フランス語の勉強?

mars 2015

机移動/桜満開/北新地でワイン

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≪ Le bon sens est la chose au monde la mieux partagée : car chacun pense en être bien pourvu. ≫
de René Descartes
Il fait un temps de chien aujord'hui.
The weather is terrible today.
フランス語
フランス語の勉強?

机を移動しました.Hyさんのお隣です.風景が少し変わりました.
今日で退職のTaさんと少しお話をしました.枚方でもお仕事頑張られてきた方です.
しのの後ピザをいただきました.いつものようにマルゲリータ.ピッカンテpiccanteという辛いオリーブオイルをかけて食べました.辛すぎ.
帰りに公園によると桜満開です.仕事している場合ではない感じです.
ちょっと仕事をして妙に行きました.あまり集中できなかった気がします.
松江の地伝酒どら焼きを食べました.
北新地でワインをいただきました.Plan Pégauです.つきだしのサバはイマイチでした.

被災地マンパワー不足深刻 派遣職員数頭打ち
 東日本大震災の復興事業が本格化している岩手、宮城両県の被災地で、全国の自治体などから応援に派遣される職員数が頭打ちになっている。被災自治体は派遣拡大の要請を続けるが、2015年度当初の派遣職員は、両県合わせて14年度末に比べて76人減になる見通しだ。必要な職員数は増えており、職員不足に直面する自治体の苦境は深まっている。(坂井直人)
 両県が集計した被災市町村の職員確保状況の推移はグラフの通り。4月1日時点の派遣職員数は岩手530人、宮城944人の見込みで、いずれも3月1日時点より38人減少する。
 被災市町村は、任期付き職員などを採用して人員のやりくりを図る。だが岩手は88人、宮城は324人がそれぞれ不足する。充足率は岩手88.8%(3月1日比5.7ポイント減)、宮城は79.5%(6.2ポイント減)と低下する見込みだ。
 派遣元の自治体は、行政改革で職員削減を進めており、地元でもぎりぎりの職員数で業務に当たる。14年度末で派遣を取りやめる九州地方のある市の担当者は「業務量自体も増しており、1人でも抜ける穴は大きい」と理解を求める。
 派遣を調整する総務省公務員課は「震災から4年がたち、復興が進んでいるだろうと思われている面もある」と指摘する。
 復興事業がピークを迎える自治体は頭を抱える。石巻市は4月1日時点の充足率が74.7%にとどまる。11市町が14年度末で派遣を終えた。民間による雇用も活発で、任期付き職員も思うように採用できていない。
 同市の人事担当者は30日に宮城県庁であった関係者会議で、県や国に「(被災規模が大きい)『激戦地』に職員を多く集めてほしい」と、派遣先の「選択と集中」を求めた。
 人員不足は復興の遅れや職員の負担増につながりかねない。宮城県内では15年度中に若干の追加派遣を見込めるというが、同年度末までの集中復興期間の終了は派遣職員のさらなる先細りも懸念される。
 宮城県は派遣元の自治体と連携し、復興の進行状況なども踏まえて派遣先の市町の振り替えを検討する。全国の人事担当者らを招き、復興が遅れる現場を直接見てもらう企画も準備する。県市町村課は「応援の必要性への理解を求めていく」と話す。


<災害公営住宅>気仙沼の一戸建て入居開始
 気仙沼市が計画する災害公営住宅整備事業で一戸建てタイプの初めての入居開始式が30日、同市長磯下原の現地であった。市内の工務店などでつくる一般社団法人「気仙沼地域住宅生産者ネットワーク」が建築を担い、地場産材を使って住宅を仕上げた。
 完成した「市営長磯浜南住宅」は計20戸で、辞退した1世帯を除く19世帯36人が入居する。いずれも木造平屋で、建築面積55、65、80平方メートルの3種あり、対面式キッチンには、気仙沼市が水揚げ量日本一を誇るカツオが丸ごと入るシンクを採用した。
 式では生産者ネットワーク代表理事の熊谷敬一郎クマケー建設社長が「地元業者が連携して施工した。地場産材をふんだんに使った住み心地を楽しんでほしい」とあいさつした。
 母、次男と入居する旅館業辻〓一さん(55)は「入居者同士が力を合わせ、楽しい生活をつくっていきたい」と笑顔を見せた。
 生産者ネットワークは木材供給や建築、設備工事に携わる94社・団体で構成。市と協定を結び、災害公営住宅2155戸のうち、2017年1月までに15地区で一戸建てと長屋タイプの809戸を建築する。市内では集合住宅タイプ165戸が完成している。
(注)〓は隆の生の上に一


<祈りと震災>(27)戻るまで翼で魂包む
 翼を広げた新しい教会がいわき市にある。60キロ離れた故郷、福島県大熊町の福島第1聖書バプテスト教会を向く。
 福島第1原発事故後の2013年5月、教会は避難先のいわき市で再出発した。

 上から見ると、鳥が羽ばたこうとしている姿のようだ。「翼の教会」と呼ばれる。
 建物の最も大熊寄りにあるのは、鳥の頭頂部に位置する「天望室」。仮の納骨棚を設けた。東日本大震災の後に亡くなった教会員ら10人の遺骨や遺影が並ぶ。
 大熊の教会は帰還困難区域に指定され、立ち入りが制限されている。「天国と故郷に一番近い天望室で休んでほしい」。牧師の佐藤彰さん(58)が思いを語る。
 大熊にも立派な納骨堂がそのまま残っている。原発から約5キロ。08年に建て直した教会の敷地内の別棟にあり、約50人の骨箱が眠る。
 ここは床に大理石が張られ、ステンドグラス越しの光が温かく照らす。クリスマスや夜の集いは電気をつけ、生者と死者が同じ敷地の中で一緒に礼拝した。
 原発事故で、大熊で日常的に礼拝をすることはできなくなった。帰郷の見込みも立たない。
 翼の教会では、仮の納骨棚の亡き人と避難生活を送る信徒がすぐ近くにいる。佐藤さんは両者の胸中を代弁する。
 「放射線量の高い地域で新たに納骨するわけにはいかない。戻れるまでは、礼拝が毎週ある翼の教会で優しく包まれる方がいい」

 13年4月、ほぼ完成した翼の教会で初の納骨式があった。96歳で亡くなった大熊町出身の男性のお別れ会だ。
 元海軍将校。原発事故で福島県富岡町の入院先の病院から避難を強いられ、栃木県の老人ホームで暮らした。大熊の自宅には戻れなかった。
 「でも避難先で亡くなったことを不幸とは言い切れない」。佐藤さんは説く。
 旅立った時、男性の顔は笑っていたと聞いた。
 「彼は震災を乗り越えたのではないかと。心の底までは悲しみに沈んでいなかった」
 お別れ会では100人近い参列者が賛美歌「神ともにいまして」を唱え、花をささげた。歌詞の中には翼が出てくる。
 御門(みかど)に入る日まで 慈しみ広き 御翼(みつばさ)の陰に 絶えず育みませ また会う日まで また会う日まで 神の守り 汝(な)が身を離れざれ
 人生の旅路での別れを表した歌だ。御門は天国を表す。天に召すまで神様が守ってくれますように−。歌に込めた願いは災後の教会の歩みと重なる。
 礼拝に集う信徒らは思う。望郷の念を帯びた翼をはためかせ、共に帰る日を。


<二つの祖国>悲しみ共有 前を向く/(下)天命
 「再び命をいただきました」
 2011年夏、横浜市であった講演会で、ルワンダ大虐殺を生き延び、福島市に移住したカンベンガ・マリールイズさん(49)はこう切り出した。
 ルワンダ大虐殺で難民となり、以前に10カ月間滞在した縁で福島の人たちに助けられた。第二の古里と決めた福島で4年前、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故に遭った。
 「自分だけの命ではない。他人のために生かされた」。「天命」との思いは、3.11を経てますます強まっている。

 ルイズさん一家の救出という大役を果たした福島の救う会は、2000年、NPO法人「ルワンダの教育を考える会」に衣替えし、ルイズさんが理事長に就任した。
 福島を拠点に活動資金を得て、ルワンダの首都キガリに学校を建てて運営に取り組み、母国の発展を第二の古里から支援してきた。
 そんな中、大地震と原発事故が起きた。発生から1カ月を待たず、ルワンダ・コーヒーや紅茶、手作りクッキーを車に積み込み、県内各地の避難所を回り始めた。
 「難民キャンプでは、人が訪ねてくれるととても勇気が出た。とにかくできることをしようという思いだけ」
 2月下旬、ルイズさんは二本松市赤井沢にある浪江町民のための旧平岩小仮設住宅にいた。11年夏から月1回、「ルワンダカフェ」を開き、交流を深めている。
 自治会長の天野淑子さん(63)は「ルイズさんと話をすると自然と涙がこぼれてくる。私の方が年上なのに、母のように慕っている」と打ち明ける。
 天野さんは震災の発生直後、前橋市に避難した。現在の仮設に11年8月に移ったが、ほぼ1年間、ショックで引きこもり状態だった。12年4月、ルイズさんと出会い「人と壁をつくらない性格に癒やされ、少しずつ変わった」と感謝する。

 変化はほかにも起きた。仮設では、大量に届いた善意の古着をどうするかが課題だった。ルイズさんは「リメイクし、有効活用してみたら」と提案。住民が作業を通じ、仮設内で役割を得られるとの思いもあった。
 仮設に引きこもりがちだった女性たちが震災前のようにミシンを踏み、古着をほどく。「古着の再生を通じ、仮設全体が活性化した」と天野さんは振り返る。
 活動的なルイズさんは周囲からよく、「福島への恩返し?」と尋ねられる。
 「恩返しなんかできない。これまでも何一つできていない。ただ、住み慣れた古里を『突然出て行け』と言われ、しかも身内まで失った経験は多くの被災者と共有できる」
 3年前に日本国籍を取得し、福島は文字通り第二の古里になった。1万2000キロ離れたルワンダと福島。二つの祖国をこれからも生きていく。


震災体験冊子、こつこつ増刷7000部に
 仙台市宮城野区蒲生で被災した会社員片桐勝二さん(64)が、東日本大震災の体験をつづった冊子を作り、自宅があった場所に近い慰霊塔前に置いて自由に手に取ってもらっている。目に留めた人が一冊ずつ持ち帰り、その数は2年半で約7000部に上る。

 2012年秋にまとめた冊子はA4判、11ページ。「中野小学校へ避難した600人の人達(たち)と過ごした24時間」と題する。逃げ込んだ同小の校舎で津波のため孤立し、励まし合いながら夜明けを待ちヘリコプターに救助されるまでを書いた。
 震災の記憶を伝えていく一翼を担おうと、文章で当時を記録しようと思ったのが冊子作りに取り組んだきっかけだった。コピー用紙を自費で購入し、こつこつと増刷してきた。
 若者が自発的にトイレ掃除する姿や、児童が廊下の泥のかき出しをする様子も盛り込んだ。「避難所で周りの人と助け合うことの大切さを感じた」。片桐さんは振り返る。
 冊子の末尾は自作の詩「避難」。災害時に生き抜くための心得をつづった。
 冊子は旧中野小の跡地に建てた慰霊塔前に置いてある。週1度のペースで手を合わせ、四角い菓子缶に補充する。被災地ツアーの訪問客らが持ち帰っているとみられ、月200〜250部が減っているという。
 同小学区内では住民ら151人が犠牲になった。片桐さん自身は蒲生にあった自宅、実家がいずれも津波で全壊。母親と兄夫婦を亡くしている。
 現在は仙台市内のみなし仮設で暮らし、近く宮城野区の新しい住まいに移る。片桐さんは冊子を通して伝えようとするメッセージをあらためて思い、「大災害時にどのような行動を取るべきか、特に若い世代に考えてほしい」と語った。

「避難」
上がれ!
上がって、生きろ!
必死に高台へ上がって、生きろ!
下を見ないで、ただ必死に高台へ上がって、生きろ!
上がりきって、生きたら、ゆっくりと下を見ろ!!
何もなくても、身一つあれば、
そこには、やるべきことがある。
そこにはやらなければならないことがある。


集中復興期間の延長を政府要望 村井知事
 村井嘉浩知事は30日の定例記者会見で、東日本大震災の集中復興期間延長と財政上の特例措置を求め、被災した沿岸15市町の首長と合同で4月14日、政府に対する要望活動を行う方針を明らかにした。
 23日には青森、岩手、福島3県の各知事と同様の要望活動を行う予定。村井知事は「官僚や政府高官の間には『被災地が過剰にハードを整備し、ぜいたくをしている』という誤解がある。実態を把握していない」と批判した。
 その上で、集中復興期間が切れる2016年度以降の復興財源について「政府は地元の一部負担を念頭に準備している。応援職員などのソフト事業を含め、譲れない一線があると示す必要がある」と強調した。
 南三陸町防災対策庁舎の保存の是非をめぐり佐藤仁町長に提案した20年間県有化については、遺族への説明のため4月9日に町役場を訪問する考えも正式に表明。村井知事は「賛否両論があるが、保存の価値があると結論付けた有識者の判断を示し、議論に冷却期間が必要なことを伝えたい」と述べた。


被災地に 心通わす 五七五 仮設で句会
 小牛田農林高の文芸部が29日、東松島市の矢本運動公園仮設住宅の東集会所で句会を開いた。俳句を通じた被災地支援で、住民から「高校生に元気づけられ、ありがたい」と好評だった。

 東集会所を訪れたのは、文芸部長の長谷部圭介君(17)ら生徒6人と顧問の高橋かおる教諭(56)。地元からは小学4年生の女子1人を含め、高齢者を中心に8人が参加した。
 句会開催は、東日本大震災発生直後に河北俳壇選者の高野ムツオさん(多賀城市)が文芸部の俳句指導をしたのがきっかけ。生徒が「文芸部として被災地支援に何かできないか」と、仮設住宅での句会を始めた。
 この日は、高野さんから預かってきた季題「木の芽」と「春の風」を高橋教諭がその場で発表。参加者全員に40分間が与えられ、創作に挑んだ。
 記名投票の形で選句し、「木の芽」では1位に地元の大江和子さん(72)の「老木に今年も芽が出 頑張れと」が選ばれた。「津波の跡地に老木を見つけた。人間に例え、老木を応援したくなった」と大江さんは言う。「春の風」では、文芸部の只埜元希君(16)の「春風や追い風の中ペダル踏む」が若者らしい作品と高評価を受けた。
 文芸部が初めて句会を開いたのが、震災翌年の2012年4月。同じ集会所を会場に年2回開催しており、今回で7回目となった。


福島原発:作業員への給食センター 大熊町に開所 東電
 ◇昼食だけで1日最大3000食を提供

 東京電力は31日、福島第1原発(福島県大熊、双葉町)で働く作業員に食事を提供するための給食センターを大熊町に開所した。当面は試験的に運用し、6月上旬には値段を決めて営業を始める。

 センターで調理した食材を約9キロ離れた同原発にトラックで運び、昼食だけで1日最大3000食を提供する。メニューは2種類の定食と麺、丼、カレーで、原則的に県産食材を使用する。

 同原発で働く作業員は1日約7000人。これまではおにぎりや弁当を持ち込むなどしていただけに、大盛りカツカレーを試食した小野明所長は「これで腰を据えて廃炉作業に取り組める」。【岡田英】


マイナンバー制 「何のために」を丁寧に
 年金や納税などの情報を一元管理する共通番号(マイナンバー)制度の利用が来年1月、始まる。今から半年後の10月には、赤ちゃんからお年寄りまで、住民票のある全ての人に12ケタの番号が通知されることになっている。

 ところが、国民にも、また中小企業などにも、内容がほとんど伝わっていないのが実情だ。国民の理解や支持なしでは成功しない。政府は制度の目的と不安の解消策の説明に、もっと力を入れる必要がある。

 今国会には、マイナンバーの利用対象を銀行預金口座などに広げるための法案が提出されている。だが、利用範囲の拡大という以前に、そもそもこの制度が何のために導入され、誰のためになり、どういうリスクを伴うのか、また伴わないのか、という基本的な情報が国民に十分届いていない点が問題だ。

 内閣府が今年1月に実施した世論調査によると、「内容まで知っていた」と答えた人は28%に過ぎなかった。いまだに9割近くが制度の内容を知らないとの結果が出た民間調査もあるようだ。

 不安が先行するのも無理はない。内閣府の調査では、マイナンバー情報の不正利用に対する懸念を挙げた人の割合が32%と、約3年前の調査と変わっていなかった。

 理解が進んでいないのは一般市民だけではない。企業も従業員の税や社会保険に関する手続きで、従業員本人や扶養家族のマイナンバーを取り扱うことになる。情報が漏れれば罰則の対象となるため、どのような管理体制が必要なのか、何が違反にあたるかなど、不安や戸惑いがあるようだ。制度そのものを知らないという中小企業も珍しくないという。

 マイナンバーの適用範囲を拡大する法案に盛り込まれた預金口座への付番は、高齢化に対応した税制や社会保障制度を取り入れていくうえで基盤となるものだ。本当に公的支援を必要とする人に給付を限定したり、裕福な高齢者の実質負担を増やしたりするなど、メリハリのある制度で、社会保障費の伸びを抑える必要がある。それには、共通番号を通じ、行政が個人の資産や所得を合算して正確に把握することが不可欠なのだ。

 だが、今回の法案では、預金口座への付番が強制力の伴わない任意扱いとなった。「漏れ」を許すような制度では信頼が得られない。

 早期の義務化には国民の強い拒否反応が予想されるが、だからこそ、「何のために」の説明に今、力を入れる必要があるのだ。「便利になる」「効率的に管理できる」だけでは、わざわざ不安を伴うものを導入しなければならない意味が、伝わらないだろう。

Naさん髪バッサリ/倫理教育/ロッカー移動

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Départementales : triomphe de la droite, débâcle à gauche, déception au FN
La droite est sortie largement victorieuse du second tour des départementales dimanche, contrôlant désormais deux départements sur trois, face à une débâcle de la gauche. Le FN n'a finalement remporté aucun exécutif.
L'UMP et les centristes de l'UDI sont sortis vainqueurs du second tour des élections départementales en France, dimanche 29 mars. Malgré un bon score, le Front national ne remporte finalement aucun département.
Le parti de Marine Le Pen voit le Vaucluse, département en lequel il fondait ses espoirs, lui échapper, ainsi que l'Aisne. L'institut de sondages CSA lui attribue toutefois entre 44 et 54 élus départementaux, soit environ 1 % du total. Marine Le Pen s'est ainsi félicitée d'un "niveau électoral exceptionnel", d'"une étape cruciale [...] sur le chemin du pouvoir".
Selon les résultats complets compilés par l'AFP, la droite (UMP-UDI-UC-MoDem) l'a emporté dans 66 départements, alors qu’elle en détenait jusqu’à présent 40. Outre la Corrèze, terre d'élection du président Hollande, l'Ain, le Cher, l'Eure, le Jura, le Nord, la Seine-et-Marne, le Doubs, la Creuse, l'Isère, la Drôme, la Saône-et-Loire, le Territoire de Belfort, les Deux-Sèvres, les Pyrénées-Atlantiques, notamment, ont été conquis par la droite. Seule la Lozère passe à gauche. Quant au Parti communiste, il perd l'Allier, mais conserve le Val-de-Marne, son dernier bastion. Au total, ce sont 34 départements (contre 61 avant les élections) qui seront désormais dirigés par la gauche. La bascule de gauche à droite concerne 25 départements.
La droite remporterait en métropole de 1 137 à 1 157 cantons (sur 2 054), contre 776 à 796 à la gauche et 43 à 47 au Front national, selon une projection CSA. Ce deuxième tour sera suivi d'un "troisième" jeudi, lorsque les conseillers départementaux fraîchement élus désigneront les présidents des départements, un processus épineux là où les majorités sont relatives.
Gauche "trop dispersée"
"Jamais sous la Ve République, notre famille politique n'avait gagné autant de départements", s'est réjoui Nicolas Sarkozy. "C'est le mensonge et le déni, c'est l'impuissance qui ont été sanctionnés", a-t-il ajouté, ouvrant sans ambiguité la pré-campagne pour la primaire de 2016 à droite.
Depuis Matignon, Manuel Valls a reconnu dès 20 h 05 une victoire "incontestable" de la droite républicaine et le "net recul" d'une gauche "trop dispersée". Le Premier ministre et le chef de l'État, qui espéraient limiter l'hémorragie, sont désormais sous la pression des "frondeurs", qui ont publié sans attendre dimanche soir un communiqué commun en faveur d'"un contrat de rassemblement". "Sans changements sincères dans les politiques, sans renouvellement de la pratique du pouvoir, la dispersion de la gauche sera irréversible", prédisent-ils. Le chef de l'Ét prévenu dès avant le 22 mars qu'il n'infléchirait pas la ligne politique, quel que soit le résultat, et qu'il maintiendrait Manuel Valls, bête noire de "la gauche de la gauche", à Matignon.
Ce scrutin marque une quatrième défaite consécutive de l'exécutif pour un scrutin intermédiaire, après les municipales, les européennes, les sénatoriales et avant le dernier test pré-présidentielle de 2017, celui des régionales en décembre. Dimanche soir, le président du groupe socialiste à l'Assemblée nationale, Bruno Le Roux, a pourtant estimé que la défaite du PS aux départementales constituait un "échec sérieux" mais pas "historique".
Avec AFP et Reuters
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NHKスペシャル 命と向きあう教室〜被災地の15歳・1年の記録〜
「命は、強くて弱い、美しいもの。でも僕は答えを出せていません」(東日本大震災で母と姉を亡くした男子生徒の作文)。
震災から4年。宮城県東松島市の鳴瀬未来中学校の3年生82人が、1年間かけて授業で「命」と向きあっている。震災を体験した生徒同士が、毎月1回、作文を発表し、それに対する感想を伝え合う。親しい人を失った悲しみを誰にも打ち明けられずに抱え込み、心にふたをしているように見える生徒たちを心配した教師が、児童心理や教育学の専門家と相談しながら始めた。涙ながらに体験を吐露する友人に同級生が言葉を掛け合う命の授業は、心のケアにつながる可能性があるだけでなく、人が抱える痛みに思いをはせ、いたわり支えあうという、人として最も大切なことを学ぶ場にもなろうとしている。
卒業式、そして3月11日をへて、それぞれの未来へ一歩踏み出すまでの15歳の1年を見つめる。
【語り 高畑充希】
肌で感じながら、なかなかうまく表現出来ない「空気」というものがあります。仙台放送局で3年被災地の取材をしながら、いつももどかしい思いをしていたのが、今、3年、4年と時間が過ぎる中で、被災地に暮らす人々にとっての震災との距離感の「空気」でした。日本のどことも変わらない、喜怒哀楽のある日常を送りながら、すぐ隣り合わせにある「震災」。悲しく、できれば思い出したくないものでありながら、心の奥のある部分を占め続ける「震災」。いつもは、テレビカメラでの撮影という非日常の空間で、インタビューや取材を行うことになり、中々その「空気」を描くことができませんでした。今回は、教室という場に何度も通う中で、率直で飾らない子どもたちの力で、その「空気」が少し描けたような気がします。できれば口にしたくない、でも忘れることはできない、随分遠くの出来事のようでもあり、まだまだ最近の出来事でもある。4年というある意味「中途半端」な月日は、しかし、私たちがどう「震災」と今後向きあっていくのかの分岐点でもあるように思いました。そのような現場にカメラが入る事を許してくれた先生と生徒達に改めて感謝の気持ちを伝えたいと思います。


久しぶりにナノザに行ってみました.Naさんの長い髪がバッサリ短くなっていてビックリです.
Koさんから倫理教育に関して早いうちにネットで受講しなさいとのアドバイスがありました.面倒だけどやるしかありません.
ロッカーを移動しました.明日は机の移動です.
Shさんはコートを買ったそうです.暖かくなるのに???

有名建築家、被災地で活躍 設計施設が続々
 東日本大震災の被災地で、有名建築家が設計した公共施設が続々と誕生している。復興支援の一環として手掛けられたもので、集会所や駅舎、児童施設など種類はさまざま。独創的な外観で地域再生の象徴となるだけでなく、被災地に多くの人を呼び込む観光資源としての役割も期待されている。
 3月21日、JR石巻線の全線再開に合わせて、再建された宮城県女川町の女川駅も開業した。丸みを帯びた屋根の建屋は、建築界のノーベル賞とされる米プリツカー賞に輝いた坂茂氏が設計した。坂氏は町内の仮設住宅、相馬市のケア施設「子どもアート・メゾン」も担当している。
 宮城県南三陸町では、世界的に知られた隈研吾氏が市街地再生の全体構想の策定を担う。同氏は市街地と復興祈念公園をつなぐ橋の設計も手掛けており、2016年度の完成が見込まれている。町内には著名な手塚貴晴、由比夫妻の手による「あさひ幼稚園」も建っている。
 公共施設は建設費や仕様に制約がある場合が多く、著名な建築家を設計者に起用できる機会は少ない。震災後、被災自治体には数多くの建築家から協力の申し出があり、意匠を凝らした建屋の整備が可能になった。
 デザインの提供にとどまらず、建設費用を自ら調達しているケースもある。プリツカー賞を受けた伊東豊雄氏、山本理顕氏ら建築家5人は「帰心の会」を結成。釜石市平田や仙台市宮城野区の仮設住宅など岩手、宮城、福島3県の12カ所に、集会所「みんなの家」を誕生させた。
 東松島市宮戸では14年、グループメンバーの妹島和世氏らが「SANAA」のユニット名で「宮戸島月浜のみんなの家」を整備した。地元の民宿組合の桜井幸作組合長は「有名建築家による建物目当ての来訪も期待できる。現地で地域の魅力も感じてほしい」と話している。


<祈りと震災>(26)成仏できるわけない
 「おやじは成仏しただろうか」。須賀川市の農業樽川和也さん(39)が虚空に問う。
 無理だと思った。「布団の上で死ねなかったんだから」
 東京電力福島第1原発事故から約2週間後の朝、父久志さん=当時(64)=は自宅の裏で自ら命を絶った。遺書はなかった。放射性物質が拡散する中、将来を悲観したとみられる。
 着ていた上着のポケットに携帯電話があった。内蔵された歩数計はその日、680歩近くを示していた。
 「丹精込めて育てたキャベツを最後に見て回ったんだろう」。和也さんは推し量る。

 久志さんは原発の危うさを前々から口にしてきた。そして2011年3月12日。原発で起きた水素爆発のニュースを見てつぶやいた。
 「もう福島の百姓は終わり。何も売れなくなる」。口数が減り、朝になると吐き気を訴えた。農業を継いでくれた和也さんに「おまえを間違った道に進ませた」とわびた。
 土作りに力を入れ、自慢の野菜を学校給食に提供してきた。キャベツ7500個の出荷を控えていた。
 23日、自宅にファクスが届いた。キャベツを含む結球野菜の出荷停止を伝える文書だった。夕食後、久志さんは珍しく自ら食器を洗った。
 亡くなったのは翌朝だった。目に見えぬ放射能の汚染が、出口の見えない困難を突き付けた。生きる力を奪い去った−。
 原発事故に起因するとしか思えない死なのに、当初は震災関連死には該当しないとされた。

 そうした中で和也さんは12年6月、東京電力に慰謝料を求め、裁判外紛争解決手続き(ADR)を申し立てた。「原発事故さえなければおやじは死なずに済んだ」と訴え、謝罪を求めるためだった。
 1年後に和解が成立したものの、東電は謝ることは拒んだ。今に至るまでおわびはない。和也さんは憤怒の表情を浮かべる。修羅のように。
 「線香一本上げに来ないのは人として間違っている。おやじが浮かばれない」
 妻美津代さん(65)は和也さんと農作業をした後、久志さんが残した携帯電話を握りしめる。待ち受け画面のキャベツを見ながら「父ちゃん、一緒に闘ってほしかったよ」と残念がる。
 久志さんの死は昨年5月、震災関連死としてようやく須賀川市から認められた。
 「父ちゃんは成仏しただろうか」。美津代さんは自問し、すぐに首を振る。「できるわけがない。元のきれいな福島が戻ってこない限りは」
 理不尽に追い詰められた命。さまよっているに違いない魂。夫の無念をかみしめ、怒りに震える。果たせぬ成仏を思う家族の心もさまよっている。

     ◇

 福島第1原発事故は人々の営みを引き裂いただけでなく、福島の精神風土をも揺るがした。放射能汚染という難題に、祈りや魂はどう向き合うのか。不条理な苦境にあえぐ地に立った。「祈りと震災」取材班=報道部・沼田雅佳、村上俊、柏葉竜、鈴木拓也、写真部・岩野一英、伊深剛。


釜石駅隣接ホテル開業 展望露天風呂完備
 JR東日本が釜石市のJR釜石駅隣に建設していたホテルフォルクローロ三陸釜石が29日、開業した。市内で観光ホテルの完成は2カ所目。観光客向けの客室数は東日本大震災前の水準に回復する。
 新ホテルは鉄骨7階で客室数は113。1階には4月中に観光総合案内所が入居する。7階に展望露天風呂があり、日帰り入浴もできる。
 2019年開催のラグビーW杯を控え、海外を含めた観光誘客が期待される。
 現地であった式典で、JR東の一ノ瀬俊郎常務取締役事業創造本部長は「ここから三陸、釜石の魅力を世界に発信したい」と話した。野田武則市長は「国内外から注目される中、迎え入れる態勢ができた。交流人口を増やす拠点の役割を担ってほしい」と語った。
 JR東は主に首都圏の個人向けに、4月25日に釜石線で運行を始めるSL銀河や三陸鉄道、バス高速輸送システム(BRT)の乗車と宿泊をセットにした商品を販売する。

<仙石線>復興へのレール一歩一歩・東松島
 東日本大震災で被災し5月30日に全線で開通するJR仙石線で、東松島市の内陸部の野蒜北部丘陵地区にルート変更された東名−野蒜間を歩く「レールウオーク」が29日にあり、市民らが線路復旧の現状や、周辺の防災集団移転団地の造成状況を確かめた。
 抽選で選ばれた市内外の200人が4グループに分かれ、線路脇の通路を歩き、片道約1.5キロを約1時間半かけて往復した。
 参加者は線路から眼下の海を眺めて震災前の風景を思い浮かべたり、造成中の宅地を見詰めて新生活へのイメージを膨らませたりした。野蒜駅では駅舎内部も見学し、木のぬくもりあふれる外観や、エレベーターなどの新たな設備に感激の声を上げた。
 震災前は仙石線をほぼ毎日利用していたという同市新東名の主婦高橋イチ子さん(72)は「線路は高台にあり安心感がある。野蒜駅も立派で観光客も喜ぶと思う」と話した。


<二つの祖国>命救った日本語辞書/(中)逃避行
◎大虐殺と3.11を生きる
 家には2日で戻るつもりだった。東京電力福島第1原発事故の避難者のように。着の身着のまま。
 1993年4月に福島文化学園(福島市)の研究生として来日し、10カ月暮らしたカンベンガ・マリールイズさん(49)。日本滞在中に買ったハンドバッグにパスポート、5000ルワンダフランを入れて、自宅から逃げた。ポケットサイズの日仏辞典もなぜか携帯した。それが後に一家の命を救うことになる。

 80万〜100万人が犠牲になった1994年のルワンダ大虐殺。ルイズさんは、当時6歳、4歳、2歳の子ども3人を連れ、安住の地を求め、さまよった。道端には何十、何百もの遺体が無造作に転がっていた。
 国境に近い隣国コンゴ(旧ザイール)の「ゴマ難民キャンプ」に向かう途中、単身赴任中の夫アポリネールさん(52)と偶然出会った。
 4月に家を出て、一家5人でゴマ難民キャンプに到着したのは7月だった。そこには120万人が殺到していた。衛生状態が悪く、コレラや赤痢による大量死が起きていた。
 94年8月2日。一生忘れられない日になった。
 「このままでは家族が全滅する」。難民キャンプ近くのファクス屋に夫と出掛けた。「いきています」「たすけて」。福島市の知人宛てにひらがなで書いたファクスを衛星電話で送ろうと試みた。
 通信状態は最悪だった。ファクス待ちの長蛇の列が気になり、SOSを諦めて列を離れた。その時だった。

 「日本語できるの?それなら手伝って」
 ひらがなを目にした人が話し掛けてきた。当時ハーバード大に留学中の医師渋谷健司さん(49)=現東京大医学部教授=だった。渋谷さんは岡山市に本部があるアジア医師連絡会(AMDA=アムダ)から派遣され、その日、ゴマに入ったばかりだった。
 ルワンダの公用語は当時、フランス語とルワンダ語。ルイズさんは、その2カ国語に加え、英語、スワヒリ語が堪能で、日本語もできる。日本から来た民間医療チームの通訳としてうってつけだった。
 給料は現金で100米ドル。子どもたちには砂糖と紅茶、ドーナツを買ってあげられた。通訳の臨時収入で、身を寄せ合った親族30人に数週間、1日1食提供できた。
 渋谷さんは「難民といっても働ける人はたくさんいた。ルイズさんがトラック運転手などを見つけてくれ、本当に助かった。人を引きつける魅力は当時から」と振り返る。
 日本では、ルイズ一家の窮状を知った福島の友人知人が「救う会」を結成し、奔走していた。当時の日本は難民申請が厳しく、夫とともに桜の聖母短大(福島市)の留学生の身分で94年12月、ようやく来日が許された。


<三陸道>松島北−鳴瀬奥松島が4車線化
 三陸自動車道の松島北−鳴瀬奥松島インターチェンジ(IC)間(6.8キロ)の4車線化工事の完成式が29日、東松島市の鳴瀬奥松島IC料金所であった。4車線の利用開始は30日午前6時で、朝夕の渋滞緩和や東日本大震災被災地の復興加速といった効果が期待される。

 式典には関係者ら約45人が出席した。事業主体の県道路公社の伊藤和彦理事長は「4車線化を地域間交流の活発化と、地域経済発展の契機にしたい」とあいさつした。
 阿部秀保東松島市長は「災害時の避難道路としての活用と、全国からの交流人口拡大に寄与する」と今後に期待した。
 公社は2008年、利府中−鳴瀬奥松島IC間(18.3キロ)の4車線化に着手した。このうち松島北IC以北の着工は12年8月で、被災地の復興スピードを上げるため、14年3月の同IC以南完了後だった当初予定を前倒しした。事業費は計約210億円で、うち松島北IC以北が約50億円。
 14年の松島北−鳴瀬奥松島IC間の通行量は1日平均約2万3400台で、震災前の10年の約1.4倍に上る。


<大川小>遺族が真相究明を 昭恵夫人と面会
 東日本大震災で児童と教職員計84人が犠牲になった石巻市大川小の児童遺族の有志が29日、同小で、安倍晋三首相夫人の昭恵氏と面会した。遺族側は「助けられるはずの命を助けられなかった」と真相究明の必要性を訴え、昭恵氏は理解を示した。
 次女を亡くした佐藤敏郎さん(51)らが昭恵氏を案内し、津波で被災した校舎内を回ったり、校舎の裏山に登ったりして状況を説明した。
 佐藤さんは取材に「足を運んでもらいありがたい。現場を見るだけで津波の方向などが分かる。事故に関する検証は十分ではなく、事故が社会全体で何らかの意味を持つための良い機会としたい」と話した。
 昭恵氏は「子どもたちは校庭に残っていて亡くなった。現場を見ていてつらい思いがした。二度とこのようなことが起こらないようにしてほしい」と語った。
 保存の是非が議論となっている被災校舎をめぐり、只野哲也君(15)ら同小卒業生3人が保存を望む気持ちを手紙にして昭恵氏に手渡した。昭恵氏は面会後「二度と見たくないという方もいると思う。保存することで教訓になるという意見が多いのであれば十分検討してほしい」と述べた。
 面会は、三男を亡くした佐藤和隆さん(48)と昭恵氏がインターネットの交流サイト「フェイスブック」でやりとりしていたことがきっかけで実現した。


気仙沼で戸建て公営住宅入居
震災で家を失った人たちのために整備される戸建てタイプの災害公営住宅が、気仙沼市で初めて完成し、30日から、入居が始まりました。
完成したのは、気仙沼市長磯下原の「長磯浜南住宅」の20戸です。
関係者など、およそ50人が、集まって、30日、入居開始を祝う式典が開かれ、気仙沼市の菅原茂市長が「大変長い間お待たせしたが、何とか年度内に完成させることができた。新しい住宅でも仲のよいコミュニティーを作ってほしい」とあいさつしました。
そして、菅原市長から、入居者代表の辻隆一さんに、鍵が手渡されました。
辻さんは「4年前のどん底だったときのことを思い出すと、住宅の再建は夢のようで感激している。
入居するみんなで力を合わせて新しいコミュニティーを作っていきたい」と話していました。
このあと、さっそく入居者たちが完成したばかりの住宅に入り、部屋の間取りなどを確認していました。
気仙沼市では、市内に建設するおよそ2200戸の災害公営住宅のうち、入居者の希望に応じておよそ550戸を戸建てタイプにする予定です。
主に家族世帯が住む戸建てタイプの災害公営住宅の完成は気仙沼市では今回が初めてです。
入居する60代の女性は「これまでは、みなし仮設住宅に住んでいて、部屋も狭く、暗かったのですが、新しい住宅は明るいし、とても広くて本当にうれしいです」と話していました。


福島「負の遺産」/安全神話崩壊検証に生かせ
 「物言わぬ語り部」。東日本大震災の悲劇を伝える遺構には、そうした役目が期待される。福島県内にも、巨大津波と原発事故の被害を雄弁に語る「負の遺産」が随所に現存する。
 放射線量が高い地域は立ち入りが制限されている。そのため、沿岸の津波被災地にも震災直後の姿が手付かずのままになっている所がある。
 福島を襲ったのは未曽有の複合災害である。ありのままの姿が訴え掛けてくることは多いはずだ。負の遺産として形を残すにとどまらず、課題をくみ取って検証し、次代へつなげる。教訓の伝承も震災を経験したわれわれ世代の責務である。
 原発事故で全域が避難区域にある富岡町。震災発生当日、災害対策本部が置かれた文化交流センター「学びの森」はその一つだ。
 会議室のホワイトボードには、JRの線路流失や下水マンホールの陥没など津波の被災状況が書き込まれている。
 混乱の中で見過ごせないことがある。原発のホットラインを通し、東京電力からもたらされた内容である。
 「(炉心から)マイナス600です。水位は安定しています」。水位低下の緊急事態を告げる速報だった。だが、職員は「安定」と聞いたため、危機感を抱くことはなかったと振り返る。
 会議室がそのままになっていることから、当事者のリアルな証言を聞き出しやすいのではないか。「会議室には『無力さ』が教訓として残っている」と自戒を込めて保存を訴える職員もいる。
 記憶を風化させないためには、職員から当時の様子を詳細に聞き取り、集約することが大切である。情報伝達の在り方を検証する貴重な証言になるに違いない。
 福島第1原発が立地する双葉町は、原子力のPR看板の保存を検討している。
 「原子力明るい未来のエネルギー」「原子力正しい理解で豊かなくらし」。町民から募集したこんな標語が書かれ、原発との共生を目指した町の象徴でもあった。町体育館前と役場入り口のゲートに掲げられ、20年以上たつ。
 双葉町が推進してきた原発は、皮肉にも住民を苦しめ、地域を分断する元凶になった。廃炉まで30〜40年を要する。今なお避難を強いられている町民にとって、看板は目障りだろう。だが、原発の「安全神話」崩壊を証明する遺物として、保存する意義は小さくあるまい。
 JR常磐線富岡駅の改札や駅名標などの備品は保存が決まり、町などが譲り受けた。殉職した県警双葉署の2人が乗っていたパトカーは町中心部の公園に移設、展示された。保存を求める声は大震災から4年となる3月に、ようやく具体化したのである。
 遺構や遺物の規模が大きくなれば、修繕維持費が課題になろう。いまだに12万人近い県民が避難生活を送っており、住民感情にも配慮しなければなるまい。復旧・復興以前の状況もあるとはいえ、保存か解体かの議論は宮城、岩手と比べて立ち遅れている。地元任せにせず、県と国の積極的な関与を求めたい。


女川原発再稼働、反対訴え行進 仙台で集会
 市民団体「女川原発の再稼働を許さない!2015みやぎアクション」主催の市民集会が21日、仙台市青葉区の勾当台公園市民広場であり、約1000人が参加した。
 「福島原発事故を忘れない」「女川原発再稼働を許さない」がテーマ。福島原発告訴団副団長の佐藤和良いわき市議は「今でも14万人もの福島県民が避難生活を送っている。これ以上、悲惨な状況を全国につくってはならない」と訴えた。
 指定廃棄物最終処分場の県内候補地の一つになっている加美町の住民も「このような事態になったのは政治家選びを間違ったから。われわれがしっかりしなければならない」と述べた。
 集会では東北電力女川原発(女川町、石巻市)の再稼働中止や原発労働者へのリスク押し付けの改善などを東北電や国、県に求める宣言を採択。参加者は市中心部をデモ行進し、女子グループ・制服向上委員会の掛け声で「危険な原発やめよう」「みんなで節電」と気勢を上げた。


マタハラ 上司などに相談も解決は1割余
妊娠や出産を理由にした解雇や降格といったマタニティー・ハラスメント、いわゆるマタハラを職場の上司などに相談しても解決したケースは1割余りにとどまることが被害にあった女性を対象にしたアンケート調査で分かりました。
この調査は、マタハラを受けた人の支援を行なっている団体、「マタハラNet」がことし1月にインターネットで行い、被害にあった女性186人が回答しました。
このうち、マタハラを受けた相手について複数回答で尋ねたところ、「直属の男性上司」と答えた人が53%で最も多く、次いで、「男性の経営層」と「人事部の社員」がそれぞれ24%、「女性上司」という回答も22%ありました。
また、マタハラを受けたときに職場の上司や人事部などに相談した人は86人いましたが、このうち半数以上は「そのまま放置された」と回答し、問題が「解決した」とする人は14%にとどまりました。
中には職場で相談したあと「不利益を受けた」とか「さらに傷つくことばを言われた」という人もいました。
マタハラNetの小酒部さやか代表は、「マタハラが起きる職場では妊娠、出産した社員を受け入れない雰囲気があることが多いため、社内で相談しても解決が難しい場合が多い。諦めずに労働局や弁護士など会社の外の専門家にも相談してみてほしい」と話しています。

東京大空襲/1日ねてしまいました・・・

ブログネタ
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≪ Il semble que le goût des livres croisse avec l'intelligence. ≫
de Marcel Proust
Une vie ne vaut rien, mais rien ne vaut une vie.
-André Malraux
A life is worth nothing, but nothing is worth a life.
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NNNドキュメント'15 孤児は今…東京大空襲地獄を生き抜いた70年
「戦災孤児」−70年前、空襲の焼け野原に何万人もの子ども達が放り出された時代があった。あの時代の暗部を生きた孤児の言葉は哀しみと怒りに満ちていた。
余貴美子  日本テレビ

テレメンタリー3.11を忘れない56 生きた証〜語り継ぐ痛み〜
東日本大震災で全町民の1割にあたる、約1300人が犠牲になった岩手県大槌町。この町で、震災犠牲者の人柄や思い出などを聞きとり記録し、1冊の本にまとめる取り組み「生きた証プロジェクト」が始まった。
あの日から4年、大規模な復興工事が始まり震災を物語るものが次々と姿を消すなか、町民たちは、大切な人の死とどのように向き合って生きているのか。プロジェクトを見つめることで、震災遺族の今を描く。
岩手朝日テレビ

NNNドキュメント'15 3・11大震災 シリーズ(60) 2589 震災4年 あなたは、どこへ
松野芳子
テレビ岩手、宮城テレビ放送、福島中央テレビ
「2589」…これは東日本大震災により、いまだ行方不明の方々の人数です。まもなく震災から丸4年。被災地では町の復旧が進み、人々の暮らしも変わりつつあります。その一方で愛する人が見つからず、次に踏み出せない家族たちがいます。岩手県 釜石市で自慢の娘を捜す老いた母。宮城県女川町では、潜水士の資格まで取得して凍てつく海の中、妻を捜す夫。福島県大熊町では、福島の復興か、不明の7歳の娘の捜索か、選択を迫られた父…。震災 以来、放送を続けてきたNNNドキュメント「3・11大震災シリーズ」では、岩手・宮城・福島の3つの地元局の共同制作で、「今なお多くの行方不明者がいて、愛する人を探し続ける人がいる」という被災地の今を伝えます。

NHKスペシャル もう一度"ふるさと"を〜岩手・陸前高田の4年間〜
津波で市街地が壊滅した陸前高田市。いま総事業費1600億円という、被災地最大の復興事業が進む。去年の夏、平地に高さ12mのかさ上げ地を造成する工事が始まり、そこに新たな市街地が造られる予定だ。しかし、住民たちの思いは揺れる。
当初、住民の多くは、津波への恐怖から内陸の高台への移転を希望していたが、山がちな地形で必要な面積を確保できなかった。そこでかさ上げ地を整備することになったのだが、いったいどれだけの人々が戻ってくるのか、先が見えない状態が続く。
どうすれば“故郷”を取り戻せるのか。震災後の4年間の日々を見つめる。
震災後、人口減少が加速し高齢化も一層進む岩手県陸前高田市。津波で壊滅した市街地があった平野部に土を盛り、その上に8年がかりで全く新たな町を築くという前代未聞の壮大な復興計画だが、果たしてそこにどれだけの人々が戻ってくるのか。賑わいを取り戻すことはできるのか。町づくりの先頭に立ってきた商店街の老舗商店主達は、誰もが強い不安を抱きながらも、新たな“ふるさと”を築き上げようと、前に進み続けてきました。
陸前高田の人々を取材し強く感じるのが、誰もが「自分達が町を作らねばならない」という強い責任感と使命感を持っていること。その気持ちの源泉は、故郷を失ってしまった子や孫の世代のためにという思い。そして、生きたいと願いながら亡くなっていった仲間の分も、自分たちが踏ん張って故郷を作っていかなければならないという思い。それは、苦しみも伴う覚悟のようにも感じられます。 震災から丸4年となる2015年。8年という長期計画は、ちょうど折り返しを,迎えました。順調に進んだとしても、この先さらに4年を要する新たな町づくりは、これからも様々なカベに直面していくと思われます。陸前高田の人々は復興に向けどんな歩みを続けていくのか。私達もその歩みの傍らに寄り添い、記録を続けていきたいと考えています。
(ディレクター 鈴木洋介)

「震災から4年“明日へ”コンサート」
AKB48 / Kis-My-Ft2 / 北島三郎 / Kiroro / SMAP / SEKAI NO OWARI / 西田敏行 / Perfume / ゆず / and more
中居正広 / 有働由美子


*――*――*――*――*――*――*――*――*――*――*――*
 イスラエル・アパルトヘイト週間 in 大阪
 〜長さ2191cmの超ロング横断幕でイスラエルの大阪進出に抗議の声を!〜
*――*――*――*――*――*――*――*――*――*――*――*

日時●3月29日(日)11:30-12:30
場所●ヨドバシ梅田前

去る3月17日の選挙に勝利したリクード党を率いるネタニヤフ首相は、選挙戦の中でパレスチナ独立を明確に拒否しました。このことは、20年以上にわたる「中東和平プロセス」の破綻を強く国際社会に印象付けました。すでに欧米ではイスラエルに対するボイコットや経済制裁をめぐる議論が市民運動だけでなく、政府レベルで始まりつつあります。国際司法裁判所でも、イスラエルが昨年ガザで犯した戦争犯罪に対する審判が始まろうとしています。

しかし安倍政権はこうした世界の動きに逆行してイスラエルとの関係強化に力を入れています。今年1月の安倍首相のイスラエル訪問では、イスラーム国による人質問題の急展開の方に注目が集中しましたが、首脳会談では、大阪にイスラエルの貿易事務所を設置することや、投資協定に向けた予備交渉の開催、両国防衛関係者間の交流など、これまでにない踏み込んだ事項が確認されました。

イスラエルは非難が高まる欧米を避け、東アジアに新たな戦略的味方とマーケットを求めています。安倍政権を通じて、日本における排外主義がイスラエルの戦争・占領政策と結びつこうとしているのです。パレスチナの分断・占領を一日も早く終らせるための国際連帯が強く求められています。

具体的には、イスラエル軍支援を続けるストラウス社傘下のチョコレートカフェ「マックスブレナー」(4月から大阪に進出)や、ヨドバシカメラでも販売されているイスラエル入植地製品ソーダストリーム、パレスチナ占領地に
おける監視システム等をイスラエル軍に納入しているヒューレット・パッカードやモトローラ・ソリューションズなど、戦争犯罪加担企業に対するボイコットの呼びかけを行います。

短い時間ではありますが、「イスラエル・アパルトヘイト週間 in 大阪」への結集をよろしくお願いします。

連絡先●パレスチナの平和を考える会(palestine.forum@gmail.com)


録画してある番組をいろいろ見ました.特に東京大空襲の番組に衝撃を受けました.
でも昼過ぎになって寝てしまい気がつくと夜でした.

<二つの祖国>大虐殺と3.11を生きる/(上)相似/「外出禁止」苦難再び
 ルワンダ大虐殺を生き延び、20年前に福島市に移住したアフリカ人女性が、東京電力福島第1原発の事故直後から避難者支援を続けている。「ある日突然、古里や家族を奪われた点で、内戦も震災も原発事故も同じ」。ルワンダと福島。二つの苦難を経験したカンベンガ・マリールイズさん(49)の軌跡をたどる。(福島総局・山崎敦)

 1万2000キロ離れたルワンダと福島で味わった苦難の始まりは、かくも似ていた。
 「無用な外出を控えてください」
 3.11から3日後、福島市にある自宅の電気が復旧した。早速、テレビを付けると、アナウンサーが繰り返していた。
 目に見えない放射能の恐怖におびえ、福島県在住の外国人たちは次々に母国へと脱出していった。
 1994年4月6日夜、ルワンダ内戦が身近に迫った時もそうだった。首都キガリの自宅。夕食のひとときは砲弾がさく裂する音にかき消された。外国人の姿が真っ先に消えた。ラジオは「無用な外出禁止」を再三、呼び掛けた。

 3.11後、在日ルワンダ大使から東京の大使館に避難するよう何度も電話が来た。外国人の姿が真っ先に消えた古里キガリの光景がよみがえった。
 「ここにとどまり、かつて私を救ってくれた福島の人たちのために祈ります」。当時高校生だった福島生まれの三女(19)を避難させた後、こう心に決めた。
 65年10月、役人だった父トゥワリ・アントゥワネさんの赴任先のコンゴ(旧ザイール)で生まれた。兄弟姉妹7人の5番目だった。
 成績は優秀で「医者になりたい」と思ったが、恩師の勧めもあり、洋裁高等学校へ進学した。84年から首都キガリの専門学校で教え始めた。19歳だった。
 国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊が勤務先の専門学校と提携していた縁で、93年4月、福島文化学園(福島市)の研究生として来日した。
 初めて覚えた日本語は「サムイ」。福島での生活は20年に及ぶが、今も「寒いのは苦手」と着膨れした体を揺らす。

 福島で洋裁と日本語を10カ月学び、94年2月、ルワンダに帰国した。その2カ月後、民族間の対立が引き金になり、80万〜100万人が犠牲となった大虐殺(ジェノサイド)が起きた。うち40万人が子どもだったとされる。わずか100日間の出来事だった。
 「ルイズ、大丈夫?」
 94年4月6日夜、自宅の電話が鳴った。安否を気遣う日本のホームステイ先からだった。フツ民族のルワンダ大統領が殺され、内乱に発展していることを知った。ルワンダのラジオは「大統領が飛行機事故に遭った」としか伝えていなかった。
 内戦勃発から2週間後、電話は止まり、食糧が底を突いた。高校の英語教師だった次兄デオさん=当時(45)=は武装勢力から「インテリ」と敵視され、連行された。殺されたことが分かったのは2年後だった。
 隣の家に爆弾が落ちた。自宅にいれば恐らく死ぬ。
 幼子3人を連れた逃避行が始まった。


東日本大震災:県外避難者、被災時住居「戻らず」85% 福島は原発事故要因 毎日新聞調査
 東日本大震災後に福島、宮城、岩手3県を離れて全国各地に避難している「県外避難者」に毎日新聞がアンケートを実施したところ、被災時に住んでいた地区に「戻らないつもりだ」もしくは「戻れないと思う」と答えた人が計85%に上った。福島からの避難者の場合は「戻らない」「戻れない」人の7割以上が、残留放射線や東京電力福島第1原発の状態を理由に挙げており、原発事故の影響が最大のネックになっている。【坂根真理】

 毎日新聞は2011年秋から半年ごとに県外避難者アンケートを行っている。

 8回目となる今回は2月に実施し、144人(男女各72人)から回答を得た。被災時の居住地は福島120人、宮城18人、岩手6人。

 帰還意思を尋ねたところ、「戻るつもりだ」が15%、「戻らないつもりだ」は46%、「戻りたいが戻れないと思う」は39%だった。

 「戻らない」「戻れない」理由(複数回答)は、宮城、岩手からの避難者(計20人)の場合、「戻っても仕事がない」「自宅が災害危険区域にある」が共に40%で最多だった。

 一方、福島からの避難者(102人)は「残留放射線による被ばくが怖い」(75%)、「福島第1原発の状態」(71%)が突出している。次いで「被災地域のコミュニティーや経済が崩壊している」(29%)、「自分や家族が今の居住地になじんだ」(28%)が多い。
 ◇自主避難者多い避難区域外 「戻らない」5割超

 福島県からの避難者については、被災時の居住地が避難区域かどうかで帰還の意思を分析した。現在も避難区域の人は51%が「戻れない」、39%が「戻らない」と答えた。

 一方で、避難区域になったことがない地区の人では「戻らない」54%、「戻れない」32%と割合が逆転する。この地区からの避難者の多くが被ばくを懸念して自主避難した人たちだ。

 福島県からの避難者に、仮に戻る場合に許容できる年間追加被ばく線量を尋ねたところ、「ゼロ」が60%と最も多く、次いで「1ミリシーベルト未満」15%、「5ミリシーベルト未満」2%だった。22%は無回答だった。国は「20ミリシーベルト以下」を避難指示解除の要件の一つとしており、避難者の意識と大きな隔たりがある。
 ◇「人生を奪われた」 双葉町から03

 東日本大震災から4年が経過した今も、福島、宮城、岩手3県から5万人以上が県外での避難生活を送っている。特に福島からの避難者は、今も続く東京電力福島第1原発事故の影響に帰還をあきらめる人が多い。

 とつとつとした語り口に、ときおり怒りがにじんだ。福島県双葉町長塚の稲作農家、西内重夫さん(72)は、今も避難先の茨城県つくば市並木の借り上げ住宅で妻タキ子さん(74)と暮らしている。自宅は第1原発から約4キロ。「先祖代々の田があり、家がある。戻りたい」が、帰還困難区域の中だ。

 震災前、妻と花卉(かき)農家を営む長男芳徳さん(46)夫婦、孫2人と同居していた。「70歳になったら農機具のローンを返済し終わるように計画し、長男に借金ゼロで全てを譲ろう」と考えていた。

 悠々自適の生活まであと2年。田植えに備え、水田でもみ殻を集めていた時、大きな揺れに襲われた。自宅は海から約2・5キロ。津波は自宅近くで止まり、ホッとしたのもつかの間、「ドーン」と地響きのような音が聞こえた。原発事故だった。長男家族と一緒に避難したが、長男が埼玉県で職を見付け、今は離れて暮らす。残留放射線による孫の被ばくリスクを考えると、もうふるさとには戻れないと思う。長男夫婦も「汚染されている双葉町には戻れない」とほぼ帰還をあきらめている。「人生、財産のすべてを東電に奪われた」。西内さんは声を震わせた。【庭木茂視】
 ◇「子の成長に責任」 郡山市から

 福島県郡山市から静岡県富士宮市に自主避難している長谷川克己さん(48)は「郡山の放射線量は子供が安心して生活できるレベルではない。戻りたくても戻れない」と話す。

 妻、長男(9)、長女(3)との4人家族。震災後、線量計を持って関東地方から北上すると線量がどんどん高くなった。周囲の人は「(郡山は)心配するほどではない」と避難を思いとどまらせようとしたが、被ばくの危険性を訴える市民団体の主張の方が正しいと思えた。

 郡山では介護関連会社の現地施設責任者だった。社長から「埼玉や千葉に転勤してもいい」と言われたが、「自分だけ虫のいいことはできない」と退社を決断した。

 静岡県に避難したのは、小学生まで住んでいた縁だ。2011年8月に転居した当初は、富士宮市内でデイサービス会社に勤務したがなじめず、自ら同様の会社を設立した。

 開業資金は銀行融資。返済や日々の資金繰りは楽ではない。両親を残してきた郡山出身の妻の気持ちは聞かずとも分かっている。それでも避難の決断に後悔はない。「子供の成長に責任がある。会社の経営は自分の才覚の問題。避難者だから苦しいなんて言い訳はしたくない」【平塚雄太】


原発の今に焦点「震災学」6号刊行・東北学院大
 東北学院大は「震災学」の第6号を刊行した。東日本大震災による福島第1原発事故を中心に特集し、同原発の作業員のインタビューなどを載せた。
 3章構成。第1章「原発をめぐる現在」は、福島第1原発の作業員で、震災直後からつづったツイッターが「福島第一原発収束作業日記」として出版された「ハッピーさん」のインタビューを掲載。事故現場の4年間の変遷や廃炉作業の現状と課題を語っている。
 北海道函館市が、青森県大間町の大間原発の建設差し止めを求めた訴訟に関する工藤寿樹市長のインタビュー、栗原市、宮城県加美町、大和町で指定廃棄物最終処分場建設の反対運動に取り組む住民の聞き書きも収めた。
 第2章「過去に学ぶ」は、東北大大学院工学研究科の五十嵐太郎教授が震災遺構をテーマに、宮城県女川町、阪神大震災を伝える神戸港震災メモリアルパーク、中国の四川大地震で破壊された状態で保存された町を訪ねたルポなどを載せた。
 A5判、280ページ。1944円。連絡先は東北学院大学長室事務課022(264)6424。


杜の都は紫煙の都!? 喫煙所移転が裏目に
 JR仙台駅西口のペデストリアンデッキが「喫煙無法地帯」になっている。仙台市で今月あった国連防災世界会議を機に喫煙スペースを撤去してから約半月。受動喫煙防止と街のイメージアップを目指した喫煙所の撤去が裏目に出た格好だ。
 仙台の日中の最高気温が5月上旬並みの18.7度を記録した27日、昼下がりのデッキで多くの愛煙家が食後の一服を楽しんでいた。たばこを吸う人が植栽の縁石に腰掛け、紫煙をくゆらす。足元は吸い殻だらけだ。
 サラリーマン風の男性は「灰皿がなくなって不思議に思っていたが、昔からここは喫煙スペース。何の問題もない」と言い張る。学生風の男性は「周りの人が吸っていたから吸っていい場所だと思った」。
 その結果、デッキの手すりに沿ってパルコ前からエスパル前まで約200メートルの区間が延々喫煙スペースのようになってしまった。
 デッキの2カ所にあった喫煙所は、国連防災世界会議の開幕直前に撤去。駅向かい側(地図)に移設した。
 市青葉区道路課は「喫煙所があった場所2カ所に張り紙を掲示し、新しい喫煙所に案内している。あとはマナーの問題で、どうしようもない」と説明する。だが、エスパル寄りにあった張り紙は風に飛ばされたのかなくなっていた。
 杜の都の玄関口で受動喫煙が放置されている事態に市健康増進課は「たばこのポイ捨ては環境局、喫煙マナーは市民局が担当。JRや日本たばこ産業も絡む非常に難しい問題だ」と困惑する。
 街のイメージも台無しだが、関西から出張で仙台に来たという愛煙家の男性は「東北の人は喫煙に寛容なのかと思った」と妙な勘違いをしていた。

ウナギ/マッサン最終回/こころフォト/ACあいさつの魔法

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Japon : finir plus tôt le travail pour avoir le temps de dépenser son argent
Misant sur la relance par la consommation, le gouvernement japonais souhaite que les employés nippons finissent moins tard le travail pour pouvoir faire les magasins... A condition de commencer plus tôt le matin.
Ce n’est pas qu’un cliché : les Japonais travaillent tout le temps ! A tel point qu’ils n’ont pas le temps de dépenser leur argent. Le gouvernement l’a bien compris et propose de changer les mauvaises habitudes… non pas en diminuant le temps de travail, mais en suggérant aux employés de commencer plus tôt le matin afin d’avoir le temps de faire les magasins à la fin de la journée.
La relance par la consommation
"Nous pensons que réformer le style de travail est extrêmement important pour que les gens puissent profiter des bénéfices des abenomics", la politique économique de relance mise en place depuis deux ans au Japon, a déclaré le porte-parole du gouvernement lors d'un point presse vendredi 27 mars. Le Premier-ministre nippon, Shinzo Abe, mise donc sur la consommation des ménages pour relancer la croissance en berne depuis vingt ans.
Les fonctionnaires changeront leurs habitudes dès cet été, pour montrer l’exemple. Outre les avantages économiques, le gouvernement souhaite aussi que les travailleurs "puissent passer leurs soirées avec leur famille et amis", ajoutant qu’on "dit souvent que les longues heures de travail dans notre pays empêchent les habitants d'en apprécier les atouts."
Des heures supplémentaires non comptabilisées ?
Les Japonais ont travaillé en moyenne 1735 heures en 2013, plus que les Français (1489 heures) et les Allemands (1388 heures), selon l'Organisation de coopération et de développement économique (OCDE). Un chiffre tout de même inférieur aux heures de travail déclarées par les Américains, comme le rappelle Le Figaro, mais que les chercheurs croient sous-estimé, les salariés nippons ne déclarant pas toujours leurs heures supplémentaires.
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こころフォトスペシャル 5回目の春
震災で亡くなった人の写真と
家族からのメッセージを紹介する「こころフォト」。
2年前の開始以来、およそ300枚の写真とメッセージが寄せられた。
あの悲劇から5回目の春を迎える家族たちは
様々な思いを胸に、日々を生きている。
震災後に生まれ成長する娘と、生後8か月で行方不明になったままの息子・・・
喜びと悲しみを抱えて生きている母親。
原発事故のあと、故郷・富岡町を離れ
郡山・千葉・山梨と避難を続けるうちに母親を亡くした20歳の女性など。
震災から4年を迎えるその日に、
家族たちのこれまでの軌跡を描く。


鰻をいただきました.本当は別の料理を食べるつもりだったんですが,何となくanguilleを食べることにしたんです.ちょっと高いけど美味しい.気分的にお酒飲みたいんですが,仕事中なのでガマンです.
ダラダラと仕事したので夕方までかかってしまいました.部屋に帰ってマッサン最終回を見ました.忌中なんですね.わたしもそんな気持ちです.

夜はACのCMのあいさつの魔法を見ました.あの時を思い出してしまいました.

津波避難タワー完成 石巻・渡波、市内第1号
 石巻市が東日本大震災で大きな被害を受けた渡波地区に建設した「大宮町津波避難タワー」の完成報告会が27日、現地であった。市が沿岸部に整備する避難タワーの第1号。約200人の住民らが安全を確保した施設を体感した。
 高さ約13メートルの鉄骨造り。付近は震災で高さ4.5メートルの津波が襲来したため、地上10メートルの位置に床面積約120平方メートルの居室を設けた。約110平方メートルの屋上と合わせ、市は「214人を収容できる」と説明する。
 居室には水、食料などの緊急物資を備蓄。女性や子ども連れに配慮し、移動式の仕切りで三つに区分できる。停電時に備え、太陽光発電設備と蓄電池で3日間の照明用電源を確保する。2カ所の階段は普段、扉を施錠する。震度5弱以上の地震で自動解錠する容器を設置し、鍵を入れておく。鍵は自治組織役員にも預ける。事業費約2億円は国の復興交付金を活用した。
 報告会では渡波小の鼓笛隊が演奏を披露した。渡波地区区長行政衛生連合会の末永秀雄会長は「緊急時の避難場所ができて心強い。地域の防災訓練でも活用したい」と語った。
 市は現時点で4カ所にタワーを計画している。高台や高層建築物が少ない地域にも順次整備していく。


37年の歴史「ブックスみやぎ」31日で閉店
 仙台市のJR仙台駅に隣接するエスパル仙台店3階の書店「ブックスみやぎ」が、駅とエスパルの改修・改装に伴い3月末で閉店する。地元の書店組合の有志らが1978年のエスパル開店と同時に営業を始め、多くの人に親しまれてきた。37年の歴史を終える日を前に、地元の本を集めた「杜の都のブックフェア」を開催中だ。
 経営会社のブックス・ミヤギによると、県書店商業組合の加盟店と組合員が76年、東京からの出店攻勢に対抗するため、共同出資で同社を設立。82年の東北新幹線開業に先駆けて開店した。店舗面積は約335平方メートルで約8万冊を扱う。東北新幹線の改札口に近く、駅利用者が多数来店する。
 県書店商業組合理事長も務める藤原直社長(63)は「改装に伴う諸事情を考慮して撤退を決めた。残念だが、出版界の置かれている厳しい事情を考えるとやむを得ない」と語る。開店当時から勤務する店長の柴修さん(55)は「新幹線開業で東京からのビジネスマンが増えた。そうしたお客さんが教えてくれた本が売れた」と振り返る。
 地元出版社や作家の本を多く扱い、東日本大震災から4年となる今月上旬には首都圏から訪れた大学関係者が「震災の本はこんなにあったんですね」と関連本約60冊を購入した。幅広い客層でリピーターが多く、要望を本の仕入れに生かした。柴さんは「お客さんに育ててもらった」と話す。
 エスパル仙台店を運営する仙台ターミナルビル(仙台市)によると、後継テナントは全国展開の書店が出店を検討中という。「杜の都のブックフェア」は荒蝦夷、東北大学出版会など地元出版社7社の本160点が並ぶ。31日の営業は午後9時まで。連絡先はブックスみやぎ022(267)4422。


「たろう観光ホテル」震災遺構保存工事開始へ
 宮古市は、東日本大震災の震災遺構として残すことを決めた「たろう観光ホテル」の保存整備工事を3月中に始める。建物内の被災状況を見学できるようにするほか、客室が残る上層階に津波防災の教訓を伝える閲覧スペースを設ける。市の防災学習の拠点として、2016年春の一般公開を目指す。
 6階建ての同ホテルは、4階部分まで津波被害に遭った。市の計画によると、腐敗や崩壊の危険性がある箇所を除き、防水やさび止めを施し、大部分を震災当時の姿のまま保存する。
 被害が激しい1階部分には見学者用通路を設ける。むき出しになった鉄骨や配管など、内部から被災状況が見えるよう整備する。
 客室が残る5、6階部分には外側の非常階段を使って内部に入れるようにする。津波の脅威を伝える映像を見ることができるスペースや資料室を設ける。
 事業費は約1億5100万円。8割は復興交付金で賄い、2割は震災特別交付税を充てる。11月ごろまでに本体工事を終え、来年3月ごろの公開に向けて準備を進める。
 建物は市が震災遺構として保存を決めた昨年3月、所有者から無償譲渡された。


【御嶽山噴火半年】 母亡くした高2、父の死亡申請へ
「しょうがない、という感じ」

 御嶽山に夫婦で登り、噴火に巻き込まれ行方不明となった山梨県甲斐市、猪岡哲也さん(45)と、死亡した洋海(ひろみ)さん=当時(42)の長男で高校2年の翔君(17)は、近く哲也さんの死亡届を申請することを決めた。「受け入れられたのかというと違うかな…。しょうがない、という感じ」。実感が湧かず、気持ちの整理はついていない。

 2月中旬、自宅に届いた仏壇の前で手を合わせた。洋海さんの遺影の周りには両親の写真が並ぶ。「何げない日々を思い出す」

 家族の趣味は登山。中学2年の頃、家族で行った尾瀬国立公園の山から本格的に取り組みだした。両親はよく2人で出掛けた。

 ひょうきんな哲也さんと優しい洋海さん。耳が不自由な両親のそばで、自然に手話を覚えた。意思が通じないと唇の動きによる口話で伝えつつ、難しくて距離を取ったことも。「もっと話をしておけばよかった」。今は後悔している。

 昨年10月2日に洋海さんの遺体と対面。洋海さんは山頂付近の岩陰に寄りかかった状態で、胸まで灰に埋もれていた。哲也さんは発見されずに捜索は16日に打ち切られた。

 今年1月、洋海さんの遺骨を山梨県内の墓に納め、哲也さんの兄、孝一さん(52)一家が住む東京都から、甲府市の高校に通う生活を始めた。

 孝一さんとは、哲也さんが「ひょっこり帰ってくる気がする」と話し合うときがある。他の遺族に提供してもらった噴火前の写真には、両親が一緒に納まっていた。孝一さんと相談して哲也さんが見つかってから、夫婦連名の位牌(いはい)を作ろうと考えている。「お父さんがあそこにいると思うと、早く戻ってきてほしい」と、捜索が再開され会える日を待ち望んでいる。


御嶽山噴火半年:息子の足跡追い続け 写真抱え献花
 57人が死亡、6人が行方不明となった御嶽(おんたけ)山(長野・岐阜県境、3067メートル)の噴火から半年が経過した27日、犠牲になった荒井真友(まさとも)さん(当時41歳)の父寿雄(ひさお)さん(72)=長野県東御(とうみ)市=は、同県王滝村の献花台で冥福を祈った。遺体安置所で変わり果てた真友さんを目にしたあの日から、離れて暮らしていた息子の足跡をたどってきた。

 「今でも息子が生きているみたいで」。真友さんの写真を両手で抱えた寿雄さんは献花台に向かった。「毎日が残念で残念で。立ち直りたいと思っているのだが」と涙を流した。

 寿雄さんが、遺体と対面したのは噴火5日目の昨年10月1日深夜。「まさ、お父さんが温めてやるからな」。真友さんの頬をなで続けた。心労でほどなく体重が4キロ減った。不調を押して妻光枝さん(71)と、真友さんが暮らした同県諏訪市のアパートの整理や、勤務していたセイコーエプソンへのあいさつ回りをする中で、気付かなかった我が子の姿が見えてきた。

 真友さんは、会社の同僚2人と、頂上付近で噴火に遭った。寿雄さんは生還した同僚から話を聞き、真友さんが神社の軒下に逃げ込んだ後、近くにいた女児の頭にザックをかぶせ、噴石から守ろうとしたことを知った。その後、腰まで灰に埋もれ動けなくなったことも。

 「2歳上の兄の後をついて行くおとなしい子」という印象のままだった真友さんは、「嫌がらず仕事を引き受けてくれ、頼りがいのある人」に成長していた。27日は、自宅で静かに祈りをささげた光枝さんは「噴火がなかったら、息子がどういう人間だったか見えなかったかもしれない」と振り返る。

 折に触れ、同僚らが真友さんの写真を届けてくれる。「良い仲間に恵まれ幸せだったんだな」と寿雄さん。「いつか御嶽山に登り、息子の足跡を追い続けたい」と、雪を頂く山頂に目をやった。

 この日、王滝村のスキー場「おんたけ2240」や同県木曽町にも献花台が置かれ、噴火した午前11時52分、遺族や住民が黙とうをささげた。【巽賢司】


JR西脱線事故 無罪で消えぬ企業責任
 企業のトップが刑事責任を免れたとしても、多くの人命を預かる公共交通機関として安全に最大限の手立てを尽くす責務の重さに変わりはない。JR西日本は再発防止策を徹底して進めなければならない。

 乗客106人が死亡した2005年4月のJR福知山線脱線事故で、大阪高裁は、業務上過失致死傷罪で強制起訴されたJR西の井手正敬(まさたか)元会長ら元社長3人に対し、1審に続いて無罪を言い渡した。

 運転士のブレーキのかけ遅れと速度超過が事故の原因だが、現場カーブに自動列車停止装置(ATS)があれば惨事は防げた。3人はATSを設置する義務を怠ったとして強制起訴されたが、大阪高裁は「カーブでの異常な速度超過運転という危険性を具体的に予見するのは困難だった」と刑事責任を否定した。

 検察が唯一起訴した山崎正夫元社長の無罪も確定している。現場を急カーブに付け替えた当時、安全対策の責任者である鉄道本部長だったが、「事故の予見可能性は低い」と神戸地裁は判断した。現場からさらに遠い立場の歴代社長の過失立証は厳しい面があったと言えよう。

 とはいえ、企業が対策を怠り事故を起こしても誰一人処罰されないのは、遺族感情として割り切れないところがある。企業自体に刑事罰を科す制度の導入を含め、組織が絡む事故の責任追及や真相解明のあり方を議論すべきではないか。

 今回の審理の中では、井手氏が公の場で初めて謝罪し、被害者参加制度で遺族らが直接質問し意見を述べた。強制起訴による裁判の意義が見いだせたとは言えるだろう。

 1987年の国鉄分割・民営化で発足したJR西は、競合する私鉄に対抗するため、列車の高速化と経営の効率化を進めた。それが利益を優先し安全を二の次にする企業体質をつくり、事故につながったのではないかと批判された。山崎氏を無罪とした判決も「安全対策が期待される水準になかった」と言及したことを経営陣は忘れてはならない。

 JR西は事故後、安全投資を増やし、事故の予兆を分析するリスクアセスメントを始めた。遺族らとともに事故原因を検証し、第三者機関が安全管理状況を検査する体制整備が重要とする報告書もまとめた。着実に再発防止策を実行することが信頼回復につながるはずだ。

 国は運輸事業者の安全管理体制を評価する制度を新設し、体制強化を図ってきた。それでもJR北海道の検査記録改ざんなど業界全体が安全軽視の体質を脱したとは言えない。脱線事故は来月25日、発生から10年たつ。経営者は安全対策に死角がないか再点検してもらいたい。


東日本大震災:被災の葉山神社で上棟祭、神楽奉納
 東日本大震災で社殿が全壊した宮城県石巻市雄勝町の葉山神社で28日、新社殿の柱やはりなどの完成を祝う上棟祭があった。隣に設置された舞台で国の重要無形民俗文化財「雄勝法印神楽」が奉納された。

 神社は鎌倉時代に建立され、約600年の歴史がある神楽とともに地区のシンボル。日本財団などの支援を受けて再建工事が進められている。

 同神楽は、演者が舞台のはりに手足をかけてぶら下がる躍動的な舞が特徴だ。震災後、この神社境内で初めてはりに上がった神楽師30年の千葉文彦さん(64)は「雄勝は復興半ば。この神楽のように高く舞い上がって」。【百武信幸】


女川駅前に多目的施設オープン
今月21日に全線で運行を再開したJR石巻線の女川駅前に、一般の人が無料で利用できる多目的施設がオープンしました。
多目的施設「女川フューチャーセンターCamass」は地元のNPO法人が財団や町の支援を受けて作りました。
28日は、女川町の須田善明町長や地元の住民など100人近くが出席して、完成を祝う式典が開かれました。
施設は、平屋建ての鉄骨作りで、白を基調としたデザインです。
中にはソファーや机が並べられたスペースがあり、一般の人は無料で利用することができます。
地元の高校生からの「仮設住宅にはないゆったりとした場所で読書や自習をしたい」という意見を取り入れて整備されました。
また会議室やオフィスとして有料で利用できるスペースもあります。
運営するNPO法人の小松洋介代表は「かき混ぜるを意味する『かます』という名前どおり、色んな人の考えが混ざりあう新たなまちづくりの拠点になってほしい」と話していました。
震災のあと最大で15メートルほどかさ上げして商業施設や公園の整備が進む女川町の中心部に完成した建物は、28日オープンした多目的施設がJR女川駅についで2番目です。

コート着ません/報告書とりあえず/ガウガウがむずい

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TGV: seules les lignes Paris-Lyon et Tokyo-Osaka sont rentables (étude)
Seules les lignes de TGV Paris-Lyon en France et Tokyo-Osaka au Japon ont atteint une "rentabilité financière claire", selon le groupe de recherche espagnol Fedea, qui conclut cette semaine qu'aucun trajet n'est rentable en Espagne, numéro 3 mondial en kilomètres en fonctionnement.
"Seules deux lignes à grande vitesse sont parvenues à atteindre une rentabilité financière claire: Tokyo-Osaka et Paris-Lyon", écrivent deux chercheurs du groupe privé de réflexion Fedea, soutenu par plusieurs grandes banques et entreprises espagnoles.
"Plus récemment, la ligne Jinan-Quingdao (Chine) a présenté des résultats positifs, restant toutefois modérés", poursuivent les chercheurs dans un rapport publié début mars.
"Ces trajets sont très denses et relient de grands foyers de population qui se trouvent à des distances rendant la grande vitesse efficace face au transport aérien et au transport routier."
En Espagne, "l'investissement dans le train à grande vitesse, l'AVE, est l'un des principaux paris" du pays, soulignent deux autres chercheurs dans un rapport présenté par Fedea cette semaine.
Championne européenne et numéro trois mondial de la grande vitesse derrière la Chine et le Japon, avec 2.515 kilomètres de ligne à grande vitesse en fonctionnement, l'Espagne a déjà investi quelque 40 milliards dans son réseau, calculent-ils, estimant que la facture des travaux en cours s'élèvera à environ 12 milliards supplémentaires.
Pourtant, "nos résultats montrent que les revenus de toutes les lignes sont très loin de couvrir le cout de construction de l'infrastructure", selon les chercheurs, qui ont utilisé une projection à 50 ans à partir du début de la construction d'une ligne pour étudier le rendement.
La grande vitesse en Espagne a "une rentabilité financière clairement négative", concluent-ils. Selon eux, la situation de la ligne Madrid-Barcelone, très empruntée notamment pour les voyages d'affaires, "est la moins défavorable avec 46% des couts de construction couverts".
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昨日,天気予報見たとき暖かくなるとあったけど,半信半疑でした.でも朝になってみたら意外に暖かい.なのでコートなしで出勤してみました.念のためセーター着て行ったけれど,やはり暑いです.
Rの報告書をとりあえず書きました.
ガウガウが難しいです.

