばくが判明している。福竜丸の被ばく後も実験を知らない漁船が海域で操業していた。

 しかし、福竜丸が強調される一方で、他の被災漁船の乗組員の被ばくは軽視され、事件は矮小(わいしょう)化された。五五年に米政府が日本政府に支払った慰謝料は、汚染魚の買いとりや廃船費などに充てられたが、乗組員の健康について追跡調査などは行われなかった。

 ビキニ事件は広島、長崎の原爆投下に続く核被害として、核廃絶運動の原点となりながら実態は明らかにされず、九五年に施行された被爆者援護法の対象にもならなかった。一部の被災漁船の乗組員の調査ではがんによる死亡が多発し、内部被ばくによる晩発性の障害に苦しんでいた。

 何の補償も、救済もない。差別や偏見を恐れ、被ばくの事実を語れずに生きてきた。仲間を失い、高齢になって健康調査に協力を申し出た人も出ている。時間との闘いだ。ビキニの被害は今も続く。忘却してはならない。

 死の灰で苦しむのは実験地にされた太平洋の島民も同じだ。米国の進める帰還政策に従う間に甲状腺異常や白血病などが広がった。福島原発事故の被害も過小評価し、同じ轍(てつ)を踏んではならない。

 大切なふるさとを奪い、健康や生活を壊す。生きる権利を蝕(むしば)む核−。この問題とどう向き合うのか。静かに考えてみたい。


毎日新聞
東日本大震災3年:迷い悩み、覚悟の春 古里の校舎、足踏み入れることなく 原発事故避難、福島・サテライト高で卒業式

 福島県立高校(96校)の大半で卒業式が1日あり、1万5050人が巣立つ。東日本大震災が起きた3年前の3月11日、県内の多くの公立中学校を卒業した生徒たちだ。福島第1原発事故に伴う避難区域内にあった8高校の卒業生計307人は、仮設校舎などを利用した「サテライト校」で学んできた。3年間、一度も本校舎に通うことなく高校生活を終える。【中尾卓英、樋口岳大】

 県立双葉高(双葉町)の卒業式は午前10時から、いわき明星大(いわき市)内のサテライト校の講堂であり、前生徒会長の山本未来(みき)さん(18)が卒業生34人を代表し、涙ながらに「別れのことば」を述べた。

 <中学生の時に思い描いていた高校生活とは、かけ離れた日々が続きました。慣れない土地での生活。少人数のクラス。行事の少ない学校生活。精神的に追い詰められた日々。当然、私たちも迷いました。悩みました>

 あの日、中学卒業式から帰宅後、揺れに襲われ津波も見た。東京電力の下請け会社に勤める父(51)、小学校教員の母(45)と中学1年の妹、祖父母との6人家族。栃木県の親類宅などを転々として2011年4月、いわき市へ。県内4カ所に分散した双葉高のサテライトのうち、一つが市内の高校にできたからだ。食堂を使った教室で一緒なのは12人、女子は1人だけ、入学式も制服もない。同級生160人の多くは県内外に移り「双葉高」を選んだのは4カ所で計40人にとどまった。

 2年生になり、4カ所のサテライトが、いわき明星大に集約され同じ教室で学べるように。入学1年後の初対面で当初は戸惑いも覚えた。支援のお陰で実現した愛媛県への修学旅行、野球部の応援、学校創立90周年記念事業で取り組んだ映画製作……。共に重ねる日々が絆を深めていく。

 <人数は少ないですが最高の仲間たちとともに過ごすことができたこと、私たちはずっと忘れません>

 国語教師を目指して関東の大学に進む。3年後の教育実習時、双葉高など双葉郡の5校は統合されて中高一貫校となっている。「なくなってしまうかもしれない古里のすばらしさを伝えられる先生」が目標だ。実現できた時、支えてくれた人々に感謝を伝えられる、と信じている。

 <堂々と社会の荒波に立ち向かっていく覚悟です>


毎日新聞
福島・サテライト校:双葉高卒業生代表 別れのことば全文

 福島県立高校(96校)の大半で卒業式が1日あり、1万5050人が巣立つ。県立双葉高(双葉町)の卒業式は午前10時から、いわき明星大(いわき市)内のサテライト校の講堂であり、前生徒会長の山本未来(みき)さん(18)が卒業生34人を代表し「別れのことば」を述べた。
 ◇「別れのことば」

 福島県立双葉高校第66回卒業生代表

 山本未来

 今こうして顧みますと、高校での3年間の生活は短く、一瞬の出来事のようでした。千年に一度と言われた東日本大震災と、それに伴う東京電力福島第1原発の事故により私たちの生活は一変してしまいました。今まで耳にしたこともないサテライト校という特殊な教育環境で高校生としての第一歩を踏み出したのは5月9日のことでした。双葉高校での生活を楽しみにしていた多くの仲間たちが県内外の高校に転学していき、制服もなく、入学式も経験していない中の40人のスタートでした。中学生の時に思い描いていた高校生活とは、あまりにもかけ離れた日々が続きました。慣れない土地での生活。少人数のクラス。行事の少ない学校生活。精神的に追い詰められた日々。当然、私たちも迷いました。悩みました。でも双葉高校に残ることで何かが見えてくるのではないかと思い、残ることを決意しました。県内4カ所に分かれていた私たちが初めて顔を合わせたのは、本宮総合体育館でした。その時、先輩たちは離ればなれになっていた先生たちや友人との再会を喜び合っていましたが、初対面の私たちは戸惑いを隠せずにいたことを覚えています。