<孤独死>災害公営住宅入居後のケア大切
◎石巻専修大・山崎泰央教授に聞く
 石巻市で被災者支援活動を続ける石巻専修大の山崎泰央教授に孤独死防止について聞いた。
 −災害公営住宅で孤独死が確認された。
 「起こるべくして起こったという印象。市は入居前に説明会を3回開くなど顔合わせに力を入れているが、入居後のケアが手薄だ。住民が部屋から出て来なくなったら、目が届かなくなるのではないか」
 −行政は災害公営住宅入居を「自立」と位置付けている。
 「災害公営住宅は高齢者など支援を必要としている人が入るケースが多い。移転したら終わりというわけにはいかない。行政だけの対応に限界があるのは確かだが、入居が本格化する今後の対策に今回の問題を生かさなければいけない」
 −支援を望まない被災者もいる。
 「昨年夏に市内の仮設住宅で実施した調査では、団地内で人間関係がなく、外部の人と連絡も取っていない人が7%いた。こうした人たちは災害公営住宅で孤立しても支援を求めない可能性がある」
 −どのような対応が考えられるか。
 「看護師や臨床心理士といった専門職をはじめ、多様な人たちが関わらないと解決できない。人と人との関係だから、無駄に見えてもいろいろな人が関わることが一番大事だ。NPO法人や地元の自治会などが立ち上がることも求められる。行政はそういった団体が動きやすいよう、話し合いの場をつくったり支援態勢を整えたりするべきだ」


<孤独死>災害公営住宅の「見守り」急務
 石巻市の東日本大震災の災害公営住宅で2月、1人暮らしの男性(52)が死亡しているのが見つかった問題は、「孤独死」を防ぐ被災者支援の課題があらためて浮き彫りになった。仮設住宅から災害公営住宅への移転が進む中、関係機関は見守りシステム構築などの対応を迫られている。

 市などによると、男性は2013年5月、災害公営住宅に入居。心臓に疾患があり、昨年10月ごろに仕事を辞めた。病死とみられ、発見時は死後約2週間経過。郵便物がたまっているのを不審に思った住民の通報が発見のきっかけだった。
 災害公営住宅では、市社会福祉協議会が市の委託で昨年7月ごろから見守り事業をしている。市社協によると、男性方には支援員が4回訪問したが、初めの2回は会えなかった。10月と12月に面会した際、男性から特段の要望はなく、支援員は「何かあったら連絡をください」と伝えていた。
 市社協災害復興支援対策課の伊藤勝弘課長は「50代は働き盛りで支援を必要としない場合が多い。高齢者や障害者といった要支援者以外へのアプローチは難しい」と説明する。
 宮城県の基金を活用した見守り事業は期間が設定されているため、市社協は住民間や周辺とのコミュニティーづくりも重視。事業終了後を見据えた地域での支え合い態勢構築を急ぐが、被災者の反応は鈍い。
 市が災害公営住宅で昨年実施した調査で、入居前後で地域行事に参加している人の割合は1割減少。「コミュニティーに興味がない」「交流の必要性を感じていない」といった回答もあったという。
 市内では被災地で最多の4500戸の災害公営住宅が計画される。昨年11月末までに事前登録した3758世帯のうち、1007世帯は60歳以上の単身世帯だった。
 「孤独死をなくそう」を合言葉に発足した石巻仮設住宅自治連合推進会は現状に危機感を強める。水道使用状況を活用した見守りシステムや、同じ程度の健康状態の人が支え合う「相互見守り」の導入を検討している。
 推進会の増田敬会長は「コミュニティーづくりは一筋縄ではいかない。見守りに協力した人にはわずかでも報酬を支給するなど長く続けられる動機づけが必要で、行政に制度設計してほしい」と訴える。


<避難区域>住民帰還 南相馬市長12月判断
 東京電力福島第1原発から20キロ圏内の避難区域について、1年後の2016年4月の帰還を目標に掲げる南相馬市の桜井勝延市長は、具体的な帰還時期をことし12月に最終判断する考えを示した。河北新報社の取材に答えた。桜井市長が避難区域解除の判断時期を示したのは初めて。

 桜井市長は「今は目標時期に区域内の一斉解除を目指している」とした上で、「庁内では12月に最終判断すると伝えている。それまでに各分野の復旧を進めるよう指示した」と語った。住民の意見を聴くため、判断時期までに、行政区単位の話し合いを避難区域内の全行政区で行う。
 20キロ圏内に全域が入る小高区では区役所や診療所のほか、工場など42事業所が再開。常磐自動車道が全線開通し、不通のJR常磐線小高−原ノ町間は来春開通する見通し。ただ、宅地除染の実施率は7%(2月20日現在)にとどまるなど復旧は「まだら状態」だ。
 住宅を修繕し帰還の準備を進める住民がいる一方、放射線量が比較的高い小高区南西部の行政区では、一律解除せずに一部地域の先送りを市に求めている。
 最新の市の住民意向調査では、小高区で明確な帰還の意思を示したのは1141人で、原発事故前の人口の1割弱。区域外に移った避難住民からは「慰謝料が継続された方が生活は助かる」との声が漏れる。東電の慰謝料が避難区域解除後1年で打ち切られることを考慮し、早期の解除を望まない住民も少なくない。
 桜井市長は「解除と賠償問題は切り離すよう国に求めていく」と強調する。だが、帰還する人にもしない人にも共通した賠償終期の提示など、打開策は示されていない。最終判断まで8カ月余り。目標通りに進めるかどうか、厳しい選択を迫られそうだ。


御嶽山噴火:半年に不明の家族「気持ちの整理つかない」
 「まだ心境を話す気になれません」。登山客57人が死亡、6人が行方不明となった御嶽(おんたけ)山(長野・岐阜県境、3067メートル)の噴火。27日で半年を迎えた。行方不明となっている愛知県刈谷市一色町の愛知大1年、野村亮太さん(19)の母なつ子さんは、自宅のインターホン越しに語った。

 野村さん一家を知る女性によると、なつ子さんは毎月27日、家族と長野県王滝村や木曽町の献花台を訪れている。また晴れた日には、御嶽山頂が望める刈谷市のハイウエーオアシスに出かけることもあるという。

 昨年11月、亮太さんの友人が刈谷市で「亮太君をおもう会」を開き、同級生や友人ら300人以上が集まった。幼稚園から大学までのスナップ写真が映し出され、参加者の思い出などが披露された。亮太さんの写真、サッカーのユニホームなども展示されたという。

 知人男性は「両親は捜索の再開を待ち望み、前を向いて生きていこうと必死だ。噴火直後に比べればだいぶ落ち着いてきたが、亮太君が見つかるまでは心の区切りが付けにくいのでは」と話す。

 一方、同じく不明となっている愛知県碧南市中山町の運送業、大図和彦さん(49)の母ゆり子さんは昨年12月に和彦さんの死亡届を出したという。「見つかるまでは気持ちの整理もつかない。一日も早く捜索を再開してほしい」と語った。

 親戚の男性によると、和彦さんは両親と3人暮らしだったが、父の正文さんが噴火後間もなく亡くなった。男性は「和彦君は親思いだったので、正文さんのショックも大きかったのでしょう」と話した。【安間教雄】


御嶽山噴火から半年 噴火時刻に黙とう
戦後最悪の火山災害となった御嶽山の噴火から27日で半年です。ふもとの長野県木曽町に設けられた献花台では、噴火が起きた時刻と同じ先ほど午前11時52分、関係者が黙とうをささげ、亡くなった人たちを悼みました。
去年9月の御嶽山の噴火では、57人が死亡し、いまも6人の行方が分からないままとなっています。噴火から半年となる27日、ふもとの長野県木曽町と王滝村にある献花台には地元の人たちや関係者が集まり、犠牲者を悼んでいます。このうち木曽町では、噴火した時刻と同じ午前11時52分に集まった人たちが黙とうをささげていました。献花台には、噴火で亡くなった愛知県一宮市の会社員、所祐樹さんの祖母の智秋さんも訪れ、「噴火から2か月ほどは、ご飯がのどを通らなかった。最初はきっと帰ってくると思っていたが、日がたつにつれ、やはり亡くなったのだと実感するようになった。山が好きなやさしい孫だった」と声を詰まらせながら話していました。一方、噴火を受けて、地元では、観測態勢の強化や、住民や観光客の安全を守るための取り組みも始まっています。戦後最悪の火山災害から半年、御嶽山と向き合ってどのように暮らしていくのか、地元では模索が続いています。
遺族を泊めた民宿経営者は
御嶽山の噴火直後に、遺族や、捜索の結果を待つ家族の宿泊を受け入れた、長野県木曽町の民宿では、27日朝、経営者の田中憲江さんが夫と一緒に、御嶽山に向かって黙とうをささげていました。田中さんは「噴火から1か月ほどして、夫が行方不明になっている若い女性が訪ねてきたが、『残された子どもたちのためにも前向きに頑張りたい』と話していた。私自身も気持ちを切り替えて前向きに頑張りたい」と話していました。田中さんによりますと、この民宿では噴火のあと、予約のキャンセルが相次ぎ、この半年間の売り上げは例年の2割ほどに落ち込んでいるいうことです。田中さんは「実際は影響がないのに、火山灰が釣りに影響すると心配する人もいた。専門家や行政が協力して、正しい情報を伝えてほしい」と話していました。
御嶽山ふもとのスキー場では
御嶽山のふもと、長野県王滝村にあるスキー場でも、噴火が起きた時刻に合わせて黙とうをささげ、犠牲になった人たちを悼みました。御嶽山のふもとの王滝村にあるスキー場、「おんたけ2240」は噴火の影響で、この冬の営業を一時、見合わせていましたが、入山規制の範囲が縮小されたことを受け、先月26日にオープンしました。27日はスキー場でも、噴火が起きた午前11時52分に合わせてサイレンが鳴らされ、関係者やスキーヤーが御嶽山に向かって黙とうをささげ犠牲になった人たちを悼みました。噴火したときに山頂付近にいたという岐阜県中津川市の41歳の男性は「まだ見つかっていない方々がこの冷たい雪の中から早く家族のもとに帰れるよう祈った」と話していました。
岐阜・下呂の消防署では
岐阜県側のふもとから救助に向かった5人の隊員が所属する下呂市消防本部では、犠牲者を悼むとともに、災害の記憶を忘れないため、市内のすべての消防署に黙とうをささげるよう、電話で連絡しました。噴火が起きた時刻午前11時52分に全員で御嶽山のほうを向いて黙とうをささげ、犠牲になった人たちを悼みました。下呂市消防本部では、雪どけ以降に想定される、残る行方不明者の捜索の要請に備えて準備を整えています。救助で隊長を務めた下呂市消防本部の田邊進一消防司令は「行方不明の方々を1日でも早く家族の元に帰したい」と話していました。


御嶽山噴火:きょう半年 息子の最期、知りたい 女児にジャケット、近江屋さんの父
 「死の直前の息子の様子を知りたい」。御嶽(おんたけ)山の噴火の際、負傷した女児にジャケットを差し出した後、亡くなった近江屋洋さん(当時26歳)の父勇蔵さん(65)=横浜市栄区=の思いは日増しに強くなっている。長野県警を通じて、その場に居合わせた女性との面談を希望しているが、実現していない。「息子は一生懸命、生きたいともがいたと思う。その軌跡をたどってあげたい」。戦後最悪の火山災害は27日、発生から6カ月を迎える。【巽賢司、中島幸男】

 勇蔵さんの自宅には、薄茶色の毛並みの猫がいる。9年ほど前、高校生だった近江屋さんが道端で拾ってきた。「見捨てておけなかったみたい。当時はまだ子猫でね。そんな、優しい子だった」。猫を見ると亡き息子を思い、時折涙がにじむ。

 近江屋さんは昨年9月27日、勤務先の損保ジャパン日本興亜の同僚8人と御嶽山に登り、噴火に遭った。遺体が見つかったのは10月1日だった。

 勇蔵さんが長野県警などから受けた説明によると、頂上付近にいた近江屋さんは、噴火が起きると近くの岩陰に隠れた。

 そこで、小学5年だった長山照利(あかり)さん(当時11歳)=愛知県豊田市=や2人の女性登山者と一緒になった。

 寒さを訴える長山さんを見た近江屋さんは「着せてあげてください」と、バッグの中の緑色のジャケットを女性に示した。さらに、簡易ガスコンロで暖を取ったという。

 近江屋さんの遺体が見つかったのは、岩陰から少し下った所とみられる。死因は犠牲者の中で唯一、火山灰や熱風を吸い込んだことによる気道熱傷だった。右肩の背面には噴石が当たったとみられる傷があった。長山さんは亡くなり、女性2人は生還した。

 「息子は岩陰で何を話したのか。まだ元気だったのか。けがでジャケットを直接渡せなかったのか」。勇蔵さんの疑問は尽きない。女性2人が誰か知らず、長野県警に面談の仲介を頼んでいる。「女性には『助けられなかった』と罪悪感があるのかもしれない。簡単に割り切れないと思うので、気持ちの整理がついたら話を聞きたい」と話す。

 長山さんの父幸嗣(こうじ)さん(44)は「最近、落ち着いてきました。でも、半年になるという節目の意識は特にありません」と話しながら、近江屋さんの好意に改めて謝意を表した。

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 ■ことば
 ◇御嶽山噴火

 2014年9月27日午前11時52分、長野・岐阜県境の御嶽山(3067メートル)が噴火した。死者57人、行方不明者6人を出し、1991年の雲仙・普賢岳(長崎県)火砕流の死者・行方不明者計43人を上回った。噴火活動は低下傾向にあり、気象庁は1月、警戒範囲を火口の半径4キロ内から3キロ内に縮小したが、噴火警戒レベルは3(入山規制)を継続している。


性的少数者 身近な場から考えたい
 性的少数者に対する国や自治体の取り組みが始まっている。学校現場でその特性に配慮した支援を行うことや、同性カップルに結婚に相当する証明書を発行する動きなどだ。身近な場から考えたい。

 性的少数者を語る「LGBT」は、女性同性愛者「レズビアン」、男性同性愛者「ゲイ」、両性愛者「バイセクシュアル」、心と体の性が一致しない「トランスジェンダー」のそれぞれ頭文字をとっている。

 異性を恋愛対象にするように同性にひかれる人や、性別に違和感を持つ人は、調査研究では国や人種に関係なく先天的に人口の5%が該当する。二十人学級なら一人いる計算だ。しかし、多様な性についての理解がないために、当事者は誤解や偏見に遭い苦しみもする。当事者団体が行ったアンケートによると、七割にいじめられた経験があり、三割は自殺を考えたことがあるという結果だった。

 性的少数者に対する国の施策は性同一性障害特例法(二〇〇四年施行)のみだったが、文部科学省はこのほど、学校や教育委員会に向け、性同一性障害だけでなく、同性愛なども含めて対応を求めていく文書をまとめた。

 学校は子どもが安心して過ごせる場でなくてはならない。知識不足を解消し、教員だけでなく、教員養成段階から性的少数者について学ぶ機会を増やすべきだ。当事者支援を進める一歩にしたい。

 自治体では、東京都渋谷区のケースがある。同性カップルを「結婚に相当する関係」と認め、パートナーシップ証明書を発行する全国初の条例案が開会中の定例議会で成立する見通しだ。世田谷区などにも波及する可能性がある。

 同性婚が認められていない日本では、同性カップルは賃貸住宅の契約や病院での面会などで「戸籍上の家族ではない」のを理由に断られるなど不利益を受けている。

 渋谷区の証明書に法的拘束力はないが、区民や民間事業者に対し、証明書に最大限の配慮をするよう求めている。人権を保障し、多様性を認めていく社会にしたい。

 欧州などでは同性パートナーを法的に認める国が増えているが、日本は性的少数者について正面から向き合ってこなかった。桑原敏武区長は「未来に対し設計の持てる人生をすべての人に実現する。温かい手を差しのべることは本来は国がやるべきこと」と語る。少数派への差別や排除をなくし、その権利をどう守っていくのか、議論を深めたい。


特集ワイド:続報真相 戦意発揚スローガン「八紘一宇」国会発言 問題視されない怖さ
 16日の参院予算委員会で、自民党の三原じゅん子議員が戦争遂行のスローガンに使われた言葉「八紘一宇(はっこういちう)」を肯定的に紹介してから10日余り。大きな問題にはなっていないが、戦後70年を迎える折も折、「良識の府」参議院で飛び出した発言を忘れ去っていいのだろうか。

 「ご紹介したいのは、日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇であります。初代神武天皇が即位の折に『八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(な)さむ』とおっしゃったことに由来する言葉です」。三原氏は国際的な租税回避問題に関する質問の中で、この言葉を持ち出した。「現在のグローバル資本主義の中で、日本がどう立ち振る舞うべきかが示されている」というのが、その理由だった。

 しかし、言うまでもなく「八紘一宇」は、日本を盟主とする世界統一の理想を表すものとして、戦意発揚に用いられた言葉だ。日本書紀の「掩八紘而為宇」という漢文から「八紘一宇」を造語したのは戦前の宗教家、田中智学(ちがく)とされる。

 一方、三原氏が事前に参院予算委員全員に配布した説明資料には、八紘一宇について<日本は一番強くなって、そして天地の万物を生じた心に合一し、弱い民族のために働いてやらねばならぬぞと仰せられたのであろう>と記されている。出典は1938年に出版された清水芳太郎著「建国」という書物だ。

 国会図書館に出向き、デジタル保存されている同書を閲覧した。すると、三原氏の配布資料に含まれていないページにも、気になる記述があった。日本書紀の「掩八紘而為宇」の直前にある「兼六合以開都」を、こう解釈しているのだ。<六合を兼ねて以(もっ)て都を開き=とあるのは、思うにその時は大和を平定したに過ぎず、まだ奥の方に国はあるけれども、それは平定していなかった。(中略)大和が皇化されるならば、更に進んで全世界を皇化せねばならぬと仰せられたのであろう>

 「六合」とは天地と四方。田中智学は、この「兼六合以開都」からも「六合一都」(世界を一国に)を造語したとされる。戦前や戦中には「八紘一宇」とセットで用いられることも少なくなかった。

 学問的な評価はさておき、三原氏が今回の質問にあたって依拠した書物ににじむ思想は、三原氏の言う「日本がどう立ち振る舞うべきかが示されている」と言えるのか。首をかしげざるを得ない。

 清水とはどんな人物だったのか。鹿児島大の平井一臣教授(政治史)が2000年に著した「『地域ファシズム』の歴史像」によると、1899年、和歌山県に生まれた。早稲田大卒業後の1928年から西日本新聞の前身の一つである九州日報の主筆。のちに健康食品などを開発、販売する清水理化学研究所を設立。同研究所を母体に国家改造運動団体「創生会」を結成し、農村救済などに取り組む。41年に飛行機事故で死亡するまでジャーナリスト、発明家、活動家と目まぐるしく職業を変えた生涯だった。

 平井教授は「清水は主に九州北部で活動したため知名度は高くありませんが、『日本的ファシストの象徴』といわれた北一輝の流れをくむ国家主義者です。体系的思想よりも、時事問題を分かりやすく文章にまとめるのが得意だったようです」と語る。

 清水が注目されたのは37年7月の日中全面戦争の勃発以降だ。同年内に2回も中国戦線を視察し、九州各地で大規模な報告会を開いた。清水が率いる創生会はその後、日独同志会結成や排英運動でめざましい活動を続け、軍部からも、その大衆動員力を注目されたという。「『建国』は日中全面戦争勃発の前後に書いた文章をまとめた本です。この時期から創生会は農村救済から軍部への協力に軸足を移し、運動を変質させていった」と平井教授。本の扉には「八紘一宇 陸軍中将 武藤一彦」と大書されている。

 「満州出兵は日露戦争の権益を確保するためと説明できたが、権益を持たない中国全土を相手にした戦争は国益論では正当化できなくなった。このため軍部は、他民族に優越した日本民族を中心とした東亜新秩序の構築のためという虚構をつくり上げた。八紘一宇は、その虚構を支えるスローガンだった」。平井教授はそう指摘し、三原氏の発言については「今の時代に、国会で『八紘一宇』や清水芳太郎の名前が出るとは思わなかった」と驚きを隠さない。

 三原氏は毎日新聞の取材に文書で回答を寄せた。数多くの文献の中から「建国」を選んだ理由については、同書の一節に<現在までの国際秩序は弱肉強食である><強い国が弱い国を搾取する>などの表現があり「現在のグローバル資本主義が弱い国に対して行っているふるまいそのままだと思い引用した」と説明。「時代状況を踏まえぬ言葉の解釈だ」との批判に対しては「八紘一宇の元々の精神は、少なくとも千数百年もの間、『我が国が大切にしてきた価値観』だったわけで、戦前はその精神から外れて残念な使われ方がされたものであり、だからこそ元に戻ろうということ」としている。
 ◇象徴の塔が物語る侵略の歴史

 「今でも宮崎県に行くと、八紘一宇の塔が建っております」。租税回避問題に絡んで「八紘一宇」を持ち出した三原氏に対し、麻生太郎財務相はこう応じた。神武天皇即位からとされる「紀元2600年」を祝って1940年に建てられた高さ37メートルの塔は、今も宮崎市平和台公園にそびえる。記者は宮崎に飛んだ。

 満開の山桜。春らんまんの公園には家族連れのほか、シンガポールや台湾のツアー客が訪れ、塔に続く階段で記念撮影を楽しんでいた。

 県職員立ち会いの下で塔内部に入った。正面には秩父宮(昭和天皇の弟宮)の真筆「八紘一宇」が納められていた「奉安庫」。周囲には軍用機や戦艦が描かれた「大東亜の図」や移民船が描かれた「南米大陸の図」、神話の「天孫降臨」「紀元元年」など8枚の石こうのレリーフがかかる。

 また、塔の基礎には世界各地の石が使われている。中国本土、台湾、朝鮮半島、シンガポール、フィリピン、パラオ、ペルーなど世界中の派遣部隊や日本人会から送られたものだ。「多田部隊 萬里長城」と刻まれた石もあった。送り主が刻まれている石だけで1789個あるという。毎日新聞の前身の一つ「東京日日新聞」と刻まれた石もあった。冷たい石肌をなでながら戦意高揚に協力した戦前の新聞業界の責任を思う。宮崎県が71年、塔の前に設置した石碑には<友好諸国から寄せられた切石>とあり、<(塔には)「八紘一宇」の文字が永遠の平和を祈念して刻みこまれている>とも記されていた。

 歴代内閣は八紘一宇に否定的な見解を示してきた。中曽根康弘首相は83年1月の参院本会議で「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った。それが失敗のもとであった」と述べている。

 実は、塔の正面の「八紘一宇」と刻まれた石板は戦後の一時期、外されていた。連合国軍総司令部(GHQ)が45年12月に「八紘一宇」を公文書で使用することを禁じた。県内の財界人らが動いて「八紘一宇」の文字が復活したのは65年だ。

 この塔の話は65年のNHK連続テレビ小説「たまゆら」にも出てくる。文豪・川端康成が初めてテレビのために原作を書き下ろしたドラマだ。川端が訪れた時、まだ石板は外された状態だった。原作にこんな一節がある。<見る人によっては、それが立った時の誇りを思ひ起し、塔の名のもぎ取られた時のかなしみを思ひ出し、また、ただ奇妙な形の塔とだけ眺めるのもよいのではあるまいか。すべて、古跡とか記念の建物とかは、見る人のこころごころであらう>

 「川端先生は当時の県民感情を的確に書いてくれた」。当時、川端を案内した渡辺綱纜(つなとも)・宮崎県芸術文化協会会長はそう話す。

 「この塔は戦時中に国民を戦争に一致団結させるための精神的な支柱だった。宮崎県には、その史実を正しく伝える碑などを建立するよう求めています。三原さんの発言を聞くと、再び国民を戦争に駆り立てる支柱としてこの塔が利用されるのではないかとの懸念を拭えません」。91年から塔の史実を研究している市民団体「『八紘一宇』の塔を考える会」の税田啓一郎会長は表情を曇らせる。

 公園を管理する宮崎県都市計画課の担当者は、現在の碑文について「さまざまな意見があろうかと思いますが、現状のまま大切に保存してまいりたい」と語るのみだ。

 世界各地から石を集めて築かれた巨大な「八紘一宇」の塔。それは、アジア諸国を踏みにじり日本を破滅に導いた戦争を象徴するモニュメントだ。三原氏の発言と共に胸に刻みたい。【浦松丈二】


自治はどこへ:2015年統一選 都議お手盛り、いつまで 費用弁償、運賃数百円でも出席1日1万円
 ◇自民・公明・民主、「先送り」主張

 東京都議会で「自治体議員とカネ」を巡る改革が先送りされることになった。議会の本会議や委員会に出席するたびに議員に支給される「費用弁償」(交通費などに相当)を、全国最高水準の1日最低1万円から実費支給にする条例改正案が27日、一部会派から提案されるが、自民、公明、民主3党は「議会改革全体を議論すべきだ」などと主張。引き続き審議すべきだとして採決に応じない構え。来月3日に告示される41道府県議選にも一石を投じそうだ。【武本光政、竹内良和、川口裕之】

 都議会では23区内と島しょ部選出の議員に1日1万円、多摩地域選出の議員には同1万2000円を支給すると条例で規定する。だが、自宅から新宿区の議会まで鉄道で往復数百円の議員にも一律渡され、規定が実態とかけ離れているとして疑問視されてきた。

 こうした中、共産党や維新の党など4会派と無所属議員1人が今月9日、実費支給とする条例改正案を共同提出すると表明。26日の議会運営委員会理事会で対応が協議された。

 共産などは、27日の定例会最終日の本会議で採決すべきだと主張した。これに対し、自民などは、費用弁償だけでなく他の課題も含めて議論すべきだとして継続審査を主張。この日合意に至らず、27日の本会議で継続審査の動議が自民などの賛成多数で可決される見通しとなった。条例改正案を採決して否決すれば「改革に後ろ向き」との批判を招きかねず、あいまいな決着で批判を避ける狙いもあるとみられる。

 都議会では、2005年にも共産と無所属議員が実費支給とする条例改正案を提出、否決され、それから10年間、議論は足踏み状態だった。当時、反対討論に立った自民都議は今回と同様、議会制度全体の改革が必要だと強調していた。

 10年ぶりの条例改正案を巡っては、継続審査を主張する会派から「統一地方選を前にしたパフォーマンス」と批判も上がり、改革に向けた道筋は見通せない。
 ◇「差額で酒に」

 自治体議員への費用弁償について毎日新聞が47都道府県議会を調べたところ、廃止や原則実費支給は計9府県議会にとどまっている。以前は定額支給が主流で実際の費用を大きく上回り、批判され見直しを進めた議会もあるが、全体として改革の動きは鈍い。

 移動距離や公共交通機関の発達を考慮すると都議会の「厚遇」は際立つ。実際、都議会(定数127)の費用弁償総額は5224万円、実費支給とする千葉県議会(同95)は918万円だ(ともに13年度決算ベース)。

 そもそも都議は、報酬(月額102万円)も政務活動費(1人当たり月額60万円)も全国トップ。「日本最大の自治体議会」として恵まれている。しかも、費用弁償は使途を示す領収書を出す必要がない。ある都議は「国会議員のように公費で秘書を雇える制度がないので秘書給与の一部に充てることもできる」と明かす。「(実際の交通費との差額で)2回ぐらい酒が飲める」といった本音も聞こえてくる。

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 ■ことば
 ◇費用弁償

 地方自治法の「議員は職務を行うため要する費用の弁償を受けることができる」という規定に基づき、議員が議会の本会議などに出席した際、交通費や雑費などの名目で支給されている。金額や支給方法は各自治体の条例で定める。

寒いです/アクティブ説明会/ハイネ歌の本

ブログネタ
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Le mangaka Tetsuya Tsutsui, rebelle modéré
Méconnu et censuré à ses débuts au Japon, le mangaka a trouvé un éditeur – et la popularité – en France, avant d'effectuer un retour gagnant dans son pays.

On imagine derrière les histoires du mangaka Tetsuya Tsutsui un homme en colère, très remonté contre la société. C'est au contraire un auteur serein qui est venu enchaîner les interviews et les séances au Salon du livre de Paris, du 20 au 23 mars 2015. Serein et extrêmement discret. Comme une majorité de ses personnages, Tetsuya Tsutsui parle à voix basse et préfère garder une certaine forme d'anonymat qui l'oblige parfois à remettre sa fameuse casquette noire pour être reconnu en séance de dédicace.
Le dessinateur ne laisse d'ailleurs pas beaucoup filtrer d'information sur lui : ≪ Je ne suis ni sur Twitter, ni sur Facebook… Je connais les excès des petits dérapages et l'Internet japonais peut être très excessif ≫, justifie-t-il. Pourtant, avec son nouveau manga Poison city sorti en France mi-mars, l'auteur mène une ≪ rébellion ≫ contre la censure des collectivités locales au Japon. ≪ Pour cette histoire, je me suis centré sur la liberté d'expression.

Dans cette courte série toujours en cours d'écriture, Tetsuya Tsutsui s'appuie en effet sur une expérience personnelle : le premier tome de l'un de ses précédents mangas, Manhole, a été jugé ≪ nocif pour la jeunesse ≫ par la préfecture de Nagasaki. De fait, il n'est plus disponible dans cette région du Japon. Tsutsui n'apprendra cette décision que huit ans plus tard, en 2013, le comité chargé d'examiner les œuvres n'estimant pas utile de prévenir les auteurs.
Plutôt que de prêter le flanc aux accusations de violence dans ses histoires et ses dessins, Tsutsui défend un certain réalisme sans brutalité gratuite. ≪ Il est vrai que je montre très critique envers mon pays. Il est important de porter un regard critique là où on vit. Mais de la à en partir… Pour être honnête, en dehors de ce que je dénonce dans Poison city, rien ne m'indigne particulièrement, précise-t-il. Il y a beaucoup de styles différents dans le manga et chaque auteur répond à sa façon aux questions de représentations de la violence. Faut-il montrer un visage déformé par la douleur ? Des giclées de sang ? En ce qui me concerne, je suis plutôt quelqu'un de direct mais j'ai l'impression de me retenir.
Dystopies réalistes
Dans les thrillers de Tsutsui, la présentation de la société est poussée à son paroxysme : des personnages aux mauvaises intentions recourent à la technologie ou aux jeux vidéo pour mettre à exécution un projet personnel, des familles sont déchirées, des citoyens brimés par la société ou leur hiérarchie… ≪ En fait j'ai pris conscience que les outils les plus pratiques peuvent blesser autrui. Pour autant, je suis contre le fait qu'on les limite ou les censure ≫, raconte Tsutsui.

Lui qui mène une vie très tranquille à Tokyo – ≪ par chance je n'ai pas eu affaire aux malheurs que je décris dans les mangas ≫, explique-t-il – cherche ses histoires à la télévision et dans les journaux : ≪ Ma source d'inspiration ce sont les informations et le regard qu'elles portent sur la famille, comment elle arrive à surmonter ces drames. ≫ Les bulletins télévisés regorgent de faits divers au Japon, mis en scène de façon très dramatique. Les médias japonais sont d'ailleurs omniprésents dans Prophecy, qui met l'accent sur la cybercriminalité.
L'auteur est pourtant loin d'être un expert en informatique. ≪ J'adore les jeux vidéo, j'y joue depuis très longtemps. Par contre, le monde de l'informatique et du hacking requiert des connaissances très pointues que je n'ai pas. Du coup je passe par mon éditeur pour trouver des spécialistes ≫, avoue-t-il.
L'histoire avant les personnages
Tetsuya Tsutsui cultive aussi une façon particulière de rétablir la justice dans chacune de ses histoires, souvent courtes, rapides, comme ses séries qui n'excèdent jamais trois volumes. ≪ Pour un format long, il devient primordial de créer un héros attachant pour fidéliser le lectorat. Or, pour moi, c'est l'histoire plus que le personnage qui est importante ≫, expliquait-il lors d'un précédent passage en France.
Poison city, qui passe pourtant pour la plus réaliste de ses histoires, ≪ est plutôt un manga d'anticipation ≫ selon Tsutsui, qui y dépeint un pays plongé dans le puritanisme et l'obscurantisme. ≪ L'idée est de dire aux gens : “Regardez ce qu'il pourrait se passer, ce serait vraiment terrible !”
Ce dernier tome dresse également un panorama de l'industrie du manga au Japon et en livre les rouages. Si Tetsuya Tsutsui est un auteur indépendant – il ne travaille pas en atelier – il a gouté au système d'édition nippon. ≪ La meilleure façon pour un jeune mangaka de se faire remarquer est de passer des concours pour des magazines de prépublication très connus. Au début de ma carrière, j'ai passé plusieurs concours mais je n'ai pas été retenu. J'étais très déçu. A l'époque, j'avais écrit Duds hunt, alors j'ai décidé de le publier sur Internet. ≫ En 2002, Tsutsui a 28 ans et publie ses premières planches sur son site Web, PN221.
Mikio Hibino, le mangaka qui fait figure de personnage central dans Poison city, emprunte beaucoup à Tsutsui. ≪ Il ressemble du moins à celui que j'étais dans les premières années de ma carrière. Il y a aussi l'autre personnage, le mangaka plus agé, Matsumoto : lui aussi représente une partie de moi, il connaît les limites du système, a été réprimandé… Je dirais que je me situe entre les deux caractères. Je veux garder mon innocence d'auteur mais je me pose des limites, je suis plus réfléchi.
Popularisé par deux Français
Ce sont deux Français, Cécile Pournin et Ahmed Agne, fondateurs des éditions Ki-oon tout juste créées, qui découvrent sur le Net les planches de Tsutsui, au début des années 2000. Duds hunt, une histoire abordant un jeu de poursuite grandeur nature entre délinquants, quelque part ≪ entre Fight club et Battle royale≫, attire leur attention. Ils lui donnent sa première chance. Le premier contrat d'édition de Tsutsui est établi en France en 2004. Cécile Pournin et Ahmed Agne se chargent eux-mêmes de traduire l'auteur – ils n'ont cessé de le faire que récemment. Dix ans plus tard, à la tête d'une entreprise désormais solide, Ahmed Agne continue d'accompagner Tetsuya Tsutsui dans ses déplacements en France.
Rassurée par le succès français de Tsutsui, Square Enix, une grosse maison d'édition, le publiera par la suite au Japon. L'auteur se voit aussi proposer de publier sa série Reset dans un magazine de prépublication, rouage du système qui lui mettait des batons dans les roues au début de sa carrière. La licence de Poison City, créée à l'origine pour Ki-oon, a été achetée par la maison d'édition Shueisha. Nul ne sait encore quel accueil va recevoir cette dernière histoire dans les comités de censure au Japon. En revanche, le public attend fermement l'adaptation de Prophecy sur les écrans nippons. Elle devrait sortir en juin 2015.
フランス語
フランス語の勉強?
創価学会あるある
創価学会ルール研究所
ビジネス社
2014-02-20


NNNドキュメント 息子の就活 取材します! 報道記者の父と自閉症児
杉山裕子、田中穂積 中京テレビ
子どものことは妻に任せて仕事に没頭。そんな報道記者がある日、重い知的障がいのある自閉症の息子の就労活動に奔走することになった。息子は特別養護学校の高等部3年生。父はのんきに考えていた。「卒業したらどこかの事業所に世話になり、自立に向けた職業訓練を受けるのだろう。」しかし、あてにしていた所が定員一杯だとわかって大慌て。妻任せから一転、息子の就労活動が始まった。そこで目の当たりにしたのは、障がい者が働くことの現実の厳しさ。事業所での作業は労働と見なされないため「最低賃金」が適用されず、朝から夕方まで作業しても、平均月1万4000円程度にしかならない。果たして息子は自立できるのか。自閉症の息子と向き合った8か月間。そこから見えてきたものとは?


寒いです.でも仕方ありません.今日は昼過ぎからアクティブ関連の説明会が予定されていて,参加しようかどうするか迷っていたのですが,成り行きで参加することになりました.ディスプレーとかスゴイという感じです.
夕方図書館に行ってハイネの詩集を借りました.さてどうかな?

震災の経験を全国へ継承 宮城県が記録誌
 宮城県は東日本大震災の教訓を後世に残し、県内外の災害対応の基礎資料とするため記録誌を作成した。震災後1年間の県や県警の初動対応を検証し、各自治体の被災状況をカルテ形式で掲載した。
 記録誌は10章で構成。この中で県の初動対応については、震災発生直後の村井嘉浩知事の基本的な考え方は「指揮官不在の状態をつくらないことだった」と回顧。広報、物資調達、ヘリコプター運用、避難所などグループ単位で構成された災害対策本部事務局の人員配置状況などを記録した。
 行方不明者の捜索や身元確認を担った県警、人命救助のほか、がれき撤去、給水、給食、入浴支援などに当たった自衛隊の活動も記した。
 資料編には市町村被災状況カルテを添付し、県内35市町村の死者・行方不明者数、震災関連死者数、ライフライン被害、津波浸水域図などを各1ページにまとめた。地震発生後の関係機関の対応を時系列にした表も載せた。
 記録誌本冊はA4判、1032ページで4200部。概要版5300部、概要版の英訳400部も作成した。全国の都道府県と県警本部、市町村、駐日外国公館、県内の全小中学校、高校などに配布した。


被災地の姿に感動 福岡の学生が石巻へ就職
 西南学院大(福岡市)を今春卒業した市原慎也さん(24)が石巻市の水産加工会社・大興水産に就職した。復興庁などが音頭を取った被災企業での職業体験「復興支援インターン」がきっかけになった。入社式が25日にあり、市原さんは新天地に希望を膨らませた。

 インターンは被災地の現状や復興の課題を学ぶ目的で2013年度に始まった。昨年12月までに全国16大学の学生188人が宮城県内の企業で研修した。受け入れ先に就職するのは初めてだ。
 市原さんは昨年9月、大興水産で4日間、三枚おろしにしたサバやブリの冷凍、箱詰め作業などに従事し、社員と交流した。
 同社は津波で旧社屋が全壊。13年4月に再建した新工場で業務を再開したが販路を失うなどして、売り上げは震災前の6割にとどまる。インターンの受け入れは福島第1原発事故の風評被害払拭(ふっしょく)が狙いだった。
 市原さんは職業体験で、食品安全管理の国際規格を取得したり、イスラム教徒向けの「ハラル料理」に挑戦したりと、被災から立ち上がろうとする社員の前向きな姿勢に引かれた。
 当初は公務員志望だったが、履歴書を送付。昨年10月に面接を受け、内定を受けた。同社の大卒採用は約20年ぶり。大塚敏夫社長は「熱意を買った。同じ目的に向かって頑張ってほしい」と期待する。
 同期入社の4人は地元出身。市原さんは「魚や地域の知識が少ないという不安はある」と言いながらも「会社や地域の復興のために勉強を重ね、海外販路の拡大などに取り組みたい」と意欲を燃やす。


東日本大震災:2年遅れの結婚式 会場に父の遺影
 宮城県石巻市の看護師、伊藤真弓さん(39)が25日、約2年前に結婚した夫隆文さん(37)と結婚式を挙げた。東日本大震災で父親と祖母を亡くし、「お父さんとバージンロードを歩けないなら」と一度は諦めた挙式。東松島市のビジネスホテル「バリュー・ザ・ホテル矢本」などの企画で実現し、家族やスタッフから大きな拍手を受けた。

 純白のドレスに白いブーケ。真弓さんは母の細谷富美子さん(67)と並び、10メートルほどのバージンロードをゆっくりと歩いた。隣の披露宴会場のテーブルには、父忠一さん(当時63歳)の遺影。「お父さんも一緒に歩いてくれている」。夫隆文さんに近づきながら、はっきりそう感じた。

 2011年3月11日、勤め先の多賀城市の大学保健室で大地震に遭った。石巻の沿岸部で働く忠一さんには電話が通じ「近くの立体駐車場に逃げてるよ」と聞いて安心した。

 次々に避難してくる人たちの対応に追われ、泥をかき分けて石巻に戻れたのは3日後。だが父だけが見つからず、再会はさらに約1週間後、遺体安置所だった。「うそでしょ、お父さん。寝ているだけだよね」。思わずそんな言葉が出た。祖母も入院中の病院が被災し、亡くなった。

 隆文さんと交際を始めたのは翌年だった。電気工事業を営む隆文さんの父親が、工事で真弓さん宅を訪れたことがあり、忠一さんも信頼していた人だと分かった。「会ったことがある人の家族なら安心してくれるかな」と13年5月に婚姻届を出したが、挙式への思いは胸にしまった。妹の結婚式でほほ笑む忠一さんの写真を見て「お父さんと撮れないなら、式はやらないでいいや」と思った。

 震災から時間がたち、前向きな気持ちも出てきた時、主に復興工事の作業員たちが使うホテルが「震災で挙式を諦めた夫婦と家族に、思い出に残る式をプレゼントしたい」と無料の結婚式を企画していることを知った。「やっぱり父母にドレス姿を見てもらいたい」と応募した。

 この日の結婚式は、企画に賛同した京都のブライダル会社や大阪のヘアメーク専門学校生らも支援。食堂をついたてで区切って式場を作り、白いウレタンのシートを敷いてバージンロードにした。

 「お互いかけがえのない存在になりました。ずっと一緒にいることを誓います」。隆文さんは両家の家族11人の前で宣誓した。式を終えた真弓さんは「こういう機会をいただいて本当にうれしい。父も喜んでいると思います」と語った。【近藤綾加、伊藤直孝】


気仙沼の防潮堤 同意得られず
気仙沼市の魚市場周辺の防潮堤の整備について、宮城県が、建設に向けた最終案を地元に示したところ、景観が損なわれることを理由に防潮堤の高さや設置そのものに反対する意見が相次ぎ、同意は得られませんでした。
宮城県が、気仙沼市内で開いた魚市場周辺の防潮堤の整備に関する説明会には、地元の漁業関係者や住民などおよそ50人が参加しました。
説明会では、まず、県の担当者が、魚市場の陸側に長さおよそ1.4キロメートルに渡って、高さ5メートルの防潮堤を建設する最終案を示しました。
県は去年、地元との意見交換を2回開いていて、そこで出た意見を踏まえて、景観が損なわれないために、防潮堤の一部にアクリル板で1メートル四方ほどの窓を設ける対策も盛り込みました。
しかし参加者からは、▼防潮堤の高さが5メートルでは景観が損なわれるとして反対する意見や、▼市内で建設が進むほかの防潮堤を引き合いに出しながら魚市場周辺での設置そのものに反対する意見が相次ぎ、県の最終案は地元の同意を得られず、引き続き議論をしていくことになりました。
宮城県気仙沼地方振興事務所の丹治一也漁港整備専門監は「県の案を受け入れてほしい気持ちでいたが、意見を聞いて、まだまだ議論が尽くされていないと感じた。住民の意見をさらに聞くとともに丁寧に説明をしていきたい」と話していました。


仮設住宅で病気の割合増加
石巻市でプレハブの仮設住宅に暮らす人たちを対象に、市などがアンケート調査を行った結果、心のケアが必要な人の割合は減る傾向にあるものの、高血圧や糖尿病などの病気にかかっている人の割合は、増えていることがわかりました。
石巻市はプレハブの仮設住宅で暮らす人たちの健康状態を調べるため、県と共同で去年9月から11月にかけておよそ5300世帯を対象にアンケート調査を行い、60%近くに当たるおよそ3100世帯から回答を得ました。
それによりますと、不安を訴えたり、抑うつ状態を示したりするような心のケアが必要とされる人の割合は7.9%で、前の年度を0.5ポイント下回りました。
また「災害を思い出して気持ちが動揺することがある」と答えた人の割合は18.4%で2.4ポイント減っています。
一方で、高血圧や糖尿病などの病気にかかっている人の割合は、55.5%で、前の年度を3.1ポイント増えています。
また男性を中心に「眠れない」とか「朝または昼から飲酒することがある」と答える人の割合が増える傾向がみられたということです。
石巻市は「避難生活の長期化でストレスが増していて今後、災害公営住宅などへの転居が本格化すると残された人のストレスや不安がさらに増す恐れがある」として見守り体制や健康づくりの取り組みへの支援を強化することにしています。


同性カップル:東京・渋谷区議会委 パートナー条例案可決
 東京都渋谷区議会の総務区民委員会は26日、同性カップルを「結婚に相当する関係」(パートナーシップ)と認め、証明書を発行する条例案を賛成多数で可決した。自民会派だけが反対だったことから、31日の本会議でも可決、成立する見通しで、公的に同性カップルを認める制度が日本で初めて誕生する公算が大きくなった。

 討論では、公明や無所属会派など3会派が賛成を表明。民主と共産は、区民らへの十分な説明などを求めるとの意見を付けて賛成に回り、自民は「同性婚に準じる位置づけは明らかで、法整備も含め検討の必要がある」「(両性の合意による婚姻を定めた)憲法24条との整合性に抵触する」などとして反対を表明した。

 採決に先立つ質疑では、条例趣旨に反した事業者名の公表を定めた規定などについて質問が相次ぎ、桑原敏武区長は「公表は理解を得る努力をしても無理だった場合の最終手段」と説明した。

 同区在住で、同性パートナーと共に性的少数者の問題に取り組む増原裕子さん(37)は成立の見通しとなったことについて、「率直にうれしい。条例は性的少数者の人権を守る姿勢を表しており、区は丁寧に説明し、いろいろな立場の人が考えるきっかけとなってほしい」と話した。【藤沢美由紀】


「性別に中立」な代名詞、スウェーデンの辞書に追加
【3月26日 AFP】スウェーデンの王立学士院が編さんする辞書に、4月から新たに「性別に中立」な代名詞が掲載されることになった。同辞書の編さん者が24日、明らかにした。

 スウェーデン・アカデミー(Swedish Academy)によるスウェーデン語の辞書「SAOL」の最新版には、1万3000語の新語が追加される。その中で、従来からある代名詞「han(彼)」「hon(彼女)」と並んで新たに掲載されるのが、「hen」だ。

 代名詞「hen」は、指し示す相手の性別が不明だったり、トランスジェンダーだったり、話し手や書き手が性別を余計な情報だと考えたりした場合に、対象となる存在の性別を明示することなく使うことができる。

 編さんチームのストゥーレ・ベリ(Sture Berg)氏は、AFPの取材に対し「この代名詞を使用する人々にとっては、SAOLに掲載されている事実が強みとなるだろう」と述べた。

「hen」は1960年代に、「han」の多用が不適切とみなされるようになったことから生まれた造語。言語を簡素化しつつ「han/hon(彼または彼女)」という分かりにくい用語を回避する目的で考案されたが、定着しなかった。しかし、2000年頃に小規模なトランスジェンダーのコミュニティーで再び使われるようになると、この数年間で一般化。現在では公文書や裁判の判決文、報道記事や一般文書でも見られるようになった。

 SAOLは10年ごとに改訂され、使用頻度や妥当性を基準に新語が追加される。最新版は4月15日に発売予定。

自転車修理に8500円/昼の会議眠い/Inさんに会う

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senti1

≪ Le musée est un des lieux qui donnent la plus haute idée de l'homme. ≫
de André Malraux
Je déteste le victemes qunad elle respectent leurs bourreaux.
-Jean-Paul Sartre
I hate victims when they respect their executioners.
フランス語
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朝図書館に本を借りに行くときに自転車がオカシイ.近くで自転車屋の場所を聞いて行ってみると,大変なことになっているようでした.修理代8500円.新しいのを買ったほうがいいくらいでしたが,急いでいたのでガマン.でも想定外の出費は悲しいです.
お昼からの会議は眠くなってとてもつらいものでした.
会議の後偶然Inさんに会いました.仕事に慣れたか?などと優しい思いを感じました.

<被災パトカー>ありのままの姿見て感じて
◎保存に奔走 富岡の藤田さん情報発信
 「震災と原発事故のありのままの姿を見てほしい」
 東日本大震災の津波に流され、福島県警双葉署員2人が殉職したパトカーが今月中旬、同県富岡町内の公園に保存展示された。町に保存を働き掛けた住民有志の藤田大さん(45)は避難区域の案内ガイドとして、地域の厳しい現実について情報発信に努める。
 津波の威力でゆがんだ車体の前に立つと、決死の覚悟で避難誘導していたことがすぐに想像できた。「2人のおかげで多くの命が救われた」。パトカーを初めて目の当たりにした時の印象を藤田さんは振り返る。
 昨年7月、有志代表として町に保存要望書を出した。県警は既に処分を決めていたが、諦めきれなかった。応援に入る全国の警察官が手を合わせる。「パトカーの2人を多くの人に知ってほしい」との思いが頭から離れなかった。
 町内の一部が日中立ち入り可能となったのは、旧警戒区域が再編された2013年3月末。5月以降、避難先のいわき市で仕出し業を営む傍ら、希望者をボランティアで案内してきた。
 そもそもガイド役を始めたのは、避難区域内の実態がきちんと町外に伝わっていないと感じたからだ。避難者と受け入れ側の住民との間に摩擦が生じていることを聞き、相互理解の助けになればと思いついた。
 「報道はちらっとだけで、一部分の切り取りだと感じた。僕も一つの情報発信として、ありのままの町の状況を伝えようと考えた」
 ガイドは昨年7月、町商工会有志で設立した「ふたば商工株式会社」の視察事業に発展。パトカーのほか、バリケードが並ぶ夜の森地区、雨漏りで傷んだ建物などを案内し、避難区域の今を伝える。
 車体が移された公園は国道6号沿いにある。通行規制が昨秋解除され、交通量は増加の一途だが、全町避難指示は依然続いている。
 「避難生活で心が折れそうな時、パトカーの前に立って2人を思うと、自分も頑張らなきゃなって力が湧いてくるんですよ」
 パトカーの設置式があった16日、藤田さんは保存仕上げの防さび剤を塗り終え、ほっとした表情で語った。

[被災パトカー]増子洋一警視=当時(41)=と、佐藤雄太警部補=同(24)=(ともに2階級特進)が避難誘導の際、車ごと津波にのまれたとみられる。佐藤さんは今も行方不明。
[ふたば商工株式会社]避難区域の視察案内はホームページ「旧警戒区域に行ってみっぺ」から申し込む。有料。次回は4月19日。アドレスはhttp://311futaba.jimdo.com/


<卒業式>震災で入学式中止…4年被災地歩む
 東北最大の私大、東北学院大(仙台市)の卒業式が24日、太白区の市体育館であった。4年前の入学式は東日本大震災の影響で中止。大学生活の傍ら被災地支援を続けてきた学生たちも多い。大学は、歌手のさとう宗幸さんらOBが映像ではなむけの言葉を贈るサプライズを用意し「入学式のなかった卒業生」の門出を祝った。
 式では6学部、大学院の計2652人の卒業生を代表して文学部の千葉京子さん(22)=石巻市=が「災害の傷痕が残る中で学びの機会を与えられた」と学生生活を振り返った。松本宣郎学長は「学びの蓄積が仙台、東北、日本、世界で働く武器となる」と式辞を述べた。
 文学部の佐藤麻南さん(22)=東松島市=は震災直後の混乱で第1志望の国立大を受験できず、東北学院大へと進んだ。
 入学後は、捕鯨文化の残る石巻市鮎川地区で被災民俗資料を救う文化財レスキューに没頭した。卒論も捕鯨をテーマに選び、被災地の人々の再生に懸ける思いを聞いた。
 いまは「4年間のボランティアでいろんな人に会えた。学院大に来てよかった」と心から言える。
 式の直後には、さとうさんのほか歌手の大友康平さん、プロ野球西武の岸孝之投手らOBのビデオメッセージを上映。佐藤さんは「入学式ができなかったのは残念だったけれど、たくさんの人に祝ってもらえてうれしい」と晴れやかな笑顔で巣立っていった。


東日本大震災:新たな道、命問い続け 宮城・大川小で娘を亡くした教諭 NPOで防災教育に力
 東日本大震災で被災した宮城県女川(おながわ)町などの中学で教諭をしてきた佐藤敏郎さん(51)が、今月いっぱいで退職する。生徒と共に津波の教訓を伝える活動を続けるとともに、小学生だった娘を亡くした遺族として学校のあり方を問い続けてきた。4月からは被災地支援のNPO(非営利組織)に所属し、「専門家と学校をつなぐ役割を果たしたい」と防災教育を支えていく。【百武信幸】

 震災の日、女川町立女川一中(現女川中)教諭として、生徒を高台に避難させた。隣接する石巻市の市立大川小6年だった次女みずほさんは2日後、校舎近くで遺体で見つかった。津波被害を受けた大川小では、児童74人が犠牲になった。

 教壇に立ち続けた佐藤さんに力をくれたのは教え子だった。

 <みあげればがれきの上にこいのぼり><夢だけは壊せなかった大震災>

 授業で取り入れた俳句に、生徒たちは悲しみや希望を詠んだ。生徒たちは佐藤さんらの指導を受けながら、津波の最高到達点に石碑を建てる「いのちの石碑」づくりを始めた。「震災と向き合うことは未来に向かう力になる」。佐藤さんが昨年4月から勤める東松島市立矢本二中でも、生徒が被災体験を語れるよう寄り添った。

 大川小の遺族としては「学校管理下で多くの児童の命が失われた事実から目をそらしてはいけない」と、組織の問題点を問うてきた。全国の学校に出向いて「子どもの命を真ん中に考えて」と訴えてきた。今月、仙台市であった国連防災世界会議でも、悲劇を繰り返さないよう呼びかけた。

 震災から4年で出会った研究者との人脈を生かして講演や教育現場の支援をしたいと退職を決意、NPO「キッズナウジャパン」(仙台市)での活動を選んだ。

 今月3日の最後の授業。3年生に向け「君たちはこれから、迷いながらも自分で道を選ばないといけない」と背中を押した。佐藤さんは「失われた命の意味を問い続けていくことで、未来へ届く言葉を伝え続けたい」と語る。

上野で焼き肉/青山霊園/築地本願寺/湯島でホヤ

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111003_Ikebukuro

≪ "Dieu en vain tu ne jugeras" est la seule courtoisie valable ; il est ridicule de cracher sur son miroir. ≫
de Alfred Jarry
Un vrai petit coquin celui-là !
A real little devil that one !
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朝新宿でカレーうどんを食べました.若い女性が少しうるさいなぁと思いながらそれなりに美味しい感じ.
CK会場に急いで着くとギリギリでした.知り合いのKaさんの報告はちょっとイマイチかな?と思いました.まあ元気があってよろしい,というところでしょうか.
昨日あたりから気になっていた上野で焼き肉です.ちょっとだけビールも.銀河高原ビールです.満足です.キムチ横丁へと足を延ばしてんみみましたが,よくわかりません.よく調べてまた来ようと思います.
さてメトロで乃木坂まで行って青山霊園を見ます.軍関係や旧士族のお墓が多いように思います.外国人墓地やクリスチャンのお墓もありました.お墓を見るといろいろ考えたり思いにふけってしまいます.
気分を変えてTOKYO MIDTOWNへ.キレイですね.寒いのでメトロに乗ります.あまり考えずに神谷町で降りてしまいました.仕方なく(?)東京タワーをめざします.入場900円は高いので見るだけ.
もう一度メトロで有楽町線に乗って築地へ.築地本願寺に行ってみたのですが,5時過ぎていて中には入れません.お店に行っておせんべいを買うだけです.
そこから湯島に移動して一服です.子供の頃,猊鼻渓(げいびけい)に連れて行ってもらったのを思い出しました.

復興の現状報告 中学生らデンマークへ
 東松島市が東日本大震災で支援を受けたデンマークに派遣する中学生らが23日、環境未来都市構想の推進で連携協定を結ぶ同国ロラン市などに出発した。支援への感謝と復興の現状を伝え、再生可能エネルギーの先進事例などを視察する。
 訪問団は工藤昌明教育長を団長に市内3中学校から4人ずつ選ばれた2年生ら16人。31日までの日程で、ロラン市で廃棄物処理エネルギー施設を見学したり、復興の足取りと将来像を英語で報告したりする。
 出発式は市役所前であり、矢本一中2年の奈良坂紀希君(14)は「現地で学んだことをしっかり地元に持ち帰りたい」と抱負を述べた。中学生のデンマーク派遣は2011年9月に続き2度目。環境未来都市を担う人材育成が目的で、1月から事前研修を重ねてきた。


狭山事件の現場写真112枚、東京高検が開示 弁護団調査へ
 埼玉県狭山市で昭和38年に女子高校生が殺害された狭山事件で無期懲役が確定し、その後仮釈放された石川一雄さん(76)の第3次再審請求で、東京高検が事件現場を写した航空写真112枚を開示したことが24日、弁護団への取材で分かった。弁護団は、石川さんの供述と現場の位置関係に矛盾がないかなど、再審開始につながるか精査したいとしている。

 弁護団によると、写真は埼玉県警が事件発生の4日後に上空から撮影し、いずれもモノクロ。遺体発見現場のほか、石川さんの自宅なども写っている。

 弁護団はほかに証拠品4点の開示と任意提出した13点の返還を請求している。これらの証拠品はことし1月、高検がリストを開示して存在が明らかになった。

 石川さんは服役後、平成6年に仮釈放された。再審請求はこれまで2回退けられている。


新基地停止指示 安倍政権は従うべきだ 知事判断に正当性あり
 目の前に横たわる不条理に対し、冷静に法理を尽くし、粛々と是正を求める権限行使である。沖縄の尊厳を懸けた安倍政権との攻防は新たな局面を迎えた。
 名護市辺野古への新基地建設に向け、国が投入した巨大なブロック塊がサンゴ礁を破壊している問題で、翁長雄志知事は沖縄防衛局に対し、海底ボーリング(掘削)調査など全ての海上作業を30日までに停止するよう指示した。
 作業停止を拒む政府に対し、翁長知事は「腹は決めている」と述べた。埋め立て本体工事の基盤となる岩礁破砕許可も取り消される公算が大きくなった。

「主権」はどこへ

 翁長知事は安慶田光男、浦崎唯昭の両副知事と共に会見した。新基地建設阻止に向けた不退転の決意を県内外に示す狙いがあろう。
 「沖縄のことは沖縄が決める」。われわれは地方自治の原則に根差した知事の決断を強く支持する。
 問題を整理しよう。国は新基地建設に抵抗する市民を排除するため、埋め立て海域を取り囲む臨時立ち入り制限区域を設けた。その上で、埋め立てを承認した仲井真弘多前知事から昨年8月に岩礁破砕の許可を得た。
 広大な臨時制限区域を示す浮標灯を固定する重りとして、沖縄防衛局は海底に最大160キロの鋼板アンカー248個を設置したが、大型台風で120個が流出した。
 消えたアンカーの代わりにしたブロック塊の重量は10〜45トン、低く見積もっても当初のアンカーの62〜280倍に及ぶ。環境保全に背を向けた常軌を逸した対応だ。
 埋め立て海域とは関係ない海域で巨大なブロックがサンゴ礁を無残に押しつぶしている。「無許可行為」が確認されれば、岩礁破砕許可取り消しなどを命じることができる。知事の作業停止指示には環境破壊を防ぐ法的正当性がある。
 一方、県は臨時制限区域内で、サンゴ礁の破壊の有無を調べる立ち入り調査を申請したが、米軍は「運用上の理由」を挙げ、不許可にした。
 だが、沖縄防衛局は連日、潜水調査を実施しており、運用上の理由は成り立たない。防衛省や外務省は県の調査実現の仲介さえしようとしない。狭量な二重基準が極まっている。
 安倍政権と米軍が気脈を通わせた県排除の構図だ。日本国内の環境を守るための調査さえかなわないなら自発的な「主権喪失」と言うしかない。安倍晋三首相が国会などで連呼してきた「主権」は沖縄では存在しないかのようだ。

低劣な品格あらわ

 「全く問題はない」。沖縄の基地負担軽減を担当しているらしい菅義偉官房長官はこの日も硬い表情で断定調の「全く」を再三口にした。強気一辺倒の物言いには、沖縄を敵視する響きがある。
 見たくない現実から目を背け、都合のよい事情だけ取り入れて強がり、恫喝(どうかつ)する。仲井真前知事による埋め立て承認にすがりつき、沖縄の民意を問答無用で組み敷くことしか打つ手がないことの表れだ。子どもじみた心性が際立つ。民主主義の価値を損なう政権の低劣な品格が映し出されている。
 沖縄の民意は「普天間固定化ノー、辺野古新基地ノー」だ。掘削強行や人権無視の過剰警備など、安倍政権のやることなすことが沖縄社会の反発を強める悪循環に陥っている。「辺野古移設か、固定化か」という脅しも沖縄に基地を押し込める差別を助長している。
 普天間飛行場は戦後、米軍が民有地を強制接収して造った。奪われた土地にできた基地を動かす先がなぜ県内なのか。かつて県内移設を認めていた県民も根本的な疑念を深め、今は総じて7割超が反対している。普天間飛行場を抱える宜野湾市でも民意は鮮明だ。昨年の県知事選と衆院選で危険性除去を訴えた仲井真前知事と自民党現職は大差をつけられた。
 民主主義を重んじる正当性は沖縄にある。安倍政権は工事停止指示を受け入れるべきだ。追い込まれているのは政権の側である。

白金台/チュートリアル/六本木ヒルズ/京橋でブルガリア料理/青山

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2014MargauxMANET

≪ Tous les gestes engagent ; surtout les gestes généreux. ≫
de Roger Martin du Gard
La valeur n'attend point le nombre des années.
-Pierre Corneille
Valor does not depend on the number of the years.
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まず秋葉原で朝そばを食べてから白金台に向かいます.センスの多い店が多くていい感じです.メトロの麻布十番で降りて適当に歩きました.パン屋さんでバゲットを買いましたが,とても甘いです.美味しいけれど・・・ちょっと歩いて六本木ヒルズに行ってみました.郵便局によって風景印を押してもらいShさんにハガキを出しました.
東京駅まで戻り,何となく2重橋に行ってみました.中国人観光客が多いです.
ランチは京橋のブルガリア料理Софияです.なんとバイキング.タラモサラダ,ショプスカサラダ,タラトル,スネジャンカ,ミシュマシュなどですがヨーグルト風味で美味しいです.メインはカヴァルマ(豚肉と野菜の煮込み料理)です.お腹いっぱいになってしまいました.
午後はチュートリアルに関してのお話を聞きましたがとても刺激的です.
夕方は先週と同じく麻布で座禅をしました.その後青山で一服.さすがに青山なので高いです.

東日本大震災:門脇小を忘れない 校舎被災で焼失、統合前に閉校式 宮城・石巻
 東日本大震災の津波と火災で校舎が焼失し、仮校舎で授業を続けていた宮城県石巻市立門脇(かどのわき)小学校の閉校式が22日、仮校舎のある門脇中で開かれた。学区の大半が被災し児童数が激減、4月から近くの石巻小に統合される。児童、卒業生ら約600人が142年の伝統を持つ母校に別れを告げた。

 式では、6年の尾形凌太さん(12)が「震災でつらい経験をしたが、環境が変わっても毎日楽しかった。この学校で過ごしたことを決して忘れない」と別れの言葉。出席者全員で「手を取って進もうよ/小学校は門脇」と校歌を歌った。

 門脇小は1873(明治6)年創立。海から約800メートルの場所にあり、津波で浸水後、流れ着いたがれきが発火し校舎が焼失した。学校にいた児童は高台に避難し無事だったが、下校した7人が犠牲となった。学区の大半が居住できない災害危険区域となり、児童数も震災前の3分の1の109人に。それでも約6割は学区外の仮設住宅などから仮校舎に通い続けた。被災校舎は、市が震災遺構として保存するか検討中。

 卒業生の吉田恵美さん(40)は娘が同小3年生。被災校舎近くの自宅が被災した。「戻りたいけど戻れないだけに、震災を理由に母校が消えるのは心が痛い。娘は自分から入学を希望し、この3年で気持ちが強くなった。門脇小の子たちに、私も元気づけられた4年だった」と話した。【百武信幸】


震災前の気仙沼に「んだんだ」若者ら記録本
 東日本大震災以前の気仙沼市の風景や営みを伝えようと、気仙沼出身と在住の若者有志が製作を進めていた本「んだんだ」が完成した。お披露目の会が10日、同市内であった。

◎40人取材 写真添え風景や営み

 震災前の気仙沼をよく知る40人にインタビューし、思い出の場所や行事を取り上げた。「鹿折のかもめまつり」「気女(けじょ=気仙沼女子高)からの帰り道」などと題し、それぞれの語り手の言葉に写真を添えて一つのページを構成している。
 タイトルの「んだんだ」には、気仙沼の懐かしい記憶が「そうだそうだ」と、よみがえってほしいとの願いを込めた。
 本作りは、気仙沼出身の慶応大大学院生、小野里海さん(23)が昨年11月に思い立った。「ここ何だったっけをなくしたい〜気仙沼の皆の記憶を本にする」とウェブで呼び掛けた。共鳴した若者7人を中心に取材や編集に当たった。
 お披露目会で小野さんは「この本の周りでどんどん人と人の輪が広がってくれたらうれしい」と語った。
 「んだんだ」はA5判、70ページ。700部作製した。販売はせず、気仙沼や気仙沼を思う各地の学校、図書館、飲食店などに置いてもらう予定だ。


東日本大震災:門脇小を忘れない 校舎被災で焼失、統合前に閉校式 宮城・石巻
 東日本大震災の津波と火災で校舎が焼失し、仮校舎で授業を続けていた宮城県石巻市立門脇(かどのわき)小学校の閉校式が22日、仮校舎のある門脇中で開かれた。学区の大半が被災し児童数が激減、4月から近くの石巻小に統合される。児童、卒業生ら約600人が142年の伝統を持つ母校に別れを告げた。

 式では、6年の尾形凌太さん(12)が「震災でつらい経験をしたが、環境が変わっても毎日楽しかった。この学校で過ごしたことを決して忘れない」と別れの言葉。出席者全員で「手を取って進もうよ/小学校は門脇」と校歌を歌った。

 門脇小は1873(明治6)年創立。海から約800メートルの場所にあり、津波で浸水後、流れ着いたがれきが発火し校舎が焼失した。学校にいた児童は高台に避難し無事だったが、下校した7人が犠牲となった。学区の大半が居住できない災害危険区域となり、児童数も震災前の3分の1の109人に。それでも約6割は学区外の仮設住宅などから仮校舎に通い続けた。被災校舎は、市が震災遺構として保存するか検討中。

 卒業生の吉田恵美さん(40)は娘が同小3年生。被災校舎近くの自宅が被災した。「戻りたいけど戻れないだけに、震災を理由に母校が消えるのは心が痛い。娘は自分から入学を希望し、この3年で気持ちが強くなった。門脇小の子たちに、私も元気づけられた4年だった」と話した。【百武信幸】

下町風俗資料館/丸ノ内線人身事故/民話/笹塚でホヤ

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France_201502

≪ Une conscience peut toujours parler d’égale à égale à une autre conscience. ≫

de Pierre Brossolette
L'hypocrise est un hommage que le vice rend à la vertu.
-La Rochefoucauld
Hypocrisy is a tribute that vice pays to virtue.
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上野にある下町風俗資料館に行ってみました.とてもよい感じです.まさに昭和という感じ.元号を使うのはよくないですね.50~60年代の感じで,私が生きていない時代です.
さて今日も東日本大震災の映画を見に行くのですが,丸ノ内線に乗ろうとすると人身事故とのアナウンス.どうしたらいいのか?と聞くとJRで東京駅から四谷まで行ってそこから歩いてください,とのことでした.適切な案内に感動.
映画の前に講演会があって,小野和子さんは猿に嫁入りするという民話を紹介していました. お話の終わりには「えんつこもんつこ」というそうです.映画は民話関連で震災のお話はほとんどなかったのですが,それでもよかったと思いました.
映画の後は京王線で笹塚に行きました.またしても日本酒.今日はホヤをいただきました.

広島土砂災害:7カ月 仮住まい「もたない」 個別対応を
 74人が犠牲になった昨年8月の広島土砂災害は、20日で発生から7カ月がたった。現在も1700人以上が自宅を離れて暮らす中、生活環境の変化から体調を悪化させる避難者もいる。被災地周辺では砂防施設整備が急ピッチで進むが、完成には時間を要し、仮住まいは長期化する見込みだ。専門家は行政やボランティアが連携し、被災者の健康状態を把握するなど個別対応の必要性を指摘している。【吉村周平】

 災害で自宅を失った広島市安佐南区八木3のパート、森下千早恵さん(66)が、痛む両膝をさすりながら言った。「今日はそんなに曲がってないね」。40代のころから患う変形性膝関節症が被災後、悪化した。痛みが激しい日は仕出し店のパートを休まざるを得ないが、「自宅を失い、将来も見通せない。働かないわけにもいかない」とぼやく。狭心症も発症し、医師には「ストレスが原因」と忠告され、薬が手放せなくなった。

 森下さんは昨年9月下旬、避難所から夫の義由(のりよし)さん(68)とともに、無償で入居できる市が借り上げた安佐北区の民間アパートに入った。慣れない集合住宅に加え、すぐ近くを通る国道の車の音や隣近所の生活音で寝付けない日が続いた。

 これまでは徒歩で通えた勤務先には、義由さんが毎朝車で送っていく。そのため、大工の義由さんは早く着いた現場で時間を潰さねばならず、大工道具を積み込んだ軽自動車の車内では座席を倒すこともできずに「正直、しんどいよ」とため息をもらす。

 「このままでは2人とももたない」。そんな危機感から、知人の紹介で元の自宅やパート先の近所に貸家を見つけた。市住宅政策課によると、無償の公営住宅や借り上げ住宅から転居する場合、原則として支援は打ち切りになるという。森下さんも市に相談したが一度は打ち切りを告げられた。「家賃も安くなるし、市に迷惑はかけていないのに」と支援継続を訴える一方、今月18日に引っ越した。転居に伴う費用は自己負担した。

 同課は「多くの被災者がそれぞれ事情を抱えており、利便性を理由とした住み替えは認められない」と話す。ただ、エレベーターのない階に入居した高齢被災者の転居を例外的に認めたケースがあるといい、同課は「健康上の理由からやむを得ない場合は個別に検討したい」として、森下さんのケースも改めて検討中という。

 日本赤十字広島看護大学(広島県廿日市市)の真崎直子教授=公衆衛生看護学専攻=は「避難が中長期化しており、行政はボランティアと意見交換しながら被災者の情報を共有し、事情に応じた柔軟な対応をとる必要がある」と指摘する。さらに被災者が地元から離れて暮らす場合、近所付き合いや交友関係が途絶え、ストレスや孤独感などから心身の不調につながるケースも多いという。真崎教授は「被災者が元のコミュニティーとつながり、自助、互助、共助を強めることができる仕組み作りなど、孤立化させないための支援が必要だ」と強調する。


石巻線の再開祝い「復幸祭
東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県のJR石巻線が4年ぶりに全線で運行を再開したのにあわせて地元の女川町で特産のサンマの炭火焼きなどを無料でふるまう催しが開かれました。
女川駅前に設けられた会場では地元の仮設商店街などからおよそ40店が出て2000食あまりのサンマの炭火焼が無料でふるまわれたほか地元産のほやを使った焼きそばなども販売されました。千葉県から訪れた30歳の会社員は「弾力がある、ほやとやきそばの塩味がとても合っていておいしかったです。震災の復興はこれからだと思うのでがんばってほしいです」と話していました。また、特設のステージでは結婚式も執り行われ、多くの人に見守られながら、2人で一緒にがれきの中から見つかった復興の象徴の「希望の鐘」を鳴らし、会場から祝福を受けていました。新郎の女川町職員、城井恒さんは「女川の復興の歩みのように夫婦生活をしっかりと歩み、幸せな家庭を築きたいです」と話していました。この催しの実行委員長を務める阿部淳さんは「震災後、人口の減少が続く中、少しでも町のことを知り、興味を持ってもらえるようなきっかけになってほしい」と話していました。


被災の門脇小学校 閉校式典
東日本大震災で大きな被害を受け来月、別の小学校に統合される宮城県石巻市の小学校で閉校の式典が行われました。
石巻市の門脇小学校は、震災の津波と火災で大きな被害を受けて校舎が使えなくなり、近くの中学校の校舎に間借りして授業などを行ってきました。児童の数は、震災前の3分の1の100人ほどに減り、来月から近くの石巻小学校に統合されることになりました。
22日に閉校の式典が行われ、児童や地域の人たち、それに卒業生など、およそ600人が参加しました。式典で門脇小学校の佐々木隆哉校長は「震災が起きた後も高学年の児童が下の子の面倒をよく見るなど、おもいやりにあふれたくましい心を持った子どもたちの姿は142年に及ぶ歴史が培ってきたものです。門脇小学校はいつまでも心の中にあり続ける不滅の学校です」とあいさつしました。
式典では、昭和20年代から今年度までの卒業生5人がビデオで運動会や学芸会などそれぞれが在校していた時の思い出を語りました。
また在校する児童たちが学校生活の思い出を歌やメッセージで発表すると会場ではハンカチで目頭を押さえる人も見られました。式典の最後には、全員で小学校の校歌を歌い学びやに別れを告げました。
祖母から3代にわたる卒業生で震災が起きた時に5年生だった女の子は、「門脇小学校がなくなるのはとても寂しいですが、ずっと心の中に残っていくと思います」と話していました。
門脇小学校は24日の終了式の後、142年の歴史に幕を閉じます。
【校舎は保存の是非を検討】
石巻市立門脇小学校は明治6年創立。合併する前の旧石巻市内では最も歴史の古い小学校です。石巻市沿岸部にあった校舎は、東日本大震災の津波と火災に見舞われて使えなくなり、近くの中学校に間借りして授業を続けてきましたが今年度の新入生は3人と児童の減少に歯止めがかからず近くの小学校に統合されることになりました。
被災した校舎について有識者による「震災伝承検討委員会」が津波と火災のすさまじさや教訓を後世に伝える「震災遺構」として保存するべきだとの結論をまとめ石巻市に提言していますが、地元の住民からは「毎日、校舎を目にすることで震災のつらい記憶がよみがえる」などと保存に反対する意見もあることから、石巻市で保存の是非などを検討しています。


気仙沼で追悼と復興の花火
東日本大震災で犠牲になった人たちの追悼や1日も早い復興を願い、仙沼市で、21日夜、500発の花火が、打ち上げられました。
気仙沼市の中心部に面した気仙沼湾では、21日午後6時すぎから花火が次々と打ち上げられました。
この花火の打ち上げは、栃木県のボランティア団体が、震災後、毎年この時期に、企画して行っています。
花火は500発で、1時間近くにわたって気仙沼の空を彩りました。
湾に面した仮設商店街「南町紫市場」からは、海の上の台船から花火が上がるようすが目の前に見え、親子連れなど、大勢の人たちが集まりました。
見物の人たちは、花火が打ち上がるたびに歓声をあげたり、写真を撮ったりしていました。
栃木県からボランティアで訪れた40代の女性は「地元の人もボランティアも、みんなが花火で笑顔になればいいと思います」と話していました。


「安倍政権に『NO』を」と集会
 4月の統一地方選を前に、首都圏反原発連合などの市民団体が22日、現政権の政策への反対を訴える大規模集会「安倍政権NO!大行動」を都内で開き、官邸周辺をデモ行進したり国会議事堂を取り囲んだりした。主催者によると、参加者は約1万4千人。

 日比谷公園の集会で、千葉県内の高校1年の女子生徒が「政権は集団的自衛権の行使容認で戦争への道を進めているが、戦争になったら人生を壊されるのは私たちだ。反対しないことも戦争に加担することになる」と訴えると、会場から大きな拍手が上がった。集会では、原発再稼働や沖縄県名護市辺野古沿岸部への米軍基地移設などへの反対も訴えた。

初の杉並区→高円寺/スーパーでピーナツ味噌

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≪ Tout homme bien portant peut se passer de manger pendant deux jours, de poésie, jamais. ≫
de Charles Baudelaire
Un seul printemps dans l'année ... et dans la vie une seule jeunesse.
-Simone de Beauvoir
Only one spring in a year ... and in life only one youth.
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ランチは四谷でヒツジをいただきました.昨日に続いて映画です.今日は「なみのこえ」.上映後は曹洞宗の僧侶とのトークショーでこれもまた面白い.
さてその後,メトロで高円寺に移動.杉並区です.つまり初めての杉並区.気仙沼のお酒を飲みました.ちょっと飲み足りない感じもあったので帰りにスーパーによると,ピーナツ味噌がおいてありました.少し悩んで買いです.別のスーパーでは炭酸とトムヤムクン味のお菓子を買いました.

JR石巻線 4年ぶり全線再開
東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県のJR石巻線が21日に4年ぶりに全線で運行を再開しました。
JR石巻線は、震災の津波で駅舎や線路が流され、宮城県女川町の女川駅と浦宿駅の間のおよそ2.5キロの区間が不通になっていました。
これまでに復旧工事を終え4年ぶりに全線で運行を再開しました。
午前6時すぎに再建されたばかりの新しい女川駅から始発列車が出発するとホームでは地元の人たちが大漁旗をふって送り出しました。
このあと記念式典が開かれ地元の女川町の須田善明町長が「石巻線の全線再開は未来へ進む女川の象徴です。震災で犠牲になった人たちの無念の思いに応えるためにも町の再建に取り組みたい」とあいさつしました。
そして関係者らがテープカットなどを行って全線の運行再開と新たな駅の完成を祝いました。
震災で被災し、一部の区間が不通となったJRの路線のうち、全線で運行が再開するのは宮城県内では初めてで、復興の後押しになると期待されています。
石巻線の再開に合わせて埼玉県から里帰りしたという20代の女性は「鉄道の再開によってまちづくりが始まると思うととてもうれしいです」と話していました。
JR石巻線の女川駅のホームを一望できる高台にある墓地には、彼岸の中日となった朝早くから住民が訪れ墓石に水をかけたり線香をあげたりしました。
そして午前7時すぎに列車の姿が見えると墓地を訪れていた人たちは写真を撮ったり、大きく手を振ったりしていました。
震災前は女川駅のすぐ隣りに住んでいたという57歳の男性は、「小さい頃から海を眺めて、列車の音を聞いて育ってきました。震災の発生から4年がたって再び電車が開通して女川が元気になる一歩を踏み出せたと思うととても嬉しいです」と話していました。
【”復幸男”競う催しも】
JR石巻線が全線で運転を再開した女川町では津波の際に高台に避難する大切さを知ってもらおうと高台を目指して坂を駆け上がって一番乗りを競う「復幸男」という催しが行われました。
この催しは、兵庫県の西宮神社の恒例行事、「福男選び」を参考におととしから始まりました。
参加したのは中学生から70代まで男女204人です。4年前の震災で、津波が町に押し寄せた午後3時32分に、「逃げろ」の掛け声を合図に、新しくオープンしたJR女川駅前を一斉にスタートしました。目指すのは320メートル先の高台にある町役場で、一番乗りの人には「復幸男」の称号が贈られます。
参加者は、坂道に苦しみながらも懸命に駆け上がっていました。最も早かったのは千葉県の教員、高田将さんでおよそ40秒で坂を駆け上がり「復幸男」の称号が贈られました。高田さんは「気持ちよく走れました。いつまでも女川の津波の教訓を忘れないでいたいと思います」と話していました。


気仙沼の被災ボウリング場再建
東日本大震災の津波で大きな被害を受け、営業を休止していた気仙沼市唯一のボウリング場が再建され、20日夜、営業を再開しました。
営業を再開したのは、気仙沼市のボウリング場、「さくらボウル」です。
「さくらボウル」は、震災前、海からすぐ近くの場所にありましたが、津波で建物が全壊し営業は休止していました。
しかし、内陸部に場所を移して再建することになり20日夜、完成したばかりの新しい建物で4年ぶりに営業を再開しました。
20日夜は、オープンを前に関係者などおよそ100人が集まって式典が開かれました。
式典の後再開を待ちわびていた客たちがボウリング場を埋め尽くし、さっそく思い思いにプレーを楽しんでいました。
小学生の孫と訪れた60代の男性は、「再開するのを楽しみに待っていました。ここに来ると気持ちが元気になれるので、毎週のようにきて楽しみたいです」と話していました。
「さくらボウル」の尾形和優社長は「震災後は、再建をあきらめていた時期もあったので、本当に感無量です。被災した人たちの心の復興のためにも多くの人に愛されるボウリング場にしたいです」と話していました。


<園児津波訴訟>ママ頑張ったけど駄目だった
 「和解をしないと決めた以上、厳しい判決は覚悟していたが、敗訴はやはり残念だ」。仙台高裁で20日に言い渡された宮城県山元町東保育所をめぐる損害賠償請求訴訟の控訴審判決。一人息子の将宏ちゃん=当時(6)=が犠牲になった鈴木あけみさん(49)は、控訴を退けられた閉廷後、無念の思いを口にした。
 仙台市青葉区の仙台弁護士会館で記者会見を開いた鈴木さん。「息子は十分な情報収集をしなかった町の指示で園に待機し、命を落とした。裁判ではその経緯を究明してほしかったが、難しかった」と訴訟を通じた事実解明への徒労感も漏らした。
 「訴訟では真実が出てこないと悟った」として、一緒に控訴したもう1遺族は昨年12月、町と和解した。「町は簡単に再発防止などと言うが、それで命が帰ってくるわけではない。息子も和解に納得しなかったと思う」。判決の宣告を望んだ鈴木さんはいま、そう考えている。
 「ママ、頑張ったけど、駄目だったよ」。鈴木さんは、自宅で帰りを待つ将宏ちゃんの遺影に語り掛けるつもりだ。

亀有/クロアチア料理/上野動物園無料/なみのおと

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20 ans après, le Japon se souvient de l'attentat au gaz sarin dans le métro de Tokyo
Le 20 mars 1995, à l’heure de pointe matinale, cinq hommes montent dans le métro sur des lignes très fréquentées de la capitale japonaise. Chacun porte avec lui deux ou trois sacs en plastique enveloppés dans des journaux, et remplis de gaz sarin, une substance extrêmement volatile et toxique créée par des scientifiques sous le régime nazi en Allemagne à la fin des années 1930.
Alors que les trains convergent vers le cœur administratif de Tokyo, les membres de la secte Aum Vérité suprême laissent tomber à terre leurs paquets mortels et les percent avec la pointe de leur parapluie, avant de descendre du métro. Vers 8h15 du matin, de nombreux passagers commencent à ressentir les effets du gaz, respirant difficilement et saignant par le nez et par la bouche. L’attentat fera 13 morts et plus de 6.000 blessés parmi les passagers et les employés des transports, dont certains en portent toujours les séquelles aujourd’hui.
Vingt ans plus tard, les Japonais se souviennent et rendent hommage aux victimes au cours de commémorations à la station Kasumigaseki, centre névralgique du gouvernement japonais, au moment où s'était produite l’attaque terroriste. Shizue Takahashi, dont le mari est mort en nettoyant le sol d'un des trains visés, est venue déposer des fleurs et appeler les Japonais à se souvenir de cette part sombre de leur histoire: ≪Le danger existe et j'aimerais une plus grande sensibilisation de la société japonaise. Il est important de continuer à parler de cette attaque≫, déclare-t-elle dit aux médias.
Le gourou de la secte, Shoko Asahara, aujourd'hui agé de 60 ans, et une douzaine de ses disciples ont été condamnés à mort pour divers crimes, dont l'attaque au sarin, mais aucun n'a encore été exécuté. Le dernier suspect, Katsuya Takahashi, dont le procès se tient actuellement, n’a été arrêté qu’en juin 2012.
D'anciens membres d'Aum regroupés dans deux nouvelles sectes
Selon les autorités judiciaires, Aum a commis cet attentat pour créer une situation de désordre visant à perturber les efforts de la police qui enquêtait sur ses pratiques, et dans le but ultime de concrétiser les prédictions apocalyptiques d'Asahara. Le gourou, un maître de yoga à moitié aveugle à grande barbe et cheveux longs à l'époque, avait réussi à attirer jusqu'à 10.000 fidèles. Lui-même avait été interpellé dans un batiment de la secte près du mont Fuji, deux mois après l'attentat de Tokyo.
Malgré de très nombreux témoignages, des livres (dont Underground, un document signé du romancier Haruki Murakami) et les procès qui ont abouti à la condamnation de quelque 200 membres d'Aum, les événements de 1995 restent entourés de mystère. Si Aum n’existe plus aujourd’hui, d’anciens membres, toujours sous l’emprise du gourou, se sont regroupées dans deux autres groupes nommés Aleph et Hikari no Wa (cercle de lumière), surveillés par les autorités. Les deux sectes compteraient plus de 1.500 membres.
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昨日タカアンドトシ・森泉&星,吉幾三・今井華が出た番組で柴又に行くシーンがあったので,葛飾柴又に行ってみようかな???なんて思いました.でもその前に亀有にも行ってみたい♪ということでJR常磐線で亀有まで移動です.両さんの銅像は大きくすぐ見つかったのですが麗子や中川の像は意外に小さかったですよ.その後柴又の帝釈天に行ってみました.外国人の観光客もしたし,東日本大震災慰霊碑がありました.
お昼は京橋のクロアチア料理です.cuisine croateといっても正直想像できませんが出てきたものはフレンチみたいな感じでした.クロアチアワインも美味しかったです.でもワインでヘロヘロになってしまいました.
食後不忍池あたりを散策していると上野動物園が無料というので行ってみました.人がたくさん.子どもが多くてこちらも元気になれそうです.少しだけですがパンダ見ることできました.
広尾でワインを少し飲んだ後,四谷で東日本大震災の映画の「なみのおと」を見ました.監督は酒井耕・濱口竜介で,ガレキの映像などはほとんどなく,被災者が語る場面だけなのですが,むしろその方がイメージしやすいような感じもあります.上映後のいとうせいこうとのトークショーも面白かったです.

<石巻線>女川復興へ確かな一歩 全線再開へ
 東日本大震災で最大被災地の一つとなった宮城県女川町で、まちづくりが新たなステップを迎える。「まちびらき」が21日にあり、復興の第1段階を宣言する。国が「復興のトップランナー」と評する町は中心市街地に施設が姿を現し、まちづくりが本格化する。

 大規模にかさ上げした中心部に公共施設と商業・観光施設を集約し、高台に住宅を整備する。核となるJR女川駅と町営「女川温泉ゆぽっぽ」の併設施設は2月末に完成した。
 浦宿−女川間が不通だった石巻線も21日に全線で運転を再開する。県内の被災在来線で全面復旧は初めてだ。ゆぽっぽが営業を始める22日は復興をアピールする「復幸祭」も駅前広場などで繰り広げられる。

 起業家支援拠点「フューチャーセンター」や水産業体験館「あがいんステーション」も今月以降、駅周辺に誕生。12月には被災事業者が入るテナント型商店街がオープンする。
 住民の日常生活を支え、交流人口を増やす。町ににぎわいを取り戻す空間が少しずつ広がっていく。


打楽器奏で復興支援 神戸のバンド
 中米のトリニダード・トバゴ生まれの打楽器「スチールパン」で阪神・淡路大震災からの復興に取り組む神戸市のアマチュアバンド「ファンタスティックス」が21、22日、県内4カ所でコンサートを開く。音楽で元気を取り戻した経験を東日本大震災の被災地に伝え、復興へエールを送る。
 バンドは震災で大きな被害が出た神戸市新長田の地元商店主らが2001年、復興の象徴を目指して結成。13年3月には気仙沼市や名取市などで復興支援のコンサートを開いた。
 今回は20人のメンバーが来訪。21日は気仙沼市復興市場「さかなの駅」と東松島市の災害公営住宅、22日は名取市閖上のゆりあげ港朝市と山元町中央公民館でそれぞれ歌謡曲やポップスを披露するほか、演奏の体験会を開く。仙台市のバンド「パンダフル」も共演する。
 コンサートは、メンバーの川池知代さんが復興庁から山元町に派遣されている縁で実現した。川池さんは「阪神大震災から20年を経過して住民が元気と笑顔を取り戻して演奏する姿が、東北の被災者が希望を捨てないで頑張るきっかけになればうれしい」と話した。
 いずれも入場無料。連絡先は山元町保健福祉課すこやか福祉班0223(37)1113。


「復興進んでいる」が減少
宮城県がアンケート調査で、復興の進ちょく状況について尋ねたところ、「進んでいる」と答えたのは20%で、前の年の調査より10ポイント減っていることがわかりました。
アンケートは、宮城県が、県民意識を調べるため、去年12月に、県内の20歳以上の男女4000人を対象に行い、45%にあたる1816人から回答を得ました。
この中で、東日本大震災からの復興の進ちょく状況について尋ねたところ、「進んでいる」は4.1%、「やや進んでいる」は16.6%で、復興が進んでいると感じている人は合わせて20.7%にとどまり、前の年の調査と比べて10.9ポイント減りました。
また、重視する政策について複数回答で尋ねたところ、「子どもたちへの支援」が最も多く84.2%、次いで、「大津波への備え」が82.2%、「防災機能の再構築」が80%、「安全・安心な学校教育の確保」が79.5%、上下水道などライフラインの整備」が78.7%などとなりました。
これについて、県震災復興政策課は、「災害公営住宅の整備計画の遅れなどから、『復興が進んでいる』と思っている人が減っている可能性がある。県民のニーズを把握して政策に生かしていきたい」と話しています。


地下鉄サリン20年 凶行の中に人間の弱さ
 オウム真理教による地下鉄サリン事件からきょうで二十年。薄れがちな記憶を手繰り寄せ、あらためて教訓を刻みたい。悲劇の再来を招かないために。

 「残念ながら人間社会は不完全だし、学歴が高かろうが低かろうが、人間は非常に弱い存在だ。そういう人間の集合体がまた何かをしでかすことは、かなりの確度で起こりうる」  

 先週、東京都内で開かれた事件を考える集会で、弁護士の山室恵さんが述べた言葉がずしりと響いた。サリンをまいた元幹部の林郁夫受刑者に、無期懲役刑を告げたかつての東京地裁の裁判長だ。
◆「また起こりうる」

 いくつもの罪と罰に向き合ってきた経験から鳴らされた警鐘は重い。この“予言”が現実のものとならないよう一人一人が事件を見つめ直さねばならないだろう。

 一九九五年三月二十日。化学テロは十三人の命を奪い、六千人超を負傷させる大惨事を招いた。

 被害者や遺族は、いまだに心身に残された深い爪痕に苦しめられている。過去の事件ではない。

 そして、オウム真理教もまた生き延びた。宗教法人格を失ったのに解散せず、跡を継いだアレフと分裂したひかりの輪が公安調査庁の監視下で活動を続けている。

 双方とも、元代表の麻原彰晃死刑囚の影響を受けているとされる。にもかかわらず、若者らの入信は後を絶たない。今や信者は合わせて千六百人を上回る。

 アレフの内実は麻原死刑囚への帰依だ。オウムの後継団体であることを伏せ、インターネットや書店、街角でヨガや料理のサークルなどを装って勧誘している。

 どの宗教を選び、信じるかで人の一生は左右されかねない。正体を隠しての活動は看過できない。
◆成長と苦悩と宗教と

 振り返ってみたい。

 麻原死刑囚がオウムの母体となるヨガ道場をつくり、宗教団体に衣替えして勢力を広げだしたのは一九八〇年代だった。日本はバブル景気に沸いていた。

 二度の石油危機に見舞われた七〇年代を境に、人々の求めるものは物の豊かさから心の豊かさに向くようになった。

 内閣府の最新調査でも、物志向の31%に対して心志向は63・1%と二倍に上る。

 しかし、政治も、経済も、社会も成長を追い求めることをやめなかった。あくせく働き、あくせく消費する。その循環を永遠に繰り返す閉塞(へいそく)社会にも映る。

 なぜ生きるのか。それで幸福になれるのか。重い病にかかったときにどう向き合うか。そうした素朴な疑問や問いに直面し、苦悩する人々が増えたとしても当然だ。

 統計数理研究所の二年前の調査では、七割近くは宗教心は大切だと答えている。多くの人が理屈では割り切れない課題と不安を抱えている証左ではないか。

 生きがいや居場所を見つけられない。切り捨てられた。そうやって隘路(あいろ)に迷い込んでしまうと、どんな宗教であれ、すがりたくなっても不思議ではない。

 「生きとし生けるものの救済という理念に引かれた」と、入信の動機を打ち明けた元オウム信者もいる。幸せや生きる意味を実感できず、変身願望を募らせて門をたたく人もいるという。

 事件に関わった元幹部らには理系エリートが目立った。頭脳明晰(めいせき)で真面目だからこそ、悩みも人一倍深かったのかもしれない。

 しかし、マインドコントロールであれ、思考停止であれ、どんな事情があったにせよ、凶行に手を染めたことは絶対に許されない。

 若い世代へ向け、山室さんは林受刑者に言い渡した判決の一部をゆっくりと読み上げて紹介した。

 「なまじ純粋な気持ちと善意の心を持っていただけに、かえって『真理』や『救済』の美名に惑わされ、視野狭窄(きょうさく)に陥って、麻原(死刑囚)の欺瞞(ぎまん)性、虚偽性を見抜けなかった」

 美しいものを正面から見てものめり込まない。引いて見る。斜めから見る。いわば裏側を疑ってみる姿勢の大切さを説いた。

 人の純真さが美しいものを介し、凶器へと豹変(ひょうへん)した事例を幾度も見聞きしてきたのだろう。世代を問わず肝に銘じたい。
◆美しいものの裏側を

 前代未聞の事件の風化を防ぎ、再発を食い止める努力をしなくてはならない。もちろん、警察や行政、司法、報道といったそれぞれの役割と責務があるはずだ。

 破壊的カルトへと人々を追い込まないような手だても、私たちは地域や学校、企業、家庭などで考えられないか。

 疎外されたり、孤立したりしていないか見守る努力は欠かせまい。弱い人間を見つめることが風化を防ぐ一つではないか。

寝屋川で説明会→もう一つのバランスランチ

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≪ "Lire, c'est voyager ; voyager, c'est lire." ≫
de Victor Hugo
Qui est en bonne santé est riche sans le savoir.
-French proverb
Whoever is in good in health is rich without knowing it.
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寝屋川で説明会があるので朝から出かけました.京阪守口に自転車駐輪して撤去されるかどうかが心配でした.いつもお世話になっていたKiさんは4月から移動になるようですが,詳しくはわかりません.図書館には手塚治虫の漫画がありましたが,今日は借りることができません.説明会の後,寝屋川でもう一つのバランスランチをいただきました.
養命酒を買って飲んでみたいと考えてみました.

<祈りと震災>(25)舞と太鼓 闇を照らす
 宮城県南三陸町の水戸辺地区の高台にひっそりと石碑が立つ。地元に伝わる水戸辺鹿子躍(ししおどり)の供養碑だ。
 1724(享保9)年の建立。風雨にさらされ続け、石は朽ちかけている。目を凝らすと表面に文字が見える。
 「奉一切有為法躍供養也」
 意味はこうだ。
 「生きとし生けるものの供養のために踊りを奉納せよ」
 水戸辺鹿子躍保存会会長の村岡賢一さん(64)が供養碑の前に立ち、つぶやいた。
 「震災に遭ってから、石碑の言葉が胸にぐっと迫る」
 水戸辺鹿子躍は宮城県北から岩手県南に広まる行山(ぎょうざん)流の起源として、江戸中期に始まったとされる。行山流は、踊り手が自ら太鼓をたたきながら踊る。
 長く伝承が途絶えていた。村岡さんが1991年に保存会を結成し、復活させた。
 活動を始めて20年後の3月。海辺の集落、水戸辺を東日本大震災の大津波が襲った。
 村岡さんは自宅を土台ごと流された。姉夫婦ら親類だけで10人近くを亡くした。
 保存会の会員だった22歳の青年と男子中学生も命を落とした。「2人とも一生懸命練習していた。将来にわたって伝承してくれると思っていたのに…」。打ちひしがれた。
 悲嘆と苦悩が覆い尽くす中で、鹿子躍は希望の光明となった。集会所に保管していた太鼓12個のうち、11個が津波に流されずに見つかった。
 2011年5月。多くの町民が避難していた登米市内でのイベントで、震災後初めて鹿子躍を舞った。水戸辺の人々は涙を流した。
 震災から間もない時期で惨状は生々しかった。日常を取り戻せるような状況とは程遠い。それでも踊った。「死者を供養するための芸能だからだろう」と村岡さんは言う。
 鹿子躍と共にある日々が再び続くと、自らの人生に地域の歴史が重なり合ってきた。
 海と向き合いカキやホヤの養殖に打ち込んだ自分。先祖のころはまだ養殖はしておらず、山に親しみ、養蚕で生計を立てていた。現在も過去も、大津波を前に住民はなすすべがなかった。
 海と山に抱かれた三陸の人々は、自然と密に関わって生きている。
 ふと見覚えのある供養碑の言葉を思い、かみしめた。「だからこそ、生きとし生けるものの供養のために踊りを納めるのではないか」
 鹿子躍は鹿頭(ししがしら)をかぶった8人が一組になって舞う。それぞれの太鼓から鳴り響くのは厳しい風土に耐え、暮らしてきた東北の民の魂に他ならない。


復興を後押し 気仙沼の物産展
気仙沼市の復興を後押ししようと、ふかひれなどの水産加工品や地酒など、特産品を集めた物産展がJR仙台駅で始まりました。
「気仙沼復興産直市」と名付けられたこの物産展は、震災の津波で大きな被害を受けた気仙沼市の復興を後押ししようと企画されました。

会場には12の店舗が200品目以上の特産品を販売しています。

このうち、サメの水揚げ日本一の気仙沼市の特産品フカヒレを扱う店舗は、フカヒレのスープやラーメンを販売しています。

また気仙沼市で水揚げされた魚介類を加工した塩辛やしめさばのコーナーも人気を集め、多くの人が買い求めていました。

会場には、震災直後の被害の様子や復興の過程を写したパネルも展示されて、訪れた人が足を止めていました。

国連防災世界会議が終わってフィリピンに帰国するという女性は、「ここの店で津波や地震の話を聞きました。ここに来た証しに娘に気仙沼のキャラクターの土産を買いました」と話していました。
この物産展は21日までJR仙台駅で開かれています。


石巻 門脇小で最後の卒業式
震災の津波と火災で大きな被害を受け来月別の小学校に統合される石巻市の門脇小学校で最後の卒業式が行われました。
門脇小学校は震災の津波と火災で校舎が使えなくなり、近くの門脇中学校の校舎などに間借りして授業を続けてきましたが、震災前におよそ300人いた児童は100人あまりまで減り、来月から近くの石巻小学校に統合されることになりました。

最後の卒業式となった19日は31人の卒業生1人1人に佐々木隆哉校長が卒業証書を手渡しました。
続いて佐々木校長は、式辞の中で「皆さんは門脇小学校最後の最上級生として後輩たちのよいお手本になってくれました。これからも誇りを胸に輝く未来を築いて下さい」とはなむけの言葉を贈りました。
その式辞の途中、宮城県沖を震源地とする地震が発生し、石巻市では震度3の揺れが観測されました。

卒業式の会場でも揺れが続きましたが子どもたちは静かにいすの下に身を隠し落ち着いた様子でした。

このあと式が再開され卒業生は震災で友だちと離ればなれになり校舎も失ったものの充実した学校生活だったことや感謝の気持ちを歌やメッセージで伝えました。

そして最後に卒業生が保護者に花束を手渡して退場し震災後、およそ4年間にわたって間借りしてきた学びやに別れを告げました。

明治6年創立の門脇小学校では今月22日に閉校行事が行われ140年あまりの歴史に幕を閉じます。

南三陸の「受け継ぐ」「おらほの町」/gmailに返事

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La première Miss métisse du Japon déchaîne les nationalistes
Née d'une mère japonaise et d'un père afro-américain, la jeune femme est étiquetée par certains "hafu", "demi-japonaise".

Sourires, défilé, couronne : Ariana Miyamoto, 20 ans, a été désignée Miss Japon le 12 mars dernier. Mais son élection dérange au Pays du soleil levant, où elle est la cible de critiques car... elle est métisse.
De nationalité japonaise, née au Japon, mais d'une mère japonaise et d'un père afro-américain, la jeune femme est étiquetée "hafu" (ou haafu), explique "Libération". Un terme très nationaliste, qui, s'inspirant du mot anglais "half", désigne les personnes "à moitié" japonaises. Des demi-japonais, voire pour certains, "sous-japonais"...
Ainsi, comme le rapporte le quotidien, les commentaires regrettant que la jeune femme ait été préférée à "une Japonaise pure" se sont répandu sur les réseaux sociaux et autres forums. "Ça me met mal à l'aise", lâche ainsi un internaute. D'autres se moquent, raillent la "demi-miss Japon", évoquent leur "demi-tristesse" face à une "étrangère".
Face à la presse, Ariana Miyamoto, qui représentera donc le pays au concours Miss Univers, a tenu à rappeler qu'elle ne ressemblait pas une Japonaise mais qu'elle se sentait japonaise. Interrogée lors de la compétition sur la personnalité qui l'avait le plus influencée, la jeune femme, qui a étudié et travaillé aux Etats-Unis, a cité le nom de Mariah Carey :
Elle a traversé beaucoup de difficultés avant de devenir une chanteuse populaire… Elle a dû faire face à des obstacles raciaux, comme moi, mais elle les a surmontés et est devenue une star."
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3月16日に国立でドイツ料理/南三陸の生き抜く/アイヌ料理/もんじゃ焼きで書いたように,南三陸の映画を見たのでその続きを十三に見に行きます.まずは辛いカレーを食べました.

夕方雨ですが洗濯物がたまっているのでコインランドリーに行きました.女性が多いのはなぜ?みんな洗濯物がたまって忙しいかも?

gmailに返事がありました.めでたしめでたし.かな?

<園児犠牲訴訟>和解断る「後悔したくない」
 東日本大震災の津波で死亡した宮城県山元町東保育所の園児2人の遺族が町に損害賠償を求めた訴訟の控訴審で、仙台高裁は20日、判決を言い渡す。一人息子の将宏君=当時(6)=を失った鈴木あけみさん(49)は、和解勧告を断って判決を選んだ。「納得できない気持ちを押し殺して和解し、後悔し続けたくなかった。厳しい結果は覚悟している」と話す。
 昨年3月の仙台地裁判決は、津波が迫った状況下で、保育士らの車が園児を乗せた車より先に走りだしたのは「やむを得ない」などと訴えを退けた。ともに控訴した1遺族は昨年12月、高裁で和解した。「受け入れたら、自分の人生を否定することになる」。鈴木さんは和解協議から降りた。
 震災翌日、がれきをかき分けたどり着いた園舎。息子はいなかった。どこに行ったか分からない−。保育士らが責任逃れをしているかのように聞こえた。
 将宏君が生後8カ月のころから2人で寄り添って生きてきた。人生の全てだった息子はもう生きていない。「ママがかたきを取る」。墓前に誓った。
 卒園式で着るはずだった将宏君のジャケットや大好きだったウルトラマンの人形…。仕事から帰ってくると、遺品のそばにうずくまったまま朝を迎えていることもある。子どもを津波で失った家族に新しい子ができたと聞くと、孤独感で胸が苦しくなる。
 「記憶にない」「言っていない」。そんな証言が許される裁判の限界を目の当たりにした。墓前への誓いが果たせるか分からない。負けたら上告するかは考えあぐねている。3年4カ月続いた裁判は20日、一つの区切りを迎える。
 「先のことは考えられない。でも先生たちに子どもを置いて逃げた責任はある。どうして手を差し伸べ守ってくれなかったのか」。ずっとそう思い続ける。

[山元町東保育所津波訴訟]震災発生後、保育士らは園庭に園児を待機させた。保育士や保護者が園児13人を車10台に乗せて逃げたが、津波に巻き込まれた園児3人が死亡した。2遺族が2011年11月、保育所を運営する町に計約8800万円の損害賠償を求めて提訴した。


小6作詞の復興応援歌 あす卒業式で初披露
 東日本大震災で被災した亘理町荒浜小(児童122人)の6年生31人が19日の卒業式で、仙台市出身のシンガー・ソングライター渡辺ヒロコさんと共作した復興応援ソング「ただいま」を初めて披露する。古里再生の願いを込めた児童の詞に渡辺さんが曲を付けた。

 詞は児童が考えた言葉を、渡辺さんがつなぎ合わせてまとめた。阿武隈川河口と太平洋に面し「海の街」と名付けた古里で、震災を乗り越えて友と一緒に歩み続ける決意を表現した。タイトルは全校児童の投票で決めた。6年横山美有さん(12)は「以前のような活気あふれる荒浜が戻ってほしいという思いで詞を考えた。震災を思い出すとつらいけど、曲を歌うと明るく元気になれる」と笑顔で話す。
 17日は渡辺さんが来校し、ピアノを伴奏しながら本番を控えた6年生に歌唱指導した。全校集会にも参加し、歌を練習している下級生も交えて一緒に歌った。渡辺さんは「震災で怖い思いをした子どもたちが前向きに頑張る姿が歌詞から伝わる。みんなの歌声を聴いて感動した」と喜んだ。
 同校は震災の津波で約1メートル浸水し、当時1、2年生だった5、6年生は校舎で一夜を明かした。地域全体も大きな津波被害が出た。
 東京を拠点に活動する渡辺さんは2年前、宮城教育大付小時代の担任だった斎藤博校長から被災状況を知り「子どもたちのために何かをしたい」と歌の共作を提案。完成した歌詞に明るいテンポの曲を付けた。「前を向いて一歩ずつ歩いていくイメージの歌にしたかった」と意図を語る。
 CD化も検討中だ。卒業式でも伴奏を担当する渡辺さんは「ずっと歌い継いでくれたらうれしい」と願い、横山さんも「みんなで笑顔で歌って巣立ちたい」と発表を心待ちにする。
 斎藤校長は3月末で定年退職する。教え子の共作に「最後に地域の大きな宝ができた」と話す。

<ただいま(1番)>
波の音 川も流れて
遠くで山も光ってる
同じ時を過ごしたね
僕らが育ったこの校舎
さぁ 手をつなごう
大好きな友だち
輝ける道を 一歩ずつ
ただいま ただいま 今日もまた
勇気をくれる 海の街


<石巻線仙石線>22日臨時列車 女川で催し
 JR東日本仙台支社は22日、東日本大震災からの復興をアピールする女川町の「まちびらき」関連イベントに合わせ石巻線と仙石線で臨時列車を運行する。
 石巻線は小牛田発午前9時55分と10時50分の下り2本と、女川発午後3時52分と5時10分の上り2本で、いずれも普通列車。仙石線は矢本発で午前9〜11時台に計3本の下り快速列車を走らせる。一部の定期列車は運転時刻や車両数が変更される。
 女川町では21日に「まちびらき」があり、再建された女川駅が開業、石巻線が全線復旧する。22日は駅と併設の町営「女川温泉ゆぽっぽ」がオープンし、駅前広場を中心に復幸祭が開かれる。
 仙台支社は「石巻線は小牛田、石巻両駅以外はIC乗車券Suica(スイカ)が利用できないため、事前に乗車券を購入してほしい」と呼び掛けている。

報告会で寝てしまう・・・/成政

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Le village des épouvantails, figé dans le temps
NAGORO (Reuters) - Tsukimi Ayano a fabriqué son premier épouvantail il y a treize ans pour protéger son jardin. Depuis, elle a en confectionné 349 autres et sa production est disséminée dans le petit village de Nagoro, dans le sud du Japon.
Ses créations garnies de papier journal et de chiffons y reproduisent les scènes de la vie quotidienne: dans les maisons, les champs, les rues, à l'école et même à un arrêt de bus où les épouvantails attendent un véhicule qui ne viendra jamais.
Dans ce village, qui compte seulement 35 habitants, les épouvantails sont bien plus nombreux que les humains, souligne Tsukimi Ayano.
Durement touché par l'exode rural comme de nombreuses autres bourgades nippones, Nagoro est principalement peuplé de seniors, reflétant la démographie de l'archipel.
A 65 ans, Tsukimi Ayano figure parmi les plus jeunes habitants de ce village dont l'école, fermée en 2012, après que ses deux élèves ont obtenu leur diplôme, n'accueille plus désormais que des étudiants de chiffon.
Outre l'entretien des épouvantails existants, notamment ceux placés à l'extérieur, qui pâtissent des intempéries malgré leur doublure de plastique, Tsukimi Ayano assure aussi parfois la création de mannequins sur commande, à l'effigie de jeunes gens ayant quitté le village ou d'habitants décédés.
(Chris Meyers; Myriam Rivet pour le service français, édité par Danielle Rouquié)
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今日は報告会なのですが,なんと大事な話のときに寝てしまいました.
後で「あの話良かったですよね?」と聞かれて,適当に相槌を打つしかないという悲しい思いをしました.
でも日本酒の成政が美味しかったです.
R社のHaさんとお話をしました.

東日本大震災:被災パトカーの公園展示始まる 福島・富岡
 福島県富岡町の県警双葉署に隣接する公園に16日、東日本大震災の津波で大破した同署のパトカーが展示された。

 このパトカーに乗って避難誘導していた警察官2人が犠牲になり、県警は当初、パトカーを処分する予定だったが、町民有志が「住民の命を守った行動と被災の実情を後世に伝えたい」と保存を要望。町が震災遺産として譲り受けた。

 パトカーに乗っていたのは、同署地域交通課の増子洋一さん(当時41歳)と佐藤雄太さん(同24歳)。増子さんは遺体で発見され、佐藤さんは行方不明のままになっている。【文 森田剛史】


東日本大震災:福島第1原発事故 浪江の未来描く 震災前の普通の風景を 神戸の芸大卒業、帰郷へ
 静かな荒涼とした田園地帯に、キャンバスの布地をはう鉛筆の音が響く。東京電力福島第1原発事故の影響で全町避難が続く福島県浪江町。卒業を前に一時帰宅した神戸芸術工科大(神戸市)4年、佐藤伸哉さん(22)が、原野と化した実家の田んぼを見つめながら下絵用のデッサンを仕上げた。描いたのは「古里の未来」。震災前は当たり前にあった、家族で田植えをする光景だ。【栗田慎一】

 伸哉さんは今月4日、埼玉県三郷市で避難生活を送る専業農家の父秀一さん(55)と一時帰宅した。田んぼに着くと、朝から降っていた雨はやみ、春の訪れを告げる暖かな風がわたった。「やっぱり古里はいい」。目を閉じ、深呼吸をした。

 南隣の双葉町にある県立双葉高に進学し、美術部に入った。女性顧問の勧めで油絵を始め、田園や里山を好んで描いた。「色遣いがいい」と褒められ、芸大志望を決めた。「ただし、家から遠く離れたかった」。学校行事ひとつ来てくれなかった父へのあてつけ−−。これが神戸に決めた理由だった。

 原発事故は合格発表の直後に起きた。避難を強いられた一家は1日先の生活すら見通せなくなった。進学をあきらめかけたが、大学担当者は「入学金や授業料の支払いは後でいい。ぜひ神戸に来て」と言ってくれた。

 大学2年の夏、震災後に初めて父と一時帰宅した。荒廃した家と田を前に、父が体を震わせた。「その時初めて、父が失ったものの大きさに気づいた。生活を支えるため、嵐の日も田んぼに出ていた労苦を知った」。「あてつけ」で親元を離れた愚かさを恥じた。

 2回目の一時帰宅をした3年生の夏に、自宅周辺の景色を写真におさめた。

 「古里の今を描こう」と思ったのだ。1年かけて描いた「古里・浪江の風景」5点は今年2月、神戸市であった卒業展で展示された。来場者たちから「これからどうなるの」と聞かれた伸哉さんは、「未来を描こう」と決めた。

 芸大進学を決意させてくれた顧問は津波にのまれ、死亡した。福島県いわき市に避難している母校は今春から生徒募集を停止し、2年後に事実上の廃校となってしまう。

 「描く未来は、震災前には当たり前にあった光景です。そこに原発事故の罪深さがあるのです」。デッサン画では、荒れた田んぼがよみがえり、家族でトラックから苗箱を降ろし、田植え機に載せる姿を描いた。これから自慢の色遣いで絵の具を塗り重ねていく。

 就職先はまだ決まっていないが、慌ててもいない。「古里を描き続けるため、できるなら福島県内で仕事を見つけよう」と思っている。


<被災パトカー>保存決まり「前に踏み出せた」
 「皆さんの熱い思いでパトカーが保存され、うれしく思っています」
 公園に移設されたパトカーの前に立ち、佐藤雄太さんの父安博さん(56)は地域住民や双葉署へ感謝の思いを述べた。
 雄太さんはいまも行方不明。月命日前後には必ず妻の浩子さん(54)と訪れ、無残な姿となったパトカーに向かって声を掛け続けた。津波で押しつぶされ、ハンドルがむき出しになった車体がさらに朽ちていく姿に、寂しさを募らせていた。
 両親を励まし続けたのは、町民や同僚からの手紙。パトカーの脇に小さなメッセージポストが設けられ、雄太さんの避難誘導に感謝を伝える手紙や名刺が、500通以上寄せられた。負けず嫌いで、気立ての優しい警察官だった。
 浩子さんは、防さび剤を黙々とパトカーに塗る地域住民たちの姿を眺めながらつぶやいた。
 「雄太は地域の方々に、かわいがっていただいたんでしょうね」
 わが子が戻らぬ悲しみは癒えるはずもない。でも少しずつ前に進みたい。パトカーの保存が決まり、安博さんは気持ちに変化が芽生えたのを感じた。
 「まだ心の中は3月11日のまま。だけれど、皆さんの温かい気持ちのおかげで、きょうは半歩、いや一歩、少し前に踏み出すことができました」


<被災パトカー>勇気の印 洗浄終え公園に展示
 東日本大震災の津波で福島県警双葉署員2人が殉職したパトカーについて、同県富岡町は16日、水洗い処理を終え町中心部の同署北側にある公園に移設展示した。避難誘導中に殉職した2人の行動と、複合災害の記憶を伝える震災遺産として保存する。
 町内は福島第1原発事故で全域が避難区域。1月中旬、4年近く手付かずのまま沿岸部に残された車体を町内の整備工場に移動し、洗浄した。公園内に屋根を設置し、祭壇とメッセージポストも移設した。パトカーは町民有志の保存要望を受け、昨年12月に町が県警から譲り受けた。
 当時乗務していたのは双葉署の増子洋一警視=当時(41)=と、佐藤雄太警部補=同(24)=(ともに2階級特進)。2人は住民に避難を呼び掛ける最中に車ごと津波にのまれたとみられる。増子さんは沖合で発見されたが、佐藤さんは行方不明のままだ。
 現地で式典が行われ、宮本皓一町長らが参列。佐藤雄太さんの両親も足を運んだ。富岡地区安全運転管理者協会メンバーら住民が車体に防さび剤を塗りながら、2人をしのんだ。


記者の目:東日本大震災4年 ボランティア=高尾具成(阪神支局)
 ◇聞くことで心が通う

 20年前の阪神大震災の被災地・神戸で被災者支援の活動として生まれ、その後の災害被災地で、学生らを中心に全国に広がった「足湯ボランティア」に注目している。心身をいたわる活動の中で被災者から聞く「つぶやき」に、どんな支援が必要なのかを知るヒントがあるからだ。その点を生かし、発生4年を迎えた東日本大震災の被災地では、被災者の心の痛みを知り、サポートしようと、臨床心理士や看護師、宗教者ら専門家につなぐ取り組みがある。こうした活動が広がれば、「足湯」は、被災地の内外を結ぶ重要なツールになると感じる。
 ◇「足湯」支援で心のケア効果

 足湯ボランティアは、たらいに張った湯に足を浸してもらい、手をさすりながら一対一で話を聞く。血行が良くなり、体が温まることで緊張もほぐれ、被災者の心のケアの効果が期待できる。この場で被災者が語る言葉を聞くことに意味がある。心身に抱える問題や、被災地の課題が浮かび上がるからだ。ボランティアをする人に難しい技術は必要なく、被災者の話に耳を傾けることに集中すればいい。

 原点は、阪神大震災直後の避難所で、東洋医学を学ぶ若者らがボランティア活動に足湯を取り入れたことにある。その後、神戸市のNGO「被災地NGO恊働センター」の前身のグループに伝えられ、広がった。足湯ボランティアを始めた一人、吉椿雅道さん(47)=CODE海外災害援助市民センター事務局長=は「被災者の心を受けとめ、被災者に何ができるのかを考える場にしようと思った。自分が対応できなければ、専門家や行政サイドにつなぎ、被災者の心の再建に生かそうと始めた」と語る。

 一方で、恊働センターは1996年夏ごろから、孤独死が問題化した仮設住宅の被災者らの言葉を「つぶやき」として集めていた。吉椿さんらは、2004年の新潟県中越地震の被災地で足湯ボランティアをした時、そこでつぶやかれる「言葉」に注目した。能登半島地震(07年)の被災地で足湯ボランティアをした時には、活動の一環として「つぶやき」を集め始めた。以後、足湯ボランティアをする度に「つぶやきカード」に被災者の言葉を書きとめている。

 阪神大震災を機にできた災害ボランティアの連絡組織「震災がつなぐ全国ネットワーク」(本部・名古屋市)は東日本大震災の発生直後から2年間、日本財団(東京都)の支援を受け、延べ1万6000人分のつぶやきカードを集めた。それらは、延べ約2000人の足湯ボランティアが避難所や仮設住宅などの活動現場で聞いた宮城、岩手、福島の被災者の声だ。その内容を東京大学被災地支援ネットワークで分析し、専門家へとつなげる態勢を作ろうとしている。代表幹事の似田貝香門・東大名誉教授(地域社会学)は「足湯の際にじっくりと語ることで被災者がいやされる効果がある。心に重い悩みを抱える被災者を、専門家へとつなぐきっかけとしても役立つ」と話す。
 ◇「つぶやき」集め、専門家へつなぐ

 これまで積み重ねた「つぶやき」からは、細やかな支援の必要性が浮かび上がる。東日本大震災と阪神大震災で、被災者が仮設住宅から災害公営住宅に移転を始めた時期の言葉は似ていることがある。宮城県石巻市の70代女性の言葉は「みんなと仲良くなったので離れたくない」。一方、「阪神」を経験した神戸市西区の50代女性は「一人また一人と仮設を後にし、とてもさみしい」とつぶやいた。仮設住宅での被災者同士のつながりを、その後の生活にどう生かすかは現在でも課題だ。支援の手が十分に行き届いていないことも分かる。

 岩手県釜石市内の仮設住宅での神戸大の学生たちの足湯ボランティアを取材したことがある。88歳の被災者の女性がぽつりぽつりと語る話に、学生は黙って相づちを打ち続けた。女性は震災の津波から、70年前の太平洋戦争末期の艦砲射撃の体験まで語った。

 三陸沿岸部へ昨年末までに36回、延べ1300人の学生ボランティアを引率してきた神戸大学生ボランティア支援室職員、林大造さん(47)は「学生がじっと耳を傾けることで互いに心が通い合う。学生たちにとっても得るものは大きい」と語る。社会経験の少なさが、かえって被災者から本音を引き出せるようだ。

 足湯の「つぶやき」を専門家へと引き継ぐ仕組みが確立すれば被災者支援に大きな力となると考える。生活再建の格差が広がり、抱える悩みが多様化する東日本大震災の被災地で、足湯ボランティアの活動は、ますます重要になるだろう。

クスクス/ピケティと現代資本主義/座禅/牡蠣BAR

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Le tsunami au Japon 4 ans après : Google Street View nous ramène sur les lieux de la catastrophe
Il y a quatre ans, un violent tsunami touchait les côtes japonaises. Aujourd'hui, des images proposées par Google permettent de voir où en sont ces zones dévastées par la force de la nature.

Le bateau entre dans une nature nouvelle Il y a quatre ans, un violent tsunami touchait les côtes japonaises. Aujourd'hui, des images proposées par Google permettent de voir où en sont ces zones dévastées par la force de la nature. Suivez-nous sur Facebook Vous êtes déjà abonné ? Ne plus afficher Le 11 mars 2015, cela faisait tout juste quatre ans qu'un gigantesque tsunami avait frappé violemment les côtes du nord-est du Japon, conduisant aux terribles conséquences que nous connaissons. A cette occasion, Google a choisi de commémorer l'évènement en mettant à jour les zones touchées sur Google Street View. C'est en 2011 que le projet a pris forme, pour rendre hommage aux lieux sévèrement touchés. Quatre ans plus tard, Google Japon a décidé de publier une vidéo montrant le travail effectué pour permettre cette mise à jour de Google Street View. La plupart des images sont prises depuis un bateau et permettent de se balader dans les zones sinistrées par le tsunami. Un spectacle aussi émouvant que perturbant. Une catastrophe terrible mais des images fascinantes Grâce à ce système, des endroits symboliques et inaccessibles ont été capturés : le seul pin encore debout à Rikuzentakata ou encore cette fusion entre l'eau et les montagnes dans la ville de Kesennuma. Interrogées sur leur périple, les personnes à l'origine de ce projet avouent avoir pris du temps pour admirer ce nouveau paysage, "temporaire et précieux". "Pour être honnête, je voulais juste voir tous ces paysages. C’était vraiment amusant de monter sur un bateau et de les enregistrer", avoue pour sa part Michiari Saito, qui a participé à ce long et fastidieux travail de collecte. L'objectif est aussi de mieux comprendre et connaitre la vie des habitants après le tremblement de terre de magnitude 9 et le tsunami destructeur qu'il a provoqué. Avant/après Pour prendre les images, des caméras très évoluées, appelées trekkers, ont été prêtées à l'agence. Elles se portent comme des sacs à dos et facilitent donc l'accès à des zones difficiles et dangereuses. Des frises chronologiques sont également proposées par Google. Elles permettent de voir l'évolution de la situation mois après mois et de se rendre compte de ce qu'était ces villes avant la catastrophe. "J’ai été ici avant, je me souviens du nom de cette place", se remémore Michiaro Saito, avouant qu'il se répétait souvent cette phrase tout en navigant. En plus de rappeler l'impact dévastateur qu'ont eu les catastrophes du 11 mars, ces images témoignent également de la difficulté de la reconstruction entreprise depuis 4 ans.
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『21世紀の資本』(トマ・ピケティ著)と現代資本主義― 格差拡大社会の分析と克服の道をさぐる ―
 3.11大震災を契機に様々な格差問題がクローズアップされている。世界的ベストセラーとなった『21世紀の資本』は、格差再拡大の現実を長期歴史統計の分析によって克明に描き出した。グローバル経済化が進展するなかで、富の偏在や格差問題が深刻化している。同書をどう読み解くか、現代資本主義システムへの明晰な批判的分析と矛盾克服のあり方をめぐり、本企画は多角的な議論の場の形成を目指している。現代資本主義の矛盾にどう対処すべきか、ピケティの税制改革案、国際的な金融・資本統制など、21世紀型社会変革の可能性と意義を、本シンポジウムにおいてパネラーを交えて幅広く考えてみたい。
 日時:3月16日(月) 1時半〜5時
 場所:國學院大学渋谷キャンパス 120周年記念2号館 1階 2102教室 (参加費:無料)
<プログラム>
(総合司会) 中馬 祥子(國學院大学経済学部教授)
1:30  開会あいさつ 菅井 益郎(國學院大学大学院経済学研究科委員長、教授)
1:40  基調講演
    「 『21世紀の資本』論 −格差再拡大の政治経済学− 」
     伊藤 誠(東京大学名誉教授、元國學院大学経済学部教授)
 <休憩>
3:15 パネルディスカッション
    「 『21世紀の資本』をめぐり、現代資本主義の矛盾克服の可能性を考える 」
    (パネラー報告)
     ・木村 秀史  (島根県立大学総合政策学部講師)
     ・結城 剛志  (埼玉大学経済学部准教授)
     ・紺井 博則  (國學院大学経済学部教授)
  (総合討論)基調講演者、パネラー3人を交えてパネルディスカッションと全体討論
  (司会進行)古沢 広祐(國學院大学経済学部教授)
  (主催)「資本主義再考」研究会、國學院大学大学院特定課題研究グループ


渋谷のアフリカ料理でクスクスを食べた後,國學院大学に向かいました.ピケティに関しての講演会です.
とても面白いです.再配分の適正化ではなくて配分の適正化という主張に納得しました.
そのあと麻布のほうに向かいます.座禅をしに行きます.説明がわかりやすかったですが,次来た時にきちんとできるかどうか心配です.
帰ろうと思って渋谷に向かうとき牡蠣BARがあって吸い寄せられてしまいました.
沖縄の日本酒は泡盛みたいな感じでした.
新宿まで急ぎましたが,ちょっとはきそうな感じでヤバかったです.

震災の記憶後世に 多賀城駅前にモニュメント
 東日本大震災の犠牲者を追悼し震災の記憶を後世に伝えるモニュメントが、多賀城市のJR仙石線多賀城駅前公園に完成した。震災から4年を迎えたのに合わせて、市が整備した。
 二つの御影石のアーチが円柱を包み込むように重なるデザイン。円柱の高さは市内を襲った津波と同じ4.6メートルにした。
 格子柄の円柱表面は市内の犠牲者数(関連死を除く)と同じ188の四角形の石で囲まれている。一部が観音開きとなっており、遺族の同意が得られた犠牲者のネームプレートが収められた。
 モニュメント検討委員で津波により弟一家5人を亡くした津田孝造さん(65)は「弟たちの存在を後世に残すことができる。今後は心のがれきを一つ一つ取り除きながら前に進みたい」と話す。


「商店街」鮮魚いきいき 亘理被災8店で再建
 「亘理町荒浜にぎわい回廊商店街」が15日、同町の荒浜漁港近くにグランドオープンした。立地場所は災害危険区域内で、東日本大震災で被災した小売りなど8店が入り再建を果たした。アーケードが設けられた通りは観光客らであふれた。
 商店街は敷地約8500平方メートルで、8店は水産関係や居酒屋、総菜店、自転車店など。中央の通りは長さ37メートル、幅13メートルでアルミ製のアーケードを設置した。事業費約2億2000万円は国のグループ化補助金などを活用した。
 町、県、地元関係者らによるテープカットに続き、荒浜漁港などで水揚げされたカレイの焼き物、全長2メートルのオヒョウのフライを各1000食振る舞った。オヒョウやマグロの解体ショーもあった。
 来場者は新鮮な魚を味わいながら買い物を楽しんだ。仙台市宮城野区の会社員成田伊玖さん(22)は「カレイは味が濃くておいしい。大きなアーケードは印象的で、また訪れて総菜店のコロッケを食べたい」と話した。
 小売店は震災で激減したため、地元住民も商店街を待ち望んでいた。被災した自宅を1年前に再建した主婦(70)は「これまでは内陸のスーパーまで足を運ばなければならず不便だった。歩いて来られるので助かる」と喜んだ。
 アーケードは今後、イベント会場として開放し、他の観光施設とにぎわい再生の相乗効果を図る。商店街管理組合の残間祥夫理事長は「各店が結束して活性化を担えるよう、親しまれる商店街を目指す」と意気込んだ。


希望の光ともした 南三陸VC閉所前に感謝祭
 東日本大震災後、宮城県内の災害ボランティアセンター(VC)で唯一活動を続けてきた南三陸町災害VCが今月閉所するのを前に、ボランティアに感謝する集いが15日、町総合体育館であった。
 町と町社会福祉協議会が企画。災害VCを通して町内で活動をした約1万2000人に案内を送り、約1100人が参加した。
 感謝の辞で、佐藤仁町長は「お帰りなさい」と呼び掛けた。声を詰まらせながらがれき処理や産業支援などの活動を振り返り、「絶望と悲嘆に暮れた住民に、希望の光をともしてくれた」と貢献をたたえた。
 体験発表では、東京都府中市の生田久也さん(52)が「災害VCのサポートで安心して活動できた。南三陸の景色を見て復興が終わったと思う人はいない。来なくていいと言われるまで支援を続ける」と語った。
 会場の外では、住民らが鍋物やおにぎりを振る舞った。志津川小避難所自治会(当時)の仲間と参加した高橋長泰さん(61)は「素晴らしい行動力で支えてくれた」と感謝した。
 4月以降、町社協に設置するVCが町外ボランティアの受け入れを担う。町は災害ボランティア経験者を軸とした「南三陸応援団」を結成し交流拡大を図る。


仙台−石巻 1日66本運行へ
ことし5月30日に全線で運転を再開するJR仙石線は、東北線の線路の一部を利用して開業する「仙石東北ライン」を含め、仙台駅と石巻駅の間では上下線あわせて1日66本の列車が運行することになりました。
仙台市と石巻市を結ぶJR仙石線は、震災の津波で線路や駅が流され、松島町の高城町駅と東松島市の陸前小野駅の間が不通となっていましたが、一部の区間を高台に移設するなど復旧工事が順調に進み、5月30日に全線で運転が再開されます。

JRは再開後のダイヤについて東北線の線路を一部利用して仙台駅と石巻駅を結ぶ「仙石東北ライン」を含め仙台駅と石巻駅の間で上下線あわせて1日66本の列車を運行することを決めました。

このうち「仙石東北ライン」はすべて快速列車で、28本運行し、最も早い特別快速列車は仙台・石巻間を52分で結び、これまでより仙台発の下りが12分、石巻発の上りが11分、短縮されます。

また、あおば通駅と石巻駅を結ぶ仙石線は、すべて各駅停車で38本運行します。

運賃は、仙石線と仙石東北ラインともに仙台・石巻間が840円です。
仙石線が全線で運転再開となるのに伴って美里町の小牛田駅を経由して仙台と石巻を結んでいた直通列車は、5月29日で運行を終えるということです。


同性婚:「賛成」が「反対」上回る 本社世論調査
 男性同士、女性同士で結婚する「同性婚」について、賛成する人が反対する人より多かったことが、毎日新聞が14、15日に実施した全国世論調査で分かった。賛否を明らかにしない「無回答」が17%と多いものの、「賛成」が44%で「反対」の39%を上回った。東京都渋谷区が2日、全国で初めて同性カップルを「結婚に相当する関係」と認め、証明書を発行する条例案を議会に提出するなど、同性婚の考え方が徐々に浸透する一方、調査では性別や年代で認識に差が出るなど、受け止め方は一様ではないようだ。

 「あなたは、男性同士、女性同士で結婚する同性婚に賛成ですか、反対ですか」との質問に対し、男性は38%が「賛成」、49%が「反対」と答えた。「無回答」は13%だった。一方、女性は「賛成」が50%、「反対」は30%、「無回答」が21%だった。

 同性婚に賛成する人は、女性、若年層、大都市に多く、いずれも5割に達した。「反対」は男性、高齢層、町村部に多い傾向があった。

 回答者が少なかった20代を除いて年代別で見ると、「賛成」の割合は30代が61%と最も高く、年代が上がるほど低くなって、70代以上は18%。「反対」は30代、40代が同率の26%で、年代が上がるにつれて増えていき、70代以上では60%に達した。

 都市規模で見ると、大都市ほど「賛成」の割合が高く、人口が少なくなるほど「反対」の割合が高かった。最も「賛成」が多かった」のは、「政令市・東京23区」の48%。最も「反対」が多かったのは「町村部」の44%だった。

 調査は3月14、15日の2日間、コンピューターで無作為に数字を組み合わせて作った電話番号に、調査員が電話をかけるRDS法で実施した。福島第1原発事故で帰還困難区域などに指定されている市町村の電話番号は除いた。有権者のいる1638世帯から、1018人の回答を得た。回答率は62%。【中村美奈子/デジタル報道センター】


銀行津波訴訟 和解協議不調
東日本大震災の津波で犠牲になった七十七銀行の前の女川支店の従業員の遺族などが、銀行側に損害賠償を求めている2審の裁判は、16日、和解協議がまとまらず、来月、判決が言い渡されることになりました。
女川町にあった七十七銀行の前の女川支店では、屋上に避難して津波に襲われ従業員12人が犠牲になり、このうち3人の遺族や家族が、近くの高台に避難させなかったのは安全配慮義務に違反するとして、銀行側に2億3000万円余りの損害賠償を求める訴えを起こしています。
1審の仙台地方裁判所は遺族などの訴えを退けたため、遺族側が控訴し、2審の仙台高等裁判所は、ことし1月に審理を終えて和解に向けた協議が進められていました。
しかし、遺族側の弁護士によりますと、16日の協議で、裁判所が双方に示した和解案には遺族側が求めていた原因の究明や再発防止策が十分に盛り込まれなかったことから、和解案はまとまりませんでした。
このため、協議は、16日で打ち切られ、来月22日に判決が言い渡されることになりました。
訴えを起こしている遺族の男性は「納得できて、この先の防災につながるような判決をいただきたいと思う」と話しました。
また七十七銀行は「円満な解決を望んでいましたが和解に至らず残念です」というコメントを出しました。


仮設住宅の特定延長 5市町に
震災の被災者が入居する仮設住宅について、宮城県は、入居から6年目以降、特別な事情がある世帯に限って延長を認める「特定延長」を仙台市など5つの市と町で導入することを決めました。
これは、村井知事が、23日の記者会見で明らかにしました。
仮設住宅の「特定延長」は、災害公営住宅の建設や宅地の造成が進み、住宅不足がおおむね解消する自治体について、住宅の完成が予定より遅れるなどの特別な事情がある世帯に限って仮設住宅の入居の延長を認める制度です。
県は、仮設住宅の入居から6年目以降のおおむね平成28年度から導入することにしています。
県は、この特定延長の対象を仙台市、多賀城市、亘理町、山元町、七ヶ浜町の5つの市と町とする方針を固め、国との協議に入りました。
これについて村井知事は、記者会見で「被災者の自立を促していく。
また仮設住宅の痛みが激しくなっているので、より安全、安心な場所に移り住んでいただく」と述べました。
また、県は、これまで通り入居期間を一括して延長し、6年間の入居を認めるとする自治体を、石巻市、塩釜市、気仙沼市、名取市、東松島市、女川町、南三陸町の7つの市と町とする方針です。
一方、岩沼市と大崎市は、移り住む住宅のめどが立ったとして延長の対象とならずに入居期間を5年で終了する方針です。


「ホヤぼーや」パンの缶詰寄贈
気仙沼市の観光キャラクター、「ホヤぼーや」の絵が描かれた備蓄食用のパンの缶詰が販売されることになり、16日、製作した会社が市に缶詰を贈りました。
新しく販売されるのは気仙沼市などで地元の特産品などを販売している会社、「気仙沼波止場」が作ったパンの缶詰、「おいしいホヤぼーやのパン」です。
このパンの缶詰216缶が気仙沼市に贈られることになり、16日市役所で、「気仙沼波止場」の小野寺亮子社長が菅原茂市長に缶詰を手渡したあと、さっそくパンを試食しました。
パンの缶詰には、気仙沼市の観光キャラクター「ホヤぼーや」の絵が描かれていて、▽ストロベリー、▽オレンジ、▽レーズンの3種類の味のパンを楽しむことができます。
また、賞味期限が3年1か月と長く、災害時などの備蓄食として、活用できるため、気仙沼市は贈られた缶詰を市内の避難所などに置く予定だということです。
菅原市長は、「みずみずしくふわっとしていて、とてもおいしいパンだった。この缶詰を備蓄しておけば何かあってもしばらくは安心できると思うし、とてもありがたい」と話していました。
また「気仙沼波止場」の小野寺社長は「備蓄食だけでなく、観光客のお土産などとしても楽しんでもらいたい」と話していました。
このパンの缶詰は、来月以降、気仙沼市内の仮設商店街やインターネットなどで販売される予定です。


災害時の宗教の役割で意見交換
仙台市で開かれている国連防災世界会議の一環として、災害が起きた時の宗教の果たす役割について意見を交わすシンポジウムが16日開かれ、被災者の心に安らぎをもたらすため、宗教・宗派の垣根を越えて英知を結集することが重要だという提言を発表しました。
シンポジウムでは、まず、4年前の東日本大震災で、宗教団体がどのような活動をしたか、報告されました。
このうち、曹洞宗が発足させたボランティア団体の男性は、移動図書館と名付けて、本を積んだ車で被災地の仮設団地を巡回し、各地の寺の僧侶も参加していると説明しました。
そして、「本を貸し出すだけではなく、僧侶が被災者の話を聞く機会にもなっている」と話していました。
また、震災後、キリスト教の団体といっしょに、被災者の心のケアを目的に、「心の相談室」を設立した寺の住職たちは、傾聴移動喫茶と名付けて、岩手・宮城・福島の3県で、被災者の話を聞いたり、電話相談を行ったりしてきたことを紹介しました。
そして、「被災者がほっとできる空間を作ろうと努力してきた。災害が起きたときには、どこでも、こうした活動が必要になると思う」と、話していました。
このあと、こうした活動の事例をもとに、災害が起きたときの宗教の役割について意見が交わされ、被災者の心に安らぎをもたらすため、宗教・宗派の垣根を越えて英知を結集することが重要だという提言を発表しました。


復興商店街開店でカレイ祭り
亘理町の荒浜地区で、津波で被災した店舗が集まって新しい商店街がオープンし、これを記念して、地元でとれたカレイをふるまう催しが開かれました。
亘理町の荒浜地区にオープンしたのは、8軒の鮮魚店や食堂などが集まった「荒浜にぎわい回廊商店街」で、このうち7軒は津波で被災したあと仮設の店舗で営業を続けてきました。15日はオープンを祝って関係者によるテープカットが行われたあと荒浜沖などでとれた新鮮なカレイを集めた催しが開かれ、多くの人たちでにぎわいました。
会場では水揚げされたばかりのカレイが市価より2割ほど安く販売されたほか、大型カレイの解体ショーも行われました。
また会場では、炭火で焼いた1000匹のカレイが無料で振る舞われ、訪れた人たちは焼きたてのカレイをおいしそうに味わったり、新しくできた商店街での買い物を楽しんだりしていました。
柴田町から訪れた60代の女性は「天気が良くてカレイもおいしかったので来て良かったです。復興も進んできたのでもっともっとにぎやかになるといいですね」と話していました。


九条の会:初の全国討論 大江さん「7500団体で反戦努力」
 護憲派の市民団体「九条の会」が15日、全国各地の会員を集めた初めての討論集会を東京都千代田区で開き、安倍政権が憲法改正を前面に押し出す中、どう活動していくか意見を交わした。参加した約450人は、集団的自衛権行使容認の閣議決定(昨年7月)や、現在進行中の安全保障法制の整備について「憲法9条を根底から覆す暴走」と危機感を募らせた。

 戦争放棄を定めた9条の堅持を訴える同会は2004年、作家の大江健三郎さんらの呼びかけで設立。同会によると、理念に賛同する地域や職種ごとの団体は約7500あり、閣議決定撤回などを求める署名の賛同者は延べ9万人を超えた。

 集会では、作家の澤地久枝さんが「戦争のできる時代が迫っている。『戦争で得るものは何もない』という経験に学び声を上げ続けたい」、大江さんも「戦争を起こさせないため努力を続けなければならない。政府は期待できない。独自の活動を続ける(約7500の)団体に希望は託されている」と訴えた。

 会場からは「若い世代の運動と連携していくべきだ」「草の根から大きな声にしていきたい」などの意見が出た。「九条の会奈良」の岩下美佐子さん(66)=奈良県葛城市=は取材に対し、昨年12月の衆院選で自民党が沖縄県の全4選挙区で敗北したことに触れたうえで「沖縄の今の混乱を見れば、政府が市民の声に真摯(しんし)に耳を傾けていないことが分かる。おかしいと思ったことは議論を尽くしていきたい」と語った。【山田奈緒】


東日本大震災:「ボランティアに感謝」 宮城・南三陸 経験者1000人、町民と再会
 東日本大震災の被災地の支援のため延べ14万人以上が訪れた宮城県南三陸町の災害ボランティアセンターの大型テントが今月中に撤去されるのを前に、町主催の感謝の集いが15日、同じ敷地にある体育館で開かれた。ボランティア経験者ら1000人以上が町民との再会を喜び合った。

 被災地に残るボランティアセンターは、南三陸と福島県南相馬市の2カ所。テント撤去は住宅の高台移転事業のため。町社会福祉協議会は近くの事務所で受け付けを続けるが、センターからは「災害」の2文字が外れ、活動は節目を迎える。

 東京都の慶応大4年、村上央(たける)さん(22)は「住民の方と1対1の関係ができた。ボランティアが学生生活のメインだった」と振り返った。震災5カ月後に初めて訪れ、さらに1年後も覚えていてくれた住民の存在が力となり、計十数回通った。町の姿は変わったが「やっとゼロに戻った」。4月から銀行員だ。「有給休暇を取って来ます」と誓った。

 東京都練馬区の建設業、神原三雄さん(64)は仕事を終えた金曜夜に出発、土曜早朝に町に着き、2日間活動する生活を毎週のように続けた。「町の変化を見続ける」と話した。

 この1年の参加人数は震災直後の2割前後。町側のニーズも、当初のがれき除去などから、漁業・農業支援や仮設住宅での交流などへと変わった。それでも猪又隆弘センター長は「町の将来を支える力になる」と期待を込めた。【井田純】

国立でドイツ料理/南三陸の生き抜く/アイヌ料理/もんじゃ焼き

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≪ Le cinéma, c’est l’écriture moderne dont l’encre est la lumière. ≫
de Jean Cocteau
Si la jeunesse n'a pas toujours raison, la société ... qui la frappe a toujours tort.
François Mitterrand
Even if youth is not always right, the society ... that strikes at it is always wrong.
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国立に来ました.初めてかな?ずっと前に一回きたことがあるかもしれません.間違って八王子まで行ってしまったので結構時間がかかってしまいました.
とりあえずランチ.ということでドイツ料理です.お店の場所がわからず電話したのですが,別のお店に電話してしまいました・・・とにかく無事にお店に着きました.
ゴルゴンゾーラの蜂蜜かけ,コンビーフのジャーマンポテト,スライス盛り合わせ(ロース・ボンレスハム・ビアシンケン・チキンローフ・ケーゼヴルスト)でビールはヴァイエンステファン ヘーフェ ヴァイス(Weihenstephaner Hefe Weissbier)で美味しかったです.
その後公民館で映画上映です.南三陸の生き抜くです.震災後の人々の様子がありのまま描かれています.上映後のMBSプロデューサーのお話もよかったです.
新大久保に移動してアイヌ料理を楽しみました.ラタシケプとチポロイモです.
最後はもんじゃ焼きをいただきました.

<挽歌の宛先 祈りと震災>(2)口寄せもう頼めない
 黒い衣や茶色のけさは折り畳んだまま。シカの角やタカの爪が付いた数珠は箱に収まっている。オガミサマのあるじを失った祭壇は寂しげだ。
 ここで祈念していたのは気仙沼市唐桑町の小野寺さつきさん。死者の霊を自身に呼び降ろすとされる「口寄せ」のみこだった。昨年6月、老衰のため88歳で亡くなった。
 口寄せするみこは青森のイタコだけではない。宮城、岩手のオガミサマ。山形のオナカマ。福島のミコサマ。呼び方は違えど東北各地にいた。
 さつきさんは気仙沼地域で最後のオガミサマだった。
 若いころ視力が下がり、当時そうした女性のなりわいの一つだったみこを目指す。オガミサマゆかりの一関市の大乗寺で修行を積み、地元に戻った。口寄せだけでなく漁や家内の安全も祈った。
 東日本大震災で肉親を失った人々は、さつきさんに口寄せを頼んできた。
 市内の主婦小野寺千栄さん(41)は震災から半年ほどして、母の西城きぬこさん(67)とさつきさんを訪ねた。津波で行方不明になった兄の信一さん=当時(40)=を呼んでもらうためだ。
 さつきさんは信一さんの言葉だとして、こう語った。
 「波ガ迫リ、車カラ飛ビ出シテ逃ゲタガ間ニ合ワナカッタ。先ニ逝ッテ悪カッタ」
 千栄さんはきぬこさんと共に涙を流した。「兄の声を聞けて良かった。以前より心が落ち着いた」と振り返る。
 震災後にさつきさんが口寄せをした際、怒りだしたことがあった。「今はあんたの番でねえがら」
 娘の小原美穂子さん(54)は「震災直後、母は『多くの霊が集まって、頼まれた霊を降ろせない』と漏らしていた」と思い起こす。
 依頼された霊をその日のうちに呼べず、翌日に持ち越すことが多くなった。別の霊が降りたため、「やり直すからろうそくを換えて」と美穂子さんに頼むこともあった。
 目が不自由なこともあり、さつきさんは津波がもたらした壊滅的な被害を初めのうち知らなかった。霊が集中するほどの口寄せを通じ、ただならぬ事態であることを実感していたという。
 海と生きる漁村は信心が厚い。見えない世界と交信し安心をもたらすオガミサマは、医者にも寺にも言えない悩みの打ち明け先だった。
 地域の心のよろず屋とも言える彼女の死を、住民は嘆く。千栄さんは「また兄の声が聞きたくなっても、もう頼る人がいない」と残念がる。
 さつきさんの死後、祭壇はそのままにしてある。世話になった人々が今も線香を上げに訪れる。


震災で亡くなった女の子の絵本
東日本大震災で亡くなった当時6歳の女の子を描いた絵本が完成し、白石市の小学校で朗読会が開かれました。
絵本に描かれているのは、石巻市で幼稚園の送迎バスに乗っている時に津波に巻き込まれた、佐藤愛梨ちゃん(当時6歳)です。
NHKの番組で愛梨ちゃんのことを知った前橋市の絵本作家、関口恵子さんが募金を呼び掛けて絵本の制作を進めてきました。完成した絵本の初めての朗読会が白石市の斎川小学校で開かれ、児童や保護者などおよそ70人が参加しました。絵本には、愛梨ちゃんがバスの中で歌をうたって怖がる友だちを励まし続けたというエピソードなどが描かれていて、参加した人たちは、愛梨ちゃんの姿に思いをはせながらじっと耳を傾けていました。この小学校では、児童が絵本の募金活動を行ってきたということで、最後に、6年生の福山七海さんが「まわりの人や自分の命を大切に生きていきたい」と感想を述べました。
愛梨ちゃんの母親の佐藤美香さんは、「いろいろな方の募金で完成した本なので本当にありがたく思っています。愛梨という子が生きていたことを知ってもらえたらと思います」と話していました。
絵本の売り上げは、被災地の震災遺児の支援にあてられることになっています。
【この絵本は・・・】
絵本の題名は、「あなたをママと呼びたくて・・・天から舞い降りた命」で、宮城県や群馬県などの一部の書店に置かれているほか、インターネットを通じても購入できます。愛梨ちゃんの絵本が作られることになったいきさつや制作の過程はNHKの「こころフォト」のホームページで見ることができます。アドレスは、「http://www.nhk.or.jp/kokorophoto/」です。


被災地の若い女性の支援考える
震災後の環境や家族関係の変化によって悩みや生きづらさを抱えている若い女性たちへの支援について考える講座が14日石巻市で開かれました。
この講座は被災した人たちの相談に乗っている団体が開いたもので、石巻市の会場には相談に応じる担当者や地元の若者などが集まりました。

この中で若い女性の支援を行っている東京のNPOで代表を務めている橘ジュンさんが、復興関連の仕事で来た男性と交際して妊娠したものの結婚の約束をほごにされたという仙台市の女性のケースや原発事故で一家が離散し、仙台市内でアルバイトを掛け持ちしながら生活しているという福島県南相馬市の女性のケースなどを紹介しながら震災による環境や家族関係の変化によって若い女性たちがさまざまな悩みや生きづらさを抱えていると話しました。
そのうえで橘さんは「彼女たちの多くが『自分よりも大変な人たちがいる』などと我慢しているが、相談できる場があることを知らせることが必要だ」と指摘したうえで、寄り添いながら時間をかけて支援していくことの重要性を訴えました。
講座を主催した団体は子どもやお年寄りに比べて見過ごされがちな被災地の若い女性への支援を強化していきたいとしています。

新宿でベトナム料理/フランスの女男平等/和歌山カレー事件

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≪ Que serait la francophonie si personne ne parlait français ? ≫
de François Mitterrand
Extrait de Le Monde selon Mitterrand, Michèle Cotta, février 2015

Le vrai moyen de gagner beaucoup est de ne vouloir jamais trop gagner et de savoir perdre à propos.
François Fénelon
The real way to win a lot is to never want to win too much and to know when to lose.

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国際女性デー シンポジウム
フランスの女男平等VS 日本の男女平等
2014 年フランス女男平等法を読み解く

【趣旨】
日仏両国の男女平等法制、男女平等推進体制を比較・検証を通して、男女平等を現実化するための条件は何か、法にどう実効性をもたせるか、男女平等政策を社会にどう浸透させるのかを考えます。
第1部 : 日仏の男女平等法制と推進体制
第2部 : 討論「 男女平等社会へ向けて」
【司会】
長谷川イザベル(上智大学名誉教授)
石田久仁子(日仏女性研究学会)
【登壇者】
糠塚康江(東北大学)
井上たか子(獨協大学名誉教授)
松島雪江(日本大学)
神尾真知子(日本大学)
武川恵子(内閣府男女共同参画局長)
小沼イザベル(フランス国立東洋言語文化大学)
【閉会の辞】
佐藤浩子(川村学園女子大学)
【主催】 日仏女性研究学会
【共催】 (公財)日仏会館、日仏会館フランス事務所
【後援】 ジェンダー法学会、お茶の水女子大ジェンダー研究センター


昨晩マツダのドキュメンタリードラマ「ヒロシマ 復興を支えた市民たち『走れ、三輪トラック』」をNHKでやっていましたが,途中で寝てしまったようです.朝起きたらテレビがついたままでした.それに疲れが取れないままです.
小田急で新宿に出て,ベトナム料理です.混んでいるようなのでどうかな???と思っていましたが,待たずに座れました.うるち米焼酎は強くてヘロヘロになります.春巻きは昨日のタイの春巻きと似ています.
恵比寿に向かいます.日仏会館「フランスの女男平等VS 日本の男女平等 2014 年フランス女男平等法を読み解く」.でも途中で出なければなりません.駅でクッキーを買いました.文京区本郷に移動です.
彼女のことが嫌いでも、彼女の無実は知ってください
林眞須美さんは犯人なのか?
和歌山カレー事件
噂の深層
東京報告集会

鈴木邦男と佐藤優の話がよかったです.京大の河合潤氏にも頑張ってほしいと思います.神田香織率いる香織倶楽部の朗読劇もとてもよかった.
今日からホテル移動です.昨日まで本厚木でしたが今日から南千住です.駅前で仙台味噌もつ煮込みを食べましたが,よくわかりませんでした.
ハイネの詩集を読んでみたいと思いました.

みなし仮設の生活 笑顔で振り返り
 東日本大震災のみなし仮設住宅として利用されている仙台市青葉区の「川内国家公務員住宅」の自治組織「川内清流の会」が14日、解散する。年内にも住民の大半が災害公営住宅に移り住み、運営が難しくなると判断した。
 近くを流れる広瀬川にちなんで命名した会は2012年3月設立。県内各地や福島県から移り住んだ会員が茶話会や花壇作り、カラオケ大会などを企画して交流を深めてきた。
 入居世帯は当初の約120から約80に減り、年内にはさらに半数以上が災害公営住宅などに移り住む見通し。高齢者が多いこともあり1日の役員会で活動終了を決めた。
 14日の解散式ではかつての住民やボランティアらを交え、思い出を語り合う。小瀬良けさ子会長(64)は「さみしいけれど新たな一歩を踏み出すための通過点。笑顔で集まり、絆の強さを再確認したい」と話す。


野蒜水門復旧着々と・東松島
 国土交通省北上川下流河川事務所は13日、東松島市野蒜地区で進める東日本大震災に伴う野蒜水門復旧工事の状況を報道関係者に公開した。新たな水門を設け、防災機能を高める。
 野蒜水門は河口から約600メートル上流で鳴瀬川と東名運河を結ぶ。震災で大きな被害はなかったが、周辺の堤防を海抜7.2メートルにかさ上げするため同じ高さの水門整備が必要となった。
 新たな水門は現在地から東名運河側に約30メートルの地点に設置する。水門と開閉ゲートの高さはいずれも現在の水門より約1.4メートル高い7.2メートルに設定した。
 災害対策として基礎部分は、セメント製の柱の中に鋼管を入れて強化したくいを打ち込んでいる。一帯は国の特別名勝「松島」保護区域のため、景観に配慮し野蒜築港時代をイメージしたれんが張りを採用する。
 堤防を含めた鳴瀬川河口付近の復旧工事は総事業費約147億円。水門は2015年度内の完成を目指す。河川事務所の斉藤正道工務2課長は「水門の整備で運河沿いに住む人たちの安心につなげたい」と話した。


石巻の被災漁船 沖縄に漂着
東日本大震災の津波で宮城県石巻市から流された漁船が、4年余りたって、2000キロ余り離れた沖縄県宮古島市の池間島に漂着しているのが見つかりました。
13日午前10時すぎ、宮古島市の池間島で、「島の北側にある海岸に船が1隻漂着している」と宮古島海上保安署に連絡がありました。
海上保安署が船体番号をもとに船が所属していた宮城県石巻市の漁協に確認したところ、漂着していたのは石巻市に住む60代の男性の漁船で、4年前の東日本大震災の津波で流されたことがわかったということです。
漁船は長さがおよそ6メートルで、大きな破損はないものの、船の底には海草がついた跡などが見られ、震災から4年もの間、漂流していたとみられています。
池間島の地元の人は「この4年間、どこを漂流してきたのでしょうか。
震災の傷の深さを改めて感じます」と話していました。
宮古島市では、今後、漁船の所有者の男性と連絡を取って、対応を決めたいとしています。
沖縄県では、ことし1月には多良間村で、去年5月にも糸満市で、いずれも宮城県から津波で流されてきた漁船が見つかっています。


東日本大震災:福島第1原発事故 中間貯蔵搬入 「心の整理できぬ」 住民置き去り
 福島県大熊町の中間貯蔵施設建設予定地に13日、復興を阻んできた汚染土が初めて搬入された。初日に搬入されたのはフレコンバッグと呼ばれる袋に入れられた、わずか12立方メートル分。東京ドーム18杯分ともいわれる汚染土などをいつ運び終えるかの「工程表」は示されておらず、最長30年としている保管期間が守られる保証もない。多くの課題を抱えたままの船出となった。【喜浦遊、横田香奈】

 大熊、双葉両町は苦渋の決断で受け入れを容認したが、地権者らは搬入初日を複雑な心境で迎えた。

 「国は地権者との用地交渉が難航していると言うが、我が家は具体的な折衝が一度もない。この段階で搬入を始めるのは納得できない」。大熊町の建設予定地内に自宅がある女性(66)は語気を強める。

 自宅は原発の3キロ圏内。女性は県が施設の受け入れを決める前から、「どこかが引き受けないと福島の復興につながらない」と建設に理解を示していた。ただし、国に土地を売却するとしたら、自宅周辺はどう利用され、立ち入りは可能なのか。また、自宅に残る「金に代えられない大事な物」をどう運び出し、除染してくれるのか。確認したいことは山ほどあるのに、具体的な説明はないという。「地権者の疑問は解決されないのに物事が強制的に進んでいるように思える」と話した。

 双葉町から福島県いわき市に避難している小野寺典子さん(63)は自宅が建設予定地から外れたが、「古里に汚染土が集まっていくのはつらく悲しい」と話す。国は30年以内に県外で最終処分すると法律に明記したが、実現するか疑わしいと感じている。原発事故から4年。「傷ついていく町の変化を受け止めないといけないと思いながら、心の整理はできていない」と話した。

 一方、全町避難中でこの春にも帰町判断をしようとしている楢葉町の担当者は「運ばれたという事実が大きい」と話す。町内には24の仮置き場に汚染土計約57万立方メートルが積まれている。最初の1年間で搬出できるのは、町全体のわずか0・2%の計1000立方メートルだが、「町民の安心につながる。受け入れを決断した大熊、双葉両町に感謝したい」と語る。

 川内村から避難し、郡山市の仮設住宅で暮らす吉田悦子さん(76)は、避難指示解除準備区域にある自宅前が汚染土の仮置き場になっている。「古里を失う大熊、双葉の人たちのことを思うと複雑な気分だ。国は『とりあえず搬入を始めました』という見せかけで終わらず、県内の全ての汚染土を施設に安全に運んでほしい」と注文した。
 ◇用地交渉や輸送、課題山積

 「福島の除染や復興にとって重要な一歩だ」。13日の閣議後記者会見で、望月義夫環境相は強調した。汚染土の搬入先がないことが除染の妨げになっていると批判されてきたが、同省は搬入開始を機に福島県内の除染が加速するとみている。

 しかし、課題は山積している。同省は今月上旬に大熊町の地権者と初めて用地の売買契約を結んだが、2300人を超す地権者との交渉は長期化が必至だ。土地や家屋の補償価格算定に時間がかかる上、既に地権者が死亡し、権利関係が不明な土地も少なくない。

 汚染土輸送も前例のない規模になる。この日輸送が始まった大熊町南平地区の仮置き場からは、4月中旬までに1000立方メートルを運び出す予定だが、渋滞が懸念される国道6号を極力避けるルートが選ばれた。施設整備が進むにつれ搬入量は増え、ルートも多くなる。日本原子力学会の藤田玲子会長も「膨大な汚染土を一般道を使って運び込むのは至難の業。仮置き場での減容処理も必要ではないか」と指摘する。

 加えて、法律で明記した30年以内の県外での最終処分については、全くめどが立っていない。望月環境相は「今日搬入が始まったところ。今後道筋をつけたい」と述べるにとどめた。【阿部周一】


<東北大前総長研究不正疑惑>元教員「理事らの不起訴不当」
 井上明久東北大前総長の研究不正疑惑に絡み、東北大元教員の男性(75)は13日、虚偽有印公文書作成・同行使の疑いで刑事告発した東北大理事ら11人を仙台地検が不起訴としたのは不当だとして、仙台検察審査会に審査を申し立てた。
 元教員は、金属ガラスに関する井上氏の複数の論文で同じデータや写真が使い回されているなどとして東北大に告発。理事ら11人で構成する大学の対応委員会は報告書で「不正はなかった」と結論付けた。
 元教員は、不正を隠蔽(いんぺい)するために委員が共謀して報告書に虚偽の記載をしたとして、2012年7月に刑事告発したが、仙台地検は13年12月、不起訴とした。

銀座1462days→市ヶ谷でタイ料理→シリア難民のお話

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Japon: Vers le démantèlement de 5 vieux réacteurs en plus des 6 de Fukushima Daiichi
Le démantèlement de cinq réacteurs jugés trop vieux devrait être décidé la semaine prochaine, nombre qui s'ajouterait à la démolition déjà certaine des six de la centrale accidentée Fukushima-Daiichi, selon la presse japonaise.
Quatre compagnies régionales d'électricité de l'archipel devraient décider le 18 mars de ne pas demander de dérogation pour proroger la durée d'exploitation de cinq tranches âgées de 39 à 44 ans, a indiqué vendredi le quotidien économique Nikkei généralement bien informé.
Avec une dérogation, les réacteurs peuvent en théorie fonctionner jusqu'à 60 ans
Sont concernées les unités de l'ouest Tsuruga, qu'exploite le producteur Japan Atomic Power Company, Hihama 1 et 2 que gère Kansai Electric Power, Shimane 1 de Chubu Electric Power (ouest) et Genkai 1 de Kyushu Electric Power. Trois autres qui ont un âge voisin, Takahama 1 et 2 et Hihama 3, pourraient à l'inverse bénéficier d'un prolongement d'activité. C'est en tout cas apparemment le souhait de Kansai Electric qui pourrait déposer une demande en ce sens sous peu auprès de l'autorité de régulation nucléaire.
Depuis le drame de Fukushima provoqué par un tsunami en mars 2011, les réacteurs nucléaires au Japon ne doivent pas fonctionner plus de quatre décennies. Mais, moyennant des contrôles poussés et modifications techniques, ils peuvent en théorie obtenir une dérogation pour 20 ans supplémentaires.
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報告会「ベイルート国際マラソンとシリア難民支援」
日時:3月13日(金) 午後7時から9時
場所:JICA地球ひろば 2階 国際会議場
    東京都新宿区市谷本村町10-5
定員:100名、 参加費:無料(事前申し込みは不要です) 
 パレスチナ子どものキャンペーンでは、長年レバノンでパレスチナ難民の支援活動を行っていますが、2013年からはシリア難民の支援活動もあわせて開始しました。レバノンにはシリア難民が110万人以上流入し、レバノンの人口の4人に1人は難民になっています。
 特に、シリアに長年住んでいたパレスチナ難民5万人〜10万人が再難民としてレバノンには逃れて来ていて、以前からあったパレスチナ難民キャンプは人口が倍増し、ますます厳しい生活になっています。こうした人たちの4割は母子家庭で、7割で生活物資に事欠き、場所によっては一日一食の家庭が半数を占めています。また、9割の家族にPTSDのメンバーがいます。
 当会ベイルート事務所の南詠子の一時帰国にあわせて、現状と支援活動について報告をします。また、昨年秋のベイルートマラソンに参加した子どもたちの番組を制作したNHK報道局・政経国際番組部国際番組担当の新里ディレクターをゲストスピーカーにお招きします。
主催・連絡先:特定非営利活動法人パレスチナ子どものキャンペーン
mail:info★ccp-ngo.jp(★を@に変更)、tel:03-3953-1393


朝またSaさんと会いました.午後からの特別講演のためのチケットをもらいに行っていたそうです.午前中はポスター関連で熊本の人と高知の人と仕事.よくわからないけど疲れました.
まずはホテルに戻って洗濯をしました.
それから銀座に向かいます.「河北新報 東日本大震災 特別企画展 1462days〜アートするジャーナリズム」を見るためです.アートはよくわからないけど,当時の新聞を見ていろいろ思い出しました.
夕方市ヶ谷に向かいタイ料理をいただきました.辛いです.タイのビールはシンハービール(Singha-beer)です.
その後シリア難民関連の講演会に参加しました.疲れました.

災害公営住宅で50代男性が孤独死・石巻
 東日本大震災の被災者が入る石巻市の災害公営住宅で2月、1人暮らしの無職男性(52)が死亡しているのが見つかったことが12日、分かった。発見時は死後2週間ほど経過していたという。市内の災害公営住宅で初めての孤独死とみられる。
 市によると、災害公営住宅の入居者から2月4日に「男性宅の郵便物がたまっている。最近顔も見ていない」と連絡があった。石巻署員の立ち会いで市職員が室内に入ったところ男性が倒れており、死亡が確認された。住宅は1LDKタイプで男性は2013年5月に入居した。市が親族から聞き取った話では、男性は心臓に疾患があり、昨年10月ごろに病気を理由に会社を退職。暮れには入院が必要になっていたという。
 市は被災地で最多の災害公営住宅4000戸を計画し、さらに500戸を追加する方針。市住宅管理課は「入居前の説明会といった機会に持病などの把握に努め、福祉部門や関係機関と連携して健康管理に対応していきたい」と話した。


石巻と神戸の大学生 追悼集会
石巻市で東日本大震災と阪神・淡路大震災の被災地の大学生たちが、およそ600本の竹の灯ろうに明かりをともして犠牲者を追悼するとともに、震災を語り継いでいこうと誓い合いました。
石巻市の石巻専修大学で開かれた集会には、地元の学生と神戸市などの大学の学生およそ40人が参加しました。
会場には、石巻と神戸の市民が互いの被災地を励ますメッセージを書いた、人の形をした小さなプレートおよそ5000枚を使った壁飾りが展示されました。
また床には、ことし1月に阪神・淡路大震災の追悼集会で使われた竹の灯ろうおよそ600個が、「希望」という文字や、2つの震災の日付の数字を形づくるように並べられて、LEDの電球で点灯されました。
学生たちは、灯ろうの明かりを見つめながら犠牲者を追悼するとともに、震災を語り継いでいこうと誓い合っていました。
石巻専修大学の2年生、吉久幸希さんは、「発生から4年がたって、震災の風化が進んでいると言われていますが、これからも震災の記憶と向き合っていきたいです」と話していました。


災害公営住宅 高齢化
震災で住まいを失った人が暮らす災害公営住宅の整備が進められる中、宮城県内でこれまでに完成した災害公営住宅の入居者のうち、3人に1人が65歳以上の高齢者となっていることがわかりました。
NHKが災害公営住宅の整備を進めている県内の市や町に電話で取材したところ、今月初めの時点ですでに完成した災害公営住宅は、19の市や町のあわせて2762戸で、計画全体の17.8パーセントとなっています。
すでに入居している人は2355世帯、5106人で、このうち65歳以上の高齢者は、1798人で、35.2パーセントを占め、3人に1人が高齢者となっていることがわかりました。
また65歳の高齢者で1人暮らしをしている人は486人で、9.5パーセントとなっています。
災害公営住宅で1人暮らしをしている人の中には、同じ住宅内で親しい人ができないため、「孤立」を感じている人もいます。
宮城県内の災害公営住宅への入居はことし本格化し、今後、1人暮らしの住民を、地域などでどう見守り支えていくかが課題となっています。


三陸見本市「おかえり」 4年ぶり気仙沼開催
 気仙沼市の物産の販路拡大を図る第20回「三陸気仙沼の求評見本市」(物産展実行委員会主催)が、地元の気仙沼ホテル観洋であった。東日本大震災後は東京を会場にしてきたが、4年ぶりに気仙沼市での開催となった。
 サンマやカツオ、フカヒレなどの水産加工品、ご当地グルメの気仙沼ホルモンなど370点が並んだ。サメ肉で作ったシャークナゲットを売り込んだ中華高橋水産の畠山清業務課長は「初めて食べた人にも『臭みがなく鶏肉のようだ』と評価された」と手応えを話した。
 仙台市のスーパーの購買担当者は「見本市に初めて参加したが、新商品開発の熱意がある。復興支援の意味も込め、多くの食材を取引したい」と語った。
 市内の36企業・団体がそれぞれブースを設け、主力商品や新製品を首都圏などから訪れた約700人の仕入れ担当者に売り込んだ。昨年より企業・団体は12業者、仕入れ側は300人増え、震災前の水準に戻った。

厚木で新潟のお酒/ホテルは一泊無駄

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Japon: Le pays jette de la viande de baleine bourrée de pesticides
Le ministère de la santé du Japon a annoncé, ce mercredi, avoir dû jeter de la viande de baleine importée de Norvège (1), après la découverte d'un taux de pesticides deux fois supérieur au niveau autorisé.
Confirmant les informations des organisations écologistes, parmi lesquelles l'Agence d'investigation environnementale et l'ONG Animal Welfare Institute (AWI), le gouvernement nippon a expliqué que les tests conduits sur la viande scandinave ont révélé à deux reprises, l'an passé, la présence de 0,2 ppm (partie par million) d'aldrine et de dieldrine combinés, ainsi que de 0,07 ppm de chlordane, alors que le Japon autorise des niveaux respectifs maximum de 0,1 ppm et 0,05 ppm. Interdites ou strictement réglementées dans les pays industrialisés, ces substances chimiques, qui persistent longtemps dans l'environnement et s'accumulent dans les tissus adipeux, sont jugées extrêmement dangereuses pour la santé.
≪De notre point de vue, manger de la viande de baleine ne présente aucun danger≫
Si le Japon n'a pas décidé de suspendre ou même de réduire les importations norvégiennes, en hausse ces dernières années, le ministère de la Santé a ordonné de se débarrasser de toute la viande analysée au cours de ces deux opérations de prélèvement.
De son côté, l'Autorité norvégienne de sécurité alimentaire a assuré que ses propres examens ne montraient ≪que de faibles taux≫ de pesticides. ≪De notre point de vue, manger de la viande de baleine ne présente aucun danger≫, affirme ainsi Grethe Bynes, en charge des exportations et importations au sein de la structure.

(1) La Norvège est, avec l'Islande, le seul pays au monde à autoriser la chasse à la baleine. Malgré une consommation de moins en moins importante, le Japon pratique aussi la chasse mais officiellement à des fins scientifiques, même si une grande partie de la chair finit ensuite sur les étals des marchés.

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フランス語の勉強?

厚木に来ました.朝Saさんと会っていろいろお話をしました.夕方まで頑張って仕事をしました.夜は適当にお店をさがしてみたら新潟のお酒が飲めるお店でした.
しかしホテルの予約を間違っていて一泊分損してしまいました.次回から注意します.

こころフォトスペシャル「5回目の春 返らぬ日々を胸に」
大震災から5回目の春。残された家族から、震災で亡くなった方や行方不明の方へメッセージが寄せられた。番組では遺族たちの4年間の軌跡と今を生きる心の葛藤に迫る。
番組内容
一昨年からはじまった「こころフォト」。これまでに300枚を超える写真と家族からのメッセージがNHKに寄せられた。震災後に生まれ成長する娘と生後8か月で行方不明になったままの息子…喜びと悲しみを抱えて生きる母親。福島県富岡町から郡山、千葉、山梨と避難生活を転々とするなか、心の支えとなっていた母親を亡くした20歳の女性。遺族たちの思いに迫る。
鈴木京香 大沢たかお


里親7割が「戸惑い」
東日本大震災で親を失った子どもを育てている宮城県と岩手県の里親を対象に、アンケート調査を行ったところ、「子どもの言動に戸惑うことがある」と答えた里親が全体のおよそ7割にのぼりました。
里親の65%が60歳以上で、年齢の離れた子どもとのコミュニケーションの難しさが浮き彫りになりました。
震災の発生から4年が経過するのを前にNHKは里親制度に詳しい日本女子大学の和泉広恵准教授とともに、宮城県と岩手県の里親、63世帯を対象にアンケート調査を行い、半数近い31世帯から回答を得ました。
このなかで震災で一緒に暮らしていた親をすべて失った子どもを育てている里親にいまの心境を複数回答でたずねたところ、▼「子どもの言動に戸惑うことがある」という回答が全体の68%にのぼったほか、▼「震災を思い出して苦しい」と答えたのが58%、▼「身体の調子が悪い」が55%となりました。
回答した里親の65%は60歳以上で、和泉准教授は「里親は子どもを育てる責任を果たそうとする一方で、年齢の離れた子どもとのコミュニケーションが難しく、負担を抱えている。周囲の人たちがふだんから里親の悩みを聞くなどサポートする態勢が必要だ」と話しています。


冥福祈り復興誓う 気仙沼市と南三陸町で追悼式 東日本大震災から4年

 東日本大震災の発生から4年を迎えた11日、あの日と同じく雪がちらつく中、気仙沼市と南三陸町でそれぞれ追悼式が営まれた。
 遺族など両市町合わせて2100人が参列。大津波で犠牲となった家族や友人、知人らの在りし日をしのび、冥福を祈るとともに、一日も早い復興へまい進していくことを誓った。
 市の追悼式は総合体育館「ケー・ウエーブ」で行われた。政府主催の式典が中継で放映され、大地震が発生した午後2時46分に合わせて黙とうをささげた。献花は午後7時まで受け付けたほか、唐桑、本吉、大島には献花場が設けられた。


災害公営住宅で孤独死
石巻市内の災害公営住宅で先月、独り暮らしの50代の男性が誰にも看取られず亡くなっているのが見つかりました。
宮城県内の災害公営住宅では初めての「孤独死」とみられています。
先月4日、石巻市の災害公営住宅に独りで暮らしていた阿部嘉夫さん(52歳)が自宅の寝室で、亡くなっているのが見つかりました。
市内に住む阿部さんの父親によりますと死因は、急性心疾患の疑いで、死後、およそ半月が過ぎていたと見られています。
阿部さんは震災で、当時暮らしていた会社の寮が全壊と判定され、2年前に災害公営住宅に入居しました。

溶接工として働いていましたが会社によりますと、去年10月、病気を理由に退職したということです。
また付近の住民によりますと災害公営住宅で、近所づきあいは多くなかったということです。
NHKが災害公営住宅の入居が始まった市や町に取材したところ災害公営住宅で誰にも看取られずに亡くなるいわゆる「孤独死」が明らかになったのは、今回が初めてです。
被災者の生活支援に詳しい仙台白百合女子大学の大坂純教授は、「今は災害公営住宅での新たな支援が本格的に動いていない時期で、孤立するリスクの高い人が見落とされがちになっている。今回のケースを検証しないと今後、孤独死を減らすことはできない」と話しています。


牡鹿の仮設商店街にクジラ絵
捕鯨のまちとして知られる石巻市の鮎川浜地区で、震災の発生から4年を迎えた11日、仮設住宅で暮らす人たちが作った特大のクジラの絵が仮設商店街に飾られました。
クジラの絵が飾られたのは石巻市の鮎川浜地区で飲食店など13店舗が営業している仮設商店街、「おしかのれん街」です。
クジラの絵は被災地で支援活動を続けている神戸市の荒井勣さんのデザインをもとに仮設住宅で暮らす人たちが2日間で完成させました。
縦3メートル、横7メートルのネットに防水加工を施した布製の短冊をホチキスで留めて描いたもので、11日は、商店街の入り口にクジラの絵を取り付けました。
クジラの絵をデザインした荒井さんは「震災から4年になりますが、被災した人たちが少しずつでも前を向けるよう後押ししていきたい」と話していました。


<震災4年>名取 神戸から支援の灯籠ともる
 名取市閖上の被災者が暮らす愛島東部仮設住宅で11日、阪神大震災から20年の節目を迎えた神戸市から贈られた約300本の竹灯籠をともす追悼行事が行われた。
 神戸市の市民団体「神戸・市民交流会」のメンバーやボランティアら約40人が竹灯籠を届けた。閖上の犠牲者の名前やメッセージが墨で書かれており、「ユリアゲ 3.11 絆」の文字の形に並べられた。
 神戸市中央区の東遊園地のガス灯「1.17希望の灯(あか)り」から分灯した火が入れられ、参加者は二つの震災の犠牲者をともに悼んだ。遠藤一雄自治会長(68)は「神戸からの支援は本当にありがたい。亡くなった人も感謝していると思う」と語った。
 ひょうごボランタリープラザの高橋守雄災害支援アドバイザー(66)は「神戸も多くの人に支えられた。これからも支援を続けて恩返ししたい」と話した。


<震災4年>仮設自治会解散 いつか同窓会を
 仙台市太白区のあすと長町仮設住宅の自治会が11日、解散した。入居者の半数以上が近く退去し、運営が難しくなった。移る人も残る人も、見ず知らず同士が支え合った日々をかみしめ、別れを惜しんだ。
 「孤独死を出さずに自治会を閉められることが一番うれしい」。仮設住宅の集会所で開かれた総会で、自治会長の飯塚正広さん(53)が声を詰まらせた。
 市内最大規模のあすと仮設住宅は全233戸。岩手県から福島県まで広範囲の被災者が集まった。高齢化率は6割強。隣人が誰かも分からない。当初は「バラバラで殺伐とした」(飯塚さん)雰囲気だった。
 自治会が設立されたのは震災1年後だった。クラブ活動、祭り、花植えなど多彩なイベントを企画。救急車が来るたびに役員が夜中でも跳び起きて、確認に走った。「このコミュニティーを崩したくない」。そんな声も上がるようになった。
 現在残っているのは160戸。ことし4月に周辺の災害公営住宅などに100戸が移る見通しとなり、役員選出の難しさから住民投票で解散を決めた。
 退去する人もとどまる人も複雑な思いを抱く。
 近くの公営住宅に転居する無職女性(41)は「新居でもこれまでのようにうまくいくのか」と不安げな表情を見せた。引き続き仮設住宅で暮らす無職男性(86)も「自治会はあった方がいいが、高齢でやれる人がいるか…」とつぶやいた。
 飯塚さん自身も4月の退去が決まっている。「残っている人がいる中で去るのはつらいが、いつか同窓会を開きたい」と力を込めた。


<震災4年>旧閖上中 校舎前で最後の集い
 名取市の旧閖上中校舎前では、閖上中遺族会による追悼の集いが開かれ、白いハト型などの風船360個が空を舞った。
 津波で犠牲になった閖上中の生徒14人の名前を刻んだ慰霊碑前で行われた。参加者は午後2時46分に黙とうをささげた後、犠牲者へのメッセージを書き込んだ風船を一斉に飛ばした。
 旧閖上中校舎は復興事業に伴って解体されるため、校舎前で追悼の集いを開くのはことしが最後になる見通し。遺族会は慰霊碑を日和山周辺に移すことを計画している。
 遺族会代表の丹野祐子さん(46)は「校舎はなくなっても、あの日の記憶は決して消えないように活動していく」と話した。


<震災4年>大切な人への手紙 入賞作品朗読
 東日本大震災の犠牲者を悼み、復興を誓う「3.11大震災メモリアルイベント 未来へ伝えたい」(県、河北新報社など主催)が11日、仙台市青葉区の東京エレクトロンホール宮城であった。
 河北新報の募集企画「3.11大震災 あの人へ伝えたい手紙」の入賞6作品を発表。福島市の詩人和合亮一さんとフリーアナウンサー渡辺祥子さんが聴衆約1400人に向けて朗読した。
 一般部門の最優秀賞は、仙台市太白区の大川ゆかりさん(46)が震災で亡くなった次男駿君=当時(14)=へ宛てた手紙。「お母さんが笑ったら駿も喜んでくれると信じ、津波なんかに負けられない」としたためた。小中学生部門の最優秀賞には塩釜一小6年高野海月(みづき)さん(12)の手紙が選ばれた。
 一力雅彦河北新報社社長は「このイベントを明日への一歩を踏み出すきっかけにしてほしい」とあいさつ。仙台市在住のRake(レイク)さんと気仙沼市出身の畠山美由紀さんのコンサートもあった。


<震災4年>尼崎脱線被害者 心の傷共有
 東日本大震災の被害を伝えるテレビの映像と、かつて自分が遭遇した事故の光景が重なった。「生き残った人たちが心を痛めている」。力になりたいと4年前、被災地を目指した兵庫県宝塚市出身の渡辺淑子さん(29)は11日、石巻市で心を通わせる被災者と過ごした。
 同志社大2年だった2005年4月。通学で乗っていたJR福知山線の電車が兵庫県尼崎市で脱線し、マンションに激突した。乗客106人と運転士が死亡。渡辺さんは軽傷で済んだが事故の恐怖や犠牲者への罪悪感にさいなまれ、心療内科にも通った。
 震災時は大阪市の会計事務所に勤めていた。ボランティアに参加するため仕事を辞め、石巻市を初めて訪れたのは11年夏だった。いったんは別の災害支援に向かったが、12年9月に舞い戻る。そこで、子ども3人を震災で失った木工作家の遠藤伸一さん(46)と妻綾子さん(46)に出会った。
 事故の経験を打ち明けると、自分たちのこと以上に心配してくれた。「亡くなった人の分まで生きなきゃいけない」。伸一さんの姿勢に心を打たれ、目を背けていた過去と向き合えるようになった。
 13年4月、初めて事故の追悼式に参列した。会場で綾子さんからメールが届いた。「どこにいても、誰といても、悲しいのは知っているよ。心はそばにいるから」。自分の居場所は石巻だと思えた。
 現在はまちづくりなどに取り組む一般社団法人で働く。11日は遠藤さん夫妻が自宅跡地に設置したコンテナハウスであった集まりに顔を出した。住民やボランティアら約50人と一緒に午後2時46分を迎えた。
 昨年11月には2人と新潟県に旅行した。「子どもたちが親孝行をしてくれたようだ」と、遠藤さん夫妻が喜ぶ様子がうれしかった。「いつか石巻を離れることになっても、つらい時はそばにいてあげたい」。その思いは胸にしまっている。


<震災4年>光の柱に希望重ねる・気仙沼湾
 気仙沼市の気仙沼湾で11日、東日本大震災の犠牲者を追悼し、未来への希望を込めた3本の光の柱が雪の舞う夜空に立ち上がった。
 「3月11日からのヒカリ」と題したイベントで、市内の若手経営者らが企画した。午後6時半、防災無線から流れる「見上げてごらん夜の星を」を合図に、3地点からサーチライトが照射された。
 同市南町の仮設商店街でコロッケ店を営む坂本京子さん(55)は「来年は商店街の仲間たちと本格再建に移行するので、もうひと踏ん張りしたい」と復興への願いを光に託した。


<震災4年>ベガルタ 東北を盛り上げたい
 東日本大震災から4年を迎えた11日、被災地の宮城県を拠点とするプロ野球の東北楽天、サッカーJ1の仙台の選手たちは練習試合会場や、津波被害を受けた場所で祈りをささげ、スポーツの力でできる復興支援の誓いを新たにした。

 J1仙台は「復興のシンボル」への誓いを新たにした。
 見渡す限り更地が広がる仙台市若林区荒浜地区。海岸近くの慰霊塔に全選手28人らが足を運び、花を手向けた。午後2時46分。静かに目を閉じて1分間、犠牲者を思いやった。
 11日はリーグ戦の2日前で、通常は午後に練習がある。「地域に存在するクラブの意義を考えれば、(震災が起きた)この時間に練習することはありえない」(渡辺晋監督)と、午前にずらして被災地を訪れた。
 住宅の基礎、枯れた草木…。指揮官はチームとは少し離れたところに立ち、荒浜の風景を目に焼き付けていた。1月20日に訪問した名取市閖上地区と同じように「まだまだ変わっていない」と心を痛めた。
 変わったこともある。今季は選手12人が加わり、当時を知るのはMF富田晋伍、MF梁勇基ら5人に減った。「仙台でプレーする意味を、あらためて共有して東北を盛り上げたい」と主将の富田は気を引き締めた。
 渡辺監督は最後に被災者に向けてこう呼び掛けた。「われわれは復興のシンボルとしての使命がある。その決意と覚悟を持った選手、スタッフが集まった。戦う姿を見て、少しでも勇気を持ってほしい」(吉江圭介)


<震災4年>楽天・嶋「当時思い出しプレー」
 東北楽天の嶋基宏主将が東日本大震災から丸4年の11日、被災地、被災者への思いを寄せたコメントを発表した。全文は次の通り。

 東日本大震災から4年がたち、当時の出来事が風化しつつある現状に強い危機感を抱いています。
 震災直後からわれわれ選手も、被災地の方々に「勇気や希望」を届けられるように全力でプレーをしてきました。きょうという日を迎え、当時の気持ちを思い出し、今まで以上に熱いプレーで「勇気や希望」を届けることを誓います。
 また、チームは一昨年の日本一から最下位になり、被災地の方々の期待に応えることができませんでした。われわれが優勝すれば東北が注目されます。そのことが東日本大震災を風化させないことにつながると信じています。
 被災地の方々へ
 私たちは東日本大震災のことを決して忘れておりません。皆さまと共に戦っています。シーズン終了後に、良い報告ができるように全力でプレーしていきます。