 2年生に進級し、双葉高校はいわき明星大学に集約され、初めて私たちは同じ教室で学ぶことができるようになりました。1年間離れていた日々を埋めるように打ち解け合い、同じく集約された双葉翔陽高校、富岡高校との3校合同球技大会などで、その絆はさらに深くなりました。また、遠足や3校合同ステージ発表会などの行事が増え、やっと高校生らしい生活を送れるようになったという喜びはとても大きいものでした。愛媛県の方々の温かいご支援により実現した修学旅行は、みかん狩りやぞうきんがけレース、そして八幡浜高校との学校交流は忘れられないものとなり、ひと味違った心に残る修学旅行となりました。4日間寝食をともにし、仲間との友情を再確認したことは言うまでもありません。

 声を限りに応援した夏の高校野球大会。最後まであきらめない野球部のみなさんの姿に感動しました。ボランティア部と生徒会で、お世話になっているいわき市への恩返しとして始めた清掃活動では、先輩方にも活動の輪が広がり、とても充実した活動となりました。そして創立90周年の記念事業の一環としてクラスごとに挑戦した自主映画製作。シナリオから編集まですべて行うのは、受験を控えている立場から考えるととても心配でした。最初のシナリオから壁にぶつかり、その不安は大きくなるばかりでした。しかしその壁を乗り越えると意外にも作業が進み、撮影が終わるまで短く感じました。上映会でも各クラスの完成度の高さに驚くばかりでした。すべての生徒が協力し合って完成させた作品を見て、双葉高校が一つになったと感じた瞬間でした。

 この3年間、辛(つら)かったことも、楽しかったことも、悲しかったことも、私たちにとっては何物にも代えがたい大切な思い出という宝物になりました。そして、その思い出の中には、いつも、いつも、仲間たちがいました。ともに笑い、ともに涙を流した友がいました。一生に一度しかない高校生活を、この双葉高校で、人数は少ないですが最高の仲間たちとともに過ごすことができたこと、私たちはずっと忘れません。お互いに支え合い、競い合ってきた仲間がいたからこそ、今日、そろって晴れの日を迎えることができたのだと思っています。

 在校生のみなさん、困難な状況の中で、私たちとともに双葉高校に通うことを決意してくれたことを誇りに思います。平成27年度より生徒募集は停止する、と県教育委員会よりの発表がありました。今後、双葉高校は単独校としての存続は難しくなりました。でも周りにはかけがえのない仲間がいます。支えてくださる先生方がいらっしゃいます。仲間たちとの絆を深め、毎日を大切に過ごしてください。応援しています。

 私たちはこれから自分たちが選んだ道を進んでいきます。この双葉高校で培った質実剛健、終始一貫の精神を胸に、堂々と社会の荒波に立ち向かっていく覚悟です。人として、また双葉高校の卒業生として恥ずかしくない人生を一歩一歩確実に歩んでいく覚悟です。

 最後になりましたが、本日、私たちの卒業式にご臨席くださいました来賓のみなさま、3年間、時には厳しく、時には温かく、情熱的にご指導くださいました校長先生はじめ諸先生方、本当にありがとうございました。私たちの進路希望実現のため、校長先生自ら面接指導をしてくださいました。本当にありがとうございます。私たちのわがままを温かく見守り支えてくれた両親と家族。そして私たちを受け入れてくださったいわき明星大学と地域のみなさまに感謝申し上げ、別れのことばといたします。ありがとうございました。さようなら。



「復興の光になる」 震災被災地で卒業式

 東日本大震災の被災地で1日、県立高校の卒業式があった。

 津波を受けた校舎が使えなくなり、仮設校舎で授業を続けている宮城県農業高校(名取市)の卒業式は同市文化会館であった。3年生228人は3年間を仮設校舎で過ごした。

 長谷部朋美さん(18)は答辞で「部活動で毎日夜まで過ごした仮設校舎は、いずれすっかり取り壊されます。3年間学んだ場所が無くなってしまうのは寂しいです」と仮設校舎との別れを惜しんだ。

 津波で校舎が全壊した岩手県立高田高校(陸前高田市)でも、3年間を仮校舎で過ごした3年生169人が巣立った。大船渡市の仮校舎であった卒業式で、生徒代表の及川詩央里(しおり)さん(18)は「被災地の復興の光になれるよう頑張っていきます」と話した。

 東京電力福島第一原発事故による全町避難が続く福島県立浪江高校(浪江町)は、仮設校舎のある同県本宮市のホールで卒業式。

 「高校生活がスタートするのを不安に思いながら見た5月の空をしっかり覚えています」。卒業生代表の半谷(はんがい)竜磨(たつま)さん(18)は震災と原発事故をそう振り返った。声を詰まらせながら「先生たちにお会いできて本当によかった。ここで出会えたクラスの仲間にも感謝の気持ちを伝えたい。ありがとう」と述べた。

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On ne voit bien qu'avec le coeur. L'essentiel est invisible pour les yeux. (Le petit prince)
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