<震災4年>東北楽天 勝利届けるのが使命
 東日本大震災から4年を迎えた11日、被災地の宮城県を拠点とするプロ野球の東北楽天、サッカーJ1の仙台の選手たちは練習試合会場や、津波被害を受けた場所で祈りをささげ、スポーツの力でできる復興支援の誓いを新たにした。

 「亡くなった方々が、どうしても生きたかったきょうだったり、あすだったりしたはずだ。何となく打席に立たない、何となく投げない。全力でプレーするしかない」
 東北楽天の大久保博元監督は兵庫県姫路市の姫路球場であった西武との練習試合前、選手に訴えかけた。「特別な日」という東日本大震災から丸4年の節目に、被災地に根差したチームとして、あらためて自覚と奮起を促した。
 両チームの選手たちが喪章を腕に着けて臨んだ練習試合。先発した6年目の戸村健次投手は被災者に思いをはせ、「全力でやる姿を見てもらう。一生懸命に投げる」と奮い立ち、6回無失点と力投した。
 八回裏終了後に巡ってきた震災発生時刻の午後2時46分。試合を一時中断し、両チームの選手、監督、コーチらがベンチ前で被災地の方角を向いて整列、1分間の黙とうをささげた。
 副主将を務めるベテランの松井稼頭央外野手は「この4年は長く感じた。まだ復興していない所もたくさんある。僕らは野球でしか力を与えられない。全力でプレーしていくだけです」と表情を引き締めた。
 練習試合は東北楽天が3−0で西武を下した。「われわれが目指す『バッテリー中心に守り勝つ野球』で勝てた。緊張感があって、公式戦の1勝より大きいと思った」と大久保監督。被災地に寄り添うナインの思いが原動力になった。
 「試合をしている3時間だけでも、嫌なことを忘れてもらうのがわれわれの仕事。ファン、被災者の皆さんと、勝った喜びを分かち合うのが使命」。今季から指揮を執る大久保監督は快進撃を強く誓った。(小沢一成)


<震災4年>東北の企業、経済復興へ貢献誓う
 東日本大震災から4年となった11日、被災地を中心に東北の企業の多くは地震発生時刻の午後2時46分、従業員らが黙とうをささげた。被災企業では震災体験者が転勤で減少したり、節目の集会をやめたりと3.11の影は薄れつつある。教訓を継承しようと、災害への備えや復興への貢献を再確認する企業もあった。

 七十七銀行は、仙台市青葉区の本店で追悼式を開き、行員約450人が参加した。同行では女川支店(宮城県女川町)が津波に遭い、行員ら12人が死亡・行方不明になった。
 氏家照彦頭取は「震災の教訓を風化させてはならない。地域と手を携え、地域の復興、発展に貢献していきたい」と語った。
 宮城第一信用金庫は青葉区の本店で、帰宅困難者の受け入れを想定した訓練を実施。今春入庫する6人を帰宅困難者役とし、職員が受け入れ場所の会議室に誘導。100人分のカレーライスの炊き出しをした。
 矢野弘文理事長は「職員自身が震災を再確認するためにも定期的な訓練は必要だ。住宅再建や取引先の販路拡大を通じて被災地を支援していく」と話した。
 宮城野区のキリンビール仙台工場は、正面入り口に終日半旗を掲げた。午後2時40分に全製造ラインを停止。同46分、約300人の従業員が黙とうした。
 仙台港近くの同工場は津波で最大2.5メートル浸水。貯蔵タンク4本が倒壊するなどしたが、2012年2月には全ての生産機能が復旧した。工場防災管理者の吉田典央エンジニアリング・環境安全担当部長は「震災を体験した管理職はいなくなったが、年2回の防災訓練などを通じ、防災意識を高めていく」と語った。
 青葉区のJR東日本仙台支社では午後2時46分、社員が各部署で黙とうした。
 21日に石巻線、5月30日には仙石線が全線で運転を再開する一方、常磐線、気仙沼線などは全線再開時期のめどが立たない。松木茂仙台支社長は「今後も復興、地域活性化のために貢献を続ける」とコメントした。
 NECトーキンは白石市の本社など全事業所で、午後2時45分から「共助の日セレモニー」を実施。「復旧、復興へ力強く未来を築こう」とメッセージが流れた。同社は「復旧過程で醸成された共助の念を忘れないことが大切。災害への備えや訓練を怠らないようにしたい」と決意を込めた。
 仙台市内の主要ホテルでつくる仙台ホテル総支配人協議会は、若林区のホテルで開いた定例会の冒頭、全員で黙とう。紺野純一会長は「この日開く意義は大きい。地域が元気でないとホテルの仕事は数字に結び付かない」と述べた。


<震災4年>塩釜 共に過ごした日胸に
 塩釜市の追悼式は塩釜ガス体育館であった。犠牲者65人の遺族ら約670人が参列。遺族を代表して菊地レイ子さん(66)が「一瞬にして夫を失ったことは生涯忘れることはできない。共に過ごした日々を思い出に一生懸命生きていきたい」と話した。
 国際的なバイオリニスト天満敦子さんが追悼演奏し「見上げてごらん夜の星を」「ふるさと」などの哀調を帯びた旋律が会場に響き渡った。
 佐藤昭市長は式辞で「遺族の方々が一日も早く平穏に暮らせることを、心から祈る。復興をより推進し、未来を担う子どもたちに誇れる古里を築いていきたい」と述べた。
 追悼式に先立ち、同市海岸通の市震災モニュメント前で遺族や市民による献花があり、海に向かって立つ記念碑に一人一人が白い花を手向けた。


<震災4年>こぼれる涙と今歩む 
 そっと目を閉じる。懐かしい笑顔、懐かしい景色。浮かび上がる思い出は決して色あせることはない。東日本大震災から4年の11日、東北の被災地は慰霊の祈りに包まれた。
 全国の死者、行方不明者は1万8000人を超える。浜辺で、職場で、雑踏の中で。人々は犠牲者一人一人に思いをはせながら、手を合わせた。
 目を開けば津波浸水域には荒涼とした空き地が広がり、原発事故の影響も色濃く残る。失われた日常と平穏は今も戻らない。いとしい人への追悼を地域再生の誓いに変え、被災地は復興への道を歩み続ける。


<震災4年>仙台・中野 数字に託して追悼
 仙台市宮城野区の中野小の校舎跡地で11日、地元4町内会でつくる中野小学校区復興対策委員会と、交流のある同区の福住町内会が、キャンドルを並べる追悼イベントを開いた。
 中野地区の犠牲者数と同じ151個のキャンドルを並べ、「3.11」「なかの」の文字と、1995年の阪神大震災の発生日にちなんで「1.17」の数字を浮かび上がらせた。地区の犠牲者一人一人の名前を記した旗も飾られた。約350人が訪れ、慰霊塔に献花した。
 企画した福住町内会の菅原康雄会長(67)は「二つの大きな震災の犠牲者の鎮魂になればいい」と語った。復興対策委の高橋実委員長(77)は「震災から4年がたってもなお、涙は枯れない」と述べた。


<震災4年>多賀城 万灯会を開き犠牲者供養
 多賀城市の市民団体「NPOゲートシティ多賀城」は、震災犠牲者の霊を慰める「多賀城・万灯会(まんどうえ) 鎮魂の灯(ともしび)」をJR仙石線多賀城駅前で開いた。
 午後6時、市内の犠牲者188人(関連死を除く)と同じ数の灯明皿に火をともした。ろうそくの入った紙コップで「3.11」の文字も描いた。コップ外側には市民が鎮魂や復興に向けたメッセージを書き込んだ。
 古代多賀城では貞観地震(869年)の津波で1000人が亡くなり、供養のために万灯会が行われたとの記録がある。企画したゲートシティ多賀城の宮城順代表は「小さな明かりを見て、震災の記憶を呼び起こしてほしい」と話した。


<震災4年>亘理 犠牲の檀信徒124人鎮魂
 亘理町荒浜地区にある当行寺では、追悼法要があった。亡くなった124人の檀信徒と同じ数のちょうちんが本堂に掲げられ、明かりがともされた。
 高さ約90センチのちょうちんには檀信徒の本名や戒名、3月11日の日付を記した。電池式ろうそくの明かりが本堂をほのかに照らす中、参列者約90人は焼香して静かに目を閉じて親族らの鎮魂を願った。遺族には神戸市の画家が寄せた花の絵が手渡された。
 両親を亡くした岩沼市の会社員大村正樹さん(44)は「病気一つしない元気な両親だった。明かりがともるちょうちんを見ると2人が帰ってきたような気がする」と語った。
 当行寺は津波で本堂などが浸水し、ボランティアなどの協力で修復。ちょうちんは不幸に遭った親族が喪主に贈る地域の風習にならって2011年に作られ、3月11日に合わせて翌年から悼供養などで明かりをともしている。
 岡崎元明住職(58)は「地域に根ざした文化で亡くなった檀信徒を供養したかった。今後も続けていきたい」と話した。


<震災4年>登米・南方 仮設住民誓い新た
 南三陸町の被災者約450人が暮らす登米市南方町のイオン南方店跡地仮設住宅では、被災者でつくる自治会が「3.11追悼の集い」を開いた。
 集会所に祭壇などを設置。「3.11」とかたどった約70本のろうそくを並べ、出席した被災者ら約50人が灯をともした。
 主催した第2自治会会長の佐藤清太郎さん(72)は「われわれは九死に一生を得て、ほとんどのものを失ったが、亡くなった方々の分まで懸命に生きなければならない。全国から多くの支援をいただき、今を生きていることを忘れてはならない」とあいさつした。
 出席者は午後2時46分に黙とう。一人一人が祭壇に花を手向け犠牲者を悼んだ。


<震災4年>気仙沼 ボランティア「この光景忘れぬ」
 小中学生の被災体験ツアーなどに取り組む気仙沼市本吉町の「小泉自然楽校」(阿部寛行校長)は、ボランティアと住民が触れ合う「ありがとう交流会」を開いた。
 県内のほか愛知、兵庫などから高校生や大学生ら約15人が参加し、午後2時46分に小泉海岸で震災犠牲者に黙とうをささげた。自然楽校のドーム型ハウスでは住民約20人と歌や食事で交流を深めた。
 神戸市の須磨学園高を今月卒業した大野向輝さん(18)は、防潮堤が壊れたままの海に花を手向け「阪神大震災の神戸に比べ、4年たっても復興が進んでいないことに驚いた。この光景はずっと忘れない」と話した。
 小泉自然楽校は全国からボランティアを受け入れ、仮設住宅の住民らと定期的に交流している。


<震災4年>大崎 桜の木手入れ復興を彩って
 大崎市古川の化女沼北岸にある「鎮魂の桜花(おか)」では、市民の有志が東日本大震災の翌春に植樹した桜の手入れを行い、東を向いて黙とうをささげた。
 「化女沼2000本桜の会」(佐々木哲朗代表)は2012年4月、地元の小学生を招いて60本のヨウコウザクラを植樹。伊藤康志市長が一帯を「鎮魂の桜花」と命名した。
 高さ2メートルほどだった苗も2倍以上に成長し、添え木に結わえた縄が窮屈になるほど太くなった。桜の会のメンバーは下草を刈り、台風で枯死した桜の代わりに新しい苗を植え、犠牲者の冥福を祈った。
 佐々木代表は「私の友人は生後100日目の娘と妻を残して震災の日の夕刻に急逝した。心臓まひで震災関連死と認定された。桜を守りながら、そうした記憶を後世に伝えたい」と語った。


<震災4年>山元 ともす兵庫つなぐ新潟
 宮城県山元町の住民らが11日、同町の旧JR山下駅前の広場に手作りの竹灯籠800本をともし、犠牲者を追悼した。新潟県中越地震を経験した女性が、阪神大震災で被災した神戸市でともる「1.17希望の灯(あか)り」から分灯された火を提供。三つの被災地が一つの明かりでつながった。
 新潟県小千谷市の災害ボランティア団体「SVTS風組」の新保洋子代表(50)が、阪神大震災から20年を迎えた1月17日に分けられた火を持参。竹灯籠500本のうち最も大きな1本にともした。新保代表は「被災者が互いに寄り添い、発信することで風化を防ぎたい」と語った。
 「灯り」は同町の普門寺にともし続ける。行事を主催する住民グループ「震災復興土曜日の会」の菊地正己会長(63)は「次の災害が起こらないようにとの願いを込め、火を守り継いでいきたい」と話した。


<震災4年>山元 この町で再起誓う
 山元町の追悼式は山下中体育館で開かれた。遺族ら約850人が参列し、歌をささげて犠牲となった町民636人の冥福を祈った。
 式辞で斎藤俊夫町長は「犠牲となった一人一人の無念に報いるためにも、震災の教訓を風化させずに未来へ前進しないといけない。町全体が心を一つにして古里の復興と再生、発展に取り組んでいく」と述べた。
 町内のアマチュアバンド「山元町の歌を作り隊」は、悲しみを乗り越えるオリジナルソング「この町で」を献唱。傷ついた故郷で再起する決意と、全国各地からの温かい支援に感謝する思いを込めて高らかに歌い上げた。式の最後に参列者全員で町民歌を合唱し、犠牲者を追悼した。


<震災4年>南三陸 天国に笑顔届けたい
 南三陸町の追悼式は町総合体育館であり、遺族ら約1100人が参列した。町内では800人以上が犠牲となり、遺族を代表して佐沼高1年の熊谷美里さん(16)が「言葉」を述べた。
 熊谷さんは戸倉折立の自宅が津波で流され、同居の祖父貫之進さん=当時(80)=は避難した戸倉中の校庭で亡くなった。
 現在は登米市のみなし仮設に避難している。「大好きな人を失って笑えなくなった。でも、じいちゃんが家族の笑顔の写真を撮るのが好きだったことを思い出し、天国のじいちゃんに心からの笑顔を見てもらおうと思った」と悲しみをこらえて話した。
 佐藤仁町長は「復興の壁にぶつかるたび、犠牲になった皆さんの在りし日の姿を思い浮かべ、無念に報いようと全身全霊で取り組んでいる」と式辞で語り掛けた。


<震災4年>岩沼 家族失い癒えぬ心
 岩沼市主催の追悼式は市民会館であり、約850人が参列した。妻、次女、両親、祖母の5人を亡くした自営業沼田民雄さん(56)が遺族代表で祭壇の前に立った。
 5人は相野釜地区の自宅から避難する途中に津波にのまれた。仕事先にいて一緒にいられなかったことを悔やむ沼田さん。今も地区を訪れるたび「失った家族や友人たちのことを思い、涙してしまう」と癒えぬ悲しみを吐露した。
 「『津波さえ来なければ』という思いは心から消えないが、天国に召された人々は私たちの歩みを見守ってくれている。これからも前を向いて歩んでいく」と決意を述べた。
 菊地啓夫市長は式辞で同市の犠牲者181人を悼み、「犠牲になった方々や岩沼を築いた先人に復興の報告ができるよう、最後まで全力を尽くす」と誓った。


<震災4年>女川 郷土復興必ず遂行
 女川町総合体育館であった追悼式には町内外から約1000人が参列し、人口の1割近い827人に上った犠牲者をしのんだ。
 遺族代表の言葉を述べた水産加工会社社員千葉幸喜さん(20)は祖父母と母、兄、姉の5人を失った。「悔やみ切れない思いは続く。でも、生かされた命だからこそ、亡くなった人の分まで生きて前を向かなくてはいけない」と語った。
 町の復興をアピールする21日の「まちびらき」に触れ「復興にはまだ時間がかかるが、新しい女川が形になろうとしている。これからも新しい町で暮らし、胸を張れる町にしていきたい」と宣言した。
 須田善明町長は式辞で「復興を通じて将来に引き継ぐ町をつくることが犠牲者の無念に応えることになる。必ず郷土の復興を成し遂げる」と誓った。


<震災4年>石巻 節目に新たな生命
 被災地で最多の約4000人が犠牲となった石巻市の追悼式では佐藤富士夫さん(66)が遺族代表で慰霊の言葉をささげ、妻成子さん=当時(58)=と2人の孫を亡くした無念さを語った。式典後、新たな孫が誕生したと知らせが届き、暗い記憶ばかりの「3.11」に光を見つけた。

 震災の津波で同市北上町の自宅近くに住んでいた長男純一さん(37)の息子の帆高君=当時(10)=と娘の杏慈ちゃん=当時(7)=、きょうだいを迎えに行った成子さんが犠牲となった。「3人の遺骨を前に悲嘆に暮れる毎日だった」と振り返った。
 復興に向けて住民の意見を集約する北上地域まちづくり委員会の会長を務めるなど忙しく活動し、気持ちを紛らわせてきたという。「身内を失った私たちにとって震災は消えない傷跡だが、明るい希望を見いだせることが必ずあるはずだ」と語った。
 式典を終えて間もなく、純一さんから「妻が女の子を出産した」と携帯電話で連絡が入った。佐藤さんは「孫の命日にまた孫が生まれ、『こんなことがあるのか』と思った。無事に産まれて良かった」と話した。
 追悼式には市民ら約1000人が参列した。亀山紘市長は「これからも険しい道のりが続くが、誰もが住み続けたいと思える、魅力ある街に復興・発展させることを誓う」と式辞を述べた。


<震災4年>多賀城 助け合って生き続ける
 多賀城市の追悼式は市文化センターで開かれ、遺族や市民約420人が参列した。菊地健次郎市長は「震災の記憶を風化させず、いにしえの先人と私たちの経験と教訓を未来に伝承し、災害に強いまちづくりを実現する」と述べた。
 会場では政府主催の追悼式が中継された。参列者は地元出身の郷古廉さんのバイオリンの曲が流れる中、一人一人祭壇に献花し、静かに祈りをささげた。
 震災で病状が悪化した夫を3カ月後に亡くした(後に災害関連死と認定)滝島智佳さん(81)は「きょうは節目の慰霊に行きますと、夫の霊前に報告してから来た。4年間にいろいろな出来事があったが、今は周囲の助けを受けながら、みんなで励まし合って暮らしている」と話した。


<震災4年>東松島 めいの次男成長が支え
 東松島市の慰霊祭は市民体育館であり、約700人が参列した。犠牲になった1134人の遺族を代表し、親族6人を失った新東名地区の鈴木芙佐子さん(67)が追悼の言葉を述べた。
 鈴木さんは震災後、亡くなっためい=当時(41)=の次男と一緒に暮らす。小学生から中学生となり、自分の身長を超えるまで成長したことを報告。市内では防災集団移転団地の整備が着々と進められ、「新しいまちの完成は心の癒やしになり、犠牲者の願いでもあると思う」と語った。
 阿部秀保市長は「震災で芽生えた『共助』の精神を今後の災害に備えて語り継ぎ、国内外からの支援に応えるために復興を加速することが使命」と述べた。


<震災4年>仙台 被災者の声詩につづる
 仙台市は若林区文化センターで11日、追悼式を行った。参列した約500人の遺族らは、大切な人へ祈りをささげた。
 奥山恵美子市長は「犠牲となった方々への哀悼と鎮魂の思いを込め、震災の教訓を未来へ伝え、災害に強いまちづくりに力を尽くしていく」と式辞を述べた。
 仙台市の詩人武田こうじさんが被災者の声に耳を傾け人々の心情をつづった詩を読み上げると、目元を拭う人の姿も。聖ウルスラ学院英智中・高合唱部の優しい歌声が会場を包んだ。
 夫を亡くした若林区の主婦千葉敬子さん(60)は献花後「4年という月日がたち、あらためて主人の存在の大きさを感じている」と振り返った。
 市が5カ所に設置した献花台では約6700人が花を手向けた。青葉区の勾当台公園市民広場では初めて大型ビジョンで式を中継。多くの市民が見守った。


<震災4年>名取 母と妹の面影追う
 名取市文化会館であった市追悼式には市民ら約1100人が出席し、浜田由治さん(19)が遺族代表の言葉を述べた。
 浜田さんは閖上地区で被災し、母=当時(39)=と妹=同(13)=を同時に亡くした。11日は自身の誕生日と重なる。「祝う気持ちはない。2人との生活を振り返っている」と話す。
 現在は遠野市で祖母サトさん(66)と生活。自動車整備士の資格取得を目指して勉学に励む。「お金をため、2人にいろいろ買ってあげたりしたかった。2人に報告できるようにしっかり頑張る」と誓いを立てた。
 佐々木一十郎市長は「全国、世界から多くの支援がいまだに続くことに心から感謝する」と式辞を述べた。村井嘉浩知事も出席し「最愛の人を失った家族の心痛を思うと悲しみが込み上げる。震災の記憶を後世に伝えていく」と述べた。


<震災4年>気仙沼 兄へ「見つかって」
 気仙沼市総合体育館であった市追悼式には、遺族と市民ら約1200人が参列した。
 漁船を沖出しに行ったまま兄が行方不明となった同市唐桑町の団体役員小野寺学さん(69)は「4年たったが依然として心の整理がついていない。見つかってほしいと祈る毎日が続いている」と心中を吐露した。
 式では、地震発生時刻に合わせ、全員が1分間の黙とうをささげた。菅原茂市長が「大きな悲しみは消えないが、市民全員で寄り添いたい。公営住宅整備など復興を進めたい」と式辞を述べた。
 遺族代表らが献花した後、参列者全員で花を手向けて犠牲者を慰霊した。
 市は、総合体育館のほか離島・大島など3カ所に献花台を設けた。


<震災4年>七ヶ浜 犠牲者悼む歌声高らか
 七ケ浜町の追悼式は七ケ浜国際村ホールで開かれた。同町向洋中3年の鈴木芙憂花さん(15)が「全町民で復興を進めることが大切だと思う。私たちも七ケ浜のためにできることを提案し、実践する」と誓った。
 式典には遺族ら約400人が参列した。犠牲になった町民ら計111人の名前が読み上げられた後、参列者が花を祭壇にささげた。
 町民ミュージカル劇団「NaNa5931」はオリジナル曲の「つくりつづけよう」「ゴーへ(Go ahead)」を合唱した。
 渡辺善夫町長は「町の復興がようやく形となって現れてきた。被災者が一日も早く普通の生活に戻ることが、犠牲者の霊に報いる道と信じる」と式辞を述べた。


<震災4年>亘理 犠牲の檀信徒124人鎮魂
 亘理町荒浜地区にある当行寺では、追悼法要があった。亡くなった124人の檀信徒と同じ数のちょうちんが本堂に掲げられ、明かりがともされた。
 高さ約90センチのちょうちんには檀信徒の本名や戒名、3月11日の日付を記した。電池式ろうそくの明かりが本堂をほのかに照らす中、参列者約90人は焼香して静かに目を閉じて親族らの鎮魂を願った。遺族には神戸市の画家が寄せた花の絵が手渡された。
 両親を亡くした岩沼市の会社員大村正樹さん(44)は「病気一つしない元気な両親だった。明かりがともるちょうちんを見ると2人が帰ってきたような気がする」と語った。
 当行寺は津波で本堂などが浸水し、ボランティアなどの協力で修復。ちょうちんは不幸に遭った親族が喪主に贈る地域の風習にならって2011年に作られ、3月11日に合わせて翌年から悼供養などで明かりをともしている。
 岡崎元明住職(58)は「地域に根ざした文化で亡くなった檀信徒を供養したかった。今後も続けていきたい」と話した。


<政府追悼式>体験を伝え続ける 宮城・菅原彩加さん(19)
 私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。
 小さな集落でしたが、朝、学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん!元気にいってらっしゃい」と声を掛けてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。
 あの日、中学校の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起きました。逃げようとした時には既に遅く、地鳴りのような音とともに津波が一瞬にして私たち家族5人を飲み込みました。
 しばらく津波に流された後、私は運良くがれきの山の上に流れ着きました。その時、足元から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見るとくぎや木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。右足が挟まって抜けず、がれきをよけようと頑張りましたが、私1人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母の事を助けたいけれど、ここにいたら私も流されて死んでしまう。「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。
 そんな体験から今日で4年。
 あっという間で、そしてとても長い4年間でした。家族を思って泣いた日は数え切れないほどあったし、15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。すべてが今もまだ夢のようです。
 しかし私は震災後、たくさんの「諦めない人々の姿」を見てきました。震災で甚大な被害を受けたのにもかかわらず、東北にはたくさんの人々の笑顔があります。「皆でがんばっぺな」と声を掛け合い復興へ向かって頑張る人たちがいます。日本中、世界中から東北復興のために助けの手を差し伸べてくださる人たちがいます。そんなふるさと東北の人々の姿を見ていると「私も震災に負けないで頑張らなきゃ」という気持ちにいつもなることができます。
 震災で失った物はもう戻ってくることはありません。被災した方々の心から震災の悲しみが消えることもないと思います。しかしながらこれから得ていくものは自分の行動や気持ち次第でいくらにでも増やしていけるものだと私は思います。前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、震災で失った物と同じくらいの物を私の人生を通して得ていけるように、しっかりと前を向いて生きていきたいと思います。
 最後に、東日本大震災に伴い被災地にたくさんの支援をしてくださった皆様、本当にどうもありがとうございました。また、お亡くなりになったたくさんの方々にご冥福をお祈りし追悼の言葉とさせていただきます。


前へ・東日本大震災4年:/下 被災地「看板」甘えず勝負
 ●気仙沼名物に

 唐桑、赤岩、内の脇−−。紺色の帆布で作られたバッグに、白く染め抜かれた文字が浮かぶ。宮城県気仙沼市の地名で、東日本大震災の津波で大きな被害が出た場所だ。「地名だけでも残したい」とデザインされた。

 同市のバイパス沿いにある帆布バッグの店「ギャラリー縁」は、地元の縫製職人が1点ずつ手作りするオリジナル商品を扱う。地元住民だけでなく、復興支援や旅行で街を訪れる人が買い求めていく。

 店を切り盛りするのは清水節子さん(53)。震災までは、水産加工会社を経営する夫敏也さん(54)を支える専業主婦だった。今は商品の企画や接客に、忙しく動く。

 大きなトートバッグから名刺入れまで、店頭には数十種類の商品が並ぶ。帆布は地名のほか、市の花ヤマツツジ、特産品のカツオなど、気仙沼や海にまつわるモチーフが染められている。

 清水さん夫婦は以前から、「気仙沼の名物になるものを作りたい」と考えていた。バッグ作りは、震災で一度は白紙に戻った構想だった。

 敏也さんは、避難した山から自分の会社が津波にのまれるのを見た。6カ所の本社と工場は全て被災。イカの塩辛などの製造に向け、原料を備蓄していた時期だった。被害は建物にとどまらず、被災総額は数十億円に上った。従業員など約60人が清水さん宅に避難し、節子さんは全員の食事の支度に追われた。

 敏也さんの会社は、忘年会で全員が「上を向いて歩こう」を歌うのが恒例だった。電気が復旧しない暗闇の中、敏也さんは「もう一度、あの歌を歌いたい」と言った。「大丈夫。私たちは、まだがんばれるよ」と節子さんは応えた。敏也さんが泣いたのを見たのは、その時だけだった。

 震災3カ月後、清水さん夫婦は会社を設立した。社名は「GANBAARE(ガンバーレ)」(www.ganbaare.jp)。柔らかい響きに、再起への思いを込めた。業務用ミシンを調達して工房を設け、自宅前の元居酒屋を改装してギャラリーを開いた。

 ●次世代へアピール

 縫製工場で働いた経験のある人など5人がミシンを走らせる。有名ブランド服の工場で約40年のキャリアを持つ梶原美智子さん(63)は、自宅と実家を津波で失った。実家があった地域は面影もない。通りかかる度に「もう戻れない」という事実に胸が締め付けられるが、帆布に残る地名には少しなぐさめられる。ミシンを踏んでいると「若返る気がする」と笑顔も見せる。

 節子さんはお客から要望や感想を聞くと、すぐに工房に伝える。中身が落ちにくいようにファスナーを付けたり、重い荷物が持てるよう底板を加えたりもした。お客のリクエストから、売れ筋商品ができたこともある。

 今までは空港やホテルなどからの出店依頼に応えるだけだったが「営業もしていきたい」という。自分の子どもたちを含め、地元を離れた若者が戻ってきて力を発揮できるように、ガンバーレの事業を広げる計画もある。次の世代を引き付ける仕事と、未来に続く街になるように、と。

 ●すし職人から転身
「石巻工房」の焼き印が押されたスツールの感触を確かめる千葉隆博さん=宮城県石巻市の石巻工房で、五味香織撮影
「石巻工房」の焼き印が押されたスツールの感触を確かめる千葉隆博さん=宮城県石巻市の石巻工房で、五味香織撮影
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 宮城県石巻市で家具を造る「石巻工房」(ishinomaki−lab.org)の工房長、千葉隆博さん(42)は、水産加工工場だった建物で、無垢(むく)材を使ったベンチやテーブルなどを製造している。

 震災前、千葉さんは実家のすし屋で父と働いていた。希望した仕事ではなく、閉塞(へいそく)感があった。「不謹慎だけれど、何か大きな事があって日常が変わればいいのに、と思っていた」

 想像を超える「大きな事」は起きた。津波は自宅1階の店舗や近くの実家に押し寄せ、逃げようとした時に大けがをした千葉さんの母は、震災翌日に亡くなった。

 父はすし屋の再開を諦めた。千葉さんは米国のすし屋で働く誘いを受け、ビザが下りるのを待った。

 その間に、東京の建築家が近くで工房を始めた。板や畳を自宅玄関のドア代わりにしている人に、材料と工具を用意して修理を手助けする拠点だった。日曜大工が得意だった千葉さんも足を運ぶようになった。イベントのために仲間と作ったベンチが評判を呼び、千葉さんが製造を請け負うことになった。

 最初はアルバイト感覚だった。震災から2年あまりたったころ「商品に傷が付いていた」と苦情を受けてハッとした。「買う人は値段に見合う品質を求めている。いつまでも被災者であることに甘えてはいけないと思った」。梱包(こんぽう)を含めて販売までの過程を見直し、販売用サイトで「被災地」を強調することもやめた。

 商品は塗装せず、ねじも表から見える構造だ。購入した人が自分で補修することを想定している。「使い倒せる家具」として、被災地という「看板」がなくても市場で勝負できる個性を強調する。昨年3月には法人登記し、社員5人を抱える。海外の取引にも乗り出した。

 商品に押す焼き印のロゴマークは「石巻工房」の4文字を正方形の枠が囲む。枠の右上には隙間(すきま)がある。「この街に風穴を開けたい」というメッセージを込めている。

 被災地の企業支援はさまざまだ。施設の復旧や雇用創出に対する公的補助金のほか、新規事業の投資ファンドや人的支援もある。ただ、こうしたサポートを受けても、事業を継続することは簡単ではない。助成金が切れると立ち行かなくなるケースもあるという。清水さんも千葉さんも支援に頼らず、ビジネスとしての自立の道を歩み出している。【五味香織】

東日本大震災犠牲者追悼供養会 4年目です

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Le Japon se souvient des terribles séisme et tsunami du 11 mars 2011
Quatre ans après le tragique 11 mars 2011, policiers et gardes-côtes retournaient encore du sable mercredi matin sur le littoral du nord-est du Japon à la recherche de disparus avant que le pays ne se fige pour une minute de silence en souvenir des 18.500 victimes du tsunami.
Pour la quatrième année de suite, les sirènes ont retenti et le Japon s’est tu à 14H46 locales (05H46 GMT), pour ces morts emportés par un mur d’eau qui a dépassé 30 mètres par endroits le long de la côte Pacifique.
Une poignante cérémonie s’est tenue à Tokyo en présence du couple impérial, du Premier ministre et de représentants de toutes les régions meurtries.
≪Quatre ans se sont écoulés depuis le grand tremblement de terre de l’est. Nous ne pouvons pas oublier les images que nous avons alors vues, vraiment effroyables. Durant ces quatre années, dans ces circonstances pénibles, tout le monde est parvenu à tisser des liens, à unir ses forces, mais les conditions restent difficiles. Il est encore important que se poursuivre l’entraide≫, a déclaré l’empereur Akihito, dont les mots d’empathie avaient profondément touché la population immédiatement après la tragédie.
Sur le littoral du nord-est de l’archipel, survivants et parents de disparus sont venus se recueillir là où leurs proches sont partis. Lâchers de ballons, dentelles de bougies, de nombreuses commémorations auront lieu dans tous les lieux affectés.
≪J’ai perdu ma mère, je viens à peine de m’en remettre≫, a témoigné devant les caméras une habitante d’Iwate.
≪C’est un jour spécial, difficile pour beaucoup de monde≫, a renchéri une Tokyoite après avoir prié en pleine rue dans la capitale, comme beaucoup de passants.
Sur les quelque 18.500 personnes tuées, les corps de près de 2.600 n’ont pas été retrouvés, ce qui a empêché leurs familles de faire sereinement leur deuil.
Plus de 3.000 autres sont mortes ensuite des conséquences de ce drame, à cause d’une dégradation de leurs conditions de vie.
- Difficile reconstruction -
A cette catastrophe naturelle, la pire depuis la guerre, s’est en effet ajouté l’accident nucléaire de Fukushima, qui a chassé des dizaines de milliers d’habitants de leur domicile, dont beaucoup ne le retrouveront peut-être jamais.
En tout, quatre ans plus tard, à cause du tsunami ou de la radioactivité, près de 230.000 personnes vivent toujours loin de leur demeure, dans des logements provisoires, chez des proches ou dans des hôpitaux et centres de soins.
Malgré les plans de reconstruction et la bonne volonté d’institutions, entreprises et bénévoles, les trois préfectures les plus touchées de la région du Tohoku (Miyagi, Iwate et Fukushima) sont loin d’avoir recouvré leur vitalité d’antan.
Economiquement, ces localités souffrent encore. La remise en état des infrastructures et habitations piétine, ralentie par les craintes relatives à la contamination radioactive qui s’ajoutent à la peur d’une nouvelle colère terrestre et des difficultés administratives.
Depuis le tremblement de terre de mars 2011, des milliers de secousses liées se sont produites.
Sur les 30.000 habitations nouvelles que les pouvoirs publics ont prévu de construire pour les plus démunis, à peine la moitié ont été mises en chantier et moins de 6.000 achevées.
La décontamination des zones polluées dans un rayon de plusieurs dizaines de kilomètres, quand elle est faisable, n’avance pas non plus au rythme annoncé, et le retour des habitants là où c’est en théorie possible ne suit pas.
≪Nous allons tout mettre en oeuvre pour reconstruire les régions sinistrées en restant proches de ceux qui ont été directement touchés par la catastrophe, forcés de vivre avec une profonde tristesse≫, a déclaré mardi le Premier ministre Shinzo Abe lors d’une conférence de presse.
≪Une nouvelle phase s’engage≫, a-t-il ajouté mercredi lors de la cérémonie à Tokyo.
Il a promis un nouveau plan pour accélérer la reconstruction et pour que la région de Fukushima tout particulièrement recouvre un espoir d’avenir.
Et de réitérer l’engagement du pays dans le chantier incommensurable de démantèlement de la centrale Fukushima Daiichi. Quatre ans sont passés, il en faudra au moins quarante.
AFP
フランス語
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桃始笑ももはじめてさく,です.でもそれよりも東日本大震災から4年ということが私にとっては大事です.朝仙台駅に着くのが雪のため20分くらい遅れました.そこから岩切に向かい,すぐお寺に向かいました.去年まではテントがあったのですが,今年はなく小規模になっているようです.それでも150人くらいは来ていたかもしれません.母が亡くなって4年ですが,だいぶ気持ちも落ち着いてきたと思います.
松島で牡蠣やホタテをいただきました.美味しいです.父の7回忌の時に会食で行ったホテルに足を運んでみました.でも全然覚えていませんでした.
大宰府で買ってきたくじ付きのおせんべいを食べました.大吉でした.みんなも大吉.スゴイ.

<震災4年>向き合う一日 遺族ら鎮魂の祈り
 東日本大震災は11日で発生から4年となった。再び巡ってきた「3・11」。被災地にはあの日と同じように雪が舞った。宮城県内では、遺族らが早朝から慰霊塔や墓前で手を合わせ、犠牲者に鎮魂の祈りをささげた。

 津波で甚大な被害を受けた仙台市宮城野区蒲生では、小雪がちらつく中、遺族や友人らが中野小跡地の慰霊塔を訪れた。
 祖母の片桐なみ子さん=当時(84)=を亡くした健史さん(30)=若林区=は「あの日を忘れることは一生ない。亡くなった人の分も頑張って生きたい」と話した。
 仙台市を含む宮城県沿岸部の13市町は11日午後、各地で追悼式や慰霊祭を実施。地震発生の午後2時46分に合わせ、黙とうした。
 警察庁によると、震災の死者(10日現在)は宮城の9539人を含め全国1万5891人。行方不明者は2584人に上っている。


<震災4年>白菊手向け あの日思う・宮城県庁
 宮城県庁には11日、午前9時から献花台と記帳所が設置された。献花台が設けられた2階講堂には多くの県民や県庁職員らが足を運び、白菊を1輪ずつ手向けて犠牲者の冥福を祈った。
 献花をした仙台市太白区の主婦小泉理恵さん(42)は「震災の記憶を忘れないようにするため来た。震災後、災害時の家族との連絡手段の確認や備蓄など、防災に対する意識が高まった」と話した。
 1階ロビーでは、震災の記録をまとめた映像が放映され、県民らが4年前のあの日に思いをはせた。
 県は大崎、大河原の両合同庁舎にも献花台と記帳所を設置した。3月11日は県条例で、犠牲者を悼み、復興を祈念する「みやぎ鎮魂の日」に定められている。


<震災4年>沿岸10ヵ所で不明者捜索・宮城県警
 宮城県警は11日、震災による行方不明者の手掛かりを求め、県内の沿岸10カ所で集中捜索を行った。
 997人が死亡、28人が行方不明となった仙台市では、仙台南署、東署が若林区と宮城野区にまたがる深沼海岸など約4キロを合同で捜索。冷たい海風が吹きすさぶ中、30人がとび口でがれきを掘り起こすなどして、遺骨や遺品を捜した。
 東署の菅野正己警備課長は「手掛かりが見つかる可能性は減っているが、一人でも多くの犠牲者を家族の元に戻せるよう、これからも月命日の捜索を続けたい」と話した。
 県警によると、宮城県内では10日現在、1249人が行方不明のままとなっている。


<震災4年>悲しみ 刻む 教訓
 家族や友人、掛け替えのない人を突然失ったあの日。悲しみ、悔しさ、再会を願う気持ちは消えない。亡き人をしのび、手を合わせる。東日本大震災の発生から4年となった11日、宮城県内では追悼の光景が広がった。

◎園児がお経 犠牲者慰霊/宮城・七ケ浜

 宮城県七ケ浜町の同性寺では11日午前、震災追悼供養が行われた。敷地にある和光幼稚園の園児約40人も参加し、犠牲者の霊を慰めた。
 園児らは毎週練習しているお経を唱えた後、1人ずつ焼香した。震災で家族を亡くした3人の園児は花束やろうそく、お香を壇上にささげた。
 遺族や檀家(だんか)ら約40人も出席した。園児が児童曲「また、きみにあいたい」を合唱すると、涙ぐむ遺族もいた。
 園長を兼ねる渡辺俊道住職(58)は、「園児の中には震災後に生まれた子どももいる。次世代に津波の教訓を引き継いで、震災の風化を防ぎたい」と話した。


<震災4年>季節は巡り、またあの日…
 あの日から、4年の月日が流れた。巨大地震と津波、東京電力福島第1原発事故の三重苦。東日本大震災の被災地は今なお、災禍の真っただ中にある。
 それでも、季節は巡る。復興の期待を背負い、鉄路がよみがえった春があった。海辺に海水浴を楽しむ子どもらが戻り、笑顔がはじけた夏があった。全町避難の町に、帰郷の願いを託したヒマワリが咲き誇った秋を経て、冬にはまた一つ、解体か保存かに揺れた震災遺構が姿を消した。
 この1年、被災地は何が変わり、何が変わらなかったのか―。レンズが捉えた四季の移ろいに、東日本大震災の今を見る。


私の決意:東日本大震災4年 震災前の街、胸に 東北大4年、熊谷春花さん
 ◇熊谷春花さん(22)=仙台市青葉区

 震災には岩手県陸前高田市の自宅で遭いました。内陸の高台で、家も家族も無事でしたが、下の道まで波が押し寄せるのを見て「街は大変なことになっている」と思ったのを覚えています。中学の同級生7人が亡くなり、先輩や後輩も多数犠牲になりました。すてきな人たちでした。

 以来4年間、「なぜ生き残ったのが私だったのか」というやるせない気持ちと、「自分にできることをやるしかない」という前向きな考えの間を行ったり来たりです。気持ちは少し落ち着きましたが、どれだけ考えても答えは出ません。ただ、「卒業後は地元の役に立ちたい」と強く思うようになりました。生きたくても、生きられなかった人がいることも念頭にあります。

 卒論では、過去も含めて津波経験が陸前高田でどう継承されているかをまとめました。「震災前の街を忘れちゃいけない、そのために残しておきたい」と思ったからです。

 4月から陸前高田市役所で働きます。いつも前向きでいられるわけではありませんが、「人の話を聞くことを大切にしながら、この先も続く陸前高田の街づくりに携われたらいいな」と思っています。【聞き手・春増翔太】


私の決意:東日本大震災4年 唐桑で地域作り 立教大4年、根岸えまさん
 ◇根岸えまさん(23)=東京都文京区

 東京の企業にも内定をもらいましたが、卒業したら宮城県気仙沼市の唐桑(からくわ)町に移住します。唐桑は養殖が盛んなリアス式海岸の町です。地元の方に驚かれたし、私自身も悩みましたが、ボランティアで通ううち、彼らと同じ生活をしながら地域作りに関わりたいと思うようになりました。

 初めて訪れたのは2011年10月。漁具を全て流された浜で、漁業の復活に懸命に取り組む人たちの姿に心が動かされました。復興を近くで見届けたくなり、月1、2回通って地元情報誌作りや漁の手伝いなどをしました。海に少しずつ養殖用いかだが増えていくのを見て、涙が出ました。

 この春、唐桑支援のため設立される社団法人に就職します。子供の学習支援や、訪れる人に漁師体験などでここでの暮らしの魅力を知ってもらう仕事です。同じように大学卒業後、仕事を見つけて移住する女性2人と、古い民家をシェアします。

 被災で人が離れ、「あと10年で誰もいなくなるね」と大好きな農家のおばあさんたちがつぶやいたのが忘れられません。彼女らが元気なうちに、「唐桑に生まれてよかった」と思える町に復興させたいです。【聞き手・金森崇之】


東日本大震災4年:復興予算の地方負担 「自立」に被災地困惑
 安倍晋三首相は東日本大震災4年を前にした10日、2016〜20年度の5年間の復興支援の枠組みを夏までに策定するよう関係省庁に指示した。財源捻出に悩む政府内では「被災地の自立」を求める声が上がり、国費で全額負担してきた事業の一部負担を被災地に求めることも視野に入れる。だが自治体は「必要な事業が切られかねない」と警戒。15年度に終了する集中復興期間後の復興を巡る政府と自治体の協議は難航が避けられない状況だ。

 ◇背景に財源不足

 「地方負担の在り方も含めて被災地の声に耳を傾けつつ検討する。被災地の自立を応援し、できる限り支援する」。首相は10日の記者会見でこう語り、16年度以降の事業費の一部自治体負担に含みを残した。震災から10年の復興期間のうち、集中復興期間は15年度で終了。8月の16年度概算要求までには、その後5年の枠組みを示す必要があり、竹下亘復興相は同日の会見で「早ければ6月にもまとめる」と説明した。

 竹下氏は今月初旬の報道各社のインタビューで、16年度以降の復興事業費を自治体に一部負担させる案を表明。6日には「復興の目的は(住民に)一人一人、自立していただくことだ。全額国費はモラルハザードの原因だ」と踏み込んだ。

 政府・与党内では、かねて国費負担の限界が指摘されていた。15年度までの復興予算は総額26・3兆円で、政府が想定した25兆円を超過。16年度以降の財源捻出は難航するとみられる。首相は4日、竹下氏に「財源がなかなかないな」とこぼし、竹下氏は「財務省とぎりぎりの交渉をします」と応じるにとどめた。

 政府・与党内では、13年に福島の「全員帰還」を事実上断念し、移住支援を盛り込んだ「福島復興加速化指針」が記憶に新しい。自民党の大島理森・震災復興加速化本部長が中心にまとめた与党提言を、政府が丸のみ。与党が政府に代わって泥をかぶった。与党は今年5月にも第5次提言をまとめ、政府を側面支援する構えだ。

 だが自治体負担に対しては、国費の維持・充実を求める被災3県の小規模自治体などから強い反発が予想される。このため竹下氏は周辺に「私も悪役になる。大島さんからこぼれたものを拾う」と話す一方、「首相を悪役にはできない」と悩みを口にした。与党には、4月の統一地方選に影響が出るとの懸念もある。

 復興庁は過去の事業を検証し、今後国費で負担すべき事業を線引きする作業を開始。▽高台移転や復興住宅・堤防の建設などの基幹事業▽原発事故収束の事業▽風評被害対策−−などは国費負担を念頭に置くが、他の事業で過度の支出は被災地の「補助金漬け」を招きかねない、との指摘も根強い。政府は事業削減や自治体負担も検討する「選択と集中」により、復興を効率化したい考えだが、16年度以降も約8・1兆円分を要望している被災3県との綱引きは一層激化しそうだ。【松本晃】

 ◇応援職員、国費頼み

 被災地の自治体は「何が国費から削られるのか」と疑心暗鬼にかられている。懸念する「負担増」の一つが、全国から派遣されている応援職員の給与だ。東日本大震災では特例として震災復興特別交付税で国が全額負担している。しかし、地方自治法は職員を受け入れる自治体が負担するのを原則にしている。被災自治体の幹部は「多くの自治体から集中復興期間以降の派遣打ち切りを言外ににおわされている」と明かす。

 総務省によると、被災自治体には昨年10月時点で職員計2255人が派遣されている。災害公営住宅(復興住宅)の建設など復興本体の事業が本格化する中、各自治体は技術系を中心に職員のマンパワー不足は今後も続くとみている。

 町の37%が浸水し、被災した集落を内陸に移して集約する「コンパクトシティー」構想を進めている宮城県山元町。町職員183人に対して、全国60自治体や民間からの応援職員が113人(9日現在)に上る。町総務課の担当者は「応援職員に引き揚げられると、行政サービスの低下は避けられない」と話す。

 震災復興特別交付税は昨年9月までに被災自治体に総額2・4兆円交付されたが、集中復興期間後の枠組みは決まっていない。仙台弁護士会災害復興支援特別委員会の宇都彰浩弁護士は「被災自治体の多くは震災後に税収が落ち込んでおり、特別交付税が廃止になれば応援職員の人件費を負担できるところはほとんどないだろう」と指摘する。

 国の復興予算を巡っては福島第1原発事故による農産物の風評被害払拭(ふっしょく)や観光振興などにも使われてきた。費用対効果を数字で表しにくい、これらソフト面の支援打ち切りを警戒する声も上がる。

 岩手県山田町のシイタケ農家、芳賀栄三さん(69)の場合、原発事故で基準を超える放射性物質が検出され、出荷制限がかかった。露地栽培の生産を再開したのは昨年10月。ハウス栽培も含めて生産量は震災前の6割にとどまる。県は11〜13年度、復興予算を使って3億2700万円を風評被害対策に投入。14年度は販路拡大に8000万円をつぎ込んだ。芳賀さんは「まだ出荷制限中の生産者がいる。皆を励ますために打ち切らないでほしい」と話した。

 福島県財政課の担当者は「国から受け取っている復興交付金などは、数%削られただけで自治体負担は億単位になる。影響が大きい」と話した。【伊藤直孝、安藤いく子、岡田英】


東日本大震災4年:涙をふいて歩こう 娘思い、供養の旅 岩手・宮古の夫妻
 家族を、マイホームを、ふるさとを奪った東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から4年がたつ。癒やしようがない傷を心に抱えながらも、被災地の人々は顔を上げて生きていく。

 ◇勧めてくれた北陸へ

 娘が生前に勧めてくれた北陸への旅を、北陸新幹線が14日に開業する機会に実現させよう。今も行方が分からないままの娘の供養になると信じて−−。

 東日本大震災の津波で、岩手県宮古市崎鍬ケ崎(さきくわがさき)の大工、山下啓一さん(62)と妻真知子さん(62)は、看護師の長女留美子さん(当時34歳)と、啓一さんの母チタさん(同81歳)を失った。

 消防分団長を務めていた啓一さんはあの日、自宅を飛び出して集落の水門3基を閉鎖し、高台から海の様子を見守った。その時、背後にある自宅の方から「津波だ」と留美子さんの叫び声が聞こえた。仙台市から来ていた友人をJR宮古駅へ送るため、車で出掛けているはずだった。「空耳だ」と思った。

 津波は高さ15メートルの崖を駆け上がり、自宅を押し流した。その後、近所の人から「車が帰ってきて、娘さん2人が乗っていたよ」と知らされた。列車が止まり、引き返してきたらしい。ぼうぜんとなった。

 留美子さんも、友人も、自宅にいた足が不自由なチタさんも、行方不明になった。

 3カ月後、約200キロ離れた宮城県の松島湾で、留美子さんのリュックサックが見つかった。浜辺に漂着したという。市から連絡があった時は信じられない思いだった。

 リュックは、旅好きな留美子さんに長男(34)がプレゼントしたものだった。夫婦は「留美子が帰ってきた」と泣いた。釣りが趣味の娘がいつか船を持ちたいと取得した小型船舶操縦免許証やネックレス、手帳などが入っていた。「人を喜ばせるのが好きだったから、形見に残してくれた」。夫婦は一つずつ砂をはらい、泥をぬぐった。

 啓一さんは「家族を守れなくて何が消防団員だ」と自分を責めた。長男は「父さんは役目を果たした」と慰めたが、2011年12月に退団した。13年夏に別の高台に自宅を再建し、ほっとしたのもつかの間、啓一さんは昨年8月、軽い脳梗塞(こうそく)で倒れ、12月には心筋梗塞も患った。

 目立った後遺症はなく、今は留美子さんが震災1カ月前に買ってくれた軽トラックで住宅再建工事の現場に通う。夫婦とも、少しは今後の人生を思い描く時間を取り戻している。

 震災の前、夫婦で旅の本を見ながら「北陸に行ったことがないので、行ってみたい」と話していると、留美子さんから「お金を出すから、行ってきたら」と勧められたことがあった。北陸新幹線が開業したら、留美子さんの思い出を抱きながら金沢市の兼六園などを巡る予定だ。「2人で旅をすれば供養にもなるかな」と真知子さん。啓一さんが続けた。「前を向いて生きなくては」【鬼山親芳】


東日本大震災4年 復興に関わり続けよう
 東日本大震災の発生からきょうで4年を迎えた。約23万人がなお避難生活を送り、そのうち8万1730人はプレハブ仮設住宅での暮らしが続く。家族らが犠牲となり、住居を失った多くの人たちにとって、時計の針は止まったままだ。

 集団移転や復興住宅の建設は時間との闘いが続く。住まいの整備を急ぐとともに、被災した人たちの生活を安定させ、暮らしを再建することがこれからは一層、大切な段階に入る。力を合わせ、岐路に立つ復興を支えたい。

 ◇生活再建の正念場に

 JR石巻駅からバスで1時間の沿岸にある宮城県石巻市桃浦(もものうら)地区。早春の午後、作業場でパートの主婦たちが手際よくカキの殻むきを進めていた。一見、他の漁村と変わらぬ光景だが、漁師が漁協に漁場使用料を払ってカキを取り、漁協に販売を委託する通常のシステムと大きく異なる。15人の地元漁師は震災後に設立した合同会社(代表社員・大山勝幸さん)の社員となり「サラリーマン漁師」として給与で収入を得ている。

 震災で桃浦地区はカキ養殖施設を失った。沿岸はがれきで埋もれ、漁師の大山さんらは漁業をあきらめかけた。だが、普通なら漁協が独占する漁業権を企業が取得して生産から販売まで行える復興特区制度ができると聞き、思い切って手を挙げた。

 漁業権取得への県漁協の反発を受けながら五里霧中の船出だったが、品質を評価した流通業界の反応は早かった。水揚げは今シーズンから本格化しており、大手外食チェーンと提携するなど販路を拡大している。「震災前からカキ養殖業は値崩れで疲弊していた。漁協を通さず流通できるから桃浦ブランドで勝負できる」と大山さんは手ごたえを語る。

 地域主導の取り組みはむろん、産業分野に限らない。高台や内陸部などに被災者が集団移転するいくつかの自治体では移住する人たちが行政と連携し、まちづくりを計画段階から何度も話し合い、合意形成を進めてきた。さまざまな試みが芽生え、育ち始めている。

 一方で、生活再建の土台となる住居建設が全体的に遅れている厳しい現実がある。高台などに集団移転するための住宅や、賃貸の復興住宅の完成率は来春時点でそれぞれ48%、65%にとどまる。用地買収が難航したり、資材や人件費の高騰で入札が難しくなったりしているためだ。

 中心市街地が津波で壊滅した岩手県陸前高田市や大槌町などいくつかの自治体の住まい再建はこれから本格化する。高台移転の予定が被災地全体で当初より7000戸も減ったのは、事業が長期化し、住宅再建をあきらめた人が多い実態を物語る。

 総額25兆円の財源を確保した国の5年間の集中復興期間は来春終了する。政府は国による費用の全額負担を見直し、住宅や堤防建設など本体と位置づける事業以外での地元負担を検討している。

 だが、25兆円のうち9兆円近くは事業の遅れなどから使われていない。しかも、少なからぬ財源は被災地以外で流用されていた。被災自治体が集中期間の延長を強く求めるのは、住宅や公共施設の整備以外にもまちづくりに必須な支援事業があり、新たな需要への対応を迫られる可能性もあるためだ。公共事業重視の復興予算のあり方を点検すると同時に、地元負担に慎重に対応することを政府に求めたい。

 ◇重み増す「共助」の役割

 復興で生活再建の比重が増すと、行政だけで対応しきれない課題もこれからは増えてくる。

 毎日新聞の調査では復興住宅に入居する住民の高齢化率は36%にのぼる。今後さらに進む高齢化に対応するため見守りの徹底や地域共同体の維持など、孤立化の防止が欠かせない。きめ細かく住民の相談に応じるなど、民間やNPOとも連携した「共助」が重みを増してくるだろう。

 安定した雇用の確保が生活安定のカギを握る。公共事業を中心とする復興需要はあと数年で必ず終わりが訪れる。付け焼き刃でない持続可能な地域づくりが問われている。

 第1次産業の再興、急速な高齢化と人口減少、地域共同体の維持など被災地が向き合う問題は決して特殊なものではない。むしろ、日本の社会全体が直面する課題の縮図だ。被災地で苦闘する人たちの姿は、明日の私たちの姿でもある。

 東京電力福島第1原発事故に伴い12万人がなお避難する福島の苦悩は、大都市圏の電力供給を地方に立地した原発が担ういびつな構図から生み出された。だとすれば、生活を再建していく責任を国民全体が分かち合わねばなるまい。

 桃浦の会社では最近、希望を感じさせる出来事があった。千葉県など首都圏に住む若者2人が事業に関心を持ち、入社したのだ。震災前には考えられなかった都会からの人材の参入である。

 復興の道は長く険しい。それでもかつて多くの人がボランティアとして現地で復旧作業に参加したように国民一人一人が被災地に関心を持ち続け、できる限りの協力を惜しまないことが自立への大きな力となるはずだ。4回目の「3・11」にあたり、その思いを共有したい。


大震災4年:2時46分、黙とう…各地で追悼行事
 東日本大震災から4年となる11日、各地で追悼行事があった。発生時刻の午後2時46分に合わせ、黙とうがささげられた。死者は1万5891人、行方不明者は2584人。津波で家を失ったり、原発事故で郷土を離れたりした約23万人がいまも避難生活を送り、関連死も3194人に上る。被災者は、犠牲者への鎮魂の祈りとともに、傷ついた古里の復興を誓った。

 東京都千代田区の国立劇場であった政府主催の追悼式には、岩手、宮城、福島の3県の遺族代表や、天皇、皇后両陛下、安倍晋三首相ら三権の長を含め約1200人が参列し、午後2時46分から1分間、黙とうをささげた。祭壇には、被災地で育てられたスイセンやユリが飾られた。

 安倍首相は犠牲者に改めて哀悼の意を示し、「被災地に足を運ぶ度、復興のつち音が大きくなっていると実感する」と強調。多数の避難者がいる現状を踏まえ「被災した方々に寄り添いながら復興を加速する」と決意を語った。天皇陛下は「亡くなった人々とその遺族に対し、深く哀悼の意を表します」と述べられた。

 遺族も心境や決意を語った。岩手県の内舘伯夫(みちお)さん(38)は「ふとした時に、父との温かい思い出に優しく包まれ、その少し後に、悔しさで胸が苦しくなる」と明かした。宮城県の菅原彩加(さやか)さん(19)は「前向きに頑張って生きていくことこそが亡くなった家族への恩返しだと思い、しっかり前を向いて生きていきたい」と誓った。家族3人を亡くした福島県の鈴木幸江(ゆきえ)さん(32)は「放射能の問題など課題が山積しているが、みんなで力を合わせて努力していく」と述べた。

 一方、被災地でも追悼式典があった。岩手県は同県野田村で、同村との合同追悼式を開き、達増(たっそ)拓也知事は「津波の惨禍を決して忘れることのないよう、経験と教訓を未来に語り継ぐ」と誓った。福島市であった福島県の式典では、県立福島高1年の北村華帆(かほ)さん(16)が「悲しいことがたくさんあった。その数だけたくさんの人に励まされた」と感謝の気持ちを込めて作った詩が朗読された。

 また、宮城県名取市の式典で村井嘉浩知事は「生活再建を果たせるよう取り組みを加速しなければならない」と述べた。【狩野智彦、松本晃、安藤いく子、岡田英、金森崇之】


東日本大震災4年 原発のまちに未来図を
 あの日から四年。福島の傷はまだ癒やされない。だからこそ、原発に依存しない地域の未来図を、描き始めてもいいころだ。私たちも、原発のある町も。
 四年前のきょう、元福井県美浜町議の松下照幸さん(66)は、東日本大震災の映像を見て「福島原発が大変なことになるぞ」と直感したという。
 原発銀座と呼ばれる福井県若狭地方で、反原発を唱え続ける少数派。「原発は地震に弱いと常々思っていたが、想像を絶する事故が起きた」と振り返る。
◆ふるさとはどうなるの
 「地震にやられたら、おしまいや」という近所の声を、松下さんもしばしば聞いている。
 「いつかあること」。原発のある町で暮らす人なら、そんな不安にとらわれることがあるはずだ。予感は現実になったのだ。
 福島原発の被災者は、放射能でふるさとさえも失った。あまりに過酷な現実の渦中にある。再び原発と共存できるとは思うまい。 
 他の原発立地地域にも、もはや原発の安全神話を信じる人はいないだろう。
 だが、原発がなくなれば、仕事は、暮らしはどうなるの。
 過疎化する町は、老後は、どうなってしまうのか。
 「原発がある不安」と「原発がなくなる不安」のはざまで、住民は今も揺れ続けている。
 松下さんは、かつては原発推進派に身を置いた。しかし、一九八六年のチェルノブイリ原発事故を境に、考えを改めた。
 そして三年前の九月、欧州視察の成果を踏まえ、美浜町長に宛てた脱原発の提言書をしたためた。その中で次のように書いている。
 <都市部の多くの人たちは、『危険な原発は止めればよい』という思いなのでしょうが、私にはそうはいきません。原子力発電所で働いている人たちの生活があります。自治体の財政問題もあります。それらを解決しようとせずにただ『止めればよい』と言うのであれば、私は都市部の人たちに反旗を翻さざるを得ません>
 立地地域の暮らしの不安を解消できないうちは、大手を振って脱原発とは言い難い。
 電力事業者は、原発再稼働の勢いに乗り、老朽化した小型原発を廃炉にし、大型に建て替える計画を進めている。
 ところが、3・11以降、世界的にも原発の安全基準が厳格化され、建て替えの費用もかさむ。原発大国フランスさえ、新設に二の足を踏むような状況だ。
◆キーワードは地消地産
 少なくとも先進国では、原発は割に合わないという認識が進んでいる。四十年という原子炉の法定寿命が守られる限り、近い将来、国内の原発はゼロになる。
 原発に代わる産業、雇用、財源をどうするか。
 たとえ今ある原発の再稼働がスムーズに進んでも、立地自治体が早晩直面する課題である。
 廃炉や核のごみの中間貯蔵を受け入れて、一時的に雇用を生み出すことはできるだろう。しかしそれでは、放射能の不安から逃れることはできないし、大企業の下請け的体質から抜け出せない。
 松下さんは、脱原発依存のキーワードとして、「地産地消」ではなく、「地消地産」を提唱する。地域で消費するものを地域で自給することから始めよう、という考え方だ。
 人口約一万人の美浜町全体の光熱費は、年間五十億円に上るという試算がある。そのエネルギーは町外から買っている。
 新築の住宅は、大手のハウスメーカーなどが建てている。町内に豊富な森林資源が活用できていない。
 たとえば、木材のかけらや廃棄物(バイオマス)を燃やして沸かしたお湯を送り込む事業を起こす。ドイツでは総発電量の7%をバイオマスで賄っている。
 百世帯に一社の割合で、そのような熱供給の会社ができれば、エネルギーとお金が地域で回る。送電網の必要な発電事業とは違い、給湯の配管網なら地元で無理なくインフラも整えられる。
 過疎地にある原発で大量につくった電気を、はるかな都会に送り込むのとは、正反対の考え方だ。
 近々、同じ若狭のおおい町で、木材チップと太陽熱のハイブリッド(併用)による熱供給のモデルづくりに着手する計画という。
◆真の地方創生モデル
 大切なのは、小さな成功例を積み上げて、地域が自信を持つことだ。大都市本位で原発を推進してきた国は、結果として立地地域の自立の芽を摘んできた。その反省を踏まえ、「地消地産」の活動に支援を惜しむべきではない。
 大企業の恩恵に頼らない、地域にあるものを生かした地域のための産業おこし、これこそ本物の「地方創生」なのである。

バス3回乗継で安田から少し歩くと大東市

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Tsunami: quatre ans après, chagrin inextinguible, deuil impossible
Depuis quatre ans exactement, Takayuki Ueno vit dans le souvenir, celui de ses parents et de ses deux enfants emportés par le tsunami du 11 mars 2011 dans le nord-est du Japon, une tragédie humaine masquée par le panache radioactif de Fukushima.
"L'impact de l'accident nucléaire a été si fort, qu'il nous a laissés derrière, dans l'ombre", déplore cet homme de 42 ans.
Sa petite dernière, Sarii, née après le raz-de-marée qui a tué plus de 18.000 personnes, "va entrer à la maternelle en avril, elle va commencer à faire des choses que son grand-frère n'a pu connaître", regrette ce père hanté par l'image de Kotaro, son fils disparu, qui n'avait que trois ans quand la vague l'a emporté.
"Je ne peux pas m'empêcher de penser combien sa vie a été courte".
Il était 14H46 le vendredi 11 mars 2011 lorsqu'un séisme de magnitude 9 dans le Pacifique a provoqué le pire désastre subi par le Japon depuis la guerre.
Au tragique sinistre naturel, s'est ajouté l'accident nucléaire de Fukushima, la fusion des coeurs de trois des six réacteurs.
"Dès que la première explosion a saccagé le site, tout le monde a déguerpi. Personne n'est plus venu ici pour aider. J'étais le seul être en mouvement dans toute cette région", confie M. Ueno à l'AFP en balayant du regard la côte de Minamisoma, à une vingtaine de kilomètres au nord du complexe atomique en péril.
"Nous avions désespérément besoin d'aide, avec tant de personnes dont nous étions sans nouvelles. Mais nul n'est venu. Ce n'est que 40 jours plus tard, le 20 avril, que les soldats sont arrivés".
"Je pense à tous ceux qui vivaient auparavant dans la zone évacuée des 20 kilomètres autour de la centrale. Ils voulaient sans doute retrouver les leurs, mais ils n'ont pas pu".
- 'Il faut que quelqu'un continue' -
Le danger des radiations a eu raison du volontarisme des secouristes.
Même la femme de Takayuki, enceinte de leur troisième enfant, n'a pu revenir, pas même pour les funérailles de sa fille, Erika, 8 ans, dont le corps a été retrouvé, comme celui de sa grand-mère sexagénaire, près de la maison de la famille.
Mais manquent toujours ceux de Kotaro et de son grand-père, malgré la découverte ultérieure de nombreux cadavres dans les jours, mois et semaines suivant le désastre.
"J'ai pu prendre Erika dans mes bras et lui demander pardon. Je voulais aussi serrer Kotaro et prononcer ces mêmes mots. Je voulais tellement le retrouver".
Les ans passent, mais M. Ueno ne renonce pas, il ne peut pas. Les radiations, il ne les compte pas, les déceptions non plus.
"En fin d'année dernière, un cadavre a été trouvé par là, le buste et les jambes... mais pas la tête".
"Il faut que quelqu'un continue à marcher le long du littoral, sans quoi la probabilité de retrouver les corps sera réduite à néant".
"Je suis toujours vivant, je fais mon devoir".
Les restes de quelque 2.600 ex-habitants de la côte du nord-est dévasté demeurent introuvables, en dépit des recherches effectuées par les forces de l'ordre et des soldats symboliquement tous les 11 de chaque mois.
10/03/2015 09:59:25 - Minamisoma (Japon) (AFP) - Par Harumi OZAWA - c 2015 AFP
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自転車が撤去されたので取りに行かねばなりません.バスを3回も乗り継いで安田まで来ました.少し時間があったのでそのあたりをぶらぶら.ふと気が付くと大東市になっていました.自転車の撤去代2500円を払ってさっさと帰りました.
Hiさんを母の代替物にしようとしているような感じ.つまり悲しみはまだ残っている気がします.

災害公営住宅の住民、薄い復興実感
◎河北新報社と東北大、被災者アンケート
 東日本大震災の被災者が暮らしの中で感じる復興の手応えを居住形態別に見ると、災害公営住宅の入居者ほど復興を実感できずにいることが、宮城県沿岸12市町の被災者を対象としたアンケートで分かった。自力再建が難しい事情を抱えながら、自立を求められる災害公営住宅入居者の実態が浮き彫りになった。震災発生から11日で4年となるのを前に、河北新報社と東北大災害科学国際研究所が共同で調査した。
 アンケートは「生活の充実度」「生活の満足度」などに関する計15項目を5段階で評定してもらった。評定結果を点数に置き換え、75点満点で「生活復興感得点」を算出した。
 居住形態別の得点はグラフ(上)の通り。最低点は災害公営住宅の入居者の34.3点。生活復興の象徴とされる災害公営住宅だが、入居を果たした被災者の主観評価は低かった。
 既に耐用年数を過ぎたプレハブ仮設住宅も36.6点にとどまる。いまだに転居できない入居者の不安や不満が得点に表れた。
 最も得点が高かったのは、被害のなかった持ち家。以下、民間賃貸住宅、修繕した持ち家、再建した持ち家、借り上げ仮設住宅と続いた。
 災害研の佐藤翔輔助教は「阪神大震災でも同様の結果が出ている。災害公営住宅の入居者は、もともと経済面、健康面の問題から自力再建が困難な層。さまざまな場面で復興の手応えを感じられずにいるのではないか」と分析した。
 その上で「比較的得点の高かった借り上げ仮設住宅が、今後の復興のヒントになり得る」と助言した。
 平均は40.0点で前年調査から2.0ポイント上向いた。
 市町村別の得点推移(グラフ(下))では、仙台(41.5点)名取(40.8点)亘理(40.7点)岩沼(40.5点)が平均を上回った。

[調査の方法]2013年2月に宮城県内の被災12市町でアンケートを行った仮設住宅の入居者1150人のうち、継続調査に同意した374人にことし1月下旬、調査票を郵送。255人(14年2月調査は354人)から回答を得た。性別は男性38.4%、女性58.4%。平均年齢は65.3歳。調査会社のサーベイリサーチセンター東北事務所の協力を得た。


<震災4年>遺骨、家族の元に「話をしたい」
 東日本大震災で行方不明となり、ことし2月末に身元が判明した気仙沼市の男性の遺骨が9日、市役所ワンテン庁舎で市から遺族に引き渡された。震災発生から11日で4年。遺族は「夢かと思った」と語り、遺骨を大事に引き取った。
 気仙沼署によると、身元が判明したのは同市本吉町沖の田の無職小野寺徳男さん=当時(73)=。震災当時、津波で全壊した自宅付近にいたとみられ、1月25日に同市本吉町の日門漁港沖合3キロで骨盤が見つかった。県警のDNA鑑定で身元が確認された。
 同市の松岩中仮設住宅に暮らす妻かつ子さん(74)と長女松尾明美さん(50)が遺骨の引き取りに訪れた。松尾さんは「丸4年を目前に見つかり、夢かと思った。父も戻ってきたかったのではないか。これから4年分の話を聞かせてあげたい」と喜んだ。
 遺骨を見つけた同市本吉町高の漁師芳賀功さん(76)は、兄夫婦とおいが津波の犠牲になった。「兄とおいが行方不明なので、誰かの身元が確認できればいいと思っていた。よく網に掛かってくれた」と話した。
 県警によると、気仙沼市内では9日現在、225人の行方が分かっていない。


<震災4年>再生 芽吹きの春よ来い
 東日本大震災の発生からあすで4年。傷ついた古里に、復興のつち音は響いているだろうか。自宅の再建や災害公営住宅への入居を果たした人が増えつつある一方、長期化する仮設住宅での暮らしに、疲労と孤立感を募らせる人はまだまだ多い。家族を失った人は「悲しみが増すばかり。時は解決してくれない」と下を向く。地域や個人の間で、復興の格差が生まれた歳月でもある。芽吹いた再生の若葉に、まだ固く殻を閉ざす希望の種子に、春が来るあすを待ちわび、レンズを向けた。(写真部震災取材班)

<震災4年>「生活資金支援を」が上位に
 東日本大震災の発生から4年を前に、河北新報社と東北大災害科学国際研究所は、宮城県内で被災者アンケートを行った。震災2年目に始まった継続調査は、時間の経過に応じて復興の段階を把握する試みだ。調査の設計と集計を担当した災害研の佐藤翔輔助教(災害社会情報学)の分析を交え、被災者の意識の変遷を探った。

◎国や自治体への要求

 国や自治体への要求は、前年に引き続いて「医療費の緩和」がトップで回答者の60.8%が挙げた。以下「医療福祉の充実」(54.1%)「生活資金の支援」(42.4%)が続く。復興の進展に伴う被災者ニーズの変化が読み取れた。
 震災から2年後の2013年2月調査では(1)「住まい再建資金の支援」(55.9%)(2)「医療費の緩和」(49.7%)(3)「復興方針の明確化」(39.0%)−の順だった。未曽有の被災規模で、復興の方向性が見えにくい時期が長く続いた事情を反映している。
 今回は、医療・福祉に関する要求が1、2位を占めた。仮設住宅の老朽化や入居者の高齢化を受け、被災者の多くが健康面で不安を抱えていることが浮き彫りになった。
 一方で住宅再建に関する公的支援は一通り行き渡り、被災地では災害公営住宅の整備が進んでいる。そのため、2年前との比較では「住まいの再建資金の支援」が1位から4位、「復興方針の明確化」が3位から7位にそれぞれ後退した。
 新たなまちづくりの進展を踏まえ「コミュニティーの再生支援」を求める意見は2倍以上に増えた。

<分析/想定外支出で進む困窮>
 3位に浮上した「生活資金の支援」は、震災前と比較した世帯収入を聞いた質問で「あまり変わらない」との回答が47.2%に達したことと相関している。被災者は生活再建のために想定外の支出を強いられており、相対的に生活困窮が進んでいると言えそうだ。


芸術でたどる震災の記憶 銀座で企画展
 河北新報社は10日から、東日本大震災を報じた記事に着想を得た芸術作品を展示する「特別企画展 1462days アートするジャーナリズム」を、東京・銀座の河北ビルで開く。9日、報道陣向けの内覧会を開き、佐藤純東京支社長は「芸術作品を通し、震災の記憶と当時抱いた思いを呼び起こす機会としたい」とあいさつした。
 企画展は、震災発生から4年を迎える「3.11」に合わせ、ビル建て替えに伴って空いた旧東京支社フロアなど5〜9階を、被災地ゆかりの芸術家ら11組に開放。2011年3月11日以降の河北新報の震災関連記事から思いついた作品16点を展示した。会場を上階に進むにつれ、震災発生当日から未来へとたどる趣向になっている。
 東北生活文化大(仙台市)出身の木村剛士さん(34)は、「泥流すべてを奪う」との見出しの記事から、部屋全体を繭のような形の白い緩衝材で埋め尽くした。被災地の非日常感や被災者の無力感をイメージしており、実際に中を歩くことができる。
 田村市の実家周辺で採取した土で縦10メートル、横3メートルの和紙にさまざまな渦模様を描いたのは佐藤香さん(27)。福島第1原発事故による避難者の記事が発想の原点にあるという。「過ごした日々や故郷への愛を、誰も汚染することはできない」との言葉を添えた。
 企画展は22日(20、21日は休み)までで入場無料。


大般若経600巻「転読」 復興願い追悼法要
 山元町の徳本寺で8日、東日本大震災で大きな被害が出た地域の復興を願い、犠牲者を追悼する法要が執り行われた。檀信徒ら約100人が参列し、祈りをささげた。
 法要は、震災発生時刻の午後2時46分に鳴らした釣り鐘の音を合図に始まった。本堂に集まった亘理郡内の僧侶12人が、同寺に江戸時代から伝わる大般若経600巻を扇のように広げて読む「転読」と呼ばれる作法で復興を祈願した。参列者は焼香して犠牲者の鎮魂を願った。
 内陸にある同寺に震災の被害はなかったが、沿岸部にあった墓所は津波で壊滅した。早坂文明住職(64)が住職を兼ねる流された徳泉寺と合わせ、檀信徒217人が犠牲になった。
 町内に居住していた弟を亡くした相馬市の主婦岡田和枝さん(62)は「震災から4年がたち、だんだん寂しさが募ってきた。安らかに眠ってほしいとの思いを込めて祈った」と話した。
 法要は震災翌年の2012年から毎年執り行っている。早坂住職は「被災者が心の中にそれぞれに抱えている感情を晴らす機会になればいい」と話した。


2度の悲しみ越え「おばんざい」店で再出発
 休業していた気仙沼市のすしの名店「たに口」が、家庭料理の店として再出発した。東日本大震災ですし店が流され、再建後に親方だった夫を亡くした佐藤良子さん(54)が、おかみとして切り盛りする。料理人を志して今春上京する息子の存在が、営業再開へ背中を押した。
 同市新町の店を3日に再開し、のれんを「すし処(どころ)」から「おばんざい」に改めた。夫の自慢だったいなりずしはメニューに残し「以前と同じ豆腐店から油揚げを仕入れ、夫の味付けに近づけている」と、佐藤さんがほほ笑む。
 震災の津波で、佐藤さんは同市河原田のすし店と市内の自宅を同時に失った。新町に店を再建して1年半後の2014年2月、店や家族のために奔走していた夫の恵二郎さん=当時(51)=が脳出血で倒れ、同年3月15日に亡くなった。
 失意の日々を送っていたが、佐藤さんを励ましたのは長男翔太さん(18)の「料理人になりたい」という一言だった。夫の知人の紹介で、東京の料亭で働くことも決まった。
 「頭と心がバラバラの日々が続いたが、店を続け、息子が料理人として古里に戻ってきたら夫の縁をつなげるようにしたい」と佐藤さん。
 「精いっぱい修業する」と頼もしい翔太さんは1日、気仙沼西高を卒業。恵二郎さんの一周忌の翌日の16日に上京する。佐藤さんは「長女も家事を手伝ってくれる。しっかり店を続けていく」と言い、親子で店ができる日を楽しみにしている。


<巡るあの日>妻愛用のヘラ 再起の力/(4)尾形勝寿さん(69)=宮城県大郷町
 大事にしている2本のヘラ。妻の愛用品が再起の力を与えてくれた。
 石巻市門脇町5丁目でラーメン店を営んでいた尾形勝寿さん(69)は、東日本大震災で鉄骨だけになった店舗兼住宅に宮城県大郷町で借りた家から通う。
 愛車は移動販売用トラックを改造したキッチンカー。ご当地グルメの「石巻焼きそば」を売っている。
 調理場に飾る1枚の写真の中で、女性がほほ笑む。今も行方が分からない妻きみ子さん=不明当時(59)=だ。
 約40年間、まちおこしや獅子舞などの活動に走り回る勝寿さんを、働き者のきみ子さんが支えた。「母ちゃんの料理は俺よりうまかった」。石巻焼きそばは看板メニューの一つだった。
 震災発生時は夫婦で店にいた。「お父さん、ほれ津波だ」。叫び声が聞こえた。濁流にのまれ、勝寿さんは流れてきた屋根にしがみついて助かった。気付くと、きみ子さんの姿はなかった。
 なぜ2人で早く逃げなかったのか。悔やみきれなかった。救いになったのは、店で見つかったきみ子さんのヘラだった。
 「お母さんがまた焼きそばを作れと言っているんじゃない?」。次女の言葉に押され、2011年5月、兵庫県であったB−1グランプリの地方大会に参加した。
 12年になってキッチンカーで本格的に仕事を再開した。平日の営業場所は自宅跡地と決めていた。「ここに来れば母ちゃんに会えるような、声が聞こえるような気がした」
 門脇町は一帯が壊滅状態となった。被災地見学の人が来れば当時の状況を詳しく説明する。語り部の役目も果たしている。
 心の整理はつかない。それでも「調理場に立ち、語り部をやっている俺を母ちゃんはきっと空から見ている。震災の教訓を伝えるのも生き残った者の責任だ」と思えるようになった。
 3月11日は毎年、跡地で焼きそばを作ってきた。土地区画整理事業が始まったため、同じ場所で営業できるのはことしが最後かもしれない。きみ子さんの巧みなヘラさばきを思い出しながら、香ばしい匂いを漂わせるつもりだ。(石巻総局・高橋公彦)


大震災4年 復興の壁/生活の質重視した政策急務
 東日本大震災からの復興加速の掛け声とは裏腹に、東北の被災地を覆う人口減少の影が色濃くなっている。震災からあすで4年。被災者が地縁を断ち切って古里を離れざるを得ない現実は、「見えない復興の壁」となっている。
 震災前とことし1月現在を比較すると、岩手、宮城、福島3県の沿岸37市町村のうち34市町村で人口が29〜2%減少した。その数は計13万6490人。「時計の針が20年、30年先に進んだ」と言われる過疎化、少子高齢化の厳しい現実を数字で裏付ける。
 人口維持は住まいと雇用の確保が要だが、それに被災者の暮らしに焦点を当てたソフト施策を絡ませることが肝要になる。実態はどうか。
 2015年度までの復興予算は26兆円を超えた。その大半は、1日に全線開通した常磐自動車道、防潮堤整備に象徴される社会基盤の復旧、整備に注がれた。復興需要が公共事業を中心に続く一方で、被災者からは暮らしが上向いたという声が聞かれない。
 むしろ、右肩上がりの復興計画の進行状況と住民の復興感の落差は広がるばかりだ。
 被災地の主力産業、水産業は将来展望を描けない。主因は人手不足。賃金の高い公共土木事業に求職者が流れ、水産業を担う人材が集まらない。持続性の乏しい公共事業に頼った経済が地域で根付き始めている。
 災害公営住宅の整備が徐々に進む半面、応急仮設住宅団地で築いたコミュニティーは崩壊が進む。仮設住宅に住み続ける人は、集約に伴う転居の不安にさらされる。
 個々の被災者が復興を実感できず、若い世代ほど住まいと仕事を求めて都市部に移る。残された高齢者らは消沈し、自治体職員が復興に懸けるモチベーションを維持することだって危うくなる。
 震災直後、国や自治体の施策は道路や防潮堤などによる人命保護を重視した。行政がその基盤整備にまい進するのは当然としても、時は流れて、被災者の期待する施策は、コミュニティー再生など目の前の幸福を感じ取れる方向へと大きく変化している。
 ポスト集中復興期間となる16年度以降を見据え、被災者の生活の質向上につなげる取り組みが急務だ。医療、教育、子育ての分野で既存の仕組みでは難しい手当の直接支給など、大胆な制度設計の検討が必要ではないか。
 業務に忙殺される状況を承知しつつ、自治体はコミュニティー再生に果たす役割を軽視し、後回しにしてはならない。NPOなどと連携し、民間活力を生かす方向は重要だが、それ頼みは最終的な成果まで保証してはくれない。
 竹下亘復興相は、集中復興期間を15年度で終わらせる方針を示した。その是非とは別に、暮らしの質の向上により重きを置いた施策への転換が迫れているのは確かだ。
 復興とは、被災者が将来にわたり自立的に尊厳をもってその土地で生き続けられることにほかならない。手をこまねいている間に被災地の人口流出が続く。整備を進めた社会基盤を将来、あだ花にしないためにも、復興施策の軸足をとくと見つめ直す時だ。


東日本大震災4年:被災地首長アンケート 進む復興、地域格差も マンパワー不足、悩み(その1)
 東日本大震災から4年に合わせて、毎日新聞は震災で大きな被害を受けた岩手、宮城、福島3県42市町村の首長に復興に向けた課題や現状を聞くアンケートを実施した。2015年度で区切りとなる集中復興期間後の財源確保を懸念する声が多く、生活の根幹である「住まい」の復興遅れは依然として続いている。一方、復興工事の進捗(しんちょく)について「かなり進んでいる」と回答する自治体もあり、復興の地域間格差も生まれつつある。

 ◆復興の障害
 ◇「集中期間後」に不安

 42自治体(岩手12、宮城15、福島15)に震災半年後から毎回聞いている「復興へ向けた最大の障害や課題」は、今回も「財源」と答えた首長が13人(岩手4、宮城8、福島1)と最も多かった。国が当初設定した「集中復興期間」(5年)の最終年度を迎えるにあたり、翌年度以降、国がどのような財政支援を継続するのかが、最大関心事になっている。

 自治体の財源問題は、政府の復興基本方針を受け、11年10月に本格的な復興予算となる12兆円の第3次補正予算が組まれ、当面の手当ては付いた。しかし、徐々に復興事業が本格化するなかで、建設資材の高騰や人手不足などにより工事の進捗に遅れが生じている。

 岩手県久慈市は一部の事業で期間内の完成が困難になっていることを明らかにしたうえで、「現在の実質負担なしのスキーム継続が未定で、16年度以降の財源が懸念される」と、これまでと同様の支援継続を要望。宮城県利府町は「復興予算の圧縮などによっては、今後の事業進捗に影響を与えかねない」と懸念する。福島県飯舘村は「各事業の高率補助枠の確保」とさらなる拡充を要請する。

 回答で次いで多かったのは「原発事故」で、福島県の15人のうち12人が挙げた。県内では汚染水問題のトラブルが続くなど、いまだに事故収束の見通しが立っていない。各自治体とも「住民帰還の障害になっている最大の課題」(富岡町)、「風評被害の払拭(ふっしょく)に困難を極めている」(いわき市)と、いら立ちを募らせている。

 一方、各自治体の復旧・復興工事が進むなかで、自治体職員のマンパワー不足も依然として課題だ。総務省によると1月現在、被災3県の計41市町村から1506人の職員派遣要請があり、全国から1270人が派遣されているが、土木や建築職を中心に200人以上が不足している。

 震災3年まで1割近くの回答があった「法制度の不備」や「国や県の復興構想や方針が具体性に欠ける」はゼロだった。住宅地高台移転などに向け懸案となっていた土地収用手続きの簡素化が、昨年4月の復興特区法改正で実現したためとみられる。

 ◆復興工事
 ◇7割「進んでいる」

 復興工事の進捗状況は、仙台市、岩手県岩泉町、福島県田村市が「かなり進んでいる」と回答。「ある程度進んでいる」は岩手県大船渡市などが加わり、岩手8、宮城11、福島9の計28人となり、全体の7割の自治体で復興工事が進んでいるとの認識だ。

 残る11自治体に「遅れ」の理由を選択式の複数回答で尋ねたところ、6人が「自治体職員不足」(岩手2、宮城2、福島2)、4人が「業者や作業員不足」(岩手1、宮城1、福島2)を挙げた。マンパワー不足に加え、「入札不調」(岩手3、宮城1)も続いている。

 「その他」と回答した中には「区画整理事業の起工承諾に苦労している」(岩手県陸前高田市)、「住民との合意形成に時間を要し着手が遅れた」(宮城県名取市)、「除染が終了していない」(福島県飯舘村)といった声もあった。

 また、各自治体に「復興で遅れているものは何か」(三つ以内選択)を聞いたところ、昨年9月の前回調査同様、「住まい」が18人(岩手7、宮城5、福島6)とトップ。次いで「防潮堤」が15人(岩手8、宮城7)と上位を占めた。

 一方、前回16人と多かった「道路や鉄道」は10人(岩手4、宮城5、福島1)と減り、「商工業」が4人増えて12人(岩手4、宮城4、福島4)と逆転。交通機関の復旧が進む中で、復興の焦点が商店街などの地域の再生に移ってきている。「除染」は福島15人のうち8人が挙げた。

 ◆住民生活
 ◇仮設長期化が課題

 「住民生活で一番問題になっていること」は、前回までの調査同様、津波で大きな被害を受けた岩手、宮城両県と、原発事故の被害に苦しむ福島県で異なっている。

 岩手、宮城両県では27人のうち17人が「住居」と回答。「長期にわたる仮設住宅での生活で、将来への不安による心身の不調や生活再建意欲の減退が見受けられる」(宮城県女川町)など、依然、仮設生活の長期化が課題になっている。仙台市は「その他」を選択したものの、具体的な事例として「住宅再建と生活再建」を挙げ、「現在も約7100世帯が仮設住宅で暮らし、住まいと生活の再建を円滑に進めることが課題」とした。

 福島県では大熊、富岡、飯舘、川内の4人が「帰還見通しが立たない」を挙げた。広野町は「東電の賠償金不足」を選択。「その他」を選択した自治体でも「除染」(川俣町)▽「全村避難からの住民帰還」(葛尾村)▽「原発事故によるコミュニティーの分断」(田村市)を挙げ、原発事故の収束が最優先課題だ。

 一方、岩手県洋野町、宮城県岩沼市、福島県相馬市は「その他」として「特になし」と回答した。「全体としておおむね復旧している」(宮城県松島町)、「突出して問題になっているものはない」(同県利府町)など、住民生活は徐々に改善してきている。

 ◆原発政策
 ◇「将来的に全廃」半数

 福島原発事故後の原発政策のあり方について、岩手、宮城県を含めた全42自治体に聞いたところ、「将来的に全廃すべきだ」とした首長は22人と、今回も半数を占めた。「その他」を選択した11人も「再生可能エネルギーなど、多様なエネルギーで原発依存度を低減させるべきだ」(仙台市)、「電力の安定供給のため原発が必要なら再稼働を検討すべきだが、将来的にはリスクの低い電力に移行すべきだ」(宮城県石巻市)などとし、中長期的には脱原発の方向性を多くが求めている。

 福島県では、15自治体のうち8人が「将来的に全廃」を選んだ。全町避難中の富岡町は「最終処分場や核燃料サイクルの明確な考え方のない中での運用」と、現状での原発再稼働を批判。双葉町は「費用対効果も含めて代替エネルギーのあり方を議論すべきだ」とした。

 約6700人が県内外に避難している飯舘村は「直ちに全廃するのは産業、日常生活に影響が出る」とし、県内では唯一「安全確認を厳しくして残すべきだ」を選択した。

 残る6自治体は「その他」を選択。ほとんどの自治体は「県内は全基廃炉」のスタンスで一致しているが、「国の政策について述べると、他の原発の是非を論じることになる」(大熊町)などと明確な回答を避けた。

 ◆阪神の教訓
 ◇被災者のケア、参考に

 阪神大震災から今年で20年が経過したのを受けて、今回の調査で「阪神の教訓は生かされたか」を尋ねた。被害の広域性や津波、原発事故など災害実態の質的な違いから、「十分でなかった」を含めて「生かされなかった」と答えたのは18人(岩手5、宮城5、福島8)と約4割に上り、「ある程度」を含めて「生かされた」とした16人(岩手5、宮城9、福島2)を上回った。

 教訓が生きた事例としては「復興事業への財源措置」(岩手県普代村)▽「復興計画の速やかな策定」(同県久慈市)▽「避難所や仮設住宅の運営、被災者の心身のケア」(同県田野畑村)などが挙げられた。

 宮城県塩釜市は「住宅や公共施設の耐震化を進めていた。地震被害はあったが、危機管理機能を失わず対応できた」と評価。同県南三陸町は「阪神では仮設住宅などで孤独死問題が発生したが、兵庫県からの応援職員の協力で対策を検討できた」と、自治体間の協力態勢が強化されたとした。

 一方、福島県は15自治体のうち8人が「十分でなかった」と回答。「生かされた」と回答したのは「ある程度」が2人だった。「原発事故は地震災害と異なる」といった意見が根強く、5人は「検討段階にない」とした。

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 ◇調査方法

 岩手、宮城、福島の3県沿岸部と、東京電力福島第1原発事故に伴う避難区域が設定された自治体の計42市町村長(岩手12、宮城15、福島15)を対象に、2月にアンケートした。調査は震災3カ月から始め、1年目は計4回、2年目以降、半年ごとに実施し、今回が10回目。

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 記事=山本浩資、深津誠、安藤いく子、浅野孝仁、渡辺豊、伊藤直孝、山内真弓、横田香奈、小林洋子、土江洋範


東日本大震災4年:被災地首長アンケート 進む復興、地域格差も マンパワー不足、悩み(その2止)
 ◆風化
 ◇現地の実情、知られず

 被災42市町村の首長アンケートで震災2年後から聞き始めた「震災の風化を感じるか」。「かなり感じる」が岩手6、宮城7、福島8の21人と最も多く、「ある程度感じる」の20人を合わせると、41人が風化の現実に直面している。福島県相馬市だけが「全く感じない」と答えた。

 「どんなときに風化を感じるか」と理由を尋ねたところ、「復旧・復興が進み、震災の傷痕が見えにくくなってきている」(岩手県洋野町)、「幹線道路の交通量が震災前に戻り、来訪者が震災を意識しない環境となっている」(宮城県多賀城市)と、市街地の再建を一因に挙げた。

 また、「派遣職員の継続に難色を示す自治体がある」(同県山元町)、「国担当者と協議の際、震災や復興への思いに温度差を感じる」(福島県大熊町)、「復興ツーリズムで訪れる観光客が減少しつつある」(宮城県南三陸町)、「東京オリンピックへシフトしている」(岩手県岩泉町)など、関心の低下を懸念する声もあった。

 被災地の現状を取り上げる報道の減少を挙げた首長は半数以上に上った。福島県双葉町は「関東地方に講演に行った時。避難の実情がほとんど知られていない」と指摘した。

 このほか、「日々の生活をしている時。忘れるのは悪いことではないが、今の暮らしを未来に向かって続けていかないと、という思い」(宮城県松島町)、「日常を取り戻した住民とそうでない住民との市民ニーズにギャップを感じる場面が増えた」(同県名取市)などの意見も寄せられた。


東日本大震災4年:仮設住宅集約に課題 15市町村、実施へ 重なる転居「また一から」
 東日本大震災でプレハブ仮設住宅を建設した被災3県(岩手、宮城、福島)の39市町村のうち15市町村が毎日新聞のアンケートに、一部を閉鎖して集約を進める方針を示した。空室の増加などで避けられない事態だが、経済的自立が難しい被災者が仮設にとどまり続けるケースも多く、細かなケアが必要になる。【金森崇之、中田博維、柳沢亮、三浦研吾】

 被災3県によると、仮設住宅の入居者は2012年3月の11万6623人をピークに減り続けているが、今年1月末現在、8万1730人が暮らしている。供給戸数5万2378戸の入居率は74%となっている。

 毎日新聞が今年1〜2月、39市町村に実施したアンケートでは、15市町村が集約を「実施する」または「実施に向けて検討」と回答。このうち7市町村が具体的な集約計画を示しており、全て実施されれば185団地(9518戸)が93団地(6356〜6556戸)に減る。理由として(1)仮設用地を地権者に返還する必要がある(2)空室増加に伴うコミュニティー機能低下や防犯上の問題が懸念される−−などを挙げた。「未定」が15自治体、「集約しない」が9自治体だった。

 岩手県大船渡市の場合、計1330戸の仮設住宅の半数以上が小中学校の校庭や民有地に建っている。このため、子どもたちの活動や地権者の住宅再建に支障が出ており、集約が避けられなくなっている。また、宮城県女川町は「入居者減でコミュニティーが希薄になり、閉じこもりや健康悪化が懸念される」として集約方針を決め、実施時期や規模を検討中だ。

 ただし、「仮設から仮設へ」の転居で、望むようなコミュニティーが育まれる保証はない。昨年4月、被災3県の先頭を切って集約計画を発表した岩手県釜石市。入居者の減少などを理由に、17年度上期まで66団地を21団地に集約する方針を掲げた。「桜木町仮設住宅団地」の場合、3月末までに退去を迫られる41世帯のうち、11世帯は同じ団地内に移り、17世帯は他地区の6団地に分かれて移り住む。いずれも市が示した転居先の中から選んだ。7世帯は自立再建し、6世帯は災害公営住宅(復興住宅)に移る。

 自治会長を務める大和田泰佑さん(71)は「次の仮設に移る人が新しい環境に早く慣れるか心配だ。仮設に取り残され、たらい回しにされていると感じさせないよう市の対応が必要だ」と指摘する。

 宮城県東松島市も29団地を6団地程度に集約することを検討中だ。地権者との契約切れで閉鎖が決まった「堰(せき)の内南地区仮設住宅」の住民は10月末までの引っ越し完了を迫られている。1人暮らしの無職、田村けい子さん(65)は被災後、同仮設の仲間に支えられて暮らしてきたが、約500メートル離れた別の仮設に移る。「自分から動いてまた一から人間関係を作り直すのは大変」と不安げだ。来年5月には復興住宅への入居が決まっており、1年足らずの間に2回引っ越ししなければならない。

 隣接する宮城県石巻市では集約の検討は進んでいないが、仮設住宅の自治会でつくる「石巻仮設住宅自治連合推進会」が、仮設間の転居が避けられないと見越して、小規模団地同士でカラオケ大会を開いたり、花見や温泉旅行を企画したりしている。内海徹事務局長は「将来、別の仮設に移った時に知り合いがいれば、溶け込みやすい」と話した。
 ◇入居率74%、支援必要

 仮設住宅の集約は、1995年の阪神大震災では大きな問題にならなかった。震災から3年10カ月時点での仮設住宅の入居率は東日本74%、阪神14%。現地再建が可能で住宅整備が比較的早く進んだ阪神の場合、震災5年で全住民が復興住宅などに移っている。東日本大震災では、復興住宅の整備が遅れていることに加え、仮設入居者の自立支援が大きな課題だ。

 「仮設は出たいけど、遠くの復興住宅には行けない」。仙台市太白区の「あすと長町仮設住宅」に1人で暮らす無職女性(62)はため息をつく。近くの復興住宅(163戸)に応募したが、障害者や70歳以上の高齢者が優先で一般抽選枠は6戸しかなく、落選。他に市街地から10キロ離れた新興住宅地に復興住宅が建ったが、不便で知り合いもいないため応募を見送った。女性は避難生活の長期化で糖尿病と高血圧が悪化し、パートの仕事を辞めた。月に約6万円の年金では足りず、貯金を取り崩して生活している。「この収入でアパート暮らしは難しい」と途方に暮れる。

 仙台市は仮設住宅の集約はしない方針だが、近い将来の大きな課題となる。仮設住宅は無料で住むことができるが、復興住宅では収入などに応じて数千円から数万円の家賃も発生する。

 阪神大震災で兵庫県は、震災4年半で仮設住宅の入居契約を打ち切った。それでも残っていた653世帯(ピーク時の1・4%)に対しては戸別訪問による公営住宅のあっせんなどを続け、経済的困窮などで自立できない世帯には生活保護の申請を促すなどした。同県の初代防災監を務めた斎藤富雄・元副知事(70)は「被災者の置かれた状況は個別に違い、多様なニーズがある。今求められているのは、将来の生活設計を描けるように、行政が一人一人の生活に寄り添いながら粘り強く対応していくことだ」と指摘した。


東日本大震災:奇跡の一本松「復興相」公印に
 全国のはんこ職人が加盟する全日本印章業協会が、東日本大震災からの復興の象徴になった岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」の原木で復興相の公印を製作し、9日、復興庁で竹下亘復興相に寄贈した。

 同市の高田松原を襲った津波に唯一耐えた一本松は、2012年5月に枯死が確認された。公印は同協会の若手19人が手作業で製作。彫り込まれた「復興大臣之印」の「興」は復興を支える人々をイメージし、手を取り合っているように見える書体を採用した。

 同協会青年部連絡協議会の中原和弥会長は「はんこは一生添い遂げるように彫るが、今回の公印は使われなくなることが復興だ。なるべく早く使われなくなればいい」と語った。公印は今後、復興に協力した人への感謝状などに使用するという。【松本晃】


東日本大震災:岩手・釜石の復興願い、ガザでたこ揚げ ビデオ通話で交流も
 【ハンユニス(パレスチナ自治区ガザ地区)大治朋子】東日本大震災から4年となるのを前に、パレスチナ自治区ガザ地区南部のハンユニスで9日、子供たち約1000人が被災者を激励するたこ揚げをした。被災地・岩手県釜石市の学生らとインターネット電話で語り合うイベントも開催され交流を楽しんだ。

 ガザでたこ揚げをして被災者を励ます企画は国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の主催で2012年から始まった。この日、子供たちは「絆」などと描かれたたこを青空に飛ばした。

 ビデオ通話では、ラニーン・フサム・ザクートさん(14)が「粘り強く目標を成し遂げる日本の人々を尊敬しています」と発言。日本からはガザでの日常生活などについて質問があった。


東日本大震災:被災42市町村、毎日新聞調査 復興計画「見直し」4割 インフラ整備遅れ
 東日本大震災から11日で4年を迎えるにあたり、震災で大きな被害を受けた岩手、宮城、福島3県の42市町村の首長に各自治体が策定した復興計画の進捗(しんちょく)状況について聞いたところ、全体の4割に当たる18人が、計画の見直しが必要と考えていることが分かった。福島県で東京電力福島第1原発事故による避難生活の長期化や除染作業の遅れからインフラ整備が進んでいないほか、岩手、宮城県でも資材高騰や作業員不足などから一部の工事に遅れが生じている。国は2015年度までの集中復興期間終了後、復興事業の一部地方負担を検討しているが、各自治体は期間延長や財政支援の継続を求めている。

 アンケートは2月、岩手12、宮城15、福島15の自治体の首長に書面で実施。復興計画は11年12月に成立した復興特別区域法などに基づき、各自治体が定めている。各自治体とも各県の復興計画に合わせ、5〜10年を計画期間としている。

 アンケートで「抜本的に必要」と回答したのは福島県大熊町。同町は第1原発の立地自治体の一つで、全町避難が続いており、「避難区域再編や中間貯蔵施設の設置などの状況変化を踏まえ、見直している」とし、既に作業を進めている。

 「ある程度必要」は17人で岩手3、宮城4、福島10。宮城県名取市は津波被害の大きかった閖上(ゆりあげ)地区の集団移転問題も抱え「策定当時と状況が変化し、実施財源の確保も難しい」と、国の財政支援の継続を求める。同県利府町は自治体の職員不足や入札不調から復興工事に遅れが出ているとし、「事業期間の延長が必要」とした。

 福島県内の除染計画は、15自治体のうち5人が「ある程度見直しが必要」と回答。いわき市や浪江町などでは汚染土について「仮置き場の確保に苦慮」とし、作業の遅れが続いている。【まとめ・山本浩資、深津誠】


記者の目:東日本大震災4年 内陸避難の子供=浅野孝仁(盛岡支局)
 ◇特有の悩み、把握し支えて

 肉親との死別、転校、将来への不安……。東日本大震災後の児童・生徒の心のケアが重要性を増している。岩手県では、津波被害を経験した沿岸部から直接的な被害がない内陸部へ移り住むと、被災の苦しみを誰とも共有できず、ふさぎ込む子供がいる。内陸部では行政や民間の支援も少ない。内陸部特有の悩みを抱える子供たちの実情を踏まえたサポートが必要だ。
 ◇気持ちをつなぐ「誰か」が必要

 中学2年生の時に沿岸部の田野畑(たのはた)村で被災し、100キロ以上離れた盛岡市内の私立高校に進学して寮生活を送る女子生徒(3年)が取材に応じてくれた。津波で自宅が流されて祖父を失い、父は行方不明だ。母と妹、弟は田野畑村で暮らしている。

 高校に入学すると、周囲に被災者はいなかった。「友人に被災体験を言えば距離を置かれたり、気を使われたりすると思って話す勇気がなかった。素直に気持ちを伝えられる人がいなかった」と打ち明けた。みんなは自分のことを被災者だと知っている。「腫れ物に触れるような接し方も耐えられなかった」という。

 彼女を包んでいたのは、孤独感なのだと思う。公的な支援を受けたこともなく、一人で闘っていた時の心の痛みはどれほどだっただろう。

 「私と同じように気持ちが不安定な避難者の子が多い。くじけそうな時に支えてくれる人が必要です」。彼女は今、明るさを取り戻している。落ち込んでいる時に話しかけてくれる担任教師や寮の管理人夫妻らが、自分を支えてくれる大切な存在だという。

 大槌町出身の女子生徒(中学3年)と、山田町出身の女子生徒(同1年)は、ともに沿岸部から盛岡市内に転居して別々の学校に通うが、土曜日は避難者のための学習支援の教室で机を並べる。境遇が似る2人は「分かり合えるので、すぐに仲良くなった。会うのが楽しみ」と笑顔を見せる。学習支援ボランティアの岩手大3年、植木啓斗(ひろと)さん(22)は「いじめの対象になっていると、悩みを打ち明ける子もいる」と話す。苦悩を抱える子供たちは、気持ちをつなぐ誰かを求めているのだ。

 岩手県教育委員会は震災後、小中高生全員に「心とからだの健康観察」調査を年1回行っている。「眠れないことがある」「怖い夢をみる」など心理状態を尋ね、心のケアが必要かどうかを把握するためだ。「要サポート」と判断すれば、臨床心理士によるカウンセリングなどを実施、在籍校にも対応を求める。

 要サポートとされた沿岸部の児童・生徒は、震災直後の2011年度が15・8%で、12年度は13・6%に減った。だが13年度13・7%、14年度14・1%と増加。県教委は震災後、沿岸部のスクールカウンセラーを20人から現在の28人に順次増員した。仮設住宅での暮らしや家庭内の相談にも対応するソーシャルワーカー4人も追加配置した。
 ◇データ公表なく関心低いまま

 しかし県教委は、内陸部に避難する子供たちの要サポート率を公表していない。内陸部にはスクールカウンセラーの増員もない。内陸部に移った被災児童・生徒の人数さえも明らかにしないのだ。

 私は岩手県内の内陸21市町村教委に取材した。少なくとも550人余の小中学生が沿岸部から転居していることが分かった。どれだけの子供が心を痛めているのか。データが公表されなければ、社会は無関心のままだ。この問題を調査した岩手大の山本奨(すすむ)准教授(心理学)は、内陸部に移った子供の要サポート率が沿岸部より高い傾向にあると指摘し「行政の情報を、教育や保健福祉などあらゆる機関が共有し、連携して対策を講じるべきだ」と力説する。

 内陸部での支援がないわけではない。盛岡市教委は避難してきた小中学生のために、支援員を各校に1人ずつ計12人置いた。ところが、この取り組みは今年度限りで終わる。財源になっていた国の緊急雇用創出事業の対象が、来年度から沿岸部限定になるためだ。県や市の独自予算で支援を続けるべきだと思うが、予算化はされていない。

 阪神大震災で心のケア支援にあたった兵庫教育大の冨永良喜(よしき)教授(心理学)によると、阪神の小中学生の要サポート数は、震災から4年後ごろがピークだった。東日本は「まさに今」だ。だが、冨永教授は「阪神より長期化する仮設暮らしや復興の遅れによる経済的困窮などで、4年後以降も増える懸念がある」と指摘する。子供は末永い復興を担う地域の宝である。古里を離れて精神的に苦しんでいる子供たちを、復興の道筋から置き去りにしてはならない。


戦後70年談話:北岡氏「侵略した、と言わせたい」
 戦後70年の安倍晋三首相談話を検討する有識者懇談会(21世紀構想懇談会)の座長代理を務める北岡伸一国際大学長は9日、東京都内であったシンポジウムで先の大戦を侵略戦争と位置付けた上で、「私は首相に『日本は侵略した』とぜひ言わせたい」と述べた。北岡氏は、座長の西室泰三日本郵政社長と並ぶ懇談会の中心メンバーで、今回の発言は7月にまとめる懇談会の報告書に影響する可能性がある。

 首相は談話について「歴代内閣の立場を全体として引き継ぐ」とする一方、1995年の村山富市首相談話の「植民地支配と侵略」などの表現を継承するかは明言していない。北岡氏はシンポで「日本が侵略戦争をしたのは明らか」とし、「日本の歴史研究者の99%は『日本は侵略し、悪い戦争をし、多くの中国人を殺して誠に申し訳ない』と言うと思う」と述べた。

 一方、北岡氏は「戦後70年に謝罪が中心に来るかが肝だ、というメディアには違和感を感じる」と指摘。「45年以前、以後の歴史を全部盛り込んだドキュメント(報告)を作る。そこから首相が何を取り上げるかだ」と述べ、談話の内容はあくまで首相が最終判断するとした。【高橋克哉】


「過去の整理が和解の前提」…メルケル独首相、安倍首相に歴史反省を要求
日本を訪問中のメルケル独首相は9日、「過去を総括(整理)することが(戦争加害国と被害国間の)和解の前提になるものだ」とし、“加害国”日本の正しい歴史観を求めた。

メルケル首相はこの日、安倍晋三日本首相と首脳会談を終えた後に開かれた共同記者会見でこのように述べ、「ドイツは第2次世界大戦の過ちを整理できたため、後に欧州の統合を実現できた」と強調した。また「ドイツではどのように過去を整理し、どのようにナチスが犯した恐ろしい罪悪に対応すればよいのかについて議論があった」と付け加えた。

これに先立ちメルケル首相はこの日午前、朝日新聞社と「ベルリン日独センター」が共同で主催した講演会で、「ドイツはナチスによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)にもかかわらず、国際社会から受け入れられる幸運を享受した」とし「これはきちんと過去と向き合う一方、連合国も過去を克服するドイツを見守ったため」と述べた。

北東アジアの隣国間の緊張が高まっていることについては「ドイツが助言する立場ではない」としながらも「最も重要なのは平和な解決策を模索しようという試み」と強調した。特に韓日関係については「価値観もそうで技術力にも共通点が多いため、つながりを強められる可能性はあるとみる」と指摘した。


東日本大震災4年:俺はここで生きる 宮城・南三陸、家族と離れ民宿再開 高台に移転、鉄筋3階建て
 雲の切れ間から光が差し込むと、眼前の志津川湾がキラキラと輝いた。東日本大震災の津波で大きな被害を受けた宮城県南三陸町の高台。「俺はここで生きていくんだ」。あれから4年。近く再オープンする鉄筋3階建ての新たな民宿を背に、佐々木昌則さん(48)は冷たい空気を吸い込んだ。【中里顕】

 仙台市でサラリーマンをしていた約10年前、脳腫瘍で65歳で亡くなった父徳司さんから同町袖浜地区にあった鉄筋2階建ての民宿「向(むかい)」とカキ養殖を引き継いだ。「素人同然」だったが、養殖は漁師仲間がロープの結び方から教えてくれた。民宿の運営は母親のはる子さん(74)に教えを請い、妻(48)と一緒に軌道に乗せた。

 そんな中で起きた東日本大震災。津波で民宿と自宅、船、養殖場は全て流され、祖母の興衛(ともえ)さん(当時92歳)が命を落とした。先のことは考えられなかった。妻の実家に近い広島市の被災者用市営住宅に小中学生の子ども3人と避難。市の嘱託職員や道路工事の臨時警備員をしながら、生計を立てた。

 家族は次第に広島での生活になじんでいった。家での会話も「じゃけえ」と広島弁になった。ただ、佐々木さんの脳裏からは、南三陸に残った人たちのことが離れなかった。「俺は逃げたんじゃないのか」。その思いが消えず、正社員の働き口を紹介されても、面接を受ける気になれなかった。

 震災から2年となった2013年3月。子どもたちが学校に行き、妻と2人きりになった時、思いを初めて打ち明けた。「南三陸に戻りたい」。カキやワカメ養殖の共同事業体が発足しており、収入のめどはあった。妻は「故郷だもんね。私でもそうする」とだけつぶやいた。納得したのかどうかは分からない。結局、単身で南三陸に向かい、母が住む仮設住宅に入居。昨夏には長男が合流した。

 「以前のように、新鮮なカキを出す民宿をやりたい」。だが、再建には金がかかった。国と県の補助を受け、所有していた土地を売ってもなお約4000万円が必要という試算。想定より1000万円以上高かったが、「ここで逃げたら一生後悔する」と歯を食いしばって金融機関に頭を下げた。

 努力が実り、昨年9月に着工し、14日ごろに再オープンできる見通しが立った。心機一転を図り、名称は「明神崎荘」に変える。場所は以前より約100メートル高台になったが、宿から見える美しい景色は変わらない。中古の船を買い、今後は自力でのカキ養殖も再開する。

 震災前、約10軒あった地区の民宿は2軒に減り、町内への観光客数もまだ震災前の8割の水準。町を訪れるボランティアも減少しており、先行きは楽観できない。広島の家族との交流は週1、2回の電話のみ。「あの光景を思い出したくない」という妻が戻ってくる予定もない。だが、決意は揺らいでいない。

 当面の目標は、復興事業の作業員たちが料理を楽しめる民宿だ。「観光客が再び南三陸に戻ってくるまでの土台づくりに尽くしたい。どんなことにも負けないという気持ち。前へ進むだけだ」。故郷の海に誓った。

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Japon: Quatre ans après le tsunami, le transport ferroviaire reste lourdement perturbé
Le quai de la gare est toujours là, avec ses bancs et ses autocollants annonçant l’interdiction de fumer. Sous le petit auvent en taule qui protégeait les voyageurs des éléments, un panneau indique encore le nom de l’arrêt: Nobiru, en idéogrammes et en alphabet. Sur ce rectangle blanc, derrière les caractères sino-japonais, le tsunami qui a submergé la gare, et une grande partie des côtes du Nord-Est japonais le 11 mars 2011, a laissé un douloureux souvenir de son passage: une ligne brunâtre à environ trois mètres du sol, qui, quatre ans après, rappelle la violence de la catastrophe.
La gare de Nobiru, située à 400 km au nord-est de Tokyo, dans la préfecture de Miyagi, a été ravagée par les flots ce jour-là, rendue particulièrement vulnérable par sa situation à 700m des côtes, quelques mètres seulement au-dessus du niveau de la mer. Des tonnes de débris métalliques, de gravats, de sédiments et de troncs d’arbres charriés par la vague que les Forces d’autodéfense japonaises ont patiemment déblayés, avec l’aide de soldats américains.
La gare de Nobiru, dans la prefecture japonaise de Miyagi
Sous le quai de Nobiru, où transitaient 500 passagers chaque jour, les rails sont toujours visibles, à demi noyés dans les herbes jaunes, mais ils ne verront plus passer de train. Tamotsu Mikami, un responsable de la reconstruction pour la compagnie de chemins de fer JR East, tend le doigt pour montrer un ouvrage en béton en haut de la colline, à environ 500 mètres. C’est là que passera désormais la ligne.

Pour se prémunir d’éventuelles catastrophes, les autorités ont en effet décidé de déplacer la ville vers l’intérieur des terres, à 22m au-dessus du niveau de la mer. La voie ferrée accompagne le mouvement, ce qui a nécessité des moyens colossaux et le déplacement de deux gares. ≪Il a aussi fallu construire deux viaducs pour élever la voie≫, explique Tamotsu Mikami, qui évalue le coût total de la reconstruction à 10 milliards de yens (76 millions d’euros) uniquement pour l’infrastructure. Un montant assumé par l’entreprise seule, ≪pour l’instant… et sans doute pour toujours≫, rigole-t-il.
Moins de la moitié des voies endommagées ont été remises en service
Quatre ans après le tsunami, les transports de toute la région sont encore lourdement affectés. Sur les 400 km de ligne de chemin de fer qui longeaient la mer et ont été fermés après la catastrophe, moins de la moitié (160 km) ont été remis en service. Sur la plupart des lignes du littoral du Nord-Est, des tronçons de voie ferrée sont toujours remplacés par des cars.
La ligne d'une cinquantaine de kilomètres sur laquelle se trouve la gare de Nobiru, qui accueillait 20.000 voyageurs quotidiens avant la catastrophe, est elle-même toujours coupée en deux. Des cars assurent la navette sur une section de 12 km en son milieu, en attendant la fin des travaux et sa réouverture complète prévue pour fin mai.
Sur une autre ligne plus au sud, l’obstacle à la réouverture de la voie est d’une nature différente: la ligne traversait ce qui est devenu la zone interdite de Fukushima. Un tronçon de 46 km n’est plus desservi depuis le 11 mars 2011 à proximité de la centrale nucléaire accidentée, et une éventuelle réouverture n’est actuellement pas à l’ordre du jour. Depuis fin janvier, un service de bus de substitution a néanmoins été mis en place. Il traverse sur 14 km la zone interdite, distance sur laquelle le gouvernement estime que les voyageurs, pour une traversée à 40 km/h, seront exposés à une dose de radiation de 1,2 microsieverts par heure. Et les chauffeurs seront équipés de dosimètres pour informer au besoin les passagers.

La leçon d'histoire de Merkel au Japon
Faire face à son passé, voilà le conseil délivré lundi 9 mars par Angela Merkel aux autorités japonaises, alors que le premier ministre Shinzo Abe s'apprête à communiquer sur le sujet dans la perspective du 70e anniversaire de la capitulation japonaise, le 2 septembre 1945.
≪ L'Allemagne a eu la chance d'avoir été réintégrée dans la communauté des nations après l'expérience effroyable qu'a dû subir le monde durant la période du nazisme et de l'Holocauste ≫, a souligné Mme Merkel.
≪ Je crois que cela a été possible parce que l'Allemagne a regardé son passé en face, mais aussi parce que les alliés qui contrôlaient l'Allemagne après la Seconde Guerre mondiale ont accordé beaucoup d'importance au fait que l'Allemagne fasse ce travail sur son passé. Il m'est difficile de vous donner des conseils quant à vos relations de voisinage, mais je pense que l'histoire et l'expérience nous exhortent à trouver des moyens pacifiques de réconciliation. ≫
Les crimes commis par les troupes impérialistes pendant la seconde guerre mondiale continuent à empoisonner les relations avec la Chine et la Corée du Sud, dont les autorités seront très attentives aux propos du chef du gouvernement. Son communiqué est également très attendu aux Etats-Unis.
Shinzo Abe a l'intention d'exprimer des remords au nom de son pays et de reprendre à son compte les excuses formulées par ses prédécesseurs, en particulier celles que Tomiichi Murayama a présentées en 1995.
Dans le discours prononcé à son arrivée, Angela Merkel, qui ne s'était pas rendue au Japon depuis 2008, a évoqué les propos tenus en 1985 par le président allemand Richard von Weizsäcker, selon lequel ceux qui ferment les yeux sur le passé ≪ s'aveuglent pour l'avenir ≫.
フランス語
フランス語の勉強?

Shさんと梅を見に行きます.朝少しだけ仕事して出かけます.天王寺経由でJRで奈良に行こうとしたところ,天王寺で人身事故とのアナウンス.鶴橋まで移動して近鉄で行くことにしました.加茂で合流です.月ヶ瀬口からタクシーで移動しました.約2000円.月ヶ瀬口駅は京都府の南山城村で月ヶ瀬自体は奈良市というのをタクシーのおじさんが教えてくれました.さて梅は全然咲いていません.1割くらい.Shさんは事前に観光協会に電話してそのことを聞いていたそうですが・・・
帰りは奈良市内の居酒屋で軽く飲んで帰ります.でも地下鉄を降りると自転車がありません.撤去されてしまったようです.残念です.

<震災4年>各地で追悼 深い祈り
 東日本大震災の発生から11日で4年となるのを前に休日の8日、被災地の各地で追悼行事などがあり、犠牲者を悼んだ。

<須賀川/藤沼ダムの決壊「記憶をつなぐ」>
 東日本大震災でダムが決壊し、8人の死者・行方不明者が出た須賀川市の藤沼湖の災害で、地域住民が「大震災と藤沼湖の記憶をつなぐつどい」を同市の長沼保健センターで開いた。
 住民ら150人が犠牲者に献花をして追悼。長沼中2年の佐藤つぐみさん(14)が意見発表した。佐藤さんは当時小学4年。ダム決壊後、校庭まで迫った濁流について「家や車など全てをのみ込み、残ったのは泥だけ。自然の力の怖さを知った」と体験を語った。
 実行委員長の加藤和記さん(64)は「10年、20年、100年過ぎても震災の記憶をつないでいこう」とあいさつ。会場では、水がなくなった湖底から見つかったアジサイの株を展示。復興のシンボルとして、地域で栽培が進んでいることが紹介された。
 農業用の藤沼ダムは震度6弱の地震で決壊、150万トンの水が下流域に押し寄せた。住民7人が死亡し、当時1歳だった男児が今も見つかっていない。

<陸前高田/孫の成長を報告「前向き生きる」>
 東日本大震災の死者・行方不明者が1700人を超える陸前高田市で、市主催の追悼式が高田小体育館であった。遺族や関係者約900人が参列し、犠牲者に祈りをささげた。
 黙とう後、戸羽太市長は「高台造成や市街地のかさ上げなどが軌道に乗り、復興を実感できる1年にしたい」と式辞を述べた。
 遺族代表の佐々木とも子さん(63)は、河口近くの橋で作業中だった夫安基さん=当時(57)=を亡くした。震災前の3月7日に生まれた初孫に、夫と2人で会いに行った思い出に触れ「孫は4歳になった。心にぽっかり空いた穴は埋まらないが、家族は前を向いて生きていきます」と追悼の言葉を述べた。
 参列者は、それぞれ祭壇に献花し、犠牲者の冥福を祈った。陸前高田市は、遠方の遺族が参列しやすいよう、3月11日直前の日曜に追悼式を開催している。

<南相馬/16人の名前刻む、慰霊碑建立式典>
 東京電力福島第1原発事故の避難指示が続く南相馬市小高区の塚原行政区で、東日本大震災の津波犠牲者16人の名を刻んだ慰霊碑が建立され、式典があった。
 避難先から駆け付けた遺族や住民が、再建された公会堂わきに完成した慰霊碑に献花。母トキ子さん=当時(76)=を亡くした市職員の村田博さん(59)=同市原町区に避難中=は「あの時を思い出すと泣けてくる。旅立った人たちの無念を思えば、二度と犠牲を出さないようにしなければいけない」と語った。
 同行政区では、115世帯あった住宅のうち69世帯が津波で失われた。今野由喜区長(64)は「住民にとっては忘れることのできない悲しみ。地域の安寧を祈り、震災を後世に伝えていく」と誓った。

<双葉・いわき/原発事故が影響、捜索の遅れ無念>
 東京電力福島第1原発事故で全町避難している福島県双葉町の追悼式が、いわき市で行われた。
 双葉町は津波で21人が死亡・行方不明となり、128人が関連死と認定された。遺族ら約100人が参列した式で、伊沢史朗町長は「古里に戻り、平穏な暮らしを取り戻す」と誓った。
 遺族を代表し、祖父母を津波で亡くした町職員岡田浩行さん(30)が「震災後1カ月、原発事故で捜索ができなかった。救助を待っていた人のことを思うと無念でならない。懸命に生きることが、残された者の使命だと思う」と述べた。
 関連死を含め460人が犠牲になったいわき市でも追悼行事があり、約800人が出席。遺族代表の農業荒川明さん(64)は、妻を失った当時の状況や心境を振り返りながら「妻を安心させるためにも前を向き、進みたい」と述べた。友好都市のハワイ・カウアイ郡の女性歌手も参列し、追悼の歌を披露した。

<宮古/被災前の街並み、写真などで紹介>
 宮古市田老の東日本大震災前の街並みや復興が進む様子を写真などで紹介する震災4周年追悼企画展が、田老公民館で開かれている。11日まで。無料。
 NPO法人「立ち上がるぞ!宮古市田老」が2012年に始め、毎年開催している。多くの写真のほか、盛岡市の高校生が震災学習で作成したリポート、乙部地区の高台に造成中の団地の模型など計約250点を展示している。
 訪れた人々は震災前の街を懐かしんだり、復興後のイメージを思い描いたりしていた。NPO法人の大棒秀一理事長(63)は「震災の記憶を風化させないためにも、できる限り続けていきたい」と話している。
 企画展は午前10時〜午後4時。同法人は11日、田老の巨大防潮堤の上で手をつないで犠牲者を追悼する。連絡先は090(7002)0915。


募る思い、光に託す 名取・閖上で追悼行事
 東日本大震災の発生から11日で4年となるのを前に、被災地では8日、犠牲者の追悼行事などが行われた。名取市閖上の旧閖上小では、犠牲者の鎮魂と一日も早い復興を願い、絵灯籠とキャンドルを並べるイベントがあった。
 校庭に2500基の絵灯籠と2000本のキャンドルが置かれ、キャンドルに火がともる様子と花が描かれた。絵灯籠には、全国から届いた手書きの絵と「笑顔」「希望」などのメッセージが浮かんだ。
 閖上を津波が襲った午後3時55分に参加者で黙とうをささげた。両親や友人を亡くし、復興への思いを地域情報誌で伝える会社員格井直光さん(56)は「あの日を忘れたことはない。亡き人の思いを継いで前を向いて生きていく」と語った。


復興願い、たこ揚げ 仙台
 東日本大震災からの復興を願い、被災地に生きる子どもたちの笑顔の写真をプリントしたたこを揚げる催しが8日、仙台市若林区の広瀬川河川敷であった。
 約80枚、長さ約50メートルの横連だこには、東松島市で撮影した子どもたちの笑顔の写真が印刷されている。風が弱く小雨が降る悪条件の中、「仙台凧(たこ)の会」のメンバーら15人が力を合わせ、空に虹のような笑顔のアーチを架けた。
 凧の会の庄子明宏さん(60)=宮城県大衡村=は「子どもたちの笑顔は世界の願い。楽しくたこを揚げられる日が来るまで続けたい」と話した。
 NPO法人メリープロジェクト(東京)が、震災から4年となる11日に合わせ、世界各地でたこ揚げをする試みを呼び掛けている。


慰霊モニュメント設置 七十七銀女川支店の犠牲者家族
 東日本大震災で行員ら12人が死亡・行方不明になった女川町の七十七銀行女川支店の犠牲者家族が8日、慰霊花壇にモニュメントを設置した。支店跡地周辺では造成工事が進み震災の爪痕が目に見えにくくなる中、悲劇の記憶と教訓を伝える役目を果たしていく。
 モニュメントは、台座を含め高さ約1.5メートル、幅約1メートルの蔵王石で造られた石碑。川崎町で彫刻工房を営む平泉正司さん(55)が制作した。スーツと制服をそれぞれ着た男女の行員がほほ笑む姿が描かれており、台座には家族が考えた、津波避難で高台へ逃げることの大切さを訴えた文章が刻まれた。
 家族らはモニュメントに線香と花を手向け、手を合わせた。支店跡地の方角を見ながら涙を拭う家族の姿も見られた。
 モニュメントが設置された慰霊花壇は1月、かさ上げ工事に伴い支店跡地から80メートルほど離れた町の献花台脇に移された。
 支店に勤めていた派遣社員の高松祐子さん=不明当時(47)=の夫康雄さん(58)は「犠牲者家族以外も立ち寄って、震災時ここで何が起こったのかを知ってほしい」と語った。


<震災4年>復興財源に危機感 被災3県知事
東日本大震災の発生から11日で4年を迎えるのを前に、岩手、宮城、福島3県の知事が河北新報社の取材に応じた。国による集中復興期間(2011〜15年度)後の財政支援に不透明感が増す中、復興事業の財源確保に全力を挙げる姿勢を強調した。
 達増拓也岩手県知事は「新たな借金をして財源を確保するのは容易ではない。通常分を削減して復興分に回せば、県全体として経済や生活が劣化する」と危機感をあらわにした。
 16年度以降の復興予算に関し、竹下亘復興相は全額国費負担の枠組みを見直し、事業によっては被災自治体に負担を求める考えを明らかにしている。内堀雅雄福島県知事は「16年度以降も復興の道のりは長い」と語り、集中復興期間の延長要請を続ける考えを示した。
 地域再生に向け、村井嘉浩宮城県知事は「1次産業の6次化などに取り組み、創造的復興を成し遂げる」と強調。達増知事は「なりわい再生を軸に質の向上を図る」と語った。
 村井知事は災害公営住宅の早期整備策にも言及し、「労働力と建設資材の円滑な供給に努力する」と話した。
 東京電力福島第1原発の廃炉に絡み、内堀知事は「溶融燃料の取り出しに向け、国や東電は技術開発を加速してほしい」と要望した。


<被災地のいま>(8)賠償/今月で打ち切り 苦悩
 田村市都路地区東部が、東京電力からの精神的損害賠償(慰謝料)で揺れている。1人当たり月10万円の支払いが今月で打ち切りになるためだ。一帯は福島第1原発事故に伴う影響が色濃く残る。生活再建の途上にある住民は、先行きへの不安を募らせている。
 山林の斜面にシイタケのほだ木が並ぶ。「7万本以上は廃棄しなくちゃならない」。市内の農業坪井哲蔵さん(66)がつぶやいた。
 生活圏の除染は終了したものの、山林はいまだ手付かずの状態が続く。野ざらしとなっているほだ木の放射性物質濃度は高い。露地シイタケの出荷制限が解除される見通しは立たない。
 坪井さんは昨年、避難先から都路に家族3人で帰還した。住み慣れた場所には戻ったが、営農収入はゼロのまま。なりわいを原発事故で奪われ、東電からの慰謝料なしには生活は成り立たなくなった。
 「山の仕事がだめになった場合、国や東電はどうしてくれるのか。きちんと現場を見てほしい」。荒れていく里山を前に、坪井さんが口調を強めた。
 原子力損害賠償紛争審査会長はことし1月、「慰謝料は避難指示解除後、1年をめどに打ち切るのが妥当」との見解を示した。都路地区は昨年4月に指示が解除されており、3月いっぱいで期限を迎える。
 避難指示で生活の場所を取り戻しても、豊かな自然は容易には元には戻らない。根強い風評にさらされる生産農家の苦悩は深い。
 「コメの作付けを再開しようと希望を持って帰還したが、今の米価ではとても採算が合わない」。地区内の農家坪井幸一さん(66)はことしの作付けを諦めた。
 東北の農家は今も米価下落にあえぐ。原発事故を抱えた福島の場合はさらに深刻だ。低迷する市場の評価は営農意欲をそぎ、都路東部の稲作再開率は昨年、25.2%と伸び悩んだ。
 幸一さんは2年前まで原発作業員をしていた。東電の就労不能損害賠償は先月打ち切られたばかり。旧警戒区域のコメの作付け自粛への補償もあるが、16年産米分までに限られる。
 「慰謝料の打ち切りは仕方ないし、賠償で生活しようなんて思っていない。風評被害が払拭(ふっしょく)され、震災前のようにコメを作って生活の糧にできればいいんだが…」。ため息をつきながら、イノシシが荒らした育苗用のハウスを見やった。(郡山支局・吉田尚史)


<大川小>「保存」、「解体」上回る 復興協アンケート
 東日本大震災で児童と教職員84人が犠牲になった石巻市大川小の被災校舎について、地元住民組織「大川地区復興協議会」は8日、全体説明会を開き保存の是非を話し合った。参加者から解体、保存それぞれの意見が出され、終了後に集約したアンケートでは保存が解体を上回った。協議会は20日、委員約50人で会合を開いて方向性を検討し、地元の意見をまとめる。後日、市に要望する方針。
 協議会は校舎周辺を「鎮魂の森」として整備する復興計画案を提示した。校舎については(1)全部を解体して跡地に平面図を復元。タブレット端末などで校舎の写真や映像が見られるようにする(2)低学年の学習棟など一部を保存する(3)全部残す−の3案を示した。
 住民126人が出席し、3案に対し意見を述べた。全部の解体を求める住民からは「あの場所で家族が亡くなり、通るたびつらい。あんな廃虚よりもレプリカなどで震災前のイメージを残してほしい」「維持管理費をどう確保するのか。将来の人に背負わせるべきではない」との意見が出た。
 大川小を卒業した中高生6人は全部の保存を望む立場で思いを語った。「亡くなった友だちと友情を育み、大切な思い出が詰まった母校を残してほしい」「どんな写真や映像よりも、校舎を見る方が津波の怖さが伝わる。悲劇を繰り返さないよう語り継がなくてはならない」などと訴えた。
 参加者アンケートには120件の回答があった。全部解体を支持したのは37件、一部保存は3件、全部保存は57件だった。ほかに、全施設を解体して更地にすることを求める意見が11件あった。
 協議会の大槻幹夫会長(72)は「大川地区全体として集まったのは初めてで、真剣な意見が交わされた。アンケート結果を踏まえて協議会で話し合い、総意をまとめたい」と述べた。


<巡るあの日>再会のとき きっと来る
◎(3)及川道男さん(65)=宮城県南三陸町
 これまでとは違う11日になるかもしれない。宮城県南三陸町歌津の農業及川道男さん(65)は、妻よし子さん=当時(60)=の葬儀後、初めての3.11を迎える。東日本大震災の津波にのまれ、今も行方が分からない。
 葬儀を出したのは昨年7月半ばだった。遺体発見を待ち続けるうちに3年4カ月がたっていた。「どこかで区切りを付けないと。区切りって何なのや、と言われると答えられないが…」
 よし子さんは自宅で被災した。明治三陸大津波で海辺の家を流された先祖が移住した場所。海抜は10メートル以上で海まで300メートル近くある。昭和三陸津波やチリ地震津波の被害も受けなかった。
 震災の日、及川さんはよし子さんに「ここまで津波は来ない。出ないように」と伝え、漁船の様子を見に家を出た。「うんうん」と言っていたような記憶が残る。それが別れとなった。
 悔やんだ。自分を責めた。避難所から仮設住宅に移り、独りになった時が特につらかった。地域の仲間に支えられ、孫の手紙に励まされ、生きてきた。
 四六時中ではなくなったが、今もふと死別の悲しみに全身が包まれる時がある。話し相手がいないのが一番こたえる。
 よし子さんの骨つぼは一番小さいのを買った。「入れるものないんだもの」。いつも忙しそうに動いていた台所あたりの土を移植ベラですくって入れた。それと写真。家事の好きな人だった。
 死亡届も出した。生命保険の支払いを止めた。受け取ってしまった年金は返還した。「生き残った者の務め。粛々と一通りのことをやった」と話す。
 3.11は特別なことはしない。静かに過ごす。「やることやったべし。戒名もしっかり刻んだ。なんぼか気が楽になるかもしれない。葬式を出して良かったと思わないとやっていけない」
 「ただ、女房はどう思っているかな。体が見つからないのに葬式やって、と怒っているかもしれない」。無理だろうとは思う。でも、いつかはとも信じる。よし子さんとの「再会」のときが来ることを。
(南三陸支局・中島剛)


<被災地のいま>(8)賠償/「命綱」自立阻む懸念も
 止まっては動き、また止まる。一度さび付いた製造機器はなかなか言うことを聞かない。新たに設備投資する余裕はない。
 福島県浪江町の建材製造会社、日化ボード。屋根の下地となる木毛(もくも)セメント板を手掛ける。社長の朝田英信さん(65)が工場を再開させたのは2013年4月だった。東京電力福島第1原発事故で町が避難区域に指定され、2年以上の休業を強いられた。
 「なんとか軌道に乗せられそうだ」。再生への光明が見えかけた昨年12月、衝撃的な話が飛び込んできた。営業損害賠償について、東電が16年2月で打ち切るとの素案を示したとのニュースだった。
 2年間のブランクに風評被害が追い打ちをかける。取引先は事故前の半分に減ったままだ。「品質のいい物を作れば客は応えてくれるはず」と自らに言い聞かせるが、東電からの賠償金は資金繰りの命綱となっている。「早すぎる。工場をつぶすわけにいかない」。朝田さんは唇をかむ。
 県商工会連合会によると、避難区域にある10商工会の加盟事業所のうち、事業を再開したのは50.43%の1236カ所(2月20日現在)。地元での再開は229カ所にすぎない。商圏の喪失にあえぐ事業者も多く、関係団体は賠償延長を強く求めている。
 延長の必要性を訴える朝田さんだが、心中には別の思いも芽生えている。「賠償に頼り続けていれば、いつか自力で立てなくなる」
 これまで賠償によって労働意欲を失った仲間の姿を見てきた。東電からの金は暮らしや会社を支えてくれる一方、依存すれば工夫や努力を阻害する毒にもなるとも感じている。
 仮に賠償期間が延びたにせよ、未来永劫続くわけでもない。「打ち切られるまでに持続可能な会社にしなければ」。経営者として先を見据える。
 賠償は、1人当たり月10万円の精神的慰謝料や財物賠償など多岐にわたる。これまで支払われた総額は計約4兆7125億円。事故前の福島県の一般会計予算の5倍に相当する金が被災者、被災事業所に配分された計算になる。
 事故から4年。賠償と自立のはざまで、福島は揺れ続けている。(福島総局・桐生薫子)

[営業損害賠償] 原発事故当時、避難区域で営業していた商工業者を対象に、事故に伴う減収分を賠償する。現行の賠償期間は12年7月〜15年2月分。東電の素案は、16年2月までの1年分について商圏の喪失や減収が認められる場合のみ賠償するとした。


大震災4年 防災の誓い/警戒怠らず備えを万全に
 あれだけの大きな揺れや津波は、自分が生きているうちにはもう来ないだろう。
 誰もがそう思う、あるいは思いたいに違いない。しかし、冷静に考えれば根拠はどこにもないことに気がつく。
 東日本大震災から4年、活発だった余震も収まり加減と思っていたが、先月17日には大きな揺れに見舞われた。
 岩手県沖を震源とするマグニチュード(M)6.9と5.7の地震が、朝と昼に相次ぎ、津波注意報も出た。
 依然として東北が巨大地震の影響下にあり、私たちは警戒を怠れない地域で暮らしているという現実を思い起こさせられた一日だった。
 被災地にとって3.11の周年総括は、被災者の生活再建や地域再生の行方が最大のテーマになるが、鎮魂や追悼ともに、犠牲の教訓と備えの覚悟を心に刻む機会であることを忘れてはならない。
 政府や自治体、関係機関はもちろんのこと、個人個人がが被災の記憶を振り返り、家庭や学校、地域、会社であらためて必要な備えを語り合い、防災・減災の誓いを新たにすることが求められる。
 仙台市が昨年8月に行った意識調査で、巨大地震が今後10年以内に起こると考える市民の割合は17%だった。
 震災前の2010年度に行った同じ調査では、宮城県沖地震への警戒感を背景に52%を記録しており、3分の1に急減したことになる。
 震災が発生したことで「もう来ない」の意識が広まったのはある意味当然とも言えるが、切迫感が薄れたことにより、備えがおろそかになっているとしたら見過ごせない。
 大津波で22万人以上の犠牲が出たインドネシアのスマトラ沖地震では、04年の本震発生後もM8級前後の大きな余震が継続して発生し、10年の地震では津波などで数百人の犠牲が報告されている。
 震災のメカニズム研究はその後進んでおり、先日は気になる研究成果が筑波大などのチームから発表された。
 震災の震源域である東北沖のプレート境界面周辺で、地震の原因となる断層面などへの力の蓄積状態が、震災前の水準近くまで戻っていることが分かったという。
 研究者の「いつ巨大地震が発生しても不思議でないレベル」という談話は、しっかりと記憶しておきたい。
 折しも、政府は日本海溝と千島海溝で発生が懸念される巨大地震の想定見直し作業に着手した。死者33万人を想定した南海トラフ巨大地震と同様に、震災前に立てられた死者2700人の想定は大幅に修正されることになる。
 火山噴火や活断層地震の誘発も含め、震災の影響がしばらく続くとの見方は根強く、総合的な警戒が必要となる。
 求められるのは、いたずらにおびえることではなく、想定や予測を踏まえて災害にきちんと向き合う心構えだ。
 震災を経験した地域ならではの防災の構えを、全国、世界の災害想定地域の人たちが注目している。それは世代を超えた伝承にもつながる。
 鎮魂と追悼の機会に静かに手を合わせ、「2度と同じ犠牲は繰り返しません」と誓うことから歩みを始めよう。


苦悩続く福島 事情の違い超え支援を
 おばあちゃんの原宿として知られる東京・巣鴨の地蔵通り商店街近くに、福島県からの避難者らが集う小さな憩いの場がある。「巣鴨さろんカモノス」だ。

 豊島区民社会福祉協議会が震災7カ月後に開設した。ここには福島の地元紙2紙が1日遅れで配達される。話題になるのは、福島第1原発の事故処理だ。「汚染水は大丈夫か」「本当に廃炉にできるのか」。そんな不安が日々語られていると、相談員の今野喜美子さん(77)は言う。

 東日本大震災からまもなく4年。原発事故で広大な地域が放射能によって汚染された福島の状況は特に過酷だ。政府による避難指示は今も10市町村に及ぶ。
 ◇避難者は全都道府県に

 避難者はなお12万人を数え、うち5万人近くが県外避難だ。全都道府県に散り散りになり、東京では最も多い約6100人が生活を営む。

 遠く離れていても故郷が直面する原発事故との闘いに心を痛める避難者たち。その現実を私たち一人一人が改めて直視したい。

 実は今野さんも避難者だ。自宅は同県南相馬市原町区にある。事故後、警戒区域に指定され、娘2人が住む東京に避難した。地元の避難指示は解除され、賠償は打ち切られたが、避難生活を続ける。

 やはり「カモノス」に顔を見せる小畑善昭さん(65)は、全町避難が続く楢葉町の出身だ。96歳の母親は一昨年、脳梗塞(こうそく)を起こした。東京では週3回介護施設に通い、訪問看護や医者の検診も受ける。もし、楢葉に戻ったら介護は継続できるのか。二重生活が頭をよぎるという。

 東京都江東区の公務員宿舎で避難生活を送る富岡町出身の40代の主婦は「毎日がいっぱいいっぱいです」と言いつつ、東京での学校生活に慣れていく中2と小5の息子を複雑な思いで見つめる日々だ。

 避難の理由はさまざまだ。避難指示に伴う避難のほか、自主避難や避難指示解除後も帰還しないケースがある。それぞれ家族構成は異なり、自宅再建、仕事、医療、子供の教育など抱える課題や優先順位も違う。

 帰還や移住への考え方の違いが、時間の経過とともに浮き彫りになってきた。福島の被災地で暮らす人を含めて、あらゆる立場の被災者を固別の事情に応じて支える態勢を取り続けなければならない。

 1日、首都圏と宮城県を結び、福島県を縦断する常磐自動車道が全線開通した。安倍晋三首相は「復興の起爆剤になると確信している」と述べた。こうしたインフラの復旧はもちろん重要だ。ただし、それは復興の入り口に過ぎない。

 政府や県、地元自治体は一体となって、被災者の被害実態をきめ細かく把握し、その将来展望に辛抱強く耳を傾けてほしい。

 そうした地道な作業が、賠償など難しくなりつつある問題を解決する糸口になるのではないか。

 大熊、双葉両町が中間貯蔵施設の建設を受け入れる一方で、放射線量が年間20ミリシーベルト以下の「避難指示解除準備区域」がほぼ全域の楢葉町では、「今夏にも指定解除か」との声が聞かれる。だが、住民帰還へのハードルは高い。
 ◇放射能への不安根強い

 戻る住民が住むはずの住宅は荒廃が進む。解体しての建て直しやリフォームが必要だが、国が財政負担して進める家屋の解体ペースは遅く、今月末で目標の3分の1が終了するにとどまる。修繕も業者の人手が足りず進んでいない。

 楢葉町民が住むいわき市内の仮設住宅で世話役を務める小松岳生さん(58)は「除染は進むが空間線量が高い場所はまだある。水や食べ物も不安だ。原発事故の影響については、本当のことを知らされないできたから疑心暗鬼が残る」と言う。

 放射能への不安が高いことは、県民への世論調査から明らかだ。

 住まいや安全、健康といった足元の不安を払拭(ふっしょく)する努力が先決である。環境の激変に伴う精神的なケアもこれからが重要になる。前のめりで避難指示を解除しても、住民は戸惑うだけではないか。

 それでも楢葉町の町民アンケートでは、「戻る」「条件が整えば戻る」という回答が4割を超す。

 将来が見通せないことの深刻さに一層直面しているのが、放射線量が年間20ミリシーベルトを超える「居住制限区域」や「帰還困難区域」の住民だ。

 復興庁が実施した意向調査では、福島第1原発周辺の浪江、双葉、大熊、富岡の各町で帰還の意向を持っている人は1〜2割にとどまった。

 帰還をあきらめて他の地域への移住を決めた人がいる一方で、その決断をしかねている人もいる。

 将来的に戻らない意向の人たちの生活再建を急ピッチで進めることが肝要だ。住宅や雇用など生活の柱の政策を一層手厚くすべきだ。

 戻る希望を抱き続ける人もいる。まず地域のつながりを保つ町外の復興拠点作りに全力をあげたい。その先故郷に戻った時、日常生活が成り立つ町づくりをどう展望するのか。行政の責任は重い。

 福島の人たちのために何ができるのか。原発事故の影響が続く限り国全体で考えていかねばならない。


東日本大震災4年:命の道、照らしたい 宮城県名取・閖上
 東日本大震災から4年になるのを前に、各地で8日、追悼行事が営まれた。750人以上が死亡・行方不明となった宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区では住民が逃げ込んだ閖上小の旧校舎校庭や避難経路を灯籠(とうろう)の火で照らした。

 旧校舎校庭には全国から届けられた絵灯籠やろうそくなど計4500個が並べられた。津波到達時刻の午後3時55分には参加者約300人が黙とうし、日が暮れると「閖上愛 心を1つに」の文字が炎で浮き上がった。避難途中に波にのまれた犠牲者にゴールが分かるように、同小までの約1.2キロの沿道を絵灯籠1500個で照らす「光の道」も作られた。【三浦研吾】


東日本大震災:他自治体で自宅再建23% 被災20市町村、人口流出止まらず 毎日新聞調査
 東日本大震災で自宅を失った被災者の住宅再建先を集計している宮城、岩手、福島の20市町村で、少なくとも計4865世帯が別の自治体に転居したことが毎日新聞の調査で分かった。自宅を既に再建した世帯の23%を占め、自宅を失った世帯の10%に当たる。昨年も集計していた15市町村では1年前に比べ、転出の割合が2ポイント増加しており、被災地からの人口流出に歯止めがかからない実態が浮かび上がった。

 毎日新聞は今年1〜2月、津波被害の大きい被災3県の市町村(福島県の全町避難自治体は除く)を対象にアンケートを実施。国の被災者生活再建支援法に基づき、全半壊した自宅を解体した住民は基礎支援金(最高100万円)を、避難生活を終えて住宅を購入・補修・賃貸する際には加算支援金(同200万円)を元の自治体に申請できるため、加算支援金申請件数と、そのうち別の自治体での再建を申請した世帯数を尋ね、人口流出の実態を探った。

 今年、加算支援金申請者の住宅再建先を集計していたのは、岩手11市町村▽宮城7市町▽福島2市町−−の計20市町村。基礎支援金を申請したのは計4万7849世帯で、加算金も申請したのは計2万927世帯だった。うち4865世帯が別の自治体に移っていた。

 仙台市や宮城県石巻市など流入も多い都市部の自治体は集計していなかった。

 別の自治体での再建を選択した世帯の割合が最も高かったのは、宮城県女川町の73%で、同県南三陸町の49%が続く。いずれも町全体が被災した地域で、かさ上げや宅地整備の遅れなどが人口流出につながっているとみられる。

 一方、昨年と比較できる15市町村では、加算支援金申請件数は2割増の1万4963世帯。別の自治体で再建した被災者の割合は、昨年の22%(2690世帯)から、今年は24%(3540世帯)に増加していた。【金森崇之】


東日本大震災4年:宮城・大川小校舎、保存提案へ 地元住民ら多数同意 卒業生「記憶残して」
 東日本大震災の津波で児童74人と教職員10人の計84人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校の被災校舎の保存について、地域住民で作る「大川地区復興協議会」と遺族らとの集会が8日開かれ、参加者にアンケートを実施した結果、「全体保存」を望む意見が最多となった。協議会の大槻幹夫会長は「全体保存を求める要望書を市に提出することになる」と話した。市は住民の意見を踏まえて検討を始める方針で、保存に向けた議論が大きく動き出す。【百武信幸】

 この日の話し合いには遺族や現在の大川小の保護者を含めて約120人が参加。(1)全体保存(2)一部保存(3)解体し、立体映像で見せる拡張現実装置の設置−−の3案について参加者から賛否の意見を聞いた後、アンケートをした結果、「全体保存」が57人で最も多かった。「一部保存」は3人、「解体」が37人、「その他」が15人だった。

 話し合いでは、娘を亡くした男性が「負の遺産。亡くなった子らも(校舎を見て)親が苦しむ姿を喜ばない」と解体を求める一方、地元での意見表明をためらってきた同小の卒業生6人も発言。当時5年で、津波にのまれ助かった只野哲也さん(15)が「校舎を見ることはどんな文章や映像よりも強い印象を与える。なくなれば友達や地域の人が生きた記憶が薄れ、本当の意味で死んでしまう」などと訴えると、涙を流す遺族の姿もあった。

 「全体保存」が多数を占めた結果について、遺族会の鈴木典行会長(50)は「遺族会が12年8月にとったアンケートでは壊す方がいいという意見が多かったが遺族の間でも保存を求める声が増えている。来られなかった遺族もいるが、住民、遺族が集まって出た意見として意味がある」と述べた。

 同協議会はこれまで、被災校舎を地区の復興の中心と位置づけ、校舎周辺を「鎮魂の森」として公園化する整備案をまとめている。市は津波火災の跡を残す市立門脇小の保存の検討を進めているが、「大川小についても住民、遺族の意見を尊重し対応を検討する」としている。

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 ■ことば
 ◇大川小学校の被災校舎

 太平洋から約4キロの北上川右岸に建つ2階建て校舎。東日本大震災で屋上を越える津波にのまれた。教室と体育館を結ぶ渡り廊下はねじ倒され、校舎全体が吹きさらしの姿で残る。現在も国内外から追悼に訪れる人が絶えない。児童23人の遺族は昨年3月、宮城県と石巻市を相手取り、損害賠償を求めて仙台地裁に提訴。安全対策を怠ったとして学校側の責任を問う裁判が続いている。


東日本大震災4年:愛犬から生きる力 妻子と孫失った宮城の76歳、ペット通じた交流団体設立
 東日本大震災の津波で妻と娘、孫2人を失い、仮設住宅で暮らす宮城県東松島市の川上由夫(よしお)さん(76)が、集団移転先の住民と一緒に、ペットを通じた交流団体を設立した。自分を責める日々から救ってくれたのが、ともに生き残った愛犬のビーグル「トワ」(7歳、雄)がくれた人とのつながりだった。震災から4年。「自分が今も苦しむ人を支えたい」と思えるようになった。【柳沢亮】

 2011年3月11日、川上さんは妻和子さん(当時66歳)と海岸から約500メートル離れた同市の大曲浜地区の自宅にいた。大きな揺れ。市内の内陸部に住んでいた長女真弓さん(同43歳)が川上さん夫婦を心配し、中学校にいた孫の龍君(同14歳)、聖(たから)君(同13歳)を車に乗せて駆けつけた。無事を確認し合った時、津波が足元まで迫っていた。

 車3台で逃げようとした。和子さんの車には龍君、真弓さんの車には聖君が乗った。「トワを頼んだよ」。和子さんの言葉で、川上さんはトワを乗せ、エンジンをかけた。出発して間もなく、波にのまれた。車外に出た龍君が3メートル先で「助けて」と叫ぶ姿が見えたが、すぐに視界から消えた。

 川上さんの車は前部が沈み込む形で波に浮かんだ。トワを抱きながら車内で一晩を明かした。「雪が降る寒さの中、トワの体で温められた」。車が打ち上げられたのは約1キロ内陸部だった。翌日、体育館でブルーシートにくるまれた龍君と対面した。約1カ月後、和子さんら3人も車の中から遺体で見つかった。

 「娘と孫は俺を迎えに来なければ助かったのに。なぜ俺だけ死ななかったのか」。1人残された川上さんは避難所でふさぎ込んだ。生きる目標を失っていた。

 そんな生活を変えてくれたのが、妻に最後に世話を託されたトワだった。名前は「幸せを永遠(とわ)に」との願いを込めて孫が付けた。

 散歩に連れ出すと、出会う住民が声をかけてくれた。仮設内で会話が徐々に増えていき、動物保護のボランティアの人たちとも知り合った。13年12月にはボランティア団体の誘いで、名古屋市内で体験を語った。いつしか、つらい過去を大勢の前で話せるようになっていた。「トワがつないだ人との縁で前を向けた」と思う。

 川上さんは今夏をめどに、市内の防災集団移転先「あおい地区」に自宅を再建する予定だ。「震災の苦しみを口に出せない人は多い。住民同士が支え合える街にしたい」。引っ越しに先立ち昨年12月、ペットを通じて移転先の住民の親睦を深めようと、「あおいペットクラブ」を設立した。ペットの有無にかかわらず会員を募り、地域の巡回やイベントを企画したいと考えている。


東日本大震災4年:宮城・女川の人口流出 古里再生、待てない
 東日本大震災の津波が襲った沿岸部の多くの市町村で、人口の流出が止まらない。特に、ほぼ全域が被災した自治体では、他の自治体への避難を余儀なくされた人たちも多く、そのまま古里を離れてしまうケースが目立つ。毎日新聞の調査で、自宅を再建した世帯の7割超が町外を選んだ宮城県女川町では、厳しい現実と向き合う中で、新たな取り組みも芽生え始めていた。【百武信幸、中里顕】
 ◇市街地集約まだ4割

 海岸から約200メートルの高台に、女川町のシンボル「ウミネコ」が羽ばたく姿を模した白い大屋根が目立つ。沿岸から移転し、21日に開業するJR石巻線女川駅だ。震災から4年をへて、ようやく鉄路で石巻や仙台と結ばれる。町を支える水産業は鮮度が命。鉄路による後押しに期待がかかる。

 「駅は終点ではなく、海から始まる出発点。ここから全国、世界に向けて女川を発信していく」。須田善明町長は熱っぽく語る。震災で住宅の9割弱が被災し、駅周辺に町役場や住宅、学校、商店街などを集約するコンパクトシティー構想を打ち出した。昨年12月には公共・商業施設の一体整備を支援する国の「まちなか再生計画」の第1号認定を受けた。

 だが今、3階建て駅舎から見渡せるのは茶色い更地。かさ上げ工事を急ぐ重機がうなりを上げる。須田町長は「進捗(しんちょく)は4割程度」と話す。構想の完了予定は4年後だ。

 灰色の空から雪が舞い散る2月1日。プレハブの女川町役場仮庁舎で、町内に自宅を再建する人向けの宅地抽選会が開かれた。対象は建設中の役場新庁舎近くなどで造成中の194区画のうち17区画。利便性が高い場所に応募が集中し、倍率は最大3倍に上った。

 「よかった。当たったよ。抽選になって夜も寝られなかった。外れたら、もう町にいられないと思っていたんだ」。ホヤ養殖業の小松洋一さん(70)は顔を紅潮させた。半島部の尾浦地区の自宅は津波で全壊。隣の石巻市で県が民間から借り上げたみなし仮設住宅で避難生活をしている。

 自宅があった場所は危険区域に指定され、最寄りの高台の造成完了は数年後。年齢を考えて地元に戻ることは諦めた。スーパーなどが近くて便利な石巻に定住するか悩んだが、バスや列車で病院にも行きやすいこの場所ならと申し込んだ。

 町が造成中の宅地の抽選をするのはこの日が初めてだった。引き渡しは早くて10月、遅いところで2018年秋だが、将来に希望を持ってもらうことで転出を食い止めようと実施した。別区画の募集はまだあるが、外れた人の表情は硬かった。「もう町ん中にはいられねえ」。子や孫と出てきた年配の男性はつぶやいた。

 11年3月、女川町の人口は1万14人だったが、震災で827人が死亡・行方不明となった。転入よりも転出が上回る状況が震災前より加速し、その差は▽11年12月までに710人▽12年は395人▽13年は440人▽14年は322人−−と推移。今年2月末現在の人口は7089人(外国人登録者を含む)で、約3割減となった。町によると、転出先の5割強は石巻市、2割弱は仙台市。町内での住宅再建を待てず、避難先に定着してしまうケースも多い。

 女川で生まれ育ち、沿岸の国道沿いで指圧治療院を営んでいた佐藤行義さん(42)は、津波で同居の母と祖父を亡くし、店も流された。町内の仮設住宅に限りがあったため、石巻の仮設で暮らし、翌年、石巻で治療院を再建した。「女川のあの海のにおいもなく、漁船の音も聞こえず、寂しさはある。でも、女川は人口も減り商売をするには厳しい。石巻は買い物も便利で安全。3人の子供も石巻での生活に慣れたので、戻るつもりはない」

 女川町の自宅が被災し、町内に早期再建できる場所が見つからずに石巻市に引っ越した機械修理会社社長の鈴木政人さん(53)は「吹っ切ったつもりだけど、女川の人間にとって世界の中心はやっぱり女川。将来的には戻りたい」。気持ちは今も揺れる。
 ◇動き始めた若い力

 被災した沿岸自治体は元々、少子高齢化、過疎化に悩んでいた。それに震災が追い打ちをかけているのが現状だ。厳しい現実への対応策はあるのか。

 女川町で創業支援や人材育成活動をするNPO「アスヘノキボウ」代表理事の小松洋介さん(32)は「若者の力が鍵」と指摘する。「女川には『若者に任せろ』という意識が年長者にあり、新しいことに挑戦しやすい」と感じるからだ。

 仙台市出身の小松さんは震災後、東京の情報産業会社を退社。「自分たちでなんとかしなければという強い熱意」に共感して女川に拠点を定め、首都圏の大学生を町内の企業にインターンで呼び込んだ。移住を望む若者も現れた。さらに町と協力し、町職員を含む20〜40代の25人を経済同友会(東京)に派遣し、横のつながりを広げている。

 今春からは短期滞在の希望者を募り、移住につなげる取り組みも計画。女川駅のそばに28日、起業を目指す若者らの交流拠点となる「フューチャーセンター」も開設する。「ただ人口を増やせば地域が活性化するとは思わない。人、モノ、金、情報を外から引っ張り、町からも生んで循環させることが重要。そのために女川で若者の夢や思いを形にできるようにしたい」と強調する。

 震災後、古里の女川に東京から戻り、小松さんの支援も受けて町内の仮設商店街で地ビールバーを始めた木村優佑さん(31)は「私は実家が被災しなかったので戻れたが、実家が被災し、戻ろうにも戻れないという友人もいる。住宅整備を急げば、人は戻ってくるのでは」と期待する。

 須田町長は、3年後までは人口が減り続け、6500人程度になることを覚悟している。そのうえで、「10年後に生き残るため」に重要視するのは、約15万人が暮らし、生活・経済圏が重なる石巻市との共存だ。「女川からの転出先の半数以上が石巻ということは、頻繁に女川へ足を運び、知人を連れてきてくれるだろう。応援団と考え、彼らが戻りたいと思った時に帰れる環境を作りたい」と語る。


大震災4年:亡父のギターとともに音大へ 宮城の18歳
 「1回くらい、私の歌を聴いてほしかったな」。宮城県富谷町の県立泉高校3年、久我理亜(りあ)さん(18)は今春、東日本大震災で亡くなった父正春さん(当時44歳)の形見のギターを手に上京し、音大に進学する。津波は父を奪ったけれど、父は音楽という夢を残してくれた。だから、前を向いて歌い続ける。

 地震が起きた時、中学校の体育館でバレーボールの部活中だった。約4万7000人が暮らしていた富谷町は震度6弱の揺れに襲われたが、内陸のため津波は来ず、町内にいて亡くなった人はいなかった。「全然大丈夫」。そう思っていた。

 数日後、正春さんが勤める建設会社の社員が訪ねてきた。「ダメでした」。正春さんは仕事で同県名取市閖上(ゆりあげ)にいた。そこには高さ8・4メートルの津波が押し寄せ、911人が犠牲となった。

 久我さんが知る父は本を読んでばかりいた。若いころアマチュアバンドでベースを担当していたというが、ギターを弾くのは時々。小学生の時、プロのバンドのコンサートに連れて行ってくれて、音楽が好きになるきっかけをくれた。日曜は朝4時に起きて一緒に釣りに行った。

 そんな父が震災でいなくなった。「周りは3人、4人家族なのに私は母と2人暮らし。みんな楽しそうなのに自分だけが違う」。学校に通うのが嫌になり、日曜日も嫌いになった。

 中3の12月、正春さんのギターを弾かせてほしいと母理恵さん(46)に泣いて頼んだ。親戚宅に預けていたギターを取り寄せ、初めて触った。理恵さんは正春さんのバンドの曲が入ったカセットテープも見つけてくれた。初めて聴いた父の演奏。「かっこいいな」。いつでも聞けるよう、携帯電話に曲を入れた。正春さんが残した本を読み、音楽を聴き、ギターを弾いている時は、悲しいことも忘れられた。

 「がく亜り」という名前で音楽活動を始め、高校1年の終わりごろからライブハウスのステージや街角に立つようになった。高校や活動を通じて知り合った友人も見に来てくれた。「自分の歌を好きだと言ってくれる人がいたことが一番うれしかった」。父がくれた音楽は、たくさんの出会いもくれた。

 春から洗足学園音楽大音楽学部(川崎市高津区)に進学し、ギターや歌を本格的に学ぶ。「お父さんにギターを教えてもらいたかったけど、今はこんなに弾けるようになったって自慢してやりたいな」。もっとうまくなってプロになるのが目標だ。【金森崇之】


大震災4年:米NYで追悼式典 400人が参加
 【ニューヨーク草野和彦】東日本大震災から4年となるのを前に、米ニューヨーク市内の教会で8日、追悼式典が催された。在留邦人らで組織する支援グループが毎年開いており、約400人が参加。ビデオレターなどで被災者の復興への取り組みや心の苦しみを知り、支援への思いを新たにした。

 式典でスピーチした宮城県塩釜市の主婦、高橋匡美(きょうみ)さん(49)は、同県石巻市の実家が津波に襲われ、両親を亡くした喪失感から「何度も死のうと考えた」という。だが今では、「はいつくばってでも生きていかねばならないと思っている」と語り、大きな拍手を受けていた。

 主催者代表のシンガー・ソングライター、AK(アケミ・カキハラ)さんは被災地訪問の経験を踏まえ、「遠く離れたニューヨークから『忘れていない』というメッセージを伝えたい。それが被災者の心の支えになっている」とあいさつした。

 ピアノを弾きながら歌う人気音楽家、秦万里子さんは、合唱団と共に日本から参加。海外からの支援に感謝する歌「HEROES 2011,JAPAN」を披露した。


東日本大震災4年 福島の苦しみ正面から
 原発事故という未曽有の災禍によって日常を壊された福島の人に十分な賠償や支援がされてきたとは言い難い。福島の苦悩を忘れてしまってはいないか。

 原発事故収束のメドすら立たない福島県では、いまだ十二万人が県内外での避難生活を余儀なくされている。五年で二六・三兆円の復興予算の多くは道路や港湾などのインフラ整備が中心だ。目に見える部分の復興は進んでも、肝心な人々の生活の復興・再建は大幅に遅れている。
◆賠償責任果たす義務

 古里に帰れず、先の暮らしを見通せない人々の苦悩は、時の経過とともに逆に深まっている。

 新たな土地で生活の基盤を築くにはきちんとした賠償が必要となる。しかし、東京電力はこの間、賠償に誠実だったとは言えない。国の指導もしかりだ。

 町の大半が帰還困難区域に指定された浪江町では二〇一三年春、町民一万五千人が月十万円の精神的慰謝料の増額を求める集団申し立てを原発ADR(裁判外紛争解決手続き)で行い、一律五万円増の和解案が示された。だが和解案には強制力がなく、東電は受け入れを拒み続けている。

 申立人には高齢者も多く、すでに大勢の人が亡くなっている。

 原発ADRは被災者に裁判という重い負担を負わせず、早期に賠償問題を解決するために導入されたものだ。その趣旨に照らして出された和解案だ。東電はこれ以上解決を遅らせてはならないし、国はADRの仲介に強制力を持たせる仕組みを作るべきだ。

 ADRだけでは金銭賠償の解決が期待できないと、裁判所に訴える動きも相次ぐようになった。

 「生業(なりわい)訴訟」と呼ばれる集団訴訟がそのひとつ。「故郷を返せ!生活を返せ!」と、北海道から福岡まで十七地裁・支部で精神的慰謝料の支払いが訴えられている。
◆広がる生業訴訟

 「かながわ訴訟」の原告は、南相馬市小高区から横浜に避難した村田弘団長(72)ら百七十四人。七割は国が避難指示区域に指定した地域の人だが、三割は福島市や郡山市など避難指示区域外からの、いわゆる「自主避難者」だ。

 国の線引きによらず、自らの判断で避難を決めたこの人たちには、たとえ被害の実態が同じでも避難指示区域の人に支払われる精神的慰謝料はない。避難生活費は自己負担、夫は福島に残り妻子が避難する二重生活者が多い。

 賠償も慰謝料もなく、経済的に追い詰められる人々を「自らの選択だ」といって放置していいのか。村田さんらは自主避難者も含めた一律賠償を求めている。

 「原発事故の時、どこに住んでいたかで国は賠償に差をつけた。でも日常生活や地域のつながりを突然奪われた痛みはみな同じ。被災者を分断してはならない」

 国が定めた五年の集中復興期間の終了に歩調を合わせるように、東電は商工業者に対して支払う営業損害賠償も来年二月に打ち切る方針を示した。だが、避難指示区域にある事業者のうち、業務再開できたのは約半分。事故前の水準に戻ったのは皆無だ。原発禍からの回復の困難さは想像を絶する。

 国や東電は一刻も早く賠償を終わらせ、復興の実績を作りたいようだが、一定の時間がたったというだけで賠償を打ち切るのは、現実を見ていない。被災者の切り捨てというほかない。

 復興庁が発表した住民意向調査では、大熊、双葉、富岡、浪江の原発周辺四町で、避難指示解除後に「地元に戻りたい」と考えている人は一〜二割にとどまった。飯舘村でも三割だ。

 古里に帰りたいと願う高齢者の思いは尊重すべきでも、除染に限界があることもわかった。放射線量はどこまで下がるのか。仕事はあるのか。人口減少した町で経済、医療、教育は成り立つのか。不安な場に戻ることは、子育て世代には考えられなくなってもいる。「帰還ありき」の復興計画にこだわるには無理がある。

 今立ち返るべきなのは、大震災の一年後に全国会議員の賛成で成立した「子ども・被災者支援法」の理念だ。
◆「避難する権利」こそ

 チェルノブイリ法をお手本にした同法は「避難する権利」を認めていた。地元を離れて移住した人にも、個別のニーズに沿って、生活や医療、教育、就労などの支援を行うことを求めていた。

 仕事がなくて働く意欲を失ったり、妻子との別居で夫婦の不仲や離婚に直面する人も多い。子どもの心も傷ついている。

 苦境を乗り越え、みんなが安心して暮らせるようになった日が福島の復興の日だ。一人一人の生活再建を息長く見守る覚悟がいる。私たちはそのことを忘れてはならないはずだ。


富山・強姦冤罪事件:再審無罪、1966万円賠償 県に命令、国へは棄却−−地裁
 2002年に富山県氷見市であった強姦(ごうかん)・強姦未遂事件で、服役後に再審無罪が確定した柳原浩さん(47)が国や富山県などに約1億400万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が9日、富山地裁であった。阿多(あた)麻子裁判長は「警察官らによる捜査は、合理的根拠が欠如していたことは明らか」と違法性を認め、富山県に約1966万円の支払いを命じた。一方、国と、取り調べを担当した富山県警の捜査員や検察官に対する請求は棄却した。

 判決理由で、阿多裁判長は、県警が被害者に犯人の写真を選択させる面割りを、事件の発生からしばらく期間が過ぎてから行ったと指摘。被害者に直接、容疑者を確認させた際には、原告が犯人であるという警察官の示唆を受けた可能性が否定できない、と述べた。

 また、原告側が「取り調べで自白を強要された」と主張していたことについて、阿多裁判長は「自発的に犯行を供述したと判断する合理性はない」とした。

 この裁判は09年8月に始まり、約5年半続いた。柳原さんの無罪を確定するための再審では尋問が認められなかった、富山県警の捜査員や検察官ら捜査関係者9人の証人尋問も行われた。【大東祐紀】

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 ■ことば
 ◇氷見冤罪(えんざい)事件

 2002年1、3月、富山県氷見市で強姦(ごうかん)と強姦未遂事件が発生。似顔絵による聞き込み捜査などから、当時タクシー運転手だった柳原浩さん(47)が容疑者として浮上。当初否認していたが、任意段階の聴取で自白したとして逮捕・起訴され、同年11月に懲役3年の実刑判決を言い渡された。しかし、仮出所後の06年11月、別の事件で鳥取県警に逮捕された男が氷見市の2事件も自供。07年10月、再審無罪が確定した。


東日本大震災:原発事故、収束せず 小出・京大助教が講演、警鐘鳴らす−−中区 /広島
 東京電力福島第1原発事故から4年を前に、京大原子炉実験所(大阪府)の小出裕章助教(65)が8日、中区の世界平和記念聖堂で原発の是非を問う講演会を開いた。市民約470人が、専門家として原子力の危険性を間近で見つめてきた小出助教の警鐘に耳を傾けた。【吉村周平】

 講演会は、広島市で今秋、原爆や核実験、原発事故の被害者、ウラン鉱山労働者など世界の「核」被害者や反核団体が一堂に会し、世界から核被害の根絶を訴える「世界核被害者フォーラム」の実行委員会が主催。今も避難生活を強いられる福島県の避難者の存在がありながら、原発再稼働や海外輸出に突き進む政府に疑問を投げかけ、「核のない世界」の実現に必要な方策を考えた。

 小出助教は福島原発事故について、「4年たつが事故はまだ収束していない。原子力緊急事態宣言はまだ解除されていない」と指摘。民主党政権(当時)が11年12月に出した事故の収束宣言を振り返り、「冗談を言わないでくれと思った」と語った。また、国が法律で放射性物質の取り扱いを認めている「放射線管理区域」を引き合いに出し、「私が職場で放射線管理区域から外に出るとき、実験着の汚染が基準を超えていたらドアは開かない」と述べ、日本各地の汚染状況を示した上で「本当であれば、福島県の東半分を中心として広大な地域を管理区域にしなければならないはず。政府は自分の作った法律をほごにしている」と批判した。

 また、小出助教は「『原子力の平和利用』と言って世界に核被害者を作り出している。そういうことにどのように向き合うか真剣に考えていかなければいけない」と締めくくった。

残念,朝はしんどいけど夕方に立ち直る

ブログネタ
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20150308_osaka

Pour faire un cassoulet, il faut le laisser cuire deux heures à 180 degrés. On ne le mélange pas pendant la cuisson.
⇒ Pour faire un cassoulet, il faut le laisser cuire deux heures à 180 degrés en s'abstenant de le mélange pas pendant la cuisson.
カスレを作るには,180度で2時間火を通し続けなければならない.しかも,調理の間は,それをかき混ぜることは差し控えること.
Pendant la cuisson, la cuisinière ajoute une poignée de baies de genièvre dans le four. Elle mêle ainsi leur parfum à celui du cassoulet.
⇒ Pendant la cuisson, la cuisinière ajoute une poignée de baies de genièvre dans le four de façon à mêle ainsi leur parfum à celui du cassoulet.
調理の間,料理人はオーブンにひとつかみのネズの実を入れる.その香りを,カスレの香りに混ぜるために.
J'avais peur de ne pas choisir le bons ingrédients pour mon cassoulet, j'ai demandé à ma grand-mère , qui est un vrai cordon-bleu, de m'accompagner faire les courses.
De peur de ne pas choisir le bons ingrédients pour mon cassoulet. Alors, j'ai demandé à ma grand-mère , qui est un vrai cordon-bleu, de m'accompagner faire les courses.
自分の作るカスレ用に良い材料が選べないことを恐れて,私は,真の料理人である祖母に,買物について来てくれるように頼んだ.
アンコールまいにちフランス語応用編「A table ! 〜文と語彙を料理する〜」
井上 美穂 いのうえ みほ Bernard Pascal Leurs ベルナール・パスカル・レウルス Nicolas Gaillard ニコラ・ガイヤール
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サンデーモーニング【震災4年〜復興進む町…そのカギは▽サッカー代表新監督】
「イスラム国」の拠点…奪還作戦▽「政治とカネ」の問題どこまで?▽米とイスラエルが対立▽サッカー代表新監督▽Jリーグ開幕▽錦織デビス杯▽特集・震災4年〜復興進む町…そのカギは▽福島原発の現状
関口宏 涌井雅之 ハリス鈴木絵美 安田菜津紀 津田大介 岸井成格
橋谷能理子 唐橋ユミ 伊藤友里 水野真裕美
張本勲 (他)

特集 明日へ −支えあおう− 震災から4年 つなげよう
震災から4年。福島県南相馬市小高区にあった4つの小学校が集まる仮設小学校から、被災地の今を長時間生放送でお伝えする。テーマは「つなげよう」。震災前のふるさとの記憶を次の世代につなげる。被災地とそれ以外の人たちをつなぐ。フィギュアスケート浅田真央選手の被災地の子どもたちを対象としたスケート教室の模様も生中継する。
南果歩,玄侑宗久,サンドウィッチマン

NNNドキュメント'15 わが子を救えなかった心のトゲ…津波語る母
津波で丹野祐子さんは長男と義父母の家族3人を亡くした。深い悲しみが“震災の棘"となり、今も苦しんでいる。震災の語り部として生きる覚悟を決めた母の思いを伝える。
玉川砂記子   宮城テレビ放送

明日をあきらめない…がれきの中の新聞社〜河北新報のいちばん長い日〜
東日本大震災で、自らも被災しながら新聞を発行し続けた河北新報の実話を完全ドラマ化!第8回日本放送文化大賞グランプリ受賞作品!【ナビゲーター】池上彰
2011年3月11日。あの日、自らも被災しながら、それでも新聞の発行を続けた新聞社があった。東北の地元紙・河北新報である。 新聞発行の要であるサーバーの故障、壊滅的な被害を受けた支局や販売所…。数々の困難を乗り越えながら、総力をかけて発行を続けた河北新報。そこには地域によって支えられてきた東北の地元紙としての使命感があった
未曾有の大震災の実情を伝えようというジャーナリストの熱意と葛藤。新聞を作りつづけるために影で奮闘する社員たち。そして不眠不休で危険な現場取材を続ける記者を支える家族…。 大きな被害を受けながらも、地元の人々のために情報を発信し続けた地元紙の奮闘と苦悩を描く“真実のドラマ"。 またナビゲーターとして、池上彰も登場。ドラマの背景を解説。
武田真一(報道部長)…渡部篤郎 丹野綾子(報道部記者)…小池栄子 鹿又久孝(報道部次長)…田中要次 武田俊郎(報道部記者)…長谷川朝晴 中島英一(深沼販売所所長)…金山一彦 原谷守(整理部長)…小木茂光 荒浩一(販売部長)…宇梶剛士 佐藤純(総務広報部長)…伊藤正之 渡辺龍(志津川支局記者)…戸次重幸
一力雅彦(社長)…中原丈雄 菊池道治(気仙沼総局長)…鶴見辰吾 阿部喜英(女川販売所所長)…渡辺いっけい 太田(編集局長)…西岡徳馬 中島百合子(深沼販売所所長夫人)…斉藤由貴 ナビゲーター…池上彰
「河北新報のいちばん長い日」      河北新報社著(文藝春秋刊)
横幕智裕 千葉隆弥

テレメンタリー2015「トイレで世界を救え」
電気も水も通っていない南米・ペルーの砂漠に、日本の町工場が手掛けたトイレが設置された。富士山の環境問題の解決に一役買ったと言われる技術が、途上国の衛生環境の改善を担い海を渡る。日本のトイレはペルーに受け入れられるのか。一大プロジェクトに挑むのは、大分市のトイレメーカーの2代目社長。慣れない土地でのトラブルや、言葉の壁を乗り越え、現地で奮闘する姿を追う。
大分朝日放送

特集 明日へ −支えあおう− 震災から4年 つなげよう
震災から4年。福島県南相馬市小高区にあった4つの小学校が集まる仮設小学校から、被災地の今を長時間生放送でお伝えする。テーマは「つなげよう」。午後の部は被災地と全国をつなげていく。4年間の支援への感謝を伝えたいという被災者の思いを全国に届けに行く。また、東北の魅力を全国に発信する。フィギュアスケート浅田真央選手の被災地の子どもたちを対象としたスケート教室の模様も生中継する。
西田敏行,高橋みなみ,玄侑宗久,サンドウィッチマン,南果歩

COOL JAPAN〜発掘!かっこいいニッポン〜「みそ」
和食には欠かせない「みそ」。みそ蔵の数だけ種類もあると言われるが、外国人はその多様さに驚く。日本でもみそ汁専門店が誕生したり、フランス料理にも取り入れられるなど新たな動きもある。寒い冬に仕込まれ、じっくりと豊かな味わいとなるみそ。岐阜県高山市へ120年続く老舗のみそ蔵を訪ねて、丹念な作り方を見学した。お湯をかけるだけでおいしく飲めるフリーズドライのみそ汁にもスポットを当てる。
小林康夫, 鴻上尚史,リサ・ステッグマイヤー, 中井和哉,日高のり子

BS1スペシャル ロスト・アンド・ファウンド〜震災漂流物がつないだもの〜
カナダとの国際共同制作。東日本大震災で流出したガレキなどが、5000キロを越えて、北米の海岸に大量に漂着している。名前入りのヘルメット、寄書きのあるバレーボール、文字の書かれた浮き玉。拾った人たちは「思い出の品を返還したい」と東北で持ち主を探しを始めた。カナダ人のディレクターが、東北の被災者たちと日本を訪れたアメリカ人たちを追った。2年間にわたる交流の物語。
NHKスペシャル 東日本大震災「震災4年 被災者1万人の声」
震災から4年。一人一人の暮らしの復興は進んでいるのか、1万人規模のアンケートを実施した。すると、4年たっても生活の厳しさが改善していないこと、仮設住宅での暮らしが住民を追いつめていること、心が突然折れる人が出ていることなど、深刻な悩みが見えてきた。どうしたら「暮らしの再建」を進めることができるのか。現場のルポに加え、アンケートのデータや自由記述欄を丹念に読み解きながら、具体的な方策を考える。
夏木マリ,堤真一, 鎌田靖, 渡邊佐和子

●さよなら原発 関西アクション −とめよう!高浜原発再稼働−
ホール特別企画(前売500円 当日700円)10:00開場 10:20〜12:00 北区民センター 上映「チェルノブイリ28年目の子どもたち」 講演:「原発事故による放射線被ばく」西尾正道(北海道がんセンター名誉院長)
集会 
12:40 前段集会 アピール 子どものうた 
13:10 本集会 ゲストアピール 中嶌哲演、うのさえこ、華連、西尾正道、集会決議 歌など 扇町公園 
パレード 14:20〜
主催:さよなら原発 関西アクション実行委員会


朝残念なことがありました.しんどかったです.メールでShさんに書いたら心配してくれました.仕方ないので部屋でゴロゴロ.反原発の集会はパスです.
夜になって元気が出てきて立ち直ってきました.
悲しい気分なのでやけ食い.でも食べ過ぎてしまった感じです.

被災地の球団が親善試合で対決
東日本大震災から4年となるのを前に震災後、岩手と福島に作られた野球チームが7日、仙台市で親善試合で対戦しました。
親善試合を行ったのは岩手県の草野球チーム、「三陸鉄道キットDreams」と福島県を拠点にことしプロ野球の独立リーグ、BCリーグに参戦する「福島ホープス」です。
同じ被災地を拠点とするチームどうしで交流を深めようと、初めて親善試合が企画されました。
試合は、プロとアマチュアの対戦とあって軟式ボールを使う特別ルールで行われ、ドリームスの選手たちはプロの選手と対戦できる貴重な機会とあって懸命にプレーしていました。
6対1で勝った「福島ホープス」の岩村明憲選手兼任監督は「目標は違えど野球を通じてこの2チームが地域の人に元気や勇気を与えられるよう切磋琢磨していきたい」と話していました。
また、「三陸鉄道キットDreams」の監督を務める岩手県宮古市の山本正徳市長は「課題も見つかったと思うのでしっかり検証して、日本一を目指したい」と話していました。


半数近く「生きてるのが辛い」
東日本大震災の発生から4年がたつのを前にNHKが大学と共同で岩手、宮城、福島の被災者1万人あまりにアンケート調査を行ったところ、半数の人が「気持ちが前向きになりつつある」と答えた一方で、「生きていることがつらい」と答えた人も半数近い43%にのぼることがわかりました。
NHKは震災からの復興状況を探るため、ことし1月から先月にかけて岩手、宮城、福島の仮設住宅などで暮らしている人たちを対象に早稲田大学と共同でアンケート調査を行いました。
アンケートでは住まいや仕事の状況、精神状態など100近い項目をたずね、5万5000人に配布し、1万人あまりから回答を得ました。
このなかで、この1年間の心の変化をたずねたところ、▼「気持ちが前向きになりつつある」と答えた人が50%にのぼった一方で、▼「無気力になった」と答えた人が16.1%、▼「悲観的になった」と答えた人も12.7%を占めました。
さらに、「生きていることがつらいと感じることがあるか」という質問には、▼「よくある」(11.3%)と▼「少しある」(32.2%)をあわせて半数近くにあたる43.5%の人が「生きるのがつらい」と感じていることがわかりました。
調査を行った早稲田大学災害復興医療人類学研究所の辻内琢也所長は「周囲が復興していくなかで生活再建がうまくいかないと精神的にきつい状態になる。心の問題は健康状態や生活環境、それに経済状況などが大きく影響するので、心のケアだけでなく生活全般を支援しなければ改善していかないのではないか」と指摘しています。


「ゆめあかり」犠牲者悼む1万2000本
 約1万2000本のろうそくをともして東日本大震災の犠牲者を悼む「ゆめあかり3・11」が7日夜、茨城県取手市の市役所藤代庁舎内の広場で開かれた。

 同市の主婦グループ「ゆめまっぷの会」が主催。ろうそくに灯がともると、地元の小中学生らが復興を願って紙袋に書いた「希望」「絆」などの文字や絵などが浮かび上がった。福島県双葉町から避難する小学4年生(9)は「絆という言葉が好き。これからも大事にしていきたい」と話した。


復興の道半ばで急逝 米軍の教会奉仕リーダー
 東日本大震災で被災した石巻市に、神奈川県の米軍座間基地からボランティアで支援に訪れていたジェームズ・コーネリアスセンさんが昨年12月、41歳の若さで急逝した。基地内の教会奉仕リーダーだった。被災地再生に力を注いだその存在は、キリスト教関係者にとどまらず、石巻の人々の心に刻まれている。

 石巻を支援に訪れるキリスト教関係者の活動の拠点、渡波地区の「石巻クリスチャンセンター」で、センターのスタッフらと被災した住民が、ジェームズさんの思い出を語り合う。
 「情が厚くてとても思いやりがある方だった。再生を願い行動する志の半ばで、さぞ無念だっただろう」。被災者の木村信子さん(55)が、早過ぎる死を惜しんだ。津波の跡に残った陶器のかけらなどでアクセサリーを作る活動を通じて知り合った。
 木村さんはクリスチャンではない。同じ人として、自然体で心は通い合っていたという。
 ジェームズさんは座間基地の知人や家族を十数人から20人ほど率いて、震災後約15回石巻を訪ねた。毎回1週間ぐらい滞在し、がれき撤去やカキの殻むきの手伝いをした。
 若い米国人には、被災地の痛みをいつもしっかりと伝えようとした。昨年12月15日、基地内で散歩中に体調が悪くなって倒れ、帰らぬ人となった。原因ははっきりしないが、病死だった。
 「彼の心の中には、常に石巻があった」と語るのは、震災後に米国人の夫と石巻に移り住んで支援に取り組むクリスチャンのストレイカー慶子さん(39)。「クリスチャンセンターのスタッフにも細かく目配りしてくれた」と振り返る。
 ストレイカーさんは旧約聖書の一節を思う。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」。石巻に情愛をささげたジェームズさんの死も「その時」だったのか−。思いをかみしめ、志を受け継ぎ再生を後押しする決意を新たにする。


<被災地のいま>(7)風評/最終処分に揺れる内陸/農家「安心証明できぬ」
 福島第1原発事故による風評被害は福島の隣県にも及んでいる。その一つとなる宮城県は今、新たな問題に揺れる。原発事故で発生した指定廃棄物の最終処分場建設だ。1キログラム当たり8000ベクレル以上の放射性物質が含まれる稲わらなどが集約されることに、農家の不安と懸念が深まる。
 宮城県内陸部の加美町。山形県境に接する町内の田代岳(標高600メートル)が昨年1月、最終処分場の県内建設候補地の一つに選定された。以降、住民らが激しい反対運動を繰り広げる。背景には風評被害への強い危機感がある。
 田代岳からは麓の二つのダムに雨水が注ぎ込む。ダムの水は川を伝って農業用水として大崎平野に引き込まれる。
 反対派団体の代表を務める高橋福継会長(74)は「水源に処分場が建設されれば、農業はできなくなる」と憤る。
 候補地に選定されただけで既に風評被害の兆しが出ている。地元の加美よつば農協は昨年1月以降、主要取引先7社のうち5社から「建設が決まったら取引はできなくなるかもしれない」と通告された。
 「消費者が求めるのは安心感。安全度は数値で表せても、安心度を証明することはできない」と三浦静也組合長。ひとたび疑念を持たれれば、生産者サイドの努力だけで解消するのは難しい。
 これまでも町は原発事故の影響を受けた。
 一帯では特産品の一つだった原木シイタケ、山菜類の一部が出荷停止を受けている。国が2012年、放射性セシウム濃度の規制を厳格化したのがきっかけだった。
 町内の薬莱山の麓にある農産物直売所「やくらい土産センター」は事故後の12年度、売り上げが低迷した。落ち込み幅は1割を超え、年2億円だった水準を割り込んだ。
 業況は回復傾向にあるとはいえ、売り上げは原発事故前の水準に戻らない。センターを運営する「さんちゃん会」の加藤重子組合長(64)がやるせない思いを吐露した。
 「ようやく事故の被害から立ち上がろうとしているのに、国はなぜ追い打ちをかけるの」(加美支局・馬場崇)


追悼式で遺族の言葉取りやめ 仙台・気仙沼
 東日本大震災の発生日となる11日に被災地で開かれる追悼式で、遺族が思いを語る場面を省くケースが出ている。背景には「人前で話すのは心理的負担になる」との配慮がある。震災から4年がたち、慰霊の形も微妙に変化しつつある。
 気仙沼市はことし、追悼式で行ってきた「遺族代表の言葉」を取りやめる。菅原茂市長は「遺族に負担を掛けている。お願いするのが難しい」と説明する。
 仙台市も今回から遺族あいさつをやめる。秘書課は「震災から一定の年数がたった。過去3年と違う形にした」と理解を求める。
 宮城県内では昨年、追悼式を開いた沿岸14市町のうち3市町で遺族の言葉がなかった。ことしは6日現在、開催13市町のうち4市町が予定していない。
 大船渡市は震災丸1年を最後に次第に盛り込んでいない。「市全体の式典。特定の遺族の気持ちを伝えるのはそぐわない」と話す。対照的に「慰霊の場の主役は遺族」(東松島市)「遺族が前向きな思いを語る大事な場。市長の話とは伝わり方が違う」(石巻市)として、遺族の協力を求める自治体は多い。
 阪神大震災で被災した神戸市は、毎年の式典で遺族が追悼文を朗読している。市は「つらい経験をした遺族が語ることが、震災の記憶の継承につながる」と説明している。


東日本大震災:福島第1原発事故 介護施設、入所制限 「空きベッドあるのに」 「400人待ち」避難家族、悲痛
 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故で被災した福島県の市町村で、職員不足により約4分の1の高齢者介護施設が入所者の受け入れを制限していることが明らかになった。ベッドが空いているのに入所できない現状に、被災者からは「避難生活で疲れ果てているうえに、施設があっても人手不足で介護サービスを受けられないなんてひどい」と切実な声が上がる。【高橋隆輔】

 原発事故のため原発20キロ圏の福島県南相馬市小高区から市内の仮設住宅に避難した鎌田文子さん(59)は、日常生活に全面的な介助が必要な要介護4の義母マサさん(87)と夫の3人で暮らす。マサさんは仮設入居後しばらくして、慣れない室内で布団から起き上がろうとして転倒。自力で歩けなくなった。「ばあちゃん、そろそろトイレ行こうか」。文子さんは1時間おきに声をかけるなど付きっきりの介護を続ける。

 「仮設暮らしの疲労も重なり、介護中に動悸(どうき)も感じる。このままでは私も倒れて母の面倒を見られなくなる」と文子さん。市内の特別養護老人ホーム2施設にマサさんの入居を申し込んだが、どちらも400人待ちと言われた。「施設には空いたベッドが幾つもある。でも介護職員が足りないので受け入れられないと説明された」とやつれた表情で語った。

 同市の特別養護老人ホーム「福寿園」では入所待機者が震災前の250人から480人に膨れ上がった。一方で、原発事故に伴う避難の影響などで職員は74人から56人に減少。100床のベッドのうち10床は稼働させていない。現在新規に入居を受け入れるのは、避難者で認知症があるケースなどに事実上限られている。

 福寿園の大内敏文施設長(58)は「遠方に避難した家族から『南相馬で施設が見つからないと戻れない』という申し込みを多数受けている」と明かす。避難が人手不足を生み、施設の運営難が介護の必要な高齢者を抱える家族の避難の長期化を生む悪循環が生じている。

 仮設住宅や復興住宅が多く建設されたいわき市でも、避難者を含む高齢者の増加に伴い特別養護老人ホームの入所待機者が増えている。

 同市の男性(85)には認知症で要介護4の妻(78)がいる。今は介護老人保健施設に入っているが、在宅復帰を目的とするためいつまでもいられないと言われた。男性は「私もがんを患い介護する体力がなく、妻の落ち着き先が決まらないとどうにもならない」と話した。


日本初 マイクログリッドによる「東松島スマート防災エコタウン」
積水ハウス株式会社
宮城県東松島市(市長:阿部 秀保 以下、東松島市)と積水ハウス株式会社(本社:大阪市北区 社長:阿部俊則 以下、積水ハウス)は、東松島市が同市柳の目北地区で2015年8月入居を目指して整備している災害公営住宅と周辺の病院等を結ぶマイクログリッド※1により電力供給する本格的スマートタウンを実現します。なお、当タウンは戸建住宅を含め、敷地を超えてエネルギー相互融通を行う日本初のスマートグリッド※2です。

東松島市は、東日本大震災からの復興計画で、安心して暮らせる災害に強いまちづくりや「環境未来都市」構想を掲げて、復興に取り組んでいます。また、積水ハウスでは環境配慮型住宅「グリーンファースト」やこれらが集まったまち「スマートコモンシティ」などの取り組みを推進しています。

「東松島スマート防災エコタウン」では、災害公営住宅85戸(戸建住宅70戸、集合住宅15戸)と周辺の病院、公共施設等を結ぶ自営線によるマイクログリッドを構築し、太陽光発電470kWを持つ自営線特定規模電気事業者(自営線PPS※3)がCEMS (Community Energy Management System)により最適制御しながら電力供給を行います。太陽光発電で年間256t-CO2の二酸化炭素排出を削減し、エリア内でのエネルギーの地産地消を実現します。不足する電力は、東松島市内にある低炭素型電源から既存電力網を利用して供給することで、地域全体の地産地消も可能となります。

系統電力が遮断した場合にも、同タウン系統内の太陽光発電を蓄電池を用いて安定化させ、大型のバイオディーゼル発電機と組み合わせ3日間は通常の電力供給が可能です。大震災のような長期の停電時にも、太陽光発電と蓄電池を組み合わせることで病院や集会所などへの最低限の電力供給の継続が可能です。病院などの災害活動の拠点施設への電力供給を維持し、地域の災害対応力と防災力向上に寄与します。

東松島市は、「復興まちづくり計画リーディングプロジェクト」において、分散型地域エネルギー自立都市を掲げており、平成23年12月には内閣総理大臣より「環境未来都市」(全国11都市)に選定されました。この事業は、復興まちづくり計画、環境未来都市構想の一環として、環境省の「自立・分散型低炭素エネルギー社会構築推進事業」の補助金を受けた事業で、エネルギーの地産地消・防災力向上の先導的な取り組みであり、「環境未来都市 東松島モデル」としての展開が期待されるものです。

※1 マイクログリッド:既存の発電所からの電力にほとんど依存しない、エネルギー供給源と消費施設をもつ小規模なエネルギー・ネットワーク
※2 スマートグリッド:スマートメーター等の通信・制御機能を活用して停電防止や送電調整のほか多様な電力契約の実現を可能にした電力網
※3 自営線PPS:自ら敷設した電線で電力供給する一般電気事業者(10電力)以外の電気事業者

「東松島スマート防災エコタウン」の概要

●災害公営住宅エリア及び病院、公共施設は、電力会社から一括受電、自営線による電力供給。
●太陽光発電合計470kW、大型蓄電池(500kWh)、非常用バイオディーゼル発電機(500kW)で構成。

「東松島スマート防災エコタウン」のシステム概要

※詳細検討により、若干の仕様変更等が発生する可能性があります
※ 協力:事業化支援:スマートシティ企画株式会社、システム設計・施工:株式会社きんでん

電力供給の考え方

●昼間は太陽光発電による自立電源でピークカットにも貢献
●余剰分は蓄電池に充電し、夜間に利用

非常時のレベル別給電イメージ

CEMS (Community Energy Management System)の機能

【平常時】

スマートメータにより電力量を計測し、1.エリア全体・個別の電力見える化、2.個別機器の発電量・需要量の測定と電気事業者へのデータ送付、3.蓄電池の充放電によるピークカット、4.請求書等を発行。
【非常時】
公共系統が停電した際、エリア内でバイオディーゼルを起動し、蓄電池、太陽光発電と共に電力の需給バランスを制御。

電気事業者によるエリアマネジメントの将来像

●本エリアに電力を供給する電気事業者を発展させ、電力供給だけでなく地域活性化のコアとなる「エリアマネジメント法人」化する事も構想中です。
●電気事業者は地元に密着しながら、エリアに存在する集会場や街路灯、公園などの効率的な管理が期待できます。
●電気事業者を「エリアマネジメント法人」と位置付けることで、雇用の創出や地域新産業の創出イベントなどの地域活動を支援する仕組みなどにも繋がるなど、地域において様々な発展の可能性。

※ローカルグッドは、小規模なPPSを効率よく運営するための支援社団法人

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プレスリリース
http://prtimes.jp/a/?f=d12902-20150307-8470.pdf
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【立ち上がる 震災から4年】 (上) 被災地支援のバトンつなぐ
 東日本大震災から4年がたつ。この間、復興のために地元、若者、全国の人が心一つに立ち上がった。その力は地域再生の原動力となり、被災地は変わりつつある。被災者一人一人が再び立ち上がるその日まで、支援のバトンはつながっていく。被災地の「人の力」を追った。

                   ◇

 「このチラシのデザインは変えた方が分かりやすくなるんじゃないか」「よし、それでいこう」

 岩手県釜石市役所で、30代の数人が活発なやり取りを交わす。一般行政職員の平均年齢が43・3歳の市役所で、フランクな雰囲気のこの一角は異彩を放つ。

 彼らは、経済同友会などを通じて被災地に派遣された「東北未来創造イニシアティブ」のメンバーだ。東北大学などが中心となり平成24年に立ち上げられ、釜石市、岩手県大船渡市、宮城県気仙沼市で地域を担う起業家育成と復興計画のサポートを続けている。経済同友会の会員企業が、働き盛りの社員を20人以上派遣してきた。

 ◆企業の力生かす

 リコーの堀部史郎さん(38)は25年8月から赴任している。震災直後の23年6月に、リコー単独の被災地支援として、東北入り。復興の応援を続けたいと、イニシアティブへの社内公募に志願した。リコーではシステムエンジニアとして、サービスネットワークの効率化などを担当。「リコーとして支援していた頃は専門家の会社員として、会社の資源をどう活用するかに重点を置いていた」と振り返る。一方、「イニシアティブでは、社会人として競合他社を含めた企業の力をどう地域に生かそうかと支援して、まちを活気づける瞬間に立ち会えた」と笑顔を見せた。

 今年6月には出向元へ戻る。環境ビジネスへの希望を持つ堀部さんはこう語る。「自然豊かな釜石で、個々の熱意がまちを動かしてきたのを見てきた。経験を生かせる仕事をしたい」

 被災地では今も多方面からの支援を必要としており、企業からの支援は東北の経済的な復興に大きな役割を持つ。その活動が支援企業の収益につながることが理想的といえるものの、うまく結びつくケースはまれだ。各企業が持つ専門性を生かすこと、利害を超えた経済団体だからできること。イニシアティブは一つの試金石となる。

 イニシアティブは5カ年計画で設立され、活動期間はあと2年。育成した起業家のネットワークで、新規ビジネスが立ち上がりやすい環境づくりを行うなど被災地経済の支援をどう継続するかにも視野を広げる。

 震災後、企業やボランティア団体は途絶えることなく、人材を送り込める制度を整えた。そして、震災から4年間で、多くの支援者が東北を訪れ、去っていった。このリレーを続けるには、被災地での活動が、支援者のキャリアアップにつながることも鍵となる。

 ◆経験が役に立つ

 釜石市の「釜援隊(かまえんたい)」。総務省の復興支援員制度を活用した事業で、年300万円と必要経費が支給され、個人事業主として地域活性化を支援する。首都圏などから若者十数人が集まり、活動している。

 メンバーの茨木いずみさん(28)はこの春、隊を“卒業”し、東京の大学で教育に関する研究を続けながら、出身の宮崎県高千穂町で地域活性化を目指すNPO法人を立ち上げる。

 一昨年8月に入隊した茨木さんは、市が整備する交流広場や立体駐車場、公営住宅、文化ホールなどを運営管理するまちづくり会社の立ち上げにあたった。「出身地の地域活性化は入隊前からの目標だった。釜石での経験が大きく役に立ちそうだ」と話す。

 釜援隊は新年度に向けて、4人程度の新メンバーを選考中。約10人の申し込みがあり、志望動機は「復興を見届けたい」というものから「東京で働くよりも成長ができる」といったものまで。被災地を支援する多士済々が集まる仕組みができつつある。(高木克聡)


【避難者の春 東日本大震災4年】 (中) 帰村宣言前、迫られる決断
 「戻るか戻らないか。来年までには選択しなくてはならない」。東日本大震災に伴う福島第1原発事故で、福島県飯舘村から那須塩原市に避難し、花卉(かき)農園をオープンした北原彰さん(59)。家族と離れて花作りに取り組み、農園は軌道に乗りつつあるが、帰村を望む両親とのはざまで決断を迫られ、心が揺れる。「家族がばらばらなのをどうするか考えなくてはならないが、村に戻ったとしても果たしてやっていけるのか」

 JAそうまの管理職だった北原さん。飯舘村の自宅は福島第1原発から約50キロ。原発事故後は福島市や福島県相馬市で避難生活を送りながらJA再建に奔走したが、「村には当面戻れない」と、新天地で再起を目指すことを決意した。那須塩原市に中古住宅を購入し、JAを早期退職。平成23年12月に単身移住した。

 それから1年、農地を借りてビニールハウスを建設。復興支援事業の適用を受け、25年4月に花卉農園「花園(かえん)までい」を開園した。「までい」とは福島・浜通りの方言で「大切にする」「丁寧に」という意味だ。ビニールハウス7棟でトルコギキョウを栽培する。20代の頃、JAの営農担当として冷害に苦しむ農家に栽培を奨励、村の基幹産業に育てた自慢の園芸作物だ。

 市場に足を運び、自ら販路を開拓。1年目は赤字だったが、2年目はぎりぎり採算ベースに乗った。3年目の今年は規模を拡大し「プラスにしたい」と考えているが、家族や村への思いが交錯する。

 長女は神戸に嫁ぎ、長男は大学卒業後、東京に。80代の両親は福島県南相馬市の賃貸アパート、妻は相馬市の仮設住宅で暮らす。「(両親に)俺んとこに来いと言っても来ない。妻は村から仮設住宅での自治会の仕事を頼まれている。今年は辞めて一緒に暮らすはずだったが、後任者が見つからず来られない」。今年も1人で生活しなくてはならない。「無我夢中で3年、1人で戦ってきた感じだ。だが、今、喜びを共有できる人がいねぇんだ。残念ながら…」

 自宅は居住制限区域内。飯舘村は当初、「26年秋には帰村宣言をしたい」としていたが、宅地に比べて農地の除染作業が大幅に遅れ、宣言は来年春に先延ばしになった。

 同村の避難者アンケートでは、避難解除で「村に帰りたい」と答えたのは12%。「すぐには帰らないが、いずれ帰る」が45%、「帰るつもりはない」が33%だった。

 北原さんは6代続く農家の長男。「墓もあるからおやじは村で暮らしたいと言っている。いつまでも家族がばらばらではいられない。両親も今は元気だからいいけど、この先を考えると…」。一方で「戻って作物を作っても風評被害で苦労するのは分かっている」との不安は尽きない。帰村宣言が出ても、どれくらいの人が戻ってくるか、生活を構築できるか。「来年は無理かもしれないが、いずれ決断しなくては…」。複雑に思いが絡み合う。(伊沢利幸)


仮設撤去1%届かず…被災3県、復興住宅遅れ
 東日本大震災で被災した岩手、宮城、福島3県に建設されたプレハブ仮設住宅計約5万3000戸のうち、今年1月までに撤去されたのは、1%に満たない計467戸にとどまることが3県への取材でわかった。

 被災者の転居先となる災害公営住宅(復興住宅)の建設が遅れているためで、発生4年で復興住宅の8割近くが完成した阪神大震災では、約4万8000戸あった仮設の32%が4年時点で撤去された。東北の被災地では、住まい再建の遅れが目立っている。

 仮設住宅は、複数の部屋が一つになった長屋タイプが大部分を占めているため、1棟すべての住民が退去しないと撤去できない造りになっている。3県で撤去されたプレハブ仮設は、岩手が120戸、宮城が154戸、福島が193戸。3県とも仮設建設戸数の1%前後にとどまる。


【東日本大震災4年】 両親失った菊地将大さん「僕たちだから変えられる」
国連防災世界会議シンポに参加

 仙台市で14日から始まる国連防災世界会議のシンポジウムに参加する筑波大3年の菊地将大(まさひろ)さん(21)は、東日本大震災の津波に両親を奪われた。「被災した僕たちだから、変えられるはずだ」。昨夏、台風被害の実態を学ぶため訪問したフィリピンで被災体験を語り合った現地の学生とともに、若者の視点から防災の重要性を訴える。

 受験や自分の将来について漠然と考えていた高校2年。震災が起きた。大きな揺れの後、津波の襲来を知らせるサイレンが鳴り響いた。岩手県陸前高田市の自宅にいた菊地さんは慌てて近くの高台へ避難した。黒く大きな波が町を襲った。父、博幸さん=当時(49)=と母、陽子さん=同(41)=は、その波にのみ込まれた。

 3月下旬、遺体安置所で両親を見つけた。間に合わせのひつぎに納められた遺体は傷つき、一目では分からなかった。涙がこらえ切れなかった。

 だが、時間が経過し復興が進むにつれ、周りの景色にも自分の心の中でさえも、あの日の記憶が消えていく。「被災した自分たちこそ防災を学び、伝える責任がある」と決意した。

 2013(平成25)年11月の台風で多数の死者や行方不明者が出たフィリピンを訪れた。なぎ倒された木や暴風に耐えきれずつぶれた家。目にした風景は震災後の故郷と似ていた。

 現地の人の被災体験を聞く中で、住民同士で声を掛け合い、障害者をうまく避難させたという話が心に響いた。災害はどこでも起きると感じた一方、誰もが実践できる簡単な方法で犠牲者を減らせると確信した。

 両親の死や海外の被災地訪問。この4年間で目にしたこと、聞いたことを、うまく伝えようと文章を練る。「災害時に役立つ、基本的なことを伝えたい」。当日は背伸びせず、等身大の言葉で伝えるつもりだ。


釜石とガザで「希望のたこ」
震災から4年となるのを前に、東日本大震災の被災地と紛争で厳しい生活が続く中東のパレスチナ、ガザ地区を「希望のたこ」でつなごうという催しが釜石市で行われました。
このたこ揚げは世界の貧困問題などに取り組んでいるNPOや難民の支援をしている国連機関が企画しました。
パレスチナ暫定自治区のガザ地区では、東日本大震災の被災地の復興を願って難民の子どもたちが毎年3月にたこ揚げをしています。
これを受けてことしは釜石市で「希望のたこ」を揚げることになり、地元の子どもたちなどおよそ50人が参加しました。
たこには「しえんありがとう」「絆ありがとう」といったガザ地区の人々にあてたメッセージが書き込まれていて、子どもたちは歓声を上げながら次々と空に飛ばしていました。
小学6年生の男の子は「ガザ地区の人たちと絆をつなぎたいという思いで作りました。ガザ地区では戦争で大変ですが、早く平和になってほしいです」と話していました。
主催した「日本リザルツ」の吉田美紀さんは「間もなく震災4年を迎えますが日本国内だけでなく世界中で被災地を応援してくれる人たちがいることを知ってもらいたい」とと話していました。
9日夕方にはガザ地区でもたこ揚げが行われ、インターネットを通じて釜石の子どもと現地の子どもたちの交流会が行われることになっています。


陸前高田市で震災4年の追悼式
東日本大震災の津波で多くの人が犠牲になった陸前高田市で、震災から4年になるのを前に8日犠牲者の追悼式が行われました。
陸前高田市は震災の津波で中心部が壊滅的な被害を受け、岩手県内で最も多い1601人が亡くなり、いまも207人の行方がわかっていません。
市は県外に避難している遺族も出席できるように、週末の8日追悼式を開き、会場の高田小学校には遺族などおよそ950人が参列しました。
はじめに震災で犠牲となった人たちに黙とうを捧げ、戸羽太市長が「土地のかさ上げ工事や海岸の防潮堤工事など様々な復興事業が軌道に乗ってきました。震災から5年目に入ることしは安全で災害に強いまちづくりを進めながら市民が復興を実感できるよう様々な事業にチャレンジする年にしたい」とあいさつしました。
そして、遺族を代表して津波で夫を亡くした佐々木とも子さんが「生きている限り悲しみは癒えることはありませんが、前を向いて一歩ずつ行動していこうと思います」と述べました。
最後に、参列した人たちが献花台に花を供え、静かに手を合わせていました。
震災で市の職員だった夫を亡くした57歳の女性は「震災から4年になりますが長いようであっという間でした。夫は市の職員でしたので生きていれば復興に携わりたかっただろうと思います」と話していました。


楢葉町で震災犠牲者の追悼式
震災と原発事故から4年になるのを前に、今も町のほとんどが避難区域になっている楢葉町で津波で亡くなった人たちを追悼する式典が行われました。
楢葉町では震災の津波で13人が犠牲になり、震災から4年となるのを前に、8日、追悼の式典が行われました。
楢葉町は町のほとんどが原発事故による「避難指示解除準備区域」になっていて、今も夜間の宿泊が制限され、日中しか立ち入ることができません。
8日の式典は区域内にある元の役場で行われ、遺族や町の関係者などおよそ40人が出席しました。
式では、全員で黙とうをささげ、このあと、松本幸英町長が「亡くなられた皆様に楢葉町の1日も早い復興と再生した姿を見せることが最善の供養だと思っています」と復興への決意を述べました。
続いて遺族などが献花台に白い菊の花を手向けて、静かに手を合わせ、亡くなった人たちをしのんでいました。
当時92歳だった母親を津波で亡くした阿野田登美夫さん(65)は「亡くなった母には『私たちは元気でやっているので、安心して下さい』と声をかけました。4年という月日はあっという間でしたが、楢葉町にあった家を解体して移住することになったので、一区切りという感じです」と話していました。


津波被災地で花供養
東日本大震災からまもなく4年になるのを前に震災による津波で大きな被害を受けた福島県いわき市の沿岸部で、花を手向けて犠牲になった人たちを追悼する行事が行われています。
いわき市の沿岸部にある久之浜・大久地区では、震災による津波で大きな被害を受け、関連死を含めて60人以上が亡くなりました。
8日、震災から4年になるのを前に市内のボランティア団体による追悼の行事が海岸で行われ、地区の人や遺族などおよそ100人が集まりました。
参加者たちは僧侶による読経のあと、全国各地から届いた花を堤防の近くに設けた花壇に刺していき、手を合わせて犠牲になった人たちを悼みました。
津波で自宅が全壊したという新妻順子さん(65)は「近所に住んでいた方や顔を知っている方が亡くなったので、花を手向けに来ました。まだ行方不明になっている方もいるので、早く見つかって欲しいです」と話していました。
また、津波で親せきを亡くし2歳の娘と花を手向けに訪れた多田奈穂さん(33)は「津波で町が一変しかつての町の風景を思い出しにくくなっているほどです。この経験を子どもたちに語り継いで、忘れないようにしていきたいです」と話していました。


地元に戻り震災犠牲者を追悼
東日本大震災の発生から4年になるのを前に、大きな被害を受けた気仙沼市の南気仙沼地区に、8日、地元を離れて仮設住宅などで生活している人たちが集まり、ろうそくを灯して犠牲者を追悼しました。
気仙沼市の南気仙沼地区は震災で多くの水産加工場や住宅が失われました。
現在も大規模な土地のかさ上げ工事が行われていて、多くの人たちが地元を離れて仮設住宅などで生活を続けています。
休日を利用して地元に戻った人など、およそ60人が、8日、地元で親しまれていた公園に集まって追悼の催しを行いました。
催しでは350本の竹筒を「3・11」の形に並べ、竹の中に立てたろうそく1本1本にあかりを灯しました。
そして地震が起きた午後2時46分になると、全員で黙とうを行い、犠牲者に祈りを捧げました。
参加した70代の女性は「ずっと育ったまちは失われましたが、忘れたくても忘れられないです」と話していました。
70代の男性は「南気仙沼が1日も早く復興できるように、みんなで協力して頑張っていきたいです」と話していました。


“校舎すべて残す”が多い
震災の津波によって多くの児童が犠牲になった石巻市の大川小学校について、被災した校舎の今後のあり方を話し合う住民説明会が、8日、開かれ、アンケートの結果、校舎をすべて残すことを望む意見が多く出されました。
地区の復興協議会は、この結果を踏まえ今月20日にも方針をまとめることにしています。
震災の津波で児童と教職員のあわせて84人が犠牲になった石巻市の大川小学校について、大川地区の復興協議会は、学校周辺を公園にし、犠牲者への慰霊の場として整備することを検討しています。
石巻市で、8日、被災した校舎の今後のあり方などを話し合う住民説明会が行われ、120人余りが集まりました。
まず、協議会側から校舎について、解体して映像で学校の建物を再現する、音楽堂など校舎の一部を残す、校舎のすべてを残すという3つの案が示されました。
続いて質疑が行われ、大川小学校の卒業生6人が意見を発表し「思い出が詰まった場所で、命の大切さを後世に伝えるためにも校舎をそのまま残して欲しい」と話しました。
一方、別の出席者からは「家族が避難した校舎で犠牲になり、校舎を見るだけでつらい」と解体を望む意見も出されました。
説明会では、3つの案のいずれかを選ぶアンケートが実施され、その結果校舎をすべて残す案が多くなりました。
大川地区の復興協議会はこの結果を踏まえて、20日に開く会合で、大川小学校の被災した校舎の今後の方針をまとめることにしています。


<大震災4年>福島の恵みを再び
 福島第1原発事故の発生から間もなく4年。除染作業が徐々に進む一方で、福島県内に積み上げられた除染土は、住民の帰還の妨げとなっている。避難生活を余儀なくされている県民は約12万人に上り、苦悩は深い。
 原発周辺の街を回ると、古里と日常を奪われたことに怒り、嘆きながらも事故前の美しい田園風景や豊かな漁場を復活させようと闘い続ける人たちの姿があった。「福島を取り戻したい」。出会った人々の思いを伝える。(写真部福島取材班)

<南相馬・農業 奥村健郎さん>
「放射能をやっとクリアしたよ」。南相馬市原町区太田地区の農業奥村健郎さん(58)が収穫したコメを見せてくれた。原発事故直後から稲作を続け、放射性セシウム対策を練ってきた。昨年の作付けでようやく基準値を下回った。「風評被害もあるが、多くの人に食べてもらえるコメを作るよ」


<被災地のいま>(7)風評/拭えぬ抵抗感、地元でも
 東京電力福島第1原発事故から4年。福島県内の農家らは「足元」からの風評にも苦しんでいる。
 南相馬市原町区の増山一郎さん(68)は、リーフレタスをハウス栽培する。原発から約26キロ。事故直後は業者に敬遠され、大量廃棄に追い込まれた。今は事故前の8割まで生産量を戻したが、地元の学校給食での使用自粛が続いている。
 「放射性物質は検出されていない。どうしたら食べてもらえるのか」。もどかしさが募る。

 南相馬市の学校給食はかつて、市内産を含む県内産の食材使用率が50%を超えた。現在、市内産の採用は皆無。コメは新潟、この時期のレタスは香川など、ほぼ県外から調達している。
 背景には保護者の不安がある。市教委の昨年のアンケートで「市内産を避けてほしい」との回答が38%に上り、容認派の47%に迫った。「不安で家でも使わない。給食でも使わないでほしい」「地元農家のため活用を」との声が混在する。
 市内の給食では食材の放射性物質検査を徹底している。汚染食材が入り込む可能性は低いが、青木紀男市教育長は「地場産の採用は将来的な課題。アンケート結果を見れば慎重にならざるを得ない」と説明する。
 同じ浜通りでも対応は一様ではない。南相馬市の北にある相馬市と新地町は、4月から学校給食に地場産米を使う。アンケートで導入に否定的だった保護者は両市町とも10%未満。原発事故の避難区域外にあり、プラントから離れていることが抵抗感を薄めているとみられる。

 地元でさえ拭い切れない風評。県外となればなおさらだ。仙台市の市場関係者は「給食食材を扱う仲買業者は、まだ福島産を避ける傾向にある」と話す。
 福島県商工会連合会は首都圏の消費者500人を対象に、県産加工品に関する意識調査を続けている。「原発事故後に買わなくなった」との回答は全体の3割を占め、この3年間大きな変化は見られない。
 連合会は「福島産に抵抗がある層が固定化しているようだ」と指摘。「原発の汚染水漏れなどが報道されるたびに、悪いイメージが喚起される」と憂う。
 生産者からは「地元で風評が収まらなければ、よその風評も消えない」との嘆きも漏れる。「足元」と「遠方」の風評。解消には想像以上に長い時間がかかるかもしれない。(南相馬支局・大場隆由)

<被災地のいま>(7)風評/最終処分に揺れる内陸/農家「安心証明できぬ」
 福島第1原発事故による風評被害は福島の隣県にも及んでいる。その一つとなる宮城県は今、新たな問題に揺れる。原発事故で発生した指定廃棄物の最終処分場建設だ。1キログラム当たり8000ベクレル以上の放射性物質が含まれる稲わらなどが集約されることに、農家の不安と懸念が深まる。
 宮城県内陸部の加美町。山形県境に接する町内の田代岳(標高600メートル)が昨年1月、最終処分場の県内建設候補地の一つに選定された。以降、住民らが激しい反対運動を繰り広げる。背景には風評被害への強い危機感がある。
 田代岳からは麓の二つのダムに雨水が注ぎ込む。ダムの水は川を伝って農業用水として大崎平野に引き込まれる。
 反対派団体の代表を務める高橋福継会長(74)は「水源に処分場が建設されれば、農業はできなくなる」と憤る。
 候補地に選定されただけで既に風評被害の兆しが出ている。地元の加美よつば農協は昨年1月以降、主要取引先7社のうち5社から「建設が決まったら取引はできなくなるかもしれない」と通告された。
 「消費者が求めるのは安心感。安全度は数値で表せても、安心度を証明することはできない」と三浦静也組合長。ひとたび疑念を持たれれば、生産者サイドの努力だけで解消するのは難しい。
 これまでも町は原発事故の影響を受けた。
 一帯では特産品の一つだった原木シイタケ、山菜類の一部が出荷停止を受けている。国が2012年、放射性セシウム濃度の規制を厳格化したのがきっかけだった。
 町内の薬莱山の麓にある農産物直売所「やくらい土産センター」は事故後の12年度、売り上げが低迷した。落ち込み幅は1割を超え、年2億円だった水準を割り込んだ。
 業況は回復傾向にあるとはいえ、売り上げは原発事故前の水準に戻らない。センターを運営する「さんちゃん会」の加藤重子組合長(64)がやるせない思いを吐露した。
 「ようやく事故の被害から立ち上がろうとしているのに、国はなぜ追い打ちをかけるの」(加美支局・馬場崇)


大震災4年 細る支援の手/関わり続ける意義は大きい
 震災から4年を迎えた被災地で、先行き不安が募っている。復興半ばにあって、関心の低下という支援の風化が加速している背景がある。復興を妨げる風評被害と一体化したとき、そのダメージはより大きなものとなる。
 関心度を測るバロメーターの一つ、ボランティアの減少が著しい。宮城県の場合、2011年度以降、約52万人、約10万人、約5万人と漸減、14年度は約3万人(1月末現在)で落ち込むばかりだ。
 参加者の減少は避け難く、量より質の側面もある。ただ、「忘れられた」との思いが膨らめば、被災者や被災地の再建意欲はくじかれよう。
 ボランティアのニーズは震災直後と異なるものの、必要性は減じていない。消費拡大、風化抑制、風評改善への貢献をはじめ、被災地の復興を多方面から支える。
 農林水産省が発表した14年の農林水産物の輸出額は和食ブームで需要が伸び、初の6千億円台に上った。
 横浜税関が分析した岩手、宮城、福島の被災3県の貿易実態によると、魚介類の輸出額は諸外国の輸入規制で10年比53.5%減。明暗は風評のすさまじさを物語る。
 地域経済の要、観光業も復活の足取りが重い。宮城県の外国人観光客宿泊者は依然、震災前の半数。被災3県の危機感は強く、宿泊費などの半額補助を打ち出す。
 ツアー形式であれ単独であれボランティアの訪問は、被災地を覆う沈滞ムードを一定程度、和らげてくれよう。
 交流は被災者の心を癒やし、前を向かせもする。共に地域のありようを見詰め、吐露した住民の思いを行政につなげて、まちづくりを進めるてこの役割だって担える。
 高台移転や災害公営住宅の整備に伴い、仮設に取り残される被災者が抱え込む孤独感は深まる。集団移転先でも高齢化が進み、語り、交流する機会は重要性を増す。
 ボランティアを支えるNPOなどが関わることで、交流の継続性は高まる。その際、「支援する」「される」を超えた関係を構築できれば、絆は深まり、その効果は個人から地域へと広がっていく。
 被災住民の声に耳を傾ける。一緒に町や集落を歩く。豊かな自然、産物に触れ、歴史をたどり、先行きを考える。
 高齢化が進み、経済力に弱さを抱える被災地にとって、新感覚の地元目線であすを問い実践する「よそ者」の存在は心強い。多少、時間はかかっても地域に内在する価値に気付き磨いて、再生の糧として生かせるに違いない。
 共感と敬意を伴った「いいとこ探し」の積み重ねは、地域おこしの道程に重なる。
 「震災のせいで…」とふさぎ込むのではく、「震災のおかげで…」と奮い立ち、未来をたぐり寄せる。ボランティアらの対応で、被災者も被災地も劇的に変わり得る。
 中越防災安全推進機構復興デザインセンター長の稲垣文彦さんが、中越支援の10年でたどり着いた結論だという。
 もう一度、いや何度も被災地に足を運んでほしい。関わり方はさまざまあっていい。多様な市民の地道な支援が復興の流れをより太くする。


週のはじめに考える 原因不明で動かせるか
 福島の原発事故から四年がたとうとしているが、事故原因は不明のままです。それで再稼働を急ごうとするところにそもそも無理があるのではないか。

 たとえば自動車が設計などの問題で事故を起こしたら、原因を突き止め、同種の車も直したうえで走らせるではありませんか。子どもでも分かることです。

 原因究明が不十分なままでは再稼働にかかわる議論に入れない、と言い続けているのは、新潟県の泉田裕彦知事です。

 県には東電・柏崎刈羽原発があります。七基が集中立地し、地盤がよくないため、四十メートルも掘り下げて建設されている。
◆原発取り巻く無責任

 知事の不安は、少なからぬ国民の不安でもあるでしょう。不安は二つに分けられそうです。

 第一は、原因不明とそれを許している無責任体制です。

 東電はもちろん、政治家も役人も、学者も、です。

 東電は政治家と役人のかげに隠れ、政治家は東電と役人のせいにし、役人は審議会などの学者たちのせいにして、結局だれも自分が悪かったとは言わない。

 学者たちはさすがにばつが悪いのか、原子力学会や地震学会は反省を述べましたが、だれが悪いのかはよく分からない。

 要するにみんな大津波のせいにして「想定外」という言葉の中へ逃げ込んだのです。いやみを言えば、私はがんばったという人しか見当たらない。

 福島の被災者から見れば、これほど人をばかにした話はありません。古里は奪われたが、奪った者がだれか分からない。きちんと謝罪する者なく、怒りを向ける先もはっきりせず、土地を守ってきた祖先に申し訳のしようもない。
◆段差生じた柏崎刈羽

 大津波の想定を議論にのせながら無視した者たち、原子炉の設計上の危うさは米国からの内部告発で知りながら放置した者たち。事故後情報を持ちながら伝えなかった者たち。

 それとも原発という巨大すぎる科学は、飛行機や鉄道などと違って、人が過ちを犯しても破滅的結果には至らない、フェイルセーフという手法が使えないのか。

 これらの疑問が解けないのに、場所や機種が違うとはいえ、原発を再稼働してもいいのだろうか。

 百パーセントの安全は、事故後だれも言わなくなりました。だから避難計画づくりやヨウ素剤の配布も行われます。

 しかし事故原因が不明のままでは、本当はどれほど危険なのか、実際にどれほど防止可能なのか、見当のつくはずもありません。

 第二の不安は地震です。日本はあいにく地震国です。

 柏崎刈羽の地盤の悪さは先に書きました。辺りは古くからの油田地帯で液状化がおきやすい。

 二〇〇七年七月十六日、新潟県中越沖地震(震度6強)で、1号機の近くでは一メートルを超す段差ができ、3号機は地盤沈下のため変圧器が出火した。核燃料プールの水は全基であふれ出した。

 もしも、地震がさらに大きければ福島のようになっていたかもしれない。もちろん仮定の話ですが想像するだけで恐ろしくなる。

 福島の事故について国会事故調の報告書は、津波より前、地震直後の配管の亀裂破断を「断定はできないが…」という断り書き付きで大いに疑っています。動き始めたイソコン(非常用復水器)を止めたことで「炉圧の下がりが速いので、漏洩(ろうえい)を確かめたかった」という運転員の証言を得ています。

 ただ放射線量が高くて内部を調べられないので、確かめられないのです。

 しかし、そうならば事故原因としてあらゆる可能性、また最悪を想定するのが科学的態度というものです。新潟県知事の心配は、地震国日本ならどこでももちうる心配なのです。

 科学的に未知があるというのなら、しかし危険だけれど経済活動に不可欠だというのなら、科学的合理性の代わりに少なくとも社会的合意は必要なはずです。政治家でも役人でも電力会社でも学者でもなく、国民が主体的に決めることなのです。
◆国民に是非も聞かず

 一九七八年、米スリーマイル島原発事故の前年、オーストリアでは国民投票で過半数が反対し、スウェーデン、イタリアが続き、ドイツはメルケル政権より前の二〇〇〇年に政府と電力業界の合意で最初の脱原発方針を決めている。

 原因不明のまま、国民に是非も聞かないというところに、この国の政治家、役人たちの根源的な隠蔽(いんぺい)体質があると言っても過言ではないでしょう。国民に聞けないのは、世論調査結果がすでに非を述べているからでしょうか。もしそうならば、これほど国民をばかにした話はありません。


原発ある未来選ぶ? 「ノー・ニュークス権」、メーカー訴訟で確立目指す
 新しい人権として、原子力の恐怖から免れて生きる権利「ノー・ニュークス権」の確立を司法の場で目指す動きがある。安全性が不安視される原子力発電所の存在が、憲法の保障する社会的生存権、幸福追求権を侵害しているとして発想された権利だ。東京電力福島第1原発事故から迎える4度目のこの春。県内にも反響が広がっている。

 ノー・ニュークス権が訴状に明記され、法廷で初となる議論が想定されているのが、2014年1月に提訴された「原発メーカー訴訟」。国内外の4千人超の市民らが、福島の原発事故で受けた精神的慰謝料として1人100円を求め、原発メーカー3社を東京地裁に訴えた。5月にも第1回口頭弁論が開かれる見込みだ。

 原発事故の責任は電力会社が一手に負い、本来責任を負うべきメーカーは免責とされてきた。原子力損害賠償法(原賠法)が規定する責任集中制度によるもので、被害者保護と原子力産業育成の両立を図る目的からだ。原告側は「メーカーに対する賠償請求が否定されていることが財産権、平等権、裁判を受ける権利を侵害し、違憲であり無効」と争う考えだ。

 ノー・ニュークス権の提唱者で原告側弁護団長の島昭宏弁護士(52)は「原賠法によってメーカーが社会的な批判や賠償を免れていることこそが、安全性を最優先することを妨げてきたのではないか。福島の事故後も技術輸出を図ろうとするなど、原子力産業の無秩序な肥大化も容認してきた」と厳しく指摘する。

 ひとたび事故が起きると、地元住民は強制避難・移住を余儀なくされ、財産権や居住・営業の自由といった数々の人権が損なわれる。島弁護士は「さらに」と立ち止まる。

 「福島の原発事故で明らかになったが、原発は安全性が完全には確保されていない。事故の有無でなく、日ごろからそうした環境で生活を強いられること自体が、また人権を損ねているのだと問いたい」

 不安に駆られることなく安全な生活を送れることを「人が人としてふさわしく生きていくための最も重要な根幹」と考える。国外にも原告参加を求めたのは、憲法前文の「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」との一節も踏まえてのことだ。

 現行憲法には明記されていないが、プライバシー権など判例で固まっている新しい人権は存在する。島弁護士は「裁判を通じ、ノー・ニュークス権の存在が認められれば成果は非常に大きい。その人権を根拠に、原発被災者の支援拡充や原発再稼働差し止めを求めるのに生かされる」と話す。

 裁判の勝敗にかかわらず、ノー・ニュークス権への関心を集めることが、原発社会への再考を促す新たな判断材料になると信じる。「原発のある未来か、そうでない未来か。考えを深めてもらう機会にしたい」と島弁護士は言う。



 原発メーカーの責任を問うこうした動きに対し、メーカー側は「国の立法、政策に係る事項であり、コメントする立場にない。法令に従い対応する」「原賠法は、原因にかかわらず電力事業者への責任集中を定め、万一の事故の場合に市民に対して適切で迅速な補償が行われるための制度と認識している」などと説明。あるメーカーは「今回の事故を検証した複数の調査機関は、いずれも今回のアクシデントは津波と津波による海水ポンプの機能停止および全電源喪失によるものと結論づけており、原子炉の設計が問題とはしていない」とコメントした。

◆憲法上の生存権と幸福追求権 生存権については25条で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とする。幸福追求権は13条で「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と規定した。

◇◆◇県内で広がる共感
 「原発はいいもんだぜ。ウラン数グラムで石油何千リットル分ものエネルギーを生む。資源のない日本には最高だよ」。関西電力美浜発電所の炉心設計にあたった兄がかつて漏らした。

 「当時はむしろ賛同していた」と語るのは、今訴訟原告の男性(67)=南足柄市。自身も大学院で原子炉の研究に明け暮れた。「憧れの技術だった」

 考えを変えたのは福島第1原発事故の後だ。多くの人のふるさと、住まい、職を奪った。被ばくの脅威。漏れ出した放射性物質の除去の困難さ。南足柄でも名産品の茶葉からセシウムが検出され混乱が生じた。「原子力発電で得る効果を上回る費用、犠牲が生じた。今後も完全な被害回復は難しいはず」

 ノー・ニュークス権を知った時、原発のリスクを語るのに最適な説明に思えた。「事故が起きるまで目を向けず、知ろうとしなかった責任として、賛同を通じて声を上げねばと思った。絶対に安全だと言えない原発に依存した社会には限界がある、と」

 同じく原告に名を連ねる介護施設アルバイトの女性(43)=海老名市。事故後、脱原発関連のデモや集会に参加するようになった。「どうしたら原発をなくしていけるか、もっと知りたいと思った」からだ。

 しかし、そうした場で得た情報や思いを共有する難しさにも直面した。かつて派遣社員として働いた都内の会社では「オフィスの前を脱原発デモが通るから手でも振って応援して」と何げなく周囲に呼び掛けたことが問題視された。

 「会社から『営業妨害だ』と叱責(しっせき)された。再び同じことをしない旨の書類に署名まで求められた。原発の安全性に多くの人が疑問を感じているのに、話題にすることすらタブー視された」

 原発輸出に向けた動きも出ていた2013年秋、ノー・ニュークス権を知る。「原発反対と唱えるだけでは仕方ない。訴訟を通じ、権利としてあるものと広く伝えられれば共感を広げられる。それが脱原発社会への一歩だし、福島の事故への反省にもなる」

 原告弁護団に県内から加わる岩永和大弁護士(36)=川崎パシフィック法律事務所=は、川崎市内に暮らす震災避難者の相談を受けてきた。ノー・ニュークス権を主張する意義をこう説明する。

 「今後に判例が積み重なる契機になるかもしれないし、さらにもっといい別のアイデアが出てくるかもしれない。すぐに大きな成果に結びつかなくても、これからを変える布石をみんなで打ちませんか、ということでもあるのです」


見つかるか、溶融燃料=宇宙線で原子炉「透視」−「結果出せる」研究者・大震災4年
 原子炉で溶け落ちた核燃料(燃料デブリ)はどこにあるのか。東京電力福島第1原発事故で、政府と東電は2020年度前半の燃料デブリ取り出し開始を目指すが、今は位置も把握できていない。高エネルギー加速器研究機構の素粒子物理学者らは、宇宙線で原子炉内を「透視」する方法を提案し、2月から第1原発で実験を始めた。研究者は「データは順調にたまっており、3月末までに何らかの結果を出せるはずだ」と自信を示す。
 高エネ研の高崎史彦名誉教授らが進めるのは、宇宙線が地球の大気に衝突して生じる「ミュー粒子」を使う方法。火山内部のマグマ測定や、ピラミッドの隠し部屋探索にも使われたという。

 ミュー粒子は1平方メートルに毎秒1個の割合で降り注ぎ、鉄やコンクリートも通り抜ける。だが、核燃料のウランなど密度が非常に高い物質に当たると一部が吸収されるため、検出器で粒子の飛来方向と個数を数えれば、高密度の物質をレントゲン写真のように浮かび上がらせることができる。
 高エネ研は事故直後に提案。素粒子物理学が専門の高崎さんは「原発事故に関わるなんて考えたこともなかったが、これだけの国難。知識や技術の蓄積がある誰かが調べないと」と話す。12年には停止中の日本原電東海第2原発(茨城県)で実験し、使用済み燃料プールの核燃料を誤差0.5〜1メートルの精度で突き止めた。
 昨年7月にプロジェクトが採択され1号機で実施が決まったが、事故現場だけに制約もある。周囲の放射線の影響を避けるため、レントゲンフィルムに相当する1メートル四方の検出器3枚は厚さ10センチの鉄板で囲んだ。容易に近づけない場所なので温度管理やデータ送出を自動で行う装置も付けた。
 建屋の周囲3カ所に装置があれば3次元(3D)データにできるが、他の作業との兼ね合いで2カ所に。地下に置けないため、燃料が地下の格納容器下部に落ちたと推定される1号機では、観測範囲にデブリがない可能性もある。
 高崎さんは「圧力容器内にあるかないか確認できるだけでも意味がある」と強調。装置は比較的小さいため「何らかの方法で地下に置ければ、デブリの所在を確認できるはずだ」と話している。

湯葉が美味しい/バイバイ原発3・7きょうと/20年ぶりに

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Sexe : le Japon en manque d'acteurs porno, un homme tourne 6 films par jour
Le Japon avait déjà Nicky Larson, Goldorak ou encore les Chevaliers du Zodiaque, il semblerait qu'il abrite également un autre héros national. Shimiken aka le roi du porno nippon, 35 ans, 1,63m, 60 kilos (et 16 centimètres au repos).
Le Japon est en pleine crise... du porno. Car si l'industrie en question se porte particulièrement bien avec près de 20 milliards de dollars de chiffre d'affaires, cela ne l'empêche pas de connaître une sévère pénurie d'acteurs. Un problème logistique auquel tente de palier un homme en particulier, Ken Shimizu alias Shimiken, le roi du porno japonais.
Vers la fin du porno japonais ?
Générant chaque année des milliers de nouvelles productions, deux fois plus que les Etats-Unis, l'industrie pornographique japonaise se retrouve face à un problème de taille, sans mauvais jeu de mots. Si les jeunes Japonaises sont toujours plus nombreuses à vouloir tourner dans des films pour adultes (6 000 nouvelles actrices chaque année), les hommes eux sont loin de se presser pour rejoindre la profession. Selon Shimiken, ils seraient seulement entre 30 et 70 acteurs pour 10 000 actrices. Autant dire que ces messieurs donnent plus que jamais de leur personne. Sûrement l'un des acteurs porno les plus célèbres du Japon, Shimiken tente donc d'empêcher l'industrie de sombrer. Ça, c'est du patriotisme !
Véritable surhomme bien décidé à sauver la production des films X nippons, monsieur qui a déjà 7 000 films à son actif tournés avec plus de 7 500 partenaires, passerait entre huit et neuf heures en tournage par jour, allant parfois jusqu'à faire six films en 24h. Sa recette pour assurer cette tache herculéenne ? 90 minutes d'exercices par jour et surtout un cocktail de pilules explosives (glutamine, acides aminés, zinc, arginine et vitamines en jelly) mais pas de viagra pour le moment.
Un cri d'alarme
Un dévouement qui pèse tout de même lourd sur les épaules musclées de Ken. Visiblement inquiet du sort des acteurs porno et de toute l'industrie, il a récemment tweeté un message d'alerte : "Dans cette industrie, il n'y a que 70 acteurs porno pour 10 000 actrices. Le nombre d'acteurs porno au Japon est inférieur à celui des tigres du Bengale. Avec 4 000 films tournés chaque mois, le nombre d'acteurs n'est tout simplement pas suffisant. Cette industrie est comme un trou dans le mur qui doit s'agrandir".
La stigmatisation perdure
Une pénurie d'acteurs de X japonais qui s'explique par la stigmatisation de la profession. Au Japon, les films pour adultes ont beau déchaîner les foules, les protagonistes de l'industrie restent mal percus. Les nouvelles recrues ont également peur d'être facilement reconnaissables au quotidien et d'être à leur tour stigmatisé. C'est (sans jeux de mots toujours) dur...

フランス語
フランス語の勉強?

お昼には湯葉を高島屋でいただきました.美味です.
バイバイ原発3・7きょうと,に参加です.小出さんのお話が分かりやすかったです.
AnさんとFuさんと喫茶店でお話しした後,お酒を飲みました.Anさんとは1年ぶりFuさんとは20年ぶりくらいです.

東日本大震災4年:やっぱり海と生きる 宮城・南三陸の元船員、家族3人奪われた憎しみ吹っ切り
 ◇たばこやめ「一日でも長く、大切に」

 「これからも海と生きていく」。宮城県南三陸町の佐藤昭吉さん(61)は、防潮堤の建設作業をしながら思う。東日本大震災の津波で妻ら家族3人を失った。仮設住宅に1人で住む。漁船員だった暮らしも変わった。あれから4年。すさんだ心を洗い流してくれたのは、憎み続けたはずの海だった。【中里顕】

 「みそ漬け送ってくれてありがとう」。震災の1時間ほど前、長崎県の寄港先で妻ときわさん(当時54歳)に電話をしたのが最後だった。2階建ての自宅は跡形もなく流された。一緒に暮らしていた義父正さん(同90歳)と義母たけのさん(同84歳)は変わり果てた姿で見つかった。ときわさんの行方は分からないままだ。

 サンマやマグロ漁の大型船の船員としてほぼ年中船上にいる生活。漬物の得意なときわさんと、「おらほの息子だ」と近所に自慢してくれた義父母を一度に失った。1人きりになった。「家族と過ごした場所にいたい」と仕事を辞め、自宅近くの仮設に入った。食べては寝ての繰り返しで体重は半年で10キロ増えた。「もっとしてやれることがあったんじゃないのか」。そんな思いが頭から離れなかった。

 半年後、がれきの撤去をする仕事を始めた。そばには家族を奪った海があった。

 「このやろう」

 憎む気持ちばかりが膨らみ、海をまともに見られなくなった。海産物も極力食べなかった。

 職を転々とし、震災から1年がたったころ、防潮堤建設の作業員になった。海は目の前。遠い日に、友達ともぐって魚を捕った日々がよみがえった。「ずっと海と生きてきたんだよな」と実感した。少しずつ、胸のしこりがとれていった。

 昨年5月、小型船を買って海に出た。風を切って進むと、何かが吹っ切れたような気がした。「自分は生きている」。そう思うと、自然に笑顔になれた。家族に対する後悔も、「一緒に生きてくれてありがとう」という感謝の気持ちに変わっていった。

 防潮堤の建設作業にもやりがいを感じている。「自然の脅威にはかなわない」と思うが、自分の作業で助かる命があるかもしれないという気持ちもある。かつて濁っていた仮設近くの海は澄み切り、底には昔のように無数のウニが戻ってきた。

 最近、たばこをやめた。「生かされた命。一日でも長く、大切に生きなくちゃ」。穏やかな表情で語った。


旧警戒区域は今:東日本大震災4年/3 魚を捨てる嘆息
 福島県沖で試験操業中の漁船が網を巻き上げると、豊漁を祝うかのようにカモメの大群が船に連なった=写真・本社機「希望」から。しかし、出荷規制で半分以上の魚が海に捨てられた。「漁師は魚取ってなんぼだろ。捨てんのは耐えがたいって」。いわき市漁協底曳(そこびき)部会長の吉田久さん(60)は怒りをあらわにした。

 県水産試験場によると、原発事故後、長期にわたる漁の自粛や操業回数の減少で、同県沖の水産資源は震災前の約2・5倍に増加。漁獲対象魚もこの1年で約2倍の58種まで増えたが、「常磐物」として高値が付く主力のヒラメやアイナメなど海底にすむ魚はいまもって出荷できない。

 先月下旬、福島第1原発排水路からの汚染水外洋流出が公になった。加えて東京電力がその状況を把握しつつ約10カ月間公表しなかったことも問題となった。地元の漁業者は風評被害を払拭(ふっしょく)すべく安全情報を広く公開する努力を積み重ねてきたが、「我々が少しずつ前に進んでもまた同じことが繰り返される」。この海で長年生きてきた漁師の嘆息がもれた。【文 森田剛史】


【避難者の春 東日本大震災4年】 (上) 交流の場で励まし合う日々 栃木
 「4年というと長い歳月だけど、過ぎてしまうと短かった気がするね」。下野市在住の震災避難者らでつくる親睦団体「ふくしまあじさい会」の会長、佐々木正教(まさのり)さん(78)は、福島県からの「避難者」として過ごした日々を、こう振り返る。

 震災6日後、親戚を頼って南相馬市から下野市に避難した。「同じ境遇の人々と連絡を取りたい」と市役所に問い合わせたが、個人情報の保護を理由に難色を示されたため、道の駅などで福島ナンバーの車を見かけるたびに声をかけた。

 ボランティアの支援を受けて、震災から3カ月後の6月に「あじさい会」として活動を開始し、翌年6月には「ふくしまあじさい会」と改称。月に1度、コミュニティーセンターで避難者同士が交流する場を設けた。

 集まったのは、主に60〜80代。双葉町から避難してきた志賀仁さん(65)も会に加わった一人だ。「弁当をつつきながら、福島の方言で気兼ねなくしゃべる。それだけで、少し心が軽くなった気がした」

 見知らぬ土地での先の見えない生活に、誰もが不安とストレスをため込んでいた。地域の清掃活動をし、時にはバス旅行に出かけた。和気藹々(あいあい)とした雰囲気の中で「ふるさとに帰る日まで頑張ろう」と励まし合った。

 今では県内の他地域や、茨城県に住む避難者とも交流ができた。下野市には現在も130人余りの避難者がいるが、定例会に参加した人はこれまでに延べ70人以上。定期的に発行している会報も75回を超えた。会は、長引く避難生活のよりどころになっている。

 ただ、震災から4年を迎え、避難者の個々の状況は微妙に変わってきている。

 志賀さんは平成25年12月、下野市内に一戸建て住宅を建てた。一緒に避難してきた90歳の母親のことを思うと迷ったが、双葉町は町の大半が帰還困難区域で戻れるめどは立たないまま。「一緒に避難してきた孫も小学生になり、こっちで友達もできた。娘夫婦と話し合って(定住を)決めた」。生まれ育った土地に戻らないという苦渋の決断だった。

 一方、佐々木さんは「帰還の日」を待ち望む。南相馬市は原発20キロ圏内の避難指示解除について、来年4月を目標に掲げているからだ。「正直、帰れるようになるまで生きていられるのか、と思ったこともあったが、希望は捨てずに頑張る。その日まで健康で過ごしたい」(原川真太郎)

                   ◇

 東日本大震災から間もなく4年。福島第1原発事故の影響などで今も全国各地に避難している人は20万人以上おり、県内にも約2900人いる。避難者に話を聞いた。


震災から4年 3人に1人「健康状態悪化」
東日本大震災の発生から4年になるのを前に、NHKが大学と共同で、岩手、宮城、福島の被災者1万人余りにアンケート調査を行ったところ、仮設住宅での避難生活の長期化などによって、3人に1人が、震災前の持病が悪化したり新たな病気にかかったりしていることが分かりました。
NHKは、早稲田大学と共同で、ことし1月から先月にかけて、岩手、宮城、福島の仮設住宅などで暮らしているおよそ5万5000人を対象にアンケート調査を行い1万人余りから回答を得ました。
質問項目は、住まいや仕事の状況など100近くあり、このうち、健康状態について聞いたところ、震災前の持病が悪化したと答えた人は35.4%、震災後に新たな病気にかかったと答えた人は32.4%と、いずれも3人に1人が、健康状態が悪化していることが分かりました。
新たにかかった病気については、高血圧が25%と最も多く、高脂血症が12.9%、精神疾患が10.7%、糖尿病が10.4%など、運動不足やストレスなどを原因とする疾患が上位を占めていました。
また、運動の頻度については、「ほとんどしない」と回答した人が43.9%を占めたほか、アルコールを飲む頻度は、「毎日飲む」、「週に5日から6日飲む」を合わせると、4人に1人に当たる26.4%に上りました。
岩手、宮城、福島の3県では、今もおよそ8万3000人がプレハブの仮設住宅での避難生活を余儀なくされています。
NHKと共同で調査を行った早稲田大学災害復興医療人類学研究所の辻内琢也所長は「仮設住宅での生活は買い物に行くにも交通の便も悪いため、食生活の悪化や運動不足などによって病気が増えるのではないか。震災発生から4年がたつが、訪問医療の充実に加えて、野菜などの食料品の訪問販売などのサポートを充実させることが必要だ」と話しています。


女川町で最後の写真返却会
震災のあと見つかった写真などの思い出の品を保管してきた女川町の写真センターが今月限りで業務を終えることになり、7日から最後の返却会が始まりました。
会場となった女川町総合体育館には、震災のあと町内でがれきの中などから見つかった写真や、位はい、ランドセルなどが並べられました。

返却会はこれまで写真などを保管してきた町の写真センターが震災から4年となる今月限りで業務を終えるため今回が最後となります。
女川町によりますと、震災のあとはおよそ10万枚の写真が寄せられましたが、持ち主が分からなかったり連絡がつかなかったりしていまもおよそ4万5000枚が残っています。

訪れた人たちはアルバムのページをめくって家族の思い出の写真を探していました。

避難している別の町から訪れたという男性は「家族は助かりましたが、避難した時に自宅から何1つ持ち出せなかったので、写真1枚でも見つかればありがたいです」と話していました。
女川町写真センターの遠藤善之さんは「被災された方にとっては数少ない思い出の品なので、ぜひ足を運んでほしいです」と話していました。

町は返却できなかった写真を今後、データとして保管し写真そのものは処分することにしています。
返却会は今月11日まで開かれています。


<被災地のいま>(6)不明者捜索/見つけたい見つからぬ
 海岸に1メートル以上堆積した石やがれきを一つ一つ手で取り除く。不明者の手掛かりを求め、地道な作業が続く。冷たい海風が容赦なく吹き付ける。
 石巻市雄勝地区の名振湾。宮城県警河北署は昨年7月から、入り江で集中捜索を行っている。地区内では東日本大震災で71人が行方不明となっている。
 重機を投入できず、これまで本格的な捜索はできなかった。遺族らの要望もあり、平日は専従の署員2人が遺物などを探す。月命日の11日には10人程度に要員を増やしている。
 海岸約300メートルのうち手を付けていない場所は約50メートルだけになった。徹底的な捜索にもかかわらず、成果は挙がっていない。
 「名前の書かれた服など、不明者が身に着けていたものでもいいので家族に届けたいのだが…」。守屋光雅署長は話す。

 2月10日現在、被災3県の行方不明者は計2585人。震災から4年たつ今も、県警やボランティアによる捜索が各地で行われている。沿岸部の地図を細かくメッシュ状に区分して着手漏れを防ぐなどしているものの、手掛かりの発見は減る一方だ。
 警察庁によると、頭蓋骨がある「完全遺体」は3県で計1万5820体(2月10日現在)が収容されている。うち1万5786体(99.8%)は震災1年以内に発見された。3年目以降に収容されたのは福島の2体のみ。宮城では1年以上、岩手では2年以上にわたって実績ゼロが続く。
 骨片など「部分遺体」の発見も同様に厳しい状況だ。宮城県警はこれまで計200個(172人分)を見つけているが、ことしは骨片1個にとどまる。

 災害対策基本法は、不明者捜索の終了の判断を市町村に委ねている。17人が死亡、6人が行方不明になった2008年6月の岩手・宮城内陸地震では、地元の栗原市が「捜索を尽くした」として、2年2カ月後に終結を決めた。
 深刻な津波被害をもたらした東日本大震災では、捜索範囲が東北の太平洋岸に広がる。捜査関係者の一人は「自治体が終了時期を判断するのは極めて難しいだろう」と推測する。
 岩手、宮城、福島の3県警は、体制縮小などはせず2015年度もこれまで通り捜索を継続する方針を固めている。宮城県警の担当者は「時間の経過とともに状況は厳しくなるが、不明者家族の期待に応えたい」と話す。(報道部・宮崎伸一)

[メモ]警察庁によると、東日本大震災で亡くなり、岩手、宮城、福島の被災3県で検視を終えた1万5820人のうち、2月末時点で0.5%に当たる83人の身元が分かっていない。内訳は岩手64人、宮城18人、福島1人。


<山田線>移管後宮古−釜石間11往復以上に
 東日本大震災で被災し、第三セクター三陸鉄道(宮古市)への移管が決まっているJR山田線(宮古−釜石間、55.4キロ)について、三陸鉄道は全線復旧後の同区間の運行を震災前の10往復から11往復以上に増やす方針を固めた。山田線の復旧工事は7日、JR東日本が始める。2018年度の全線運行再開を目指す。
 三陸鉄道によると、朝の通学時間帯の本数を震災前の1本から2本に増やす。震災前、利用の6割を占めていた通学客が利用しやすいようにする。同社は20日に取締役会を開き、移管後の経営基本方針を示す。
 沿線自治体の試算によると、山田線の復旧後の1日1キロ当たりの利用者数を示す平均通過人員は、利用促進策を講じても394〜483人。震災前水準の2010年度の693人に比べ3割以上減る計算だが、三鉄への移管は考慮されていなかった。
 三鉄は発着時間や区間設定を柔軟に考慮していく方針。南北リアス線の観光資源を活用した旅行商品の開発も進める。沿線自治体には駅中心のまちづくりを要請し、山田線の移管を利用促進につなげる考え。
 JRは7日の復旧工事着手後、復興事業との調整に向け地元自治体と本格協議に入る。


<巡るあの日>慰霊碑の歌声 天に届ける/(1)中沢利江さん(35)=宮城県七ケ浜町
 ステージ上で歌い、踊る。出演者の気持ちが一つになる。スポットライトがまぶしい。
 「いつもそばにいるよ」。どこからだろう。遠くから優しい声が聞こえたような気がする。
 宮城県七ケ浜町の町民ミュージカル劇団に所属する中沢利江さん(35)。町内に住んでいた祖母、鈴木たけよさん=当時(82)=を東日本大震災の津波で失った。
 劇団では津波犠牲者を演じている。天国から家族を見守る役どころ。舞台に立つたび、自分とたけよさんを重ねるようになった。
 「こんな場面で、地元を愛したおばあちゃんならどんな風に話すだろうって考えるんです」
 中沢さんにとってたけよさんは特別な存在だった。若いころに白装束で山に登り、霊感を得たと聞いた。初孫としてかわいがってくれただけでなく、数々の神秘的な体験を語ってくれた。
 それだけに震災後の喪失感は大きかった。「どうして助けられなかったのだろう」。自責の念を止められなかった。たけよさんが愛用していた靴と似た物を履いた人を見るだけで、胸が苦しくなった。
 2011年の夏、中沢さんは不思議な夢を見た。家の近くの路地。震災前の街並みだった。振り向くとたけよさんがいた。「上に行かなければいけないから。じゃあね」。手を振る表情に、笑顔が浮かんでいた。
 「私へのメッセージだ」。直感した。「おばあちゃんは自分の運命に納得している。私もきちんと生きなければ」。目覚めるとわだかまりが消えていた。
 劇団には10代から関わってきた。夢で祖母と再会したのを機に、いっそう活動にのめり込んだ。悲劇を追体験することで、魂が浄化されるような気さえした。
 ことしの3.11は町の追悼式に参加する。去年もおととしもそうだった。劇団の一員として舞台で歌を披露する予定になっている。
 心の痛みは今も消えてはいない。でも、「無理に乗り越えたり、他の感情で塗り込めたりはしたくない。悲しみの深さを知るには時間がかかるから」。祈りのステージで再び祖母と向き合おう、そう思っている。(報道部・野内貴史)

 東日本大震災から間もなく4年。被災地に「3.11」が再び巡ってくる。大切な人を失った悲しみはいまも癒えてはいない。追悼式で、仮設住宅で、仕事場で。人々は追憶と祈りのときを迎えようとしている。


<被災地のいま>(6)不明者捜索/願いと現実苦しむ家族/「骨一つでも抱きしめたい」
 東日本大震災の津波被災地では、懸命の捜索活動にもかかわらず、行方不明者発見につながる手掛かりが見つけにくくなっている。「最後まで探し続けたい」。切実な思いと厳しい現実のはざまで、家族は揺れている。

 被災住宅や農地の跡が広がる南相馬市原町区萱浜。農業上野敬幸さん(42)は時間を見つけては海岸線を歩く。あの日、家族4人が津波にのまれた。
 母順子さん=当時(61)=と長女永吏可(えりか)さん=同(8)=は遺体で見つかったが、父喜久蔵さん=同(63)=と長男倖太郎ちゃん=同(3)=の行方はいまも分からない。
 「子どもが行方不明のまま諦められる親はいない。たとえ骨一つであっても抱きしめてあげたい」
 消防団仲間らと浜通りのほかの津波被災地に出向き、遺族と一緒に捜索することもある。「やめれば発見の可能性はゼロ。それだけはしたくない」と言う。
 宮城県南三陸町志津川の会社員佐藤幸也さん(56)は2月下旬、行方不明だった姉と4年ぶりに「再会」した。詳細なDNA鑑定などで、震災直後に見つかった遺体が本人と判明した。
 震災後しばらくは姉を捜して海辺に出掛けることもあった。県警などの捜索活動を報道で見るたび「見捨てられてはいない」と心強く感じた。が、諦めの気持ちも少しずつ強くなっていた。
 姉の夫も震災の犠牲になっている。「これでようやく一緒の墓に入れてあげることができる」。遺骨を胸に、佐藤さんが涙ぐんだ。
 帰らぬ家族を思う気持ちは容易には消えない。子を失った遺族らに集いの場を提供している石巻市門脇町の西光寺副住職の樋口伸生さん(52)は「時がたつにつれ、見つけたいという『願い』と見つからない『現実』とのギャップが大きくなり、苦しむ人がいる」と話す。
 捜索を続ける遺族の中には、不明者とのつながりを持ち続けていたいと願っている人が多いとも感じている。樋口さんは「警察や行政関係者が家族と一緒に海岸を歩くなど、追悼に重きを置いた活動にシフトする時期が来ているのかもしれない」と指摘した。


震災と向き合う (1)「津波の恐ろしさ伝えたい」
 東日本大震災からまもなく4年。被災した体験を語り、伝える取り組みが、学校で広がっている。震災と向き合う子どもたちの姿を追う。
つらい記憶

 コンクリートの塊が点々と残る。かつて「万里の長城」と呼ばれていた巨大な防潮堤の跡だ。津波で中心部がほぼ破壊された岩手県宮古市田老(たろう)地区。市立田老第一中学校の2年生は2月初め、神奈川県で4月に開く「田老を語る会」に向け、被災時の体験をつづった。

 〈「津波なんて来るはずがない」と思っていた。皆と先生たちで、小学校の裏山へ走って逃げた。「家族は大丈夫かな」と不安な気持ちが多かった〉

 生徒会長の西川竜斗(りゅうと)君(14)はそう記した。当時小学4年生。津波は高さ10メートル、全長2・4キロもあった堤を越え、砂ぼこりを上げて迫ってきた。必死で斜面を駆け上がった。小学校は無事だったが、親に会えないまま、寒い体育館で一夜を過ごした。

 翌朝、親と再会し、自宅に向かった。町がなくなっていた。潰れた家を前に、「何も考えられなかった」。避難所に身を寄せ、今も仮設住宅で暮らす。

 語る会では、神奈川県の中学生約100人を前に発表する。「ほかの人たちがこんな苦しい状況にならないように、津波の恐ろしさを伝えたい」

 2年生の学年主任、柏村実教諭(58)によると、身内を失った生徒もおり、つらい記憶を語りたがらない場合もある。「答えたくないことは無理しないで」と説明している。
誰かのために

 同中は震災翌年に語る会を始め、首都圏などで毎年開催。2年前には生徒らの震災体験を作文集「いのち」にまとめた。

 校長だった佐々木力也さん(55)(現・花巻市立八幡小校長)は当初、「悲しみや不安を引き出すのでは」と悩んだ。一帯は1933年の昭和三陸津波でも被害を受けた。小学5年生で家族を失い、半年後に書いた作文が作家吉村昭の著書「三陸海岸大津波」に掲載された荒谷アイさん(93)に意見を求めた。

 荒谷さんの返事は「いつか誰かの役に立つ」。佐々木さんは「未来のために体験を伝えようと決めた。言葉にすることで、前向きに歩む原動力になればと思った」。校内に震災資料展示室も設置。避難状況を記録した教員のノートなど約1000点を展示している。

 昨年の語る会に参加した東京都内の中学生からは、「ニュースで伝わらないような苦しい気持ちを感じた」「聞いた話をもっと広めたい」と感想が寄せられた。避難生活などを語った3年の山崎稜河(りょうが)君(15)は「あまり発表はしたくないけど、災害への備えにつながるならいい」。

 〈試練の津波 幾たびぞ/乗り越えたてし わが郷土/父祖の偉業や 跡つがん〉

 1951年に作られた同中の校歌は、津波に遭いながらも町を再生した先人たちの跡を継ぐ決意を歌う。菅井雅之校長(52)は「やがては震災を体験していない生徒だけになる。いつかまた起きる大きな地震の際に命を守れるように、語り継いでいきたい」と話した。

 宮古市田老地区 旧田老町。2005年に旧宮古市などと合併。東日本大震災で約1100棟が流失するなどし、死者・行方不明者は181人。高台に住宅地を造成中だが、転出した住民もおり、人口は震災前の約4400人から約3300人に減少。小学校2校、中学校1校、高校1校がある。

身近に信頼できる大人を…記録残し風化防ぐ

 子どもたちが震災を語る意義と、注意すべき点について、専門家に聞いた。

 被災地で子どもの心のケアにあたってきた東北福祉大の渡部純夫教授(臨床心理学)は、「心の内にため込んだストレスを表に出し、相手に受け止めてもらうことで、気持ちが整理され、自分の置かれた状況を見つめ直せる。時間はかかっても、少しずつ繰り返せば次の段階に踏み出していく力も生まれる」としたうえで、「個人差は大きく、問いつめたり、強制したりすれば心の傷が広がりかねない。信頼できる大人が身近にいて、リラックスできる場で行うことが重要だ」と指摘する。

 被災した児童生徒らを対象に放課後の学習支援などを続けてきたNPO法人・子どもの権利条約総合研究所(東京)の浜田進士・関西事務所長は、「体験はそれぞれ異なるので、自分なりの言葉で語りたい、わかってほしいという子どもたちの欲求は強い。記録を残していくことが震災の風化を防ぐことにもつながる」と話した。


<東日本大震災4年>「先行き不安」8割
 東日本大震災の被災者を支援する大阪府下避難者支援団体等連絡協議会は6日、府内に住む避難者へのアンケートの調査結果を公表した。回答があった69世帯計179人の8割が先行きに不安を抱え、中でも家賃の無償期限がいつ切れるか心配する人や、経済的な困窮を訴える人が多かった。

 調査は福島、宮城、岩手の被災3県や千葉、茨城両県などから、府内の公営住宅に避難する511世帯に対し、昨年6月以降、郵送で実施。69世帯が回答し、今後の見通しについて、31世帯が「まだまだ不安」と感じ、24世帯が「先が見えない」と答えた。「だいぶ先が見えた」は9世帯しかなかった。

 「今後、必要な支援」として、52世帯が「住宅」を挙げた。現在、避難者の公営住宅の家賃は無償だが、府営住宅は、被災3県以外からの避難者の無償期限を入居から4年としている。また自治体によっては、期限を1年ごとに更新するなどし、避難者は将来の住居を不安視しているという。

 このほか、「通院しながらアルバイトをし、1日1食の生活が続く」「大阪で再就職したが、収入が大きく下がった」などと、40世帯が経済的支援を求めたほか、「友人とのつながりもなく、今後、どうすればいいかわからない」と孤独を訴える声も寄せられた。

 府内の弁護士やNPOなどで作る同協議会は、調査結果を国や府、被災県に提出し、避難者への支援を求めていく。


かしまの一本松 枯死の危機・南相馬
 南相馬市鹿島区の海岸部で、東日本大震災の津波被害を受けながら残った「かしまの一本松」が、枯死の危機に直面している。復興のシンボルとして、福島県内で4月に始まるデスティネーションキャンペーン(DC)の観光ポイントにも選ばれただけに、地元住民は「生き永らえてほしい」と願う。

 一本松は高さ約25メートル、根回り約2メートルのクロマツ。周辺で多くの津波犠牲者が出たことから、有志が「一本松を守る会」を結成。鎮魂と希望の象徴として、樹木医の診断を受けながら周囲の土壌を改良するなどして保護してきた。
 昨年秋から葉が茶色に変色。根から水を吸い上げられなくなっているとみられ、危機的な状況が続く。
 枯死という最悪の事態も想定され、守る会はことし1月、一本松の「子孫」を残そうと、枝約20本と種約20粒を独立行政法人森林総合研究所材木育種センター(茨城県日立市)に託した。既に同センターが接ぎ木と種まきをして苗木の育成に取り組んでいる。
 守る会の五賀和雄会長(74)は「DCのポイントにもなり、多くの人に見てもらいたい。もしもの時を考えて準備をしているが、何とかこのまま姿をとどめてほしい」と切望する。


大震災4年 産業再生/現場の課題に寄り添いたい
 被災地以外の需要をも取り込み所得を増やし、地域の基幹産業を成長させる。それによって支えられる生活関連の小売業・サービス業の所得・雇用を拡大し、地域の暮らしを豊かにして人材を集める。
 前段でいわば「外需型」、後段で「内需型」の産業を再生させ、持続可能な地域経済に生まれ変わらせる。復興庁が目指す東日本大震災被災地の産業復興の道筋だ。
 けん引役の基幹産業として自動車産業以外に挙がるのは水産加工業であり、農・漁業であり、観光業である。
 いずれも住まいやまちづくりの復興に比べれば、より速いペースで施設・生産基盤の復旧・再建は進む。
 だが、その地域復興の遅れも原因となって、それぞれが足元に課題を抱え、経営は思うに任せない。産業復興は、道筋の前段で立ち往生しているといっても過言ではない。
 産業の再生は、事業に携わり、あるいは雇用を通して被災住民が生活の糧を得る、復興の原動力である。
 まずは基幹産業の経営が軌道に乗るよう、行政はむろんのこと、産学の関係者らが現場に寄り添い、課題の解決に知恵を絞ってもらいたい。
 農業・漁業は協業化や組織化が進みつつある。が、経営の素人が多く、周りのサポートが必要だ。観光業は宿泊客が震災前の約8割まで戻ったものの、訪日外国人客の回復は鈍い。いまだに響く風評被害を拭い去らねばならない。
 より深刻なのは水産・食品加工業。8割が震災前の売り上げを下回っている。震災で失った販路の確保が難しい上、何より人手が足りない。
 水産加工を含む業種の1月の有効求人倍率は岩手、宮城、福島の沿岸部で2倍を優に超える。このことは、順調なその再建ぶりとともに、必要な人が半分も確保できていない現実をも映し出す。
 高度化した施設を整備し、付加価値の高い新商品を作れるとしても、働き手がいないのでは廃業の恐れさえある。
 被災地からの人口流出がその一因だ。背景には災害公営住宅や高台移転、区画整理といった復興まちづくりの遅れがあるのは間違いあるまい。
 有効求人倍率には、もう一つ憂慮すべき数字がある。建設関連のそれで、2〜5倍にも上る。この人手不足は、さらなる生活再建の遅滞と人口流出をもたらしかねない。そうなれば、産業復興の道筋が描く後段の生活関連産業の振興もおぼつかなくなる。
 産業再生の観点からいっても、地域復興のこれ以上の遅れは絶対に許されない。
 水産加工業の販路開拓には顧客ネットワークを持つ金融機関の支援も期待したい。人の確保には当面の危機乗り切り策を含め政府、自治体が一丸となって取り組むべきだ。
 そうしなければ、「地域の暮らしを豊かにして人材を集める」という産業復興の目標は画餅に帰しかねない。
 心すべきは復興庁も掲げる「現場主義」だ。被災者の声に常に耳を傾けることが、時の経過とともに変わる課題を把握し、解決を図る原点である。大震災4年を前に、そのことを復興支援に関わる人たちに再確認してもらいたい。


東日本大震災4年:帰れぬ避難解除地区 分断された生活圏
 避難住民の帰還が思うように進まない福島県田村市都路(みやこじ)東部と川内村東部両地区。東京電力福島第1原発事故からまもなく4年になるが、住民の主な生活圏だった原発周辺地域は依然帰還困難区域に指定され、立ち入りが制限されている。帰還が進まないのはどうしてなのか。両市村は新たな生活圏づくりを模索している。【光田宗義】
 ◇就労先、病院、買い物に不自由

 福島第1原発から16〜20キロ離れた山間部に位置する都路東部。修繕が急ピッチで進む住宅がある一方、雪かきや雪下ろしをしていない家も見られる。昨年4月1日に避難指示が県内で初めて解除されたが、人影はまばらだ。

 「震災前と後では、生活圏がまるっきり変わってしまった。若い人たちは新しい職探しにも困るだろう」。昨年12月に自宅へ戻った林業、渡辺久雄さん(80)はこう語る。帰還の障害として住民や行政が口をそろえて指摘するのは「かつての生活圏との分断」だ。

 震災前、都路の人たちの多くが、双葉町など太平洋岸沿いの「浜通り」地区と深いつながりを持っていた。原発周辺に立地する原発関連の仕事に就く人も少なくなかった。都路に実家のある無職、渡辺淳さん(62)は「この地域の人は農閑期などにも出稼ぎに行くことはない、と言われていた。それだけ『浜通り』には仕事があった」と言う。

 また、都路にある診療所は医師が1人常駐するだけで、入院患者には対応していない。住民が頼りにしたのは、現在閉鎖されている双葉厚生病院(双葉町)や県立大野病院(大熊町)などだった。スーパーや量販店もなく、住民らは地区外で買い物をする時、「浜通り」に通っていた。その「浜通り」は避難指示が解除されておらず、双葉町、大熊町、富岡町などの中心部は「帰還困難区域」とされ、許可なく立ち入れない。

 昨年10月に避難指示が解除された川内村東部地区も同じだ。村復興対策課の秋元英男課長は「就労先や病院、学校、買い物など、村民は『浜通り』を向いて暮らしていた」と語る。

 村民は震災前、「浜通り」に通じる県道・小野富岡線などを日常的に利用していたが、今や国道288号などを頻繁に使っている。だが「浜通り」は車で15分程度で通えたのに田村市中心部までは30分以上かかる。
 ◇子育て世代に線量不安

 子育て世代の帰還を遠のかせている要因の一つは、放射線への不安だ。

 両市村とも2013年度までに国直轄の居住区域の除染作業は終了し、放射線量はごく一部を除いて他の県内自治体と比較しても高くはない。だが、都路や川内村の大部分を占める森林の除染は手つかずのままだ。「原発に少しでも近づいてしまうことや、廃炉の道筋がいまだに見えないことなどから、子育てに不安を感じる保護者もいる」(田村市都路行政局)という。

 昨年4月に再開された都路の小中学校3校では、震災や原発事故がなければ通うはずだった児童・生徒数計約220人のうち、9割の計約200人が学ぶが、半数は自宅を都路に戻さず、避難先からスクールバスで通学している。一方、川内村内唯一の小学校の児童数は震災前の115人から、29人に激減した。

 震災前は都路で母、妻、長男夫婦、孫3人と8人暮らしだった無職男性(66)は、母を避難中に83歳で亡くし、いまは都路で妻と2人で住んでいる。男性は「長男夫婦と、幼稚園から中学生までの孫3人は戻らない。除染が進み、空間線量は下がったとはいえ、やはり子育てするには不安が拭いきれない」と話す。

 都路地域行政区長連合会の坪井都一会長(70)は「避難指示が解除されても、思ったほど人が帰ってこなかった。徐々に進んでいた過疎化・高齢化が、対応する間もなく一気に進み、じいちゃん、ばあちゃんと孫たちがいる家族だんらんが失われてしまった」と嘆く。
 ◇地域自立目指し、企業誘致模索

 田村市や川内村は危機感を抱き、企業誘致を積極的に進めるなどして、「浜通り」に頼らなくても自立できる地域作りを模索している。

 川内村は、製造業者や屋内野菜工場、木工所など複数企業の誘致に成功。2015年度中にはスーパーやドラッグストアなどの入る複合商業施設も誘致する予定で、新たな生活圏づくりを目指している。将来は工業団地を誘致して200人規模の雇用を創出する計画もあり、15年度に用地造成を始める。既に複数の企業が誘致に応じる意向を示しているといい、村は「自然に囲まれた『スローライフ』といった都会にはない魅力を打ち出し、人を呼び込みたい」と意気込む。

 田村市も「帰還を進めるには就労や医療、買い物、子育てといった生活基盤の立て直しが不可欠」(大友勝弘・企画課長)と、産業団地を誘致するための用地造成を15年度に始める。ただ、避難の長期化に伴い新たな就労先や子どもの学校など生活基盤を再構築した人も少なくない。川内村は「企業には『従業員を連れて来てほしい』とお願いしている」(秋元英男・復興対策課長)と、新たな住民を呼び込むことで地域の活性化につなげ、若年層が帰還しやすい環境作りを目指す。


東日本大震災:希望のたこ揚げ 8・9日にエール交換 岩手・釜石、ガザ
 東日本大震災から4年となるのを前に、被災地の岩手県釜石市で8日に、戦闘で荒廃したパレスチナ自治区ガザ地区で9日にたこ揚げ大会が開かれる。ともに甚大な被害に見舞われた子供たちの交流を通じ、「希望のメッセージを発信できれば」と願う。【小泉大士】

 ガザの子供たちは2011年夏、約1万3000枚のたこを一斉に揚げ、ギネス世界記録に認定された。これがきっかけとなり、12年春から国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の主催で東日本大震災の被災者を励ますたこ揚げがスタート。昨年は「日本」などと書かれたTシャツを着た子供ら約1000人が参加した=写真は昨年の様子。

 昨夏の50日間に及ぶイスラエルとの戦闘ではパレスチナ側で2100人以上が死亡、約10万人が自宅を失い、今年の開催は危ぶまれた。だが、ガザの子らは「ぜひやりたい」と継続を望んだという。

 UNRWAの清田明宏保健局長は「非常に苦しい中でも日本の人々に連帯の気持ちを示したいという意気込みを感じた」と語る。

 中東の紛争地からのエールに応えようと、今年は初めて釜石でも大々的に実施。8日に同市の平田公園野球場で小中学生ら数百人がたこ揚げ大会を行う。

 翌9日はガザ南部ハンユニスで、UNRWA運営の学校に通う児童・生徒らが参加し1000人規模で開催。釜石で募った寄せ書きを届け、たこにして飛ばす。現地と釜石をインターネット電話で結んで夢を語りあう交流会も企画している。

 「今度は釜石からガザにメッセージを届けたい。皆が応援していますよと」。共催するNGO「日本リザルツ」釜石事務所の吉田美紀さんはこう話している。


東日本大震災:遺体、83人が依然身元不明
 警察庁は6日、東日本大震災で亡くなり、岩手、宮城、福島の3県で2月末までに検視を終えた1万5820人のうち0.5%にあたる83人の身元が依然として確認されていないと発表した。内訳は、岩手が64人、宮城が18人、福島が1人。昨年9月12日以降に身元が確認されたのは6人だった。震災で亡くなった人の総数(2月末)は1万5890人、行方不明者は2589人になった。

再生への提言:東日本大震災4年 住まいの孤立防げ=立命館大教授・塩崎賢明氏
 ◇塩崎賢明(しおざき・よしみつ)氏

 東日本大震災で住まいを失った被災者にとって、復興のステージは仮設住宅から自宅再建や災害公営住宅(復興住宅)への入居などの段階に差しかかっている。大きな転換期だが、コミュニティーが壊れる危険もはらむ。阪神大震災では、仮設住宅や復興住宅への入居を抽選で決めたため、人間関係が断たれ、孤独死などの「復興災害」を生んだ。同じ悲劇を生まないように復興にあたらなければならない。

 私は今、岩手県大船渡市の復興計画推進委員会委員長を務めているため、毎月1回ぐらいのペースで被災地を訪れているが、大規模な高台移転への動きには留意すべきことが多いと感じている。造成には大きなコストがかかる割に街として機能するか不透明だ。生活の場である海も見えず、役場やかつての商店街も遠い。新たなコミュニティーがうまくできるかも分からない中、行政は住民が孤立しないよう注意を払うべきだろう。大船渡市は大規模移転でなく「以前に近い暮らしを取り戻す」ことを念頭に、元の集落の近くに小規模で移転する方式を取り入れた。

 住居に関する選択肢を増やすことも必要だ。東日本大震災では、被災者が入居した民間賃貸住宅を行政が借り上げる「みなし仮設」の特例を認めた。被災者が住む場所を自ら決められたため好評だ。復興住宅も、被災者が入居した民間住宅を事後的に「公営」とみなし、家賃を軽減する制度を作るべきだ。選択肢が広がり、復興災害を少しでも減らせると思う。

 阪神大震災をきっかけに生まれた被災者生活再建支援金も最大300万円では不十分だ。震災後5年間で25兆円も投入される復興予算をうまく使えば、2倍にすることも可能だろう。

 仮設住宅は厚生労働省、公営住宅は国土交通省、生活再建支援金は内閣府−−と住まいへの支援は縦割りだ。そのうえ住宅移転事業の内容は複雑で、被災者は復興のステージが進むたびに迷ってしまう。「防災・復興省」を新設して一元化し、被災者に的確なアドバイスができる仕組みを作るべきだ。【聞き手・小山由宇】=つづく

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 ■人物略歴

 神戸大名誉教授。2012年、立命館大教授。近著に「復興<災害>−阪神・淡路大震災と東日本大震災」。67歳。


東日本大震災4年:宮城県の現状 創造的復興へ、経済基盤整備
 東日本大震災の津波で沿岸部の全域が被災し、死者・行方不明者が計1万876人、さらに関連死が909人に上った宮城県。県の復興計画(10年間)では、「復旧期」が終わり、2014年度から被災者の生活再建や地域経済の復活に力を入れる「再生期」(4年間)に入った。インフラ復旧が進んだ一方、住まいの再建は遅れている。震災前を超える発展を見据えた経済基盤の整備も大きな課題だ。

 ◆住まい
 ◇プレハブに今も3万5000人

 県内に整備を計画する災害公営住宅(復興住宅)は約1万5500戸で、17年度までに全戸が完成する予定。ただ、今年1月末現在で着工は約9000戸(58.2%)、完成は2692戸(17.4%)にとどまる。

 このため避難生活は長引き、プレハブの仮設住宅に約3万5000人、民間の住宅を借り上げたみなし仮設に約3万2000人が暮らす。プレハブ仮設は劣化も目立ち、県は15年度に約13億円をかけて全棟の点検を行う。自力再建できない高齢者が仮設に残る傾向も強く、健康やコミュニティーの維持対策の必要性が増している。

 ◆インフラ
 ◇鉄道の復旧8割

 道路は全区間復旧したが、鉄道の復旧率は81.3%。運休区間のうち、JR石巻線は3月21日、仙石線は5月30日、常磐線は17年春に全線が再開予定。気仙沼線はバス高速輸送システム(BRT)で仮復旧しており、鉄路の再開は未定だ。

 仙台空港の国内線利用者数は震災前を3割上回ったが、国際線利用者数は63.3%にとどまっている。仙台塩釜港のコンテナ貨物取扱量は震災前の水準に回復した。

 ◆まちづくり
 ◇防災集団移転、全195地区着工

 沿岸部の住民が高台などに移住する防災集団移転は全195地区で着工し、住宅建設が可能になったのは54地区(27.7%)。トップを走る岩沼市と亘理町では、計画全地区に家が建ち始めた。被災市街地土地区画整理事業は25地区(73.5%)、津波復興拠点整備事業は8地区(66.7%)で着工。漁業集落防災機能強化事業は140地区で計画されている。

 ◆産業復興
 ◇農地8割で除塩、復旧完了

 農地は81.7%で除塩や復旧が完了。漁港の復旧は26.5%だが、岸壁などは仮復旧して、魚市場の水揚げ金額は震災前の88%に回復した。ただ、復興工事などに働き手を奪われる傾向が続き、水産加工場などで人手不足が深刻化している。


復興への関心「弱まる」43%…読売世論調査
読売新聞社は、東日本大震災から4年の節目を前に、全国世論調査(郵送方式)を実施した。

 震災復興への関心は、1年前より「弱まっている」が43%で、「強まっている」は10%、「変わっていない」は45%だった。復興に関して気になること(複数回答)は、「被災者の暮らしぶり」70%と「復興予算の使い道」69%が、とくに高かった。

 国の復興予算が適切に使われてきたと思うかを聞くと、88%の人が「そうは思わない」と回答し、「適切に使われてきた」は10%にとどまった。復興予算を確保するために国民の負担を増やすことには「反対」が71%と、否定的な回答が多数を占めた。背景には復興予算の使い方に対する不信感があるようだ。

 国が定めた2015年度までの5年間の集中復興期間を「延長すべきだ」との回答は71%に上り、「そうは思わない」の27%を大きく上回っている。

 福島県が、原発事故の除染で出た汚染土などを一時的に保管する中間貯蔵施設の建設を受け入れる方針については、88%が「評価する」と答え、肯定的に受け止める声が多かった。また、原発の停止が日本経済に与える影響を「心配している」は66%で、「心配していない」は33%だった。

 調査は1月下旬〜2月下旬に実施した。


東日本大震災:福島第1原発事故 避難指示解除区域、帰還進まず 川内村10%、田村市39%
 東京電力福島第1原発事故による避難指示が昨年10月に解除された福島県川内村東部地区で、避難先から帰還した人口が今年1月1日現在、10・5%にとどまっていることが、村の調査で分かった。昨年4月に解除された同県田村市都路(みやこじ)東部地区も、昨年11月末現在で39・1%と半数に届かない。他地区に先駆けて避難指示が解除された2地区の帰還が進まないことで、今後、解除が予定される「避難指示解除準備区域」の自治体にとっても、どう帰還を促すかが課題になりそうだ。

 川内村の1月1日現在の住民基本台帳上の人口は2739人だが、村が調べたところ、住んでいるのは1581人だった。避難指示が解除された東部地区に限ると、台帳上の人口は275人(昨年6月現在)だが、今年1月1日現在で居住実態があるのは29人(帰還率10・5%)だけだった。

 一方、都路東部は台帳上の人口340人に対し、居住しているのは133人(同39・1%)。東日本大震災が起きた2011年3月11日現在の台帳上の人口は380人で、この時点を基にすると帰還率は35%にまで下がる。

 雇用の問題や、残留放射線への不安などから、若い世代の帰還が特に遅れ、高齢化が進む。川内村全体でみると、被災時(11年3月)は35・1%だったが、39・8%(今年1月現在)に達した。都路地区全体も被災前は32・7%だったが、34・6%に進行している。

 川内村復興対策課の秋元英男課長は「徐々に進んでいた過疎化、高齢化が、震災後、一気に進んだ。20年ぐらい進むのが早まったように感じる」と話す。田村市都路行政局市民課の吉田孝司課長は「避難先で就労、通学、買い物先などを見つけ、生活基盤を移してしまった人も少なくない」と指摘した。【光田宗義】


小出・京大助教「原発は犠牲を他者に」 退職前に講演
 京都大原子炉実験所助教の小出裕章さんの現職では関西で最後となる講演が7日、京都市下京区のシルクホールであった。小出さんは「原子力は徹頭徹尾危険で、犠牲を他者にしわ寄せする」と指摘し、原発再稼働に向けた審査が進む流れを「避難計画は自治体任せで誰も責任を取らない仕組みだ」と批判した。

 府民らが企画した「バイバイ原発3・7きょうと」の一環。約500人が参加した。

 小出さんは、汚染水が増加している東京電力福島第1原発の現状を「施設全体が放射能の沼のようになっている」と表現。研究者としての経験を踏まえ、「原子力の場にいた人間として大きな責任がある。子どもたちの被ばくを少しでも少なくしたい」と語った。

 また「仮に事故にならなくても生み出してしまった放射性物質は消えない」と原発の問題点を挙げた。「人間という生物種のスケールでも測れない長い期間、責任を取れない毒物を生み出す。いいかげんに目を覚まし、原子力利用から抜け出ることが大切だ」と訴えた。

大阪定例勉強会/Bonjour!と言われた

ブログネタ
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Ami_du_pain

Japon : un drone pour trouver chaussure à son pied
La marque Crocs a présenté, jeudi àTokyo, un dispositif permettant aux clients d'utiliser un drone pour aller chercher les chaussures qui se trouvent sur les étagères les plus hautes.
Un drone, c'est le pied. Un magasin de chaussures de la marque Crocs à Tokyo (Japon) a expérimenté, jeudi 5 mars, un drone vert, aux couleurs de la boutique, pour aller chercher les chaussures placées sur une plateforme surélevée.
Le drone télécommandé par le client
Même s'il ne s'agit que d'un test, selon directeur général de Crocs, le dispositif pourrait être développé s'il plaît aux clients. Grace à un iPad installé au milieu de la boutique, il suffit de mettre le doigt sur la paire de chaussures choisie à l'écran et le drone se charge de faire le reste : il survole l'étagère où sont posées les chaussures et soulève la paire choisie pour la déposer à coté du client.
フランス語
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クローズアップ現代「子どもの心が“折れて”いく〜震災4年 被災地からの報告」
震災から4年、被災地の子どもたちに異変が現れている。周囲を心配させたくないと頑張ってきた子どもたちの心が限界に達し、精神状態が不安定になるケースも。どう支えるか
本間博彰,国谷裕子


大阪定例勉強会に参加しました.とても参考になりました.でも眠かったのが残念.
帰りにアンスティチュ・フランセ関西によってみました.Bonjour!と声をかけてもらってうれしかったです.

<被災地のいま>(5)震災遺構/腹割って対話少しずつ
 東日本大震災の爪痕を刻む「震災遺構」を解体するか、残すかは、被災した当事者にとって繊細なテーマだ。進む道を見いだすべく、重い扉をこじ開けての対話も始まっている。
 保存の是非が問われている宮城県南三陸町防災対策庁舎。住民有志の意見交換会が2月下旬にあった。町議の後藤伸太郎さん(36)が呼び掛けて開催した。
 解体を望む住民が遺族の心情を吐露した。保存を唱える住民はメッセージ性を強調。考える時間が欲しいと若者が訴えた。
 防災対策庁舎では43人が犠牲となった。人間関係も絡み合い、オープンな議論はタブー視されてきた。公開の場で住民がこの庁舎に絞って話し合うのは、今回が初めてとみられる。何かが動き始めた場だった。

 県は1月、震災後20年間の庁舎県有化を提案。町議会には県有化を求める請願が住民から提出された。「議論に時間をかけたい」。意見交換会で後藤さんは県有化肯定論を展開した。
 解体を望む遺族会の関係者は、庁舎を見たくない気持ちなどを説く。「議会も町長も解体を一度決めた。覆したら政治への信頼はない」。代表の阿部勝衛さん(69)が指摘した。
 庁舎建設は旧志津川町が計画。場所はチリ地震津波の浸水域だった。出席者の一人は「行政も時に間違う。個々の防災意識が大切というのが震災の教訓。保存の価値はある」と述べた。
 「遺族中心の報道や意見聴取ではいけない。住民の合意形成に感情論は入れないで」という声も。絞り出すような発言が続いた。
 副代表の千葉みよ子さん(68)は、解体以外の話を初めてじっくり聞いたという。「解体の考えは変わらないが、こういう場を早くつくるべきだった」

 冷静に話せない遺族、発言をためらう住民はまだまだいる。それでも後藤さんは手応えを感じている。「きちんと話ができた。住民の意見を探すことを避け続けていくと、この町はどうにかなってしまう」
 復興庁によると、遺構保存のために復興交付金を活用したのは、調査段階が岩手、宮城両県の5市町。整備着手は宮古市と岩手県田野畑村にとどまる。
 震災遺構をめぐる議論は、痛みや悲しみが詰まった震災の記憶をどう伝えていくかを考えることでもある。答えを出すのは簡単でない。悩ましい検討が続く。(南三陸支局・中島剛)


第22部・私の一歩(5)/絶望のふち 支えは人/東松島市・遠藤伸一さん、綾子さん
 宝物だった3人の子どもを失い、「この世に神なんかいない」と思った。救ってくれたのはやはり、人との結び付きだった。
 東松島市で木工工房「木遊木」を営む遠藤伸一さん(46)と妻の綾子さん(46)は、住民団体「チームわたほい」を運営する。東日本大震災で石巻市の渡波保育所に避難した被災者らでつくった。

 保育所近くの自宅跡地を拠点に餅つき、バーベキューなどを開く。住民らが大勢集まり、笑いが絶えない。ボランティアの復興支援を側面から支える活動も続けている。
 伸一さんは同市門脇町に建てた看板の前で復興支援イベントを続ける「がんばろう!石巻の会」の代表も務める。今は11日に計画する追悼行事の準備に余念がない。「自分たちが楽しいと感じる時、子どもたちも楽しんでいると考えるようにしている」
 津波で長女花さん=当時(13)=、長男侃太(かんた)君=同(10)=、次女奏(かな)さん=同(8)=を亡くした。綾子さんは「罪悪感でいっぱいだった。正気でいる自分たちを責めた」と振り返る。
 避難所で周りの人たちははあえて2人を忙しく働かせた。冗談を言い、笑いを誘う。かつて働いていた東京の会社社長からは「仕事を再開しろ」と車や資金が送られてきた。

 転機は工房を再開していた2011年秋に訪れた。震災で亡くなった米国人の外国語指導助手テイラー・アンダーソンさん=当時(24)=の両親が市内の小学校などに「テイラー文庫」を寄贈。依頼を受け、伸一さんが本棚をあつらえた。
 「両親は『娘が生きていれば日米の懸け橋になることを望むはず』と言っていた。自分も子どもにとって自慢できる親でいたい」
 同じころ、避難した仲間との縁を守ろうと、わたほいの活動を始めた。文庫の報道をきっかけに全国から助力の申し出が寄せられた。「手を引かれ、背中を押してもらっている」。支えが心強かった。
 4年前。笑ったり楽しんだりできる日は二度と来ないと思っていた。「人とのつながりの大切さを、あの子らが教えてくれた」。3人と一緒に生きている。今はそう感じている。


「酒粕ミルクジャム」気仙沼向洋高生が開発
 気仙沼向洋高(気仙沼市)の生徒が、地元の酒かすを使った新商品「酒粕(かす)ミルクジャム」を開発した。同市の「コヤマ菓子店」がマカロンの中身に採用し、コラボレーション商品を発売する。
 ジャムは同高産業経済科の2、3年生10人が考案した。同市の酒造会社「男山本店」の大吟醸酒の酒かすに、牛乳と砂糖を混ぜ、濃厚な甘さと豊かな香りを併せ持つ。
 5日に市役所で試食会があり、3年の尾形奈美さん(18)が「気仙沼市のお土産は水産物や塩辛いものが多い。若者が好きなスイーツを作ろうと試行錯誤した」とPRした。
 マカロンは14日午後2〜5時、同市南町商店街の集会所で1個200円で販売する。4月には本格販売も予定している。
 ジャムは、気仙沼発の新商品を高校生と考える人材育成団体「アイ・クラブ」(東京)の企画で、2013年にカツオのなまり節を使って開発した「なまり節ラー油」に続く第2弾。


日本大震災:再建の「核」完成 宮城・新女川駅舎公開
 東日本大震災の津波で流失した宮城県女川(おながわ)町のJR石巻線女川駅の新駅舎が5日、報道陣に公開された。町のシンボルのウミネコが羽ばたく姿をイメージした大屋根が特徴。かさ上げなどの再建が進む町中心部の核となる。

 旧駅は沿岸にあったが、新駅は約200メートル内陸に移設し、敷地も7〜9メートルかさ上げした。ホームから真っすぐ先に海が見渡せ、駅舎を起点に海岸に向けて駅前広場やプロムナード(遊歩道)、商店街などを整備する復興計画が本格化する。

 21日に開業し、石巻線浦宿駅までの2・3キロ区間の運行が再開、4年ぶりに石巻、仙台方面と鉄路でつながる。町はこの日を「新生女川のまちびらき」と位置づけ、記念式典で復興をアピールする。3階建ての駅舎は、建築家、坂茂(ばんしげる)さんが設計。温泉施設「ゆぽっぽ」を併設した。【百武信幸】


岐路:東日本大震災4年/5止 通院送迎、継続に不安 「命綱」自負、助成金頼み
 「木曜日の13時ですね。お迎えに参ります」。岩手県陸前高田(りくぜんたかた)市の事務所で、大泉善裕(よしひろ)さん(63)は受話器を置くと手帳を開き、びっしり埋まったスケジュール表の隙間(すきま)にねじ込むように新たな予定を書き加えた。

 同市で仮設住宅や復興住宅で暮らす高齢者、障害者らを支援するNPO「愛ネット高田」に勤める支援員。乗用車に利用者を乗せて通院や買い物を手伝う「移動支援」をしている。利用は無料で人気が高いが、支援員は大泉さんを含め2人。多い日で計約30件の送迎をこなす。

 市内では昨年、ようやく復興住宅が建ち、被災者は仮設から移り始めている。それだけエリアが広がったことになる。利用者が仮設に集中していたころは効率的に回れた。買い物だけの注文も受けていたが、今は病院の帰りにスーパーに寄るのが精いっぱいだ。「忙しいでしょう」と遠慮する利用者もいる。

 昨秋、市内の仮設から復興住宅に移った70代の女性はすぐ、週2回の整骨院通いに「愛ネット」を申し込んだ。仮設では仲間の助けがあったが、今は頼る人がいない。スーパーやバス停からも遠くなった。大泉さんは「利用する時には毎回、『支援があってよかった』って感謝されるんだ」と笑う。

    □

 支援員になる前は介護タクシーの運転手。震災当日も車いすの男性を乗せ、迫る津波から命からがら逃れた。だが、海岸近くの自宅は流され、避難所などを8カ所も転々とした。2011年6月に妻と2人で市内の仮設住宅に落ち着いた。

 介護タクシーの仕事は「メーターがどんどん上がるでしょ。運転してて、悪いなあって」。そんな後ろめたさもあって、震災後に辞めた。12年6月、知人を通して今の支援員の仕事を紹介された。晴れやかな気分で運転できるのがいい。

 ただ、不安もよぎる。自身の給料を含め、活動は複数の企業が復興支援として出している助成金に支えられているが、「愛ネット」からの持ち出しも年間50万〜60万円に上る。助成金は毎年の更新で来年があるかどうかは分からない。被災者のための「橋渡し役」を務めているとの責任感は強い。「本来なら行政の役割。残り続けないと困る」。しかし、突然、終了に追い込まれるかもしれない……。

 晴れ間がのぞく4日午後1時、市内の病院で、診療を終えた男性(37)を出迎えた。この日が初めての利用という男性は「両親に送り迎えしてもらっていたけど、いつまでも迷惑かけちゃ悪いし」。20分ほどかかる自宅まで送り届けた大泉さんは「命綱になってるんだな。必要としてくれる人がいる限り頑張ります」と、柔らかいほほ笑みを見せた。【松本光樹】=おわり

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 ■ことば
 ◇仮設住宅からの移転

 プレハブ仮設からの移転事業としては、復興住宅(災害公営住宅)、高台への防災集団移転、土地区画整理などがある。被災3県のホームページによると、復興住宅は岩手県大船渡市で2012年12月に最初に造られ、宮城県では13年4月、福島県で14年11月からそれぞれ造られた。陸前高田市では14年9月に最初の復興住宅が建ち、これまで3カ所で計156世帯318人が入居。市は16年度までに1000世帯分を完成させる予定。仮設住宅からの移転が各地で本格化している。


北東北アンテナショップ閉店へ・大阪
 大阪市に2004年開設された北東北3県の合同アンテナショップ「きた東北発見プラザ ジェンゴ」が3月31日、閉店する。大阪の商圏の変化に伴う利用者数と売り上げの伸び悩みが要因。青森、岩手両県は新年度、開発が進む梅田駅周辺に合同店舗を出店、売上比率が3県で最も低い秋田県は加わらない。
 12年から3県でアンテナショップの在り方を検討し、移転を決断した。秋田県秋田うまいもの販売課は「関西圏に秋田の食材を広める一定の効果はあったが、この10年で梅田駅周辺の大規模再開発が進み、客足が遠のいた」と説明する。
 秋田県の人気商品はきりたんぽ鍋セットやジュンサイなどで通年販売が難しく、2県に比べ不利な状況となっていた。
 プラザは04年7月、地下鉄心斎橋駅近くに開店した。大阪市のスーパーに運営委託し、青森のリンゴ、岩手の三陸産海産物、秋田のいぶりがっこなど特産品計約1300点を販売した。
 運営費は各県が年約1700万円ずつ負担。年間の売り上げ目標は3県計1億2000万円に設定したが達成できなかった。
 同課によると、東日本大震災直後の11年度は、復興支援の機運の高まりで1億2000万円近くを売り上げたが、他の年度は7000万〜9000万円台に低迷。レジ通過者数は06年度の7万605人がピークで、13年度は過去最低の4万2000人に減少した。
 同課の畠山勇人課長は「関西へのアプローチは変わらず続ける。常設店にこだわらず、より効果的な戦略を検討する」と話した。
 青森、岩手両県は、梅田地区を第1候補にアンテナショップを新設する。通行量の多い地下街への開設を想定。設置運営事業費約8150万円は青森、岩手両県で折半する。


<被災地はいま>震災遺構/存廃の判断、地元苦慮
 東日本大震災の悲劇を伝える「震災遺構」をめぐり、保存の是非の議論が熱を帯びている。鎮魂の場としての役割や防災意識の向上が期待される一方、維持費の負担や遺族感情も考慮する必要があるためだ。結論を急がず、時間をかけて検討する動きも出ている。

◎保存/維持費負担が重荷

 「物言わぬ語り部」としての役割が期待される震災遺構だが、保存には修繕維持費がつきまとう。国の支援は限定的で、被災自治体が苦慮するケースも出ている。
 津波被害を受けた東松島市の「かんぽの宿松島」は施設のたなざらしが続いている。所有する日本郵政(東京)に再活用の意思はなく、市は2014年10月、一部保存を前提に後継事業者を募った。だが、応募はゼロだった。
 ネックとなったのは6億円以上とみられる修繕費。施設は特別名勝松島の指定区域にあり、新規物件の建築は難しい。市の担当者は「周辺には避難ビルがない。解体は避けてほしいのだが…」と気をもむ。
 遺構関連の国の財政支援は、保存の初期費用に限られる。対象も一つの市町村につき1カ所だけ。自治体が直接管理しようとすれば、恒久的に出費が続く。地方に財政的な余力は乏しく、「伝承」と「負担」のはざまで苦悩が深まる。
 費用負担をクリアしたとしても、保存には地元の理解が欠かせない。
 児童・教職員計84人が死亡、不明となった石巻市の大川小をめぐっては、住民組織内で議論が進む。アンケートを通して(1)解体(2)一部保存(3)保存−の3案を絞り込み、地元総意として市に要望する方針を固めている。

◎解体/遺族への配慮優先

 被災建造物の保存、解体の判断に当たっては、遺族や被災者への配慮が欠かせない。遺構の候補になりながら姿を消した物件の背景には、複雑な地域感情が見え隠れしている。
 津波で中心市街地が壊滅した陸前高田市は、遺構について二つの条件を定めた。一つは「復興まちづくりの支障にならない」。もう一つは「犠牲者が出ていない」という条件だった。市都市計画課の担当者は「いま生きている人々が希望を持ち、前向きになれることを重視した」と話す。
 この結果、市は条件に合致する道の駅高田松原「タピック45」、陸前高田ユースホステル、気仙中校舎、定住促進住宅の保存を決定。対照的に多数の死者が出た市役所庁舎、市民会館を解体した。
 遺構は震災の悲劇を伝える一方、つらい記憶を喚起する恐れもはらむ。
 気仙沼市に打ち上げられた大型漁船「第18共徳丸」。震災後、津波の威力を体現する事例として注目を集めた。市は保存策を模索したが、所有者側は「住民の心理的負担」などを理由に解体方針を貫徹。2013年中に姿を消した。
 最大の津波被災地となった石巻市では、門脇小の扱いが焦点の一つになっている。市震災伝承検討委員会が保存を提言したのに対し、住民から異論が噴出。市が対応を検討している。

◎モニュメント活用の動きも

 震災の記憶を伝えるのは建物などの大規模構造物とは限らない。各地ではモニュメントや遺物を保存する取り組みも広がっている。
 代表例が陸前高田市の「奇跡の一本松」だ。被災地のシンボルとして全国的に知られるようになり、今も多くの人が見学に訪れる。
 原発事故で深刻な被害を受けた福島県では、県立博物館が中心となって遺物収集が進む。津波で破壊された標識、避難所で配られた非常食などを対象としており、県立博物館の高橋満学芸員は「失われた古里の生活を後世に伝えたい」と語る。


津波で犠牲職員の遺族が告訴 町長立件せず
 東日本大震災の津波で宮城県南三陸町の防災対策庁舎にいた町職員ら43人が犠牲になったのは適切な避難指示を出さなかったためだとして、町職員の遺族から業務上過失致死容疑で告訴された佐藤仁町長について、宮城県警は5日、捜査結果を仙台地検に書類送付した。津波を予測することは困難で、立件できないとの意見書を付けたとみられる。

 捜査関係者によると、町沿岸に高さ十数メートルの津波が到達するという統一的な見解はなかった。町側が事前に津波を予見するのは不可能で、刑事責任を問うのは難しいと判断したという。
 町の防災計画では、宮城県沖地震(連動型)が発生した場合、同町志津川地区の津波の最高水位を6.9メートルと想定していた。現場となった庁舎は、町の防災計画に基づき、高さ12メートルで建てられていた。
 犠牲者の中には、防災計画で災害発生時に庁舎での勤務が定められている部署以外の職員が含まれていた。町長の職務命令で庁舎内にとどまったかどうかを個別に判断するのは難しいとの結論に至ったという。
 関係者によると、県警は2013年1月から町職員らへの聴取を開始。佐藤町長にはことし2月23日まで複数回にわたり事情を聴いていた。
 佐藤町長はこれまでの遺族の公開質問状に「判断に誤りはなく、想定を超える震災だった」と回答していた。


東日本大震災:大根と笑顔、今は 原発事故前の写真展示 福島・飯舘村で撮影「奪われたもの伝える」
 東京電力福島第1原発事故で全村避難を強いられた福島県飯舘村で、事故直前の時期に人々の飾らない生活を記録していたアマチュア写真家がいる。同県浪江町で看護師をしていた管野(かんの)千代子さん(68)。原発事故から間もなく4年。教訓の風化が懸念される中、「日本の原風景」と「故郷の豊かな暮らしの営み」を紹介することで、事故がどれだけ大切なものを奪ったかを伝えようと、各地で写真展を開いている。【尾崎修二】

 管野さんは事故前の2010年夏〜11年冬、飯舘村に通って村の人の暮らしを撮り続けた。自然を生かした村づくりに励んできた村民は、カメラを向けても嫌な顔をする人が誰もいなかったという。「皆が笑顔で応じてくれ、撮影が終わるとお土産に野菜をどっさりくれた」。村の写真で個展を開きたい−−。その矢先に原発事故は起きた。

 事故前の写真は、自慢の大根を持って笑顔を見せる農家の女性たち、ヤギと散歩する高齢女性、川遊びに夢中になる子どもたちなどの生き生きした表情を捉えている。

 管野さんは事故後、栃木県内に避難したが、時間を見つけては福島に戻って仮設住宅を回り、村民らの話し相手になりながら写真を撮り続けている。県外の住宅街で避難生活を送る女性は、ヤギを手放していた。別の女性は避難先の気候の違いから、「凍(し)み大根」(干し大根)づくりを断念していた。事故直後にマスク姿の女子中学生2人を撮った写真は、大人に何かを問いかけるような視線が印象的だ。

 作品は札幌市や神戸市などで展示された。6日からは、前橋市日吉町2の「ギャラリー門倉」で13回目の写真展が始まった。管野さんは「土地を追われた苦労や事故の恐ろしさを伝えたい」と話している。前橋市での展示は12日まで。入場無料。


東日本大震災4年:雇用 水産加工、外国人頼み 人手不足の中、各社工夫も
 求人と求職のニーズが一致しない「雇用のミスマッチ」が、東日本大震災の被災3県(岩手、宮城、福島)で深刻化している。沿岸部の基幹産業である水産加工業は外国人技能実習生の受け入れ増加に期待しているが、この制度には「途上国支援に名を借りた労働力確保」との批判も出ている。「外国人頼み」が進む被災地の課題は多い。

 旬のイサダ(オキアミの一種)が入った箱がガラガラと音を立ててベルトコンべヤーの上を流れる。脇に立つ作業員は冷凍用ケースに移し替えたりする作業に忙しい。岩手県大船渡市末崎(まっさき)町の水産加工・冷蔵業「山岸冷蔵」。従業員18人のうち外国人技能実習生は2人。いずれも中国人で、黙々と作業をこなす。同社の菅原昌弘会長(74)は「貴重な戦力」と強調する。

 同社は震災の津波で大船渡湾に面した工場が全壊し、2012年9月に再建を果たした。大船渡港で水揚げされた魚介類を全国に出荷している。特に秋は、本州一の水揚げ量を誇る大船渡港のサンマの内臓を取り除いてパック詰めする作業で多忙を極める。しかし、被災地の基幹産業にもかかわらず人手不足が深刻で、売り上げは震災前の7割にとどまる。「もっと人を雇えれば、業績を伸ばすことができるのだが」。菅原会長は表情を曇らせる。

 沿岸各地では復興工事が進み、大船渡職業安定所管内では求職者1人当たりの働き口を示す有効求人倍率(原数値)が1月は1・82倍と高水準。しかし、水産加工業は敬遠されがちで、震災前から中国人を中心にした外国人技能実習生に頼ってきた。

 震災後に被災3県で激減した実習生は震災前を上回る人数になったものの、以前のように頼れるわけではない。この間、実習生を多数送り出してきた中国は、日本を抜いて世界第2位の経済大国に成長。菅原会長も「中国の生活水準が高くなり、何が何でも日本で稼ぐ気にならないのでは」と気をもむ。実際、同社は13年から2年間で6人を採用したが、うち4人は「実習生同士のそりが合わない」などの理由で、いずれも1カ月余りで帰国してしまった。

 外国人技能実習制度には「労働力として使い捨てている」との批判もあり、実習生向けに良好な住環境を確保するなどの課題もある。同社の場合、宿舎が津波で全壊し、現在は事務所を改造して実習生に住んでもらっている。業界内には「仮設住宅の空き部屋を使わせてもらえれば助かる」との声も出ている。

 一方、人手不足を解消するために、作業効率を改善させる取り組みも進む。大船渡市盛(さかり)町の水産加工業「森下水産」の従業員は120人。このうち外国人実習生は18人で全員中国人だ。森下幸祐専務(57)は「売り上げは震災前の8割に回復し、今年は完全回復の正念場。働き手はあと30人ほしい」と話す。

 同社は11年7月に一部業務を再開。12年6月には完全復旧し、今年1月に新工場を増設した。同社が取り組んできたのは、トヨタ自動車の生産方式「カイゼン」。社団法人「中部産業連盟」(名古屋市)の指導を受けて徹底して作業効率を上げ、人手不足をカバーしている。

 12年にはトレー置き場を変えただけで、サンマ加工ラインの1時間の生産量が250キロから300キロに向上した。空揚げ粉の付けすぎ防止のため、毎日の使用量を従業員が見える場所に掲示すると、使用量が5%減るなどコストダウンもできた。別の作業に従事させる余裕が出るなど好循環が生まれている。森下専務は「人手不足を嘆くばかりでなく、工夫できることはしなくては」と話した。【浅野孝仁】
 ◇業種で求人数に差

 岩手、宮城、福島3県の今年1月の有効求人倍率は1・1〜1・5倍で、0・5倍程度だった震災直前の2011年2月と比べると、高水準が続いている。だが、業種別に見ると、人手不足と求人不足の業種がそれぞれ固定化しているのが実情で、求人と求職のミスマッチ解消のため、各業種での労働環境整備が急務となっている。

 厚生労働省のまとめでは、被災地の主要5職業安定所では、求人数と求職者数の比較が可能な13年2月以降、復興工事などで人手が必要な建設・採掘業、基幹産業の水産加工など食品製造業を中心に、求人数が求職者数を1・5〜3倍程度上回る状況が続いている。逆に、事務職や清掃・運搬業では求人数が少なく、求職者数の3分の1〜3分の2程度にとどまる。

 民間信用調査会社の東京商工リサーチ東北支社(仙台市)の担当者によると、宮城県内のある食品系企業は、震災前には求人をすると応募や問い合わせが数十件あったが、今は「売り上げアップを図って営業職や運転手を増やす募集をしたら、問い合わせが1件もなかった」と嘆いているという。仙台市内の別のサービス系企業は、時給を最低賃金の2倍近い1400円にしてみたが、それでも人が来なかった。同支社の担当者は「この状況はしばらく続くだろう」と予想する。

 一方、厚労省は自治体の委託事業で被災者を雇用した企業が助成を受けられる「震災等緊急雇用対応事業」で、11〜14年度に3県で延べ10万6000人分(計画人数を含む)の雇用を生み出したと実績を強調する。雇用創出の中核となることが見込まれる事業に3年間助成する「事業復興型雇用創出事業」でも、これまでに3県で延べ13万6000人分(同)を確保した。

 ただ、同省雇用政策課の担当者は「雇用者数は震災前の水準まで回復しているが、求人と求職のミスマッチが起きている」と認め、「有効求人倍率が高いからといって、被災者が簡単に就職できるとは思っていない。ハローワークや職業訓練を通じマッチングを進めるなど、きめ細かく対応していく」と言う。

 被災者の就労支援を続けるNPO法人「POSSE(ポッセ)」仙台支部の川久保尭弘(たかひろ)さんは「震災後、長時間労働や賃金低下など労働環境が悪化した面もある。労働の強度が増し、仕事を続けられなくなる人も出ている」と指摘。今後は「求人数を増やすだけでなく、賃金アップや待遇改善など求人の質を向上させる対策が急務だ」と話す。【狩野智彦】


市長無罪判決 検察不信は強まった
 収賄罪に問われた現職市長に裁判所が無罪を言い渡した。弁護側主張の通り「すべてが作り上げられた犯罪」だったのか。捜査には疑問点が多く、これでは検察不信が強まると言わざるを得ない。

 岐阜県美濃加茂市長の藤井浩人被告(30)を無罪とした名古屋地裁の判決理由は「現金授受があったとする贈賄側の証言には合理的な疑いがある」と明快だった。

 自らの裁判でも賄賂を渡したと供述し、有罪が確定している設備会社社長の証言を「虚偽の疑いがある」と退けたのである。

 贈賄側が有罪を争わぬ一方で収賄側は無罪、という一見分かりにくい裁判の結果は、一体、何を物語るのだろう。

 この事件の捜査には、二つの大きな疑問点がある。

 一つは、賄賂の額である。

 藤井市長は、市長就任前の市議時代に三十万円の賄賂を受け取ったとして逮捕、起訴された。

 この十年間に現職市長が逮捕された収賄事件を見ると、認定された賄賂額は最低でも百万円、ほとんどは五百万円以上である。

 逮捕となれば、市政の空転は必至である。有権者が選んだ市長を三十万円の収賄で逮捕すること自体が、捜査の常識からは考えにくい判断だとも指摘される。

 もう一つは、贈賄を認めた設備会社社長の供述の経緯である。

 その社長は、融資詐欺事件の取り調べの中で、藤井市長への贈賄の供述を始めたとされる。

 詐欺罪について当初、名古屋地検が起訴したのは二千百万円分。その後、藤井市長の弁護団による告発を受け、さらに四千万円分を追起訴したが、不正融資の総額は三億六千万円だったとされる。

 弁護団の告発が意図するところは「検察が闇取引し、虚偽の贈賄供述をさせる代わりに、巨額詐欺の捜査を打ち切った疑いがある」ということである。

 そのような背景がある社長の供述を除けば、説得力のある証拠は見当たらない。適正な捜査、起訴だったとは、とても言えまい。

 厚生労働省局長だった村木厚子さんが巻き込まれた大阪地検の郵便不正事件などで検察不信が強まる一方、近年、汚職事件の摘発は全国的に低調な状態が続いている。全国最年少市長として知名度の高かった藤井市長を狙って勇み足はなかったか。

 検察が主張してきた現金授受には疑問が膨らむばかりである。判決を読む限り、控訴はすべきではないだろう。


大阪工業大:「ロボット」核に新学部 17年春開設構想
 大阪工業大(本部・大阪市旭区)は5日、新学部「ロボティクス&デザイン工学部」(仮称)を2017年4月に開設する構想を発表した。ロボットのデザインや活用方法を提案する人材を育てる。募集定員は250人を予定。16年秋に大阪市北区茶屋町に完成予定の「梅田キャンパス」に置く。今秋にも文部科学省に新学部と大学院新専攻の設置を申請する。

 新学部には3学科を設置する。工学部のロボット工学科と空間デザイン学科を移し、既存の工学技術を使った商品の開発手法などを学ぶ学科を新設する。大学院には「ロボティクス&デザイン専攻」(仮称)も設ける。

 新学部では半分の期間で単位取得を可能にしたり、4学期制に細分化して休学せず留学しやすくしたりする。1〜3年次で工学技術やデザイン技術を学び、4年次では3学科の学生でチームを作り、メーカーとの協力で商品の出口戦略を考えて論文にまとめる。

 政府は国の成長戦略にロボット分野を掲げる。井上正崇(まさたか)学長は記者会見で「今後の日本の技術革新を背負う人材を育てたい」と語った。

 大工大は既に、市民が自由に出入りして最新の介護や生活支援ロボットと触れ合えるコーナーを梅田キャンパスの1階(約2000平方メートル)に設置する計画も明らかにしている。【吉田卓矢】

ブツブツの問題でクタクタ/メールを続ける

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L'ambassadeur américain à Séoul blessé dans une attaque
La police a identifié le suspect comme étant Kim Ki-Jong, un homme de 55 ans déjà condamné pour avoir lancé une pierre sur l'ambassadeur du Japon à Séoul.
L'ambassadeur des Etats-Unis en Corée du Sud, Mark Lippert, a été blessé jeudi 5 mars à Séoul par un homme armé d'une lame de rasoir dans un contexte de tensions accrues sur la péninsule coréenne.
Le président Barack Obama a appelé l'ambassadeur pour lui souhaiter un prompt rétablissement", a indiqué Bernadette Meehan, porte-parole du Conseil de sécurité nationale (NSC), tandis que le département d'Etat a "condamné avec force" un "acte de violence".
"L'ambassadeur a été blessé au visage"
L'assaillant armé d'une lame de rasoir dissimulée dans sa main droite a attaqué Mark Lippert alors qu'il participait à une réunion autour d'un petit-déjeuner à l'Institut culturel Sejong, dans le centre de Séoul.
Kim Young-man un porte-parole du Conseil coréen pour la réconciliation et la coopération, organisateur du petit-déjeuner auquel participait l'ambassadeur, a exprimé ses regrets pour la sécurité défaillante.
"Cet homme a brusquement surgi du public au moment ou le petit-déjeuner commençait. Des gens ont tenté de l'arrêter mais tout s'est passé très vite. L'ambassadeur a été blessé au visage et conduit à l'hôpital", a t-il expliqué.
Des images vidéo, prises aussitôt après l'attaque, montraient l'ambassadeur emmené précipitamment hors de l'immeuble, une main posée sur sa joue droite ensanglantée, l'autre main portant la trace apparente d'une blessure et également maculée de sang.
L'assaillant connu des services de police
L'ambassade des Etats-Unis en Corée du Sud coopère avec les autorités de police locales, a précisé le département d'Etat, confirmant que l'ambassadeur avait été "agressé jeudi matin à Séoul pendant qu'il donnait un discours".
Mark Lippert, 42 ans, a été installé dans une voiture de police et transporté à l'hôpital. Sa vie n'est "pas en danger", selon la diplomatie américaine.
Les membres des services de sécurité et des policiers se sont précipités sur l'assaillant, qui portait des vêtements coréens traditionnels et a lancé, selon les médias, un slogan contre la guerre quand il s'est attaqué au diplomate.
La police a identifié le suspect comme étant Kim Ki-Jong, un homme de 55 ans déjà condamné pour avoir lancé une pierre sur l'ambassadeur du Japon à Séoul en 2010.
Il "a été placé en garde à vue et nous essayons de comprendre le mobile de l'attaque", a indiqué le chef de la police locale chargé de l'enquête, Yoon Myung-Soon.
L'homme dirige un mouvement nationaliste organisant régulièrement des manifestations contre les prétentions territoriales du Japon sur un groupe d'îles contrôlées par la Corée du Sud.
Il tient un blog dans lequel il exprimait cette semaine son opposition aux manoeuvres militaires entre la Corée du Sud et les Etats-Unis qui viennent de démarrer, estimant qu'elles rendent impossibles la reprise du dialogue intercoréen.
Les Etats-Unis et la Corée du Sud ont lancé des exercices militaires conjoints cette semaine, faisant monter la tension avec la Corée du Nord.
Près de 30.000 soldats américains sont stationnés en permanence en Corée du Sud et les Etats-Unis assureraient le commandement opérationnel en cas de conflit armé avec la Corée du Nord.
Réputé proche de Barack Obama, Mark Lippert, un ancien assistant au secrétariat à la défense pour les affaires asiatiques, a pris ses fonctions à Séoul en octobre.

ブツブツの問題をコピーしました.少し検討してみましたが,難しいです.クタクタになりました.
メールを続けようと思いました.

岐路:東日本大震災4年/4 誇りの移動販売、たたむ 避難指示解除の都路地区
 山あいの道を青いトラックが上っていく。車体に「加藤酒店」の白い文字。荷台には新鮮な野菜や精肉、酒、たばこなどが満載されていた。

 終戦直後、福島県都路(みやこじ)村(現在の田村市都路地区)にある加藤酒店は、買い物に苦労していた山間部の人たちのため、当時としては珍しい移動販売を始めた。隣の浪江町から加藤家に嫁いだスミエさん(91)も、店の2代目の夫嘉典(かてん)さんが運転するトラックに乗り、点在する家々を巡った。

 「そりゃあ、喜んでくれたよ」。出迎える村人の笑顔が一家の誇りだった。

 商店の3代目は、長男の嘉一さん(67)が1970年ごろに継いだ。約20年前には原発で働く人たちが客として訪れ、年商は7000万円に達した。そして2011年3月11日、東京電力福島第1原発事故が起きた。

 商店は原発から約15キロ。夫婦は親戚の家や避難所などを転々とした。田村市船引運動場にある仮設住宅に腰を落ち着けられたのは、12年夏だった。夫は13年3月、病床から「都路に帰りたい」と訴えながら、肺炎のため92歳で亡くなった。

 事故後、住むことが許されていなかった都路だが、昨年4月に避難指示が解除された。全避難地区の中で最も早い解除だった。スミエさんは、今年4月に仮設住宅を出て都路の店舗を兼ねた自宅に戻ろうと決めた。この1年で年配の人たちを中心に帰郷が進んだ。昔なじみ同士、おしゃべりしながら余生を過ごすという。

 都路の避難指示解除区域に戻った住民は、39%にとどまっている。しかも、解除から1年を迎える今月いっぱいで、東電から毎月1人10万円が支払われてきた「精神的賠償」は打ち切られる。原発事故の影響で働く先がほとんどない都路地区にとって、精神的賠償の打ち切りは帰還を遅らせる一因にもなりかねない。スミエさんと嘉一さんは「若い人の仕事が都路にあれば帰還が進んで客が増えると思うが、今の状況では店は続けられない」と、店をたたむ決心をした。

 商店の看板は既に取り外され、棚には取り残された商品がまばらに並ぶ。既に帰還した嘉一さんは、友人の仕事を手伝って生計を立てている。「3代続いたお店を閉めるのは、寂しくないですか」「残念な気持ちはありますよね」−−。スミエさんは笑みを浮かべ「商売はもうだめだな。お客さんが来ないんじゃ」と答えるだけだった。

 事故の前、自宅の庭ではチューリップや水仙、ツツジなどが咲き誇っていた。スミエさんが大切に育てたものだった。長い避難生活により、今ではすっかり雑草に覆われてしまった。屈託のない笑顔で、スミエさんは言った。

 「また、庭いじりすっぺ」【光田宗義】

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 ■ことば
 ◇避難区域

 国は2012年4月から、福島第1原発事故直後に設定した「警戒区域」と「計画的避難区域」を、被ばく放射線量が高い順に三つの区域に再編した。年間被ばく放射線量が50ミリシーベルト超となる地域は「帰還困難区域」▽年間20ミリシーベルト超50ミリシーベルト以下の地域は「居住制限区域」▽その周辺の年間20ミリシーベルト以下の地域は「避難指示解除準備区域」。準備区域のうち田村市都路地区が昨年4月1日に解除、次いで川内村東部が同10月1日に解除され、住民の帰郷が始まった。現在も避難区域は10市町村にある。


原発事故前の標語 レンズ向け脱原発を発信
 東京電力福島第1原発事故で住民の大半が避難する福島県双葉町で、写真を撮り続けている男性がいる。撮影ポイントは「原子力 明るい未来のエネルギー」との看板が掲げられた町中心部へのゲート前。「子どもの時に自分が応募した標語。考案者として責任を感じている」と、画像で脱原発のメッセージを発信している。

 男性は同町に住んでいた自営業大沼勇治さん(38)。事故後、避難先の茨城県古河市に移住した。以前はゲートのすぐ脇で、オール電化のアパートを東電関係者らに貸していた。
 初めてゲート前で撮影したのは2011年8月。以来、町に戻るたびにレンズを向けるようになった。構図を工夫し、標語の「明るい」の部分を「破滅」と書いた紙で隠したり、「原子力」の部分を「脱原発」としたりしたこともあった。
 13年11月には妻せりなさん(39)と一緒に写真に収まった。喪服姿の下は白い防護服。叔母の遺骨を双葉町内にある寺に納骨する際、撮影した。
 親類は事故でばらばらとなり、納骨に参加できたのは大沼さん夫妻だけ。地縁すら奪われた怒りといら立ち、むなしさを1枚に込めた。
 町内に福島原発5、6号機が立地するなど、原子力は身近な存在だった。小学6年の時、学校の課題で提出した作品が優秀賞に選ばれた。大きな看板に標語として採用され、ゲートは「自分にとって特別な場所」となった。
 晴れやかな場所は、原発事故で一転して悲劇の象徴となる。ニュースなどでテレビに映されるたびに胸を痛めた。
 撮影した写真はブログにアップするなどしている。「原子力に明るい未来なんてない。今はそう思っている。今後も被災地の現状を伝えていく」。大沼さんが力を込めた。


閉校の倉庫 高校生3人が夢育む場に「再生」
 女川町の高校生3人が2年前に閉校となった旧女川一小の倉庫を、勉強やミーティングに活用できる空間に生まれ変わらせた。旧一小の校舎は東日本大震災で被災した児童生徒を支援する学習塾「女川向学館」が使用している。「誰でも入りたくなる部屋」を目指し、建築家や家具職人の助言を受けて改装した。
 3人は石巻好文館高の2年丹野大士君(17)と1年阿部由季さん(16)、石巻高1年木村圭さん(15)。いずれも向学館の「卒業生」だ。
 倉庫は約15平方メートル。壁は気持ちを明るくする黄色や薄紫を配色し、書き込みができるホワイトボードも設けた。中央に大きな木製テーブルを置き、小上がりスペースを用意。見上げて気分転換できるよう、天井に星形の照明をつり下げた。
 NPO法人が運営する向学館は町内の小中学生を中心に約150人が通う。教室が足りず、廊下で打ち合わせをするなどしていた。空いていた倉庫はかび臭く殺風景で、子どもたちから「取調室」と呼ばれていたという。
 丹野君や木村さんは建築の仕事を志していることもあり、改装に挑戦。石巻市でレストランを営む建築家天野美紀さん(36)らに指導してもらい、被災地支援を続ける日本コカ・コーラから資金援助も受けて約1年がかりで仕上げた。
 木村さんは「自分たちでアイデアを出しながらリノベーションをやってみて作る楽しさを知った。この部屋で勉強やミーティングをしながら、多くの人が夢に向かい頑張ってほしい」と期待した。


<始動釜石W杯>震災越え夢の舞台/(上)ゼロからの挑戦
 2019年ラグビーワールドカップ(W杯)の開催地に東北で唯一、釜石市が選ばれた。「北の鉄人」と呼ばれ、1985年まで日本選手権を7連覇した新日鉄釜石ラグビー部(当時)があった「聖地」。東日本大震災で被災したラグビーの街は、W杯を通じて新たな復興の道に挑む。(釜石支局・玉応雅史)

<公共工事2年分>
 「未来を担う子どもたちが夢と希望を持ち、復興を推進する力になる」。W杯開催地に釜石市が決まった2日夜、野田武則市長は顔を紅潮させて力説した。
 近代製鉄発祥の地として、鉄とともに歩んできた街には苦難の歴史がある。
 明治と昭和の津波被害、太平洋戦争末期の艦砲射撃、高度経済成長を支えた新日鉄釜石製鉄所の高炉休止。街は逆境をバネに、幾度も困難を乗り越えてきた。
 「鉄もラグビーも先人が釜石に残したからこそ、震災の困難に立ち向かうことができた。われわれも次世代に誇れる郷土をつくらなければならない」と野田市長。釜石の未来に、復興とW杯を見据えてきた。
 人口3万6000余の小さな街。開催12都市で唯一スタジアムがない。開催地に名乗りを上げたのは、まさにゼロからの挑戦。開催を支える財源の確保は解決していない。
 市によると、被災した鵜住居小と釜石東中の跡地に建設するスタジアムと大会運営の費用は計約29億円。国の交付金やスポーツ団体助成金を見込んでも市単独の負担は最大約9億8000万円に上る。
 一般財源の規模を示す標準財政規模が104億円の市にとって「平常時の平均的な公共工事費の2年分」(財政課)に相当する。
 市は寄付など「財源を多角的に求める」(野田市長)という。一方で「暮らしの再建が先だ」という被災者の不安を拭い去る取り組みも焦点になる。

<子どもを主役に>
 世界の一流選手が釜石に集うことに、市民は期待を膨らませる。
 開催決定の瞬間をネット中継で見たラグビーチーム釜石シーウェイブスジュニアの及川勝陽君(11)は「チームが一つになり、ボールを追い掛けるのがラグビーの魅力。高校1年の時に開かれるW杯では運営を手伝いたい」と目を輝かせた。
 「子どもたちを主役に盛り上げたい。試合だけにとどまらず新たなまちづくりの起点になる」。市民による誘致運動を展開したW杯釜石誘致推進会の中田義仁代表(46)は波及効果を確信する。
 かつて輝かしい時代を築き、市民を魅了した釜石ラグビー。W杯開催が決まり、新たな脈動がはっきりと見え始めた。


震災から4年 沿岸13市町で11日追悼式
 東日本大震災から4年を迎える11日、多くの犠牲者が出た石巻市など沿岸13市町は、それぞれ追悼式や慰霊祭を開く。
 各地の式典は表の通り。各会場では政府主催の追悼式中継が放映され、地震発生時刻の午後2時46分に黙とうをささげる。村井嘉浩知事は、名取市の追悼式に参加する予定。
 宮城県は、県庁2階講堂と大崎、大河原の両合同庁舎に献花台と記帳所を設置。利府町の県総合運動公園(グランディ21)の総合体育館には県スポーツ振興公益財団が献花台などを設ける。
 11日は県条例で、震災の犠牲者を悼み、復興を祈念する「みやぎ鎮魂の日」に制定されている。県教委によると、公立高などほとんどの県立学校が休校。小中学校は石巻市が休校し、気仙沼市と南三陸町は午前授業とする。


<被災地のいま>(4)帰還/望郷 定住 思いは揺れる
 沿岸を離れ、内陸で暮らす被災者20人が一緒にバスに乗って大船渡市を訪れた。
 「ここ、ここ! 俺の家があった場所だ」。東日本大震災の津波で自宅を流された及川久さん(71)が思わず立ち上がり、車窓からの風景に見入った。
 「津波さえなければね…」。誰かがつぶやくと、車内が静まり返った。
 市社会福祉協議会が2月下旬に主催した「お帰りなさいツアー」。岩手内陸の8市町から参加者があった。1泊2日で被災した市街地を回り、三陸鉄道に乗って復興工事も視察した。
 及川さんは震災直後、持病の狭心症が悪化した。医者から大病院がある内陸へ移ることを勧められ、長男がいる岩手県紫波町に中古の家を買った。妻と話し合い定住を決めた。
 それでも「古里に戻りたい気持ちはある」と打ち明ける。毎月2回ほど、車で大船渡に通い、古い友人に会ったり、自宅跡を訪ねたりしている。「でも、健康のことがね」と葛藤をにじませる。

 「内心では戻りたいと考える避難者は多いはず。里帰りの機会を提供し、帰郷の契機にしたい」。市社協の志田聖一課長補佐は企画の意義を説明する。
 岩手県によると、県内の内陸市町村で暮らす避難者は3633人に上る。避難先への定住か、帰還か。それぞれが実生活と望郷のはざまで揺れている。
 ツアーに参加した佐藤博さん(77)、益さん(78)夫婦は4月に大船渡へ戻ることを決心した。
 自宅は津波で全壊。遠野市の親戚が所有する一軒家で暮らしてきた。博さんは震災前、十二指腸がんを患い再発の恐れがあるという。一度は定住を覚悟したが、古里への思いは募るばかりだった。

 2月中旬、大船渡で中古の一軒家が売りに出ているのを知った。「試しに見に行こう」。高台にある青い屋根の平屋建て。広くはないが生活するには十分だった。「やっぱり帰って来ようよ」。先に言い出したのは益さんだった。
 「大好きな大船渡で再び2人で暮らせる。幸せだよ」。博さんは益さんに寄り添い、うれしそうに笑う。
 市社協の志田補佐は「ツアーは街が復興するまで続けたい。内陸避難者と古里をつなぎ、大船渡への帰還を待ちたい」と話す。(盛岡総局・横山勲)


被災写真の常設展示・返却 山元町も終了
 山元町は東日本大震災で被災した写真を常設展示し、持ち主に返還する事業を今月29日で終了することを決めた。町側は返却数の減少を理由に、新年度は不定期で返却会を開く方針。これに対して町と連携してきたボランティア団体は「まだ需要はある」と主張している。

 事業は自衛隊などが回収した約75万枚を持ち主に戻す取り組み。町は町内の「思い出サルベージ」と連携。写真を洗浄して役場敷地内の伝承館に展示し、データベース化も進めてきた。
 斎藤俊夫町長は4日の町議会3月定例会の一般質問に答えて終了方針を説明。「返却数が減り常設を見直す時期。写真のデジタル化完了で迅速な検索も可能になる」と述べた。同様に今月で終える名取市と亘理、女川両町など近隣自治体の動向も理由に挙げた。
 町や団体によるとこれまでの返却数は約41万枚。内訳は2011年度15万4000枚、12年度8万6000枚、13年度10万5000枚で、本年度は12月末現在で6万6000枚という。
 こうした実績に関して思い出サルベージの溝口佑爾代表は「返却数は毎年3月に急増する傾向にあり、実質は横ばいだ」と主張。初の来館者が本年度は全体の18%に上っているとして「まだ被災者の需要は高い」と強調する。
 町は返却できていない約34万枚の保管を伝承館で続ける予定。思い出サルベージは町の返却会に協力する一方、独自に仮設住宅や災害公営住宅に出向く出張返却会も検討中だ。
 取り組みは本年度、グッドデザイン賞を受賞。町と団体は津波で汚れた賞状類の洗浄、返却も始めた。
 今月中の展示・返却は月曜日を除く午前9時半〜午後4時半。連絡先は町危機管理室思い出アーカイブ担当0223(37)0040。


<被災地のいま>(4)帰還/避難先移住 やむなく
 古里に戻るのか、戻らないのか。東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の避難生活が長引くにつれ、仮住まいしている被災者は大きな決断を迫られつつある。移転ニーズの高まりに伴い、被災地では地価が高騰する現象も起きている。

 福島県双葉町の中野泰さん(65)、美千子さん(64)夫妻は昨年4月、新潟県内の避難先を引き払い、いわき市南部に建てた新居に引っ越した。福島第1原発が立地する同町は大半が帰還困難区域となり、全住民が県内外に散らばる。
 双葉の自宅は動物に荒らされた。3キロほど離れた場所には除染廃棄物の中間貯蔵施設が計画されている。

<隣家の壁が迫る>
 帰還のめどは立たない。「落ち着いた生活を」と考えたとき、「慣れた浜通りの気候がいい」といわきを選んだ。新居は12区画のミニ開発地にあり、半分以上は双葉町のほか福島県大熊、富岡両町などからの避難者が購入している。
 双葉の家の敷地は300坪あった。今は70坪弱で三方に隣家の壁が迫る。「自分の家には違いないけれど、借りて住んでいる感じ。ついのすみかになるのかと思うと、ちょっと引っ掛かる」と美千子さんは言う。
 いわき市は原発事故の避難者2万4000人を受け入れる。古里に帰ることが難しい人たちの住宅購入が進んでおり、2013年度は新築住宅の建築確認申請が1996件と、バブル期1989年度の1902件を上回った。
 申請の約2割が避難区域を抱える相双地方の人だ。本年度も「昨秋に一段落し、落ち着いた状態になった」(県宅建協会いわき支部)とはいえ、高水準に変わりはない。

<住民票どうする>
 不動産業者は「中心部に近く好環境の団地では、1坪12万〜15万円だった土地が25万円前後になった」と説明。建て売りや中古住宅も「昨秋までは物件を出せば、すぐ売れた」と言う。
 宅地不足を受け、市は都市計画法の「地区計画」制度を用い、市街化調整区域での宅地開発を誘導する。19カ所で計1500区画を目指す。都市計画課は「地価高騰は市民生活に関わる。市民と避難者のために供給を急ぐ」と説明する。
 原発事故から4年。新居を構えて間もなく1年になる中野さん夫妻は、迷っていることがある。
 「ここに住んでいる以上、住民票を移そうかと思うが、移すと双葉町から本当に離れてしまう気がする」
 いわき市にある仮設住宅は今も36カ所に上る。避難者の最大の受け皿となった都市は、先の見えない混沌(こんとん)の中で、住宅建築のつち音が響く。(いわき支局・古田耕一)


<被災地のいま>(4)帰還/宅地 宮城、福島で上昇に転換
 土地の高値取引は岩手、宮城、福島の被災3県で起きている。国税局が発表する路線価(標準宅地)の対前年変動率はグラフの通り。宮城、福島でそれぞれ2013、14年に上昇に転じたほか、岩手も下落幅が縮小した。
 各県とも比較的被害が小さい地域で値上がりが顕著となっている。東北不動産鑑定士協会連合会の小野寺和夫会長は「一部で異常な高値取引が見られたが、災害公営住宅などの供給が始まって沈静化に向かっている」と話す。
 主要商業地も同様の傾向を示す。14年には大船渡市で全国7位の上昇率(10.3%)を示す地点があったほか、石巻、気仙沼両市でも伸び幅が5%を超すケースがあった。
 ただ、福島第1原発事故で避難指示区域となった土地の評価額はゼロのまま。原子力災害は地価動向にも暗い影を落としている。


東日本大震災4年:仮設はわたしのおうち
 宮城県南三陸町の志津川高校グラウンド仮設住宅。午前8時15分に学校のチャイムが響くと、玄関から後藤美咲ちゃん(3)が飛び出した。

 町役場に勤める母美由紀さん(36)は東日本大震災の3日前に産休に入り、多数の同僚が命を落とした防災対策庁舎での被災は免れた。しかし、自宅は全壊。2カ月後、避難所で産気づき美咲ちゃんが生まれた。

 「わたしのおうちはここ。たくさん家がつながっていて良いでしょ」と屈託なく話す美咲ちゃん。生後1カ月で入居して以来、仮設住宅で育まれた命は、幼稚園へ向かって駆けるほど大きくなった。【文 梅村直承】


東日本大震災4年:見つめ続ける 仮設住宅の風景(その1)
 ◇「仮」でも本物の結びつき

 東日本大震災で被災した岩手県、宮城県、福島県の仮設住宅を訪れた際、何度か同じ言葉を聞いた。「このままみんなで同じ場所に引っ越したい」。住民たちが助け合ってきた絆を感じた。一方で、自宅を自主再建できない焦りや定住先が決まらない不安に、体や心を壊す人もいる。

 3県で造られた仮設住宅は約5万3000戸。現在8万2000人近くが避難生活を続けている。「仮」というには長い4年が過ぎようとする中、仮設住宅で懸命に「生きる」人々の姿を追った。【震災4年仮設住宅取材班】
 ◇岩手・陸前高田

 <市立第一中仮設住宅>朝9時。あいさつを交わしながら住民たちが集会所に入ってきた。毎朝のラジオ体操後、「青い山脈」や「北国の春」など、懐かしのメロディーが流れる。しこを踏んだり、机に手をついて足をそりあげたりと曲に合わせてストレッチ。皆の中に自然と笑顔があふれていた
 ◇宮城・山元

 夫婦で仮設住宅に暮らす男性(88)は震災後、睡眠薬が欠かせなくなった。処方された薬を前に「最初は半分で眠れた。今は1個半だ」。服用後もさまざまなことが頭をよぎり、眠りに落ちるまで2時間かかる。似た人は多いといい、薬について男性は「みんな飲んでるんでねえか」と話した
 ◇福島・南相馬

 <牛河内(うしこうち)仮設住宅>幾多の馬が縦横に駆けまわる相馬野馬追。その日を迎え侍大将・菅野長八さん(63)の元へ次々と詰めかける騎馬武者たち。家族と自宅、全てを失った菅野さんは「住民の皆さんのおかげで今年も侍大将ができる。もう感謝しかない」。仮設住宅に暮らしながらもその伝統は絶やすまいと馬を駆った
 ◇宮城・石巻

<大橋仮設団地>540戸と被災3県で最大規模の仮設住宅団地では、子どもたちの声がこだまする。集会所の「せいくらべ」の柱に刻まれた数えきれないほどの線が、月日の流れを物語る。「みんな親も子も支え合ってきましたから。もう大きな村みたいなもんです」。幼子を抱いた母親が柱を見てつぶやいた。


東日本大震災4年:見つめ続ける 仮設住宅の風景(その2止)
 ◇宮城・雄勝

 <仮設立浜団地>24世帯中90歳代5人、80歳代4人と高齢者が多く暮らす。雄勝湾を見下ろすベンチでは世間話に花が咲く。設置したのは末永とき子さん(73・左端)。息子を津波で亡くした老婦人がこの場に座り込み、生まれ育った北海道の風景に思いをはせている姿がきっかけだった。震災後、足を悪くした末永さんは歩くのもやっとだったが草刈りから始めた
 ◇福島・いわき

 <高久(たかく)第10仮設住宅>楢葉町から避難し、自分の部屋で友人にざぶとんの編み方を教える佐藤アキさん(84・左)。手芸が得意で、仮設住宅の公民館でも教えている。新たな人のつながりができたが、避難指示が解除されたら自宅に戻るつもりだ。いわき市に移り住むことを決めた孫家族のために「楢葉のふるさとをなくしたくない」
 ◇岩手・陸前高田

 <町裏(まちうら)仮設団地>「お世話様でした」。佐藤テル子さん(76)は、3年半以上1人で暮らした仮設住宅を出る間際、手を合わせた。土地の返還で仮設団地が解体されることになり、災害公営住宅へ転居する。「やっと落ち着けて、春めいた気持ちになるね」。すっかり片付いた部屋を見渡し玄関を閉めた
 ◇福島・三春

 <斎藤里内(さとうち)仮設住宅>愛犬と共に葛尾村から避難する中島道男さん(60)。犬と暮らす住民のために隣接する土地を借り、犬の「仮設住宅」をつくった。今も6匹が暮らす。「犬は家族だよ。一緒にいたいんだ」。散歩の時、故郷に帰るかどうか、悩みと不安が口をつく。黙って聞く2匹が支えになっている

 <一箕町(いっきまち)長原地区仮設住宅>東京電力福島第1原発事故で福島県沿岸部の大熊町を離れ、会津若松市で避難生活を送る人たちにとって冬は特に厳しい。雪が少ない「浜通り」では見たこともない量の雪が積もる。避難前はまずすることがなかった雪かきが欠かせない。


東日本大震災4年:公立学校の再建 60校、まだ仮校舎 資材・人件費の高騰が壁
 東日本大震災は、地域の核になる公立学校に甚大な被害を与え、岩手、宮城両県では19の小中学校が統廃合するなど教育環境を大きく変えた。幼稚園や大学を含め、国の災害復旧事業を申請したのは被災3県を中心に約2300校。復興庁によると、昨年には約96%が復旧した。だが、建設資材や人件費の高騰などで新校舎の建設が遅れたり、東京電力福島第1原発事故の影響で仮校舎の生活を続けていたりする公立小中学校が今も約60校ある。【坂口雄亮】

 岩手県陸前高田市の市立気仙中は、元の場所から約16キロ離れた廃校を仮校舎として利用し、83人の生徒はスクールバスで通う。学校があった地区は2018年度を目標に造成中で、学校の存廃を含め、将来的にどうするか決まっていない。

 鈴木利典校長は「生徒は元気だが、永住場所が定まらない保護者はつらいと思う。地区の再興が先決だ」と気遣う。震災前に100人を超えていた生徒は、来年度には70人を切る見通し。6年後には、その半分ほどに減る可能性もある。学校の存廃に関わるが地域の核だから残すべきだという意見もある。

 気仙中が仮校舎に移ったのは11年4月。長引く仮の校舎での学校生活を保護者はどう見ているのか。「自宅の再建場所も決まらないのに、学校のことまで判断できない」。こう話す保護者もいるという。

 岩手県では、市町村立学校328校が被災した。全体の復旧率は94%だが、津波被害が甚大な沿岸部に限れば、被災した67校中復旧したのは49校。今年1月末時点で18校(12校は仮設校舎使用)は復旧途上で、今年4月から新校舎に全面移転できる学校はない。

 一方、新校舎建設が決まっても計画の進行を阻む問題もある。復興需要が影響し、資材が高騰したり建設作業員が不足したりしているのだ。釜石市の唐丹(とうに)小と唐丹中は併設する形で再建が進む。だが当初、鉄筋コンクリート造りの予定だった2階建ての新校舎は、資材が高くなり基本設計の段階で木造に変更。鵜住居(うのすまい)小、釜石東中も同様に鉄筋コンクリート造りから鉄骨造りに変えざるを得なかった。

 入札不調も相次ぐ。大槌町は小学校4校と中学校1校の計5校を一つの小中一貫校に統合することを決めたが、3回の入札を経て昨年11月にやっと新校舎建設の業者が決まった。予算上は約48億円としていた建設費が約62億円に上昇。開校予定は16年4月だが、町の担当者は「開校は遅れるかもしれない」と話す。

 宮城県の公立学校の状況も一変した。県教委によると、石巻市立大川中、東松島市立鳴瀬第二中など小中学校10校が統廃合され、地域から姿を消した。

 一方、15の小中学校は今も仮設校舎や仮校舎を使っている。このうち、仙台市と南三陸町の3小学校は来月から自校で再開予定。また、仮の校舎のまま統廃合される小学校も3校あるなど、復旧状況は一様でない。
 ◇福島、見通せぬ帰還

 福島第1原発事故の影響が続く福島県。原発周辺地域は放射線量が低い順に(1)避難指示解除準備区域(2)居住制限区域(3)帰還困難区域−−に分かれる。3区域にある公立小中学校は35校で、6校は住民が避難しているため臨時休業。29校が区域外の二本松市やいわき市に仮の校舎を造るなどして授業を続けている。

 避難指示解除準備区域に当たる福島県楢葉町には、町立楢葉北、楢葉南両小と楢葉中がある。震災後、住民は近隣のいわき市などへ避難した。町は12年4月、同市内の民間施設で小中3校を再開。13年1月には同市内のいわき明星大の敷地の一角を借り、3校の仮設校舎を設置した。現在、両小に87人、中学に73人の児童生徒が通うが、震災前の4分の1ほどだ。

 楢葉町は昨年5月、帰町を目指す時期について、早ければ15年春以降という見解を示している。町教委によると、16年4月以降に小中学校を元の場所で再開できるという。ただ、何人の子供が帰町するのか見通しは立たない。町教委が昨年末、町内の小中3校に学籍がある児童生徒の保護者約580人を対象に、帰町の意向などを聞いたところ、約4分の1の保護者が回答。そのうち、「戻る」と答えたのは2割弱。約4割は「迷っている」と答えた。今の学校規模を維持すべきか、統合すべきか。同町の矢内賢太郎教育長は「学校があれば、やがて戻れる日も来ると話す保護者もいる。『子供が減ったから小学校は統合』と短絡的に決めずに考えたい」。今後、有識者会議で詳細を検討する考えだ。

 高校の再編も進む。現在(1)双葉(2)浪江(3)浪江高津島校(4)富岡(5)双葉翔陽(6)相馬農業高飯舘校(7)小高商業(8)小高工業−−の県立高8校は他校で授業を続けている。このうち、(1)〜(5)の5校は来年度の募集を停止。在校生の卒業後に休校し、今春、新たに県立ふたば未来学園高校が生まれる。

 アカデミック、トップアスリート、スペシャリストの3系列の科目群を備える新高校。例えば、壊滅的な地域農業の再生ができるか、風評被害をどうすれば払拭(ふっしょく)できるか。こうしたことも授業の中で学ぶという。講師陣も元陸上選手の為末大さんなど著名人が並ぶ。ただ、地元が求める併設中学の設置は未定という。

 今春、募集定員を満たす152人が受験し、全員が合格の内定を得た。県教委の開設事務担当者は「新高校には復興の証しという意味が込められている。地域を立て直そうとしている人々を励ましたい」。地元の遠藤智・広野町長も「地域に子供がいるといないでは大違い。支援していきたい」と歓迎する。


大震災4年:凍りついた時間 語り継ぐ遺産の保全
 東日本大震災から4年。東京電力福島第1原発の事故で、半径20キロ圏内に設定された旧警戒区域の今……原発事故で長らく手付かずだった福島県の被災地で、震災の遺産を保全し惨禍を後世に伝える取り組みが始まっている。

 富岡町の自動車整備工場に大破したパトカーが保管されている。地震直後、住民の避難誘導中に津波にのまれ殉職した県警双葉署員2人が乗っていた。町民有志が保存を訴え、今月にも町内の公園に移設される。同町職員の門馬健さん(31)は「保存までに4年かかったのは、複合災害を被り、手を付けるのが難しかったことの証し」と話した。

 県立博物館など県内8機関・団体では、昨年5月から「ふくしま震災遺産保全プロジェクト」を始動。放射線量の測定を経て、これまでに約100点を収集し、先月下旬に南相馬市で初公開した。

 地震発生直後に止まった富岡町の美容室の時計や、避難で配られず、浪江町の新聞販売店に残っていた巨大地震発生を伝える朝刊の束。震災の爪痕だけでなく、原発事故で断ち切られた日常を物語る。【森田剛史】


東日本大震災4年:福島第1原発の現状 想定外続く廃炉作業
 ◇たまる「行き場なきごみ」

 東京電力福島第1原発事故からまもなく4年になる。焦点の汚染水問題は、いまだ抜本的な対策の実現には至っていない。政府・東電と原子力規制委員会の足並みは乱れ始め、情報公開で地元の信頼を損ねる事態も起きた。40年にわたる廃炉工程は緒についたばかりだ。1〜3号機では、高濃度に汚染された建屋の解体や溶け落ちた核燃料(燃料デブリ)取り出しなどが待ち受ける。ごみの処分という新たな問題にも直面する。より困難な廃炉作業に向け、政府、規制委、東電の真価が問われることになる。

 福島第1原発で問題になる廃棄物は、汚染水だけではない。放射性物質に汚染されたがれき、汚染水を処理した後に残る残渣(ざんさ)などの固体廃棄物が敷地内にたまり続けている。その大半が国内で処理や処分の経験がない「行き場なきごみ」だ。記者が2月24日に第1原発に入り、固体廃棄物の現状を見た。

 顔全体を覆う全面マスクにつなぎの白い防護服、三重の手袋と二重の靴下をつけて敷地内に入り、バスで敷地北側の5、6号機近くへ向かう。道路脇に山積みの丸太=が見えてきた。増え続ける汚染水をためるタンクを増設するため伐採した樹木だ。枝葉はチップ化して袋に入れているが幹は野積みのまま。敷地全体で約8万立方メートルもある。「樹木にも飛散した放射性物質が付いており、敷地の放射線量が上がる原因になっている」。同行した東電の白井功原子力・立地本部長代理が説明する。

 樹木や防護服は燃やして量を数十分の一に減らせる。東電は、野積みにした現場の近くに毎時600キロの廃棄物を燃やせる雑固体廃棄物焼却設備=を建設中だ。今年10月に運用を始める予定だったが、作業員の死亡事故で工程が一時中断し先送りになった。焼却灰には放射性物質が濃縮されるため、ドラム缶に詰めて貯蔵庫に入れる。白井氏は「放射性物質はフィルターで十分低い濃度に取り除くので飛散の心配はない。地元にはしっかり説明したい」と話す。
 ◇がれき1000ミリシーベルトも

 他の固体廃棄物は量を減らすこと自体が難しい。

 敷地の一番北側には、高さ約5メートルの盛り土が二つ並んでいた。水素爆発で破損した原子炉建屋や廃炉作業で生じたがれきを一時的に埋めて保管する「覆土式一時保管施設」=だ。遮水シートの上に1メートルの土をかぶせて放射線を遮蔽(しゃへい)する。一つの盛り土の下には約4000立方メートル、25メートルプールにして5杯分ほどのがれきが埋まっている。さらに二つ増やす計画で、そのための穴を掘る工事が行われていた。

 東電は、がれきが出す放射線量に応じて保管方法を変えている。覆土式で保管するのは毎時1〜30ミリシーベルトのがれき。これより低いものは野積みにするかシートをかぶせ、高いものは貯蔵庫の地下に置いている。構内には1000ミリシーベルトを超す極めて放射線量が高いがれきもある。作業員の被ばくを防ぐため隔離するのだ。

 廃炉作業の進捗(しんちょく)に伴い、がれきの量は増え続けている。2012年2月に約3万立方メートルだったが、昨年末時点で約13万立方メートルと4倍以上になった。東電は将来的にすべて貯蔵庫に入れる予定だが、増築が追いついていない。

 「放射線量が低い金属やコンクリートなどは、構内で再利用して量を減らす」と白井氏。しかし今後は、炉心溶融した1〜3号機の原子炉建屋内部にあるがれき撤去や、建屋自体の解体が始まる。内部は非常に濃度の高い放射性物質で汚染されており、より線量の高いがれきが増える見込みだ。
 ◇保管場所足りず

 汚染水処理でも、やっかいなごみが生まれている。

 敷地の南端、汚染水タンク=が密集する区域の一角に、柱状のコンクリートブロックが立ち並ぶ。汚染水から除去した放射性物質が集積した吸着塔を一時保管する施設=だ。

 汚染水処理では、セシウムを取り除く「キュリオン」「サリー」、最大62種類の放射性物質を取り除く多核種除去設備「ALPS(アルプス)」など、さまざまな設備が稼働している。除去した放射性物質は吸着塔に集まり、消えてなくなるわけではない。

 今年1月時点の使用済み吸着塔の保管量は1621本で、1年前のほぼ倍になった。処理設備の増強で処理量が増えたためだ。白井氏は「地下水の流入量を減らして増加分を少しでも抑えたい」と話す。だが核燃料の冷却には原子炉への注水が不可欠だ。注水が続く限り、吸着塔も増え続ける。

 東電は、27年度の固体廃棄物の総量を現在の2・5倍の約56万立方メートルと見積もる。リサイクルなどで量を減らしても、約16万立方メートルの保管設備が足りない。25メートルプールで200杯以上に相当する量だ。

 保管できても、最終的な処理や処分の方法が決まっていない。東電の工程表によると、学会や大学などと連携して研究開発を進め、21年度までに技術的な見通しをつける。その後、敷地内に新たな処理設備を建設し、セメントなどで固めて処分場に搬出できる「廃棄体」にする。しかし、処分する場所のめどは立っていない。

 白井氏は「保管場所がすぐに逼迫(ひっぱく)する状況にはないが、形状もよく分からない廃棄物が多いのは事実。どういう処分になるか検討を進めていきたい」と話す。

 ◆足並み乱れる汚染水対策
 (1)凍土遮水壁に不要論
 ◇東電、計画変更なし

 廃炉作業を依然として妨げる大きな要因の一つは、汚染水だ。建屋への地下水流入を防ぎ、汚染水の発生量を減らす「切り札」とされてきた「凍土遮水壁」について、政府・東電と原子力規制委員会の足並みがずれ始めている。

 凍土遮水壁は、1〜4号機の原子炉建屋を取り囲むように設置される。地中に埋めた凍結管に冷却材を通して土を凍らせ壁を作り、建屋内に入り込む地下水を抑制する。政府と東電が国費約320億円を投じ、建設準備を進めてきた。完成すれば、他の対策と合わせ、1日400トン増え続けていた汚染水を数十トンまで抑制できると、政府と東電は期待を寄せる。

 一方、全長約1500メートルと前例のない規模となる凍土遮水壁が、技術的に成功するかは未知数だ。2号機海側トレンチ(地下トンネル)にたまった汚染水を抜き取る工事では、建屋とトレンチの間をふさいで止水するため、凍土遮水壁と同様の工法で「氷の壁」を作る計画だったが、結局完全に凍結せず、止水に失敗している。

 こうした技術的な懸念が払拭(ふっしょく)されない中、政府・東電が目標としていた凍結開始が迫る2月9日、規制委サイドから凍土遮水壁不要論が飛び出した。

 東電は地下水流入を抑制する策として、別途、建屋周辺の井戸(サブドレン)から汚染地下水をくみ上げ、浄化した上で海洋放出することを計画している。規制委はこの計画について審査し、1月に了承した。これを踏まえ、規制委の更田豊志委員長代理が廃炉状況を監視する有識者会合で、「地下水を汚染源に触れさせないという点で、サブドレンの効果は大きい。これがうまくいけば、凍土壁はいらないのではないか」と問題提起したのだ。

 凍土遮水壁の工事は原子炉建屋の近くで行われるため、作業員の被ばく量が大きい。また、建屋海側は地下に埋まった配管などの構造物が多く、凍結管設置工事が難しい。更田委員は「(凍土遮水壁に)払った努力に見合うだけの効果があるのか」と疑問を呈した。

 これに対し、凍土遮水壁の着工にあたっては規制委の了承を得ていた経緯もあり、東電側は「すでに凍結管の設置は着工しており、いまさらいらないと言われても」と、困惑を隠さない。担当者は「凍土遮水壁の必要性についてきちんと説明したい」と話す。東電と一緒に廃炉作業に取り組む資源エネルギー庁の担当者も「必要なものと考えている」と話し、計画変更の考えがないことを強調した。

 規制委は再度会合を開いて凍土遮水壁の必要性について議論する予定だが、ここに来ての路線対立は汚染水対策の見通しの甘さを露呈した形だ。

 (2)処理水海洋放出の是非
 ◇議論すら凍結状態

 政府・東電と規制委の方針のすれ違いが表面化したのは、凍土遮水壁だけではない。汚染水から大部分の放射性物質を除去した処理水は現在、敷地内のタンクに貯蔵されている。多核種除去設備(ALPS)では62種類の放射性物質を除去できるが、トリチウム(三重水素)だけは原理上、取り除けない。このALPS処理水の取り扱いを巡っても、見解が異なる。

 規制委は1月、福島第1原発の廃炉作業に関し、2019年までのリスク低減目標を提示した。原発敷地内にある汚染水やALPS処理水などをためたタンクは既に約990基に及ぶため、規制委はこのまま増え続ければ敷地内を占拠して他の廃炉作業の妨げになると判断。漏えいの恐れもあるため、タンクにためているALPS処理水を、17年をめどに海洋放出することを検討するよう、政府や東電に求めていく方針を打ち出した。

 田中俊一委員長は「(海洋放出は)安全上、問題ないと考えている。(東電には)リスクの軽重を考え、国民の理解を得ていく覚悟を持ってほしい」と説明した。

 一方、政府・東電は、当面は敷地内にため続けるという方針だ。経済産業省ではALPS処理水について、海洋放出以外にも、地下に封じ込める方法やトリチウムを分離する技術開発など、さまざまな方策について専門家による検討を続けている。経産省は「規制委の考えもあると思うが、関係者の理解を得るためにも、議論が尽くされることが必要だ」と、結論を出す時期は定めていない。東電は「国の方針を待って判断したい」としている。

 処理水の海洋放出への漁業関係者の抵抗感は根強い。規制委が海洋放出に言及したことを受け、全国漁業協同組合連合会(全漁連)の岸宏会長は宮沢洋一経産相に対し「(海洋放出の)方針が出ると、風評被害の懸念を上乗せすることになる」として、処理水を安易に放出しないよう要望した。福島県のある漁協関係者は「規制委は漁業者をばかにしているのか。風評被害の重みを全く分かっていない」と憤った。

 さらに、2月24日、汚染された雨水が放水路を通って外洋に流出していることを東電が把握していながら、約10カ月間も公表していなかったことも発覚した。これにより建屋周辺の井戸(サブドレン)でくみ上げた汚染地下水を浄化して海に放出する計画は、地元漁協の了承を得る見通しが得られていたにもかかわらず頓挫した。福島県の漁業者からは「信頼関係が崩れた」などと不満が噴出し、ALPS処理水どころかサブドレンの水の放出の議論すら凍結を余儀なくされている。

 ◆建屋内の燃料取り出し
 ◇除染が進まず難航

 東電は昨年12月、4号機の使用済み核燃料プールからの燃料取り出しを計画通りに完了した。4号機は元々、原子炉内には燃料はなく、これで放射性物質の新たな拡散などの危険が大幅に低減された。しかし、炉心溶融を起こした1〜3号機は建屋内の除染がはかどらず、プール内の使用済み燃料の取り出しや、溶け落ちた燃料デブリ(破片)の回収に向けた調査などは全体的に遅れ気味だ。

 プール周辺のがれき撤去が最も進んでいる3号機は、作業フロアが高線量で、クレーンなどの設置や点検のため作業員が近づけるレベルになっていない。東電は床や壁の除染を続けているが、来年度上半期に開始する予定の燃料取り出しは遅れる見込みだ。

 1号機は、がれき撤去やクレーン設置などに時間がかかるため、プールの燃料取り出し開始は、当初予定から2年遅れの2019年度以降に見直された。燃料デブリ取り出しは、5年遅れの25年度からとなる。2号機も放射線量が極めて高く、建屋内の除染作業が困難な状態だ。このため、東電は燃料の取り出し方法を再検討しており、16年度中に決める。

 原子炉建屋内部の調査も進んでいない。政府や東電は、原子炉格納容器内を水で満たした上で燃料デブリを取り出す方法を検討しているが、水で満たすには、格納容器の損傷場所を特定し、修復しなければならない。このため、建屋内にロボットを投入して水の漏えい場所を特定する試みが続いているが、これまでに損傷場所が特定できたのは、1号機で1カ所、3号機で1カ所にとどまる。

 東電は新たに2月から、1号機の炉心に燃料がどのくらい残っているかを確かめるため、宇宙線を利用してエックス線写真のように原子炉建屋を透視する試みを始めた。

 廃炉作業への関与を高めるため、政府は昨年「原子力損害賠償・廃炉等支援機構(NDF)」を発足。NDFは政府・東電が廃炉工程表を変更する際にリスク低減の参考とする「戦略プラン」の中間報告を3月中にまとめる。鈴木一弘廃炉総括グループ長は「燃料デブリの取り出しは桁違いに難しく、人類にとっての挑戦だ」と話す。

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≪Tokyo Fiancée≫: Pauline Etienne devient Amélie Nothomb au Japon
Pauline Etienne, excellente comédienne belge remarquée dans le rôle-titre de La religieuse (Guillaume Nicloux, 2013), incarne sa compatriote la romancière Amélie Nothomb dans Tokyo Fiancée de Stefan Liberski. L'auteur de Stupeur et tremblement avait vingt ans lorsqu'elle est partie pour le Japon ou elle a vécu une histoire d'amour torride avec un jeune Tokyoïte.
Devenir Amélie
≪Je joue Amélie telle qu'on peut l'imaginer à cette période de sa vie, s'amuse Pauline Etienne. A cette époque, elle n'avait pas encore son look d'aujourd'hui et je comprends que cela puisse surprendre ses fans qui s'imaginent peut-être qu'elle est née avec un chapeau sur le crâne≫. Fraîche comme des cerisiers en fleurs, la jeune fille, qui rêve de devenir japonaise après avoir passé quelques années d'enfance au pays du Soleil Levant, redécouvre les merveilles de cette contrée magique avec l'aide du joli garçon qu'elle initie au français. ≪Je n'ai pas lu Ni d'Ève, ni d'Adam, roman dont le film est inspiré, précise la comédienne et j'ai essayé de créer ma propre Amélie plutôt que d'imiter la vraie≫.
Découvrir le Japon
Pauline Etienne n'avait pas non plus visité le Japon avant le tournage. ≪Je m'attendais à quelque chose de génial mais la réalité a dépassé mon imagination. J'ai très vite compris comment on pouvait tomber amoureux de ce pays qui mêle la modernité aux traditions ancestrales≫, avoue-t-elle. Dans le film, son personnage s'éprend d'un lettré sensible campé par Taichi Inoue, acteur qui fait ses débuts à l'écran. ≪Il ne parlait pas un mot de français et a appris son rôle en phonétique mais il faisait preuve d'un naturel étonnant≫, dit-elle. Le réalisateur de Baby Balloon (2014) met l'accent sur le choc entre les deux jeunes gens amoureux, curieux de leurs civilisations réciproques.
Le choc des cultures
≪La seule chose à laquelle je tenais était de visiter le musée Ghibli car je suis fan des films d'Hayao Miyazaki≫, explique Pauline Etienne qui déclare avoir été épatée par l'île de Sado et les onsen (bains thermaux). ≪La campagne et la montagne nippones sont d'une beauté à couper le souffle. J'espère que Tokyo Fiancée donnera à beaucoup de spectateurs l'envie de les découvrir≫. Cette histoire d'amour racontée avec fantaisie permet à la comédienne de composer une héroïne légère comme une fleur de cerisier dans une comédie romantique au charme exotique.

久しぶりのフレンチ.ブルディガラBurdigala.さすがにおいしいです.ラテン語でボルドーを意味するらしいです.その後梅を見に行って,適当に歩いて,時間つぶしにマンキツ.6時半からは本町でのイベント.こころに関することです.2回目ですが,少しわかってきたような気がしています.
部屋に帰ったのはだいぶ遅くなってからですが,東日本大震災犠牲者追悼供養会の案内が届いていました.

<被災地のいま>(3)街づくり/商店街一丸になれず/思惑すれ違い分散移転
 東日本大震災で店舗を流失するなどした商店は、被災後に整備された仮設商店街に入るなどして、再スタートを切った。力を合わせてきた商店主たちだが、復興に向けた街づくりが進む中で次の一歩を踏みだすに当たり、思惑のすれ違いや地域との意識のずれに直面する例も出ている。

 被災した宮古市田老にある仮設商店街「たろちゃんハウス」。2011年9月、田老の中心部から離れたグリーンピア三陸みやこの敷地内に開設された。2階建てプレハブ3棟に商店22店が入居する。
 当初は、復興が一定程度進んだ後は中心部に共同店舗を整備し、全店が集団で移転する構想だった。だが結局は分散することに。店主たちの心は揺れた。
 「お客さんの利便性や商店街の将来を考え、仮設商店街を出た後も一緒にやろうと話していた」。たろちゃん協同組合の箱石英夫理事長(61)は打ち明ける。

<単独再建希望も>
 開設から1年後、状況が変化した。共同店舗に入らず、自宅兼店舗を建てて商売を再開したいと希望する店主が現れ始めた。
 田中和七副理事長(60)は「高齢化で共同店舗を抜ける人が相次いだり、共同店舗への通勤が難しくなったりするのを不安視する人が出てきた」と振り返る。
 結局、移転先は3カ所に分かれた。巨大防潮堤に近い田老一中前の国道45号沿いに8店、中心地区の田老総合事務所前に6店、高台に造成された乙部地区に7店。1店は未定のままだ。
 とことん話し合った末の結論だったが、移転後の事業の不透明さもあって店主らの不安は消えない。
 高台に移る7店主は昨年6月、商店を幹線道路近くに集約するよう市に要望した。相乗効果を生みだしたいと考えたからだ。集約を望んだ理容店経営高橋優さん(65)は「7店の共同イベントなどを企画して結束を強めたい」と話す。

<集約に反対多数>
 一方、高台に移転予定の住民約160世帯に市がアンケートで尋ねたところ、集約については反対が上回った。市は「便利な場所に商店ばかりが集中するのを嫌がる住民が多かったのではないか」と分析。商店側と住民の思いが必ずしも一致していないことをうかがわせた。
 中心部では、土地のかさ上げや団地造成が終われば、店舗再建ができる。ハウスを去る店は年内にも出てくる見通しだ。
 ハウスでは22日、震災後4度目の春祭りがある。「最後の祭りになるかもしれないが、仮設卒業は喜ばしいこと」と箱石理事長。移転先でどうにぎわいをつくっていくかを思い描く。(宮古支局・大友利幸)


<被災地のいま>(3)街づくり/集中期間の壁議論阻む
 堤防代わりに並べられた黒い土のうが、朽ちかけている。気仙沼市本吉町の大谷海岸は東日本大震災の前は、毎年20万人の海水浴客でにぎわった。そんな光景が失われて久しい。
 防潮堤や街づくりの在り方を住民有志と共に考える大谷里海(まち)づくり検討委員会。会長を務める漁業芳賀孝司さん(45)が海に視線を落とす。
 「せいては事をし損じるが、スピード感を持って検討しないといけないとも感じている」。言葉に復興へのジレンマがにじむ。
 2014年12月、宮城県と市から海抜9.8メートルの防潮堤建設計画と街づくりの新たな案が地元に示された。芳賀さんが焦るのは、議論や住民合意を復興交付金の申請に間に合わせなければならないためだ。
 国は震災復興の期間を11〜15年度の5年間(集中復興期間)=?=とした。その後は復興交付金も減額される恐れがある。岩手、宮城、福島の被災3県や市町村は国に期間延長と財源確保を求める一方、事業を軌道に乗せることに躍起だ。
 大谷海岸は被災したJR気仙沼線の復旧方針が定まらず、砂浜の再生や防潮堤の議論が足踏みしていた。昨年秋に住民30人が検討委員会を発足させ、話し合いを進めている。
 熱を帯びる住民の街づくりの議論に、タイムリミットの壁が立ちはだかる。
 「白砂青松で美しかった海岸を取り戻したいというのがみんなの思い。時間制限がある中で、懸命に知恵を出し合うしかない」。芳賀さんは覚悟する。
 被災地では集中復興期間の後に予定される復興事業も少なくない。3県によると事業費見込み額は表の通り。金額で見ると、全体の約3分の1が16年度以降も引き続き事業を実施しなければならない。
 気仙沼市にも、大谷海岸のほかに住民合意に至っていない防潮堤や街づくりの計画が少なからずある。
 それでも国は期間の延長を明言しない。
 防潮堤や街づくりに詳しい市内の関係者は嘆く。「国は『もうすぐ事業申請できなくなる』と被災地を脅し、着手を急がせる。古里の復興を考える時間を奪っている」
 市は15年度中に必要な事業を総ざらいして国に事業提案する。菅原茂市長は「全て認められるよう努力する。住民がやりたいことは応援する」と話す。(気仙沼総局・高橋鉄男)
[集中復興期間]東日本大震災復興基本法に基づき、政府が11年7月に「(震災)当初の5年間」と基本方針を定めた。国と地方を合わせた事業規模は当初19兆円で、13年1月に25兆円に増額された。国の15年度予算案段階の累計額は26兆3000億円。


岐路:東日本大震災4年/3 移転5回、避難を「卒業」 仮設退去、障害者支援に汗
 「いってらっしゃい、気をつけてね」。2月下旬、西東京市の学生会館。住み込みの寮長、市川年正(としまさ)さん(65)が学生を笑顔で送り出した。着任して約2カ月。午前5時から館内を見回り、妻紀子さん(67)とともに、朝晩50人分の食事を作る生活にも慣れた。仙台市で被災し、仮設住宅(みなし仮設)として入居した横浜市営住宅を昨年末に退去、避難生活に区切りを付けた。5回の移転で踏み出した自立の道だ。自室には、震災後の苦しい生活を支えてくれた障害者らとの写真を飾っている。「いつもこれを見て励みにしているんです」

 仙台市の自宅から約10キロ。仙台空港の近くで揺れに襲われた。車のラジオから大津波警報が流れ、渋滞のなか仙台市内へ引き返した。翌朝、自宅近くの避難所で紀子さんとようやく再会した。築30年以上の自宅の賃貸マンションは外壁や天井が落ち、入るために自室の扉をバールで開けなければならなかった。余震や東京電力福島第1原発事故をきっかけに仙台市を離れた。親族を頼って盛岡市や東京へ逃れ、4月に被災者を受け入れていた青森県弘前市の市営住宅に移った。

 紀子さんは震災直後から精神的に不安定になった。就寝中に突然叫び、手が震えて字を書けなかった。弘前市に引っ越した後も部屋に引きこもる2人に変化をもたらしたのは、障害者との交流だった。「施設の祭りに招かれ、障害者が作った野菜を届けてくれました」

 感謝を込めて夫婦で千羽鶴を折った。施設の園長は「仙台と弘前の絆だ」と施設に飾ってくれた。<障がい者の方たちと生涯関わり合うことで、皆様のご恩に報いる>。園長への手紙で誓った。ただ、雪の多い冬が2人を引きこもりがちにした。

 2012年1月に横浜市へ引っ越して、障害者に付き添うボランティアを始めた。自閉症の子が笑うようになった。「またお願いしたい」。そんな保護者の言葉がうれしくて、可能な限り依頼を引き受けた。

    □

 東京から約40年前に仙台市に転勤し、3人の子どもを育てた思い出のあふれる街。だが、大規模半壊の自宅マンションは解体されないなど、復興住宅の応募要件を満たさなかった。みなし仮設としての入居が認められる期限を気にしながら生活しなければならなかった。悩みを深めていた昨秋、学生会館の仕事を紹介された。

 「支援を受ける立場を卒業しよう」

 夫婦で話し合い、横浜市営住宅を退去する決心をした。障害者支援という人生の目的があるから、自信が持てた。

 寮長として、学生会館の清掃担当のパートに障害者の採用を決めた。弘前市の障害者施設へ寄付も送る。今春、仕事が落ち着けばボランティアを再開するつもりだ。「仕事も生活も、すべてが自分のペースになっている」。新しい生活に手応えを感じている。【川口裕之】=つづく

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 ■ことば
 ◇仮設住宅

 災害救助法に基づき、被災者の住宅確保のために設置される。家賃は無料。入居期限は原則2年だが、国が認めれば1年ごとに延長が可能。現在は岩手、宮城両県が入居から最長5年、福島県は2016年3月末を期限としている。震災後に5万3194戸のプレハブ仮設が建てられ、今年1月時点で8万2985人が入居している。民間賃貸住宅の借り上げや公営住宅などの「みなし仮設」は同時点で11万6702人が暮らしている。


記者の目:パリのテロ事件に学ぶこと=宮川裕章(パリ支局)
 ◇日本も急げ、対策の布石

 仏週刊紙シャルリーエブド本社などが襲撃されたフランス・パリの一連のテロ事件は、容疑者がイスラム過激思想に染まった移民系のフランス人だったことから、ホームグロウン・テロリスト(国内育ちのテロリスト)の脅威を欧州社会に改めて見せつけた。事件は移民の置かれた苦境や、偏見が社会の分断につながりかねない欧州の試練を浮き彫りにしている。日本も欧州の経験を踏まえ、多様なテロ対策の布石を打たなければならないと痛感する。
 ◇過激思想の洗脳 早く、誰にでも

 「彼らを見ながら、自分の子が同じことをしたかもしれないと想像しました」。19歳の息子がシリアの過激派組織に参加し、その後、死亡が告げられたベルギーに住むイスラム教徒の女性(43)は、テロ事件の容疑者らを、失った息子に重ねた。北アフリカ・チュニジアからの移民家庭。息子は温厚で問題行動もない「良い子」で、地域のボランティア活動に熱心だった。「信仰心は強くなかった」息子が一昨年、インターネットなどを通して過激思想に傾倒し、わずか2カ月半で現地に向かった。息子の変化を止める手立てもなかった経験から「洗脳は驚くほど早く、誰にでも起こり得る」と訴える。

 テロ事件の容疑者3人も北アフリカ諸国からの移民系だった。仏週刊紙を襲撃した兄弟は貧しい家庭に生まれ、児童養護施設で育った。容疑者のうち2人が過激思想を強めたのは刑務所内だったとされる。出所後は、刑務所内で知り合った過激思想を持つ人物らと頻繁に連絡を取り、インターネットで過激派の情報に触れていたという。

 しかし、本来のイスラム教の教義とかけはなれた暴力的な思想の広がりを防ぐ対策は一筋縄ではいかない。フランスでは政教分離の原則から、政府が特定の宗教に資金援助をすることができない。イスラム教の指導者も礼拝所も不足し、アルジェリアなど他国の政府が資金を出して外国人指導者を派遣している。しかし、こうした外国人指導者らはフランスの歴史、文化や社会的価値への理解が不足し、フランス社会の敵視につながるとの批判が出ている。

 また、刑務所でイスラム教の教義を説く聖職者も、有志のイスラム教徒がほぼ手弁当で務めており、数が限られている。パリの聖職者、ミスーム・シャウイ師(56)は「精神的に非常にもろい状況にある囚人たちは、聖職者がいなければ、囚人仲間に過激思想を教え込まれかねない」と危機感を隠さない。仏政府は事件を受け、聖職者の増員を発表したが、資金面の議論などはこれからだ。
 ◇貧困や差別への絶望感が根底に

 事件の容疑者らが移民集住地域の貧しい家庭の出身だったことも、重い課題を突きつける。パリ赴任以来、パリ郊外のこうした地域で取材を続けているが、「政治から見捨てられている」という声が多い。そこに住んでいるというだけで就職できず、公共サービスも火事の際に消防車が来るくらいという地域もある。パリ郊外では2005年に約1カ月にわたり政府に反発する移民系住民の暴動が続いた。今も、貧困や差別が一向に改善しない絶望感が根付いており、こうした不満が若者を暴力に向かわせる危険は取り除かれていない。第二、第三のテロリストを生まないためには、貧困や差別を解消しなければならないのは自明だ。

 一方、イスラム過激派組織「イスラム国」(IS=Islamic State)などシリアやイラクの過激派組織には、フランスからの約1300人をはじめ欧州全体から3000人以上が参加しているとされる。今後、帰国者をどう受け入れるかも課題となる。

 欧州では今回のテロ事件前から移民制限を主張する極右勢力が伸長している。過激派思想に染まった移民系によるテロが、この流れを加速させる恐れもある。イスラム系移民への差別が強まれば、さらに社会への不満と疎外感を強め過激派に参加する者が増える悪循環に陥る可能性もある。それこそが、ISなど過激派組織の狙いだ。

 日本は何を学ぶべきなのか。日本はシリアなどの紛争地から遠く、島国である地理的条件や、過激派組織が日本語で情報発信しにくい言葉の壁などに守られてきた。しかし、インターネットに国境はなく、過激派思想を宣伝する動画や画像があふれている。今後、日本政府が国際社会への関与を強めようとするにつれ、テロのリスクが上がることを覚悟しなければならない。悲惨な結末となった日本人人質事件はその一端を示した。欧州の経験から学び、テロ対策を慎重に練り、将来、移民受け入れの議論が本格化した場合にも今から備えなければならないと感じる。

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Kinyobi20150116

Japon : le Premier ministre de nouveau rattrapé par un scandale politico-financier
Shinzo Abe a été interrogé mardi par le Parlement nippon sur des pots-de-vin reçus, selon la presse, par une antenne locale de son parti. Il a nié avoir été au courant.
Le Premier ministre mis en cause à son tour. Une semaine après la démission du ministre de l'Agriculture pour une raison similaire, Shinzo Abe doit affronter un feu nourri de questions, mardi 3 mars au Parlement japonais, sur de possibles irrégularités de financement politique.
Selon la presse nippone, une antenne de la formation politique de droite qu'il dirige, le Parti Libéral-Démocrate (PLD), dans sa circonscription de l'ouest du Japon, a reçu un total de 620.000 yens (4.630 euros) de deux compagnies qui s'étaient vu allouer des subventions publiques moins d'un an auparavant, en violation de la loi. C'est la première fois que le chef du gouvernement est mis en cause depuis son retour au pouvoir fin 2012.
Le ministre de l'Agriculture déjà démissionnaire
"Je n'étais pas au courant", s'est justifié le Premier ministre lors d'une session parlementaire, niant toute responsabilité. "M. Abe va enquêter sur les faits, puis traiter le problème de manière appropriée", a commenté de son côté le porte-parole du gouvernement, Yoshihide Suga.
Mais la nouvelle affaire tombe mal pour le gouvernement, alors que le ministre de l'Agriculture, Koya Nishikawa, a dû quitter ses fonctions pour une affaire du même acabit. Celui-ci avait reconnu avoir reçu un don de 1 million de yens (7.400 euros) d'une compagnie dirigée par un groupe réunissant divers fabricants de sucre, auquel le ministère avait accordé quelques mois plus tôt une allocation d'un montant de 1,3 milliard de yens (9,7 millions d'euros).
Une autre série de scandales en 2006-2007
Quatre autres ministres se trouvent également sur la sellette sur fond d'accusations du même type: Hakubun Shimomura (Education), Yoshio Mochizuki (Environnement), Yoko Kamikawa (Justice), et dernier en date, Akira Amari (Revitalisation économique). Deux détentrices de portefeuilles (Justice et Industrie) dans le précédent exécutif avaient dû jeter l'éponge à cause, non pas de dons, mais de dépenses inappropriées.
Cette nouvelle série risque de rappeler de très mauvais souvenirs au Premier ministre Abe. Lors de son premier mandat raté à la tête du pays, entre septembre 2006 et septembre 2007, il avait dû affronter plusieurs départs de ministres sur fond de scandales financiers. L'un deux s'était même suicidé, et Abe, quant à lui, avait choisi de partir au bout d'un an.

世界ふれあい街歩き「コルマール〜フランス〜」
フランス北東部、ドイツとの国境に位置するアルザス地方のコルマール。戦火を免れたため、旧市街には今も数百年もの歴史を持つコロンバージュと呼ばれる木組みのかわいらしい古い家が数多く残っていて、まるでおとぎの国のようです。出会ったのは、地元の言葉を大切にしている劇団のおばあちゃん、古い家具を修理している兄弟など。コルマールの伝統を愛する飾り気のない、心温かい人たちとふれあう街歩きです。
田畑智子,つぶやきシロー


クグロフKouglofというアルザス地方のお菓子,タルトフランベTarte flambéeというアルザスの伝統料理,ベックオフBaeckoffeもまたアルザスの伝統料理が紹介されていました.またリボービレRibeauvilléでワインをいただく場面もありました.
3月3日なのでひなあられをいただきました.全国水平社の日なので,部落解放同盟の全国大会が開催されているはずです.
しのの後,お昼はカレーをたくさん食べられるところに行きました.食べ過ぎてしまったかな?
ブラックジャックによろしくの12巻・13巻を読みました.精神科医療の問題点が暴き出されていると思います.

<被災地のいま>(2)求人難/岩手・宮城両県 宿泊・送迎充実アピール
 水産加工業の人手不足緩和に向け、岩手、宮城両県は2015年度、従業員用の宿泊施設整備の支援に乗り出す。地元在住者に限らず国内外から労働力を確保できる環境を整え、沿岸の基幹産業の再興を期す。
 自治体が事業者の福利厚生分野に公費を投じるのは異例。宮城県は内陸に避難した元従業員らの復職に向け、10路線程度の送迎車の運行支援も行う。
 岩手は市町村と共同で、宮城は県単独で整備費の半額を補助する。補助上限はいずれも2000万円。岩手県は、事業者が施設完成までのつなぎとして民間物件を借り上げた場合、経費の一部を助成する。
 15年度一般会計当初予算案に岩手県は1億80万円、宮城県は2億2200万円の関連費を盛り込んだ。岩手県産業再生課は「沿岸地域の人口増にもつなげていきたい」と説明している。


<被災地のいま>(2)求人難/集まらぬ復興担い手
 東日本大震災で大きな被害を受けた岩手、宮城、福島3県で、有効求人倍率の上昇傾向が続いている。求職者とのミスマッチもあり、被災地の水産加工や建設、介護関連業者は人員の不足感を強めている。

<工期遅れの一因>
 被災3県の有効求人倍率の推移はグラフの通り。がれき処理など復旧工事が本格化した2012年後半から急上昇した。14年には年平均が岩手1.09倍、宮城1.26倍、福島1.41倍と、1990年代前半とほぼ同じレベルになった。
 ことしに入っても売り手市場に変化はない。1月の状況を業種別に見ると、水産加工を含む「製品製造・加工処理」の倍率は公共職業安定所別で気仙沼3.13倍、宮古2.66倍、相双2.61倍、石巻2.59倍など。募集枠の半分も埋まらない状況がうかがえる。
 復旧事業を担う建設関連も苦戦する。安定所別の倍率は石巻5.05倍、相双4.68倍、大船渡3.74倍、気仙沼2.96倍、釜石2.52倍など。特に鉄筋工や型枠大工などの不足が目立ち、工費上昇や工期遅れの一因となっている。

<介護研修料貸与>
 慢性的な人手不足に悩む介護関係では、14年度から国が支援に乗り出した。福島県外から相双地域の介護施設に就職する人に、研修料や引っ越し代などを貸与する制度を導入。要件を満たせば返済を免除し、求職者を誘導する考えだ。
 介護関連の14年の倍率は福島が2.97倍となったほか宮城(2.78倍)、岩手(1.74倍)も高水準を保つ。職員を配置できず、高齢者らを受け入れられない施設も少なくない。
 国事業の実施主体となる福島県社会福祉協議会は、東京や仙台でPRイベントを展開したり、施設見学のバスツアーを実施したりしている。制度を利用した就職者も20人おり、県社協の村島克典人材研修課長は「宿舎の問題など課題はあるが、介護職の魅力ややりがいなどを地道に訴えていきたい」と話す。


<被災地のいま>(2)求人難/3Kイメージないのに
 自慢の最新設備が眠っている。商品の引き合いはあるのに、応えられないのがもどかしい。
 気仙沼市の水産加工業、阿部長商店。昨年8月、南気仙沼地区の加工団地に新工場を完成させたが、2階に据えた食品加工ラインは今も休止状態が続く。
 理由は求人難だ。必要な従業員約100人に対し約半数しか集まらず、作業は工場1階での鮮魚出荷、冷凍保管にとどまっている。
 阿部泰浩社長(51)は「自動化を進めて従業員の負担を軽減させた。工場内は衛生的で、きつい、汚い、臭いといった昔のイメージはないのだが…」と話す。

 東日本大震災で工場が被災したのを機に、鮮魚や冷凍品の原料供給から食品加工メーカーへの転換を図った。ホテルなどを運営する観光部門と連携し、自社ブランド商品の開発を推進。震災半年後には東京営業所を設け、大手量販店など新規の販売先獲得に努めた。
 付加価値のある加工食品の扱いが増え、水産部門の売り上げは震災前の9割弱まで回復している。ただ、既存工場の数倍の能力がある新ラインで攻勢をかけるとの成長シナリオは、冒頭から見直しを迫られる結果となった。
 4月からは新ラインでサンマの甘露煮の生産を計画している。「秋のサンマの水揚げまでに100人体制にしたい」。阿部社長が意欲を見せた。
 人口流出もあり、被災地では人手不足が深刻化している。気仙沼公共職業安定所管内(気仙沼市、宮城県南三陸町)の有効求人倍率は昨年12月、過去最高の2.03倍となった。事務など特定職種に希望が集中する一方、製造業は敬遠されがちだ。
 市内では、南気仙沼地区と同時に鹿折地区でも水産加工団地が整備されている。両地区で計83社の立地が見込まれるものの、鹿折地区の業者でつくる気仙沼鹿折加工協同組合の川村賢寿理事長(65)は「復活を目指す被災企業にとって今は最悪の時期」と指摘する。

 求人対策として岩手、宮城両県は1月末、外国人技術実習生の受け入れ枠を拡大する構造改革特区を国に申請した。認定されれば現行の年3人が6人になるが、対象は従業員50人以下の事業所などに限られる。
 「1、2年で求人難の解消策を打たないと、工場再開後に廃業する会社が出かねない」と川村理事長。「期間を限定した上で実習生の受け入れ枠をもっと拡大させるなど、思い切った対応が必要だ」と提言した。
(報道部・久道真一)

[気仙沼市の水産加工団地整備]南気仙沼地区18.4ヘクタールと鹿折地区10.8ヘクタールが対象。2012年8月からかさ上げ工事を実施し、市道や下水道など基盤整備もほぼ終了した。分譲予定社数は計83社(南気仙沼地区61社、鹿折地区22社)で、うち12社が工場を稼働させ、15社が建設中。


ラグビーW杯開催地決定 釜石破顔、復興の力に
 ラグビーの2019年ワールドカップ(W杯)日本大会の開催地が発表された2日夜、東北の候補都市は選出された釜石市と選外となった仙台市とで明暗がくっきり分かれた。

 釜石市鵜住居町根浜の旅館宝来館では、発表記者会見のパブリックビューイングがあり、行政やラグビー関係者、市民ら約120人が決定の瞬間を見守った。「釜石」がコールされると「やった!」と声が上がり、復興途上の「ラグビーの聖地」が歓喜に包まれた。
 海沿いにある宝来館は震災の津波で2階まで浸水。営業再開を果たし、4月にはW杯開催に向けて新装オープンする。新設されるスタジアムはすぐ近く。おかみの岩崎昭子さん(58)は「震災後は生きることで精いっぱいだった。やっと未来に向けて歩き出せる」と涙ぐんだ。
 野田武則市長は「唯一スタジアムがない小さな街の挑戦は、被災した三陸沿岸地域全体の再生と未来への希望につながると信じる」と気を引き締めた。
 W杯誘致は震災直後の11年8月、日本選手権7連覇した新日鉄釜石ラグビー部OBらでつくる復興支援NPO「スクラム釜石」が市に提案したのが契機だった。市民運動で機運を盛り上げてきたW杯釜石誘致推進会の中田義仁代表(46)は「子どもたちが未来に希望を持つことが復興の力になる。釜石だけでなく広く子どもたちがラグビーと親しむ機会をつくりたい」と笑顔を見せた。達増拓也岩手県知事は「被災地支援への感謝を世界に伝え、復興の姿を発信する絶好の機会になる。復興に取り組む県民にとっても朗報だ」との談話を出した。
 仙台市では、青葉区の飲食店に誘致運動に携わった宮城県ラグビー協会関係者やラグビーファン約30人が集まった。選外が分かると一様に肩を落とし「あー」とため息を漏らした。
 県ラグビー協会の福冨哲也会長(69)は「本当に残念。開催地には選ばれなかったが、若者の教育などにラグビーの精神を生かす活動を地道に続けていく」と厳しい表情で語った。奥山恵美子仙台市長は「開催はかなわなかったが、外国のお客さまに震災を乗り越えた仙台・東北の復興の姿をご覧いただけるよう取り組む」とのコメントを出した。


<三陸道>松島北−鳴瀬奥松島30日に4車線
 宮城県道路公社は、三陸自動車道の松島北−鳴瀬奥松島インターチェンジ(IC)間(6.8キロ)を30日午前6時に4車線化する方針を固めた。同区間の4車線化工事は公社が事業費約50億円を投じ、東日本大震災後の2012年8月に着手していた。29日、鳴瀬奥松島ICで完成式典を行う。
 利府中−鳴瀬奥松島IC間の14年の通行量は1日平均約2万3900台。震災前の10年に比べ1.4倍に増えた。4車線化で、復興関連車両などによる朝夕の渋滞緩和が期待される。
 三陸道の仙台港北−桃生豊里IC間(52.6キロ)の4車線化は00年度に始まった。県道路公社と東北地方整備局がそれぞれの管理区間で工事を進めている。
 既に利府中−松島海岸IC間が12年7月、松島海岸−松島北IC間が14年3月に4車線化された。仙台港北−利府中IC間、石巻北(新設)−桃生豊里IC間は15年度中に完成の予定。
 鳴瀬奥松島−石巻北IC間は当初、3月の4車線化を予定していたが、工事の遅れで完成は15年度中の見通し。石巻北ICの利用開始は10月にずれ込む。


<三鉄再開1周年>記念列車運行・来月4、5日
 東日本大震災で被災し、昨年4月6日に全線運行を再開した第三セクター三陸鉄道(宮古市)は再開1周年となる4月4、5日、北リアス線で3種類の特別列車を運行する。
 「お座敷列車さんりくはまかぜ」は両日とも久慈−宮古駅間を1往復する。記念の乗車証明書がもらえるほか、車内では海女がガイドし、岩手県沿岸北部に伝わる鬼の面をかぶった「なもみ」も登場する。一般車との2両編成。お座敷車のみ指定券が必要(定員48人)。指定券は乗車日の1カ月前から予約できる。
 「レトロ列車さんりくしおさい」は、レトロ車2両で同区間を1往復する。全て自由席。宮古駅で震災前まで販売された「北の祭り弁当」を購入できる。前日午後1時まで予約する。
 「しおさいのメモリーズ号」は、久慈−田野畑駅間を5日のみ往復する。団体(定員36人)のみ16日に募集を始める。車内をNHK連続テレビ小説「あまちゃん」仕様に装飾し、イベントを繰り広げる。
 南リアス線でも1周年イベントを予定する。三陸鉄道は「1周年を大勢の人で盛り上げたい」と話す。予約は同社0193(62)8900。


大槌町職員を特殊公務災害認定
東日本大震災の際に住民の避難誘導などにあたり、津波の犠牲になった大槌町の職員26人が危険な職務に適用される「特殊公務災害」に認定されたことが分かりました。
「特殊公務災害」が一般の自治体職員に認定されたのは岩手県では初めてです。
「特殊公務災害」は、高度な危険が予測される現場で人命救助などの職務にあたって死亡したり、けがをしたりした公務員を対象に、一般の公務災害に比べて遺族に支払われる年金などが最大で1.5倍多くなる制度です。
地方公務員災害補償基金岩手県支部によりますと、震災の際に住民の避難誘導などにあたって津波の犠牲になった大槌町の職員26人について、遺族から「特殊公務災害」の認定の申請が出されていましたが、2月27日に申請が認められたということです。
「特殊公務災害」は主に警察官や消防職員が対象になっていますが、一般の自治体職員が認定を受けるのは県内では初めてだということです。
この制度をめぐっては、津波で犠牲になった陸前高田市の職員や県立高校の教員などの遺族も認定の申請を行っているということです。


ラグビーW杯 住民の声は
2019年に日本で開かれるラグビーワールドカップの試合会場の1つに、釜石市が決まって一夜明けた3日、釜石市内では開催決定の喜びの声が上がる一方で、仮設住宅での暮らしが続く東日本大震災の被災者からは複雑な思いも聞かれました。
日本で開かれるラグビーワールドカップの試合会場は、日本時間の昨夜、発表され、釜石市や花園ラグビー場のある大阪府と東大阪市など12の都市に決まりました。
釜石市は津波で壊滅的な被害を受けた鵜住居地区に1万6000人あまりを収容できるスタジアムを新たに建設する計画で総額29億円の費用がかかる見込みです。
一夜明けた3日、釜石市内の高校3年生の女子生徒は「開催が決まってすごくうれしいです。大会が開かれる4年後には、大学を卒業して地元に戻ってくるつもりなので盛り上げたいと思います」と話していました。
また地元のラグビーチーム「釜石シーウェイブス」の小原崇志ゼネラルマネージャーは「開催地に決まって釜石市も大きな責任を負ったんだという気持ちです。
ワールドカップの試合が行われることでチームのモチベーションが上がり、市民のみなさんも盛り上がると思うので、シーウェイブスを応援してくれる人が増えると思います」と話していました。
その一方で、スタジアム建設予定地の鵜住居地区の仮設住宅で暮らす60歳の女性は「私たちを含めて多くの人たちがいまだに仮設住宅での生活を強いられているので、素直に喜べません。市は生活再建を最優先に考えて欲しい」と話していました。


津波到達点に桜を植樹
東日本大震災の被害を伝えていこうと仙台市若林区の津波の到達地点に桜の木が植えられました。
この活動は、仙台市の市民グループが去年3月から行っているもので、東日本大震災で津波が到達した県内15の市と町に今後10年ほどかけて桜の木を植える予定です。
3日はことし12月に開業予定の地下鉄東西線の荒井駅前の広場に地元の人たちなどおよそ150人が集まり、桜の植樹を見守りました。
植えられた桜の木は直径30センチ、高さ7メートルの「祇園しだれ桜」1本で、そばには「浪分櫻」と彫られた高さ2メートルほどの石碑も設置されています。
除幕式では参加した人たちが桜の木を見つめ、津波の恐ろしさや教訓を後世に伝える気持ちを新たにしていました。
市民グループの松田正子さんは「桜の木を津波が到達する恐れがある場所だと認識するための目安にしてもらいたい。地下鉄を利用するときや散歩の際にこの桜を見て震災のことを伝えてほしい」と話していました。


岐路:東日本大震災4年/2 田畑売却、踏み切れぬ 中間貯蔵地、家族の拠点もうないが
 東京電力福島第1原発から南へ約2キロ。昨年7月、福島県大熊町熊川地区に、避難先のいわき市から一時帰宅した宮本明さん(64)は「前は2階にも上がれたけど、もうだめだな」と首を振った。津波が貫通した1階は吹きさらしのまま。階段はたわみ、朽ちた畳から草が伸びていた。沿岸部では、原発事故と津波の二重被害を受けた家も多い。

 「住めなくても、私らはまだこの場所が残るから、心救われるのよ」。同行した妻喜美枝さん(64)がつぶやいた。事故前、約165世帯が暮らした地区は、帰還困難区域として立ち入りを制限されながら、中間貯蔵施設の建設という課題を突きつけられている。

 宮本さん宅の北を流れる熊川が建設予定地の南端だ。地区の全世帯の約7割が対象となる。宮本さんの自宅や墓は対象外だったが、約0・4ヘクタールの田畑は含まれる。「中間貯蔵施設に反対はしない。県内では、庭先に汚染土が積み重なって、どっかに持って行かないといけない。それがおれの町というのもしゃあない」。宮本さんは、割り切ったような表情を見せた。

 先祖代々引き継いできた田畑は当初、売らずに「貸したい」と思っていた。だが、茨城県で会社員をしている長男(39)は2013年、同県内に2世帯住宅を建て、宮本夫妻に同居を促してくれる。家族の拠点がもう大熊にありえないのなら「買ってもらった方がいいかもしれない」。国との交渉を目前に、気持ちは揺れる。

 「答え」を出せずにいる大きな理由が国への不信感だ。昨年9月末、いわき市であった地権者説明会。非公開の会場からは、補償額への質問や不満が相次いだが、国は「理解していただくしかない」と繰り返すばかり。11月、環境省の担当職員から「用地の扱いについて分からないことがあったら伺います」との電話があった後、具体的な話はない。

 一方で国は、難航する地権者との交渉と並行して、予定地に「保管場」を造り、汚染土を運び入れる準備を進めている。「搬入してから交渉なんて。既成事実を積み重ねて地権者を追い詰める、意地汚いやり方だ」。最終処分場にはしないという国の約束も「信用できない」と突っぱねる。売却に心は傾きつつも、それでは国のいいなりになるようで決断に踏み切れない。

 今年2月22日、いわき市のイベントで熊川地区の伝統芸能「熊川稚児鹿舞(ししまい)」が舞を披露した。宮本さんの太鼓に合わせて、跳びはねる男児を頼もしそうに見守った。避難生活の中、宮本さんら保存会が復活に取り組んだ舞だ。中間貯蔵施設の建設で集落が失われても、土地で結ばれた人のつながりは守りたかった。

 「仲間とは、先のことは考えすぎないようにしようと話している。なるようにしかならない。一年一年、一歩一歩です」。言い聞かせるように話した。【喜浦遊】

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訃報→川西でお通夜/Gainsbourg没から24年

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Au Japon, une série télé fait couler à flot le whisky
LE SCAN TÉLÉ / VIDÉO - Depuis la diffusion de Massan, un feuilleton à succès sur l'histoire de la première distillerie nipponne, les ventes d'alcool connaissent une forte augmentation.
Et si en France, la diffusion de Top Chef, sur M6, poussait les Français à se rendre massivement dans des restaurants gastronomiques? En tout cas, au Japon, les professionnels du whisky remercient la chaîne NHK.
Dans la série Massan, constituée d'épisodes de 15 minutes diffusés chaque matin du lundi au vendredi jusqu'au 28 mars, les téléspectateurs découvrent l'histoire de Masataka Taketsuru, qui a étudié à Glasgow, et de son épouse Rita, crédités d'avoir créé, non sans peine, la première distillerie de whisky du Japon, Nikka.
L'héroïne, Ellie, est interprétée par l'Américaine Charlotte Kate Fox, la première étrangère à occuper un tel rang dans le traditionnel feuilleton matinal de la NHK.
Aujourd'hui, Nikka, qui n'hésite pas à afficher en une de son site web l'image la plus populaire de Massan ou à l'utiliser sur ses canettes de highball (un mélange de whisky et de soda), a du mal à livrer à temps les produits les plus populaires. ≪Nous pensons que la série TV a contribué à augmenter le nombre de fans de whisky Nikka≫, a confirmé Masanao Sugi, un porte-parole d'Asahi Group, maison-mère de Nikka.
Le whisky n'a beau représenter que 1,16% du total des ventes de boissons dans l'archipel, il s'en écoule de plus en plus, une tendance débutée en 2009 avec le renouveau du highball, apprécié des buveurs relativement jeunes. Pour les Nikka fabriqués au Japon, la demande a plus que doublé en 2014 comparée à celle de 2013.
≪Nous ne parvenons pas à suivre≫, assure de son coté Hasumi Ozawa, une porte-parole de Suntory, un des plus grands fabricants de boissons du Japon.
A l'élan donné par la série s'est en effet ajoutée en novembre dernier la désignation du Yamazaki Single Malt Sherry Cask 2013 de Suntory comme meilleur du monde par la Bible du Whisky de Jim Murray, qui recense et note tous les whiskies fabriqués dans le monde.

川西でお通夜です.72歳で亡くなりました.まだまだ若いです.
焼香のあとのお話では生老病死について.考えさせられます.
Serge Gainsbourgが亡くなってから24年です.

幸呼べ復興カレー ホッキガイとリンゴ入り
 東日本大震災で被害が出た山元町の被災者と内陸にある集団移転先の周辺住民が、特産のホッキガイとリンゴを煮込んだ「復興カレー」を一緒に考案した。地区への転入を前に、両者が仲良く暮らすという願いを、地元の山海の幸が融合した味に込めた。

 考案したのは、町が移転先として整備する宮城病院周辺地区の新市街地の転入予定者や周辺住民でつくる復興まちづくり協議会(復興協)のメンバー。1日に合戦原学堂で開いた復興協の親睦会で初披露した。
 同町の磯浜漁港で水揚げされたホッキガイ80個を塩ゆでし、煮汁やすりおろしたリンゴを加えたルーをご飯に掛け、ゆでたむき身を乗せて完成。ホッキガイのシャキシャキした食感とリンゴの甘さで味を引き立てた。地元の野菜やこんにゃくを使った芋煮も添えた。
 カレーの調理を担当した鈴木勝雄さん(67)は同漁港のある磯地区で被災した。「磯の住民は売り物にならないホッキガイをカレーにしてよく食べた」と懐かしむ。食べやすさと住民融和の象徴として、リンゴを入れるアレンジも加えた。
 試食した約60人の評判は上々。花釜地区で被災した大宮照子さん(87)は「最高のごちそう。早く生活再建し、再びみんなと一緒に食べたい」と喜んだ。
 宮城病院周辺地区は敷地内の廃棄物処理が進まず、完成予定が当初の1年遅れの2017年3月にずれ込んだ。復興協の高橋清次会長(78)は「完成の遅れに転入予定者はいら立っている。周辺住民も交えて新しいまちの味を楽しんでもらい、一緒に仲良く暮らす意識を保ちたかった」と意図を説明。今後も調理する機会を設けたいという。


英王子「私も大切な母亡くした」石巻など訪問
 来日中の英国のウィリアム王子(32)は1日午前、東日本大震災で甚大な被害が出た石巻市と宮城県女川町を訪れ、被災状況を視察し、住民らと交流した。
 石巻市では、社屋が津波にのまれながらも手書きの壁新聞を発行した石巻日日新聞の施設を訪れ、記者や津波で3人の子どもを亡くした木工作家の遠藤伸一さん(46)、綾子さん(46)夫妻と面会した。
 王子は真剣な表情で夫妻の話に耳を傾け、「私も大切な母を亡くした。思い出してつらい時にはきょうのことを思い出します」と語り掛けた。伸一さんが涙ぐんだ際には、王子が腕をさすり、「あなたは立派な父親だ」と励ました。
 石巻湾を一望できる日和山公園では、亀山紘市長が震災時の様子を説明。王子は犠牲者を悼んで献花し、黙とうをささげた。石巻小の児童2人から折り鶴を手渡されると、「息子のお土産にします」と話した。
 女川町の仮設商店街「きぼうのかね商店街」では、地元住民が獅子舞や太鼓の演奏などで歓迎。王子は店舗を巡って商店主らと触れ合ったほか、がれきの中から見つかって商店街の象徴となっている「希望の鐘」を3回突き鳴らした。
     ◇
 新華社電によると、王子は1日夜、次の訪問先の北京に到着した。


<被災地のいま>(1)仮設住宅/寂しいけれど仕方ない
 東日本大震災の発生から間もなく4年。津波や東京電力福島第1原発事故で打撃を受けた東北の被災地は、今も復興の途上にある。住宅再建や市街地再生にとどまらず、産業振興、風評克服など直面する課題はいずれも深刻だ。あえぎ、揺れ続ける各地の姿を追った。

 部屋は静まり返っていた。ベッド脇の食卓には、体調を管理する薬が大量に置かれている。
 「話す相手がいない。寂しいけれど仕方ないね」。岩沼市のプレハブ仮設住宅で、1人暮らしの女性(80)が窓の外に目をやる。
 仮設団地に住んでいた友人は集団移転で引っ越した。以来、遊びに来てくれることはなくなった。息子やヘルパー以外、最近は訪れる人も少ない。
 市沿岸部の自宅は津波で流失し、夫は帰らぬ人になった。同居していた息子家族は、勤務先が用意した市内のアパートに移った。
 女性は昨年部屋で転倒し、1カ月以上入院した。歩くのが困難になり、デイサービスの日以外は部屋に閉じこもる。
 いつ仮設を出られるのか、分からない。今後のことは息子に任せているが、自宅再建の余力は乏しい。家賃が気掛かりで、災害公営住宅への入居も決断できない。「1人でいると悪いことばかり考えてしまう」

 「復興のトップランナー」とも言われる岩沼市。海岸から約3キロ内陸に集団移転団地「玉浦西」が造成され、住宅建設が進む。5月には全ての災害公営住宅が入居可能になる見通しだ。
 市内に計384戸あるプレハブ仮設では既に130世帯以上が退去した。5月末には大半が空き室になる見込みだが、12世帯は自立のめどが立たない。「住む場所に迷っている」「家の建設資金が調わない」などが理由という。
 みなし仮設でも、約100世帯のうち21世帯の退去時期が定まらない。20世帯は市の調査に回答すらしていない。「今後の予定を聞こうと電話しただけで『早く出ていけって言うのか』と怒鳴られることもある」。市担当者は対応の難しさを明かす。

 仮設の入居期間について、宮城県は移住環境が整った自治体は原則5年までとする。岩沼の場合、2016年4月末にも期限を迎える。要件を満たせば世帯ごとに延長できるが、適用は限定的とみられる。
 家の建設が遅れている市内の男性(64)は「それぞれ事情があるし、財布の中身も違う。ついのすみかを決めるには時間がかかる」と訴える。
 空き室の増加は、被災者のコミュニティー喪失を意味する。市は残る世帯の早期自立を促しつつ、孤立防止に向けた見守りを続ける方針だ。(岩沼支局・成田浩二)


東日本大震災:「仮校舎でも母校」 高田高、大船渡で最後の卒業式、感謝胸に大人への一歩 /岩手
 東日本大震災で陸前高田市内の校舎が全壊し、大船渡市にある廃校跡で授業を続けている県立高田高で1日、卒業式が営まれた。本校舎が今月末に復旧するため、仮校舎を巣立つ最後の3年生となる。「仮であっても3年間お世話になったここが私の母校です」。卒業生らは、感謝の思いに頬をぬらした。

 高田松原を思わせる青緑色の屋根に白壁の3階建ての校舎は津波にのまれ、生徒たちは2011年、旧大船渡農高跡で授業を再開。この日は、169人が旅立ちの日を迎えた。

 身内に犠牲者もいる卒業生たちだが、昨夏には土砂災害に遭った広島の被災者を支援する募金活動を自発的に行うなど、人の痛みを知り、優しさをも併せ持つ若者に成長した。

 式典では、横田昭彦校長が「芽が出る時は違えども、君たちに、明日への種は確実にまかれた」と語りかけ、卒業生を代表して藤原奈々さんが「私たちは多くの人に助けられ、大人への新たな一歩を踏み出します」と声をつまらせつつ述べた。

 「高田の地に再び刻め我らの鼓動 繋がる心 輝く明日へ」が、全校生徒で考え抜いた4月からの新生高田高のスローガン。歴史と伝統を受け継ぐ校歌が体育館に響き渡った。【根本太一】


岐路:東日本大震災4年/1 亡き弟妹、思い進学 「石巻舞台に映画」東京へ 佐藤さん/「福祉の仕事する」仙台へ 加納さん
 「似合ってるね」「ありがとう」。1日、卒業式を終えた宮城県石巻市の石巻好文館高3年、加納愛美(まなみ)さん(18)は制服姿のまま、幼なじみの石巻高3年、佐藤そのみさん(18)宅をたずねた。迎えた佐藤さんは赤い着物に紫のはかま姿。この日、石巻では冷たい雨が降り続いたが、お互いの写真をスマートフォンで見せ合う2人の表情は、4年前とは違って晴れやかだった。
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 4年前の4月24日、中学3年だった2人は予定より1カ月遅れで開かれた市立大川小の卒業式に出席した。東日本大震災の津波で2人の自宅がある同市福地地区に大きな被害はなかったが、佐藤さんは同小6年だった妹みずほさん(当時12歳)、加納さんは6年の妹愛香(あいか)さん(同)と2年の弟悠登(ゆうと)君(同8歳)を亡くした。妹の遺影を持ち、代理として卒業証書を受け取ったのだ。

 式で、みずほさんと愛香さんは一緒に「旅立ちの日に」などの曲をピアノ伴奏するはずだった。だが、2人が震災直前まで熱心に練習していた曲は奏でられることはなく、すすり泣きの声だけが会場に響いた。

 こらえきれない悲しみと、「自分だけ助かってしまった」というやりきれなさ。佐藤さんは「あの頃は大人が期待する前向きなことばかり話していた」と振り返る。「本当の自分の気持ちなんて誰にも分からない」とも。3人きょうだいだった加納さんは「家で子供が私1人になり、頑張らなきゃ、うちでは泣いちゃいけないって、ずっと気持ちを抑えていた」。親友の2人の間でも気を使い合い、お互いに思いを打ち明けられなくなっていた。

 2人の心をときほぐしたのは、震災後に交代で学習支援に駆けつけてくれた文教大の学生ボランティアだった。勉強を教わる合間、雑談をするうちに打ち解け、胸の内を自然と話せるようになった。「真剣に向き合ってくれ、みんなで話せる雰囲気を作ってくれた」と加納さん。震災から数カ月後には佐藤さんとも以前のように話せるようになった。

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 市内の別々の高校に進んだ後も、一緒に旅行するなどして支え合ってきた2人は共に夢を見つけ、今春親元を離れることを決めた。

 佐藤さんは上京し、日本大芸術学部の映画学科監督コースに進む。「みずほや亡くなった大川小の子供たちを忘れてほしくないから、いつか地元を舞台に『命のぬくもり』が伝わるような映画を撮りたい」と夢を語る。

 加納さんは、支援してくれた学生ボランティアへの感謝をきっかけに「自分も人の役に立ちたい。在宅介護の仕事で育ててくれた地元に恩返しがしたい」と思うようになった。仙台の東北福祉大総合福祉学部で臨床心理などを学ぶ。

 あの日、止まってしまった時間と、流れ過ぎる時間。2人は今、「妹たち同士も向こうで仲良くしているんだろうな」と笑い合えるようになった。傷ついた地元への思いを胸に、新たな一歩を踏み出す。亡くなった3人が見守ってくれると信じながら。【百武信幸】

    *

 東日本大震災から4年となる。肉親の死、故郷の喪失、先の見えない避難生活。大きな苦しみや課題と向き合い、どのような進路を選ぼうとしているのか。「岐路」に立つ人々を訪ねた。

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 ■ことば
 ◇石巻市立大川小の津波被災

 東日本大震災で、太平洋から約4キロの北上川沿いにあった大川小は、2階建て校舎の屋上を越える津波にのみこまれた。児童74人と教職員10人が死亡・行方不明となり、学校管理下では最悪の被害となった。児童たちは津波到来直前まで校庭に待機し、近くの河川堤防を目指して移動中に被災したとみられる。現場にいて助かったのは児童4人と教員1人だけだった。犠牲になった児童23人の遺族が「学校側は安全配慮義務を尽くさなかった」として宮城県と市に損害賠償を求めた訴訟が仙台地裁で係争中。


あすを担う:震災4年・20代の声/2 ボランティア団体代表・霜鳥太一さん 交流会、継続が大切 /茨城
 ◇学内で自由ミーティング 霜鳥太一さん(20)=つくば市天久保3

 東日本大震災が発生した時、横浜市の高1だった私は何の行動も起こせず、心残りがありました。高校の同級生が宮城県石巻市でボランティアをしたり、筑波大学入学後に上級生が信念を持って自分の意見を言っていたりする姿を見て影響を受け、復興支援に取り組む学生ボランティア団体「Tsukuba for 3.11」に入りました。

 2月にもつくば市内で約20人の福島出身者と交流会を開きました。テーマは「心も体もぽっかぽか」。芋煮会を開いたり、豆まきしたりして楽しいひとときを過ごしました。参加者から「発生から4年がたち、当初から活動している人も少なくなった。継続的に交流会を開いてくれてありがとう」と声を掛けられました。継続性が大切だと考えて活動しているので、とてもうれしかったです。

 交流会ほか、復興への思いをつなぐリレーインタビューなどを掲載したコミュニティー新聞「つくしま」も年4回発行しています。新聞名は福島とつくばを掛け合わせた名称にしました。また、津波被災者の実体験を未来に遺(のこ)そうという福島県内のNPO事業に共鳴し、同県いわき市勿来で被災者の聞き取り調査も行っています。

 原則として週1回は学内でミーティングを開き、活動について2〜3時間をかけて話し合います。無駄に思われるかもしれませんが、効率を求めるのではなく、メンバー間で自由に話し合うための時間です。また、支援を継続していくため、下級生に私たちの活動を伝え、興味を持ってもらいたいと思っています。【福沢光一】


ウィリアム英王子:「身内亡くした気持ち分かる」 宮城・石巻訪問
 初来日中の英国のウィリアム王子は1日、東日本大震災で被災した宮城県石巻市を訪れ、津波で当時8〜13歳だった子供3人を亡くした遠藤伸一さん(46)、綾子(りょうこ)さん(46)夫妻と懇談した。王子は1997年に亡くなった母ダイアナ元妃に触れ「私も15歳の時に大切な母を亡くし、お気持ちが分かる。母を思い出してつらい時は2人のことを思い出します」と励ました。

 伸一さんは津波で亡くなった長女花さん(当時13歳)、長男侃太(かんた)君(同10歳)、次女奏(かな)さん(同8歳)の写真を見せ、涙を流しながら当時の状況を説明。真剣な表情で聴き入った王子は「あなたは立派な父親だ」と語りかけた。伸一さんは懇談後、「温かい人柄が伝わってきた」と話した。【百武信幸】


川崎中1殺害:母コメント全文「残忍…涙が止まりません」
 川崎市川崎区の多摩川河川敷で同区の中学1年、上村(うえむら)遼太さん(13)の刺殺体が見つかった事件で、上村さんの通夜が2日、川崎市内の斎場で営まれ、親交のあった制服姿の同級生や保護者らが訪れ、その死を悼んだ。上村さんの母親は2日、弁護士を通じてコメントを発表した。全文は以下の通り。

 本日、遼太の通夜を執り行うことができました。

 優しい顔で寝ている遼太の姿を見ると、本当に遼太が死んでしまったのか分からなくなります。

 今にも起き上がって「母さん、母さん、お腹すいた」と言うのではないだろうか。台所にいると、「ただいま」と元気な声が聞こえ、帰ってくるのではないかと思ってしまいます。

 寝ている遼太に声をかけても、遼太が私を「母さん」と呼ぶことも、話すこともできなくなってしまったことが悲しくてたまりません。

 遼太は、本当に明るくて優しい子で、友達が多く、まわりの大人たちにもとても大事にされてきました。

 中学校1年生で、まだまだあどけなく、甘えてくることもありましたが、仕事が忙しかった私に代わって、進んで下の兄弟たちの面倒を見てくれました。

 私自身、仕事や家事に疲れた時、何度も何度も遼太の姿に励まされることがありました。学校を休みがちになってからも、長い間休んでいると、きっかけがないと学校に行きづらくなるから、早く登校するように話してきました。ただ、遼太が学校に行くよりも前に私が出勤しなければならず、また、遅い時間に帰宅するので、遼太が日中、何をしているのか十分に把握することができていませんでした。

 家の中ではいたって元気であったため、私も学校に行かない理由を十分な時間をとって話し合うことができませんでした。

 今思えば、遼太は、私や家族に心配や迷惑をかけまいと、必死に平静を装っていたのだと思います。

 事件の日の夜、一度は外に出かけようとするのを止めることができたのだから、あの時、もっともっと強く止めていれば、こんなことにはならなかったとずっと考えています。顔や体のひどい傷を見て、どれほど怖かっただろうか、どれほど痛かったかと思うと涙が止まりません。小さな遼太に、このようにむごく、残忍なことを行える人間が存在することが信じられません。

 犯人が逮捕されましたが、遼太が帰ってくるわけではなく、犯人に対して何も考えることはできません。


部落解放同盟 ヘイトスピーチ規制など運動方針案に
部落解放同盟の全国大会が2日から始まり、民族差別的な言動を繰り返すいわゆるヘイトスピーチの規制に向けて取り組むなどの運動方針案が示されました。
2日から東京で始まったことしの全国大会には、部落解放同盟の関係者らおよそ700人が参加しました。
はじめに組坂繁之委員長が「今日の政治状況は大変危険な方向に向かっている。人権・平和・環境、そして民主主義を守るために断固として闘っていかなくてはならない」とあいさつしました。
このあと今後の運動方針案について議論が行われ、行政による同和対策のきっかけになった「部落差別の解消が国の責務である」と明記された政府の審議会の答申から50年の節目にあたって、引き続きヘイトスピーチと呼ばれる民族差別的な言動を繰り返す街宣活動を規制する法制度の実現に向けて取り組んでいくことが示されました。
また、52年前に埼玉県狭山市で女子高校生が殺害されたいわゆる「狭山事件」で、再審=裁判のやり直しを引き続き求めることも方針案として示されました。
大会は3日まで開かれ、今後の運動方針を盛り込んだ大会宣言の採択などが行われます。

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大正区第九定期演奏会 でも運命/ふるさと

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Prince William meets Japan tsunami survivors who handwrote newspaper
The Duke of Cambridge has heard the harrowing stories of survivors of the Japanese tsunami during his visit to communities hit by the disaster.

As part of his week-long visit to Japan and China, Prince William visited the north-east coast where thousands were killed when the wave struck in 2011.

In the city of Ishinomaki, he met Hiroyuki Takeuchi, a retired journalist at the Ishinomaki daily newspaper.

The paper produced handwritten editions in the days following the tsunami.

The duke told him that, like 9/11, everyone remembered where they were when they saw the images of the tsunami.

"It remains with you forever. You remember where you were. It must have been unbelievably terrifying for you and all the others," he said.

Mr Takeuchi said: "Immediately afterwards it was like hell. So many died and their bodies were on the roads. It is still raw in my memory."

The massive tsunami was triggered by a 9.0-magnitude earthquake which hit Japan on 11 March 2011.

It killed almost 19,000 people and triggered a major nuclear accident.

In Ishinomaki, which lies 220 miles (350km) north-east of Tokyo, some 3,000 people died and more than 40,000 buildings were destroyed.

Prince William heard how the earthquake pulled the Japanese mainland 19ft (6m) into the Pacific Ocean - causing Ishinomaki to sink by 70cm.

He met Mr Takeuchi in a small museum founded to chronicle the disaster.

The museum features original editions of the single poster-sized newspaper pages written in red, black and blue felt tip, complete with a hand-drawn masthead.
Lucky escape

Mr Takeuchi said: "The tsunami hit our newspaper as well. But we found printing paper that miraculously stayed dry and we hand-wrote the news.

"There were just six copies every day. We put them on bulletin boards at evacuation centres."

William asked: "Where were you when it happened?"

Mr Takeuchi said: "I was in the newspaper. There was such a big tremor that I thought it would collapse, although it didn't.

"We felt that as long as we had pen and paper we could send out news, and that this was our duty as a newspaper. Luckily, among our staff no-one died."

He showed William one of the editions of the handwritten paper from five days after the disaster, when people in Ishinomaki, had no electricity and were largely isolated from the outside world.

The prince also met people who lost relatives in the disaster, including couple Shinichi and Ryoko Endo, who lost their three children, Hana, Kana and Kanta, all of them under 12.

The visit was the Duke of Cambridge's final engagement in Japan, before he flew into China, becoming the first senior British royal on an official visit there in 30 years.

雨ですが先週に続いて第九演奏会.今回は大正区の第九です.
指揮 高谷光信
演奏 エウフォニカ管弦楽団
ソリスト ソプラノ 浦田恵子 メゾソプラノ 安永紀子 テノール 江口輝博 バリトン 鈴木健司

第一部の故郷を思って韃靼人の踊りは熟睡してしまいました・・・
第二部の第九は,まあまあ.というか昨日第九を予習したときに,ついでで聞いた「運命」のほうが頭に残ってしまってあまり集中できませんでした.
最期に「ふるさと」の合唱.いい歌です.思わず涙が出てしまいました.近くに座っていた中国人が"What is this song ?"と聞いてきました.

テレメンタリー2015「“3、11”を忘れない54 分断の町」
福島県内で発生した除染廃棄物を最長30年間保管する、中間貯蔵施設。施設の受け入れを巡り、建設予定地の大熊町は大きく揺れ動いている。国と予定地の地権者は土地の買い取り額などで交渉が難航。しかし、予定地の地権者は全町民の約2割。地権者と非地権者間での補償内容で差が出る恐れがあり、両者の間に見えない溝が生まれている。原発事故から4年。大熊町はいま、目には見えない様々な分断が進んでいる・・・。
福島放送

明日へ−支えあおう− 復興サポート▽ボランティア・リピーター〜宮城県・南三陸町
月日が経ち、ボランティアは減少。震災のあった2011年3月以降、1年でのべ100万人を超えたボランティアもここ1年では9万人。しかし、震災当初より必要な支援が多岐にわたる。がれきの撤去が中心だった頃から、今は漁業や農業支援、仮設住宅での心のケアなど。そうした中、南三陸町ではボランティアに町のファンになってもらい、継続的に交流しようという取り組みをはじめている。住民とボランティアの新たな関係を探る。
畠山智之,高橋さとみ

NNNドキュメント'15 “じいちゃん"の戦争 涙…いま孫に伝えたい
日本から遠く離れた、ペリリュー島。70年前、太平洋戦争屈指の激戦地で何が起きたのか。奇跡の生還を果たした“じいちゃん"が孫と歩き、伝えたかった思いがありました。
佐々木蔵之介  日本テレビ


<大震災4年>集中期間「延長を」100%
 東日本大震災から4年になるのを前に、河北新報社は岩手、宮城、福島3県の被災42市町村の首長にアンケートを実施した。住宅、インフラ、産業など幅広い分野で復興の遅れを指摘する声が上がり、地域再生が道半ばにあることを裏付けた。2015年度の終了が見込まれる国の集中復興期間は全員が延長を望んだ。

 「復興が遅れている分野」(複数回答)の結果はグラフの通り。最多は「住宅再建・宅地造成」の35.7%となった。「鉄道・道路」「商工業」が33.3%で並び、「農水産業」(31.0%)「防潮堤」(28.6%)が続いた。
 県別の最多回答は分かれた。岩手(対象12人)は「住宅再建・宅地造成」「防潮堤」が各6人、宮城(15人)は「道路・鉄道」を7人が選んだ。福島(15人)は9人が「農水産業」を挙げ、福島第1原発事故による深刻な影響を映した。
 自由記述では「危険区域の土地利用」(宮城県亘理町)「原発事故による被害の賠償」(福島県広野町)との回答があった。
 集中復興期間に関しては全員が「継続を望む」と回答。国の財政支援が先細ることへの強い警戒感が表れた。各首長からは「事業全体が遅れている」(岩手県野田村)「全住民が避難中」(福島県葛尾村)といった切実な声が上がった。
 国は、集中復興期間を15年度までの5年間と定め、事業規模を19兆円程度に設定。12年12月に発足した安倍政権は13年1月、25兆円に拡充した。竹下亘復興相は16〜20年度について新たな財源を一括提示する意向を示しているが、政府方針としては定まっていない。

<調査の方法>
 震災で津波被害を受けたり、原発事故に伴う避難区域が設定されたりした岩手、宮城、福島3県の42市町村長を対象に実施。1月下旬に調査票を郵送し、2月中旬までに全員から回答を得た。


魚介類取れたてパクッ さいかい市場3周年
 東日本大震災で被災した名取市閖上地区の商業者らによる仮設商店街「閖上さいかい市場」のオープン3周年を記念する感謝祭が28日、同市美田園7丁目の現地であった。
 アカガイのにぎりずし、笹かまぼこ、セリ鍋、日本酒か甘酒の4品を組み合わせた600セットが販売され、マグロの解体ショーなども開催された。炭火焼きコーナーでは購入した魚介類などを焼く香ばしい匂いが立ち込めた。
 栃木県のボランティアも駆け付け、陶芸家が作った益子焼を破格値で販売。売上金を市場に寄付した。
 閖上さいかい市場は2012年2月オープン。現在29店舗・事業所が営業している。同市場振興会の相沢信幸会長は「震災から4年たっても復興できない焦りはあるが、結束して前を向いていきたい」と話した。


ハワイでの挙式 学生が支援 岩手・大槌
 東日本大震災で被災し、結婚式を諦めた岩手県大槌町のカップルが21日、西武文理大(埼玉県狭山市)の被災地支援として、ハワイで結婚式を挙げることになった。震災から間もなく4年。華やかなハレの日に戸惑う雰囲気が少なからず残る被災地で、学生に背中を押された2人は夢の実現に感謝している。
 式を挙げるのは、仙台市出身で大槌町の大工渡辺潤さん(35)と同町出身の東谷美樹さん(31)。東谷さんは震災前、会社勤めをしていた仙台市で渡辺さんと出会い、交際を重ねた。
 大槌町にあった東谷さんの実家は震災で全壊した。仮設住宅で暮らす祖母テルさん(85)に「早く家を再建してあげたい」と昨年9月に帰郷。渡辺さんも結婚するため大槌に移り住んだ。
 東谷さんは「周囲の人は被災して大変なときに、華やかなことをしていいのか」と悩み、結婚式は挙げないつもりだったという。
 転機は昨年12月。西武文理大が大槌町のカップルを励まそうと、ハワイでの挙式を無料で1組招待するチラシを見て応募、抽選で選ばれた。
 渡辺さんは「まさか当選するとは」と驚く。東谷さんも「学生さんに背中を押され決意した。夢のようだ」と感謝する。
 被災地のカップルを招く結婚式は同大が2012年から毎年実施。費用は大学が負担する。今回はサービス経営学部でブライダルを学ぶ学生11人が、体験講座としてプロデュース。ハワイに同行して式を運営する。
 学生の代表が2月7日、打ち合わせで大槌町を訪れた。2年内田涼子さん(20)と1年榊原那菜さん(19)は「初めて大槌に来て被害の大きさに言葉が出なかった。2人が前向きになれる、すてきな式にしたい」と張り切る。


装着すれば「あの日」の閖上 AR技術活用
 東日本大震災で被災した名取市閖上地区で28日、宮城農高(同市)の生徒が拡張現実(AR)の技術を搭載した眼鏡型情報端末を使ったツアーを開催した。参加者は被災直後の様子などを体感し、震災の記憶を胸に刻んだ。
 ツアーは河北新報社などの復興支援事業「今できることプロジェクト」の一環。約60人が参加し、食品化学科2年の13人が閖上小・中や日和山などで震災当時の状況を説明した。
 配布した眼鏡は、半透明のグラスに任意の映像が表示される情報端末。2011年4月と9月に現地で撮影した360度の景色が映し出された。仙台市青葉区の会社員石崎敦子さん(29)は「震災後の状況をその場で見ることができたのは貴重な体験」と話した。
 同高は昨年、地域の観光プランを競う全国コンテスト「観光甲子園」にAR技術を使った被災地ツアーを提案し、グランプリを受賞。研究機関などの協力で今回初めて実践した。


津波浸水深ここまで 歩道橋にステッカー
 多賀城高の生徒たちが28日、多賀城市内の国道45号の歩道橋に、東日本大震災の津波の浸水高を示すステッカーを貼った。2013年から通学路などで続ける防災・減災活動の一環で国道に掲示するのは初めて。
 ステッカーは縦10センチ、横50センチで「津波浸水深 ここまで」と書かれている。生徒会の7人が参加し、同市八幡の八幡歩道橋に残る津波の痕跡に合わせて貼り付けた。
 2年の後藤環君(17)は「多賀城は周囲に建物が多く、津波が来ても分かりにくいので標識は役に立つ。高校生が津波の経験を後世に伝える活動には意義がある」と話した。
 多賀城高には16年度、防災系専門の「災害科学科」が新設される。津波浸水高の標識はこれまで、通学路の県道や市道の約100カ所に取り付けている。


中間貯蔵搬入容認/廃棄物、30年後はどこへ
 福島県は、東京電力福島第1原発事故で発生した除染廃棄物を保管するため建設される中間貯蔵施設への廃棄物搬入を容認、国と施設運用などに関する安全協定を結んだ。
 県が昨年8月、施設の建設を認めた際、搬入開始の条件として提示した5項目に、県の求める内容が盛り込まれたことを評価した。予定地の大熊、双葉両町も受け入れた。
 5項目の中で、地元側が最も重視したのが、廃棄物の県外最終処分の法制化だ。法案が昨年秋の臨時国会で成立したことが、地元と国の協議を加速させた。
 法律で30年以内の県外処分が担保されたが、地元側は安心していない。廃棄物をどこに移して最終処分するのかが決まっていないからだ。出口の見えない後始末を長年続けるうちに、最後まで面倒を見ることになりはしまいか。こうした懸念を深めるのは当然であろう。
 30年先には世代が交代し、原発事故が地域にもたらした衝撃が薄らいでいるかもしれない。だが時間の経過と記憶の風化をいいことに、なし崩しに押し付けるようなことがあってはならない。
 科学技術の進歩による廃棄物の減容化と放射線の減衰に伴い、最終処分地選定のハードルが下がる可能性もあろう。国はこうした点も考慮しつつ、県外最終処分に向けた工程作りを具体化すべきだ。
 中間貯蔵完了後、跡地をどうするかも全く白紙だ。敷地は約16平方キロと広大で原状回復に時間を要する。跡地の処理は大熊、双葉両町の将来ビジョンに関わる。地元側も30年後を見越し検討を進めなければならない。
 県の受け入れ表明に伴い、手続き上、搬入の環境は整った。施設に収容するまで廃棄物を一時的に置く保管場2カ所も着工している。
 しかし、本格稼働のめどが立ったとは言えない。用地交渉が難航し、2300人以上いる地権者の大半がまだ同意していないのだ。
 宅地は、原発事故が起きなかった場合を想定し、買い取り価格は現状の5割が基準。差額は県の交付金で賄うとはいえ、地価は低下傾向にあるため取引価格は原発事故前より下がることになる。
 原発事故が離郷を強いたにもかかわらず、被災者に不利な補償内容では交渉が進まないのは当然だ。環境省は個々の宅地の評価額の算出に手間取っているため、対応する職員を増やす方針だが、補償率の見直しも検討すべきだ。
 廃棄物の搬入開始日をめぐる国の対応に、地元側は不信感を募らせている。国は震災発生から4年となる3月11日までの搬入開始を目標に掲げた。これに対し、大熊、双葉両町から「被災者の感情を逆なでする日程だ」などと反発する声が上がった。
 地元の要望を受け入れ、13日に搬入を始めることにしたが、搬入を急いだ国の姿勢が疑心を生じさせ、今後、地元は置き去りにされかねないと危惧を抱いている。
 安全協定を締結したとはいえ、住民の不安が解消されていない。施設は長期にわたって立地する。福島の実情に一層配慮した対応を求めたい。


福島第1原発:母の会が情報誌「戻る戻らないの選択応援」
 原発事故を受け、山形県に避難した母親でつくる「山形避難者母の会」が、情報誌「KURASSO(クラッソ)」を完成させた。山形から福島に戻った母親が編集を手がけ、避難当時の自分が知りたかった福島の情報を盛り込む。伝えたいのは「戻る、戻らない、いずれの選択も『正解』」とのメッセージだ。【喜浦遊】

 情報誌はB5判24ページ。福島県内の学校給食の検査態勢を知ってもらうため管理栄養士にインタビューしたり、子どもの屋外遊び場など身近な情報を掲載したりしている。インタビューや情報収集は登録会員らが担った。

 編集したのは、母の会代表の中村美紀さん(39)。2011年8月、娘3人を連れて郡山市の自宅から山形市に自主避難し、昨年3月に帰還。同5月には長男を出産し、4児の母になった。

 中村さんが避難中、最も欲しかった情報は「福島で暮らす人たちのリアルな声」だったという。行政は除染の進捗(しんちょく)状況や、食品の放射性物質濃度などのデータは示してくれるが、「本当に知りたいのは福島の人が何を感じ、何を考えて暮らしているのかというストーリーだと実感した」という。このため情報誌では、不安の声や困ったことも加減せずに掲載することにした。


東日本大震災:復興住宅の孤立防げ 陸前高田市が取り組み
 東日本大震災から間もなく4年を迎え、災害公営住宅(復興住宅)への入居が今後本格化していく。団地として新たに形成された「社会」は、旧来の集落のような住民同士のつながりはまだ薄い。誰にもみとられずに独居者が死亡する「孤独死」も県内で少なくとも4件あった。これを教訓にした取り組みが岩手県陸前高田市で始まった。【春増翔太】

 黒沢守さん(70)が孤独死したのは、昨年10月に入居が始まった同市唯一の復興住宅「下和野団地」。全120戸の大半が埋まり、1月1日で305人が暮らすが、住民の40代女性は「自治会の集まりは入居直後の1度だけ。元々親交があった人以外とは付き合いはない」と話す。

 熊谷たつ子さん(73)も「仮設住宅は小さくて壁が薄く、隣と軒先を共有している状態だったが、かえって隣人の気配があり互いに気遣っていた。ここでは少し部屋が離れると会うこともない」と指摘する。震災以前から黒沢さんと知り合いで、仮設では隣同士だったが、復興住宅では部屋が離れ、入居直後に「また一緒だねえ」と話した程度。他の住民とも、ボランティア団体が共用部屋で開く手芸教室などで顔を合わせるが「機会も参加者も少ない」とつぶやく。


東日本大震災:福島・浪江町の16歳が春場所初土俵
 ◇津波で自宅が流され

 大相撲春場所(3月8日初日、大阪・ボディメーカーコロシアム)で、2011年の東日本大震災による津波で自宅が流された少年が初土俵を踏む。福島県浪江町出身の鈴木隆介さん(16)=田子ノ浦部屋。相撲経験はないが、同部屋の大関・稀勢の里関にあこがれ、未知の世界への挑戦を決意した。28日に大阪市内であった新弟子検査で体格基準はパスし、内臓検査に問題がなければ、春場所で前相撲から取る。

 小学6年生だった3月11日の地震発生直後は、学校裏の山に避難。両親、姉、兄も無事だったが、「家は土台しか残っていなかった」と言う。その夜に福島市内へ避難した後は、東京、静岡のホテルを転々とし、親類を頼って神戸市垂水区の団地に転居した。

 見知らぬ土地での生活で、救いとなったのが小学3年生から始めた野球。クラブチームに入り、「新しい仲間にも、打ち解けられた」。約2年で浪江町に隣接する南相馬市へ里帰りもでき、野球部入部を目指し、昨春に県立高校へ入学した。

 だが、肩を痛めて野球を断念。失意から高校も中退し、建設作業員の仕事に就いた。そんな時、「大相撲をテレビで見て、力士が必死に戦う姿に感動した。特に、堂々とした日本人大関の稀勢の里関にあこがれた」。

 その大関が1月の初場所13日目に、横綱・白鵬関と同体取り直しの末に敗れた激戦を見て、「自分も相撲の世界で頑張りたい」と決断。震災で離ればなれになった友人もいる。「出世して、『あれ、鈴木じゃないか』と思い出してもらう」のが、今の夢だ。【堤浩一郎】


東日本大震災:被災3県、復興住宅65歳以上36% 平均上回る 孤独死5件
 東日本大震災で大きな被害を受けた岩手、宮城、福島県の災害公営住宅(復興住宅)で、65歳以上の入居者が占める割合を示す高齢化率は全体で36%に上ることが毎日新聞の調査で分かった。各県の平均高齢化率より8〜10ポイント高い水準で、「限界集落」に当たる5割を超す自治体もあった。誰にもみとられない孤独死は少なくとも5件確認された。大震災は11日で発生から4年。今後、復興住宅の高齢化がさらに進むのは必至で、コミュニティー形成や見守り支援が大きな課題になる。

 毎日新聞は1〜2月、津波被災地や東京電力福島第1原発事故で避難区域などを抱える3県42市町村を対象にアンケートを実施、全市町村が回答した。

 復興住宅には1月1日現在、3県31市町村で計7833人が暮らし、うち1219人は独居世帯だった。65歳以上は2802人だった。県別で最も高齢化率が高いのは岩手の40%で、県平均に比べ10ポイント高かった。宮城は34%で同10ポイント、福島は36%で同8ポイント上回った。

 31市町村のうち、入居者が100人以上いる16市町で比較すると、最も高齢化率が高いのは宮城県女川町の53%。同県山元町も51%と、「限界集落」に当たる5割を超えた。両町とも町全体の平均高齢化率(女川町36%、山元町35%)を大きく上回る。被災地では震災前から高齢化が進んでいるが、復興住宅の多くは自治体全体の高齢化率を上回る傾向にある。

 女川町の担当者は「被災者が自力で住宅再建するための土地整備が遅れているため、若い世帯は待ち切れずに町外に移転するケースが多い。結果的に復興住宅の高齢化率が高くなった」と分析する。

 一方、復興住宅での孤独死は、本格的な入居が始まった2013年度以降、岩手県岩泉町で2件、同県釜石市、陸前高田市、宮城県石巻市で各1件あった。復興庁によると、3県の復興住宅の供給計画は13年度2026戸、14年度7579戸、15年度9289戸など。入居者が増加する中、孤独死も増える懸念がある。

 孤独死は阪神大震災(1995年)の復興住宅で問題化し、兵庫県警の検視事例に基づく毎日新聞の集計では00年以降で864人がみとられずに亡くなった。【まとめ・伊藤直孝】

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 ■ことば
 ◇災害公営住宅(復興住宅)

 災害で自宅を失い、自力再建が困難な人のために、国の補助で県や市町村が整備する賃貸住宅。集合住宅が多くを占める。東日本大震災では宮城、岩手、福島の3県で、阪神大震災(約2万6000戸)を上回る約3万戸の整備を予定する。仮設住宅を出て恒久住宅へ移る被災者の生活再建にはこの他、高台などの防災集団移転先や、土地区画整理事業でかさ上げした現地に持ち家を再建する方法がある。復興住宅には、災害で仕事を失い経済的に困窮した人や、長期ローンを組めない高齢者が多く入居する傾向がある。

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 ◇被災3県の復興住宅高齢化率

   入居者   65歳以上 高齢化率

岩手 1653人  654人 40%(30%)

宮城 4009人 1369人 34%(24%)

福島 2171人  779人 36%(28%)

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合計 7833人 2802人 36%(27%)

 ※1月1日現在、毎日新聞まとめ。かっこ内は県の平均高齢化率


知事平和宣言 「辺野古反対」民意を反映
 翁長雄志知事は6月23日の沖縄全戦没者追悼式で読み上げる平和宣言に、辺野古の新基地建設反対と県外移設要求を盛り込む方針を明らかにした。
 新基地建設反対の訴えは、戦争に通ずる基地の過重負担から脱却し、平和な沖縄を希求する県民の意思を反映したものだ。平和宣言の趣旨にかなうものであり、翁長知事の方針を歓迎したい。
 辺野古沖ではトンブロックの投下によるサンゴ破壊と人権を脅かす海上保安官の暴力的警備が続いている。キャンプ・シュワブのゲート前では山城博治沖縄平和運動センター議長らが刑特法違反の容疑で逮捕された。
 いずれも平和に対する重大な挑戦である。宣言を通じて、これらの暴力行為に対する強い抗議の意思を示してほしい。
 県知事が読み上げる平和宣言は戦没者の三十三回忌に当たる1977年に始まった。毎年、沖縄戦の悲惨さに触れ、不戦を誓ってきた。同時に米軍基地の過重負担を批判し、恒久平和の実現に向けた県民の決意を発してきた。
 2011年以降は米軍普天間飛行場の県外移設に言及した。ところが仲井真弘多前知事は14年の宣言で県外移設要求の文言を削除しようとした。前年末の辺野古埋め立て承認を踏まえたものだった。
 県政与党の再考要請もあり「県外への移設をはじめとするあらゆる方策を講じて」の表現に落ち着いたが、文言をめぐる前知事の行為は多くの県民の疑念を生んだ。
 ことしの宣言で辺野古反対に踏み込むのは、それが県政運営の柱であるというだけではなく、平和希求に裏打ちされた県民要求だからだ。戦後70年の宣言は沖縄発「基地ノー」の明確な意思表明となる。
 翁長知事に対し、自民党の稲田朋美政調会長は記者会見で「沖縄県にとって重大な問題であると同時に、わが国の安全保障にも関わる問題であるので、そういったさまざまな観点から検討して、行動していただきたい」とけん制した。
 しかし、政府・与党こそ「安全保障」を名目に人権と平和が蹂躙(じゅうりん)され続ける沖縄の現状を直視し、行動することを求めたい。それが平和宣言の具現化につながるからだ。
 77年の平和宣言も、基地による県民不安に触れ、全人類に平和の尊さを訴える沖縄の精神を強く発信した。私たちはこの理念をいささかもゆるがせにしてはならない。

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